熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「脱成長」と言う考え方について

2013年01月29日 | 政治・経済・社会
   先日、NHKのグローバルディベイトウイズダム「グローバル経済の未来は」を聞いていて、非常に興味深かったのだが、要するに、競争重視の市場経済主義的な考え方をするのか、格差縮小・貧困撲滅など福祉厚生経済的なリベラルな考え方をするのかによって、平行線の議論に終始していた感じである。
   その中で、最後に議論されていた「脱成長」と言う考え方が良いのか悪いのかと言う論点に興味を持ったので、これについて考えてみたい。

   「脱成長」とは何かと言うことが問題だが、一般には、経済成長、GDPなりGNPのアップを考えないようにしようと言うことであろうか。
   こんな表現をすると、極めて不穏当で、我々の住む文化文明社会の進歩を考えないのかと言う議論も出てこようが、要するに、我々の生活の質の向上や文化文明の発展進歩は十分に追及して行くが、経済成長、経済成長と言って、経済成長を強調した政策を取らないと言うことであろう。
   成長よりも質を重視した経済政策を取れと言うことであろうが、私自身は、経済成長の質や中身については条件があるけれど、どちらかと言えば、成長支持派である。

   
   まず、単純な話、これまでに、日本の国家債務の深刻さについて、日本経済の崩壊に繋がりかねないと議論してきているのだが、まず、日本経済が成長しなければ、この債務は、徳政令を敷いて借金棒引きにするとか、巨額の税金で回収するとか、棚上げにして雪だるま状態にして行きつくところまで行くとか等々、いずれにしろ、国民が大きな犠牲を払わない限り、永遠に償却不能となってしまって、日本経済のみならず、日本そのものの将来が危うくなる。
   パイを極端に縮小して、そのパイの適切な再分配を図らない限り、日本社会の秩序厚生は保てなくなる筈である。
   ギリシャやスペインなど深刻な債務国家で、民衆は暴動を起こして政府を糾弾しているが、花見酒の経済で食いつぶした以上、その分自分たちの生活水準を大きくダウンさせて切り詰めない限り問題は解決しないのである。

   もう一つ、もっと分かり切った話だが、地球上に多くの深刻な貧困や格差が存在してはいるけれど、経済成長によって、少しずつ、人々の生活が豊かになってきていると言う事実である。
   中国やインドなど新興国の貧困率が急速に減ってきていると言うのは、その査証であろう。
   番組でも語られていたが、経済成長をしなければ、現在のグローバルベースで貧困に喘ぐ人々をどうして救うのかと言うことである。

   要は、経済成長の仕方に問題があるのであって、「脱成長」、経済成長のない世界、などと言うのは、私には、全く考えられないと思っている。
   しかし、我々人間が、天然資源を消費し活用して経済成長を図っている以上、ジェレミー・リフキンの言を借りれば、利用可能なエネルギーの蓄えを減らし、排出されるエントロピーを蓄積するという代償を払って財やサービスを生み出しているのがGDPであるので、GDPは、国内総コストだと言う厳粛なる事実も認めなければならない。
   いつまで、宇宙船地球号を切り刻み続けるのか、そんなことは、不可能であろうし、賢い人類がイノベーションを駆使して持続可能な経済社会を実現しない限り、いつかは限界が来る。
   資源に限界がある以上、マルサスの人口論の呪縛からは永遠に解放されないであろうと言うことである。
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Voice編集部編「日本企業は新興国といかにつきあうか」

2013年01月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   尖閣諸島問題で、中国で反日暴動が勃発して、日本の企業が甚大な被害を受けた直後に書かれたVoiceの記事をまとめた本なので、「中国リスクはこうして乗り越えよ!」と帯に大書されていて、「これが「反日」を越える日本の戦略だ!」と言う視点の本である。
   しかし、私は、第一部 新興国で勝ち続ける経営 と言う章で、日産、パナソニック、コマツ、ユニ・チャームのトップが、自社の新興国での事業について戦略を交えながら語っているのに興味を持ったので、私なりの私見なり感想を述べてみたい。

   ユニ・チャームの高原豪久社長は、
   海外展開を決める際には、市場のサイズが大きいこと、市場の発展がまだ成長前期であること、同業他社との競争環境が物差しになるとして、最初の台湾で成功したのは、良いパートナーと組めたことで、信頼関係を樹立するためには結果を出すことが大切で、地場に強い営業力を持った同業者に営業面での戦略を託すのだと言う。
   外国特許率を高くして、製品開発力、量産技術力、設備開発力に注力し、技術が知的財産権で担保されており、更に、開発資源を不織布・吸収体に徹底的に絞り込んでいるので、超大手と対抗できる。成熟期のモデルと成長前期のモデルを同時に進行することによってローカル企業の先を行くのだとも言う。
   私が注目したのは、
   これまで、日本で商品開発の原理原則を学んできた人間を送り込んできたが、新興国では、肌感覚が違っており、必ずしも一番良いものが売れるのではないので、この肌感覚を差別化のポイントにする。日本人中心のマーケティングから抜け出してニュートラルになり、現地のマーケターや開発者に開発の原理原則や定石を教えて育成し、肌感覚的な価値をすり合わせて行けば必ず勝つ。と言う戦略である。

   これまで、このブログで、プラハラードのBOPビジネスやゴビンダラジャンのリバースイノベーションを論じながら、グローバル化の進行と新興国の中間層やBOP市場の拡大に伴って、新興国ないしBOPビジネスから、多くのイノベーションや新規ビジネスが誕生して、新興国市場のみならず、先進国市場へも拡大しつつあり、GEを筆頭に多くのMNCが、製品開発やR&D機能を新興国に移しつつあることを書いてきた。
   まだ、本流ではないが、製品やサービスが先進国で生まれて世界に伝播するグローバリゼーションから、先進国企業がローカル仕様に改良した製品やサービスを新興国などに売るグローカリゼーションを経て、ローカルで生まれた製品やサービスがグローバルに展開するリバース・イノベーションに、大きく移りつつあると言うグローバルビジネスの潮流の大きな変化が起こっている。
   日本の企業の新興国への進出は、輸出であろうと現地生産であろうと、その多くは日本で開発された商品やサービスをローカル仕様に合わせたグローカリゼーションの段階にとどまっているのではないかと思っている。

   パナソニックの津賀一宏社長は、
   プラズマの画質が世界一だと考えていたが、デジタル放送がきれいな画質で放送される国は限られていて、受像機の画質をいくら訴求しても目立たないのに、そのへんにミスマッチがあった。技術では最高であっても、欠けていたのは、現地での生活スタイルにフィットする生活者目線からの商品企画やそれを実現する設計力だった。と言っている。
   しかし、色々な意味で相手国の「インサイダー」になるべきだとか、ローカルの人が中心になってやって行くのが白物の基本だと言いながら、コアのデバイスとか基本の部分はむしろ日本でなければ、なかなかいい設計は出来ない。海外にR&Dを移すつもりはないと言う。
   この経営意識では、私は、日本人技術者が主導で日本において商品開発をしている限り、いつまで経ってもグローカリゼーションの段階にとどまっており、新興市場の攻略など無理だと思っている。
   重点地域はインドとブラジルだと言うのだが、私の経験では、ブラジルなど日本からの遠隔操作では必ず失敗する。

   
   津賀社長は、パナソニックを、手がける商品が幅広く、いってみれば「中小企業の集合体」が縦に並んでいる構造だ言う。
   テレビは、今や白物と同じ(ずっと昔から先進国ではコモディティであった)。本社が肥大化したので、7000人から、事業推進の支援などを行う部門を切り離して150人体制にする。総てのビジネスユニット(88を56に減らす)にBSとPLを持たせて自主責任経営の最小単位とし、営業利益率が5%以上の基準を満たせない場合は、転地、売却、終息を考える。30人の常務会を止めて、本社系と事業系半々の10人程度の経営会議を設けた。経営判断のスピードを加速するためにドメインの経営判断に任す。と説いている
   6年前にマキナニーの「松下ウエイ」を出版して、中村改革を称え、瀕死の状態であった松下電器の再生を高らかに謳った筈のパナソニックが、今や7721億円の大赤字で、今頃になって、このような初歩的な改革で済むのであろうか。

   
   この本で、コマツの坂根正弘会長が、固定費を下げればキャタピラー並に利益が出るとあらゆる手段を使って固定費を下げたと言う。
   家電などは、正に、プレイヤーが多すぎて、今や、消耗戦であり、パナソニックの本社150人体制が固定費の削減になるのかどうかは知らないが、少なくとも、事業を切ると言うのなら、入れ込んだプラズマがディファクト・スタンダードを取れずに一敗地に塗れたテレビ事業を切るくらいの構造改革をしない限り、パナソニックの再生は暗いと思っている。

   日産の志賀俊之COOは、
   先進国市場の車の需要は、代替え需要で、より付加価値の高い、また、高性能、高機能で、高品質の車が求められ、歴史のあるメーカーであればあるほど、そうならざるを得ないが、新興国で求められているのは、値段が安くて丈夫な車なので、このような自分たちの現状の標準・基準みたいなものを破壊しないといけない。
   クルマづくりの基準を抜本的に変える必要があると言うことで、エントリー車種の収益性を向上させるためには、ものすごいイノベーションが必要だ。と言う。
   新興国では、1万ドルを切るクルマを中心に売って行かなければならないと言いながら、トヨタのハイブリッドや、マツダのスカイアクティブや、日産の電気自動車のように、多少高くても買ってもらえるような付加価値をつけることを考えなければならないと言う。
   インドのタタナノのような車なり、恐らく、異常なスピードで台頭するであろう中国での電気自動車と言ったリバースイノベーションに対して、どのように対抗するのであろうか。

   興味深いのは、タイで「マーチ」を作って逆輸入したのは、タイで作れば日本での6重苦の総てから解放されるので、生産拠点の海外への移転によって、空洞化が加速して日本の経済成長力が低下する恐れがあると言う警鐘を鳴らしたかったためだと言うことである。
   いくら、日本政府に早く対策を取ってくれと言っても何も変わらず、6重苦下にある日本の生産拠点を残すのは限界にきており、このままでは、海外生産拡大の流れは止まらない。
   中国の日産の工場は、トップ以下オール中国人で運営されていると言うのであるから、脅威と言うべきであろう。
   国内でイノベーションを起こせるからこそ、日本の自動車産業が競争力を持てるのであり、どこで作っても同じじゃないかといった途端に根無し草になると言う危機意識を持ち続けて、製造業は日本に残ると意思表示して頑張らねばならない。と言う。
   日本に製造業を残そうとすれば、決死の覚悟だと言う、そんな切羽詰ったところまで来ていると言うことである。

   すでに、日産と言う日本でも代表的な企業が、いわば、殆ど、事業の大半、すなわち、16年度には、海外生産比率87%にする言うのであるから、日本製造業のMNCの相当多くが、比重を海外に、それも、成長著しい新興国に移さざるを得ないと考えても不思議はないのである。
   新興国市場を攻略しなければ、企業の将来は暗い。しかし、日本が益々空洞化せざるを得なくなる。このジレンマにどう取り組むのか、どんどん縮小して行く日本国内市場を考えれば、緊急喫緊の日本の最も重要な課題であろう。
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デビッド・オースチンのバラ・・・京成バラ園

2013年01月27日 | ガーデニング
   今朝、京成バラ園のガーデン・センターで、デビッド・オースチン・ロージズの平岡誠さんが来園して、「デビッド・オースチン社のバラおすすめ品種」について、セミナーを行うと言うので、出かけて聴講した。
   偶々、園芸店でイングリッシュローズを見つけて栽培し始めて2年以上経っており、気には入ってはいるのだが、昨秋、不手際で、イングリッシュローズを半分枯らせてしまって、今、庭植え1本、鉢植え5本しか残っていないし、従来のハイブリッド・ティ-やフロリバンダとは育て方も違うので、その辺の知識も含めて、イングリッシュローズについて話を聞きたくて、期待して参加した。
   京成バラ園は、日本屈指のバラ園であり、車で1時間弱で行ける距離にありながら、バラを見る時以外には、あまり行かないし、セミナーも初めてだったのだが、結構多くの同好者も来ていて、面白かった。

   折角、友の会にも入っているので、こまめに出かければ、バラ栽培の知識も増えるのにと思うのだが、ロンドンの時にも、世界最高のキューガーデンの前に住んでいながら、年間パスを買って写真を撮りに時々訪れるだけで、ガーデニングや植物学の講習に通っておれば良かったと後悔している状態で、何事もものぐさではダメだと思っている。
   5年もロンドンに居ながら、チェルシーのフラワー・ショーにも一回も行っていないのだが、あの当時は、まだ、花にもそれほど興味がなく、とにかく、仕事仕事で寸暇を惜しんで飛び回っていたんだと、慰めている。

   イングリッシュローズは、オールドローズを、四季咲きに改良するために、ハイブリッド・ティーやフロリバンダと掛け合わせて作出されており、少し前のオールド・ローズの花の形を引き継いでおり、沢山の花びらがカップ咲きやロゼット咲きとなり、えも言われぬ優雅な花形と香りが魅力なのである。
   あのハイブリッド・ティーの高島屋のバラとは違うのだが、ブッシュ様に咲き、時には、なよなよとした竹下夢二の乙女のような風情を醸し出していて、中々乙なものである。
   平岡さんが、イングリッシュローズは、切り花にも向くが、日持ちがしないようなので、自分で育てて、活けて楽しむのが良いと言っていたが、正に、その通りで、私など、一輪挿しや、2~3本、ほっそりとしたバカラに活けているのだが、実に優雅で良い。
   
   平岡さんは、イングリッシュローズの生みの親である1926年生まれのデヴィッド・C・H・オースティン (David C.H. Austin)が、まだ、健在で活躍している話から初めて、バラの新種の作出についての興味深い逸話など小一時間話して、おすすめの3品種(グラハム・トーマス、ウォラトン・オールドホール、ムンステッド・ウッド)について、詳しく紹介をしていた。
   進行役を務めていた京成バラ園の村上敏チーフガーデナーも、バラ栽培などについて有益な話やアドバイスをしていた。

   ガーデンセンターには、沢山の鉢植えのバラ苗が展示販売されていて、壮観である。
   勿論、デビッド・オースチンのバラは沢山並んでいて、ギヨーやデルバールなどのフレンチローズから京成バラ園作出のバラなど、春の開花をスタンドバイのバラ苗のオンパレードであった。
   とりあえず、今回は、表がサーモンピンク、裏がゴールデンイエローの2009年の「レディ・オブ・シャーロット」を一鉢買って帰った。
   村上さんに聞くと、5月頃まで、このまま育てて、その後、植え替えればよいと言うことであった。
   
   

   
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ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」

2013年01月25日 | 映画
   1988年頃だったと思うが、ロンドンのウエストエンドのクイーンズ・シアターで、初めてミュージカル「レ・ミゼラブル」を観た。
   しかし、今回、映画版のミュージカルを観て、また、新しい感動を覚えて感激している。
   私は、オペラが好きなので、オペラにしてもミュージカルにしても、歌のある映画にも興味を持っており、舞台芸術には生の良さはあるけれど、はるかに、分かり易くてリアルで臨場感に富んだ映画の魅力に魅せられることが多くて、意識して見ている。
   今回も、沢山の囚人たちが「囚人の歌 Look Down」を歌いながら、巨大な船の船底で波をかぶりながら一列縦隊になって綱を引く冒頭のスペクタクル・シーンから観客を圧倒する迫力で、非常にドラマチックな素晴らしい映画である。
   フランス革命の壮大なシーンも、視覚的な美しさのみならず、躍動感を高揚させて、物語のスケールを増幅していて面白い。

   このミュージカルの英語版は、1985年初演であったから、私が観たのは、丁度、人気が出始めた頃で、その翌年に、ロイド=ウェバーの「オペラ座の怪人」が、ハー・マジェスティーズ・シアターで始まり、ロンドンのミュージカル界の人気を二分していた。ミュージカルやバレー、オペラが好きであった娘に促されて、両方とも何回か、劇場に通って鑑賞した。
   その当時の記憶は、特定のメロディやシーンの一部くらいで、殆ど鮮明には残っていないのだが、最近、発売された、夫々の25周年記念公演の素晴らしいDVDを観て、当時の舞台を思い出しながら、感動を新たにしている。

   映画とミュージカルの舞台とは、当然、鑑賞の仕方も印象も随分違うのだが、映画の場合には、まず、第一に舞台的な場所の制約が殆どないので、自由に製作できる分、非常に物語に添ったリアルな表現が出来るために、臨場感が違ってくる。
   ミュージカルの舞台は、いくら芝居的な手法を使って公演しても、やはり、舞台芸術であるから制約があり、シェイクスピア戯曲が台詞で聴かせて感動させるように、歌唱で客を魅了しようとするので、どうしても歌唱力が強調される。

   これは、オペラの場合も同じで、私には、「トスカ」で、強烈な思い出がある。
   実際の舞台で鑑賞したのは、ロンドンのロイヤル・オペラで、マリオ・カヴァラドッシはパバロッティ、次は、ロンドンの北の郊外ケンウッドでのロイヤル・オペラの野外コンサート形式の特別公演で、マリオ・カヴァラドッシはプラシド・ドミンゴ、トスカはマリア・ユーイング、スカラピアは、ユスチアス・ディアスであった。
   それなりに、素晴らしい公演で、楽しませて貰った。

   ところが、当時、BBCテレビが、原作に基づいて、場所と時間を完全に原作に合わせて、オペラ作品をライブで撮って、同時に放映したのである。
   最後のサンタンジェロ城のシーンなどは、夜明けだったと思うのだが、とにかく、放映時間を待って鑑賞するのだから、この24時間は、時間調整が大変であった。
   しかし、このライブ放映オペラ・プロジェクトは、その迫力と言い臨場感と言い、私には極めて強烈で、終生忘れられない印象を残した。
   ドミンゴ、マルフィターノ、ライモンディ、メータと言うベスト・キャストは言うまでもなく、実際の時間に合わせて、実在するローマの教会や宮殿、古城を舞台にして、ストーリーそのままのオペラを鑑賞できたのであるから、実際映画になっているドミンゴやカバイバンスカの映画版「トスカ」とは一味も二味も違った、数段上の感動的な「トスカ」であった。
   この番組を録画したけれど、英国方式なので廃却して、残念ながらなくなっており、帰ってからDVDでも買おうと思ったのだが、出ていなくて買えない。

   前置きが長くなり過ぎたのだが、いずれにしろ、この映画「レ・ミゼラブル」は、アフレコではないミュージカル映画なので、このライブ版トスカに近く、迫力と臨場感が抜群である。
   さて、ミュージカルの舞台とこの映画との違いだが、まず、
   コゼットへ仕送りするために、失業したので娼婦となってどん底の生活に落ちぶれたフォンテーヌ(アン・ハサウェイ)が歌う「夢やぶれて I dreamed a dream」だが、ミュージカルの舞台では、資金画策に貧民窟に出かけて行って身ぐるみ剥がれる前に歌われるのだが、これは、演技よりも、オペラの表現に近くて、歌唱力で観客に訴えかけるので、歌手は熱唱する。
   しかし、この映画では、身を売って憔悴し切って瀕死の状態になって横たわった姿で歌われており、
   製作陣がこだわって、前述したように、すべての歌を実際に歌いながら、生で収録する撮影方法を取ったので、役者の感情のほとばしりがそのまま歌声となって溢れ出すので、観客に与える強烈な印象は数倍上で、ハサウェイの熱演は、まさに特筆ものである。
   「初めて客に体を売ったフォンテーヌが、絶望に打ちひしがれて声を振り絞るさまに、トム・フーパー監督をはじめその場にいたスタッフたちは圧倒されて言葉を失くし、その場に立ち尽くしたと言う」のだから、凄いの一語に尽きる。
   あのきれいなハサウェイが、髪を切られて傷まみれの見るも無残な姿に変わり果てて、這いずり回りながらの熱演は感動的で、その為に、幕切れ前の、死期を迎えたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)を天国へいざなう姿の崇高さは、素晴らしい余韻を残して清々しい。

   この映画は、ジャン・バルジャンとそれを執拗に追い続けるジャベール(ラッセル・クロウ)が両輪となって進行する映画だと思うのだが、私は、フォンテーヌ同様、女性陣の活躍も忘れてはならないと思っている。
   箒を持って「幼いコゼット Castle on a Cloud」を歌いながら登場するコゼットの可愛さそのものが、ジャン・バルジャンの献身的な無償の愛と無上の幸せを示す導入部として格好のシーンだが、一寸、マンマ・ミーアの印象が強烈過ぎて多少気にはなるのだが、コゼットを演じるアマンダ・セイフライドも恋する乙女の初々しさを実に上手く演じている。
   ミュージカルの舞台でもそうだが、必死になってマリウスを思いつめて片思いで死んで行くエポニーヌ(サマンタ・パークス)も素晴らしい登場人物で、「オン・マイ・オウン In My Life / A Heart Full Of Love」など感動的な歌を歌っていて胸を打つ。
   夢破れて死んでゆくフォンテーヌなど3人の女性陣の愛の軌跡が、この物語を豊かにしている。

   さて、舞台やミュージカル俳優からキャリアをスタートして、ハリウッドのトップスターとなったジャックマンだが、ジャン・バルジャン役を喉から手が出るほど望んだと言うのだが、いざ決まると、あまりにも誰もが熟知した有名な役柄故に、プレッシャーや責任に身が引き締まる思いだったと述懐している。
   やはり、キャリアが功を奏したのか、歌について、
   「生で歌いながら演技するというのは、キャラクターがそのときに感じた気持ちをそのまま表現できる自由や楽しさがあり、歌のトーンもスピードも、演技に忠実に合わせられるので、自分自身が列車を運転しているようなものだ。」とか、
   「舞台ならば、客席の奥まで聞こえるように声を張り上げ高らかに歌うところを、映画ではよりキャラクターの気持ちに添って表現できた。」と語っているのが興味深く、非常に情感豊かに噛みしめるように歌っていたのが印象的であった。

   ジャベールのラッセル・クロウは、単なる嫌味な悪役になるのではなくて、役目一筋の忠僕に徹しながらもどこかに人間の弱さと温かさを秘めたスケールの大きな演技をしていて、文句なしに上手いと思った。
   マリウスのエディ・レッドメインは、実に素直な演技で、正に、好男子である。

   テナルディエ夫妻(サシャ・バロン・コーエン&ヘレナ・ボナム=カーター)の悪辣さと底抜けの悪賢さは、この映画の正に主題であるLes Miserablesの典型的な代表選手であり、あのフランス革命前後の無知と悲惨に象徴されていた人間の生への飽くなき渇望と足掻きを描いていて秀逸である。
  「民衆の歌(The People's Song)」など多くの重唱や合唱の、大地を揺るがすような歌声が素晴らしい。

   付記するが、この映画も凄いが、25周年記念の公演のDVDの素晴らしさも特筆もので、稀有にも生存しているオリジナルキャストやスタッフが、カーテンコールで総出演して、まず、4人のジャン・バルジャン俳優が、「彼を帰して  Bring Him Home」を、そして全員で、「ワン・デイ・モア(One Day More)」を熱唱するのだが、正に圧巻で、30年近くも世界中の大衆から愛され続けている秘密が良く分かる。
   コピーした2ショット。
   
   

   このビクトル・ユーゴーの物語は、強烈な格差と貧困にあえぐ民衆が必死になって生きながら、自由平等友愛を求めて戦ったフランス革命を絡ませながら、明日への夢と希望を高らかに謳っているように思うのだが、あれから、250年近くも経つにも拘わらず、今でも、同じように深刻な格差と貧困が、グローバルベースで残っているのは、どうしたことであろうか。
   

   
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若年労働の失業率が高いもうひとつの理由とは

2013年01月24日 | 生活随想・趣味
   日本では、新卒者の就職率が問題となっているが、欧州でも最悪のスペインでは、若年労働者の50%以上が失業しており、アメリカでも、若年層の失業率が、ほかのすべての年齢層を上回っている。
   何故、若年層だけ失業率が高いのか、過去数十年の経済政策が悪いのだと人は言うが、クリステンセンは、先日紹介した本で、もう一つの原因は、
   先日論じたデルが、エイスースに、重要なプロセスを減らすことに集中するあまりに、アウトソーシングし過ぎて軒下を貸して母屋を捕られたように、親が家庭の仕事をアウトソーシングし過ぎて、子供に試練を与えず、やる気をかき立てもしない活動で埋めてしまって、子供を人生の困難な問題から隔離することで、知らず知らずのうちに、成功に必要なプロセスや優先事項を生み出す能力を、この世代から奪ってしまったからだと言っている。

   このことは、定職を持たずにフリーターなどで、親の家をホテル代わりにして生活しているパラサイトシングルを見れば一目瞭然で、子供の食事や生活の雑事などを母親が世話をし、親がかりで一切の面倒を見ているなどと言ったのは、その典型であろう。
   クリステンセンは、子供の頃、子沢山で貧しかったので、靴下に空いた穴や、二本しかないリーバイスのズボンの破れを、忙しい母にやり方だけ指示されて、自分で四苦八苦して修理して、子供ながらにやり遂げた誇りを感じたと語っているが、今の日本の母親などは、破れの修理などはもってのほかで、子供に真新しい替りをすぐに与えるであろう。
   可愛い子供には、旅をさせろと言う古の教えは消えてしまって、どんどん、過保護が過ぎて、自活力のないひ弱な子供を育ててしまっていると言うことであろう。

   私は、幼少年時代を、宝塚の田舎で過ごしたのだが、水鉄砲や竹馬は勿論、浮や沈みや糸を買ってきて釣り具を、また、弓や槍や木刀など、遊び道具の殆どは、自分自身で作っていたし、草鞋なども自分で編んでいた。服の繕いくらいは当たり前で、自分のものはすべて自分自身で修理していたし、片づけていた。
   勉強などそっちのけで、野山を駆け回って遊んでいたので、怪我などショッチュウだったが、子供なりの危機管理を身を持って体験しながら学んだような気がする。
   結局、私自身が、無謀にも怖さ知らずで、アメリカの大学院を出て、それに、14年も、欧米生活で、全く異質な異文化異文明のなかで、色々な異国人を相手に、斬った張ったの仕事をやり続けられたのも、案外、子供の頃に、何でも自分で挑戦すると言う生活をしていて、それに何の疑問も持たなかったと言うことが幸いしていたのかも知れない。
   
   いずれにしろ、風が吹けば桶屋が儲かると言った理論に近い感じはするが、私は、クリステンセン説が当たっていると思っている。
   親が、とにかく、賢くならないと、日本の将来が危ういと言うことも真実であろうと思う。

   2006年に、このブログのブックレビューで、中村メイコの「五月蝿い五月晴れ」の、泣き笑いのメイコ笑劇場について書いた。初夜の翌朝の話など秀逸だが、
   ”時代におもねることを拒否して作家を廃業して、妻に養えと言って何もしなかった父、久方ぶりに来た小説の仕事を勉強だからと言って中村メイコに執筆させた父。
   その「ママ横をむいてて」が、川端康成が帯を書いて出版、主演中村メイコで松竹映画になった。
   大人の役をやるのに質屋の暖簾をくぐる練習もしなければならないだろうと言ってメイコを質屋に行かせた元女優の母親。”を紹介した。
   そして、末尾に、
   ”トットちゃんの黒柳徹子も、ユニークで型破りの子供時代を過ごしているが、この中村メイコや美空ひばりも、そして、並みの文筆家より遥かに格調の高い素晴しいエッセイを書き続けた大女優高峰秀子も、常人を超越した才能を持って生まれてきたといってしまえばそれまでだが、言うならば自学自習の才能開花である。
   互換性の利くスペアパーツばかりを育成してきた没個性の文科省教育に一矢を報いていると思うがどうであろうか。”

   チャレンジ&レスポンス、挑戦と応戦、これは、偉大な哲学者トインビーの史観だが、四大文明も総てこの人類の挑戦と応戦で発祥してきた。そして、文化文明は境を接する辺境地帯から伝播して行った。
   挑戦がシビアであればあるほど、応戦によって生まれる華は大きくて美しい。
   国家も、会社も、個人一人一人も、同じである。


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アウトソーシングはトロイの木馬

2013年01月23日 | 経営・ビジネス
   産経が、「MS、PC事業不振のデルに出資検討」と報じた。
   複数の米メディアは22日、米ソフトウエア最大手マイクロソフト(MS)がパソコン大手デルに出資を検討していると報じた。と言う。
   
   マイケル・デルが、驚異的なデルのコンピューター・メーカーとしての成長物語について、「デルの革命 Direct from DELL Strategies That Revolutionaraized an Industry」を著して、世界中に高らかに勝利宣言を発したのは、ほんの13年前のことで、今でも、トップ企業だと思っている人が多いと思うのだが、そのデルが、パソコン事業が不振となったために、収益性の高い法人向け事業を強化し、その一環として株式上場のとりやめを検討しており、MSが10~30億ドルの出資を行う方向で協議していると言うのである。

   この本のサブタイトルの如く、デルは、「ダイレクト」戦略で産業を革命したユニークなビジネス・モデルが、功を奏して、驚異的な成長を成し遂げたのである。
   何を思ったのか、当時のソニーの出井伸之社長が、このビジネス・モデルを、「本書からソニーがまなぶべきことは多い」と本の帯に、書かせている。

   ところが、皮肉にも、エクセレント・カンパニーの多くがそうであるように、成功したビジネス・モデルにのめり込んだが故に、その成功の手段が、デルの場合にも、裏目に出て墓穴を掘る結果となったのである。
   このことは、クリステンセンの「イノベーション・オブ・ライフ」に詳しいので、この話を借用して考えてみたい。

   デルは、最初は単純な入門モデルのパソコンを非常な低コストで製造し、電話やインターネットを通じて販売し、上位市場を攻略して行ったのだが、デルの製品はモジュール式だったので、顧客がカスタマイズしたパソコンを組み立てて、48時間以内に出荷したので好評を博した。
   実は、この革命的で破壊的なデルのビジネス・モデルを支えていたのは、エイスースと言う台湾メーカーであって、ローエンドから始めて、まず、単純で信頼性の高い回路を、より低コストで製造し、デルに供給していたのである。
   アウトソーシングすれば、当然資本効率は高くなるので、資本の1ドル1ドルから、益々多くの売り上げと利益を絞り出そうとするデルの資本の効率的な活用と言う経営戦略とも合致して、株式市場も好感した。

  
   このデルのエイスースへのアウトソーシング戦略だが、エイスースの技術がどんどん向上して行って、次は、マザーボードを作らせてくれ、次は、パソコン全体の組み立てをやらせてくれ、とエスカレートするエイスースの要求に、デルは、はるかに安く製品が出来上がる上に、アウトソーシングした分の製造資産をバランスシートから外せて、RONA(純資産利益率)が高くなるので、デルにとっては好都合であった。
   ところが、このプロセスはその後も進んで行って、デルはサプライチェーン管理を、続いてコンピュータの設計そのものまでアウトソーシングし、要するに、パソコン事業の中身をそっくりそのまま、ブランドを除くすべてをエイスースにアウトソーシングしてしまったのである。
   結果として、デルのRONAは、極めて高くなったのだが、同社の消費者部門に残ったのは、直販事業に関するわずかな資産だけとなった。

   もっと悪いことに、エイスースが、デルから学んだ総てを活用して、満を持して、2005年に、自社ブランドのパソコンを製造販売したのである。
   ずっと数字だけ見て満足し、自分たちの戦略が如何に自分たちの将来を危うくするのかに全く気が付かなかったデルは、今や、パソコンも製造しなければ、出荷も保守も行わない、台湾企業の製造するパソコンに、「DELL」のブランドを許すだけに成り下がってしまったのである。
   
    ファブレスとなったデルの弱みは、製品開発の企画や設計など一切アウトソーシングしてしまって、単なるブランド貸のようなものであるから、同じファブレスでも、ユニークで他の追随を許さないクリエイティブで革新的な製品やサービスを自らの手で創造してアウトソーシングしているアップルや、他の欧米のエクセレント・カンパニーとは、較べものにはならない。
   単なる凡庸なパソコン販売会社に成り下がったデルのパソコン事業の不振は当然の帰結であろうが、優しいクリステンセンは、デルの名誉のためにと、収益性の高いサーバー事業に進出して、この分野で成功を収めていると付記している。

   さて、先日、一時、シャープが、台湾のホンハイに資本参加話で翻弄されていたが、ホンハイやエイスースのみならず、台湾メーカーは、EMS(Electronics Manufacturing Service)、すなわち、OEMやODMによって、先進的な技術ノウハウを蓄積して、今や、押しも押されもしない巨大なエレクトロニクス産業の巨人として台頭し始めて来て、世界中の名だたるエレクトロニクス製品の多くが、台湾で生産されていると言っても、あながち間違いでない程力をつけてきた。
   日本や韓国の産業とは全く違った形で大を成しつつある台湾企業のビジネスモデルは、EMS,ファウンドリー、ファブレスと言った形で再編成されるグローバルベースでのプロダクション・シェアリングの新しいモデルと言うことであろうか。

   ところで、日本のエレクトロニクスやパソコン企業は、アップルなどのファブレスの先進国企業と、コスト競争力優位の韓国台湾などの狭間にあって、激烈なグローバル競争に巻き込まれて、どんどん、地歩を失いつつある。
   優秀な技術を持ちながら、その差別化戦略が不発に終わっており、それに、何よりも、ファブレスの欧米企業には勿論、韓国台湾などの新興国企業に対しても、コスト競争力では、全く勝ち目がないので、殆ど競争にはならないし、未だに、ブルーオーシャン市場を生み出すイノベーション力さえもない。
   かっての日本の企業のように、ローエンドから最先端の科学技術を駆使して這い上がろうとしている新興国企業には、どんどん、市場を蚕食されて行くのは必定であるので、その先を行く未来志向型の製品やサービスを生み出すべくイノベーションを追求する以外に日本の生きる道はないのである。
   しかし、大前研一氏が説くように、膨大なヒンターランドを抱えた巨大な人口と経済力の日本が、果たして、小国で機動力のあるスイスやシンガポールのようなクオリティ国家になれるのであろうか。
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映画「もうひとりのシェイクスピア」

2013年01月22日 | 映画
   シャンテシネマで、「もうひとりのシェイクスピア」と言う面白い映画を見た。
   史上最高の戯曲作家と言われながらも、殆ど何の記録も残っていなければ、37篇も書いた作品の自筆原稿さえ残っていないのであるから、シェイクスピアが、どんな人物であったかは、謎に包まれたままである。
   シェイクスピアについて、多少とも確実に知られていることと言えば、
   ストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれて、そこで結婚して子供をもうけて、ロンドンに出てまず俳優になって、やがて詩篇や戯曲を書き、ストラトフォードに帰って遺言状を作成し、死んで埋葬された。と言うことに尽きる。
   したがって、この定説となっているストラトフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピアが、あの偉大な本当のシェイクスピアではなくて、別人であったと言う議論が、その後ずっと実しやかに語られ論争され続けて来ている。

    公認のシェイクスピア説に疑問を呈する異端者には、マーク・トウェインやジークムント・フロイトや、それに、チャーリー・チャップリン、オーソン・ウエールズと言った映画人や、サー・ジョン・ギーグリッチやケネス・ブラナーと言った突出したシェイクスピア役者と言った有名人がいる。
    しかし、専門のシェイクスピア学者などには、殆ど、異端説を唱える人がいないと言うのが興味深い。

    尤も、正統派説にしても、戯曲に描かれているような宮廷生活や、紋章学や、法律や、イタリアなど外国や歴史的な知識について、どのようにしてあれ程までも、シェイクスピアが持ち得たのかに関しては、彼が受けた教育は故郷の学校でのものが総てであったので知らなかったので、執筆のための知識は読書によって補充した、だから、高い教養を備えた人なら侵さない初歩的な間違い、たとえば、ボヘミアに海岸があったり、ヴェローナとミラノ間を船で行き来するなどと言ったことを、犯しているのだと言う。
   それに、シェイクスピアの幅広い知識の入手先は、彼が入り浸っていたエリザベス朝のロンドンの居酒屋マーメイドに出入りしていた旅人や商人や兵士や水夫と言った人々で、マーメイド大学がシェイクスピアと言う優等生を輩出したと想像する学者たちもいる。

   興味深いのは、ルイス・B・ライトの正統派論の結論である。
   反シェイクスピア派の反論は、みなでたらめで、彼は学校教育を受けていない無学文盲の田舎者であるとか、彼について知られていることは何もないとか、高貴な身分の人物かそれに匹敵する家柄の人物でなければあのような戯曲を書けなかったと言うのだが、実際のところ、シェイクスピアについては当時のほかのどの劇作家よりも多くのことが知られており、彼は故郷のグラマースクールで大変立派な教育を受けていたし、その戯曲からはべつに読書による深い学識は感じられないし、芝居に描写されている王や宮廷についての知識は、インテリの若者が又聞きで得た知識以上のものではない。
   額縁入りの卒業証書や称号など社会的地位を示す重要な証拠など無用で、天才と言うのは思いがけない場所に現れるものだと言うことを忘れているのであって、大学の授業でインスピレーションを得た大作家など世界中を探しても誰一人としていない。と言うのである。

   さて、それでは、異端派は、だれをシェイクスピアと考えたのか、エリザベス女王その人だと言った奇想天外なケースは別として、フランシス・ベーコン、作家のクリストファー・マーロウ、それに、オックスフォード伯、ダービー伯などの貴族などが、有力説である。
   正統派学者たちは、所謂、異端者である「無責任な空想家」は、本当の作者なら「高貴な家柄か、アカデミックな名誉のどちらか」を備えていなければならないと考える「俗物根性」者だと非難するのだが、要するに、そのような人物である。

   この要件を最も満足させてくれるシェイクスピア候補が、取りも直さず、この映画の「もうひとりのシェイクスピア」である、「第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア」であり、色々な逸話や歴史上の出来事などを上手く組み合わせて物語を構築しており、真実かどうかは別にして、非常に面白い映画として出来上がっていて、楽しまてくれる。
   
   この映画では、
   幼い頃から文才のあったエドワードが、ベン・ジョンソンの芝居を見て感動して戯曲を書き始めるのだが、権力者のウィリアム・セシル卿が、「芝居は悪魔の産物」と決めつけ、芝居に扇動された民衆が政治に影響を与える事を恐れて、兵を送り込んで芝居を中止させ、ベンを逮捕する。
   自身で戯曲を発表できないエドワードは、牢屋のベンを救出して、「ヘンリー5世」の原稿を手渡して、ベンの名前で戯曲を公演せよと命じる。
   「ヘンリー5世」の芝居に熱狂した観衆の作者コールの連呼に、事情を薄々知っていた役者で登場したシェイクスピアが、自分が作者だと名乗って登場し、喝采を浴びる。
   次から次へと書き続けるエドワードの戯曲は、ベン経由でシェイクスピアに渡って上演されるのだが、後をつけてエドワードを突き止めたシェイクスピアは、エドワードを脅迫して資金を出させて、自身の劇場グローブ座を建設する。

   何故、エドワードの作品が残ったのか。
   エドワードは、エリザベスに二人の愛の結晶である反逆罪のサウサンプトン伯の恩赦を乞い、エリザベスは恩赦のかわりに、エドワードの著作に未来永劫、彼の名を封印することを誓わせる。
    晩年、エドワードは貧しい暮らしの中でもなお執筆を続け、死の直前、すべての著作をベン・ジョンソンに手渡したので、“匿名”のエドワードの戯曲の数々は、ベンが、後継のセシル卿(子)の執拗な拷問にも耐えて隠し通して必死に死守したために、後世に伝えられて行く。

   戯曲切れとなったシェイクスピアは、さっさと、ストラトフォードへ引き上げて不動産を買って余生を暮らすと言う、定説に繋がると言うシェイクスピア悪者物語が、この映画と言うところであろうか。
   

   この映画のシェイクスピアとの関係は、このようなものだが、
   これに、エドワードとエリザベスとの恋が絡み、また、エリザベスの後継争いで、スコットランド王ジェームス6世をおすセシル父子とエセックス伯をおして対立するなど、あの華やかなりしエリザベス王朝末期の政治模様を絡ませながら、非常に面白い映画となっている。
   最後に、絶えず死に晒されていたエリザベスが、暴動寸前まで行く程国民から人気の悪いセシル父子を、唯一の忠実な僕であったが故に、宰相として大切に温存したこと、
   そして、セシルが、反逆するエドワードを最愛の娘婿にしたのは、エドワードが、エリザベスが若気の至りで生んだ実子であり、孫が国王に成り得たからだと言ったことや、エドワードとエリザベスの恋は近親相姦であったが故に中を裂いたことなどを、虚実取り混ぜて、総てを取り仕切っていたセシル(子)に種明かしさせていたどんでん返しが面白かった。

   さて、タイトルロールのエドワードを演じたリス・エヴァンスだが、実に重厚な素晴らしい名門貴族紳士を演じて、別なシェイクスピア像の魅力を見せてくれたのだが、「ノッティングヒルの恋人」(ロジャー・ミッシェル監督)でヒュー・グラントの同居人スパイク役を演じ注目を浴び、英国アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた同一人物だとは、あまりにも印象が違ったので吃驚した。
   老エリザベスを演じたヴァネッサ・レッドグレイヴの老練さと貫録、そして、若エリザベスを演じたジョエリー・リチャードソンの奔放でパンチの利いた演技も秀逸で素晴らしかったが、実の親子だと言うから、また、驚きである。
   ウィリアム・セシルのデビッド・シューリス、ロバート・セシルのエドワード・ホッグの忠臣ぶりと性格俳優的な演技が印象に残っており、ウィリアム・シェイクスピアのレイフ・スポールの意表を突いたシェクスピア像が、新鮮に感じられた。

   ロンドンのグローブ座を思い出しながら、シェイクスピア当時の劇場の雰囲気を楽しんでいたのだが、恋に落ちたシェイクスピアと同様に、私のシェイクスピア雑学の深みを増してくれた映画で、非常に、素晴らしい時間を過ごすことが出来て幸いであった。

   
   冒頭と最後を締めくくった語りのデレク・ジャコビの声音を聞いて、懐かしいイギリスのシェイクスピアの舞台を思い出して、ストラトフォードへ通い詰めていた昔の思い出が走馬灯のように蘇って来た。
   5年間のイギリス生活は、やはり、シェイクスピアを通じて、私に、素晴らしい思い出を残してくれたのである。
   
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ものを買う動機は、自分の用事を片づけること・・・K・M・クリステンセン

2013年01月20日 | 経営・ビジネス
    「最高の人生を生き抜くために」、クレイトン・M・クリステンセン教授が、「イノベーション・オブ・ライフ」で、非常に示唆に富んだ滋味ある話を展開しているのだが、その中で、興味を持ったひとつの話題は、
   製品・サービスを購入する直接の動機となるのは、実は自分の用事を片づけるために、その製品・サービスを雇いたいと言う思いだと言っていることである。

   自分には片づけなければならない用事があり、この製品があればそれを片づける助けになると言う思いが購買を促進する。
   イケアが、他の追随を許さないのは、特定の顧客や製品の特長ではなく、顧客がときおり片づける必要が生じる「用事」を中心に構成されている、製品と店舗レイアウトを統合している、その方法に秘密があり、この考え抜かれた組み合わせのお蔭で、顧客は、必要なものすべての買い物を、イケアでごく簡単に一度に済ませられることである。と言うのである。
   確かに、膨大な種類の商品の在庫を切らせないように大きな店舗を構え、立派な託児スペースもあれば、レストランもあり、製品は、店内の倉庫スペースに総て平に梱包されているので、マイカーに簡単に積み込んで持ち帰ることが出来て、更に、簡単に組み立てられるので、すぐに利用できる。

   私は、アムステルダムとロンドンで、家具付きの家を借りて住んでいたが、仮の住まいであったので、不足する家具を、安く簡単に調達しようと思って、イケアに何度か出かけて、用事を片づけたので、このクリステンセン説は良く分かる。
   今でも、この時に買ったイケヤの家具が、我が家で健在だが、日本では、既に整っているので、イケアには時々出かけては行くが、雑品しか買う機会がない。
   クリステンセンは、息子の新しいアパートの家具調度の調達で、熱烈なイケア・ファンとなったと書いているが、確かに、新家庭を持ったり、新家屋に移転する時などには、非常に便利であろうと思う。

   企業が人々の生活に生じる用事を理解し、その用事を片づける製品・サービスを開発し、顧客がこれを購入、利用するために必要なその他の条件を整えれば、顧客は用事が発生する度に、その製品・サービスを反射的に自分の生活の中に「引き入れる」ようになる。と言う。
   本来の百貨店などもこの要件を満たす筈であったのだが、斜陽の一途を辿っているのは、欲しくもないものを格好ばかりつけて高く売っているなど、クリステンセンの説く「片づけるべき用事」理論から、程遠いビジネス・モデルを踏襲し続けているからであろう。
   日本の企業は、製造業も、銀行も、小売業も、商社も、建設業も、多くの企業が総合とかゼネラルと言った一社で総てが出来るワンセット主義が好きで、このような業態が一般的だが、業績が向上しないのは、クリステンセンの用事を片づけると言う戦略論が、完全に欠けているということであろう。
   実際的には、顧客が片づけようとしている用事が何なのかと言う理解どころか、総合総合で図体だけ大きくなって、知恵が総身に回りかねてるような組織経営システムが、障害となっているような状態では、「片づけるべき用事」理論などは、夢の夢かも知れない。

   更に興味深いのは、クリステンセンは、
   学校は、子供が用事を片づけるために雇う手段で、二つの基本的な用事とは、成功したと言う達成感を得ることと、友人をつくることだが、これが実現されていないので、学習意欲のない生徒がこれほど多いこと、
   また、仕事でもプライベートでも、自分がどんな用事を片づけるために雇われているのかを理解すれば、計り知れないほど大きな見返りが得られると言っている。
   結婚生活の場合には、お互いが片づけなければならない用事を理解した二人であり、その仕事を確実にうまく片づけている二人が理想だが、夫々が個人的に片づけようとしている基本的な用事を説明するのは非常に難しい。お互いにお互いを雇う用事を説明するとなると、直観と共感と言う重要なインプットが欠かせないとして、伴侶の成功を助け、伴侶を幸せにするために、自分をどれだけ犠牲に出来るか、「犠牲が献身を深める」と言う原則が、結婚生活だけではなく、家庭や親しい友人、それに、組織や文化、国家についても言えるとしていて、興味深い。

   さて、クリステンセンの説く「片づけるべき用事」理論が、功を奏したのかどうかは分からないが、科学文明の発達によって、人々の暮らしは随分自由に豊かになって、昔なら、王侯貴族しか享受できなかった以上の便利で快適な生活が出来るようになった。
   しかし、人間が幸せになったかと言えば、逆に、益々、ストレスがつのって制約が多くなり孤独にさいなまれる等、むしろ、不幸になってしまったと言えなくもない状態である。
   今、ダニエル・アクストの「なぜ意志の力はあてにならないののか We Have Met the Enemy Self-Control in an Age of Excess 」を読み始めた。
   「到頭 敵を見つけた 過剰時代の自己コントロール」と言うことだが、あまりにも選択肢が多くなり過ぎて、この自己コントロールが働かなくなり、この当てにならなくなった自己コントロールに振り回されて不幸になってしまっていると言うことであろうか。

   この頃、経済成長経済成長と言うのだが、いくら注意を払って最も望ましい経済成長を試みても、エントロピーの法則が、益々、人間の生きて行く環境を悪化させ続けていると言うことを知り、
   また、今回のように、クリステンセンの説く「片づけるべき用事」理論に添って便利で豊かな生活を追求してみても、結果的に、人間を不幸にする経済活動なり発展であるのなら、意味がないのかも知れないと、心配になり始めている。
   
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侘助ツバキが春を呼ぶ

2013年01月19日 | わが庭の歳時記
   晩秋から咲き始めているので、ツバキは珍しくもないのだが、ツバキの木に一面花が付くと、もう、春が、そこまで来ているのが感じられる。
   わが庭で咲いている侘助は、口絵の相模侘助、次の一子侘助、白侘助の3種だけなのだが、曙や紅妙蓮寺などのツバキも、ちらほら咲いており、びっしりと蕾をつけて温かくなる季節を待ってスタンドバイしている沢山のツバキを見ていると、一気に咲き乱れる春が待ち遠しくなる。
   

   今朝、天気が良かったので、バラの大苗を数株鉢植えした。
   最近コルデス社で作出されたアンティークタッチのドイツのバラで、今栽培しているイングリッシュ・ローズやフレンチ・ローズに近いドイツ版だろうと思ったのである。
   どんな花が咲くのか、今期は、近くの京成バラ園で買った大苗や鉢植えばかりを植えているので、気候的には同じ条件であり、多少、力を入れて世話をしているので、例年よりは、きれいな花が咲くだろうと期待をしている。
   

   牡丹のピンクの芽が目立ち始めてきた。
   それに、庭や鉢植えのモミジも芽吹き始めた。
   モミジも、結構変わった園芸種のものを鉢植えしているので、夫々の芽だしの様子が違う。この写真は、葉が細長く伸びる琴の糸である。
   花木の足元では、庭植えなのでやや遅いが、クリスマスローズが、花芽を出し始めた。
   何となく、落葉樹の影などに植えてある感じなので、日陰にも強いと思うのだが、ある程度日当たりのよいところの方が生育は良いようである。
   花ニラや水仙などの葉が出始めたが、庭植えの球根は、まだ、動いておらず、芽だしは先のようである。
   先日降った雪が、寒さが厳しいので、まだ、解けずに、庭のあっちこっちに残っている。
   今年は、1月が非常に寒いのだが、この調子で二月まで行くのなら、相当寒い冬になりそうで、地球温暖化がどこへ行ったのか、不思議である。
   
   
   
   

   オランダやイギリスにいた時には、多少、花には興味を感じて、キューガーデンに住んでいた時には、暇を見ては、世界最高と言われるボタニカル・キュー・ガーデンに通って、花の写真を撮ったりしていたが、趣味に近い形で、花を栽培し始めたのは、まだ、精々20年くらいであろうか。
   ヨーロッパでの生活や、花が好きだった友人の影響などもあり、それに、家に土の庭があるので必然的に世話をする必要などに迫られて、ガーデニングを始めた格好だが、日常生活において花木や草花、それに、訪れて来る小鳥や小動物たちとの接触や対話が、幸いなことに、私の生活に、随分喜びや潤いを与えてくれている。

   ところが、不思議なことに、たとえば、花ならどんな花でもよいと言うことにはならない。
   数多ある花の中で、良く考えてみれば、私が意識して育てている花の種類は、結構、限られている。
   年齢によっても、大きく変わってきているが、今、栽培しているのは、
   まず、一番は、ツバキで、鉢植えを含めれば50種をはるかにオーバーすると思うが、同類だが、サザンカには興味がない。
   春の花木は、梅を数本植えているが、桜は、公園などオープンな空間の花だと思っている。
   後は、順不同で記してみると、バラ、牡丹、芍薬、ユリ、クリスマスローズ、花ではないが、モミジ。クレマチスは、植えるのだが、世話が下手で、まともに育っていない。
   春の草花は、一応球根植物は、殆ど植えているのだが、意識して植えるのは、チューリップとユリ、偶に水仙くらいであろうか。
   夏は、西洋アサガオだけ。
   秋の花は、菊花の鑑賞には出かけて行くのだが、今のところ、球根さえも植えていない。
   結局、私の庭は、春の花季に、一気に咲き乱れると言うことであり、私も、それに集中して満足している。
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国立劇場:歌舞伎・・・夢市男達競

2013年01月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この歌舞伎だが、原作は、河竹黙阿弥作の「櫓太鼓鳴音吉原」とかで、これを元にして、菊五郎監修・国立劇場文芸課補綴で、現代版にすっきりと作り上げたものだと言う。
   解説によると、かなり、斬新な手法で、黙阿弥のオリジナル版を脚色変更しているようであるが、現代的な感覚で、アップツー・デートに、復活再興していると言うことであろう。
   シェイクスピア戯曲など当時のイギリス演劇などは、上演する度毎に、書き換えられていて、時には、オリジナルの原型を殆ど留めないと言ったケースがあったりして、歌舞伎や文楽でも、同様だから、結果オーライで、良ければ良いと考えるべきであろう。
   私は、どちらかと言うと、良く言えば古典悪く言えば手垢のついた歌舞伎18番や通し狂言の一部の人気舞台などを鸚鵡返して繰り返している松竹方式のアラカルト・プログラム興行よりは、現代感覚で眠っていた古典を掘り起こした通し狂言を上演する意欲的な国立劇場方式の舞台の方が、はるかに、楽しいし望ましいと思っている。

   余談が長くなってしまったが、この「夢市男達競」は、スペクタクルあり、ラブロマンあり、派手な見せ場ありで、結構面白いのだが、沢山のサブ・テーマが入り込んでいて、中々筋が分かり難い。
   サブ・タイトルが、西行が猫 頼豪が鼠 と言うことであるから、猫と鼠の対決物語である。
   その話の中に、初代横綱の明石志賀之助と義兄の男伊達・夢の市郎兵衛の関係や、猫好きであった傾城薄雲太夫の猫伝説を絡めて、木曽義仲方の鼠の妖術を、白銀の猫の置物の威力を持って滅ぼそうとする源頼朝方との、猫と鼠の対決にしているのだが、これに、頼朝が西行に与えた白銀の猫の置物の宝物紛失騒動や木曽義仲と愛妾巴との恋模様までも展開しているのであるから、面白いと言えば面白い。
   市郎兵衛が、志賀之助に、先に行って待っててくれと言う長谷寺前の料亭について、三つ星で予約が大変だったと、ミシュランを匂わせることを言ったり、市郎兵衛の妻おすまが、江戸の高い塔で買った土産だと言って、スカイツリーを思わせたり、ちらりちらりと、アドリブで、カレント・トピックスを盛り込んで、観客を笑わせている。

  話の筋は、大体、次の通り。
   粟津で討死したはずの木曽義仲(松緑)が生きており,頼豪阿闍梨(左團次)の怨霊と合体して鼠の悪霊を使い,源頼朝(左團次)を苦しめ,鎌倉市中を騒がせる。悪霊退散を祈念する上覧相撲が開催され,大江広元(松緑)が後援する力士・明石志賀之助(菊之助)は,北條時政のお抱え力士・仁王仁太夫(松緑)に勝ち,「日の下開山」の称号を得る。一方,悪霊を退散させるためには,頼朝が西行法師に授けた白銀の猫の置物を必要とするので、志賀之助の義兄・夢の市郎兵衛(菊五郎)は,旧主の広元の依頼で女房のおすま(時蔵)と共に置物の詮議に奔走し,義妹の傾城薄雲(時蔵)の協力を仰ぐ。薄雲は謎の虚無僧・深見十三郎(松緑)に心を寄せるが,彼の怪しげな様子に新造の胡蝶(菊之助)は不審を抱き、義仲であることを見破り、薄雲を守って追い払う。胡蝶(実は、薄雲の愛猫・玉の亡魂)が息絶えると、その傍に白銀の猫の置物が現れる。喜んだ市郎兵衛は,白銀の猫の置物を持って,頼豪の鼠の妖術を使って鎌倉方を滅亡させようと戦う義仲に対峙し、猫の置物の威徳で鼠の術を破って義仲を滅ぼす。頼朝の病気も快癒し、目出度し目出度し。

   そんな話であるが、役者名を書き入れたので分かろうが、菊五郎、時蔵、松緑、菊之助、そして、左團次が、活躍する舞台である。
   それに、北条時政の家来として登場する嫌味な憎まれ役の團蔵と亀蔵が加わる。
   夢の市郎兵衛の倅市松として登場する子役の藤間大河(松緑の子供)が、中々素晴らしい舞台を務めていて、観客の反応が非常に良くて、将来楽しみである。

   主役は、男伊達の夢の市郎兵衛にはなっているが、考え方によっては、生きていて鼠の妖術を使って頼朝復讐を目論んでいる木曽義仲だと思えるような芝居で、これに、愛妾巴を絡ませて、巴を弁財天、義仲を毘沙門天に仕立てて七福神登場させて目出度い新春気分を盛り上げ、更に、猫に入れ込んでいた花魁薄雲が巴に似ているので義仲が恋い焦がれて、猫鼠戦争を引き起こすと言うサービス精神満点の通しの狂言だから、面白くない訳がない。
   超ベテランの菊五郎と時蔵の芝居の上手さと冴えは言うまでもないが、今回は、力士と、猫と鼠を夫々演じて、派手なスペクタクル・シーンを演出した松緑と菊之助の進境著しい活躍が見逃せない。
  
   注目は、菊之助の明石志賀之助の力士姿で、中々風格があり堂々としていて、舞台に華やいだ雰囲気を醸し出していて、非常に、器用で賢い役者であることを示している。
   この菊之助が、得意の水も滴るような可愛くて良い女・新造胡蝶(実は猫の玉)を演じて、松緑や沢山の鼠役者たちと派手な立ち回りを演じて、素晴らしい芸を見せている。

   一方、松緑も、菊之助に負けず劣らず素晴らしい芸を見せてくれており、非常に楽しませてくれる。
   芸を重ねるごとに、スケールの大きな立役の芸域を広げており、芸に輝きが出て来て素晴らしいのだが、気になるのは、松緑の声と言うか発声で、どんな舞台を見ていても、松緑だと分かる松緑節が抜けないことである。
   この点、今回の菊之助などは、女形の美声は特筆ものだが、今回のように、力士・志賀之助の時には、立派に、力士の声音になり、若侍と時には、颯爽とした若侍になるなど、声質も表現も別人のように変化している。
   中村メイコのように七色の声は必要ないが、歌舞伎でも、私自身は、変化があっても良いように思っている。

   
   ところで、力士が登場するので、会場には、相撲協会の協力で、志賀之助の等身大の立て看板や、ゆかりの資料などが展示されていて面白い。
   220センチもある大男で、手形などは、長さだけでも私の二倍もあるくらい大きい。
   行司の盾なども展示されていたが、このような日本の伝統を共有したコラボレーション展示などは、非常に良い事であり、来月の文楽では、相撲の場があるので、櫓太鼓が奏されると言うから、楽しみである。
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英「HMV」が経営破綻”デジタル革命に対応できず”

2013年01月16日 | 経営・ビジネス
   今朝のNHK BS1のワールドWaveで、世界的なレコード販売チェーンの「HMV」が、インターネットの音楽配信の隆盛に押されて、CDが売れなくなって経営が悪化し、破綻したと報じていた。
   管財人が経営を引き継いで、買収会社を見つけて、小規模化して、経営の再建を図るようだが、デジタル革命に対応できなくなったビジネスの、期せずして訪れた運命であろうか。

   私は、イギリス在住時には、良く、ピカデリーサーカスのHMVの店舗に、オペラやクラシックのCDを探すのを楽しみにして通っていて、何百枚もある音楽CDの大半は、この店で買ったものである。
   欧米ではそうだが、新しくレリースされたCDは、販促のために、確か20%くらいのディスカウント価格で売られていたし、オペラやクラシック音楽の全集物など、枚数が嵩むと、バーゲンセールの時に、一挙に買い込むと言った買い方であった。
   別に、ラベルや説明書、リブレットなどが英文であっても構わないので、日本で、同じものを買うよりはるかに安かったように思う。

   帰国してからは、あまり、音楽を聞かなくなったし、それに、映像がある方が良いので、最初は、ビデオなりレーザーディスクを買い込み、その後は、DVDに移り、今では、買うのは、総て、ブルーレイのDVDになっている。
   もっと重宝しているのは、HNKのBSでは、METのライブビューイングやスカラ座など名だたるオペラハウスでのオペラやコンサートホールでのクラシック演奏などの録画を放映してくれており、WOWWOWでも、METライブビューイングを何度も放映してくれているので、これらを、ハイビジョン方式でブルーレイに録画すれば、市販のDVDより、はるかに上等なDVDのコレクションが出来上がる。

   時々、ツタヤに出かけると、老若男女、色々な人が、映画を見るのであろうか、DVDを抱え込んで借りて行くのに出くわすが、私などは、どちらかと言えば、最新の話題の映画やドラマ放送には興味がないし、沢山の名画や話題作を放映してくれているNHK BSプライムとWOWWOWの映画放送をブルーレイ録画すれば十分なので、この人たちの気がしれないと思っている。
   NHKでも、オンディマンド・サービスをやっているし、もう少し、オンディマンド方式が普及すれば、殆ど、ツタヤなどには行く必要がなくなり、ツタヤも、先のHMVと同じ運命に遭遇するのでは、なかろうかと思っているのだが、
   しかし、結構、私のように録画して自分自身で要求を満たすなどと言うのは煩わしいと思う人も多いようで、年寄りなどは、ITディバイドで、デジタル革命においそれと乗れないらしくて、従来型の店舗も必要だと言うことであろう。
   
   映画はともかく、音楽に関しては、スティーブ・ジョブズが、iTuneとiPodシステムを確立してからは、音楽の主流が、インターネット経由の楽曲配信に変わってしまったのだから、この潮流には、逆らえる筈がない。
   BBCの放送では、
   Music & Film Salesが、
   2002年 6.5% Online
   2012年 73.4% Online
   と言うことで、今や、売り上げの70%以上がインターネット経由だと言うから、CDなど売れる筈がないのである。

   さて、映画や芝居などの映像ものについては、音楽と違って、オンディマンドの需要も増えているものの、まだ、かなり、DVDが主流のようである。
   先日、ブックレビューした「ザ・ディマンド」で、スライウォツキーは、DVDの配送レンタルで成功しているネットフリックスの創業者リード・ヘイスティングの逸話から書き出しており、その事業展開の推移について語っている。
   かっては、ビデオレンタル店に行っても、見たいビデオやDVDがなくて諦めることが多かったのだが、その客の失望とハッスルをなくして、瞬時に、顧客に、見たいものを提供することが、如何に難しい事なのか、何回も頭を打って試行錯誤を試みて、今日を築き上げたと言う。

   問題は、注文してから何日も経たないとDVDが届かない客は、あまり興味を感じないのだが、翌日配達して貰える顧客は、その便利さと効率に感激して、見終わった映画を郵便受けに入れた瞬間から次の映画が来るのが待ち遠しくなり、その上に、ネットフリックスの驚異的な速さと信頼性を友人や家族やお隣さんに自慢するのだと言う。
   ところが、インターネットとDVDと言う最先端のIT技術を使い、優秀なプログラマーが開発したソフトウェアではあったが、如何せん、配送は2世紀前に生まれたローテクの郵便制度US MAILに頼っているから、翌日配送などは、夢のまた夢であった。
   そのために、今では、配送センターの数を増やすと、新しい配送センターが開設された地域では、一気に加入率が倍増しており、やっと、大多数のアメリカ人の手元に翌日にDVDが届く体制が整ったのだと言うことである。

   この膨大な投資をして、全米に翌日配送するシステムを確立すると言うことこそが、イノベーションのイノベーションたる所以であり、大変ことではあったが、結局は、将来、オンディマンド・システムに座を明け渡さなければならないであろうと思っている。
   日本でも、同類のサービスをしている会社があるようだが、宅配会社を使って配達に何日もかかっているようでは、見込み薄であり、ツタヤなど返却のみ郵送と言うことであり、ネットフレックスの足元にも及ばないし、近い将来、急速に、ビジネス・モデルを大きく変革せざるを得なくなるのは必然であろうと思う。

   アマゾンは、自社の配送センターから直接配送するケースが多いので、非常に早く配送されて来ており、更に、お急ぎ便で注文すると殆ど翌日配送に近い。
   楽天が、出店店舗を指導して、翌日配送に向けてシステムを構築するようだが、やはり、ネット・ビジネスは、スピードの商売なのであろう。

   ところで、前述の映画や芝居などの映像ものだが、要するに、DVDを媒介にしなくても、e-book デジタル・ブックと同じで、有効なオンディマンド・システムを確立すれば、瞬時に、顧客の手元に届く。
   コレクションが趣味だと言うのなら別だが、出来るだけ、中間に介在する人やものをカットして、ダイレクト・サービスに切り替えて、別なところで利便性と付加価値を高めた方が良いことは言うまでもなかろう。

   顧客は、見たいと思う映画を、即刻、安く、簡単に見られることを求めているのであって、それを阻害しているハッスルを取り除いて、速さと利便性を顧客に届けて、顧客の満足を得る。
   そのために、どのようなビジネス・モデルを作り上げるか、それしかないのである。
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萬狂言「博打十王」~閻魔博打に負ける

2013年01月15日 | 能・狂言
   年4回の恒例の萬狂言の冬公演が、国立能楽堂で開かれたので出かけた。
   人間国宝野村萬が登場した「昆布柿」や「呂連」なども上演され、これらはこれまでに観ていたので、それなりに楽しませて貰ったが、やはり、最後の「博打十王」は、初めてでもあり、厳つい面をかけた閻魔王を筆頭に沢山の獄卒の鬼たちが登場して、地獄へ送り込むべき博打打と、サイコロ博打をして、負けてしまって、極楽に導くと言う非常に面白い狂言が、秀逸であった。

   人間が仏教に帰依して賢くなって皆極楽へ行くので地獄が飢饉になって、生きて行くのに困窮し始めたので、閻魔王(万蔵)自らが多くの獄卒を引き連れて、六道の辻で待ち構えて、やって来る亡者を地獄へ落そうと言う、言うならば、客引きをすると言う信じられないような冒頭から、人を食った話である。
   そこへ、博打打(小笠原匡)の亡者が来たので、前鬼(太一郎)と後鬼(虎之介)が責めつけて閻魔王の前に引き出すと、閻魔王は、浄玻璃の鏡に映された博打打の罪を咎めるのだが、博打打は、博打は、娑婆では老若男女貴賤を問わず誰もが楽しむ遊びだと能書きをたれて、実際にサイコロを振って鬼たちに披露する。
   まず、目が1ばかりのサイコロを振って、閻魔王に1を賭けさせて、2回勝ちを譲ると、面白くなった閻魔王が、博打打と勝負すると言って、自分は勝っても何もいらんがと言って、笏を賭ける。
   今度は、博打打は、先のサイコロと、1の目のないサイコロをすり替えてイカサマ博打を開始するのだが、1で勝ちの味を占めた閻魔王は、負けても負けても1を賭け続け、獄卒の一人が3を賭けると言っても、ぼつぼつ1が出る頃だと強引に押し切って、最後には、鬼たち諸共着ているものまで総て賭け物を取られてしまって、到頭、閻魔王は、取り上げられたものを返してくれと博打打に泣き付く。
   交換条件に、博打打から極楽へ行かせろと言われて、閻魔王は、博打打の手を取って、極楽へ導いて行く。

   この狂言は、閻魔王以下8人の鬼が厳めしいいでたちで登場するのみならず、威儀を正した閻魔王が舞台中央の台上の葛桶に腰をかけて、左右に鬼たちを侍らせていて、地獄の閻魔王庁を思わせる、何時もの太郎冠者や大名たち2~3人が登場するシンプルな舞台と違って、中々壮観である。
   それに、囃子方が居て楽を奏し、舞台終盤に、野村萬など3人の地謡が登場して、閻魔たちが賭けに負けて、博打打が「浄土へとこそ参りけれ」と謡う。
   ところが、威厳のあった閻魔王たちが、最後には、イカサマ博打に引っかかって、衣装総て身ぐるみ剥がれて、全く様にならない哀れな姿になってしまうと言うどんでん返しが、意表をついて面白い。
   閻魔王の法廷の宝とも言うべき、死者の生前の善悪の行為をのこらず映し出すという「浄波璃の鏡」まで、賭け物にして巻き上げられてしまったのであるから、閻魔王形無しである。

   閻魔は、もと、ヒンドゥー教のヤマ、道教の閻魔王であって、日本に伝来して冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁く神・閻魔王となる、地蔵菩薩の化身である。
   閻魔信仰もかなり盛んで、日本中に閻魔大王を本尊とする寺院も結構あって、鎌倉の円応寺の閻魔大王像などは、運慶作とも言われている重要文化財で、ミケランジェロにも負けないくらいの大変な迫力である。
   ところが、この狂言では、世間知らず(?)を良いことにして、閻魔王を博打打が、イカサマ博打に巻き込んで、散々コケにして笑い飛ばすと言う、痛快極まりない曲にしている。
   とにかく、博打打の小笠原の軽妙洒脱な面白さも素晴らしいが、地獄を預かる閻魔王と言う本文を忘れて、どんどん博打にのめり込んで行く娑婆っ気の強い閻魔王を、万蔵が、格好をつけて威厳を保ちながら、実に巧妙に演じていて、これに呼応して舞台を盛り上げている獄卒の鬼たちの愉快さも楽しく、非常に良い狂言であった。

   このような大舞台を観ていると、狂言の幅の広さ、懐の奥深さが分かって、能楽とは違った味のある古典的な舞台芸術の良い側面が見えて来て、非常に興味深い。
   
   この狂言をもとにして、猿翁が猿之助時代に、歌舞伎版を作成して、猿之助が亀治郎時代に演じて好評を博したようだが、面白かっただろうと思う。
   yomiuri onlineで、円応寺の閻魔王の写真を見つけたので、借用しておきたい。
   

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能「一角仙人」、そして、歌舞伎「鳴神」

2013年01月14日 | 能・狂言
   正月早々、面白い能を観た。
   歌舞伎でお馴染み「鳴神」のオリジナル版と言うべきか、美女の色仕掛けに陥落した仙人を主人公にした話「一角仙人」である。
   能の方は、天竺波羅奈国の話になっているが、元々、インドの「マーハバーラタ・リシャシュリンガ(鹿角物語)」が原典で、中国や朝鮮を経て日本に伝来し、「今昔物語」や「太平記」に出ているのを、金春禅鳳が作曲したもので、歌舞伎の方も、この古典から想を得たと言うのなら、オリジナルと言えようが、とにかく、同じ主題の話で、両方とも、舞台芸術としての展開が面白い。

   私などは、若い頃に、同類の話で、久米仙人が、飛行の術の途中、久米川の辺で洗濯していた若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って空から墜落したと言う話を聞いて、人間いくら修業を積んだ高潔な人物でも、女性には弱いのだと知って、嫌に安心したのを覚えている。
   解説に登場した林望先生が、異常な話を題材にして、人間の普遍的な真実を炙り出した話として鑑賞するようにと言った話をされていたが、正に、高潔な仙人の、酒好き女好きの本性を曝け出して堕落させると言う強烈なメッセージを観客に叩きつける舞台で、華麗な舞あり、仙人と解放された竜神との戦闘スペクタクルありで、非常に興味深い能舞台であった。

   この一角仙人の出生から興味深く、
   路上で放尿していた仙人が、雌雄の鹿の激しい濡れ場を見て触発されて、興奮が高じて洩精してしまい、その下に生えていた草の葉っぱを牝鹿が食べてしまったので妊娠し、この牝鹿が無事出産し誕生したのが、額にひとつの角が生えた子供で、名づけて一角仙人、この話の主人公である。  
   日本のみならず、世界各地にある異類婚姻譚の一種と考えれば良いのだろうが、あの豊満な女体を強調した男女融合の歓喜仏を寺院などの壁面に満艦飾のように彫りつけたインドの大らかな話であるから、面白い。
   能では、元々、アイ狂言で、この一角仙人誕生の秘話をアイが語るシーンがあったようだが、今では省略されているのは、刺激が強いからだろうかと林先生は仰る。
   要するに、獣性と人間性を併せ持った一角仙人が、いくら、修業を積んだ高潔な仙人に変身したとしても、先祖返りしたのであるから色に弱いと言うのは当然であろうと言うことで、話の辻褄が合う。

   一方、歌舞伎の「鳴神」の方は、
   日本の話となり、世継ぎのない天皇が、鳴神上人に寺院建立を約束して皇子誕生の願をかけさせ、見事これを成就させたのだが、天皇が寺院建立の約束を反故にしたので、怒った上人は、呪術で雨を降らす竜神を滝壷に封印してしまう。国中が旱魃に襲われ、困り果てた天皇が、色仕掛けで上人の呪術を破ろうと、内裏一の美女・雲の絶間姫を送り込む。姫の色仕掛けに上人も抗しきれず、思わずその身体に触れて戒律を犯し、酒に酔いつぶれて眠ってしまったので、その隙を見て姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け、竜神がそこから飛び出すと豪雨となり、姫は逃げ去る。
   と言う話になっていて、ドロドロした前段のインドの鹿角の話はなくなって、聖人君子の色に弱い話だけが炙り出されてシンプルになっている。
   太平記では、一角仙人が、ある日大雨に足を滑らせ山から転落してしまったことに腹を立て、雨を降らせる竜王を洞窟に押し込めてしまうと言う締まらない話になっているので、歌舞伎の方が人間臭くて良いと思う。

   私が最初に「鳴神」を観たのは20年以上も前のロンドンで、勘三郎の鳴神上人、玉三郎の雲の絶間姫で、苦痛を訴える姫の体を摩りながら柔らかい胸の膨らみに触れた時の恍惚境を彷徨うような表情の勘三郎を見て、これでは籠絡するのは当然だと思って観ていた記憶がある。
   その後、歌舞伎の舞台で、観ているのだが、あの時観た勘三郎と玉三郎の美しい舞台の印象は強烈に残っている。

   さて、能の「一角仙人」の舞台だが、当然、同じ色仕掛けで、仙人が籠絡すると言うテーマの舞台であっても、勿論、俗に言うラブシーンもなければ、それとはっきりと分かるシーンもないので、省略に省略を重ねて研ぎ澄ました幽玄な舞の中に、それを感じなければならない。
   浅見真洲のツレ/旋陀夫人に酒を注がれて、ほろ酔い機嫌の山本順之のシテ/一角仙人が、夫人の実に優雅な美しい魅力的な舞姿に誘い出され共に舞うのだが、最初は見よう見まねでぎこちなく、段々調子があって来てシテとツレの相舞が続く。
   ちぐはぐだった足踏みのリズムが、段々、調子が合ってくるのが、愛の交感の高まりであろうか。

   この相舞の愛の交感だが、仙人は踊りながら夫人に近づき、触ろうとすると夫人が離れ、着きつ離れつ、この僅かに触れるか触れないかの瞬間が、仙人の籠絡への引き金なのであろうが、能楽初歩の私には、息を凝らして凝視していないと決定的瞬間が何時なのか分からない。
   最後に、たっぷりと夫人に酒を注がれて酩酊して正気を失ってしまうのだが、その姿を確認すると、旋陀夫人が、さっさと足早に橋掛かりに消えて行くのが興味深い。

   その後は、仙人の霊力が消滅してしまったので、泰山鳴動して、舞台正面に据えられた黒い大きな円筒形の作り物が二つに割れて、可愛い子方の竜神が現れて、一角仙人に襲いかかって戦いとなる。
   竜神は、丁度、竜を象った兜を被った、赤い長髪を靡かせた鏡獅子の子獅子のような可愛いいでたちで、刀を振り上げて、一角仙人を追っかけて戦う姿が、面白い。
   

   世阿弥の夢幻能とは一寸違った舞台性のある面白い曲の能を観た思いで、楽しいひと時を過ごすことが出来た。
   この日、同時に演じられたのが、万蔵たちの和泉流狂言「文相撲」であったが、これも、面白かった。

 
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東京江戸博物館~尾張徳川家の至宝展

2013年01月13日 | 展覧会・展示会
   今、両国の東京江戸博物館で、「尾張徳川家の至宝展」が開かれている。
   これまで、何度か、名古屋に出かけて、徳川美術館に行きながら、休館や時間切れなどで入館できていないので、今回は、是非、源氏物語絵巻の現物を見たくて出かけた。
   実際には、源氏物語絵巻は、国宝は、「柏木(三)」だけで、もう一つの「東屋(二)」は、29日からのようで、展示されていたのは模写であったが、とにかく、図録などの印象とは違って、感激であった。
   
   柏木の絵は、光源氏が、女三宮が生んだ子供薫を抱きしめている絵だが、博物館のホームページから借用した下図のように、かなり、はっきりと残っていて、絵の横に、筆書きで輪郭線を描いたデッサン風の絵が添付されているので、良く分かる。
   

   この薫は、正妻の女三宮の子供であるから、光源氏の子供である筈だが、タイトルの如く、実は、最初の正妻である葵上の兄頭中将の子供柏木、すなわち、甥が、女三宮に産ませた不義の子で、それを知りながら、光源氏が、自分の子供として抱いているのである。
   光源氏も、父桐壷帝の中宮藤壺に、冷泉帝を生ませているのであるから、謂わば、因果応報と言う訳だが、可哀そうに、三宮は出家して、光源氏に睨まれた柏木も死んでしまう。
   この薫は、最後の「宇治十帖」で、薫大将として、今上帝と娘明石中宮との間の三の宮である匂宮、すなわち、光源氏の外孫と、浮舟を巡って恋争いをすることになるのだが、とにかく、源氏物語は、ヨーロッパが、まだ、野蛮な状態にあった1000年以上も前に、日本で生まれた信じられないような素晴らしい文学である。
   多くの写本や絵画を生み出しており、この絵巻もその一つで、逆遠近法の丁寧な描写が面白い。

   もう一つ興味を持って鑑賞させて貰ったのは、家光の長女千代姫(尾張家二代光友夫人)がお輿入れの時に持参した「国宝 初音の調度」で、今回、そのうち展示されていたのは、貞節の象徴である合貝を納める桶である[国宝]初音蒔絵貝桶である。
   八角形で同形の台が添い、朱房の紐をかける。二合一対で、婚礼調度の中では最も 重要な意味を持つ調度だと言う。
   この初音は、『源氏物語』の巻名のひとつで、明石の御方が明石の姫君に送った和歌「年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ」に因んでおり、この蒔絵貝桶の優雅な蒔絵の中に、この歌が詠みこまれている。
   展示場では、桶の一つの上蓋が取られて置かれており、横壁の説明書きに、埋め込まれた歌の字が解説されている。
   同じくホームページの写真を借用する。
   

   実際に展示されていた初音の調度は、この蒔絵貝桶だけで、初音蒔絵鏡台は、29日から展示されるようである。
   そのほか、今回の展示で紹介されていた国宝は、来孫太郎作の太刀と国宗銘の太刀であった。

   徳川家の至宝と言う訳であるから、色々な作品が展示されていたが、これまでに、似たようなものを、あっちこっちで見ているので、それ程、注意して見なかったが、最近、能狂言に興味を持ち始めたので、能面や能装束、能道具・楽器などは、楽しみながら鑑賞した。
   美しい女の能面 近江女の妖艶な輝きに、ゾクゾクしながら眺めていた。立ったり座ったり左右に動いたり、その何とも言えない成熟した女の匂うような色香と妖艶さに圧倒されたのだが、実際の女性ならそんなにながめられないので、もの言わぬ能面だったのが幸いであった。
   

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ジョン・J・ミアシャイマー著「大国政治の悲劇」

2013年01月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の冒頭で、フランシス・フクヤマの「冷戦の終結は、世界に「歴史の終わり」を齎したとする見解を否定して、
   大国は互いを潜在的な軍事ライバルと考えるのを止め、世界中の国々を「国際コミュニティ」と呼ばれるような、大きな家族の一員になった、安全保障をめぐる争いや大国間の戦争が「国際システム」から消滅したと言った意見は誤りで、むしろ、大国間の永続的な平和の見込みが、既に消滅した証拠がかなりあり、大国間で起きる戦争の脅威が消えていないと説く。
   大国は、自国の生き残りのためには、常に世界権力の配分を自国にとって最大化するチャンスを狙うと言う傾向があり、どの国も世界の覇権を達成できなくなってしまった以上、覇権国になると言う究極のゴールへのあくなきパワーへの要求が続くので、世界では大国同士の競争が永遠に続くと言うのである。
   John J. Mearsheimer posits an almost Darwinian state of affairs: "The great powers seek to maximize their share of world power" because "having dominant power is the best means to ensure one's own survival." Mearsheimer comes from the realist school of statecraft--he calls his own brand of thinking "offensive realism"--and he warns repeatedly against putting too much faith in the goodwill of other countries.

   この本の日本版の表紙には、「米中は必ず衝突する!」と表示されている。
   米中の衝突を確実視し、各国の外交戦略を揺るがす、攻撃的現実主義(offensive realism)とは?と言うことだが、ここでは、今、尖閣諸島の問題で、日中関係が緊張しているので、著者の中国に対する見解に集中して論じてみたいと思っている。

   
   多くのアメリカ人は、もし、中国の急速な経済成長が続いて「巨大な香港」へとスムーズに変化し、中国が民主的になってグローバル資本主義システムに組み込まれれば、侵略的な行動は起こさずに、北東アジアの現状維持で満足すると信じている。
   もし、この政策が成功すれば、アメリカは経済的に豊かで民主的になった中国と協力して、世界中に平和を推進することが出来ると言うのである。
   しかし、こうした関与政策が失敗するのは確実である。
   もし、中国が世界経済のリーダーになれば、その経済力を軍事力に移行させ、北東アジアの支配に乗り出してくるのは確実であるからである。
   中国が民主的で世界経済に深く組み込まれているかどうかとか、独裁制で世界経済から孤立しているかどうかとかは重要な問題ではなく、どの国家にとっても、自国の存続を最も確実にするのは、覇権国になることだからである。
   勿論、周辺諸国やアメリカは黙って見過ごすわけではなく、反中国の「バランシング同盟」を結成し、中国を封じ込めようとするので、その結果、前代未聞の大陸間戦争を予感させるような、中国と反中国連盟諸国の間の安全保障/軍事面での激しい競争が起ころう。
   要するに、中国の国力の増加によって、アメリカと中国は、敵同士となる運命を避けられない。
   これが、著者の想定する米中関係である。

   更に、著者は、中国は、北東アジアの覇権を目指すのは間違いなく、周辺諸国があえて中国に挑戦しようと言う気を起こさせない程強力な軍事力を築き、日本や韓国など周辺諸国を支配しようとすることが予測され、中国が、アメリカの外交指針となった「モンロードクトリン」のような、独立相互不干渉の対外政策を発展させることも予想され、中国もアメリカのアジア干渉を許さなくなるであろうと言う。
   著者が恐れているのは、ワイマール・ドイツも、ナチスも、ソ連さえも、アメリカに対抗できる「軍事的潜在力」を持っていなかったが、もし、中国が巨大な香港になれば、恐らく、アメリカの4倍の軍事的潜在力を保有することとなり、アメリカが20世紀に直面したどの国よりも、はるかに強力で危険な「潜在的覇権国になるかも知れないと言うことである。

   更に興味深い見解は、これを阻止するためには、中国の経済成長のスピードを遅くさせることで、この政策がアメリカの利益になる筈にも拘わらず、むしろ、アメリカは、中国を封じ込めるのではなくて、「もし中国が民主的に経済成長すれば、安定を求める現状維持国になり、アメリカと軍事競争しなくなる」と言うリベラル派の思想が反映されて、アメリカの外交は、関与政策を推進して、中国を世界経済に取り込んで、益々、急速な経済成長を促進させているが、このような対中政策は間違っていると言うのである。

   豊かになった中国は、「現状維持国」ではなく、地域覇権を狙う「侵略的な国」になる。
   どの国にとっても、自国の生き残りを最大限に確保するために最も良い方法は、地域覇権国になることであり、中国の狙うのは、北東アジアでの覇権国になることであり、これは、アメリカにとって最も起こって欲しくないことである。
   しかし、もう、既に、時は、遅しだと言う。

   トーマス・フリードマンが、「マクドナルドのある国同士は戦争を行わない」論を、更に、フラット化した世界では、デル・システムのようなジャスト・イン・タイム式サプライ・チェーンで密接に結合された国々の間では、旧来の脅威を駆逐(?)するので戦争など起こらないと言う「デルの紛争回避論」を展開し、マクドナルドに象徴される生活水準の全般的傾向よりも、ずっと地政学的な冒険主義を防止する効果があると説いていたが、
   ミアシャイマーにとっては、経済やビジネス関係の連鎖など、平和維持には何の関係もなく、とにかく、経済大国となれば、必ず、軍事力を強化して覇権を狙う危険な国になるとする見解で、攻撃的現実主義論は、びくともしない。

   私見としては、アメリカのリベラル派の見解が現実であれば良いとは思っているが、中国に関しては、私は、ミアシャイマーの見解を立証するような昨今の中国の動きを見ておれば、そして、強烈な中華思想の国であることを考えれば、今や、自信過剰になった中国が、軍事力の更なる強化と覇権追求政策を益々強化させ進行させて行くのは間違いないと感じている。
   少なくとも、尖閣諸島や南沙諸島での領土紛争、あくなき経済的支配を目指した新興国や発展途上国への資源外交、対米対韓防波堤としての北への保護政策等々、いくらでも、中国の覇権国家への道標は見え隠れしていて明確であろう。

   カウンターベイリング・パワーは、著者の言うアメリカを中心とした反中国バランシング同盟の構築と更なる強化だと思うので、日本の対中外交政策も、このあたりの現実主義的な対応が望まれよう。
   経済的には、中国依存からの脱却と言った消極的な政策ではなくて、中国をOne of themと見做して、インドやインドネシアなどアジア諸国全体との多方面戦略を強化展開すべきであろうと思う。
   中国が、経済大国だと言えども、現状では、経済規模は日本なみであり、一人当たり国民所得は日本の10分の1と言う、発展途上国であると考えるなら、日本人が一般的に考えるほど恐れるべきではないと思うのだが、
   とにかく、有効な包囲網を構築して、中国パワーを封じ込める以外に、対抗策はないであろう。

   私は、これまで、何回か、ビジネス上で、必ず起こり得る中国のカントリーリスクについて警告を発してきたが、民主主義国家体制ではないばかりか、国民自身も、グローバルスタンダードに民主化されておらず、共産党が法であり総てであるような一党独裁体制の国では、先進文化国で常識として通用している民主主義や市場主体の自由主義経済のグローバル・システムなりルールが、殆ど機能していないと言うことを忘れるべきではないと思っている。

      
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