熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

修善寺への家族一泊たび

2024年04月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   土日の休日を利用して、家族揃って、修善寺に出かけた。
   伊豆マリオットホテル修善寺で、家族全員で寛ごうという趣向で、特に目的もなかったが、沼津の淡島ホテルに泊まって身延まで足をのばした昨春の車旅のアンコールである。
   天気予報は、曇りから雨模様と言うことであったが、幸い、曇り空が続いたものの雨には遭わず、気持ちの良い温かさで、新緑が美しく萌えて爽やかな旅であった。

   このホテルは、伊豆の林間の急峻な山道を登り埋めたところに建つリゾートホテルで、周りは緑一色で、部屋の窓から望む新緑萌える色彩のグラデーションが美しい。
   各部屋のベランダに温泉露天風呂が設営されていて、緑滴る緑陰を見下ろしながら、部屋によっては、富士山や天城連山を眺めながら贅沢な湯浴みが楽しめる。
   家族たちは、何度も湯船に浸かって露天風呂を楽しんでいた。

   ホテルには、何の娯楽施設もスポーツ施設もないし、バーと言った場所もない。ゆっくりと、休暇を楽しみなさいと言う趣向である。
   広いダイニングには、ビュッフェスタイルが併設されているのだが、アラカルトメニューを選べば、高級西欧料理が楽しめる。
   メンバーであれば、ラウンジに入れば、夜遅くまで、存分に、色々な酒類の飲酒を楽しみながら、過ごせるので、格好のリラックスタイムとなる。
   土曜日、ホテルに着いた日は、部屋でゆっくりと過ごし、レストランで家族とミニパーティをし、夜半までラウンジで男同士で、一寸固いが、時事問題やビジネスなどカレントトピックスを語り続けた。
   

   翌朝、チェックアウトまで、家族たちは、ホテル近くを散策しながら楽しんでいたようだが、私は、部屋とラウンジで昼過ぎまでホテルで過ごした。
   前日には微かに姿を現していた富士山の裾野部分が、八重桜の枝間から微かに見えている。
   

   歳を取ると、観光にもあまり興味を感じなくなる。
   ガイドを見て行こうと思ったのは、修善寺と竹林、

   修善寺に近づくと人が混み始めて、門前の広場にには沢山の人が集まっていて、長い行列が出来ている。
   迂闊にも知らなかったのだが、4月20-21日は、弘法忌春季大祭
   修禅寺を開創した弘法大師:空海の法要で、この日は、本堂の大師の厨子を奥之院まで神輿に乗せて運ぶ【みこしお上がり】をはじめ、万灯会・湯汲式などの催しが二日間にわたり行われる大祭だったのである。
   車で門前を通り抜けるのがやっとで、結局、近くの竹林も諦めて、Uターンして家路に着くことにした。

   鎌倉への途中、伊豆の国に、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されている韮山反射炉があったので、立ち寄った。
   反射炉とは、銑鉄を溶かして優良な鉄を生産するための炉で、銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となるが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっている。このように、反射させる仕組みから反射炉と呼ばれた。
   対面の小山の中腹の茶畑が美しい。
   新茶の発売日だというので、一袋買った。宇治分校の学生時代に、茶問屋に下宿していたので懐かしくなった。
   
   
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鎮守の森のヤブツバキを思い出す

2024年04月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   椿に魅せられて栽培を続けて久しいが、私の椿に対する記憶は、もう何十年も前の幼少期に始まる。
   特に印象に残っているのは、村はずれの神社の境内にあったヤブツバキの大木で、落ち椿が地面を鮮やかに赤く染めていたのを覚えている。
   鎮守の森のヤブツバキである。
   参道の両側を、椿の鬱蒼とした大木に覆われると薄暗くなるほどで、何故だか、椿と言えば大木のイメージしか残っていないのが不思議である。

   この口絵写真は、わが庭に植わっているピンク加茂本阿弥の実生苗の赤い椿だが、一寸違うが良く似た雰囲気の椿であり、赤い一重の花弁と黄色い筒蘂が特徴である。
   今でこそ、園芸種が多くなって、このヤブツバキを見かけることが少なくなったが、あの頃、宝塚の田舎で植わっていた椿は、総べてと言って良いほどヤブツバキであった。
   関東に来てからは、公園や住宅の庭などで、ピンクの乙女椿を見かけることが多くなったような気がしている。
   佐倉にいた時に、城址公園で昔見たヤブツバキの大木群を見て、懐かしくなった。

   このツバキは、青森県の夏泊半島の椿山が北限で、南限は沖縄の西表島から台湾に及んでいて、学名は、カメリア・ジャポニカ、
   安達瞳子さんは、
   世界数千に及ぶ園芸品種の内、3分の2は、このジャポニカの赤い血が流れている。とくに優れた諸形質を持っているためであろう。我が国が誇るべき常緑の花木であり、世界の母樹である。と言っている。
   花弁の赤色はバリエーションがあるようで、白花もあるという。
   わが庭での実生苗は、すべて雑種だろうが、朱色や赤色が濃くて深みのある花が咲くと嬉しくなる。
   
   

   椿は、他家受粉植物なので、虫媒花であり鳥媒介によって絶えず自然に新種が生まれており、育種家の交配によっても新しい椿が作出されているので、どんどん園芸品種が増えていくのであろうが、遺伝子組み換えはどうであろうか。
   青いバラのように、青い椿が生まれるかも知れない。
   尤も、新種に興味を持つ歳でもなくなったので、今付き合っている椿を大切にしたいと思っている。
   
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NHK 驚異の庭園 ~美を追い求める 庭師たちの四季~

2024年03月11日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先月、素晴しい日本庭園に関する番組「NHKスペシャル 驚異の庭園 ~美を追い求める 庭師たちの四季~」が放送されていたので、録画して見た。
   NHKのHPより番組の紹介をそのまま転記すると次の通り。
   ”世界が賞賛する日本庭園が、島根・足立美術館と京都・桂離宮にある。過酷な自然と格闘しながら、それぞれの美を追求する庭師たちに密着。徹底した美学と、驚きの技とは。海外の日本庭園雑誌のランキングで21年連続1位の島根・足立美術館の庭。日本画の巨匠、横山大観の風景画を現実世界に再現した、白砂に生える松林や人工の滝は圧巻で、5人の庭師が約2000本にものぼる膨大な樹木を葉の一枚まで徹底管理する。2位は日本庭園の傑作と評される京都・桂離宮の庭。400年受け継ぐ技“御所透かし”で、伝統を見事守る。異なる個性の2つの庭園で、美を形にする庭師たちの四季折々の奮闘を追う。”
   
   

   問題のランキングは、アメリカの雑誌Sukiya Livingが毎年12月に発表する「日本庭園ランキング」で、世界各国の読者から選ばれた20人の専門家の推薦によると言うことである。
   当然のこととして、日本人ではない外国人の目から見た、審美眼が、日本の歴史や文化文明、それに、思想哲学など美意識からは乖離した視点からの庭園評価であるから、違和感があるかも知れない。
   日本のユリがカサブランカのようになり、日本の野ばらが豪華絢爛たる派手な花になったように、西洋風に品種改良されていることを考えただけでも、その美意識の差は歴然としている。
   この番組では、足立庭園の苔庭や枯山水を紹介していたが、普通では見えないし、極論すれば、西芳寺の苔庭や龍安寺の石庭など、日本では超弩級の庭として有名だが、普通の西洋人には理解困難であろう。

   ところで、アメリア人が、アメリカでは枯らさないように木を切るが、日本ではより美しく見せるために剪定すると驚いていた。
   私は、日本の庭が美しいのは、この庭木の剪定が、最も重要な役割を果たしていると思っている。

   足立庭園と桂離宮の庭園との庭師の大きな作業の差を、剪定で説明している。
   まず、桂離宮の庭は、400年受け継ぐ技“御所透かし”で剪定して、現状を変えずに伝統を守り続けている。建物と調和させるためだという。
   
   ところが、足立庭園は、自然の石との調和を意図して、綺麗な円形の玉形になるように玉造りに剪定されている。

   前世紀のことになるが、足立美術館には、大観を見たくて一度だけ行ったことがあり、この口絵写真のように広い窓越しに庭園を見た。
   桂離宮も、アメリカ人とイギリス人の客を案内して、2度訪れていて、記憶を辿りながら、懐かしく番組を見た。
   それに、千葉でもこの鎌倉でも、小さいながらもわが庭を持っていて、ここ何十年も庭仕事の真似事をしていて、剪定もしているので、この素晴しい庭師たちの努力奮闘は痛いほど分かり、感動しながら見ていた。
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ひなまつりは春の到来を告げる

2024年03月05日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   毎年、2月の下旬に近づくと、雛人形を出して、和室に飾る。本格的な春の到来である。
   1979年にブラジルから帰国して、翌春、長女のために買ったので、もう、40年以上も我が家で春を迎えているのだが、殆ど新鮮さを保ったままでビクともしていない。
   主は、長女から次女へ、そして、次女の長女、我が孫娘に代わって、3代目だが、住処は東京、埼玉、千葉、神奈川と転々としている。オランダ、イギリスへは持って行けなかったが、寮の管理人が8年間大切に管理してくれたので非常に感謝している。

   もう、ぼつぼつ、倉庫からだして飾り付けるのが大変になったので、今回は、孫娘の父親に任せた。
   殆ど問題はなかったのだが、細かいことを言うと、大鼓と小鼓があべこべになっていた。これは、知らない人には無縁だが、能狂言に通いつめていた私だから気になったのであろう。
   桃の花の季節ではないので、わが庭に咲いているサクランボの花で代用した。

   ひな祭りの日には、近所のケーキ屋さんで、ひな人形をあしらったデコレーションケーキを買ってきて祝う。
   恒例になっているのは、次女家族親子4人が、ひな人形の周りに並んだり、ケーキを囲んでの定点写真を撮ることである。
   特に、子供たちの成長ぶりが良く分かって、印象深い記録になっている。

   さて、余談だが、イギリスの知人アブラハムズ夫人に、病気回復と更なる健康を祈って、妻と孫娘が、一所懸命に千羽鶴を折って、送った。
   1988年から93年まで、公私ともに親しく付き合ってきた友人だが、あれから、もう40年、
   主人のジムは逝って既に3年、もう一人の友人マイクも昨年亡くなり、老婦人たちだけが残っていて、イギリスがドンドン遠くなっていく感じでさびしい。
   ところで、今回、面白いと思ったのは、郵便局が国際郵便の発送システムを電子化して、「国際郵便マイページサービス」をはじめて、パソコンでプリントアウトした送り状などを持って行かないとダメになったことである。
   習熟すれば何でもなく便利で重宝なのだが、とにかく、パソコン操作から問題で、家内の事務代行を行ったが、老年にはどんどん難しい世の中になって行く。
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鎌倉山の山の端の中秋の名月

2023年09月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日は曇りの予報で心配していたが、綺麗な中秋の名月が表われた。
   我が家の庭から、やや高みの鎌倉山の端から月が顔を出すので、月の出は、いつも、ワンテンポ遅れる。
   TVで、東京の名月が綺麗に見えていたので、すぐに表われると思って待っていると、薄雲を通して顔を出した。
   

   さて、いつも忘れてしまって、気がついて和菓子屋に行ったら、団子が売り切れていたり、ススキがなかったりして、月見飾りさえ真面に出来ていないのだが、今日は意識して、まず、ススキと団子の手配をした。
    わが庭のススキは、出たり出なかったりで、出てもいつも遅いので、今日は、諦めて路傍のススキを頂戴して使うことにした。鎖大師の切り通しの名残の崖プチのススキなど風情があって面白い。
   団子は、本職の団子屋というか和菓子屋で買おうと思ったが、スーパーの方が選択肢が多いと思って、スーパーに出かけて何種類か買って帰った。
   季節の果物は、家にある梨と柿を使った。
   お供え物は、5種類とかで、他に里芋、秋の七草と言うことだが、省略した。

   尤も、団子やススキなどを用意したのは、孫たちに、自然の営みと季節の移り変わりを通して、日本の風習を感じさせるためである。それにしては、手抜きであって恥ずかしい限りであるが、中秋の名月を見て歓声を上げていたので、役に立ったのであろう。

   夜遅くなって、このブログを書き終える前に、庭に出て空を仰いだら、中天真上に綺麗な名月が輝いていた。
   なぜか、アジアとヨーロッパを跨ぐダーダネルス海峡に煌々と照り輝いていたイスタンブールの月光を思い出して、無性に懐かしくなってきた。
   
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淡島ホテルから富士山を遠望

2023年04月15日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   長女夫妻に誘われて、沼津の淡島ホテルで一泊した。
   沼津市の南方駿河湾に浮かぶ小さな孤島淡島の立派なリゾートホテルで、富士山の絶景を臨める素晴しい立地である。
   着いた当日は、東京や千葉など関東は大荒れの天気で、伊豆半島をまたいだ駿河湾も波高く、残念ながら、富士山は雲に覆われて見えなかった。
   鎌倉からは、ところによっては、時折、富士山は見えるのだが、富士山には縁のない元関西人にとっては、富士山を見ると無性に嬉しくなり、どうしても、富士山に近づくと、美しい姿を見たいと焦りさえ感じるのである。
   
   
   

   午後、併設されているマリーンパークで、孫娘とアシカショーなど見て島を散策して、夕刻、レストランで、フレンチのフルコースを楽しんだ。
   ビジネスを離れてからは、正餐の機会は、グッと減ってしまったが、ヨーロッパに居たときには、ミシュランの星付きのレストランを足繁く行脚していたのを思い出しながら、家で晩酌で飲むワインとは一寸違った雰囲気で、ほろ酔い気分を味わった。
   丁度、対岸に沈む夕日が美しかった。
   宿泊客も少なかったし、喧噪から完全に隔離された静かなホテルであったので、穏やかな夜を愉しませて貰った。
   
   
   
   
   翌朝、起きてカーテンを開けると、穏やかな良い天気で、富士山が奇麗に見えている。
   富士山の前方の山は、愛宕山で、その手前は沼津の街並みである。
   宝永山は、やや右肩に見えているが、遠方からは隠れて見えるので、円錐形の奇麗な富士山が見えて美しい。
   時間が経つと海が鮮やかに色づき、富士山に雲がかかり始めた。
   
   
   
   
   
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野鳥の訪れを楽しむ喜び

2023年02月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   友から、野鳥の便りが届いた。
   綺麗な天気なので庭に出たら、メジロが、咲き乱れている白梅の梢をハシゴしている。
   先日、ジョウビタキも庭を訪れていた。
   まだ、寒いので、庭に長くいて小鳥の訪れを待つ余裕がないが、もう少しして、花の季節になると、小鳥たちや蝶などが集まって来て、わが庭も華やぐ。
   このブログも長いので、結構、野鳥の観察記や思い出などを書いてきているが、離れた地方の田舎からの鳥便りは嬉しい。

中村様
今朝は冷え込みがきついものの 真っ青な空が広がり 気持ちの良い朝でした。出不精の私と違って 家内は雨が降らない限り毎朝、愛用のスワロスキーを手にして 小1時間ほど家の周りを散歩するのが常ですが
今朝はイソヒヨドリ、アオジ、ビンズイ、ホウジロ、ハクセキレイ、キセキレイ、コガモ、ジョウビタキ、ツグミ、カワラヒワ、モズ、ノスリ、ヤマガラなどに会えたと機嫌よく帰ってきました。何時も姿を見せるカワセミは顔を出さなかったとのことです。見かける鳥の種類で 季節の移り変わりを感じるのですが そろそろ冬鳥のビタキ類やツグミなどは見納めとなるようです。バードウォッチングが趣味の家内は 季節の変わり目に 沖縄の宮古島や石川の舳倉島などに出かけていくことも屡々でしたが 最近はさすがに体がついていかず 専ら大阪城公園が定番となっています。 私も何度か同道したことがあるのですが 視力が弱いため一向に役に立たず 最近はお呼びがかからなくなっています
 郷里に戻ってほぼ20年。そもそも田舎ですから 野鳥も多かったのですが 7年前に我が家の山の一部に 新東名高速道路の料金所が出来たりして自然環境が大きく変わり オオルリやキビタキは全く姿を見せなくなりました 庭にかけた巣箱もこのところ住民は不在のままです。
 仕方がないので 日曜大工で餌台を作り 毎朝 餌を撒いて鳥寄せをしていますが お目当ての鳥は一向に姿を見せません 常連はヤマガラのほか主役は雀です。ありふれた鳥ですが 30羽近く集まって 懸命に餌を啄む姿を見ていると なかなか可愛らしくつい見入ってしまいます
 逆にどうしても好きになれないのはカラス。朝に夕に何拾羽が我が物顔に空を舞う姿はヒッチコックの[bird]を思い起こすほどの不気味さです。ダーウインの進化論では「生物は最も強いものが生き残るのではなく環境に最も適応したものが生き残る」とあるようですが 姿形よくして
性 善なるものは どこの世でも生き難いのでしょうかね。   中根

中根さん
バードウオッチングの様子、羨ましく読ませて頂きました。
鳥には疎いので良く分かりませんが、ビンズイ、ノスリはまだ見ていないと思いますが、千葉にいたときには、印旛沼に近かったので、たまには、田園地帯に出て、野鳥に遭遇しました。カワセミが結構いましたので写真を撮っていました。キジもよく見ました。
鎌倉に来てからは、あまり、田畑のあるところには行かなくなったので分かりませんが、わが庭に頻繁に訪れるのは、メジロとシジュウカラ、キジバト、それに、鵯、
鶯は良く囀っているのですが中々姿が見えず写真に失敗し続けており、良く似た声の害鳥であるガビチョウの方が目につきます。先日、コゲラを見たのですが、知らない間に他の鳥も来ているのかも知れません。
いずれにしろ、花の合間についでに鳥を観ていると言った感じですが、興味がないわけでもありません。
ロンドンに居たときには、キューガーデンのそばに住んでいて、良く訪れていたので、野鳥には随分接していましたが、ヨーロッパの方が、綺麗な鳥が身近にいたような記憶があります。
また、鳥の話を聞かせてください。
季節の変わり目、気温の乱高下が激しいので、ご自愛ください。     中村
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孫娘と雛人形を飾る

2023年02月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   3月3日の桃の節句には、雛祭りで、女の子の健やかな成長を祈る。
  「男雛」と「女雛」を中心としたひな人形に、桜や橘、桃の花など木々を飾りつけ、雛あられや菱餅などを供えて、白酒やちらし寿司などの飲食を楽しむ。

  ところで、我が家でも、子供が女の子で、孫娘もいるので、毎年、この季節には、雛人形を和室に飾って祝っている。
  今年は、雛飾りが遅れて、昨日重い腰を上げて雛人形を飾り付けた。
  雛飾りと言っても、結構細々とした仕事があって、歳を取ると大変なので、ギリギリまで延ばしてしまったのである。

  もう40年以上も前になるが、4年間のブラジル赴任を終えて帰ってきて、新春早々、浅草橋の秀月に出かけて、出来るだけ立派なものをと思って、七段飾りの大きな雛人形を買った。幼稚園を日本とアメリカとブラジルで過ごして小学生の中学年で帰ってきた長女に、出来るだけ早く日本の良さを味わわせたかったのである。
  今飾っているのは、この雛人形で、社宅のマンションには大きすぎた感じであったが、今の12畳の和室にはシックリと収まっている。8年間、ヨーロッパに赴任していたときには東京の倉庫に眠っていたが、その後、東京、千葉、鎌倉と移転したが、今でも買ったときのように綺麗で満足している。
  五月人形は、孫息子それぞれに買ってやっているが、雛人形は、長女、次女と引き継ぎ、今、次女の長女が引き継いでいて、女の子は一人だけだし、我々祖父母の仕事はこれで終りそうである。

  今思えば、ヨーロッパへ赴任したときに、引っ越し荷物として持ってくれば良かったと思っている。
  私自身一人で先にアムステラダムに来て、引っ越し荷物の発送を家内に頼んだので、大変だろうと思って止めたのだが、8年間と長期にわたり、それに、大仕事が続いて、オランダ人やイギリス人達と深い付き合いがあったので、日本文化の紹介など親睦にも有効であっただろうと思ったのである。

  一年ごとに、雛人形を飾りながら、走馬灯のように過ぎ去っていった懐かしい思い出を反芻してしんみりとしている。
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今日は中秋の名月であった

2022年09月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   覚えてはいたのだが、忘れてしまっていた中秋の名月。
   夜、散歩に出て、綺麗な月を見上げて思い出した。
   途中、まだ開いていたスーパーに立ち寄って、月見団子を買おうと思ったのだが、もう、既に売り切れてしまっていた。
   帰ってきて、庭を見たのだが、わが庭のススキは、まだ、穂が出ていなかった。

   全く、季節の移り変わりに無神経になってしまって、結構、気にして飾り付けていた季節の行事も疎かになってしまった。

   鎌倉山の山の端から、月が出るので、少し、月の出が遅いのだが、中天に上って輝くと遮るものがない田舎の月なので、煌々と輝いて美しい。
   薄雲を潜りながら移動するので、時々、月が陰るのだが、すっと雲から抜けると、一気に輝きを増す。
   しばらく、庭に佇んで、名月を鑑賞していた。
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京都の自然を楽しむKYOTO TRAIL

2022年07月31日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日の日経日曜版の特集に、KTOTO TRAILについての記事が掲載されていた。
   京都とくれば、私の学び舎でもあり青春時代の思い出がぎっしりと詰まった懐かしい街でもある。
   しかし、私の歩いた京都は、歴史散歩というか、古社寺巡りの日本文化を求めての散策であったので、どちらかと言えば京都の山歩きと言う感じのハイキングを意図した自然散策のKTOTO TRAILとは、同じ京都歩きでも、大分ニュアンスが違う。

   結構重なっているトレイルもあるが、それは、古社寺が山間に位置するとか郊外にあるといった感じであるからであろうが、どちらにしても、目的が違えばスケジュールもコースも、歩き方も違ってくる。
   京大生であったから、頻繁に歩いたのは、東山コースで、清水寺から、哲学の道や銀閣寺経由で、詩仙堂から八瀬だが、吉田山には登ったが大文字には上っていない。比叡山や大原にはバスで出かけたが、コースから外れている三千院から寂光院への山道は、何度も通った。
   金閣寺から竜安寺、仁和寺、嵯峨野から嵐山、苔寺は、平坦な道なので、結構歩けたが、高尾へはバスで出かけて、三尾(高尾・槙尾・栂尾)を散策したくらいである。
   本格的な山道を歩いたのは、鞍馬から鞍馬山を抜けて貴船神社までと、これもコース外だが、比叡山延暦寺から琵琶湖畔の坂本まで下ったくらいで、健脚でもなかったし、ハイキングの趣味もなかったので、歩くことはなかった。
   トレイルの写真を見ると、京都の街並みや琵琶湖を眼下に見下ろす風景写真が多いのだが、そんなところに行かなくても、私の通った歴史散歩でも、結構、そんな機会があって展望を楽しめていた。
   下記は、口絵とは違ったマップだが、同じ京都の自然を歩くと言っても、ニュアンスの差があって面白い。
   

   京都については、このブログでも随分書いて来た。
   豊かな歴史があって、内陸の盆地であるために夏冬の寒暖は勿論気候条件が厳しくて、自然が激しく変転して、京都独特の美しい姿を見せて楽しませてくれる。
   フッと旅をしたくなると、どうしても、センチメンタル・ジャーニーで、京都に行きたくなるのだが、もう少し若ければ、京都の自然を観るKTOTO TRAILに出て、別な京都の魅力を味わえたらと思うのだが、残念ながら、歳が歳、タイムアウトである。
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久しぶりの旅:佐渡旅行(7)

2022年07月06日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   佐渡汽船のジェットフォイルで両津に着くと、口絵写真の看板が、観光客を迎えてくれる。
   佐渡観光のハイライトは、トキであり佐渡金山なのであろうが、私は、どちらにも行かなかった。
   興味がなかったと言えばそれまでだが、今回は、日蓮大聖人と世阿弥に思いを馳せる旅であったこともあって、時間的な余裕もなかった。

   それと、しみじみと感じたのは、あれも見たいここにも行きたい、好奇心旺盛で何でも体験してやろうと意気込むのが旅の醍醐味だとすれば、それは、若いときに限る、と言うことで、老年になってからの旅は、しみじみと人生を思う思索の旅のような気がしたことである。
   若くして米国留学に恵まれ、壮年期から熟年期に掛けてヨーロッパ中心に海外生活が長かったので、随分色々な所をエネルギッシュに行脚し続けて、見るべきものは見たと言う心境に近づいたのも、若くて元気であったからこそできたことで、今では無理である。
   孫娘の保育園と幼稚園の送り迎えから解放されてたので、フィラデルフィアへのセンチメンタルジャーニーとニューヨークへの文化芸術鑑賞旅に出ようと思ったのだが、コロナ問題以外にも、アジア人へのヘイトクライム問題や自分自身の体力に自信が持てなくなってきたこともあって、逡巡している。第二の故郷と思って自由気ままに闊歩していたはずのアメリカが遠くなってしまったのである。

   さて、学生時代からの趣味であった古社寺散歩であるが、佐渡にも、それぞれ趣のある神社仏閣があって、興味深いのだが、最も印象に残っているのは、やはり、五重塔がある妙宣寺であった。
   佐渡流罪後、大聖人に最初に帰依して、警戒を搔い潜って夜陰に紛れてお櫃を背負って三昧堂に通い続けた阿仏坊ゆかりの寺である。
   その誠実な人柄を認めて、「阿仏坊さながら宝塔、宝塔さながら阿仏坊」、阿仏坊こそ生きた仏身、宝塔なのだと賛美されたほど高徳な人物で、この五重塔は、実はその開山を祀る堂なのだという。
   文政8年(1825)に建立されたと言うので比較的新しい。建築様式は和様の三間五重塔婆で、屋根は宝形造桟瓦葺(旧こけら葺)、天辺に江戸風の相輪を備え、全高約24メートル、初層の各辺3.6メートルで、柱に杉材、上物に松材、組物に欅材が使用されている。と言う。
   ただ、残念だと思うのは、法隆寺や薬師寺などの塔と違って檜造りではないので、多くの江戸時代の神社仏閣がそうであるように、退化が早いのではないかと言うことである。
   本堂近くに、綺麗に手入れされた池を配した庭園があるなど境内は魅力的で、観光客が多い。
   すぐ近くに、能楽堂のある大膳神社があるのだが、ここへは、訪れる人はいなかった。
   
   
   

   今回の旅で、印象深かったのは、久しぶりに、魚介類を中心とした会食料理を頂いたので、佐渡のご飯と地酒が、実に美味しかったということである。
   美しい棚田があることは知っていたが、時間がなくて見る機会がなかった。
   まだ、秋の収穫期には間があるので、稲が根付いてしっかりと成長を始めた時期だが、強い風に吹かれて靡く姿が印象的であった。
   しかし、水田だと思うのだが、田んぼには殆ど水がなく、陸稲の雰囲気であった。
   北雪酒造では、佐渡米を使って醸造していると言っていたので、地酒も、この佐渡の大地と自然の恵みの為せる技なのであろう。

   さて、順徳上皇や日蓮大聖人や世阿弥の頃は、どうだったのであろうか、ついつい、つまらないことを考えてしまう。
   
   佐渡は、美しい素晴しいところであった。
   何故か、学生時代に、京都や奈良の古社寺行脚を続けながら、しみじみと、日本の風土が醸し出す文化の香りに感動し続けていた、あの懐かしい青春時代の思いでが蘇ってきた。
   素晴しい佐渡旅行であった。
   
   
   
   
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久しぶりの旅:佐渡旅行(6)

2022年07月04日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今度の佐渡旅行は、72歳の老耄の涯に、お上をないがしろにしたと言う覚えなき理由で、将軍義教に、佐渡流謫の刑に処された世阿弥を偲ぶ旅でもあった。
   しかし、世阿弥が最初に立ち寄った長谷寺の門前に立っただけで、世阿弥の佐渡に於ける遺跡やゆかりの場所には、一切立ち寄らなかった。
   日蓮大聖人の故地を訪れているうちに、場所は正確な位置であったとしても現状は様変わりで、むしろ、抱いていたイメージと全く違った印象に陥ってしまうのに戸惑いを感じたからである。
   まず、単純は話、先日読んだ藤沢周の「世阿弥最後の花」のイメージを壊したくなかったし、私が多くの世阿弥の能の舞台を観たり本を読んで培世阿弥の世阿弥の世界を壊さずに、この地で、世阿弥が晩年を過ごしたと感じさえすれば、それで良かったのである。

   余談になるが、例えば、ストラトフォード・アポン・エイボンの路地に迷い込むと、今にも、シェイクスピアが飛出してくるような錯覚に囚われたり、ヴィッテンベルクに行けば、マルティン・ルターが、大聖堂の壁に「九十五ヵ条提題」を貼り付けた宗教改革のはしりの雰囲気が分かるような気がした。それがないのである。
   石と煉瓦の文化には、歴史を封じ込める要素があるが、日本の木と紙の文化には、悲しいかな、紆余天変が激しくて、すべてを忘却の彼方に消し去ってしまう。

   さて、「京都は着倒れ、大阪は食い倒れ。佐渡は舞い倒れ、という言葉があるとかで、佐渡には、日本の能舞台の3分の1が集中しているほど、能の盛んな土地だと言うことである。
   世阿弥が、将軍足利義教によって佐渡に流罪となったのは、永享6(1434)年5月であるから、その影響があったのかどうかは不明だが、藤沢周は、世阿弥がその種を蒔いたことを小説で匂わせている。
   佐渡芸能によると、
   佐渡の能楽の始まりは、慶長9(1604)年、佐渡代官として渡島した大久保長安が、能楽師常太夫・杢太夫、そのほか脇師・謡・笛・太鼓・大鼓・小鼓・狂言師一行をつれてきたことによります。そして、寛永12(1635)年、佐渡奉行伊丹康勝が相川の春日社の祭礼に能を奉納しました。また、正保2(1645)年も、能楽師常太夫が登場することもあるので、大久保長安とともに来島した人物が襲名した二代目と思われます。いずれにしても、この2人によって佐渡の能の基盤は作られました。

   私は、実際の能舞台に接したくて、大膳神社に出かけて、境内の広い庭に立つ野ざらしの能舞台を観に行った。
   東京で見慣れている能舞台は、ビルの中や立派な建屋の中に鎮座まします冷暖房完備で、照明や音響設備の整った近代的な劇場だが、本来の能舞台は、稲穂の靡く田園地帯の森に、このように野ざらしで、風雨をものともせず存在するのである。
   
   

   佐渡伝統芸能館では、京の都につながる伝統・芸能・文化を再現と言う形で、佐渡へ配流されてきた3人のロボットが、時代を超えて佐渡の昔へタイムスリップして、故事来歴を演じる。
   世阿弥は、能舞台に立って、雨乞いの能を舞う。
   正法寺に、世阿弥がこの時掛けて舞ったという「神事面べしみ」があり、藤沢周が感動的な舞台を展開しているので、世阿弥にとっては、佐渡での最も重要な営みであったのであろう。
   
   
   

   泊まっていたホテル佐渡リゾートホテル吾妻のロビーに、鏡板が設えられていて、能人形が一体ディスプレィされていた。
   やはり、能の島である。
   私の観能は、殆ど、国立能楽堂などで演じられる最高峰の能なので、佐渡で地方の能を観たいと思ったのだが、残念ながら、1週間ずれていてチャンスをつかめなかった。
   
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久しぶりの旅:佐渡旅行(5)

2022年07月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   日蓮大聖人について、佐渡流罪に関する本を探してみたが、思ったほどなくて、本間守拙著「日蓮の佐渡越後」と田中圭一著「新版 日蓮と佐渡」。
   前者は、サブタイトルが遺跡巡りの旅なので、観光案内書という位置づけだが、佐渡出身の種々キャリアを積んだ僧侶であるから相当重量のある大聖人論を展開していて興味深い。
   後者は、佐渡出身の歴史学者の著書で、師から民衆不在の佐渡史の指摘を受けて、「日蓮の書き残した主張・教学と、流人日蓮を育んだ島人、村落とは無縁ではあり得ない」と考えて、「多くの消息文や日興が発給した多くの本尊などを歴史解明の第1の手がかりとして、第2に日蓮の住んだ村々を問題の糸口として、村落や在家を調べる作業を続けて、今日までの日蓮の遺跡に全面的に検討を加え、多くの疑問を正し、後世の潤色を剥がして、佐渡に於ける本当の日蓮像とその足跡を著したと言う貴重な学術書である。佐渡を知り尽くした歴史学者が、大聖人の御書や関係書類、それに、歴史的な古文書や膨大な資料を検討し尽くして、佐渡の関係地方を悉く踏破し克明に検証して、「日蓮の佐渡に於ける真実に迫る」のであるから、感動的である。
   実際的にも、日蓮大聖人の生涯は、承久4年(1222年)2月16日- 弘安5年(1282年)10月13日とされており、現存する佐渡にある日蓮ゆかりの寺院仏閣など遺跡の大半は、生誕800年、それ以降に建設されたものであるので、そのものが、正確な故地であり遺跡であるかは、疑問なしとしないのは当然である。

   さて、まず、何故、大聖人が、佐渡流罪となったのか、田中圭一教授の前著を借用して要約すると、
   1260年、日蓮は、時の最高権力者北条時頼に、「立正安国論」を上程し、法華経を持って国を治めなければ、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(外国からの侵略)の二難が起こると警鐘を鳴らした。「御尋ねもなく御用いもな」く、一ヶ月後草庵を多くの念仏者たちが襲撃して、辛くも難を逃れて鎌倉を逃れるが、鎌倉に戻ると逮捕されて伊豆に流罪となる。伊豆流罪赦免後、故郷の安房に戻るが、小松原で地頭東条景信に襲撃され、重傷を負い幾人かの門弟を失う。南無妙法蓮華経を弘通し始めて以来受難の連続である。
   しかし、鎌倉では、「立正安国論」で嘆いたとおり、地震や火災など災難が続き、勢いを増してきた蒙古から牒状が届き他国侵逼難が俄に現実味を帯びてきた。日蓮は一貫して「立正安国論」の節を曲げず、南無妙法蓮華経を」用いなければ国が滅びると警告し続けて、諸宗に対する批難をより強めて、公の場での問答対決を幕府に求め続けた。
   当時の日本国内は、天変地夭が続き、外からは蒙古の属国となることを迫られ、鎌倉は酷い旱魃で、幕府に命じられて極楽寺良観が何百人もの僧を集めて雨乞いをしたが、ついに雨は降らなかった。
   面目を失った良観の嫌がらせや謀計、諸宗の僧等は日蓮を憎み、様々な讒言を幕府にたれ込み、それに結託した幕府の弾圧など、一門の苦難は続く。
   釈迦が本懐を明かされた真実正直の教えは法華経のみで、法華教以前に説かれた爾前経は、方便の経、真実を明かしていない仮の教えであると、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊として、エスタブリッシュメントたる幕府とそれを信仰する諸宗派を、徹底的に否定して糾弾するのであるから、誹謗中傷、弾圧は勿論、松葉が谷、小松原、龍ノ口など襲撃や法難に遭遇し、伊豆や佐渡への流罪など苦難の連続、
   権力を握っていた当時の政教複合体が、徹底して日蓮一門を迫害弾圧したということであろうか。
   評定所に呼ばれて、侍所所司平左衛門尉頼綱から尋問を受けたが、この時も日蓮は多くの経文を引きながら「立正安国論」の自説を展開したので、頼綱は逆上した。更に、「立正安国論」を添えて送付し諫暁したので、頼綱は数百人の兵士を引き連れ日蓮を逮捕する。
   その夜、頼綱はいきなり日蓮を斬首しようと、腰越・龍ノ口の刑場に連行し、刑を執行しようとしたら光り物が宙を舞い異変が起きて、兵士達が怖じ気づいて刑を免れる。佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に拘束され、日蓮に対する処罰を決めかねていた幕府は、ついに佐渡への配流を決定する。
   これが、佐渡流罪までの経緯だが、佐藤賢一の「日蓮」を読み、長谷川一夫の映画「日蓮と蒙古大襲来」などを見れば、その一端が分かる。
   
   佐渡に到着して、最初の配所が、塚原の墓地の破れ三昧堂、
   ”十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり、・・・”
   これが、塚原の三昧堂だが、ここで、いきりたつ諸宗派との「塚原問答」を受けて立ち、悉く論破したので、阿仏坊などの信者を得て、監視役の本間重連や天台の学僧最連房までもが帰伏した。「開目抄」も著した。

   さて、この塚原の三昧堂だが、現在、両津と真野を結ぶ県道南線沿いの新穂村大野の「根本寺」が継承している。
   しかし、先の田中圭一教授の検証で、「日蓮遺文」と付合する地は、現在の目黒町熊野神社から共同墓地までを「塚原」だと推定されて、田園地帯の真ん中に、塚原跡碑が建っている。
   いずれにしても、当時の面影を偲ぶ縁は微塵もないが、瞑目して時空の彼方に思いを馳せる。
   
   
   
   
   

   もう一つ、大聖人に取って重要な配所は、一谷。
   国道350号線の鍛治町から北に入り石田川沿いに町道を進むと、妙照寺につく。
   残念ながら、昔ながらの茅葺きの荘厳な本堂と客殿庫裏などが、昨年12月の火災で消失してしまい、平地になった本堂跡を再建のために業者が測量に入っている。消失前の本堂写真は、インターネットから借用した。
   「観心本尊抄」を著した2年半の草庵跡は、西手の小高い丘の中腹にある祖師堂が昔を忍んでいるという。
   
   
   
   この佐渡にも日蓮大聖人の感動的な逸話などナラティブがあるが、イメージが湧かないので、省略する。
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久しぶりの旅:佐渡旅行(4)

2022年07月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   矢島・経島を出て、海岸線45号線を東にとって、松ヶ崎の手前の多田で左折れして181号線を北上して山の中に入って根本寺を目指した。
   この間、そして、それ以降も、日蓮大聖人の故地や古寺を訪れているが、この関係については、後日纏めて書いてみたいと思っている。

   ところどころ集落らしき所に近づくと波打ち際に漁船が乗り上げていて、漁師の住居が並んでいるのだが、街道沿いには、めぼしい店もなければ家がぽつりぽつりある感じで、関東の雰囲気とは全く違った風景が続く。
   
   
   

   赤泊に近づいたところで、道路沿いに、北雪酒造の看板が見えた。
   昨夜、飲み比べで飲んだ佐渡の地酒で、辛口で好みに合った酒で、名前を覚えていたので、車を止めて店に入った。
   適当に選んで買ったのだが、
   私は、地酒については、その土地の食事と一緒に頂いて、最も美味しい酒であって、どの地方のどこで飲んでも美味しいというのとは一寸違うような気がしている。
   これは、ドイツの地ビールが、その土地の食事、例えば、駅前で一寸一杯と言うのなら、フランクフルトならフランクフルター、ニュールンベルグならニュールンベルガー、ウィーンならウィンナーと言ったその土地のソーセージに一番合うのと同じで、フランスやイタリアの地方で食事をするのなら地ワインに限ると思っている。
   コーラもアメリカで飲んだときには美味しかったが日本では飲む気がしないし、典型は、ブラジルのガラナ―(コーラのような国民飲料)を日本に持ち帰って飲んだら飲めなかったのである。
   監査で、日本各地を回ってあっちこっちで会食をしてきたが、名前を聞いたこともないような上等な地酒で頂いて至福の時間を過ごせた経験がいくらでもある。

   尤も、ヨーロッパでは、ミシュランの星付きレストランでは、すべてワインはソムリエ任せで、蘊蓄を聞き置くだけで、何をどう飲んだのかなど覚えていないが、日本でも欧米でも、高級ディナーでは、グローバル水準の似つかわしい酒やワインがあるのであろうが、また、次元の違った話である。
   
   

   その日は、佐渡の繁華な中心を抜けて、西側の七浦海岸に出て、相川の佐渡リゾートホテル吾妻に泊まった。
   七浦海岸は、海檀・岩礁の続く独特な海岸で、夕日が美しいというので、大いに期待したが、幸い、西の空は晴れていて雲が薄い。
   ホテルは、高台にあって遮るものはなく絶好のポジションである。
   
   
   
   

   夕食は、広い立派なダイニングルームで、結構賑わっているのだが、無粋なコロナ対策のアクリルカーテンがないのが良い。
   やはり、海鮮料理の豪華なディナーで、地酒の伴奏で楽しませて貰った。
   
   
   

   このホテルの建物は、南北に細長いので、南側に面した客室の窓からは、西の海に沈む夕日は直接見えないし、同じ方向のレストランからも見えない。
   丁度、夕日が波間に近づいて真っ赤に空が染まり始めた頃に、係の人が、食事のテーブルはそのままにしてと言って、外に誘導し、広々とした西に傾斜した芝生の美しい広場に誘う。
   まさに、この写真のように美しい佐渡の七浦海岸の初夏の落日である。
   
   
   
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久しぶりの旅:佐渡旅行(3)

2022年06月30日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   第2日目は、旅館「花の木」をゆっくり出て、宿根木集落に向かった。
   回船業で栄えた江戸時代の街並みが残っていると言う、石畳の小径に沿って、分厚い船板張りの家屋が肩を寄せ合うように密集する港町である。
   観光ガイドを引用させて貰うと、
   中世から回船の寄港地として繁栄し「佐渡の富の3分の1を集めた」と伝わる宿根木。江戸時代に小木港が整備されると、千石船で全国各地へ交易を展開。舟乗りや船大工など、120戸500人で賑わう千石船の里として、佐渡の中心的集落として発展した。
   しかし、動力船や鉄道の時代に入って一気に衰退、当時の面影をそのまま残した化石のような街並みが郷愁を誘う。
   波打ち際は、既に、港の面影は微塵も残ってはいない。
   尚、集落内の郵便局は閉鎖されていて、近くの高台に現役の郵便局があるが、コンビニも店もない集落であるから、金融など多くの機能を担っているのであろう、板葺きの屋根には石が積まれているのが面白い。
   
   
   
   
   
   
  
   現存するのは、ほんの数十軒だと思うのだが、この集落には、神社もあり、公会堂もあり、郵便局もあり、場違いな感じのような回船主の邸宅も存在する。
   私が興味を持ったのは、集落の端に位置する世捨小径と称する百㍍弱のシックな小径。
   何故、この名前がついたのか不明だと言うのだが、私は、ベニスのドウカーレ宮殿の溜息の橋・嘆きの橋が脳裏をかすめた。罪人が完全に外界から遮断された真っ暗な牢獄へ送り込まれるときに、最後にベニスの青い海を見収める橋である。
   それとも、北海の鄙びた小さな漁港、ここから木っ端のような小舟に乗ってバタビアまで航海して世界を制覇したオランダ人の心意気、
   宿根木の船乗り達は、今生の別れ、世捨て人の心境で、この小径を歩いて、日本海の荒波に乗込んでいったのではないかと、一人感慨に耽っていた。
   日本各地を歩いていると、この緑色の郵便局のようなレトロな木造のこじんまりした公共建物が残っていて、無性に懐かしさ郷愁を感じて嬉しくなる。石や煉瓦造りの古建築ではあるが、そんな雰囲気を求めて、随分ヨーロッパの古い街角や路地を彷徨い歩いていた頃を思い出した。
   
   
   
   
   
   次に訪れたのは、東に向かって、小木海岸の矢島・経島。
   この入江は、海女のたらい船で有名だが、頼政がヌエ退治に使った矢竹はここの産で、日蓮大聖人の赦免状を携えて日朗が漂着したのもこの島、
   浪曲佐渡情話の「お光の碑」が、赤い太鼓橋の左の小高い岩の上(赤いたらい船の左上)に立っている。
   
   
   
   
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