熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

小澤征爾の振らなかったヴェルディ「オテロ」・・・モダンな演出だが感動的

2006年03月31日 | クラシック音楽・オペラ
   最近観たヴェルディのオテロは、日本に来たムーティ指揮のスカラ座とロンドンのペッパーノ指揮のロイヤル・オペラで、印象深かったのはロンドンのルネ・フレミングのデズデモーナであった。

   今回のオペラは、小澤征爾が指揮する東京のオペラの森・オペラ公演なので期待していたが、小澤は病気で欠場で、ウィーン国立歌劇場も、来年の4月からのワーグナーの「さまよえるオランダ人」で復帰するまで休演で、新日本フィルの5月の定期もアルミンクに代わった。
   松本のサイトウ・キネンには、復帰したいとメールで伝えていたが、やはり、小澤征爾の居ないサイトウ・キネン・フェステイバル松本など考えられないのかも知れない。プログラムには小澤征爾の名前が載ったままだが、チケット販売を延期している。

   私は、30日の公演を聴いたが、病気休演していたタイトルロールを歌うクリフトン・フォービスも復帰して、結果的には、水準の高いオテロで大満足であった。
   ウィーン国立歌劇場との共同制作であり、代役で指揮したフィリップ・オーギンのバトンも冴えていて、東京のオペラの森オーケストラから、豊かで芳醇なサウンドを引き出していた。
   NHKのカメラが入っていたが、昔、カラヤンが、カルメンなど同じ演出を世界のトップ歌劇場で公演し、レコードやビデオにも残すなど一連のシリーズ展開をしていたが、そのようなプロジェクトが進むと楽しい。

   これまで観たオテロの舞台は、比較的舞台や衣装に凝った史実にマッチした演出であったが、今回は舞台設定が非常にシンプルでモダンであった為に、印象が随分変わった。
   舞台中央に、間口4~5間、奥行き2~3間、高さ1メートル程度の長方形のプラットフォームが設置されていて、上部は磨りガラス状で下からカラーの照明があたる。一幕の愛の二重唱の場ではブルーに、二幕のオテロに怒りの場ではレッドに、と言った調子である。
   最初から最後まで常置されているのはこの台だけで、重要な場面になると回転し、最後は菱形状に止まった。
   このプラットフォームを使って、上下の舞台を上手く使い分けているが、上からシースルーのカーテンがカヤの様に降りてくるとベッドに早変わりする。

   時には、このプラットフォームをコ型に囲むように階段状の舞台が競りあが
り、中央の高みから大使などが登場したり、群集コーラスのヒナ段になったりする。

   衣装も極めてシンプルで、デズデモーナなど白のノースリーブのドレス姿、オテロも軽い着衣で正装の時はガウンを羽織るだけと言った調子である。
   群集は、黒か白のモノトーンの単純な衣装が主体で、顔や手には絵の具を塗りたくっていたり右目の周りをパンダ様に白塗りしたり、しかし、一幕以外は舞台が暗いので、結構効果的である。

   第3幕のイアーゴがあることないこと焚き付けてオテロを狂気に追い込む最後の場は、イアーゴは、正気を失って倒れたオテロを台から蹴落としてハンカチを顔に投げつける。
   第4幕の終幕、オテロがデズデモーナを殺そうとすると、デズデモーナは、手に持ったナイフで防戦する。このナイフが床に転げたままだが、最後に、オテロが拾い上げてこのナイフで自害する。
   殺されたデズデモーナは、群集によって舞台から運び出されるのでオテロは1人でベッド上で死ぬが、最後の音楽と共に照明器具の付いたむき出しの天井が上からオテロを押しつぶすように降りてきて幕となる。

   デズデモーナが気遣って差し出す例のハンカチをオテロが投げつけ、エミーリアが拾ってイアーゴに渡す件は平凡であったが、とにかく、舞台や演出などが思っていた以上に斬新で非常に新鮮なオテロで、ある意味ではやり過ぎ行き過ぎ。
   見方によっては、自己満足に陥るなど危険もあるが、むしろ、今回の演出は、RSCやロイヤル・シアターのシェイクスピアの舞台を観ているような感じがした。
   ドミンゴが色々な著書に書いているオテロの舞台と隔世の感があるような気がしたが、私が、ドミンゴのオテロをロンドンで観たのは、もう10何年も前のことで、これも時代の流れ、仕方がないのかも知れない。

   真っ黒に化粧をした端正なオテロのクリフトン・フォービスだが、朗朗と響き渡る美声は素晴しく、トリスタンやジークムントを歌っているようだが、是非、ワーグナーの舞台を観たいと思った。それに、オテロを緻密に演じるなど舞台での心理描写が実に上手いと思って、双眼鏡を外さずに観ていた。
   何故、デズデモーナのような女性が生まれたのか、文学的には色々言われているが、純粋無垢、疑いを知らない理想の女性としてヴェルディは描いたのかも知れない。とにかく、平和と富と文化、即ち、文明社会ヴェニスの象徴であるデズデモーナを妻にして虎の尾を踏んでしまったオテロの末路をフォービスは感動的に演じていた。

   このデズデモーナのクラッシミラ・ストヤノヴァであるが、ギオルギューのように舞台姿の美しいソプラノだが、キャリアを見ると非常に器用と言うか、ワーグナー以外は殆どレパートリーに入っている感じで、若々しくて澄み切った素晴しい歌声が清楚で感激的であった。
   私の実際の舞台で印象に強く残っているのは、やはり、キリ・テ・カナワとルネ・フレミングであるが、いずれも素晴しい成熟したデスデモーナである。
   しかし、本当のデズデモーナは、非常に若くて人生の荒波に揉まれていない若い新妻、そんなイメージのデズデモーナに近い歌声を聴いて幸せであった。

   イアーゴを歌ったラード・アタネッリだが、イアーゴはシェイクスピアの戯曲では、一時、オテロに変わって主役になりかけた極めて重要な役。
最初は素晴しい美声に圧倒されてしまったが、メリハリの利いた個性的な顔は、メフィストファーレスやドラキュラーを演じても可笑しくない風貌で、悪役のイアーゴにうってつけ、それに、演技も上手い。
   ロイヤル・オペラでパリアッチを観た時、アタネッリは、カニオのドミンゴと共演してトニオを歌っていたが、私は、ドミンゴ指揮でデニス・オニールのカニオ、アルベルト・マストロマリーノのトニオだったので、数日違いで聞き逃した。

   最初から最後まで、圧倒されながら聴いていたので、その良さが何処にあるのか知らぬ間に終わってしまったが、指揮者フィリップ・オーギンの実力は大変なものなのであろう。

   ロドヴィーコのダン=ポール・デゥミトレスク、エミーリアの牧野真由美など他のソリストも上手い。オーケストラと合唱団の実力と水準は可なりの高さで、オペラ全体は世界のヒノキ舞台のオペラ劇場とそれ程遜色はないように感じて聞いていた。
   


   
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最澄と天台の国宝展、そして、天寿国緞帳と聖徳太子像

2006年03月30日 | 展覧会・展示会
   5月7日まで、上野の東京国立博物館で「最澄と天台の国宝展」が開かれている。
   上野の森のさくらは丁度満開で、観光客でごった返しているが、陽気に騒ぐ人々を尻目に国立博物館へ。しかし、この方も大変な人気で、国宝の六道絵15幅を見るのに列に並んだら30分以上もかかってしまった。
   聖衆来迎寺の六道絵で、断片的には結構美術書等で見ているのだが、閻魔大王の裁きの場から、とにかく、纏めてみると凄い地獄絵が並んでいてその凄まじさに圧倒されてしまった。

   延暦寺には学生時代に何度か行ったきりで、何十年も行っていないが、若かったので、帰りは延暦寺から山道を坂本まで歩いて電車で宝塚まで帰ったことがある。
   したがって、今回この展覧会で見た国宝や重文の展示品は殆ど始めてで、今回は、イヤーホーン・ガイドを借りて丹念に見て回った。
   あの信長が焼き討ちにした延暦寺だが、末寺も多く素晴しい宝物が沢山残っている。

   後期の展示と言うことで、今回は、国宝の伝教大師・最澄像と曼殊院の黄不動がなかったのが残念であった。
   特に、赤、青の国宝のお不動さんは見ているが、前回は、曼殊院で代わりに置かれていた写真パネルしか見ていないので、是非見たかった。4月末頃また出かけて来ようと思っている。

   最澄の直筆は勿論、嵯峨天皇や小野道風の書を見てその素晴しさに感激した。
   台北の故旧博物館で素晴しい中国の書を沢山見た、あの時の感激が蘇ってきた。

   仏像で美しいのは、チケットの図案に使われている横川中堂の本尊の聖観音菩薩像である。
   興味を引いたのは、秘仏中の秘仏で50年に一回しか開帳しないと言う善水寺の薬師如来坐像(重文)が煌びやかな勇姿を開陳されていること。
   四天王寺の阿弥陀三尊像で、両脇侍が片足を上げて立っているのも、永観堂の見返り観音のように愛嬌があって面白い。

   頼朝の菩提を弔う為に運慶・湛慶が彫ったと言う梵天立像・帝釈天立像が、後補とは言え鮮やかに彩色されていて実に美しい。仏像と言うと、何となく地肌の見えた古色蒼然としているのが有難い様に思うが、本来は、極彩色か金色に彩色されていた筈で、それはそれなりに美しい、日本の美は、歌舞伎や能のように煌びやかな極彩色の世界が本来ではないかと思う。
   東大寺の法華堂の不空羂索観音の背後にある黒厨子に納められている執金剛神像だが、長い間秘仏だった所為か、残っている彩色の鮮やかさと美しさは格別であり、建立当時の仏像はさぞ光り輝いていたのであろう。
   一寸雰囲気が違うが、松島の瑞巌寺にある高村光雲の観音像の美しさに打たれたのを思い出した。

   絵画は、肖像画が多かったが、特に、法華経の信者を守ると言われる普賢菩薩が白象の上に端座した綺麗な菩薩像が、緑とオレンジの彩色が鮮やかである。
   当然、経本も多く展示されていたが、一字一字が、オレンジとグリーン、そして、金銀で描かれた蓮の花の上に書かれている福島県龍興寺の一字蓮台法華経巻第三が美しかったが、同じ様な経本を弘法大師関連のお寺で見たような気がした。

   時間が十分なかったのだが、急いで法隆寺館に行き、特別展「国宝天寿国繡帳と聖徳太子像展」を見た。
   あの懐かしい中宮寺の「天寿国繡帳」。若い頃は、良く法隆寺を訪ねて、夢殿の裏の中宮寺を訪れて弥勒菩薩とこの天寿国繡帳を見た。小さな尼寺で、手の届く所に展示されていて良く細部まで見えた。
   今回は、7歳の聖徳太子像とともに、東院の絵殿を飾っていたと言う障子絵「国宝聖徳太子絵伝」が10面展示されていた。
   絵伝の方は、退色と剥離が酷くてよく分からなかったが、初期の大和絵としては貴重だと言う。

   常設展をゆっくり見て、庭に設置されている鶴屋吉信の仮設喫茶でお菓子でも頂こうと思っていたが、スタートが遅かったので、5時になってあたふたと帰ることになってしまった。
   この国立博物館であるが、広い館内のあっちこっちに沢山の立派な花木などが植えられていてそれなりに楽しいのだが、今、表慶館が改修工事中で一寸雰囲気を壊しているのが残念である。
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成田山公園のさくら・・・シダレザクラが満開

2006年03月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先日、梅の時期を失して仕舞ったのだが、久しぶりに成田山公園を訪れた。
   梅の花は、ピンクのぼってりとした八重の紅梅は数本だけ咲いていたが、殆ど散ってしまったか散る寸前であった。
   しかし、中には、紅梅と白梅の源平梅と言うのであろうか、可なり綺麗な花が残っていて、ピンクがかった花が一輪白花に混じって、苔むして白く光っている幹から飛び出した若枝に縋り付いている風情など中々良かった。

   梅の木の根元には、スミレの花が群生していた。
   昔、子供の頃、宝塚の野山で見たスミレは紫色であったが、千葉のスミレは、中には、少し色の濃いスミレがあるが、多くは淡い青紫の花である。
   森や林の木の根元の草むらにビッシリと咲いていて、目立たないが、雰囲気があって面白い。

   さくらは、ソメイヨシノが、木にもよるがほんの2~3分咲きでまだ蕾がかたいが、池畔のシダレザクラは満開。
   梅林を抜けて木の茂った坂道を降りると急に眼前に、巨木な枝を広く広げて夕日を浴びて光り輝くシダレザクラの勇姿は、川面に浮かぶ優雅な白鳥の姿そのもので、ビックリするほど素晴しい。
   少し小型のシダレザクラが対岸に2本、更に2~3本池畔にあるシダレザクラも可なり大きな木で、夫々、こんもりと張り出した淡い色彩がカサを被った平安時代の女人の風情である。

   川面の石の上には、亀が甲羅干し、その横を、おしどり風の綺麗な鴨が悠然と泳いでいる。
   池畔の鯉に餌をやる乙女の目を盗んで、餌を狙うヒヨドリと雀が代わりばんこに待機しているさくらの木から飛び降りてくる。

   公園には、ボケ、レンギョウ、ヒイラギ南天、馬酔木、水仙などの花が彩りを添えている。

   山手のさくらは殆どソメイヨシノで、まだ、花がちらほらであるが、残っている梅と咲き乱れる椿の赤い花との対象が中々綺麗で絵になる。
   椿は荒獅子に似た千重咲きでボリュームのある花で、濃い緑の光り葉にしっくりと合っているが、これが、何本も道路沿いに連植されていて、さくらの木のバックとしては中々良い。
   他の所で咲いている別な種類の椿は、白い乙女椿、それに、ヤブツバキで、この公園には、椿は少ない。

   次の休日には、ソメイヨシノが満開になっていて、観光客で賑わうであろう。
   成田の参道もまだ寂しく、よねやの羊羹博物館で時間を過ごした。
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「勘三郎への道」展・・・東急本店

2006年03月28日 | 展覧会・展示会
   渋谷の東急本店で、今日まで「勘三郎への道 十八代目中村勘三郎ワールド」が開かれていた。
   勘三郎を中心とした襲名披露の舞台までの軌跡を大判の写真パネルで展示する簡素な展示会だが、勘三郎の晴れ姿が清清しくファンには恰好の見ものであろう。

   写真パネル以外には、歴史的な資料は別として、白波五人男 弁天小僧菊之助、連獅子、三人吉三の舞台衣装と舞台などの紹介ビデオ、シアターコクーン歌舞伎のポスター、それに、余程嬉しかったのであろう、TVでも勘三郎が喋っていたニューヨーク・タイムズのBen Brantleyの2004年7月20日の劇評が展示されていた。

   入り口では、まず、夏祭浪花鑑の団七の屋根上での立ち回りと片肌脱いだ刺青姿の団七の壮絶な写真(篠山紀信撮影)が出迎えてくれる。
   写真は、篠山紀信の撮影は名前入りだが、他のは、松竹の専門家が撮影したのであろう。何時も、二階の最前列にカメラを抱えて若い女性カメラマンが撮影しているが、その類の写真かも知れないが、中々、良い舞台写真である。

   興味深かったのは、先代勘三郎と最後の連獅子の共演舞台写真と親子の押隈、それに、腕白ざかりの勘九郎ちゃん時代の親子写真で、舞台に出るのが嫌で逃げている写真や先代幸四郎の鏡台の前で悪戯をしている写真などあり、微笑ましい。
   とにかく、水も滴る(?)良い女を演じれば、豪快な任侠も演じ、颯爽たる若殿もバカボンも演じ、渋い侍も演じれば、タップを踏んで軽快に踊る、とにかく、東西切っての器用な大役者の舞台写真を観るだけでも楽しい、そんな展示会であった。

   会場の横の東急の店舗では、勘三郎の本や記念品などの他に、「江戸の文化と和雑貨展」が開かれていて、和紙人形から扇、着物関連グッズ、等々昔懐かしい江戸情緒を感じさせてくれる品々が展示即売されていて興味深かった。
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浅井忠の描く懐かしい日本の風景

2006年03月27日 | 展覧会・展示会
   日本橋高島屋で明治洋画壇の巨匠浅井忠の展覧会が開かれている。
   浅井に傾倒した高野時次氏のコレクションが東京国立博物館に寄贈された作品を、浅井没後100周年を記念して展示されているのである。

   殆ど紙に描かれたA3版より少し大きい程度の水彩画で、丁度100年以上も前の絵画であるが、日本各地の野山を描いた作品が古きよき時代のふるさと日本をしみじみと感じさせてくれて、胸が熱くなるほど懐かしい。
   特に、晩年を過ごした京都の風景など、まだ、学生時代にその片鱗が残っていたので、特に、感無量で楽しませて貰った。

   工部美術学校で、イタリアから招聘された風景画家フォンタネージから学んだと言われているが、情趣溢れる水彩の風景画や風俗画が素晴しい。
   
   外国を歩いていて、ヨーロッパの古い街並など歴史を感じさせる風物は本当に美しいと思うが、日本の場合、それにアジアの国の場合もそうであるが、田舎の風景が特に美しいと思っている。
   もう、25年以上も前のこと、まだ、共産主義諸国とは国交が十分でなかった頃、香港から封印列車に乗って中国に入った時、車窓から見える中国の田舎の風景が実に美しくて感激したことがある。
   あの頃は、まだ、解放前で、中国の都会北京など本当に貧しくて、見るも無残に汚かったが、なぜ、農村風景はあんなに美しかったのか不思議であった。

   私が受験で京都に行った頃には、客車部分だけ今のようにコンパートメントになっていたが、運転席と車掌席はふきっさらしで雨風に打たれるので運転手と車掌は厚い外套を着て仕事をしていた、そんな市電が堀川通りを走っていた。車掌は後ろの窓から身体を外に乗り出してパンタグラフを操っていたのである。
   今では観光のメッカとなって綺麗になっている嵐山や嵯峨野の辺りも草深い田舎で、祇王寺はともかく滝口寺など訪ねる人とて稀な荒れ寺で分からないくらいであったが、あの頃の嵯峨・嵐山は、正に、平家物語と源氏物語の世界で、実に、詩情豊かで旅情を感じさせてくれた。
   浅井忠画伯の描いた京都の風景や風物には、そんな懐かしさと詩情が充満している。

   農家内部と言う絵であるが、土間の中に仕切られた囲炉裏のある茶の間、その後ろの壁には箒や下着などが掛けられていて、生活をムンムン感じさせてくれるし、また、聖護院の庭の絵は、一番色彩が豊かで明るく目を引いたが、とにかく、美しい。

   戦後、幾ばくかは、絵になる懐かしい日本の風物や風景が日本各地に残っていたが、生活が豊かになるにつれて消えて行ってしまった。
   今、東京は開発が進んで超近代的な新しい街並が、あっちこっちに生まれて脚光を浴びている。
   しかし、何故か、物悲しく、養老先生ではないが、コンクリートジャングルの延長の様な気がしてあまり行きたくはない。
   
   浅井忠の絵を見て、奈良か滋賀の田舎を歩きたくなった。京都よりは、まだ懐かしい日本の風景が残っている。
   
   
   

   
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ロシア版シェイクスピア「マクベス」・・・ベリャコーヴィッチの悲劇

2006年03月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   天王洲アイルの「アートスファア」で演じられたロシアのユーゴザーパド劇場の「マクベス」を観劇した。
   以前に「ハムレット」を観ているので2回目だが、イメージとしては、RSCやロイヤル・シアター、グローブ座等のイギリスのシェイクスピアと雰囲気が大分違う。
   しかし、演出意図は非常に明快で、スピード感のあるテンションの高い舞台で、魔女のアクションを際立たせており、魔女に運命を翻弄されて破滅して行くマクベス夫妻をぐいぐい追い込んで行く迫力は凄い。

   やはり最初は、ロシア語の響に違和感を感じたのであるが、団長で演出家のワレリー・ベリャコーヴィッチは、英語も良く分かるので翻訳は全く問題がないと言う。
字幕が舞台の両翼にディスプレィされていたが、ロシア語からの訳で小田島雄志訳を参照だと言うが少し違う。
   昔、NHKのフランス語講座の美しくてチャーミングな先生が、パリのレストランで会食した時、フランス語より英語の方が美しいと言っていたが、本当かどうか、しかし、難しいけれど、慣れると英国人の役者が喋る長いシェイクスピア戯曲の台詞の響は実に素晴しい。

   今回、終演後にトークセッションが持たれて、演出のワレリー・ベリャコーヴィッチ、途中からマクベスのワレリー・アファナシェフ、マクベス夫人のイリーナ・ボチェリシヴィリが出てきて非常に興味深い話を語ってくれた。
   
   舞台だが、正面に4本のポールが横に等間隔に並んでいて、その各々にくるくる回る一枚の金属製回転ドアがついている、ただそれだけである。
2枚合わせないと閉まらないので、ポールの間隔はドア2枚分である。
この金属製の板が壁にもなり、役者達の出入り口にもなるのだが、このドアをくるくる回転させながら舞台が展開する。
   人生も舞台も同じで、このように魔女に操られてくるくる回っているのだと言うことである。

   この劇団は、舞台セットは最小限に止めて、音楽と照明で効果を出し、役者の芸と舞台衣装で魅せるところに特色があるようだが、イギリスの舞台以上にシンプルである。
   今回、刀を役者に持たせず戦いの場を演じさせていたが、ハムレットの舞台でも、実際に役者にグラスを持たさずに乾杯をさせて観客のイマジネーションを引き起こすのだとベリャコーヴィッチは言っていた。

   トークセッションの最後で、科学の進歩で舞台芸術の技術が進みすぎて、本来のシェイクスピアが意図した舞台から遠ざかっているのではないかと質問してみた。
   即ち、シェイクスピアの頃の劇場は、例えば、ロンドンのブローブ座の様に青天井で日がカンカン照り付けている下でハムレットの漆黒の闇の場を演じていて、シェイクスピアは観るのではなく聴くのだと言われていた。素晴しいシェイクスピアの戯曲は、役者の台詞と歌で聞かせて観客を魅了していたのである。
   ところが、最近は、近代技術を駆使して音や光、舞台装置等舞台効果にウツツをぬかして、シェイクスピア戯曲本来の素晴しい台詞や役者の語り口や芸を軽視する演出者が多くなった、どう思うかと言うことであった。
   
   ベリャコーヴィッチの答えは単純明快であった。
   自分の舞台は、ヴェローナの街頭でも、何処で演じても良いのだ。音楽や照明を全部なくして、役者の芸だけで演じても全く問題がない。役者次第だ、と言うことであった。
   ひょうきんな表情に似合わず、凄い自信と誇りである。

   モスクワの本拠地の劇場は、この小さなアートスフィアの5分の1くらいらしい。劇場の大きさが変わったらどう対応するのかと聞かれて、アクションや声量を加減して適当にアジャストするのだと言っていた。
   元々、貧しくて工夫に工夫を重ねて役者の芸で魅せてきた劇団である、小手先の手練手管など元より縁のない世界なのであろう。
   それに、自分がやりたい役が演じられなかったので演出家になったのだと言っていたが、蜷川幸雄に一寸似ている。
もっとも、ベリャコーヴィッチの方は、まだ、自分が主役を演じられる立派な役者だと思っているところが違う。

   ところで、このマクベスの舞台で特記すべきは、3人の魔女の演出である。
   上半身裸の3人の男が仮面を後頭部につけて、舞台の殆どを後ろ向きで手と背中の筋肉の表情を中心に演じることである。
昔、バレーで魔女を男にした演出があり面白いと思って取り入れたと言うが、本来は、ヨーロッパ特有の魔女伝説さえ無視すれば、人間の運命を翻弄するのは男でも女でも良いと言うことであろう。
   この魔女は、後半のマクベスの最後の運命の予言「女から生まれたものには殺されない・バーナムの森が動かなければ負けない」と語る時だけ正面を向いて白塗りの素顔を見せる。

   アファナシェフだが、感情の起伏を際立たせて重厚なマクベスを演じており、苦痛に耐えられなくなると舞台をのたうつ。大劇場ゴーリキーでトップスターの一人だったがベリャコーヴィッチの魅力に惹かれて20年供にしていると言うベテラン、オペラのレイフェルカスに似た渋い役者である。
   イリーナ・ボチョリシヴィリだが、マクベスにダンカン王の殺害をそそのかす悪女の貫禄、そして、罪に耐えかねて狂乱するマクベス夫人の迫力はさすがロシアの女優。
衣装担当だと言うが、舞台とは違って、実際の素顔は一番日本語を上手く操っていて栗色がかった金髪の、思ったより若い快活な女優である。

   マルコム、バンクォーなどバックを固める役者も上手いが、黒ずくめの衣装を着けたロシア人役者の激しい演技は、一寸した恐怖で威圧感十分である。

   シェイクスピアは、人類共通のトピックスを戯曲にしているので、全く違和感がないと言うが、夫々主題の感じ方が民族の歴史や伝統を色濃く引き摺っていて、やはり、ベリャコーヴィッチの演出もロシアの民族性を反映した演出のように感じた。
   例えば、ダンカン王殺害の後、恐怖に慄くマクベス夫妻が激しく交合する場面など。
   いずれにしろ、新鮮かつ刺激的な舞台で面白かった。
   観客は、若い芸術家や芸術を専攻している感じの学生、学者風のシニア、西洋芝居好きの趣味人、全体的に地味で物静かな大人しい感じの人が多かった。
   同じシェイクスピアの舞台でも、RSCや蜷川と舞台によって観客の雰囲気が違うのが面白い。
   このアートスフィアは、東京グローブ座と同じ様にシェイクスピア劇場としては素晴しい。

   NHKのハイヴィジョンカメラが4台放列を敷いていた。7月9日の放映だと言う。
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さつま紅、そして、崑崙黒・・・庭の椿が咲き競う

2006年03月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   さくらの開花宣言が終わったと思うと、急に春の花が動き始めた。
   庭に来ているうぐいすも、ホーホケキョとまともに囀るようになった。
   ヒヨドリに代わってムクドリの訪れが多くなった。

   クロッカスがしぼみ始めて、ムスカリや花韮が咲きだした。
   庭に植えっぱなしの水仙やヒヤシンスが、少し貧弱だが花を咲かせてくれた。

   遅い遅いと思っていた今年の椿の花も、急に蕾が色付き始めたと思ったら、鮮やかに装いを始めた。
   今、さつま紅が満開で、真紅の重いポンポンダリア風の優雅な花を競い合っている。
   この花の残念なところは、綺麗に咲いたと思って愛でていると、ばっさりと花びらが落ちてしまい花の命が短いことである。
   
   夏にロンドンから帰って、翌春に、一番感激したのは、日本を離れる前に庭植えしていたピンクのやはりポンポンダリヤ風の乙女椿の端正で美しい花の姿であった。
   10年以上も経つと、木も可なり大きく逞しくなっていて、次から次へとビッシリ花を付けてくれていた。
   この乙女椿であるが、関東の古社寺や由緒ある庭園などに結構植えられているので人気のある椿のようである。

   その時、園芸店に出かけて買い求めたのが、このさつま紅で、花びらの先は少し尖った感じであるが、雰囲気は似ていた。
庭植えして、この木も大分大きくなってきたが、ビッシリと花が咲くと木に負担が掛かってかわいそうな程である。
   ロンドン・キューガーデンの我が家に植わっていた大きな椿の木に咲く花がさつま紅にそっくりであった。違いは、さつま紅の花びらは交互に並んでいるがこの椿は直列に並んでいて花先が尖っていた。ピンクの津川絞の色変わりかもしれない。
   その後、紅乙女を買って乙女椿の横に植えているが、咲いた花びらがすぐに反り返るので、この方は何故か優雅さに欠ける。

   同じ時期に買った椿が、崑崙黒と天賜で、両方とも可なり前に庭植えしており、今、崑崙黒が、花びらを宝珠咲に開き始めている。
   崑崙黒は、名前もそうだが、優雅な宝珠咲の花姿と黒光りした真紅の花びらに魅せられて長く出窓で栽培していたが、庭に下すとしっかり育って今では木高が2メートルを遥かに超えて、毎年沢山の花をつける様になった。

   もうすぐ満開になりそうな椿は、立派なピンクの大輪をワイングラスのように開く抱え咲の花富貴、それに、まだら模様の美しい四海波と岩根絞で、羽衣系や黒椿系はまだ少し蕾が固い。
   咲き誇っているのは、天ヶ下、正義、港の曙、太郎冠者、孔雀椿、そして、白い縁取りの複輪の玉之浦。鉢植の椿も色々と花を開き始めた。
   まだ、ボリューム感に欠けるので、友に頂いた花瓶に生けるには少し時間がかかるが、室内は、小さな花瓶にはあっちこっち色取り取りの椿の花で、ムンムンしている。

(追記)
   先日、椿の荒獅子の根元に雀より少し大きな雛鳥の死骸があったので石垣よりの日の当る椿の根元に穴を掘って埋葬した。
   最初は良く分からなかったが、先日の大嵐でヤマモモの木に巣くっていたキジバトの巣が地面に落ちていたが、どうも、その巣と一緒に投げ出されてしまったらしい。
   嵐の翌日、気付いておれば拾って巣に戻せたのだが、時間が経っていたし全くそんな気配もなかった。
   それにしても、30センチ弱の木で作った帽子のような形をした貧弱な巣で、幹の割れ目に置いただけなので、ヤマモモの茂った葉で守られているとしても強風に煽られれば、ひとたまりもない。
   気付いた日の朝、キジバトの親が側にいたのか急に飛び立ったが垣根に飛び上がっただけで、ほんの1メートル近くによっても逃げなかったが、何日か経っているのに雛鳥の死骸の側を離れなかったのかも知れない。
   可愛がっていたシーズー犬のリオが1年以上前に亡くなってしまったので、居たらヒナの存在を教えてくれていたと思うが、それにしても、烏も結構居るし他の鳥や野良猫も来るのに亡くなって大分経つのに何日も無傷で居たのが不思議なくらいである。
   庭には、時々、鳥の亡骸が寂しく転がって居ることがあり、窓に直撃して死ぬ小鳥も居る。その度毎に庭に埋めて花を添えて埋葬しているが、動物は動く分、側の木々と比べて命が短い。
   諸行無常である。
   
(追記)椿は、さつま紅
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養老孟司教授・感性豊かな感覚を失った現代人を憂う

2006年03月24日 | 政治・経済・社会
   今、ビッグサイトで、「フォト イメージング エキスポ 2006 PHOTO IMAGING EXPO 2006」が開催されていて、写真と影像関係の人々で賑わっている。
   私自身、展示そのものにも興味はあったが、養老孟司教授と月尾嘉男氏の講演を聞きたくて出かけて行った。

   養老教授の演題は、「脳と映像の地形図」。
   養老教授の著書は何冊か持っているが、まだ全く読んでいないので、興味を持って聴いていたが、やはり、自分にはない視点からの話で、非常に興味深く聞かせて貰った。

   NHKの社是である「公平客観中立」と言うのは、全くおかしいと言うことから話が始まった。
   一つのものを見る場合でも、位置が違えば全く違って見える筈で、NHKのカメラの映像は一個人の見た視点からの全く個人的な映像であって公平客観中立である筈がないと言うのである。
   
   万物は流転、諸行無常、とにかく、この世の中には同じものは全くなくて、それを感じる人間の感覚は個々に全く違う。
   しかし、人間の脳に入り概念となれば同じになる。

   動物は、感覚の世界に生きているので言葉が分からない。
   人間も赤ちゃんの時には、絶対音感があり音の区別が出来ていたが、3歳以降退化して違いが分からなくなって音痴になった。
   その代償として言葉を生み出したのであるが、幸せなことであったのであろうか。

   文明人は、感覚が鈍って違いが分からなくなり、モノが見えなくなってしまった集団である。
   現代人は、感覚をひたすら無視する社会を作ってきたのである。
   しかし、この違いが分かる人間の感覚、これが、人間にとって極めて重要なのである。

   文明は、総てを同じにすることが得意であり、情報は、正に固定して止まり変わらなくなってしまったものである。
   この情報社会文明に毒された人間は、何をして良いのか分からなくなって生きがいをなくしてしまった、謂わば、死んだも同然である。
   没個性の現代人が、個性、個性と言うのは全くおかしい、と教授は言う。

   縄文時代の人間の食生活は現代人より遥かに豊かで、食材も多岐に亘っていた。アフリカの原住民は、視力が5で遠くの動物を見分けられるが、文明社会の人間の目は1前後。文明生活によって豊かな五感が退化してしまって、違いが分かる感覚をドンドン失って行く。

   人間性を回復した精神的に豊かな生活をするためには、違いが分かるような生活、即ち、画一的な文明生活に毒されない感覚を研ぎ澄ました、豊かな自然に触れた生活を心がけなければならない、と言うことであろうか。
   何もないコンクリートジャングルのビッグサイトなど全く嫌いで用がなければ来ないと言う。

   人間の脳に入る感覚の半分近くは目から入るようであるが、映像を語ることによって養老教授は、文明社会の発展によって如何に人間本来の幸せが毒されて行くのかを伝えたかったのであろう。

   選択肢がドンドン少なくなって狭められて行き、豊かな感性を失いつつ個性を消失して行く文明人、エコシステムが崩壊して宇宙船地球号が危うくなる前に、恐竜の様に滅び去って行くのかも知れない。
   違いの分かるオトコ(人間)であり続けなければならない、と言うことであろう。

   

   
   
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NHK交響楽団の「未完成」「イタリア交響曲」

2006年03月23日 | クラシック音楽・オペラ
   今夜、東京芸術劇場のNHK交響楽団の演奏会に出かけた。
   久しぶりのN響だが、何しろ都民芸術フェスティバルの所為か、曲目がハイドン「交響曲第85番 女王」シューベルト「交響曲第7番 未完成」メンデルスゾーン「交響曲第4番 イタリア」と言うポピュラー曲なので楽しくない筈がない。
   指揮は、カラヤンにウィーン・フィルのリーダーに抜擢されアルバン・ベルク四重奏団を率いているギュンター・ビヒラーで、四重奏団のコンサートで聴いている。

   至って正攻法の指揮で、重厚かつオーソドックス、しかし、土俗的な香りの微かにする正にドイツの音楽であった。
   N響は流石に上手い。
   素晴しいコンサートであった。

   しかし、私には「未完成」に一つの期待があった。
   昔、アムステルダムの本拠地で聴いたレナード・バーンスティン指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の天国からの音楽のようなあの素晴しいサウンドの片鱗でも良いからN響から聴きたかったのである。
   今でも信じられないが、絹糸のように滑らかで光沢のある、そして芳醇な高級ビンテッジ赤ワインの滑らかさと言うか、上手く表現が出来ないが、それまで、私が直に聴いたウィーン・フィルにも、ベルリン・フィルにも、フィラデルフィア管にも、ロンドン響にも、その他のオーケストラからも聴いたことのないような素晴しいサウンドで未完成交響曲の演奏が始まったのである。
   N響のサウンドは、残念ながら、何時も聴いているCDのサウンドであった。
   途中で諦めて曲を聴いていたが、時間が経つにつれて慣れてきてN響の素晴しい演奏に引き込まれて行ったが、あのバーンスティンのサウンドは、夢か幻であったのであろうか。

   イタリア交響曲は、学生時代に良く聴いた。
   ロンドンで初演だと言うが、その後、メンデルスゾーンが不満で握ったままで没後見つかって演奏されたと言う。
ユダヤ嫌いのワーグナーがメンデルスゾーンの情景描写力を褒めたと解説書に書いてあるが、歌うような明るさや激しく激動するさま等はイタリアのイメージかも知れない。
   あのゲーテがブレンナー峠を越えて、君知るや南の国、憧れのイタリアに出かけて素晴しい時間を過ごしており、夏の一時期は別として陰鬱で暗く自然の厳しいドイツから見るとイタリアは天国。
メンデルスゾーンも思う存分にイタリアの素晴しさをイタリア交響曲に託したかったのかも知れない。

   私も、オーストリアからスイスに入り、越えると天国だと言うブレンナー峠を見たくて出かけたが、入管があり長距離トラックが屯する全く何もない辺鄙な殺風景な所であった。
イタリアに入り峠を下ったが森の中で何もなかったので途中で引き返した。
   出来ればコモ湖くらいまで走って美しいイタリアを見たかったのであるが、その日にアムステルダムまで帰りたかったので、ドイツに入りアウトバーンを北に向かった。
   若かったからであろうか、運転が気にならなかったが、アウディも良く走ってくれた。

   ところで、残念なことが一つ。
   指揮を終えて余韻を楽しみながらタクトを下ろしたいビヒラーなのだが、ひとり無粋な客がいて終了直後に拍手をし始めるので他の聴衆もこれに従うが、少し遅れて指揮者がタクトを下して振り返って威儀を正すと再び正式な拍手が起こりW型の拍手で雰囲気をぶち壊していた。
   苦笑交じりに目礼をして、時間を置いてから喜びをコンサートマスターと交わすビヒラーが気の毒であった。
   同じ御仁だと思うが、アンコール曲で、知らなかったのであろう、演奏途中で、一拍拍手をして恥を掻いていたようであるが、指揮者のタクトさばきを良く見て指揮者の心意気を大切にしたいと思う。
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ハウスウエディング・・・ハマの港に臨みながらの祝宴

2006年03月22日 | 経営・ビジネス
   春分の日、知人の子息の結婚式に招待されたので久しぶりに横浜に出かけて、港の見える結婚式場で、今流行のハウスウエディングに参列した。
   ハウスウエディングとは、西洋映画に出てくる大きな領主の館のような建物の中で、比較的プライベートな雰囲気で行える結婚式で、その建物の中の最上階には、ガラス張りで空間を大きくとった瀟洒な礼拝堂があって、キリスト教形式の式を挙行することが出来る。
   それに、外には、プールや花の咲き乱れる庭があって、昨日のように陽気が良くて天気に恵まれた日には、外で新郎新婦と戯れたり、飲んだり食べたりするのに気持ちが良くて楽しい。
   
   当事者の新郎新婦にとっては、丁度、西洋映画の主人公になったような雰囲気を味わえるので人気があるとか、とにかく、急速に人気が高まっていて、これ専門の会社は、大都市部から地方の中核都市にハウスを建てて事業を拡大しているのだと言う。
   少子化で結婚件数は減っている筈であり、結局は、従来のホテルや結婚式場での挙式が減っていると言うことである。
   大規模な結婚式ならホテルでないとダメかもしれないが、最近芸能人やスポーツ選手などの有名人でもハウスウエディング希望者が多く、この分野でのウェディングアドバイザーやコンサルタントが育っていて、映画やTV撮影にも協力しているのだと聞く。

   従来のホテルは、結婚式は宴会の延長、謂わば付帯事業であり、従来の結婚式場も何々殿と言った古いイメージの結婚式場で、どうしても斬新な垢抜けした雰囲気がなくマンネリに陥っていた。
   最近は、両家の家の間の結婚と言うよりは、新郎新婦本人たち個人の結婚式であり、本人達の希望が優先されるようになって来て、結婚式も個性的で雰囲気のある差別化を要求されるようになって来ている。
   海外に出て教会で挙式する若者が増えてくると、これに目をつけて、丁度バブルで土地も建設費も安いので簡単に豪華な西洋の館を建てられる。
   それでは、自分達で一等地に館を建てて、映画のような豪華な結婚式を演出して新郎新婦に素晴しい思い出を与えよう、として、ベンチャー企業が会社を立ち上げて結婚市場に殴り込みをかけて来た。
   本格的なブライダル事業が、日本で始めて生まれたのかも知れない。
   今では、ベンチャーであったハウスウエディング専門会社が、結婚式に伴って発生する一切を取り扱う総合ブライダル企業に脱皮しつつあると言う。
   
   ところで、この横浜でのハウスウエディングであるが、礼拝堂での米人神父による挙式、高台からの新郎新婦の階段の行進、ロビーや庭での交歓、明るい広間での披露宴、とにかくオープンで明るくのびのびした結婚式であった。
   ホテルのように何組もの新郎新婦たちが廊下で鉢合わせしたり、受付のテーブルがずらりと廊下に並んで競争したり、結婚式銀座のようなラッシュはないし、それに、あのどうしょうもないお仕着せの何の工夫もない暗い雰囲気は全くない。
   食事については、料金にもよるのであろうが、今回の場合は、バイキング形式のデザートはまずまずであったが、相対的にホテルと比べてもう少しと言うところであった。
   式を進行しサポートしている若いスタッフの仕事振りは実に堂に入っており、きびきびしていて淀みがない。本当のプロが育ってきているのであろう。
   第三次産業をサービス業と言うが、本当のサービスとは何なのか、少しづつ日本の産業もサービス業での生産性が上がって来たのかも知れないと思っている。

   もう10数年前になるが、イギリスに居た時、友人の英国人の息子の結婚式に家族共々参列したことがある。
   ヨークから少し離れた田舎町での挙式だったので車で出かけ、当日は、披露宴が持たれたホテルに宿泊した。
   結婚式は、教会で行われて、確か、その教会の中で当事者達が署名していた。
   西洋映画で見るのと全く同じで、今回のハウスウエディングと形式は殆ど変わらない。
   披露宴は、ホテルで夕方から行われたが、スピーチはスピーチでも日本のように堅苦しい形式ばった挨拶はないが、新郎新婦は正面のヒナ段に座っていて、楽団演奏など次から次へと催し物が行われ並行してフルコースの食事が進行する。
   時間が経ち、ダンス音楽に変わると新郎新婦たちが両親や祖父母達と踊り出す。
   お開きがないので、来客は適当に座を外して帰って行くが、我々も適当にホテルの部屋に引き上げた。
   お祝いは、日本のようにお金を受け付けているようではなかったが、私は適当に銀器を買って届けた。結婚式に参列する為の旅費などは当然客もちである。
   確か、披露宴の費用は新婦の親もちと言っていたように思うが、小さなホテルとは言え借り切りなので可なりの出費だろうと思った。
   ヨーロッパでは、アメリカと同じで、結婚式前に両人たちは同棲しており、必ずしも結婚するとは限らない。親達は、自分達の頃はもっての外だったが仕方がないと諦めていて、出来たら結婚して欲しいと思うと何時も言っていた。
   私の秘書は、ケンブリッジを出た才色兼備の優しい女性であったし、相手も同学の立派な弁護士であったが女の子を生んでから正式に結婚した。
   
   
   
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いけばな小笠原流展・・・花の饗宴

2006年03月21日 | 展覧会・展示会
   日本橋高島屋で、「いけばな小笠原流展 盛花―いま・そして―moribana from now on」を見た。
   一門の関係者と一般客で大変な賑わいで、小形デジカメで写真を撮ろうとしたがままならず、結局、予定のセミナー聴講に遅れてしまったが、一挙に沢山の華麗な花の饗宴に圧倒されてしまったのが正直なところである。

   小笠原流は、19世紀末に、小原雲心によって創始された盛花と言う新形式のいけばな。
   水盤や剣山を使って「盛る」ように花を展開させるもので、それまでの花の線の動きを主とした様式に比べて、面的な広がりを強調するのが特徴だと言うことであるが、とにかく、豪快な盛花あり、清楚で極めてシンプルないけばなありで、そのバリエーションは凄い。
   それに、花と言っても身近にある花だけではなく南国の極めて珍しい花や果実、それに、木の根っこや鳥の羽、色々な素材がいけばなを構成しており、家元の大作など巨大な空洞のある大木を転がした意表をついた創作である。

   私自身は、いけばなに全く知識も教養もなく、花が好きなだけで、それに、椿がどのように生けられているのかを見たいと思って展示会に出かけたのである。
   椿は、今の季節の花であるが、殆ど使われておらず、椿の輝く緑の葉だけがバックとして使用されている例が多かった。
   口絵のいけばなは、赤い薔薇とピンクの乙女椿をミックスした盛花で、洋と和が上手く調和していて面白かった。
   加茂本阿弥の白花が豪華な中国の玉の花瓶に一輪挿された茶花スタイルのいけばながあったが、これも小笠原流かと思って見ていた。
   漆塗りの容器やひょうたん型の鉢に挿された椿など何点か椿の盛花があったが、いずれも蕾が主体で、四海波、岩根絞と言った大輪系だが華やかさに欠ける為に主役になれないのかも知れない。
   もっとも、1作品だけ椿主体の盛花があった。下方の水盤近くには開花した   椿が何種類か華やかに生けられていて、その上にすっくと長い枝が1メートルほど立ち上がってその先に椿の花がある、そんな作品である。
   しかし、椿はやはり落着いたお寺の茶花に似合うのか、残念ながら、周りの極彩色の派手な花に圧倒されて良さが目立たない。
   
   何年か前に、三越で、最近惜しくも亡くなられた安達曈子さんの椿を主体としたいけばな展を見たが、青竹をふんだんに使った豪快と言うかシンプルと言うか、とにかく、生きた椿を前面に舞台に押し出した素晴しい表現に感動したことを思い出す。
   茶花の雰囲気に近い一輪挿しや花びらだけを水盤様の容器に浮かせただけの椿など、この小笠原流の対極にあるような感じのものが多かったように思うが、父君が椿が好きで屋敷に一杯の椿が植えられていて、謂わば椿屋敷で育ったようなものであるから椿には特別の思い入れがあったのであろう。

   昔、奈良の尼寺である法華寺を訪れた時、仏前に小さな容器に色々な椿の花だけが一輪ずつ浮かせて並べられていたのを思い出した。
   庵主さんに仏様を荘厳するためだと伺ったような記憶がある。
普通、茶花などには蕾の椿が使われているが、花が開いて一番美しい状態の椿を愛でるには、これが最も良い方法かも知れないと思った。
   椿の花の難点は、とにかく、花が開けばすぐに首から落ちてしまうこと。

   暖かくなって来たので、庭の椿が一挙に花を開き始めた。
   微かに芳香を漂わせる「港の曙」が咲き乱れている。
   もう本格的な春である。
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北野大先生都市づくりを語る・・・鎮守の杜のある街を

2006年03月20日 | 政治・経済・社会
   勝鬨橋の第一生命ホールで、UR都市機構の主催で「都市(まち)に住む。人が輝く都市づくり、住まいづくりを目指して」が開かれて、基調講演「都市・次世代に継ぐ環境」をたけしのお兄さん北野大教授が行った。
   工業化学専攻の工学博士で、淑徳大学コミュニケーション学部の教授だが、血は争えない、たけしの様にユーモアがあって面白い講義であった。

   元住宅公団の招きだからと言うわけではなかろうが、食寝分離、即ち、食事をしていた茶の間で食卓を片付けてフトンを敷いて寝ていた生活空間を、DKと寝室に分けた画期的な2DK,3LDKの公団住宅生活から話を始めた。
   全員中流生活のハシリとも言うべきサラリーマン憧れの文化生活、それが、公団住宅に住むことであった、そんな時代が確かにあって、私自身も、海外へ転勤するまでは、社宅を嫌って大阪と埼玉で公団住宅のお世話になったことがある。

   次に話題は、安心安全、そして、生活の利便性を求めての都市回帰に移った。シニアが、子育てで住んでいた郊外の広い住宅から都心のマンションへの住み替えが始まっていると言うのである。
   住空間が狭くなるので、来客があってもお茶だけで、泊めない、とにかく、シンプルライフに徹するのだと言う。

   しかし、最近の調査で、2007年から始まる現役引退の団塊の世代に聞くと、過半数が引退後は田舎での生活を希望していると言う。
   それに、シニアの雑誌「日経マスターズ」がトカイナカと言う特集を組んだ。
   トカイナカと言うのは、例えば、筑波のような所で、田舎の生活を満喫できるが、一時間半程度で、何時でも都心に出かけて友人に会ったり観劇したり、とにかく簡単に都市へのアプローチが出来る都会に交通至便の田舎と言うことである。
   ところが、良く考えてみれば、相当多くの郊外の一戸建てに住んで都心に通勤していた人々は、このトカイナカと似たり寄ったりの所に住んでいて少しも変わらないのではなかろうか。
   
   ところで、北野教授は、今後の最大の問題は人口問題で、19世紀が10億から16億に、20世紀は16億から60億に人口が増えて、人類は、資源の枯渇性と気候を人為的に変更、即ち、温暖化を認識するに至った、と言う。
   過密化、工業化(公害)等によって、自然の自浄作用をオーバーするほど環境を破壊して仕舞っており、今後の都市づくりには、共生、循環、太陽がキイワードであり、中水の再生やモノの所有ではなく利用に視点を移すなどの心がけが大切である。
街の真ん中に鎮守の杜のような精神的に求心力のあるものを作ることが、都市づくりには必要であろう、と言う。

   パネルディスカッションに参加していたアグネス・チャンが、都市づくりについて、Together, Child First, Move onを提案していた。
   老若男女を問わず誰もが群れ集まれる場所、子供を最優先にする空間、何時でも移住したくなるような所、と言うことであるが、住環境への上昇志向の前に昔懐かしい隣近所が家族のように親しく生活していたコミュニティの形成であろうか。
   大使や一等書記官でスイスやスエーデンに駐在していた藤井威氏が、何故、ヨーロッパの街があんなにも美しいのかと言って、それは、人々が子孫に残したいような、即ち、Susteinable持続可能な街を作ろうとするからだと言っていた。
   日本の住宅だって昔はもっと立派で美しかった。
   政府が、いい加減な建築基準を設定して業者を野放しにし、外国からの住宅輸入を制限し、その上に、土地代が無茶苦茶に高すぎたから立派に出来なかっただけである。

   私は、ヨーロッパにもアメリカにも美しくて素晴しい住環境もあれば、どうしようもない貧しいスラム街があることも知っている。
   しかし、中世がそのまま残っていてみんなが今でも住んでいるような古い街並みは、間違いなしに、人間の豊かな生活の営みが残っていて、実に素晴しい生活環境を作り出している。
   イタリアにも、スペインにも、フランスにも、ドイツにも、オランダにも、勿論イギリスにもあって、大きな都市でなくても、小さな田舎町でも、町には人がつどい集まる中心がある。
   そんな街の中央には、教会とシティホール(ラートハウス、市庁舎)を中心に広場があり、人々の集い集まる空間があるのである。
   シティホールや教会の地下には、ビアホールや居酒屋があり、休日には、広場でバザールが開かれ、大道芸人が取って置きの芸を披露している。
   北野先生の言う鎮守の杜もそんなモノかも知れない。
   
   
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田中光常写真展「動物達」・・・詩情豊かな生き物達の営み

2006年03月19日 | 展覧会・展示会
   品川の「キヤノンギャラリーS」で、田中光常写真展「動物達」が約一ヶ月にわたって開かれている。
   かなり幅の広い分野にわたっていて、極北の野生動物の荒々しい生態からペットの犬猫の可愛い表情まで、動物写真を撮り続けて60年の田中光常カメラマンの集大成のような写真展である。

   荒々しい鷲や猛獣の戦いの写真もあれば、真っ赤に夕日に照らされたキリマンジャロをバックに家路を急ぐシマウマの家族、そして、動物の親子の実に微笑ましい感動的な写真がある。
   背中にちょこんと乗った白鳥の子、寝そべった母親ライオンの首に顎を乗せてくつろぐ子ライオン、奴だこのように大の字になった子パンダを優しく舐める親パンダ、とにかく、カメラの視線が実に優しい。

   田中さんの「失敗、しっぱい、また失敗! 野生動物、泣き笑い撮影記」を読むと、一枚の写真を撮る為に何時間も、或いは何日も悪戦苦闘してチャンスを待つ様子が語られていて興味深いが、時には死と隣り合わせ、大変なことだと思う。
   昔、マウンテンゴリラを追っかけてアフリカに渡った井谷純一郎京大助教授の奮闘記を読んだことがあるが、結局、ゴリラの姿をちらりと見た程度で終わったとかで、いたく失望したことがある。それ程、奥地での野生の動物との遭遇は難しいと言う記憶があるので、田中さんの苦労は大変なものだと思っている。

   昔から「ナショナルジオグラフィック」を愛読していて、素晴しい写真に魅せられているが、あのカメラマン達は、「マジソン郡の橋」のようなロマンスとは程遠い大変な苦労の末、膨大な数の写真の中の氷山の一角だけを選んで載せているのであろうが、瞬間の影像の迫力は素晴しい。

   私自身、旅の途中だが、何度か海外で野生の動物を遠くから見たことがある。
   イエローストーンを訪れた時には、林の中を歩く巨大なバイソン、小屋に近づいたコヨーテ。
   アラスカ鉄道の車窓から見た大へらじか。
   アマゾン中流マナウスで川面を飛び跳ねる河いるか、等々。
   シャッターを切ったが当然写真には成らなかった。

   子供の頃、動物園と言えば「宝塚動物園」であった。
   横に宝塚少女歌劇で有名な「宝塚劇場」があって、小中学生の頃は、団体鑑賞で宝塚少女歌劇やディズニーの映画などを見に出かけた。
   余談だが、後年ここで、デイビッド・オイストラッフのヴァイオリン・コンサートを聴いた。外の雨の音が室内に聞こえる、そんな中での世界最高のヴァイオリニストの演奏であったが、感激であった。

   一寸それより兄貴分で大きかったのが「天王子動物園」で、近くの「阪神パーク」で、豹とライオンの合いの子レオポンが生まれて人気を博していた。
   宝塚動物園は、バブルの後、阪神パークは、最近、共に閉園されてしまってもう今はない。

   イギリスに居た時、「ロンドン動物園」の閉園が決まった。結局最後は、スッタモンダの末に救済されたようだが、あの海外に僅かのパンダしかいなかった時にもパンダがいた由緒正しいロンドン動物園が閉演騒ぎになるくらいだから、動物園は受難時代なのかもしれない。
   戦争の時には、多くの動物が殺害され、パリ動物園の象等がステーキにされてパリのグルメ料理に供されたと言う。
   人間の捕獲など以外にも、エコシステムの破壊で、動植物がドンドン消滅して行っていると言う。
   人間とは残酷な生き物だが、田中さんの写真の中には、絶滅前の日本コウノトリなど貴重な動物の写真もある。
   デジタル時代が進めば、もっと簡単に、良く写った写真が撮れるのかも知れないが、この銀塩フィルムとアナログ方式による写真のような味のある作品は生まれないであろうと思う。
   
   
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春の香りが爽やかな新宿御苑

2006年03月18日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   晴れて爽やかな春日和になったかと思うと、大荒れの突風が吹き荒れる、とにかく落着かない春の天気であるが、確実に春が訪れて来ている。
   新宿御苑では、梅が今を盛りと咲き誇っている。

   新宿門を入ると、花を付け始めたハクモクレンの大木と紅白の梅の花が目につく。
   もう少しすると、広い芝生の向こうに櫻が咲き乱れてピクニックの人々で賑わう。
   
   ゆりのきレストランの前の梅の木の下には、白と黄色のラッパ水仙が咲いている。河津ざくらであろうか、鮮やかな黄緑の葉桜が梅の木の間のバックに浮かび上がって美しい。
キューガーデンでは、櫻の木の下に菜の花が咲き乱れていたが、相性が良いとそのマッチングが美しい。
   櫻は、何本かあるカンザクラの大木が満開で、シダレザクラがほころび、ソメイヨシノも少し膨らみ始めている。
   サンシュユのかなり大きくなった木の黄色い花が色鮮やかで、昔ブラジルで見たイペーの花を思い出した。

   日本庭園の中にある茶室の楽羽亭の庭とバックヤードの紅梅の梅が見ごろである。
   特に、前庭の年を経た古木は風格があり素晴しい。
   古代には花と言えば梅であったが、主役は櫻に変わってしまった。
   梅には櫻のように大木になって大きく枝を広げて咲く豪華さはないが、ツイストしたり苔むした古木の風情は格別である。
   やはり梅と言えば水戸の偕楽園である。久しく行っていないが、潮来まで高速で出かけて、田舎道を北に走って行ってみようかと思っているが、どうなることか。

   楽羽亭の裏庭の梅林を抜けると、椿の群生しているコーナーがある。
   普通のありふれたヤブツバキや雪椿ではなく園芸種の椿の大木が多く、丁度、花の季節で咲き乱れているが、特に珍しい椿の木はなかった。
   櫻の木の下では、台湾か中国の旅行者達が戯れて写真を撮っていたが、ここでは、アマチュアの熱心な写真好きが静かに椿の花にカメラを向けている。
   相変わらず、シニアのグループが、地面に張り付いて水仙を被写体に熱心に写真を撮っているが、みんな上等な一眼レフにマクロレンズをつけて接写している、若い先生がめだかの学校よろしく教えている、何か異様な感じである。

   新宿三丁目のドトールで、カフェラテとミラノサンドを買って新宿御苑に入り、春の陽気を楽しみながら散策して1時間半ほどで外に出た。
   この新宿御苑は、季節の移り変わりを感じるのには、東京で一番良いところだと思って時々訪れている。
   これからは、桜が開き始めると色々な春の花で装飾され、薔薇の季節まで散策が楽しくなる。
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中西輝政:グローバル時代の国家と企業・・・過剰適合と孤立の歴史に学ぶ

2006年03月17日 | 政治・経済・社会
   新日本監査法人主催の「ナレッジインスティテュート公開セミナー」の「グローバルエコノミーで勝つための日本の戦略で、中西輝政京大教授が、「『グローバル時代』の生き方―国家と企業にとっての指針」と言う演題で興味深い論陣を張った。

   このような演題で話を聞くのは経済や経営専門の学者や評論家の場合が多いので、特に国際外交やその戦略論の政治学者である中西輝政教授の話は、視点が違う以上に面白い。
   グローバル化とは、国家と世界が一体となると言う語感を持つが、キイワードは競争(Competition)で、市場の一体化ではなく、競争が一体化することであると言う。

   荒川静香のイナバウアーやWBCのアメリカ人審判の判定などカレント・トピックスを例示しながら世界の標準(Standard)の変遷を語る。
   日本の現代の歴史が、世界標準にキャッチアップする為に悪戦苦闘し、その過程において如何に過剰適応と孤立の歴史を歩んできたかを、ワシントン軍縮会議から第二次大戦破局までを例に引いて語る。
   今日のグローバル時代においても、日本は同じ様な難局に直面しているので、歴史の教訓を十分に肝に銘じて、世界と戦う戦略の哲学を確立することが必須だと言うのである。

   ワシントン軍縮会議で、保有主力艦の総トン数比率を米英5、日本3に決められたが、それを受け入れ、それ以外の制限されていない補助艦艇に力を注いだ。
   しかし、それも、ロンドン軍縮会議で、補助艦艇の総トン数比を、米英10、日本7に決められ不満だったが受け入れて、今度は規制のない航空機に力を入れた。
   このように日本は、不満であっても決められた標準、即ち、秩序を受け入れてその範囲で最善の道を見つけるべく適応してきた。
   条約を受け入れて、Comply withし過ぎたのである。
   日本の経済外交や日本企業の対応がこれに良く似ていないであろうか。経済的な交渉では、BIS規制が最悪の負け戦だと言う。

   このような日本の戦略は、富国強兵策を採った明治時代や戦後の経済復興や経済成長の時代には有効な政策ではあったが、しかし、その結果は過剰適応しすぎて世界から孤立してしまった。
   今の日本は、米国EUと比較して経済規模では軍縮時代と同じ位の悩ましい微妙な位置にある。
   
   何を世界に向かって発信するのか。
   大義名文と自己利益である。
   米英は、この二つの柱を結びつけて主張するのが実に上手いが、大陸ヨーロッパは時には両者が相反していて交渉し易いことがある。
   この場合、自己主張が極めて重要な意味を持つ時代であることを熟知すべきである。
   日本には、駆け引きと言う言葉がある。武士の馬上の戦いで、如何に駆け如何に引くかと言うことであるが、このタイミングが重要なのであるが、現在日本人は武士の兵法からさえも何も学んでいない。

   外に合わせる場合、重要な点は、それによってどれだけのコストが掛かるのか、を十分に分析して認識することである。
  譲歩することによって一定期間は利益を確保できるかもしれないが、深い洞察力と広い視野がないと、永遠に後追い構造に陥ってしまって活力を消失してしまう。
日本は軍縮、金解禁、等々により長期に亘って大変な損失を蒙る等何度も苦渋を味舐めてきている。
   交渉は、孫子の兵法が要諦。己を知り敵を知れば百戦危うからず、である。
   相手の意向を出来るだけ早く見つけて、出来るだけ遅く行動する。粘り強く交渉して潔く譲歩することである。

   日本の弱みはすぐに譲歩をすることである。
   これは、歴史の呪縛、適応力があるから摩擦を避けよう、足元が崩れるのを恐れこの辺で妥協しておこう、と言った日本人の特殊な事情によるが、これでは永遠に交渉では勝てない。
   今こそ、日本が国際舞台において確乎たる地位を築く為には、国家戦略に対する崇高かつ適切なな哲学が必要なのであると、中西教授は主張する。

   坂村健東大教授が、T-エンジンを引っさげてRFIDの世界で世界標準を確立すべく戦っているが、敵はアメリカだけではなく、日本政府の国家戦略の脆弱性と中西教授の言う過剰適合に慣れてしまった日本の経済社会であることが痛いほど良く分かる。

   ところで、私の海外事業での、主に、欧米人との交渉経験から言うと、「攻撃は最大の防御なり」である。
   とにかく主張しないと馬鹿にされることが落ちで、強引に正論を主張すると、不思議にもその時点で相手の尊敬を勝ち得ることが多かった。
   まず、自己主張すべきことを確定・確認してから交渉に臨み、先に当方の言い分を過剰なくらい主張して相手の出方を見て戦略戦術を打つことである。先手を取られると交渉力が弱くなってしまう。 
   受けて立つのが横綱相撲と言った論理が成り立たないのが国際舞台での条理で、とにかく、大義名文を掲げて如何に自己利益を確保すべきか、アングロサクソン流の交渉術を勉強すべきは当然であろう。
   (もっとも、このやり方を通すと日本のビジネス社会や会社では失敗する、日本のスタンダードではないのである。)

     
コメント
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