熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

知的満足を味わう楽しみ

2013年10月31日 | 生活随想・趣味
   今週は、私にとって、充実した一週間であった。
   非常にハイレベルのシンポジウムとフォーラムを聴講し、最後に、能「道成寺」を観劇すると言う、正に、文化文明度の高い知的および文化的満足を味わえる機会が続いたのである。
   29日に、第10回 日経・CSISシンポジウム 新時代の日米同盟――未来への助走 帝国ホテル
   30日&31日は、日立イノベーション・フォーラム 東京国際フォーラム
   10月1日は、能「道成寺」ほか 国立能楽堂

   
   この日経・CSISシンポは、外交防衛安全など日米間の重要な問題について、日米双方からその道の第一人者や権威が参加して、講演や討論会を行うのだが、特に、知日派の米国の政府高官や学者たちが、カレントトピックス風に、日米間の大変センシティブな重要案件を忌憚なく(?)語り、日本側からも見解を述べて討論を行うと言う時宜を得た興味深いシンポジウムである。
   私は、ハーバードのジョセフ・ナイ教授やリチャード・アーミテージ元国務副長官の日米安保や日米防衛問題などに関する見解については、非常に関心を持って、本なども読んでおり、今回も、第3回アーミテージ・ナイ・レポートも、事前に読んでシンポに出かけたのだが、カート・キャンベル前国務次官補やマイケル・グリーンなど錚々たる知日派の論客に加えて、常連で主催者でもあるCSISのジョン・ハムレとジェームズ・スタインバーグ前国務副長官が、非常に、含蓄のある発言をするなど、実に、実り多いシンポジウムであった。
   日本からは、野田聖子、岩谷毅、長島昭久、北岡伸一、谷内正太郎の諸氏が参加し、石破茂幹事長は欠席した。
   このシンポジウムについては、日経の当日の夕刊と翌日の朝刊に詳細に報告されていたのだが、後日、私も、感想を、このブログに書いて見たいと思っている。


   次の日立イノベーション・フォーラムだが、私自身の最大の問題意識と興味の対象は、正に、イノベーションであるので、このフォーラムは、毎年、楽しみに参加して勉強させて貰っている。
   それに、今回は、
   フィリップ・コトラー教授が、「マーケティングとイノベーション 勝利のコンビネーション」
   ジョセフ・スティグリッツ教授が、「持続可能な繁栄の未来への新しい優先順位」
   ビジャイ・ゴビンダラジャン教授の、「行動するリバース・イノベーション」
   と言う願ったり叶ったりの、私にとっては、最も聴きたい教授たちの登壇なのであるから、正に、感激の一言であった。
   特に、ゴビンダラジャンについては、最近の私のイノベーションでの関心は、プラハラードのBOPマーケットでのイノベーションやリバース・イノベーションなど、新興国や最貧困層からのイノベーションに移っているので、最も聴講したい先生であった。
   コトラー教授は、私が、もう40年も前に、ウォートン・スクールで、コトラー教授の弟子のロバートソン助教授の授業を受けていた時のテキストが、教授の著作で、全米のみならず世界屈指のマーケティング学の権威で、ノースウエスタンのケロッグ・スクールをトップ・ビジネス・スクールにランクアップしたのも、コトラー教授の功績であろう。
   スティグリッツ教授は、クルーグマンと同様に、リベラル派で、ケインジアン的な傾向の、非常に正義感の強い先生で、私は、教授の色々な著作を読んで勉強しており、教えられることが多い。
   講演の最後に、TPP反対論を説いていたが、確かに、包括的貿易同盟なら、域内が自由市場になるので、弱肉強食の自由競争で、ウイナー・テイクス・オールとなると言うことであり、有効な規制必要派の教授には、相容れないと言うことであろう。
   賛成賛成と言いながら、この点を、私は無視していたので、一寸、反省している。

   他に聴講したのは、竹中平蔵教授の「日本の成長戦略」
   手嶋龍一教授の「アジア半球の時代をどう読み解くのか」
   両講演とも、非常に面白かった。

   とにかく、この3日間は、久しぶりに、早く起きて、通勤や通学の人々に交じって、東京に通ったのだが、知的満足を十分に満足させて、身も心も活性化させてくれたようで、幸せであった。


   さて、明日は、毎月、4回は通っている国立能楽堂の特別企画公演で、初めて、舞台の釣鐘が落ちる金剛流の能「道成寺」を鑑賞する。
   今度は、芸術鑑賞だが、高度な学問や芸術に触れる楽しみ喜びも、生きていればこその話であり、幸せなことだと感謝している。
   
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国家はなぜ衰退するのか (3)ソ連経済の成長失速

2013年10月29日 | 政治・経済・社会
   ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」の第五章「収奪的制度のもとでの成長」で、収奪的制度のもとでも、経済は成長するが、その成長はいずれすぐに終息して、経済は一気に沈滞してしまうと言うプロセスを、ソ連を例にして語っていて、興味深い。
   冷戦時代の最盛期には、正に、米ソの軍拡競争が激烈で、ゴスプランが功を奏したのか、ニキタ・フルシチョフが、「ソ連が、西欧諸国を葬り去る」と豪語し、ノーベル賞経済学者ポール・サミュエルソンが、あの有名なテキスト「エコノミクス」で、ソ連の来るべき経済支配を繰り返し予言するなど、ソ連の経済成長は破竹の勢いであった。が、その経済が、一気にダウンしてしまった。
   それは、何故かと言うことである。


   結論を先に記すと、ソ連が、収奪的な経済制度のもとでも急速な経済成長を達成できたのは、ボリシェヴィキが、強力な中央集権国家を築き、それを利用して資源を工業に配分したから成長したのだが、この経済プロセスは、技術的変化を特徴としていなかったが故に長続きしなかった。と言うのである。
   当時、ロシア人の殆どは地方で、原始的な農業に従事していたのだが、この労働力を、強制的に農業から成長力の高い工業へと再配分し、多大な経済的潜在能力を、一気に、暴力的に解き放ったのであるから、1928年から1960年、GDPが、年率6%で成長した。
   しかし、この急速な経済成長を実現したのは、労働力の再分配、および、新しい工作機械や工場新設などの資本蓄積で、収奪的制度のもとでは、生産性を高めるインセンティブやイノベーションを喚起することが出来ず、技術的変化を伴わなかったので、成長を持続させ得なくなり、1970年代には、成長はほぼ止まってしまったと言う。

   軍拡競争で、欧米に一気に駆け足で追いつこうとしていた当時のソ連の工業力なり産業構造は、極めて後進的で遅れていたので、国家総動員で、世界の最先端の科学技術や工業技術を導入・活用して、富国強兵を目指せたのであるから、急速な経済発展を実現できたのだが、如何せん、キャッチアップ後は、自由とインセンティブのない収奪的制度故に、イノベーションによる創造的破壊を引き起こせず、経済成長は頓挫してしまった。
   このあたりのキャッチアップ・プロセスは、ICT革命とグローバリゼーションによって、欧米日等先進国の最先端かつ最高峰の科学技術を縦横に取り込んで、経済成長を図り得た中国やインドなどの新興国の急速な発展手法と全く同じ発展過程であって、追いつくまでは成長できても、その後、持続可能なのかどうかが、問題なのである。
   その前に、「中所得国の罠」もクリアしなければならないし、新興国の将来は、中々、見通し難いのである。

   
   収奪的制度のもとで、技術的変化が続かないのは、経済的インセンティブの欠如とエリートの抵抗、そして、非効率に使われていた資源をいったん工業に再配分されてしまうと命令によって得られる経済的利益は殆ど残らないからだと言うのだが、何らインセンティブが働かなくてイノベーションを生み出せない経済が、頓挫するのは当然の成り行きであろう。
   イノベーションが生まれた唯一の分野は、軍事・航空技術で、あの人工衛星「スプートニク」や有人宇宙船ボストーク1号に乗って「地球は青かった」と言ったユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンの快挙が、アメリカを震撼させた。あの頃が、ソ連の最盛期であって、正に、冷戦時代の比重が、共産圏に傾いたのである。
   しかし、重工業重視による「生産力至上主義」を追求し過ぎて、経済そのものの根幹を、イノベーションによって生産性を挙げて活性化出来ずに真の経済成長を実現できなかったが故に、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連自体が空中分解して冷戦が終わった時には、ロシアの経済は崩壊寸前にまで追い込まれてしまっていたのである。

   アセモグルとロビンソンのソ連経済論は、やや、単純に過ぎるとは思うが、スターリンの強行した、
   軍事力増強のみを目標とした工業化政策を強行しながら、この産業化を後方支援する集団農業のコルホーズを推進したのだが、所詮、労働者への極端なノルマを課したスタハノフ運動や、富農クラークの絶滅や、あるいは、巨大プロジェクトに労働者を動員して過酷な強制労働を強いるなど、全土に広範な飢餓地帯を生み出した人権を蹂躙し続けた収奪的経済制度の末路を、語りたかったのであろうと思う。
   この本では、スターリンのゴスプランや経済計画が、如何に、スターリン本位で好い加減であったかを語っているのだが、いずれにしろ、計画経済制度が、インセンティブ・オリエンテッドな自由主義経済制度の軍門に下って、冷戦が終結し、グローバリゼーションの時代に突入したのも、トータルで、インセンティブのない、イノベーションを生み出せないような収奪的な政治や経済制度は、長続きせず崩壊して行くだろうと言うことであろうか。

   さて、ついでながら、中国についてだが、いずれ、近いうちに、アメリカを凌駕して世界一の経済大国になると言うのが一般的な見方だが、私は、それは有り得ず、途中で、深刻な何らかの国内問題で、中国が躓き成長が頓挫すると思っている。と、このブログに書いて来た。
   アーミテージ・ナイ・レポートにも、中国の一本調子の成長を疑問視する見解が示されていて、6つの悪魔と言う表現で、エネルギーの逼迫、悲惨な環境悪化、深刻な人口問題、国民間および地域間の所得格差の拡大、新疆とチベットの御しがたい少数民族問題、および、根深い公務員の腐敗、を指摘している。
   中国天安門広場で車が群衆に突入し炎上した事件が、新疆ウイグル自治区の農民によるテロだと言う報道もあるのだが、前述の6項目の惨状は、常軌を逸しており、経済は、自由市場主義志向であっても、国民に十分な自由がなく、共産党一党独裁による収奪的政治制度が継続する限り、前述のソ連のように経済成長が失速して行く可能性は、非常に高いと思っている。
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芸術祭寄席・・・国立名人会

2013年10月27日 | 落語・講談等演芸
   久しぶりの名人会で、今回、初めて聞く落語家は、三遊亭好楽で、演題は、「一眼国」。
   テレビの「笑点」の録画撮りで、トリの歌丸とともに、秋田に行っていて今帰ってきたところだと言いながら、インチキな香具師の話から始めた。
   昔、我々が子供の頃にも残っていたが、祭礼や縁日の参道や境内など市が立つ所などで、露天で店を出して、街頭で見世物などの芸を披露する商売人の話で、奇想天外な見世物の看板を出して、羊頭を掲げて狗肉を売る類のインチキ商売をしていた。
   香具師が、一つ目の女の子を見たと言う話を聞いて、見世物にしようと出かけて行き、その女の子を小脇に抱えて逃げたのは良かったのだが、捕まって白洲に引き出されて、そこは、すべての人間が一つ目の一眼国だったので、「こやつ目が二つある。調べは後回しじゃ。見世物に出せ」と言うお裁きが出ると言う話である。

   さて、最初の桃月庵白酒の「転宅」は、全く、同じ話の2回目であるので、おぼろげながら筋は覚えていているのだが、また、聞いてもそれなりに面白い。
   二号の家に泥棒に入ったまねけな男が、逆に口説かれて夫婦約束までして、夫のものは妻のものと、折角の稼ぎを巻き上げられてしまい、翌日、訪ねてみたら転宅済みと言うどうも締まらない話で、おちが「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた」
   旅回りの女義太夫がたりで、遊んですれているので、馬鹿な泥棒を手玉に取るのなどはいとも簡単。パンチの利いた溌剌とした若々しさの魅力に加えて、色気プンプンの妾や浮かれて舞い上がった泥棒などを器用に語り分ける白酒の語り口が実に面白くて良い。

   柳亭市場は、「三十石」を語った。
   京都の伏見から大阪の八軒家を結ぶ乗合船三十石舟の話で、江戸の二人が乗ろうと言うのだから、最初から、下り便の呼び込みに「下らんか、下らんか」との呼び声が、くだらない人間だと揶揄されたり、腹下らんかと腹具合を尋ねていると錯覚する頓珍漢。
   旅館が、炊き立てのご飯とあっつ熱の汁を出すのだが、旅館が舟の出発合図と結託していて食べられずに客が舟へ慌てて乗り込む話、乗船名簿を尋ねて記帳する番頭に、西郷隆盛や小野小町などと無茶を言う客の話、舟が満員だと言うのに、お女中が一人乗りたがっていると聞いて、若い女だと早合点して自分の膝の上に座らせたいとOKを出すのだが、オマルを抱えた老婆だったと言う助平な客の話・・・とにかく、浮世の人間模様が展開されていて面白い。
   市場は、名調子で朗々と船頭の舟歌を歌うのだが、この話を聞きながら、北斎や広重の浮世絵を思い出していた。
   プロの歌手だと言うから、声が良いのは当然だが、あまり、関西弁に違和感がないのは、大分出身だからであろうか。
   YouTubeで、枝雀の落語を聞いたのだが、元々は関西落語であり、舞台も関西であるから、べたべたの関西弁で聞く迫力とおもろさは、やはり、違って来る。

   トリの桂歌丸は、「ねずみ」。
   半年前に、正藏が、この国立能楽堂で語った話で、このブログにも、鑑賞記を書いた。
   仙台の大旅館の虎屋という大きな宿の主人宇兵衛が、妻に先立たれて、女中頭を後妻に迎えるのだが、番頭と結託した二人に旅館を乗っ取られて、物置小屋だったところを住居にして小さな貧しい鼠屋旅館を開く。
   客引きの息子に頼まれて泊まることにした左甚五郎が、ことの次第を聞いて同情して、鼠やに因んで鼠を彫って残すが、この鼠が動き出すので大評判となり旅館は大繁盛して大きく成る。
   逆に、虎屋は寂れる一方。困った虎屋は、仙台の巨匠に頼んで虎を彫らせて、鼠屋の鼠を睥睨する位置に虎を据えると、鼠屋の鼠は動かなくなった。
   知らせを聞いて乗り込んできた甚五郎が、ねずみに、
   「俺は魂を込めてお前を彫った。なぜ、あんな不出来な顔の虎に怯える?」と詰問すると、ねずみは振り返って、「え、あれ虎だったの? 猫かと思ってた」と応えたと言う。
   こんな人情噺を、歌丸は、実に愛おしいと言った表情で、しみじみと語り続ける。
   歌丸の笑い本位の落語を聞いたことがなく、圓朝や内容のある物語風の落語ばかりを聞いているのだが、正に、そんな話の語り口には、人生を語り続ける語り部の風格と味があって、実に清々しくて良いと思って聞いている。

   とにかく、落語は、喜怒哀楽、人間の泣き笑いの人生を語ってホロリとさせる。
   シェイクスピアの奥深さや、モリエールのようなエスプリはないけれど、私は好きである。
   
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代々木能舞台・・・能「江口」

2013年10月26日 | 能・狂言
   初台からほど近いビルの谷間に、閑静な一角があって、そこに、一瞬、タイムスリップしたかのような実に懐かしい空間があり、そこに、代々木能舞台がある。
   浅見真州のホームページを開くと、「代々木能舞台」について、次のような記述がある。
   代々木能舞台は、大正・昭和初期、都内に数箇所存在していた屋敷内舞台の現今では数少ない遺構の一つ です。 舞台は、屋外に建っております。見所は通常の座敷の建具を取り払い、座布団に座して舞台をご見物 願います。 玄関にてお履物を下足棚にお預けの上、お上がり頂ます。建具を取り払う為、気温の温暖な季節中 のみ催し場として使用します。 現在の一般劇場風の能楽堂と違い古風で柱も多く、色々、ご不便をおかけする 面もあると思いますが、昔はこの様な形で演能が行われていた事に思いを致して頂ければ幸いと思います。 お席の数は、180席程度でございます。

   台風27号が関東に接近すると言う昨夜、この素晴らしい能舞台で、2時間に渡る世阿弥の大曲能「江口」を鑑賞する機会を得た。
   夕刻の6時半の開演なので、あたりは真っ暗だが、丁度、脇正面席に当たる部分は、青天井で夜空が見え、隣の建物の障子明かりが見え隠れするなど中々の雰囲気であり、幸い、風雨が激しくなかったので、演能中、しっとりとした雨音が情趣を添え、時折、遠くで救急車のサイレンが伴奏すると言う、実に、感動的で贅沢な観能経験であった。
   それに、普通の能楽堂のように、舞台と見所の間の白砂の庭もなく、舞台と見所が直結しているので、正に、臨場感抜群であり、演者たちの繊細な息遣いまで感じられる。
   橋掛かりに並ぶ松が、手入れ良く剪定された地植えの松であるのが、実に良い。
   
   
   
   
   この脇正面席部分の青天井の吹き抜けの雰囲気は、スペインなどラテン系の庭に似た感じだが、しかし、劇場と言うことになると、やはり、ロンドンのグローブ座でのシェイクスピア劇を思い出す。
   あの劇場は、「恋に落ちたシェイクスピア」で登場する劇場と殆ど同じで、吹き抜けの青天井の立ち見の平土間を囲んだ筒型の円形劇場なので、もっと、天候に左右され、私自身は、屋根のある桟敷席で観劇していたので問題なかったが、平土間の客は、雨が降ればビニール合羽を身につけ、太陽が照りつければ、劇場支給の簡易帽子を被るなど、右往左往していた。
   しかし、ヨーロッパでも、昔は、コ型の建物の旅籠屋(INN)の中庭や領主の館の中庭に舞台をしつらえて、演劇が演じられていたし、日本でも、地方では、歌舞伎や文楽でも野外で演じられていたし、能舞台も野外にあったので、不思議でも何でもない。

   しかし、観劇の仕方が違っていて、シェイクスピアは観に行くではなく、聴きに行くと言っていたし、文楽も、浄瑠璃を聴きに行く、と言っていた。
   今でも、グローブ座では、太陽がカンカン照りつける野外劇場で、ハムレットの冒頭の漆黒の闇のシーンを演じなければならないし、時には、to be or not to be, that is the question.を、ヘリコプターの爆音やパトカーのサイレンの伴奏下で演じなければならないし、要するに、役者の台詞回しが総てだったのである。

   密閉された異空間のような近代劇場が良いか、あるいは、風雨吹きさらしの野外劇場が良いか、と言うことだが、極端な悪天候でなければ、野外で実際の生活空間に接しながら演じられる舞台を観るのも、私は、臨場感もあって、色々、考えたり雑念などが混じり込んで、良いのかも知れないと思うことがある。
   アメリカでもヨーロッパでも、宮殿やお城など、あっちこっちで、野外観劇などしてきたが、仏像を、博物館や美術館で見るのではなく、本来安置されている薄暗いお寺で拝観するのと、相通じる感じかも知れない。   
   昔、蜷川幸雄が、ベニサンピットで、舞台の裏後方の扉をあけ放って街路の動きそのままを取り入れて演じていたシェイクスピアの『夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream』を観たことがあるのだが、あるいは、勘三郎が、歌舞伎の舞台で、ニューヨーク・ポリスたちを乱入させるシーンを取り込んでいたのも、あるいは、この延長線上の演出でもあろうか。

   さて、能「江口」だが、私には初めて見る舞台であったが、今月は、国立能楽堂でも、世阿弥生誕650年記念公演で、世阿弥の能を観続けており、また、事前に、能を読む(2)や岩波講座の本などを読んで予習をして行ったので、国立能楽堂のように、字幕ディスプレイはなかったけれど、かなり、舞台を追うことが出来た。
   舞台は、地謡が6人になっている以外は、全く、他の能楽堂とは変わらない本格的な舞台で、お馴染みの演者たちが舞台に登場していて、前日国立能楽堂で、素晴らしい「融」を演じた浅見真州が、後見に立っていた。
   シテは、小早川修、ワキは、工藤和哉。

   「江口」のあらましは、次の通り。
   諸国一見の僧が、天王寺詣での途中、江口の里で、土地の者に江口の君の旧跡を尋ねる。「世の中を いとふまでこそかたからめ 旅の宿りをおしむ君かな」という西行法師の歌を口ずさむと、一人の女性が現れ、何故返歌を詠まないのかと問い、宿を頼んだのを断ったのは、出家西行の身を思ってこの世と言う仮の宿に心を止めるなと伝えるためだったと説明し、僧に出家の身として俗世の事に執着するなと説く。僧が女の名を聞くと、江口の君の幽霊だと言って、たそがれの川辺に消える。僧が江口の君の菩提を弔っていると、江口の君や遊女達が現われて舟遊びをしながら、かっての自分たちの身の境涯を語り、無常を嘆きながら舞ううちに、いつしか、江口の君は普賢菩薩となって、舟は白象と化し白雲に乗って西の空に消えて行く。

   里の女から、遊女に、そして、普賢菩薩へと変わって行くシテの昇華を、蛹から脱皮して蝶に変身して行くように、実に感動的に、小早川修は、舞い続ける。
   特に、幕切れ近くになっての、序の舞は、正に、魂が乗り移って普賢菩薩になり切った神々しいほどの優雅さで、実に感動的で、息を呑むほど美しい。
   人間世界の愚かしさ、この仮の世への執着の儚さを説きながら舞い続けて、遂には、普賢菩薩の姿になって、白像に跨って西方に消えて行く終曲への美しさは、まさに格別であって、世阿弥の世界観を遺憾なく語っていると言うことであろうか。

   ところで、江口の遊女が、西行を袖にして、僧に説教をすると言う本末転倒とも言うべき逆転劇や、遊女の里であるにも拘わらず、西行の一夜の宿りを遊女が断るなどと言った考えられないようなシチュエーションなのだが、これも、江口の里の君が、普賢菩薩だと言う言うことであれば、大方、納得が行く。
   それに、当時の遊女は、我々が一般常識として考える遊里の遊女や吉原や島原の花魁や傾城のような遊女ではなかったと言うことで、このあたりは、粟谷明生が、”『江口』は普賢菩薩の心”で、故綱野善彦の次の遊女説を紹介していてよく分かる。
   「近代、近世の遊郭の遊女のあり方から中世以前の遊女をおしはかってしまうのは大きな間違いである。世阿弥が昔を思い浮かべて描いた遊女は13世紀から14世紀のスタイルで今とはそのスタイルが違う。近世的、近代的な売春婦として単純に考えてはいけない。つまり、遊女とは古くは一種の巫女、その職として芸能をする者であり、芸能者は神仏になることもあり、それが宮中との繋がりにもなったとも考えられる」
   巫女のように芸に生きる歌舞音曲を業としながら集団生活をする乙女たちであり、それに、普賢菩薩の生まれ変わりであれば、西行に宿を拒否しても、この世は仮の世であるから執着するなと説教しても、当然だと言うことである。

   

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街角に郵便ポストがない

2013年10月24日 | 生活随想・趣味
   郵便を投函しようと思って、外出して、何時ものポストへ投函する時間がなかったりして、つい、バッグの中に入れてしまって、出先で気付くことがある。
   ところが、最近では、殆ど街角には、郵便ポストがない。
   急いで出さねばならない郵便だと、非常に困ることがある。

   今日、こう言うシチュエーションになって、銀座ソニービル前で気付いて、ポストを探しても見当たらなかったので、有楽町の駅に向かった。
   ガード下近くに、二つ昔懐かしいポストを見つけたので、喜んで近づいたら、「このポストには投函できません」と書いてあって、口が塞がれてしまっていた。
   街の点景として、古いポストを置いてあるだけなのである。

   仕方なく、ビッグカメラを通り抜けて、東京フォーラムにはあるだろうと思って、インフォメーション嬢に聴いたら、この中にも近辺にもなく、有楽町駅の反対側の無印良品の前にあるだけだと教えてくれた。
   知っているだけでも大したものだと思ったが、引き返すのもしゃくなので、意識して東京駅まで地上を歩くことにしたが、ポストは見つからなかった。

   結局、東京駅前の中央郵便局まで出かけて、やっと、投函出来た。
   中央郵便局の案内嬢に、このあたりにポストがないので困っていると言ったら、ここにあると言って、カウンターの横のポストを指さされた時には、異国へ来たのかと思ってしまった。

   千葉の田舎では、コンビニと駅前には、ポストが必ずあるのだが、コンビニでないと、郵便ポストは置けないのであろうか。
   いくら、メールが主体になって、手紙やはがきが少なくなったと言っても、郵便を一手に独占しているのなら、もう少し、便宜を図っても良いのではないかと思っている。
   クロネコヤマトに任せたら、束にすれば僅かなボリュームなので、10分の1程度の値段で郵便を引き受けると、昔言っていたことがあるが、独占企業の郵便局は、消費税値上げで、82円にすると、言っている。

   もう一つ、私が困るのは、公衆電話が減ってしまったこと。ポストほどではないが、街角から消えてしまって、中々、見つからないことである。
   携帯電話やスマホを持たずに、家族にだけ連絡できる子供用のお守り携帯しか持っていない私には、公衆電話を探すのに、四苦八苦することがある。
   天然記念物のような時代遅れ者だから、仕方がないとしても、兎角、この世は住み難くなったものである。
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ツワブキが咲き乱れている

2013年10月23日 | わが庭の歳時記
   もう、随分前になるが、京成バラ園で買った小さな斑入りツワブキの鉢苗を、庭に下ろしたのだが、株分けしている間に、庭に広がって、毎年、今頃になると、わが庭を黄色い花で満たしてくれる。
   菊のような花形なのだが、花弁が揃っていなくて歪なので、写真写りは悪いけれど、房咲きで沢山の花を付けるので、ブーケ状になって面白い。
   買った時の鉢花は、葉が5センチくらいの小葉だったのだが、庭に下ろした瞬間、葉が大きく成って、大きいのだと30センチくらい、里芋の葉のようになって広がる。
   

   今、わが庭には、ちらほら咲くバラ以外には、花気がない。
   春には、庭一面に春の草花が咲き、初夏は、バラやプランター植えのトマトが庭を占領するので、秋の草花の苗や球根を植える場所がなかったり、植える時期を失してしまったりして、ついつい、さぼってしまったからである。
   昔は、ダリアやコスモス、菊などを植えていたのだが、暫く、わが庭には、秋の花とは縁がなくなっている。

   菊枝垂桜の蕾一つだけ、緑に色づいたと思ったら、先端に赤い花弁をつけて、芽が育ち始めて来た。
   温かいと、秋に開花する桜も時々あり、ヒマラヤ桜などは、秋に咲くので、何の不思議もないのだが、面白いと思って見ている。
   
   
   万両の実がびっしりとついて、初春の準備を始めている。
   植え場所が日影過ぎたのか、千両の方は、枝がひょうろりと間延びして、今年は、実を付けそうにない。
   椿が、びっしりとしっかりとした実を沢山つけていて、少しずつ、大きく成って来ている。
   この椿は、珍しく葉が斑入りで、越の吹雪と言うのだが、春には、藪椿のような花を咲かせる。
   庭植えなのだが、この椿と黒椿のナイトライダー、それに、ピンクのエレガントなジョリーパーの3株だけは、掘り起こして、鎌倉に持って行って、移植しようと思っている。
   そう考えると、去り行く庭に残して行く花木一本一本が愛おしくて、どうしようか悩んでいるのだが、牡丹と芍薬の何本かは、持って行きたいけれど、どんどん、増えて行くのでダメであろうと思っている。
   
   
   
   
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ソチとリオデジャネイロのオリンピック

2013年10月21日 | 政治・経済・社会
   今朝のBS1 ワールドWaveで、近づくソチとリオデジャネイロのオリンピックについて、現状報告をしていた。
   BRIC'sの台頭で、ロシアやブラジルが脚光を浴びていた時期でもあり、世界中の期待が高まっていた時点での決定であったので、当然の帰結であったのであろうが、リーマンショック以降の長引く世界的な経済不況の影響で、BRIC'sなど新興国の経済状況が悪化して、オリンピックの準備が間に合うのかと、危ぶまれている。
   そのような状況下で2020年のオリンピック会場決定選挙が行われたので、それが幸いして、福島問題以外に、何の心配もない安全確実な東京が選ばれたのであるから、良かれとしよう。


   オリンピック協会から2000億円程度の補助金が出るようだが、最近の夏期オリンピックの開催費用総額一覧だが、下表のとおり、北京以降、一気にコストが増大している。
   北京の場合には、北京そのものでの競技会場などが未整備であった上に、劣悪なインフラ状態であったので、空港や道路など膨大な付帯設備を伴うインフラ投資のために膨れ上がり、ロンドンの場合にも、ドックランド以東のヒンターランドの開発を意図した都市計画実施を伴ったので、一挙にコストが拡大した。
   

   
   
   さて、4か月後に迫ったロシアのソチ・オリンピックだが、あまりにもコストの増大と遅れに痺れを切らしたプーチンが、自ら、会場に乗り込んでハッパを賭けているのだが、突貫工事の連続にも拘わらず、会場周辺は工事の真っ最中。
   問題は、当初予算の4倍の5兆円と言う杜撰ぶりだが、賄賂にも多くが消えたと言う。
   問題は、会場が、チェチェンなど紛争地帯に近く、遅れたインフラ整備と治安維持のための膨大な整備等を見越した会場建設のために、コストが膨大化したと言う要因もある。
   
   


   ブラジルのリオでの夏期オリンピック会場の準備状況だが、これも、経済的な問題もあって、異常に遅れていると言う。
   天然資源は豊かで、世界屈指の農業国で食糧問題は一切問題なく、南米隋一の工業を誇る産業国家で、3拍子も4拍子も揃った恵まれたブラジルが、オリンピック会場を整備する費用にこと欠くなどとは考えられない筈なのだが、そこは、ラテン気質の濃厚な政治腐敗と国家統治の貧困さ故に、世界経済が悪化すると、一気にしわ寄せがきて、政治も経済も暗礁に乗り上げる。
   サッカー王国のブラジルで、ワールド・カップの会場建設にさえ反発して、デモなど考えられないような国民性でありながら、全土に、激しい暴動が展開されたブラジルであるから、オリンピック開催までには、かなりの紆余曲折があるであろう。
   


   リオ・オリンピックで、もっと、心配なのは、治安問題の深刻さであろう。
   リオに近づくと、眼下に、コルコバードの丘に立つ巨大なキリスト像が聳え、その背後の真っ青な海に、こんもりと盛り上がった巨亀が伸びあがったような小島ポン・デ・アスーカが現れて、その後方に、高層ビルが林立したリオの町並を背負った白砂のコパカバーナやイパネマの海岸線が広がり、世界一美しい海岸風景が展開され、もう、これだけで、神様は、ブラジル人であるに違いないと思ってしまう程感激する。
   しかし、この美しいリオの町並の背後の小高い山の斜面には、巨大な貧民窟ファベーラが張り付いている。
   私がブラジルにいた35年くらい前とは大分違って、ビル化しているが、実態は、少しも変わっていないと言うことである。
   


   今朝のHNK BSニュースは、アメリカABCの「PARADISE LOST」と言うタイトルの「リオデジャネイロ 麻薬蔓延の実態」を放映して、このファベーラの路上で、麻薬が堂々と売られている様子や子供が麻薬を吸引する姿、傍若無人の麻薬ギャング団のボスや情け容赦のない、しかし、賄賂に弱いリオの麻薬取締武装隊の実態などを語っていたが、いくら、BRIC'sの雄として脚光を浴びているブラジルも、いまだに、暗黒世界は健在なのである。
   
     

   
   以前に、このブログで、アンドレス・オッペンハイマー著「米州救出」をブックレビューして、
   リオのファベーラなどでは、学校にも行かない数万人の若者たちが居て、多くが8歳から10歳で麻薬を初めて、犯罪者となっても不思議ではなく、両親に会うこともなく、教会やスポーツクラブなどどんな組織にも属さず、路上で生活し、麻薬を消費する犯罪労働者になっている。と言った世界で最も暴力的な地域は、南米だと言うレポートについて書いたことがる。
   中東やアフリカ、アジアの各地では、あっちこっちの紛争地帯で、険悪な暴動や内戦が勃発しているのだが、表面だっては、そんな紛争の起こっていない筈のラテン・アメリカが、実は、最も深刻な政治経済社会の根底に根差した暴力的な病巣を内在した地域であると言う指摘であって、肝に銘じておくべきだと思っている。


   さて、大分話が、あっちこっちに飛んでしまったが、要は、成長著しい筈の新興国は、成熟した先進諸国とは違って、インフラの整備の遅れのみならず、経済情勢を確保するための基本ともなるべき政治制度が未成熟故に、たとえ、それが一過性のスポーツの祭典であるオリンピックを成功裏に実現する為にも、多くのハードルをクリアしなければならないと言うことである。
   BRIC's、BRIC'sと、成長局面のオモテばかりを見て、浮かれていてはならないと言うことでもあろうか。
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東京藝大美術館・・・興福寺仏頭展

2013年10月20日 | 展覧会・展示会
   東金堂旧本尊であった「銅造仏頭」を中心として、興福寺東金堂ゆかりの国宝や重要文化財などが集められて、東京藝大美術館で、「興福寺仏頭展」が開かれている。
   興福寺へは、随分出かけており、古い展示場も、素晴らしく新装なった展示場も何度も訪れて国宝館の宝物には、かなりお馴染みなので、今回、私が見たかったのは、まだ、拝観したことのなかった東金堂に安置されている国宝木造十二神将立像であった。
   国宝に指定されている十二神将は、広隆寺と新薬師寺、それに、興福寺のこの木造と板彫の4点だけで、まだ、見る機会がなかったのは、これだけだったのである。

   この展示会のメインは、飛鳥の山田寺から運びこまれたと言う巨大な白鳳時代の仏像で、東金堂の本尊薬師如来として安置されていた仏像の現仏頭なのだが、平安時代の作で、かつてはこの東金堂の薬師如来像の台座の周囲に配されていたともいわれている「板彫十二神将像」と、本尊・薬師如来の眷属従者として、その守護神の役割を果たしてきた、現在も東金堂に安置されている鎌倉時代作の国宝「木造十二神将立像」が集められていて壮観である。
   仏頭が15世紀初頭の火災で本尊の座を新しい薬師如来に譲ってから、これらの素晴らしい国宝仏が、今日までそろって並ぶことはなく、今回の展覧会での展示が、実に約600年ぶりの再会の場となったと言うことで、正に、記念すべき展示会なのであろう。

   さて、この本尊薬師如来像が、どのようなお姿であったのかは分からないようだが、同じように神秘的な白鳳の微笑をたたえていて良く似たお顔をした、東京・調布の深大寺の白鳳時代の仏像である重要文化財「銅造釈迦如来倚像」を特別出陳して、想像させているのが面白い。
   パルテノンのアテナイ女神象が、どんな姿で、堂内を圧倒していたのか、美術館には小さなアテナイ像が展示されてはいるのだが、実際には、迫力も全く違うので、想像できないのとよく似た雰囲気ではある。

   さて、お目当ての国宝「木造十二神将像」12体だが、仏頭の左右に、6体ずつ一列縦隊に陳列されていて、正に、壮観である。
   鎌倉時代作の、像高113.0~126.6cm の桧材、寄木造、彩色、彫眼、の木像で、私の干支である辰の波夷羅(はいら)大将像などには、まだ、腰に綺麗な金箔、腕の下には赤い彩色が残っていて、創建当時の雄姿が慮れて感動的である。
   右足を前に踏み出して、右手で腰に刺した剣を正に抜いて敵を討たんとする凄い形相は圧倒的な迫力で、像の周りを何度もまわりながら見続けていた。

   この十二神将像は、夫々の姿をしていて、夫々に物語があるのだが、もう一つ戦闘態勢に入った像は、 戌の伐折羅(ばさら)大将像で、前かがみになって、前に突き出した左手で、敵を押さえつけるような構えで、右手に高く振り上げた剣で、一気に刺し貫こうとする、これも、凄まじい形相の神将像で、仏師たちの力量の素晴らしさを感じて感動的である。
   これも、訪れては感動しきりだった新薬師寺の、右手を腰辺に下げて剣を構えた凄い形相の 伐折羅大将(迷企羅大将)像と甲乙付け難い作品だと思って見ていた。

   それまで、京都の仏師に圧倒されていた世界を、平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など南都の仏教寺院を焼討にした結果、奈良の慶派の仏師たちの活躍の場となり、このような凄い仏像が彫刻されたのであろう。
   これが、奈良から鎌倉に移って、素晴らしい鎌倉時代の彫像が生まれたのであろうが、正に、エポックメイキングな時代の文化遺産と言うべきである。

   ギリシャやローマ、あるいは、欧米のTOP博物館や美術館で、随分色々な彫刻を見て来たが、私は、力量においても精神性においても、決して、これらの素晴らしい国宝級の日本の彫刻は、一歩も引けを取っていないと思っている。

   人ごみの博物館や美術館での特別展示は好きではないので、どうしても、閉館間際に会場に入って、閉館ぎりぎりまで観覧するのだが、この日も、ほんの小一時間足らずだったためもあって、興味深いビデオ映像による説明もあったようだが、時間が取れなかった。
   しかし、奈良の寺院へ直接行って、実際に安置されている仏像をありのままに拝観するのが本来の姿だとは思うが、このように、十分な照明や空間に恵まれた展示場で、360度どこからでも、左右裏表鑑賞させて頂けるのも、非常に有難いことである。

   
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京成バラ園・・・小山内 健バラ・ガイド・ツアー

2013年10月18日 | ガーデニング
   京成バラ園の秋バラも、いよいよ、最盛期を迎えて、オータムフェアが始まった。
   ”日本のバラ界をリードする著名なロザリアン(バラ愛好家)と共にローズガーデンを巡るガイドツアー”と銘打った「ロザリアンのガイドツアー 」の第一日目に、京阪園芸の小山内 健さんが登場し、園内を回りながら、見所や、観賞方法について、ローズガーデンを案内した。
   本人は標準語だと言うのだが、関西人なら分かる、あの独特の大阪弁なまりのユーモアを交えた語り口で、約一時間、綺麗なバラをはしごしながら園内を回り、薀蓄を傾けながらバラについて語り続けた。
   ツアーを主催するのは、京成バラ園のチーフアドバイザーの村上敏氏で、関西人小山内と関東人村上の東西文化の差を感じさせる掛け合いが、非常に含蓄深くて面白かった。

   この日から、バラ園では、~ドイツウイーク~を開催していて、ドイツの世界的に有名なバラブランド「コルデス」と「タンタウ」に焦点を当てて紹介しているので、今回のバラ・ツアーも、ドイツバラ中心となり、それに、この京成バラ園で作出された バラなどに
ついても話をした。
   最初に紹介したのは、コルデス作出の新しいバラ・ジークフリート。
   最近では、イングリッシュやフレンチやドイチェやと言っても区別が難しくなってきたが、ドイツのバラは、花も葉もテカテカ光っていて、キメ細かくて水分を弾くので、風雨に強いのだと言って、美人のきめ細かい肌にも話が及んだ。
   バラは、25度以下になると花にはよく、22度、20度と下がるほど色鮮やかになり、18度くらいになると、最も美しく輝き、これから、どんどん、色鮮やかに美しくなるのだと言う。
   このジークフリートは、ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の英雄で、ワーグナーの舞台祝典劇『ニーベルングの指環』第2夜『ジークフリート』のタイトルロール。
   まだ、真赤な花が数輪しか咲いていなかったが、京成バラ園の説明では、
   マットな質感の濃い赤の丸い花弁が、抱え咲きからロゼット咲きになり、1枝1~5輪の房となって咲きます。花保ちが良く、濃赤の花が株に長くとどまると、ピンク味がかってきます。樹形は半直立性で、まとまりの良い木になります。葉は明るい緑の形のよい美しい照り葉で、黒星病・うどん粉病に特に強いです。
   
   
   

   今回、小山内さんは、芳香バラについても、そのバラの傍に立ち止まって薀蓄を傾け、ファンたちに、その香りを楽しませていたが、その傍らで、村上氏が、ポケットから香水瓶を取り出して、資生堂と一緒に開発したこのバラの香水で、ローズショップで売っているのでよろしくと言って、振りまいていた。
   香水には興味もないし、メモを取らなかったので、どんな花だったか忘れてしまったが、確かに、傍に行くと、一気にバラの甘い芳香が広がって来たのにはびっくりした。
   


   小山内さんは、半世紀以上も前にコルデスで作出された、白い花が咲き乱れるアイスバーグの前に立っても、色々な名花の親木になっているこのバラの話に力を籠めて語った。
   花の70%近くは、白と黄色だと何かの本で読んだことがあるのだが、私は、何故か、白い花よりは、色のついている花の方に興味がある。
   

   ツアーの最後に、二人は、著書の並べられたテーブルに座って、サイン会を始めた。
    大半は熱心な女性ファンだったが、私も、ミーハーの仲間に入って、友にと思って、二冊買ってサインを貰った。
   小山内さんと大阪弁の話をして、懐かしい故郷を思い出していた。
   二人に、先日、菩提寺に引き取って貰ったバラの鉢植えを、何時、地植えしたら良いかと伺ったら、もっと寒くなってからで、11月下旬にしたら良いとアドバイスを貰った。
   午後にも、小山内さんは、ファンとの相談会に出るとのことだったが、国立能楽堂の夜の定期公演があるので、残念ながら諦めざるを得なかった。
   

   この日のバラ園での花のスナップ写真を添付して置きたい。
   千葉も、先日の台風で、強風と豪雨に見舞われたのだが、バラは、かなり傷んではいたが、綺麗な花を咲かせていて、生命力の強さと美しさを誇っているようであった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   


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国家はなぜ衰退するのか (1)政治制度の貧困

2013年10月17日 | 政治・経済・社会
   歴代のノーベル経済学賞学者が激賞すると言う触れ込みの、ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」と言う本を読み始めたのだが、冒頭から、非常に興味深い。

   ゲイリー・S・ベッカーの指摘が要を得ているのだが、著者の主張は、
   国家が貧困を免れるのは、適切な経済制度、特に私有財産と競争が保証されている場合に限られる。国家が正しい制度を発展させる可能性が高まるのは、開かれた多元的な政治体制が存在するときであり、そうした制度に必要なのは、公職につくため競争、幅広い有権者、新たな政治指導者が生まれやすい環境である。だと言う。
   更に、ベッカーは、政治制度と経済制度の密接な関連は、著者の貢献の核心であり、経済学と政治経済学における重要問題の一つに関する研究を大いに活気づけると指摘している。

   また、ピーター・ダイアモンドが、良き政治体制が発足し、好循環のスパイラルに入るケースがある一方で、悪しき政治体制が悪循環のスパイラルの中で持続するケースもあるが、包括的な経済制度に支えられた包括的な政治制度は持続的な繁栄の鍵である。と指摘している。

   著者は、序文で、アラブの春で勃発したエジプトのタハリール広場でのエジプト人たちに言及して、大半の学者や評論家の分析よりも、自分たちを抑圧してきた無能で腐敗した国家や、自分たちの才能、野心、創意、受けられる教育を活用できない社会を糾弾して立ち上がった彼らの方が正しかったと指摘し、
   エジプトが貧しいのは、限られたエリートたちが政治権力を一手に独占掌握して、圧倒的多数の国民を犠牲にして、自己のみの利益を追求してきたからだと説く。
   貧しい国が何故貧しいのか、シエラレオネであれ、ジンバブエであれ、貧しい国が貧しいのは、エジプトと同じであり、アメリカが裕福になったのは、権力を握っていたエリートを国民が打倒し、政治権力がはるかに広く分散され、政府が国民に説明責任を負って敏感に反応し、国民の大部分が経済的機会を利用できるような現在のような社会を作ったからであると言う。

   著者は、第1章の冒頭で、アメリカとメキシコの国境で分断されたノガレスの街について、フェンスで仕切られた北(米国アリゾナ州)と南(メキシコ国ソノアラ州)とで、如何に景観や実生活の格差が大きすぎるかについて言及し、何故、アメリカが豊かで、メキシコが貧しいのかについて、イギリス人とスペイン人の植民事情から説き起こして、イノベーション論まで展開していて非常に面白い。
   かれこれ、40年ほど前になるが、TEEで、スイスからオーストリアに入った時に、途端に、車窓からの景観が貧しくなった時のことを思い出した。

   スペインの征服者たちは、植民と同時に、インディオ達の豊かな帝国を略奪殺戮の限りを尽くして破壊して金銀財宝を本国に持ち去り、植民地形成後は、原住民たちを分け合って奴隷化したエンコミエンダ制度を確立し、更に、ミタ、レパルティメント、トラジンと言った圧政搾取システムを網の目のように張り巡らせて、先住民の生活水準を有無を言わせず最低水準に引き下げて、それを越えた収益をすべてスペイン人が吸い上げると言った社会制度を確立して、維持し続けて来たのである。

   これに引き換えて、遅ればせながら新大陸に乗り込んできたイギリス人達には、アメリカ大陸の好ましい部分、すなわち、搾取すべき原住民が沢山いて金銀財宝のある場所は、既に占領されてしまっていて、貧しい北米大陸が残っていただけであり、自力開発して、自分たちの力だけで生き抜く以外には道はなく、寒さと飢えに苦しむ苦難の運命の連続であった。
   「働かざる者食うべからず」、そんな過酷な環境への挑戦が、アメリカの民主主義と政治経済社会制度を育み、今日のアメリカの礎を築きあげることとなった。
   正に、豊かな揚子江流域ではなく、厳しい自然環境の黄河流域で中国文化が花開いたように、アーノルド・トインビーの「挑戦と応戦」による文明発展論を地で行ったと言うことである。

  
   このラテンアメリカにおいて、スペイン人やポルトガル人が残した一握りのエリートが権力を握った恣意的で後進的な政治経済社会制度や搾取構造が、その後、ずっと生き続けて、いまだに後遺症として残っており、深刻な格差と非民主的な社会制度が、国家の発展を阻害し続けている。
  BRIC'sの雄として期待されている、ブラジルの政治経済社会の後進性にも、この辺の事情が色濃く影響しているのであろう。
  何度も、このブログで言及しているのだが、3拍子も4拍子もそろった神はブラジル人であるに違いない言われるほど恵まれたブラジルが、政治の後進性ゆえに、いまだに、新興国に止まっていて、未来の国と言い続けられるのも、ポルトガルの植民政策の柵を背負い続けているからであろう。
   ガマやコロンブスやマゼランたちが新世界を拓いた大航海時代は、一体なんだったのか、考え直す必要があるのかも知れないと思っている。

   グローバリゼーションの発展によって、国家経済はどんどん成長はして行くものの、政治制度の民主化は、その発展について行けず、経済と政治のアンバランスの拡大が、益々、混乱と紛争を引き起こす。
   ICT革命とグローバリゼーションの進展によって、経済成長は、促進されても、制度構築には血のにじむような努力と持続的な蓄積が必要な政治改革は、はるかに、難しく、遅れた国が、民主主義的な社会に脱皮するのは、至難の業なのであろう。
   そのことは、制度が変わった筈のイラクやアフガニスタン、アラブ諸国、そして、経済成長しつつあるラテン・アメリカ、中国、ロシアなどの社会の非民主性が、如実に現実を証明していると言えないであろうか。
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ソマリア難民:命懸けの海外脱出

2013年10月15日 | 政治・経済・社会
   最近、イタリア沖で、アフリカ難民の乗ったボートが転覆して多くの死者が出ていると言う報道が続いている。
   今朝のNHK BS1のドイツZDFが、ソマリア難民の現状を命懸けの海外脱出として放送していた。
   ソマリアは、世界でも最も危険な無政府状態の国で、ペルシャ湾の海賊で有名だが、戦争、テロ、飢餓に苦しむ国民には、生きる為には、国境を越える以外にないと言う。
   隣国ケニアには、既に、何十万人と言うソマリア人難民が、ソマリアとの国境に近いダダーブ難民キャンプに収容されているのだが、今回は、海を渡ってヨーロッパに移住しようと言う難民の遭難である。

   ソマリアにも、移民仲介業者があって、履歴を詐称して偽造パスポートを作って、飛行機でヨーロッパに渡らせて、難民を扱う事務所に行かせて、居ても居なくても、妻や母や子供を呼び寄せたいと申請をさせて、どんどん、移民を送り込むのだと言うのだが、最低でも、12000ユーロ(約160万円)は掛かると言うから、殆どの難民は利用できない。  

   結局、貧しい難民たちは、イタリアを目指すためには、紅海を渡ってサウジアラビアに行くか、北アフリカ経由で地中海に出るかしかない。
   希望のなくなった国に見切りをつけて、誰か一人でもヨーロッパに着けば良いと考えていて、家族全員でバスに乗って港に行き、失うものは自分の命以外は何もないので、ソマリアの船であろうと地中海のボートであろうと、ヨーロッパに行ける船なら何でも良いのだと、正に命懸けの逃避行である。
   

   生まれてこの方、戦乱とテロ、無政府状態で育って、平和も安穏な生活も全く知らない若者にとっては、希望はヨーロッパにしかないのだと言う。
   ボートが沈もうと、遭難しようとも、一か八か、ソマリアにいても生きて行くすべのないソマリア人にとっては、夢を持てる方が、それだけ幸せだと言うことであろうか。

   それに、呼応するかのように、ヨーロッパ各地で、移民排斥運動が激しさを加えている。
   先日、このブログで、ギリシャで、移民排斥の極右政党「黄金の夜明け」が台頭して危機感を募らせていることを書いたが、フランスでも、マリーヌ・ル・ペン率いる極右政党国民戦線が、益々勢いをつけており、更に、イギリス始め、他のEU諸国でも、移民排斥をスローガンとした極右政党が動き始めたと報道されている。

   同じ今朝のこのBSニュースで、ロシアの移民排斥暴動をフランス2が報道していた。
   何ものかにロシア人の青年が殺されたのを発端にして、犯人不明のまま、モスクワの南部の下町で、ロシア人が、カフカスや中央アジアからの移民の商店や車などを襲って焼き討ち暴動を起こした。
   実際には、ロシア人愛国者たちの移民排斥運動と騒乱を結びつけた国粋主義的なプロパガンダであったにも拘わらず、逆に、ロシア当局は、多くの被害者である移民たちを拘束して大掛かりな取り調べを実施した。
   元々、プーチン・ロシアは、徹底したロシア主義であるから当然としても、ここでも、ナショナリズムが激しく蠢いているのである。
   

   グローバリゼーションの進展で、世界は一つ、フラットになったと言うのだが、益々、ハンチントンの文明の衝突が激しさを増す一方である、どう言うことであろうか。
   異民族が同居している国家などは、絶えず一触即発の民族人種間の騒乱や暴動が勃発する心配があるのだろう。
   アメリカなどのように、民主主義が発達していて民度の高い国においては、国家を分断したり極端な政治的混乱を起こすことは少ないであろうが、政治経済社会制度が、まだ、未熟なロシアや中国などにおいては、もっともっと危険度・危機度が高いかも知れない。
   しかし、ヨーロッパのように、どんどん、貧しいアフリカやアジアの難民が押し寄せて来るにも拘わらず、経済の悪化で国民に十分な職を与え得ないような国家の安寧を欠く逼迫状態に陥ると、国家の安全や治安維持に大変な齟齬を来すことになり、人道主義だけでは解決不可能となり、危険な国家主義的な思想を醸成することになる。

   グローバリゼーションによるフラット化と言うのは、豊かな文明国が、貧しくて遅れている発展途上国の貧困を吸収して同化して行こうとする、激しく国家社会を激動の渦に巻き込む、地球規模での格差縮小ムーブメントかも知れないと思い始めている。
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麻生和子著「父 吉田茂」

2013年10月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   これは、吉田茂元総理の三女で、同じく元総理の麻生太郎と寛仁親王妃信子の母である麻生和子が、ある意味では、波乱万丈の世界を父親である吉田茂との思い出を通して語っている物語で、日本にとって最も重要な時期での日本歴史の根幹をなす史実に触れているので、非常に興味深くて面白い本である。
   偶々、神田神保町の古書店で綺麗な古書を見つけて読んだのだが、昨年、NHKで、ドラマ「負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜 」が放映されて、その後、麻生総理の「祖父・吉田茂を想う」が載った文庫本で再販されたようだけれど、それではなくて、20年前に出版された単行本の方である。

   あのドラマと比べても、あれ程、吉田茂にとって重要な存在であった白洲次郎については一言も、そして、兄の著名な英文学者吉田健一についても殆ど言及がないなど、多少、恣意的な記述ではないかとは気になったが、吉田総理の秘書兼ファーストレィディとして、最も重要な立場にあった娘が綴った父親の記であり、それも、日本の命運が一人の人物にかかっていた、その人物について書いた記録であるから、極めて、貴重な本であることには間違いなく、優しい語り口の文章を楽しみながら読ませて貰った。

   お酒は、五つか六つくらいの時から父と飲んでいて、「女はいくら飲んでもいいけれど、酔っ払うことは絶対に許さない」と言われていたのだが、テムズ川でのオックスブリッジ対抗のボートレースで、兄の卒業したケンブリッジが勝ったので、友人や同校の連中との祝賀パーティで散々飲んで、酔っ払った勢い余って、イブニングドレスを着たまま、ロンドン塔横のタワーブリッジに一人上ってゆらゆら踊っているところを、お巡りさんに見つかって正気に戻ったと言う。
   傑作なのは、名前を聞かれたのだが、日本人だと知られては大変だと思って、とっさに、日頃日本に対する非難ばかりしていて腹立たしく思っていた中国大使の娘スーザンの名前を言って仕返ししたと言う武勇伝振り。
  こんな桁外れの御嬢さんの書いた「父 吉田茂」だから、面白くない筈がないのである。

   去年、北康利の「吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし」を読んで、ブックレビューを書いたが、私が、吉田に敬服するのは、この独立心なくして国家なしとする強い信念で国民を率いて、敗戦国日本を、一気に独立へと導き、そして、アメリカの強力な再軍備強要に対して、平和憲法を盾にして、アメリカ依存の軽武装と引き換えに、経済復興を最優先して、奇跡の日本再建を実現した「吉田ドクトリン」の遂行である。
   このあたりの経緯などは、この本の、再軍備を迫ったダレスの訪日、単独講和か全面講和か、サンフランシスコ講和会議などのところで、興味深い逸話などにも触れながら、語られていて興味深い。
   
   再軍備などを考えるのは、愚の骨頂だと考えていた吉田の頭には、軍備を持つならアメリカに匹敵しなくては意味がないと言う気持ちがあったと言うのが面白い。
   結局、ダレスとの交渉は物別れとなり、マッカーサーの前で、二人が持論を展開し、マッカーサーが吉田に共感したので、ダレスが再軍備論を取り下げたと言う。

   サンフランシスコのオペラハウスでの講和会議で面白いのは、調印式での日本代表の受諾演説は、日本語でも良いと言われたものの、準備時間がなく、7~8人で手分けして書き換えたものを繋ぎ合わせたので、トイレットペーパー状の巻紙となり、その原稿を、歴史的な感激ものの演説なのに、吉田は、どうせ、日本語など誰も分からないのだから、さっさと済ませるに限ると、大磯に電話するような調子で読んだと言う。

   さて、この本で、著者は、随所で、天皇陛下とマッカーサー、そして、吉田茂とマッカーサー、更に、天皇陛下と吉田茂との関係を、好意的に語っているのだが、この良好な関係が、あの終戦直後の日本を、比較的望ましい方向に導くのに、貢献したと言う気がしている。
   NHKのドラマでは、マッカーサーと交渉に臨む吉田茂や白洲次郎が、かなり、しっかりした口調で、日本の国益を意図した発言や持論を展開していたのだが、これは、欧米の政治経済社会環境にも慣れて自由主義民主主義的な思想を十分に熟知していたから出来たことであって、海外を知らない国際感覚に欠けた政治家などが、通訳を介して渡り合っていては、到底出来ない話であった筈である。

   吉田茂の「回想十年」4巻本を読んだのは、半世紀以上も前のこと。
   まだ、ラジオの時代であったので、微かに、吉田茂総理の甲高い国会答弁などの演説口調やバカ野郎解散のニュース映像を覚えているのだが、日本も、敗戦のどん底から、大変な激動の時代を、良くここまで、生きて来たなあと感慨深く思いながらも、ほんの、昨日のことのように思えるのが不思議である。
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国立能楽堂・・・「鵜羽」「実盛」

2013年10月13日 | 能・狂言
   今月の最初の能は、世阿弥作の可能性の高いと言われている「白楽天」で、先月の「楊貴妃」との関連が興味深く、漢詩の世界では、評価の高い杜甫や李白とは違って、平易暢達を重んじる詩風が、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで好まれて愛唱されたと言うから、能などの世界では、やはり、重宝されるのも当然かも知れない。

   今月は、世阿弥生誕650年と言うことで、その次の能も、世阿弥作の「鵜羽」で、古事記や日本書紀の神話の世界の話。
   海彦、山彦の話では知っているのだが、その山幸彦が、釣針を魚に取られて、竜宮までさがしに行き、そこで、豊玉姫と契りを交わして懐妊したので、宇土の仮小屋で、御子を出産すると言う話になっている。
   ところが、仮殿を鵜の羽で葺いている途中、総てを葺き終わらないうちに、御子が生まれたので、名を、鵜羽葺不合尊と名づけたと言うのである。
   後シテで豊玉姫が登場して、山幸彦が、竜宮で、豊玉姫の父龍王から貰った満珠干珠の玉を、海に置くと、一瞬にして潮の満ち干が現出する奇瑞を現す。
   恵心僧都に、宝珠を捧げて仏法の真理を求めて、豊玉姫は海に消えて行く。

   興味深いのは、この能「鵜羽」を音阿弥が舞っている最中、甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入して、赤松氏の武士安積行秀が、将軍義教を暗殺したと言う話が残っているので、これを気にした将軍徳川綱吉以降、上演されなくなり、やっと、平成3年に、「復曲能」として上演されたと言うことである。
   世阿弥を疎んじて徹底的に干して、遂に、佐渡へ島流しにし、その後継者であった息子の元雅を暗殺させたとされる義教が、世阿弥の能「鵜羽」鑑賞中に殺されたと言う史実の皮肉と言うかアイロニーが面白い。

   
   シテ(主役)を演じるのは、人間国宝の片山幽雪の長男観世流の十世片山九郎右衛門で、見どころはと聞かれて、
   豊玉姫となる後場。「干珠満珠によって海の景色が劇的に変わるという場面は、興奮してもらえるように思う。神話の世界を現出させるのが狙い」。速いテンポの舞で、「良い意味で軽く、すらりと見られる曲に」と構想を練っている。と応えている。
   かっては、終幕に天女の舞があったようだが、今回は、龍女の舞として「黄鐘早舞」、宝珠の奇瑞を召せる場で「イロエ掛リ急ノ舞」による演出で、早いテンポのリズム感豊かな囃子に乗った舞が心地よかった。
   九郎右衛門は、スーパー能「世阿弥」では、元雅を舞い、颯爽とした舞台を務めていて清々しかった。

   さて、先日の能は、「実盛」で、世阿弥の平家物語を題材にした世阿弥の6作の内の一つで、修羅能。
   義経を扱った「八島」は別として、「敦盛」「忠度」「清経」は、平家の公達だが、この「実盛」と「頼政」は、必ずしも平家オンリーの人でなかったのだが、勇猛果敢な武人であったとともに、風雅を愛する文化人でもあり、70歳以上の年老いてからの死を、世阿弥が描いており、非常に興味深い。

   実盛、すなわち、斉藤別当実盛は、元々、源義朝の家来であり、今回、篠原の戦いで、仇となる義仲を、幼い頃に助けると言う言う過去を持った平家の武将である。
   この実盛は、富士川の合戦で、維盛から坂東武者について聞かれて、勇猛果敢で気質の恐ろしさを吹聴し過ぎて、平家軍が水鳥の羽音を聞いて敗走した元凶などと濡れ衣を着せられているのだが、二子斉藤五斉藤六を残して維盛に仕えさせ、六代を守ったと言われている忠義者である。
   平家物語に忠実であれと説いていた世阿弥であるから、この「実盛」は、殆ど、そっくり、平家物語を踏襲しており、死後200年後に、篠原で、実盛の幽霊が出ると言う事件があって、その逸話をテーマにして、成仏を願う実盛が、戦いの経緯と、義仲と対峙できずに、手塚太郎に討たれた無念を吐露しながら、遊行上人に、更なる弔いを願って消えて行くと言う話で終わる能の曲に仕立てている。
   この物語は、平家がまだ勢力を誇っていた頃の話であり、世阿弥の能としては、平家物語でも、まだ大分前の部分の挿話で、源平の戦いではないのが面白い。

   興味深いのは、平家物語の実盛の最期をそっくりそのまま、能に取り込んだ描写である。
   討たれた首を見て、義仲は、実盛だと判断するのだが、老人の筈ながら鬢が黒々しているので不思議に思って、樋口次郎を呼んで尋ねると、はらはらと涙を流して、生前、実盛が、60を越えた身で先陣を争うのも大人げないし、老武者だと侮られるにも悔しいから鬢髭を墨で染めて出陣すると言っていたと言う話を披露する。
   樋口たちが、首を池で洗うと、鬢髭の墨が落ちて白髪が現れて、見ていた皆は感涙する。
   もう一つは、家来を一人も持たずに錦の直垂を身に着けた大将風の井出達が、手塚などには不思議だったのだが、実盛が、自分の故郷である越前での死を覚悟した戦いで、故郷に錦を飾ると言う故事に習って、直々に平宗盛に頼んで、赤地の錦の直垂を所望して貰ったのを身に着けていたのである。
   若い時には、勇者として名を馳せた実盛の、老武者ながらも名を惜しむ猛きもののふの心意気を、存分に示したこの能「実盛」の最期を、シテ塩津哲生が、実に感動的に舞い続ける。

   ワキ/遊行上人は工藤和哉、冒頭から登場するアイ/里人は石田幸雄、後見に中村邦生、地謡に人間国宝友枝昭世。 素晴らしい舞台であった。
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わが庭の歳時記・・・赤とんぼ

2013年10月12日 | わが庭の歳時記
   
   夕焼小焼の、赤とんぼ
   負われて見たのは、いつの日か

   山の畑の、桑の実を
   小籠に摘んだは、まぼろしか

   三木露風の作詞、山田耕筰の作曲のこの歌「赤とんぼ」は、無性に郷愁を誘い、懐かしい子供時代の故郷を思い出させる。
   露風が、一世紀近く前に、故郷である兵庫県の龍野で過ごした子供の頃の思い出を綴った詩だと言うことだが、西と東に離れているが、私も子供時代を兵庫県の宝塚で送って来たので、それ程、印象は違っていないかも知れない。
   しかし、私にとっての宝塚、そして、阪神間には、私の青春のすべてが充満していて、思い出の数々を反芻するだけでも実に懐かしい。
   この関東へ移って来てからも、宝塚の田舎でもお馴染みの沢山の昆虫や草花を見るのだが、何故か、赤とんぼだけは格別で、マドンナへのような強烈な思いが、走馬灯のように駆け巡ってくるのである。

   今では、殆ど都市化して鬱蒼としていた緑の木々も田圃もなくなってしまっているが、私の子供の頃の宝塚の田舎は、見渡す限りの田園地帯で、全く自然に包まれた、この露風の赤とんぼの世界であった。
   フナやナマズを掬いに小川に飛び込んで泥まみれになり、モズなどの小鳥の巣を追っ駆けて野山を駆け回ったり、夏の夜には、満天の星空を仰ぎながら蛍狩りに出かけたり、勉強などと言う無粋な世界に全く縁がなく、日がとっぷりと暮れて真っ暗になるまで、遊び呆けていた。
   赤とんぼが、真赤な夕日を浴びて、中空を乱舞する光景を、どれほど、畑の中で、友とくんずほぐれつしながら、見上げたことか。

   今朝、早く庭に出てみると、菊枝垂桜の枝先に、真赤な赤とんぼが止まっていた。
   先日、庭で見かけたとんぼは、少し、尻尾が赤くなりかけていたものの、まだ、全体に黒っぽい感じだったが、このとんぼは、眼もそうだが、全身真赤な赤とんぼである。
   鉢植えにして、鎌倉の新居に持って行こうと思っている菊枝垂桜の枝先に止まったので、お別れの挨拶に来てくれたのかも知れない。
   
   
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国立劇場:十月歌舞伎・・・「一谷嫩軍記」「春興鏡獅子」

2013年10月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の歌舞伎の「一谷嫩軍記」は、「陣門」「組打」「熊谷陣屋」である。
   主題は、平家物語を題材にしているので、熊谷直実が一の谷で、平家の無官の大夫敦盛を討つことなのだが、この歌舞伎では、実は、敦盛は、後白河法皇の落胤と言う設定で、義経はこれを知り、その命を助けたいと考えて、直実に、実子小次郎をその身代りに立てろとの意を込めた「一枝を伐れば一指を剪るべし」云々の制札を熊谷に手渡したので、熊谷はその義経の意向に従って引き起こされた悲劇として脚色されている。
   冒頭の一谷の平家の陣所に討ち行って、手傷を負ったと称して連れ去ったのは小次郎ではなく敦盛であり(すなわち、この段階で、敦盛と小次郎のすり替わりが成立している)、須磨の浦で熊谷と戦って首を討たれたのはじつは小次郎だったと言う舞台設定である。

   この3場では、その設定で芝居が進行しているのだが、その筋書通りだとすると、どうしても芝居に無理が生じるのが、「組打」の場で、海上での組打はすらりと行っても、最後に、敦盛の身替りに小次郎の首を討つ段階では、あくまで、小次郎の対応は、平家物語の敦盛の受答えであって、熊谷が討つのは敦盛と言うことになっていて、リアリスティックにドラマを考えれば、全く、辻褄が合わないのである。
   芝居としては、冒頭、朱色の母衣をなびかせた白馬に乗る敦盛を、紫の母衣の黒い馬に乗った熊谷が後を追い、遠洋上では、遠見の子役が馬の首と尻尾のついた縫い包みをつけて戦う様子など、見せるだけのスペクタクル・シーンだが、陸へ上がってから、熊谷が覚悟を決めた敦盛(実は小次郎)の首を討つ場面では、正に、敦盛であるので、この「組打」の場は、あくまで、史実通りに演じることとして、次の熊谷陣屋の場で、どんでん返しのドラマチックな演出を際立たせようとしたのであろう。


   そう言う視点から、幸四郎・熊谷直実の芝居を観ておれば、その心の軌跡が痛い程、胸に迫って感動的である。
   昔、歌舞伎初歩の頃には、この幸四郎が、敦盛を討つシーンで、何故、こんなに、逡巡して苦悶の表情を続けるのか、くどい様に思ったのだが、あくまで殺すのは我が子小次郎だとして演じているのなら、全く、話は別なのである。


   幸四郎は、殺さざるを得ないのは、我が子小次郎であるから、いざ首を切ろうとすれば逡巡し、悩み苦しみ切先が鈍るのは当たり前で、平山(錦吾)に「敵の武将を逃がすのは二心があるからだ」と叫ばれて、止む無く熊谷は、敦盛、すなわち、わが子小次郎の首を打ち落とすのだが、勝鬨を上げても断腸の悲痛。
   次の「熊谷陣屋」の幕切れで、熊谷が、「十六年は一昔、夢だ夢だ」と涙ながらにわが子の短かかった人生を嘆き、世の無常を悟って、花道を去って行くシーンが有名だが、
   私は、大義の前には、わが子の命さえも犠牲にせざるを得ない武士の社会の理不尽さ、戦の世の無常と人生の儚さを糾弾し、生きるとは一体どう言うことなのかを、聴衆に、強烈にアピールしているのは、この絵のように美しいシーンが続く、この組打の場なのだと思っている。
   その思いを、真正面から真剣勝負で、芝居にぶっつけて観客に叩きつけているのが、幸四郎の役者魂!だと言う気がしているのである。
   その意味でも、非常に格調高く貴公子然とした優雅さと気品を秘めながら(小次郎ではなく)敦盛を演じ続けた染五郎の役者としての力量も大したものである。
   それに、役者を越えて、実の親子だと言う阿吽の呼吸、命の叫びが、芸に奥深さを増していて、感動的である。


   平家物語には、第八九句 一の谷で、敦盛最後の状況が情感豊かに描かれている。
   「左右の膝にて敵の兜の袖をムズと押さえて、「首をかかん」と兜を取って押しのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄漿つけたり」
   助けたい一心で逃げろと言うが、急ぎ首を取れ、と聞き入れない。
   見方の軍勢が近づいて来たので仕方なく首を掻き切る。
   「御首つつまんと、鎧直垂を解いて見れば、錦の袋に入れたる笛を、引き合わせに差されたり。・・・「いとほしや。今朝、城のうちにて管弦い給いしは、この君にてましましける・・・」

   この「組打」の最後のシーンで、敦盛が、自分の遺品を嘆き悲しむ父母に届けてくれと言う台詞があるが、
   平家物語では、その後、熊谷が発心して、牒状に添えて敦盛の首と笛などの遺品を、沖の御船の父・修理大夫経盛に送り届けており、経盛も丁重な返事を書いて応えている。

   歌舞伎も文楽も、随分、多くの機会を得て、「一谷嫩軍記」を、何時も感激しながら楽しませて貰っていて、このブログでも、その都度、駄文を重ねてきたので、今回は、これまでとしたい。

   最後の」「春興鏡獅子」は、絵画の連続スライドを観ているような美しい舞台で、染五郎の弥生と獅子の精は圧巻で、胡蝶の金太郎と團子が実に可愛くて初々しくて良い。
   前の松緑が、染五郎を見て、やっと、高麗屋にも、弥生が踊れる後継者が生まれたなアと言ったとか、幸四郎が何かの本に書いていたが、正に、染五郎は、万能マルチタレントの稀有な歌舞伎役者である。
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