熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・30 トラファルガー広場の音楽拠点、St Martin

2005年08月16日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   三越のライオン像のモデルのあるトラファルガー広場は、ロンドンの観光拠点であるとともに、何かことがあるとロンドン子が群れ集う場所で、ロンドン爆破事故のあった前日は、オリンピックのロンドン招致決定で沸きに沸いた所である。
   広場に聳えるネルソン提督像の下から、北側ナショナル・ギャラリィに向かって立ち、右手を見ると、ポートレート・ギャラリィと大きな南アフリカ・ハウスとの間、ジョージ4世王騎馬像の後に高い尖塔のある教会が見える。
   この教会が、中々ユニークな教会 セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ(St Martin-in-the-Fields)である。

   この教会は、1772年に、ギブスによって設計され当時スラムの真ん中に建てられたバロック風の建物で、そんなに古くない。1930年代以降は、困っている人々の為のシェルターとして、或いは、俳優達のメモリアル・サービスの場所としても有名となっている。
   この教会のコリント風の柱に囲まれた正面3角形の派風には、教区内にあるバッキンガム・パレスの衛兵の紋章が彫り込まれている。

   私は、丁度昼時間になったので昼食を取る為に、露天商の立つ右手の入り口から地下にもぐって、クリプトに入った。地下が、簡易なレストラン「カフェ・クリプト」になっているのである。
   普通良く見る小部屋に分かれた教会のクリプトと違って、薄暗くて開放感はないが可なり広々としている。
   丁度、ドイツのラート・ハウス市庁舎の地下と同じ感じで、ここは少し狭いが、あのワインやビア・レストランと良く似た雰囲気である。
   正に大衆レストランで、酒類も置かれていて品揃いも豊かである。セルフサービス形式であるが、カウンターや料理をサーブする乙女達は実に優しく、それに、色々な人が利用していて結構喧騒だが、片付けなど敏速で、清潔に保たれている。
   地下には、他に、可なり広い小奇麗なみやげ物ショップがあり、地上に並んでいる露天の怪しげな品物よりは、質の高いロンドン土産が売られている。
   その奥に、絵画などの展示がされていて、古い銅版を丹念に磨いているグループもいる。

   階段を上がると、教会ホールの入り口に出た。
   かまぼこ型の丸天井で、装飾など極めてシンプル、しかし、明るい開放感のある教会堂である。
   堂内で、老嬢が、ビラをくわりながら、今から、ヴァイオリン・リサイタルが始まると言う。
   ロイヤル海外リーグ・シリーズの1日で、ロイヤル・アカデミィの優等卒業生によるリサイタルで、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタNo4、とブラームスのヴァイオリンソナタNo3で、ヴァイオリンはチェコのジェーン・ゴードン、ピアノはロシアのジャン・ローティオが演奏する。
   私も仲間に入って前の席に座った。正面の説教壇の前に、ピアノと楽譜台がセットされている。
   観客の相当数は、観光客だと思われるが、静かに、音楽家の登場を待っている。
   コチコチの音楽フアンで埋まったコンサートホールの演奏とは違った、音楽とはあまり縁のないリラックスした人々の前でのサロン風のコンサート、実に、良い雰囲気で、暖かい拍手が爽やかである。
   演奏は、勿論、本格的なクラシック演奏で、故国を遠く離れて頑張っている音楽家達の真剣さが胸を打つ。
   素晴らしい小一時間であった。
   入場料は、教会だから、示唆ドネイション3.5ポンド、出口で、係員が料金箱を持って待っている。

   ところで、ここは、あの一世を風靡したサー・ネビル・マリナー率いるアカデミィ・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ室内楽団の本拠地、そして、古くは、ヘンデルやモーツアルトが、この教会でオルガンを弾いている。
   有名なセント・マーチン・イン・ザ・フィールズ・クワィアによる日曜ミサでのコーラス等など著名なコーラス団や室内合奏団の演奏が定期的に行われていてさながらコンサート・ホール、公衆に開かれたクラシック音楽の殿堂でもある。
   ほのかなキャンドルの灯りで聞くヘンデルはいかばかりであろうか。
   地下食堂が夜には、ジャズコンサート・ホールに変わり、華麗なジャズの夕べとなり観客を熱狂させることもある。
   
   元々教会は、壮大なオルガンやクアイアを通して大衆に素晴らしい音楽を提供してきた。
   セント・ポール大聖堂のベートーヴェンの第九、パリのサン・ジェルマン・デュ・プレ聖堂の荘重なオルガン、ウイーン王宮教会でのウイーン少年合唱団のコーラス、等など、旅をしていると素晴らしい教会でのコンサートを経験することがある。
   娘も、大学のオーケストラに所属していて、あのカンタベリー大聖堂でのコンサートで、何度か演奏したと言う。

   この小さな教会、音楽家を援助し支えている、そして、大衆に音楽の喜びを伝え発信しているのである。


(追記)7月始めの10間ほどのミラノ・ロンドン旅、正味はたった8日間、しかし、色々なことがあった。
時間が経つと、芭蕉の様にまた旅心に誘われて出かけるであろうと思うが、人生そのものが旅。
30回になったので、これで今回の旅記録を終わりたい。


   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・29 アフタヌーン・ティー、 そして フォートナム&メイソン

2005年08月15日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   最近は、ロンドンでのショッピングと言ってもあまり興味がなく、限られている。
   本の老舗ハッチャードで本を探すこと、ジャーミン街のベイツで何か気に入った帽子を探すこと、そして、フォートナム&メイソンで紅茶を買うこと、これくらいであろうか。

   私は、フォートナム&メイソンには、目的を持って行く。
   それは、紅茶ダージリンのその年の新茶ファースト・フラッシュを買うことで、それがなければ、他のダージリンか上等なレア・ティーを買うことにしているのである。
   新茶は、季節商品で人気が高い為に、5月から8月にかけて店頭に派手にディスプレイされるが、時期を外すと完全に消える。
   
   もう10数年続いているが、帰国してからは、ロンドンへの旅行徒路や留学中だった娘に依頼するなりして手に入れていたが、それがダメな時は、店から直送して貰っていた。
   普通、フォートナム&メイソンで、250g入りの化粧カン入りの紅茶でも5ポンド程度なのだが、同じ250g入りのこの一番摘みの新茶1箱は、20ポンド以上しており、他の上等なレア・ティーと比べても高い方である。
   一頃、15ポンド程度だったが、ある年突然20ポンド近くに値上がりし、その年は、レア・ティー様の褐色の木箱に変わり数年続いていたが、今年からまた元の白っぽい木箱に戻った。
   木箱には、勿論、ワインのビンテッジの様に年代が入っている。

   何故、この一番摘みのダージリンに拘るのかと言うことであるが、色々、試みてみて、ストレートで飲んでこれが一番美味しいからと言う事に尽きる。
   ジムやマーゴは、笑っているが、イギリスと一番の違いは、水質の差。イギリスでは、極端に言えば、どんな茶葉でも美味しい紅茶を煎れられるが、日本では、水が合わなくて、茶葉を間違うと、香り、味、風味、総てが各段に落ちてしまう。
   今まで、高級なホテルやレストランでも、正直な所、美味しい紅茶を飲んだことがないし、街の喫茶店では、リプトンのティー・バッグに熱湯を注いでいるだけだとか。
   私は、日本では、自宅以外ではあまり紅茶を飲まないことにしている。

   ところで、美味しく紅茶を煎れる方法とか、正しい紅茶の飲み方とか、結構、巷では紅茶道には、喧しいが、この一番摘みのダージリンでは、新鮮な熱湯さえあり、多少、紅茶の煎れ方に慣れれば、特別な注意など要らない。いとも簡単に美味しい紅茶がストレートで頂けるのは請け合いである。

   ところで、このフォートナム&メイソンであるが、1707年創立の英国王室御用達の超名門百貨店。元々、食料品専門店だが、高級食器などは勿論、高級婦人服などを商い始めたので百貨店になってしまったが、食料品に関しては、世界的な名店である。
   19世紀半ば、クリミア戦争従軍中のナイチンゲールに、濃縮ビーフ・スープをヴィクトリア女王の命令で送った事は有名な話で、店頭に入れば、豊富な食料品のデスプレィに圧倒される。

   今回は残念ながら、1人だったので遠慮して行けなかったが、フォートナム&メイソンの4階(日本の5階)に、瀟洒なレストランがあって、伝統的なアフタヌーン・ティーやハイ・ティーを楽しむことが出来る。
   私は、これまでに、有名だと言われているサヴォイやリッツ等のホテル、昔華やかなりし頃のカフェ・ロワイヤル等、色々なところでアフタヌーン・ティーを楽しんでいるが、このフォートナム&メイソンは、紅茶のみならず、ケーキなどの専門でもある食料関連の第一人者で、これに過ぎたる場所はない。
   煌びやかな銀器に輝くセッティングで、3段重ねに盛られたスコーン、プチ・ケーキ、サンドイッチ、それに、選択された上等なレア・ティーの香り。パステル調のどこか女性的・王朝風の雰囲気で、相客次第だが、ここは、静かなアフタヌーンを憩うのに最適の場所だと思っているのだが、どうであろうか。

   私が、初めてアフタヌーン・ティーを頂いたのは、仕事で訪英した初めの頃で、元貴族の領主風の館で、女主人から、スコーンの食べ方等丁寧に教えてもらった。
   スコーンをナイフで半分に切って、クロッテッド・クリームとイチゴジャムをつけて挟んで食べた時の、あの紅茶との素晴らしいマッチングを今でも思い出す。
   余談だが、その後、素晴らしい食事でのワインとの出会い(料理とワインとの相性が良ければ両方とも素晴らしく美味しくなること)に、感動したのも、こんな出会いであろうか。
   アフタヌーンを豊かにしたのも、英国人のたゆまぬ食への拘り、決して食音痴でもないのかも知れない。
   英国人は、休日など、あの豊かなイングリッシュ・ブレックファストをブランチ風に食べて、後、遅い午後に、アフタヌーン・ティーを食べれば、それで充分で一日2食で行けるかもしれない。
   ハイ・ティーは、アフタヌーン・ティーより少し遅く、それを多少変形して、軽いベーコンやエッグ、サーモン料理を加えたもので、夕食に近くなる。
   
   紅茶文化に拘る英国人、だから、紅茶を確保する為に、中国でアヘン戦争を起こしたのかもしれない。
   ところで、フォートナム&メイソンの社史では、ボストンのティー・パーティ事件に関しては関わっては居ないと言っているがアヘン戦争については記述していない。
   何れにしろ、ロンドンの繁華な道路工事現場で、11時になると休息しながら美味しそうにマグカップを傾けて紅茶で憩っている人々を見ていると、イギリスは紅茶の国だとつくづく思う。
   しかし、晩餐やパーティでの終わりは、紅茶ではなくコーヒー。これについては、また別の機会に書きたいと思う。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・28 イングリッシュ・ブレックファスト

2005年08月14日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   イギリスは、食事が不味いと定評がある。
   フランス音痴の木村尚三郎先生によるとまずパンが悪いからだと仰る。確かに、食事の大半は、食材によると思われるので、これは正しいかもしれない。
   あの天下を唸らせているフランス料理も、イタリアで生まれてアルプスを越えて、ジャガイモだけのドイツでは花開かず、農産物とワインの豊かなフランスで花開いた。

   イギリス人は、厳しい原始林を切り開いて、巨木を切り倒して軍船ばかり建造して、世界制覇に傾注した。
   必要なものは、世界を押さえれば、何処からでも手に入ると考えたのであろうか、その所為か、今でも、世界最高のものは、すべて、ロンドンに集められて取引されている。あのワインさえも。
   それに、羊や牛を飼いならして牧畜を勧めて、国土を美しい田園地帯に変えてしまい、シェイクスピアの描く森さえも、総て牧歌的な森や林にしてしまったが、フランスの様な穀倉地帯や豊かな田畑は見かけなくなってしまった。

   ロンドンに居た頃、新鮮な魚を求めてフランスに行っていた友がいた、白身の大きな魚の切り身ばかりしかなく、まず、町に肉屋ばかりで魚屋がなかったのである。
   今回、カンタベリーでイギリス人に聞いたら、良質な食材や新鮮な魚介類、ワインを買いに、定期的にドーバーを越えて対岸のフランスのスーパーに行くのだと言っていた。スコッチ・ウイスキーもフランスの方が安いのだと言う。
   残念ながら、食文化に対する英仏の格差は、可なり大きい。

   したがって、一般的に言って、イギリスの食事は、相対的に美味しいとは言えないとは思うが、ロンドンでも、それ相応の出費を覚悟すれば、充分満足の行く美味しいイギリス料理に在りつける事を明記しておきたい。
   英国の王族や貴族が、宴会やパーティでフランスやイタリア料理ばかり食べていた筈はなく、イギリス人が、何時も、フィッシュ&チップスばかり食べている筈がないのである。
   それに、ロンドンは、大英帝国の首都であり、世界のレストランが各国自慢の料理を競っており、可なり上等な国際料理を楽しめることも間違いなかろう。

   さて、イギリスの食事であるが、個人的な趣味趣向が違うので、味は別として、朝の朝食、イングリッシュ・ブレックファストは、やはり、特別であろう。
   最初に、イングリッシュ・ブレックファストのボリュームに圧倒されたのは、もう20年ほども前のことで、スコットランドのネス湖の畔インバネスのホテルでである。
   とにかく、べたついたソーセージや煮たトマト、真っ黒なきのこやプッディング等全く異質な料理に閉口したのを覚えている。
   しかし、不思議なもので、その後イギリス旅を続けていると、このイングリッシュ・ブレックファストが、私のイギリスでの旅の一日のスタートとして欠かせなくなってしまったのである。

   スコットランド、ウエールズ、北アイルランド等は勿論、イングランドでも地方や所によって違ってくるが、現在一つの典型的だと思うので、わがクラブRACのイングリッシュ・ブレックファストを少し紹介したい。
   朝起きて、メンバーズ・ダイニングに行くと、ウエイトレスがおもむろに席に案内してくれ、私は、バーカウンターにあるFTやTHE TIMESを席に持ち込み、席に座る。オーダーを取りに来るので、多少メインは変わるが、何時も迷わず、フル・ブレックファストをオーダーする。
   小グループの朝食ミーティングをしている会員も居るが、大半は、ロンドンでのビジネススタート前のビジネス戦士、当然、スーツ姿のジェントルメン、これが、休日になると、一寸リラックスした家族連れが増えるが、ジーンズは許されない。

   メニューには、イングリッシュ・ブレックファスト等と野暮な表示はない、THE CLUBHOUSE BREAKFASTである。
   CONTINENNTAL BREAKFASTに次のものが追加される。
   まず、第一は、私の何時も注文するもので、
   たまご2個(ポーチ、フライ、スクランブルか、ボイル何れか)、アイルシャーのベイコン、カンバーランドのソーセイジ、ブラックプディング、ロースト・トマト、グリル・きのこ、そして、刻んだキャベツとジャガイモと肉の炒め物(Bubble and Squeak)である。
   他の選択として、マン島のニシンの燻製、スモークサーモン、フィンナンのタラ、ブルックランドの朝食オムレツ、或いは、メイプル・シロップのパンケーキ、と言ったところ。
   私は、魚料理を注文することもあるが、大体新鮮ではなく塩辛いので、やめることが多い。
   それに、ジュースとブラックかホワイトのトースト、それに、コーヒー。このトーストは、3角形で薄く焼け焦げ状態で、たっぷり、バターとジャムを塗って食べると頂けるが、豊かなフランスパンとは大分違う。
   朝と夜の晩餐の時は、必ず、コーヒーで、紅茶は、アフタヌーン・ティか、休息の時と決めている。
   安いか高いか、これが、12.5ポンド、約2.500円である。(ポンドが、割高なので、イギリスの物価は、米国、大陸ヨーロッパに比べて、異常に高いと思っている。)
   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・27 イングリッシュ・ガーデン、ギルフォードのジムの邸宅

2005年08月13日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   何回も通ったジムの家だが、時を経ると忘れてしまう、タクシーの運転手への指示を間違って道を折れたために、ギルフォードの郊外を回り道してしまった。
   ロンドンのタクシーでもそうだが、カーナビ等付いていない。ジムは機械に聡いので、自分のBMVには早くからカーナビを付けているが、使ったのを見たことがない。
 
   Merrowの、Downside Road, 小高い丘の上の気持ちの良いオープンスペースの袋小路があり、その中ほどにジムの邸宅がある。道の左右に大邸宅が並んでいるが、定かには分からないが、各家の敷地は、1000坪は遥かに越えると思われるほど広い。
   100坪程の前庭をバックに邸宅が建っていて、その後ろにプライベート空間の広いバックヤードが広がっている。
   イギリスの家の特徴は、パブリックに接する前庭は、比較的狭いが、塀や生垣で囲われたプライベートな後庭は、遥かに広い。
   私が住んでいたキューガーデンの家も、前庭は、大通りに面していて、植え込みと小さな花壇、それに、2台の車を駐車できる程度のスペースだったが、後庭には、温室が有り、大きなサクランボの木がある広い庭で、庭の花々の四季の移り変わりを楽しんでいた。

   ジム夫妻は嬉しそうに出てきて迎えてくれた。私たちは、荷物を置いてそのまま、何時もの様に玄関広間を通り抜けて裏庭に出た。
   広い庭は、なだらかに下に傾斜していて、境界の生垣の後にメドウが広がり、その後に緑に囲まれたギルフォードの家々、広大なサーレイ郡の田舎、そして、地平線の遥か彼方雲間の霞の奥にヒースロー空港が見える。
   ヒースロー空港は、第5ターミナルが完成真近かで、白い帯が見えるのだから、巨大な(?)ターミナルが完成したのであろう。
   キューに居た時、電話インタビューでアンケートに答えたあのターミナル5が完成したと言う、今昔の感である。

   勝手口を出た庭に面した裏庭は、高台になっていて、公園のテラスの様に安楽イスやパラソルがセットしてあり、その下の庭にはスイレンが咲く池があり、その周りを四季の草花が覆っている。
   私は、ここのチェアーに座って、涼風に吹かれながら、広大な緑滴るイングランドの田舎を見るのが好きで、ジムと何時間も色々なことを話す。  
   遠くに発着する航空機の幽かな灯を見ると郷愁を誘われる。

   娘は、以前に何度も連れて来ており、帰国後も1ヶ月ほどこの家に滞在してマーゴに英語を教えてもらったり、ケントの大学、大学院中は結構ここで面倒を見てもらっているので、我が家の様に嬉々として振舞っている。
   娘は、ほぼ人生の半分イギリスとオランダ(殆どイギリス)で生活しており、このイギリスが第2の故郷でもある。

   ジム夫妻と知り合ったのは、仕事の関係で、私たちが開発していたビル・プロジェクトの大手クォンティティ・サーベイヤーの会長であった。
   私がオペラが好きだったので、毎年、夏には、グラインドボーンのオペラに誘ってくれた。あの頃は、まだ古い劇場のあった頃で、兎に角メンバーでないとチケットが取れず、他にも誘いを受けたので、幸い何度もグラインドボーンの社交世界を経験させてもらった。

   ロンドンの遥か南の郊外に住んでいた貴族がオペラ好きの奥方を喜ばせる為に自分自身の大邸宅内にオペラ・ハウスを作ってモーツアルトのオペラを上演した。
   毎夏、オペラを上演し、ロンドン等から、紳士淑女達が正装して集い、華やかな社交舞台が形成された。
   正午過ぎから、男はタキシード、女は、それに準じた服装をして集まり始める。広大な美しい庭に、モネの「草上の晩餐」スタイルで、思い思いにシートを広げたり、チェアーとテーブルをセットして、美しいイングランドの夏の午後を楽しむ。
   庭のあっちこっちには、優雅なイングリッシュ・ガーデンに色取り取りの草花が咲き乱れ、池には水鳥が遊んでおり、遥か遠くハーハーの向こうには羊が草を食んでいる。
   
   オーケストラピットには、主にロンドン・フィルが入り、指揮者と歌手は、超一流に近い若手主体だが、ここを経た超一流のオペラ歌手が多く、水準は極めて高い。
   期間中、行き帰りに、ロンドンから特別列車が出ている。
   来年、ジムが招待してくれると言うので、出かけようと思っている。

   オペラは、遅い午後に始まり、晩餐の為の長い休憩を挟んで、夜遅く跳ねる。キューガーデンの家に帰り着くのは深夜、最初はリムジンで通ったが、イングランドの美しい田舎をドライブするのが楽しくなってからは、ベンツで通った。

   ところで、このジム夫妻の広大な庭だが、自然とガーデニングを愛するマーゴの担当で、メカニカルなことはジムが担当するが、後は、必要に応じてガードナーや専門家を雇うが、殆ど、マーゴが1人で管理している。
   庭の外れには、網を張った大きな畑があり、色々な木苺や果樹が実っている。季節ごとに極めて上等なジャムを手作りしていて、これがまた格別美味しい。
   美しい草花も総て、マーゴが植えて育てている。
   そのマーゴが、来日時に見た京都の紅葉の鮮やかな赤い色が目に焼きついて離れないと言う。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・26 ロンドンの環状高速M25,ギルフォードに向かう

2005年08月12日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   7月14日、カンタベリーでの朝をホテルのフル・イングリッシュ・ブレックファストで楽しみ、街に出た。観光地を離れるとこの街は、本当に何処にでもあるイギリスの田舎町で、実に静かでのどかである。
   外れのトマス・ベケット・パブに入って、サーモン・サンドイッチとギネスで昼食を済ませ、ゆっくりファイナンシャル・タイムズを読んだ。
   パブにあった古風な公衆電話をがたつかせていると、マスターが使いか方を教えてくれた。(もう、何年も経つと忘れてしまう。)
   ジムに、ギルフォード着の電話をしている間、マスターはさりげなく待っていて、切れ掛かると、間髪を入れずにコインを追加してくれた。

   3時前に、タクシーが来たのでホテルをチェックアウトしてギルフォードに向かった。途中、娘をピックアップして高速に入った。
   高速道路では、パトカーが何台か車を止めて検問していた。M25に入ると、嫌に警官の数が多くなり、上空では、警察のヘリが旋回している。
   スピード違反のチェックか、テロ対策なのか、運転手の話では、最近スピード違反の取締りが厳しくなり、至る所に監視カメラが設置されていると言う。
   この環状高速M25の交通量が異常に増加し、追加の5車線工事を始めているが、朝晩の交通渋滞は目も当てられない状態だという。
   
   ロンドンの市内からヒースロー空港に車で行くときには、高速M4に入って西に向かうのだが、その外に環状のM25が走っているので、可なり郊外に出たロンドンの大規模な環状道路である。
しかし、この道路がグレイターロンドンを取り巻いているロンドンの重要な動脈で、市街からはこの道路に出て、周回しながら目的地の東西南北に分かれて行く。
   
   私は在英中、この道路を経て、スコットランドやウエールズ、それに、オックスフォードやストラトフォード・アポン・エイボン、友人を訪ねて、ブライトンやギルフォードやケンブリッジ、それに、グラインドボーンのオペラ、古城や庭園等観光のため等色々な目的で郊外に出かけていった。
   遠出して、M25に入ると、何時も家に帰って来たと言う気がする懐かしい道路でもあった。

   この大動脈M25の建設は大変な英断だったと思うが、ロンドンの交通は、正に、このM25の改修改善との戦いだったのかも知れない。
   私は半周くらいしかしていないので分からないが、東京の様な異常な状態の環状道路とは、比較にならない位スムーズだったと思うが、それでも、何かが起こると身動きが取れなくなる。

   日本の場合、道路公団等道路行政が問題になっているが、首都圏の交通事情は世界でも最悪であろうか、それによる経済社会の損失は膨大なものがある。
卓越した英知と知性を持った為政者が居なかった為の不幸であって、道路の問題ではない。
まず真っ先に日本橋に架かっている高速道路を取り除くこと、これが出来なければ、日本の交通行政はないと思っている。

   今回は、M25を、時計の針の4時位の所から8時位の所まで回ってA3とのジャンクションで下りてギルフォードに向かったのだが、午後4時前後だったので、特に渋滞など異常はなかった。
   しかし、翌日、ジムが、ヒースローまで送ってくれた時は、混むと大変なのでと言って、以前より1時間も早く家を出たので、やはり、M25の交通問題は深刻なのであろう。

   アメリカでは大型車が多いが、今回ミラノでは小型車が多いのにビックリした。高速道路でも、小型車が巾を利かせているのである。
   兎に角、ヨーロッパは、車が小型化しているような気がする。
   今度会った時に、マイクが、ジャガーからレクサスに車を変えたと嬉しそうに言っていた。因みに、ワイフのブレンダはホンダをご愛用だと言う。
   根っからのエンジニア・ジムは、車はドイツ車に限ると言ってBMVに固守している。
   私は、オランダではアウディ、イギリスではベンツを使っていたが、色々とトラブルがあった。
   一度、ロンドンでレストランで会食中にベンツが盗まれたが、風の便りでマレーシャで見つかったと聞いている。

   味気ない高速を下りて、緑滴るギルフォードに入った。イギリスの田園は美しい。2年ぶりのジム宅訪問である。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・25 カンタベリー大聖堂での卒業式

2005年08月11日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   7月13日、RACをチェックアウトして、タクシーでヴィクトリア駅に向かった。娘の大学院卒業式に参列する為に、列車でカンタベリーに向かうためである。
   途中、バッキンガム宮殿の衛兵の交代に出っくわして宮殿前で、タクシーが動かなくなった。期せずして衛兵の行進を真近に見たわけであるが、爆破事故の所為か、観光客が少なかった。

   ビクトリア駅からカンタベリー・ウエストまで、1時間半くらいで結構近いが、ケントの田舎を抜けてドーバーのすぐ側まで行く。
   英仏海峡を繋ぐチャネル・トンネルが工事中の時に、現場を訪れて工事を視察したことがある。手前のフォークストンから急傾斜でトンネルが地中に潜り込み、右側にカーブしてドーバーの下からフランスに向かう壮大な工事であった。

   ドーバーの真っ白な断崖絶壁はやはり壮観で、フランスに臨むドーバー城の何とも言えない牧歌的な雰囲気と絶壁に掘られた大戦中ヒットラーと対峙していたチャーチル司令部の佇まいとの対照が興味深かった。
   ドーバーから、海岸よりに西に車を走らせると美しい田舎町ライに出る。少し走ると、完全な形を残したボウデイアム城があり、城壁の頂上から見るケントの田舎風景がどこか懐かしかった。
   ここから、ブライトン辺りまで走る風景も変わって面白いが、ケントの田舎を車窓から眺めていると、急に車でイギリス中を走り回った頃を思い出した。

   娘は、久しぶりに友人宅に投宿するので、私は、城壁の外れの古い邸宅を改装したチョーサー・ホテルにチェックインした。
   チョーサーとは、あの巡礼達の話のカンタベリー物語の作者で英詩の父ジョフリー・チョーサーの名前である。

   もう1人のカンタベリーの有名人トーマス・ベケット。12世紀、カンタベリー大司教として聖職者裁判を国家移管とするクラレンドン法に反対して王と対立、王の騎士に暗殺されたが、教皇に列聖されて、以後、聖地として敬虔な信者の巡礼が絶えない。
   6世紀に起源を持つカンタベリー大聖堂だが、その後拡張・改修を経て今日の様な壮大なゴチック建築となり、英国国教会の大主教座が置かれている総本山である。

   この大聖堂で、娘の大学の卒業式が毎年行われている。2年前に大学卒業の時にも列席したので覚えているが、実に荘厳で、正面壇上に上がって学長から一人一人卒業証書を受領する。
   卒業生の家族や関係者がネーブで神妙に待っていると、学生達が入場して横の座席1列に前から後ろまで座る、正面のブラス主体の楽団が荘重な音楽を奏でると、背後の正面の大扉が開いて学長他関係者が威儀を正して入場、静かになると、来賓等関係者の一寸気取った大司教張りのスピーチが始まる。やはり、大聖堂の卒業式、何処までも荘重である。
   世界各国からの留学生が多いので、大聖堂内は民族衣装で着飾った人々で華やか。イギリス人も家族や知人総出で来ており、卒業生の名前を呼ばれて登壇すると盛んな拍手。我々が大学を出た時は、全学連が激しい攻防を繰り広げていた時期で、親が卒業式に出るなど考えられなかった。
   
   卒業式の前に、大聖堂敷地内のへンリー8世に由来するキングズスクールの建物に設置された事務局で、ガウンを受け取り着替えて記念写真を写す、広いグリーンコートを横切って大聖堂に向かう。
   大学卒業時はグレイの、今回は大学院卒でオレンジイエローのガウンに変わっていたが、自分も何十年も前にフィラデルフィアで同じ恰好で写真を撮ったのを思い出した。
   正門である16世紀の華麗なクライスト・チャーチ門からではなく、広々としたグリーンから大聖堂を遠望して大回廊に入り、中庭を見て歩廊を歩きながら、大聖堂の身廊に入るのも印象が違って良いものである。
   このカンタベリー大聖堂は、1988年に文化遺産に登録されたとか、大分以前に訪れたことがあるが、後は娘の卒業式に来るだけなので、儀式で閉鎖されていて、残念ながら、まだ、古いトリニティチャペル等は見ていない。

   私は、このカンタベリーの古い街並みが好きで、時間があると散歩に出る。何百年も経た実に風格のある建物が、そのまま現役として生活の場に使われている。
   リトル・ヴェニスのような雰囲気で美しい川べりの500年前の床が傾いたレストランで食べる美味しくもないイタリア料理、1階が弓なりになって傾いている美術工芸の店、歪んでガタガタのガラスをステンドグラス風の窓にした老舗の骨董屋、美しい花の咲き乱れる中庭のある古い館、思い思いに趣向を凝らした家々のハンギング・フラワー・バスケット等など、そんな所を歩きながら、疲れると古風なパブに入ってギネスを煽る。

   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・24 ジェントルメンズクラブと言うプライベートな世界

2005年08月10日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   私のロンドンでの定宿は、バッキンガムパレスに近いポール・モルにあるジェントルメンズクラブRAC(THE ROYAL AUTOMOBILE CLUB)と言う欧米に発達したプライベート・クラブである。
   日本では、ジェントルメンズクラブと言うとバニーガールが出てくる秘密クラブの様な印象を持つ人がいるが、イギリスではれっきとした由緒正しいプライベート・クラブで、謂わば、メンバーであることがステイタス・シンボルでもあり、履歴書に所属クラブの名前を記入する人も多い。

   在英当初、このジェントルメンズクラブの英国での存在と意義を充分に理解していなくて、IOD(取締役協会)と言うクラブから、勧誘があったのを無視して入らなかった。
   しかし、イギリス滞在が長くなると、重要な商談やプライベートな会合などで、イギリス人に誘われると、決まって彼らの所属するクラブに誘われることが多くなった。
  それに、殆どのパーティやレセプションは、企業の自社ビル内かこのようなクラブで開催されるので、イギリスでのホテルへの企業の宴会需要は少ない。(名だたる企業では、必ず自社ビルの最上の部屋を接客用のダイニング・ルームにしているのはこのためであり、逆に、高級ホテルで接客されても喜ばれない。)
   と言うのは、イギリスでは、客の接待の場合は、まず自社の施設で行うのが最高のもてなしと見做されていて、次は、自分がメンバーであるプライベート・クラブでの接遇であり、大規模で正式となると、大規模なクラブが独壇場となる。
   結婚披露宴等も結構多くて華やかである。

   私はジェントルメンズクラブへの入会の必要性を感じてあっちこっち手を回したが、中々大変で、男の子が生まれればすぐに入会申し込みをして成人を待つと言うくらい大変なクラブもあると聞く。
   とにかく、然るべき資格を有しているか然るべき組織に所属しているか等など必要な要件をクリアーする必要があり中々メンバーになれない。
   イギリスではゴルフクラブも、このジェントルメンズクラブで、資格要件が厳格である。
日本のゴルフ場が、クラブの趣旨を曲解して、その会員の資質等を全く問題にせずに、まして、プレイしない法人会員まででっち上げてカネで会員権を売買する体たらくとなったが、崩壊するのも当然かもしれない。

   英国人の友人達の勧めでRACに申し込むこととして、ここは一か八か、米人とスエーデン人の友人社長2人の推薦状を貰って応募した。
   2~3年待ったであろうか、ようやく、入会面接の呼び出しが来た。
   2階の役員会議室の待合室に、何人か私と同じ様な面接待ちの紳士が慎重な面持ちで待機している。
   私の番になって、役員会議室に招じられた。大きなテーブルの向こう側には、威儀を正した紳士が6人座っている。
   私のロンドンでの仕事については比較的知られて居たのでスムーズに話が進んだ。それに、アメリカのビジネス・スクール(WHARTON SCHOOL)でのMBAが、役に立ったのかもしれない。
   スポーツのことについても聞かれたが、これは私にはあんまり縁がなく、ゴルフもやらないと言うと日本人には珍しいとビックリしていたが、ここは同じ本場の英国、その代わりシェイクスピアに通い詰めていると言ったら笑っていた。
   イギリスは、文武両道を尊ぶ国、まして、ここは、自動車をスポーツに仕上げたクラブなのではあったが。
   名を成した英国紳士6人を相手に30分ほどの面接、終わってホッとして部屋を出た。

   何週間か待つと入会許可の通知が来た。1992年のことである。

   このRACは、1897年12月8日の創立で、エドワード7世英国王の命令で、THE ROYAL AUTOMOBILE CLUB と呼称することになったが、ROYALを冠するのはここだけで、今でも総裁は、エリザベス女王陛下であり、2階への階段の踊り場に素晴らしい女王の肖像画が掲げられている。
   ポール・モルのクラブ・ハウスは、さながら宮殿の様な建物で、中には、高級ホテルにも優るとも劣らない大ホールや多くの宴会場、レストラン、会議室などがあり、また、会員の為の図書室や執務室、休憩室、広いスモーキングルーム、バー、パブ、それに、地下には、プール、サウナ、スポーツジム、玉突き場などスポーツ施設も完備している。
   フロント横には、ブリティッシュ・メイル(郵便局)があり、私書箱を借りれば、事務所を構えることが出来る。
   ウッドコットに立派なゴルフクラブを持っているので、ゴルフを楽しむことができる。
   ところで、このクラブ、歴史的な経緯から日本のJAFと同じサービスもしていた(今は分離)不思議なクラブでもある。

   この建物の上階に、ゲストルームが在って、私の宿舎となる。古い建物なので部屋も極めて古風で、ファシリティも近代的ではなく、まずまず。冷房用の空調がないので、扇風機を回している。
   部屋のドアには、20センチ四方くらいの黒板が着いていて紐で鉛筆がぶら下がっている、メイドへの伝言板であろうか、エレベーターもガタガタ。ヨーロッパの中世の床の傾いたホテルほど趣はないが、ほぼ、100年くらい前の建物だから、仕方がない。それに、TVは4つしかチャネルがなくCNN等ケーブルTVは入らない。しかし、結構これに満足している。
   部屋の窓から、チャールズ皇太子の住居クラレンス・ハウスやバッキンガム・パレスの屋根が見える。
   便利が良くて、安心なので、宿所としては最高だと思っている。
   問題は、ジェントルメンズクラブなので、土日以外は、クラブ内では絶えずネクタイ着用のスーツ姿で振舞わなければならないことで、クールビズなどもっての外であること。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・23 世界一の植物園キューガーデン、イギリスでの故郷

2005年08月09日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   7月11日、朝から、地下鉄を乗り継いで、キューガーデン(正式には、The Royal Botanic Gardens, Kew)に出かけた。  
   乗り継ぎのアールズコートまで来るともう郊外の雰囲気、ウインブルドン行きとの分岐でリッチモンド行きに乗り換える。便数は少なくて不便だが、急に日本の郊外電車風の車内に変わる。

   12年ぶりのキューガーデン駅である。裏手であった北側の駅前が、小奇麗な高級住宅地の様な瀟洒な雰囲気に変わっていた。
   渡り廊下で反対側の駅正面に出たが、このあたりの環境は殆ど変わっていない。郊外住宅街の小さな小奇麗な駅前で、ビルやビジネスとは殆ど縁がない。
   スターバックスと街路にテーブルを広げた綺麗なレストランが増えたくらいであろうか。小さなスーパーや銀行、果物屋や花屋、雑貨屋、クリーニング店、懐かしい店がそのままの佇まいで残っている。
   
   駅前の小さな広場の向こう側に、私たちが3年間住んでいた家が見える。キューガーデンのビクトリア門に真っ直ぐ突き当たるリッチモンド通りの左側の一番最初の一戸建てが、我が家であった。広いバックヤードには大きなサクランボの木があって、毎年、大変な数の実をタワワニ付けていたし、四季毎に色々の花が咲いてくれていた。
   変わっていない家の前を通ってキューガーデンに向かった。

   私は、あの頃、このキューガーデンの年間メンバー券を持っていて、休日が取れるとカメラを抱えていそいそとこの公園に出かけて、四季の移り変わりと自然の営みの不思議さを感じながら散策していた。
   木枯らしの吹きつける厳しい冬、ほんの少し陽気が緩むと一面に広がるクロッカスの花畑、桜が咲き誇る春、白鳥や水鳥、そして、雉等が雛を従えて岸辺を歩く初夏、温室やアトリウムの世界中から集めた不思議な花や植物、広大な公園の何百年も立ち続ける巨木、・・・行く毎に風景が変わっていたが、多忙な日々を過ごしていたので、私には、公園での日々が憩いであった。

   ビクトリア門の辺りのパブリックスペースが綺麗になっていたが、公園の中は昔のままである。
   もっとも、私が良く出かけて高山植物の花の写真を撮っていたアルパイン・ハウスが工事中で消えていたし、キュー宮殿が修復作業中で入れなかったが、広大な池や庭園は変わっていなかった。
   この公園には、大英帝国の威光を楯に世界中から植物が集められ、栽培され研究されていて植物学の重要な研究拠点でもあるようで、そこまで行かなくても、ガーデニング講習位は受けておくべきだったと後悔している。

   テームズ川が優雅に蛇行する公園の外れに出て、森の中を引き返して、池の畔で水鳥親子の戯れを観察していた。
   白鳥のヒナは大分大きくなっていたが、やはり、これは醜いアヒルの子。他の水鳥も卵が孵った後であろうか、沢山のヒヨコが親鳥を追っている。親鳥がどんな色や形をしていても、どのヒヨコも鶏のヒヨコと同じ白い縫ぐるみの様な姿をしているのが面白い。

   この公園には、至る所に長いすが置かれていて散策者を慰めてくれる。イスの背もたれには、「この公園を限りなく愛したわが父母メアリーとジャックの思い出の為に」等の献辞が書かれている。
   私も、娘達に頼もうかと思っている。

   ビクトリア門を出て、キューロードを左に歩いて、「メイド・オブ・オナーズ」に向かった。所謂、喫茶店であるが、王室に仕えた女官長があみ出したスコーンとかが抜群の味で、私はこれを目的に何度もここに通ってアフタヌーン・ティを楽しんだ。キューに住んでいた時には、休日ごとにこのスコーンんを買いに来た。
   普通のスコーンとは違って、バターをたっぷり含ませて甘く味付けされたスコーンで、焼きたて数時間しか風味と味が持たないが、ここのたっぷりとしたイチゴケーキと共に私のキューの思い出が凝縮されているのである。

   残念ながら、月曜日で12時弊店、店は閉まっていた。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・22 ミュージカル、 ブルック・シールズの「シカゴ」

2005年08月07日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   7月11日、オペラとシェイクスピアを楽しんだので、ミュージカルに出かけようと思った。
   ミュージカルは、ブロードウエイ、即ち、ニューヨークが本場の印象が強いが、ロイド・ウエーバーがいる所為もあって、ロンドン・ウエスト・エンド発の作品が結構多い。
   今回、まだ、ロンドン三越のすぐ側、マジェスティック・シアターで「オペラ座の怪人」が演じられていた。15年も以上前に、娘が好きだったので何度も見に行ったが、同じ劇場で毎日同じ演目で公演、凄いことである。
   
   私が最初に見たミュージカルは、「A Little Night music」で、美しい舞台だと思った。
   その後、ブロードウエイで、まだ元気だったユル・ブリンナーの「王様と私」やレックス・ハリソンの「マイフェア・レイディ」を見たが、チャーミングな相手役の女優の名前を忘れてしまった。
   一昨年、ロンドンで「マイフェア・レイディ」を見たが、とにかく、映画のように面白く、特にイライザの父親が秀逸であった。
   映画の名優も、舞台で見ると極めて新鮮で、一期一会で瞬間に消えてしまう演技、この喜びはやはり何物にも変えがたく、私が、ホールやシアターに通い続ける理由でもある。
   今度は、「メリー・ポピンズ」が上演されていて、2階建てのロンドンバスの横っ腹に派手な広告が描かれていた。

   何を見に行こうか迷ったが、結局、コベントガーデンからチェアリングクロスへ歩く途中、大通りに面して派手なカンバンが架かっているアデルフィ劇場の「シカゴ」を見ることにした。
   アカデミー賞を取った映画はWOWWOWで見ていた。何がアカデミーに値するのか良く分からなかったが、もともと、多くの有名な映画は、舞台のミュージカルがオリジナルの場合が多い。それに、この「シカゴ」も随分長い間劇場で演じられている。

   若い客が劇場前に溢れていたが、良い席が沢山余っていた。2階席の正面、少し右よりの最前列であった。
   この劇場は、ロンドンでも施設としては貧弱な方であろうか、あのマジェステイックのような豪華さと品はないし、比較的ロングランを重ねた「レ・ミゼラブル」や「キャッツ」の上演劇場と比べても当然おちる。
   もっとも、言っているのはパブリック・スペースの話で、舞台や上演施設については全く問題なく、存分に楽しめた。
   ロンドンには、大変な数の劇場があるが、案外有名な劇場でもこのようなものかもしれないと思った。

   私は、入るまで、主役のロクシー・ハートを演じるのが、ブルック・シールズであることを知らなかった。
   最近は銀幕から消えているので忘れていたが、「プリティ・ベイビー」での美しい聖少女、それに「珊瑚礁」での初々しい乙女姿が印象的だが、その後映画も見ていないし、成熟した大人のシールズは、時折見る写真しか記憶にない。
   
   とにかく、スマートで颯爽と登場したブルック・シールズの勇姿、美少女の面影は殆どないが、歌い踊るミュージカル・スターの素質十分。
   美声ではないが少し堅い特徴のある声は、パンチが利いてメリハリがあって中々素晴らしい、ウエルマ・ケリーを演じるベテランのシャーリー・イサベラ・キングと対等に歌って踊っている。

   映画ではリチャード・ギアが演じる弁護士ビリー・フリンを黒人俳優クラーク・ピータースがやっていたが、この方が、何か得体の知れないギアよりは、シカゴの悪徳の匂いが出ていて面白いと思った。
   それに、マトロン・ママ・モートンを演じるジー・アッシャの芸の達者さ、このようなベテラン脇役の存在がロンドン・ウエスト・エンドのミュージカルを豊かにしている。
   舞台のバック中央に額縁状に設置された楽団が、ガース・ホールの指揮で、縦横無尽にジャズ調のミュージックを熱演、舞台正面で素晴らしい踊りを披露する美女軍団と呼応して、華麗な舞台を演出。
   どちらかと言えばストーリー性のあるミュージカルを楽しんできた私には、「オー・カルカッタ」や「42nd Street」等を見たときのドタバタとあい通じるところがあって面白かった。

   とにかく、オペラやシェイクスピアとは違った感激を味わって劇場を後にした。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・21 ロイヤル・オペラの「オテロ」、デズデモーナにサイン貰う

2005年08月06日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   ロイヤル・オペラでシェイクスピア・オペラを鑑賞できるのは、私にとっては2重の喜びである。
   シェイクスピアをテーマにしたオペラはいくらかある。
   しかし、リア王にも挑戦したと言われており、あの晩年の「ファルスタッフ(ウインザーの陽気な女房たち)」の他に、「オテロ」と「マクベス」を作曲するなど、オペラ作曲家としてまともにシェイクスピアと対峙したのはヴェルディだけである。
   晩年のヴェルディが、何故、2つの悲劇とは全く違った、陽気で不埒なファルスタッフに挑戦したのか不思議であるが、ヘンリー4世を観て、ファルスタッフを主人公に恋の戯曲を所望したエリザベス女王と同じ心境であったのであろうか。
   ファルスタッフは、シェイクスピア劇で観ても、オペラで観ても,そして、野村万作の狂言で観ても実に楽しい。
   ウイーン国立歌劇場で見た、大詰めの幻想的な夜の森の情景が、なんとも懐かしいが、オールド・ビックで見た背広を着たRACのファルスタッフも面白かった。

   ところで、ヴェルディの「オテロ」であるが、何回か鑑賞の機会があったが、オテロとデズデモーナとヤーゴの3人が揃わないと面白くない。オテロはプラシド・ドミンゴだが、デズデモーナは別なソプラノが歌っているDVDが何種類か出ていて、その選択が興味深い。
   映画も数点あって夫々楽しませてくれるが、色々な演出や映像で比較しながら見て楽しむのもシェイクスピア鑑賞の醍醐味である。
   余談だが、イギリス演劇界では、オテロは、カラードの役者がやることになっていて白人役者はダメなんだと、偉大なシェイクスピア役者サー・アントニー(シャー)に直接聞いた事がある。
   これを聞いたのは、マクベスでRSCと来日した時だが、次の「オテロ」で来た時には、やはり、オテロではなく個性的なヤーゴを演じて主役オテロを食っていた。 

   最近観た「オテロ」は、リカルド・ムーティ指揮ミラノ・スカラ座の来日公演で、2回出かけた。
   ベルディ没後100年記念に上演された「オテロ」バージョンで、タイトル・ロールは、ドミンゴから変わっていたが、それなりに楽しい舞台であった。
   
   私にとって忘れられない「オテロ」は、10年以上も前に、この同じロイヤル・オペラで観たプラシド・ドミンゴの舞台。ゲオルグ・ショルティ指揮、デズデモーナはキリ・テ・カナワ、ヤーゴはライフェルカスであった。
   自縄自縛ドンドン深みに入り込み苦悩するオテロをドミンゴは鮮烈に演じていたし、円熟に達していたはずのキリ・テ・カナワの実に初々しいデズデモーナ、それに、淡々と演じながら凄みを利かせるライフェルカスのヤーゴ、それに、パーティで見た疲れ切っていたはずのショルティのエネルギッシュな指揮。今でも、ビデオになったこの舞台を楽しんでいる。

   所で、今回の「オテロ」、兎に角、聴く機会のなかったルネ・フレミングのデズデモーナを聴きたかった。
   チケットが取れないときには立ち見でも入ろうと思っていた。
   幸い手に入った席は、U6で平土間席の左最後部で、私たちがロンドン在住時代に持っていたシーズンメンバー席のすぐ側で懐かしかったし、遮るものなく存分に楽しめた。
   指揮は主席指揮者アントニオ・パパーノ、オテロはイギリスの名テノール・ベン・ヘプナー、ヤーゴはルチオ・ガロ、エミリアはクリスチン・ライス。
   アメリカの白人ソプラノには個性的な歌手が多いが、今回のルネ・フレミングのように、実に声量豊かに朗朗と響く美しい歌声に接したことがなかったので、最初から最後まで圧倒されながら聴いていた。
   渋い落着いた舞台と演技を抑制した歌手達の動きが実に爽やかで、徐々に悲劇性を増して行く大詰めに雪崩を打った様に突き進む。
   小休止のようにデズデモーナが歌う正に白鳥の歌・「柳の歌」が胸を打つ。これだけでも、ルネ・フレミングを聴きに来た甲斐があったと思った。

   オペラ終演後、ヴィラール・フローラル・ホール(オペラハウス2階の広間)で、ルネ・フレミングが、自身のCD,DVD,著書にサインをすると言う。
   私は、若かった所為も有り、以前にバービカン・ホールで、ヴァイオリンのムターにCDにサインを貰ったことがあるし、フィラデルフィアでは、楽屋に行って、オーマンディやメニューインのサインを貰ったことがある。

   今回は、折角のチャンスで、ルネ・フレミングの新著が出版されて読もうと思っていた時でもあったので、整理券を貰って列に並んだ。
   熱心なファンが多い。大半は、中年以降だが、私のように熟年の紳士一人だけで並んでいる人も結構いる。
   整理券には、Renee Fleming Signing, Sunday 10 July 2005 7.00 pm と書いてあり、1持間ほど待たされたであろうか、列が動き出した。
   大きな部屋の奥に、DVDのパネルやポスターをバックに、イスに座ったフレミングが一人一人に丁寧にサインをしている。
   私の番になり、名前を聞きサインしてくれたので、ついでにプログラムにもお願いした。
   素晴らしい舞台だった。オテロのデズデモーナは大変好きな役だと言ったら、満面に笑みを浮かべてサンキューサンキューと言ってくれた。
   気のいいアメリカ婦人の一面が覗き見えて嬉しかった。

   まだ、夕暮れには程遠い道をピカデリー方向に歩いたが、丁度途中にクラシックで小奇麗なパブがあったので入り込み、ルネ・フレミングの本(THE INNER VOICE Notes from a life on stage)を読み始めた。
   
   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・20 グローブ座のシェイクスピア、 本格的な「冬物語」

2005年08月05日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   7月10日、この日は、13時からグローブ座で「冬物語」、15時からロイヤル・オペラで「オテロ」と重ねてブッキングしてしまった。
   残念だが仕方ないので、最初にグローブ座に出かけて「冬物語」を1幕観て、休憩時間にタクシーでコベントガーデンに向かうことにした。

   この日は、地下鉄も落着いていたので、サザックで下りて、川岸に向かって歩いたが、元々南岸は下町で繁華ではないが、休日なので人通りが殆どない。
   このグローブ座は、正面は細い路地に東面していているが、北側の河に面した通用口から入る人が多い。建物の外には小さな広場があって、すぐ、劇場に入れる。
   一階のサークル状の桟敷席と平土間へはゲートをくぐれば直接入れるが、上階には細い螺旋状の階段を上がらなければならない。
   3演目の内、「ペリグリーズ」は余裕があったが、この『冬物語』は、2階の横席しか空いておらず、「テンペスト」は売り切れてチケットが予約できなかった。
   
   入り口に立っているスチュワードは殆ど老嬢だが、珍しく可愛い若い女性が立っていた。そこから入場しようと思って、チケットを出したが、慌てたわけではないけれど、誤ってオテロの切符を出してしまった。
   申し訳なさそうに「これは、ロイヤル・オペラの・・」と言いかけたので気付いて、「休憩は何時ごろか。」と聞いてみた。
   「2時半頃で、終演は4時ごろの予定です。」と言う。
   階段を2階に上がろうとした時、オテロのチケットを見ていたので気がついたのであろう、彼女が追っかけてきて、「何時でも、お好きな時に退場できますので、お気遣いのないように。」と言ってにっこり微笑んだ。

   このグローブ座だが、前身の「白鳥座」を描いたオランダ人学生デ・ウイットのスケッチを元に出来上がっている。当然だが、殆どそっくりであるが、徳川家康が江戸幕府を開いた時期と全く同じ頃なのに、殆ど当時の劇場の資料が残っていないのが驚きである。
   もっとも、シェイクスピア自身についても残っている資料が殆どなくて、オックスフォード卿だとかベイコンだとか言われていて、定説のストラトフォード・アポン・エイボンのシェイクスピアなのかどうかも分からない。
   残っているシェイクスピアの署名が、ストラトフォードの出生登記簿と綴りが違うのである。

   どっちでも良いと思うのだが、シェイクスピアの戯曲自身も、多くの文芸作品から発想を得ており、公演の過程でドンドン変わってきているし、兎に角、シェイクスピアと言う偉大な劇作家のお陰で、このような素晴らしい演劇を楽しむことが出来るのである。

   私は、エイドリアン・ノーブル演出のRSCの「冬物語」を、ロンドンと東京で2回見ている。視覚的にも美しい楽しい舞台であった。
   しかし、今回のこのグローブ座の公演は、まさに、エリザベス朝時代のオープンエアー劇場の典型的な舞台で、殆ど、何の舞台装置も小道具もなく、役者の語りと舞台衣装のみでシェイクスピアを演じている。シェイクスピアを聴く、と言う世界である。
   それに、冒頭から、着飾ったミュージシャンにより伴奏音楽が奏される何とも優雅な舞台で、今回は中座して残念ながら見られなかったが、16年の歳月を経て彫像から生きた人間に変わって動き出す王妃ハーマイオニへの伴奏音楽は如何ばかりであったか、と思った。
   
   RACやRNSの正統派シェイクスピア劇は、素晴らしい近代的劇場で演じられており、舞台装置や照明等、進んだ芸術技術によってシェイクスピア時代になかった演出法で遥かに豊かな舞台が展開できる。
   しかし、果たして、台詞と語りだけで勝負していたシェイクスピアの時代から進歩と言えるのであろうか。
   
   冒頭から、王妃ハーマイオニの不貞を疑い始めてドンドン凶暴化して行くボヘミア王ポリクシニーズを、TVでも活躍のピーター・フォーブスが、陰影のある演技で舞台を圧倒。
   私は、ハーマイオニのヨランダ・ヴェラスケスを注視していたが、実に優雅で芯の強い悲劇の王妃を演じており、王に食って掛かって抗議する廷臣の妻ポーリーナを演じるペネロープ・ビューモントとともに、ベテラン女性陣の活躍を観ていて楽しかった。

   私は、最後のボヘミアの海岸に置き去りにされた赤ん坊王女パーディタを拾い上げる老羊飼いと息子・道化が出てくる所で、客席を離れた。
   前半の壮絶な心理劇より、若いパーディタの青春やハーマイオニの復活など後半の方が物語性があって面白いので残念だったが、後ろ髪を曳かれる思いでグローブ座を出たのである。

   (追記)2年前に、ロンドンに来た時には、RACは、サウスバンクの故地オールド・ヴィック劇場で、「ウインザーの陽気な女房たち」を公演していて、楽しませて貰った。
   しかし、今年は、ロンドンでの公演がなく、ストラトフォードまで行けなかったので、結局、RSCの舞台は諦めた。
   私の在英中は、バービカン劇場がRSCのロンドン・ベースで、大小劇場2本立てで公演していたのだが。
   また、ロイヤル・ナショナル・シアターでのシェイクスピア劇も公演計画がなかった。
   結局、夏季は、グローブ座に客を取られて、RSCもRNSも公演できなくなったと言うことであろうか。
   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・19 シャーロック・ホームズ・パブ、パブ文化はイギリスそのもの

2005年08月04日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   私は、晩酌はやらないし、常時酒を飲みたいとは思わないので、所謂酒飲みではない。
   しかし、会食時には、欧米人に伍して応分の酒類は頂くし、ワイン文化の豊かさとその楽しみを長い欧米生活でそれなりに学べたと思っている。
   ワインは、欧米人にとっては、酒ではない、「飲む食べ物」であって、料理との相性が良ければ、料理もワインも限りなく美味しくなり至福の時間を過ごせる。

   ベルギーの片田舎、しかし、ミッシェランの星つきの古城ホテルのレストランで、料理毎にワインを変えるフル・コースの食事を楽しんだことがある。
食前酒を頂き、最後のコーヒーまで、6時間近くかかったが、これが、何千年も大切に培ってきたヨーロッパの文化だと思った。
   ミッシュランの星を求めて、ヨーロッパの有名レストランを行脚して、美味しいワインとの出会いを楽しんだ頃が懐かしいが、決して、ロマネコンテが最高ではなくて、その土地の料理には、いくら安くてもその土地のワインが一番美味しいことを発見したのもあの頃であった。
特に、イタリアやスペインなど、料理も素晴らしいし、地ワインが、また、堪らなく美味くて、素晴らしい時間を過ごせる幸せに遭遇することがある。
   その後、日本に帰ってからは、地方に行けば、その地方の地酒を頂きながら、地方料理を楽しむことにしている。
   バッカスの時代から、酒は文化そのもの、人生を豊かにしてくれる吾らの友である。

   ところで、イギリスの華・パブであるが、私の旅とパブの関係は極めて密接で、特に求めてレストランに行くことがなければ、最近の様に気侭な旅だと食事時と余暇の大半はパブで過ごしていることになる。
   まともに食事を取ろうとすると、正式なレストランで、あまり美味しいとは言えない料理に、時間とカネを費やすだけとなり、とにかく、無駄。かと言って、ファーストフッドや日本料理店も味気ないので、気楽気ままに、何時でも食事が出来ビール等を飲んで憩えるパブが、私には恰好の休憩所なのである。
   イギリスに居た頃も、昼には、事務所に近いパブに出かけて、何かメインの一皿とビターを1パインで昼食を終えることが多かった。最も、その後、その日は外出や商談のない時である。
   イギリス人は、何故か、何も食べずに、ビールだけの昼食をとっている。

   パブであるが、正式には、Public House で、クラブ制度の発達したイギリスで、一般市民に開放されたダイニング兼居酒屋である。
   ドイツに行くと、街の中心にあるラート・ハウス(市庁舎)の地下が、大きな市民のための、ビールやワインレストランになっていて、市民が集って憩い楽しんでいるが、あの小型版であろうか。
   しかし、ソーホーのパブに、子供連れが入ろうとしたら、主人が断っていた。もっとも、随分前だが、子供が小さかった頃、ロンドン郊外のパブで、食事を取ったことがあるのだが。

   古いパブには、入り口が2つある。階級制度の名残とかで、昔は、中産階級のサロンと労働者階級のパブリックバーとに区別されていて、真ん中のカウンターは共通だが、入り口と部屋が分離されていた。
   もう、20年以上前になるが、日産のイギリス工場のプロジェクトで出かけた時、米国初代大統領ワシントンの故郷ワシントンの片田舎で、完全に2つに分離された歴史の名残を止めたパブに行ったことがある。
   仕切りなどは取り外され行き来自由になっていたが、イギリスの歴史を見た思いがしたので良く覚えている。
   客が場違いな場所に入ったら、主人はどうするのだジムに聞いたら、「あちらの方が、貴方には、もっと気楽に楽しんでもらえると思うのですが。」と言うのだと言った。

   私は、今回もそうだが、コベントガーデンやストランドなどで、観劇を楽しんだ後、独りの時は、良く、チェアリングクロス駅の近くにあるシャーロック・ホームズ・パブに行く。
   シャーロック・ホームズなど実在しないが、熱烈なファンが作ったパブで、シャーロック・ホームズ縁と思しきグッズが壁面に所狭しと飾られており、2階には、「シャロック・ホームズの部屋」まである懲りよう。別に、料理が美味い訳でもなく、特色がある訳でもないが、イギリスそのものなので弊店間際に小休止の為に出かける。

   田舎だけでなく、ロンドンのストランドやソーホー辺りのパブでも、暇な時などパブの主人やカンバン娘と話していると実に楽しい。
   今回も、あっちこっち、10以上のパブに出かけたが、夫々、特色があって実に楽しい。
   カンタベリーのトマス・ベケット・パブでは、バーカウンターの女主人が実にチャーミングで優しく、それに、主人の気の利いたサービスなど印象的だったが、豊かなイギリスの文化に触れる憩いの時間が旅の疲れを癒してくれる。

   ところで、余談だが、パブは、存続を旨としており、余程のことがない限り潰せない。
   あのロンドンのシティの開発で、どんなに素晴らしい近代ビルに再開発しようとも、元あったパブは、必ず地下か一階に収容する必要があり、ペパーコーンレイト(殆ど名目程度の安い家賃)で貸すこととされている。
   住宅の場合も、家賃は兎も角、消滅させることは罷りならない、これがイギリスの文化であり知性でもある。
   

   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・18 ナショナル・ギャラリィ、まさに美の殿堂

2005年08月03日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   エルミタージュだけは行っていないので知らないが、絵画美術館単独としては、このロンドンのナショナル・ギャラリィは世界最高の美の殿堂ではないかと思っている。
   もう随分前になるが、イギリスに居た頃、ペリカンブックスだと思うが、その解説本を読んで、一点一点片っ端からこの美術館の絵を丹念に鑑賞しながら観て回ったことがある。都合2日で8時間かかった。
   そのお陰か、特別な展示変えがなければ、大体、どの絵は何処にあるのか分かっていて、時間が十分にない時にはどの絵を見るのか、大体目星を付けて回ることにしている。

   私は、どちらかと言えば、宗教画は除外して、ルネサンス期前後からは、古い方の絵に興味がある。
   今回は、時間があったので、ほぼ、全館回ることが出来た。
   
   ロンドンに居た時に、西側に新しいセインズベリー棟が建設されて、それまで複数階に分散されていた絵が、全部2階レベルに展示されるようになって随分楽になった。
   私は、何時も、ショップがありオープンスペース豊かな比較的空いているこのセインズベリー棟から入る。昔は、階段を上がった所すぐに、目指すイタリア絵画が展示されていたからである。

   最初にここへ来た時の印象が強烈で、真っ先に、ダヴィンチ、ミケランジェロとラファエロの絵を見に行き、その習慣が続いている。
   今回、ダヴィンチのチョークと木炭で描かれたカルトン「聖母子と聖アンナと洗礼者聖ヨハネ」が、薄暗い小部屋にあったのだが、ルーブルにもあるダヴィンチの「岩窟の聖母」と同じ大部屋に移されていた。
   特別な保存方法を施されたのであろうか、白日に曝されて、良く見えなかった細部が鮮やかに蘇ったが、何となく有り難味が薄れた感じである。

   ミケランジェロは、未完で彩色が不十分な絵が2点、一つは両脇から支えられた「キリストの埋葬」だが、やはり、裸体については東西随一、実に美しい。もう一つは、珍しくも綺麗な胸を露にした「聖母子と聖ヨハネと天使たち」で、あのミラノ城にある未完の彫刻「ピエタ像」のように、どこか寂しい。
   ミケランジェロは、フィレンツェのウフィツィに実に美しくて素晴らしい「ドーニ家の円形画」があるが、絵画は残っていない。せめてダヴィンチ程度に絵が残っておれば、如何に素晴らしかったか、システナ礼拝堂の壁画を思うと何時もそんな気になる。

   ここのラファエロは、定番の聖母子ではなく、横向きの優雅なポーズの「アレクサンドリアの聖カタリナ」と「アンシディの聖母」、個性豊かな「教皇ユリウス2世」、何れも彩色の美しい絵である。

   この美術館で必ず見るのは、フェルメールの2点と一群のレンブラント。
   そして、素晴らしく細密で写真以上に写実的な絵、ヤン・ファン・エイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」、ジョバンニ・ベリーニの「ヴェネツィア総督レオナルド・ドレダン」、ヤン・フォサールトの「三王礼拝」等など。
   兎に角、見たい絵が多くて時間配分に困っている。
   何回見ても、その場を離れれば、その瞬間に記憶から消えてしまう、印象など儚いものである。だから、また、見たくなるのかもしれない。
   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・17 大英博物館、ミイラと歌舞伎の特別展

2005年08月02日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   ロンドンに行った時には必ず、大英博物館に行く。
   子供の頃から、あのパルテノンに憧れて、壮大な叙事詩絵巻・エルギンマーブルのフリーズを見たかったのである。
   結局、ギリシャのパルテノンの方を先に見てしまったが、しかし、はじめて見たときのあのフリーズの輝きは圧倒的であった。
   昔、興銀の代表者交代パーティが、この大英博物館で行われたが、挨拶をした後は、ずっとこのギリシャ室に居たように思う。殆ど人の居ない部屋でのギリシャの神々との対話は、正に至福の瞬間であった。

   今回は、コベントガーデンのマチネーが迫っていたので、小一時間しか余裕がなかったが、ミイラと歌舞伎の特別展を見て、エジプト室等を訪れて帰ってしまった。

   私が帰国してから、大きく改装されて、シンプルになり見やすくなった。
   正面入って通り抜けると中庭に出て、もうその正面が壮大な図書館。昔は、何か奥の方にある暗い感じがして、マルクスが通って資本論を書いていたと言われればサモアリナンと言った感じの雰囲気であったが、今は、オープンで明るく気持ちが良い。
   あのマルクスだが、ソーホーに「クオバディス」と言うイタリアレストランがあって、その上階にマルクス一家が住んでいた屋根裏部屋があり、私は、良くイタリアンを食べに出かけて、この部屋を訪ねた。
   マル経は反対だったが、偉大な業績には違いなく、大英博物館からの帰り道、マルクスの歩いた道を辿りながらレストランに行った事があるが、何か産業革命後の喧騒なイギリス社会が見えるような気がして楽しかった。

   図書館外構の外の螺旋階段を登ると特別展示室があって、ここで「MUMMY : THE INSIDE STORY」が開かれている。
   3000年前のカルナックの神官Nesperennubの、まだ開いたことのないミイラを、CTスキャンにかけて、資料収集分析して、ユニークなバーチャル・ミイラに変換して、実際の顔や身体を再現し、当時の古代エジプト人の生や死の世界を解き明かそうとする試みである。
   会場には、例の立体めがねを付けて入るのであるが、特別スクリーンには、まさに臨場感溢れるミイラの内部や古代エジプトの世界が展開されるのである。

   「KABUKI HEROES on the Osaka stage 1780-1830」は、日本館で行われていた。
   錦絵や版画、古書などを中心に歌舞伎の世界を紹介する展示会で、Rikan(璃寛)と Shikan(芝翫)とのライバル対決を軸に当時の大阪歌舞伎を再現しているのであるが、歌舞伎ファンの私にも専門的で分からない世界で、恥ずかしい思いをしながら見ていた。
   場外に年末に坂田藤十郎を襲名する中村鴈治郎の華麗な舞台写真がディスプレイされていたが、来月初旬に鴈治郎の実演があるようである。

   エジプトやアッシリヤの彫刻などを小走りで見て大英博物館を出たが、1週間もロンドンに居ながら、今回は、観劇に時間を取られて、その後は、ナショナルギャラリーを楽しむのがやっとであった。


   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・16 ロイヤル・オペラ、女王陛下の席から「リゴレット」

2005年08月01日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   マチネーよりは、夜の公演の方がハレの雰囲気になるのがロイヤル・オペラ、ウエストエンドのミュージカルと違って比較的観光客の比率が少ないように思う。

   今回、「リゴレット」を鑑賞する為に私が幸運にも得た席は、グランド・ティアのRoyal Box RB6。舞台に向かって右手の一番舞台よりのボックス席だが、これは、女王陛下がご観覧になる時の部屋である。
   一番上席だとされているグランド・ティア席は、サークルの2階席で、舞台正面はイス席になっているが、舞台側左右には、夫々8つのボックス席があり、女王陛下のボックス席が一番広くて、倍の定員8名で、総て移動式のイスで、肘付きのしっかりしたイスが2脚置かれている。
   
   この部屋の最大の特質は、舞台と反対側の壁面に大きな鏡が付いている事。女王陛下が、一番舞台から遠い正面に座られるので、絶えず女王陛下に対面して座って居らねばならない女官達には舞台が見えないので、鏡を通して鑑賞する為のものだと言う。
   今回の相席は、常連だと思える老夫妻とラテン系オペラ好きのヤング男2人、それに旅の若いチャーミングなアメリカ人レイディと私。アメリカ婦人と私が、後列で高いイス席だが、場合によっては手前の舞台が良く見えない。
   しかし、至近距離で上から、舞台とオーケストラ・ピットが良く見えるのも、中々素晴らしいものである。
   前列が広くて、もう一つイスが入る余裕があるので、彼女に勧めたが、遠慮したので私が失礼して前に出て、最後まで、殆ど女王陛下と同じ視線でリゴレットを楽しむ事になった。
   余談ながら、ダイアナ妃がご観覧になったガラでは、グランド・ティアの正面右よりのイス席に座っておられた。

   ところで、このコベントガーデンでも以前にリゴレットを観た事があるが、今回のリゴレットは、私にとっては始めての歌手ばかりであったが、まさに、最初から最後まで感激の連続であった。
   カーテンが開くと、マントヴァ公爵の宮殿の狂乱の舞台。若い女性が胸を肌蹴て走り回り、酒びたり饗宴浸りであっちこっちで愛の交歓、兎に角、最初から度肝を抜くようなリアリズムに徹した舞台設定。
   
   マントヴァ公は、今を時めく若手テノール・ローランド・ヴィラゾンで、素晴らしい美声で最初のアリア「あれか、これか」を歌い始める。
   このヴィラゾン、秋からのシーズンで、メトロポリタンとウイーンで、このマントヴァ公を歌うという。
   第三幕のアリア「女心の唄」を聴いていると、初めて上野文化会館で聴いて感激したパバロッティの歌声とダブってしまって感激しきり。
   来月、来日して東京オペラシティでリサイタル、京の古寺でも歌うという。

   リゴレットは、ロシアのバリトン・ディミトリ・ホロストフスキー(Dimitri Hvorostovsky)。心なしか、第一幕からリゴレットの悲しい運命を強く予感させるような抑えた演技が印象的で、同じくロシアのソプラノ・エカテリーナ・シウリーナの初々しいジルダとの相性が良く、第二幕の大詰めジルダとの畳み掛ける様な激しい2重唱「復讐を」で頂点に達する。
   私は、これまで、ロシア人歌手の大変な実力に何度も感激しているが、このリゴレットもまさにその瞬間であった。
   余談ながら、イギリス人オペラ歌手の大半はウエールズ出身だが、ロシア人にもこれと同じ様な特別な歌手としてのDNAがあるのだと思っている。

   イギリス人指揮者のエドワード・ダウンズだが、何度も聴いていながら、地味なので殆ど気付いていなかったが、ロイヤル・オペラを振って54期目だと言う。
   指揮をしながら歌っている。この情熱が、将来有望な若手達を糾合して素晴らしいリゴレットを引き出しているのであろう。
   
   素晴らしいオペラの余韻を楽しむ為に、オペラハウスを出て、チェアリング・クロスまで歩いた。
   観光客が引き上げた「シャーロック・ホームズ」パブで、ゆっくりギネスを楽しみながら夜長を過ごしたかったからである。
   
   
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