熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言と落語の「宗論」

2014年08月30日 | 能・狂言
   毎年8月末に、国立能楽堂で、納涼の意味を込めてか、「狂言と落語・講談」の夜が演じられる。
   まず最初は、神田松鯉の講談「扇の的」那須与一の話であるが、平家物語よりも源平盛衰記によるとか、日頃聞く話よりも微に入り細に入って面白い。
   私など与一より扇を構えて差し招く平家美人の方に興味があるのだが、平家物語では、
   ”小舟には若くてあでやかな女房が、柳の五つ衣に紅の袴の出立ちで、・・・裏が青柳の色をした襲、くれないの袴は、白い肌をさらに白く見せて男の目を幻惑する”と、松鯉は、好色な義経をおびき出さんとの平家の魂胆を、そして、女房が如何に美人で魅力的であったかを熱を込めて語る。

   さて、今回の趣向で面白いのは、狂言と落語で取り上げられた同じテーマの「宗論」で、宗派・宗旨の違った者どうしの宗教問答で、笑いを誘う公演企画。
   落語の「宗論」は、人間国宝になった小三治に代わって新しく落語協会会長になった柳亭市場の名調子で、商家の親旦那が、家の宗教浄土真宗に目もくれずに、キリスト教に入れ込む若旦那に説教する頓珍漢を語って爆笑させる。
   
   師匠小さんの芸を踏襲しているのであろう、語り口も小三治と殆ど同じで、すべて、世の中のものには陰陽があり、男と女、宗旨にも陰陽があって、「南無阿弥陀仏」は陰で、「南無妙法蓮華経」は陽であると語り始めたのだが、相撲が好きだと言って、呼び出しや相撲甚句を、実に美声で本職よりも名調子と思える芸で披露したり、面白いまくらの方が30分くらいと長くて、肝心の本編の方は、10分と少しで終わると言う珍しい熱演。

   私は、昔ラジオで聞いて覚えていたのは、
   息子が「わが造り主のイエスキリスト。」と言うくだりで、旦那が、「お前を作ったのは、あたしと死んだ婆さんの二人だ。誰にも手伝わした覚えはない」と言うと、息子は「肉体を作ったのは両親ですが、知力、精神、魂をお作りになったのはキリストです。」と反論。旦那も「それならお前は、あたしと、婆さんと、キリストが三角関係だったというのか。」と反論すると言う、落差の激しい頓珍漢な珍問答。
   讃美歌まで歌いだす始末で、外人牧師風に声音を替えて語る市場の語り口の上手さ巧みさ、とにかく、落語になれば、教義の優劣を論じる宗論ではなくて表出するのは人間の愚かさ悲しさ、実に面白い。

   落語では、「神仏論」と言うのがあって、骨董屋を営む夫婦の噺で、かみさんが一向宗で、亭主が神道の狂信的な信者。
   ノミを殺す殺さないで夫婦喧嘩、生き物の命を取るのは、殺生戒を破るからダメだと言う亭主に、盗みなら、あなたの方がよっぽど悪い、女中のお初の所に夜這いに行った豆泥棒ではないか、と言った下世話な話が飛び出す面白い話。庶民の会話は、意表をついて、とにかく、笑わせる。

   日頃、何となく、かたくて幽玄な能を鑑賞している能楽堂の客のくぐもった笑いと反応が、同じ柳亭市場の語りでありながら、演芸場のあっけらかんとした客の爆笑とは、微妙に違っていて、私には、その差が非常に興味深かった。

   さて、市場は、落語では、非常に繊細で微妙な問題を含んでいるので、宗教に関する話題は避けているのだと言っていたのだが、やはり、ことの始まりは、狂言の「宗論」であろう。
   歌舞伎でも、「連獅子」の後半部分に、この狂言が脚色されて挿入されていて、法華宗の僧・蓮念と浄土宗の僧・遍念が登場して、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」との珍妙な宗論が展開されていて面白い。

   狂言の「宗論」は、シテ/浄土僧は山本東次郎、アド/法華僧は茂山七五三、アド/亭主は山本則俊で、冒頭5分の囃子の楽が奏されて、一時間にも及ぶ大作であり、あらすじは、次の通り。
   身延山に参詣した本国寺の法華僧が、京都への帰途、信濃の善光寺に参拝した帰りの黒谷の浄土僧と道連れになる。互いに犬猿の仲の宗派とわかり、法華僧は別れたがるが、浄土僧は離れない。2人は互いの相手の宗派を嫌い、数珠を相手の頭上にかざし合う。法華僧が、別れたくて宿に逃げ込むのだが、浄土僧も追って入り空き部屋がないので同室し、一晩中宗論(宗派間の優劣論争)をして負けた方が宗旨替えすることにし、法華僧は「五十展転随喜の功徳」、浄土僧は「一念弥陀仏則滅無量罪」と、二人共、でたらめな解釈の話に仕立てて捲し立てる。論争は勝負がつかず、2人とも寝込む。翌朝、二人は、競って読経と勤行を始めるのだが、浄土僧は「踊り念仏」を、法華僧は「踊り題目」を始めて廻り出して、調子に乗って浮れている間に、2人はうっかり、それぞれ相手の文句を唱えていることに気付いて絶句。遂に、「法華も弥陀も隔てはあらじ」と悟って仲直りする。

   最後には、浄土僧「げに今思ひ出だしたり、昔在霊山名法華、法華僧「今在西方名阿弥陀、浄土僧「娑婆示現観世音、法華僧「三世利益、浄土僧「三世利益
  両者「一体と、この文を聞くときは、この文を聞くときは、法華も弥陀もへだてはあらじ、今より後はふたりが名を、今より後はふたりが名を、「妙阿弥陀仏」とぞ申しける。と、ハッピーエンドで終わる。

   聞くところによると、当時は、両宗派とも新興で、両派間の競争が激しく、京都で勢力を持っていた法華宗は、都会的ではあるが、計算高くて強情で頑固、浄土宗の方は地方に深く根を下ろしていたので、朴訥だが田舎臭い、と言うことで、
   この狂言でも、浄土僧は、厚かましくて相手をからかおうとする余裕のある態度を示し、法華僧は、一途さに徹して、無意味な争いごとは避けたいと逃げまわる。
   丁度、アクティブな東次郎の浄土僧と、京都のスリムでインテリ風の七五三の対比が面白く、東次郎に数珠を頂かせられて防いだ笠を、数珠で擦って必死になって拭い清める七五三の仕草の面白さなどは、格別である。

   室町後期には、法華と浄土との優劣を争う論争は、激しかったようで、信長が臨席した安土宗論は有名である。
   現実はともかく、庶民には、良く分からなかったのであろう、この狂言のように、蒟蒻問答と言うか、意味不明の宗論を戦わせて、結局は、浄土僧と法華僧の対立もどちらも同じと締め括って、宗教争いの愚かさを笑い飛ばすと言う面白さ。
   柳亭市場の言うような心配は、古典芸能の世界では、あまりなく、まして,熊さん・八っつぁん の世界では、心配ご無用と言うところであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

”FT:的を外すアベノミクス  「3本の矢」は1本のみ”への雑感

2014年08月29日 | 政治・経済・社会
   日経特約で、FTの「的を外すアベノミクス  「3本の矢」は1本のみ」と言う記事を紹介している。
   要するに、円安誘導には成功したが、他の2本は不発で効果がなかったと言うことであり、 一時、期待されて上昇した株価が、下落して低迷しているのが、何よりの証拠だと言う。

   アベノミクスは、かっては有効な公式だったが、最早その効果はないとして指摘しているのは、日本の製造業が、生産拠点の多くを海外に移転させており、かつ、その優位性を失って国際競争力が低下してしまったこと、そして、日本製品を好んでいた日本の消費者も魅力を感じなくなったことだと言う。
   もう一つ指摘しているのは、抜本的な構造改革に取り組むと言う約束を果たさず、労働者の賃金が上昇しないために、内需へのシフトが起きなかったことである。
   円安誘導したにも拘らず、輸出が思うように伸びず、国際収支の好転も望み薄で、国内の内需が伸びず、第二の柱の財政出動が不十分だと言うことで、肝心の経済を牽引する筈の需要が伸びないのであるから、アベノミクスが足踏み状態であるのも当然だと言う訳である。

   日本の製造業の、海外シフトと競争力の低下による日本経済への貢献度と影響力については、今昔の感で、グローバル経済の発展と国際社会の構造変化によって、最早、グローバル経済のみならず日本経済においても、牽引力としてのパワーは消えてしまったと言うことでもあろうか。
   従って、円安誘導も、企業の業績を嵩上げしたものの、生産性のアップや競争力強化などには短期的当座の効果しかなくなく、輸出牽引型の経済成長は、望み得なくなったと言うことであろう。

    また、日本の製造業の競争力強化にとっても、外資の導入を加速して経済成長を促進するためにも絶対に欠かせないのは、法人税減税であろうが、活力が鈍った経済ゆえに、実施するためには、穴埋め財源を確保するべく、政府が汲々としなければならない。
   アベノミクスの中だるみ現象が、その象徴かも知れない。

   この法人税減税だが、ウォーレン・バフェットが、企業買収に伴う「タックス・インバージョン」(納税地変換)に関与したと報道されたニュースを考えれば、日本にとっても喫緊の問題になったのではなかろうかと思う。
   かなり、愛国心の強い筈のバフェットが、米ファストフードチェーンのバーガーキング・ワールドワイドが、コーヒーとドーナツを主力とするカナダのティム・ホートンズを114億ドルで買収し、本社をカナダに移転する計画に関わったと言うのだが、真偽はともかく、法人税最高のアメリカから、はるかに安いカナダへ本社を移転すると言うのは、「タックス・インバージョン」(納税地変換)による節税であることは、一目瞭然である。
   「反米的」な慣行だと喚いて見ても、オバマ大統領がインバージョンを追い求める企業を「脱走兵」にひとしいと断じてみても、最高税率を避けたいのは誰も同じで、これがグローバル化したマーケットメカニズムの必然であり、まして、情け容赦のないアメリカ資本主義の成せる業であるから、止め得ないであろう。

   尤も、日経は、
   バーガーキングのケースでは、納税地をカナダに移した場合、バークシャー・ハザウェイが支払う税金の額は逆に高くなる。事情に詳しい関係者によると、カナダでは優先株30億ドルへの配当に、海外配当への税率35%が適用される。米国では14%の税率ですむため、年間6000万ドルの税額増になる。と報じているので、前述の節税論は、一般的な話として理解しておこう。
   しかし、私が問題にしたいのは、日本のMNCのみならず、優良企業のかなり多くは、海外投資家の持ち株比率が高くなっていて、言うならば、外資企業化しつつあり、株主からすれば、会社に利益の向上&株主価値の向上の為には、日本本社を、海外に移して、「タックス・インバージョン」(納税地変換)による節税メリットを享受せよとするのは当然の要求だと言っても過言ではなかろう。
   富豪の日本人が、資産の海外移転を積極的に行っていると報道されているのだが、バフェットさえ動き出したのだから、日本でも、企業の海外脱出が起こっても不思議はなかろう。
   とにかく、激変極まりないグローバル経済には、何が起こるか計り知れない。
   にも拘らず、日本の政府なり企業のレスポンスがあまりにも遅くて稚拙なのである。

   ところで、FTの記事は、4番目の矢として、軍国主義が復活しないように願いたいと、安倍内閣の軍事外交の強化政策を警戒している。
   出来るだけ摩擦は避けるべきで、基本的には平和外交に徹すべきだとは思うが、私自身は、むしろ、平和ボケの日本から脱皮して、本来日本があるべき姿に近づいて来たような気がしているのだが、どうであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネスレ:マシン無償貸出商法

2014年08月28日 | 経営・ビジネス
   日経が朝刊で、「ネスレ、コーヒーマシン無償で50万件 20年までに3倍 」と言う記事を掲載した。
    ネスレ日本は独自開発のコーヒーマシンを活用してコーヒー需要を開拓する。企業向けのマシン無償貸し出しで運輸業界や高齢者施設などへの設置を始め、顧客数を2020年までに現在の3倍の50万件に増やす。マシンを使った簡易カフェも2倍以上の4千店にする。コーヒー粉の供給で収益を上げる。多様なルートで消費者との接点を増やし、即席コーヒーの販売増を目指す。のだと言う。

   私は、「ネスカフェ ドルチェ グスト」のサーコロを使って、カフェラテを楽しんでいるのだが、非常に便利で、スターバックス並のコーヒーが、殆ど瞬時に出来上がるので、非常に重宝しているのだが、この企業版のコーヒーマシンのサービスなのであろうか。
   日頃は、メリタのコーヒーマシンを使って、UCCのブルーマウンテンブレンドを抽出して飲んでいるのだが、この二種類で、それなりのコーヒーを楽しめるので、便利になったものである。

   さて、私が、ここで問題にしたいのは、機器をタダないしタダ同然で消費者に提供して、その機器のために、特別に開発した資材や材料をセットして、殆ど客を囲い込んで、独占的に売り込もうと言う商法である。
   この商法は、差別化した商品を開発して、他の追随を許さないようなビジネスモデルであれば、非常に有効であり効果が高い。

   フィルムとカメラの関係を考えれば、分かり安いのだが、銀塩カメラの時代には、フィルムメーカーとカメラメーカーとは、完全に分離していて、独立業種であった。
   したがって、カメラメーカーは、いくら素晴らしいカメラを作り出しても、一回限りの販売で、恒常的に消費されるフィルム需要は、総てフィルムメーカーに持って行かれて、漁夫の利を奪われていた。
   当時は、フィルム産業は、カメラ以上に寡占状態で、カメラメーカーからの参入は無理であったのかも知れないが、今のように、M&Aが簡単にできて、独占を打ち破ることも難しかったし、夫々の産業が、それなりに成長し続けていたので、その発想もなかったのであろう。

   しかし、パソコンが主役のデジタル時代となると、キヤノンのケースのように、カメラを製造販売するだけではなく、プリンターをも活用して、インクや写真用紙など、川下の消耗品(昔のフィルム)まで囲い込んで、商機を拡大した。
   エプソンの場合にも言えることだが、純正のインクや写真用紙の販売に力を入れて、互換性の利く他社の製品を排除しようとしているくらいである。

   カメラはともかく、プリンターなどは、インクや写真用紙など、継続的に消費され続ける関連資材で売り上げを計上して利益を上げるために、赤字を覚悟だと思えるような安い価格で機器は売られていて、ビジネスモデルは、消耗品の継続販売のための囲い込みに重心が移っている。
   自社製品にしか使えない消耗品を売り続けると言うビジネス・モデルなのだが、何しろ、その消耗品が高いので、技術的に参入障壁が低いことを良いことに、独占を破って進入しようとする、特に、インクメーカーが、ネット販売だと、極端にも、何分の一かの安い価格の商品を開発して勝負を挑んでいる。
   大型量販店でも、堂々と、純正製品と並んで安い互換性の利くメーカーのインクが売られていて、キヤノンやエプソンの独占を打ち破っている。

   私の経験では、日常的な短期的な使用ならそれ程差は出ないが、退色や変色がかなり著しくて、百年プリントを売り物にしているキヤノンやエプソンの純正製品とのクオリティの差は歴然としていて、安物買いの銭失いの悲哀を味わうことになる。
   しかし、参入メーカーの質的キャッチアップも時間の問題でもあり、純正製品の異常とも言うべき価格の高さは問題であって、川下サービス精神の発露ならともかく、消耗品で儲けようとする近視眼的なビジネスモデルを維持しておれば、早晩、顧客に嫌われるのは必定であり信用を落とすだけである。

   さて、ネスレの商法は、この機器を安く売って顧客を囲い込んで、消耗品たる資材を売り続けようとするビジネスモデルそのものである。
   昨年、私が「ネスカフェ ドルチェ グスト」サーコロを買った時には、サービス品がついて7,000円くらいであったが、今、HPを見ると、グレイドアップしたのかも知れないが、\19,377(税込)になっていて、大分、機器販売が普及して顧客を囲い込めたと考えての値上げと言うか、本来の製品価格に戻したと言うことであろうか。
   いずれにしろ、かなり、差別化された質の高いイノベーション商品なので、今のところ、他社からの参入は難しそうであり、今回の報道のように、良質なコーヒーが、職場などで、非常に簡単身近に楽しめると言うことになると、囲い込み戦略の効果は、遥かに実現可能である。
   

   ネスレ日本のマシン貸し出しサービスは、オフィスなどでの缶コーヒー需要を奪う可能性があり、簡易カフェも、低価格の喫茶店と顧客層が重なっており、コンビニコーヒーを交えたコーヒー市場の顧客争奪戦が一段と激しくなりそうだ。と言うのだが、最近は、狭義の異業種間競争が激しくなって、」どんな業種や企業から、市場に参入されて駆逐されてしまうか分からない。

   外食産業での激烈な競争で、トップが一気に窮地に立つように、先日論じた、リタ・マグレイスが「競争優位の終焉」で説いたように、急変する不安定と不確実性が常態となった経営環境で勝ち抜くためには、企業経営者は、束の間の好機を迅速につかみ、確実に利用してこの潮流に乗るために、「一時的な競争優位」に基づく経営戦略を確立して、経営のかじを急旋回しなければならない。
   おちおちと旧態依然たるビジネス・モデルにしがみ付いてはおれない筈で、まして、本体の機器を捨て値で売って、顧客を囲い込んで、高い消耗品を独占的に販売して儲けようとするような商売などが、長続きするはずがないと思っている。

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランスの経済的不平等

2014年08月27日 | 政治・経済・社会
   先に、ピケティの「21世紀の資本論」で論じられている経済格差の拡大について取り上げたが、本国フランスの現状はどうなのか、エルヴェ・ル・ブラーズとエマニュエル・トッドの近著「不均衡と言う病気」で、人口問題の専門家である二人が、フランスの人口動向を分析しながら、非常に興味深い論評を行っているので、取り上げてみたい。

   OECDが、警告を発したのはジニ係数の悪化と、国民所得のうち給与の少ない10%が取得する部分に対して、最も恵まれた10%が取得する部分が増大し経済格差が拡大していると言うことであったが、トッドたちが問題にするのは、トーマス・ピケティに賛同して、10%の富裕層と言うよりも、上位の1%なり0.1%なり0.01%なり、もっと高い所得分布の特殊な変遷を問題にすべきだと指摘している。
   上位10%の所得の増加は、その大部分は上位1%の所得の増加に引きずられて上がっているので、下位の9%のプラスの変化は慎ましやかであって、実業界のCEOや歌手、俳優、サッカー選手と言った高額所得者は、超富豪の資本家階級の恥部を隠すイチジクの葉に変えられているだと言う。

      人口分布図で、この上層1%のものが国土のある1点に集中していることは事実だが、その影が全国システムの全体に及んでいるのを決して忘れてはならないと言う。
   何故、超富裕層が存在するのか。
   1789年のフランス革命や戦後の平等主義時代などによって上流中流階級は、大衆から切り離されたり接合されたり変遷を辿ったものの、かっての貴族階級は、民衆から切り離されていただけではなく、社会の政治的な均衡の根源である上流中産階級からも切り離されて存在して、富と権力を温存しているからだと言う。
   フランス革命で、貴族など特権階級が崩壊して、学閥が取って代わり、ポリテクやエナなどの高等教育を受けて特権階級に上り詰めた人々が、フランスの今様貴族だと思っていたのだが、そうではなかったと言うことであろうか。
   社会党のオランドが、暗に、この1%ないし0.1%の富裕層を指名して大統領に当選したのだが、これこそ、フランス社会の主要な問題だと言っているのが面白い。

   余談ながら、ジニ係数だが、真っ先に増加したのは、アメリカとイギリスだが、1980年代末になると、不平等が全般化して、2000年代初頭には、ドイツ、北欧のような全般的に平等主義的な国々まで及ぶようになった。
   しかし、ドイツが悪化したとは言え、やっと、フランスの水準0.3に達したに過ぎず、スカンジナヴィア諸国は、0.25で、依然として最も平等な国だと言う。

   さて、この本は、フランスの風俗習慣システムの多様性と活動性を明らかにして、文化的複合性と言うフランスの普遍的理念を検証しようとしているのであるから、格差拡大の検討においても、多岐に亘っていて面白い。

   不平等を説明する変数として、重要なのは、第一の決定要因は教育であり、第二の決定要因は宗教、もしくは、宗教の不在だと言う。
   不平等は、益々、教育水準の低い地帯に広がって行き、それらの地域それ自体が、フランスの国土の中で脱キリスト教化された地域だと言う。
   もう一つの興味深い指摘は、平等主義を標榜して社会主義を推進していた共産主義が強かった地域で、共産主義と平等の実践との間の乖離故か、不平等化が強く出ていると言う。
   具体的な平等は、革命の企ての平等主義的個人主義が君臨してきたフランス中央部よりも、個人を強固にするフランス周辺部の社会統合主義的社会の中に、より保存されて来たと言うのが現実だと言うから、非常に興味深い。

   ドイツ圏やスカンジナヴィアの諸社会は、平等主義的な人類学的・宗教的基盤を一度たりとも全く持たなかったにも拘わらず、より平等社会を維持すべく必死だったフランス社会の方がより不平等と言う逆説。この逆説の解決には、政治の場における平等と言う価値の作動の仕方を検討するする必要があるとトッドは言う。
   しかし、アラブ系やアフリカ移民の流入など深刻な人種問題を抱えており、極右政党が政治勢力として大きく台頭してきたフランスだが、格差の拡大同様に、EUの中核としてのフランスの政治経済社会の動向が大いに注目されて来ている。

   この本は、スイス国境地帯に富裕層が集まるとか、非常に興味深い論点が色々展開されていて興味が尽きないが、全巻を読んでいないので、これ以上深入りは避けたい。
   添付の口絵写真は、ジニ係数や富裕層所得分布など分析局面の原資料の一部で非常に示唆に富んで興味深い。
   人口統計学を駆使した人類学的・宗教的基底の分析ではあるのだが、国家・国土の生きた姿が浮き彫りにされるので、日本にも適用すれば、非常に面白いと思われる。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リタ・マグレイス著「競争優位の終焉」

2014年08月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の原書タイトルは、
   ”The End of Competitive Advantage: How to Keep Your Strategy Moving As Fast As Your Business”訳書のタイトルが、サブタイトルも含めて、原書に近いと言う稀な経営学書で、それだけ、著者のリタ・マグレイスの論旨が明確だと言うことである。

   激変するグローバル経済下の、急速な変化が絶間なく続く経済経営環境においては、最早、これまでの経営戦略の核であった持続する競争優位の確立と言う戦略のフレームワークやツールは時代遅れとなった。
   急変する不安定と不確実性が常態となった経営環境で勝ち抜くためには、企業経営者は、束の間の好機を迅速につかみ、確実に利用してこの潮流に乗るために、「一時的な競争優位」に基づく経営戦略を確立して、経営のかじ取りを切り替えなければならない。
   企業の持つ優位が、競争を通じてあっという間に消えてしまう「超競争」時代に突入してしまった以上、これまでのように「持続的競争優位」にしがみ付くのではなくて、「一時的競争優位」を前提にした経営戦略への転換が急務であると説きつつ、そのために、イノベーション経営志向を目指したダイナミックな経営手法を大胆に提言したのがこの本で、非常に示唆に富んでいて面白い。

   ”瞬時に強みが崩れ去り、中核事業が消えうせる――旧来の常識が通用しない時代の新しいツールを提唱する。”と言うことであるから、「五つの競争要因」のマイケル・ポーターや、「コア・コンピタンス」のハメルやプラハラードの持続的競争優位論に頼っているだけでは、生き残れないと言うのである。
   
   クリステンセン(Clayton M. Christensen)が、「リタの戦略へのアプローチは、新鮮で実際的であり、正に、経営者が今日必要とするもの。競争の現実を明確にし、その対処法を示している。この本は、これまで読んだ本の中で、破壊(disruption)について書かれた最も啓発的なものの一つだ。」とレビューしている。(日経の本の帯には、「破壊」を「競争」と誤記しているが、ぶっ壊しであって、破壊DISRUPTIONであるからこそ、クリステンセンもマグレイス教授もその理論が貫徹するのである。)
    "As a long-time member of the Rita McGrath fan club, I was delighted to see this book. Her approach to strategy is fresh and practical and is exactly what managers need today. It acknowledges competitive realities but shows a clear path forward. It is one of the most illuminating takes on how to deal with disruption that I have ever read."
   マグレイス・ファンクラブの常連だと言うのが面白いが、クリステンセンの一連のイノベーション論を、更に進めて、実際の経営戦略を論じているのであるから、こう思うのは当然であろう。

   リタ・マグレイスのコロンビア大や自身のHPなどにアプローチすると、更に詳細なマグレイス教授の学業状況や動画の講義などにもアクセスできて面白い。
   マグレイス教授は、私が学んでいた頃のウォートン・スクールで現役だったエイコフ教授Russell Ackoffが設立したSol C. Snider Entrepreneurial Research Centerで学び、その学位論文が、Developing New Competence in Established Organizations consistent with her longstanding interest in corporate ventures and innovation」で、博士号Ph.D. at The Wharton School を得ていることに非常に興味を持ったのだが、私の頃には、ベンチャーもイノベーションもテーマにした講座さえなかったので、今昔の感である

   さて、このマグレイス教授の理論展開の基礎となったのは、『例外的企業調査』で、世界的証券取引所上場の時価総額10億ドル以上の企業の中から、2000年から2009年までの10年間で、収益と純利益を毎年5%以上伸ばした企業10社を調査して、金融危機・世界的経済不況と言う経営環境にありながらも、なぜ、このように驚異的な成長を遂げ得たのか。
   共通して推進していた結論的な戦略は、
   会社の方針い沿った長期的な展望を具えているだけではなく、現在行っている如何なる活動も、将来を約束するものではないと認識していた。とりわけ、ビジネスモデルに関して、それらの企業は途方もない内部の安定性を保つ一方で、途方もない対外的な俊敏性(アジリティ)を発揮する方法を見出して実行していた。と言うことである。

   この本で興味深かったのは、冒頭、富士フィルムの時代を先取りしたマグレイス教授の優等生的なビジネス展開に触れ、王者であった同業のコダックの凋落と対比しながら語っていることで、コダックのお粗末な経営、業績悪化、新製品導入の拙さ、低い士気などなどに言及し、何故、これ程詳しいのか、企業再編のとばっちりで退職した偉大な科学者であったギュンターが、実は、実父であったと言うくだりである。
   余談だが、このコダックの凋落は、正に、リチャード・S・テドローが、「なぜリーダーは「失敗」を認められないのか」で論述していた「眼前に展開されている時代の潮流や業界の動態などの真実・事実を直視できずに否認して、独りよがりの経営を展開して企業を窮地に追い込んだ」典型的な経営の成せる業であろう。
   マグレイス教授の理論の対極にある世界である。

   経営が悪化して、再建再生に呻吟している日本の大企業の経営者が、この本を読めば、凋落の必然性と自業自得であることを自覚し、背筋が寒くなる筈である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国が支援:「買い物難民」に宅配サービス

2014年08月24日 | 政治・経済・社会
   讀賣電子版に、”「買い物難民」に宅配サービス…費用を国が支援”と言う記事が掲載されていた。
   政府は、人口減が進む地域の「買い物難民」対策として、高齢者らの自宅に食材や日用品などを届ける新たな宅配サービスを始める。と言うことである。

   私たちの場合には、「買い物難民」と言う訳ではないのだが、鎌倉移転と同時に、自動車を処分してしまったので、まとまった買い物は、アメリカ流に、毎週1~2回、スーパーなどに行ってまとめ買いをして、それ以外には、園芸店やショッピングセンターなど、必要に応じて買い物をしていたのが出来なくなった。
   尤も、1キロ以内に、CO-POやコンビニがあって、食品や日常必要なものの買い物には、不自由がないので、それ程苦労もしていないが、アクセスが、かなり急な坂道なので、多少重いものを持ち運びする時には、楽ではない。

   CO-POで、午前中なら、確か、5キロオーバーの買い物なら、300円程度で、宅配便で、その日に送り届けてくれる。
   もう一つは、おうちCO-POと言うシステムがあって、マークシートに記入したり、インターネットに打ち込んで注文をすれば、僅かの送料で、毎週車で配達してくれる。
   これを利用すれば、まずまず、日常の買い物には不自由しない。

   ガーデニングセンターやショッピングセンターなどでの大型の買い物については、近くに娘たち家族が住んでいるので、適当に世話になっている。
   いずれにしても、千葉に居た時のように、何でも、気が向いた時に、車に乗って買い物に出かけると言う利便性と楽しみ(?)を享受できなくなってしまったことは事実である。
   やはり、私自身は、昔、新宿の大久保駅の近くの社宅に住んでいたのだが、あの時の様な、駅前商店街が賑わっていて、何でも、地元で調達できると言う住環境が一番良いような気がしている。

   この政府の見解なり対策については、好ましいことだと思うが、根本的な問題は、
   有識者らでつくる政策発信組織「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也元総務相)が発表した「2040(平成52)年に若年女性の流出により全国の896市区町村が「消滅」の危機に直面するとして、地域崩壊や自治体運営が行き詰まる懸念があるので、東京一極集中の是正や魅力ある地方の拠点都市づくりが必須であると提言した、日本の人口問題や地方行政など政治経済社会体制を襲っている深刻な問題にあると言う認識である。
   老人ばかりの「限界集落」などは、悲劇の極みだが、このあたりの国土対策を解決しない限り、日本の明日は暗い。

   ところで、最近では、ネットショッピングの普及で、殆ど、どんなものでも、比較的安く、かなり、早く便利に、宅配便で手に入る。
   大型のものと言えば、最近、屋外の大型の物置を2棟、インターネットで、調達したが、全く問題なく設置されて機能している。
   変わったところでは、椅子の張り替えも、ネットで業者を選んで、宅配便で送って立派に安く仕上がった。
   カメラでも家電製品でも、自転車でも、型番などが確定しているメーカー品なら、ネットショッピングに限ると思ってさえいるほどで、株からチケットの手配から本から、とにかく、私の場合には、リアル店舗を利用するよりも気楽であるような気がしている。
   

   さて、政府の案だが、
   ”具体的には、まず消費者がスーパーや集配拠点などに電話やインターネット経由で商品を注文する。物流業者やNPOがスーパーなどから商品を集配拠点にいったん運び、さらに各家庭に届ける方式などを想定している。”
   と言うのだが、車を運転できない高齢者らが、間違いなしに、パソコンや電話で注文できるのであろうか。

   私は、むしろ、商店やスーパーなどとタイアップして、買い物専用のコミューターバスを走らせて、買い物客に直接ショッピングのチャンスを与えた方が良いと思っている。
   老人が移動で苦労するのは、何も、買い物だけではなく、病院へ通ったり、所用のために外出するための足に困っているケースが多いので、気楽に外出できるような交通手段を、出来るだけ利便性を考慮して整備することであろう。
   現在、これをタクシーがやっているようだが、総ての老人たちが、振り込め詐欺にあって、送金できる余裕のある人ばかりではない筈なので、とにかく、限りなくタダに近いシステムが望ましい。

   このための一例だが、イギリスに居た時に、個人の車が、ミニキャブとしてタクシー代わりに使われていたことがあったが、これの応用である。
   ボランティアであろうと暇人であろうと、空いている個人車があれば、センターに登録して置いて、希望者があれば、タクシーとして走れると言うシステムで、一定の固定料金を決めておけば問題なく、政府が補助するのなら、その料金を払えば良いのである。

   私が住んでいるこの鎌倉の住宅地も、前に住んでいた千葉の住宅地も、一戸建て主体の大きな住宅地で、急速に老人化が進んでいて、これから益々足の必要性が増すことは必定であり、安くて便利な公共の交通サービスの必要性は急務である。
   尤も、日本には、業界団体なり政財官のトライアングルの圧力団体があって、民業圧迫だとか何とか言って、叩き潰されるのがオチではあろうが、車を運転できない高齢者らが電話をすれば、すぐに使える安くて(あるいは政府が払うのでタダの)便利な車を用意すべしと、言うだけは言っておきたい。

   六十代で自由の身の矍鑠とした人の運転なら安心であろうから、地方公共団体が、ワゴンカーを用意したり、自分の車を活用したりして、ボランティア運転手になって貰えば、コミュニティーも活性化する筈である。
   待機児童の問題もそうだが、待たなければならないと言うのは、需給関係が歪であるためであって、政府がその気になって手を打てば、簡単に解決できる筈で、やる意思と能力(と言うよりもやるための智慧)がないだけで、市場経済原則から言っても完全に反していると、私自身は思っている。
   公共サービスの需要がありながら、それを、市場経済上に有功に取り込めなくて経済化できないと言うのは、政府公共団体の怠慢以外の何ものでもないと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立能楽堂・・・能「雷電」

2014年08月23日 | 能・狂言
   観世流の能「雷電」は、シテの菅丞相と雷電を観世銕之丞、ワキの法性坊僧正を則久英志で、非常に緊迫した迫力のある舞台が展開されて興味深かった。
   この能は、主人公が菅丞相、すなわち、菅原道真であり、歌舞伎や文楽とは違った天神様の物語となっていて、興味深い。
   左大臣藤原時平の讒訴によって、菅原道真は、権帥として大宰府へ左遷されて現地で没したのだが、死後に、天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとする逸話にテーマを取って、道真の怨霊が、雷電となって、内裏を舞台に暴れまわる、スペクタクルの能となっている。

   日頃、歌舞伎や文楽で、仁左衛門や、玉男や玉女の遣う神性を帯びた崇高な姿の菅丞相ばかりを見ていて、神様となった道真の印象があまりにも強いので、一寸、新鮮な能の舞台だが、むしろ、人間菅原道真の実像を見ているようで、面白かった。
   尤も、文楽でも、
   四段目の「寺子屋」などの前の段、「天拝山の段」で、菅丞相が、大宰府配流の途中時平の謀反を知って、形相を一変させて帝を守護するために生霊の雷神と化して都へ飛んで行くシーンがあり、大詰の「大内天変」で、都では雷神が荒れ狂って天変地異が続き、藤原時平一味は雷に打たれて死に絶え、桜丸と八重の亡霊が時平を責め苛んで殺し、菅秀才は菅家の再興を帝に許され、菅丞相も天満大自在天神として祀られると言う結末で、この逸話を踏襲しているのだが、上演が少ないので、「筆法伝授の段」や、「丞相名残の段」の神様然とした丞相ばかりが目立つのであろう。
   先の住大夫引退興行の「天拝山の段」で、玉女が、雷神と化した豪快な菅丞相を遣って感動的であったのだが、私が丞相の雷神姿を見た唯一の舞台である。

   さて、今回の舞台は、観世銕之丞家の舞台であり、銕仙会のHPの曲目解説を借用すると、概要は、次の通り。
   比叡山の法性坊(ワキ)のもとにある夜、菅原道真の霊(シテ)が訪れ、生前師弟であった二人は再会を喜ぶが、道真は雷神となって内裏に祟ること、そのとき参内の勅命があっても従わないで欲しいことを法性坊に告げる。法性坊がそれを断るや、道真は顔色急変して鬼の形相となり、柘榴を噛み砕いて火を吐くと姿を消してしまう。やがて法性坊が内裏に召されて祈祷をしていると、雷神となった道真の怨霊(後シテ)が現れ法性坊と戦うが、最後には法力に屈して去ってゆく。

   替装束の小書きはなかったが、前シテは十六の面をかけ、単狩衣を着て指貫袴姿、後シテは獅子口の面をかけて赤頭をつけ、袷狩衣を着て打杖を持ち豪快な雷神の姿で、夫々、右大臣として高位高官に上り詰めて、尚且つ、最高の知識人であるので、風格と威厳を秘めた格調の高さを示すと言うことであるから、非常に緊張した舞台であった。

   特に後場は、威儀を正した法性坊が紫宸殿に座し、数珠を押しもみ『法華経普門品』を唱えて祈祷しているところへ雷神と化した菅丞相が現れ、法性坊が「昨日まで臣下であった身で内裏を荒らすとは不届きである」と責めるが、雷神は「陥れた人々に思い知らせてやる」と暴れ回るのだが、二人の対話はこれまでで、後は地謡だけで、宮中での激しいバトルから、法性坊の千手陀羅尼に抗し切れずに、雷神が「仏法の力にあずかり、天満大自在天神という神号を帝から頂いて、生前の恨みも死後には晴れて悦びとなった」と言って、黒雲に乗り、空高く飛び去って行くまでを、謡い通すナレーションの展開だけと言う演出が、私には新鮮で心地よかった。
   雷電は、一度揚幕前で少し立ち止まるが、舞台から勢いよく橋掛かりをダッシュして袂を翻して揚幕に駆け込んで終わる1時間の舞台だが、歌舞伎や芝居などと違って、能は、間合いが短くて、一気にシーンが展開し、鑑賞者の想像をインスパイアする舞台芸術なので、非常に内容が深く濃い。
   このあたりは、シェイクスピア戯曲の舞台に相通じるところがあって興味深い。

   ところで、私など初心者にとっての見所は、後場の雷神と法性坊との丁々発止の戦いのスペクタクルシーンで、舞台左右に、紫宸殿や弘徽殿などに仕立てられて置かれた二つの一畳台を入れ代わり立ち代わり渡り合って、「我劣らじと、祈るは僧正鳴るは雷、揉み合い揉み合い追っ駆け追っ駆け、互ひの勢ひ喩へん方なく恐ろしかりける有様かな」と、方や数珠他方は打杖を構えて、飛び回る。

   菅丞相の雷神が、都内裏で恨み辛みを爆発させればかくアリなんと思われるようなショー化した舞台と言うべきか、静かで殆ど動きのない能舞台としては、格別なシーン展開である。
   銕之丞師の足踏みの迫力や激しくもリズム感豊かな流れるような舞台を観ていると、先月の納涼祭で見た「土蜘蛛」の印象も強烈であったので、是非、豪快で骨太の安宅の弁慶を見たくなった。

   菅原道真については、自らの著作もあり、多くの記録が残っているので、夫々に、かなり明確なイメージが組み立てられているのだろうが、能では、この「雷電」のほかに、主なところでは、「菅丞相」「一夜天神」などがあるようである。
   北野天満宮や太宰府天満宮の天神信仰については特別であろうが、私にとっての菅原道真は、単なる歴史上の人物であって、歴史的な常識程度の知識しかなく、歌舞伎や文楽でのイメージの方が強いかも知れない。
   近松門左衛門の「天神記」が、浄瑠璃本に影響を与えているのだろうが、オリジナルの近松バージョンの菅丞相を見る機会があれば、と思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディズニー・オン・アイス

2014年08月22日 | 映画
   横浜アリーナで行われているディズニー・オン・アイスを見に出かけた。
   孫を連れて行くと言う次女夫妻に誘われたのである。
   アイス・ショーは、一度くらいは、外国でだったと思うが、見た記憶があり、フィギュア―は、NHK杯だったか、一度だけ見に行ったことがあるが、殆ど鑑賞経験はない。

   ディズニー・オン・アイスは、WOWOWでは見ているのだが、実際のアリーナで見る臨場感は、また別で、丁度、大相撲をテレビで見るのと国技館で見るのとの違いに近い驚きがあって面白い。
   勿論、映画やテレビで見る方がディテールは良く分かって良いのだが、視点が一点から一点しか見ていないので、一点からではあるものの、多点を移動しながら立体的に見えるので、私自身は、出来れば、やはり、舞台でもスポーツでも、実演を見なければならないと思っている。

   さて、このディズニー・オン・アイスは、ディズニー映画のシンデレラ、白雪姫、そして、ラプンツェルを、ダイジェスト版のアイス・ショーに仕立てたもので、登場するスケーターたちは、映画そのものの姿かたちで現れて、演じるので、実に分かり易く楽しい。
   いわば、ディズニーランドで繰り広げられるパレードを劇場版にしたものだが、物語となっているので、その意味では動きがあって良い。

   このシンデレラも白雪姫も、私は、小学生だったか中学生だったか忘れたが、毎月、宝塚大劇場で実施される映画鑑賞会で見た。
   眠れる森の美女や不思議の国のアリスなどのほかにも、「砂漠は生きている」と言ったドキュメンタリータッチの映画もあったし、私には、夢と希望を与えてくれる貴重な体験であった。
   ディズニー映画のない月には、お伽噺風の宝塚少女歌劇の舞台を見せて貰った記憶がある。
   今は、素晴らしい劇場に変わっているようだが、この宝塚劇場は、その後、一度だけ、ディビッド・オイストラッフのヴァイオリン・コンサートを聴きに言った記憶はあるのだが、あの武庫川河畔のしっとりとした佇まいの宝塚は、私の青春の故郷であり、涙がこぼれる程懐かしい。

   余談が過ぎたが、綺麗で流れるように軽やかなこのアイス・ショーを見ていて、つくづく、ディズニーは大した人物だと思った。
   ウオルト・ディズニーと言う電話帳ほどもある大部の本を途中まで読んで積読にしているが、幸い、アメリカに居た時に、ロサンゼルスとフロリダのディズニーランドを訪れ、パリのユーロディズニーにも行ったのだが、その夢を育む娯楽性の豊かさと、そのスケールは桁違いである。

   ディズニーの物語には、当然、魔女も出てくればお化けも出て来るし邪悪な悪人も登場するのだが、どこか、底抜けに明るい夢と希望が渦巻いている。
   孫たちと、日本昔話のアニメを見続けて来たのだが、どこか暗くて土俗性の強いあの民話なり日本古来のお伽噺には、スケールの大きな希望なり勇気を子供たちにインスパイアーするような要素があるようには思えないのである。

   今日のアリーナの観客の大半は、小さな子供、特に、幼い女の子たちで、若い母親が付き添って来ているケースが多くて、私たちのように老人など皆無に近い。
   さて、その小さな女の子たちが、思い思いに、シンデレラや白雪姫などディズニーのキャラクターの衣装を着けて大挙して来ていて、可愛いのみならず、正に、このショーが、幼児たちのハレの舞台を提供しているのである。
   ティーン・エイジャーの女の子や若いお母さんたちにも、ディズニーキャラクターやそれにマッチしたドレス風の衣装を着けて来ている人もあり、言うならば、能や狂言の鑑賞のために能楽堂を訪れて来る和服の婦人客の雰囲気である。

   さて。料金だが、S席(大半がS席)3歳以上の子供が4800円、大人が6000円。
   国立能楽堂の国宝級の能楽師が登場する定例公演のチケットよりも高いのだが、広大な横浜アリーナの客席が殆ど満席で、小さな子供たちで溢れている。

   客席から撮ったスナップを少し掲載しておきたい。
   
   
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国のデジタル・ライフ

2014年08月21日 | 政治・経済・社会
   今日の日経朝刊に、「ネット依存」420万人と言う厚労省調査記事が掲載されていて、パソコンやスマホに没頭する「インターネット依存」の傾向のある成人男女が全国で421万人、ネットの遣い過ぎで、健康や暮らしに影響が出ている状態だと報じていた。
   先日、BCGの本で、ツイッターやフェイスブックで時間を無駄に費やす者は、脱落者候補だと言う記事を紹介したが、昔、テレビの黎明期に、大宅壮一が、「一億総白痴化」と警告を発したのと同じような現象が起こっていると言う指摘と解すべきであろうか。

   さて、これから論じるのは、BCGの「世界を動かす消費者たち」で、1章を割いて論じられている中国の消費者動向をレポートした「デジタルライフ――ネチズン、インターネットショッピング、インターネットの新しい巨人」についてである。
   中国でも、若者のネット漬けは深刻なようだが、注目すべきは、「買い物大好き」の中国人のネットショッピング、e-コマースの凄まじさである。
   2015年の中国のネットショッピングの利用者総数は、3億5600万人で、都市人口の44%で、その規模は3640億ドルだと言う。

   この驚くべき増加要因は、
   所得増、ネットアクセスが技術的金銭的に容易化、オンラインチャネルへの信頼度の高まり、リアルショップの数が限定的、配送コストの安さ、だと言う。
   中国では、口コミ情報が最も重要な役割を果たしているようで、これなどは、ネットの独壇場であり、また、チェーンストアなど現代的流通システムが未発達だが、ネットなら無限にリーチ可能である。

   急成長とは言え、オンラインビジネスを構築するためには、中国独特の特徴を理解すべきだと言う。
   まず第1は物流の問題で、郵送料が安くても配送インフラがあやしくて、まともな商品が届くかどうかは大いに疑問なので、個人あてに新聞を配達した宅配専門業者に頼っていて、オンライン商品は、宅配ビジネスの売り上げの6割を占める。
   第2の特徴は、欧米日では、ブランドやメーカーの公式サイトにアクセスするが、中国では、メーカーの説明よりも匿名のレビュアーの意見を信頼しており、アメリカの二倍の割合である。
   
   もう一つの違いは、サーチの仕方で、検索エンジントップの百度(Baidu)経由では、淘宝(タオバオ)で買い物できないので、ユーザーは主要な検索エンジンを経由せずに、直接、タオバオにアクセスする。

   2010年には、中国のオンライン取引の79%をタオバオが占めている。
   タオバオの好調は、消費者のロイヤリティの高さ、固定客からの恩恵だと言う。
   (他のチャネルよりも25%安いと言う)バーゲン価格、手軽さ、膨大な出店者プールなどもウリだが、リアルタイムでコミュニケートできる顧客サービス、信頼に足る評価システム、支払のためのエスクロー・サービス(アリペイ)などユーザーの好評を博している。
   更に、手数料無料のオフラインのショッピングモールを真似たタオバオモールを設けて、高級化路線に進むなど、統合化総合化に加えて多様化を図っており、タオバオは、絶えず前進しているので、競業企業や他の小売業が、太刀打ちできないのだと言う。

   私は、5~6年前の上海での記憶しかないので、何とも言えないが、新しいショッピング・センターや高級ショッピング街などでは、かなり、日本や欧米流の店舗展開はされていたように思ったが、中国本来の店舗はかなり貧弱で、リアルショップの質および量においては、遅れを取っていて、アクセスの困難さに加えて、中国経済の高度成長に、小売り流通業がついて行っていないのではないかと思っている。   
   まして、インフラが未整備であり、十分に展開されていないリアル店舗にアクセス困難であれば、あらゆる商品が、瞬時に、信頼できる方法で、取得可能なネットショッピングが拡大するのは当然であろうと思われる。
   物理的なコミュニケーションや移動が困難なアフリカで、eペサを筆頭にして、携帯電話が、一切の銀行業務を代行している現状を考えれば、eコマースが、いわば、発展途上状態にある中国の小売り流通業界を、大きく変えると言うことである。
   

   ところで、今回、書けなかったが、インターネットのもう一つの大きな役割である民主化への影響であるが、中国では、いまだに、インターネットへの政府の介入規制が極めて厳しいと言う。
   しかし、現在中国では、ツイッターが禁じられているが、中国版ツイッターである新浪徴博で、怒れる市民ブロガーなどが、活発な論陣を張っている。
   最近では、かなり、頻繁に中国の暗部が露骨に報道されるようになってきていて、今昔の感であるが、インターネットこそが、中国の民主化への覇者であることには間違いなかろう。
   ベルリンの壁の崩壊も、ヨーロッパのラジオ放送や無線が引き金を引いたと言うことだが、情報網の最先端を行くネット社会においては、民意を抑え込み続けるなどと言うのは至難の業であろうと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイケル・J・シルバースタイン他著「世界を動かす消費者たち」

2014年08月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   The $10 Trillion Prize: Captivating the Newly Affluent in China and India
   この本のタイトルだが、「10兆ドルの賞金 中国とインドの新富裕層をとりこにする」すなわち、2020年には、10兆ドル市場を形成する中国とインドの新富裕層の消費を如何に取り込むかと言うことを、消費者の動向に視点を当てて、色々な側面から詳細に調査分析を行って、中国やインドのみならず、世界経済の将来像を展望したレポートである。

   「中国とインドにおける新しい消費者の台頭」では、
   中間層の台頭やスーパーリッチの急増、逆に、取り残されたビリオン、あるいは、財布を握る女性消費者など、經濟階層別の消費動向の推移やトレンド。
   「好きなもの、欲しいもの、憧れ」では、
   先進国商品への消費の高度化および拡大、ラグジュアリー、デジタルライフなど消費構造の変化や新トレンド、そして、教育
   「ビジネスリーダーにとっての学び」では、
   新市場を捉える「パイサ・ヴァスール」、経済と経営のブーメラン効果、猛スピードで前進する新興国企業の経営マインド、最後に、BCGの新市場攻略のための実践戦略
   を、詳細に論じていて、非常に興味深い。

   さて、
   中国とインドで新たに誕生する新中間層が10億人、2020年には、年間消費支出が10兆ドルに上ると言う。
   しかし、この有望な市場を志向して、大きく異なるビジネス環境の理解が不十分なまま両国の市場に挑んだ先進国の企業の多くは、殆ど失敗に終わっている。
   欧米の消費者向けに設計された商品・サービスを微調整するだけでは成功は得られないし、欧米向けに開発された市場アプローチを適用してもダメであり、ニューヨークやロンドン、フランクフルト、東京向けに設計されたビジネスモデルを複製しても上手く行かない。

   それでは成功の秘訣は何か。
   これらの消費者のニーズを適格に理解するためには、現地のビジネスパートナーやあらゆる政府機関との連携が必要であろうし、何よりも、経営幹部が、この心身ともに大きなチャレンジに立ち向かうべく、膨大なエネルギーと時間を割いて、「血と汗と涙」で応戦しなければ、今後10年の有効なポジションや影響力、力を確保できないであろう。
   として、
   流石に、コンサルタント会社のBCGであるから、「中国とインドの新しい消費者を獲得するための実践的戦略」を開陳している。

   このブログで、BRIC'sの経済やビジネスについては随分論じて来たし、中国やインドについても、色々考えて来た。
   そして、この本で報告されている中国やインドの消費者動向については、プラハラードの説く40億人のBOP市場の台頭や、ゴビンダラジャンの新興国発のリバース・イノベーションなど、特に、これまでの先進国主導型ではない新興国で勃興しつつある新ビジネストレンドに注視して、集中的に論じて来た。

   この本でも、欧米の先進国企業が、如何に、躍進に躍進を遂げて破竹の勢いで快進撃する中国やインドの市場に対処し、攻略して行くかについて論じているのだが、先進国企業と新興国企業の対応に明確な棲み分けが発生しているようで、その点に興味を感じた。
   豊かになった中国人が目の色を変えて追いかける高級車・時計・最先端のファッションと言ったラグジュアリー商品については、欧米の企業に完敗だが、その他の工業製品やサービスについては、完全に競合していて、どんどん、キャッチアップして行くか、新興国ベースのオリジナル商品なりサービスが生まれて来ていると言う、いわば、二重構造的な動きである。

   この後者の商品ついては、前述のBOP市場で生まれ出たイノベーション商品やリバースイノベーションで生まれた商品で、先進国企業の商品と競合して市場で激烈な競争を展開し、時には、国際商品として先進国市場に逆上陸して先行する高級商品を駆逐すると言う下克上が生じている。
   尤も、商品やサービスのみならず、中国やインドの巨大な多国籍企業MNCの台頭著しく、意欲的なM&Aや巨大な資本にものを言わせて、一気に、FORTUNE500のランクを駆け上がって来ており、大変な脅威である。

  
   このイノベーションを生むコンセプトをインドの「パイサ・ヴァスール」アプローチに依拠していると言う指摘が、非常に興味深い。
   「パイサ・ヴァスール」とは、完全に満足できる買い物やサービスに使われる言葉で、金額に見合った高い価値を提供する完全なパッケージを意味する。
   インド人や中国人が生来身につけている倹約精神で、彼らは、お得な価格で商品のベネフィットをそっくり手に入れようとして、欧米の技術や機能を、インドの価格で手に入れたいと考えるのだと言うのである。
   インドでは、消費財の大半が、あらゆるものが揃っているので、露店市やバザールで交換され、最初の付け値で取引されれば、売り手も買い手も面目を失うので、絶対、言い値では買ってはならないと言うのが面白い。

   欧米並みに一切質を落とさずに、アラヴィンド・アイ病院が、白内障手術を、米国の30分の1以下の料金で実施し、多くの貧者に無料でサービスをしながらも利益を上げており、また、ジャイプル・フットが、米国で8,000㌦の義足を30㌦(泥濘を駆け回り木登りも出来る)で作り上げていると言う例などは、この最たるケースであろうか。
   ガンジー的工学原則と言う「徹底した倹約と既存の知恵に挑戦する意欲」に基づく全く新しいイノベーション手法や即興力と適応力の源である「ジュガードの精神 」など、この本でも、インド人経営者の経営思想や経営哲学を論じていて興味深い。
   
   また、ウォートンのジテンドラ・シン教授他の著作「インド・ウェイ 飛躍の経営」で説かれているインド経営の四つの原則、
   高遠な使命、従業員へのホリスティック・エンゲージメント、即興性と適応力(ジュガードの精神)、創造的な価値提案、が、
   如何に、インド人経営者の精神的支柱を形成しているかを、併せ考えると非常に参考になって面白い。

   このような高邁な経営哲学を武器に、ぐいぐい、イノベーション戦略を駆使して追い上げてくる中国やインドの企業経営に、半ば、新鮮な脅威を感じて、これまでの繁栄に安閑としている平和ボケの先進国の人間にカツを入れるべく、レポートしているBCGの視点が、中々好ましいと思っている。

   最終章の「次世代への手紙 再生とアメリカン・ドリーム」が、また、面白い。
   私たちは、発明が利害を生み出す世界に生きており、科学、数学、工学、ビジネスが投資と富の蓄積を促す。
   この新しい世界では、誰もが、自分の未来を自らの選択によって書き換えなくてはならない。これからの世界を左右するのは、教育、大志、勤勉、起業家精神、コラボレーション、本物のイノベーションである。
   このチャレンジにしっかり取り組まない者は、生活水準が相対的に低下する危険を冒す。あまりにも多くのものを当然視する者、富や権力を浪費する者、技術への投資を怠る者、ツイッターやフェイスブックで時間を浪費する者も同じだ。と言う。

   碌すっぽ勉強もせずに、ぼけっとしていたら、恵まれない環境に鞭打って、寸暇を惜しんで勉強や修業一途に邁進している中国人やインド人に、一挙に、駆逐されてしまうぞ!と言うことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アリス・ロバーツ著「人類20万年遥かなる旅路」

2014年08月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、我々の祖先現生人類ホモ・サピエンスの長い歴史の道程を追跡した興味深い本で、イギリスの女医で解剖学者のアリス・ロバーツが、BBCの求めに応じて、世界各国を訪れてレポートした素晴らしい古人類学論である。
   私の人類の起源に関する最初の記憶は、中学で学んだジャワ原人(ピテカントロプス・エレクタス)や北京原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人と言った程度で、その後、随分たってから、ジャカルタに行った時に、ジャワ原人の骨を見るために、博物館を訪れたことがある。
   その後、何かの本で、アフリカで、アウストラロピテクスが発見されたとか、ミッシングリングの追跡だとか、断片的に色々な報道を得ていたのだが、この本を読んで、文化人類学の世界が、随分、進んでいることを知って驚いている。

  さて、現生人類は、二足歩行する類人猿の最後に残された系譜で、「ヒト族(ホミニン)」に属し、この惑星に唯一残ったホミニンである。
   これらの人類は、皆、アフリカを出て、ユーラシア大陸に渡った。
   約100万年前までに、ホモ・エレクトスは、ジャワや中国に到達し、60万年前にその系統からもう一つの系統ホモ・ハイデルベルゲンシスが生まれ、30万年前に、ヨーロッパに移住した系統からネアンデルタール人が生まれたが、総て死滅してしまった。
   一方、現生人類は、20万年程前に、アフリカに残った集団からうまれて、地球全体に広がっていった。

   この説については、数多くの化石と遺伝子の研究によって裏付けられていて、大半の古人類学者が事実として認めている。
   専門的には、「アフリカ単一起源説」、あるいは、「新しい出アフリカ説」と呼ばれている学説である。
   しかし、このシナリオが、現生人類が如何に進化し、世界に拡散したかを説明する唯一のものではなく、「多地域進化説」を主張する学者もいれば、「アフリカ単一起源説」を認めても、ヨーロッパやアジアへ拡散して行く過程でネアンデルタール人などの他の古代種と異種交配したとか異説も存在する。

   著者アリス・ロバーツは、各大陸の先住民の訪ね歩きから初めて、各地の遺跡や最先端の研究拠点などを歴訪し、人類の化石探しから始まった古人類学の最新の技術や科学的手法、発明発見や情報知識を駆使して、現生人類のアフリカからスタートした遥かな大陸間大移動の旅路を解き明かそうとしていて、その壮大なスケールに圧倒される。 

   この「アフリカ単一起源説」だが、1987年に、UCLAのキャン、ストーンキング&ウィルソンが、「ネイチャー」に発表した「ミトコンドリア・イブ(Mitochondrial Eve)学説」によるもので、(1988年に、ニューズウィークが、Everyone alive on the planet today carries DNA that can be traced back to a single woman living in Africa over 150,000 years ago.と、この地球上の総ての人は、15万年前にアフリカに住んでいた一人のアフリカ人女性のDNAを保持していると報道)、
   現生人類は、最も近い共通女系祖先(the matrilineal most recent common ancestor)から派生したと言うもので、一時、世界人類はすべて、一人のアフリカ人女性から生まれ出たものだと誤解されて伝わったと言う面白い逸話がある。

   ミトコンドリアは、女系しか辿れないのだが、2000年に、スタンフォード大学のアンダーヒル&スフォルツァが、男系を辿れるY染色体を検討して、Y染色体アダム説をうち立ててこれを論証しており、男系の遺伝学的にも、「アフリカ単一起源説」が正しいと言うことであろう。
   すべての人類は、家系を遡って行けば、約12-20万年前にアフリカに生きていた同じ女性や男性に辿り着く」と言うことで、この現生人類が、我々現代人の唯一の祖先であると言うことである。
   私も、マドンナも、同じ血縁だと思うと、一寸、複雑な気持ちになるのが不思議である。

   このBBCシリーズ作成に協力したオックフォード大のステファン・オッペンハイマー教授が、著書「OUT OF EDEN (2004)人類の足跡10万年全史」で、
   One migrant group of no more than a few hundred souls was forced out of its homeland by increasing salinity in the Red Sea, some 85,000 years ago, and all non-Africans today can trace their mitochondrial DNA to one woman from this group - the Out-of-Africa Eve. と、8万5千年前に、このミトコンドリアDNA遺伝子を持った僅かなグループがアフリカを出国したと、現生人類の壮大な世界への旅立ちを語っており、このロバーツの本では、この遥かなる道程とその苦難の展開を、最新の学術的発見などを交えて、克明に描いており、並の小説よりも感動的で面白い。
 

   新しく現生人類の化石や遺跡などが発見されると、どんどん、古人類学が書き換えられるのだが、最後の旅路を示すチリのモンテ・ヴェルデ遺跡の現生人類は14,600年から14,000年前の痕跡を残していると言う。
   移動当時は、ベーリング海がベーリンジアで陸続きであったと言うのだが、北米大陸に渡ると、広大なコルディレラ氷床とローレンタイド氷床に遮られなど自然環境は熾烈を極めており、アフリカを脱出した現生人類が、灼熱の砂漠や険峻な大山脈や寒冷極まりない大氷原など厳しい自然環境の中を、果てしない天変地異、気候の大激変、大地震や火山の大噴火、海水面の大変動などに翻弄されながら、さまざまな危機や苦難を乗り越えて、どのように、新天地を目指して旅を続けて、南米の最南端フェゴ島に到達したのか。

   私は、4年間、南米に居たので、アマゾンのインディオ、パラグアイのグアラニー族、ボリビアのインディオなど、南米各地で原住民の末裔である人々に会っており、彼らがアラスカ経由で渡って来たことを知っていて、紛れもなく、アジア人の血筋であることを実感して、何度も、人類の途轍もない生命力の強さに感嘆していた。

   この本には、感動的な話が鏤められていて、非常に興味深いのだが、一つだけ、追記しておきたい。
   それは、現生人類は、「描き、話し、歌い、踊りながら」アフリカを出たと言う指摘である。 
   現生人類の柔軟な脳が、創意工夫、順応性、発明の才を発揮して、環境の変化に応じて新たな文化を生み出した、この特質がヨーロッパで花開いたのだが、
   文化を生み出し得なかったが故に、おなじヨーロッパで生きていたネアンデルタール人は、地球上から消えて行ってしまった。と言う話である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛犬を再び飼うつもりはなかったが

2014年08月16日 | 生活随想・趣味
   もう、随分、前になるのだが、シーズー犬を、リオと名付けて飼っていて、大切に育てていた。
   リオは、ブラジルでの生活の思い出に、長女が、川を意味するポルトガル語のリオを借用したのである。
   リオは、子犬を貰って、家族と同じように室内犬として可愛がっていたのだが、心臓病が悪化して、10年少しで亡くなってしまった。
   可愛そうだったので、もう、二度と犬を飼わないことにした。


   ところが、先日から、長女の家族が、1週間タイで休日を過ごすと言うので、飼い犬を預けられてしまった。
   レシペと言うかメニューと言うか、詳しく指示書きを置いて行ったので、それに従って、犬の世話をしている。
   この口絵写真のダックスフントなのだが、人懐っこいと言うか、これまでにも、何度も会っているので、違和感がないのか、素直に従ってくれているので、特別雑作はない。
   私の担当するのは、朝晩の犬の散歩くらいなのだが、やはり、生き物なので、どの程度犬任せにしたら良いのか、迷うところもあって、多少気を使っている。

   犬か猫かと聞かれれば、私の場合には、完全に犬で、何故か、猫には興味はないし、NHKで岩合光昭の世界ネコ歩き が放映されたり、猫の写真の展示会などがあるが、見たこともないし、犬猫の混ざったカレンダーを頂いても、かけることもない。
   猫が嫌いだと言う訳ではなく、関心がないだけではある。

   犬の良さは、飼い主になついて、完全に反応してくれることで、幼児3歳くらいの智慧があって、十分に受け答えしてくれて、十分に対話が出来ることである。

   もう、10年以上も前になる。
   会社からの帰途、最寄の駅について、何の気なしに家に電話したら、丁度来ていた長女が電話に出て、リオが亡くなったと泣きだして、まだ、温かいからすぐ帰って来てと言った。
   私は、一目散に家にダッシュして、リオを取り巻いて沈んでいる家族を尻目に、リオを抱きしめたら、まだ、体が柔らかくて温かかった。
   死に目には会えなかったけれど、私の帰りを待ってくれていたのだと思うと、愛しくて愛しくて、リオとの思い出を走馬灯のように巡らしながらしっかりと抱きしめて、少しずつ体温が引いて行くのを待って、毛布に静かに横たえてやった。
   翌日、火葬にして、庭の椿の根元に埋葬した。
   今回、移転に伴って、庭の土を少しと、墓石代わりにしていた長女が創った土偶風の人形と脇侍にしていたブラジルのインディオの男女の彫像を持ってきて、墓代わりにして思い出を反芻している。

   
   リオが亡くなる前、数日間は、何も食べずに、ずっと、小さなサークル型の寝床に横たわっていて、殆ど動かなかった。
   ところが、亡くなる二日前の夜、晩く帰宅したら、これまでのように、ベッドから飛び出して来て、尻尾をあらん限りの力を振り絞って振りながら、私の足元に飛んで来た。
   良くなったのかと一瞬錯覚を覚えたが、そんな筈はない。
   私は、心なしか軽くなってやつれたリオを抱き上げて、しっかりと抱きしめたらじっとしていたので、何時ものように頭を手で押さえて肩に引き寄せると子供のように頭を肩に擦りつけて来た。
   後で聞いたら、その日は一日中ベッドで動かなかったので、奇跡だと言う。
   10年間、朝昼晩、出来る限り一緒に生活を共にしながら息づいて来た命の証であろうか、最後の力を振り絞って、私に、別れの挨拶をしてくれていたのだと思うと、居た堪れなくなって、その夜は眠れなかった。

   もう一つ強烈に覚えているのは、かなり、広い庭は、リオの天国であったので、自由に振舞わせていたのだが、亡くなる前の休日に、殆ど動きを止めていた筈だったが、静かに、動き出して、庭を回り始めたのである。
   リオのお気に入りの場所は、庭に何か所かあって、その場所に良く寝そべったり休息していたので、草が倒れたりして寝癖がついていたり、私が木を間引いて空間を作ったりしているので良く分かるのだが、この日は、何時もは行ったこともない場所に入ったり行って、暫くとどまり、また、動き出して、殆ど庭全体を回り始めたのである。
   暑い時も寒い時も、共に生活を共にしてきた生きとし生けるものの命の交感であろうか、私には、リオが、一本一本の花木や草花に、別れの挨拶をしているようにしか思えなかった。

   その前日、陽が傾きかけて柔らかい夕日が、庭の芝生に輝き始めた頃、お気に入りの庭の片隅に寝込んで動かなかったリオが、静かにとぼとぼと出て来て真ん中に座って、夕日に向かって顔を上げ、全身に夕日を浴びて彫像のようにジッと座って動かなかった。
   私は、二階に急いで駆けあがってカメラを持ってきて、何枚か写真を撮ったのだが、この時の写真が一番美しいリオの姿であった。

   皮膚病を患っていたので、風呂に入れて丁寧に手当てをしていたのだが、痛いのであろう、断末魔のような鳴き声を出して訴えながら、私の手に口を当てるのだが、決して噛みつくことはなかったし、リオのために必死で面倒を見ていることを分かっていたのか、私には一切逆らうこともなかった。
   亡くなる前の苦痛など、耐えられない程痛い筈だったが、泣き声一つ上げずに、苦痛を一切訴えずに、耐えに堪えて死んでいったリオのことを思い出すと、もう、犬を飼いたいとは決して思わなくなったのである。

   そんなリオとの生活を思い出しながら、長女から預かったダックスフントと付き合っている。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書三昧の生活に思うこと

2014年08月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   所要があったり、外出したり、ガーデニングをしたり、とにかく、家の中にいない時は別だが、普通は、書斎かリビングに居て、インターネットを叩くか、ビデオを見るか、あるいは、本を前にして時間を過ごすことが多くなってきている。
   現役時代には、年間、まともな専門書など単行本を、200冊以上は読んでいたのが、自由になってからは、かなり、読書量が減ったものの、それでも、新しく色々な本が出版されると欲しくなって、抑えに抑えても、それなりのペースで本に手を出すので、増える一方である。

   私の場合、速読をしないので、本を沢山読もうと思えば、時間をかける以外に方法がない。
   昔から、参考文献や事典・全書的な本は別だが、余程のことがなければ、飛ばし読みや中断をしない癖がついて、完読しようとしてしまうので、捗らない。
   尤も、何冊かの本を並行読みするので、途中で諦めてしまう本もあるけれど、そんなこともあって、勢い、まともな本ばかりを読もうとする。
   不思議なことに、同じ本を二度読むことは殆どないので、大切な本や好きな本はあるが、愛読書は何ですかと聞かれたら、どういえば良いのか、答えに窮する。
   繰り返して、何度も、ページを開く本は沢山あるが、私には愛読書はない。

   読む本は、専門書なり、かなり、骨のある本が多いので、透明性の付箋を貼ったり、鉛筆で傍線を引いたりするので、読んだ本は、すぐに分かる。
   付箋数が多すぎて、後で困ることがあるので、本の余白に、簡易索引を作って書き込むことがある。
   その度毎に、欧米の書物なら必ずある本の命とも言うべき索引が、専門書や学術書にさえも、殆どない日本の出版文化の程度の低くさを嘆くことになる。

   ところで、もう、これから読める本の数は限られていると思っているので、最近では、新しく買った未読本は、本棚などに収容せずに、机の上や、時には、パソコン棚の上に置くことにしており、更に、その本の上に本を重ねるので、身動きが取れなくなると言った状態になっていて、自ら、強迫観念を作り出している。
   しかし、それでも、新しい本の魅力は大きし、好みや関心が微妙に変化するので、忘れ去られる本が出て来る。
   これまでもそうだが、読まずに積読だったり倉庫に消えた本は、読んだり参考にしたりした本の何倍もあり、先日、物置に入って本を整理していたら、無性に読みたくなった本が、何冊もあって、反省しきりであった。
   

   小説と言うか、娯楽本の類は、殆ど読まなくなってしまった上に、これまでと同列か、出来るだけ、読み甲斐のある本を読もうとするので、多少、努力をしながら読むこととなり、何が面白いのかと言われることがある。
   しかし、そのことが嫌だとか苦痛だと思ったことは一度もないし、義務だと思って本を読んだこともないし、読めば読むほど、新しい発見をしたり、真実に触れたり、美しいものや素晴らしいものに遭遇すると嬉しくなって、また、いそいそと本に対峙することになる。

   東京などへ外出した時に、暇な時間が取れれば、行くところは必ず書店だし、更に時間が取れれば、そばの喫茶店に入って、本を読む。
   若い人たちのように、スマホやタブレットやノートパソコンなどを持っていないので、電車の中でも、病院などの待合室でも、手持無沙汰の時には、本を読んでいることが多い。
   日経ビジネスは、必ず、バッグに入れているが、その他の本は、今の生活には何の役にも立たたない専門書や学術書が多い。

   さて、問題は、これから後何年くらい、元気で読書三昧の生活を楽しめるかと言うことである。
   今では、当然のように、本を読み続ける毎日を送っていて、全く不思議だと思ってもいないし、いわば、生活のリズムなのだが、このような本との付き合い方が、何時まで続くのか、少しずつ気になり始めている。

   いずれにしても、私が何時まで、このまま元気で、生活が続けられるかと言うことに総てがかかっているということであろう 
   少しでも、本を読みながら、自分なりに、真善美を感じながら、成長していると思い続けて逝ければ、それで上出来だろうと思っている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立演芸場・・・桂歌丸「怪談牡丹燈籠」から「お札はがし」

2014年08月14日 | 落語・講談等演芸
   8月11日は、圓朝の命日だと云うことで、この日、国立演芸場の中席のトリで「怪談牡丹燈籠」の「お札はがし」を語った桂歌丸は、圓朝の墓参りをしてから、ここに来て高座に上がったと語った。
   4月の公演を病気で休演したので、聴く機会を失って残念だったのだが、意外に元気で、何時もの名調子で、怪談噺をしっとりと語り始めた。
   当然、満員御礼である。前で「ドクトル」を語った桂小南治が、毎回、国立演芸場から大入袋が出るのだと言って、一年ごとの11枚ずつの大入り袋を見せて披露していた。
   私も、チケットの手配が遅れたので、最後に残った僅かなチケットの1枚を取得したので、最後列の一番左端12の1。ところが、少し遠いのだが、十分傾斜があって斜めなので前の障害物が気にならなくて、結構、良い席なのである。
   

   歌丸の三遊亭圓朝作『怪談牡丹燈籠』の噺は、11日~15日は「お札はがし」16日~20日は「栗橋宿」となっている。
   「お札はがし」は、前半の山場の噺で、
   恋焦がれて死んだ旗本の娘お露が、幽霊になって、相思相愛の好男子の浪人萩原新三郎宅に、牡丹芍薬のついた燈籠を持って、夜毎通い詰めて恋情を交わすのだが、新三郎が幽霊を抱いて寝ているのを垣間見た店子の伴蔵がびっくり。新三郎は、名僧良石から死霊除けの金無垢の海音如来と幽霊を家に入れなくするお札を貰って方々に張り巡らす。お札を張られて新三郎の家に入れなくなったお露と女中お米が困り果てて、伴蔵に百両を与えると言う条件で、如来を盗ませお札を剥がさせる。お露たちは、新三郎宅に入り込んで新三郎を殺して冥途へ連れ去る。

   この牡丹燈籠は、中国の「剪燈新話」、「伽婢子」や「奇異雑談集」などから想を得た圓朝の創作だが、青年期から、幽霊に関心を持って、文芸、宗教、心理などの各方面から真摯な解明を志したと言うから、圓朝の怪談物は筋金入りなのである。
   牡丹燈籠を持って新三郎を訪ねてくるところの描写で、面白いのは、
   カラコン/\と珍らしく下駄の音をさせて生垣の外を通るものが・・・牡丹芍薬などの花の附いた灯籠を提さげ、・・・十七八とも思われる娘が、髪は文金の高髷に結い、着物は秋草色染の振袖に、緋縮緬の長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗柄の団扇を持って、ぱたり/\と通る姿を・・・
   「圓朝は贅沢だ、幽霊に下駄を履かせるんだから」と松林伯円を嘆息させている。

   
   歌丸は、お露の幽霊が、寝静まった伴蔵宅を夜毎訪れて、新三郎宅のお札を剥がしてくれと頼み込むところから語り始める。
   亭主が夜中に起きて女(幽霊)と話し込んでいるのを怪しんだ女房が問い詰め、それなら、百両を持って来れば引き受けろと入れ智慧する。嫌がる新三郎を行水させて如来を盗みだし、百両を受け取ってお札を剥がすくだりを、歌丸は、人情噺を語るような静かで穏やかな口調で淡々と語り続ける。

   この日、NHKが夜9時のニュースで、この歌丸が圓朝の墓を訪れ、国立演芸場の公演や楽屋での様子を放映していた。
   その時のスナップ写真を掲載すると次の通り。
   
   
   
   

   私が、落語を本格的に聞き始めたのは、まだ、2年少しで、古典芸能でも、歌舞伎・文楽などの20年以上から比べれば、ほんの駆け出しだが、それでも、歌丸の圓朝ものを含めて、4~5回は聴いている。
   圓朝物は、「真景累ヶ淵」から「深見新五郎」と「湯灌場から聖天山まで」「双蝶々雪の子別れ」、それに、しっとりと聞かせる人情噺「小間物屋政談」や「ねずみ」。
   昭和と平成の名人肌の国宝級の語り部とも言うべき歌丸の話術には、感激のしっぱなしで聴いている。
   来年の四月には、この国立演芸場で、圓朝の「塩原太助一代記」をやるようだが、元気で、語り続けて欲しいと願っている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中国の若年層で進む日本車離れ」何故か

2014年08月13日 | 経営・ビジネス
   先日、WSJ電子版に、「もうカッコよくない?中国の若年層で進む日本車離れ」と言う記事が出た。
   「心の中では、日本車を買う人はあまり裕福ではない人だと思っています」。日本車はもはや「カッコいい」とは思われなくなり、販売の伸びは今後、鈍化しそうだ。
   ボニ氏によると、競争激化に加え、中国の消費者が日本車についてダイナミックさに欠けるとか楽しくないといったイメージを持っているため、日本ブランドが苦戦を強いられているという。
   これに対して、ドイツブランドのシェアは19.6%から21.5%に、米国ブランドでは12.3%から12.8%に拡大した。と言うのである。

   実質的な価値を重視するプラグマチックなアメリカ人とは違って、ブランド価値を重視するヨーロッパ人や中国人の傾向だと思うのだが、最近、急速な経済成長によって、豊かになり始めた中国人の見せびらかし気質が、急速に台頭してきたと言うことであろう。
   何十年も前、TIME誌に、当時出始めた携帯電話を架けているかのような格好をして、おもちゃの携帯を持って街を歩くのが、上海や北京の中国人の流行だと言う記事が載ったことがあるが、これである。

   大分以前のこと、日産の欧州本社の竣工式の時に、下請けであったゼネコンの社長以下トップが、式典に参加するため、仕方なくレンタルした日産の最高級車にすし詰めで乗って来たのだが、いくら良くても、やはり、ベンツの方が良いと言っていた。ヒットラーに蹂躙されたのに、それでも、ドイツ製が良いのかと言ったら苦笑していたが、ヨーロッパで、レクサスが苦戦するのが良く分かる逸話である。

   さて、ここで興味深いのは、BCGの「世界を動かす消費者たち」で指摘されている中国人のラグジュアリー商品への対応の姿勢についての指摘である。
   3点指摘されているのだが、その2つは、自動車についても関係ありそうで面白い。
   まず、第一は、他のどの国の消費者よりもブランドネームを重視する。
   群衆の中で目立ち、人とは違う存在とみなされることへの欲望は、長く続いた個性を抑圧するコミュニズム集団主義の反動で強烈であり、ブランドネームと知名度をことさら重視する。
   第二に、豊かな中国人は、富を誇示する方法として、心に残る体験よりもモノへの投資を好む。彼らは、所有することを、何らかの存在になること以上に重視する。クラシックカー、高級ワイン、芸術品等々蒐集可能な高級品にラッシュし、中国のコレクターは、中国の芸術品や骨董に対する所有欲も旺盛であることは勿論、ラグジュアリー商品取得のために膨大な財を注ぎ込んでいる。
   第三は、豊かな中国人は、ラグジュアリー商品を海外で購入したがる。ヨーロッパのブランドを追い求めて、パリ、ミラノ、ロンドンを洗練されたファッションの都と考えて殺到する。と言うのである。

   この傾向から言えば、日本のメーカーなり商品は、世界のメーカーと競合している産業分野では、いくら品質が良くてコストパーフォーマンスが高くても、ファッション性とクリエイティブで高級品感覚の遥かに上位にあるヨーロッパのブランド製品には、中国では太刀打ちできないと言うことである。
   
   日本の自動車会社は、対策として、
   ”トヨタの広報担当者はデザイン面でも販売促進活動でも「若さ」を強調すると述べた。同社は今年、中国を含めた新興市場の若年層を引き付けるため、米国人歌手のビヨンセさんを起用した世界市場向けの広告キャンペーンを開始した。
   ホンダの広報担当者によると、同社は「ダイナミックで若々しいイメージ」を作り上げることに力を入れているという。4月の北京モーターショーでは、若者向けの小型コンセプトカー「コンセプトB」を公開した。”と言うのだが、
   そのような販売戦略の問題ではなく、根本的な問題は、日本車に、ブランド力のみならず、高度なファッション性や中国人消費者を圧倒するようなカッコ良さ素晴らしさ魅惑力が欠けていると言うことであって、中国人が目を廻すようなクリエイティブな価値ある商品を開発しない限り勝ち目はない。


   さて、サーチチャイナが、隣の国のことだが、「韓国の自動車市場 シェア伸ばす外国車」と言う記事を掲載しており、韓国では高級車が特に販売台数を伸ばして、「BMW、ベンツ、アウディが販売台数の上位を占めており・・・、「韓国で高級車を購入するのは主に20-40代の裕福な女性で、彼女たちには韓国メーカーの自動車は高級さに欠けていると映るようだ」と報道しており、これなども、先の中国の乗用車への嗜好と同列の傾向であろう。


   もう一つ興味深いのは、今朝日経が朝刊で報じた、「タタ、格安車路線を転換 4年ぶり中間層向け新ブランド」と言う記事である。
   ”インド自動車大手のタタ自動車は12日、4年ぶりの新ブランド車となるセダン「ゼスト」を発売した。内外装で高級感を演出した中間所得層向けだ。2009年発売の超低価格車「ナノ」が失敗し、販売低迷にあえぐ。「低所得者でも買える国民車をつくる」という戦略を転換、ライバルの主力車種がひしめく激戦区で勝負に打って出る。”と報じた。
   ”10万ルピー台からの超低価格でナノは話題をさらったが、販売実績では失敗が明らかだ。足元の月間販売は1千台程度。当初見込みの10分の1に満たない状況が続く。「低所得者層向けのBOPビジネスの発想が自動車にはそぐわなかった」(競合メーカー)と、企画自体に無理があったとの指摘もある。”と言うのである。

   先日、タタ・モーターの件で、タタ・ナノについて、破壊的イノベーションだと言う記事を書いたが、これについては、今後のBOPビジネスやアフリカ中南米などの発展途上国市場の動向などを見極めないと、とやかく論評するのは時期尚早だと思っている。
   多少気になるのは、トヨタがローエンドの破壊的イノベーションからアメリカ市場に参入して成功を収めた頃と比べて、自動車市場に構造変化が起こっているのかと言うことである。

   そして、もう一つは、感性豊かな価値創造を重視するクリエイティビティ時代に突入した成長の激しいグローバル経済においては、自動車市場においても、クオリティよりも差別化されたブランド性やファッション性を重視した高級品志向が主流になるのかと言う問題である。
   この点については、もう少し考えてみたいと思っている。
  

   私は、ヨーロッパに居た時には、アウディやベンツを社用車として使っていたし、必要に応じて、色々なヨーロッパの高級車をレンタルして乗ってみたが、当時は、日本車よりも、ヨーロッパ車の方が、手配が楽であったし、日本車に対しても全幅の信頼をしていたので、あまり、その差には気にならなかった。
   尤も、ドイツを、ベンツの高級車でアウトバーンを突っ走ったり、フランス国内を装甲車の様なボルボで10日ほど走り回ったりするなど、ヨーロッパ車を使い分けながら走っていた頃は、安全性も含めて、素晴らしいと感嘆したことはあった。

   さて、口絵写真は、株主総会で見たニッサンの高級車だが、どこが、ヨーロッパブランドの高級車と比べて劣るのか、私自身は、要するに知名度とブランドネームの差だけではないかと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする