最近観たヴェルディのオテロは、日本に来たムーティ指揮のスカラ座とロンドンのペッパーノ指揮のロイヤル・オペラで、印象深かったのはロンドンのルネ・フレミングのデズデモーナであった。
今回のオペラは、小澤征爾が指揮する東京のオペラの森・オペラ公演なので期待していたが、小澤は病気で欠場で、ウィーン国立歌劇場も、来年の4月からのワーグナーの「さまよえるオランダ人」で復帰するまで休演で、新日本フィルの5月の定期もアルミンクに代わった。
松本のサイトウ・キネンには、復帰したいとメールで伝えていたが、やはり、小澤征爾の居ないサイトウ・キネン・フェステイバル松本など考えられないのかも知れない。プログラムには小澤征爾の名前が載ったままだが、チケット販売を延期している。
私は、30日の公演を聴いたが、病気休演していたタイトルロールを歌うクリフトン・フォービスも復帰して、結果的には、水準の高いオテロで大満足であった。
ウィーン国立歌劇場との共同制作であり、代役で指揮したフィリップ・オーギンのバトンも冴えていて、東京のオペラの森オーケストラから、豊かで芳醇なサウンドを引き出していた。
NHKのカメラが入っていたが、昔、カラヤンが、カルメンなど同じ演出を世界のトップ歌劇場で公演し、レコードやビデオにも残すなど一連のシリーズ展開をしていたが、そのようなプロジェクトが進むと楽しい。
これまで観たオテロの舞台は、比較的舞台や衣装に凝った史実にマッチした演出であったが、今回は舞台設定が非常にシンプルでモダンであった為に、印象が随分変わった。
舞台中央に、間口4~5間、奥行き2~3間、高さ1メートル程度の長方形のプラットフォームが設置されていて、上部は磨りガラス状で下からカラーの照明があたる。一幕の愛の二重唱の場ではブルーに、二幕のオテロに怒りの場ではレッドに、と言った調子である。
最初から最後まで常置されているのはこの台だけで、重要な場面になると回転し、最後は菱形状に止まった。
このプラットフォームを使って、上下の舞台を上手く使い分けているが、上からシースルーのカーテンがカヤの様に降りてくるとベッドに早変わりする。
時には、このプラットフォームをコ型に囲むように階段状の舞台が競りあが
り、中央の高みから大使などが登場したり、群集コーラスのヒナ段になったりする。
衣装も極めてシンプルで、デズデモーナなど白のノースリーブのドレス姿、オテロも軽い着衣で正装の時はガウンを羽織るだけと言った調子である。
群集は、黒か白のモノトーンの単純な衣装が主体で、顔や手には絵の具を塗りたくっていたり右目の周りをパンダ様に白塗りしたり、しかし、一幕以外は舞台が暗いので、結構効果的である。
第3幕のイアーゴがあることないこと焚き付けてオテロを狂気に追い込む最後の場は、イアーゴは、正気を失って倒れたオテロを台から蹴落としてハンカチを顔に投げつける。
第4幕の終幕、オテロがデズデモーナを殺そうとすると、デズデモーナは、手に持ったナイフで防戦する。このナイフが床に転げたままだが、最後に、オテロが拾い上げてこのナイフで自害する。
殺されたデズデモーナは、群集によって舞台から運び出されるのでオテロは1人でベッド上で死ぬが、最後の音楽と共に照明器具の付いたむき出しの天井が上からオテロを押しつぶすように降りてきて幕となる。
デズデモーナが気遣って差し出す例のハンカチをオテロが投げつけ、エミーリアが拾ってイアーゴに渡す件は平凡であったが、とにかく、舞台や演出などが思っていた以上に斬新で非常に新鮮なオテロで、ある意味ではやり過ぎ行き過ぎ。
見方によっては、自己満足に陥るなど危険もあるが、むしろ、今回の演出は、RSCやロイヤル・シアターのシェイクスピアの舞台を観ているような感じがした。
ドミンゴが色々な著書に書いているオテロの舞台と隔世の感があるような気がしたが、私が、ドミンゴのオテロをロンドンで観たのは、もう10何年も前のことで、これも時代の流れ、仕方がないのかも知れない。
真っ黒に化粧をした端正なオテロのクリフトン・フォービスだが、朗朗と響き渡る美声は素晴しく、トリスタンやジークムントを歌っているようだが、是非、ワーグナーの舞台を観たいと思った。それに、オテロを緻密に演じるなど舞台での心理描写が実に上手いと思って、双眼鏡を外さずに観ていた。
何故、デズデモーナのような女性が生まれたのか、文学的には色々言われているが、純粋無垢、疑いを知らない理想の女性としてヴェルディは描いたのかも知れない。とにかく、平和と富と文化、即ち、文明社会ヴェニスの象徴であるデズデモーナを妻にして虎の尾を踏んでしまったオテロの末路をフォービスは感動的に演じていた。
このデズデモーナのクラッシミラ・ストヤノヴァであるが、ギオルギューのように舞台姿の美しいソプラノだが、キャリアを見ると非常に器用と言うか、ワーグナー以外は殆どレパートリーに入っている感じで、若々しくて澄み切った素晴しい歌声が清楚で感激的であった。
私の実際の舞台で印象に強く残っているのは、やはり、キリ・テ・カナワとルネ・フレミングであるが、いずれも素晴しい成熟したデスデモーナである。
しかし、本当のデズデモーナは、非常に若くて人生の荒波に揉まれていない若い新妻、そんなイメージのデズデモーナに近い歌声を聴いて幸せであった。
イアーゴを歌ったラード・アタネッリだが、イアーゴはシェイクスピアの戯曲では、一時、オテロに変わって主役になりかけた極めて重要な役。
最初は素晴しい美声に圧倒されてしまったが、メリハリの利いた個性的な顔は、メフィストファーレスやドラキュラーを演じても可笑しくない風貌で、悪役のイアーゴにうってつけ、それに、演技も上手い。
ロイヤル・オペラでパリアッチを観た時、アタネッリは、カニオのドミンゴと共演してトニオを歌っていたが、私は、ドミンゴ指揮でデニス・オニールのカニオ、アルベルト・マストロマリーノのトニオだったので、数日違いで聞き逃した。
最初から最後まで、圧倒されながら聴いていたので、その良さが何処にあるのか知らぬ間に終わってしまったが、指揮者フィリップ・オーギンの実力は大変なものなのであろう。
ロドヴィーコのダン=ポール・デゥミトレスク、エミーリアの牧野真由美など他のソリストも上手い。オーケストラと合唱団の実力と水準は可なりの高さで、オペラ全体は世界のヒノキ舞台のオペラ劇場とそれ程遜色はないように感じて聞いていた。
今回のオペラは、小澤征爾が指揮する東京のオペラの森・オペラ公演なので期待していたが、小澤は病気で欠場で、ウィーン国立歌劇場も、来年の4月からのワーグナーの「さまよえるオランダ人」で復帰するまで休演で、新日本フィルの5月の定期もアルミンクに代わった。
松本のサイトウ・キネンには、復帰したいとメールで伝えていたが、やはり、小澤征爾の居ないサイトウ・キネン・フェステイバル松本など考えられないのかも知れない。プログラムには小澤征爾の名前が載ったままだが、チケット販売を延期している。
私は、30日の公演を聴いたが、病気休演していたタイトルロールを歌うクリフトン・フォービスも復帰して、結果的には、水準の高いオテロで大満足であった。
ウィーン国立歌劇場との共同制作であり、代役で指揮したフィリップ・オーギンのバトンも冴えていて、東京のオペラの森オーケストラから、豊かで芳醇なサウンドを引き出していた。
NHKのカメラが入っていたが、昔、カラヤンが、カルメンなど同じ演出を世界のトップ歌劇場で公演し、レコードやビデオにも残すなど一連のシリーズ展開をしていたが、そのようなプロジェクトが進むと楽しい。
これまで観たオテロの舞台は、比較的舞台や衣装に凝った史実にマッチした演出であったが、今回は舞台設定が非常にシンプルでモダンであった為に、印象が随分変わった。
舞台中央に、間口4~5間、奥行き2~3間、高さ1メートル程度の長方形のプラットフォームが設置されていて、上部は磨りガラス状で下からカラーの照明があたる。一幕の愛の二重唱の場ではブルーに、二幕のオテロに怒りの場ではレッドに、と言った調子である。
最初から最後まで常置されているのはこの台だけで、重要な場面になると回転し、最後は菱形状に止まった。
このプラットフォームを使って、上下の舞台を上手く使い分けているが、上からシースルーのカーテンがカヤの様に降りてくるとベッドに早変わりする。
時には、このプラットフォームをコ型に囲むように階段状の舞台が競りあが
り、中央の高みから大使などが登場したり、群集コーラスのヒナ段になったりする。
衣装も極めてシンプルで、デズデモーナなど白のノースリーブのドレス姿、オテロも軽い着衣で正装の時はガウンを羽織るだけと言った調子である。
群集は、黒か白のモノトーンの単純な衣装が主体で、顔や手には絵の具を塗りたくっていたり右目の周りをパンダ様に白塗りしたり、しかし、一幕以外は舞台が暗いので、結構効果的である。
第3幕のイアーゴがあることないこと焚き付けてオテロを狂気に追い込む最後の場は、イアーゴは、正気を失って倒れたオテロを台から蹴落としてハンカチを顔に投げつける。
第4幕の終幕、オテロがデズデモーナを殺そうとすると、デズデモーナは、手に持ったナイフで防戦する。このナイフが床に転げたままだが、最後に、オテロが拾い上げてこのナイフで自害する。
殺されたデズデモーナは、群集によって舞台から運び出されるのでオテロは1人でベッド上で死ぬが、最後の音楽と共に照明器具の付いたむき出しの天井が上からオテロを押しつぶすように降りてきて幕となる。
デズデモーナが気遣って差し出す例のハンカチをオテロが投げつけ、エミーリアが拾ってイアーゴに渡す件は平凡であったが、とにかく、舞台や演出などが思っていた以上に斬新で非常に新鮮なオテロで、ある意味ではやり過ぎ行き過ぎ。
見方によっては、自己満足に陥るなど危険もあるが、むしろ、今回の演出は、RSCやロイヤル・シアターのシェイクスピアの舞台を観ているような感じがした。
ドミンゴが色々な著書に書いているオテロの舞台と隔世の感があるような気がしたが、私が、ドミンゴのオテロをロンドンで観たのは、もう10何年も前のことで、これも時代の流れ、仕方がないのかも知れない。
真っ黒に化粧をした端正なオテロのクリフトン・フォービスだが、朗朗と響き渡る美声は素晴しく、トリスタンやジークムントを歌っているようだが、是非、ワーグナーの舞台を観たいと思った。それに、オテロを緻密に演じるなど舞台での心理描写が実に上手いと思って、双眼鏡を外さずに観ていた。
何故、デズデモーナのような女性が生まれたのか、文学的には色々言われているが、純粋無垢、疑いを知らない理想の女性としてヴェルディは描いたのかも知れない。とにかく、平和と富と文化、即ち、文明社会ヴェニスの象徴であるデズデモーナを妻にして虎の尾を踏んでしまったオテロの末路をフォービスは感動的に演じていた。
このデズデモーナのクラッシミラ・ストヤノヴァであるが、ギオルギューのように舞台姿の美しいソプラノだが、キャリアを見ると非常に器用と言うか、ワーグナー以外は殆どレパートリーに入っている感じで、若々しくて澄み切った素晴しい歌声が清楚で感激的であった。
私の実際の舞台で印象に強く残っているのは、やはり、キリ・テ・カナワとルネ・フレミングであるが、いずれも素晴しい成熟したデスデモーナである。
しかし、本当のデズデモーナは、非常に若くて人生の荒波に揉まれていない若い新妻、そんなイメージのデズデモーナに近い歌声を聴いて幸せであった。
イアーゴを歌ったラード・アタネッリだが、イアーゴはシェイクスピアの戯曲では、一時、オテロに変わって主役になりかけた極めて重要な役。
最初は素晴しい美声に圧倒されてしまったが、メリハリの利いた個性的な顔は、メフィストファーレスやドラキュラーを演じても可笑しくない風貌で、悪役のイアーゴにうってつけ、それに、演技も上手い。
ロイヤル・オペラでパリアッチを観た時、アタネッリは、カニオのドミンゴと共演してトニオを歌っていたが、私は、ドミンゴ指揮でデニス・オニールのカニオ、アルベルト・マストロマリーノのトニオだったので、数日違いで聞き逃した。
最初から最後まで、圧倒されながら聴いていたので、その良さが何処にあるのか知らぬ間に終わってしまったが、指揮者フィリップ・オーギンの実力は大変なものなのであろう。
ロドヴィーコのダン=ポール・デゥミトレスク、エミーリアの牧野真由美など他のソリストも上手い。オーケストラと合唱団の実力と水準は可なりの高さで、オペラ全体は世界のヒノキ舞台のオペラ劇場とそれ程遜色はないように感じて聞いていた。