「平家物語」の重要な登場人物の一人は、御曹司源義経であろう。
源平盛衰記など文献も多く残っていて、判官贔屓というか日本人の心の琴線に触れてファンも多くて、能や歌舞伎など古典芸能の格好の主役である。
ところが、私自身は、平家贔屓と言うこともあるが、義経を好きにはなれない。
その最大の理由は、平家の滅亡を招いた壇ノ浦の戦いで、禁じ手を使って平家軍を追い詰めたという記憶が強烈に残っているからである。
ここの部分を、杉本本をそのまま引用すると、
・・・重能につづいて四国九州の軍勢も皆平家に背いた。源氏の兵どもは次々と平家の船に乗り移り、水夫楫取を射殺し斬り殺したために、船の向きもままならず、平家水軍の統率は崩れ去った。元来、傭用人にすぎない水夫楫取は殺さぬのが船のいくさの約束事だったのに、源氏は、これをふみにじった。
もう一つ、気付かなかったのだが、著者は、「三草合戦」で、平家の夜討ちの描写で、次のように述べている。
大松明で小野原の在家に火をかけて、「野にも山にも、草にも木にも、火をつけたれば、(漆黒の闇が、)昼にも劣らずして、3里の山を越え行きけり」・・・不意の夜討ちに平家は敗走・・・
義経というもののふは、放火を常習としていたと見える。放火された在家すなわち民家の人々は、住む家も家財もたちまちのうちになくして、にげまどうばかり。もののふは平然とこれを眺めて打過ぎる。私はこの小野原の在家の難一つのことで義経に好意を抱きかねる。あるいは多少の好意も風になびく不二の煙の如く消え失せる思いを味わう。
さて、「平家物語」の屋島の合戦の「那須与一」に続いて、「弓流」がある。
船中の平家の侍が、義経の弓に熊手を引っかけたので、弓が波の上に落ちたのを、義経が「うつぶして、鞭を持って掻き寄せて、取ろう取ろうと」したのを、老武者が苦り切って、義経の命の方が大切で弓をそのまま捨てよと苦言を呈したのだが、銕仙会 能楽事典「屋島」を引用させて貰うと、
「しかし私が弓を取り戻したのは、断じて物惜しみではないのだ。未だ名を挙げること道半ば、私のこの小さな弓を敵に拾われては、義経は小兵に過ぎぬと侮られるだろう。取り戻すために討たれたのなら、それは運命というもの。死をも恐れぬこの私が弓一つに拘るのは、末代までの名誉のため。惜しむべきは名誉、惜しまぬものは命なのだ――」。
兼房たちに切々と諭した、義経の思い。そして今また、彼はその信念を語るのだった。
さて、この義経の振る舞いをどう見るかだが、私には、「背低く、反っ歯で色白の」短気で梶原景時と絶えず啀み合う義経像しか見えてこないので、何故、能「屋島」が、名曲なのかは分からないのである。
安野光雅画伯の繪を拝借すると、
尤も、これらに対する反論もあるのも当然で、真偽の問題は不問として、あくまで、私自身の全く個人的な義経論であって、争うつもりはない。
義経の登場する古典芸能は、
能には、「安宅」「船弁慶」「橋弁慶」「屋島」「烏帽子折」「鞍馬天狗」
歌舞伎・文楽には、「義経千本桜」「一谷嫩軍記」「勧進帳」
これらは、皆、舞台で鑑賞しているが、シテというか義経が主役の曲なり演目は、弓流しをテーマにした「屋島」くらいであるのが面白い。
義経を好き嫌いに関係なく、歴史上の義経ではなくて、登場人物の一人として見ている感じで、殆ど違和感はない。
義経を頼朝に讒訴して貶めたとして嫌われ気味の梶原景時が、「梶原平三誉石切」では、素晴らしい侍として登場して、白鷗や吉右衛門の名演が観客を魅了してやまないのと同じ事だと思っている。
そうでないと、同じ安宅の関を突破しての逃避行の能「安宅」と歌舞伎や文楽の「勧進帳」の奥深さを感じることができないはずである。
源平盛衰記など文献も多く残っていて、判官贔屓というか日本人の心の琴線に触れてファンも多くて、能や歌舞伎など古典芸能の格好の主役である。
ところが、私自身は、平家贔屓と言うこともあるが、義経を好きにはなれない。
その最大の理由は、平家の滅亡を招いた壇ノ浦の戦いで、禁じ手を使って平家軍を追い詰めたという記憶が強烈に残っているからである。
ここの部分を、杉本本をそのまま引用すると、
・・・重能につづいて四国九州の軍勢も皆平家に背いた。源氏の兵どもは次々と平家の船に乗り移り、水夫楫取を射殺し斬り殺したために、船の向きもままならず、平家水軍の統率は崩れ去った。元来、傭用人にすぎない水夫楫取は殺さぬのが船のいくさの約束事だったのに、源氏は、これをふみにじった。
もう一つ、気付かなかったのだが、著者は、「三草合戦」で、平家の夜討ちの描写で、次のように述べている。
大松明で小野原の在家に火をかけて、「野にも山にも、草にも木にも、火をつけたれば、(漆黒の闇が、)昼にも劣らずして、3里の山を越え行きけり」・・・不意の夜討ちに平家は敗走・・・
義経というもののふは、放火を常習としていたと見える。放火された在家すなわち民家の人々は、住む家も家財もたちまちのうちになくして、にげまどうばかり。もののふは平然とこれを眺めて打過ぎる。私はこの小野原の在家の難一つのことで義経に好意を抱きかねる。あるいは多少の好意も風になびく不二の煙の如く消え失せる思いを味わう。
さて、「平家物語」の屋島の合戦の「那須与一」に続いて、「弓流」がある。
船中の平家の侍が、義経の弓に熊手を引っかけたので、弓が波の上に落ちたのを、義経が「うつぶして、鞭を持って掻き寄せて、取ろう取ろうと」したのを、老武者が苦り切って、義経の命の方が大切で弓をそのまま捨てよと苦言を呈したのだが、銕仙会 能楽事典「屋島」を引用させて貰うと、
「しかし私が弓を取り戻したのは、断じて物惜しみではないのだ。未だ名を挙げること道半ば、私のこの小さな弓を敵に拾われては、義経は小兵に過ぎぬと侮られるだろう。取り戻すために討たれたのなら、それは運命というもの。死をも恐れぬこの私が弓一つに拘るのは、末代までの名誉のため。惜しむべきは名誉、惜しまぬものは命なのだ――」。
兼房たちに切々と諭した、義経の思い。そして今また、彼はその信念を語るのだった。
さて、この義経の振る舞いをどう見るかだが、私には、「背低く、反っ歯で色白の」短気で梶原景時と絶えず啀み合う義経像しか見えてこないので、何故、能「屋島」が、名曲なのかは分からないのである。
安野光雅画伯の繪を拝借すると、
尤も、これらに対する反論もあるのも当然で、真偽の問題は不問として、あくまで、私自身の全く個人的な義経論であって、争うつもりはない。
義経の登場する古典芸能は、
能には、「安宅」「船弁慶」「橋弁慶」「屋島」「烏帽子折」「鞍馬天狗」
歌舞伎・文楽には、「義経千本桜」「一谷嫩軍記」「勧進帳」
これらは、皆、舞台で鑑賞しているが、シテというか義経が主役の曲なり演目は、弓流しをテーマにした「屋島」くらいであるのが面白い。
義経を好き嫌いに関係なく、歴史上の義経ではなくて、登場人物の一人として見ている感じで、殆ど違和感はない。
義経を頼朝に讒訴して貶めたとして嫌われ気味の梶原景時が、「梶原平三誉石切」では、素晴らしい侍として登場して、白鷗や吉右衛門の名演が観客を魅了してやまないのと同じ事だと思っている。
そうでないと、同じ安宅の関を突破しての逃避行の能「安宅」と歌舞伎や文楽の「勧進帳」の奥深さを感じることができないはずである。