熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

”不況に克つ! 日本の中小企業の底力”~ブルーオーシャン経営の精華

2010年11月30日 | 中小企業と経営
   日刊工業新聞が、創刊95周年記念として、日本産業人クラブ連合会と共催で、標記シンポジウムを開催したので参加した。
   元気印の今を時めく中小企業のトップたちが立って、その企業経営の底力の秘密を開陳すると言う非常に興味深い会合となり、その後、懇親会に入り、中小企業の人々との交わりがあった。
   これらの優良中小企業の成功話を聞いていて、悉く共通しているのは、ブルーオーシャン市場の開拓に成功して、好業績を上げ続けていると言うことであった。
   このブログでもずっと書き続けて来た私の思いでもあるので、ここで、これらの企業のケースを借りて再説してみたいと思う。

   ブルー・オーシャンとは、W・チャン・キムとレネ・モボルニュが、「ブルー・オーシャン戦略」で展開した理論で、共通して優良企業が好業績を持続している要因は、ブルー・オーシャン(新しい市場)の開拓とその成功による発展成長にあることを発見したことから生まれた理論である。
   好業績やその持続を実現させているのは、産業や企業に内在する要因などではなくて、新しい市場空間を切り開き、ブルー・オーシャンの開拓に成功し、需要を創造し大きく押し上げたその企業の戦略にあったのである。
   ブルー・オーシャン戦略とは、コスト競争や従来型の差別化戦略で、ライバル企業との競争に打ち勝つという手法ではなく、競争のない未知の市場空間を開拓することによって、買い手や自社にとっての価値を大幅に高めるとともに、競争を無意味にしてしまうバリュー・イノベーションにあると言うことで、このブルー・オーシャン市場では、競争を前提とした戦略論の常識であるコスト競争で勝つか差別化で勝つかと言う「価値とコストはトレードオフ」と言う関係を覆し、差別化と低コストを同時に実現することによる成長発展である。

   したがって、このシンポジウムに登壇した中小企業は、悉く、その分野でのオンリー・ワン企業で、自分の道を自分自身で切り開いてわが道を行くことによって活路を見出しているのであるから、モデルもなければ、競争相手さえないと言うパイオニアである。
   しかし、市場に恵まれて技術などの優位だけに胡坐をかいている良くある創業ベンチャーのような脆弱な企業ではなく、経営戦略や企業体質・システムなどがしっかりしていて、経営そのものに問題のない優秀な企業家によって経営されていると言うことである。
   旺盛なチャレンジ精神を持続しながら、絶えず時代の潮流に敏感に対応した経営の舵を取り、街の中小企業から、宇宙産業や原子力産業などの高度なハイテクの世界までにも製品やサービスを提供するのであるから、日本の中小企業の底力の凄さには目を見張るものがある。

   基調講演に立ったのは、合成樹脂製品の金型製造から事業を展開した大成プラス(株)の成冨正徳社長で、合成樹脂をメインにしたデザイン・設計・金型製造販売・輸出入およびノウハウ・技術の提供・ライセンス供与を行いながら、接合をコンセプトにしたオリジナル技術をベースに設備なき製造業を目指しており、日本のトップ自動車メーカーなどへハイテク部品を提供するのは勿論、独自に開発した技術は特許で300件を超え、海外にも進出して、既に6件のライセンスパートナーを持つと言う。
   他所で出来ないような相談ばかり来るのだが、顧客と対面するのではなく、横に座って、客と同じ目線に立って仲間意識で問題点を検討し、失敗を繰り返しながら解決策を炙り出しソリューションを導き出すのだと言う。
   単なる下請けではなく、ものの作り方を一緒に考えて解決するもの作りのパートナーだと言う意気込みである。

   この何か役に立つことがないかと待ち構えていて、誰も何処も解決できないような要求が来れば、出来るか出来ないか考える前に仕事を引き受けて挑戦すると言うもの作り精神の横溢した技術者・職人魂は、どの成功中小企業にもある共通した特徴である。
   面白いのは、ラシャ問屋からスタートしたヒーティング技術ノウハウでは断トツの坂口電熱(株)で、NOと言わない技術開発に徹した対面R&D開発によるオーダーメイド戦略を社是としており、既に、世に送り出した製品は300万点を超えると言うのだから恐れ入る。
   ヒーターと言うヒーターは言うに及ばず、温度センサーやコントローラー、絶縁材料まで「加熱」に関するアイテムは常に9000アイテムを取り揃えていると言うことだが、
   この会社は、年商40億程度の中小企業ながら、NPOを設立して地域社会への貢献をしているのみならず、海外からの私費留学生への奨学金を支援する財団を設立して延べ200人に及ぶと言う「社業を通してご恩返しを」と言う企業理念を推し進めていると言う見上げたエクセレント・カンパニーである。
   この会社の蜂谷真弓社長は、非常にチャーミングな若いレディで、滔々と会社の未来像を熱っぽく語っており、日本の新しい会社像が見えてくるようで頼もしい。

   もう一つの分かり易いケースのブルー・オーシャンは、臼井努社長が語った東西テクノス(株)のビジネス・モデルで、メーカーがサポートを打ち切ってしまってサービス切れとなった製品の修理・保守・メインテナンス一切を引き受けると言う戦略で、計測機器の修理から始まって、医療、情報、通信分野等の各種機器、システムを何処のメーカー製品でもワンストップでサービス対応すると言うマルチベンダー・サービスで、仕事は、原子力発電所にまで及んでいると言う。

   産学協同の進展など、中小企業の先端科学や技術へのアプローチなども垣間見えて来たが、やはり、日本のベンチャーなり中小企業は、教育や科学、経済社会的なバックグラウンド等が違うので、シリコンバレーで生まれ出るような、全くクリエイティブで革新的なブルー・オーシャンではなく、目的が明確であるとか、ソリューションがはっきりしている場合などのブレイクスルーの追及や、既存技術やノウハウの深掘りと言った持続的イノベーションに向かう方が向いているのであろう。
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顔見世大歌舞伎~天衣粉上野初花

2010年11月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   顔見世大歌舞伎だが、歌舞伎公演が、この新橋演舞場に移ってからは、一般の関心が薄れたのか、空席が目立つようになった。
   芝居の質も役者の熱の入れようも絶好調であるにも拘わらずである。
   今回の昼の部は、通し狂言「天衣粉上野初花」で、幸四郎の河内山宗俊と菊五郎の片岡直次郎が同時に鑑賞できて、それに、悪人二人の馴れ合いなど連続性のある話が楽しめる上に、時蔵の三千歳や田之助の按摩丈賀などを始めわき役陣も豪華で、流石に、顔見世興行である。
   尤も、この通し狂言だが、前半は、質屋上州屋の娘お藤が、奉公先の松江出雲守(錦之助)に妾になれと強要されて困っているのを、河内山が、上野の使僧に化けて松江藩屋敷にのり込んで、脅しあげて助けると言う同じ悪でも観客の庶民にとっては胸のすくような「松江家上屋敷」の場と、
   後半は、悪事が露見して追われる身の直次郎が、雪の中を病気療養中の遊女三千歳を見舞いに行き、途中蕎麦屋に立ち寄ってしんみりとさせる人間模様を描いた「入谷」の場との二つの山場があるダブル・メインの芝居ではある。

   歌舞伎には、強請の舞台が色々あるのだが、大概、誰か他の人物が登場して、そのからくりが見破られて、すごすごと退散すると言ったシチュエーションが多い。
   しかし、この河内山宗俊は、大名を強請って、お藤の下げ渡しを承諾させ、「山吹のお茶を所望」と言って金子まで巻き上げたうえに、帰る途中玄関口で、高頬のほくろを証拠に見破られたにも拘わらず、どっかと座り込んで聞いてくれと「悪に強きは善にもと・・・」と大啖呵を切って、弱みに抗弁できずに歯軋りする松江候を尻目にして、「馬鹿め」と捨て台詞を残して、意気揚々と退散するのである。
   舞台冒頭は、つまらぬ質草で上州屋から金を借りようとする低俗な強請なのだが、とにかく、数寄屋坊主であるとは言え、上野寛永寺の法親王の使僧に化けて大名の江戸屋敷に乗りこむのだから、それなりの貫録と品格が求められる。
   それが、北村大膳(錦吾)に、河内山だと見破られると、一挙に本性を現してベランメエ調になって「大膳は、これを知っていたか、はハハハ。・・・」と毒ずく、この化けの皮が剥がれても度胸で押し切るあたりは、並みの悪党ではない。
   「ひじきと油揚げなどの安物ばかり食っているので、良い考えが浮かばない」と庶民を見下し、悪知恵の働き過ぎるお数寄屋坊主と言う太平天国の江戸幕府体制の仇花なのだが、悪と言うよりも、一種の社会浄化請負人と言った位置づけであるのが面白い。

   この河内山は、吉右衛門や團十郎でも見ており、夫々の舞台で、楽しませて貰っているが、どちらかと言えば、喜劇役者からは一番遠い感じの生真面目でインテリ風の幸四郎の演技には、シリアスな人間模様と言うか、屈折した心の軌跡のようなものが垣間見えていて、興味深い。
   支度金として前金を要求するあたりも、幸四郎・宗俊だと、いわば、命を懸けての大名強請であるから、徹底的に準備を整えて対処して、大膳に見破られなくても、首尾万端怠りなくシュミレーションしているので、玄関口の居直りなども計算づくであろうと思えて、それ相応の準備金が必要であろうと考えたりするのも、舞台鑑賞の楽しみの一つである。
   吉右衛門や團十郎だと、元々、肝の据わった度胸だけで生きている悪の権化のようなお数寄屋坊主だと考えられないこともないので、後先考えなくても、ぶっつけ本番で対処。そう考えると、玄関口の非常にリズミカルで流れるような大啖呵のニュアンスも大分違って来て面白い。
   忠臣高木小左衛門の彦三郎(前に、松江候を演じていたのを見た)や、大名の意地を上手く見せていた松江出雲守の錦之助は、適役で良かった。

   さて、直次郎だが、前にも菊五郎の舞台を見ており、今回も、しっとりとした人間模様が描かれている「入谷村蕎麦屋の場」で、人生の悲哀を一身に集めたような風情で、滑らないように深く積もった雪道を歩いて蕎麦屋の暖簾をくぐる陰のあるいい男の登場から、引き込まれて行く。
   今回の舞台だけでは、直次郎がお尋ね者で追われる身であることくらいは分かっても、実際の悪の現場は見ていないので、どうしても悪人だと思えないのが難で、私には、入谷の寮で療養している三千歳に暇乞いに会うために、追手を逃れて訪ねて来て交わす二人の会話とか、按摩丈賀とのしんみりした会話などで醸し出される人間味のある直次郎の印象の方が強くて、そんな目で菊五郎の舞台を見ている。
   別れるのなら、いっそ死んだ方がましだと縋り付く三千歳の時蔵だが、成熟した女の色香を濃厚に漂わせながら、一途の思いを、直次郎にぶっつけており、切羽詰りながらも、しっとりとした二人の恋模様が、実に味わい深くて良い。
   刺客であり恋敵であり、三千歳を中にして、絶えず争い合っている金子市之丞(段四郎)が、最後に、どんでん返しと言うか、実は、三千歳の兄であって、三千歳を身請けして、その年季証文を叩きつけると言う話の設定は、面白いが、一寸、唐突で芝居がかり過ぎていて、感興を削ぐ。
   勿論、段四郎は、益々、性格俳優の本領を発揮していて上手い。

   いずれにしろ、江戸の顔見世興行で、非常に質の高い舞台で、楽しませて貰った。
   
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電気自動車に対抗する内燃機関自動車の帆船効果狙い

2010年11月26日 | 経営・ビジネス
   DIPRO主催の興味深いセミナーに参加して、日本の自動車産業の動向について、面白い勉強ができた。
   CADなどIT関連のセミナーなので、私など門外漢は、詳しいことは良く分からないのだが、プログラムは、莫邦豊の、中国市場の未来は内陸部にあると言う講演以外は、「ゼロエミッション社会の構築に向けて」で日産の電気自動車「リーフ」について、そして、「マツダのパワートレイン戦略とそれを支えるIT]で内燃機関の効率改善への飽くなき戦いについての講演があり、その後、日本の乗用車メーカー6社のエンジニアリングIT担当の部長たちの設計開発などについてのパネルディスカッションが行われて、日本の自動車産業の最先端の動きが分かると思ったのである。

   私の関心事は、電気自動車等の次代の車とハイブリッドなど内燃機関自動車との鬩ぎ合い、そして、ICT時代における自動車産業のオープン・ビジネス・モデルへの動向であった。

   前者については、日産のリーフが、この12月から発売になるが、年間6万台程度で、本格的な生産拡大は2012年と言うことで、思ったよりキャッチアップが遅いようだと言うこと、そして、マツダが、それを見越して、在来の内燃機関の効率アップ、特に、エンジンの効率アップで、環境とエネルギー対応で電気自動車に迫ろうとしていると言うことで、私は、在来自動車の、悪く言えば最後の足掻きと言うか、帆船効果の現実を見た思いで、非常に興味をそそられた。
   帆船が、蒸気船に負けじとばかり、革新に革新を重ねて質が向上したのだが、同じことは、電燈と競争したガス灯にも言えることで、いずれにしろ、在来技術や製品が、新しく生まれ出でた破壊的イノベーションに対して、白鳥の歌と言うべきか、最後の持続的イノベーションの輝きを示すと言うことだが、私は、一般に言われているように、電気自動車の普及率が、2020年に10%などと言った低率では有り得ないと思っている。

   トランジスターの登場で、エレクトロニクス産業が大きく変わったのだが、巨大な真空管製造設備を保有していた在来の支配的な電機企業は、転身が遅れてソニーなどの急速なキャッチアップを許したと言う、正に、クリステンセンのイノベーター(イノベーションではない)のジレンマが生じたのだが、
   今回の電気自動車については、安価でパワーアップと言う電池そのものの質の向上如何が、その帰趨の殆ど総てを握っていると言っても過言ではないので、清水教授が言うように、日進月歩で急速に進む電池のイノベーションが成功して臨界に達すれば、一気に電気自動車の時代になると思われる。

   日産のリーフの話は、これまでセミナーなどで何度も聞いているのだが、一つ興味深いのは、清水教授のエリーカのようにモーターが車輪についているのではなく、これまでの内燃機関エンジンに取って代わったようにモーター部分が置かれていることで、在来技術に引っ張られたような発想の違いが面白い。
   
   ところで、ICT技術の、オープン・ビジネス・モデル、或いは、オープン・イノベーションに対する対応・活用だが、各社に温度差はあるものの、やはり、自前主義と言うか、知財保護を含めて閉鎖的で、サプライヤーなどとのオープン化も進んでいないようである。
   汎用的な技術と言うよりも、カスタマイズされたICTシステムを使っているので、CADなどのバージョンやICTシステムの違いなどによる整合性の欠如などもあるようだが、自社内部でのICT技術のフル活用にも問題があるものの、やはり、日本企業の特色でもある人的要素の濃厚なノウハウや暗黙知など、ICTシステムには乗らない要素が多いと言うこともあるのかも知れない。

   いずれにしろ、日産のリーフなど、既に、自動車は機械と言うよりも、電気機能が過半数を占めるエレクトロニクス機器になってしまっていると言うことで、そうなれば、パソコンやTVなどと同じようになって、益々、モジュール化が進んで、日本のものづくりの特色である摺合せの余地が後退して組み立て主体となって行き、ICT技術の活用、オープン・ビジネス・モデルの活用の重要性が増してくるのではないかと考えられる。
   自動車が、モジュラー製品になるとは思われないが、清水教授の電気自動車のようになれば、これまでの内燃機関自動車とは違って、非常にシンプルになり、産業構造も含めて、自動車のものづくり構造やシステムが、大きく変わってしまうことは事実で、今回のセミナーのテーマであるIT技術の帰趨も変わってくるのであろう。

   「リーマンショック後のエンジニアリングIT]と言うテーマで、DIPROは、自動車メーカーの新しいIT活用の展開を期待していたのかも知れないが、リーマンショックの業績悪化で、各社とも、むしろ、IT関連予算の締め付けが厳しくて如何に切り詰めて効率を上げるかが緊急課題であり、ベンダーへの値下げ要請の合唱で、
   日産から、クラウドなどを活用した業界横断的な汎用システムの構築提案があるなど、別な、意味からのオープン・ビジネス・モデルの提案があり、興味深かった。
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秋深き佐倉城跡公園とくらしの植物苑

2010年11月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   日差しの穏やかな秋の午後、佐倉城跡公園を訪れた。
   私の庭の紅葉が色づく頃には、丁度、この公園の紅葉も美しく輝くのだが、今回は、もみじの紅葉はまずまずであったけれど、くらしの植物苑前の銀杏並木の方は、残念ながら、殆ど散っていて、公園側の数本に黄色い鮮やかな葉が残っているだけであった。

   この公園には、桜の木のように、それ程沢山もみじが植わっているわけではないので、紅葉狩りを楽しめるスポットは限られている。
   私のいつも訪れるところは、シーズンだけオープンする公園の中の駐車場脇と本丸へ向かうオープンスペースの1本と本丸の堀の両側のもみじ群落くらいで、それも、陽が当たっていて逆光の紅葉が見える午後のひと時である。
   私は、紅葉は、逆光で鑑賞しないと、全く意味がないと思っている。
   順光で鮮やかな紅葉でも、裏に回って陽の光を仰げば、更に葉の色彩が鮮やかに美しく輝く。
   特に、望遠レンズを使って、木々の一部を切り取ってクロスアップで写真を撮るので、どうしても、逆光でないと、紅葉の鮮やかさが出ないのである。

   私が、もみじの木の裏に回り込んでカメラを構えてうろうろしているので、不思議に思った婦人客の一人が私の傍に来た。紅葉を見上げて、「きれいやわあ。」と歓声をあげた。
   友を呼んで写真を撮ろうとしたが、顔が真っ暗に映るので諦めようとしたので、「強制発光でフラッシュをたけば良い。」と教えた。
   「フラッシュを使えば、両方とも美しく写ります。」と言ったら、にっこりと笑った。
   見ていると、写真を写している婦人客の大半は、携帯を使っていて、デジカメを使っている人は殆どいない。
   私は、普段は、一眼レフではなく小さなコン・デジを持って歩いているのだが、カメラを趣味にしている人ならいざ知らず、カメラは、持ち運びに便利なものに限るので、もっと携帯のカメラ機能をアップして、コン・デジとそん色のない携帯を開発すれば、デジカメの大半は駆逐されるのはないかとさえ思っている。

   この公園の茶室の傍に、1本だけ、真っ赤に燃えるように色づいているもみじがあり、かなりの大葉なので、大盃だと思うのだが、陽が当たらないのと、茶室の庭に入れないので、近づいて鑑賞できない。
   もみじの紅葉を楽しむのなら、隣にあるくらしの植物苑にある二本のイロハモミジが、間違いなく、いつも美しい錦の紅葉を見せてくれる。
   丁度、苑内からは、逆光であり、それに、外の銀杏並木をバックに紅葉を楽しめるので、コントラスト次第だが、中々、素晴らしい絵になる。

   この城址公園でも、白い山茶花が咲いていて、華やかな紅葉と良い対照だが、くらしの植物苑には、山茶花のほかに、赤やピンクや白色の寒椿が、今盛りで美しい。
   椿と違って、花弁がひらひらと分かれていて、清楚でか弱そうな雰囲気が良い。
   今、この苑で咲いている華やかな花木は、これくらいであろうか。まだ、椿は咲いていない。

   今、くらしの植物苑では、「伝統の古典菊」展が開かれていて、丹精込めて育てられた立派な鉢植えの菊が、沢山展示されていて、見事である。
   夏の猛暑で、蕾が出来なくて心配したようだが、9月に涼しくなり始めてから回復して、綺麗な花を咲かせてくれたと言う。
   菊は、気温ではなく日照時間で生育や開花が決まるようだが、その菊でも、今夏の猛暑には参ったようで、温度にも影響されることが分かったと、園芸員の人が語っていた。
   その所為か、本来なら盛りを過ぎている筈の江戸菊など、まだ、活き活きとしていて綺麗なままである。

   新宿御苑の菊は、懸崖作りや大作りなど人口的な職人技を披露したところに特色があるが、この植物苑の菊は、古典菊の純粋な鉢植えそのもので、無造作に並べられた色々な珍しい菊を、直に触れるような感じで、菊花の美しさ華麗さを楽しめるので、非常に見ていて楽しい。
   嵯峨菊は、丁度、故郷の大覚寺での菊花鑑賞に倣って、一段高い床几の上に上って眺められるようにしつられられている。細長い直立した花弁が、竹箒を逆さにしたような形で咲いている珍しい菊の花だが、逆光に映えると美しい。

   嵯峨菊のように花弁は細くて長いのだが、柔らかくて鳥の巣のように垂れた伊勢菊、線香花火のように細い筒状の花弁が先で開いたような肥後菊、それに、良く見る丸く花弁が巻き込んだ大輪の奥州菊など、華麗な菊の花が展示されているが、やはり、一番鉢数も多くて見ごたえのあるのは、江戸菊である。
   花弁は平弁と言うようだが、見たところ、細くて長い平べったい花弁が、一方向に渦巻状に巻き込んでいるのだが、開花するにつれて、様々に芸をするのが特徴だと言うのである。
   言うならば、1ヶ月くらいの間に、最初は左巻きだと、徐々に解いて右巻きになるなると言うことらしい。

   私は、何となく気が向いたら、この佐倉城址公園を、散歩を兼ねて、いうならば、趣味と実益を兼ねて訪れるのだが、あまり長居することはないけれど、静かなひと時を楽しむことが出来る。
   若い頃は、植物園や公園を散策することなど殆どなかったが、キューガーデンの傍に住んで、多忙を極めていた仕事の合間を縫って、カメラを抱えて公園に通った習慣のお蔭で、林間を散策する楽しみを覚えた。
   時々、生活のリズムを変えると言うことは良いことだと思っている。
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わが庭の歳時記~モミジ色づき秋たけなわ

2010年11月23日 | わが庭の歳時記
   私の庭のもみじも、ようやく赤く色づき始めた。
   植えた場所によって、色づきはまちまちだが、このように急に寒くなると一気に赤くなり、朝起きて見ると、その変貌ぶりにびっくりする。
   一本だけ、一番日当たりの良いところに植えてある山もみじは、まだ、青葉が黒ずんだ程度だが、這い上がって木に覆いかぶさるように咲き乱れている青い西洋朝顔が可哀そうなので、そのままにしている。
   しかし、もう数日で紅葉するであろうから、思い切って朝顔を取り外そうと思う。
   朝顔の根元あたりから葉が落ちて枯れかかっているのだが、高く伸びた天辺の方は元気で、蕾をどんどんつけて咲き乱れており、霜でやられるまでは花が徐々に小さくなり色褪せて行くのだが、咲き続けるのであろう。寒いヨーロッパの朝顔の逞しい生命力に、いつも驚いている。
   アメリカハナノキの黄色い大きな葉は落ちてしまったが、今年は、ブルーベリーの葉が綺麗に色づいている。

   椿の蕾が少しずつ色づき始めた。
   猛暑に苦しんだ夏をどうにか耐え忍んで、いつものように沢山の蕾をつけているので、年末から、変わりばんこに咲き始めて、晩春まで妍を競って楽しませてくれるであろう。
   切り花にしてしまうと、花の命は非常に短いのだが、私は、バラの花と同様に、椿の生け花ほど美しくて感動的な花はないと思っている。
   幸い、狭い庭に、沢山の種類の椿を植えているので、季節の移り変わりに合わせて、切り花にして楽しんでいる。

   枇杷の花が、今盛りである。
   ずんぐりむっくりの蕊を取り囲んだ白い5つの花弁の小さな花が、びっしりと束になって咲くのだが、鑑賞に堪えるような花ではなく、すぐに受粉して消えて行く。
   寒く成り始めた頃に咲き、冬間に実を結んで大きくなり初夏に収穫すると言う珍しい周期の果物の木だが、生命力が旺盛でどんどん大きくなる。

   私の庭の柚子が、ようやく色づき始めた。
   昨年は、小さな木全体に沢山の実をつけて扱いに困ったのだが、今年は、やや大ぶりの実を10個ほどしかつけていないが、その代わりに、夏に新枝を勢い良く伸ばして木が一回り大きくなった。
   赤い実がびっしりついているのは、ピラカンサ。
   万両の実も赤く色づき始めた。
   紫式部の実もたっぷりと残っているので、当分、小鳥たちも困らないと思う。
   
   先日、古い写真を整理していて、この庭の写真を見たのだが、殆ど木の植栽がなくて、芝生と花の咲くオープンな庭であり、手入れも簡単だったのに気付いた。
   今は、木を掻き分けて剪定せねばならないなど、一寸、木を植え過ぎて度を越しているので、思い切って、何本か大きくなった木を切り倒そうと思っている。
   これが、オランダなら、民家の植栽さえ背番号が打たれて厳重に管理されていて、処分できないのだが、良いことか悪いことか分からないが、これが、日本の便利なところであろうか。
 
   先日来、落葉樹が落ち始めたので、剪定をしようと思って、庭仕事に手を付け始めた。
   新芽は殆ど落としたのだが、青葉摘みを怠っていたので、松の葉っぱの奥の方が枯れていた。
   枯葉を書き落として少しは風通しが良くなったが、葉をもっと落として枝を大きくトリミングして、すっきりさせようと思っている。
   松の選定は、難しいのだが、まだ、背丈も3メートル弱であり、時々プロの植木屋さんに頼んだことはあるが、殆ど自分でっやってきたので、今年は私がやろうと思っている。

   門被りの槇の剪定はプロに頼むとしても、とにかく、思い切って伸びた枝葉をばさばさ切り落とすのが肝要であるから、まず、自分で作業を始めてみることで、それが終わらないと、春の草花の植え付けもままならない。
   寒風が吹き荒れる頃には、土の中で、球根や宿根が、春への胎動を始めるのである。
   
   
   
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新国立劇場:寺島しのぶの「やけたトタン屋根の上の猫」

2010年11月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「熱いトタン屋根の猫」と言う和名で知られている「CAT ON A HOT TIN ROOF」が、常田景子の新訳で、「やけたトタン屋根の上の猫」と言うタイトルに名を変えて、松本祐子演出で、新国立劇場で上演されている。
   テネシー・ウイリアムズの作品なのだが、シェイクスピア・ファンの私には相性が悪くて、大竹しのぶの「欲望という名の電車」の舞台しか見ていないので久しぶりの鑑賞である。
   俳優座が近かったので、何度か、栗原小巻の舞台を見に出かけているのだが、欧米作品の芝居は、有名どころは別として、ヨーロッパの生活が長かった割には、シェイクスピア以外は、残念ながら殆ど見に行かなかった。

   まず、この小劇場は初めてだったが、こじんまりした非常に鑑賞し易い良い劇場で、舞台セットも、主人公マーガレット(寺島しのぶ)ブリック(北村有起哉)夫妻の寝室をメインに設えた一幕ものだが、非常にコンパクトでまとまりが良くて楽しめた。
   私は、ストラトフォード・アポン・エイボンにあるRSCの正に昔の芝居小屋風の素晴らしいクラシックな小劇場「白鳥座」が好きで、よくロンドンから車を飛ばして出かけて、シェイクスピア戯曲を聴いていたのだが、同じ芝居でも、劇場の良しあしで印象が全く違ってくるのが面白い。

   普通、西洋の芝居を観る時には、私は、翻訳本を読んだり、映画を見たりして準備をして行くのだが、今回は、全く先入観なく、ぶっつけ本番で劇場に出かけ、帰ってから、エリザベス・テイラーとポール・ニューマンの映画を見た。
   本当は、テネシー・ウイリアムズの原作を読んで、この舞台の印象などを書くべきだと思うのだが、今回は、時間がないので原作を無視して、この非常に興味深い舞台について二つの作品から得た感想を記してみたい。

   一代で大をなした南部の大農園主ビッグ・ダディ(木場勝己)の65才の誕生日を祝うために、長男グーパー(三上市朗)メイ(広岡由里子)夫妻と二男ブリック・マーガレット夫妻が大邸宅に集まったのだが、ビッグ・ダディの遺産目当てに、グーパーは遺産相続にしか関心がなく、メイが五人の子供を使ってあの手この手の歓迎ムードを演出してゴマを擂るのだが、ビッグ・ダディと妻のビッグ・ママ(銀粉蝶)のお気に入りはブリック。
   しかし、ブリックは、親友のスキッパーが自殺してから酒に溺れて身を持ち崩して、スキッパーと関係したと邪推して妻のマギーを拒否し続けて子供も出来ず、腑抜け同然で人生に絶望して、遺産相続になど全く興味を示さないので、マギーは兄夫妻に出し抜かれると気を揉む。
   痛みに苦しむビッグ・ダディが、健康診断の結果何でもなかったと言われて一気に元気を取り戻してはしゃぐのだが、口論の末、ブリックから余命幾ばくもないと真実を聞かされて暗転、一挙に、遺産相続問題が表面化するのだが、マギーが妊娠したとの作り話をして両親を安心させる。
   マギーとブリックは寝室に戻って愛を取り戻そうとするところで幕。

   大体、こんな感じで今回の舞台は、物語の大枠を積み上げながら展開されて行くのだが、後で、映画を見て、舞台との差のみならず、戯曲の大筋が見えて来たような気がした。
   作者自身が、映画でのブリックとスキッパーとの関係が、ホモであったことを匂わせた程度だったのに不満であったと言われていたとかで、この舞台では、ビッグ・ダディに、ホモだと言われて真っ向から激昂して反論しているシーンを取り上げている。
   しかし、映画では、ホモと言う関係よりも、本当の愛を求め続けながらも得られなかった父親の愛情への渇望、すなわち、金儲けばかりに一生懸命で、ものを買って与えてやりさえすれば愛情だと思っていた父親の愛に絶望して、親友スキッパーへの愛にのめり込んで行ったブリックの心の軌跡を吐露しながら、病気と知って絶望した父と人生お先真っ暗なブリックとが、地下室で、初めて憎悪と愛情の入り混じった心情をぶっつけ合いながら購いあうラストシーンが、印象的である。
   私は、父親の愛が薄くて絶望していたキャルのジェイムス・ディーンが、父親との心の交流に感動しながら病床の父を看取る「エデンの東」で見せたラストシーンを思い出して、感動を覚えた。

   もう一つ、ブリックの心の傷を癒したのは、マギーのブリックへの思いで、ホモに走って新妻を顧みなかったブリックの心を惹きつけたくて、親友のスキッパーに接触したのだが、実際には直前でセーブして、ブリックにスキッパーが言ったように不倫関係はなかったのだと、父親とブリックの対決の場で、マギー自身に語らせていたことである。
   映画では、衣装室に籠ったブリックが、架かっていたマギーの下着に顔を一瞬だが埋めていたことからも、表面上は徹底的にマギーを嫌っているように装っているのだが、肉親や妻の本当の愛を感じれば、酒浸りで人生に絶望したブリックの魂も蘇ると言うことなのだが、しかし、すべてを曝け出して、心の叫びをぶっつけ合って苦しみ悩み呻吟しない限り絶対に近づけない人間の崇高な営みなのかも知れない。
   
   幻のようにブリックの心を苛み続け、マギーの嫉妬を煽り続けたスキッパーと言う影の登場人物の存在を、隠し味として、テネシー・ウイリアムズは、人間の愛と欲望を炙り出して、この欺瞞に満ちた人生で、道に迷った人々を、情け容赦なく悲劇のどん底に叩き落とす姿の中に、人間の真の姿とは、あるいは、本当の愛情とは何なのか、その真実を描きたかったのであろう。

   さて、ベルリン国際映画賞最優秀女優賞に輝く寺島しのぶだが、私は、一度だけ、蜷川の近松心中物語でのおかめの舞台を見たことがあり、猛然と全身全霊をぶち込んで芝居に挑戦する姿に感動した記憶があり、今回も楽しみにしていた。
   芝居の冒頭、けたたましく大声で喚きながら出て来たと思ったら、無口な北村のブリックを相手にして、鉄砲玉のように立て続けにしゃべり続けで、エリザベス・テイラーのソフトタッチの女らしいマギーとは大違い。
   尤も、舞台と映画とは違っていて、舞台ではオーバーアクションになるのは当然だが、冒頭の蓄音機の音楽から大音響のデキシータッチであるから、南部女の心意気、イメージを前面に押し出したのであろうか、とにかく、元気はつらつとしたパンチの利いた演技は心憎いほど歯切れがよく、それに、セクシーで女の香りをプンプン振りまいて魅力的である。
   起承転結を弁えた心情の表現など実に上手くて緩急自在であり、全身で演技する表情の豊かさが素晴らしい。

   ブリックの北村は、寺島のマギーには押され気味だが、木場のビッグ・ダディとの丁々発止の対決シーンでは、若さが爆発する。
   癖のない、しかし、人生を斜交いに見上げながら醸し出す退廃したニヒルさを覗かせるなど上手いと思う。

   ベテランの木場と銀粉蝶の舞台は、何回か見ているが、実に上手いし貴重な存在で、普通の通俗的な庶民感覚プンプンの若い夫婦を演じた三上と広岡のカップルの息の合った演技も人を得ていて、わき役陣も実に健在で、非常に奥行きのある広がりを感じさせて、楽しい舞台を作り出していた。
 
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関容子著「海老蔵 そして 團十郎」

2010年11月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   歌舞伎座の傍には、古書店がいくらかあり、歌舞伎や芝居、それに、江戸や文学、歴史関係などの本が並んでいて、歌舞伎役者なども良く訪れると言う。
   その古書店で買って積読だった本「海老蔵 そして 團十郎」を、丁度、団十郎の出演していた「国姓爺合戦」を見た後で読んでみた。
   関容子さんの本は、インタビュアーとしての蓄積がものを言って、歌舞伎役者の芸談のみならず、内面生活に踏み込んだ人間性や故事来歴などの開陳が豊かで、読んでいて非常に面白いのである。

   この本で、團十郎と海老蔵の違いについて語っているが、海老蔵は、父團十郎と違って、隔世遺伝(悪い意味ではない)で、美男役者として一世を風靡した祖父の十一代目に、良く似ているらしい。
   成田屋親子の違いについて、團十郎夫人が、「両極端に違っていて、團十郎は、大きくて、包容力があって、あったかく、海老蔵は、神経質で、鋭利で、繊細だ」と言っている。
   興味深いのは、海老蔵自身が、祖父に良く似ていると言いながら、父と自分は違っているため理解が及ばないし、思いの深さ、優しさ、愛情など自分に欠けている自分にないものを一杯持っているので、今は、自分にとって父の方が魅力的であると言って尊敬していることである。
   海老蔵は、疑問を感じると、文献を調べたり老友に聞いたりして徹底的に勉強すると言う。

   ところで、私が、この本を読んでいて面白かったのは、やはり、時代を超越したような一世代前の歌舞伎役者である十一代團十郎の生き様である。
   世襲制が常態のように言われているが、この十一代目は、團十郎家とは縁もゆかりもない家の出身で、市川本家に養子に入って團十郎を継いだので、血の繋がりもないのだが、その後の三代によって、江戸歌舞伎の大名跡團十郎家の芸と伝統を本格的に継承しているように感じられている。
   そもそも、この十一代目の父であり希代の弁慶役者として名声を博した七代目幸四郎自身が、全く歌舞伎役者の子孫ではなく、小屋主の倅で、店先でおぼろ饅頭の皮をむいて遊んでいる子供の顔を見て、振付師の藤間勘右衛門が感嘆して歌舞伎の世界に引き込んだと言うのであるから、分からないものである。
   その子供が、十一代團十郎であり白鸚であり二代目松緑であるのだから、この奇跡的なスカウトがなければ、團十郎と海老蔵父子、幸四郎と染五郎父子と吉右衛門、初代辰之助と松緑と言った名優たちの出現はなかったと言うことになる。

   海老様と呼ばれて、美男役者として有名であった羽左衛門のお株を奪うほど魅力的であった十一代目の女性関係が、謎に包まれていて、興味深い。
   寅さんの渥美清さんのように、私生活は、殆ど外部には分からなかったようで、父に言われて十一代團十郎に付き従っていたかくし妻千代さんがいることも、十二代團十郎が生まれて大きくなっていることも、直弟子さえ知らなかったと言うのだから、満都の女性人気を一身位に集めた超人気役者の私生活は謎に包まれていたのであろう。
   当時は、パパラッチが居なかったのであろうか。

   市川家には、九代目團十郎の美しい孫娘である新派女優の市川翠扇が居たので、世間の人は皆、十一代目と結婚するのではないかと考えたようだが、そうならないのは当然であろう。
   もう一つ興味深いのは、いろいろ浮名はあったようだが、片岡我童と言う女形との恋(?)である。
   関容子さんは、かなり、詳しく二人の関係について語っているが、当代團十郎が、女形だが、男なのに男に惚れて、一生それを貫き通す、案外精神的な純真さあってこそ、どろどろした世界と相まって歌舞伎の世界があるのだと言うコメントが面白い。

   とにかく、この本だが、歌舞伎の番外編を読んでいるようで興味津々でありながら、團十郎家三代の芸術生活を語っていて参考になる。
   
   
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斎藤精一郎:海外投資&高度製造業立国論

2010年11月20日 | 政治・経済・社会
   毎年、千葉ニュータウンで、千葉県とUR都市機構が共催で開いている「東京⇔成田SKYGATEシティフォーラム」で、斎藤精一郎氏が、「日本経済・活性化の条件」と言う演題の講演を行った。
   地域再生と企業の経営革新と言うサブタイトルで、成長途上の千葉ニュータウンへの企業誘致と言う位置づけだが、そのことはともかく、以前は殆ど千葉の田舎であったこの地域が、年々、見違えるように開発発展していることは確かで、全くの農業地帯であったから、原野を切り開いて、白紙の上に都市計画を描いて開発したようなもので、総てが新しく、新興都市が忽然と現れたようなものである。
   私が千葉に移り住んだのは、もう30年も前の話だが、このあたりには、一度古寺めぐりで訪れたことがあるのだが、当時は完全に農業地帯で、狸が走っていたし、今でも、京成の沿線からこの千葉ニュータウンに向かう間の農村地帯には、そんな古い農村風景が残っているのだが、それに隣接して忽然と近代的な都市空間が表れて、大学や研究施設は勿論、ハイテクなどの先端産業などの企業や、家電・ホームセンターなどの巨大な量販店やスポーツ施設等が軒を並べており、びっくりする。
   新車両導入で「成田スカイアクセス」が開通したので、益々、勢い付いていると言う感じだが、やはり、まだ住人が少なくて、本格的な都市化成熟化には時間がかかるであろうと思われる。

   さて、斎藤先生の講演の論点だが、何故、日本が失われた20年で、一向に成長発展がなく鳴かず飛ばずの状態を続けているのかに始まって、日本の将来について、アジアなどの勢いのある新興国に海外投資をどんどん行って、金を儲けて、外国での利益には95%は無税になったのであるから、その金を持ち帰って、日本でR&Dやイノベーション活動に使って、企業を、頭脳を使って他国の追随を許さないような高度製造業にしない限り、日本の明日はないと言うことである。
   日本の経済成長が止まったのは、冷戦の終結によって、新しい国が市場経済に参入して起こったグローバリゼーションが進展して、それまでのキャッチアップ型の経済産業構造が、全く変わってしまったにも拘わらず、この状態が継続すると考えて、相も変わらず同じシステムを、ずっと追い続けて来たことにあると言う。
   社会主義国家のグローバル市場への参入については、織田信長の楽市楽座やペルシアの市場のように、市場経済は資本主義とは関係がなく、現在のグローバル経済は、マーケットで結びついているのであるから、グローバル市場の動向を正しく把握して、それに対処しない限り、企業は競争に勝てない。どうすれば競争に勝ち抜くことが出来るのか、競争力の涵養と競争戦略なき国家にも企業にも、明日はないと言うのである。

   まず、生産の面から考えれば、要素価格平準化の原理から、生産コストの安い新興国に生産拠点が移動して空洞化するのは当然で、また、需要面でも、人口が激減して少子高齢化する先進国では多くを望めず、爆発的な需要拡大が期待できる新興国に期待するのが当然であろう。
   アジアなどの新興国の、BOP(ボトム・オブ・ピラミッド 最貧困層)や、巨大な新興中間層(ボリューム・ゾーン)をターゲットにした企業戦略を取るためには、海外に積極的に直接投資して工場進出することで、その場合にも、従来の製品ではなく、ローカル市場のニーズにマッチした製品を開発することで、日本がキャッチアップ過程で進めて来た戦略戦術を上手く活用して、ローカルニーズが未成熟な点を見越して仕様や質を落としたミドルやローエンド・イノベーションを起こして、利益の源泉を新興国に移せと言うのである。

   逆に、日本では、R&Dやイノベーション戦略に比重を移して、頭脳・知識集約型の高度製造業に特化してハイエンド、スーパーハイエンドの製造業を目指すべきだと言うのである。
   すなわち、企業にとって、これからは、ポートフォリオ戦略が重要であって、ローエンド、ハイエンドの製品の棲み分けによって、経営戦略を組みなおせと言うのである。

   仰ることは至極ご尤もであり、同じことは、これまで、何度もこのブログで繰り返してきたことだが、この方向転換は、日本企業にとって最も難しいことで、少しずつ脱皮しつつはあるが、ニーズの喧しい巨大な日本市場に恵まれて、それを死守するために外資参入を頑なに拒否し続けて、また、徹底的に自前主義でブラックボックス政策を金科玉条のように守り続けて、ICT革命の時代にも拘わらず、知財戦略優先で企業のオープン化、オープンイノベーションには殆ど無関心であり、ドラッカーが言っていたように、世界で最もグローバル化に遅れている日本の古い頭の経営には、無理なのである。
   それに、日本の技術者の常として、技術の深掘り、すなわち、持続的イノベーションには熱心だが、広範な知識集約のクリエイティブな破壊的イノベーションに不得手な日本企業には、日本の顧客満足が精一杯でありながらそれも不満足であり、企業風土や経営風土、徹底的に日本人である経営者や従業員のものの考え方を、根本的に改革しない限り、異文化異文明のグローバル市場の顧客満足やニーズ充足などは夢の夢であり、グローバル市場の攻略など極めて難しい事なのである。
   韓国との違いは、国内市場の大きさで、国民の意識が、外を向いているか向いていないかの差で、その差は、天と地との差ほどもあり、外国留学生が激減して、海外勤務を拒否する社員が多くなった日本との差は益々開いて行く。
   更に、斎藤戦略を進めるための要諦は、人の教育だが、問題山積の日本の教育については、次の機会に論じたいと思っている。   

   もう一つの論点は、斎藤先生は、再生したイギリスが、ウインブルドン現象で、金融中心のサービス産業化しすぎて失敗しており、やはり、工業・製造業が大切だとして、高度産業立国を説いたのだが、この論点は、現在の金融危機には多少の戸惑いを感じながらも、脱工業化、すなわち、ICT金融などサービス産業への脱皮以外に日本の活路はないと説く野口悠紀雄先生と対極にあるのだが、さて、どうであろうか。
   ここでは、世界企業ランキングでは、上位に位置する製造業が、製造業立国を標榜する日本よりも、アメリカやイギリスの製造業の方が、多いと言うことを明記するだけにとどめて置きたい。
   何を意味するのか、明確に問題点を指摘しているからである。
   
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秋色深まる新宿御苑でのひと時

2010年11月17日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   もみじの紅葉には、まだ、一寸早くて、少し色づき始めた程度だが、新宿御苑は、恒例の菊花展が催されていて、秋の深まりを感じさせてくれて、天気の良い日などの散策にはもってこいである。
   同じ紅葉でも、今年は、私の近所でもそうだが、桜の葉が沢山残っていて、その葉が色づいていて、今、一番美しくて、赤く色づいた葉が、太陽の輝きを受けて、ちらちら散り行く風情は絵になる。
   私が学生時代に、秋を求めて歴史散歩に明け暮れていた頃の、奈良の、あの赤と茶色と橙色と黄色と緑の微妙に錯綜した鮮やかな桜葉や柿の葉の秋色には及びもつかないが、しかし、地面に敷き詰めた、赤みを帯びた褐色のかった暖色の絨毯は、実に、暖かくて気の遠くなるような秋の気配を濃厚に感じさせてくれて、堪らなくなるほど懐かしい。
   
   私が、新宿御苑を訪れるのは、いつも、午後の3時くらいで、閉館の4時半までの僅かな時間の滞在だが、この日は、やはり、随分日が短くなっていて、釣瓶落としのように夕日の傾きが早くて、十分に、御苑の木々が、夕日に染まったり輝く姿を楽しむ余裕がなかった。
   黄色に輝いた巨大な落葉樹と新宿の高層ビル群の稜線を真っ赤に染めて日が落ちると、急に、夜の気配が濃厚になって、イギリス庭園の広大な芝生の輝きが消えて、木々が、影絵に変わって行く。
   この日は、カラスの騒がしい鳴き声も、無粋なヘリコプターの爆音もなく、味気ない蛍の光の場内放送だけだが、もう、冬はそこまで来ているのである。
   
   もう一つ、紅葉が鮮やかなのは、フランス式整形庭園のプラタナスの並木道(この口絵写真)である。
   色は黄緑交じりの黄金色だが、褐色の斑が混じって、ここだけは、ヨーロッパの雰囲気を漂わせていて、懐かしい。
   葉は、赤ちゃんの顔くらいの大きさだが、踏みしめて歩くと、サクサク音がして、そのリズム感が良い。
   並木は明るい黄色だが、落ちた葉は褐色に変色するので、地面は濃い茶色の絨毯に変わっていて、そのコントラストが面白い。
   日本庭園で時間を過ごし過ぎたので、私が並木道に来た時には、日を浴びて光り輝いて、木漏れ日が美しかったのは、並木道のはずれで、それも一瞬だったが、何故か、弱くなった薄日の良く似合う木である。
   並木の間から、バラの花越しに遠くの新宿のビル群が顔を出す光景が展開されているのだが、無粋と言えば無粋、面白いと言えば面白いけれど、訪れる日によって気持ちが変わるのが不思議である。
   この庭園は、新宿門から一番遠いので、閉館前には、人が殆どいなくなって寂しくなる。若い二人には、恰好の場を提供してくれるのではないかと思うのだが、大学の就職内定率が50%そこそこの悲しい日本の現実では、青春を語る時間も惜しいのかも知れない。

   このプラタナスの並木道の間にあるオープンなバラ園では、今、バラが一番美しい時期を迎えていて、寒さに向かう頃の晩秋の花は、色が深くて鮮やかである。
   繊細な菊花壇展の方の菊は、中には既に盛りを過ぎて萎れかかっているもののもあって、少し、風情を削がれたが、やはり、野外に咲くバラの花は、強いのであろう。

   さて、菊花壇展であるが、毎年見ていて、いつも、その丹精と技に感嘆している。
   毎年同じで、変わり映えしないのが多少気になっているのだが、しかし、良く考えてみれば、そもそもここまで育てるのが至難の業であって、それを毎年、暑くても寒くても、特にこの夏は歴史始まって以来の異常気象であったから、並大抵の努力ではなかった筈だと思って、有難く拝見させて貰った。
   私は、花の国オランダに住んでいて、アルスメアの花市場にも行ったし、キューケンホフにも何度も出かけたが、花の改良については、オランダを始め欧米は進んでいるが、花を丹精込めて育てて花の姿を限界ぎりぎりにまでに昇華させる園芸の業は、日本は、世界最高なのではないかと思っている。
   自然を力ずくで支配して改良してしまう欧米の科学万能文化と、地球全体、自然そのものすべてに神が宿るとする八百万の神の、自然との共生で生きて来た日本の文化との違いかも知れない。
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Japan as No.3と言う現実にどう立ち向かうのか

2010年11月16日 | 政治・経済・社会
   昔、エズラ・ヴォ―ゲルが、日本経済の快進撃の頃に、Japan as No.1とのタイトルの本を著して、如何に日本の経済社会が卓越した合理的なシステムであり経済成長を牽引し続けるかを説き、その後、日本経済や経営に関する礼賛論が立て続けに出版された頃がある。
   当時の覇権国アメリカ自身も、実際に、日本経済に凌駕されてしまうのではないかと官民挙って心配して、日本の経済社会快進撃の秘密を調査したと言う、今から思えば嘘のような時代があったのである。
   私自身、その少し前に、アメリカで経営学を勉強して、その後、ヨーロッパを中心に長い間駐在して仕事をしていたので、如何に、日本経済の威力が凄かったのかは、身に染みて実感している。
   張り子の虎であろうとなかろうと、多くの日本人が、誇りと自信を持って世界中を駆け回って活躍していたのである。

   その少し前に、ようやく門戸を開放した中国を、香港から封印列車の様な汽車に乗って中国に入り、ローカル空港から北京に入って商談と調査に入ったのだが、どこへ行っても目も当てられないくらいに貧しかった。
   外国人が泊まれるホテルの空室状態によって入国ビザを発行していたと言うことで、とにかく、中々ビザが下りなかったのだが、事務所もなかったので、中国政府の役人がホテルまで来て、我々の客室で交渉したことがある。
   幸い、紫禁城は、そのまま解放されていて、人けの疎らな歴史遺産を心行くまで鑑賞できた。

   数年前に、上海や蘇州を訪れた時には、中国の発展と、その変貌にびっくりしたのだが、しかし、やはり開発途上国の段階と言うのであろうか、経済活動が活発で文明化された部分は、アメリカをも凌駕するような雰囲気を醸し出してはいるのだが、一歩、裏へ入ると、以前と全く同じように貧しく、丁度、先進国と貧困国が同居した二重国家の様相を呈しているのである。
   この一つの国に、二重の国家が同居している状態は、BRIC'sなど新興国や、中南米の様な貧富の差の激しい独裁的な政情不安定国には常態なのだが、昔の日本のように、地方からの就職列車が終わって、政府の積極的な財政支援が続かない限り解消は難しいであろう。

   その中国に、日本のGDPが追い抜かれて、日本は、最早、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国ではなく、Japan as No.3なのだと、数か月前に報道されて世界のメディアにも取り上げられ、先日もNHKなどで立て続けに放映されている。
   確かに、国家にとっては、経済規模の大きさは、国力の重要な指標だが、前述したように、先進国と発展途上国が同居した中国の一人あたりの国民所得は、まだ、日本の10分の1程度で、ある意味では比較すること自体がおかしいと言う状態にある。
   問題は、そんなことよりも、もう、10年以上も前から、主要な欧米メディアは、世界ニュースのカテゴリーには、CHINAと言う大見出しがあっても、日本の記事は、ASIAの一角に掲載される程度で、既に、世界の世論は、日本など重要視しなくなり関心は中国に移ってしまったのである。
   日本のメディアも、G2の時代だと自嘲気味に報じているが、私自身は、アメリカも中国も、大したことはないと思っているので、気にはならないが、問題は、日本人自身が、どんどん自信と誇りを失って、後ろ向きになりつつある風潮である。

   このような現状の日本の政治経済社会情勢が続いて行くならば、悲しいことだが、早晩行き詰まってしまって、いつかは、何かの弾みで、日本国債が投げ売りされて大暴落して、円の威信が崩壊して一挙に円安になって、日本経済が危機に瀕するであろうことは、目に見えている。
   バブルの崩壊や、一国経済の崩壊などは、何かのネガティブ情報が駆け巡り、一瞬のパニックによって引き金が引かれれば、一たまりもなく窮地に立つ。ソロスの一手で、イギリスが一瞬にしてポンド暴落の危機に瀕した光景を現地にいて具に実感したが、その光景が目に焼き付いて離れない。
   中国の軍事的な脅威について心配されているが、日本国債を買い始めた中国が、ある日、国家戦略的に、その国債を投げ売りする心配はないのであろうか。
   膨大なUSA財務省証券などのドル建て債権は、一蓮托生のアメリカとドルの崩壊は自縄自縛となるのでやる筈はないであろうが、今回のレアアースと同じで、日本の国債の投げ売りなどは痛くも痒くもないのではないかと思う。
   このようなことがなくても、これだけ国家債務が危機的な状態に達し更に悪化の一途を辿り収拾の見通しさえ付かないような状態では、針の一穴で詰まらない些細なネガティブ情報でも何が起こるか分からないし、一たびパニックが起これば、国債の大半は日本人が保有して心配ないと言う経済評論家が多いが、たとえば、膨大な国債を保有する日本の銀行が、財務諸表の健全化に走るのは経営学の常識なのである。

   私は、このブログで何度も論じているが、日本の経済を救済するためには、経済成長戦略を果敢に推進して、日本経済を活性化して成長路線に乗せる以外に道はないと思っている。
   消費税などの増税を行えば別だが、国債の元利増を上回る経済成長による税収増がなければ、財政再建は無理なのである。
   勿論、従来型の日本経済の成長ではなく、地球環境と資源や保全保護は勿論のこと、少子高齢化や福祉厚生を重視するなど課題解決型の21世紀の新しい経済社会を目指した経済成長である。
   日本人自身が、自信と誇りを持って行動さえ起こせば、実現可能である。イギリス病で疲弊していたイギリスが、果敢な改革の推進によって蘇ったのを見てもそれが良く分かる。
   とにかく、一刻も猶予がないことは事実で、Japan as No.3に感けている時ではないのである。
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大学の風景~同じ勉強をするのなら良い環境を選ぶべし

2010年11月14日 | 生活随想・趣味
   この頃、フォーラムやセミナーや公開講座などで、大学を訪れることがある。
   東大や早稲田が多いのだが、若い学生の中に混じって、法学などの講義を聞くのも、何となく違和感は感じるのだが、悪くはない。
   
   この口絵写真は、東大でのセミナーで、休憩時間に、安田講堂から出たら、応援団の練習をしているところに出くわして撮ったものだが、少し前には、10人ほどのチアガールが、掛け声をかけながら、応援団の前でチアダンスを踊っていた。
   残念ながら、正面に行く前に終わってしまったので、写真にはならなかった。
   最近、東大も女子学生が多くなって、構内の掲示板に、綺麗なモデル写真付きの振り袖や袴のレンタル・ポスターが、常時張られているのである。
   私の場合は京大だったが、法学部や経済学部では、女子学生は、ほんの数人ずつであったので、やっと、男女同権、同じになったと言うことであろうか。

   東大の場合には、天気が良い時には、三四郎池に下りて、自然に浸って季節感を味わうことが出来るのだが、平坦な都会地の大学の構内に、うっそうとした林があって、切り立った深い谷底の様な所に、池があるなどとは思えなかったので、最初は、正直びっくりした。
   しかし、素晴らしい環境である。
   京大には、このような環境はないのだが、農学部のグラウンドからは、背後に比叡の山々を見上げることが出来るし、歩けば、すぐのところに、銀閣寺や哲学の道が続いていて、自然との触れ合いには事欠かない。
   早稲田では、構内に、坪内逍遥記念館があり、私は、この古風な雰囲気が好きでよく訪れる。

   アメリカの大学には、立派な博物館や美術館があって、ここを訪問するだけでも楽しい。
   ハーバードやプリンストンには、素晴らしい美術館があり、私の居たペンシルベニア大には、大規模な博物館があり、確か、シカゴ大にも、立派な博物館があった。
   それに、ペンシルベニア大にもあったが、大きな本格的なアメリカンフットボール競技場や、本格的な芝居を楽しめる劇場なども併設されていて、かなり、充実した施設が揃っている。
   当然のこととして、立派な図書館もあって、ペンシルベニア大には、日本語の本もかなりあったように記憶している。

   ところで、本好きの私が、どこの大学に行っても、時間があれば必ず行くのは、書店だが、最近、東大も早稲田も、特色がなく面白くなくなった。
   興味を持って注目しているのは、ベストセラーランキングで、構内では、どんな本が売れているのか、あるいは、街の一般の書店とはどう違うのか、興味があるのである。
   やはり、トップは、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」「ハーバード白熱教室講義録」であった。
   三省堂などでも上位にランクされている本だが、私は、まだ手にはしていないが、まず、録画しておいた講義録を聞いてから読もうと思っている。

   この書店訪問は、最近の経験では、ハーバード大、ペンシルベニア大、ニューヨーク大だが、夫々、それ程、大きな規模ではなく、特に、大学だから特別だと言うことはなかったような気がする。
   大学であるから、当然、テキストのコーナーも併設されているのだが、ここの方が面白いと思ったことがある。
   結局、アメリカに行った時には、バーンズ&ノーブルで本を買う方が多い。
   人気のある新刊本などは、派手にディスプレイされていてディスカウントされており、それよりも、並んでいる本の数が違うのである。

   イギリスの大学は、在英中に、オックスフォードやケンブリッジを訪れたが、やはり、歴史と伝統の醸し出す風格と言うか、街全体からして違う。
   大学の中は、丁度、ハリーポターの映画と同じような佇まいで、いくら古いと言っても、アメリカ最古のユニバーシティであるペンシルベニア大や最古のカレッジであるハーバードなども、足元にも及ばないほど古色蒼然としている。
   娘が留学していたので、カンタベリーのケント大には、良く行ったが、新しい公立大は、ブリック大と言われているのだが、全く、雰囲気が違うのである。
   ロンドンの街の中にあるロンドン・スクール・オブ・エコノミックスには、森嶋通夫教授を訪ねて良く行ったのだが、ここは、骨董性からは程遠く古いだけの雰囲気のないキャンパスだが、とにかく、大学によって環境などその特色が全く違っているので、同じ勉強をするのなら、大学の質や教授たちファカルティ、それに、施設なども、重要かも知れないが、トータルとしての位置や環境も非常に重要だと思う。
   幸い、私の場合には、京都とフィラデルフィアの選択は、間違っていなかっと自負している。
   
   書き忘れたが、スペインのサラマンカ大学は、世界最古の大学の一つで、コロンブスも訪れたと言う由緒のある大学で、観光地としても有名だが、ここの雰囲気は格別で、私は、ここで、本当に歴史と伝統、そして、大学の使命と良さを実感した。
   最古の大学ボロニア大学をいつか訪れたいと思っているのだが、先年、訪れたミラノの大学の若人で賑わうムンムンとした雰囲気も悪くないと思っている。
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国立劇場11月歌舞伎・・・国姓爺合戦

2010年11月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場の歌舞伎の舞台は、中国人の父と日本人の母との間に生まれた和藤内(後に鄭成功)が、滅びた大明国の再興のために、中国に渡って、韃靼人と闘うと言うスケールの大きな芝居で、近松門左衛門の作でもあるので、それなりに面白い。
   この主人公の和藤内は、この芝居では、平戸の漁師であったのが、明国皇帝の妹栴檀皇女が命からがら漂着して大明の危機を知って、父母と共に中国に渡って闘うと言う話になっているが、実際には、7歳まで日本で生活し、民国に渡って学問を修めて科挙試験を受験するほどの英邁で、文武両道の達人だったのであり、活劇本位の芝居に仕立てた近松の脚色の仕方が興味深い。
   いずれにしろ、滅びた明は、満州族の清国となって栄えて行くので、鄭成功は、南京や福建で戦いに敗れるなど明国復興には成功しなかったが、当時、オランダに支配されていた台湾を開放して台湾王朝の始祖となったのであるから、中国においては、武勇に秀でた偉人なのである。

   ところで、この芝居だが、シェイクスピア戯曲の様な話の筋書きがしっかりした芝居だと思って見ていると、そればかりではなく、大分印象が違っていて、和藤内を演じる團十郎などは、芝居をすると言うよりは、六方を踏んで威勢よく花道を退場するシーンなども含めて、目を引くのは、豪快で偉丈夫な英雄豪傑としての見得の連続で、江戸時代の錦絵の連続写真を見ている感じであるから、正に、團十郎家の荒事の世界そのものである。
   
   物語として内容の濃いのは、和藤内たちが、中国に渡って、韃靼の将軍である五常軍甘輝(梅玉)の居城・獅子ヶ城楼門の場と甘輝館以降で、特に、和藤内の母渚(東蔵)が、単身で城にのり込み、和藤内の父の実娘で甘輝の妻・錦祥女(藤十郎)と甘輝に和藤内への恭順協力を嘆願するくだりである。
   親子や夫婦の義理人情や意地、誇りが錯綜する見せ場であるが、やはり、長年恋しくて思い続けていた父・老一官(左團次)との対面から始まる心情の吐露など、藤十郎の語り口や表情の豊かさ深さは格別で、一等群を抜いているのだが、東蔵の日本の母としての誇りや義理の娘への思い、そして、梅玉の、武人の意地と妻への愛情に板挟みに苦しむ明人でありながら韃靼の武将であると言う複雑な心境の表出など、夫々の特質を生かしながらの舞台は、流石に、見ていて感動的である。

   甘輝説得に成功すれば、黄河に通じる化粧殿の遣り水に白粉を、失敗すれば、紅を溶いて流して、城外の和藤内や老一官に知らせることにしていたのだが、自分が居ては甘輝が和藤内に味方出来ないのを知った錦祥女は、死を覚悟して自分の血を椀に受けて遣り水に流す。
   説得失敗と、怒った和藤内が城内に雪崩れ込んで来て甘輝と刃を向け合うのだが、瀕死の状態の錦祥女が、「早まり給うな」と中に割ってはいり和解を説得。義娘に遅れじと、錦祥女の懐剣を取って、母渚も胸を突いて果てる。
   これで、韃靼王は、母と妻の敵になったのだからと、和藤内と甘輝は、主従の関係を結んで、韃靼討伐に勇み立つ。
   勿論、この大詰めの場面でも、團十郎は、舞台下手にしっかりと仁王立ちで立ち続けて、目や顔の表情を微妙に変えながら演技をする程度で、最後に、甘輝に、「延平王 国姓爺鄭成功」の名を勧められ、大将軍の装束で威儀を正して正面に立つだけで、何も強いて演技せずとも、サマになっているのである。

   私は、母渚が、何度も口にする日本の女としての恥について、非常に感銘を受けている。
   甘輝が、和藤内の見方をしようと言って、女の縁に絆されて弓矢の道を忘れては末代までの恥として妻の錦祥女に刃を向けるところで、異国の継子を見殺しにしては、自分ばかりか日本の恥になると言って、いっそ死んでしまいたいとかき口説き義理の母娘は縋り付いて慟哭する。この恥だと言う台詞を2回も発している。
   私は、この渚の女の意気地が、近松の意図したこの芝居でのサブテーマであったのではないかと思ったりもしている。
   実は、実際には、和藤内の父である鄭芝龍は、後に、清国へ寝返っており、和藤内を痛く失望させて激怒させたのだが、母は、最後まで、和藤内と行動を共にして、福建での戦いで窮地に追い込まれて自害して果てている。
   日本人の女として、最後まで、誇りと意地を守り通したのであろう。

   ところで、この鄭成功の話は、日本の江戸時代の初期、3代将軍家光の頃で、倭寇が殆ど下火になった頃だが、法政大王敏教授の話だと、和藤内の父・鄭芝龍は、この芝居のように大明の元高官ではなく、海賊の頭目として良く知られているのだと言う。
   今、国境で問題になっている東シナ海や南シナ海を手玉にとって暴れまわっていた海賊で、平戸に住み着いて武家の田川七左衛門の娘マツとの間に生まれたのが福松、すなわち、和藤内、鄭成功なのである。
   
   明朝は、この強い海賊の頭目鄭芝龍に目をつけて、海防指令として招聘して、海賊取締りを命じたと言うから、明国の役人と言えるのかも知れないが、ロイヤリティがあったかどうかは疑問である。
   丁度、同じころ、海賊として勇名を馳せていたフランシス・ドレイクを、エリザベス女王は、海軍提督に任命して、サーの称号を与えたと言うのであるから、どっちもどっち。そんないい加減な時代だったのである。
   尤も、勝てば官軍、負ければ賊軍、いつの時代も同じと言うことかも知れない。
   

   末筆になってしまったが、美人の誉れ高い后の華清夫人を韃靼王の后に差し出せと談判に来た韃靼国鎮護大将梅勒王を演じた松江だが、実に爽やかな演技で印象的で、韃靼に内通して明国滅亡の引き金を引いた大悪の右将軍李蹈天を演じた翫雀が、灰汁の利いた性格俳優ぶりで新境地を引き出していて面白かったのを追記しておきたい。

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私のショルダー・バッグ~スリにもめげず

2010年11月10日 | 生活随想・趣味
   私は、外出の時に、ものを持ち歩くのが嫌いだったので、必要なものは極力抑えて、いつも最小限にして、何もない時は、本を一冊くらい持って出る程度であった。
   海外生活でも、必需品も、出来るだけ、背広などのポケットに詰め込んで、バッグなどには入れなかった。
   しかし、それでは、不便極まりないので、イギリスにいた時に買ったロエベのショルダー・バッグを使い始めたのだが、私の場合には、外出すると、本を買うことが多いので、その本を入れると、(と言っても詰め込んでも4冊までなのだが、)重くて、まず、革製なのでバンドにガタがきて、結局みすぼらしく哀れな状態になってしまったので、廃却した。
   その後、ニューヨークの空港の売店で、tumiの、この口絵写真のショルダー・バッグを見つけて、使い始めたのだが、丈夫なうえに、そこは合理的なアメリカ製で、色々なホールダ―がついているなど、結構重宝している。
   

   偶々、IT関係のセミナーで、アンケートを書いてペットボトル・ホールダ―を貰ったので、バッグのフックにかけて使っており、暑い夏には、大いに役立ってくれた。
   A5判程度の雑誌や資料は、後ろに差し込み、バッグの中には、細々とした雑品のほかに、折り畳み傘、扇子、ネクタイ、筆記具、それに、デジカメや双眼鏡などを入れているのだが、本は、常時、二冊くらいは入る。
   これに、布製のA5版くらいのエコ・バッグを折りたたんで入れてあるので、まず、多少の買い物のある時でも、これで用が足せる。
   傘を入れ始めてからは、角ばってしまって収容スペースが小さくなってしまったのだが、この傘を常時持ち歩くだけでも、結構行動範囲が広がるものである。

   ところが、このバッグには、表側に、二つのチャックがあるのだが、満員電車や、時には、込み合ったエスカレーターなどで、頻繁に開けられてしまい、無残にぽっかり口が開いてしまっていることがよくある。
   メトロの東西線が特にひどいのだが、狙われているのは財布だけの様で、これまで、幸い被害はない。
   デジカメくらいはと思うのだけれど、こんなモノは、今時、盗みの対象にもならないらしい。

   イタリアでは、レオナルド・ダ・ヴィンチ級のテクニシャンのスリが沢山いて、友人たちも結構被害にあっていたが、日本にも、グローバリゼーションの一旦か、国際化してきたようで、気を付けるにこしたことはない。
   このショルダ―だと、肩にかけておれば、電車の中で立ちながらでも本が読める。
   財布は、背広の内ポケットなので、まずまず、大丈夫であろうから、このまま、このショルダーを使い続けようと思っているのだが、何となく、いやな世の中になったものだと思う。
   
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東大寺大仏・天平の至宝展~東京国立博物館

2010年11月09日 | 展覧会・展示会
   上野の国立博物館に、東大寺の宝物が展示されていると言うので、出かけて行き、午後の時間をたっぷり、国宝や重要文化財の鑑賞で過ごした。
   パンフレットに載っている八角燈籠は、大仏殿の正面に立っているので、いやと言うほど見ているので、珍しくも何ともないのだが、良く知っている誕生釈迦仏立像や良弁僧正坐像や重源上人坐像などの国宝は、見たことがなかったので、興味を持った。
   私の印象では、東大寺に行って、簡単にアクセスできる国宝は、国宝仏が堂内に犇めく法華堂や四天王のある戒壇院くらいで、他の宝物には中々お目にかかれないので、良い機会であった。
   参観者は、高校生の団体などの大波が通過すると、かなり、空いていて、自由に、展示物にアプローチできるので、外国から有名な作品が来てごった返す雰囲気とは違うので助かる。

   やはり、大仏殿の大きな写真をバックに置かれた八角燈籠のある大広間の展示室が圧巻で、その燈籠の両脇に、国宝の良弁僧正坐像と僧形八幡神坐像が安置されていて、丁度正面の高台から望むと、中々壮観である。
   良弁僧正の精悍な骨太の素晴らしい坐像と、今出来上がったばかりのように鮮やかな極彩色の八幡神坐像の美しさは格別で、息を飲むほど美しい。
   この高台の部屋の背後には、重要文化財の伎楽面が10面展示されていて、やはり、胡人のイメージの濃厚なエキゾチックな造形が異国情緒たっぷりで、当時の国際都市奈良の面影を忍ばせていて興味深い。
   この部屋を左に回り込むと、あの有名な、誕生してすぐに右手を高く上げて左手を下に差して「天下天上唯我独尊」と第一声を発したと言い伝えられている誕生釈迦仏立像と灌仏盤が展示されている。釈迦立像がかなり大きいのにびっくりするのだが、金色に輝いていて実に新鮮である。
   灌仏盤の外側には、珍しい線描画が描かれていて、照明が当てられているのだが、非常に見辛くて、壁面のビデオの映像説明が参考になる。

   八角燈籠の羽目板など壁面には、素晴らしい仏像や獅子などの浮き彫りが施されているのだが、一面だけ右下が歪に歪んだ国宝の八角燈籠火袋羽目板が展示されていた。
   間近で見ると、その造形の素晴らしさが実に良く分かって、当時の技術の凄さのみならず、その意匠デザインの卓抜さなど繊細なディテールに至るまで感激を覚える。
   良弁僧正は、どうしても歌舞伎の良弁杉前の僧正をイメージしてしまうのだが、元は朱色であったのであろうか、褐色の着色が残っている袈裟衣を身にまとって錫杖を旗手の鞭のように持って端座する堂々とした偉丈夫な姿は、見る者に畏敬の念を起させる。
   鼻筋が真っ直ぐ通って大きな耳が印象的な輪郭のしっかりした意思の強そうな顔と太い首が、更に、その印象を強めている。
   反対側にある八幡神は快慶の作品だが、艶々とした肌色も鮮やかな輝くような顔にくっきりと紅色に描かれた引き締まった口元、それに、濃い緑と赤い色で描かれた花模様が飛び散る透き通った襦袢のような袈裟を纏った僧形であるから、とにかく、実に艶めかしくて、その新鮮さにはびっくりする。

   興味深かったのは、法華堂の不空羂索観音菩薩立像光背で、この法華堂の本尊である不空羂索観音は、私の最も好きな仏像の一つで、奈良に行けば、必ず拝観しているのだが、光背だけ見ると、かなり小さいのにびっくりした。
   いつも、下から仰ぎ見ているので錯覚をしていたのかも知れない。
   横の壁面で、この不空羂索観音の宝冠の説明ビデオを流していたが、実に美しくて、その造形の妙は脅威でさえある。
   実は、この宝冠だが、不心得者が、二月堂のお水取りのドサクサに紛れて、恐れ多くも、不空羂索観音に梯子を架けて盗んだことがあるのである。

   この期間には、正倉院の御物も一部展示されていて、その中の国宝である伝聖武天皇の賢愚経だが、書の良さが分からない私にも、その美しく雄渾な筆跡には感動を覚える。
   丁度、本館二階の国宝室にも、偶々、賢愚経断簡(大聖武)が展示されていて、素晴らしい。
   昔、台北の故宮博物館で沢山の素晴らしい書を見て感激したのを思い出した。

   もう一つの国宝は、80歳を超えた晩年の重源上人像で、リアリズムの結晶と言った感じで、重源上人が、正に、前に座っている。
   前に突き出した痩せた顔に、下唇を上にしてしっかり結んだ口元が印象的で、数珠をしっかり握りしめて端座している姿は、孤高でさえある。
   
   閉館前に、本館に出かけて一回りしたが、この時間には、殆ど、参観者が居なくて、薄暗い森閑とした博物館の佇まいは、実に寂しい。 
   
   

   

   
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ダンテフォーラム2010~ルネサンス都市の経営

2010年11月08日 | 学問・文化・芸術
   九段下のイタリア文化会館で、毎年秋には、森永のエンゼル財団が、「ダンテフォーラム」と銘打った非常に格調の高い講演会を開いているので、今回も参加して勉強させて貰った。
   今回は、哲学者の今道友信先生は登壇されなかったが、「芸術都市の経営」と言うタイトルで、樺山紘一、田中英道、松田義幸の各先生方が、夫々専門の分野から、イタリアを題材にして語られた。

   前回は「音楽と交響」と言うテーマであったが、元々、ダンテの「神曲」から始まっているフォーラムであるから、ダンテやフィレンツエが前面に出てくるのだが、今回は、樺山先生が、オスマントルコの脅威に対抗するために生まれた群雄割拠のイタリア五大都市国家主導のロディ和約による同盟成立から説き起こして、盛期ルネサンス時代のイタリア国家の新しい胎動から、政治と言うマキャヴェリの都市経営思想が生まれ出る過程へと話題を展開し、
   田中先生が、ジョット―の世界を、アッシジの聖フランチェスコ伝「火の試練」(口絵写真)から、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画、そして、フィレンツエのサンタ・マリア・フィオーレ大聖堂とジョット―の鐘楼の作品を語りながら、イタリア文化文明が、東洋の影響を大きく受けて、東西文化の遭遇および融合が進んで行ったことなどを興味深く語った。

   どちらかと言えば、ローマ教皇側とローマ皇帝側との二つの焦点に分かれて、思い思いの道を歩んでいたイタリアの都市国家が、1450年頃を境にして、非常に興味深くも、独特の成り立ちと個性を持った政治体制の違った5つの都市国家に均衡して行き、一等群を抜いたメディチ家のフィレンツエで芸術とは全く異質なマキャヴェリの政治思想が花開き、イタリアの経済社会が大きく変わって行くのだが、その前に、ダンテやジョット―によって始動し触発されて、学術・文化・芸術の豊かな芸術都市フィレンツエが生まれ出る土壌が、徐々に醸成さて行く。
   樺山先生は、経営MANEGEMENTとは、良い時も悪い時も、様々の角度から、あるいは、色々な方面から取り組んで行って試行錯誤の試みの中から苦労しながら結論を引き出すと言う意味もあると語りながら、イタリア国家の推移を現在までの流れで説いていたが、正に、イタリアの芸術都市の創造は、この偉大なイタリア人たちのマネジメントの産物だと言うことであろう。
   また、田中先生の言うように、高度な文化と文明を持った東洋との遭遇が、謂わば、学問や芸術がぶつかり合う十字路を醸成して、新しい知と美の創造を爆発させたのである。
   ルネサンスの誕生は、東洋の影響を抜きにしては語れないと言うことである。
   
   田中先生は、丁度、ジョット―が誕生した頃は、モンゴルの活動期であり、正に、この元寇が、東西を結び付けて、いわば、世界を作ったのだと言う。
   日本では、モンゴルは野蛮なように思われているが、そうではなく、ヨーロッパに文化を持って行ったのだと強調する。

   田中先生は、日本の美意識や文化は、決して、イタリアには負けない素晴らしいものを持っていると主張する反面、戦後は、文化の国だと言うことを忘れて、文化の価値が分からず、その反対のことばかりして、現代的で醜いものばかりを作り続けており、東京の高層ビルや京都タワーなどは、その最たるものだと言う。
   それに、総合的な教養と知見を備えた人々、例えば政治家でも、政治を語り且つ又文化を語れるような人が皆無となり、嘆かわしい限りだとも言う。
   
   松田義幸先生は、「世界遺産政策の視点から見た芸術都市の経営」について語った。
   ユネスコの世界遺産憲章について触れ、「地球市民・地球社会」の平和を希求する視点の重要性を強調し、世界遺産は、民族的価値・普遍的価値・共通善の体現であり、異文化・異文明の相互理解のための学習教材であると言う認識が重要で、そのためにも、アウシュビッツ強制収容所や広島の原爆ドームの存在は、大きな意味を持つと言う。
   本来、世界遺産については、ユネスコであるから文科省の管轄の筈だが、日本では、国交省の仕事となっていて、そのアプローチと対応が基本的に間違っている。
   確かに、世界遺産に登録されると、観光客が30%以上も増加すると言うことだが、観光資源としての重要さよりも、学問・芸術へのあこがれとしての芸術教育の意味合いが強いと言う。
   
   ジョット―のところで、田中先生は、鐘楼の鐘塔の浮き彫りに描かれた労働讃歌とも言うべき労働尊重の哲学について語ったが、この生活芸術が、文化芸術の遺伝子として継承され、フィレンツエの芸術都市の普遍的な指針として息づいているのだと言うことであろう。
   偉大な画家が、最後には偉大な建築家として、素晴らしい建築物を残すのは、このジョット―と同様に、ミケランジェロも、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうであったのだが、これも偶然ではなく、専門化が進む反面、総合化が並行して進んで行く当時のイタリアの文化芸術風土が、正に、創造の坩堝であったと言うことでもある。

   この偉大な芸術家たちが雲霞のごとく輩出して群雄割拠して、壮大なルネサンスの華を咲かせた芸術都市フィレンツエの素晴らしさは、筆舌に尽くし難いが、奈良が1300年を祝うように、日本が、奈良や京都で、文化の華を咲かせたのは、フィレンツエよりは、もっともっと早い時期のことであり、ヨーロッパで、長く、そして、多くの偉大な芸術に接して勉強し続けて来た田中先生のように日本人の文化力を確信し、日本文化回帰への熱烈な思いがなければ、日本での芸術都市再建は、難しいと言うことでもある。
   学生時代に、奈良や京都での歴史散策に明け暮れ、欧米などでも、美しいもの素晴らしいものなど人間の英知と美意識を昇華させた素晴らしい遺産を追い求めて歩き続けて来た私には、田中先生の思いが痛いほど良く分かる。
   
   松田先生は、何も、経営は、経済や経営の専売特許ではなく、このような芸術都市を如何に作り上げて維持して行くのかと言った長期的な広い政策も経営であると語っていたが、これは、これまでにも、このブログで何度も書いたように、マネジメントは、あらゆる組織に適用できるものであると言うのは、ドラッカーが強調して止まなかった哲学で、晩年には、資本主義や大企業の将来に見切りをつけて、非営利組織や団体のマネジメントに熱心だった。
   高校野球の女子マネージャーが、ドラッカーを読んでマネージャー業に勤しむのも、大臣が、省の長としてドラッカーを読んで大臣業務を行うのも、至極当然のことなのである。
   
   残念ながら、当日、所用のために、松田先生の講義の途中で中座して、3人の先生方の丁々発止の鼎談を聞きそびれてしまったのを惜しんでいる。
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