ナショナル ジオグラフィックの最新号が、2011年の後半に人口が70億人に達し、恐らく、2045年には90億人に達するだろうとして、増え続ける人類はどんな未来を描けるのであろうか?と問いかけている。
私の子供の頃には、人口30億人と言っていたのだから、既に2倍以上だが、今生きている高齢者の中には、一生の間に世界の人口が3倍に増えたのを経験していると言うのだから大変なことである。
自分の住んでいる町が発展して人口が3倍になったと言うのと、限られた面積の宇宙船地球号に乗っている乗客が3倍になったと言うのとでは、話が全く違うからである。
人口統計学では、何処の国の人口の変化も、生活水準が向上するにつれて、多産多死から、多産少死、少産少死へと「人口転換」して行き、人口が増えも減りもしない水準「人口置換水準」に達すると言う。
先進国の殆どは、この人口置換水準に、達するのに数世代もかかったが、新興国や発展登場国で速く少子化が進んでおり、一人っ子政策の中国は別にしても、アフリカ諸国でも出生率が低下しており、2030年までに、世界全体で人口の増加率が人口置換水準まで下がると言うのである。
しかし、爆発的な人口増加の時代は、2050年までには終わるとみられているけれども、ピーク時の人口は、80~105億人の範囲に収まるものの、恐らく90億人は超えるであろうと考えられている。
マルサスの人口論を筆頭にこれまで、何度も、人口増加の危機について論じられて来たけれども、幸いすべて科学技術の発展によってクリアーして来たのだが、現在のペースで経済が成長し生活水準が向上して行けば、資源の消費量は過去最大規模に達することとなり、現実的にも資源の枯渇や環境破壊など、一部には地球環境エコシステムが危機的なチッピングポイントを越えてしまっているなど、現在の先進国並みの消費スタイルを、今後、世界の国々が続けて行くのは難しいだろうと言う。
この論文での著者ロバート・クンジグの指摘する問題点は、2点で、
(1)スラムの住人に助けが必要なのは確かだが、解決すべきは人口過密ではなく貧困の問題だ。
(2)大量の中流層の誕生を阻止するのは最早不可能だが、消費スタイルを変えるのは今からでも遅くない。 と言うことである。
この第一点については、これまでにも論じて来たし、別な観点からの議論が適当なので今回は避けるが、第二点のビジョンの転換による人口問題の解決には、クンジグは極めて楽観的なのである。
ルブラの「子供を沢山生むなと言うより、肉の消費量を減らす方が理にかなっている」とか、マルサスの「必要こそ希望をもたらす」という言を引用して、「自分や家族を養うために、何とかしなければならないと気付いた時に、往々にして眠っていた能力が目覚める。未曽有の事態に直面した時にこそ、その困難さを克服する知性が形作られる。」と説いて、未曽有の事態を前にして、その独創の才が発揮されることを祈ろう、と結んでいる。
このあたりの人類の未来については、小宮山宏先生や、エリーカの清水先生など科学者の話を聞いても、科学技術の進歩を確信しているのか、非常に明るい展望を述べられるのだが、クルンジの説くごとく、人口のピークが90億人で止まるのなら、まだしも、私には、どうしても懐疑的な暗い予測しかつかないのである。
この論文で興味深かったのは、世界中の人口統計学者が集まった米国人口学会の年次総会で、地球規模の人口爆発はもはや議題に上らず、今世紀の後半で人口爆発の時代は終わりを迎え、人口が横ばいか減る時代に突入すると言うのが統一見解だったと言うことである。
世界中の人々がニューヨーク市と同じ人口密度で暮らせば、人間が住む領域はテキサス州と同じ面積で良いとか、人口が2045年位90億人になっても、南極を除く6大陸の人口密度は、今のフランスの半分強になるに過ぎないと言うのである。
このあたりの議論については、私自身、人口密度が世界一だと言われていたオランダに住んでみて、広々とした空間が広がりひと気の少ない豊かなこの国が、何故、人ごみの多い日本より、人口密度が高いのかと、統計のトリックと言うか表現の幻覚を経験しているので分からない訳ではないが、人口問題の深刻さを超越した現世離れをしているような議論で、興味を感じたのである。
しかし、もし、そのような議論が成り立つのなら、人口問題の本質は、先に端折った最貧国やスラムに住む人々の貧困問題や、世界全体に蔓延する格差や富の偏在など、政治経済社会にあるということなのであろうか。
今年も随分いろいろな問題があって多難な一年であったが、こんなことを考えながら年を越すのも悪くないと思っている。
私の子供の頃には、人口30億人と言っていたのだから、既に2倍以上だが、今生きている高齢者の中には、一生の間に世界の人口が3倍に増えたのを経験していると言うのだから大変なことである。
自分の住んでいる町が発展して人口が3倍になったと言うのと、限られた面積の宇宙船地球号に乗っている乗客が3倍になったと言うのとでは、話が全く違うからである。
人口統計学では、何処の国の人口の変化も、生活水準が向上するにつれて、多産多死から、多産少死、少産少死へと「人口転換」して行き、人口が増えも減りもしない水準「人口置換水準」に達すると言う。
先進国の殆どは、この人口置換水準に、達するのに数世代もかかったが、新興国や発展登場国で速く少子化が進んでおり、一人っ子政策の中国は別にしても、アフリカ諸国でも出生率が低下しており、2030年までに、世界全体で人口の増加率が人口置換水準まで下がると言うのである。
しかし、爆発的な人口増加の時代は、2050年までには終わるとみられているけれども、ピーク時の人口は、80~105億人の範囲に収まるものの、恐らく90億人は超えるであろうと考えられている。
マルサスの人口論を筆頭にこれまで、何度も、人口増加の危機について論じられて来たけれども、幸いすべて科学技術の発展によってクリアーして来たのだが、現在のペースで経済が成長し生活水準が向上して行けば、資源の消費量は過去最大規模に達することとなり、現実的にも資源の枯渇や環境破壊など、一部には地球環境エコシステムが危機的なチッピングポイントを越えてしまっているなど、現在の先進国並みの消費スタイルを、今後、世界の国々が続けて行くのは難しいだろうと言う。
この論文での著者ロバート・クンジグの指摘する問題点は、2点で、
(1)スラムの住人に助けが必要なのは確かだが、解決すべきは人口過密ではなく貧困の問題だ。
(2)大量の中流層の誕生を阻止するのは最早不可能だが、消費スタイルを変えるのは今からでも遅くない。 と言うことである。
この第一点については、これまでにも論じて来たし、別な観点からの議論が適当なので今回は避けるが、第二点のビジョンの転換による人口問題の解決には、クンジグは極めて楽観的なのである。
ルブラの「子供を沢山生むなと言うより、肉の消費量を減らす方が理にかなっている」とか、マルサスの「必要こそ希望をもたらす」という言を引用して、「自分や家族を養うために、何とかしなければならないと気付いた時に、往々にして眠っていた能力が目覚める。未曽有の事態に直面した時にこそ、その困難さを克服する知性が形作られる。」と説いて、未曽有の事態を前にして、その独創の才が発揮されることを祈ろう、と結んでいる。
このあたりの人類の未来については、小宮山宏先生や、エリーカの清水先生など科学者の話を聞いても、科学技術の進歩を確信しているのか、非常に明るい展望を述べられるのだが、クルンジの説くごとく、人口のピークが90億人で止まるのなら、まだしも、私には、どうしても懐疑的な暗い予測しかつかないのである。
この論文で興味深かったのは、世界中の人口統計学者が集まった米国人口学会の年次総会で、地球規模の人口爆発はもはや議題に上らず、今世紀の後半で人口爆発の時代は終わりを迎え、人口が横ばいか減る時代に突入すると言うのが統一見解だったと言うことである。
世界中の人々がニューヨーク市と同じ人口密度で暮らせば、人間が住む領域はテキサス州と同じ面積で良いとか、人口が2045年位90億人になっても、南極を除く6大陸の人口密度は、今のフランスの半分強になるに過ぎないと言うのである。
このあたりの議論については、私自身、人口密度が世界一だと言われていたオランダに住んでみて、広々とした空間が広がりひと気の少ない豊かなこの国が、何故、人ごみの多い日本より、人口密度が高いのかと、統計のトリックと言うか表現の幻覚を経験しているので分からない訳ではないが、人口問題の深刻さを超越した現世離れをしているような議論で、興味を感じたのである。
しかし、もし、そのような議論が成り立つのなら、人口問題の本質は、先に端折った最貧国やスラムに住む人々の貧困問題や、世界全体に蔓延する格差や富の偏在など、政治経済社会にあるということなのであろうか。
今年も随分いろいろな問題があって多難な一年であったが、こんなことを考えながら年を越すのも悪くないと思っている。