熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

團菊祭五月大歌舞伎・・・「三人吉三」「時今也桔梗旗揚」ほか

2016年05月31日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月も、それなりに劇場に通って、観劇を楽しんできた。
   このブログで、観劇について書いたのは、文楽2回と立川流落語会と能の舞台を一回、ウィーン・フォルクスオーパーの「こうもり」だけで、今日の「能楽祭」を含めて一番多いのは能狂言だが、ほかに、歌舞伎へも行っている。

   歌舞伎は、恒例の團菊祭で、團十郎家と菊五郎家との合同歌舞伎で、今月は、夜の部しか見ていない。
   演目は、見取りで、勢獅子音羽花籠、三人吉三巴白浪、時今也桔梗旗揚、男女道成寺。
   團十郎が亡くなってからは、何となく寂しくなってしまって、今回は、吉右衛門が登場したのだが、菊之助の長男寺嶋和史、すなわち、外孫が初お目見えしたので、菊五郎と、「勢獅子」に、チョコっとご祝儀出演しただけで、世代替わりか、後の舞台は、昔の3助、菊之助、海老蔵、松緑など若手主体の歌舞伎公演であった。

   三人吉三では、当然の配役で、菊之助のお嬢吉三、海老蔵のお坊吉三、松緑の和尚吉三。
   考えられる現在の最高の配役だと思われ、今回は、冒頭の「大川端の場」。
   客が落とした百両を持った夜鷹のおとせ(市川右近)から、盗賊のお嬢吉三が金を奪い、おとせを川に突き落とす。そこへ別の盗賊・お坊吉三が現れて金の奪い合いになるが、盗賊の和尚吉三が仲裁して、三人は義兄弟の契りを交わす。 
   お嬢吉三が、杭に片足を置いて、浪々と流れるように歌う(?)名ぜりふ。
   ”月も朧に白魚の篝も霞む春の空、冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒へ帰る川端で、・・・”
   ここだけは、御大菊五郎の素晴らしい舞台を鮮明に覚えている。

   正式には、「三人吉三廓初買」
   河竹黙阿弥作の世話物、白浪物、全七幕。3人の盗賊が百両の金と短刀とをめぐる因果応報で刺し違えて死ぬまでを描いた物語だと言うのだが、私など、アウトロー賛美の思いはさらさらないし、盗賊は盗賊であるから、惡の華などと言った意識は全くないので、なかなか、楽しめない演目なのだが、
   最近は、難しいことを考えずに、芝居として舞台を楽しめば良いのだと、仰る方がおられて、自分もそう思い始めており、そのつもりで見ている。

   「時今也桔梗旗揚」は、悲劇の武将明智光秀の物語で、今回は、二幕目の本能寺の場(馬盥の場)と、三幕目の愛宕山連歌の場で、序幕の饗応の場(眉間割)は省略されていたが、光秀が、信長に徹底的に虐められ恥をかかされて、憤懣やるかたなくなって、信長を討つべく本能寺へ向かうまでの物語である。
   史実はともかく、徳川時代の儒教思想による影響か逆賊として扱われていた光秀を、この歌舞伎では、四代目鶴屋南北が、かなり公平に扱って、悲劇の武将としてストーリーを展開しているところが興味深いと思っている。
   歌舞伎では、信長でも秀吉でも、史実とは関係なく、虚構として物語として描かれているので、気にすることはないのであろうが、信長の光秀虐めは、常軌を逸した卑劣極まりないものなので、あの厳しい封建時代の世で、どれだけ光秀が屈辱に耐え得るのか、そのあたりを、ある意味では教養もあり文化人としての誇りも高い光秀の苦衷を、如何に演じ切るのかが、光秀役者の力量なのであろう。

   この「時今也桔梗旗揚」の後編とも言うべき歌舞伎が、「絵本太閤記」と言うことで、正に、歌舞伎は面白いのである。

   小田春永の團蔵は、はまり役だと思うのだが、これまで見ていた悪役専門役者としてのあくどさエゲツナサは、この役に限って、何故か、風格の方が目立って、それ程感じられなくて、むしろ、光秀の松緑の方が、感情移入が激しく、メリハリのはっきりした演技を見せていたように感じた。

   9年と12年の秀山祭で、吉右衛門の光秀を2回観ており、(その時の春永は、富十郎と歌六、)凄い芝居を観たと言う印象が残っているのだが、あの微妙な光秀の心の変化や内に秘めた苦悩と慟哭を垣間見せる国宝級の芝居には、松緑には、まだまだ、道遠しであろうか。
   私は、春永の嫌がらせで、饗応の場の眉間割や馬盥の盃までは許せるが、貧苦のため客のもてなしに光秀の妻皐月(時蔵)が髪を切って売った黒髪を納めた白木の箱を、光秀に渡して苦しかった過去を満座の前で暴露する卑劣さは、物語であっても、許せないと思っている。それだけに、「愛宕山連歌の場」で、傷心して自宅に帰ってきた光秀が、切り髪の入った白木の箱を、妻の皐月に見せて、屈辱を語りながら、二人して苦しかった昔のことを思い出しながら涙にくれる所などは、しみじみとした光秀の温かさを感じて熱くなる。
   暗い芝居で、観ているのが辛いのだが、ラストシーンの小脇に抱えた白木の箱を持ち替えて演じる「箱叩き」から花道の入りになって、私だけであろうが、やっと、ほっとするのである。

   最後の「男女道成寺」は、能の「道成寺」からインスピレーションを得て歌舞伎化された歌舞伎舞踊「道成寺」のバリエーションの一つで、白拍子花子(菊之助)と狂言師左近(海老蔵)の華麗な舞台。
   やはり、歌舞伎舞踊は、このように溌剌としてエネルギッシュで美しくなければならないと言う典型的な舞台であろう。
   美しいバックシーンの前にずらりと勢ぞろいした長唄と常磐津と囃し方の掛け合いの演奏にのって、それこそ、最高に美しい衣装を装った美男美女(?)が華やかに華麗な舞を見せて魅せるのであるから、これは、能にも、文楽にもない、歌舞伎独壇場の「道成寺」であり、菊之助と海老蔵であるから観せてくれる舞台である。
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山口への旅・・・萩:明治維新への胎動(2)

2016年05月30日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   松下村塾から、まぁーるバスの始点市役所に戻ってルートを代えて、萩博物館に向かった。
   何のことはない、歩けば、1キロくらいの距離なのだが、バスに乗れば15停くらいで、また、大回りして港湾見学である。
   後で、萩博物館で、タクシー会社の電話表を貰って、電話を掛けてこれを乗り継げば良かったのを知ったのだが、後の祭り。いずれにしろ、この萩の観光は、歩けと言うことであろう。
   この博物館は、吉田松陰や高杉晋作の遺品や資料、それに、萩の街の関連資料が展示されていたが、関心を持ったのは、米軍が原爆投下目標として撮った精密な航空写真や萩の古地図などであった。
   今のgoogle earthに近い精密なもので、日本全土は丸裸だったと言うことである。
   
   
   

   萩博物館の東に接する萩城外堀通り、北側に走る御成通り、東側の江戸屋横丁、南側の新堀川に囲まれた5~6町四方であろうか、この一角が萩城下町地区で、萩の観光スポットである。
   この地区には、高杉晋作誕生地や木戸孝允旧宅などがあるが、やはり、重要文化財である藩の御用達豪商菊屋家住宅と武家屋敷や豪商屋敷などの城下町風の街並みが今に残っている魅力なのであろう。
   日本家屋は、木と紙と土で出来ていると言うか、比較的耐久性に欠けるので、街並み保存は難しいのだが、欧米は、石が主体の街造りなので、とにかく、古色蒼然たる魅力の落差の激しさは否めない。イタリア、スペイン、ポルトガル・・・共産革命で破壊されたチェコやハンガリーも美しい。
   しかし、あの第二次世界大戦と戦後の無秩序な発展開発が、如何に、日本人の美意識を葬り去って無残な都市景観を作り上げてしまったのか。貧しかった江戸の街並みの方が、はるかに人間的で美しかったのである。
   尤も、欧米も同じで、フランクフルトの新旧市街の例など典型的だが、住まいの景観一つにしても、文化の質が、どんどん、落ちていくと言うことであろうか。

   このあたりからだと、家臣たちも、三十分ほどで、登城出来る距離であり、そして、高杉や木戸の住宅などは、現在の感覚では、少し大きい方であろうか。
   この日は、観光客も少なかったので、一寸タイムスリップした感じで、ふっと、久坂玄瑞が飛び出してきても不思議はなかったであろう。
   また、主に萩焼関係のシックな店舗が点在するショッピング地区でもあった。
   
   
   
   
   

   藩の御用達を勤めた豪商の菊屋家住宅であるが、幕府巡見使の宿として度々本陣にあてられたとかで、屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古で400年の歴史がると言うから、大変なもので、
   主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定されている。
   商家に御成門と言うのも興味深いが、主家の庭園も、中々趣があって良い。
   私が興味を持ったのは、みせの空間とその横の電話ボックス、伊藤博文がアメリカ土産に持ち帰ったと言う掛け時計、台所の天井の構造、五月人形の飾りなどであろうか。
   
   
   
   

   この菊屋家住宅以外はどこにも寄らずに、菊屋横町と江戸屋横町を散策しただけで、東隣の中央公園を突き抜けて、明倫センターから萩バスセンターに出て、そこで、乗り合いタクシーに乗って山口宇部空港に向かった。
   何回かの萩への旅で、結構、萩焼を買って手元にあるので、今回は、特に土産物は買わなかった。
   

   余談だが、ミシュランのグリーン本だが、萩を一つ星にして、観光スポットとして、寺町・城下町・堀内地区を一つ星、山口県立美術館浦上記念館を二つ星に評価している。
   浦上は、丹下健三設計の建物で、北斎の富岳三十六景や写楽の役者絵や歌麿などの浮世絵が充実していると言うことであろうか。

   NHK「花萌ゆ」が放映された昨年は、萩も賑わったようだが、この一番美しい筈の皐月晴れにも拘わらず、シックでしっとりとした萩の古道には、殆ど人影がなく、ひっそりと静まり返っていた。
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山口への旅・・・萩:明治維新への胎動(1)

2016年05月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   萩を訪れたのは、吉田松陰の故地を訪ねて、激動の明治維新と日本の歴史を肌で感じてみると言うのが目的であったが、やはり、しっとりとした美しい萩の街並みを、歩いてみたいと言う思いもあった。
   学生生活を京都で送ったので、小京都と言われている日本の奇麗な観光都市をいくらか歩いており、この萩には、今回で3度目なのだが、特に激しい歴史を潜り抜けてきた街だけに思いも強い。

   朝、9時45分新山口駅発の直通バススーパーはぎ号に乗って萩に入り、夕刻19時10分山口宇部発のJAL便で鎌倉へ帰る予定なので、萩で過ごせる時間は限られている。
   
   
   

   結局、行ったのは、バスの終点である明輪センターである「萩・世界遺産ビジターセンター」、吉田松陰の松下村塾、萩博物館、菊屋家住宅などの萩城下町散策、程度であったが、まずまずであった。
   5月23日と言う時期でありながら、太陽の照り付ける夏日で、思うように歩けなかったのだが、萩市内の足に過ぎない「乗り易くて大変便利な萩循環まぁーるバス」を、他の観光地にある観光地をつなぐ観光用にバスと誤解して、利用したのが間違いでもあった。
   

   さて、萩が、世界遺産として登録されているのは、「 明治日本の産業革命遺産」の一部としてで、萩エリアは時代順に1番目のエリアとして、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾、萩城下町の5つの資産で構成されている。
   今回、私の訪れたのは、松下村塾と萩城下町だけだが、この世界遺産ビジネスセンターの展示や説明を受けて、萩藩の産業政策や松下村塾で育った塾生たちが、如何に、日本の富国強兵・産業振興に大きな役割を果たして来たのかが良く分かって幸いした。
   松陰は、清朝が、アヘン戦争によってヨーロッパ列強によって蹂躙され崩壊に直面した現実に痛く感化されて、日本の将来に危機意識を募らせたと言われており、当時の中国の苦境を論じた清の思想家魏源の「夷の長技を師とし以て夷を制す」、すなわち、外国の先進技術を学んで身に着け侵略から防御するという思想に影響された言う。
   
   
   

   バスの終点に近いところに松下村塾のある松陰神社のバスストップがあるので、40分近くかかったのだが、萩の市内遊覧だと思えばよいと思って諦めた。
   松陰神社には、宝物殿「至誠館」や吉田松陰歴史館などがあるのだが、全く興味なく、松下村塾と旧家だけを見れば十分であったので、しばらく佇んで、松陰と幕末・維新の日本の歴史を反芻していた。
   松下村塾の後方の建物が、旧家である。
   近くに伊藤博文の旧宅・別邸や東光寺があったのだが、時間の都合で端折ったのを少し後悔している。
   
   
   
   

   私は、吉田松陰の偉大さとその日本歴史に残した素晴らしい偉業については、何の疑問も抱いていないし、尊敬の一語であるが、日本開国については、あの状況下にあっては、井伊直弼の考え方の方が正しい、そうせざるを得なかったと思っているので、この点については、疑問を感じている。
   五月晴れの陽光を浴びて、ひっそりと建っているあまりもコジンマリとした松下村塾を眺めながら、幕末の激動と明治維新への激しい胎動の不思議を思っていた。
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国立演芸場・・・立川流落語会・二日目

2016年05月28日 | 落語・講談等演芸
   先日に続いて立川流落語会の二日目で、左談次の弟子立川佐平次の真打昇進披露を兼ねた公演が行われた。
   今回は、単純に、NHKためしてガッテンの立川志の輔の高座を聞きたいと思って出かけたのである。

   志の輔の演題は、「猫の皿」。
   江戸で掘り出し物が見つけ難くなった古美術商が、江戸を出奔した人たちが逸品を持ち出して地方に出回っているであろうから、それを見つけて江戸に持ち帰って利益を上げようとしていたと言う。
   そのような古美術商(端師)が、中仙道の熊谷在の石原あたりで立ち寄った茶店で休んでいたら、猫が餌を食べている皿が、絵高麗の梅鉢の茶碗と言う高価な皿であることに気付いて、亭主を騙して、猫を三円で買って一緒に皿を持ち帰ろうとしたのだが、その亭主の方が、その皿の値打ちを知っていて一枚上手だったという噺。
   秘蔵の絵高麗の梅鉢の茶碗を、何故、猫の皿に使っているのだと聞かれた亭主が、「この茶碗で飯を食わせると、猫が三円で売れますんで」

   この茶店だが、出た団子の味は悪く、熱燗も温くてダメで、まして、嫌な猫が目の前で飯を食っているので、頭に来た端師が、散々毒づくのだが、猫の皿が、絵高麗の梅鉢の皿だと気付いた瞬間、猫好きに変身して妻に買い求めたいと飼い主の老母の了解を取れと3両を渡すしたたかさ。
   このような骨董の仲買商が、地方に出て、欺きやだましを弄して高価なものを安い値段で買い取って高く売りつける商売がまかり通っていたということだが、それを逆に手玉に取った茶店の亭主の才覚が、上野の戦争で逃げてきた元江戸の住人だった故と言うところが、アイロニーが利いていて面白い。

   志の輔だが、表情や語り口は、一寸早口なところ以外は、ためしてガッテンと少しも変わらず、とにかく、嫌いな猫を追っ払おうと悪戦苦闘しながら噛みつかれるのだが、掌を返したように相好を崩して猫にすり寄るあたりなど、実に芸が細かくてリアルで面白い。
   ためしてガッテンで、食べるシーンが良く出てきており、団子や熱燗の扱い方など、テレビの雰囲気を思い出しながら観ていると不思議な感じがした。

   談笑は、中々、緩急自在でパンチの利いた落語で、「粗忽の釘」を語った。
   元は「宿替え」と言う上方落語だとか。
   ある夫婦の引越しの日、慌てものの男が、大きなタンスを背負って家を出たのは良いのだが、道を間違って歩きながら、あっちこっちで、タンスの引き出しを飛び出させたりひっくり返したりして騒動を起こしながら家に辿りつくと言う、談笑得意の改作が随所にあって、これまで聞いた「粗忽の釘」とは全く毛色の違った落語で、最後の新居の壁に釘を打って、隣の仏壇に差し込んで、「毎日ここまで、箒を掛けに来ないといかん」と言うところだけは同じ。
   こう言うのは、そのバリエーションが面白くて別の落語を聞いているようで善い。

   雲水は、大阪弁で、「おごろもち盗人」を語った。
   おごろもちとは、モグラのことのようで、夜、戸が閉まった後に、表から穴を掘って、戸の内側の桟を外して中に進入して、盗みを働くという泥棒の話で、この泥棒が、商家の夫婦に、途中で地面から手が出てきたのを見つかって結わえられる。表を通りかかった男がこれを見つけたので、泥棒は、腹掛けの中に、小刀の入った財布が入っているので、それを取り出してくれと頼むのだが、男は、財布の中の5円だけを持ち逃げしたので、「ドロボー!」
   このオチよりも、商家夫婦の他愛もない会話が面白い。

   師匠の左談次は、「大安売り」。
   上方落語とかで、弱い関取の話である。
   談吉は、「置き泥」
   談之助は、「選挙あれこれ」、笑点の歴史や談志の参院選挙など、面白い裏話などを交えながらドキュメンタリータッチの語り。

   さて、面白いのは、立川流代表の土橋亭里う馬の「子別れ」と新真打佐平次の「子は鎹」のリレー落語。
   トリの佐平次が「子は鎹」をやるので、里う馬は、本来続き物の「子別れ」の前半である夫婦別れを語ってエールを送り、佐平次の子供を仲立ちにして夫婦が元のさやに納まると言う噺で〆ると言う粋な趣向である。
   「子別れ」は、腕は良いのだが、酒飲みで酒乱の大工の熊五郎が、こともあろうに、大人しく聞いている女房お光の前で、女郎の惚気話まで始めたので、堪忍袋の緒が切れたお光が、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。と言う話。
   熊は、年季の空けた馴染みの女郎を引き入れるのだが、「手に取るなやはり野に置け蓮華草」で、全く女房として役に立たず、男を作って逃げてしまう。
   「子は鎹」は、心を入れ替えて真面目に働き始めた熊五郎が、道で遊んでいる亀坊に会ってお光が一人でいることを知って、亀坊を鰻屋に誘ったので、心配してついて来たお光とよりを戻す。と言うほのぼのとした人情噺である。

   さすがに、年季の入ったベテランの里う馬の「子別れ」は、情緒連綿としたしっとりとした語り口が秀逸で、それを引き継いだ佐平次の「子は鎹」は、粗削りながら、パンチとメリハリの利いたリズム感が好感して、観客は大喜びで、盛大に真打披露を祝って拍手をしていた。
   
   
   
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国立演芸場・・・立川流落語会・初日

2016年05月27日 | 落語・講談等演芸
   国立演芸場の真打披露を兼ねた「立川流落語会」の初日に出かけた。
   この日は、志らくの弟子であるらく朝、志ら玉、志ららの3人が真打披露をする公演であった。
   落語を語ったのは、師匠の志らくと新真打3人と、志ら乃、生志、談春、談四楼であったが、談春が帰ってしまったので、真打昇進披露口上には、志ら乃の司会で、志らくと談四楼が登場した。

   これまで、立川流の落語は殆ど聞く機会はなかったのだが、一度、談春の高座を聞き、抱腹絶倒の著書「赤めだか」を読み、テレビドラマ「赤めだか」を見て、そして、WOWOWの志の輔と談志の落語放送を見て、一気にファンになった。
   今回、その談春のほかに、志らくと談四楼が聞けるのであるから、正に、渡りに船の願ってもない機会であった。

   立川流の真打昇進試験は、テレビの「赤めだか」で見ているので雰囲気は分かった。
   志らくの話では、談志の時よりは、多少、ハードルが低くなっているかも知れないと言うことであるが、3人とも全く個性豊かで芸風が違っていて、面白かった。
   若くて志らくに入門したのは、志ららだけで、志ら玉は、師匠の2代目快楽亭ブラックが借金問題により立川流を除名になったため志らく門下へ移籍しており、らく朝は、現役の医師から落語家に転進して年金を貰いながら真打になった高齢者と言う変わり種。
   らく朝は、医者の経験を生かした新作落語「スリーピー・スリーピー」
   志ら玉は、「六尺棒」と奴さんを披露した。
   志ららは、「壺算」。
   この話は何度も聞いているのだが、
   カミさんに言われて、二荷入りの水がめを買いたい吉公が、ドジなので買い物上手の兄貴分の協力を得て、瀬戸物屋を訪れる。兄貴分は、まず、一荷入りを、瀬戸物屋をおだて上げて五十銭値引きさせて、持って帰りかけて店に引き返して、二荷入りに交換させて、「さっきの一荷入りを下取って三円、最初に渡した三円を足して六円」と言い、二荷入りを持って出ようとする。手元には3円しか残っていないので、計算が合わないと言って瀬戸物屋は抗弁するが、言い包められて混乱した瀬戸物屋が、土産に3円も持って帰れと言う噺。
   これも、上方落語らしいが、大坂商人が騙される筈はないと思うものの、商都大坂の商売人と賢しい客の話だけに面白い。


   さて、やはり、談春、志らく、談四楼の落語は、上手いし面白い。
   談春は、「かぼちゃや」。
   二十歳になっても遊びほうけている頭の弱い与太郎に、面倒を見ている佐兵衛叔父が、「かぼちゃ」を売らせることにする。アドバイスされて、「唐茄子」と呼び声よろしく路地を売り歩くものの、売れなかったが、ひょんなことから親切な人がいて、買ってくれて代わりに売ってくれて売り切れる。叔父に、元値を教えられて「上を見ろ」と言われていたので、売れる度毎に、上を向いて声を上げる。帰って来て、元値で売って利益がないので叔父に怒られて、また、親切な人のところへ来て、値上げしたのを訝られて、「上を見ろ」(掛け値)の意味を知らなかったと言う。お前、いくつだ?聞かれて、「えーと、六十」「六十? どう見ても二十歳ぐらいだぞ」「元は二十で、四十は掛け値」
   後で、高座に立った志らくが、与太郎は馬鹿ではなくて知恵遅れだと言っていた。
   とにかく、頼りない話だが、談春の語り口の上手さ、話術の匠さ、その冴えは抜群で、チケットが取れない落語家であることが良く分かる。

   志らくは、「笠碁」。
   談春もそうだったが、持ち時間が20分しかなかったので、3人の弟子を語っただけで、まくらは殆どなく、落語に入った。
   暇を持て余している二人のヘボ碁打ちの老人が、待った待てないで大喧嘩をして、絶交するのだが、何もすることのない二人は、耐えられなくて、どうしても相手と碁を打ちたくなって、「ヘボ!」のやり取りで、「ヘボは、どっちだ。勝負しよう!」と言う噺。
   雨が降ったのだが笠がなくて簑傘で出かけたために、碁盤の上に雨が滴り落ち、「笠を取るから待て!」と言ったが、「待てない!」。
   上方オリジンの古典落語だと言う。歯切れが良くてパンチの利いた乗りの良い志らくの語り口の面白さも素晴らしいが、大阪弁の上方落語だとどうなるか、興味を感じて聞いていた。
   私は、談志の高座姿は、テレビやビデオでしか知らないが、この志らくの落語や語り口に接すると、談志の落語を彷彿とさせて、面白く、かつ、懐かしくなる。

   談四楼は、1970年3月立川談志に入門したが、1983年、落語協会での真打昇進試験で、小談四と不合格にされたので、談志が怒って弟子をつれて落語協会を離れ、落語立川流を結成したと言う逸話があり、この真打試験失敗経験を書いた小説「シャレのち曇り」で1990年に作家デビューしたと言う。この直後に立川流真打に昇進して、今や、落語立川流の貴重なお師匠番として貴重な存在である。
   今回の演題は、「三年目」。
   非常に仲の良い若夫婦だったが、元々病弱だった妻は長患いの床に付き、夫は献身的に看病するが、死期を悟った妻が、「別の人と再婚し、私のように愛するのが悔しくて恨めしい」と言う。「私が愛した女は生涯お前一人。万が一、結婚したら、祝言の夜、幽霊になって出て来い。新妻はびっくりして逃げ出すだろう。」と言うので、妻は安堵して死ぬ。まわりからせっつかれて仕方なく結婚するが、初夜の夜も、子供が生まれてきても、一向に妻の幽霊は出て来ず、3年目の命日に墓に詣でたその夜、妻と子供はすっかり寝静まり、夫が一人目を覚ましている所へ、障子にさらさらと髪の毛が触れる音がして、先妻が長い黒髪を振り乱して立っており、約束を反故にした夫への恨み辛みをかき口説く。今更言われても、何故早く出て来なかったのだと言うと、幽霊が、「それは無理です。私が死んでお棺に入れる時、皆さんで髪の毛をそり落としたので、坊主頭で出たら愛想を尽かされると思って、3年の間、髪の毛の伸びるのを待っていました」。
   死んでしまった後でも、夫に嫌われたくないと思って気を遣う先妻の優しくもいじらしさが滲み出ていて、ほろっとさせる良い噺である。
   功成り名を遂げた好々爺然とした談四楼の滋味深い語り口が、実に爽やかで素晴らしい。

   小さんに破門されたと言う談志だが、素晴らしい後継者たちを残したものである。
   
   
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山口への旅・・・山口:瑠璃光寺の五重塔(国宝)

2016年05月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   山口市では、時間が取れなかったので、瑠璃光寺の五重塔を見ることに集中した。
   学生時代に、京都や奈良などの古社寺散策に興味を持って、建築物や仏像・絵画、そして、庭園などの鑑賞にのめり込んでしまって、今でも続いており、その一環として、国宝の五重塔を見たいと思ったのである。
   長い海外生活においても、古都や歴史遺産、美術館・博物館など文化芸術鑑賞を楽しみに、随分あっちこっちを歩いてきたのだが、人類の残した文化遺産の美しさ素晴らしさは格別で、旅の楽しみであった。

   さて、日本には、国宝の五重塔が11棟現存していて、そのうち、私は、山形県鶴岡市にある羽黒山だけは見ていないのだが、今回の瑠璃光寺で、10棟見たことになる。
   そのうち、この瑠璃光寺と法隆寺と醍醐寺の五重塔が、日本三名塔で、醍醐寺と羽黒山を入れ替えたのが、日本三大五重塔と呼ばれているとかで、いずれにしろ、この瑠璃光寺の五重塔は、法隆寺の五重塔に比肩する日本最高峰の五重塔なのである。

   ウィキペディアから引用すると、
   この塔は、国宝。大内文化の最高傑作といわれる。室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、高さ 31.2m で屋根は檜皮葺。二層にのみ回縁がついているのが特徴である。建築様式は和様であるが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に禅宗様(唐様)が採り入れられている。
と言うことである。
   檜皮葺屋根造りは珍しくて、瑠璃光寺の他に、奈良県の室生寺と長谷寺、厳島神社などのようであるが、何となく、雰囲気が優雅で優しい感じがする。

   この瑠璃光寺だが、境内は、大きな香山公園となっていて、五重塔は、本堂のある寺院本体とはかなり離れた奥の池畔に影を映していて、独立した美しい記念碑と言った風情である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   離れたところに短い参道があって、中門の奥に本堂がある。
   「瑠璃光寺」の山号は保寧山で、本尊は薬師如来。栄華を極めた大内文化を伝承する寺院だと言うのだが、そんな感じではなく、説明書きでも、毛利当主の香山墓所や 薩長連合結成の密議おこなわれた枕流亭 や茶室露山堂やうぐいす張の石畳などと言った方が詳しい。
   
   
   
   
   
   
   

   この瑠璃光寺への途中に、毛利元就の菩提寺だと言う洞春寺がある。
   小さな山門があって、本堂が奥にあるので、見過ごすところだったが、道を尋ねた地元の婦人が丁寧に教えてくれた。
   本堂は消失して新しいのだが、山門と観音堂は、重文だと言う。
   
   
   
   

(追記)この瑠璃光寺の五重塔は、夜間照明されると言うことで、その風景を、”RETRIP[リトリップ] - 旅行キュレーションメディア”の写真を引用させてもらう。
   
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山口への旅・・・津和野:安野光雅、森鴎外の故郷

2016年05月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   日本海側に近い山間の街津和野は、萩・石見空港からの方がアクセスは良いのであろうが、今回は山口での仕事なので、山口・宇部空港から入った。
   いずれにしても、新山口経由で津和野に向かわなければならず、9時35分に着いて、新山口発の特急おき4号(12.53発―13.55着)に乗るまでに、3時間以上もある。後の航空便では、この特急には乗れない。
   空港バスでは飽き足らないので、徒歩10分のJR宇部線の草江駅から、ローカル線の雰囲気を味わいながらゆっくりと新山口に向かうことにした。車両1両で、1~2時間に1本。駅員などいなくて、時にはワンマンカー・・・寅さんの世界である。
   それでも、新山口駅で2時間以上も無駄な時間を過ごさなければならず、困ったのだが、地方の観光なり移動は車に限ると言うことであろう。

   残念ながら、歳の所為で車を止められているので、レンターカーを使えない。
   かっては、アムステルダムから、コペンハーゲンやウィーン、そして、ブレンナー峠を越えてイタリアへ、等々、ヨーロッパを走り回ったり、ロンドンからイギリス中を、サンパウロからブラジル国内各地をドライブし続けていたベテラン(?)だと思っているのだが、娘たちの指示に従わざるを得ないのである。
   
   

   これまで、津和野を2度訪れながら、立ち寄るチャンスを失していたので、真っ先に、駅前にある安野光雅美術館に入った。
   展示されていたのは、「御所の花」。
   安野光雅が、天皇、皇后両陛下の本の装丁をした縁から、平成23年1月から1年余り、数十回にわたって御所の庭に通って、四季折々の草花約100種類を写生し、淡い色彩で描いた水彩画130点が展示されている。
   
   
     

   安野光雅は、文章がない絵本「ふしぎなえ」で絵本界にデビューして、天性の好奇心と想像力の豊かさで次々と独創性豊かな絵本や児童書、そして、淡い色調の水彩画でやさしい雰囲気漂うヨーロッパや奈良・京都など多くの詩情豊かな風景を描いた作品、それに、ストーリー展開豊かなシェイクスピアの世界から、ダイナミックな三国志や平家物語等々、非常に多岐に亘った数多くの素晴らしい作品を発表し続けている。

   このブログで、安野光雅著「絵のある自伝」~ダイアナ妃のこと、安野光雅:本三国志展・・・日本橋タカシマヤ、「安野光雅の世界」展 などの記事を書いており、この写真は、10年前に、「安野光雅の世界」展で、本にサインを頂いた時に撮らせて頂いたものである。
   シェイクスピアと平家物語は、私の最大の愛読書であったので、安野画伯の絵のイメージと物語と重ね合わせながら、楽しませてもらったし、それに、多くのヨーロッパの絵は、オランダやイギリスはじめ、住んでいたり訪れたところが多かったので、懐かしく興味深かった。
   

   この美術館には、私が子供だった頃に残っていた田舎の小学校の昔の教室や安野画伯のアトリエなどが設営されていて興味深かったし、
   プラネタリウム室は、四季折々の星座を見られるのみならず、芸術と科学をこよなく愛する安野画伯の強い希望で設置されたと言うことで、独自の番組を通して安野画伯自身が、自分の言葉で、芸術と科学の融合コラボレーション、そして、空想や夢が、いかに、創造性を育み命の輝きを豊かにするために大切かを、津和野の煌々と美しく輝く星空に託して、静かに、淡々とした滋味深い安野節で語りかけていて、感動的である。
  創造性豊かで実に優しくて温かく、生きる喜びを謳歌している安野光雅の芸術の原点を、美しい故郷津和野の満天に煌めく星空をテーマにして、語り掛けようとしているのだと思っている。
   
   
   

   さて、本町通の入り口に、「日本遺産センター」と言う幟の立った新しい観光センター様の展示場のような不思議な場所があったので、何の気なしに入った。
   日本遺産登録を記念して昨年できたと言う新しい事務所で、幕末のお数寄屋番で狩野派の絵を学んだと言う栗本里治が、最後の藩主の依頼で、100年前に記録や記憶を便りに描いた「津和野百景図」を展示して、歴史や自然の景を楽しむ「津和野今昔~百景を歩く~」キャンパーンをしていた。
   どこからともなく館員が現れて、興味深い話を、丁寧に説明してくれた。
   時間があれば、それぞれテーマ別に作成された町歩きコースを辿れば面白いと思ったのだが、時間がない。
   狩野派なので、北斎や広重の街道絵とは違った雰囲気の絵だが、今でも、殆ど描かれた街のイメージが、そのまま残っていると言う。
   何となく、安野光雅の絵と交錯するような感じがして興味深かった。
   ついでながら、本町通りのイメージ風景を残しておきたい。
   
   
   

   本町通りと殿町通りを歩いて、津和野川にかかっている大橋を越えて、2キロ近く歩くと、森鴎外記念館と旧宅、そして、津和野川を挟んで、西周旧宅がある。
   前回、西周旧宅まで行ったのに、手前の森鴎外の方をミスってしまっている。
   大体、地図やガイドを用意する割には、良くチェックせずに、徒然草の石清水を拝まざりけりと同じで、肝心の場所をミスることが私の多い悪い癖である。
   凄い人だ思うのだが、作品を殆ど読んでいないので、まして、ロンドンに5年間も住みながら、夏目漱石の下宿先も訪れたことのない文学には縁の遠い人間なので、さらりと、記念館の展示と旧宅を見て、もう一度、西周の旧宅に立ち寄って、駅に向かった。
   幸いにも、1時間に2本あるかないかの田舎のバスが来たので、殿町通りまで乗った。
   天気に恵まれて、無茶苦茶暑かったし、タクシーなど走っていないので、助かった。
   
   
   
   
   
   

(追記)山口宇部空港から、素晴らしい日本の観光名所津和野へのアクセスの悪さについて書いたが、新山口から鳥取へ向かう2~3両連結の一日往復3便の特急とき号でさえ、トップシーズン(?)の平日では、空席が目立ち、名だたる観光地この津和野でさえ、夕刻5時には殆ど店が閉まって閑古鳥が鳴くと言う現実を考えれば、仕方がないのであろうか。(休日1往復のSL山口号の運行は、趣味のファン対応で、交通手段ではなさそうである。)
   この地方の過疎化と経済活動の格差の現実をどう考えるべきか。
   このままでは、津和野でさえ経済的に苦しくなって立ち行き難くなってくるであろうし、観光立国と言う国是の在り方も、総花的にではなく、もう少し、緻密に考えて対応すべきであろうと思う。 
   久しぶりの1日訪問で、極論かも知れないが、一極集中の東京都との地域格差の深刻さを、地方への旅毎に、益々、甚く感じている。
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山口への旅・・・緑滴る津和野

2016年05月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   山口で私用があったので、それを挟んで、二泊三日の山口旅に出た。
   丁度、新緑の季節で、緑萌ゆる美しい旅を楽しむことが出来た。
   何回かの山口の旅で、観光スポットは殆ど訪れているので、今回は、シンプルに、久しぶりに、津和野、萩に行くことにし、初めてなので、山口では瑠璃光寺の国宝五重塔を見たいと思った。
   

   羽田を早朝に発っても、山口宇部からでは、新山口経由で、津和野へは、特急おき号1本だけで、午後の2時前にしか着かない。
   幸いにもこの日は、良い天気に恵まれて、山口を越えて山間部に入ったあたりから、車窓の景色は一変して、豊かな日本の田舎風景が展開されて、緑のコントラストとグラデュエーションが美しかった。
   首都圏の郊外とは全く様変わりで、お粗末な広告塔や看板など人工的な不純物がなくて自然そのもの。
   もう何十年も前に、解放以前の中国に、香港から封印列車に乗って入国した時に、貧しい中国でありながら、綺麗に手入れされた美しい田舎の風景を見て感激したことを思い出した。
   
   
   
   

   気になったのは、日本屈指の美しい津和野でありながら、夕方5時には、殆どの店が閉まって、太陽が照りつける観光歩道から人影が消えてしまう寂しさで、このシックで美しい津和野の旅の情趣は特別なのかも知れないと言うことである。
   便利な首都圏生活に慣れてしまっているので、夕方、落ち着いて旅情を醸し出してくれそうなレストランに入って夕食でも楽しんで、ゆっくり夜の列車にに乗って山口へ帰ろうと思ったのだが、土曜日でありながら思っていた店も閉まっていて、寂しい限り。
   それでも、歩いていれば何か良い店でも見つかるであろうと思ったのだが、そのような雰囲気は全くなくて、駅に着いてしまった。

   丁度、幸いと言うか、駅のアナウンスで、新山口行きの特急おき号が到着すると伝えている。
   駅の時刻表を見たら、この17時50分発の特急おきを逃したら、次の19時35分発の山口行き最終便の鈍行1本しかなく、こんな寂しい駅で2時間近くも放り出されてしまえば干上がってしまう。
   急いでチケットを手配しようと思ったら駅員一人。
   すべてを一人で熟しているのだが、幸いにも他に乗る人がいなくて間に合って、ホームに辿りついたのだが、悪いことは二重に起こるもので、駅のロッカーに預けてあったバッグを忘れているのに気付いた。
   幸いも重なるもので、駅が極めてコンパクトなので、バッグの回収も数分で済み、丁度到着した特急に滑り込んだ。
   この鳥取と新山口を結ぶ特急だが、たったの2両連結で、空席が目立ち、地方の過疎化と沈滞を感じながら、お粗末な日本の観光行政を思った。
   ヨーロッパの田舎を随分歩いてきたが、面白かったし楽しかった。

   この日は、安野光雅美術館、日本遺産センター、森鴎外と西周の旧宅くらいを訪れて時間を過ごし、綺麗な本町通りと殿町通りを歩いただけだが、新緑萌ゆる美しい津和野を味わうことが出来て、満足であった。

   清流の津和野川に沿って、美しい山々に囲まれた津和野の町は、本当に素晴らしく、喧騒からかけ離れた日本の懐かしい故郷を感じさせて、素晴らしい散策のひと時を楽しませてくれた。
   
   
   
   

   津和野の魅力的な街並みは、駅から2~3分南に歩いたところにある郵便局の角から、1.5キロくらいの大橋までの一直線の街路で、手前は酒屋や老舗のある商業地区の本町通りで、カトリック教会のところで空間が広がり、左手には奇麗な緋鯉など錦鯉が泳ぐ掘割が道路に沿って繋がっており、石畳となまこ壁が続く城下町風と武家屋敷風がミックスしたシックな銀杏並木が続く殿町通りであり、流石に旅情を誘う奇麗な遊歩道である。
   今回は、雨の所為か、掘割の水が濁っていて、緋鯉もビアダルポルカのように大きく肥えていて、やや、風情に欠けていたが、これもご愛嬌かも知れない。
   やはり、萌出ずる新緑の季節で、掘割の菖蒲や並木のイチョウが緑に輝き、背景の山々に映えて清々しい。
   人通りが殆どなく、全く静かで、津和野の美しさを独り占めしている雰囲気であった。
   
   
   
   

   水上勉が、金沢旅情か何かの本で、ふっと前を横切って、幻のように消えて行った美しい女性のことを書いていたのを思い出した。
   こんなにムードたっぷりの美しい空間に、空想ながら、マドンナを佇ませて思いを馳せるのも、旅の楽しみであろうか。
   和服の良く似合う女(ヒト)で、竹久夢二のイメージとは少し違って知的な香りを漂わせた優雅な感じの女が、津和野には、良く似合う。

   いや、この街で、ヨーロッパの素晴らしい詩情豊かな絵を描き続けて感動を与え続けてくれている安野光雅画伯が誕生したのであるから、モダンでシックなスラックスやパンタロン姿の颯爽とした女が、現れても、絵になるかも知れない。

   津和野は、ミシュラン・グリーン・ガイドでは、一つ星だが、残念ながら、半ページの記述しかない。
   特急を下りた一組のハイクスタイルの若い白人のカップルが、街に消えて行った。
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ウィーン・フォルクス・オーパー・・・喜歌劇「こうもり」

2016年05月19日 | クラシック音楽・オペラ
   舞台芸術で、これほど、華やかで美しく陽気で楽しい舞台はないと言う極め付き絶品の喜歌劇が、このヨハン・シュトラウスの「こうもり」。
   もう、40年も以上前に、ウィーン国立劇場の大晦日恒例の「こうもり」を観てから、何回も通っているこのオペレッタ。
   オーストリア人夫婦の恋のアバンチュールが、貴族の大邸宅で繰り広げらる華やかな大舞踏会を舞台にさく裂するハチャメチャな人間ドラマが、あの華麗かつ壮大なハプスブル大帝国の爛熟した文化の香りを濃厚に醸し出していて楽しい。

   最初から最後まで、あのヨハンシュトラウスのウィーン訛りのワルツのメロディが、歌い踊り、緩急自在に舞台に流れ続けて、お祭り気分を高揚させ続ける。
   第二場のオルロフスキー公爵邸の大舞踏会では、ウィーン恒例のニューイヤーコンサートを彷彿とさせるウィーン国立バレエ団の華麗なバレエが披露されて素晴らしい。

   このブログでは、小澤征爾の「こうもり」公演について書いているが、あの時、ロザリンデを謡ったのが、その前に、ウィーン国立歌劇場で「ファルスタッフ」の舞台を観てぞっこん惚れ込んだハンガリー出身のアンドレア・ロスト、それも、益々妖艶に色香漂うレィディになっての登場であるから、楽しかった。

    この「こうもり」については、ロンドンのロイヤル・オペラで、カウンターテナーのヨッヘン・コヴァルスキー(Jochen Kowalski)が、 オルロフスキー公爵を歌った楽しい舞台や、ストックホルムの夏の祭典の野外劇場でのコンサート形式の舞台など、海外で、何度か楽しんでいる。
    ウィーンの舞台では、何故か、オルロフスキー公爵を歌ったビルギッテ・ファスベンダーのパンチの利いた素晴らしい姿だけを鮮明に覚えている。
   何年か後で、ロイヤル・オペラで、「ファルスタッフ」のクイックリーで登場した時には懐かしかった。

   このオルロフスキー公爵は、第二場の大舞踏会を主催するロシア人貴族なのだが、この舞台で、一番、脚光を浴びる役柄であろう。
   普通は、メゾ・ソプラノのズボン歌手が歌うのだが、ヨッヘン・コヴァルスキーのケースは、それだけに楽しい。

   さて、ロザリンデだが、これは、色香漂う女性の魅力を濃厚に振りまく素晴らしい美人と言う設定で、これまで、随分、魅力的な美人歌手の舞台を観ており、このレディなら、くらくらよろめいても仕方がないなあと言うほど、重要な役。
   今回ロザリンデを歌ったのは、プエルトリコ生まれで、METのオーディションで入賞して、コシ・ファン・トッテでデスピーナでデビューしたと言う名ソプラノ・ メルバ・ラモス 。
   このフォルクス・オーパーで、30年近いキャリア―を持ち、トスカやトーランドットのリュ、蝶々夫人、トロバトーレのレオノーラなどを謡うベテランで、このロザリンデは、持ち役だと言う。
   一寸、私のロザリンデイメージとは、違ったが、芸達者で素晴らしいソプラノ歌手である。

   アイゼンシュタインのイェルク・シュナイダー は、ウィーン少年合唱団の出身だと言うドイツを筆頭にヨーロッパで活躍するベテラン歌手、浪々とした魅力的な歌声に加えて、一寸、太めの実に愛嬌のある童顔で、豊かな体をくねらせてのコミカルタッチの演技は秀逸である。

   オルロフスキー公爵のアンゲリカ・キルヒシュラーガー も、20年以上もキャリアーのあるフォルクス・オーパーのベテラン歌手で、ザルツブルグやウィーンで教育を受けて、ステージデビューは、ガンツで、ばらの騎士のオクタヴィアンだったと言うから、この舞台も良く似合って素晴らしい。

   今回、代演となったアデーレのベアーテ・リッターは、 ウィーンで学びデビューした生粋のオーストリア歌手であろうか。
   とにかく、可愛くて芸達者で歌が上手いと言うことで、観客の拍手が一番多かった歌手である。
   ベート―ヴェンのミサ・ソレムニスや、ヘンデルやモーツアルトの歌曲も良くすると言うから凄い。
   
   
   今回の大舞踏会を、公爵と語らって、アイゼンシュタインへの復讐の場にして、笑い飛ばしたこうもり博士ファルケのマルコ・ディ・サピア、アデーレの恋人のアルフレートのライナー・トロスト、刑務所長フランクのクルト・シュライプマイヤー 、看守フロッシュの ロベルト・マイヤー等々、芸達者な歌手や役者たちの活躍が素晴らしい。

   舞台を楽しませてくれた人々は、

指揮:ゲーリット・プリースニッツ

アイゼンシュタイン:イェルク・シュナイダー
ロザリンデ: メルバ・ラモス
アデーレ:ベアーテ・リッター
イーダ: マルティナ・ドラーク
ファルケ:マルコ・ディ・サピア
オルロフスキー公爵: アンゲリカ・キルヒシュラーガー
アルフレート:ライナー・トロスト
イワン:ハインツ・フィツカ
フランク:クルト・シュライプマイヤー
ブリント博士:ボリス・エダー
フロッシュ: ロベルト・マイヤー

   華麗なウィンナ・ワルツで鏤められた底抜けに明るくて楽しい舞台は、実際に観てみないとその楽しさ素晴らしさは分からない。
   
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国立小劇場・・・文楽「曽根崎心中」

2016年05月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   文楽でも歌舞伎でも、心中物は嫌いだと言う人が結構多い。
   近松門左衛門の「冥途の飛脚」や「心中天の網島」などもそうだが、おそらく、この「曽根崎心中」は、その典型的な物語であろう。

   初めて、この文楽「曽根崎心中」を鑑賞したのは、もう、25年も前に、ロンドンでのジャパンフェスティバルで、初代玉男の徳兵衛と文雀のお初の舞台であった。
   この時、歌舞伎ハムレットバージョンである「葉武列土倭錦絵」を、染五郎のハムレットとオフェーリアを観て感激したので、日本に帰ったら、文楽と歌舞伎に通えると喜んだのを覚えている。 
   それまで、ロイヤルオペラやクラシック・コンサート、それに、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどへ通い詰めていたので、日本へ帰ったら、そのような機会は、少なくなると寂しく思っていたので、嬉しくなったのである。

   これまで、このブログで、文楽や歌舞伎の曽根崎心中や、関係本などについて、何回も、書いて来た。
   そして、年初めに、その舞台となった曽根崎のお初天神や生玉神社の文楽旅についても書いた。
   歌舞伎では、藤十郎のお初が余人を持って代え難き国宝級の舞台だと思うが、文楽では、このロンドンの舞台の国宝コンビと、玉男と簑助の舞台が、忘れられない。
   その後、簑助のお初と勘十郎の徳兵衛の素晴らしい感動的な舞台を何度か鑑賞しており、心中ものと言うよりは、近松門左衛門の浄瑠璃作者、文学者としての素晴らしさに圧倒され続けてきたと言う思いである。

   住大夫は、「字余りやさかい、近松は嫌いでんねん」と言っているが、私など、「曽根崎心中 徳兵衛お初 道行」の冒頭の、
此の世のなごり夜もなごり。   
死にゝゆく身をたとふれば。
あだしが原の道の霜。
一足づゝに消えてゆく。
夢の夢こそあはれなれ。

ふと暁の。
七つの時が六つなりて
残る一つが今生の。
鐘の響のきゝおさめ。
寂滅為楽と響ひゞくなり・・・を聴くだけでも、涙がこぼれるほど感動する。
   心中を描きながら、門左衛門は、生きると言うことは、死ぬと言うことはどう言うことか、男女の愛と言う永遠のテーマを横糸にして、人間の尊厳を、万感の思いを込めて語りかけているのだ思いながら、私は舞台を観ている。

   何回も書いているので、蛇足は避けるが、今回の舞台は、師匠の至高の舞台を観続けていた二代目玉男が、近松をやりたいと言っていた徳兵衛の晴れ舞台であるから、素晴らしくない筈がない。
   それに、女形を遣わせれば最高峰の清十郎のお初を何と言うべきか、健気で崇高でさえあるお初の瑞々しさ。
   父母への思いにくれて悶えていたお初が、意を決して、手を合わせて目を閉じて徳兵衛を見上げて、「早う殺して」と言う覚悟の顔の美しさ・・・二人が向き合い、徳兵衛の刀が光り、お初を刺した後、自分の喉を突いて倒れ込み、二人が抱き合って崩れ折れるラストシーン。
   初代玉男は、好きな女を殺せるか・・・、と言って、お初に止めを刺す時には正視出来なくて顔を背けるのだと言っていたが、
   藤十郎の歌舞伎では、お初が手を合わせて目を閉じて、ラストを暗示したところで幕が下りる。
   
   初めて鑑賞する玉男の徳兵衛と清十郎のお初の舞台であったが、感動の一言である。
   九平治を遣った勘彌の上手さも格別で、三人の人形が躍動し踊っている。
   天満屋の段の、浄瑠璃の千歳大夫と三味線の富助をはじめ、浄瑠璃と三味線の名調子は言うまでもない。
   文楽の魅力を語った希大夫、三味線の龍爾、人形の玉誉の芸達者ぶりもたいしたもので、学生たちが上手く反応して楽しんでいた。

   もう一つの舞台である和生の徳兵衛と勘十郎のお初を観たかったが文楽鑑賞教室なので、チケットがソールドアウトで、ダメであった。
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ヘンリー・ミンツバーグ著「私たちはどこまで資本主義に従うのか」

2016年05月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の原題は、Rebalancing Society: Radical Renewal Beyond Left, Right, and Center。
   我々の政治経済社会にとって、最も大切なことは、バランスの取れたソサエティを構築することであるとして、冒頭、ミンツバーグは、東欧の共産社会が崩壊した時に、資本主義の勝利だと喧伝されたが、これは誤りで、バランスの勝利であったと説き起こしている。
   すなわち、西側諸国は、政府セクター、民間セクター、多元セクターの間のバランスが十分に取れていたが、共産主義体制は、政府セクターに権力が過度に集中して、このバランスが欠けていた故に、崩壊したのだと言うのである。

   ところが、その西側の資本主義が、民間セクター、特に、法人の台頭によって強力となった企業の暴走によって、大きくバランスを崩して、リベラルな民主主義を、社会的にも、政治的にも、経済的にも、危機的な状態に追い込んでしまっている。
   このバランスを取り戻して、ソサエティを健全化するためには、政府セクターでも、民間セクターでもない、「非営利セクター」「第三のセクター」「市民社会」などと呼称されてきた「多元セクター」を活性化して、バランスの取れた民主主義へ回帰しなければならない。
   しからばどうすれば良いのか、
   その提言を、ミンツバーグは説いている。

   私は、翻訳本の場合、何度か、翻訳本のタイトルを問題にしているのだが、この本も、リベラルな民主主義への回帰のために、党派を超えた抜本的な刷新によって、バランスの取れたソサエティを取り戻そうと言う趣旨であるから、「私たちはどこまで資本主義に従うのか」では、意味をなさないと思っている。

   ところで、問題のミンツバーグの説く「多元セクター」であるが、様々な財団や宗教団体、労働組合、協同組合、多くの一流大学や一流病院、グリーンピースや赤十字のようなNGO等々色々な組織、、そして、アラブの春の民主化デモ、再生可能エネルギー推進活動と言った政府セクターにも民間セクターにも分類できない多くの団体や活動などを意図している。
   ミンツバーグは、この書物の殆ど半分を割いて、抜本的刷新以下、健全なバランスの取れたリベラル民主主義の回帰への道を説いている。
   実態の掴み難い「多元セクター」への期待であるから、分かり難い点も多いのだが、感動的な文明論だと思って読んだ。
   

   ミンツバーグは、純理論的な経営理論の信奉者ではなく、実際の経営とその実践を重視しており、経営者の資質でも、芸術的要素や右脳的要素を重視するなど、ドラッカーのように、非常に実際的な経営学者であり、私など、20世紀最高峰の経済学者であったガルブレイスを彷彿とさせる学者魂が好きである。
   このブログでも、レビューしたが、『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』(日経BP社、2006年)などは、そのあたりのミンツバーグの考え方や生きざまが良く出ていて興味深い。
   『戦略サファリ』や『H. ミンツバーグ経営論』や論文などでしか、ミンツバーグの経営学に触れる機会がなかったのだが、この本では、経営学者であるだけに、私企業の暴走や行き過ぎなど資本主義の病根については、舌鋒鋭く切り込んでいて面白い。
   もう、半世紀も前に、ガルブレイスが、
   先進国における過剰な私的生産財の供給と,貧弱な公共的財やサービスの供給との間の格差によるソーシャルバランス【social balance】の欠如が、資本主義社会を危うくすると説いていたのを思うと、偉大な学者の警世論が符合していて、興味深い。
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アルビン・E・ロス著「フー・ゲット・ホワット」

2016年05月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   経済学で、最初に学んだのは、商品の価格は、その商品に対する需要と供給によって、すなわち、右下がりの需要曲線と右上がりの供給曲線の受給曲線の交点で、価格が決まり、その動きによって需給が決定されると言う理論であり、確かに、多くの商品やサービス市場において、この理論が成り立っている。
   しかし、現実の市場は、もっと複雑であり、モノやサービスの配分が、価格だけでは需給のバランスが取れないことがあって、その調整のためには、マッチング(組み合わせ)の側面から解決しなければならないことが沢山ある。

   この本(Who Gets What and Why: The New Economics of Matchmaking and Market Design)は、このマッチメイキング理論(「安定配分理論と市場設計の実践に関する功績を称えて」)でノーベル経済学賞を受賞したアルビン・E・ロス教授の非常に興味深い本である。
   学校選び、就活、婚活、臓器移植等々、最適な「組み合わせ」が世界を変える。と言う、これまでの経済学とは全く毛色の違ったマーケット理論であって、現実に多くの問題を解決しており、実生活の役に立つ経済学であるところが面白い。

   A Nobel laureate reveals the often surprising rules that govern a vast array of activities — both mundane and life-changing — in which money may play little or no role.

   まず、マッチング理論とは、ロス教授の学生であり同僚である解説者の小島武仁准教授によると、
   様々な好みを持つ経済主体をどのように引き合わせるかや、限られた資源をどのように人々に配分するかを研究する理論である。
   人と人、人とモノ・サービスをマッチさせるマッチメイキング理論を応用して実際の制度をどのように設計すれば、最適な「組み合わせ」が実現できるのか、この「マーケットデザイン」が重要であり、その制度設計について、この数十年で得られた理論や実地の経験を踏まえたその提案や実装について、興味深いケースを取り上げて論じている。

   面白いのは、このマッチング理論の発祥は、ノーベル賞学者シャープレーとゲールによる、不倫や離婚の危険をなくす組み合わせ、不満の出ない結婚相手を探し出す数学理論によって編み出された「受け入れ保留方式」だと言うことである。
   この数学的なパズルの経済的価値が、ロス教授が立ち上げた米国の「研修医マッチング制度」のアルゴリズムと殆ど同じで、象牙の塔で研究者が抽象的な数学理論を駆使して導いた結論が、単なる空想ではなくて、現実に本当に使えるものであることが発見された。
   デジタル革命の後押しもあって、マッチメイキングと言う複雑な問題が、数学モデルで分析できると言うことが分かってくると、現実の制度の理解に加えて、より良いマーケットの制度のデザインが可能になってきたのである。

   さて、冒頭で、ロスは、ユダヤ教のラビが、万物の創造主は天地創造の後、一体何をしているのかと聞かれて、マッチメイキング(縁結び)を続けていると答えていて、円満な結婚が、如何に重要で難しいか、「紅海を割るのと同じほど難しい」のだと述べている。
   私も、最初に覚えたのは、結婚の仲人; 結婚斡旋人を意味するmatchmakerと言う単語で、あの「屋根の上のヴァイオリン弾き」でも登場する。
   このような求愛とベターハーフの選別は勿論、誰が最高の大学に入るのか、誰が最高の職に就くのか、どの末期腎不全患者が希少な移植用臓器を提供されるのか等々、人生においては、マッチングによって決められる重要なことが結構多くて、それが殆ど、マネーが絡まない組み合わせであると言うのが面白い。
   需要と供給が一致する価格で売り買いされるコモディティの市場にばかり焦点を当てていた経済学者が、金銭など全く絡まない様な腎臓提供や名門幼稚園への入学など、マッチングプロセスをデザインして希少資源の最適配分を追及すると言う画期的な道へ踏み込んだのであるから、実益のみならず、非常に興味深い。
   私など、男女の愛については、いくら精緻なコンピューターによる数学モデルの結果よりも、成功不成功は別として、一目惚れ・直覚の愛の方を信じたいのだが、この本を読んでいると、マッチメイキングによるマーケットデザインが、如何に、有効で効果的かが良く分かる。

   ロス教授は、ボストンやニューヨークの高校選択プロセスで、医学生の「マッチング」同様の「受け入れ保留アルゴリズム」を基本としたコンピュータ化されたクリアリングハウスの設置による制度を提案して成功している。
   ニューヨークの公立高校では、9万人の生徒の出願に対して、十分枠があるにも拘らず、三回の選考ラウンド終了時にも、3万人もの生徒が志望校への入学が決まらずに、最後には事務局によって適当に学校が割り当てられると言う状態であったのを、集中管理で解決したのである。
   日本もアメリカも同じで、生徒は良い志望校に入りたいし、学校は良い成績の生徒を取りたいので、成績の良い生徒は、複数の高校に合格する。最善の両者のマッチングプロセスを進めて決めて行ったので、抜け駆けも、裏口ルートも消えたと言う。

   余談だが、興味深いと思ったのは、日本同様にアメリカでも、地方の病院に、若いインターンや研修医が集まらない、地方の医師不足のことが問題となっているようだが、この問題については、いくら試みても、安定マッチングは得られないと匙を投げている。ことである。
   最新の診断・治療用機器を駆使して、さまざまな病気を持つ多くの患者の治療に関わりながら仕事を覚えられる大都市の病院を好む傾向があり、医師の将来のキャリアを大きく左右する最初の仕事としては、給与は望ましさの最も重要な基準には程遠いので、いくら給与を上げてみてもダメである。
   地方の病院にとっては、キャリアがすでにある程度固まった中堅の医師を雇う方が良い。と言うのである。
   日本でも、赤ひげのような人格高潔な人を探し出さないとダメだと言うことであろうか。
   マッチメイキングでも、マーケットデザインできない世界もあると言うことが興味深い。

   この本だが、良きマッチメイキングについて、色々な切り口からアプローチしていて、シグナリングでは、クジャクの羽から恋愛のシグナリングの話や、オークションでは、オランダの生花のオークションは、スキポールから即時空輸されるので時間が命であるから、取引時間短縮のために、下げオークションであるなど、興味深い話が随所に展開されていて、とにかく、面白い。
   この「ダッチオークション」だが、私自身、スキポール近郊のアールスメール花市場 のオークションを見たので知っているが、針が高い金額から急速に下がって行くので、瞬時に落札が決まり、流石に、オランダだと思ったことがある。

   この本は、タイトル通り「マッチメイキングとマーケットデザインの新しい経済学」で、私の学生の頃の経済学とは様変わりの経済学の本である。
   ケインズやフリードマン、シュンペーターやガルブレイスなどに没頭していたあの頃にはなかった、行動経済学や複雑系経済学などの新しい分野も面白そうだし、老骨に鞭を打って、もう一度学校に帰りたくなっている。
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国立能楽堂・・・能「鉄輪」の鬼について

2016年05月15日 | 能・狂言
   今月2回目の国立能楽堂主催公演で、「普及公演」。上演前に、浅見和彦教授の能楽案内「京都から読み解く鉄輪の世界」と言う解説があり、面白い。

   この「鉄輪」については、先月訪れたので、、京都での能舞台の旅紀行で「貴船神社」について書いた。
   今回は、公演のことではなく、鉄輪の鬼の不思議について考えてみたいと思う。

   この能は、
   下京あたり(浅見さんは五条あたりだと言う)に住む女が、夫の心変わりに怒って、恨みを晴らすべく思い知らせてやろうと、貴船神社に丑刻参りをしている。明神に霊夢を授けられた社人が、女に、鉄輪の3本の足に松明を灯して頭に頂き、顔に丹を塗り赤い着物を着て怒りの心を保ったなら鬼になると、お告げを伝える。
   夢見が悪くて悩んだ下京あたりの男が、安倍清明に会って命は今夜限りと言われたので、恐怖に慄いて救命すべく祈祷を頼み、祭壇を整え調伏を試みてもらう。
   霊夢を信じて鬼と化して生霊となった女が現れて、夫と後妻の命を奪おうと祭壇に襲い掛かるのだが、清明の祈祷によって現れた三十番神に阻まれて殺せず、「時節を待つ」と言って退散する。
   と言ったストーリー展開である。

   浅見さんが語っていたので調べたら、京都市下京区堺町通松原下る鍛冶屋町に命婦稲荷社(鉄輪社 鉄輪の井戸)があって、ここに、”「鉄輪塚」と呼ばれる塚と井戸があり、これは或る女が自分を捨てた亭主を祈り殺そうと、貴船へ丑の刻詣りをしたが満願を前に志を遂げず、この辺りで亡くなったのを葬った塚で身投げをした井戸だといわれている。”と言うことで、能「鉄輪」と同じである。

   さて、これが実話となると、五条から貴船神社までは、ほぼ、15~6キロだと言うとかなり遠い山道を、深夜に女が通ったことになる。
   この能の詞章の道行を辿ると、下鴨神社のある糺の森から、深泥池、市原野を通って歩いているので、今の40号線から38号線を経て361号線あたりを真っすぐに北上して、鞍馬川の支流貴船川に沿って貴船神社に達している。
   今、鞍馬へ通じている叡電は、深泥池よりもずっと八瀬・比叡山に近い宝ヶ池の方へ大きく東に迂回しており、バスルートがないので、私は、このルートしか知らない。

   京都観光naviによると、鞍馬街道は、
   北区鞍馬口町から賀茂川の出雲路橋を渡り、下鴨中通を北上、鞍馬川の谷をさかのぼって鞍馬寺門前に至る12キロの道。今も消費物資の重要ルート。貴船神社・鞍馬寺への参詣道として平安期から利用され、室町期には軍事街道の一つでもあった。と言うので、女は、この道を辿ったのであろうか。
   しかし、下京から糺の森まででも、歩けば1時間で行けるかどうか分からないし、街道と言っても、おそらく、当時の貴船神社への道は、殆ど道なき山道であった筈で、女性の足で、一日で、簡単に往復できるとは、一寸、思えないのである。
   
   さて、それよりも、もっと、気になるのは、これほどまでの難行苦行を重ねてまで、貴船神社への丑刻参りを続けようと言う、この主人公の女の怨念と言うか執念と言うか、その強烈さである。
   女性の強さ逞しさは、随所で、経験していて知っているつもりだが、恐らく、男には、あり得ない様な激しい精神状態ではないかと思う。

   しかし、馬場あき子さんは、「能・よみがえる情念」で、「鉄輪」は、女が一つの情念、念力によって鬼になると言う話であり、鬼になれば、生殺与奪の権を全部手中に収めていながら、元夫を殺せなかったのは、夫にまだ愛の未練を残していたからだと言う。
   激しい怒りによって、女を捨て、人間を捨て、この世を捨てて鬼の世界に入ったのだが、人間的な悲しみ、夫に対する愛を土壇場になっても捨てきれなかった形だけの鬼であった。「鉄輪」の鬼の特質は、未練な愛を残した哀れさ、悲しさにあると言うのである。
   殺そうと息巻いて二人の閨に乗り込んでおきながら、枕上に立って、「いかに殿御よ、珍しや(お久しぶり)」などと言って、愛を交わした日々をかき口説くのであるから、さもあろう。
   安倍清明の祈祷調伏の結果だけではなく、作者の意図だったのであろうか、先の「鉄輪塚」の満願を果たせず入水したとの言い伝えとはニュアンスが違っていて面白い。

   貴船神社のHPによると、
   貴船神社が「恋を祈る神社」として知られるようになったのは、今から千年もの昔、宮廷の女流歌人として名高い和泉式部が、夫の心変わりに悩んだ末に貴船神社に参詣し、夫との復縁を祈願したところ、願いが叶えられたという話に始まる。
   ウィキペディアによると、和泉式部は、”恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。”と言うことであるから、どこまで、真面目に考えれば良いのか分からないが、愛に悶え恋に悩む平安女性たちが、賀茂川を遡って、貴船神社へ参っていたことは、確かなようである。

   当時は、男がほかの女性に心変わりをした場合、同性の恋敵に恨みの矛先を向けるのが普通で、後妻打ち(うらなりうち)と言う風習があって、日本の中世から江戸時代にかけて、夫が妻を離縁して後妻と結婚すると、先妻が予告した上で後妻の家を襲ったと言う。
  能の「葵上」や「夕顔」などで、六条御息所が生霊として現れて、葵上や夕顔に祟って、問題の浮気男(?)の源氏に、恨みをぶっつけないのだが、この能「鉄輪」は、珍しく、元夫を標的にして苦しめるところが面白い。

   尤も、この能では、後シテの女の生霊が、祭壇に形代として載せた後妻を示す鬘を手に巻き付けて打ち据えて、放り捨てると言う激しくも鬼気迫るシーンが展開されて、怒りの激しさを示す。
   
   この日の能・金春流「鉄輪」は、
   前シテ/女(泥眼)、 後シテ/女の生霊(橋姫) 本田光洋
   ワキ/安倍清明 大日方寛、ワキツレ/男 御厨誠吾、アイ/社人 松本薫
   
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わが庭・・・私のピンクのばらたち

2016年05月14日 | わが庭の歳時記
   ピンクは、やはり、典型的なばらの色である。
   La Vie en rose、エディット・ピアフが歌った『ばら色の人生』
   私には、縁のない世界だが、ほのぼのとした明るい美しさが魅力である。

   イングリッシュローズのアブラハム・ダービーだが、咲きかけと最盛期はアプリコットピンクだが、咲き切って散る寸前には、淡いピンク色に変わる。
   
        

   ベルサイユの薔薇の系統のフェルゼン伯爵だが、京成バラ園のHPでは、淡いブルーのばらだと思ったのだが、タキイの苗を育てたら、株の個性にもよるであろうが、ブルーがかった微妙なピンクの色合いであった。
   
   

   プリンセス・アンは、非常に繊細な花と言った感じで、咲き始めは清楚な感じで、非常に大人しいのだが、咲き切ると、蕊からのグラデュエーションが面白い。
   最後には、ポンポンダリアのような毬状の花になるのだが、かなり花持ちが良い。 
   
   
   
   
   私の庭では、花房も大きくて豊かなプリンセス・アレクサンドラ・オブ・ケントが、一番風格があって豪華なのではなかろうか。
   アブラハム・ダービーと同じで、オレンジが少し乗っていた花びらが、咲き切るとカップ咲きが鮮明となりピンクが強くなって、一番外側の花びらから更に外側に巻き上がって行く。
   
   

   一番は花付きが良くて、典型的な房状に咲いて、ブーケのように豪華なのは、「あおい」。
   京都の雅を感じさせる微妙な赤紫の花色で、私には、一番育てやすいばらである。
   
   

   実に優雅で美しいのは、ハンスゲーネバイン
   この何とも言えないにおい立つような淡いピンクの美しさは格別で、昨年、初めて咲いた時には、非常に感激したのを覚えている。
   
   

   さて、ついでながら、ピンク以外のばらについて。 
   まだ、蕾がかたくて咲いていないばらもあるのだが、咲き始めたのは、白いイングリッシュローズのレッチフィールド・エンジェル、そして、京成バラ園の淡い黄色の快挙。
   
   

   アプリコットピンクのイングリッシュローズのグレイスは、名前通りに、中輪ながら丸く毬のように形を変えてドーム状のロゼット咲きになる、優雅なばらである。
   

   ミニばらでは、名前は分からなくなったのだが、ドリフトローズなど、少しずつ咲き始めていて面白い。
   
   

   まだ、咲きそろっていないのだが、わが庭のショットを、
   
   
   
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国立小劇場・・・文楽「絵本太閤記」

2016年05月13日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の文楽は、文楽鑑賞教室「解説・文楽の魅力/曽根崎心中」(他に社会人/外国人)が主体のような感じで、私が観た恒例の5月文楽公演の方は、「絵本太功記」ながら、少し寂しい感じであった。
   しかし、初日の舞台を観て、改めて、文楽の「絵本太閤記」の良さを実感し、補助金問題や人間国宝の引退等で弱体化が危惧されていた文楽界の層の厚さとその素晴らしい実力に感じ入ったのである。
   本来なら15日に行く予定が、私用でダメになり、両プログラムとも、早くから、チケットがソールドアウトで諦めていたのだが、直前に、国立劇場チケットセンターのHPを叩いていたら、いくらかチケットが出て、幸いにも、鑑賞の機会を得たのである。

   さて、「太閤記」の主人公は、本来なら当然太閤豊臣秀吉だが、文楽「絵本太功記」の主人公は、悲劇の智将明智光秀となっている。
   我々が、良く観る舞台は、歌舞伎で言う太十、十段目「尼ヶ崎の段」で、逆賊の汚名を着た光秀が、秀吉だと見誤って自分の母親を刺し殺し、戦場で深手を負って瀕死の状態で帰還してきた息子から、味方の敗北を伝え聞き、最愛の二人に先立たれると言う切羽詰まった悲壮感に満ちたシーンなので、余計に、光秀の悲劇が強調されてくる。

   平成15(2003)年4月と5月の桐竹勘十郎の「襲名披露狂言」で、この「絵本太閤記」の夕顔棚と尼崎の段が上演された。
   武智光秀は、当然、桐竹勘十郎だが、武智十次郎に吉田玉男、嫁初菊に吉田簑助、妻操に吉田文雀、母さつきに桐竹紋壽、
   そして、尼ケ崎の段の浄瑠璃と三味線は、切 豊竹嶋大夫 鶴澤清介 奥 豊竹咲大夫 豊澤富助、
   と言う文楽界挙げての錚々たる演者による舞台が実現している。
   その後、平成19(2007)年 5月に、この国立劇場で、通し狂言が実現しているので、私は、2度、素晴らしい文楽「絵本太閤記」の舞台を鑑賞したことになる。
   平成12(2000)年5月の公演にも、行っている筈だが、全く記憶にないのだが、歌舞伎でも、太十は、何回か観ているので、この夕顔棚と尼ケ崎の段は、かなり、印象に残っている。

   この舞台を鑑賞しながら、いつも思うのだが、母さつき(玉也)が言うように、光秀(玉志)を、主に弓引いた悪逆な謀反人として糾弾するのが正しいのか、光秀の説くように、天命を失った暴虐な独りよがりの天下人を討って革命を起こすのが正しいのか、と言う疑問で、この段では、当然ながら、その両者の主張がかみ合わずに、「また、改めて、山崎の天王山で」で終わっていることである。
   史実とは異なっているので、何とも言えないのだが、そう言う疑問を感じて舞台を観ていると、私など、明智光秀謀叛の理由はともかく、どちらかと言えば、光秀の方が正しいと思っているので、母さつきや妻操(簑二郎)の言い分の方が、女の短慮と言うか理不尽のように思えて、悲劇の本質が全く変わってしまうのである。
   親子の愛情を身に染みて感じながら慟哭する光秀の思いは、それを越えた正義の貫徹への挫折、天命に見放された苦悶苦痛の方が色濃い筈であろうと思う。
   そう思えば、この舞台の主役は、母さつきと言うよりも、光秀の方にもっと比重が行くのだが、この太十に関しては、母さつきの立場と、光秀の立場になったつもりで、思いを切り替えながら観ている。

   さて、大詰は「大徳寺焼香の段」で、武智光秀が、天王山の戦いで真柴久吉に敗れて逝った後、春永の法要が営まれて、春長の孫・三法師丸を伴って現れた久吉が、柴田勝家に屈辱を味わわせて、後日の対決を意図して終わっている。ので、一応、「太閤記」なのであろう。

   失礼な話だとは思っているのだが、私など未熟者は、どうしても素人考えが先に立って、人形についても、スター人形遣いの舞台に注目が行くのだが、今回、さつきを遣っている玉也を筆頭に、人形遣いの人々は、素晴らしい舞台を演出していて、感激の一言であった。
   珍しくも、早々に、チケットが完売するのも、当然と言うことであろう。

   ところで、いつも、どうしても人形にばかり集中するのだが、今回は、席が上手側にあって床が斜め正面に見えていた所為もあって、特に、浄瑠璃と三味線に、注目して鑑賞させてもらった。
   シェイクスピア戯曲を聴くと言うのと同じで、本来は、浄瑠璃を聴くと言うのが本筋であろうが、いつも、演劇や歌舞伎を見るのと同じ感覚で、芝居を観ると言う姿勢になってしまうのである。
   客席後方で、引退された嶋大夫が観劇されていたのだが、浄瑠璃と三味線は、妙心寺の段の奥の、呂勢大夫と錦糸、尼ケ崎の段の、文字久大夫と藤蔵、津駒大夫と清介をはじめ、素晴らしい熱演で、改めて、浄瑠璃を、三業でパーフォーマンス・アーツとして創り上げた日本芸術の素晴らしさに感じ入っていた。
   
   
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