熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立文楽劇場・・・「新版歌祭文」「釣女」

2013年04月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の朝の第一部のプログラムは、非常に意欲的で、期待十分であった。
   まず、お染・久松を主人公とした「新版歌祭文」だが、「野崎村の段」の縮小版ながら、熱の籠った舞台が展開されて、楽しませてくれた。
   大夫と三味線が、文字久大夫と清志郎、源大夫病休に代わって英大夫と藤蔵、そして、切は、住大夫と錦糸・寛太郎と言う大変な布陣で、それに、人形は、お染が簑助、おみつが勘十郎、親久作が玉女、丁稚久松が簑二郎などと言う豪華版である。
   元気になって登場した住大夫の名調子を久しぶりに聴いて、感激しながら楽しませて貰った。
   3年前に観た舞台では、おみつを簑助、親久作を玉女、久三の小助を勘十郎、丁稚久松を清十郎、娘お染を紋壽、乳母お庄を和生であり、その前に、もう一度、簑助のおみつを観ているのだが、今回は、そのおみつを一番弟子の勘十郎が代わって遣っており、簑助のお染を観ることが出来て大変な収穫であった。

   さて、この「野崎村の段」だが、主役は、お染久松ではなくて、おみつである。
   丁稚の久松と主人の娘そめが、1708年に大坂の油問屋天王寺屋の精油細工場で、刃物で心中した事件を近松半二が浄瑠璃に仕上げた物語で、このおみつは創作上の架空人物であるが、
   久松が、集金の金を騙し取られる不都合を起こして実家へ帰されて来たので、これ幸いと、親の久作が、かねてより、養い子の久松と妻の連れ子おみつと夫婦にと思っていたので、祝言を上げさせることにして準備を始める。
   思いが叶った嬉しさに、いそいそと化粧をしているところへ、お染が現れたので、恋敵と悟ったおみつが、お染の来訪で気も漫ろの久松と喧嘩を始めるので、久作は、すぐに祝言をと、その準備におみつを奥に連れて行く。
   一人になった久松のところへお染が駆け込んで来て必死になってかき口説くので、二人は死ぬ決心をする。
   そこへ、久作が現れて、お夏清十郎の不幸な恋物語を語って説得して、二人は分かれる約束をするのだが、心中の気配を悟ったおみつは、祝言と呼ばれて登場するも、綿帽子を脱がせると髪を切って尼姿になっている。
   お染を心配して後を追って来ていた母お勝がおみつに感謝し、世間を憚って、お染は船、久松は籠で、大坂へ帰って行く。
   
   この段では、お染久松は、ハッピーエンドなのだが、結局は、実際の事件の通りに二人は心中してしまう。

   ところで、今回の野崎村の段は、縮小版だと書いたが、それは、おみつが髪を切って尼姿になって登場した後に、別室で病気で寝ていた何も知らない母が出て来て、目が見えないので取り繕うとするのだが、ばれてしまうシーンが省略されていた。
   その様子に耐えられなくなったお染や久松が死のうとする。
   おみつの心が分からなければ自分が死ぬと久作、そして、久作が死ぬのなら自分もとおみつと母も一緒に死ぬと取り乱す。義理と人情と恩愛の板挟みで死ぬことも出来ず窮地に立ったお染久松・・・そこへ、お園の母お勝が登場するのである。

   母が、おみつに、「オオ娘、出かしゃった。むさい田舎にあって貞女の道をわきまえて、よう尼になりやったのう。」と言うのだが、田舎娘でありながら、義理も人情もわきまえた女として、半二は、理想的な(?)キャラクターを登場させたのだがどうであろうか。
   既に深い仲となって、切っても切れなくなってしまっているお染久松。おみつと田舎暮らしをするなどさらさらその気のない久松、情が深過ぎて(前作では)五か月の身重になっているお染。義理に負けて久作の言を聞き入れても、二人は死ぬよりほかはない。
   それを百も承知のおみつにも、義父や母を落胆させるのだが、自分が諦めて久松を幸せにしたいと言う犠牲の精神を示す以外にない。
   愛する人を幸せにするために、悲しくも断腸の思いで身を引いて、その自己犠牲にひそかな喜びを感じると言う半二の心理描写かも知れないが、実に悲しくも切ない。
   狂おしい程の愛が成就しなければ、ヨカナーンの首を切ってまで自分のものとするサロメのような肉食狩猟民族の女の命は、大和撫子にはないと言うことでもあろう。
   しかし、結局は、相思相愛が原則であって、現代人から言えば、好きは好き、嫌いは嫌いであり、愛されなければ諦めざるを得ないのだが、このおみつとお染久松には、悪意が全くないのが、せめてもの救いである。

   今回の簑助は、突進一方の可愛くて健気な大坂女のお染を演じていて、一方、心理描写の複雑な田舎娘のおみつを勘十郎が遣っていて、その対照が非常に面白かった。
   冒頭の戸口に佇む品のあるお染の実に優雅で美しい姿から、簑助の遣う乙女の息遣いがむんむんと発散してきて、一気にお染久松のマンネリ化していたイメージが変わってしまう。
   化粧鏡に映ったお染の姿を見て心中の穏やかさを失って動揺するおみつと、恋しい久松を追ってきたお染との、門口での戸板一枚を隔てた箒などを使ってのバトルなど冒頭から、若い女性の嫉妬やイケズ描写の細やかさなど芸も細かい。
   前半のおみつのそわそわ嬉し恥ずかしい初々しさから、一転して、島田髷を根元から切って尼姿になって登場し、「・・・所詮望みは叶うまいと思いのほか祝言の盃するようになって、嬉しかったのはたった半時、無理に私が添おうとすれば、死なしゃんすを知りながら、どうして盃がなりましょうぞいな。」と大向こうを唸らせる健気なおみつを、勘十郎は、木偶を遣って本当の人間以上に躍らせ歌わせ語らせる。

   
   久作は、女主人公おみつとお染が魅力的なので、この段を統べる極めて重要な役割ながら、地味な感じがするのは否めない。
   人形の首が、白大夫で、少しひょうきんな感じなので、一寸、印象が違ってくるのかも知れないのだが、非常に常識人としての登場で、おみつとの対照が興味深い。
   本当は、省略された母の登場場面を加えれば、もっと、正確な久作像が鮮明になるのだが、玉女は、その田舎の知識階級の常識人的なおやじ像を大らかにと言うか鷹揚に滋味深く演じていて興味深かった。
   簑二郎の久松は、師匠の簑助相手に必死の対応で、地味ながら、好演している。

   さて、最後の「釣女」だが、最初、萬斎の狂言「釣針」を見て、私の生まれ故郷西宮の戎神社が舞台なので興味を持ち、今年の一月の新橋演舞場で、歌舞伎「釣女」を見る機会を得て、その違い脚色の仕方に非常に興味を持ったのだが、今回は、図らずも、文楽で見る機会を得て幸いであった。
   話の筋は、狂言の台本に近い感じであり、大夫の語りが、狂言風なので、特にそう思うのだが、ところどころ、話を変えていて興味深い。

   狂言では、最後には、太郎冠者が、一目惚れされて醜女に追いかけられると言う幕切れなのだが、この文楽では、太郎冠者が、醜女を嫌って、美女の大名の釣った美女をさらって逃げて行き、大名と醜女が後を追うと言う話になっているなど、面白い。
   太郎冠者は、自分が釣った嫁も、当然に、大名が釣ったような美女だと思っているので、嬉しさのあまり、歌舞伎では、千年も万年も添い遂げようと語るのだが、文楽では、「春は花見夏は涼み、秋は月見の酒盛りに冬は月見のちんちん鴨、天にあれば比翼の鳥、地にあらば連理の枝、必ずそもじは変わるまいな」といい加減なことを言って、まず何はともあれご面相を。「ヤアわごりょは鬼か化け物か、なう消えてなくなれなくなれ」と逃げ惑うのだが、この醜女の面は、お多福顔だが、意外に可愛いのが面白い。
   醜女を遣うのは、超ベテランの紋寿で、実にコミカルで軽快なタッチの人形さばきで流石である。
   狂言と違うのは、歌舞伎も文楽も、大名に立派な衣装を着せてそれなりに威厳のある姿のキャラクターとして扱っているのだが、元々、狂言の大名は、家来が一人か二人の田舎の金持ちか庄屋程度で、そのコミカルさを笑い飛ばすと言うところに主眼があって、室町以前の狂言と、江戸時代の文楽や歌舞伎の時代背景を反映しての差が興味深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭:ぼたんとチューリップ

2013年04月27日 | わが庭の歳時記
   わが庭に、今咲いているのは、ぼたんとチューリップが中心だが、まだ、椿が結構咲いている。
   花富貴と崑崙黒と白羽衣が、まだ、たわわに花をつけており、どんちょうや月の輪と言った赤と白のブチの鉢植えの椿が咲き始めている。
   椿の最盛期は、やはり、3月から4月初旬だが、沢山の種類を植えていると、秋の中ごろから、5月初旬くらいまで楽しめる。
   こでまりやクレマチスが咲き始めたが、ヤマブキはぼつぼつ終わりのようである。
   
   
   
   
   牡丹は、今咲いているのは、6本だけで、黄色い牡丹は、5本も植えてあるのだが、蕾が付いたのは1本だけで、それも蕾が、まだ、固い。
   先日、上野東照宮のぼたんを見たので、何となく、寂しい感じがするのだが、それでも、切り花にして大きな花瓶に生けると数日楽しめる。
   私は、ぼたんの花が散った後の、蕊が非常に複雑な形をしていて綺麗なので、二重に楽しんでいる。
   ぼたんは、木が相当大きく育たないと、たっぷりとした豪華なボリューム感を楽しむことが出来ない。
   
   
   
   
   
   
   

   チューリップもぼたんと同じで、蕊のあたりの造形が、夫々に趣があって面白い。
   それに、綺麗に咲いた形の良い花弁よりも、盛りを過ぎて少し花弁が乱れ始めた時の方が、私は好きである。
   子供の頃には、童謡に謳われているように、赤白黄色の単調な花しか知らなかったのだが、今では、随分、色や形の変わったのが出て来ていて楽しませてくれる。
   私の庭のチューリップは、色々な草花の間に無造作に植えてあって、咲く時期もまちまちだし、あっちこっちから顔を出していて、統一性がないのだが、それが面白いと思っている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   芍薬の蕾が大きく膨らんで来たので、ゴールデン・ウィーク明けくらいには咲くであろう。
   それに、その時期には、バラが咲き始める。
   気づかなかったのだが、垣根に這わせているイングリッシュ・ローズのガートルード・ジェキルが、一輪だけ咲いていた。
   まだ、ほかのバラは蕾が固いし、この木のバラの蕾も小さいのに、何故、こんなに早かったのか不思議である。
   ユリが、立派な茎を勢いよく、ぐんぐん伸ばして気持ちが良いくらいで、パッと咲く、その豪華さが凄いのである。
   5月中旬以降も、花を楽しめそうである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立能楽堂・・・スーパー能「世阿弥」

2013年04月26日 | 能・狂言
   国立能楽堂開場30周年記念公演として、梅原猛作 梅若六郎玄祥演出のスーパー能「世阿弥」が二日に亘って上演された。
   幸い、取得困難であったチケットを手に入れることが出来たので、二回貴重な舞台を鑑賞する機会を得た。

   この能は、世阿弥の京都での活躍の最晩年、すなわち、世阿弥・元雅父子が、将軍・足利義教に疎まれ完全に干された時期を舞台にして、元雅の客死を軸に、元雅の幽霊が現れて、死の真相を語り、世阿弥の能芸術の継承を願って、明日への能を願う舞で締めている。

   ストーリーは、ほぼ、次の通り。
   世阿弥と妻・寿椿が、世阿弥父子が義教に疎まれて身の危険が迫っているので、京の私邸で、息子・元雅のことを案じていると、元雅の庇護者で妻の父・越智が元雅を伴って現れ、元雅を匿う為に伊勢に出立することを告げる。
   越智の説得と元雅の願いで、世阿弥夫妻は、今生の別れと思いながらも、涙ながらに二人を送り出す。
   一か月後、越智が、夫妻の前に飛び込んできて、元雅の死を伝える。
   責任を感じて絶望した夫妻は、供に死のうとしたところに、どこからともなく元雅の声が聞こえて来て、元雅が二人の前に現われる。
   元雅の幽霊が、両親の心を慰めるために現われたのであるが、意外にも、素晴らしい能芸の創造者である世阿弥が死ねば観世の能は絶えるので、自分がかわりになる方が良いと考えて、殺されることを覚悟で喜んで伊勢に行ったのだと語る。
   世阿弥と元雅が手を取り合うと、元雅は、形見の面を残して、こつ然と消えて行く。
   世阿弥を思い、世阿弥の芸を思う元雅の優しい心に、夫妻の心は静まり、世阿弥の心に新たな光が灯る。
   そこへ、元雅の死を聞いて世阿弥を心配して、娘婿の禅竹と甥の音阿弥が来訪したので、元雅の意思を伝えて、新たな気持ちで、三人で、明日への能を思って舞い続ける。

   梅若六郎玄祥の世阿弥、味方玄の寿椿、片山九郎右衛門の元雅、宝生欣哉の越智、観世芳伸の禅竹、山階彌右衛門の音阿弥、野村万作の語り手、藤田六郎兵衛の笛、大藏源次郎の小鼓、安福光雄の大鼓、観世元伯の太鼓、大槻文藏・山本博通等の地謡 等々錚々たる演者たちによる舞台である。
   私には、この舞台をコメントする資格はないので止めるが、ただ、野村万作の語りを聴くだけでも、鑑賞した値打ちがあったと思っている。
   芭蕉や一茶を思わせるようなスタイルで、杖をついて揚幕からゆっくりと登場して、丁度、アイ狂言風に、観阿弥・世阿弥の能芸を語り、”伊勢へ行った元雅はどうなったか。そして一月が経ちました。”と語り終えて、舞台後方へ消えて行く。
   観阿弥は天才で能と言う新しい芸術を興したとして、チャールズ・チャップリンのような人だと、チャップリンの名を上げる時に、杖を大きく右手に広げて、茶目っ気たっぷりに足踏みしたり、義満公は深くご寵愛になって、男色の道かは存じませんが・・・と言うくだりで、男色の後、急に口を手に当てて声音を変えるなど、芸の細かいところを見せていたが、しみじみとした滋味深い語りが実に良い。

   
   
   この能の最大の特色は、詞章が、梅原猛が著した現代語が基本になっており、節付には能の独特のリズムと美しい言葉の繰り返しなど、能の技法を生かしつつ、今喋っている言葉を能のふしにのせたのだと言うことである。
   それに、普通の能では、照明を遣うことは殆どないのだが、この世阿弥の舞台では、照明を使用して、時間の移り変わり、光と言うよりも影を作り出そうとしたのだと言う。

   オープニングは、完全に照明が消えた真っ暗な舞台から、笛の音が奏されて能「世阿弥」が始まる。
   何時もなら舞台に陣取っている囃子と地謡、後見が、口絵写真のように舞台にセットが設えられているために居場所がないので、この能では、ワキ柱後方の舞台外の控室に陣取っている。
   従って、囃子や地謡の出退場がなくてスタートし、舞台が明るくなって、地謡座前に置かれた作り物の覆いが取られると、中に座っていた世阿弥・寿椿夫妻が現れる。
   また、もう一度舞台が真っ暗になるのは、元雅の死に前途に希望を失った世阿弥夫妻が、”寿椿、二人で死のう””・・・二人で極楽浄土にまいりましょう””いざ、いざ”と言って、世阿弥が、扇を短刀代わりに寿椿の胸に宛がった時で、暫く、暗闇が続いて、元雅の声が聞こえて来ると、舞台が少しずつ明るくなって、世阿弥夫妻は、先ほどの姿のままだが、作り物の中に座っている元雅が現れて、世阿弥との対話が始まる。

   この能は、基本的に現在能なので、直面なのだが、現実と対比したら面白いのではないかと言うことで、元雅の亡霊が出るところでは、二人は面をかけており、世阿弥の面は、天河大瓣財天社に元雅が奉納したと言う重文の「阿古父尉」の写しを特別に打ってこれを使ったと言う。

   ところで、この能では、特に、能の創造性を重視していて、観阿弥、世阿弥、元雅は、夫々に、観世大夫として、新しい独自の能を生み出してきたのだが、音阿弥は、芸は立つが能は作らないので、将軍・義教が、観世大夫の職を音阿弥に譲れと強要しているのだが、芸の道に賭けても絶対に認めないと、世阿弥は息巻いている。
   寿椿が、将軍は絶対の権力者であるから、音阿弥に職を譲れば、可哀そうな元雅の命は救われるのにと説得するのだが、世阿弥は、天照大神の昔より伝わる芸の道に命を賭けており、芸の道は将軍でもどうにもならぬ、それはできないと突っぱねる。

   この激しい世阿弥の音阿弥否定だが、確かに、能作者としても幾多の作品を残して傑出した観阿弥、世阿弥、元雅とは対照的に、音阿弥作の能も、伝書の類も一切残っていないと言う。
   しかし、能役者としては傑出していたようだし、将軍・義教や義政の寵愛とバックアップを受けて、観世座と幕府権力との強力な結びつきによって、観世流が他の流派を圧倒して、能楽界の中心を担う契機を作った偉大な功績を残しており、現在の観世流宗家は、この音阿弥の直系であることを考えれば、無下に、世阿弥を持ち上げ過ぎて、音阿弥を否定することもなかろうと思う。

   尤も、この能の終幕では、甥の音阿弥が登場して、世阿弥が、”元雅の亡霊がここに現われて。私を助けるために死んだのだと言い。汝らとともに能の繁栄を願って消えた”と言うと、”私も能を未来へ伝える志において。世子に劣るものではありません。元雅は私にも能の秘伝をお伝えくださいました”と応えていて、世阿弥に従って、禅竹とともに、三人で舞を舞ってハッピーエンドとなっている。
   世阿弥の能芸が、音阿弥に継承されて行ったと言う梅原先生の思い入れであろうか。  

   この能の設定時代は、義教の音阿弥贔屓が頂点に達した時で、義教の世阿弥父子の冷遇が高じて、永享元年(1429年)には、世阿弥と元雅の仙洞御所での演能が後小松院の意向にも拘わらず中止となり、翌年、世阿弥から醍醐寺清滝宮の楽頭職が剥奪されて音阿弥に与えられ、興福寺薪猿楽の大夫が、元雅から音阿弥に代わるなど、世阿弥の活躍の場は、殆どなくなってしまっている。
   したがって、この能のように、世阿弥と音阿弥が親しく会って、能の将来を語って一緒に舞ったかどうかは疑問だが、1932年の元雅の死の2年後に、世阿弥が佐渡へ配流されているので、この時代では、世阿弥自身の演能の機会は殆ど閉ざされていたのであろう。

   さて、根本的な問題だが、何故、義教は、これ程徹底的に、頂点を極めていた筈の世阿弥父子を窮地に陥れて、音阿弥贔屓に没頭したのであろうか。
   世阿弥が、観阿弥以降の秘伝書を、義教の命令にも拘らず、音阿弥に見せなかったり譲らなかったからだとか、養子とした音阿弥よりも、禅竹を愛して秘書を相伝したからだとか世阿弥に失態があったからだ言われているのだが、今泉淑夫教授は、理由のないところに理由を見出す義教の専断志向の特質であった不条理であろうと言う。
   総てのことを我意に従わせようと言う権力者の横暴が義教には突出していて、義教の内部に鬱積の因となる存在を排除する衝動が生まれて、その衝動が配流の動機にもなったのだと説いている。

   
   能鑑賞を本格的に始めて、一年半。もう、この国立能楽堂に、月4回弱としても50回以上は通っている筈だが、今回のスーパー能「世阿弥」は、少しずつ、世阿弥に近づいているのかなあと感じさせてくれた記念すべき素晴らしい能であったと思っている。
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト・プランター栽培記録2013(2)ビギナーズトマトに一番花咲く

2013年04月25日 | トマト・プランター栽培記録2013
   植えた時に花房らしいものが見えていたが、ピンクのミニトマトの一番花房が大きくなって、黄色い花弁を表し始めた。
   苗木も2倍くらいの背丈になって、大分、しっかりしてきた。
   ビギナーズトマトにも花房が出来て、少し、黄ばみ始めたので、成長は順調なようである。
   
      


   5号鉢に植え替えた桃太郎ゴールドの苗6本は、大分、成長して大きくなってきており、小さな花房らしきものが見え始めて来たが、もう少し大きくなるのを待ってから、プランターに移植しようと思っている。
   園芸店に出かけてみたが、トマト苗は、ぼつぼつ出始めたようだが、本格的には、まだ、先のようで、ゴールデンウィーク明けが最盛期かも知れない。
   京成バラ園のデルモンテのトマト相談会は、27日だが、昨年では、まだ、苗が小さくて、一番花が咲いていなかったし、薬剤散布の失敗で、初期に枯らせてしまったので、沢山苗が出始めて、花房のついた接ぎ木苗でしっかりしたのが出るまで待って、追加のトマト苗を植えようと思っている。
   
   行く行くは、今、立派に葉が茂って、沢山の蕾をつけて待機しているバラの鉢植えのいくらかを、移動しなければ、日当たりのよい所にトマトのプランターを置けないので、どうするか悩んでいるところである。
   今のところ、病虫害の被害もなく、今年は、綺麗にバラが咲きそうなので、トマトの追加植えを止めようかと考えているのだが、ゴールデンウィーク明けくらいには、バラの花が咲き始めるので、それから、考えることにしよう。
   昨年は、トマトに入れ込んで、バラの世話をミスったので、花が十分に咲かず、随分、枯らせてしまったので、今年は、”団子より花”にしたいと思っている。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立文楽劇場・・・「心中天網島」

2013年04月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   近松生誕360年記念と銘打った近松門左衛門の「心中天網島」が、大阪の国立文楽劇場で上演されている。
   一世を風靡した「曽根崎心中」から17年の歳月を経て、老境に達した近松の最晩年の最高傑作の一つと言われている世話物浄瑠璃である。
   同じ演目が、来月、東京でも上演されるのだが、やはり、現地大坂で、観ると感慨も違うであろうと思って、足を運んだ。

   天満の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の紀伊国屋の抱え遊女の小春が、網島の大長寺で心中するのだが、この当時の大長寺は、今の大阪市長公館のあるところあたりだと言うから、先日、造幣局の桜の通り抜けを見るために、JR大阪城北詰で下りたので、すぐそばを通っている。
   今の大長寺は、大分北の方に移っているのだが、境内に紙治と小春の比翼塚があると言う。

   この文楽の最後は、「道行名残の橋づくし」で、二人は、曽根崎新地から川に沿って、天神橋、天満橋、京橋を渡って、大長寺に向かう。
   橋づくしは、近松のドラマ的な脚色か、あるいは、治兵衛の店のある天満を経由したのか、興味のあるところだが、あの曽根崎心中の時には、暗い土手道だった蜆川畔が、心中天網島の時代には、新興の色町になっていたと言うのも面白い。

   この物語は、治兵衛には、おさんと言う当時では理想的な妻が居ながら、遊女の小春に入れ込むのだが、単なる心中話だけではなく、おさんと小春の女同士のお互いに相手を思いやり労わりあう人間のドラマが展開されていて、感動的でさえある。
   終演後、客席で、ハンカチを顔に当てて涙をぬぐっていたヤングレディが居たから、価値観は封建時代そのままなのだが、心の琴線に触れる強い近松のメッセージがあるのであろう。

   治兵衛には、恋敵・太兵衛(小春は嫌っているが金がある)が居て身請け話があり、邪魔されていて文さえ十分に交わせなくなって悩んでいる小春の客として侍姿の粉屋孫右衛門(治兵衛の実兄)がやって来て、二人が心中すると見て昏々と諭す。
   小春は、涙を流して、治兵衛と心中を約束したが、自分を頼りにしている母のためにも死にたくないと語るのを、とぼとぼ訪ねて来て、戸口にしがみついて聞いていた治兵衛が、気も狂いそうになって堪忍ならぬと格子の間から小春めがけて脇差を突き刺すが届かず、孫右衛門に両手を格子に括り付けられる。
   丁度、通りかかった太兵衛とトラブルがあるのだが、助けてくれた小春の客が兄だと知って仰天した治兵衛が、部屋に招じ入れられると、一挙に小春への恨みつらみが爆発して喧嘩を始め、証文を叩きつけるので、孫右衛門も、嫌がる小春の胸に手入れて証文を引き出すのだが、中に、おさんからの手紙が入っているのを見て、小春の心変わりの原因が、この手紙だと知る。

   この手紙については、歌舞伎では、舞台の冒頭に、治兵衛の妻おさんが、丁稚に、心中を諦めて夫の命を助けてくれと言う内容の手紙を持たせて小春に手渡すところから始まるので、このことが明確なのだが、文楽では、次の「天満紙屋内より大和屋の段」で、切羽詰って、おさんが、この手紙のことを治兵衛に打ち明けて分かると言うことになっている。
   治兵衛が、小春の心変わりを責めた時に、言うまいと心に誓っていたのだが、「女は相身互ひごと、切られぬところを思ひ切り、夫の命を頼む」と書いて出したら、「身にも命にも換へぬ大事の殿なれど引かれぬ義理合ひ思ひ切る」との返事を貰ったことを語るのである。
   この段では、治兵衛が、不貞腐れて店先で、炬燵で寝ているところへ、孫右衛門とおさんの母が、小春の身請けの噂を聴きつけて治兵衛ではないかと心配して来るのだが、身請けするのは、太平治だと分かり、二人は、治兵衛に、小春に縁切る思い切ると誓文まで書かせて安心して帰る。
   おさんは、”子中なしてもつひに見ぬ固めごと皆よろこんで下さんせ”と喜びに浸る。

   ところが、おさんの幸せもほんの束の間で、暗転して悲劇に突き進むのだが、ひとり寝の寂しさ辛さに耐え抜いてきたおさんの悲痛な心情の吐露が胸を打つ、この浄瑠璃の最大の山場。
   二人が帰った後、治兵衛は、また、炬燵に入って狸寝しながら、今度は泣き出す。
   おさんは、まだ、小春に未練があるのかと治兵衛に近づいて、”布団を引き退くれば枕に伝ふ滝身も浮くばかり泣きゐたる”のである。
   引き起こして炬燵の櫓に据えて顔をつくづくと打ち眺めて、おさんは、辛苦に耐えて泣き続けてきた切ない胸の内を、治兵衛の膝に抱きつき身を投げ伏してかき口説く。

   治兵衛は、小春に未練があって泣いたのではなく、太兵衛に金がなくて身請けできなかったと言い触らされて、面目が潰される悔しさからだと言って、太兵衛に身請けされるくらいなら死ぬ覚悟だと言っていた小春の不実を責める。
   それを聞いたおさんは、小春の心変わりは、自分の出した手紙に心動かされたためで、小春は身請けなどされずに必ず死ぬと悟って血相を変えて、小春を身請けして治兵衛の面目を立てようと、商売用の金を治兵衛に渡し、不足分を、質入れで補おうと僅かに残っている子供たちの一張羅など総てをかき集めて、風呂敷包みを作る。
   風呂敷包みを小僧に持たせて出ようとしたところへ、おさんの父親五左衛門がやって来て、総てがばれて、おさんは、泣く子を残して無理やり実家へ連れ戻されて行く。
   結局、すべての手段を失って死ぬよりほかがなくなった治兵衛は、大和屋で、小春に会って、夜陰に紛れて、死出の旅に立つのである。

   私は、この心中天網島では、おさんが最も重要なキャラクターだと思っている。
   商家の内儀として店の切り盛りから一切を健気に勤め上げ、夫に対しては献身的な愛を捧げ、夫の愛人である小春に対しても優しい思いやりを示すなど人間として見上げた人物でありながら、運命の悪戯か、結局は、小春への思いやりと義理立てで自分の生きる場を失おうとする。
   小春を身請けしたらお前はどうなるのだと治兵衛に聞かれて、何も後先を考えていなかった自分に気づいて、「アツアさうぢや、ハテ何とせう子供の乳母か、飯炊きか、隠居なりともしませう」とわっと叫び伏し沈む のである。
   それに、治兵衛が、炬燵で泣いている時の口説き、「一昨年の十月中の亥の子に炬燵明けた祝儀とて、マアこれここで枕並べてこの方、女房の懐には鬼がが住むか蛇が住むか。二年といふもの巣守にしてやうやう母様伯父様のお蔭で、睦まじい女夫らしい寝物語もせうものと、楽しむ間もなくほんに酷いつれないさほど心残りならば泣かしゃんせ泣かしゃんせ」と、しっかり者のおさんながらも、切羽詰って慟哭しながら女の奥深い心根を吐露ぜざるを得ない悲しさ切なさ。
   男女平等と言う価値観で育ったわが世代には相容れぬおさんの生き様かも知れないのだが、心肝の尊さが身に沁みる。

   一方、小春も、この浄瑠璃では、「心中よし、いきかたよし、床よしの小春殿」と言うことで、遊女としても理想的な姿で描かれているのだが、おさんの女として同等に扱ってくれ信頼してくれている心に真心から応えて、同じように治兵衛を愛する心情に共感する思いを必死に生き抜こうとして心中を諦める。
   したがって、冥途へ旅立ちで、小春のただ一つの心の迷いは、おさんと交わした約束を破ること。
   二人はおさんへの義理を立てて、出家と尼の姿になってこの世から縁を切り、死に場所も別々に、この文楽では、治兵衛が小春を脇差で刺し、もだえ苦しむ姿を見ながら鳥居に帯をかけて首を吊る。
   近松は、おさんと小春の生きざまを通して、悲しくも儚い、しかし、実に大きくて深い女心の深淵を描こうとしたのではないかと思っている。
   このあたりは、ある意味では、シェイクスピアを越えた戯曲作家としての近松門左衛門の真骨頂だと言う気がしている。

   さて、治兵衛を玉女、小春を勘十郎が遣っている。
   実に感動的で、玉男簑助コンビの再来と言うべき好演で、今後が楽しみである。
   それに、清十郎の実に情感豊かで涙がこぼれるような健気で心のあるおさんは秀逸であった。
   女形が比較的多い和生が、今回、舞台をしっかりと支える重鎮の孫右衛門を遣っていたが、実に風格のある得難いキャラクターを巧みに演じていて楽しませてくれた。
   因みに、前回観た文楽では、治兵衛が勘十郎、小春が和生、孫左衛門が玉女、おさんが簑助であったが、これも素晴らしい舞台であった。それに、字余りが多いので近松は嫌いでんねんと言う住大夫の河庄の段での語りも感動ものであった。

   私は、この頃、大夫の浄瑠璃語りと三味線の音が殆ど耳に入らない程、人形芝居に入れ込んでしまっているというのか、大夫と三味線の良さ素晴らしさを噛みしめる余裕がないのだが、それだけ、素晴らしくて表裏一体となって、感動させて貰っているのだと言うことであろう。
   嶋大夫と富助、咲大夫と燕三、千歳大夫と清助、咲甫大夫と喜一朗 私には、その良さを語る能力がないのが残念だが、三業のコラボレーションが、これ程、文楽を素晴らしい世界と空間の創造の場を作り上げているのかを思って、何時も感激している。
   

   ところで、歌舞伎では、河庄の場だけが演じられることが多い。
   私は、これまで、藤十郎の治兵衛を二回観ているのだが、実に上手くて、正に、あれこそが典型的な大坂の商家の頼りない旦那だと、声音は勿論仕草の総てを含めて、感心して見ており、治兵衛の原像として沁みついている。
   あの場は、小春は、殆ど下を向いて耐えに耐えているシーンが多いので、台詞が少ない所為もあって、雀右衛門と時蔵であったが、実にしっとりとした素晴らしい舞台であった。孫左衛門は、我當と段四郎、二人とも超ベテランで上手い。
   まだ、歌舞伎では、おさんが登場する天満紙屋内から大和屋の場を観ていないので、ぜひ観たいと思っている。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野東照宮のぼたん満開

2013年04月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日は、半期毎昼に上野の杜の韻松亭で持っている、アラスカのプロジェクトでジョイントした仲間たちの集まりであるアラスカ会に出て、その後、すぐそばの上野東照宮のぼたん苑に出かけて、閉苑前だったが、小一時間過ごした。
   この韻松亭だが、寛永寺に接していて、桜の季節には花見客でごった返す桜並木に面しておりながら、普段は、観光客が結構多くても、不思議にも、部屋に入ると、喧騒から隔離されたような雰囲気で、ゆっくりと食事をしながら会話を楽しめるのである。
   メンバーは4人で、ゲストが加われば増えるが、何時も、奥の茶室で会っていて、皆海外経験が長いので、ワインの方が好みなのだが、ここでは、日本酒を色々変えながら楽しんでいる。

   さて、ぼたん苑だが、タイミングが合って、時間が取れれば、冬ぼたんも、春ぼたんも、この東照宮に来て楽しんでいるのだが、私の場合には、ただ単に、綺麗だなあと思いながら、気に入ったアングルの写真を撮っているだけで、ここには、日本種が200品種3000本、中国種が50品種200本あると言うのだが、どれが日本のぼたんで、どれが中国のぼたんかなどは、未だに、全く分からない。
   私の庭のぼたんが、今、一番綺麗に咲いている時期なので、この東照宮もそうであろうと思って来たのだが、蕾の状態の木は数株で、殆ど咲き切って、少し、最盛期が過ぎたようで、綺麗な状態の花弁をつけたぼたんは少なくなっていた。
   冬ぼたんは、三角形のこもを被っているが、春ぼたんは、白い番傘である。ぼたんの色彩を壊さないためではあろうが、風情があるようには思えない。
   ぼたんの合間に、短歌が歌われた看板が立っている。歌心が乏しいので、印象を壊さないように、読まないようにしている。
   
   
   
   

  
   この日は、55ミリまでの望遠レンズしかつけていなかったので、ぼたんの接写写真を撮れなかった。
   面白いと思うのは、タイツリソウが風に揺れる何となく儚い風情で、この日は、二か所に花が咲いていた。
   私も、一度庭に植えたのだが、つかなかった。
   
   

   ゴールデンウィークに、鎌倉を訪れようと思っているのだが、八幡宮などのぼたんは、まだ、咲いているだろうか。
   昔、長谷寺や石光寺にも良く行ったが、関西のぼたんの名所も訪れてみたいと思うが、当分は無理であろう。

   ところで、上野東照宮は、今、修理中で、正面には、唐門や社殿の写真を転写した大きなスクリーンが掲げられていて、遠目には、分からないようになっていて面白いが、風情も味もなく、無粋極まりない。
   参道脇の絵馬をつるしてあるボードを見たら、殆どが、英語などローマ字、中国語、韓国語と言った外国文字であるのに、驚いたのだが、こんなところにもグローバリゼーションの波が押し寄せて来ているのであろう。
   見るともなく、上野東照宮の説明看板を見たら、御祭神 徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 と記されているのに気付いた。
   分かっていても、麗々しく書かれていると、一気に俗っぽくなってしまって、周りの上野の喧騒が、急に耳に入り込んできた。

   それは、ともかく、綺麗に咲いたぼたんを楽しむことにしよう。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都響プロムナードコンサート

2013年04月21日 | クラシック音楽・オペラ
   都響の定期公演のシリーズを、プロムナードコンサートに変えてから初めての演奏会であったが、大変素晴らしかった。
   小泉和裕指揮、パヴェル・シュポルツルのヴァイオリン独奏で、ドボルザーク「ヴァイオリン協奏曲イ短調」とチャイコフスキー「交響曲第5番ホ短調」。

   定期の予約を、これまでは、東京文化会館での定期演奏会Aであったのを、毎回夜のコンサートだったので、昼のポピュラーなコンサートに変えたのである。
   もう一つ、昼の「作曲家の肖像」シリーズも申し込んだのだが、インバルの「マーラー・ツイクルス」がプログラムの主体を占めていたのでシルバー予約は完売でダメであった。
   とにかく、歳の所為もあって、9時以降終演の夜のコンサート年9回は、千葉から上野の往復では少し苦痛になってきたので、昼に変えたのである。
   尤も、趣味が変わったので、歌舞伎・文楽、そして、能・狂言は、夜でも厭わないのだが。

   私の定期公演の年間予約を始めたのは、もう、随分前のことで、大阪万博が終わって東京に移ってからずっとであるが、最初はNHK交響楽団であった。
   その後、海外に出て、フィラデルフィア管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボー管弦楽団、ロンドン交響楽団と繋いで、日本に帰って来てからは、小澤征爾を聴きたくて、新日本フィルの定期公演の年間定期予約を続けてきた。
   しかし、最初は年8回の内2回は必ず小澤が振っていた。それが、1回になりついに登場しなくなったので、アルミンクの間少し続けていたのだが、数年前に、東京都交響楽団に定期予約を変えてしまった。

   若い時や、欧米にいた時には、ウィーン・フィルだベルリン・フィルだと言って、世界的な楽団やソリスト等々色々なプレイヤーの演奏会に出かけていた。
   しかし、その地のトップ・オーケストラは、やはり、その度毎に、チケットを取るのは大変なので、定期公演のチケットを必ず持つことにしていた。都合で行けないことが多かったが、少し安かったし、バーンスティンや小澤の客演など珍しくて貴重なチャンスをミスることはなかったので幸いであった。
   当時は、家族が世代を越えて保有し続けるので、フィラデルフィアやコンセルトヘボーのメンバーズ・チケットを取るのは大変だったのである。
   最近では、オペラも含めてクラシックのコンサートに行くことは少なくなってしまったのだが、せめて、定期のチケットを何か持っておれば、クラシックの現場に触れることが出来ると思って、1シリーズだけは維持したいと思っている。

   さて、この都響のプロムナードコンサートは、大体、プログラムの殆どが、ポピュラーなクラシック音楽で、昼にリラックスして聴けるのであるから、あくせくして人生を生きる必要のなくなった私のような老年には、精神衛生上も非常に良い。
   もう、何百回もコンサートに通って来たのであるから、何度も聴いて楽しんできた曲が多くて、青春時代に戻ったような気がしている。
   マーラーやブルックナーなどが、今では大曲として脚光を浴びて演奏されているのだが、私の若い頃には、殆どコンサートのプログラムに載ることはなくて、海外に出てから聴く機会を得たくらいであった。

   今日のコンサートだが、真摯で折り目正しい小泉の指揮にバックアップされて、故国チェコのドボルザークの協奏曲を、実に優雅に情感豊かにシュポルツルが弾き切って、聴衆の喝采を浴びた。
   このように美しいホールで演奏出来て嬉しいと言って、アンコールに、パガニーニのカプリチオNo.5を、ヴァイオリンに顔をうずめるように凄まじい弓さばきで演じた。
   ソリストは、色々なスタイルで登場するのだが、シュポルツルは、白シャツ・チョッキ姿で、長髪を後ろで束ねた侍スタイル。颯爽としたプラハの高級レストランで登場してくるようなジプシー姿、若々しく様になっている。
   やはり、血の騒ぎであろうか、感動的なドボルザークであった。

   小泉のチャイコフスキーのシンフォニーNo.5は、壮大なクライマックスに上り詰める終幕の、轟わたるコーダのすごい迫力は圧倒的であった。
   私の印象では、ヨーロッパにいて、6番の悲愴よりも、この5番を聴くことの方が多かったような気がするのだが、やはり、人気はこの終結部にあるのであろう。
   ”運命”をテーマとすると言う地を這い呻くような暗い主題が、様相を変えながら全楽章に現われるので、私など音楽音痴には、このメロディーが手掛かりとなって、聴きなれた曲だと言う親しみを感じて聴いているのだが、第3楽章など美しい曲想が顔を覗かせるなど、変化にとんだ素晴らしい交響曲である。
   悠揚迫らず、ダイナミックに流れるようにタクトを振っていた小泉だが、会心の出来であったのであろう、少しの疲労から回復すると柔和な顔に優しい笑みを浮かべて聴衆に応えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関西小旅行(3)京都嵐山&嵯峨野

2013年04月20日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   ホテルをチェックアウトして、地下鉄の日本橋駅から、京都を目指した。
   名古屋から来る大学時代の友人と、阪急の嵐山で、10時に会うことにしていた。
   この地下鉄線は、天六で阪急に乗り入れているので、そのまま乗って、淡路で京都線に乗り換えて、桂で、嵐山線に、再度乗り換えればよい。
   車窓からの風景は様変わりではあるが、大学時代に乗って通っていた線なので、実に懐かしい。
   天気が良くて気持ちの良い時には、良く、京都に向かわずに桂で方向転換して嵐山に出て、嵯峨野や仁和寺や竜安寺あたりを歩いていた。

   京都線は、高槻を過ぎて三川合流地帯の地峡を過ぎると、急に、空気が変わるような気がして、透き通るように澄み切った空の日には、嵐山の山々が絵のように美しく輝くのである。
   桂川の河原から見上げる嵐山や小倉山の風景は、季節や時刻、あるいは、気象によって、刻々と微妙に変化するのだが、そんな経験は、一年間住んだことの或る宇治でも、宇治川の畔の風景で経験しており、時には、絵のように美しくなる。
   この日も、電車を降りると、緑をバックに八重桜が、綺麗に咲き誇って輝いていた。
   渡月橋をバックにした嵐山の風景は、絵葉書の定番だが、桜や紅葉の季節とは違って、今は、緑一色の単色モードである。
   
   

   一寸暑いが、天気も良く気持ち良い涼風が吹いているので、久しぶりに、大覚寺を目指して歩き大沢の池の畔で憩いで、それから、行き先を考えることにした。
   渡月橋を真っ直ぐに北上して嵐電駅前を右にして釈迦堂を目指す。
   

   門前を右に取って少し歩くと大覚寺門前の辻に出て、その道を北上すれば、大覚寺に着く。
   シーズンだと言うのに、桜が終われば、渡月橋あたりでも観光客が少なく、そうなれば、ここまで足を延ばす人は僅かで、実に静かであり、境内のシーンと張りつめた冷気が気持ちが良い。
   狩野派の障壁画が素晴らしい宸殿の正面廊下に腰をかけて、眼前に広がる真っ白な庭の向こうの優雅な唐門とその横に植わっているピンクの美しい枝垂れ桜を愛でながら、友と四方山話をしていた。
   お互いに京都で学び京都で4年間過ごしながらも、これ程、静かでゆったりとした豊かな時間を持ったことはなかった。
   宸殿の前には、若葉に変わった左近の梅、右近の橘が植わっていて、桜は唐門の傍だが、御影堂から唐門を臨むと、舞台と一直線になっていて、桜が映えて絵になっていて良い。
   
   
   
   五大堂が大沢池に面していて、舞台のような観月台から池畔の景色が展望できる。
   舟を浮かべて管弦の宴を催したのもこの池だが、中空に光り輝く名月の美しさは格別なのであろう。
   この五大堂が、この寺の本堂なのだが、丁度、宝物展を開いていて、二つの重文の五大明王坐像が展示されていた。模したと言うのだが、やはり、五大明王坐像の圧巻は、東寺の素晴らしい群像であろう。
   大沢の池をゆっくり一回りして小一時間過ごしたのだが、花っ気は殆どなかったが、萌えるような新緑が美しかった。
   

   祇王寺が末寺だと言うことだが、やはり、訪れる人が多いのであろう、ジョイント拝観券を売っていたので買っており、帰りを歩くのも億劫なので、タクシーに乗った。
   私には、草深い山の中の祇王寺の印象しか残っていないので、住宅が混んで迷路のような路地を、器用に潜り抜けて走るタクシーの移動が、信じられない思いであった。
   私の学生時代の愛読書の一つが平家物語であったので、軍記物でありながら、人生の悲しさを壮大に歌い上げた物語が好きで、多感な頃でもあったのであろう、嵯峨野を舞台にした悲恋物語に魅せられて、よく嵐山に足を運んだのだが、その頃は、まだまだ草深い田舎であった。

   平家物語の「葵の女御」の巻の、仲国が「小督」を尋ねて小倉山あたりを彷徨ううちに、高倉院を想いながら「想夫恋」を爪弾く小督の爪音が聞こえてくるくだりが好きで、このあたりを何度も訪れた。
   「亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、・・・」
   そんな空間が、まだ、残っていて、それに、清盛の気まぐれの犠牲になった祇王祇女そして仏御前の話や、横笛と滝口入道の悲恋など、平家物語の世界を心の中で反芻することが出来たのである。

   綺麗になり過ぎて、観光観光しくなってしまってはいるのだが、やはり、祇王寺は美しかった。
   特に、苔むした庭園の美しさは格別で、オープンな大覚寺の庭園の比でもないし、先月訪れた京都の他の古寺の庭園のどこよりも美しく、しっとりと木漏れ日に輝いていた。
   
   
   

   この祇王寺の門口の右手に、滝口寺の入り口があって、ほんの隣の山側なのだが、皆素通りしてしまって、急坂を登って、高野聖で有名な滝口時頼と建礼門院の雑仕の横笛との悲恋の物語の舞台であるこの寺を訪れる人はいない。
   絶世の美女横笛と恋に落ちた時頼が、父親に許されず世を儚んで出家して嵯峨野奥深く隠棲するのがこの場所で、共に仏の道を歩みたいと露を踏み分けて尋ねて来た横笛をつれなく拒絶して、仏道修行の妨げとなると高野山に逃げ(?)、その後、儚んだ横笛は、奈良の法華寺で寂しく世を去る。
   祇王寺も滝口寺も、全く、実物ではないのだが、その場所で繰り広げられた物語が、魅せるのである。
   
   
   
   滝口寺を出て、二尊院を目指した。
   目的は二尊院ではなくて、その境内の山側にある定家の時雨亭跡を訪ねることであった。
   最近、能に興味を持ち始めたので、定家が『小倉百人一首』を編んだといわれる場所で、石組みしかないのだが、随分前に訪れたのでもう一度行きたいと思ったのである。
   去来の閑居跡落柿舎の門前通り抜け、このあたりまで来ると、まだ、畑が残っていて、二尊院まで来ると緑陰の雰囲気が勝ってくる。
   二尊院は、発遣(ほっけん、現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、来迎(らいごう、西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立つ重文の木造釈迦如来立像・阿弥陀如来立像を本尊とする寺院で堂々たる威容である。
   この境内の120段の石段を登って左折れで山道を歩いて行くと時雨亭跡に着く。
   二尊院の建物を眼下に、そして、遠くに京都の市街を広く遠望できる。
   
   
   
   
   

   帰りは、野々宮神社を経て阪急嵐山駅に出た。
   久しぶりに阪急で蛍池まで行き、モノレールで伊丹空港に出たのだが、6時間一寸で、この程度の京都観光を、それなりに楽しめるのである。
   
      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関西小旅行(2):道頓堀から千日前、黒門市場

2013年04月19日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   ホテルが宗右衛門町なので、道頓堀には歩いてすぐの距離である。
   夜には、夕食後に、散歩を兼ねて道頓堀あたりを歩きながら写真を撮るのだが、東京よりははるかに夜が早い大阪でも、このあたりは、かなり遅くまで賑わっている。
   
   

   朝も夜も、中国系の観光客が多い感じで、中国語が飛び交っていて、私の泊まっているホテルも、過半は中国人旅行者のようである。
   道頓堀や千日前あたりの真赤が勝った極彩色の派手派手しい看板や街並み、夜のけばけばしいネオンの輝きを見れば、中国の繁華街と殆ど違わないような雰囲気であるから、中国人にとっては正にアット・ホームなのであろう。

   ところで、夜の町並で、多少雰囲気があるのは、水掛不動のある法善寺横丁あたりであろうか。
   天龍山法善寺の横に苔むした水掛け不動が立っていて、人々が並んで順番を待って、柄杓で勢いよく水をかけてお祈りをしている。
   その横に、森繁と淡島千景の映画「夫婦善哉」に因んだ甘党の店があり、若い女性客で賑わっている。
   私も昔は甘党で、若い頃、京都や大阪など随分あっちこっちで、ぜんざいを食べていたのだが、最近では、歳とメタボを考慮して、殆ど寄り付かなくなっている。
   それに、肝心の料亭やナイトクラブあたりも、もう何十年も前に行ったくらいで、殆ど記憶に残っていないので、歩くだけなのだが、不景気なのであろうか、客引きに近づいてくる若い子が結構いる。
   
   
   
   


   さて、翌朝だが、文楽の開場が11時なので、時間があったので、道頓堀から千日前あたりを歩いて、黒門市場経由で劇場に行くことにした。
   それに、いつものように、娘たちに、蓬莱551から豚まんやシュウマイなどを送ることにしており、通販開店が10時なので、時間的にも、食後の運動にもなると言うものである。
   道頓堀の朝は、清掃車や荷物の搬入の車などの出入りで道がふさがり、通勤客らしき人の動き、それに、道にはみ出した飲食店の店先で、中華をつついている中国人客くらいで、夜の喧騒とは大違い。けばけばしい看板も何か虚ろな感じがする。
   千日前を吉本の前あたりにかけては、パチンコ店のオンパレードなのだが、どこの店も、既に、長い列が続いている。
   その前を、旗を掲げた女性ガイドに従って田舎のおじさんおばさんグループが列をなしていて、どこへ行くのかと思ったら、なんばグランド花月に消えて行った。
   昨日の漫才で、朝早くから、笑いに来るなんて気が知れないと漫才師自身が賜っていたのだが、朝は、子供割引もあるとかで、とにかく、このなんば界隈は、日本でも、特別な土地なのであろう。
   当然、朝の法善寺横丁の佇まいも違っていて面白い。
   蓬莱551の店頭は、地方発送は10時から受けつてで、その前から客が待っている。
   吉本の外れの千日前通りが道具屋街で、大工道具からお好み焼き道具一式まで色々な店が並んでいるのだが、昔風ホームセンター街と言うことであろうか。
   松屋街通りをこえると、大阪の台所黒門市場がある。京都の錦市場と双璧の関西の市場で、何でも売っていると言う感じで、歩くだけでも面白い。
   丁度時間になったので、道を渡った向かいの国立文楽劇場に向かった。
   今回の文楽公演は、非常に素晴らしくて、感激の連続であった。後日、観劇記をまとめたいとおもっている。
   
   
   
   
   
   
   

   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関西小旅行(1):桜通り抜け、そして、なんばグランド花月

2013年04月18日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   国立文楽劇場の四月公演を鑑賞するために、2泊3日の小旅行をした。
   朝11時から夜8時半くらいまでの文楽を観るためには、千葉からでは飛行機でも、2泊しないと駄目である。
   朝早く出て、帰る日は夕方の遅い便にすると、両端の2日は、京都や奈良くらいには足を延ばすことが出来る。

   この日は、文楽が近松の作品を扱っているので、大阪の近松所縁の故地を訪ねてみようと思っていたのだが、大阪の造幣局の桜の通り抜けが始まったと言うので、まず、先に空港から出かけようとした。
   関西人であり、極近くの天神橋近くの本社に通っていたにも関わらず、この造幣局の桜の通り抜けを見たことがなかったので、今や関東人であるから、野次馬根性を出して行ってみることにしたのである。
   
   空港の案内所で、どう行けば早いのか聞いたらJRの天満だと言って、地図付きの大阪の観光案内パンフレットをくれた。
   私の感覚では、もう少し近い方法がありそうだと思ったので、JRの大阪駅で聞いたら、環状線を京橋で東西線に乗り換えて、大阪城北詰で下りれば良いと言うことで、これに従ったのだが、この線は、京阪奈から尼崎方面に直結していて便利になっている。
   この電車に乗り換えた時に、昼前だったので、女性専用車に乗ったのだが、乗客は女性ばかりで、朝特定の時間だけの東京とは違って、大阪では一日中とかで、恥をかいて慌てて別の車両に移った。
   ところで、この造幣局の通り抜けの会場に行くには、京阪か地下鉄の天満橋からの方が便利なようで、良く知っていた筈の大阪も長い間離れていると勘が鈍ってしまうようである。

   会場は、造幣局の南側から、大川に沿って北側へ640メートルで、道の両側には、豪華に咲き誇る八重桜のトンネルが続いていて壮観である。
   かなり種類が多いようで、ブーケのように豪華でたっぷりとした塊もあれば、滝のようにしだれた巨大なピンクのパラソルのようなものもあれば、淡い緑色を帯びた清楚な花びらの集合であったり、良く見れば、夫々の様子が違っていて、結構花見で慣れている筈の私でも知らない種類が結構沢山あって、流石である。
   観光客でごった返しているので、スムーズに動けないし、中々思うように写真が撮れないのだが、結構、外国からの観光客が多いのにびっくりした。
   
   

   丁度、NHKのカメラが入っていて、女性アナウンサーが、桜の中継放送をしているところだった。
   女優やタレント並みに写真を撮る客が多かったのだが、私も横から見ていたのだが、録画も中々大変である。
   
   

   結局、一寸見に出かけた筈の桜見物で時間を取ったのだが、ホテルが宗右衛門町なので、久しぶりに吉本の漫才と新喜劇を見に行くことにした。
   漫才にオール阪神・巨人が、そして、新喜劇も辻本茂雄が出ると言うことだし、大体、NHKの「バラエティー生活笑百科」を見ているので、面白いと思ったのである。
   非常に人気が高くて、一階席の端の席をやっと取れたのだが、二階の後方を除いて殆ど満席で、高校生の団体も入っていたのだが、東京の歌舞伎や文楽、能・狂言の団体鑑賞と同じなのだろうかと思った。

   漫才のメッセンジャーが、「大阪のおばはん」をテーマにして、沢山、大阪の婦人客が来ていたのだが、笑わせていた。
   東京の落語でも、枕にして、観客の中年以上の女性、すなわち、おばさん連中を話題のネタにすることが結構あるのだが、「大阪のおばはん」は、正にそのものが、笑いの格好のテーマなのであろうか、とにかく、面白い。
   しかし、良く考えてみれば、私の青春時代のマドンナは、故郷の阪神間など関西であったから、今や「大阪のおばはん」の仲間入りかも知れないと思ったのだが、何故か、そんな筈はないと、無理に、甘酸っぱいあの頃の思い出に引き戻して、久しぶりに懐かしさに浸っていた。

   落語の「月亭八方」は、その先日に新聞に出た、”「突然死の兆候」人間ドックで不整脈見つかる”を題材にして、人間ドックの経験談を語って笑わせていた。
   前日まで、桂文珍が舞台に立っていたようだが、一度聞いてみたいと思っている。

   オール阪神・巨人は、巨人のお母さんの失禁話から、尿漏れをテーマに面白い話を語っていたのだが、なぜここまで展開できるのか奇天烈ながら、テレビの日本昔ばなしの懐かしい語り口や、百貨店のウグイス嬢の語りから、そのバリエーションの語りの妙は流石で、やはり、話術は実に上手いと思って聞いていた。
   それに、相槌の打ち方や話の間合い、丁々発止の受け答えなど、あの間髪を入れずに、殆ど内容のない話を軽妙洒脱なリズムとタッチで語り継ぐ話術の冴えは、誰も真似が出来ないのではないかと思う。

   吉本新喜劇は、題名も何かは覚えていないし関心もないのだが、前に見た舞台と殆ど同じで、旅館を舞台にして、親の決めた相手を拒否して、結婚を反対されて逃げている若いカップルをテーマにしたり、旅館や人間関係や恋の揉め事などを絡ませて、主人公の辻本茂雄がかき回すのだが、最後はハッピーエンド、毒にも薬にもならないような話で、元気溌剌な若い吉本の喜劇役者が、舞台狭しと暴れまわって派手な演技を披露する。

   ところで、吉本のこのなんばグランド花月の3時間足らずの舞台だが、とにかく、面白い。
   しかし、素晴らしいものを見たとか、役に立ったとか、ためになると言ったことなどは、さらさらなくて、笑い飛ばして終わりの娯楽で、4500円は高いと思うのだが、また、それでも、出かけて行く。
   私の前に座っていた若い女性が、最初から最後まで、私にとっては全く面白くもおかしくもない事でも、笑い続けて笑い転げていていたので、病気ではないかと思って、背もたれをつついたら、普通に戻ったのだが、とにかく、結構追っかけに近い感じの大阪人ファンが多いことに気づいて、吉本の人気の凄さを感じさせられた。
   劇場の玄関前では、吉本のキャラクター人形と一緒に写真を撮る若い客が引きも切らない。
   東京にも、こんな寄席などがあるのかは知らないのだが、この千日前近辺の熱気は、一寸、特筆ものかも知れない。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿葺落四月大歌舞伎・・・「盛綱陣屋」「勧進帳」

2013年04月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   第3部は、前2部とは違って、実質的な古典歌舞伎で、非常に充実した舞台であり、流石に柿落し公演と言う感じがした。
   何回も観ている歌舞伎なので、特別な感慨はないのだが、今回は、期せずして、義理人情に絆されてと言うか、どうしても自分の思いなり信念に生きればこうなると言う、意気に感じて、主を裏切る武士の情けを示す武将の話である。
   
   盛綱陣屋は、実際には、大坂冬の陣で、敵味方に分かれた真田信幸、幸村兄弟の話を、佐々木盛綱、高綱兄弟に置き換えて、兄高綱が、弟高綱の実子小四郎を自害させて逃れると言う切羽詰った巧妙な計略と小四郎の健気さに感じ入って、高綱の偽首を高綱だと偽って証言して、北条時政(実際には、徳川家康)を裏切ると言う筋になっている。

   仁左衛門の苦渋に満ちた風格のある凛々しい高綱が、実に感動的で、胸に迫る。
   吉右衛門の和田兵衛秀盛の貫録と豪快さは、まさに、地で行っている感じだが、舞台を圧する空気は、やはり、今回の柿落とし興行の立役トップの風格であろう。
   篝火の時蔵、早瀬の芝雀、微妙の東蔵、女形陣の素晴らしさも流石であるが、小四郎の金太郎の素晴らしい演技が秀逸であった。

   「勧進帳」の方は、安宅の関守である富樫左衛門(菊五郎)が、義経一行であると知りながら、武士の情けで見逃して関所を通して、頼朝の命に背くと言う話になっている。
   今回の劇場の筋書パンフレットに、”睨み合う双方の間に入った弁慶は、富樫たちが義経と疑う強力をこの場で打ち殺そうと言い放つ。その必死の様子に、一行が義経主従であると察した富樫であったが、主君を守ろうとする弁慶たちの忠義心に心を打たれ、関所の通過を許しその場を立ち去る。”と書いてあるのだが、これは、一寸、行き過ぎた解説だとしても、富樫が義経と見破ったかどうかを曖昧にしている能の「安宅」と違うところで、興味深い。
   
   この歌舞伎の勧進帳と能の安宅の違いや、富樫の義経に対する判断の差などについては、このブログで、既に触れているので蛇足は避けるが、富樫が、何時、弁慶が偽山伏であり強力が義経だと悟ったかは、歌舞伎役者も能役者も、夫々見解が分かれており、そして、それに従って演じ方も違っているので、その富樫役者が演じる心の葛藤、軌跡を追うことが重要で、私自身は、弁慶や義経はある程度一本調子で演じていても、様になるにしても、富樫は非常に難しいと思っている。

   私が最もあり得ると思うのは、どちらかと言えば、弁慶が力づくで富樫と対決して関所を突破すると言う見解に近い筈の能の立場から語っている観世清和宗家の考え方である。私のブログから、その部分を引用すると、
   ”富樫が、義経だと分かっていたかと言うことについて、観世清和宗家は、「一期初心」の”「安宅」の心理劇の項で、山伏の一行が到着した時から、それが義経主従であることを見破っていて、弁慶の読み上げる勧進帳がおかしいことも分かっていたと書いている。
   一方、弁慶も見破られていることに気付いていて、お互いに相手の心を読み、もうこの先は、刀を抜いて斬り合うしかないと言うギリギリのところでぶつかり合っている。表舞台で進む派手なやり取りの後ろで、もう一つのドラマが進んでいる。この二重構造が「安宅」の特徴であり、演者にとっての醍醐味だと言っていて、
   「安宅」が大曲と言われるのは、展開する舞台の華々しさによるのではなく、背後で同時に進んでいる緊迫した心理劇をどう表現するか、そこに演じるものの力が問われているからだ。と言うのである。”

    同じように、もうはなっから「あの強力は義経ではないか」疑っているのだと、惜しくも、柿落しの舞台に立てなかった團十郎が言っている。本物かどうかは弁慶を見れば、その問答の中で分かる筈で、これ程の人物がそばにいると言うことは只ものである訳がない、でも、富樫は家来の手前、義経だと知ってか知らずかの顔をせざるを得ない訳です。と言っていて、こう思うと、最後に見た團十郎の富樫の演技が良く分かり、幕切れで、弁慶たちを見送る姿に、万感の思いを込めていて感動的であった。

   幸四郎がどのように考えているのか、書き物で読んだことがないので分からないが、今回の舞台で、富樫に向かって武士の情けの有難さを肝に銘じて、感謝の一礼を残して足早に花道へ走り去り、幕が下りて、花道で飛六方で去る直前でも、舞台上手を凝視して感謝の思いを噛みしめていた。
   富樫が、頼朝の咎めを受けることは必定で、命を懸けて見逃してくれた武士の武士たる所以に対する激情の迸りであろう。
   幸四郎の弁慶は、今や、頂点と言うべきであろう。

 
   私は、勧進帳では、富樫が一番好きなキャラクターである。
   これまで、菊五郎が一番多いのだが、富十郎、吉右衛門、勘三郎、梅玉の富樫の舞台を観ていて、夫々に感激してきた。
   あのオセロと同じで、シェイクスピアが、イヤーゴを主役にしようと考えたことがあったと言うように、この勧進帳も、主役は、義経だと言われていながら、弁慶が一番突出しているのだが、芝居としては、富樫だと言っても成り立つような気がしている。

   話がわき道にそれてしまったが、梅玉の義経は、決定版の一つ。
   それに、四天王は、染五郎、松緑、勘九郎、左團次と言う豪華さで、ピーンと張り切った緊張感が格別であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト・プランター栽培記録2013(1)トマト苗をプランターに植える

2013年04月15日 | トマト・プランター栽培記録2013
   タキイ種苗に注文していたトマト苗が送られてきた。
   昨年、黄色い大玉トマトの桃太郎ゴールドの苗を取得し損なったので、今年は、早くから注文を入れておいたのである。
   カタログに、「虹色トマト苗 セット」と言う主に外国産のミニトマトのセットがあったので、面白いと思って、これも、注文したのだが、後は、園芸店に出かけて、直接苗を見て、追加購入することにした。

   その後、園芸店に出かけたら、まだ、僅かに苗が出始めたところで、デルモンテのビギナーズトマトの苗と、ピンクのミニトマトと言う既に一番花が咲いている苗があったので、とりあえず、2本ずつ買って帰った。
   本当は、もっと後の4月後半くらいに植え始めた方が良いと思ったのだが、苗が来てしまえば植えざるを得ないと言うことである。
   昨年は、50本近くもトマトを植えてしまって、庭が無茶苦茶になって、折角のバラの日当たりを悪くしたり世話が不十分となって枯らせてしまったので、今年は、極力、トマトを押さえて、バラに注力しようと思っている。

   トマトの種類については、大玉は、桃太郎ゴールドだけにして、サカタのアイコなどのミニトマトや中玉トマトを半々ぐらいにしようと思っている。
   ビギナーズトマトは、ミニと中玉の中間くらいだが、ミニも色々あって、バリエーションがあると面白い。
   いずれにしろ、もう少しすると、一斉にトマト苗が出回るので、追加することになるのだが、8月になると暑すぎて殆どトマトの世話など出来なくなるので、今年は、少し早めてトマトの栽培をしようと思っている。

   タキイのインストラクションでは、まだ、苗が小さいので、5号鉢に仮植えして、一番花が咲いた頃に、植え替えるのが良いと書いてあったので、桃太郎ゴールドの方は、そうしたが、虹色トマトの苗の方は、少し、成長が早くて苗が大きいので、直接プランターに植えることにした。
   早い段階で、肥料をやると実付きが悪くなると言うことなので、タキイ苗は、肥料が入っていない培養土を使って、5号鉢もプランターも植えつけた。
   デルモンテとピンクのミニトマトは、昨年同様に、1ヶ月くらい施肥の必要がないと言う肥料入りの培養土に植えつけた。
   肥料については、良く分からないが、花が咲いたり結実し始めると、当然、必要なので、その頃から積極的に施肥すればよいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド:ブレークアウト・ネーションへの確率50%?

2013年04月14日 | 政治・経済・社会
   先日、ルチル・シャルマの「ブレイクアウト・ネーションズ」での中国に対する見解が興味深かったので、コメントしたが、同じく、インドについても、やや辛口の将来を展望しているので、考えてみたい。
   冒頭で、シャルマは、
   ”インドは、新興国の持つあらゆる特質、言い換えれば、この世で最も躍動的な若い経済諸国が内包している最も良い部分と最も悪い部分を合わせ持つ、新興国の原型ともなっていて、新興国の持つ落とし穴から希望までの、あらゆる要素がまじりあっている。
   特定の産業が圧倒的なシェアを持つ他の新興国と違って、自動車から医薬品まで総ての産業があるので、インドの株式市場は、他のどの国よりも、世界の新興市場の平均的な動きと連動して上下し、市場に深みと広がりがある。
   エリート層は、英語力が高いと言う共通の特徴を持ち、外の世界へ容易にアクセスできるので、インドの将来については楽観しており、インドで続くベビー・ブームを、「時限爆弾」から「人口の配当」へと変容したと考えている。”と、インドを概観している。

   しかし、外国の投資家もインド人と同じくらい楽観的なのだが、と一気にトーンを変えて、
   ”今後10年経っても、インドがブレイクアウト・ネーションとしての旅を続けられる確率を、精々50%と見ている。
   肥大した政府部門、縁故資本主義、金持ちと権力者が後退する頻度の低下、そして、農民が農村を離れたがらないと言う憂慮すべき傾向など、インドと外国のエリートたちが無視ししている様々なリストが存在するからだ。
   破綻初期の兆候は、マンモハン・シン政権の元で、現れ始めている。”と言うのである。

   ここで興味深いのは、シャルマは、インドとブラジルが、「高コンテクスト」社会の最たる国で、不吉な繋がりがあり、インドは、ブラジルが1970年代に陥ったと同じ運命、すなわち、政府の過剰支出がハイパーインフレを招き、その結果民間投資が締め出され、経済ブームが終息した方向を辿るのではないかと言っていることである。
   ブラジルは、公務員の給料を指数化してインフレに連動させ、賃金と物価のスパイラル現象を起こしたが、インドも、農村雇用保障法で守られた賃金によって、2011年の農村の賃金インフレ率は15%まで押し上げられたと指摘する。
   ブラジルは、金もないのに、福祉国家的リベラリズムに強い共感を持っており、「ボルサ・ファミリア」政策などばら撒き政策で財政を悪化させているが、インドも良く似ていると言う指摘が面白い。

   「高コンテクスト」社会とは、エドワード・ホールがコインした言葉だが、人々は、派手でうるさくて、約束は必ずしも守らないし、会合や締切など時間の観念はルーズであり、家族の結びつきを重視する傾向があって、近親者以外の親類縁者やアミーゴまでを含んだ、長い間に築き上げられた密接な結びつきの上に成立しているので、皆まで言わなくても、価値観が共有されており、ほんの短いやり取りだけで多くの物事が進んでしまう、そんな社会である。
   私自身は、ブラジルに住んだことがあるので、そんなブラジル気質や政治経済社会については、何度もこのブログで論じているのだが、僅かなインド人ビジネスマンとの付き合いしかないので、インドが、それほどまでブラジル気質に似ているとは思はなかった。
   このような欧米的な法化社会とは違って、アミーゴ社会である「高コンテクスト」社会では、人々は一定の集団内に閉じこもりたがる傾向があるので、汚職や買収に弱く、縁故主義が蔓延ってしまう。
   インドの汚職問題は、極めて深刻で、益々悪化しており、経済発展があっても、単に選ばれた小数を潤すだけだと、中間層の根深い不満が爆発して、大きな社会運動となっている。

   新興国の企業が、海外進出すると言うのは、望ましい発展である筈なのだが、インドでは、腐敗官僚組織の悪弊など国内市場でのビジネスに伴う面倒な問題を避けたいから、と言うのが外国進出の動機だと言う。
   また、インドのトップ50社における利益の半分以上は外向き、すなわち、輸出、世界のコモディティ価格、国際的企業買収によっていて、総て海外志向で、逆に、海外からの投資を規制し、インド企業の国内投資意欲が弱いために、国内経済拡大のための投資資金に不足を来して、供給が需要に追い付かずにインフレ率が高騰している。
   投資資金の干上がりが、インドのインフラの悪化を促進する要因ともなり、政府の依怙贔屓と汚職が、更に、ビジネス環境の不安定さを増幅しているのだから、シャルマは、汚職がインフレ要因だと断定している。
   
   シャルマは、必ずしも、インドのネガティブ面だけを言っているのではなく、遅れていたビハール洲の胎動や南北格差の縮小、消費者による新しいサブカルチュア―の勃興などについても触れているのだが、インドには地域主義と言う複雑な問題を内包しており、成長モメンタムの高まる地域と低下する地域が共存しているために、ブレイクアウト・ネーションとして生き残る確率は、50%としか言いようがないと言う。

   インドは、活力に満ちた技術関連の企業集団との印象が強く、IT関連企業や財閥のトップなどが脚光を浴びているのだが、最近のインドの億万長者は、そのような大物企業家ではなくて、政府との談合をもとに、鉱業や不動産など立地がカギとなる産業で事業を独占し、富を築いた地方の大物であり、インドの経済規模に比べて、アメリカや中国とも比べて多すぎる。
   億万長者が、生産性を生む新たな産業を興した結果ではなく、政府の支援を得て蓄財をしているインドのようなケースは最悪で、繁栄する資本主義社会の核にあるのは創造的破壊であるから、既に出来上がった秩序から総てを得るような、コネに恵まれた有力者は資本主義の敵である。と言うのである。

   これまで、何となく、無批判的に、BRIC'sと言う言葉とイメージに踊らされて、インドの明るい面を主に見ていたので、シャルマのように、ネガティブ要素に焦点を当てると、少し、インド観が違ってくる。
   ダニエル・ラクの「インド特急便!」や、エドワード・ルース著「インド厄介な経済大国」などでも、読み方によっては、シャルマの見解を垣間見ることが出来るのだが、光にだけ焦点を当てたジテンドラ・シンほか著「インド・ウェイ 飛躍の経営」などになると、インドの現実が見えなくなってしまい、インド経営ないしインド経営学の、昔、JAPAN AS NO.1での昇華された日本像のような、昇華された姿しか見えなくなってくる。
   私は、やはり、現実を見ないと何とも言えないと思っており、45か国以上の外国に足を踏み入れておりながらも、インドには行っていないので、出来れば、空気だけでも吸って、本当のインドの実像に触れてみたいと思っている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿御苑の八重桜が満開

2013年04月12日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   新宿御苑の桜は、ソメイヨシノなど早い桜は散ってしまって葉桜だが、八重桜は、今が盛りで、最も美しい時期である。
   それに、新しく萌え上がった淡い新緑にマッチして、パステルカラー調の色彩のコントラストが、逆光に映えると実に美しい。
   ゆっくりと、木陰のベンチに腰をかけて、洋風スタイルの紳士が、涼風に吹かれながら英書を紐解き、午後のひと時を憩っていたが、如何にも優雅で、場違いながらも、様になっているのが面白かった。
   私も、気持ちの良い午後のひと時を、近くに住んでいたので、キューガーデンに本を持ち込んで読んでいたことがあるのだが、案外、戸外での読書は、素晴らしい暇つぶしなのである。
   
   

   さて、八重桜と言っても、濃いピンクから白色、咲き始めはピンクだが、少しずつ白くなって開花するとミドリがかって行く桜など、色々あるのだが、知っているのは、ヤエベニシダレやカンザン、フゲンゾウくらいで、他に、イチヨウ、フクロクジュ、ウコン、ギョウイコウ、ケンロクエンキクザクラなども咲いているようだが、名札がないので良く分からず、とにかく、美しいなあ、と言う感じで、見過ごすだけである。
   大体、新宿御苑に来るのは、仕事の合間だとか、多少時間に余裕が出来た時で、この日も、1時間半で、御苑内を歩くのだから忙しなくて、御苑発行の”4月のみどころ”マップを、十分に確認することもなく、花の咲いている方に歩いて行って、カメラのシャッターを切っているのだから、名前が分からなくても仕方がない。
   
   
   
   
   
   
   八重桜のほかに、鮮やかに咲いているのは、ツツジの種類で、玉模様に刈り込まれた色鮮やかなツツジの前で、写真を撮っている人が多い。
   京都の古寺の美しい庭園には、ほんの一株か二株のツツジが植えられていて、そのツツジが色鮮やかに咲いていて、庭園の雰囲気を一変させていることがあるのだが、群生が良いのかどうかは、興味深いところである。
   私のように、ここの花を追って写真を撮っている人間にとっては、刈り込まれた花形にはあまり興味がない。
   
   

   さて、とにかく、新緑が美しい。
   咲き乱れる桜やツツジばかりに、人々は集まっているのだが、あらゆる緑のグラジュエーションを楽しめる今の新緑の季節が一番美しいと思う。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭:まだ咲き始める椿

2013年04月11日 | わが庭の歳時記
   鉢植えの椿では、まだ、咲いていない椿は、数鉢あるのだが、庭植えの大きな椿は、殆ど咲いている。
   先日、このブログで開花レポートした後に咲いた椿は、天賜(てんし)。
   ピンクの花弁が、底に向かうにつれて徐々に白くなって行く椀咲きの椿で、大きな雄蕊の輪の中にしっかりとした雌蕊が飛び出ている。
   咲くと匂うように美しいが、傷つきやすく、花弁がすぐ落ちて、儚い。
   もう、20年ほど前に、近くの園芸店で買ったさつま紅とともに、私の庭では、最も古い椿の一つで、毎年、沢山の花をつけて、数年前に種を取って実生苗を育てているのだが、来年あたりには、開花しそうなので、どんな花が咲くか楽しみにしている。
   

   卜伴に似た中心の蕊部分に、蕊に交じってびっしりと小さな花弁が密集して、色の混ざり具合が美しい式部椿も咲き始めた。
   成長が遅くて、中々、大きくならないのだが、私の好きな椿である。
   もう一つ、椿らしからぬ2センチくらいのスズラン状の蕾を沢山つけて、筒型に咲くエレナ。
   この椿は、庭植え寸前に水切れで枯れかけたのだが、少し、気が付くのが早かったので、切り詰めて蘇生した。
   以前に、非常に清楚で美しい小輪のさくら椿を枯らせてしまって後悔しているのだが、珍種は、大概、一鉢しかないので、大切にはしているのだが、椿は、少しでも、乾燥させると枯れてしまうので、非常に難しい。
   名札がはずれたので、分からないのだが、赤い筒咲きの椿が、何本か咲いている。
   
   
   
   
   
   椿の下に、チューリップが咲き乱れている。
   チューリップが満開になると、何時も、オランダのチューリップ畑を思い出すのだが、私の狭い庭には、これは、面白いと思った球根を、アトランダムに植えていて統一性がないので、極彩色のジュータンを延々と敷き詰めたようなオランダの花風景が懐かしい。
    
   
   
   
    

   庭には、まだ、クリスマスローズが花盛りだが、スノードロップの合間に、ハナニラが咲き始めた。
   それに、今や、スミレが庭一面に咲きだして、千葉の野山に咲いているスミレよりも、私の庭のスミレの方が、スミレ色が濃くなって鮮やかである。
   種が飛ぶのか、鳥が運ぶのか、広がれば広がるほど、庭に雰囲気が出て、スミレの群落も、中々、良いものである。
   やっと、咲き始めたのが、ミヤコワスレ。
   そして、黄金色で実に優雅な八重ヤマブキ。
   風に煽られて激しく揺れ動いていたのだが、風が治まると、寒さにも拘わらず、最初の牡丹も咲き始めた。
   芍薬はやっと、豆粒大の蕾をつけ始めたところだが、牡丹は、下旬ころには、一斉に、咲いてくれそうである。
   
   
   
   
   

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする