今回の朝の第一部のプログラムは、非常に意欲的で、期待十分であった。
まず、お染・久松を主人公とした「新版歌祭文」だが、「野崎村の段」の縮小版ながら、熱の籠った舞台が展開されて、楽しませてくれた。
大夫と三味線が、文字久大夫と清志郎、源大夫病休に代わって英大夫と藤蔵、そして、切は、住大夫と錦糸・寛太郎と言う大変な布陣で、それに、人形は、お染が簑助、おみつが勘十郎、親久作が玉女、丁稚久松が簑二郎などと言う豪華版である。
元気になって登場した住大夫の名調子を久しぶりに聴いて、感激しながら楽しませて貰った。
3年前に観た舞台では、おみつを簑助、親久作を玉女、久三の小助を勘十郎、丁稚久松を清十郎、娘お染を紋壽、乳母お庄を和生であり、その前に、もう一度、簑助のおみつを観ているのだが、今回は、そのおみつを一番弟子の勘十郎が代わって遣っており、簑助のお染を観ることが出来て大変な収穫であった。
さて、この「野崎村の段」だが、主役は、お染久松ではなくて、おみつである。
丁稚の久松と主人の娘そめが、1708年に大坂の油問屋天王寺屋の精油細工場で、刃物で心中した事件を近松半二が浄瑠璃に仕上げた物語で、このおみつは創作上の架空人物であるが、
久松が、集金の金を騙し取られる不都合を起こして実家へ帰されて来たので、これ幸いと、親の久作が、かねてより、養い子の久松と妻の連れ子おみつと夫婦にと思っていたので、祝言を上げさせることにして準備を始める。
思いが叶った嬉しさに、いそいそと化粧をしているところへ、お染が現れたので、恋敵と悟ったおみつが、お染の来訪で気も漫ろの久松と喧嘩を始めるので、久作は、すぐに祝言をと、その準備におみつを奥に連れて行く。
一人になった久松のところへお染が駆け込んで来て必死になってかき口説くので、二人は死ぬ決心をする。
そこへ、久作が現れて、お夏清十郎の不幸な恋物語を語って説得して、二人は分かれる約束をするのだが、心中の気配を悟ったおみつは、祝言と呼ばれて登場するも、綿帽子を脱がせると髪を切って尼姿になっている。
お染を心配して後を追って来ていた母お勝がおみつに感謝し、世間を憚って、お染は船、久松は籠で、大坂へ帰って行く。
この段では、お染久松は、ハッピーエンドなのだが、結局は、実際の事件の通りに二人は心中してしまう。
ところで、今回の野崎村の段は、縮小版だと書いたが、それは、おみつが髪を切って尼姿になって登場した後に、別室で病気で寝ていた何も知らない母が出て来て、目が見えないので取り繕うとするのだが、ばれてしまうシーンが省略されていた。
その様子に耐えられなくなったお染や久松が死のうとする。
おみつの心が分からなければ自分が死ぬと久作、そして、久作が死ぬのなら自分もとおみつと母も一緒に死ぬと取り乱す。義理と人情と恩愛の板挟みで死ぬことも出来ず窮地に立ったお染久松・・・そこへ、お園の母お勝が登場するのである。
母が、おみつに、「オオ娘、出かしゃった。むさい田舎にあって貞女の道をわきまえて、よう尼になりやったのう。」と言うのだが、田舎娘でありながら、義理も人情もわきまえた女として、半二は、理想的な(?)キャラクターを登場させたのだがどうであろうか。
既に深い仲となって、切っても切れなくなってしまっているお染久松。おみつと田舎暮らしをするなどさらさらその気のない久松、情が深過ぎて(前作では)五か月の身重になっているお染。義理に負けて久作の言を聞き入れても、二人は死ぬよりほかはない。
それを百も承知のおみつにも、義父や母を落胆させるのだが、自分が諦めて久松を幸せにしたいと言う犠牲の精神を示す以外にない。
愛する人を幸せにするために、悲しくも断腸の思いで身を引いて、その自己犠牲にひそかな喜びを感じると言う半二の心理描写かも知れないが、実に悲しくも切ない。
狂おしい程の愛が成就しなければ、ヨカナーンの首を切ってまで自分のものとするサロメのような肉食狩猟民族の女の命は、大和撫子にはないと言うことでもあろう。
しかし、結局は、相思相愛が原則であって、現代人から言えば、好きは好き、嫌いは嫌いであり、愛されなければ諦めざるを得ないのだが、このおみつとお染久松には、悪意が全くないのが、せめてもの救いである。
今回の簑助は、突進一方の可愛くて健気な大坂女のお染を演じていて、一方、心理描写の複雑な田舎娘のおみつを勘十郎が遣っていて、その対照が非常に面白かった。
冒頭の戸口に佇む品のあるお染の実に優雅で美しい姿から、簑助の遣う乙女の息遣いがむんむんと発散してきて、一気にお染久松のマンネリ化していたイメージが変わってしまう。
化粧鏡に映ったお染の姿を見て心中の穏やかさを失って動揺するおみつと、恋しい久松を追ってきたお染との、門口での戸板一枚を隔てた箒などを使ってのバトルなど冒頭から、若い女性の嫉妬やイケズ描写の細やかさなど芸も細かい。
前半のおみつのそわそわ嬉し恥ずかしい初々しさから、一転して、島田髷を根元から切って尼姿になって登場し、「・・・所詮望みは叶うまいと思いのほか祝言の盃するようになって、嬉しかったのはたった半時、無理に私が添おうとすれば、死なしゃんすを知りながら、どうして盃がなりましょうぞいな。」と大向こうを唸らせる健気なおみつを、勘十郎は、木偶を遣って本当の人間以上に躍らせ歌わせ語らせる。
久作は、女主人公おみつとお染が魅力的なので、この段を統べる極めて重要な役割ながら、地味な感じがするのは否めない。
人形の首が、白大夫で、少しひょうきんな感じなので、一寸、印象が違ってくるのかも知れないのだが、非常に常識人としての登場で、おみつとの対照が興味深い。
本当は、省略された母の登場場面を加えれば、もっと、正確な久作像が鮮明になるのだが、玉女は、その田舎の知識階級の常識人的なおやじ像を大らかにと言うか鷹揚に滋味深く演じていて興味深かった。
簑二郎の久松は、師匠の簑助相手に必死の対応で、地味ながら、好演している。
さて、最後の「釣女」だが、最初、萬斎の狂言「釣針」を見て、私の生まれ故郷西宮の戎神社が舞台なので興味を持ち、今年の一月の新橋演舞場で、歌舞伎「釣女」を見る機会を得て、その違い脚色の仕方に非常に興味を持ったのだが、今回は、図らずも、文楽で見る機会を得て幸いであった。
話の筋は、狂言の台本に近い感じであり、大夫の語りが、狂言風なので、特にそう思うのだが、ところどころ、話を変えていて興味深い。
狂言では、最後には、太郎冠者が、一目惚れされて醜女に追いかけられると言う幕切れなのだが、この文楽では、太郎冠者が、醜女を嫌って、美女の大名の釣った美女をさらって逃げて行き、大名と醜女が後を追うと言う話になっているなど、面白い。
太郎冠者は、自分が釣った嫁も、当然に、大名が釣ったような美女だと思っているので、嬉しさのあまり、歌舞伎では、千年も万年も添い遂げようと語るのだが、文楽では、「春は花見夏は涼み、秋は月見の酒盛りに冬は月見のちんちん鴨、天にあれば比翼の鳥、地にあらば連理の枝、必ずそもじは変わるまいな」といい加減なことを言って、まず何はともあれご面相を。「ヤアわごりょは鬼か化け物か、なう消えてなくなれなくなれ」と逃げ惑うのだが、この醜女の面は、お多福顔だが、意外に可愛いのが面白い。
醜女を遣うのは、超ベテランの紋寿で、実にコミカルで軽快なタッチの人形さばきで流石である。
狂言と違うのは、歌舞伎も文楽も、大名に立派な衣装を着せてそれなりに威厳のある姿のキャラクターとして扱っているのだが、元々、狂言の大名は、家来が一人か二人の田舎の金持ちか庄屋程度で、そのコミカルさを笑い飛ばすと言うところに主眼があって、室町以前の狂言と、江戸時代の文楽や歌舞伎の時代背景を反映しての差が興味深い。
まず、お染・久松を主人公とした「新版歌祭文」だが、「野崎村の段」の縮小版ながら、熱の籠った舞台が展開されて、楽しませてくれた。
大夫と三味線が、文字久大夫と清志郎、源大夫病休に代わって英大夫と藤蔵、そして、切は、住大夫と錦糸・寛太郎と言う大変な布陣で、それに、人形は、お染が簑助、おみつが勘十郎、親久作が玉女、丁稚久松が簑二郎などと言う豪華版である。
元気になって登場した住大夫の名調子を久しぶりに聴いて、感激しながら楽しませて貰った。
3年前に観た舞台では、おみつを簑助、親久作を玉女、久三の小助を勘十郎、丁稚久松を清十郎、娘お染を紋壽、乳母お庄を和生であり、その前に、もう一度、簑助のおみつを観ているのだが、今回は、そのおみつを一番弟子の勘十郎が代わって遣っており、簑助のお染を観ることが出来て大変な収穫であった。
さて、この「野崎村の段」だが、主役は、お染久松ではなくて、おみつである。
丁稚の久松と主人の娘そめが、1708年に大坂の油問屋天王寺屋の精油細工場で、刃物で心中した事件を近松半二が浄瑠璃に仕上げた物語で、このおみつは創作上の架空人物であるが、
久松が、集金の金を騙し取られる不都合を起こして実家へ帰されて来たので、これ幸いと、親の久作が、かねてより、養い子の久松と妻の連れ子おみつと夫婦にと思っていたので、祝言を上げさせることにして準備を始める。
思いが叶った嬉しさに、いそいそと化粧をしているところへ、お染が現れたので、恋敵と悟ったおみつが、お染の来訪で気も漫ろの久松と喧嘩を始めるので、久作は、すぐに祝言をと、その準備におみつを奥に連れて行く。
一人になった久松のところへお染が駆け込んで来て必死になってかき口説くので、二人は死ぬ決心をする。
そこへ、久作が現れて、お夏清十郎の不幸な恋物語を語って説得して、二人は分かれる約束をするのだが、心中の気配を悟ったおみつは、祝言と呼ばれて登場するも、綿帽子を脱がせると髪を切って尼姿になっている。
お染を心配して後を追って来ていた母お勝がおみつに感謝し、世間を憚って、お染は船、久松は籠で、大坂へ帰って行く。
この段では、お染久松は、ハッピーエンドなのだが、結局は、実際の事件の通りに二人は心中してしまう。
ところで、今回の野崎村の段は、縮小版だと書いたが、それは、おみつが髪を切って尼姿になって登場した後に、別室で病気で寝ていた何も知らない母が出て来て、目が見えないので取り繕うとするのだが、ばれてしまうシーンが省略されていた。
その様子に耐えられなくなったお染や久松が死のうとする。
おみつの心が分からなければ自分が死ぬと久作、そして、久作が死ぬのなら自分もとおみつと母も一緒に死ぬと取り乱す。義理と人情と恩愛の板挟みで死ぬことも出来ず窮地に立ったお染久松・・・そこへ、お園の母お勝が登場するのである。
母が、おみつに、「オオ娘、出かしゃった。むさい田舎にあって貞女の道をわきまえて、よう尼になりやったのう。」と言うのだが、田舎娘でありながら、義理も人情もわきまえた女として、半二は、理想的な(?)キャラクターを登場させたのだがどうであろうか。
既に深い仲となって、切っても切れなくなってしまっているお染久松。おみつと田舎暮らしをするなどさらさらその気のない久松、情が深過ぎて(前作では)五か月の身重になっているお染。義理に負けて久作の言を聞き入れても、二人は死ぬよりほかはない。
それを百も承知のおみつにも、義父や母を落胆させるのだが、自分が諦めて久松を幸せにしたいと言う犠牲の精神を示す以外にない。
愛する人を幸せにするために、悲しくも断腸の思いで身を引いて、その自己犠牲にひそかな喜びを感じると言う半二の心理描写かも知れないが、実に悲しくも切ない。
狂おしい程の愛が成就しなければ、ヨカナーンの首を切ってまで自分のものとするサロメのような肉食狩猟民族の女の命は、大和撫子にはないと言うことでもあろう。
しかし、結局は、相思相愛が原則であって、現代人から言えば、好きは好き、嫌いは嫌いであり、愛されなければ諦めざるを得ないのだが、このおみつとお染久松には、悪意が全くないのが、せめてもの救いである。
今回の簑助は、突進一方の可愛くて健気な大坂女のお染を演じていて、一方、心理描写の複雑な田舎娘のおみつを勘十郎が遣っていて、その対照が非常に面白かった。
冒頭の戸口に佇む品のあるお染の実に優雅で美しい姿から、簑助の遣う乙女の息遣いがむんむんと発散してきて、一気にお染久松のマンネリ化していたイメージが変わってしまう。
化粧鏡に映ったお染の姿を見て心中の穏やかさを失って動揺するおみつと、恋しい久松を追ってきたお染との、門口での戸板一枚を隔てた箒などを使ってのバトルなど冒頭から、若い女性の嫉妬やイケズ描写の細やかさなど芸も細かい。
前半のおみつのそわそわ嬉し恥ずかしい初々しさから、一転して、島田髷を根元から切って尼姿になって登場し、「・・・所詮望みは叶うまいと思いのほか祝言の盃するようになって、嬉しかったのはたった半時、無理に私が添おうとすれば、死なしゃんすを知りながら、どうして盃がなりましょうぞいな。」と大向こうを唸らせる健気なおみつを、勘十郎は、木偶を遣って本当の人間以上に躍らせ歌わせ語らせる。
久作は、女主人公おみつとお染が魅力的なので、この段を統べる極めて重要な役割ながら、地味な感じがするのは否めない。
人形の首が、白大夫で、少しひょうきんな感じなので、一寸、印象が違ってくるのかも知れないのだが、非常に常識人としての登場で、おみつとの対照が興味深い。
本当は、省略された母の登場場面を加えれば、もっと、正確な久作像が鮮明になるのだが、玉女は、その田舎の知識階級の常識人的なおやじ像を大らかにと言うか鷹揚に滋味深く演じていて興味深かった。
簑二郎の久松は、師匠の簑助相手に必死の対応で、地味ながら、好演している。
さて、最後の「釣女」だが、最初、萬斎の狂言「釣針」を見て、私の生まれ故郷西宮の戎神社が舞台なので興味を持ち、今年の一月の新橋演舞場で、歌舞伎「釣女」を見る機会を得て、その違い脚色の仕方に非常に興味を持ったのだが、今回は、図らずも、文楽で見る機会を得て幸いであった。
話の筋は、狂言の台本に近い感じであり、大夫の語りが、狂言風なので、特にそう思うのだが、ところどころ、話を変えていて興味深い。
狂言では、最後には、太郎冠者が、一目惚れされて醜女に追いかけられると言う幕切れなのだが、この文楽では、太郎冠者が、醜女を嫌って、美女の大名の釣った美女をさらって逃げて行き、大名と醜女が後を追うと言う話になっているなど、面白い。
太郎冠者は、自分が釣った嫁も、当然に、大名が釣ったような美女だと思っているので、嬉しさのあまり、歌舞伎では、千年も万年も添い遂げようと語るのだが、文楽では、「春は花見夏は涼み、秋は月見の酒盛りに冬は月見のちんちん鴨、天にあれば比翼の鳥、地にあらば連理の枝、必ずそもじは変わるまいな」といい加減なことを言って、まず何はともあれご面相を。「ヤアわごりょは鬼か化け物か、なう消えてなくなれなくなれ」と逃げ惑うのだが、この醜女の面は、お多福顔だが、意外に可愛いのが面白い。
醜女を遣うのは、超ベテランの紋寿で、実にコミカルで軽快なタッチの人形さばきで流石である。
狂言と違うのは、歌舞伎も文楽も、大名に立派な衣装を着せてそれなりに威厳のある姿のキャラクターとして扱っているのだが、元々、狂言の大名は、家来が一人か二人の田舎の金持ちか庄屋程度で、そのコミカルさを笑い飛ばすと言うところに主眼があって、室町以前の狂言と、江戸時代の文楽や歌舞伎の時代背景を反映しての差が興味深い。