熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

世界ふれあい街歩き フィラデルフィア

2024年09月25日 | 海外生活と旅
   NHKの「世界ふれあい街歩き」で、フィラデルフィアが放映された。
   1972年から2年間、ペンシルベニア大学で留学生活を送っていたので、無性に懐かしくなって見た。
   最も最近に訪れたのは、2008年8月で、このブログの「ニューヨーク紀行」に書いている。卒業後何回かフィラデルフィアを訪れているが、もう、随分前の話である。

   フィラデルフィアは、独立宣言を起草しわが母校の創立者でもあったアメリカ最大の偉人ベンジャミン・フランクリンが活躍したアメリカ独立宣言の地である。
   最初の議事堂であった独立記念館を何回も訪問してアメリカの歴史と偉大な民主主義を反芻していた。



   この番組は、センターの市庁舎からデラウエア川の間の旧市街の街歩きなので、反対側に位置する大学街は映らなかった。
   しかし、街の雰囲気は、半世紀以上も前のフィラデルフィアと殆ど変わってない感じで、タイムスリップした思いで見ていた。
   



   わが母校ウォートンスクールは、創立1881年、全米屈指の最古のビジネススクールで、古色蒼然としている。
   懐かしいのは、フィラデルフィア管弦楽団のコンサートのために良く通ったアカデミー・オブ・ミュージック。指揮者ユージン・オーマンディの楽屋も訪ねて行った。
   


   

   さて、フィラデルフィアの鳥観だが、シティセンター越しに、緑地がデラウエア川沿いに広がっていて、小高い丘の上にフィラデルフィア美術館が建っている。この手前の石段が映画「ロッキー」の舞台で、途中に「ロダン美術館」があり、よく、市庁舎から歩いた。
   


   街歩きで、興味を感じたのは、全米唯一だという手動式タイプライターの店。修理もしていて、愛好家が各地から訪れてくる。
   牧師さんが、説教の原稿をこの古いタイプで打つと心が通うと言い、街頭詩人が即興の詩を吟じてファンに差し出す、デジタルで消えてしまったホンワカとした人間味が漂うのが、古都フィラデルフィアの命なのかも知れない。
   無粋ながら、留学時代に、レポート書きで忙殺されていた頃、スミスコロナの重い電動式手動タイプと格闘していたのを思い出したのである。
   日本に持ち帰って、長い間千葉の倉庫の奥に鎮座ましましていたのだが、消えてしまっている。
      
 

   

   アメリカで最古だというお菓子屋さん。
   昔から、アメリカ一美味しいアイスクリームだとか、随一絶品のロブスター料理だとか、とにかく、フィラデルフィアには、名物店が多い。
   貧しい勉強一途の大学院留学生であったので、思うようには漫遊できなかったが、フィラデルフィアは、懐かしい心の故郷である。
   



   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが憧れの聖地はパルテノン

2024年08月28日 | 海外生活と旅
   旺盛なインバウンドブームで、日本も今や観光立国、毎日のように、テレビでは、外国人観光客の動向が放映されている。

   鎌倉に住んでいるので、外国人観光ブームの凄まじさは身に染みて感じている。
   日本各地の観光地ではオーバーツーリズムが問題になっているが、その一つとして、「SLAM DUNK踏切」で有名とかで人気の高い江ノ電の鎌倉高校前駅近くでの中国人の混雑ぶりは常軌を逸している。何の変哲もない海岸沿いの踏切に過ぎないのだが、中国観光客にとっては豊かなナラティブに満ちた聖地であって、日本観光の必須の訪問地なのであろう。

   さて、誰もが、外国への観光については、人夫々、思い入れがあって、憧れの聖地へ向かうのであろう。
   私の夢は、ギリシャのアクロポリスの丘に立ってパルテノン神殿を仰ぎ見ることであった。
   意識し始めたのは、中学生時代で、ギリシャやローマの歴史や学問芸術に興味を持って勉強していた時であった。
   尤も、1960年代の頃のことだから、やっと戦後復興から立ち上がりつつあった貧しい日本であったので、夢の夢ではあった。

   しかし、案外早く、パルテノンを訪れることができた。
   記録がないのでやや不正確だが、多分1978年の春、ブラジル赴任時の一時帰国で、ヨーロッパ経由で東京へ向かう途中に立ち寄ったのである。
   パルテノンの素晴らしい遺産に真っ先に触れたのは、その前の1973年で、ルーブル美術館のフリーズ浮き彫りの一片であった。その美しさに感激して、イギリスに住んでいたので、大英博物館のエルギン・マーブル鑑賞には足しげく通った。フリーズの彫刻は海外に持ち出されたので、現地パルテノンには殆ど残ってはいない。
   その後、ヨーロッパ在住の時に家族との休暇旅行で一度、そして、アテネで開かれたWEFの会議に出席した時一度で、3度パルテノンを訪れたことになる。
   色々なところからパルテノンを観察して、沢山の写真も撮った。
   もう何十年も前になり、写真を探せないので、口絵写真はウィキペディアから借用した。
   対面の高みから撮ったパルテノンの写真のパネルを事務所にかけていた。
   ミケーネやデルフィにも足を伸ばしてギリシャの歴史に思いを馳せた。

   もう一つ見たかったのは、スーニオン岬に沈む夕日であった。
   アテネからタクシーを飛ばして向かったのだが、間一髪で陽は波間に隠れて空は赤く染まってしまっていたが、しばらく神殿の廃墟に佇んで涼風を楽しんでいた。運転手が、アテネを離れるときに、あれがソクラテスの独房だと教えてくれたのを何故か鮮明に覚えている。 

   ソクラテスやプラトン、ギリシャ神話や悲劇や喜劇、建築や彫刻、色々なギリシャの学問や芸術が、私に学ぶ喜びを触発し続けてくれたような気がしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏休みは海外旅行の絶好のチャンス

2024年08月10日 | 海外生活と旅
   10日から休暇を取ると結構長い夏休みとなる。
   連日のようにテレビでは、帰省ラッシュや海外旅行など旅の話題で沸いている。
   もう、身体に負担がかかって、旅から縁遠くなってしまった私には、関係がない話なのだが、何となく、若かり頃の夏休み休暇を思い出してそわそわしてくるのが不思議である。

   旅に興味を持ち始めたのは、もう60年以上も前の学生時代で、当時は、学割の周遊券とユースホステルを併用して貧乏旅行ができたので、九州と北海道を周遊した。
   海外旅行は、1972年にアメリカに留学して東部の都市を回ったり、大学の団体が主催したフロリダ・メキシコ旅行に参加したのが最初であった。
   翌73年のクリスマス休暇に、フランス人留学生がPANAMの里帰り便をチャーターして空席を安く提供してくれたので、これに便乗してヨーロッパ旅行をした。ミシュランやアメリカの旅行ガイドブックやクックの時刻表などを参考にして旅程を決めただけで、ぶっつけ本番でパリから旅をスタートした。交通手段は、欧州全線有効なユーレイルパスとタクシーだけで、ホテルも駅に着いてから決めて、旅程はあって無きがごとしで、フランス、スイス、イタリア、オーストリアなど自由に動いて、2週間後にパリから帰った。フィラデルフィアの夜景を眼下にした時には、故郷を感じて懐かしさせ覚えた。
   クレジットカードがあったのかどうか記憶はないが、当時、夏のボーナスをはたけば、親子3人のこの旅行は賄えたのである。

   その後、しばらくして、ブラジルに赴任したり、長くヨーロッパに住んだりして、海外生活が長かったので、仕事上でも家族旅行でも、頻繁に旅に出た。
   海外に居れば、ほぼ、クリスマス休暇と夏季休暇は、全員が(特に、私の場合は代表者であったので)休暇を取って休まざるを得なかったので、必ず、事務所から離れて、海外旅行に出ることにしていた。
   日本人の同僚は、長い休暇に馴染まない人が多かったので、小休暇に切り替えて事務所に出ていたようであった。

   前述のヨーロッパ旅行に味をしめて、家族旅行などプライベートな旅は勿論、自身の出張や公的旅行も、殆ど全て自分で計画して手配して、エージェントにはチケットを頼むくらいであったが、この方が思い通りに対応できて便利であった。
   このブログでも、旅行記を掲載しているが、パック旅行に便乗したのは、最近になってからのロシアと中国の旅だけである。

   最後に、行きたいと思ったのは、フィラデルフィアへのセンチメンタルジャーニーで、この口絵写真の独立記念館と自由の鐘を仰ぎ見て、一番最初に見た異国の思い出を噛みしめながら、母校を訪れたいと思ったのである。ついでに、ニューヨークで、METでオペラやミュージアムでの美術行脚、このブログの「ニューヨーク紀行」を反芻したいと願っていたのだが、もう、アメリカを自由に歩ける体力の自信がない。

   次の写真は、イギリスのカンタベリーのある繁華街の夜景、
   旅の疲れを癒しながらギネスをあおいだ懐かしい憩いのひと時、
   傘寿を超えた老兵には、涙が零れるような旅の思い出が充満している。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交通事故で海外旅行がズタズタ

2024年07月26日 | 海外生活と旅
   7月22日東海道新幹線で、保守用車両の衝突事故で、一部運休した。
   NHKテレビでは、海外からの旅行者の苦衷を放映していた。安心だと全幅の信頼を置いていた日本で、旅行初日にこの事故に遭遇したブラジル人は深刻であった。

   傘寿越えまで生きていると、交通事故などで、旅行が無茶苦茶になって困った経験がいくらでもあるのだが、もっと、困るのは、先のブラジル人のケースのように、外国での事故やアクシデントとの遭遇による難儀である。
   私の場合、海外生活や外国旅行が、比較的多くて、海外生活に慣れている人間でも、外国での旅の困難は嫌である。

   海外生活が12年、それに、出張や個人旅行などを含めて、30年以上も海外での行き来があって、訪問した国が30か国をゆうに超えていることを考えれば、事故などのトラブルは少なかったし深刻な思いをしなくて済んだように思う。
   しかし、それでも思い出したくないことも結構ある。

   最初のトラブルは、スペインのマドリードからグラナダへ行く飛行機で、朝早くから夜遅くまで飛行機が飛ばずに空港で待たされたことである。
   丁度その日が、冬時間から夏時間への移行日で、1時間の時刻調整をイベリア航空がミスって、航空機の発着がマヒしてしまったのである。
   グラナダに着いたのは、深夜をはるかに過ぎていて、空港は殆ど消灯して閉鎖状態で、ホテルだけは予約していたのだが、タクシーもなければどうしてホテルに行けばよいのか困ってしまった。  
   幼い娘との家族旅行であったので、一人二人残っていた人に拝み倒して車を手配して這う這うの体で宿に着いた。
   翌朝のアルハンブラ宮殿の思い出は強烈で忘れられない。
   もう、40年以上も前の話である。

   南米では、ボリビアのラパス空港が停電で着陸できずに、隣のペルーのリマ空港に深夜に着いて、翌日引き返したのだが、商談がおかしくなったことがある。

   もう一つ南米だが、飛行機が飛ばなくて、困った思い出は、アルゼンチンのバリローチェでのこと。ここは、ディズニーの「バンビ」の舞台となった美しい保養地なのだが、田舎空港で、この便しかなく、悪天候で運休となって、1日足止めとなって、その後の旅行に齟齬を来した。
   遅延、運休、キャンセル、飛行機のトラブルは随分経験したが、とにかく、乗り切ってきた。

   これは、事故でもトラブルでもないが、今思い出しても冷や汗が出るのは、ハンガリーのブダペストのこと。
   丁度、ベルリンの壁の崩壊前後で、真っ先に門戸を開いたハンガリーに、取引先のT代表に招待されて訪れたのだが、当時外貨規制か、外国人が宿泊できる真面な外資系ホテルは、特別な外国人しか宿泊させず、ハンガリー人による予約を一切拒否していたので、Tは仕方なく、休暇で空いている知人の家を宿にしてくれていた。
   鬱蒼とした森の中の一軒家で、荷物を置いてから、T宅に行き、商談と会食で有意義な時を過ごし、深夜過ぎに、タクシーを呼んで宿に帰ることにした。
   ところが、その宿が昼の雰囲気と違う。何んとなく嫌な予感がして、門の外で運転手を待たせていたので、ハンガリー語でしか通じないのだが、僅かに分かるドイツ語などを交えて四苦八苦して、運転手に元に帰ることを納得させた。
   再びTの指示で宿に引き返した、門灯の明かりを頼りにカギを差し込むと幸いに空いた。
   家に入ると、リビングに誰か人が寝ている。聞いていないので気になったが、疲れてヘトヘトなので、自分の部屋に入って寝てしまった。
   朝起きたら人が居なくなっていて、Tが迎えに来たので事情を話したが、黙っていたので、そのままに終わった。

   考えてみれば、
   助かったのは、最初の時に良くも運転手を待たせておいて引き返したことで、この時、運転手を返してしまっておれば、この森の中で一夜を野宿しなければならなかったことである。住所も聞いていなかったし、分かっていても、深夜で殆ど民家もない森で人に聞くすべもない。
   これに懲りて、翌日、英国人エージェントと宿泊した米系ホテルに宿替えした。

   この時期、東ドイツやチェコなど開国間際の東欧にも時々出かけたが、時代の激動期、言葉も違えば相手は未経験の共産主義国家、
   良く危険も弁えずに動いたものだと若気の至りに反省しきりであったが、とにかく、異国行脚が多かったので、カルチャーショックには多少は慣れていた。
   
   もう、何十年も前のこと、パソコンもなければインターネットもない時代、クックの時刻表やミシュランのガイドブックや地図などを頼りにして、
   出張も個人旅行も、海外旅行のすべてを、自分で計画して手配していたので、ぶっつけ本番の対応には慣れていたということもあろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

住所表示システム、面か線か

2024年06月24日 | 海外生活と旅
   今日の日経の文化面に、下嶋一浩さんの「京都に出没、謎のひげ紳士」というコラムが掲載された。仁丹が設えた京都の道路標示看板の話だが、私が注目したのは、京都の住所表示である。
   西洞院通花屋町下、花屋町通西洞院西入、と言った日本では特異な条里制の住所表示である。

    日本の住所は、奈良や平安の時代には、京都のように、条里制の住居表示方法を導入したのだが、なぜか、そこから離脱して、面で住所を表示する方法に変わった。
   道路は付属物で名前がなく、一番最初に家が建った所が一丁目一番地で、次に建った所が二丁目、従って、最近では住所表示の変更で大分ましになったが、面表示なので順列が歪で分かりにくい。 

    余談だが、今は知らないが、サウジアラビアも、道路名も住所もなく、昔は、総て郵便は私書箱であった。
   タクシーに乗ったら余程上手く説明しないと目的地に行き着けないので、出張で何回か行ったが、タクシーには乗らなかった。 

   ところで、大まかに言うと、欧米の場合は、まず、道路ありきで、総ての道路に名前が付いていて、市役所に近いところから、その道路沿いに住居番号が付けられている。通りの一方の片側は奇数、反対側は偶数表示で、そして、次の交差点から、10番台乃至100番台の番号が一つずつ大きくなる。
   従って、通りの名前と、住居番号さえ分かれば、大体間違いなく正しい住所に行きつける。

    尤も、理屈はそうだが、実際には、入り組んでいたり、大きな門の中にまた通りがあって名前が付いていたりで、集合住宅が密集している場合など中々難しく、ウィーンで、シュタット・オペラの著名指揮者のアパートを探すのに難渋した記憶がある。
   ロンドンの場合も、アッパーかアンダーかの確認をミスして上下を間違って困ったロンドンっ子もいた。
   それにローマ時代の入り組んだ路地がそのまま残っていて、これが道かと思う様な所も多いのがロンドンで、兎に角、場所探しは何処も大変である。 
   現在は、デジタル革命でカーナビなど進化して問題ないのであろうが、そんな牧歌的なアナログ時代が懐かしい。 
 
   ずっと昔の話だが、それでも、ロンドンのタクシー運転手の資格取得試験は難しかった。
    運転手に聞いた話では、お客の要求する場所に最も早く最も経済的かつ正確に行かなければならない義務がある、と言うことで、
   その為に、試験を受ける前には、ロンドン中の道と言う道は総て単車で回って道を覚えたのだと言う。試験官の顔が鬼に見えるとも。
   ここで工事をしていて通行止め、ここで何時から何時まで通行禁止、それでは、ここからここへどう行くのか等々、複雑な難しい質問をされたら、道だけではなく交通標識、交通ルール等など一切を知っていないとダメである。
   実際に、ほんの数百メートルだが間違って行って引き返したことがあったが、運転手は自分が間違ったのだから、料金は要らないと固守されたことがある。
   道が分からないのでタクシーに乗ったのに、「お客さん、先日、岡山から来たとこなんですけど、どの道行きましょうか?」と言われた日本とえらい違いだったのを強烈に覚えている。

   住所表示システムを、面で表示するか線で表示するか、国民性の違いが垣間見えて興味深い。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カントリーライフを愛するイギリス人

2024年06月18日 | 海外生活と旅
   日本では新緑が萌えて緑の一番美しい季節だが、確かイギリスでは、ばらが咲き乱れるトビっきり素晴らしいシーズンである筈。
   June Brideという言葉が、それを最も象徴しているように思う。
 
   この口絵写真は、最も親しかったイギリス人夫妻ジム&マーゴ・アブラハムのロンドン郊外のギルフォードの邸宅というか自宅である。
   テラスから庭越しにヒースロー空港を展望したのが次の写真だが、とにかく、広大な田園地帯の中の自然に囲まれた素晴らしい邸宅である。
   バックヤードの広さは、日本なら、ゆうに、大型マンションが5~6棟は建つ広さで、季節には花々が咲き乱れ色々な果物がたわわに実るなど時々刻々と姿を変える。
   びっくりしたのは、多少、プロの手助けを借りるにしても、大手エンジニアリング会社の会長ジムがメカを担当して、会長夫人マーゴが庭仕事の一切を行って素晴らしい庭を維持していることであった。王立協会のセミナーにせっせと通って勉強していたという。
   晩餐会やオペラなどの鑑賞会には綺麗に正装して現れる英国紳士淑女が、カントリーライフに生きるときには、素足で庭を駆け巡る、私たち家族も仲間に加わって、時にはそれを楽しんだ。
   

   ところで、イギリス人のカントリーライフ志向は、いわば、イギリス人気質の象徴というべきもので、私の住んでいたキューガーデンの家でも、広大な裏庭があって温室も併設されていた。わが家がそうだと言うのではなく、そんな家が、並んで住宅街が形成されているのである。
   イギリスの家は、前庭はそれほど広くはないが、裏庭がその数倍もあって広いのが特徴である。
   私は、今日はマドリード、明日はパリと多忙を極めていたので、庭仕事の余裕はなく、東欧からの庭仕事の女性に世話を頼んでいた。近所の英国人家庭では、ナショナル・トラスト会員も多くて、それなりに、ガーデニングを思い思いに楽しんでいたようであった。
   
   ところで、私が付き合っていた要人などは、ロンドンから遠く離れた田舎に、故郷というか本拠を持っていて、ロンドンにアパートなり仮の宿舎を持って二重生活をしている人がかなりいた。
   重要な仕事は、ロンドンベースでないと仕事にならないので、週日はロンドンで仕事をして、週末に故郷に帰ってカントリーライフに勤しむという生活リズムである。

   ジムのケースは、いわば、カントリームードたっぷりの邸宅で日常生活を送りながら、都会へ鉄道で通うという田舎と都会綯交ぜの格好のトカイナカの選択だが、やはり、オールドエイジの名残というか、カントリーとロンドンでの住居併設が、英国人の好みのような気がしている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円安で海外旅行が難しくなった

2024年05月18日 | 海外生活と旅
   極端な円安にも拘わらず、日本人の海外観光旅行への意欲は依然として衰えない。
   私など、海外が長かったので、円安であまりにも割高になった海外旅行など、思いもよらない。

   Japan as No.1の時代、忘れてしまったが、円が強くて、1ドル80円台から100円以下の時代に、海外生活をして旅をしていたので、欧米などの物価は、それ程高いとは思えなかった。
   高級ホテルや高級レストランでも、手の届く価格で利用できたし、トップクラスのオペラやクラシックコンサートでも、日本並みの価格で楽しめた。
   尤も、まだ、日本の賃金水準が低かったので、今ほど、価格差を実感出来なかったかも知れないが、少なくとも、高級品や高級サービスの価格は、日本と殆ど変らず、我々並の海外駐在員にも、違和感なく生活が出来た。

   6月に来日予定のロイヤル・オペラの「リゴレット」のチケットが、1枚72,000円のようだが、最近殆ど変っていないにしても、私が、1993年まで維持していたシーズンメンバーチケットでも1万円を切っていたと思うので、円安の影響だとしても異常に高い。
   尤も、ロイヤル・オペラでも、パバロッティやドミンゴの「トスカ」と言った特別公演となるとチケット取得が至難のワザであるのみならず、当時でも、5~6万円はしたと思う。

   さて、東京大が授業料引き上げの検討を始めた。最大で年10万円増の64万2960円とすることも視野に入れると言うことであるから、円安と云っておれなくなる。
   日本の購買力平価は低いので、もう少し円安が円高に振れても良いと思うのだが、仕方がない。
   いずれにしても、円高水準から比べれば、現在の円の水準は半値であるから、私など、海外旅行など行ける身分ではない。

   さて、私の海外旅行だが、2013年のロシア、2017年の中国以来、止まっている。
   2年ほど前に、ニューヨークへの文化鑑賞とフィラデルフィアへのセンチメンタル・ジャーニーを思い立ったのだが、体力の限界を感じて諦めた。
   私の行きたい海外旅行は、このブログで書いたような、欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)やニューヨーク紀行と行った形の文化芸術鑑賞三昧の旅である。体力が許せば、思い出が凝縮していて懐かしいイタリアやギリシャの歴史的遺産や故地を気ままに歩いて芸術文化を回想する歴史散歩をしたいと思っていた。
   最近の企画力に富んだ新しい旅などには、全く興味がなく、
   もう、歳だし、煩わしい旅に出て、面倒を起したくないし、海外旅行は完全に諦めている。
   海外出張も家族旅行も殆ど自分一人で企画して手配をしてきたので、裏表、旅の情報や事情を知り得て、二重にも三重にも海外旅行を楽しめた。長い間、海外業務に携わり、海外にも住んでいたし、とにかく、若くて元気であったから出来たのであろう。
   諦めてしまうと、もう、海外旅行に行きたいという気が失せてしまって、逆に、色々な旅の思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡るのが面白い。
   NHK等では、海外情報の番組が頻繁に放映されており、実際に現地で味わった思い出を重ね合わせて見ていると、不思議にも、色々な物語が浮かび上がってくる。
   特に、歴史遺産などには、その後の、知見の増加もあって、新しい発見を感じて嬉しくなることがある。

   この口絵写真は、もう、50年も前のブエノスアイレスのナイトクラブ・ビエホアルマセンで撮ったタンゴ演奏のワンショットである。
   一眼レフのF1.2のレンズを開放して撮って増感現像したのだが、なぜだか、唯一の古い旅の記録として残っている。
   下記の修復なったレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の写真を見ると、必死になってレオナルド行脚に明け暮れていた頃が、無性に懐かしい。
   

   海外旅行は、若くて元気な時に行くべきで、行きたいと思うときが好機であって、円高などはどうでも良いのかも知れない。
   異文化異文明との遭遇と、世界規模での歴史的な驚異にインスパイアーされる魅力は、何ものにも代え難い筈。
   そんな気もしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングリッシュ・ブレックファスト

2024年04月04日 | 海外生活と旅
   今朝、久しぶりに、家族でロイヤルホストに出かけて朝食を取った。
   出張や旅行など外出するときには、朝食をレストランや気の利いた喫茶店などで取っていたが、最近では殆どそんな機会はなかった。

   とにかく、ファミレスなので、朝食メニューは結構揃っていて、その中に、イングリッシュ・ブレックファストがあったので、懐かしくなってこれをオーダーした。
   もう随分時間が経ったので記憶は薄れているのだが、ロンドンに5年間住んでいて、それに、その後何回もイギリスに行っているので、あっちこっちで、イングリッシュ・ブレックファストにはお世話になっている。

   外国旅行をしていると、大概のホテルは、比較的シンプルなコンチネンタル・ブレックファストで、似たり寄ったりなのだが、イングリッシュ・ブレックファストは、全く違っていて、桁違いに多種多様でボリュームがあるのである。
   私など、朝食後精力的に動き回っていたので、適当なレストランを見つけてゆっくりと昼食を取ることがままならなかったし、とにかく、米国流のファストフードなら別だが、ヨーロッパでは真面なレストランに入れば短時間で済むわけがないので、どこで昼食を取っても良いようにしておく必要があり、そんなこともあって、イギリスでは、タップリとしたイングリッシュ・ブレックファストを重宝していた。
   イギリスの色々なところで色々なイングリッシュ・ブレックファストを経験していたが、このブログの「欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)」の「28 イングリッシュ・ブレックファスト」で、私の所属していたジェントルマン・クラブRACの例を紹介しているので、少し引用しながら説明してみたい。
   自分のクラブなので、宮殿のような建物のRACをロンドンでの定宿にしていたので、存分に典型的なブレックファストを賞味してきたということであろうか。

   朝起きて、メンバーズ・ダイニングに行く(当然スーツ着用)と、ウエイトレスがおもむろに席に案内してくれ、私は、バーカウンターにあるFTやTHE TIMESを持ち込み、席に座る。オーダーを取りに来るので、多少メインは変わるが、何時も迷わず、フル・ブレックファストをオーダーする。
   メニューには、イングリッシュ・ブレックファスト等と野暮な表示はなく、THE CLUBHOUSE BREAKFASTである。
   CONTINENNTAL BREAKFASTに次のものが追加される。
   まず、第一は、私の何時も注文するもので、
   たまご2個(ポーチ、フライ、スクランブルか、ボイル何れか)、アイルシャーのベイコン、カンバーランドのソーセイジ、ブラックプディング、ロースト・トマト、グリル・きのこ、そして、刻んだキャベツとジャガイモと肉の炒め物(Bubble and Squeak)である。
   他の選択として、マン島のニシンの燻製、スモークサーモン、フィンナンのタラ、ブルックランドの朝食オムレツ、或いは、メイプル・シロップのパンケーキ、と言ったところ。
   私は、魚料理を注文することもあるが、大体新鮮ではなく塩辛いので、やめることが多い。
   それに、ジュースとブラックかホワイトのトースト、それに、コーヒー。このトーストは、3角形で薄く焼け焦げ状態で、たっぷり、バターとジャムを塗って食べると頂けるが、豊かなフランスパンとは大分違う。
   安いか高いか、これが、12.5ポンド、約2.500円であった。
   口絵写真は、その時サーブされた最初の皿である。

   さて、ロイヤルホストのイングリッシュ・ブレックファストのプレートは、下記の写真の通り。
   イングリッシュブレックファスト English breakfast
   1,230円(税込1,353円)
   フライエッグにグリルトマト、ベーコン、ベイクドビーンズ、ソーセージを盛り合わせた英国スタイルのモーニングプレートです。と言うことである。
   イングリッシュ・ティの場合もそうで、日本でサーブされているイギリスものは、実際とはかなり違うのだが、
   まあ、日本だから、こんな所であろうかと思いながら、懐かしく頂いた。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日葡交流400年に思うこと

2024年02月12日 | 海外生活と旅
   2月11日の日経朝刊に、「400 years and beyond」と言うタイトルで、「日本とポルトガル 4人の少年がつないだ絆、明日へ」と言う興味深い特集記事が掲載されていた。
   もう30年以上も前になるのだが、ポルトガルには2度ほど訪れていて、いくらか思い出に残っており、懐かしくなったので、記憶を辿りながら、思い出を反芻してみたいと思う。

   日本人が始めて訪欧したのは、九州のキリシタン大名の「天正遣欧少年使節団」の4人の少年で、リスボンに到着して440年、その足跡を追っての記事である。

   さて、私が最初にポルトガル風に接したのは、1974年に、ブラジルのサンパウロに赴任したときで、その後4年間在住したので、ポルトガル語が少しは分かる。
   1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた”トルデシリャス条約( Tratado de Tordesilhas)”で、西経46度37分を境にして世界を東西に二分割して、南米のブラジルからアフリカ、アジアにかけてポルトガルの勢力圏となり、ブラジルを植民地支配したのである。
   ポルトガルに始めて着いたとき、ピンクやグリーン、イエローやブルーと言った派手なペンキ塗りのマッチ箱のような家々がびっしりと並んでいるリスボンの家並みを見て、本国そっくりに作られた旧市街のサルバドールの街並みを思い出して感慨を覚えた。

   リスボンで最初に訪れたのは、使節団の少年たちも驚いたという口絵写真(ウィキペディアから借用)のジェロニモス修道院である。長くて重厚な回廊の印象が微かに残っている程度だが、とにかく、そのスケールの偉大さに感激した。
   良く覚えてはいないが、リスボンの高台から街並みを展望して、色々な通りをミシュランの緑本や地図を頼りにして下っていった。途中で出会った住人が、危ないのでカメラをしっかりと襷掛けにするように助言してくれた。
   とにかく坂の多い町で急斜面を路面電車が上り下りしていて、街の中にエレベーターがあった記憶がある。
   夜、観劇を期待して出かけた国立劇場では、良く分からないなりにフランスの芝居を観た。翌日、うらぶれたナイトクラブで、ファドを聴いた。
   他に訪れたのは、かつて王族の避暑地として愛された山間に貴族の城館が点在する美しい街シントラ。そして、ユーラシア大陸最西端のロカ岬で、大西洋を遠望した。

   最後に訪れたのがリスボンのベレン港、
   この港には、大航海時代の幕開けを記念した記念碑「発見のモニュメント パドラオン・ドス・デスコブリメントス」が立っている。
   記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首を模したモニュメントで、先頭に立ったエンリケ航海王子の雄姿が、ポルトガルの偉大さのすべてを物語っている。
   広場の地面に巨大な世界地図が埋め込まれており、その地図上のアジアの各都市に、発見という年代が打ち込まれているのを見て、その歴史に驚愕さえ覚えた。
   しかし、この何の変哲もない港町から、ヴァスコ・ダ・ガマが1497年にインドへ向けて出帆し、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、1499年にブラジルへ向けて旅立った。この港をベースに、ポルトガルの世界制覇の幕が切って落されて、日本へもどんどんポルトガル人が訪れてきたのである。

   かってのポルトガルは、人口は、僅か200万人、バルト海に向けて塩を出荷するセトゥバルとワインを輸出するオポルトの二つの港しか持たずに、外洋経験のある船乗りも不足していたと言う、そのポルトガルが一等国に躍り出て、殆ど一世紀半も貿易大国として世界に君臨したと言うのは、驚異と言う外はない。
   今のポルトガルは、EUでも、低開発国で、国家債務の過重に苦しんでいる経済的にも弱小国であることを考えれば、あの世界史に燦然と輝いた威光は信じ難いが、その片鱗を、ポルトガル旅で垣間見たのである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワールドカップ:アルゼンチン優勝

2022年12月19日 | 海外生活と旅
    【FIFA ワールドカップ カタール 2022・決勝】で、アルゼンチン3-3(PK4-2)フランス
    アルゼンチンが、PKの激戦を制して36年ぶりに3度目の優勝!と、すべてのメディアで報道。

    アルゼンチンの過去の優勝大会は、 1978年のアルゼンチン大会(自国開催)1986年のメキシコ大会 であるから、今回の優勝は劇的な展開である。
    この1978年の大会の時には、丁度、ブラジルで仕事をしていて、サンパウロでテレビを見ていたので、記憶に残っている。
    隣のアルゼンチンで、アルゼンチンとブラジルの対戦があったので、ブラジル人のサポーターが大挙してブエノスアイレスに向かった。サンパウロのバス会社の社長が無料バスを提供したり、とにかくサッカー王国のブラジルの熱血ファンたちであるからその熱狂ぶりは尋常ではない。
    「サンパウロにいて、ブラジルを勝たせる応援の仕方」と言う信じられないような記事が載っていると、秘書が新聞を見せてくれた。
    役所も会社も休みで、車の流れも殆ど止まって、サンパウロ中テレビにしがみついているのであろう、街は水を打ったように静か。
    アルゼンチン 0 - 0 ブラジルだったが、アルゼンチンが得失点差でブラジルを上回り決勝へ進出したので、3位決定戦となって、ブラジル 2 - 1 イタリアと3位に終って、
    残念ながら、ブラジルの優勝はならなかった。

   もっと記憶に生々しいのは、それより少し前、万年最下位(?)で振るわなかった地元サンパウロのサッカーチーム・コリンチャンズが、奇跡的に快進撃した時の革命騒ぎのようなお祭り騒ぎである。
   優勝決定戦のときであったか、もう40年ほども前のことなので、記憶は定かではないのだが、この時も、街中、テレビに釘付けで、コリンチャンズに点が入ると、街中の高層ビルから紙吹雪と大歓声。当時ブラジルブームで、サンパウロには2~30階建ての高層ビルやアパートが2000本以上林立していて、その全ビルのすべての窓から紙吹雪、実際にはトイレットパーの切れ端や手当たり次第の紙切れなのだが、一斉に舞い上がるのであるから、壮観であった。その日の夜は、オープンにした車に旗をひらめかせた若者達が鈴なりになって、クラクションを鳴らしながら車列をなして大通りを走り回るのであるから、もう革命である。

   ブラジルがこれであるから、同じくラテン気質の更に激しいアルゼンチンのこと、この比ではなかろう、
   さぞかし、国家を上げて、大変なお祭り騒ぎが展開されているのだろうと思う。
   とにかく、資源に恵まれた豊かな国の筈のアルゼンチンでありながら、21世紀に入っても、相変わらず真面な政治から程遠く、万年経済不況とインフレに悩まされ続けていて、新興国か発展途上国か分からないようなIMFのお荷物民主主義国だが、今度の優勝で、国威発揚となると素晴しい。

   私は、隣のブラジルに長く住みながら、アルゼンチンには、出張と家族旅行を含めて4回しか行っておらず、短期間の仕事と観光の束の間の滞在なので、豊かな文化に触れる良い思い出しか残っていない。
   ブエノスアイレスの綺麗な街の雰囲気や、ボカでのビエホアルマセンやミケランジェロの噎せ返るようなタンゴ、テアトロ・コロンでのオペラ「アラベラ」、バリローチェでの休日、それに、素晴しい食事、
   いずれにしろ、ブラジルもそうだが、民度も高く古くからの文明国でありながら、何故、あれほどまでに政治が稚拙で迷走ばかりしているのか、不思議で仕方がない。
   「Don't cry for me Argentina」、あのエビータの時代からも70年以上、何故、眠り続けて何時までも覚めないのか、
   尤も、日本でさえ、失われた30年が40年になろうとしていて、人口減で経済成長は全く望み薄であるから、お先真っ暗、
   政治とは不思議な世界である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AFP:イグアスの滝、豪雨で水量10倍に

2022年10月14日 | 海外生活と旅
   10月14日、AFPが、「イグアスの滝、豪雨で水量10倍に」と動画付きで報じた。
   ”アルゼンチンとブラジルの国境にある世界遺産のイグアスの滝(Iguazu Falls)で、豪雨の影響で水量が通常の10倍に増加した。当局は安全のため、観光客向けの主要遊歩道を閉鎖した。
   イグアス国立公園(Iguazu National Park)の職員がAFPに語ったところによると、滝の流量は通常、毎秒150万リットルだが、12日夜には同1450万リットルに到達。水位の上昇により、絶景スポットとして知られる遊歩道「悪魔の喉笛(Devil's Throat)」が一部水没し、閉鎖された。これほどの増水は10月としては「異例」だという。アルゼンチン側の遊歩道も11日に閉鎖された。”という。

   何故、この記事を書く気になったかというと、もう、半世近くも前になるが、1974年から1979年にかけて、サンパウロに駐在していて、パラグアイに仕事があって、アスンションに飛行機で、イグアスの滝経由で、何度も往復しており、それに、現地にも行っているので、馴染みの滝であり、この報道を見て当時を思い出したのである。
   その間に、一度、イグアス河の渇水で、このイグアスの滝が殆ど干上がって、滝壺の「悪魔の喉笛」だけに、水が落ちていた記念すべき記憶が鮮明に残っているからである。
   
   興味深いのは、当時、ブラジルのヴァリーグ航空が、サンパウローアスンション間往復の航空便を、イグアスの滝経由で運航していて、イグアス空港を飛び立つと、ボーイング727ジエット機が、イグアスの滝上空に急接近して、大きな巨体にも拘わらず、遊覧飛行機のように左右に旋回して、特に、悪魔の喉笛を中心に飛行して、乗客に観光サービスを提供するのである。
   それを知っているので、この飛行機に乗ると、必ず前方の窓側に席を取って、カメラを構えていたので、水涸れも含めて、悪魔の喉笛近辺の写真は随分撮っている。
   ただ、残念なのは、写真もネガも持ち帰って残っているはずなのだが、倉庫の堆く詰まった本や資料の山の中に埋もれていて、取り出せないのである。
   14年間の海外生活やそれ以外の海外旅行で撮った写真は膨大なのだが、この調子では、陽の目を見ずに処分されそうである。

   確か、空港から歩いて滝壺まで行けたような気がするのだが、ブラジル側から、いつも、ジャングル道を歩いて、悪魔の喉笛に一番近い展望台まで行って、巨大な滝を見上げていた。途中、生い茂った木々に、蘭が顔を出したり綺麗な蝶が舞っていたが、若気のいたりで、十分鑑賞する余裕がなかった。
   アルゼンチン側からは、遊歩道が滝壺の上側に設えられていたので、悪魔の喉笛を上から見下ろす感じであり、イグアスの滝の豪快さは、一寸削がれる感じで、違った滝の雰囲気を味わうことができた。

   ところで、この口絵写真は、ウィキペディアから借用した。中心の滝壺方向を写した写真だが、私の知っている滝壺は、激しく豪快に抉られたように切り込んだ、まさに、「悪魔の喉笛」そのものであった。
   毎年、膨大な水量と巨大な水流で浸食されて行くので、日々、姿を変えて行くのであろう。
   ルーズベルト大統領夫人が、イグアスの滝を見て「My poor Niagara... (かわいそうなナイアガラ)」と言ったと言われているが、私は、米国側とカナダ側と両方からナイアガラを見たが、滝壺だけのスケールというか水量はナイアガラの方がボリューム感はあるが、周囲何キロにも及ぶ延々と続く巨大なスケールのイグアスの比ではないことは事実である。

   蛇足ながら、イグアス近辺は、グアラニー族のキリスト教化を主題にした映画「ミッション」の舞台でもあり、当時の遺跡である世界遺産のトリニダー遺跡がパラグアイ側に保存されていて、訪れたことがある。
   

(追記)写真は、ウィキペディアより借用しています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最初はポンペイに入れなかった

2022年10月09日 | 海外生活と旅
   今日、先日録画した「ヨーロッパ街角󠄂中継 4Kで旅する永遠の都・ローマ」を観ていて、イタリア旅行のことを思い出した。
   私の場合、イタリアには何度か行っているが、出張の時も個人旅行の時も、自分ですべて手配して旅をしており、最初の頃は家族旅行であったので、予定通りに行かなかったり、失敗することが多かった。
   
   番組を観ていて、まず、思い出したのは、ポンペイである。
   はじめてポンペイに行ったのは、1973年12月。
   行ったと言っても、入り口までである。

   これは、フィラデルフィアで勉強していた時で、フランスからの留学生がクリスマス休暇で里帰りにチャーターしたパリ往復パンナム便に空席が有り、格安チケットが手に入ったので、ヨーロッパ旅行をしたのである。
   確か2週間ほどだったと思うが、パリからローマ、ウィーン、ザルツブルグ、アムステルダムを、ユーレイルパスで移動した。
   そのイタリア旅行の途次に、ナポリからポンペイに向かったのである。

   ローマから正午頃に、ナポリについて、ホテルにチェックインした。
   そこまでは良かったのだが、昼時であったので、軽い昼食と思って、ホテルのレストランに入って、何を注文したのか忘れてしまったが、待てど暮らせど中々食事が出てこず、食事が終ったのは、2時をはるかに回ってしまっていた。
   急いで、駅に行ったが、予定の列車などとっくに出てしまっており、良く分からないままに、直近の汽車でポンペイに向かった。
   ようよう遺跡に着いたが、太陽が燦々と照っていて、結構早い午後であったが、もう、閉館になって入れなかった。

   その当時、ウォートン・スクールの「國際ビジネス」の講義で、フランクリン・ルート助教授から、授業の冒頭で、「TIMEとPLACE」に関して、世界中で、考え方や対応の仕方など認識が大きく違っていて、これの理解を誤ると、大変な失敗をすると教えらた直後であったので、ショックであった。
   「一寸昼食を」と2~30分程度で終る東京の街角と違って、悉くスロースローで時間感覚のないイタリア、それも、頼りにならない南部イタリアで、日本人感覚で旅を始めたのが間違いだったのである。
   その後、再びポンペイを訪れて、ポンペイ見物を経験できたが、開園時間などいい加減なので、この時は念入りにチェックして早く出かけた。

   今回、この番組を観ていて、ビックリしたのは、もう半世紀も前になるのだが、あの当時は、まだ発掘が初期段階であったので、遺跡も全貌を現していなかったが、この口絵写真を見ると、ポンペイの街全体が現われているようで、今昔の感である。

   何故だか、理由が思い出せないが、フォロ・ロマーノも、3回目のローマ訪問で、やっと見物できたのを覚えている。

   時間感覚で、日本と根本的に違うのは、鉄道のタイムテーブル。
   クックの時刻表を念入りにチェックしても、この時間通りに発着するかどうかは、極端に言えば、その日にならなければ分からない。
   数分遅れても、お詫びのアナウンスを流す日本など、いわば、世界標準では、天然記念物なのである。

   後には飛行機に代えたが、当初はイタリア国内移動は、鉄道にしていたので、その苦い思い出を過去のブログを引用しながら書いてみると、

   最初の旅は、半世紀も前の前述の旅であり、殆ど記憶から消えてしまったのだが、ローマだったかフィレンツェだったか、始発のローカル列車だったと思うのだが、大幅に遅れて、プラットフォームも変わってしまって、大慌てしたのを覚えている。
   駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
   目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
   幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
   一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
   どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。

   もう一つの鉄道の旅の失敗は、21世紀に入ってからのイタリア旅の思い出で、アッシジからシエーナへ移動した時に、これも、乗り継ぎ駅で列車が異常に遅れて、次の列車を待っていては間に合わなくなるので、案内所で聞いて、ローカルバスで次の乗換駅に行くことにした。
   ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろバスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
   駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと行き先を確認せずに、発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
   しかし、この列車が反対方向の列車だった。仕方なく、次の駅で、対向する列車を待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
   一人だけ、鄙にも稀れな可愛い女の子が降りたのだが、お母さんが迎えに来ていて、去って行くと、静まり返ってしまった。
   地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
   2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
   この日は、あの有名な競馬パリオの当日であった。

   列車数が極端に少なくて乗り継ぎを何度も繰り返すイタリアのローカル鉄道で旅程を組んだのが間違いで、その上に、もっと頼りにならないローカルの路線バスに乗り換えるなど、今考えれば愚の骨頂だが、日本感覚でイタリア旅を緩行したので自業自得、
   何が起ころうとも、ケセラセラ、そんな大様な気持ちで、脱線旅行を厭わないスロートリップがイタリアには似つかわしいのかも知れない。

   ハチャメチャのイタリア旅行の思いでは五万とあって、思い出すのも嫌になることが多いのだが、
   しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチの国であり、ダンテの故郷であり、限りなき憧れの国であり、体が持てば、また、行きたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルリンの歴史的な写真を見て

2021年10月21日 | 海外生活と旅
   インターネットを叩いていたら、
   MATSURISTORY・COMの「有名な歴史的瞬間をとらえた41枚の珍しい写真」が出てきて、興味を感じて、見ていると、その中に、ベルリンのことについての写真が3枚出てきた。
   そのまま借用させて頂くと、次の通りである。

ベルリンの壁が崩壊して以来初めて、ブランデンブルグ・ゲートに通り道が出来たため、西ドイツと東ドイツが自由に両サイドを移動できるようになりました。

ベルリンでのジョン・F・ケネディーの「Ich bin ein Berliner」演説中に撮影された後方からの眺め。 [1963年]

ベルリンの壁の破壊の日に穴の隙間から花を渡す東ドイツの兵士。 [1989年]


   東ドイツが、1961年8月13日、東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて隔離したのが、ベルリンの壁の始まりで、1989年秋の東欧革命後の東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、壁の崩壊が始まった。
   ベルリンの壁が存在したのは、1961年から1989年まで、
   壁は、米ソ冷戦の象徴でもあり20世紀の歴史を凝縮しており、壁の崩壊は、共産主義優位の末路であり、「歴史は終った」かに見えたが、多難な世紀末と、想像を超えた新世紀の始まりであった。
   ケネディの演説は、壁が築かれた直後であり、花の写真は、壁の崩壊の日の一瞬であり、ブランデンブルグ門の車の渋滞は、壁の崩壊直後である。

   このブログに、ベルリンの壁崩壊時に東ベルリンに入ったときの思い出を記しているので、そのまま引用すると、
   ”ベルリンの壁が崩壊して、東ベルリンに自由に入国できるようになった直後、どうしても、この目で見たくて、休日を利用して、東ベルリンに入った。
   早朝、鉄道経由で、確かフリードリヒ通り駅Bahnhof Berlin Friedrichstraßeだと思うが、この検問所から東ベルリンに入った。
   ビザなしだったと思うのだが、門限が決まっていて、夜何時だったか忘れたが、この時間までに出国する必要があり、忙しかったが、私的旅行だったので、私の行きたかったのは、ブランブルグ門、フンボルト大学、ペルガモン博物館などで、偶然、マチネー公演があって、ベルリン国立歌劇場でオペラ「ホフマン物語」を鑑賞できた。
   ブランデンブルグ門は、壁の内側、東ベルリン側にあるので、それまで、アプローチできなかったので、感動冷めやらず、長い間、殆ど人影のいない門の傍で、感慨に耽っていた。
   ベルリンの壁のかけらだと言うので、記念にと思って安かったので買って帰ったのだが、どう見ても、新しい代物、ナチスの勲章や襟章の方が、記念になったかもしれない。
   その直後、経済団体が、東ベルリンで、東西経済交流の大会議を開いたので、参加したが、西ヨーロッパは、勿論、ソ連や東ヨーロッパからも沢山要人たちが参加した大規模な国際会議であった。
   その成果よりも、強烈に覚えているのは、第1日目の朝のセッションが終わった直後に、同時通訳用のレシーバーの過半が消えて帰ってこなくなったことである。
   当時、ソ連が日本製の電卓を水深測量計に改造して使っていたと言うから、貧しくて文明機器の不足していた東側の参加者が、通信機器か何かに転用しようと持ち帰ったのであろうと、噂していたが、共産主義体制崩壊の末路を見たようで、複雑な気持ちになった。”

   翌年に、東欧事務所設立準備のために、東西ベルリンを起点にして、東ドイツに入ってライプチッヒとドレスデン、そして、チェコスロバキアのプラハとハンガリーのブダペストを訪れた。
   この時は、ポッダムを訪れて、ポツダム宣言所縁の故地やサンスーシー宮、そして、ルターの宗教改革の口火を切った『95ヶ条の論題』を掲げたヴィッテンベルクの教会なども訪れて、歴史を実感した。
   どの大都市も、戦争や革命騒ぎで、壊滅的な打撃を受けるも、戦後復興も全く手付かずで、崩壊したそのままの状態でフリーズしたような哀れな姿を露呈していて、あらためて、ソ連支配の東欧諸国の失われた戦後の歴史の悲惨さを感じて愕然とした。情勢は、体制移行の過渡期で、殺伐とはしていたが、移動や視察には、何の支障も不安を感じることもなかった。
   東ドイツに入れば、舗装が無残に剥がれて疲弊した道路を、ぺろぺろの貧弱な小型乗用車トラバントが走っていて、
   田舎に出たら、ヒットラーが、非常時には、滑走路に転用しようとした中央分離帯のないハイウエイが、そのまま残っていて、延々と真っすぐに伸びている異様さ。
   その後、仕事の関係で、何度かベルリンを訪れたが、西ベルリンの方ばかりで、東西ドイツの統合で近代化した東ドイツの様子は分からない。

   ベルリンの象徴とも言うべきブランデンブルグ門だが、私の行った時には、殆ど人が居らず、壁の欠片やナチスの勲章などを売る露天がちらほらある程度で、側に立って手に触れて何時間佇んでいても問題なかった。それに、爆撃で崩壊して形態だけは残っていた国会議事堂の中にも、人が居らず、自由に入れたのを覚えている。
   二回目の東ベルリン訪問の時には、ホテルの隣に、ベルリン・コーミッシェ・オーパー(Komische Oper Berlin)があったので、オペラ「魔弾の射手」を観たのだが、まだ、軍国主義の風潮が覚めやらないのか、衣装が、厳つい軍服のオンパレードでビックリした。

   ベルリンの写真を観て、懐かしくなって、思い出を反芻してみた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロンドンでの英人との付き合いはイベントや観劇が多かった

2021年08月12日 | 海外生活と旅
   今日の日経の永山治氏の「私の履歴書」の記事は、「金曜夜にワインの集い 日本と異なる物の見方学ぶ」というタイトルで、白洲次郎のアドバイスで外人との付き合いが多かったと、その思い出を語っていて面白い。
   私も、アムステルダムに3年、ロンドンに5年住んで仕事をしていたので、似たような経験をしており、久しぶりに懐かしく思いだした。

   ロンドンだと、駐在員の場合には、どうしても、私のようにゴルフを全くやらない人間にとっては、日本人社会との付き合いは、いきおい、希薄になる。麻雀はあったのかどうかも知らないし、囲碁や将棋、テニスや卓球などと言ったスポーツ等々、カラオケやナイトクラブ、およそ日本人サラリーマンが興味を持つ殆どのことをやらなかったので、仕事上付き合う日本人や米国留学時代の仲間など限られた人たち以外との親しい付き合いは殆どなかった。
   親しく付き合っていたのは、オペラやクラシック音楽愛好家との交歓くらいであろうか。
   営業上、特定の企業とは密な接触が必要ではあったが、その他では、特に、日本人社会との特別な付き合いや接触がなくても、支障がなかったのである。
   ゴルフをやらない、シェイクスピアやオペラやクラシックにうつつを抜かす駐在員など殆どいなかったであろう。

   従って、仕事の関係もあるが、私が親しく付き合っていたのは、殆ど、イギリス人であり、イギリス人の営むイヴェントへの参加などが多かった。
   まず、オペラでの付き合いで、ジム夫妻は、私たちを、毎年、グラインドボーン祝祭オペラに招待してくれたし、他の英国人の友人が、珍しいアリーナを舞台にしたオペラや野外オペラに招待してくれ、私も、お返しにロイヤルオペラに招くなど、オペラ好きの英人夫妻達と頻繁にオペラ劇場に通って、オペラ鑑賞に明け暮れた。

   興味深かったのは、2年間招待を受けて通ったアスコット競馬で、会社など組織が保有する観覧席付きの個室で宴会をしながら楽しんだことである。勿論、モーニング、シルクハット姿である。
   遠くのゲートから、クラシックな馬車に乗って、女王陛下が入場し着席されるとレースが始まる。
   女王陛下の観覧席のある正面の横長の建物の上階に、セル状にかなり大きな個室があって、我々は、その1室を占めていて、レースが始まると外の観覧席に出て鑑賞する。馬券は、廊下に出てその階にある特設馬券売り場で買う。テレビなどで放映される綺麗な帽子を被った貴婦人然とした淑女や紳士の華麗で晴れやかな姿をした人々は、観覧席ビルとレースコースの間の広場に犇めいているのだが、下に下りて仲間に潜り込んでお祭りムードを楽しみ、独特な出で立ちをした予想屋と掛け合うのも面白い。マイフェアレディの世界である。
   もう一つ、同じような、少し簡素な観覧経験をしたのは、イギリス特有のクリケットで、これも、延々と続くクリケットを横目に、ワイン片手の談論風発、とにかく、楽しかった。

   イギリス人達は、何かというと、理由をつけて、レセプションや大パーティやイベントを開いて、集まっては、飲食と歓談を楽しむ。
   私の担当は、イギリスだけではなく、ヨーロッパなので、今日はパリ、明日はマドリードと言った調子で多忙を極めていたので、ロンドンには半分も居なかったが、イギリス人達との付き合いは大切にした。
   家庭で接待するのが最高のもてなしなので、呼びつ呼ばれつ、私たちも、英人達を我が家に招待して、何度もディナーやレセプションを開いてもてなした。

   シティのレセプションで、RAPE OF BRITAINと言う大演説をぶつことになったチャールズ皇太子を、私は、エントランスで、4人のお迎えの列に並んで握手しご挨拶が出来たのも、また、別の機会に、レセプションで、皇太子と日本の経営について語り得たのも、
   そして、別な建設プロジェクトで、同じく、レセプション会場のエントランスで、ダイアナ妃をお出迎えして握手したのも、イギリス人社会に入り込んでいたからであろう。

   ギルドホールでの大レセプションで、主賓のフィリップ殿下の演説が何十何分で終るか、スピーチ途中に平然と帽子を回して、掛け金を集めるのは、何でも賭けようかと言うギャンブル好きのイギリス人。
   公設ギャンブルが最も盛んで、スポーツの殆どはイギリス生まれという闘争心丸出しのジョン・ブル気質の中で生活していると、和を以て尊しとする我が精神もおかしくなってくる。
   今の天皇陛下がご出席になったシティのレセプションにも参加したが、とにかく、年中、晴れの舞台が開かれている感じである。
   偶々、イギリスにいた御陰で、良い経験をした。

   余談だが、次女に英語を学ばせようと、ジム夫妻は、2ヶ月自宅で預かってくれたし、幸い、大学と大学院をカンタベリーのケント大学で学ぶことになったら、ジム夫妻やマイク夫妻など英国の友人が、カンタベリーを訪れたり、陰に日向にと娘の面倒を見てくれていた。
   イギリスの永住ビザを持っていたので、日本に帰国してからも、継続の意味もあって、しばらくイギリスに行って旧交を温めていたが、昨年、ジムが逝ってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーロッパ大陸をドライブした時があった

2021年07月09日 | 海外生活と旅
   朝日デジタルで、「パリ市内の道、制限速度30キロに シャンゼリゼは例外」という記事を見た。
   パリ市は8日、市内の道路の制限速度を原則として時速30キロにすることを明らかにした。歩行者の安全や騒音の軽減が目的で、8月末から実施する。交通政策を担う副市長が、仏メディアに語った。市によると、シャンゼリゼ通りなどの一部の大通りは例外として時速50キロのままにするほか、車両専用の外環道も70キロを維持する。と言う記事だが、
   この記事を見て、あの凱旋門のサークルを、良くも無事に通過して、シャルル・ド・ゴール空港に辿り着けたものだということを、思い出して懐かしさを覚えたのである。

   後期高齢者に仲間入りをして、すぐに、自動車運転免許証を返納したので、既に車とは縁が切れたが、若いときには、随分、車で各地を走ってきた。
   私の免許証は、外国での取得で、ブラジルとヨーロッパでは、ビジネスと私用での足代わりであり、生活の必需品であったので、随分、あっちこっちをドライブした。

   さて、パリでの運転だが、ヨーロッパでは、イタリアやスペインなどラテン系の国では、極力避けていたのだが、1993年のヨーロッパからの帰国時に、フランスを10日ほど周遊しようとして、どうしても車でないと無理なので、シャルル・ド・ゴール空港でレンター・カーを借りて走ることにして、その最後の日に、シャルトルから空港への途次に、パリを抜けた時のことである。
   元々、運転が上手なわけでもなく、ラテン系のフランスであるから、安全を期して、車は、ボルボの一番大きな装甲車のような車を借りたので、まずまず、快適であった。

   問題の凱旋門のサークルだが、その後、信号機が付いて通過しやすくなったが、当時は、信号機もなくて、蜘蛛の巣状のサークルに車が一斉に集中して散らばって行くと言う状態で、何重列の輪の中から目指す支線へ抜けて行くと言うのは大変な緊張を要するのだが、誰でもがやっているのだから出来ないわけがなかろうと、無謀にも突っ込んでいった。

   この時の旅のルートは、ロワール渓谷の古城を回り、アンボワーズ城近くのクルーの館で、レオナルド・ダ・ヴィンチを忍び、ブルターニュに抜けて、サン・マロ、シェルブールから、モン・サン・ミッシェル、そして、シャルトルで旅を終えた。
   それまで、結構、フランス各地を仕事で回っており、休日や仕事の合間を利用して旅を続けていたので、かなり、フランスは知っているのだが、この時は、イタリア人の本「人の話を聴かない男と地図の読めない女」の典型的な夫婦と娘との家族旅行であった。
   旅のガイドは、すべて、ミシュランで、グリーンガイドで旅の概要を摑み、レッドガイドでホテルとレストランを選び、ミシュラン地図で車をドライブする。
   ルートは勿論、ホテルもレストランも、ミシュランの★★★に拘ってハシゴして走った。
   地図の読めない家内が、ナビゲーターであるから、どんな旅であったか。

   尤も、私の場合は、出張も個人旅行の場合にも、旅程の決定からホテルやチケット等旅行の手配など一切は、自分でやっていたので、途中でのスケジュールの変更などは自由自在で、いくらでも臨機応変に対応できたので、それほど、苦労することはなかった。
   旅行の途中は、殆ど英語で対応できたが、場合によっては、十分ではない独仏西などの断片を駆使(?)して切り抜けたりしていたが、ハンガリー語やチェコ語などになると、もうお手上げで、結構苦しみながらの旅も経験している。
   それでも、ラテンアメリカのように、殆ど英語が通じなくて、まずまずのポルトガル語と少々のスペイン語で対応しなければならなった所よりは、幾分は楽であった。
   
   ヨーロッパに居たときには、まず、最初は、飛行機で移動して、ドイツに行った時に、ハイデルブルグにどうしても行きたくて、フランクフルトでレンターカーを借りて往復したのだが、帰りに高速に乗り間違えて明後日の方向に走って難渋し、高速の待機ゾーンで止まっていたら、大型トラックの運転手が飛び降りてきて、誘導してくれて無事に帰り着いたことがある。厳つい顔の大男だったが、大学教養部程度の貧しいドイツ語に実に優しく応えてくれた。
   また、この時、ジュネーブで、湖を一周するために、レンターカーを借りて走ったのだが、途中で、エンジンブレーキを十分外していなかったので、煙を吹き出したので困っていると、田舎のお兄ちゃんが助けてくれたが、これが、フランス語で困った、
   しかし、旅で出会う人たちは皆優しくて親切であったし、時々車を止めて、アルプスを仰ぎながらの湖畔の瀟洒な波打ち際での喫茶のひとときが楽しかった。
   ラテン気質丸出しでいい加減な運転にどっぷりと浸かっていたブラジルから、急に、先進国ヨーロッパに来て、良く分からない交通法規の中で、無謀にも、レンターカーを走らせるのであるから、色々なことがあっても不思議はないのだが、当分、ブラジル免許で通していた。

   その後、アムステルダムの生活に慣れてからは、自家用車の大型のアウディで、夏冬の休暇の時に、ドイツ、オーストリア方面へ向かうことが多くて、
   ローテンブルグなどのロマンティック街道から、ノイシュヴァンシュタイン城、インスブルック、ウィーン、ブレンナー峠、
   ウィーンからドナウ川沿いに下ってリンツ、又別なときには、ハイデルベルク、ザルツブルグ、フランクフルトからドナウ川沿いの古城巡り、
   ブレーメンからハンブルグ、コペンハーゲン、帰途、ハーメルなどのメルヘン街道、
   著名な都市や観光スポットを数珠つなぎの旅だったが、車だったので、途中のヨーロッパの田舎の思い出が懐かしい。

   オランダとベルギーは地元なので、頻繁に各地をドライブした。
   ロンドンに移ってからは、仕事もあって、趣味と実益を兼ねて、スコットランドの北端からウエールズ、そして、イングランドの各地を、自家用車のベンツで走った。

   下手な運転であったが、殆ど問題なく、ヨーロッパで車生活を送って来れたので、まずまずであろう。
   ヨーロッパ大陸は左運転、イギリスは右運転、
   とにかく、今日はロンドン、明日は、アムステルダムと言った仕事をしていて、左右を使い分けながら車を運転していたのだが、若かったから出来たのであろう。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする