熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

新井 紀子著「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」シンギュラリティは到達しない

2020年09月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   AIロボットが東大に合格するのか、「東ロボくん」と名付けた人工知能を開発して、東大合格を目指すチャレンジを試みてきた数学者が、この本の著者荒井紀子教授。
   国語や英語でクリアできない限界があり、知能指数65までは行けてもそれ以上は無理で、東大には合格できないが、既に、MARCHや関関同立などの有名私学には、合格する実力を備えているという。
   ということは、国民の大半の知能指数は、「東ロボくん」以下だという深刻な指摘で、これからの人間とAIとの鬩ぎ合いの熾烈さ深刻さを暗示していて、恐怖そのものである。

   この「東ロボくん」は東大に合格するロボットを作ろうとしたのではなく、AIは、何処までのことができて、どうしてもできないことは何かを解明することで、AIに仕事を奪われないためには、人間はどのような能力を持たねばならないかが自ずと明らかになるので、AIの様々な技術とその研究者の粋を結集させて検証することだという。

   まず、冒頭から、AIの真実に迫る。
   「AIが神になる?」――なりません。「AIが人類を滅ぼす?」――滅ぼしません。「シンギュラリティが到来する?」――到来しません。
   AIは、神に変って人類にユートピアをもたらすことはないし、その能力が人知を超えて人類を滅ぼすこともありません。ロボットが、人間の仕事を総て引き受けてくれたり、人工知能が思想を持ち、自己存在のために人類を攻撃したりすると言った考えは、妄想に過ぎないことは明らかです。
   コンピューターは計算機ですから、できることは基本的には四則演算だけです。AIは、計算できないこと、基本的には、足し算とかけ算の式に翻訳できないことは処理できません。
   人間の認識や人間が認識している事象の大半を数式に翻訳することができ、しかも、それらが計算可能な式ならば、「真の意味でのAI」が完成する日は遠くないかも知れないが、それは今の段階では原理的に不可能だと考えています。数学には表現できることが限られているのです。
   論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の総てであり、科学が使える言葉の総てです。次世代スパコンや量子コンピューターであろうと、非ノイマン型であろうと、コンピューターである限り使えるのはこの3つの言葉だけで、決定的に欠けているのは、「意味」を記述する方法がないということです。
   コンピューターには意味が理解できません。「真の意味でのAI」ができないのは、それが、大きな壁になっているのです。

   さて、AIが、人々から仕事を奪って職から駆逐するということについては、非常に手厳しい未来を説いている。
   オックスフォード大学の研究チームの研究を引いて、10年から20年後には、702種類に分類したアメリカの職業の約半数が消滅し、全雇用者の47%が、「at risk」、つまり、職を失う恐れがあると予測している。
   これは、アメリカだけの話ではなく、日本も全く同様で、IT技術やAIに代替される仕事はことごとく駆逐されていく。放射線画像診断やフィンテック、ブロックチェーンなど例にしながら、第一部の半沢直樹は消えて逝かざるを得ず、バンカーなども大半危ないと言う指摘が面白い。
    いずれにしろ、急速に、多くの職が、AIに奪われて行き、多くの労働者が職から駆逐されていくという見解には、殆どの識者が一致している。

   興味深いのは、長期の好景気や企業の内部留保も最高額にもかかわらず、日本の賃金の中央値が下がり続けていることについて、これは、イノベーションによる労働者の分断で、イノベーションに代替可能なタイプの労働価値が急激に下がっているからだという指摘である。
   ITやAIやロボットに代替されるような職に就いている労働者は、どんどん、賃金給与をダウンされ、職から駆逐されて行き、貧富の差が、益々拡大して行くという指摘。この問題の解決には、このような職に就く人々の教育訓練によって、新しい技術に即応した能力をつける以外に方法はなく、もし、不可能なら、ベイシックインカム制度の導入など救済策を実施すべきだと言うことであろう。
   これまでのような弱肉強食の市場原理による経済格差の拡大とは違って、ICT革命、デジタル化によって、時代の潮流について行けない知的技術的弱者や無資格者が駆逐されて行くという、全く新しい知識ポスト・インダストリアル社会の到来による深刻な問題なのである。

   さて、荒井教授の、コンピューターは、意思のない四則演算のみで機能する計算機であり、かつ、そのAIを起動する数学に限界があって、その限界を超えることができないので、AIが、神になって人間を滅ぼすこともないし、シンギュラリティも起こりえない、という見解は理解できた。
   しかし、先に逝ったスティーブン・ホーキンス博士は、「コンピューターが、世界を乗っ取るという危険は、既に現実のものになった」と言っており、今、「2045年 AIは人類を滅ぼす」と説くジェイムズ・バラットの「人工知能」という本を読み始めたのだが、どう考えれば良いのか。

   先に読んだユヴァル・ノア・ハラリなどは、切り口が違うが、次のように述べている。
   情報テクノロジーとバイオテクノロジーの融合が、現在の価値観の核となる自由と平等を脅かす。生物学者たちが人体の謎、特に、脳と人間の感情の謎を解き明かしつつあり、コンピューター科学者たちが、前代未聞のデータ処理能力を開発しており、このバイオテクノロジー革命と情報テクノロジー革命とが融合した時には、我々の感情を自分たちよりもはるかにうまくモニターして理解できるビッグデータアルゴリズムが誕生する。その暁には、権限はおそらくコンピューターに移り、これまでアクセス不能であった我々の内なる領域を理解し操作する組織や政府機関に日々出くわし、人間や心をハッキングされて、自由意志と言う自分たちの幻想が崩れ去るであろう。
   
   AIが人間を支配して神になると恐れる識者が、結構多いというのも事実である。
   しかし、AI終末論を信じられなくても、荒井教授の説く人類の行く末展望でさえ、恐ろしくて恐怖である。
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帚木 蓬生 著「老活の愉しみ 心と身体を100歳まで活躍させる」脳トレの場合

2020年09月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   今度は、「脳は鍛えないと退化する」という、認知症とも絡んで頭の問題である。

   いくら鍛えると言っても、気になるのは、体力と同じように頭の老化がどうなるのかと言うことである。
   脳は加齢によって、脳重量だが30歳以降徐々に減少し、60代から減少速度が速くなり、百歳になると脳重量は20%減になり、特に前頭葉と側頭葉の萎縮が顕著になるという。
   これに伴って起こる第一の変化は、知能の低下で、加齢につれて低下するのは、単純な記憶と動作記憶で、知識や一般常識、判断力は、高齢になっても維持される。
   第二の変化は、記憶で、最も低下しやすいのは、展望記憶(これからやるべきことや予定の記憶)エピソード記憶(出来事の記憶)、時間順序記憶で、逆に、意味記憶(単語を聞いて意味を引き出す記憶)、手続き記憶(手や身体が覚えている記憶)過去の記憶は、老化による影響を受けにくい。という。

   そう、言われると、最近、ど忘れというか、久しく会ってない友人の名前とか、花の名前とか、単純なことが思い出せなくなって、「あの、あれ、あれだよ」ということが多くなってきた反面、忘れていた嫌な記憶が蘇ってきて悩むことが多くなって来たような気がする。
   頭の老化だから、物忘れは当然なので、心配しなくても良いと思ってみても、こう頻繁にど忘れが起こると気にせざるを得ない。
   いずれにしろ、司令塔が不具合を起こすと困るので、定期的に、脳のMRI検査を続けているが、今のところ、問題はなさそうである。

   それでは、脳トレーニングだが、何よりも、読み書き計算、物作りが最適だという。
   読むものは周囲に溢れており、何か調べ物をすると、必ず読む行為が入る。
   書くのは手紙もあれば日記もあり、家計簿のメモでも良く、パソコンよりも手書きが良いというのだが、スマホやパソコンで総てを処理する時代で、そんなことができるのか。

   私の場合には、手っ取り早く言うと、2005年3月から、延々と書き続けているこのブログだが、脳トレの趣旨には沿っているようで、まずまず、及第点かも知れない。
   しかし、先の指摘のように、「知識や一般常識、判断力は、高齢になっても維持される」と言うことであるから、それ程喜んでも居られない。
   それに、海外生活が長くて、日本語でメモを取ったりする機会が少なく、このブログもパソコンで綴っているので、漢字を書く能力は著しく衰えていて、読めても、書くのは小学生の孫以下かも知れないと思っている。
   幸いと言えるのかどうかは分らないが、私自身の読書生活は、大学や大学院時代とそれ程変っておらず、同じような生活を維持しようとしてきたので、頭のぼけの方は、まずまず、避け得ているのではないかと自己満足している。

   脳のフレッシュアップに役に立ったのは、少し以前になるが、3年ほど、非常勤講師として、群馬県立女子大学でブラジル学、明治学院大学で国際ビジネスについて講座を持ったことがあることで、つけ刃ながらそれまでの経験や知識の積み上げを活用して、20コマほどのパワーポイントを作成して臨んだ。教授たちにはできないような特色のある講義をすることが目標であったから、結構、資料を集めるなど努力し、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル(23)」もその時の資料の一部なのだが、それまでの雑学が大いに役立ち、面白かった。異事業というか、日常とは変った活動をすると、別な脳のスイッチオンで、眠っていた脳トレに役に立つと言うことかも知れない。

   興味深いのは、「脳年齢と暦年齢の差を広げる」と言う指摘である。
   葛飾北斎が、富岳百景を刊行したのは75歳、80歳以降も肉筆画に挑戦し、肉筆画を最も描いたのは88歳の時だと言うから、まさに、脳年齢の若さは驚異的。
   一般に、目を使い、手を使い、何かを表現して行くと脳は何時までも衰えないというのだが、画家や書家、写真家などが長寿なのは、その所為であろう。
   目を使い、手を使い、といえば、私の日常業務であるガーデニングと花の写真を撮るのも、多少、プラスかも知れない。

   もう一つ、面白いのは、ヨーロッパの例を引いての、「脳の若さと人ととのつながり」。
   人ととの繋がりが多いと、所属するグループも多いであろうし、外出も増えて、人生に張りが出て若さが持続する。何かの会の世話役をするのは大いに良いし、趣味の会やスポーツクラブでの活動も非常に良い。という。
   私が住んでいたキューガーデンの自宅の隣に住んでいたアーキテクト夫妻は、殆ど毎夜のように、外出して観劇に行ったりパーティに行ったり、自宅に客を招いたり、ソーシャルライフに明け暮れていたようだったが、これは極端としても、とにかく、何かと言えば、パーティを開いて楽しむというイギリス人の生活を知っているので、このあたりの対応は良く分かる。
   その御陰でもあろう、アスコットの競馬に何回か誘われたり、クリケットを見ながら会食を楽しんだり、グラインドボーン・オペラや宮殿や野外コンサートに出かけることが出来たのである。
   日本の場合には、サラリーマンが、飲んだり麻雀をしたり連夜午前様であっても、これらは男だけの付き合いだが、欧米の場合には、殆ど、夫婦連れでのソーシャルイベントなのである。
   そんな人との繋がりを重視する社会で、会う機会が多くなると主婦連中も耳学問が豊かとなって、結構、知的水準も高くなり、勢い、場違いなようなところでも、歌舞伎や紫式部と言った話題にも付き合わなければならなくなる。
   ミュージカルやオペラ、演劇などの舞台でも、結構、日本芸術の影響が随所に見られて、日本人が思うほど、彼らも、日本には無関心でもないので、それなりの教養を備えて付き合わねばならない。
   会う機会が多くて、殆ど喋り続けであり、日本の話を聞きたがるので、知識がなくて話題性に欠けると、一気に雰囲気を壊すことになってしまうのである。
   やはり、英語にハンディがあり、このような社交生活に慣れるのには、時間がかかったが楽しかった。

   私は、老人たちが楽しんでいる老人会には入っていないし、趣味の会とかスポーツクラブにも縁がなく、人付き合いが悪いので、この「人との繋がり」は、落第かも知れないと思っているのだが、自分で暇つぶしをするのに忙しくて、とにかく、自己満足しながらも動いているので、このまま、逝くような気がしている。
   健康寿命そのままで終われれば、幸いである。

   
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帚木 蓬生 著「老活の愉しみ 心と身体を100歳まで活躍させる」靴の場合

2020年09月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   著者は、「ヘルス・リタラシー」の項で、「靴は健康の必需品」と書いている。
   靴も健康の一部で、靴こそは毎日世話になる必需品で、健康が大いに左右される。歳をとるにつれて、靴はどうでも良い、あるもので済ますという考えになりがちだが、靴が足にぴったりかどうかは高齢になってからは特に大切なのだという。
   足幅も大切だが、最も重要なのは、踵をがっちり包み込んで固定して、幅もぴったりすれば申し分なく、さらに、足の甲がキチンと覆われる方が歩きやすい。面倒でも靴紐が推薦で、できれば、ソールが少し盛り上がって、土踏まずにぴったりしていた方が歩きやすく疲れにくい。のだという。
   先日、歳を取ると、真っ先にダメッジを受けるのは、「歯目足」だと書いたが、その足への負担を、少しでも軽くすることであろう。
   とにかく、歩けなくなれば、生活の殆どは止まってしまうし、頭を刺激する働きが落ちて、大変なことになる。

   さて、私は、現役を離れてから、ずっと、革靴から解放されて、ウォーキングシューズで通している。
   冠婚葬祭やあらたまった会合などに出るときなどは、革靴に履き替えて出かけているのだが、その機会も随分減ったので、ウォーキングシューズを何足か状況に応じて履き替えて使っている。
   もう、私の足がウォーキングシューズに慣れてしまって、殆ど革靴に馴染まなくなってしまったのである。
   とにかく、歩くことに主眼を置いて開発されている靴なので、長距離を歩くのにも負担は少ないし、年寄りには助かる。

   ウォーキングシューズは、色々試してみたが、良いか悪いかと言うこともあるが、最近では、ミズノの靴を愛用している。
   ミズノのウォーキングシューズでも、デザインがフォーマルシューズと殆ど変らない最上級のブラックの靴を選べば、多少あらたまったフォーマルな場所へでも履いていけるので重宝している。
   現役の時にも、靴底が皮ではないゴム底のフォーマル靴を履くことがあったので、私には、ゴム底の靴の方が合うのである。

   ヨーロッパに居たときや海外事業で海外に行く機会の多かった時期には、軽くて柔らかいGOLD PFEIL(ゴールドファイル) の革靴を愛用していた。
   イギリスに長かったので、ロンドンのジャーミンストリートには、随分素晴らしい老舗の靴店が軒を並べていて、ジョンロブ(JOHN LOBB)やエドワードグリーン(EDWARD GREEN) などを筆頭にして、一生持つという靴を作るという凄い店があったが、何度か、チャーチ(Church’s)の靴を買ったことがあるのだが、永住するわけでもなく、紳士面して生きていけるわけでもないので、縁がなかった。

   余談だが、私がロンドンで付き合っていた人々は色々な方面で一級の紳士であったと思うのだが、判で押したようなピリッとした映画に出てくるようなジェントルマンスタイルの出で立ちをしているようにも思えなかったし、靴にしても、磨きのかかったジョンロブの靴を履いているようには思えなかったのである。
   ダンヒルなど、ジャーミンストリートには、世界屈指の紳士用品の店が犇めいているんだが、どのような人々がお客なのか、
   私がロンドンに居たときには、Japan as no.1の時代であったので、日本人観光客が沢山訪れていたのだが、イギリス人は、至って質素でシンプルな生活を送っているので、不思議な感じがしている。
   
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帚木 蓬生 著「老活の愉しみ 心と身体を100歳まで活躍させる」高血圧の場合

2020年09月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先のレビューで、飲酒と膵臓癌のことについて書いた。
   私の持病は、高血圧である。
   もう、35年以上も前になるが、ヨーロッパへ赴任する前の健康診断で高血圧と判定されて、社長の紹介で三井記念病院に行き処方されて、その後、ずっと薬を飲み続けている。
   しかし、ヨーロッパでは、今日はロンドン明日はパリと言った多忙な毎日で、仕事上切ったはったで飛び回っており、暴飲暴食も良いところで、病院に行くのもままならず、目が充血するなどおかしくなってやむを得ず病院に行けば、血圧が160や70を超えるのが普通になってしまっていた。
   欺し騙しながら仕事を続けて帰国して、その後、薬を飲みながら、どうにか、平常血圧の上限ギリギリで推移している。

   この本では、高齢者の国民病高血圧というわけで、70歳以上の男性では8割が罹っているという。
   高血圧の基準は、収縮期血圧で140以下、拡張期血圧で90以上を指し、家庭での最高血圧は120以下だと言うのだが、薬を飲んでいても、120以下を維持するのは、私の場合には無理である。最近の情報では、拡張期血圧の上限を85に切り下げたという。
   血圧が高くなって障害が起こりやすい器官は、脳と心臓、腎臓だという。
   幸い、今までのところ、このあたりの不具合は経験していないので、まずまず、大過なく過ごせたのではないかと思っている。
   しかし、脳と心臓、腎臓とは極めて重要な器官なので、心しなければならない。
   私の場合、胆嚢全摘手術を受けているので、腎臓の負担に注意しなければならない。
   血圧の大敵は塩分で、WHOの推薦は1日5㌘だと言うことだが、いちいち測るわけにも行かず、塩辛いと思ったら食べるのを意識して避けている。

   高血圧と直接関係はないのであろうが、これまで、トラブった所為もあって2回も大手術をしているのだが、その方は治って、今では、定期検診程度で済んでいる。

   先生から、体重を減らせと言われ続けており、脊柱管狭窄症の心配もあって、運動と食事減に意識して努力して、最盛期より10キロほどの減量に成功した。
   しかし、人は高齢になるに従って身長が低くなり、通常80歳では若い頃より10センチから15センチ低くなると言う。
   確かに、身長が低くなり妻や娘に近づいてきて嫌な思いをしているのだが、最盛期より、10キロ減ったとしても喜んではおれない。
   そう考えれば、胴回りなどが細ったので古い服が着られるのではないか思ったのだが、そうも行かず、その上、悪いことに裾の長さが長くなりすぎて、期待外れであった。

   やはり、歳には勝てず、昔から言われているように、老化が覿面に現われる「歯目足」に、少しずつ変化が出てきた。
   歯は、幸い、8020運動はクリアーしたが、70を超えてからは、歯が欠けたり虫歯が出てきて、縁のなかった歯医者に通っている。
   目は、近眼なので、遠中近の3つのメガネを使い分けては居るが、特に不自由はなく、本も何時間も続けて読んでも苦痛ではない。
   問題は足で、最近では、1日に一万歩は一寸苦痛になってきたし、散歩も、速遅3分間ずつの繰り返し歩行もリズムが崩れ始めて、歩く速度が遅くなってきた。
   今のところ、あと1年半、アップダウンの激しい通園路での、孫娘の幼稚園の朝夕の送り迎えを無事に終えることが当面の目標だが、これが、結構、有効なエクササイズになっている。

   コロナウイルス騒ぎで、古社寺などの鎌倉湘南散策を控えていて、庭周りのガーデニングと近くの散歩くらいしか動くことはないのだが、最近欠かさず続けている、脊柱管狭窄症の治療目的のエゴスキュー運動やテレビ体操とラジオ体操が、運動不足の私には、結構、役に立っている感じで喜んでいる。

   今のところ、脊柱管狭窄症の痛みが時たま気になるくらいで、痛くも痒くもないし、とりたてて何の病状もなく、普段と変らない日常生活を送れているので、幸せと言うべきであろう。
   先進国も未開の大地も世界中を歩いてきて、間一髪の事故にも遭遇するなど、何度か死地を彷徨いながらも、よく、ここまで無事に生きてこられたと思っている。
   感謝の一字しかない。
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国勢調査2020をネットで回答

2020年09月24日 | 政治・経済・社会
   遅ればせながら、今日、国政調査票が配布されてきたので、早速、ネット配信した。
   前回はどうしたか覚えていないのだが、ネットだと、数分で済む。
   インターネットで、国勢調査オンラインを検索すると、HPが現れて、回答を始めるというところをクリックすると、ログインページが現われる。
   今日、調査員から配布された資料に、ログインのために戸別に与えられたログインIDとアクセスキーがあるので、記入してクリックすると、名前から順に10数項目の記入ページが現われるので、順次記入して、最後の確認画面で確認して、送信ボタンをクリックすればおしまいである。
   マイナンバーカードを使って、確定申告や給付金の申請を行ってきたが、マイナンバーカードのように、3回パスワードの打ち込みをミスるとブロックされて、市役所に出かけて解除しなければならないのとは違って、気を使わなくて済むのが助かる。

   さて、菅内閣は、デジタル化推進のために、デジタル改革担当 情報通信技術(IT)政策担当 内閣府特命担当大臣(マイナンバー制度)担当大臣として 平井 卓也氏を起用した。
   今日の日経一面トップに、「マイナンバー、口座と連動 政府来年に デジタル化推進」と言う記事が出て、その取り組みが説明されていた。
   個人のマイナンバーと預金口座を連動させる、個人向けの給付の手続きなどをマイナンバーカードだけでできるようにする、健康保険証や運転免許証など他の資格とマイナンバーの連動を進める等々、
   大いに結構である。
   しかし、気になったのは、「義務付けにはせず選択制にする見通し」という一言。

   前に書いたように、1972年、私が留学に渡米した時には、アメリカは既に背番号制で、私にもソーシャル・セキュリティ・ナンバーが与えられていて、銀行預金は勿論、あらゆる申請や事務手続きに、この番号の記入を義務付けられていたのである。
   記憶は定かではないのだが、私のIDの申請取得など一切は留学先のペンシルバニア大学が行ってくれていたので、特に、特別なカードはなくて、学生証にソーシャル・セキュリティ・ナンバーが打ち込まれていたような気がする。

   私が言いたいのは、現在のように、マイナンバーカードの取得率が30%を切るような状態で、義務化せず、かつ、マイナンバーと他の指標との連動を選択制にするなどと言うような悠長なことをしておれば、日本のデジタル化の推進など夢の夢だと言うことである。
   総ての日本国民にマイナンバーを付与して背番号を打ち、可能な限り、総ての指標を連動させると言った思い切ったデジタル政策を推進しない限り、意味がないと言うことである。

   勿論、これだけ、沢山のデジタル犯罪が多発すれば、個人情報の保護なり国民の生活の安寧が確実に守られるのか、セキュリティに不安はあるし、また、マイナンバーカードが総ての生活に必要となると、常時携帯となって紛失不安もあるし、使用ミスも多発するなど、マイナンバーカードに対する不信は拭えず、国民にとっては不安で仕方がない。
   したがって、デジタル化の推進も良いが、まず、政府は、万全を期して国民に安全安心を保障すると宣言すべきであると思う。
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ローレンス・フリードマン著「 戦略の世界史(上) 戦争・政治・ビジネス 」ナポレオンの戦略

2020年09月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ルーブルに行くと、ジャック=ルイ・ダヴィッドの巨大な『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』の絵が圧倒する。
   良かれ悪しかれ、ナポレオンは、フランス史においては、燦然と輝く偉大な英雄である。
   

   ナポレオンは、自身のアプローチの背景にある極めて重要な要素は説明できるものではない、総ては実行の可否にかかっており、理論に則っていたかどうかは関係ないと主張していたという。
   戦争術の要諦は単純明快で、数的に劣る軍で戦う場合には、攻撃あるいは防御しようとする地点に敵よりも多くの兵力を配置する必要があり、それを実現する技法は、本から学ぶことも訓練によって身につけることも出来ない、軍事的な才能、つまり直感が物を言う。
   ナポレオンは、理論ではなく、自らの実践によって戦略という分野に貢献した、大規模な軍隊を用いて大規模な戦争に勝つという手法でナポレオンの右に出る者は居ないという。

   ナポレオンの貢献は、国民軍の潜在的能力の実現性を把握した点にあって、啓蒙主義における軍事的英知を吸収して、徴兵制による国民皆兵システムを、伝統的な考え方だけではなくヨーロッパ全体のパワーバランスをも覆すような形で巧みに利用した。その天才性は、戦略に関する自身の発想の独創性や斬新さではなく、そうした発想を状況に合わせて生かす臨機応変さと、実行する際の大胆さにあった。ナポレオンは、勝敗を決する戦闘を何時も重視し、戦争につきものの残忍性を受け入れる覚悟を持ち、政治的目的を達成する手段として、敵軍を壊滅するだけの集中的な武力を生み出そうとした。と言う。
   敵の弱点を見つければ、突破するためには追加戦力を投入し、自軍の弱点をカバーするためには、行動を起こすべきタイミングを待ち、最大限の力を確保し完全に優位な状態に立つと冷酷無比の攻撃を仕掛ける。政治的権限と軍事的権限を自分一人で掌握していたので、独断専行で大胆に振る舞うことが出来、その楽観的思考、自信、非凡な連戦連勝の実績によって、配下の兵士たちの忠誠心を獲得し、的の恐怖心を押しつけた。こうして、ナポレオンは、抗しがたい魅力を身につけ、自らも常にそれを利用しようとしてきた。というのである。

   さすれば、ロシアへの侵攻、ボロジノの戦いは、何であったのか。
   まず、クラウゼビィッツだが、ボロジノの会戦において、戦略が展開されたとは考えていない。彼は、当初、その広大さゆえにロシアを戦略的に支配下に置き、占領することは不可能であると考えていた。また、その後、彼は、ナポレオンがロシア軍を追撃しなかった件については批判を強め、ボルジノの会戦は、戦い抜くことなく終った戦闘だったと述べており、筆者は、敵に壊滅的な打撃を与えずに得た勝利には限られた価値しかないと言う。

   ロシアへの行軍は予想外に困難で、ナポレオン率いる大陸軍は、戦闘らしき戦闘を経験しないうちに、多大な人的、物質的損失を伴い、戦闘が始まる頃には、もと居た45万人の兵士のうち、既に3分の1を失い、ナポレオンも、ボロジノの会戦では、調子を崩し、従来の行動原理から外れ、高熱を伴う排尿障害に苦しんで指揮を執れる状態ではなかったという。
   ロシア軍の指揮官クトゥーゾフは、どう考えても勝ち目がなく、軍が壊滅すればモスクワが落ちるのは必然で、それならと、モスクワはナポレオン軍を吸い込むスポンジとして解放し、ナポレオンをモスクワへ引き寄せた。モスクワは、焼き払い焼き払われて、街の3分2を焼き尽くした。
   ナポレオンは、皇帝アレクサンドル一世が和平を求めてくると見込んでいたが、ロシアが、あらたな戦闘も和平交渉も望んでおらず、飢えと寒さに耐えられない自軍は、立ち往生のままなすすべもなく、フランスへ帰る以外になくなり、壊滅状態となったフランス軍は、筆舌に尽くしがたい困難と犠牲を伴った退却への死の行軍を開始した。
   ウィキペディアによると、フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と冬将軍とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。と言う。
   このあたりの描写は、トルストイの「戦争と平和」の映画を見れば良く分かるが、人類の愚かさが胸に迫って切ない。専制的独裁者に、善良な国民が、蟻や蜂の群れのように唯々諾々として、牛馬の如く従って生きる非条理な世界、実に悲しい。

   クラウゼビィッツが何と言おうと、悲惨な状態のフランス軍には、あらたな戦闘でロシア軍を全滅させる力など残っておらず、退却の死の行軍で殆ど壊滅状態、一方、人口の多い大国ロシアは、その損失を吸収出来た。
   アレクサンドル一世は、ヨーロッパでの反ナポレオン同盟の復活と言う自信の戦略の最終目標を実現させ、その後、ナポレオンは、もう一度、栄光を手に入れようとしたが、1815年のワーテルローの戦いで大敗を喫したのである。

   さて、このナポレオンのロシア遠征から、クラウゼヴィイツは防御する側に優位性があるとの考えを持つに至った。
   反乱軍やパルチザンの攻撃に占領軍が苦しめられる状態も生じており、防御する側が降伏している限り、他の国がその味方につく可能性もあり、パワー・オブ・バランスの考えから、侵略国があまりにも強くなることを防ぐために、他の国が敵対したり同盟を結んで対抗したりする。からである。
   尤も、防御の目的は後ろ向きだと認めており、日本の終戦のように重心が既に移動している場合には作用しない。

   いずれにしろ、ナポレオンは、戦闘に関しては正真正銘の天才だったが、巧妙な政治的手腕の持ち主ではなく、懲罰的な講和条件を課す傾向が強く、同盟関係を築く久ことには長けていなかったという。
   しかし、ナポレオンは、戦わずして勝つと言う孫子の兵法書をイエズス会のフランス語版で読んでいたと言うことであるから、ハードとソフトのバランス良きスマートパワーを活用する能力があれば、もう少し、マシなヨーロッパ新秩序の確立が可能であったのではなかろうか。
   ヒトラーも失敗したが、デジタル時代ならいざ知らず、地政学的にも、ロシアを陸軍中心で征服しようとするなどは無謀以外の何物でもなかったのではないかと思っている。
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帚木 蓬生 著「老活の愉しみ 心と身体を100歳まで活躍させる」酒とワイン

2020年09月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   何の気なしに書店で手に取ったこの本、別に、100歳まで生きられるとは思わないし老活を意図したわけではないのだが、パラパラ、飛ばし読みしていても結構面白かった。
   
   平成30年(2018年)簡易生命表によると、日本人の平均寿命は男性が81.25歳、女性が87.32歳で、2017年と比較して男性は0.16年、女性は0.06年上回りました。と言うことである。
   傘寿は、惨寿だというのだが、私に残された課題は、生きている限り人に迷惑を掛けたくないので、健康上で日常の生活に支障のない「健康寿命」を伸ばすことである。
   平均寿命とは、0歳の人の平均余命だと言うことであるから、平均寿命に近づいた老人にとっては、それぞれ、個人によって平均寿命が違ってくるのであろうが、平均寿命は年々延びているのに健康寿命は僅かしか延びず、その差の不健康寿命は、認知症の影響が大なのだが、男性で9年、女性で12年もあると言うから、その差・不健康寿命をゼロにして逝きたいのである。

   筋肉こそが日本を救う
   脳は鍛えないと退化する
   食が総ての土台
   笑いが人を若くする   良く分かる。
   蘊蓄を傾けた専門的知識を駆使して丁寧に語る語り口は流石で、教えられることが多い。

   気になったのは、第八章 酒は百薬の長にはあらず と言う項目である。
   最近、私は、夕食時に、赤ワインを、グラス一杯、晩酌風に飲んでいる。
   この本で、著者は15項目の問診票を示し、そのうち、1項目でも当てはまれば、もうアルコール濫用であるというのだが、私の場合には、①毎日飲んでいますか の項目だけ当てはまる。
   次に、1日の酒量だが、飲むアルコールによって違うのだが、人の脳がエタノールに耐えられる量は、20㌘とされていて、それを超過する分は脳と身体、精神を害する毒水になるという。

   KIRINのオンラインショップによると、
   節度ある適度な飲酒量は、1日平均純アルコールで約20g程度です。これは、1日の飲酒量に換算すると、ビールなら中びん1本(500ml)、ウイスキーはダブルで1杯(60ml)、日本酒では1合(180ml)になります。ただし、これは男性で「お酒に強い」タイプの場合に限ります。女性や高齢者、お酒の弱い方などは、この量よりもさらに少ない量が適量と言えます。
また、アルコールの処理能力は体重によって異なります。一般に体重60~70kgの人のアルコール処理能力は1時間に純アルコール約5gとされています。
これはビールに換算して中びん約1/4本、ウイスキーな らダブルで約1/4杯。つまりビール1本、 あるいはウイスキーダブル1杯、日本酒1合のアルコール処理には約4時間かかる計算になります。
なお、適量はあくまでも目安であり、厚生労働省では「生活習慣病のリスクを高める飲酒量」を、1日の平均純アルコール摂取量が男性で40g(1,000ml)以上、女性で20g(500ml)以上としています。このような飲酒を続けていると、生活習慣病だけでなく他の健康問題や社会問題のリスクが高くなることがわかっています。として、
   健康な生活のための1日の適度な飲酒量
   ワイン(12%)  男性200ml 女性・高齢者100ml
   ビーカーに100ccの水を入れて、ワイングラスに移したら、何時も飲んでいる量より遙かに少なく、グラスの底に近い感じで、明日から、かなりの努力を要する。

   不眠、気分の上下、うつ気分、認知症の重大な精神的作用を初め、主要臓器の癌発生率を高め、精液の質を落として男性不妊を起こすなど、「酒は百薬の長」どころか、「万病のもと」で、アルコール認知症や、うつ病、自殺、自分のみならず、アルコール濫用・依存は、DVや児童虐待など家族にも甚大な被害をもたらすという。

   私の最も気になったのは、大量飲酒に一番弱い臓器は、膵臓であると言う指摘である。
   膵臓の病気には、急性膵炎と慢性膵炎、膵臓癌があるが、こうした病気に陥らせる最大の要因は、何と言っても、アルコールであり、アルコールは膵臓を酷使し、最後には傷をつける。と克明にアルコールによる膵臓打撃の激しさを説いている。
   私自身、完全に白でもないし、身近な知人友人が膵臓癌で亡くなっているので、無関心ではいられない。

   ところで、不思議なのは、アルコールの弊害の項では、著者は、一度も、ワインについて触れることはなく、健康食として記述した地中海料理について、野菜と果物、魚介類、オリーブ、にんいく、ワインと書いていて、ワインは、動脈硬化を防ぐポリフェノールが多く含まれていると効用に言及している。
   私も、そのために赤ワインを飲んでいるようなものなのだが、悪いのか悪くないのかどっちなのか。しかし、膵臓癌へのアタックの方がおそろしい。
   止めるべきか100ccを飲み続けるべきか、それが問題だ、まさに、ハムレットの心境である。

   興味深いのは、老活について、最も重要だと思う老いらくの恋について、一切触れていないこと。
   「笑いが人を若くする」というのも真実ならば、もしあればの話だが、愛しの君を思うことが、如何に活力の源になることか。
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マスクなしでスーパーに入って15分

2020年09月20日 | 
   二週間前に、下記のブログ記事を記録に残した。
   迂闊にも、マスクなしでスーパーに入って、全く知らずに買い物をして、出口でマスクをつけていないことに気づくという大失態を犯し、新型コロナウイルス感染危機に陥った。
   その後から、コロナに感染しているかいないか、悩みに悩んだ、その顛末を書くべきだと思ったからである。
   そんな気配もなく、ブログを書いていたではないかと言うことだが、精一杯のカモフラージュであった。
   結果的には、コロナウイルス感染はなかったようでホッとしている。   

   マスクなしでスーパーに入って15分

   9月5日、夕刻、全く気づかずに、マスクをつけずにスーパーに入って、15分ほど買い物をした。
   迂闊にも、店を出てトイレに入ったときに、マスクをつけていないのに気づいたのである。

   この日、久しぶりに、少し遠くまで歩いて、理髪店まで散髪に行った。
   近くには、昔からの古色蒼然たる老人の散髪屋があって、不器用でぱっとしなくてフルサービスなので行くのをやめて、カットとシャンプーだけで十分なので、イレブンカットに出かけたのである。

   問題は、その後で、散髪中、マスクを外していたので、そのまま気づかずに外に出て、階段を下りて、2階がスーパーになっていたので、何の気なしに入ってしまった。
   外出するときには、マスクを気にして、必ずつけるのだが、殆ど家にいて過ごすことが多いのでマスクなしであり、違った生活に変ると、意識しなければ、つい忘れてしまう。散髪屋を出たこの時には、外出モードにならなくて、全く、マスクを忘れてしまっていたのである。
   食品をいくらか買って、レジをして、店を出るときに気づいて真っ青になってマスクをつけたのだが、後の祭りで、スーパー内では、全くマスクをつけずに移動してしまっていた。
   客も多くなくてそんなに混み合ってはいなかったが、老人の私が、マスクなしで店内を歩いているのに気づいていた人が居たのか居なかったのか、店内で出会った店員もレジの担当も、私に注意を喚起してくれる人は誰もいなかった。
   店としては、入り口に消毒スプレーがあったのかどうか、注意指示書きもなかったし、それ程、ソーシャルディスタンスやコロナ対策に拘っているようでもなく、そのような雰囲気を感じられず、通常通りであったので、余計に、気づかなかったのである。
   自分の迂闊さを棚に上げて何なのだが、歳を取ると意識や注意が散漫になって、通常では当たり前なことさえ、上手くやれなくなってしまう。
   外出しなければ良いのだが、動かないわけにもいかない。

   どう、アクションを取って良いのか分からないが、二週間、様子を見るしか仕方がない。


   さて、新型コロナウイルスへの感染を避けるために、行きたい能狂言やコンサートの観劇をも辛抱して、バスや電車への乗車も諦めて、外出さえ自粛していたにも拘わらず、大変な失態である。
   感染しても、8割は風邪程度で治り無症状のこともあるとは言うのだが、私も重症を心配されている卒寿の後期高齢者、
   見るべきものは見つと言う心境なので、自分の死については、恐れては居ないのだが、心配なのは、二人の孫のことである。
   コロナに絶対巻き込みたくはない。それ以上に、孫の通う小学校や幼稚園に飛び火して、迷惑を絶対に掛けることがあってはならない。その一念であった。

   何処でどう相談して良いのか分らなかったし、それまで、自分には関わりがないといい加減に聞いていた新型コロナウイルスの情報を、インターネットを叩いて調べてみた。
   色々情報は出てくるが、殆ど役に立たない。
   一般的には、二週間の待機や隔離と言われているのだが、感染してしてからどう言う経過で発症してその症状が現れるのか、そのタイムスパンや感染の症状がどのように推移するのか、それを知りたいのだが、確実な情報は少ない。
   
   

   まず、知りたいのは、感染して発症するまでの潜伏期間で、中国のケースを分析した英国の研究所の資料によると、
   ”新型コロナの潜伏期間
   潜伏期間とは感染する機会から何らかの症状を発症するまでの期間。
   新型コロナの潜伏期間には1~14日と幅があるが、多くの人がおよそ4~5日で発症する。
   インキュベーション期間の中央値は4日間であった(四分位間範囲、2〜7)。”と言う情報と上記の推移表をえた。
   とにかく、感染から5日から7日くらいまでに、コロナの症状が現われると言う。
   発症すれば、風邪やインフルエンザに似た症状が現われると言うことなので、とにかく、9月6日から10日、遅くとも9月12日まで待って症状が現われなければ、まず、平均的には、コロナに掛かっていないと考えられる。尤も、二週間という長期の話もあるので、9月19日までは気を抜けない。

   毎日、まさに、針の筵の心境で、よく眠れないのだが、朝、目が覚めると、まず、真っ先に何か変ったことがないか、体調を確認する。風邪らしき症状が表れていないか、その兆候が少しでも現われれば、悲しいかな、パニックになる。
   風邪やインフルエンザには、発熱、鼻水、鼻詰まり、ノドの痛み、咳、頭痛や全身の関節痛・筋肉痛、などの症状が出る。何回も罹ってるので良く分かっている。
   コロナの症状は、発熱、倦怠感、咳、鼻水、のどの痛み、筋肉痛 、下痢、嘔気などの消化器症状、頭痛、味覚障害・嗅覚障害等々、
   「息切れ」の症状は、風邪やインフルエンザでは稀な症状で、新型コロナの可能性を疑うきっかけになる。と言う。「息切れ」と気にすれば、気の所為か、急に息苦しさを感じて心配になる。
   熱は、35.6から36.3を前後する程度で変化がなかったが、咳と思えば咳がしたくなるし、鼻水と言えば鼻水も出るし、のぞの痛みと思えばのぞの痛みがないでもないし、気にすればするほどそんな気になる。気にしなくなれば忘れてしまって平生と変らなくなるので、コロナの症状ではなさそうだと考えてほっとする。そんな繰り返しの苦しい日々である。
   とにかく、第一関門の5日経過を祈る気持ちで待った。
   神頼み以外になすすべはない。
   南無妙法蓮華経!

   1日、2日、3日、4日、5日 症状は現われていない。第一関門はほぼクリアできたが安心は出来ない。
   資料によると、このあたりから発症して風邪らしき症状が出てくるようだが、
   6日、7日、8日、9日、10日、11日、12日、13日、14日、15日、全く変化がなく、風邪らしき兆候もない。罹っておれば、この時期には、重症になっている筈である。 

   まる15日経過した今、コロナの症状は現われていない。
   潜伏期間が最大14日と言うことで完全にはフリーではなかろうが、卒寿の高齢者であるから、罹っておれば、もっと早い時期に症状が出ているはずだと思っているので、
   やっと解放された思いで、ホッとしているのだが、苦しい二週間であった。  
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日本人旅行者の海外での犯罪被害

2020年09月19日 | 海外生活と旅
   インターネットを叩いていると、TABIZINEと言うページで、”【ニューヨーク総領事館に聞いた】日本人旅行者の男女別にみる犯罪被害とは”という記事に出くわした。
   深刻な犯罪は別として、例示されている犯罪被害が、如何にも、単純なアナログ傾向なのに、一寸驚いた。
   筆頭は、スリ被害で、高級時計の盗難、メガネ詐欺、CD詐欺であった。
   動画で映っていたのは、地下鉄の中や駅構内での、タブレットやスマホのひったくりで、タブレットのひったくりのシーンでは、一人がドアを押さえて開いておき、発車寸前に奪った男が飛出して、ドアを放すと地下鉄は発進、スマホは、ながら族からひったくって全速力で逃亡、いずれにしろ大男にやられるのだから追っかけても無駄。
   メガネ被害は、ぶち当たられた拍子に落ちたメガネが破損したと因縁をつけられて弁償させられたケース、CD詐欺は、自作CDを無料配布しているように見せかけ,CDにサインしたものを受け取ると不当な料金を請求されるケース。
   
   私の場合は、殆ど前世紀になるのだが、海外生活が長かったので、何らかの被害に遭ったり、犯罪未遂に遭遇しているので、イヤイヤながら思い出してしまった。

   一番多いのは、飛行機で移動中に、盗難に遭ったケース。
   サッチャーのビッグバン以前のイギリス病に泣いていた頃の惨憺たる経済不況のイギリスで、ヒースロー空港では、必ず間違いなしにスーツケースが開けられて開けられて盗難に遭った。2回や3回ではなかった。
   その頃、ロンドンの高級ホテルでも、スーツケースをズタズタに切られて、中身がごっそりとやられた。

   もう一つ、困ったのは、飛行機で移動中のスーツケースの盗難で、この時は、まず、真夏のサンパウロに飛んでパラグアイのアスンションでネゴをして、真冬のニューヨークにとって返して仕事をするという強行軍の出張で、とにかく、殆ど手荷物を持たずに衣服は勿論総てスーツケースの中に入れて移動しており、最初に降り立ったサンパウロで、スーツケースが出てこず、乗り継ぎのニューヨークで盗難に遭ったのである。
   旅行荷物が総てなくなってしまったときの悲しさ悲惨さ、一週間の夏と冬が一緒に来た旅行をどう過ごすのか。
   長い旅行中、着の身着のまま、サンパウロでもアスンションでもニューヨークでも、下着類はともかく、典型的な日本人である私に合う服など調達は無理、
   政府とのネゴなど資料なしで済ませ得たのは良かったが、地球の大きさと天候の格差の激しさを思い知らされた苦い経験であった。

   最も困った盗難は、イタリアのフィレンツェで、レストランの野外テーブルで食事中、椅子に掛けていた妻のハンドバックをスリに盗まれたとき。
   後ろを通って出ようとした若い男女が嫌に押すので、妻にも注意されて前かがみになって空間を作ったのだが、盗難のカモフラージュで、この時に、ハンドバックを持って行かれたのである。
   何よりも困ったのは、この中に、スーツケースの鍵を入れていたことで、先のニューヨークのケースではないが、スーツケースが開けられなくては、旅行に支障を来す。
   ホテルに帰ってボーイに話したら、何時もやっているわけではないよ、と言いながらにっこりとウインクして開けてくれた。このあたりは、流石に、レオナルド・ダ・ヴィンチの国である。
   まだ、ヴェローナ、ベネチアなど旅を続けるのだが、鍵が閉まらないので、ガムテープをメタメタに貼り付けたスーツケースを持っての無様な旅、
   そのバッグの中に、自宅の玄関の鍵を入れてあったので、夕刻帰ればたちまち困るので、事務所に電話して、鍵の取り替えを依頼した。
   海外旅行をするときには、何時も必ずスーツケースが側にあると思うのは間違いだと心しておくことである。

   事前に知っていたので、被害に遭わなかったイタリアでのケース。
   ミラノのドウモに入るときに、後ろから押す若い男女がいて、背中に白い泡のスプレイを吹きつけ、汚れているから綺麗にしようと言って、服を脱いで拭って貰おうとしたら財布を盗みとられる。
   スペイン風の男が近づいてきて、今日初めてなのでローマはよく知らないと話しかけてきて話し込んで居るうちに親しくなって飲食店に行くと、最初は自分の店に連れて行って奢り、次の店で法外な料金を支払わせられる。
   ジプシー風の子供数人が、段ボールの板を前に押し出して近づいてきて、その段ボールをカモフラージュにして手荷物を略奪して逃げるケース。等々
   在外日本公館から警告されていた判で押したようなケースであって、それでも、日本人が沢山被害に遭っていた。

   スペインのマドリードでも、エスカレーターで上っている長女のバッグを執拗に引っ張って取って逃げようとしたジプシー少女が居たし、ポルトガルのリスボンでは、町の人が近づいてきて、カメラをしっかりと首に掛けて前でホールドせよ、昨日引っ取られて転倒して大怪我をした観光客がいたと注意されたことがあった。

   もう一つ、香港でのことだが、横断歩道を渡っていると、信号を無視してタクシーが一気に突っ込んできて、私と友人がタクシーの前を押さえていると車道に居た香港人も加勢してくれて事なきを得たが、タクシーの運転手とその加勢した香港人が結託していて、友人の後ろポケットに入れていた財布とパスポートがが盗まれてしまった。

   まだまだ、いろいろあるがこのくらいにしておこう。
   随分、世界中を駆け回っていた割には、被害が少ない方だと思うが、楽しいことばかりではないのである。
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ローレンス・フリードマン著「 戦略の世界史(上) 戦争・政治・ビジネス 」ギリシャの場合

2020年09月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   英国の国際政治学者Sir Lawrence Freedmanの「Strategy: A History」「戦略:歴史」
   極めてシンプルなタイトルの本だが、チンパンジーから現代の政治経済社会まで、 戦争・政治・ビジネス等多岐にわたって戦略の歴史を展開しながら戦略論を説く、邦訳でも、実質1000ページに及ぶ大著である。

   さて、今回は、先にホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」に接したところでもあり、オデュッセウスを含めてギリシャの戦略について書いているので、私にとってはカレントトピックスなので、まず、ギリシャについて考えてみたい。

   ホメロスは、弁舌と行動に秀でた二人の英雄、アキレウスとオデュッセウスを、アキレウスは「ビエーbie:肉体的な力」の象徴、オデュッセウスは「メーティスmetis:知略」の象徴として描いており、この資質の対称性は、マキャベリの思想にも見られるのだが、力と策略のどちらに頼るか、それ自体は戦略にはならないが、入り組み、常に変化している様々な事情を有利に生かすために最適な方法が何であるかによって戦略は変り、その最適な方法は、その戦略を実行する者に、そうするのが賢明だと説得する能力があるかどうかに拘わる。と言う。
   『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』を書いたトゥキディデスが、最も説得力のある形で戦略を練る名人は、ペリクレスであったとして、自国の民だけではなく同盟者や敵対者をも説得する能力は、戦略家として不可欠な資質で、このように、戦略には弁舌と行動の両方と、これらを巧みに操る能力が必要だと説いている。しかし、いくら素晴らしい戦略を打つ戦略家でも、現実は思い通りには行かず、一敗地に塗れたペリクレスに、現実は運の姿をして理不尽な振る舞いをし、最も高潔で知的な思考をも切り崩す。と言わしめている。

   ところで、「トロイの木馬」の立役者でアテナイ軍を勝利に導いたオデュッセウスは、メーティスの典型として、その成功手法が克明に描かれていて、あの神話と混在の叙事詩の英雄にも、これだけの戦略論を展開できるのかと興味深いストーリーが面白い。
   しかし、いくら巧妙な英雄であっても、ウェルギリウスは、それ相応には認めていないし、ダンテなどは、「神曲」において、オデュッセウスを、地獄篇の第八圏で、権謀術数と欺瞞の罪によって罰せられる亡者として描いている。日和見主義や策略によって成功を収めた者はダメであって、徳と真理によって動いた者だけが、英雄として正当に評価されると言うことである。

   古代ギリシャ世界にかんして不思議なことは、戦略的に考えることと行動することがどう言う意味を持ちうるのかと言う非常に興味深い考察の一部が、後に軽んじられ、影響力を失ったことで、これは、プラトンの影響である。プラトンは、詭弁(ソフィズム)とは、公平無私な真理の探究を、欲得尽くの説得手段へと転嫁したものであると痛烈に批判し、哲学は詭弁と呼ぶべきものと一線を画すべきだと説く。詭弁を切り捨てる際にプラトンがとった誇張と風刺を用いる手法は極めて戦略的で、後世のプラトンの研究における慎重さ考慮すると、プラトンがこの試みに成功したことの重要性を過小評価すべきではない。と著者は言う。
   プラトンによると、ソフィストは、真理の探究から離れ、どれほどくだらない名目のためであろうと、理論が屈折していようと、報酬と引き換えに、あらゆる状況において自らの説得力を巧みに用いる言葉のゲームに興じるスピンドクター(巧みに世論を操る専門家)、弁論戦略家、倫理的相対主義者、真理を顧みずに権力こそ総てと説く輩、であって、徳とは、場所や時間を超えて普遍的であり、哲学によってのみ表現し、定義し得るものだとする。
   この痛烈なソフィスト批判を、著者は、プラトンの戦略的クーデターだという。
   プラトンには、真の哲学者は統治者となるべき特別な存在だという信念があった。最高水準の知識を獲得できる哲学者は、明瞭かつ確実に美徳の本質を把握し、それを市民の監督と管理に生かせるからと言うのがその理由で、統治者は何が賢明で公正かを決定づける最高権力を持っていなければならないという考え方が、折に触れて「哲人王」志望者の心を捉えて、全体主義の源と見なされてきたという指摘は注目すべきである。
   プラトンのプも知らない権力者が跋扈する今様の国際政治の舞台、真善美の美徳は無意味だと言うことであろうか。

   さて、「戦略 Strategy」という言葉の起源は、古代ギリシャに遡ると言う。
   紀元前五世紀、古代アテナイで、軍事会議を構成していた10人のストラテーゴイ(Strategoi=将軍」は、前線に立って軍を指揮し、最善を尽くして戦い、全力で取り組む姿勢を示すことが出来ると見込まれた人物であった。この点から、戦略(Stratrgy)の起源は将としての器、つまり、効果的な指導力を発揮出来る資質にあると言えるという。

   先のダンテの地獄篇やプラトンの哲人王の話の絡みを考えるだけでも、戦略論はおもしろくなってきた。
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ムーティ&ベルリン・フィルのヴェルディ「レクイエム」

2020年09月16日 | クラシック音楽・オペラ
   NHK BSPで、昨年4月のバーデン・バーデン祝祭劇場でのヴェルディの「レクイエム」を放映した。
   指揮者は、リカルド・ムーティ、ソプラノ:ヴィットリオ・イェオ、メゾ・ソプラノ:エリーナ・ガランチャ、テノール:フランチェス・メーリ、バリトン:イルダール・アブドラザコフ、オーケストラ:ベルリン・フィルハーモニー、合唱:バイエルン放送合唱団
   
   

   まず、最初に、ムーティが、著書「イタリアの心 ヴェルディを語る」の中で、
   フィレンツェ五月音楽祭でのヴェルディの「レクイエム」の演奏時、
   サン・ロレンツォ教会でのコンサートだったので、円天井がブルネッレスキ作で、中にはミケランジェロのメディチ家礼拝堂があり、オーケストラはヴェロッキオ作の大きな祭壇を背にし、ドナテッロ作の二つの説教台の間に設置されている。素晴らしく芸術的な照明が堂内に当てられ、ドナテッロのルネサンス期の薄肉彫の像が照明に浮き上がり、びっくりするほどの美しさに目を見張り、始めることが出来ない程で、このような環境で演奏できるとは、この世に生まれて来たことを神に感謝する程の感動であった。と語っていることである。

   ロンドンのセント・ポール大聖堂で、クルト・マズア指揮のニューヨーク・フィルのベートヴェン交響曲第9番「合唱」を聴いたり、ヨーロッパで教会や歴史的遺産の特別な会場で、クラシック音楽を聴いた経験があるのだが、やはり、コンサート・ホールで聴く音楽と感興が全く違うのである。
   ムーティはイタリア人で、サン・ロレンツォ教会など珍しくないはずだが、ヴェルディのレクイエムと言うことで、特別な感慨があったのであろう。

   さて、私は、ヴェルディ・オペラのファンなので、随分、オペラ劇場にいってきたが、この「レクイエム」は、Dies Iræ(怒りの日)の壮大な地を揺るがすような太鼓連打のサウンドに魅せられて、レコードを何度も聞いて感激していた。
   ところが、非常に演奏機会が少なく、私が覚えているのは、ロンドンでのロンドン響の「レクイエム」で、殆ど記憶はないのだが、当時ファンであったイタリアのソプラノ歌手カーティア・リッチャレッリだけが記憶に残っている。
   今回の演奏で、ソプラノのヴィットリオ・イェオが、Libera Me(我を救い給え)を情感豊かに歌い上げて、感動的であったが、リッチャレッリもそうであったのであろうと思うと懐かしい。
   最近、METライブビューイングで見る機会のおおくなったエリーナ・ガランチャが出ていたので嬉しかった。
   
   

   このヴェルディの「レクイエム」は、「あまりにもイタリア・オペラ的でありすぎる」「ドラマ性が強すぎる」「劇場的であっても教会に相応しくない」と評価されているというのだが、私はキリスト教には関係なく、音楽として聴いているので、むしろ、劇的であればあるほど嬉しい。
   モーツァルト、フォーレの作品とともに「三大レクイエム」と呼ばれており、モーツアルトはオーソドックスとすれば、フォーレなどは、涙が出るほど美しいし、私など、緩急自在、メリハリの効いたドラマチックなサウンドこそ、ヴェルディだと思っている。
   若かりし時、カール・リヒターのヨハン・ゼバスティアン・バッハのミサ曲 ロ短調 (BWV 232) を聴きに行ったのが宗教曲の最初だが、ヨーロッパを歩いていて、ふと、飛び込んだ教会で、随分、色々なセレモニー接したり教会音楽を聴いており、それぞれに感興を覚えてきた。

   ムーティのコンサートの最初の経験は、フィラデルフィアに居た時に、専任前にオーマンディに呼ばれて客演をしていたので、フィラデルフィア管弦楽団である。
   その後、ロンドンで、ウィーン・フィルと何度か来ているので聴く機会があって、最も最近は、もう10年以上も前になるのだが、ニューヨークでニューヨーク・フィル、この時は、ラド・ルプーのシューマンのピアノ協奏曲とブルックナーの交響曲第6番、
   オーケストラ演奏は、日本で聴いたことはないのだが、「オテロ」は、ミラノ・スカラ座の来日公演で、2回出かけて、最も最近は、6年前のローマ歌劇場の「ナブッコ」で、両方ともオペラは日本でであった。
   イタリア人指揮者は、一番最初は、スカラ座でのクラウディオ・アバドの「アルジェのイタリア女」、
   次は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、これは、シーズンメンバーチケットを持っていたので通っていて、ハイティンクからリッカルド・シャイーに代わって、一気に、サウンドが明るくなったのを感じた。
   ジュゼッペ・シノーポリは、フィルハーモニア菅の公演でよく行ったが、残念ながら早世してしまった。
   今、リッカルド・ムーティは最高の指揮者だと思うが、私がクラシックに通っていた前世紀後半には、オペラ指揮者を含めて、素晴らしいイタリア人指揮者が多かったと思う。
   
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わが庭・・・椿:久寿玉咲き始める

2020年09月15日 | わが庭の歳時記
   わが庭で、今年最初の椿が咲き始めた。
   久寿玉である。
   淡いピンク地に、紅色の吹掛絞の入った八重椿で、牡丹咲。
   まだ、一輪咲き始めたところなので、優雅な花姿は望めないが、3年前に咲いた時には、11月であったので、正に、Rose of winter。
   しかし、これまでに、紅妙蓮寺や炉開きなど秋の椿の早い開花は経験済みなので驚かないが、何故か、この久寿玉が、昨年は咲かなかったのに、今年は異常に早く咲き出したので、自然の妙を感じている。
   
     
   
   
   インターネットで、久寿玉を検索していると、
   はじめまして「久寿玉」平瀬酒造店です。 - 清酒 久寿玉 - が出てきてきたので、クリックするとHPが現れて、
   「清酒 久寿玉」 平瀬酒造店  創業元和9年(1623年)より380有余年15代続き、『他の商売には如何なることがあっても振り向かない。酒造り業一筋に生きる』を家訓として今も固く守り継がれています。「久寿玉」の語源は、広辞苑にいう「薬玉」(くすだま)であり、おめでたい、邪気を払うという願いを込めて銘酒「久寿玉」に置き換えました。と書いてある。
   8年前に立ち上げたままのHPが不十分で、どこの酒造会社か分らなかったので、楽天で開くと、結構立派な酒蔵のようで、岐阜高山のようである。

   それは、ともかく、わが庭の椿は、庭植えも鉢植えも、沢山蕾をつけて、スタンドバイしている。
   何十種類も植わっているので、来春に向かって、次から次へと咲き始めるので、今度はどんな花をさかせてくれるのか、楽しみにしている。
   

   今、下草で咲いているのは、トラノオとツユクサ、
   酔芙蓉が蕾をつけてスタンドバイ。
   
   
   
   
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神田伯山の講談「中村仲蔵」

2020年09月13日 | 落語・講談等演芸
   コロナウイルス騒ぎで、老人が危ないと言われているので、好きで通っていた観劇に東京へ行くのは、今年一杯諦めようと思っている。
   三世帯同居で、小学生の孫息子と幼稚園の孫娘がいるので、バスや電車に乗るのさえも気になるからである。
   久しぶりに、Youtubeを叩いて、神田伯山の「中村仲蔵」を見た。 動画【講談】神田伯山「中村仲蔵」in 浅草演芸ホール(2020年2月21日口演)だったが、流石に人気絶頂の講談師だけあって、実に素晴らしい。
   国立演芸場で、真打ち披露公演が実施される予定で期待していたのだが、コロナで、キャンセルされたし、チケット取得が至難の業だという。

   歌舞伎ファンなので、仮名手本忠臣蔵の五段目の斧定九郞にからむ中村仲蔵の逸話は知っており、落語だが、 三笑亭夢太朗の「中村 仲蔵」を聴いている。

   講談も落語も演者によるバリエーションがあって興味深いのだが、物語の中心テーマとなるのは、
   仮名手本忠臣蔵が上演されることになり、名題に昇進した仲蔵が期待していたにも拘わらず、与えられたのは五段目の斧定九郎一役、客が無視する「弁当幕」の端役なので意気消沈。気を取り直した仲蔵は、なにより定九郎の着付けが良くないと思て、何か良い工夫がないか必死に考え、柳島の妙見様に日参するも効果がない。お詣りを済ませた後、急に大粒の雨が降り出し、近くの蕎麦屋に駆け込む。そこへ歳の頃なら32、3歳の浪人風の粋な格好の武士が飛び込んできた。色は白い痩せ型の男で、着物は黒羽二重で尻をはしょっていて、朱鞘の大小落とし差しに茶博多の帯で、その帯には福草履を挟んでいる。破れた蛇の目傘を半開きにして入って来て、傘をすぼませてさっと水を切ってポーンと放りだし、伸びた月代を抑えて垂れた滴を拭うと、濡れた着物の袖を絞って、蕎麦を注文。
   この光景を見て感激した仲蔵が、趣向を考えて新しい斧定九郞像を作り上げて、大成功を収めて座頭にまで出世するという人情話である。

   この五段目に、何故、食い詰めて山賊に落ちぶれた斧定九郞が登場するのか、仮名手本忠臣蔵のフィクションの面白さだが、痩せても枯れても斧定九郞は、赤穂5万3千石の家老の息子、
   夜具縞のどてらとまるくけの帯、たっつけ袴に五枚重ねのわらじに藤蔓巻きの山刀をさし、頭は百日カツラに赤顔、イグサで組んだ山岡頭巾(くすぺでぃあ)と言う山賊姿では、似つかわしくないし注目もされない汚れ役と言うこともあろうが、これを、粋でニヒルな二枚目浪人に変えて見せ場としたのだから、いうならば、歌舞伎の舞台のイノベーションである。

   さて、初演の当日、花道を傘を半開きにした仲蔵の定九郎が現われると、あまりにも違っている定九郎に客席は水を打ったようにシーンと静まり返る。
   オーオー、見たこともない見事な工夫じゃないか、日本一! との掛け声が掛かると思って期待していた仲蔵は、客席の無反応にこれはやり損なったかと勘違いするが最後まで演じて楽屋を去る。
   猪と間違えて寛平が討った鉄砲が、定九郞に当たると、卵を潰して顔に擦り付けて、たらたら瀕死の表情・・・伯山の真に迫った語り口が仲蔵の決死の思いを表しており、異変を察した子供が泣き出してその声だけが静まりかえった舞台に響き渡り、仲蔵はがっくり倒れ込み、楽屋に帰ると嘲笑の声、絶望した仲蔵が、とぼとぼ死に場を探して歩いていると、
   途中、人形町末広のあたりで、仲蔵の斧定九郞にいたく感動した通人が、スゲぇ芝居だったと観劇の感動を若い者に語りかける、これを聞いていた仲蔵は男泣き、
   翌日からも大入り満員、しかし、この観客の熱狂ぶりを仲蔵だけが知らなかったのだが、
   5日目の舞台で、先の通人が、大声で「堺屋、見事な工夫だ、日本一!」、観衆が唱和して歓声の嵐、
   若侍の登場から、役の工夫、必死の舞台、絶望と意気消沈、認められた感動・・・目まぐるしく展開する仲蔵の心と動きを、実に情感豊かにビビッドに表現しながら感動を呼ぶ語り口に、張り扇のリズミカルなテンポ。緩急自在で、メリハリの効いた軽快な語りが何とも言えないが、通人と若者との仮名手本忠臣蔵のしっとりとした対話を一つ取っても、しみじみとした話術の冴えに深い味がある。

   さて、落語の方では、絶望した仲蔵が、江戸に居られないと妻と別れて旅に出るのだが、親方中村伝九郎の呼び出しを受けて絶賛されると言う話になっており、志ん生では、引っ越し荷物で道具屋とコミカルな掛け合いがあって面白い。先代の圓楽では、まだ、成功を分っていなかった仲蔵が、伝九郞にわびを入れて泣きつくシーンが続いてしっとりとした師弟の語りを見せている。駆け出しの頃から苦楽をともにし、今生の別れだと泣いていた女房との語りも味がある。お祝いにたばこ入れを貰って帰り、妻に煙に巻かれたようだよと言われて、貰ったのがたばこ入れだ。

   仲蔵が、何故、名題にもかかわらず、端役の定九郞を振り当てられたのか、貞心や志ん生は、仲蔵が名題に出世し、団十郎が相変わらず仲蔵の面倒を見るので、これが面白くなかったのが座付き作者の金井三笑が、仲蔵に嫌な役ばかりを振り当てたと語っている。
   ところが、四代目團十郎に悴がいて、藝を競っていた仲蔵が妨げにならないように慮ったとか、先代の圓楽では、ヤケになっていたのを、女房が、團十郎が仲蔵へ飛躍挑戦へのチャンスを与えたのだと説得させる人情話になっていて、仲蔵を発憤させていて面白い。
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イアン・ブレマー:アフターコロナの世界

2020年09月12日 | 政治・経済・社会
   ニューズ・ウィークの9.8号のトップ記事は、イアン・ブレマーが説く「アフターコロナの世界」、
   ”主導国なき「Gゼロ」の世界を予見した国際政治学者が読み解く米中・経済・テクノロジー・日本の行方”

   ブレマーの著述を読み続けておれば、ほぼ予想できる内容だが、時宜を得た見解も多いので、感想を記してみたい。
   まず、ブレマーのコインしたGゼロだが、現状の見解は、
   「アメリカが国際社会での指導的な役割を放棄して、結果としてアメリカの同盟国が分断され、衰退するロシアがアメリカやヨーロッパを恨んで手段を選ばぬ復習に走る一方、台頭する中国がアメリカ的な価値観、社会制度を決して受け入れない世界を指す。」
   ブレマーは、米国がリーダーシップを発揮して世界の警察官となり、国際強調の価値観や民主主義の旗振り役となり、グローバルな貿易システムの建設者となる世界を良しとするのであろうが、米国の世論が支持するとは思えないと言う。
   これまでも書いてきたことだが、ロシアの凋落については、GDPベースで見れば、非常な弱小国で、アメリカの13分の1、中国の9分の1、日本の3分の1、勿論、BRIC’sの最下位で、西欧諸国やカナダに及ばず、韓国並みという水準で、何度もこのブログに書いているが、確たる成長戦略もなく推移しているので、現体制が続く限り、国際的影響力も、どんどん、下降の一途を辿って行く。地政学的には極めて重要な国であり、文化芸術等偉大な国であり、軍事大国、サイバー大国ではあっても、国力の低下は否めなかろう。
   中国については、米中間のパワーバランスが悪化してきているが、中国にも、国内市場には膨大な企業債務と様々な非効率が山積するなど多くの深刻な問題があり、中国のアキレス腱は国外にある。中国は最貧国との貿易で圧倒的な強みを発揮しているが、これら多くの最貧国は、既に、膨大な債務を返済出来ずにおり、東南アジア、サハラ砂漠以南のアフリカ、東欧と中南米の一部の国を味方につけても超大国になれない。西欧先進国や日本など豊かな民主主義国を同盟とする米国の勢力圏とは桁が違うというのである。

   1年半後には、新型コロナウィルスのワクチン開発など大きな変化が起きるであろうが、米中のテクノロジー冷戦は激化するばかりで日に日に悪化して行く。
   米国を初め主要な民主主義国で国内の不平等が拡大するだけではなく、豊かな国と新興諸国の間のグローバルの格差も拡大し、先端技術とそれを推進する企業のもたらす破壊的な影響は、他の経済セクターにも、民主主義にも、そして、人々の働きにも及ぶ。と言う。
   コロナウイルスが新しい世界秩序を作り出しているとは思わないし、民主主義の諸制度が崩壊しつつあるという見解にも反対で、米国は民主主義の国であり続けるし、その諸制度も機能し続ける。と言う。

   面白いのは、この号では、フィリップ・ゴードンの「トランプ党」の危うい政治ショー でも、グレン・カールのコメンタリー「トランプの恐怖戦略にだまされるな」でも、嘘と欺瞞に満ちたトランプ政治がいかに危険かを徹底的に糾弾しているのだが、
   ブレマーは、外交政策には、意外なほど多くの成功があったとして、米国の対中政策、とりわけ5Gの通信技術の対応や、メキシコとの国境警備の強化などをあげている。
   尤も、これは、トランプが有能だからではなく、アメリカが今も世界最強の国であり続けているからだ。とは述べているが、オバマ以上に褒めあげる必要があるのか、大いに疑問である。
   
   グローバリゼーションについては、世界中で平均寿命が延び、教育や医療の機会が広がるなど人類史上、最も画期的な進歩であるが、今や、寸断されたネットワークと化して、米中の対立は、グローバルの課題にグローバルで対応することを不可能にしかねない程悪化している。アメリカ国内も分裂しておれば国際的な分裂も激しく、保護主義が台頭して医薬品が戦略物資並の扱いになっており、ワクチン開発には協力が欠如しており、信用収縮にいたって世界的金融危機に直面すればどうするのか。と言う。
   今回のパンデミックでも、グテレス事務局長を中心異世界の国々、WHO、EU、ビル・ゲイツのような篤志家やあらゆる人を団結させることが出来ればどんなに良いか、
   第二次世界大戦直後には、目の前の大きな問題に団結して対処する必要性を理解する偉大な世代が生まれて、「アメリカ第一主義」を引っ込めて、国連を創設した。今の国連は、「世界政府」の理想に可能な限り近づいている。と言うのだが、何時実現するのか。   

   さて、日本についてだが、制度自体の権威失墜という他の多くの民主国家が苦しめられている内部的な問題を抱えていないため、多くの点で非常に有利である。欧米などのように成長一辺倒ではなく低成長にも高齢化社会にも順応して、地域社会や家族、国家を重視する政策をとっており、世界は先進的なインフラや技術を創出し、労働に変って高度な知識で対処しなければならないが、日本ははるかに先を行っている。
   この指摘はある程度、当たっているかも知れないが、カウンターベイリング・パワーとしての野党が脆弱過ぎて、国民が自民党一強の太平天国に安住せざるをえないからである。
   ブレマーは、日本の問題は、地政学的なものがはるかに大きくて、米中の狭間で、どう生きるかと言うことだと言う。
   日本は、軍隊をつくって「普通の国」になる必要があるとも思えないし、軍拡競争は無意味であるし、中国に太刀打ちするほどの予算をつぎ込むこともない。と言うのだが、
   別な記事で、グレン・カールが、「安部が残した日本のレガシー」で、「安全保障上の能力を強化することに腐心し続けた安部の政治的リーダーとしての真の「知恵」として、「アイアン・フィスト2020」の実施と「いずも」の空母化が、安部の後世に残したレガシー(遺産)だ。と書いており興味深い。

   日本に必要なのは、ドイツやカナダなど、規範やルールの設定に関心のある他国と一緒に世界をリードしていくことで、コロナの感染が世界的に益々広がっている状況や、AIが人間に取って代わっている事態、AIの倫理問題、気候変動の諸問題に対処するために必要とされているあらたな制度づくりに励むことだが、日本は、こうした問題で世界をリードしてこなかった。と述べている。
   これは、正しい指摘だと思うのだが、外交に努力した安部首相でさえこの現状であるから、実務内閣だとしか思えない、小粒な次の政権に、風雲急を告げる地政学の狭間を縫って国威を発揚して、高邁な国際的使命を果たせるのか、世界から問われている。

   長すぎて端折らざるを得なくなったのだが、国際舞台で傾注すべきリーダーとして、ウルズラ・フォンデアライエンやクリスティーヌ・ラガルドなのEU指導者をあげており、EUに期待しているのだが、私も、これまで以上に紆余曲折があるだろうが、国家連合システムの核を形成するであろうとEUの将来に期待していることを付記しておきたい。
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国連「大気中の温暖化ガス濃度最高」と警鐘

2020年09月11日 | 地球温暖化・環境問題
   日経が、10日朝刊に、
   ”国連は9日、大気中の温暖化ガス濃度が過去最高にのぼったと発表した。新型コロナウイルスで世界各国で経済活動が止まった結果、排出量は減ったものの、影響は限定的だった。国連のグテレス事務総長は排出削減対策の徹底や、石炭火力から再生可能エネルギーへの転換の必要性を訴えた。”と報じた。

   グテレス氏は同日の記者会見で、米カリフォルニア州で広がっている山火事の問題などを受け、「(気候変動の影響で)記録的な猛暑、山火事、洪水や干ばつが起こり、問題は悪化しかねない」と警告し、地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」では気温上昇を産業革命前比で1.5度未満に抑える努力目標を掲げているが、今後5年の間に気温上昇が1.5度に達してしまう確率が上がっており、「目標達成の軌道から世界は外れている」と懸念を表明した。

   化石燃料から再生可能エネルギーへの転換についてグテレス氏は、アジアやアフリカで石炭火力発電所の新設が続いていると指摘し、「日本、中国や韓国に石炭火力発電所の輸出や融資を抑えるように呼びかけている」と述べた。と言う。
   恥ずべき日本への指摘だが、
   「今日から二酸化炭素の排出量を減らしても気候変動の進行は止まらない。」現状に直面している以上、化石燃料によるエネルギーの造出は断じて避けるべきで、再生可能エネルギーへの転換以外に選択肢はない。
   有馬 純教授は、温暖化防止という一神教的な考え方に立ち、石炭オプションを国内外で否定する立場の人びとに対して、
   彼らが主張するように日本が石炭火力も原子力もやめ、石炭火力の輸出もやめ、なおかつ温室効果ガス削減目標を引き上げればどうなるか。日本の電力料金は大幅に値上がりし、日本経済は疲弊し、製造業は海外流出し、その結果、CO2排出は減少するだろう。と言うのだが、そう、それで良いのである。

   地球温暖化については、このブログでも随分論じてきているし、それに、十分な情報が流布しているので、多言を要しないと思うので省略する。
   今年の初めに、ナショナルジオグラフィックが、50回目を迎えるアースデイに因んで興味深い特別号を出版した。
   表紙の一方は、「守られてきた地球」2070年、世界は暮らしやすくなる
   反対側の表紙は、「傷つけられた地球」2070年、世界は暮らしにくくなる
   それぞれ、ページを上下逆にして、明暗を分けた視点から、2070年の世界を展望していて、非常に興味深い。
   分りやすく、そして、詳細に準備された記述が魅力的だが、たとえば、「ダメージは一様ではない」というページには、気候変動に対する都市の脆弱性が表示されていて、パリやロンドン、シカゴ、ブエノスアイレスとリオ、サンパウロ以外は危険指標で、貧しい都市ほど、社会基盤や社会サービスの需要に対処できずに、人口増加を支えきれないとして、急成長を遂げるアフリカ諸国の大都市の未来は深刻だという。
   東京、大阪、名古屋の脆弱性は、北京、天津より高くて悪く、コルカタやダッカ並、
   悲しいかな、目先の小事の論戦ばかりで、如何に、総裁候補の哲学ビジョンなき思考の次元が低いかが、分ろうというものである。
   
   

   環境問題については、悲観的な見解が主流だが、中には、これまでに人類が築き上げてきたように、時代を変える新しい科学やテクノロジーの進歩によって、人間の大部分は、近いうちに、今は富裕層にしか手が届かないような豊かな生活を経験できるようになるとか、指数関数的に生まれるイノベーションによっていかなる困難も克服されて、潤沢な世界への道が切り拓かれると言う考え方に全幅の信頼を置いて輝かしい未来論を展開する学者や識者もいる。
   このブログで取り上げてブックレビューした、
   P・H・ディアマンディス&S・コトラー著「楽観主義者の未来予測」上下
   スティーブン・ピンカー著「21世紀の啓蒙 上下: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 」などがその典型であろうと思う。
   根底には、今まで、上手くやってきではないかと言う楽観論がある。

   この問題についての私の結論だが、科学技術や世の中の進歩発展によって良くなったとしても、それは、終末を伸ばすだけで、人類が賢く対処しなければ、結局は、煮えがえる状態で、人類社会の破綻を結果するだけだと思っている。
   人類の活動が、もう既に、地球規模の限界に達してしまった以上、今度こそは、半世紀以上も前にローマクラブが提示した「成長の限界」が、マルサスとシンクロナイズしてしまって、取り返しがつかなくなるのである。
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