熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

秋色深し新宿御苑

2006年11月30日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   紅葉には一週間ほど早いが、今、秋色に染まった新宿御苑は実に美しい。
   穏やかなやや傾いた夕日に浮かび上がる落葉樹の輝きは、正に秋そのもの。広葉樹の黄色い落ち葉を踏みしめて夕日の温かさを感じながら散策する清々しさは、何事にも変えがたい午後の至福の時間でもあろうか。

   イギリス生活が懐かしくなるとこの新宿御苑に来る。
   近くに住んでいて、良くカメラをぶら下げて散策に通ったキューガーデンの雰囲気に似ているからである。
   もっとも、キューガーデンの方はもっと野性的で自然環境に近く、新宿御苑は手入れが行き届いていて綺麗いなのだが、巨大な大木が随所にあり、鬱蒼とした林があったり広々とした空間があったり、そして、野鳥が群れている、そんなところが良く似ている。


   3時少し前に入園して、広い芝生のイギリス風景庭園を横切って、中の池と下の池の周りを散策して、その後、フランス式庭園のプラタナス並木のベンチで夕日を浴びながら読書を楽しんでから帰った。
   桜の葉が殆ど散りかけていて、その下は、黄色、赤、茶色等の入り混じった鮮やかな色の落ち葉の絨毯、それに、フランス式成型庭園のプラタナスの豊かな黄色の落ち葉はかなりボリュームがあって歩き難いが、サクサクと踏みながら秋を楽しめるのが楽しい。

   プラタナスの下のベンチで寄り添って微動だにしない若いカップル、落ち葉を蹴散らせながらボール遊びに興ずる少女達、手を繋ぎながら黄色い落ち葉の絨毯を歩む初老の夫婦、遠くの方までずっと続くプラタナス並木の風景は、どこかパリのセーヌの流れを思い出させてくれる。
   もう数日すれば殆どの落葉樹は葉を落とすのであろうが、今、落ち葉の絨毯が地面をびっしりと敷き詰めていて一番綺麗な時かも知れない。
   気の遠くなる様な厳しい冬が、もうそこまで来ている。

   下の池からフランス庭園に向かう途中の林間に、巨大なモミジバスズカケノキ(早く言えばプラタナス)が聳えている。
   殆ど葉を落としているので上空が透けて見えて明るくなっている。
   フランス庭園のプラタナスは、街路樹仕立てなので刈り込まれて整形されているので程ほどの大きさだが、こちらは自然に任せて育てられているので、枝も広がり背も高く圧倒的な巨大さである。
   ヨーロッパの森や林には、このような広葉樹の大木が沢山あって、秋には黄色一色になって黄金色に光り輝く。

   池の水際のタムケヤマモミジだけが鮮やかな朱色に紅葉していて、夕日を浴びると見違えるように美しく輝く。
   切れ込みの深いギザギザのついたスマートな形をした葉のモミジで、枝垂れなので、こんもりとしていて実に優雅である。
   木陰に入ってモミジ葉を逆光で見上げると、真っ赤に染まった鮮やかな葉陰が微かな風に踊っている。

   イギリス庭園には、まだ、バラの花が残っていて、最後の妍を競っている。   心なしか、強い芳香が誘っている。
   
   御苑の花で気がついたのは、赤い寒椿と、池畔に一面に咲いていた白い水仙。
   ヨーロッパでは、サフランが咲いている頃であろうか、秋の新宿御苑は、菊が終わると花が寂しくなるが、鮮やかな紅葉がそれを補って余りある。
   公園センターでは、野鳥の写真展をしていた。

 (追)写真は、中の池畔の紅葉。Canon IXY.  
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映画「父親たちの星条旗」

2006年11月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   クリント・イーストウッド監督の話題作「父親たちの星条旗」を見た。
   久しぶりに映画館に行ったのだが、実に考えさせられる内容のある映画で、硫黄島での日米戦争をアメリカ側から描いた作品で、12月9日に上映される日本側から描かれた2部作の後編「硫黄島からの手紙」と対を成している。

   この映画では、厭戦ムードのアメリカ国民の志気を大きく盛り上げたニューヨーク・タイムズの一面に掲載された一枚の写真…硫黄島を占領して鉢伏山の頂上に米軍兵士達が星条旗を立てようとしている写真…がメインテーマとなって話が展開していて、アメリカ人にとって日米戦争とは一体何であったのかと考えさせられる。
   この写真に写った生き残りの兵士三人(その内一人は替え玉)が英雄として米本国に呼び戻されて、戦費調達の為の戦時国債キャンペーンに全国を回らせられる姿を描いている。
   ヤンキースタディアムやソールジャーズ・フィールドでの歓迎式典は、オリンピックの開会式以上の熱狂的な祭典で、如何にアメリカ政府が財政難で危機状態にあったかが良く分かる。

   ところが、兵士たちは次第に、戦場で弾を避けて逃げ回っていた自分達に、英雄として祭り上げられることに耐えられなくなって苦悶する。
   戦場での阿鼻叫喚の地獄、祖国で戦費調達の為の道具として使われる悲哀が若い兵士の心を蝕んで行くのである。
   しかし、それにはお構いなく、各地で国民達は凱旋将軍のように囃し立て、関係者達は彼等を英雄として持ち上げて国民を鼓舞し戦費調達する以外に興味がない。
   英雄は必要だと思う人間によって作り出される。英雄は祖国を守る為に勇敢に戦場で戦った兵士たちだと言うメッセージをイーストウッドは執拗に繰り返して説いている。

   しかし、この映画は、一枚の硫黄島奪還の勝利写真を利用して戦費を調達しようと政府の意図によって振り回される英雄の兵士達の生き様を描きながら、裸の無人島硫黄島での血で血を洗う凄惨な殺戮シーンを突きつけ、戦争の恐ろしさと愚かさを徹底的に糾弾して行く。
   色彩を抑えたモノトーンに近い画像が、切なくも胸を締め付ける。
   日本人でありながら、何故か、殺戮兵器が空を舞う灼熱地獄を這いずり回ってばたばたと死んで行くアメリカの若い兵士たちの姿が正視出来なくなって目が霞む。

   小さな硫黄島に2万1千人の日本兵が、物量にものを言わせて雲霞のように群がって押し寄せてくる米軍を迎え撃って、5日の予定を36日間持ちこたえて玉砕する。
   実際の米軍記録の写真や映像でもそうだが、米軍の戦艦や駆逐艦などが膨大な物量でこれでもかこれでもかと波状攻撃をかて押し寄せ蜂の巣のように被爆して炎を上げる鉢伏山を見ていると、正に断腸の思いで、予告編の渡辺謙扮する栗林陸軍中将の「我々の子供たちが日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日でも意味があるのです」と言う肺腑を抉るような兵士達への訓示が胸に堪える。

   この硫黄島の闘いが1945年2月19日からで、硫黄島が陥落すると、アメリカがB29の基地を建設して東京の空襲が始まる。連合軍が同時にライン川を渡りベルリンに迫り、5月2日にヒットラーが自殺する。
   6月に沖縄が陥落し、翌々8月15日に終戦を迎える。
   硫黄島から終戦まで、ほんの6ヶ月、日本は急速に奈落の底に転落して行ったのである。
   
   戦争だけは、絶対にしてはならない。
   戦争ごっこに現を抜かすブッシュ政権は、悲しいけれど、歴史から何も教訓を得ていないとしか思えない。
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知財保護軽視の中国・・・米ハイテク企業のジレンマ

2006年11月28日 | 政治・経済・社会
   フィッシュマンの「CHINA INC.」で提起されている重要な問題に、
   「貧しくてその対価を支払う余力がないのだが、先進国にキャッチアップするためには、その進んだハイテク技術やノウハウ、製品等が必須であるので、無断でコピーして活用せざるを得ない。」とする中国に対して、ハイテク外資企業はどのように対応して中国市場にアプローチすべきかと言うことがある。

   中国経済の発展は、国内のニセモノ業界に大きく依存しており、高価なデザイン、商標製品、ハイテク技術・ノウハウ、世界的人気を誇る娯楽製品、等々欲しいが自分達で作れないものをコピーして、ニセモノ業者が国民に手ごろな値段で商品を提供してきた。これが、中国経済発展の大きな起爆剤にもなっている。
   中国が市場経済に移行して発展してきたのは、農民達が政府の規制や法の抜け穴を見つけて、法規制を次から次へ覆した結果であって、中国では法律が災いをもたらし、法の裏をかく方法が分かれば国民の希望が湧くと言う歴史であった。

   中国政府としては、国民に日々の糧を与え、経済を発展させることが先で、先進国の要求する知財保護など差し迫ったものではない。
   たとえ中央政府が知財保護の重要性を認識して政策を立案し法律を制定しても、法の執行は地方政府であり、コピー商品の生産・販売が雇用を生み地方経済の活性化と発展を支えている以上、むしろ、規制・取締りより、直接又は間接的に関与していると言われている。

   問題は、急速に市場経済に取り込まれて発展して来たエマージング・マーケットは、ハイテクのノウハウや高度な製品に対して正当な対価を支払うべきとする先進国の市場原理、ビジネス慣行の埒外にあり、地財保護を筆頭とした先進国のビジネス・ルールを拒絶せざるを得ないと言う現状である。
   この問題は、エイズなど高度な薬品をブラジルなどの国が無断でコピーして安く売っている話や、ファイザーなどが無償で高価な薬品をアフリカに配布している話とも連動しており、民間企業が膨大な資金と時間を注ぎ込んで開発したが、その製品を最も必要としている国が貧しい発展途上国であったりして、知財を保護して対価を回収出来ないと言うジレンマである。
   この辺になると、ヒューマニズムやCSRの問題とも絡んでくるが、要するに、発展段階なり経済社会が同質な世界でのみ成立する知財保護のルールが、今日のグローバル経済社会では有効に作用しないと言う厳粛な事実を認識すべきであろう。

   さて、大変な被害を被っている筈のマイクロソフトの中国市場への対応であるが、中国政府に大変な譲歩をして自社の中国市場を守ろうとしている。
   中国政府に、オペレーティング・システムの秘密のソース・コードを公開しなければ、オープンソースのソフトウエアを政府関係の仕事に使用すると圧力をかけられてこれに屈服して、極秘であった最も重要なオフイススイートの詳細を明らかにした。
   中国その他の国から、これ以外の企業秘密も明らかにするように圧力をかけられて、マイクロソフトは、60にのぼる政府や国際機関に無償で使用許諾を与えている。
   あまりにも巨大な中国市場を、そして、世界の市場が、オープンソースのリナックスに席巻されることを恐れてのマイクロソフトの決断だが、リナックスの陰の威力は、もう一つの資本主義市場の良心とも言うべきカウンターベイリング・パワー(ガルブレイスの拮抗力)でもあろうか。

   結局、本来の価格では買えないので海賊版を使用するのが当たり前である中国で商売をしようとすれば、中国人が買える価格まで妥協して売るか市場を諦めるかしか選択の余地はない。
   例え知的財産の所有権侵害で勝訴しても、また、何でも真似をして作りだせる工業力のある中国では、新しいニセモノ業者が市場に参入して来るのが落ちである。

   もう一つのアメリカ企業モトローラの場合も、技術を一切さらけ出しながらも市場から退場出来ないでいるハイテク企業の中国市場での典型的な生き方である。
   中国は携帯電話メーカーにとって、世界で最も競争の熾烈な、しかも浮き沈みの激しい場所である。
   ところが、下請けの中国の納品メーカーがあまりにも大きくなり過ぎて、質の高い低価格品を供給するので、地元中国の極めて積極的な競争メーカーを出現させて今では40%のシェアを占めるまでになってしまった。
   もしモトローラが中国市場から撤退すれば、世界で最も無駄のない最も積極的な企業がのし上がって来てどう対処すれば良いのか分からなくなるので、更に中国への投資を拡大しているのだと言う。
   ホンダが、ニセモノバイクに耐えられなくなって当該現地会社と合弁して抱き込んだと言う話だが、これに近いかも知れない。
   あまりにも巨大過ぎて、かつ、日進月歩世界で最も急速に改革革新して発展している中国市場を無視出来ないグローバル・ハイテク企業の生きる道は、共存共栄しかないのかも知れない。
   例え松下のブラックボックス的なイノベイティブな誰にも真似が出来ない技術で対処しても、中国は、合弁を強いられてその技術を使って製造しようと思えば、その技術のノウハウ総てがパートナーとの共有になるような国なのである。
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川面の野鳥達・・・カワセミ、コサギ etc.

2006年11月27日 | 生活随想・趣味
   先日、少し曇り気味だが穏やかな秋の陽気に誘われて、久しぶりに田舎道を散歩に出かけた。
   愛犬シーズーのリオと歩いていた道なのだが、リオは一昨年の冬に逝ってしまったので、その後、殆ど歩かなくなってしまった川辺の田舎道の散歩であった。

   千葉郊外の小さな川だが、結構水の流れが速くてかなりの水深があるので大きな鯉が泳いでいて、淀みで、釣竿をたれる人もいる。
   このあたりの丘陵地は、まだ未開発のところが残っているが、雉が飛んでいた矢じりなどが出土していた古い森は切り崩されてしまってもうない。

   冬が近づいている所為か、青々と茂っていた葦や川面の雑草も枯れ草となって空間が広がり、ススキの穂だけが淡い日の光を受けて輝いている。
   刈り取られた水田は、稲の切り株から穂が出て緑色の絨毯のように美しい。

   川面には、カルガモが何組か帰ってきている。この鳥は、留鳥なので、一年中日本にいる筈なのだが、この川では、冬にしか見かけないので、渡り鳥のような気持ちで何時も見ている。
   カルガモは雌雄同じ色形で、他の鴨の雌のような外見をしているが、嘴の先が黄色いのですぐに分かる。  
   オシドリ夫婦と言うが、殆ど対で川面を泳いでいて夫婦仲が良い。一羽しかいないと思ってみていると、草むらからパートナーが現れたりする。

   カルガモの軽やかな泳ぎを見ていると、その前方対岸に、正に宝石のような鮮やかなコバルトブルーの点が見えて川面に映っている。
   望遠でシャッターを切って画像を拡大して見ると、どうもカワセミのようである。
   何時も、すぐに飛んで逃げてしまうので、シャッターを何枚か切りながらゆっくりと近づいて行った。
   やはりカワセミで、川面に打ち込まれた朽ちた杭に留まって休んでいる。
   10メートルほど近づいたであろうか、今度は逃げられずに綺麗な鮮やかなブルーの姿をジッと鑑賞することが出来た。
   双眼鏡を忘れて来たが、カメラの望遠レンズがその代わりをしてくれた。ズームの望遠側が300ミリで、デジカメなので実質450ミリ、バードウオッチングには十分である。
   このミノルタ最後のカメラDigital α Sweet 、中々自動焦点が定まらず、レンズがジージー回るだけでイライラするのだが、幸いにも、手ブレ補正機能が付いているのでピンとはあまいがどうにか何枚かカワセミを撮れた。
   しかし、十分に近付けなくてカワセミが小さく写っているので、引き伸ばそうとすると、600万画素では不十分で、ピントがあまくなり画像が荒れてしまう。
   三脚を立てずに写真を撮りたいので、次のSONYのもう少し上等な一眼レフを待つか、可能ならキヤノンかニコンが本体に手ブレ補正機能の付いた一眼レフを出すのを待つか、このミノルタには別段不満はないけれど、もう少し上等な一眼レフのデジカメも欲しいと思っている。
    
   カワセミが凄いスピードで川面を一直線に飛び去ってしまったので、カルガモを見ながら土手道を先に歩いていくと、一羽のコサギが川面に舞い降りて来た。
   何時もは白鷺とよんでいる鳥だが、正式にはコサギで、嘴と足が黒いが足先だけは黄色をしていて、首と足が長くて真っ白で実に優雅な鳥である。
   長い首をS字型にまげて大股で田んぼや川の中を歩きながら魚を探す。
   コサギは、生息地や広い池や沼などでは群れているようだが、このあたりでは、一羽だけだったり精々二羽程度しか見かけない。
   首をちじめて足をすっくと伸ばし、大きな羽を広げて、中空を舞う姿は白鳥よりもずっと美しい。コンコルドのようである。

   他に川辺で出会った鳥は、草むらにいたキジバト、そして、ハクセキレイである。
   ハクセキレイは、長い尾を振りながら忙しそうに地面を突付きながら歩いていた。

   水辺に近づくと、鳥の種類が代わる。
   わが庭を訪れて、咲き始めた椿の花を突付くメジロやヒヨドリとは違う。
   昨日、頬の白い小鳥が飛んで来た。シジュウカラだと思ったが、良く見ると背中が一寸グレーがかっているので、ヒガラのようである。
   すずめ、つばめ、とび、からす、ひばり、もず、しらさぎ、はと、子供の頃身近に目にしていた野鳥はこの程度であったが、最近、沢山の種類の小鳥達が身近に訪れているのを知り始めて、新鮮な驚きを感じている。

   何れにしろ、鳥達は、他の種類の鳥が側にいても全く無頓着で気にせずに共存しているのが面白い。
   昨年、鳶がカルガモを猛烈な勢いで追いかけていたのは何だったのであろうか。
   
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増田俊男:2007年は空前の内需拡大バブル?

2006年11月26日 | 政治・経済・社会
   再び増田俊男の「空前の内需拡大バブル」についてだが、最後の章で2007年の日本の経済ブームを予測している。
   しかし、前座の世界の政治経済動向の動きに関するビビッドで迫力ある語り口と違って、日本経済の展望は歯切れの悪い展開で、何故、内需拡大ブームとなって景気が良くなるのか明確には理解し辛い。
   
   2007年はブームになると言う冒頭説明は、アメリカ・イスラエルとイランとの戦争の勃発から始まる。
   イランの前線部隊であるヒズボラとイスラエルが戦争状態で、従って、イスラエルと同盟関係のアメリカもイランと戦争状態に入っており、全面戦争が近づいていると言わんばかりである。
   戦争が始まれば経済は必ず活性化する。何故なら、必ず軍事産業が伸びると言うのである。

   ここで恐ろしいのは、軍需産業にとって戦争は最大のビジネス・チャンスであり、当事者達の幸不幸とは関係なく、無慈悲にも一人歩きしてしまうことである。
   第二次世界大戦の時に、ドイツの軍需産業が「死の商人」と恐れられたし、アイゼンハワー大統領が最後の離任演説で、「軍産複合体」と言う新語で、軍と軍需産業との癒着の危険性について激しく訴えた。
   ソ連の崩壊によって冷戦が収束したにも拘わらず、アメリカは仮想敵国を想定して膨大な軍事支出を継続し、全世界に軍隊を派遣して覇権を維持している、これが何よりの左証である。
   恐ろしいことに、軍需産業にとっては、自国が戦場でない限り、苦しみに泣く戦場の人々や関係者の苦悩については一切関係なく、利益追求のための市場原理のみが働いて増殖して行く。

   
   確かに、日本の戦後の復興は朝鮮戦争の特需がドライブをかけ、ヴェトナム戦争が、最長最大の経済ブーム・いざなぎ景気を牽引した。
   もし、イラン戦争が勃発すれば、高度な軍需物資需要が発生して日本のお家芸である重厚長大企業が潤い、更に、戦後の復興需要の拡大で、経済の拡大間違いなしと言う。
   
   次に、根拠不明ながら、インドやヴェトナムなどの新興国等アジアの成長市場で次々とインフラ需要が発生してゼネコンが潤うと言う。
   また、国内では、郵政民営化によって300兆円の新た資金が株式市場等金融市場に流れ込むと株価が上昇して、キャピタルゲインの余力が不動産市場にも及んで不動産価格も上がって行く。
   一方、日本企業のファンダメンタルが良く、株式市場が好調となると外人投資家が日本株を買う為に円需要が高まり、また、日本は金利上昇、アメリカは金利下落となるのでこの為にも円高基調となる。

   株高、土地高、円高の三本高で、日本経済は好況となり、外需頼みから内需拡大経済へと向かって行く。
   日本の輸出産業は殆ど海外から原材料を購入して組み立てて輸出しているのでむしろ円高の方が有利であり、また、円高で輸出が困難になったものが日本市場に向かうので内需の拡大となる。
   また、小泉内閣の時に抑えていた公共投資が、メインテナンス等のため更新投資が必要となり活発化せざるを得なり、内需拡大バブルが再開する。

   さて、以上の増田氏の論点についてであるが、まず、イラク戦争であれだけ国力を消耗して国民の厭戦気分が高揚しており、かつ、世界から総スカンを食っているアメリカが、もっと戦線を拡大して、もっと膨大な軍備を投入してイラン戦争を起こすなどとは考えられない。
   もし、戦争状態に入ったとしてもイスラエルによる代理戦争か、核関連施設の爆撃程度であろう。

   さて、多くの経済指標がネガティブなのに、現在のアメリカの株価の異常高だが、これは、ファンドなどが売り抜ける為の株価アップの兆候で、アメリカ経済の不況局面への前触れではなかろうか。
   増田氏は、日本の株価上昇によってアメリカの株価をリードすると言うが、逆に、アメリカのリセッション突入・株価下落に引きつられて、日本の株価下落の公算も高いのではないかと言う気がする。

   日本の物造り企業の好調見通しだが、戦争を想定しなければ、総て企業のイノベーション如何にかかっている。
   郵政公社の金の動きだが、即株式市場に投入されて株価アップに貢献するとは考えられないし、むしろ、経済を大きく動かせるとするならば眠っている豊かな老人達の預貯金を如何に掘り起こして市場経済に流動させるかであろう。
   土地・不動産については、価格の評価が、収益還元法に変ってから、当該土地ないし不動産が如何に価値を生むかにかかってきており、その活用状況や需給によって大きく異なり、これまでのように満遍なく一本調子で全国一律に上がっていくことは有り得ない。

   モノ、サービスなどの財が過剰なほど日本の市場に流通ないし存在しており、欲しいものがなくなったと言っている日本人が何を求めるのか、容易に内需拡大などブームになるであろうか。
   公共投資にしても、物理的限界が過ぎて、巨大な橋やダムが崩壊すると騒がれ続けているアメリカでさえも、放置したままで温存、一度、国民こぞって袋叩きにした公共投資が、おいそれと簡単に蘇るとも思えない。
   
   
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吉例顔見世大歌舞伎・・・團十郎の「河内山」

2006年11月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座での一つの話題は、團十郎が完全に復活した舞台を鑑賞出来たと言うことであろうか。「伽羅先代萩」での仁木弾正と「河内山」での河内山宗俊で登場しており、何れも強烈な個性を持った悪人で、実に爽快な舞台で夫々に面白かったが、私にとって興味深かったのは、河内山の方であった。
   
   「河内山」は、河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」の「上州屋見世先の場」から「松江邸玄関先の場」までを合わせて、即ち、片岡直次郎の部分を抜いた設定の舞台なのだが、昨年末に、国立劇場で観た通し狂言との対比で面白く鑑賞出来たので、そのためもあった。

   河内山宗俊は、江戸城城中において将軍の側近くで茶道を以って仕えるお数寄屋坊主なのだが、悪知恵の働く男で江戸名物のアウトロー。
   今回は、松江出雲守が腰元を妾にしようとしているのをネタに、上野寛永寺の御使僧に変装して屋敷に乗り込み、強請って金を巻き上げる話。
   兎に角、値打ちのない質草を持って上州屋に来て金を貸せと言うタカリ同然のけちな野郎、大名と堂々とわたりあう威厳と品格を備え持った僧、正体を見破られて凄む旗本ヤクザ、と悪の本性を糊塗しながら鮮やかにどんでん返しして、地団太踏む出雲守を前に勝ち誇ったように「馬鹿め!」と捨て台詞を残して去って行く鮮やかさ、正に團十郎の世界である。

   前回にも書いたが、これを観て思い出すのは、一頃まで盛んだった会社と総会屋の関係で、不祥事を起こしたり、脛に傷を持つ会社が、証拠を握っている総会屋に強請られる構図で、この臭いものに蓋をしようとする風潮が日本のコーポレート・ガバナンスの欠如を助長して来た。
   企業倫理を実践できなかったトップの経営不在、それをもみ消して会社を守ろうとした役員達、これを、出雲守と家老高木小左衛門が象徴している。
   雲の上の人・大名を脅し上げて強請る庶民のヒーロー宗俊を、庶民はやんやの喝采で観ていたのだろうが、総会屋が言いたい放題のことを大声で喚き散らして社長などを吊るし上げていた構図は、この歌舞伎と同じだったかも知れない。
   しかし、この話は、名うてのアウトロー宗俊は別にして、不祥事の発覚が露見するのを金と賂で収めた家老が忠臣として描かれている古い価値観なのだが、今日では、殿を諌めた近習頭や宗俊の正体を暴いた大膳が良しとされて、家老が罪に問われて糾弾させる。

   さて、面白かったのは、昨年の国立劇場の舞台と、今回の歌舞伎座の舞台を比較して、役者が代わるとこれほどまでに舞台の印象が違うのかと言う新鮮な驚きであった。
   まず、宗俊だが、前回は松本幸四郎で、今回は市川團十郎であった。
   幸四郎の宗俊も実に上手いと思うが、どちらかと言えば、現代的なインテリヤクザの雰囲気で、その場その場で状況を判断し悪知恵を生み出しながら悪事を進めて行く、そんなタイプの宗俊であった。
   ところが、團十郎の場合は、天性生まれながらのアウトローで、とにかく、悪が着物を着たような悪人と言う感じで、兎に角、悪人を演じるのにまったく淀みがなく爽快、豪快でさえある。

   一方、松江出雲守は、前回が坂東彦三郎で、今回は坂東三津五郎。
   彦三郎の出雲守は、正に殿はこんな人物であっただろうと思わせて全く異質感がないので、腰元に手をつけそこねたり、強請られて腹が立つが仕方なく泣き寝入りするあたりも納得、芸らしくない芸が自然で上手いと思った。
   三津五郎の出雲守は、本人も「筋書」で述べているように、「忘れてならないのは18万石の大名だということ」に拘ったのか、威厳と風格があり過ぎて、その上に、老練な彦三郎と比べて若くて凛としている分、一寸ぎらぎらした感じがして、色好みと殿の悪行の数々の裏側まで連想させて面白かった。

   家老高木小左衛門は、両方とも、市川段四郎で、これははまり役で、良いのか悪いのか分からないような雰囲気が気に入った。
   宗俊の正体を見破る重役北村大膳は、前回がベテランの幸右衛門で、今回は弥十郎だが大仰な個性的な演技が雰囲気を出していて中々良かった。
   
   
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増田俊男:ドル防衛の為の米中戦争?を語る

2006年11月24日 | 政治・経済・社会
   増田俊男が「空前の内需拡大バブル」で、一寸ありそうにもないような2007年大予測を行っているが、それなりに筋が通っていて、そんな考え方が出来るのかと思って読むと実に面白い。

   アメリカにとって最大の生命線は、ドルの防衛だと言うのである。
   ユーロの創設はドル体制の最大の脅威で、その後世界中のドル拒絶反応が強くなり、徐々に侵食されてきている。
   今、アメリカの最も恐れているのは、軍事的攻撃よりもロシアと中国のドルへの攻撃である。
   また、OPECのドル建て石油決済は必須であり、フセインが石油取引をユーロに切り替えると宣言したことでイラクを攻撃して崩壊させたのであって、今回のイランへの対応もこの一点にかかっている。
   サウジアラビアに圧力をかけ、イラクを崩壊させて、OPECの石油決済のユーロへの移行を止めたが、EUとロシアのユーロへの傾斜は止め得ないので、最後の砦は中国で、中国への戦争を仕掛けて中国を属国化してドル化させるのがアメリカの戦略だと言うのである。

   まずイランであるが、あらゆる機会を利用してイランを挑発しており、イスラエルに、レバノンのイランのフロントであるヒズボラを叩かせているのはイランへの軍事的挑発で、これに乗せられてイランが動くとイスラエルと共同で、ICBMに通常弾頭をつけて大規模な軍事攻撃を仕掛ける。
   イランが加盟を求めている上海同盟、即ち、中国が、ロシア、旧ソ連領西アジア諸国、インド、パキスタン等を巻き込んで形成している同盟に楔を打つことになり、中ロへの強力な圧力にもなる。

   増田氏のもう一つ面白い指摘は、イラクの民主化についてである。
   フセインを倒してもイラクの内戦は収束せず益々悪化しており、この為にブッシュも中間選挙に負けてしまったのだが、アメリカの目的は中東全体の民主化だと言う。
   内戦が収束しないのは、イラクの民主化を最も恐れているいるサウジアラビアの王族等からのテロ資金援助であることはアメリカは百も承知しており、イラクの内戦の続く限りイラクの石油を米国の利権のために温存できる、その間にサウジアラビアの石油を掘り尽くすのだと言う。

   形だけにしろ、全く民主主義など縁のなかったイラクに自由な民主主義の風土が少しづつ醸成していることは事実で、これがアルジャジーラで放映されてると、中東諸国の民主化は進展して行く、これがアメリカの狙いだと言う増田氏の指摘は正しいと思う。
   ベルリンの壁の崩壊前後にヨーロッパに居て壁を行き来して、東欧の民主化と自由主義市場経済への移行の凄まじさを実感しているし、貧しくて進歩のなかった頃の中国を実際に訪れて今また今日の中国を見ているので、アメリカが楔を打ち込んだ中東が民主化するのも、時間の問題だと思っている。
   禁断のりんごを食べてしまった国は、経済社会を民主化・自由化して、グローバル社会に参入する以外に生きて行く道はないのである。
   アメリカは、民主化した中東をドル圏に囲い込んでおきたい。そして、その膨大な石油を将来の大消費国中国にドルで買わせたいと言うのである。

   さて、その中国であるが、
   現在、不動産バブルが進行中で、地方政府の経済優先政策と市場の歪みが更にバブルを煽っており、いくら中央政府が規制しても台湾等からの野放しの外資が入り込み過剰流動性のために、空室率が上昇しているにも拘わらず不動産価格が上昇し続けており崩壊寸前。
   アメリカは、元首待遇で小泉訪米を厚遇したが、胡錦濤主席には冷たく当たり歓迎式典で法輪功迫害野次を許して共産党政府の非人道行為を暴き、中国政府の弾圧する「法輪功」を支援するなど民主運動を煽って政権転覆を図ろうとしていると言う。
   また、中国は広大な国土に多くの民族を抱えており、改革改革路線の進行で地方との生活格差が拡大し官僚等の腐敗で、地方各地に暴動が頻発しており、これが大規模化し、国民に大打撃を与えるような経済的事件が起これば、何時政権が崩壊しても不思議ではないとも言う。
   その為には、中国のバブルを膨らませれば膨らませるほど良い。既に、バブルのリスクを回避慰する為に、ある程度のアメリカ企業を退却させたが、その穴埋めを日本の金融機関に進出させて融資を加速させてバブルを更に煽ろうとしている。
   豚は太るほど美味しい。中国を攻撃するには核兵器は要らない。バブル崩壊の大打撃が最大の攻撃となる。

   中国は既に言論の抑圧等、突発事件対応法などで経済破綻などの混乱や暴動を回避しようとしているが、暴動の大規模化によって、政府の機能が麻痺しない為に、台湾への武力行使の準備をしている。
   一たび、台湾が風雲急を告げればアメリカは中国に応戦して勝利を勝ち取り、親米的な民主政府を樹立して一挙にドル圏に巻き込む、これがアメリカの戦略だと言うのである。

   増田氏の理論展開には中々ついて行けないが、アメリカがドルを死守しようとしている、これがアメリカの最重要な課題であると言う点は、十分注視しておく必要があると思う。

   恐らく、アメリカが世界の唯一の覇権国家であり得るのも、軍事大国、経済大国であると言う以前に、ドルが唯一のスーパーパワーを持った機軸通貨であることによる。
   ドルの威力の凄さは、「シニュレッジ」即ち「通貨発行特権の伴う恩恵」を考えれば良く、基軸通貨国として発行しているドルの6割以上が国外で流通していると言われており、これが、対外赤字を埋め合わせ、或いは、この額に見合った財を海外から吸い上げている。僅かなコストで輪転機を回してドルを印刷するだけで、これだけの権力と富を得ることが出来る巨大な打出の小槌が基軸通貨としてのドルなのである。
   
   ヨーロッパとロシア等の急速なユーロへの傾斜が、アメリカのドル覇権に挑戦。アメリカにとっては、中東と中国をドル圏に死守することが至上命令であり最重要な国家戦略である、と言うことであろうか。

   
   
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内部統制のあるべき姿・・・木村剛が一刀両断

2006年11月23日 | 経営・ビジネス
   BCMコンファレンスが主催するフェアで、木村剛が、基調講演「内部統制強化と経営戦略」で、スポンサーがビジネス・コンピューター関連の会社でありながら、現在、会計事務所や弁護士事務所やIT関連会社の狂奔して奏でている「内部統制狂想曲」が如何にナンセンスで無意味なものであるか、小気味良い例の木村剛節で切り捨てていた。
   冒頭、いじめの問題を取り上げて、世間は学校が悪いと騒いでいるが、悪いのは、いじめる本人、その親で、次くらいに来るのが学校であり、企業の不祥事も全くこれと同じで、金儲けの邪魔になるような厄介な内部統制などあってはならないと切り出した。

   某大企業の社長に某コンサルタント会社によって作成された内部統制用のマニュアルを見せてもらったら、チェック項目が4000以上もあって、「人を殺してはいけない」と言う項目まであったと言う。
   経営者が、何か新しいことが起きると、何時も専門家に丸投げして処理している体質の大企業は、大半、専門会社から、似たり寄ったりの殆ど役に立たない膨大なマニュアルを受け取り、IT関連支出と無意味なセミナー・訓練等に忙殺されていると聞く。
   
   木村理論は、極めてシンプル。
   内部統制は、そのように本業の金儲けを邪魔し経営を圧迫するものではなく、関連法規制に準拠しながら、金儲けの為に業務の有効性と効率性を高める為のプロセスを構築することで、利益追求のための仕組み作りだと言うのである。
   マニュアルなどシンプルであればあるほど良く、分かり易く実行できるものでなければならないと言う。
   
   内部統制が問題になったのは、ニューヨークの大和銀行事件で、あの時、頭取は「知らなかった」と言ったが、この「I don't know.」と言うトップの認識が日米の分かれ目。日本では、「そらそうだろう。仕方がない。トップは悪くない。」と言う認識だったが、アメリカでは、「真っ赤な嘘つき」か「途轍もない馬鹿」だと言うことであった。
   この内部統制の問題は、性悪説のアメリカで起こったことで、かっては性善説が経営環境であった日本の文化と違う思想であり、根本的に頭を切り替える必要がある。
   日本の「Trusut you & trusut me」の性善説経営が、管理責任義務の放棄、モニタリングの不備、管理責任からの逃避、として糾弾されることになったのである。

   今回の内部統制の問題点は、企業が不祥事を起こした場合に、経営者は「知らない。知らなかった。」と言えない、もし、知らなかったのなら、それを知り得べき内部統制システムを構築していなかったことで罪を問われる。
   ロイヤリティの低下により性悪説化した従業員の規律の確立や企業の社会的責任ばかりが脚光を浴びているが、この内部統制は、要するに、経営者が経営者として責務を全うする為に最も有効な経営管理システムの構築、そのプロセスの確立を求めているのである。
   財務報告の信頼性もこの内部統制の重要なポイントだが、根本的な点は、委任を受けた経営者がその付託に応えて誠実なプロの経営者としてマトモナ経営を行っているかのかどうかであって、その説明責任を果たす為の一つの重要な手段なのである。

   ところで、ホリエモンが、法廷で、いまだに、「I don't know. 宮内が勝手にしたんだ。」と答弁しているが、内部統制から考えれば、全く論外。
   ホリエモンが有罪か無罪かは別にして、社長として当然知って置くべき重要事項について、知らなかったでは通らないし、知り得べき内部統制システムの構築を怠った義務違反であり任務懈怠も甚だしい。

   これまでに、何度も、内部統制や日本SOX法関連のセミナーやシンポジュームに出たが、これは本質的に経営者の経営の問題が問われているにも拘らず、主催者や講師の大半は、IT関連のプロを筆頭に、審議会の委員、関連役人、弁護士、会計士達である。
   要するに、殆どが、経営や経営実務に携わったことのない経営の「ケ」も分からない人たちである。
   特に、若くて頭の切れるITエンジニアが,パワーポイントで多岐に亘った詳細なフローチャートを指し示しながら、滔々と、企業倫理を説き内部統制システムを論じるのを見て、空恐ろしい恐怖感を抱くことがある。   
   このブログでも触れたが、ミンツバーグが「MBAが会社を滅ぼす」で指摘している問題、経営の実務者でないものに経営学を教えることの恐怖に近い思いである。

   専門家に丸投げして作成した膨大なマニュアルの内部統制システムを導入した経営者は、分かりもしないその総ての項目の遂行に責任を持たなければならないことが分かっているのであろうか。
   内部統制とは、経営者が誤りなく経営に携われることの出来る経営管理の為のプロセスや仕組みの構築であって、経営者にとって最強の武器でもあると同時に刃物でもある。
   経営者自らが自分自身の問題であることを認識して、先頭に立ってシステムの構築を行わない限り、有効性と効率性の確立は不可能である。
   
   
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ビル・エモットの中国論は正しいか

2006年11月22日 | 政治・経済・社会
   過日の日経ホールでの経済シンポジュームで、ビル・エモットは、中国は、日本やアジアから材料や部品を輸入して組み立てて工業製品にして外国に輸出する、言わば、最終組立国家であると強調していた。
   インドのハイテクやアウトソーシング輸出と対比させていたので、聞き方によっては、中国経済の躍進と実力には驚異的なものがあるが、実質的には組立しか脳のない恐れるに足らない工業国だと言っているような印象を受けてしまう。

   確かに統計上の数字から言えばそうかも知れないが、ビル・エモットの見解は、貿易統計や国民所得統計からのマクロ経済的な判断からのもので、もう少し実際の企業や工場などミクロの実体経済的な側面から中国の工業力を見ると、かなり違うでのではなかろうか。
   今回、テッド・C・フィッシュマンの「CHINA INC.」を読んでみて、中国の工業技術の急速な向上と躍進には注目すべき数々の兆候があることが分かったのである。

   その前に、アメリカ経済の驚異的な競争力についてだが、その生産性の向上の6割は、工場を運営して調整する役割を果たしたソフトウエアやコンピューターや電気通信網の向上などIT関連技術の向上に負っていたと言う。
   しかし、現在では、世界の極めて生産性の高い企業が、拡散したハイテク技術を導入・駆使して、アメリカの得意とする電子機器の価格を引き下げ、大量に製品を世界中に出荷している。
   時の経過と共に、世界の製造業者の世界が益々効率化され、相互に連結され、小さくなってきており、中国は、この武器を選択することが出来、一方では世界のライバルを低賃金で攻撃し、もう一方では、次第に手に入りやすくなったハイテクノロジーを導入した生産性の上がった工場で攻撃してきているのである。

   フィッシュマンの指摘で非常に興味深い点は、より多くの製品をより豊富な種類と価格で供給している中国が、アメリカ企業の選択肢を減らしている、と言っていることである。
   即ち、中国の巨大さは低コスト生産を可能にするだけではなく、低コスト生産を強制している。
   中国の企業や消費者が自分達の為に行った選択、即ち、中国製品の価格と品質がグローバル基準となってしまって、アメリカ経済の動きを次第に支配するようになると言うのである。

   部品などの製品価格については、ウォルマートを筆頭にして、中国本土で収集した内部情報が世界の総ての納入業者の頭上で振り回されるハンマーになる。
   GMやフォードなども、毎年、納入業者に大幅な値下げを要求する。世界のどのメーカーよりも安いと考える価格を提示できるまで30日の猶予が与えられるが、その価格が実現出来なければ、即刻、契約が打ち切られるのである。

   自動車産業については、ホンダの全量輸出と言う条件で認めた例外を除いて、中国でビジネスを展開する為には国営の企業と手を結ばなければならない。
   提携相手が事業計画に提供した特許などの知的財産は、提携相手の中国企業も同等に所有出来ることになっているので、中国の企業は様々な優秀な外国企業から得た最高の技術を導入して自社製自動車を生産出来る。
   海外の提携先から経営と技術を学んだ中国の強力な部品メーカーを傘下に組み込んだ外国自動車メーカーが、世界規模の最適供給システムを確保した途端に、実際は、強力な中国のライバルを自らのシステムに抱え込んでしまったことになるのである。

   知財保護については、官民こぞって、コピー製品を大量に世界に放出している名うての海賊版国家であるから、その製品の品質は、極めて高く、GMがモーターショーで発表しようとした新車が、図面とスペックが裏情報で流れて、その直前に中国製が出現すほどであると言う。
   ウインドーXPの中国製海賊版の方が、本物より安定性もセキュリティも高いし、アドビ・クリエイティブ・スイートなど本物より優れた機能を持っていると言うし、中国製の名もなき会社の超安値のコンピューターには同時にもっと多くの海賊版ソフトが搭載されて売られている。
   また、フィリップス、GE、シーメンスなどが最高の技術を駆使して製造した機器に匹敵するようなMRIを、60%程度の価格で開発中であり、今日、海外から携帯電話メーカーと部品納入業者、ブロードバンド通信業者の膨大な投資が入り込み、バイオテクノロジー、半導体、インターネット開発、等々ハイテク関連の世界一流の技術主導型企業との提携が進んでいるのだと言う。
   ハイテク技術をはじめ最新の知識と頭脳を持った多くの中国人学者や技術者を安価に大量に投入できる中国では、どんなものでも開発可能であり、近い将来中国の挑戦を凌ぐ技術などなくなるのだと極論して心配する欧米人まで出てきている。

   殆ど真偽の見分けのつかないほど精巧な偽札スーパーダラーを発展途上国が製造する今日、途中の経済的挫折があるとしても、ハイテク工業製品の分野で中国が日本や欧米に追いつくのは時間の問題であろう。
   ビル・エモットの言う組立国家の汚名の返上も時間の問題であると言うことである。
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中国の価格破壊がアメリカ製造業を直撃

2006年11月21日 | 経営・ビジネス
   シカゴ商品取引所の場立ちをしていたと言う経済ジャーナリスト・テッド・C・フィッシュマンが、実際に中国のみならず世界を地道に歩いて得た極めて臨場感溢れる中国記「中国がアメリカを超える日 CHINA INC. The Next Superpower challenges America and the Other World 中国株式会社 次の超大国のアメリカ及び世界への挑戦、と言うべきか)を出版した。
   原書で380ページほど、日本語訳で500ページ弱のかなりボリュームのある本だが、実際の現実世界の記述が多いので、冗長過ぎるきらいはあるが、兎に角、面白い。

   今月の初旬のこのブログで、アメリカ企業の競争力強化戦略を追求したMITグローバル化研究チームの「グローバル企業の成功戦略」について書いたが、この本を読んでみると、別な違ったアメリカが見えてくる。
   GMやデル等アメリカのトップ企業は、IT革命を活用して、工業製品をモジュール化して、最適生産を求めてグローバル市場にアウトソーシングして、膨大な利益を上げている。 
   しかし、これは一部の成功企業の場合であって、このアウトソーシングとオフショアリング戦略によって、アメリカ全土の製造業は、中国旋風に煽られて未曾有の苦境に陥って倒産に倒産を重ねて、この3年間、製造業での失業は経済全体の失業率の50倍に達し、更に長期化して疲弊した地域は回復の見込みさえないのだと言う。

   CNN等の人気キャスター・ルー・ダブスは、連日、アメリカ人の雇用を外国に移す企業を裏切り者として攻撃しているが、このマニフェスト「アメリカ輸出」が、アイゼンハワーの産軍複合体批判以降最大の大資本・大企業への非難だと言うのである。
   今回の中間選挙のブッシュ敗北は、イラク問題だけではなく、国民の経済不安が大きな比重を占めていたのであろう。
   今回の民主党勝利によって、そして、アメリカ経済が不況局面に向かえば、元の切り上げを含めて中国への圧力が増し、保護貿易主義の台頭などアメリカの対外経済政策は大きく変らざるを得ないであろう。
   アメリカ人労働者達は、自分達の不運の元凶は中国だと認識しており、その3分の1が、工場が中国に移転して職を失うかも知れないと不安を感じていると言うのである。

   アメリカでは、『中国価格』、即ち、可能な範囲での最低価格と言う概念が闊歩していて、モジュール化を追及してアウトソーシングに特化したアメリカ企業の仕入れ担当者は、最高の品質と最低の価格(その大半が中華圏の製品)を求めて世界中を駆け回っており、価格競争について行けないアメリカ企業の供給先を片っ端から切って行くのだと言う。

   アメリカでは、今、倒産したり製造を中止した会社の設備機械の叩き売りオークションをしている「産業オークション会社」がグローバル化を謳歌していて、その顧客の大半は、製造業を止めてアウトソーシングに切り替えたり、製造部門を中国などに移転している優良企業だと言うのである。
   利益極大化等の経済原理優先のアメリカ企業としては当然の動きだが、昔から論議されていたプロダクション・シェアリング論も、モジュール化してコモデティになった部品を掻き集めて組み立てるだけに特化してしまったアメリカ企業には、ある程度の品質が保証されれば品質価格以外の選択肢はなくなってしまったのである。

   フィッシュマンは、この本で、ドイツ企業への中国の影響について、アメリカとは違った視点から語っていて面白い。
   ドイツ企業は、母国の高い人件費や社会福祉コストを回避できて中国では成功していると言う。
   ドイツは、アメリカ企業とは違って日本企業に近く、自社で製造部門を維持しようとする傾向がある。
   しかし、中国企業との価格競争に勝つ為に海外への生産拠点の移動圧力は強いのだが、中国ではなく主に賃金の安い東欧諸国へ進出している。
   外国への進出圧力が、労働組合の交渉力を弱体化させて、休暇短縮・労働時間延長、割増なしの超過勤務、就業規則の変更等、労使関係を大きく変えている。

   世界の人々は、中国人の団体が店に現れて、大きな買い物袋を提げて帰って行くと心配になると言う。
   ドイツの伝統工芸のマイスター、イタリアのガラス吹き職人、ベルギーのレース織り職人、ロシアの入れ子人形マトリョーシカ職人、ジャワの更紗のロウケツ染め職人等を出し抜いて、何でも世界各国の特産手工芸品の精巧な模造品を瞬時に製造して、インターネットで売りさばくと言うのである。
   
   紙や羅針盤や火薬など偉大な発明をした中国である。眠れる獅子が起きて走り出すと途轍もない力を発揮する。追いつかれるのは時間の問題かも知れない。
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情報革命と人類の未来・・・東大・朝日シンポジューム

2006年11月20日 | 政治・経済・社会
   東大の安田講堂で開かれた東大・朝日の「情報革命と人間の未来」だが、トップクラスの学長達が集合した極めて知的水準の高いシンポジュームで実に面白かった。
   小宮山宏東大総長
   シー・チョーン・フォン・シンガポール大学長
   宮原秀夫阪大総長
   郷通子お茶の水大学長
   オフラ・キューブラー・スイス工大チューリッヒ校学長 
   ロベルト・ペッチェイUCLA副学長
   以上のような俊英が、繰り広げる「知の拠点サミット」であるから、興味深くない筈がない。

   今回のシンポジュームで問題になった一つに、IT革命における人間性の喪失の問題や、コミュニケーションは本来FACE TO FACEの血の通ったものであるべきだと言う点に有ったような気がしたので、まず、そのあたりから整理してみたい。
   郷学長の若い恋人達のITを介した恋愛が話題になって、学殖豊かな学長達がインターネットのラブレターについて薀蓄を傾け論陣を張ったのである。

   阪大の宮原秀夫総長が、「IT革命の光と陰」で、陰の部分に光を当ててもっと血の通った人間的なITであることを提言していた。(今年は、無味乾燥なパソコンで作成した年賀状を止めて、自筆で出したい年賀状だけだそう、と仰る。)
   情報爆発時代に入って、インターネットの二つの潮流、すなわち
   ①Amazon、Google等による個人情報の活用による、ユーザー囲い込みによる新たなビジネスの展開
   ②ブログ、ソーシャルネットワーキングサービスやWikipediaの情報共有ツールによる新しい知のコミュニティの創生
   が支配的となっている。
   しかし、このようなものが知のコミュニケーションの創生になるのかと冒頭から疑問を呈する。
   IT革命のお陰で、現代人の知的活動のうち、30%が情報検索に費やされてしまっている。その上、システムが不十分なために、検索時の50%以上もがまともな情報に辿り着けていないと言う。
   また、情報のランキングシステムによって大衆迎合型の多数意見が勝利を占めて、少数派意見や貴重な意見などが無視される弊害が起きているとも言う。
   IT革命は、民主主義にとって良いことなのかどうかと言うことは、アメリカの叡智シュレジンガーも提示していて、場合によっては、人類の幸せを根底から揺さぶる危険性さえ持っている。

   果たして、情報の選択において、情報フィルターリング、カスタマイズ、パーソナル化、コンテキストウェアネスなど本当に必要なのかどうか、そんなものに縛られたくない、機械に任せたくない、と言う切実な疑問も提起されている。

   ところが、面白いことに、Googleで研究調査している時に、システムが不十分ゆえに思わぬ事実や文献にヒットし、パーソナル化され、工学、更に情報ネットワークばかりの文献ばかりあさっていると、このような体験は絶対不可能で、殆ど関係のないと思われる論文やページから啓発されることも多く、その方が効果が大きいこともある。
   言い換えれば、知的活動には、ノイズが必要で、このような知的ジャンプを生む。知的活動には、余裕、或いはフレキシビリティが必要なのである。

   また、羽生名人の高速道路渋滞論を引いて、Googleを含めて、情報検索は知的活動の創造性を阻害しているのではないかと説く。
   コンピューターの発展によって将棋の勉強の効率が上がって2級くらいには直ぐなるがそれから伸び悩む。インターネットは、情報を収集する為には格段に効率化したが、真に創造性を喚起するものではない、むしろ阻害しているかも知れない、と言う。
   従って、宮原学長は、現在のGoogle程度にノイズが乗っている方が知的活動には丁度良いのではないかと言うのである。

   ITに総て任せる訳に行かないのは当然だが、ITが知的活動を支援する為には、完全無欠ではなくて、自分自身でモノを考えさせ、創造性とオリジナリティを喚起するような仕掛けなり工夫を、そして、適度に人の知的活動を迷路のように路頭に迷わせるような余裕なり遊びを繰り込むことが必要だと言うことであろうか。

   話は跳ぶが、現代人は、ワープロやワードのお陰で、漢字が覚えられずメモが取れなくなった、英米人もマトモナ単語が綴れなくなった、と嘆いているが、IT革命は、経済社会のみならず、根底から、これまでの文化文明を覆す起爆力をも持っている。
   人類の未来は、前門のトラ・環境問題だけではなく、後門のオオカミ・IT技術革命からも自分の生み出した科学技術の発展進化から挑戦を受けているのである。
   日本の学長達はIT革命に比較的悲観的であったが、欧米の学長達は、IT革命やインターネット社会は、既に起こってしまったことだから、この現実を受け入れてその上で人類の未来を考えようではないか、と言っていたのが興味深かった。
   
   
   
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日展を鑑賞・・・ヨーロッパの風景

2006年11月19日 | 展覧会・展示会
   土曜日に、上野の東京都美術館に出かけた所為もあってか、丁度併行して開催されていたエルミタージュ博覧会と重なって、秋の名物「日展」も大変な鑑賞客で溢れていた。
   昨年も出かけて行ったのだが、知人の絵の鑑賞が目的であったので日本画のコーナーだけ見て帰ってしまった。
   しかし、今回は、一通り全館回ってみて、やはり、日本美術界の実力と層の厚さにビックリして、後の予定があって2時間しか鑑賞できなかったが、満足して帰って来た。

   受賞作品などについては、何故、それが受賞なのか正直なところ、私自身の感性と大分違っているのであまり感慨はなかった。
   兎に角、日本画と洋画だけでも大変な点数の作品が展示されているのだから、直感的に素晴らしいと思った作品をじっくりと楽しむことにした。
   これとは違って、テーマとしては、海外の風景を描いた絵、歌舞伎や文楽など伝統芸術、京や奈良の風景、社寺や仏像の絵、花の絵特に椿、などを意識して見ていた。

   海外の風景画だが、ヨーロッパの風景が大半で、中国やタイなどがちらほらで、絵になる筈の南北アメリカやアフリカの風景が皆無であったこと、そして、やはり、海外で勉強する作者が多いのか洋画部門に海外の、特にヨーロッパの風景画が多かった。

   海外の風景画で特選に選ばれていたのは、洋画部門の佐藤裕治氏の「古城の村」であった。
   丘の上の廃墟となって崩れかけた古城を中心に、その丘の裾野に古城を囲んだように田舎の家並みを描いた絵で、やや上空からバードアイの視点で俯瞰した中々ムードのある褐色基調の素晴らしい作品である。
   スペインの風景をモチーフにしているようだが、スペインやイタリアの田舎を車で走っていると、丘の上に古城が突然現れることがある。
   それに、時間が止まったかのような錯覚を覚えさせるような古い集落が、下界から隔離されたかのようにそのまま残っている、そんな風景を切り取って絵に構成したのであろう。

   私が訪れた所で、はっきりここだと分かる絵が何点があったが、その一つは、日本画の村居志之氏の「ノルマンディーの雨」。
   やや青みがかったグレイ基調の画面にモン・サン・ミッシェルの全景を描いて、そこに直線的な雨を線描にした絵である。
   観光地のメッカではなく、くすんだ背景にどっかり大地に根ざした巡礼の聖地としての存在感は迫力十分である。

   もう一つは、イギリスのカンタベリーを描いた中西敦氏の「礼拝の朝」。
   メルセリー・ラーンから正門越しにカンタベリー大聖堂を遠望する風景で、雪に覆われた歩道をポケットに手を入れて大聖堂へ向かう人を点景に描た写真のような克明な絵である。
   このあたりは、パブなどがあって夜には観光客で賑わう繁華街だが静かな朝との対象が出ていて清々しい。
   英国国教会の主教座のあるカンタベリーなのである。

   ポルトガル・リスボンのユダヤ人街、ドイツの石畳や白壁のせまったスペインなどの路地裏の小径、ギリシャのパルテノンや遺跡、ヴェニス、教会の搭のある風景等々懐かしいヨーロッパの風景画が沢山展示されていて、思い出を反芻しながらムソルグスキーの展覧会の絵よろしく散策を楽しんだ。

   ところで、興味を引いたのは中国の切り立った谷に、伏せたコップのような形で聳え立つ岩山を描いた美しい石原進氏の「天志峰」。
   山肌に張り付いた松などの緑が鮮やかな岩山に二層の雲がたなびき、手前をくちばしだけが赤い青い鳥鳳凰が尾を引きながら横切って飛んでいる。
   左手角に、チェーンをつけた山道が描かれている芸の細やかさが現実との接点を感じさせて面白い。
   
   ところで、椿を描いた絵が3点ほどあった。
   2点は、京都の人が描いた白椿。
   面白かったのは、神奈川の新川美湖さんの「椿の道」。
   鬱蒼と茂った森の中の小道に鮮やかな椿の花を描いた絵である。
   絵の上段中央にぽっかりと明るく開いた森の入り口から、逆くの字形に小道が森の中に下っていて、その木の足止めのある小道の下段に3輪、上段に2輪、鮮やかな黄色い蘂を付けた真っ赤な薮椿の花が落ちて輝いている。
   暗い森の中に滲ませた鮮やかな落ち椿を意識的に強調した印象的な絵で、確かに、京都の古寺で見た椿はこんな感じであったと思い出した。
   名のあるような銘椿等は、独立して植えられていたり日の当たる所に植えられている場合が多い。しかし、蘂の先が黄色で白い、そして、真っ赤な花弁の平凡で典型的な薮椿の古木は鬱蒼とした森の中にひっそりと植えられていることが多く、落ち椿もひっそりと落ちているが、ドキッとするほどその美しさにビックリすることがある。

   本当は、優に一日かけて鑑賞すべきだと思いながら、彫刻や工芸美術、書などのセクションを駆け足で見て次の予定の為に会場を後にしてしまった。
   
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日経CSRシンポジューム・・・信頼を育む経営

2006年11月18日 | 政治・経済・社会
   日経が、CSR(企業の社会的責任)に関して継続して開いているシンポジュームで、今回は「ソーシャル・キャピタルとCSR」を絡ませた「信頼」と言うポイントに視点を当てた「信頼を育む経営」と言うテーマでシンポジュームを開催した。

   感想だが、結論から言うと、国家なり社会なりの基本的なソフト・インフラである人間相互間の一般的な信頼関係や絆、倫理観や民度などのバックグラウンドをソーシャル・キャピタル(ハードの社会資本ではない社会関係資本)と捉えている以上、民間の利益を目的とする私企業の社会的責任とどのような関係なり接点を想定して議論するのか等の未消化の部分が多くて、常識的な一般論となって空回りに終わった。

   企業がCSRに努力すれば、社会のソーシャル・キャピタルが増し、ソーシャル・キャピタルの豊かな社会になればなるほど企業のCSRも充実してくる、お互いに信頼を育む社会なり企業経営を心掛けましょうと言うことになってしまう。
   元々、ソーシャル・キャピタルとは、有史以前から存在した人間相互間の関係をも包含しており、仮に、CSRと無理に直結させて議論すればするほど、もっと広義な人間本来の幸せのバックグラウンドであるソーシャルキャピタルを阻害してしまう危険さえあるのである。

   ソーシャル・キャピタルについては、その道の第一人者大守隆氏の「ソーシャル・キャピタルがつくる新しい社会、組織、ネットワーク」の基調講演で始まり、続いてオムロンの明到親吾副社長と佐川急便の辻尾敏明専務からに「CSRマネジメント」報告が行われた。
   アメリカ経験のある明致氏の何故か進み過ぎているオムロンの立て板に水のCSR論、それに、東京佐川急便事件で世情を騒がせた佐川だから当然と言った感じの辻尾専務の企業のCSR取り組みには、そのあたりまで日本のCSRも行っているのかと感じて興味深かった。

   後半は、大守隆氏に、企業の倫理論、そして、企業の社会的責任論に関してこれも第一人者の高巌教授が加わり、藤沢久美さんの司会でパネルディスカッション「社会から信頼される企業とは」が開かれた。
   器用で頭の回転の速い藤沢さんが、二人の発言を敷衍しながら議論を進め、それに、二人の違った専門分野と相互理解が噛合わないので、議論が散漫となって何となく大守氏のソーシャル・キャピタル論と高教授の企業のCSRや危機管理論を平行して聞いている様な感じになった。

   ところで、今回の新会社法及び日本SOX法関連法規等によって、企業の内部統制が厳しく管理されるようになって、間接的ながら企業のCSRを推進せざるを得なくなって来た。
   これは、数年前の企業倫理の低下の頃を考えれば今昔の感であるが、この内部統制狂想曲も、ネコも杓子もが狂奔したTOC運動がコピーや紙会社やコンサルタントの先生方を稼がせただけに終わったと同じ様に、IT関連のソフト会社や不祥事で死に体だった会計監査法人等をはしゃがせるだけに終わるのではないであろうか。
   TQCは夢の夢! 日経ビジネスが、「品質の復讐 驕れるモノづくり大国への警鐘」特集を組んで、ソニーやトヨタの欠陥商品のリコールを大々的に糾弾せざるを得ない時代を誰が予想したであろうか。

   私自身は、日本企業がCSRと騒げば騒ぐほど、その前に経営者が行うべきことがあるのではないかと言う気がして仕方がない。
   松下電器の中村会長が、社長を引き受けた時、松下は、「傲慢、自己満足、変化を嫌う、会議ばかり」と言う当時アメリカで言われていた破綻企業の4大特徴を地で行く典型的な会社であって、中村改革を断行しなければつぶれてしまうと思ったと語っていた。
   今回の電気ストーブ事故で、最後の一台まで探すと言う徹底振りも新しい松下イズムであろう。
   談合の課徴金を高いといって値切るような経団連があり、一向に談合が後を絶たずに次から次へ新聞種になるような国の企業が、CSR,CSRと言うのは早すぎる。
   経営を刷新して高度化し、経営の効率をもっともっと上げることが先ではないかと思っている。

   さて、
   このシンポジュームの当日、規制のない自由な資本主義市場経済を標榜した偉大な経済学者・マネタリストの総帥ミルトン・フリードマンが逝った。
   このフリードマンが、企業の社会的責任について糾弾していたのを、マイカンが著書「ザ・コーポレーション」で紹介している。
   フリードマン曰く「経営者の唯一の社会的責任は、株主の為に多額の金を儲けることで、社会や環境の目的を利益に優先する(道徳的に振舞おうとする)経営者は非道徳である。企業の社会的責任が容認されるのは、それが利益を追求する方便である時のみで、その時の偽善も道徳的善意も、収益に繋がらなければ非道徳的である。」
   極めて明快な理論展開で、私企業の自由な利益追求競争が、神の手の導きによって、人類の幸福を増進させると言う、別な意味でのアダム・スミス流のご宣託だが、この思想をバックにしてサッチャーやレーガンが一時代の経済社会の発展を推進したこともまた厳正な事実である。
   英国の高級紙インデペンデントが、サッチャーの追悼の辞を掲載した。
   「フリードマンは、総てでありながら忘れられていた自由の経済学を蘇らせた。彼は、知性豊かな自由の為の戦士であった。・・・私は、古い友人の頭脳明晰な英知と辛らつなユーモアが消えてしまったことを本当に寂しく思う。」
   
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江戸の誘惑・・・ボストン美術館展

2006年11月17日 | 展覧会・展示会
   両国の江戸東京博物館で、100年後に里帰りしたボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」が開かれている。神戸と名古屋で開かれて最後に東京に回ってきたのである。

   アメリカの医者W.S.ビゲローによって収集されボストン美術舘に寄贈された作品が大半。ビゲローはモースの日本講義に触発されて日本に興味を持ち、パリでパスツールから細菌学を学んでいた時期に聞いていたので、日本の浮世絵の価値を知っていて、その後来日して精力的に肉筆浮世絵を集めた。
   ビゲローは、フェノロサに日本美術の価値を教えられたが、フェノロサは浮世絵を俗物として価値を認めていなかったのだが、その説を退けて浮世絵収集にかけたのが興味深い。

   浮世絵については、結構鑑賞する機会があるが、断片的な展示が多い。
   一番感激したのは、ロンドンの大英博物館で、広重の「東海道五十三次」の全版画を一堂に会して見た時であるが、さすがにあの時は広重の絵に感激して長い間前から離れられなかった。
   丁度、日本舘の内装工事を手伝っていて起工式に日本から神官に来て貰ったり等して思い出深いプロジェクトなのだが、その開館前に人の居ない時にじっくり見ることが出来たのである。
   しかし、それらは版画であって、今回の美術展は総てペインティング、即ち、一点しかない肉筆の浮世絵ときているのであるから、その素晴らしさと価値はまた格別である。

   浮世絵と言えば、何よりも美人画で、目を見張るような素晴らしい作品が多くて中々目を離せなかった。
   口絵は、喜多川歌麿の「三味線を弾く美人図」で、芸者か浄瑠璃を語る娘浄瑠璃のようだが、右手で三味線を弾きながら左手で糸巻を回して音締をしている。
   面白いのは美人の左側の余白に5人の狂歌師の彼女への片思いの狂歌が書かれていることで、とにかく粋で洒落ている。
   勝川春章の素晴らしい岩井半四郎を描いたと思われる「石橋図」や純白の象に乗る遊女の「見立江口の君図」、宮川長春の鼈甲の櫛で黒髪を梳かす「縁台美人図」等を筆頭に単独の美人を描いた豪華な絵は、色々物語を語りかけてくれているようで興味をそそられる。

   この美人画のモデルは、遊里の花魁や遊女などが多く、このような女性達が最新の髪型や着物のファッションを生み出してリードし、ニューモードの彼女達や歌舞伎役者を描いた浮世絵を富山の薬売りが付録として持ち歩いて全国に伝わった。「今江戸では、この様な髪型が流行っています」等と言って世間話をしながら薬を置いていったのであろう。

   美人を描いた集合図や連作なども中々面白いが吉原などの遊里や芝居小屋、風俗図などの人々の集合体を描いた屏風絵など大型の絵画に興味深い作品が多い。
   菱川師宣の「芝居町・遊里図屏風」は、金雲なびく豪華な絵で、最高位の遊女・太夫が夕方禿を連れて大通りを揚屋に向けて練り歩く様子を、高嶺の華とポカンと口を開けて見とれる男達の姿、揚屋の贅を極めた内部や遊興に耽るお大人、格子の中の女たち等々当時の遊里の様子を描いている。また、中村座の舞台や楽屋裏、木戸口や平土間の観客達なども克明に描かれていて、当時の歌舞伎座の雰囲気が偲ばれて興味深い。
   同じ様に、宮川長春の「吉原風俗図屏風」では、高級妓楼三浦屋の優雅な座敷の様子を格子ごしに描いたり、隣の一寸格の下がる妓楼から隠れ潜んだ遊客が表を通る禿を連れた太夫の道中を暖簾越しに見ている様子など、華やかな花魁達の道中と見とれる客などを描いていて見ていて飽きさせない。

   怪奇な世界を描いた菱川師宣の「変化画巻」や鳥山石燕の「百鬼夜行図巻き」。歌川豊国の「三代目中村歌右衛門」をはじめとした歌舞伎役者達の浮世絵。
   面白かったのは、鳥文斎栄之の「見立三酸図」で、酸の入った大きな壷を囲んで楊貴妃と小野小町と江戸の遊女の3人の美女を描いた絵で、気の所為か遊女が一番魅力的であった。
   
   この展覧会で興味深かったのは、葛飾北斎作品が異彩を放っていたことである。
   北斎は、印象派に強烈な刺激を与えた富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」や実に表情豊かな人々の姿を描いた「北斎漫画」の画家だが、今回、素晴らしい美人像を描いた「鏡面美人」や「大原女図」の他に、端午の節句に魔よけの為に靡いていた大幟に描いた木綿地朱幟絵「朱鍾馗図幟」の中国画のような豪快な絵、袱紗に描いた絹本着色の「唐獅子図」、斬新なデザインの華麗な「鳳凰図屏風」、「李白鑑瀑図」や「月下猪図」のような掛幅などユニークな絵が展示されていて面白い。
   しかし、特に目を引くのは、提灯絵「龍虎」と「龍蛇」の二つの提灯である。
   ボストンに保存されていた時には、提灯絵を外して二巻の画巻に貼り付けられていたのだが、これをエサフォームで提灯の形を作って張り合わせて提灯にして展示されている。中々動きのある豪快な絵で素晴らしいが、残念ながら和製の提灯ではないので灯が入らないので雰囲気が出ないのが惜しい。
   しかし、とにかく、北斎の多才さと巧みな画業を垣間見た気がして面白かった。

   晩秋の午後、じっくりと華麗なボストン美術館の美人画等を楽しませてもらったが、このボストンもそうだが、私の良く通った大英博物館の倉庫にも、日本の貴重な美術品が沢山眠っていると言う。
   明治初年の流出と太平洋戦争でわが日本民族の誇る文化遺産が随分、消えていってしまっている。国民は賢くなければならないとつくづく思わざるを得なかった。

   
   
   
      
 
   
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キエフ・オペラ・・・トゥーランドット

2006年11月16日 | クラシック音楽・オペラ
   長丁場で日本各地を回って公演を続けているウクライナ国立歌劇団の「トゥーランドット」を上野文化会館で観た。
   モスコーのボリショイ・オペラとザンクトペテルブルグのキーロフ・オペラは観ているが、ロシアの3大劇場のうちキエフ・オペラはまだ観ていなかったので、楽しみに出かけたが、スターの見えないオペラであったが、期待に違わず可也水準の高い素晴らしいトゥーランドットを楽しむことが出来た。

   トゥーランドット   オレナ・スクヴォルツォヴァ
   カラフ        オレクシィ・レプチンスキー
   皇帝アルトゥム    ステパン・フィツィチ
   ティムール      ボフダン・タラス
   リュー        オリハ・ナホルナ
   指揮         ヴォロディミル・コジュハル
   管弦楽団、合唱、バレーはウクライナ国立歌劇場

   ニューヨークのMETとロンドンのロイヤル・オペラで、トゥーランドットを観ているが、最も最近は、イタリア・ヴェローナのローマ時代の野外劇場での公演である。
   ヴェローナ野外おぺらは、世界屈指の夏のオペラフェスティバルなので、その壮大なスケールに圧倒されるのだが、兎に角、舞台そのものが巨大なアリーナの一角に設営され、横幅の長さは端から端まで大変なもので上は観覧席の最上階までを使っての公演であり、開演前に場外に置かれている舞台装置や道具を見てもビルの2~3階分もあり度肝を抜かれる。
   トゥーランドット(アンドレア・グルバー)を載せて舞台を動くドラゴンの迫力も凄いが、舞台を埋める多くの兵士や群集の数など大変なもので、凄い数の登場者が舞台を縦横無尽に移動しながら合唱やバリーを演じるのであるから、そのスペクタクルは特筆に価する。
   片隅に設えられた舞台で、ホセ・クーラのカラフが「ネッスンドルマ 誰も寝もやらず」を歌い始めると巨大な場内も水を打ったように静かになる。
   このローマの野外アリーナは非常に音響効果が良いのである。
   グルバーのトゥーランドット、ホセ・クーラのカラフ、マヤ・ダシュクのリューの素晴らしさは言うまでもないが、イタリアのコーラスの途轍もないサウンドの凄さ、バレーの迫力、とにかく圧倒的なトゥーランドットの舞台であった。

   さて、今回のキエフ・オペラの舞台だが、荒削りではあったが、あの文化会館が揺れるような迫力の凄いトゥーランドットで、オーケストラも合唱もバレーも実に上手い、さすがはロシアのオペラグループの公演だと思った。
   管弦楽団の天を突くような迫力、地響きを起こすようなしかし実に美しいハーモニーのコーラス(このオペラの素晴らしさの一つがコーラスでもある)、それに、何とも言えないほど優雅で美しいバレー団の踊りと立ち居振る舞い、これらは正にロシアの伝統でありお家芸でもある。
   それに、舞台の装飾と登場人物の衣装に工夫が施されていて視覚的に実に美しい舞台で、楽しませてもらった。グナチュクの演出の妙であろうか。
   トゥーランドットの謎をカラフが解く度毎に、彼女は、金、青、赤のガウンを一枚づつ脱いでいき、最後には輝くような優雅な白衣に変身するあたり、サービス精神も豊かである。

   ところで、ソリストだが、ビラや主催者等のホームページを開いても名前さえ分からないし一切情報が掴めなかったのだが、私は、これまで世界のオペラハウスで卓越したロシア人歌手を何人も聴いており、無名でもロシア人歌手の凄さと層の厚さを知っているので、誰であっても最初から期待していた。
   パンフレットを買っていないので詳細は何も分からないが、トゥーランドットのスクヴォルツォヴァとカラフのレプチンスキーの素晴らしさには感激したし、指揮のコジュハルのたたみ掛ける様なリズム感と圧倒的な迫力の舞台展開にも感動して観ていた。
   ギネス・ジョーンズのような超ドラマチックな圧倒的な迫力を、絶頂期のパバロッティの輝くように張りのある美声を、夫々感じながら聴いていた。
   
   私の一番好きな女性のロールは、カルメンのミカエラとこのトゥーランドットのリュー。
   今回のオリハ・ナホルナのリューについては、最初に何故か異質感を感じてしまって気になったのだが、死んで行く直前のアリア「それぞ愛の秘密」から「冷たき心もやがて溶けなん」に至ると、もう引きずり込まれて感激しながら聴いていた。
   因みに、幸いにも、プッチーニは、このアリアを書き終えてから亡くなったのである。
   今回感心して観ていたのは、3人の大臣ピン(H.ヴァシェンコ)、パン(M.シュリャーク)とポン(S.プシューク)のコミカルで表情豊かな演技で、非常に舞台を盛り上げていて、それに歌も実に上手い。

   今度のウクライナ歌劇場は、他に「アイーダ」を引っさげて全国行脚をしているようである。
   世界のトップ歌劇場の日本公演と比べてチケット価格が非常に安かったが、殆ど遜色なく、非常にコストパーフォーマンスに高い舞台であったことを付記しておきたい。
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