熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ダニエル・ラク著「インド特急便!」

2009年08月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   今や、眠れる獅子であった中国が大躍進を遂げて、超大国アメリカと並ぶG2に躍り出て、世界地図を完全に塗り替えてしまったが、
   同じく、イギリスに搾取に搾取を重ねられて、独立はしたものの成長から見放されて停滞していたインドが、最先端のIT産業のリーダーとして飛躍的な快進撃を遂げ、次代の経済大国への道をひた走り始めている。
   この変貌著しい現代インドの夢と現実を、ドキュメンタリー・タッチで、鮮やかに描き切ったのが、本書ダニエル・ラク著「インド特急便!」で、翻訳本でも400ページ以上もボリュームのある大著だが、これほど鮮やかにインドを活写した本には、お目にかかったことはない。

   路上に古びたレンガを両側に積み上げ、厚手の板を渡して、その板の上に屈み込んで、旧式アイロンを使ってアイロンがけを生業としている貧しい職人ラームさんが、客から借りた50ドルと一心不乱に働いて貯めたお金を基にして、血の滲む様な苦労の末に二人の子供をソフトウエア・エンジニアに育て上げた話から、この本は始まっているのだが、
   イギリスBBCの特派員として、インド、ネパール、パキスタンで20年近い取材経験を積み重ねたカナダ人ジャーナリストであるから、ジャーナリスティックな描写のみならず、大英帝国や先進国の視点からの文化・文明的な歴史展望を加味した現代インドレポートを展開しており、非常に示唆に富んでいる。

   インド経済躍進の旗頭でありIT産業の雄であるバンガロールのインフォシスの超近代空間と、それに隣接する地獄のようなスラム空間を同時に描くことから始めて、
   強烈な格差とコントラストを示す明と暗が同居するインドの多様さ複雑さが、如何にインドを運命付けているかを、経済社会、政治、宗教、教育、外交等々多岐に亘って問題点を掘り下げて、歴史的、文明論的に分析している。
   その為か、インドの明るい未来を展望しながら、その将来について、欧米人からの発想で、インドが、「アジアのアメリカ」としてリベラルな超大国となるであろうと予見している。
   リベラルとはどう言う意味なのか不明であるが、自由主義的な民主主義社会を意味すると考えるなら、インドが、独立後長い間社会主義政策を取っていたとは言え、イギリス型の制度を継承して来た民主主義国家であり、未来の大国候補の中国やロシアが、そのような国にはなり得ないことを考えれば、このまま経済成長を持続して行けば、世界最大の民主主義の超大国となることは、間違いなかろう。

   ところで、私が、この本を読んでいて、興味を感じた点が幾つかあったので、これらについて、少しコメントしてみたい。

   インドの独立の立役者は、なんと言っても、マハトマ・ガンジーとジャワハルラル・ネルーだが、ネルーは、ロシア型の共産主義体制を敷いて国家主導型の経済モデルを推進した。
   インドの近代化にとって、この方針が良かったかどうかは、いまだに議論が絶えないところだが、ネルーは、筋金入りの合理主義者で、自然は科学の力で活用し管理すべきで、人類の利益に役立てるべきだと確信していた。
   ネルーは、ダムを「近代科学の聖堂」と考えていたようで、1950年代に、ネルーのビジョンに従って、ガンジス川以北、カルカッタ以西の水域に一連のダムが建設された。このエンバンクメント(堤防)工事により、300万人の住民が何の補償も手当てもなく放逐されたのみならず、洪水や氾濫で水系一帯を無茶苦茶にしてしまって、いまだに立ち直れない後遺症を残していると言う。

   一方、不正に対する良心に立脚した非暴力主義を押し通したガンジーは、自由への闘争のその先を見据えて、村の暮らしと地域に密着した農業の力に、目を向ける社会を実現しようと考えていたと言い、この本では、この精神を引き継いで、貧困と地方の開発のために活躍する指導者たちを描いている。
   これは、プラハラードのBOPの最底辺からの真のイノベーションを彷彿とさせるのだが、農民たちの生活を改善し農業生産力に貢献しているNGOが、完全有機栽培を目指して大々的なミミズ養殖作戦を展開して、世界の食料生産革命を起こそうとしている。
   タタ・モーターズの20万円の小型自動車もそうだが、私は、これからの産業イノベーションの相当多くは、ロー・エンドの破壊的イノベーションの形で、大地に根差し自然との共生を目指すインドで起こってくるような気がしている。

   IT技術者を輩出し、世界最高峰と賞賛されているITTだが、この創立は科学万能主義者(?)のネルーの功績である。
   面白いのは、ラクが、古代の最高学府であった仏教の聖地ナーランダー寺院を、古代のITTだとしていることである。
   ヒンズー教徒のインド人は、仏教は外国人が信仰し実践する宗教で、自分たちには縁のない宗教だと考えているようだが、ラクは、当時世界中から俊英を集めて隆盛を極めていた宗教と学問の聖地ナーランダーを訪れて、インドにおける釈迦や仏教の位置づけを試みていて興味深い。

   ヒンズー教については、インド人の熱心な信仰心やカースト制度の深刻さなど宗教世界を克明に描いているが、パンカジュ・ミシュラの説を引用して、元々ヒンズー教等存在せず、一群の神々の多彩なイメージを集合した超自然的な存在を信じる生成過程にある比較的最近に始まった宗教だとしている。
   万物を貫く力(神)であるブラフマンと自己であるアートマンが一体であり、神は自己の中にあり、聖性の本質は人間たち自身の身の内に見出され、創造や破壊の力を持つ何か超自然的なものではなく、至る所に神が存在するのだと言う。
   キリスト教やユダヤ教、イスラム教と言った一神教との対極にあり、我々日本人の思想感情に近い。

   ところで聖なるガンジスの町バナラシ(ベナレス)で、敬虔なヒンズー教徒たちは、聖なるガンジス川で清めの沐浴の儀式を行うのだが、この川、悪臭が満ちて淀み、黒く濁流と化した公害の極地とも言うべき状態で、この聖なる水が一滴たりとも口に入れば死にかねないと信者たちが言っているのを紹介している。
   ガンジス川に対する敬意を失い、聖典を無視して汚し放題に汚して、それでいて、聖なる下水と化したこの毒の中で沐浴して、罪からお救いくださいと神に祈っている。それが今日のヒンズー教の姿なのです、と、敬虔な信者代表が吐露しているのである。

   我々の前にある多くのインド関係本は、BRIC’sの雄であるインドの輝かしい経済成長と、その躍進、限りなき未来の栄光を語っているものが大半だが、人間が生きると言うことはどう言うことなのか、原点に戻って、これほど、インドの限りなきバイタリティと苦渋に満ちた柵と言うか、インドの明と暗を浮き彫りにした本はないと思う。
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本を読まない日本の大人、特に四国人

2009年08月28日 | 政治・経済・社会
   今日、日経のセミナーで、法政大諏訪康雄教授が、学力低下は子供だけではない・・・として、文化庁の国語に関する世論調査「読書量の地域格差」を示して、日本の大人が、如何に本を読まないかを示した。
   月に一冊も本を読まない大人が、全国平均38%もいて、四国は最悪でダントツに悪く、60%もの人が本とは全く縁がないと言うのである。
   仕事や生活によって本と関わりのある人がかなりいるであろうから、極論すれば、四国の普通の人は、平生は本など全く読まないと言うことであろう。

   ところで、読んでも、どんな種類や類の本かは聞いていないので、まともな(?)本に対峙して、知性教養を高めるなどと言った人は、どのくらいいるのか、お寒い限りだとしか言いようがない。
   ブックオフが、20円で古書を買い取って、50倍の値を付けて1000円で売っているのに、それほど儲かっていないのも、故なしとしない。
   東京の地下鉄では、携帯や漫画の客が多いが、本を読んでいる人も結構いるので、流石に関東圏は、読まない人の比率は29%と健闘しており、40%を切るのは、近畿、中国、中部で、地方に行くほど格差が広がる。
   経済的な地域格差の問題が喧しいが、読書が文化の水準なり民度を示しているとするなら、至極当然だと極論する政治家もいるかも知れない。

   大人が、このような体たらくで、子供の学力が落ちるなどと言えた義理ではなかろうと先生はコメントしていたが、
   日本人の本離れは、かなり深刻で、インターネットの普及によるeブックや携帯小説などの普及による紙媒体離れだけではなく、本そのものが、本質的に、人々の日常生活から遠ざかりつつあるのであろう。

   ところで、私の学生時代には、まだ、蔵書何千冊と言ったように、蔵書することに、ある種の憧れを持っていた。
   古書なども結構高くて、京大でも、テキストが買えなかった同級生がいたし、専門書などは非常に貴重であった。(尤も、授業など出なくても単位が取れていたので、これは、勉強したかった同級生の話)

   しかし、その私自身も、親元を離れた時に、それ以前の本は殆ど処分してしまったし、さらに、国内はもとより、海外でも10回以上も宿替えしたのだから、その都度、膨大な本を捨てて来てしまっている。
   それに、専攻が、経済と経営なので、どうしても賞味期限の短い本が多い所為か、保存に耐えないのである。
   MBAを取ってフィラデルフィアから帰る時、将来のためにと思って、経済、経営、法律と言った専門書籍を随分買って帰ったが、その後の時代の潮流と経済社会の激変によって役に立たなくなって、殆ど処分してしまっている。
   英書なので、古書回収に回しちり紙になった筈である。

   蔵書には拘らなくなったが、読書の方は、毎日、相変わらず馬車馬のように本と格闘し続けているので、本はどんどん増えて行く。
   私の場合は、読書が止まる時は、あの世行きだと思っている。

   そんな私を見ている所為か、9歳の孫が本が好きで、本屋に連れて行くと本屋から中々離れない。
   嬉しいことに、自分で本を選んできて買ってくれと言うのだが、その選択に殆ど間違いがない。
   自分で読みたい本を自分で選ぶようになれれば、もう一人前だと思っている。
   今や、本でなくてもいくらでも勉強する方法なり手段があると言う人がいるが、本ほど知的喜びを刺激し啓発してくれるものはないと、私は思っている。

   ところで、本題に戻るが、父親の背中を見て子供は育つと言われているが、親が本を読まなくなり家庭での知的環境が消えて行くと、子供の教育にも影響してくる筈である。
   このブログで、随分、教育のことについて書いて来たが、日本人の殆どは、世界的にも日本人の教育水準が高いと思っているが、実際に欧米で生活していて、教育システムの欠陥もあるが、国際ビジネスマン平均で考えても、特に、トップ・エリート(?)など互角になど戦えないと思えるほど低いのである。
   この点は、小林陽太郎氏の「リベラル・アーツ教育」必須論に通じるのだが、一事が万事で、その日本人の海外留学がどんどん先細っていて、世界最高水準の知との遭遇や切磋琢磨のチャンスから阻害されつつあると言う。

   時代を背負う世界のトップ・エリートや指導者たちと互角に渡り合えるような若者を育てて行かなければ、明日の日本はあまりも暗い。
   日本の経済的な凋落は、目に見えてドラスティックに進行しているが、日本の子供たちの学力水準が落ちているように、日本の文化度なり民度も、下方傾向にあることを、もう少し、日本人も危機として知るべきであると思う。
   本さえ読まなくなってしまった日本人には、分からないのかも知れないと思うと、一寸寂しくなる。

   総選挙で、日本人は右往左往しているが、今日本が抱えているこの深刻な問題も、謂わば、本を読まなくなった日本人の民度の低下に関わりがあると言うことなのである。
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グーグル的思考雑感・・・異業種格闘技の時代

2009年08月27日 | 経営・ビジネス
   先日、日経ベンチャーの主催で、「大不況を乗り切る「100年に一度」の大改革」と題するセミナーがあり聴講したのだが、正に、少し前にブック・レビューしたジャフ・ジャービスの「グーグル的思考」をテーマにしたような講演続きで興味深かった。

   特に、グーグルの岩村水樹執行役員が、「販売を変え、経営を一大変革させる最強のWebマーケティングとは」と題して、グーグルを使って宣伝しようと、Google アドワーズを中心に、グーグルの宣伝広告戦略の概要を説明したので、ジャービスの展開しているグーグル的思考が、よりビビッドになり、面白かった。
   時間的な余裕がなくて中座して、グーグル広告によるROIなどの経済的効果などの説明を聞けなかったのだが、とにかく、今まで大資本にしか縁のなかった宣伝広告を、中小企業など埒外にあった弱者をプレイヤーに取り込んだ、WebやYouTubeによる驚異的な広告のロングテール革命の実態を、間近に聞くと、デジタル社会の現実が浮かび上がってくる。

   グーグルで検索すれば、そのページの右肩にGoogleアドワーズの検索連動型広告が現れるが、これを買って「スポンサーリンク」に載せれば、顧客は興味を持って調べようと検索した項目であるから、クリックする可能性は非常に高い。
   クリックすれば、広告主のホームページにジャンプするので、広告効果は抜群である。
   クリックした時のみ課金を払えばよいので、ほんの数万円の予算で、顧客を掴み成功している中小企業が多いと言う。

   ユーチューブなど、顧客の書き込みですぐレスポンス出来るので顧客とコミュニケーションが可能である。
   駐車場の一台のスペースが空いたら、トヨタの小型車二台が、即座にミズスマシのように駐車する動画を見た顧客が、どうして出るのかとコメントを書き込んだら、すぐに、トヨタは、そこから退出する小型車の動画を掲載して回答した・・・そんな、場面を見せながら、岩村さんは、如何に、グーグルが、顧客との密接なコミュニケーションを伴ったクイック・レスポンスの価値ある広告媒体かを説明していた。

   早大内田和茂教授は、いつもの様に、携帯電話のために渋谷ハチ公前での待ち合わせが急激に減ったと言った話から、インターネットや携帯電話の普及によって、消費者が情報武装したために、ビジネスの世界が完全に変わってしまったと説きながら、全く異業種の企業からの新規参入などで挑戦を受ける異業種格闘技の時代の経営のあり方を語った。
   デジタル革命によって、消費者・顧客が変化し、企業が変化し、これに呼応して市場が変化してしまって、企業を取り巻く事業環境が根本的に様変わりしてしまったので、過去の栄光や遺産にしがみつき、これまでのルールから脱却できない企業は、最早生きて行けないと言う。

   トランジスターで、ドミナントな真空管企業を凌駕したソニーが、フラットなブラウン管TVベガの成功故に、プラズマや液晶の薄型TVで遅れを取って負けてしまったと言った卑近な例などから、イノベーションの波に乗れなかった企業の浮沈話を語り、全く畑違いの異業種市場を次々と征服していくアップルの戦略を例証するなど、実際のケースの話が面白い。
   スライウォツキーなら、ダブルベッディング戦略の失敗と説くのであろうし、クリステンセンなら破壊的イノベーションでの敗北と言うのかも知れないが、とにかく、時代の潮流、技術や社会の変化に乗れない企業はどんどん脱落して行く。それも、また、急速である。
   デジタル革命によって生まれたインターネットや携帯電話によるICT革命の破壊力が、途轍もなく巨大であったが故に、ビジネスのルール、ビジネス・モデルを完全に変えてしまったと言うことであろう。

   ところで、グーグル的思考のジャービスが、内田教授の先を行くのは、企業が成功するためには、消費者に主導権を与えるビジネス・モデルを構築して事業を行えとして、更に事業を一歩先に進めていることである。
   グーグルを見れば分かる。ユーチューブ、グーグルマップ、グーグルサーチなどプラットフォームさえ用意して顧客に開放すれば、顧客が総てをやってくれ、益々事業が拡大して行くのである。
   更に、このことは、本来なら企業内部にブラックボックス化して秘密裏に温存していた筈のノウハウや知財、特殊技術・デザインなどをオープンにして、外部パワーを積極的に取り込んでイノベーションを追求しようとする巨大企業のオープンビジネスモデルの成功と隆盛を考えれば良く分かる。
   
   私は、日本企業の国際競争力が落ちて、経済成長が止まってしまっているのは、日本人の頭が固くなってしまって、このデジタル革命に付いて行けず、インターネットや携帯電話などのICT技術の粋を、ビジネスに有効に取り入れて活用できないところに大きな原因があるような気がして仕方がない。
   真の意味で、ICT革命の波に乗れない。いや、グーグル的思考、発想が、全く出来ないと言うことにあるのかもしれない。
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総選挙の争点・・・生活重視か経済成長か?

2009年08月26日 | 政治・経済・社会
   オバマ大統領が、FRBのバーナンキ議長の再任を発表して、アメリカ市場に安心感が漂っている。
   欧米ともに、経済回復の兆しが見え始めていると言うメディアの報道が優勢になって来ているが、本当に、そんなに簡単に大恐慌寸前まで言った経済が蘇るのであろうか。

   今、スティーブン・グリーンハウスの「大搾取! The Big Squeeze Tough Times for the American Worker」を読み始めているが、貧富などの社会格差の異常な拡大のみならず、アメリカの労働者の奴隷地獄と言うべき現在版蟹工船の実情が克明に描かれており、グローバル資本主義の進展によって、如何に一般庶民が窮地に追い込まれており、アメリカの公序良俗が崩壊しつつあるか、人類が目も当てられないような歴史の後退に直面していることを描いている。
   アメリカの資本主義、そして、アメリカの誇る民主主義が、箍が緩んで根元から揺るぎ始めている現実をどう説明するのか、国民経済の趨勢を総てマクロ的な経済指標で論じる危険は極めて大きい。
   たとえ、GDP成長率がプラスに転じても、これまでアメリカの経済力を支えて来た経済社会構造は完全に変質してしまっており、ドル崩壊の心配はもとより、アメリカ経済は根底から弱体化している筈である。

   さて、日本の総選挙だが、民主党は、民生の立ち直りが先で国民の可処分所得のアップによる内需の拡大が必須だと説き、自民党は、パイを大きくすることが先で成長戦略なきマニフェストはナンセンスだと説き続けている。
   まず、議論の前に、はっきり認識すべきは、バブル崩壊以降の日本経済をどう解釈すべきかと言うことだが、途中にいざなぎ景気以上の景気上昇が長く続いた時期があったと言われているけれど、これなどはGDP指標が若干プラスになっただけで、私は、この20年近くは、GDP500兆円を上下しただけで、完全に経済不況局面の連続で経済成長などなかったと思っている。
   特に、アメリカの再生や、BRIC’sの台頭などグローバル経済の快進撃による世界同時好況が続いていた局面であるから、日本の経済的地位低下と没落は際立っている。

   それに、追い討ちをかけて、世界的経済恐慌(?)の直撃に会っているのであるから、現下の日本経済は、正に、深刻な状態にある。
   マクロ的な不況が、ミクロ経済に深刻な打撃を与えて来た結果、企業業績の悪化はもとより、国民生活自体が、危機的な状態にまで悪化してしまっている。
   中谷教授の「資本主義はなぜ自壊したのか」で克明に説かれているが、OECDレポートによると、日本は、この20年間に貧困層が異常な拡大を示して、2005年の再分配後の貧困率は、アメリカに次いで、世界ワースト2と言う体たらくで、さらに、ジニ係数の悪化も深刻で、貧富による社会格差は拡大の一途を辿っていると言う。
   シングル・マザー世帯などの生活困窮層の格差は世界最悪となっており、早い話、年収200万円以下の労働者が1000万人もいると言う日本経済の現実を、どう直視するのか。世界一の経済大国であったはずの日本の国家経済が、一挙に壊滅的な状態に陥ってしまったとしか思えない惨状である。

   経済格差の深刻さについては、自民党も認識しているので、行き過ぎた市場原理主義から決別すると表明せざるを得なくなったのだが、日本が「貧困大国」として由々しき状態にあることは、野党が厳しく糾弾しているとおりの厳粛なる事実であるので、民主党の主張するごとく早急に対処するべきであろう。
   子供手当ての支給は、シングル・マザー世帯や、経済的困窮によって子供の教育費に困っている貧困家庭などへの強力なサポートとなり、幾ばくかのジニ係数の改善にプラスとなろう。
   いずれにしろ、ワースト2の貧困大国と言われるまで悪化した経済格差の拡大は極めて深刻で、このまま放置しておくと、日本の健全な国民生活を根底から蝕み公序良俗が廃れるのみならず社会の崩壊に繋がって行く危険さえある。
   したがって、今回の総選挙の最大の争点が、日本の福祉経済政策の充実であるべきは論を待たないと言えよう。

   しかしながら、民主党の主張する子供手当てや高速道路無料化などによる可処分所得増大政策は、それほど、内需拡大に貢献するとは考えられないし、まして、効果的かつ自律的な経済成長要因にはなり得ない。
   経済格差の縮小や、更なる安心・安全社会を構築するためには、いくらムダを省いて財源を捻出するとしても、経済成長による原資がなければ、北欧やヨーロッパの福祉社会国家のように、極論すれば、所得の70%を税として徴収しないと実現不可能ではなかろうか。

   この失われた20年の間、日本経済は、殆どゼロ成長で推移し、完全に疲弊してしまっているので、経済的にも十分な余裕がなく、今の現状では、民主党の内需拡大政策は、効果と同時に、経済社会に大きく無理と歪を生み出し、意図した結果が生まれ出るかどうかは疑問でさえある。
   高速道路料金1000円の実施でさえも、一部の運輸交通や小売業などの産業活動に打撃を与えていることからも分かることである。

   したがって、前に、このブログで論じた如く、民主党のマニフェストに成長戦略が全くないことに疑問を呈したが、現在日本が抱えている深刻な経済社会問題を解決するためには、経済成長が必須であり、経済成長によってパイを大きくしない限り、日本経済社会の発展は望み得ないと思っている。
   今のままの脆弱な貧困経済では、貧しいパイの分け合いにしか過ぎず、経済成長なくして福祉向上なし、と言う視点は、絶対に外せない経済政策である。

   民主党の唯一の成長戦略である地球温暖化対策によって新産業を育成する政策だが、今日のニューヨーク・タイムズに、中国がアメリカを凌駕すべく、米国で生産中のソーラー・パネルを値下げして攻勢に出たと言う記事が載っていたが、何でも一挙に攻撃に出てブレイクスルーを図る中国やアメリカに対抗するためには、生半可な対応では負けてしまう。
   
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トマト栽培日記・・・(19)イタリアン・トマトは料理向き

2009年08月24日 | トマト栽培日記
   この口絵写真のトマトは、千葉九十九里浜で生まれた接木苗を植えて育てたもので、ちょっとピンクがかった色をした綺麗な大玉トマトで、少し甘くて、正に日本の典型的なトマトである。
   おいしい実を多く収穫できる穂木と、根の張りがよく病気に強い台木を接木しており、両方の良さを継承したトマトだと言う。
   なぜか、バートランド・ラッセルだと記憶しているが、若い美人女優から「貴方のような頭の良い、私のような美しい子供を生みたい」と求婚されてたらしいが、「貴方のように馬鹿で、私のような貧弱な子供が生まれる」と言って断ったと言う話を思い出したのだが、自然界では、良質の優性遺伝や、質の継承は、結構難しいらしい。
   プランター植えで、普通に育てたので、10個くらいの大玉トマトの収穫に終わりそうだが、綺麗な美味しいトマトだったので満足している。

   今、私のプランター植えトマトの最盛期は、イタリアン・トマトだが、やはり、料理に向いているのか、家内がテキストを参考に工夫して、加熱して料理に添えたり、シチューやスープ、それに、ジャムなどを作ったりしているが、これが、結構いけるのである。
   生で食べるには、甘くもすっぱくもなく非常に淡白な味なのだが、これが幸いするのか、熱を加えると甘くなり、とにかく、トマトのオンパレードでも飽きないし、それに、胃にかるくて助かる。
   トマトは、日本人である私には、生食と言うのが習慣であったので、欧米生活に入った時には、トマト料理に多少違和感を感じていたのだが、自分で育ててみて、トマトの食べ方が分かったような気がしている。
   
   さて、カネコの一連のスィート・トマトであるが、プランター植えでの本来の目安である7番花房程度までの収穫が終わったのだが、木が元気なので、廃却するのもかわいそうで忍びないと思ってそのまま放置して、適当に肥料を施し水やりを続けている。
   ところが、本来の枝の先や脇芽が伸びて花を付け、2~3段上まで、多少貧弱になってはいるが、実をつけて色づき始めている。
   5番花房下で苗木を過って折り、その穂を挿し木していた苗も、普通のトマト苗に育って収穫が出来ている。
   荒野と言うべきか太陽の照りつけるアンデス高地に生まれたトマトは、実に生命力の旺盛な植物なのである。

   一方、日当たりが悪くて貧弱に育っていたサカタのアイコだが、先に行けば行くほど元気になって、庭木を這い上がり、5メートルくらいは伸びたであろうか、先端で花を咲かせて実を結んでいる。
   これまで、トマト苗をテキストなどを参考にして慎重に育て、適当に収穫をしてトマトをそれなりに楽しんで来たので、今では、残りのトマトの木を、枯葉や枯れ枝を適当に処分し、肥料と水遣りは欠かさないけれども、勉強のために、自然に育てて見ようと思っている。

   ボリビアなどアンデス地域を旅していた頃には、そこがトマトやジャガイモの故郷だとは気づかなかったので、どのような環境でトマトが育っていたのか分からないのだが、真っ青な碧空をバックにアルパカやビクーニアが走り回っていた空気の澄んだ高原を思い出しながら、下葉は枯れながらも、元気に伸びるトマトの姿を見ている。
   
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ブックオフから出版不況が見える?

2009年08月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   数年前、古本を二束三文に買い叩かれて頭に来たのだが、オーバーフローするので、また、性懲りもなく、久しぶりにブックオフに出かけて本を売った。
   今度は、前以上に頭に来たのだが、出版不況と言うか、紙媒体の書籍離れが、この前以上に進んで来ているような気がして、世相の反映を感じて寂しくなった。

   今度は、私の本以外に、娘の本も同時に処分したのだが、買取価格は次のとおりであった。(大半は、ハードカバーの普通の本)
   完全に新本の経営学書  2冊  50円×2 =100円
   綺麗な古書      20冊  20円×20=400円
   普通の古書       3冊  10円×3 = 30円
     計                     530円
   この前のように、買取を拒否された本(その場でゴミ箱行き)はなかったので、一応、店頭に並べる価値ありと見たのであろう。

   ところで、この買取ポリシーから見ると、たとえば、私が一度だけ丁寧に読んだだけの新本に近いような古書が、たとえ、ピーター・ドラッカーや大前研一の経営学書であろうと、オバマ大統領の本であろうと、あるいは、シェイクスピアの戯曲であろうと、ブックオフでは、20円で買い取って、店頭には、税込み定価の半額、すなわち、1000円くらいで売り出すと言うことである。
   売れなければ、100円コーナーに移せば良いだけで、定価の1%程度の買取原価であるから、書棚の肥やしにならない限り損はしない。
  (商店街にある小さな店のポイントよりも悪いと言うか、統計などで言うと誤差範囲の値段であり、昔のちり紙交換のトイレットペーパーに少し色をつけた程度である。)
   山田洋二監督作品「母べえ」の夫・野上滋などは専門書を売って糊口をしのいでいたようだが、今の世では生きて行けない。
   謂わば、仕入原価2%の本を50倍に値付けして売る商売であるから、ブックオフの経営指標が悪いのなら、余程、経営がおかしいのである。

   この前、ブックオフで売ったのは、何年か前で、このブログでも取り上げた(2006.6.18)が、1冊平均50円くらいで買い取っていたように記憶しているので、ブックオフの買い取り価格が、半分以下に下がっていると言うことである。
   余談だが、ポイントも5%か10%あったように記憶するが、今では、TSUTAYAと乗り入れで、1%になったのか、とにかく、ブックオフの販売価格は違わないのに、買い取り価格が、異常にダウンしたことだけは事実である。

   もっと興味深い買取価格のダウンは、完全に新本の場合の値段である。
   その同じ頃に、ブックオフの快進撃に注目して、NHKの経済番組に呼ばれて登場した初代社長(M社から賄賂を貰ったスキャンダルで辞めた)が、新本のように綺麗な本は、本の種類に拘わらず総て定価の10%で買い取るので、誰でも値付けが出来るとシンプルなビジネス・モデルを得意げに説明していた。
   ところが、当時も、私の持って行った経営学書の新本を、何とか理屈をつけて実際に10%では買わなかったし、今では、どんな新本でも最高買取額は150円で、普通は50円くらいだと言うのである。

   念のため、ブックオフのホームページを開いて、買い取り価格を調べても、一切、それに関する記述がなく、ブックオフのオープンでシンプルだった筈のビジネスモデルが、完全に不明朗なブラックボックスに入ってしまったのであろう。
   まあ、ムダにちり紙交換(今は無料の古紙として回収)になるより、リサイクルして廃物利用すると言うエコ・ビジネスだと思えば良く、結構100円本の書棚スペースが拡大しており、またブックオフで売れば10円で買い取ってくれる。これなら、リターンは10%となる。
   
   はっきりしていることは、古書の買い取り価格が、以前より、はるかに下がってしまったと言うことである。
   古書の売値については分からないが、神田神保町では、私の買っている経済や経営や普通の文学書などの新古書(新本が古書扱いで古書店で売っている本)は、大体、定価の60%くらいで殆ど変わっていない。
   しかし、最近、古書店の店頭のワゴンなどに、かなり新しい新古書が、100円~300円くらいで現れることが多くなって来ているので、本離れの加速で書店経営も苦しくなって来たのか、売値も下落傾向にあるのかも知れない。
   
   ところで、本に対する姿勢だが、二人いる私の娘でも、本好きのわたしの影響を受けてかなり本を読んでいるようだが、上の娘は書棚にそれなりの本を並べて保蔵している程度で、下の娘になると本の保存には殆ど興味がなく、私などと比べると、本に対する執着は、どんどん薄れて来ている。
   狭い書斎が益々狭くなり、足の踏み場がなくなってきても、まだ性懲りもなく、新しい本が出るといそいそとし始める自分をもてあましているのだが、これは性分で死ぬまで直らないであろう。

   ところで、ブックオフだが、今では、筆頭株主が大日本印刷で、その子会社の丸善、図書館流通センター、それに、講談社、小学館、集英社などの出版社などが大株主で、これら出版関連大手が30%近い株式を保有している。
   言うならば、ただでさえ出版不況で苦しい業界に、古書安売りで殴りこみをかけて市場を撹乱したのがブックオフであるから、箍を嵌めてコントロールしようと言う意図があるのかも知れない。
   生かさず殺さず、適当にコントロールさえ出来れば、毒にも薬にもなる(?)と言うことであろうか。
   昔、欧米のあるレコード会社が、自社の売れっ子専属ピアニストの売り上げを維持するために、ライバルのピアニストを専属にして、そのピアニストのレコードの出版を抑えて圧殺したと言う話を聞いたことがあるが、経営学で言う垂直統合と言えば聞こえは良いが、実質的には、独禁法違反である。

   まあ穿って考えれば、買取り価格ダウン戦略を取らせて供給をセーブさせブックオフを制御しようとしているのかもしれないが、デジタル革命でインターネット全盛時代ともなれば、紙離れ本離れは必然で、出版業界も書店業界も、そして、とどのつまりは紙や印刷業界も、益々経営が苦しくなって行くだけで、姑息な小手先の対応など全くナンセンスで、執行猶予期間が短くなるだけである。

   趣味・読書と書けると自認する本ファンのつぶやきと言うか、インターネット社会と共存する最後の人間の正直な気持ちでもある。

(追記)写真は、某大書店の経営学書コーナー。ブックオフとは関係ない。
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国のかたちが見えない総選挙

2009年08月22日 | 政治・経済・社会
   先日の日経朝刊に、各党のマニフェストを要約対比した一覧表が載っていた。
   戦後最大の政治的変革期における最も重要な総選挙であると言われながら、驚いたことには、このグローバライズされ名実ともに一体となった地球社会において、日本がどのような位置を占めたいのか、日本の将来像・国のかたちがどうあるべきなのか、わが日本の国家ビジョンが、どの党のマニフェストにも、明確に示されていないのである。

   自民党のマニフェストについては、文章から言えば一番現実的だとは思うが、これまで、実際の政権政党として、殆ど国民の期待に沿えず、不毛な政治を続けて来たのであるから、極論すれば、たとえ中身が何であろうと、実施する意思なり能力のない官僚との共作だと言わないにしても、今回必ず実行されると言う確たる保証があるわけでもなく信頼に値するとも思えないので、圧勝が予想されている民主党のマニフェストについて論じてみたい。

   先日、このブログで、民主党のマニフェストには、日本の将来にとって最も重要な筈の経済成長戦略がないことに苦言を呈したが、
   その他にも、民主党は、政権交代を連呼し、官僚主導政治からの脱却を声高に唱えているが、果たして、政治家を政府機関に100人規模で投入して、何をどのように行政を行うのかさえ明確ではないし、第一、将来の国家ビジョンが定かでなければ、鉄壁の構えで行政を担ってきた官僚体制・官僚機構を切り崩して、それに取って代わって自主的に行政を取り仕切れるなどとすぐには納得できない。 
   
   早い話が、4年前の衆議院選挙は、郵政民営化が争点だったとは言え、小泉自民党が、雪崩現象とも言うべき大勝利を収めたのは、袋小路に入り込んで日本の政治経済社会を、構造改革であろうと何であろうと、とにかく、根本的に変えてくれるであろうと、国民総てが期待したからであった。
   しかし、改革と言う甘い言葉は、弱肉強食とも言うべき(?)市場原理主義の追求であって、益々、経済社会と国民生活を窮地に追い込み、その後を継いだ3人の首相は、なすすべもなく官僚依存の旧体制政治に逆戻りさせたのみならず、世界同時不況の荒波を被ったとは言え、益々、国家財政を悪化させ、国民生活を今日の苦境に至らしめてしまった。
   能書きの問題ではないのである。

   さて、民主党のマニフェストだが、ポイントは次の5つの柱だと言う。
  1 ムダづかい 税金のムダづかいや天下りなどをなくして総国家予算を組み替え
  2 子育て・教育 子供手当てを支給するなど子育て・教育の支援
  3 年金・医療 年金・医療・介護の心配をなくした安心社会
  4 地域主権 活気に満ちた地方社会づくり
  5 雇用・経済 中小企業支援、雇用の確保、地球温暖化新産業創出
   これでは、今、社会で一般に言われている問題点を列挙しただけで、これによって、多少の経済社会の落ち込みは止め得ても、根本的に、日本社会が良くなり、国民の幸せが増して行くなどとは考えられない。

   ここまで、国民の生活が困窮を極めてくると、世界第二位の経済大国の地位から転落しようと、北朝鮮から核攻撃で挑発されようと、とにかく、民生の建て直しが緊急の急務であって、子育て・教育、福祉政策などに集中して、国民の懐を少しでも潤わせて安心を与えたいと言う民主党の主張が分からない訳ではない。

   しかし、国の果たすべき役割としての経済政策に限っても、安心安全志向への所得の分配なり支出の移転が主眼であっても、年収200万円以下の労働者が1000万人を超え、ジニ係数が悪化して貧困層の割合が世界ワーストに近づいた日本の経済を、根本的に立て直すためには、今こそ、確固たる経済政策の将来ビジョンが描かれなければならない筈である。
   また、疲弊し過ぎた地方に、単に、主権を移転しただけでは、地方の活性化が自動的に始動する筈もない。
   今や根本的に変質してしまい、リバイヤサンと化したグローバル資本主義に対峙して、日本と言う国の経済社会をどのようにして改革し、国民の幸せと安寧を追及して行くのか、大きな枠組みの中でのビジョンなり戦略がなければ、一歩も進まないのである。
   
   教育にしても、教育費の補助と言った感じで、国民への経済的サポートが主眼だが、今日本の教育で一番問題なのは、国際水準からはるかに遅れを取っている質の向上や教育システムの劣化を如何に食い止めるかと言った科学・文教行政の根本的な国の姿勢の建て直しにある筈なのである。

   国家の最も重要な筈の国防や外交については、殆ど言及さえされず、アメリカとの緊密で対等な外交、その方針での日米安保の見直しなどが掲げられているが、轟音をたてながら激動を極めるグローバル化しフラット化した今日の地球社会において、日本がどのような形で名誉ある地位を占めたいのか、全く分からない。

   マニフェストなど、すぐ忘れ去られてしまい、実行もされないのだから、真面目に対応するのは馬鹿であると指摘する識者もいるが、
   総選挙を闘う政党のマニフェストが、鳩山代表が言うように国民への約束・契約だとするのなら、まず、真っ先に将来あるべき国のかたち、国家の将来ビジョンが示されて、そのための戦略戦術など政策が提示されて然るべきだと言う気がする。
   何十年前から行われている企業の経営計画の初歩的な手法さえ、行われていないマニフェストの不思議さを思うと、政党も、ドラッカーが説いたように、マネジメントを学ばなければならないと言うことであろうか。
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八月納涼大歌舞伎・・・橋之助の「天保遊侠録」

2009年08月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   橋之助が、勝麟太郎・後の勝海舟(橋之助の次男宗生)の実父・勝小吉を、実に小気味良く演じていて面白いのが、今月歌舞伎座での最初の公演である真山青果作「天保遊侠録」。
   同じように蓮っ葉で身持ちは良くないが、威勢だけは良い江戸っ子の甥・松坂庄之助を演じる実の甥・勘太郎との呼吸ぴったりで、権威だけで威張り散らす上役相手に暴れまくる胸の透くような舞台が、正に、納涼歌舞伎に相応しい。

   江戸時代も、既に風雲急を告げる幕末。
   坂本龍馬を育て、西郷隆盛と談判して、江戸城無血開城して江戸を救い、福沢諭吉などを引き連れて咸臨丸でアメリカに渡った日本の文明開花期の最大の偉人である勝海舟の、栴檀は双葉より芳しを髣髴とさせる幼少時代を、実に爽やかで澄み切った声で凛々しく演じる宗生の姿が秀逸だが、
   放蕩三昧でどうしようもないしがない無役の御家人ながら、出来の良い子供の出世のために、役を斡旋して貰うべく上役を招いて御振舞いをする小吉の橋之助の泣き笑いの奮闘劇との対比が、しんみりとさせて味わい深い。

   芝居を地で行ったような橋之助と勘太郎の肩肘張らずに自然体で演じているような舞台であるから、余計に感情移入が容易なのであろうが、それだけに、上役大久保上野介の彌十郎の狡猾さ、元恋人の芸者八重次の扇雀のしっぽりとした優しさ、麟太郎を江戸城に引き取る阿茶の局の萬次郎の威厳と品格のある演技などが引き立つのであろう。
   御振舞いの宴は、あまりにも無礼な上役たちの振る舞いに堪忍袋の緒が切れて、小吉と庄之助が暴れてご破算になるのだが、それを見ていた小吉(実は三男なので勝家の養子)の実家の親戚筋の阿茶の局に、麟太郎が、将軍の孫の遊び相手として引き取られると言うハッピーな展開で幕となる。
   麟太郎は、幼少ながら、小吉に、天下国家の情勢を説くその英邁さは出色で、実際には、11代将軍家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城に召されている。

   さて、この芝居で、あんなに偉大な勝海舟の親父が、どうしょうもないやくざな御家人であったのかと言うことだが、実は、勝海舟の祖祖父の銀一は、越後の国の貧農の生まれで盲目でありながら、江戸へ出て高利貸しをして富を蓄積して検校の位を買い、その息子・すなわち祖父平蔵が御家人株を買って男谷家を起こし、後に、旗本に昇進しており、元からの旗本ではなかったと言うことである。

   この舞台の主役である小吉は、平蔵の三男であったので、家康時代からの幕臣でありながら、当時は小普請組と言う無役で小身の旗本である勝家に養子に出されのだが、謂わば、薄碌41石を食むが窓際族でやることがない。
   飲む打つはやらなかったらしいが、買うは、この芝居でも芸者八重次が登場するのだから、吉原通いに明け暮れ妻などそっちのけ。剣道を嗜み腕っ節が強くて喧嘩早いことこの上なく、悪評高いので役職など付く筈がない。
   その馬鹿親父が、鳶が鷹を生んだのか、麟太郎があまりにも聡明で良く出来るので、子供可愛さに、必死になって、役につけて貰おうと追従・供応にこれ勤める哀れさ、可笑しさ。
   本当は、全くどうしょうもない不埒親父だが、この芝居では、この無頼漢ぶりには触れずに、子を思う親心だけが目立つので、橋之助が格好良く見える。このあたりが、真山青果の粋なところであろうか。

   このように、この芝居で、役職を得るためには、供応、まいないが必須だと言う世界が、面白おかしく展開されているのだが、士農工商など身分制度が厳しい江戸時代と思いきや、金の力で何でも融通が利き、チャンスに恵まれれば、いくらでも上昇できたと言う、案外風通しの良い自由な時代であったと言うのが面白いではなかろうか。
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中谷巌著・・・「資本主義はなぜ自壊したのか」

2009年08月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   新自由主義経済学を賛美し、「改革なくして成長なし」をスローガンに改革を推進した自民党のブレインの一人であった中谷巌氏が、その過ちを認めて自ら懺悔の書であるとして、グローバル資本主義が、欺瞞に満ちた「モンスター」に変身してしまったと説きながら、この病根に蝕まれた日本が、如何に再生を期すべきかを論じたのが、この「資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言書」である。
   昨年末出版後爆発的に売れた本だが、何度か講演会を聞いていて、ほぼ、何を語ろうとしているのか見えてきたので、遅ればせながら、復習のつもりで読んでみた。

   20世紀末にかけての新自由主義を取り巻く激動とも言うべき革命的な環境変化が、重要な意味を持つのだが、グローバル資本主義は、世界活性化の切り札であると同時に、世界経済の不安定、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人であり、グローバル資本が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長され、経済社会を窮地に追い込むと言うのが、中谷教授の論点である。
   元々、資本主義そのものが、資本の増殖を目的とする飽くなき利益追求を是認するイデオロギーなのだが、ソ連の崩壊、すなわち、社会主義の実質的崩壊によって勝利を収め、旧社会主義国や新興国市場の参入による巨大な市場の開放とICT技術の飛躍的な発展により、資本主義が、グローバル資本主義と言う「モンスター」へと変貌して行く、その過程を克明に描きながら、資本主義の自壊を説くことから初めて、自身の宗旨替え、そして、日本の将来のあり方を論じている。

   歴史的な背景を掘り下げて、欧米の一神教や、資本主義の権化であるアメリカの理念国家・宗教国家の由縁等々、資本主義を暴走させた新自由主義の背景を浮き彫りにしながら、
   何故、グローバル資本主義が、格差を生み出し、市場社会を「悪魔の碾き臼」と化し、自然を破壊するのかと言った本質的な問題を、懇切丁寧に論じていて面白い。
   しかし、これだけなら、ただの現在資本主義論に終わってしまう。グローバル資本主義の毒牙に犯されて暗礁に乗り上げているとは言え、実質的には、その対極に位置する日本の宗教的・文化的・社会的な特質を克明に分析追尾しながら、地球環境の保全と自然と共生に無上の価値を置く「安心・安全」を旨とする日本魂を、今こそ、日本が、発揮して、人類社会に活路を開くべき時期が来たと進軍ラッパを吹くところが、中谷教授の中谷教授たる所以であろうか。
   谷深ければ山高しと言うべきか、アメリカかぶれであった筈の中谷教授の日本教への宗旨替えとその傾倒ぶりの凄まじさは格別であり、実に興味深い。

   面白いのは、極めて貧しく遅れた国である筈のキューバやブータンの人々の幸せそうな生活ぶりに直接触れて、マーケットメカニズムに任せておけば世の中は良くなると言う単純な改革思想に疑問を持ったと言う件である。
   小泉内閣で、「改革なくして成長なし」と連呼して市場原理主義の旗を振り続けていたが、現実の経済社会では、世界経済が不安定になり、所得格差・地方格差は拡大の一途を辿り、地球環境は破壊の極に達しつつあり、どんどん泥沼の様相が濃くなって行く・・・理論と現実の乖離の凄まじさにショックを受けたと言うことであろうか。

   私自身は、アメリカ留学と言ってもビジネス・スクールだし、あの当時のウォートンは、ローレンス・クラインのエコノメトリックス・モデルが主体だったようで授業も受けていないので何とも言えないし、市場原理主義、新自由主義には関心がなかった。
   丁度、レーガノミックス、サプライサイド経済学が隆盛を極めていた頃だったが、経済学については、学生時代はシュンペーターとケインズ一辺倒で、アメリカでは専らガルブレイスだったので、新自由主義経済学にはあまり縁がなかったし、それに、ミルトン・フリードマンのマネタリズムには興味がなかった。
   何故なら、既に、半世紀近くも前に、ガルブレイスの「ゆたかな社会」が愛読書であったので、自由競争による市場経済が、如何に、公共財や公共福祉を蔑ろにしてソーシャル・バランスを欠いた私企業の物財経済のみを富ませる「ゆたかな社会?」を生み出すのか、資本主義の病根を理解していたので、その後、厚生経済的な資本主義に興味を持ち続けてきたのである。

   自由競争などの知識は、サミュエルソンや他の色々な経済学書から得た知識は多少あったと思うので、今でも、資本主義の競争原理の重要性は認めているが、市場原理主義と言う意識はなかった。
   それに、その後のビジネスと生活の大半は、ヨーロッパで過ごし、成熟した市民社会が息づいているヨーロッパの経済社会では、市場原理主義は馴染まなかったし、その影響を受けていたので、中谷教授のアメリカかぶれととその転向の苦悩については、全く他人事と言うしかない。
   ところが、竹中平蔵教授は、私は市場原理主義ではないと言うのだけれど、まだ、宗旨替えの気配はなさそうである。

   この書物での中谷教授の主張には、殆ど異論はないが、日本に対しては、中谷教授が説くほど、世界に秀でた素晴らしい国、素晴らしい国民だと言う気にはなれない。
   日本が、「組織の中心」を空洞化する「中空構造」の国であると言うことや、日本社会は、平等主義の傾向が強く、全員が当事者意識を持って頑張るので現場力が強いと言う点は、確かにそうだと思うが、今、日本で一番求められているのは強力なリーダーシップで、その欠如が国運を傾けている。
   程々に有能だけれど、創造性に欠け、互換性の利く均質性の高いスペアパーツのような人材ばかりを育成して、リーダーシップ教育なり、民衆をリードするエリート教育が齟齬を来たした為に、歴史の転換点たる重要な時期に、特に、太平洋戦争を筆頭に、リーダーシップを発揮出来ず、国運を傾けた経験は枚挙に遑がない。
   
   今日の自民党のリーダーシップ欠如とその体たらく、真のエリート意識と公僕としての誇りを失った高級官僚の悪行の数々など数え上げれば切がないが、いくら、国民の質が高く現場力が立派でも、鯛のように頭から国が腐ってしまうのである。
   ヒットラーやスターリンが生まれることもあるので、欲は言えないが、もう、日本にも、プラトンの哲人政治の真似事くらいできるリーダーが生まれても良い頃ではないであろうか。
   素晴らしいリーダーを頂かない限り、明日の日本は限りなく暗いと思っている。
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米リーダーズダイジェストの破産

2009年08月18日 | 経営・ビジネス
   日経夕刊に、米国リーダーズダイジェストが、破産法11条の適用申請すると言う記事が掲載されていた。
   忘れてしまっていたのだが、リーダーズダイジェストは、もう40年以上も前のことになるが、私が高校生の頃から大学生の頃まで読んでいた雑誌である。
   アメリカのベストセラー主体だが、簡略に要約されたダイジェスト版が集められており、要領良く読める便利な月刊誌で、異国情緒を味わうのに格好の情報源でもあった。

   それに、他にも単行本や、レコードなどを出していて、金文字で名前を書いた案内書を送って来たり、手を変え品を変えて色々なダイレクトメールを送り込むなど、販売手法は、正に、アメリカ型で面白かったのを覚えている。
   この本の中に埋め込まれていたジョーク集が、実に面白かったのが印象的だが、私が、初めて、クラシック音楽全集のレコードを買ったのもこの会社からでもあり、それなりに付き合っていたのであろう。
   私自身は、大学生になってから購読を止めてしまったが、その後、海外に出かけて、商店の店頭に、色々な国の翻訳版が出ているのを見て懐かしかった。

   さて、この雑誌だが、アメリカでは最大の発行部数を誇る総合雑誌のようだが、日本では、20年以上も前に廃刊になっていると聞いている。
   アメリカのRDA社は、ローコスト・ホーム・メインテナンスやガーデニングなどの出版物を出したり、有数のレシペ・サイトAllRecipes.comを運営しているようで、リップルウッドが買収して再建を図ったようだが、出版業界の不況と広告収入の激減で、成り行かなくなったらしい。
  
   結局、インターネットとグーグルによって、メディアや出版業界を取り巻く環境が様変わりなってしまった結果による、紙媒体からの活字離れ、広告離れの犠牲と言うことであろうか。
   こんなにインターネットが便利になって、世界中の新聞なり雑誌なり、あるいは、高度な学術論文など、あらゆる種類の情報なりドキュメントなどに、フリーにアクセス出来るのであるから、紙媒体の情報源たる新聞、雑誌、書籍などと言ったものの需要が激減するのは当然である。
   まして、広告に至っては、殆どタダ同然の僅かな課金で、無尽蔵の広告を、確実に、興味と感心のある潜在的顧客に届けてくれるグーグルが、破竹の勢いで快進撃しているのであるから、既に、勝負は付いてしまっている。
   
   特に、雑誌については、余程、ユニークで特別な付加価値がない限り、読者の雑誌離れは、益々加速しているようだが、それよりも、読者の減少以上に、広告の減少の方が打撃が大きいであろう。
   私の記憶では、タダで読者に最初に本を配布したのは、40年以上も昔のリクルート本(企業から広告料を取って出版し学生にタダで配布した)だったと思うが、広告としてのコストパーフォーマンスを考えれば、雑誌よりも、今流行の無料配布本の方が、遥かに有効であろうと思う。
   
   また、誰でもが、グーグルや多くのインターネットのサイトから、既存の雑誌以上の情報やコンテンツを、フリーに取得し読める環境になっている以上、お金を出してまで、雑誌を読もうとする人は、益々、減少して行くであろうと思われる。
   グーグルが、いくら素晴らしい価値があり貴重であっても、情報やコンテンツでは、一切金を取らない、と言うタダ文化を定着させてしまった以上、雑誌も書籍も新聞も、根本的に、その将来像を考え直さなければならなくなっているのである。
   
   先に紹介したジェフ・ジャービスが、「グーグル的思考」の中で、12歳から25歳の若者は、いずれ新聞を読まなくなり、2040年を最後に、アメリカの新聞は発行されなくなると言う調査結果が出ているので、新聞業界は、印刷機を停止させる前に、どのように活路を見出すべきか、今から考えておく方が良いと言っている。
   出版業界は、現在踏襲しているビジネス・モデルから脱却して、イノベーションを志向しない限り沈没間違いなしで、遅かれ早かれ、リーダーズダイジェストと同じ運命に遭遇するであろうと言うことかも知れない。

   (追って、この口絵写真は、某書店の勝間和代コーナーで、本文とは関係ない。要するに、読者を掴む魅力的なコンテンツを提供できない紙媒体は消えて行かざるを得ないと言うことである。)
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成長戦略なき民主党の経済政策

2009年08月17日 | 政治・経済・社会
   日曜日朝の選挙関係のTV放送で、6党の幹事長などの経済政策を聞いていて、麻生総理が何度も繰り返していたように、民主党には、経済成長を目途とした政策がないと強調していたが、そのとおりで、経済政策に関する限り、はるかに自民党の方が質が高い。
   黒岩キャスターに質問されて、岡田幹事長が提示した当面および中期の経済政策は、消費の促進による内需の拡大に主眼を置くことだとして、子育て支援や高速道路料金無料化などがこれにあたると回答していたが、このような消極的な手段では単なる需要の移転にしか過ぎず、生産者や消費者の消費構造を多少変え得ても経済効果の発効には時間がかかり、即効性のある有効確実な経済成長政策とは言えない。

   民主党の経済政策について、重点施策への予算配分については、ゼロベース予算制度を採るならば、財源には全く問題なく実施可能であることは、先にこのブログでも書いたが、問題は、内需拡大への消費支出増大が、この時点で、最も適切な経済政策かどうかと言うことである。

   確かに、GDPの60%を占めるのは国内消費であり、この項目の拡大は統計上経済成長には貢献するが、しかし、経済情勢が比較的健全であり、また、経済を積極的に拡大誘引となる需要創造ではない限り、単なるこのような消費支出の拡大だけでは、経済を引っ張る牽引車としての成長要因となることはあり得ないし、多少の乗数効果は働いたとしても、経済の自律的成長などは望み得ない。
   馬を水辺までは連れて来れるが、馬に水を飲ませられるかどうかは別問題で、経済もこれと同じで、これこそがケインズ政策の限界でもある。   

   少なくとも、生活水準を上げるためには経済成長が必須であり、人口のみならず労働人口が減少の一途を辿る日本の現状を考えれば、その為には、労働生産性を挙げるためのイノベーションや資本設備の増加を図ることは当然必要であり、サプライサイドの積極的な経済政策を実施しない限り、国民生活の向上など望み得ない。
   経済成長が止まってしまって、国際競争力の低下や格差の拡大によって多くのワーキングプアを排出し、国民経済に多くの歪を生み出すなど経済的に危機的な状態に陥ってしまった現時点においては、出来るだけ需要拡大を図ることは必須ではあるが、その支出は、中長期の経済成長を志向したシュンペーター的創造的破壊を誘発するような戦略的な投資に多くを投入することによって、経済成長の種を蒔かなければならない。

   オバマ政権が、当面の経済浮揚策として膨大な公共投資を投入して需要の拡大を図ると共に、グリーンニューディールなど、イノベイト・アメリカを志向した新技術・新産業育成のために、その多くを振り向けているのは、正に、アメリカ経済の活性化を図ることによって経済を成長させる以外に道がないからである。
   自民党の成長戦略の中身には議論の余地はあろうが、まず、経済成長を図ることによってパイを大きくすることが先だと言う麻生総理の論理は、正論である。問題があるとすれば、今頃言うのではなく、政権を保持していた時点で、もっと頑張るべき事であったと言うことであろう。
   同じバラまきであっても、日本が最先端技術を誇っている自動車やエレクトロニクス産業のサポートのために、補助金を出したりエコポイントを活用し、さらに、地球温暖化および環境問題対策として一石二鳥を狙っているのは、正に、経済政策である。

   一方、民主党のマニフェストの5つの公約のうち、「雇用・経済」の項目の最後に、「地球温暖化対策を強力に推進し、新産業を育てます」と書いてあるが、どう読んでも、この項目は、人を大事にする経済政策を言っているのであるから、このマニフェストには、麻生総理の言うように全く経済成長政策は含まれていない。
   その意味では、オバマ政権よりも、はるかに経済政策については消極的で、民主党政権が実現した暁での、日本の将来がどうなるのか、最も重要な筈の経済の方向付けがなされていない以上、憂慮せざるを得ない。
   
   日本経済が、格差問題を深刻化させ、国民生活を暗澹たる状態に追い込んでしまった元凶は、須く経済成長が頓挫し、競争力を維持するために企業がコストカッターに徹し、政府公共部門が予算を切り詰め、弱いもの、弱い部門を徹底的に切り詰めざるを得なくなってしまったからで、市場原理主義が悪の総てではない。
   民主党の5つの約束を実現する為に、最も必要な戦略は、とにかく、万難を排して、日本の経済の活性化を図って、日本経済の成長戦略を強力に推進することである。
   経済成長戦略を欠いたマニフェストなど、クリープのないコーヒーどころか、むしろ、政権担当能力のない民主党であることを如実に示しており、この点での麻生総理の指摘は正しい。

   攻撃は、最大の防御なり。
   これを忘れてしまった民主党が、たとえ、今回の衆議院選挙で大勝し政権をとっても、その後の経済政策で躓き、次の参議院選挙で大敗して、逆の捻じれ現象を惹起して、再び日本の将来に暗雲を漂わせる可能性が高いと思わざるを得ない。
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トマト栽培日記・・・(18)本格的な夏にトマト成熟

2009年08月16日 | トマト栽培日記
   梅雨や台風騒ぎで悪かった天候も、ようやく持ち直して本格的な夏になったので、庭のプランターのトマトも急に元気になった。
   トマトは、何をおいても、太陽が照りつける暑い天気が続かないと駄目なのである。
   日本のあっちこっちで、冷夏と多雨の影響を諸に受けて、農産物の被害と不作の心配が出て、野菜などの品薄と値上がりが起こっているが、稲作でも被害が出ているらしい。
   
   トマトも、天候不順の影響を受けているようで、東京市場の3割を供給する青森産のトマトが不作で心配だとNHKが放映していた。
   ところで、私のトマトだが、確かに、細菌にやられたり、実が破裂するなど色々問題はあったが、どうにか、それなりの収穫を続けており、今年は、自給自足で行けそうな模様である。
   尤も、収支が合っているかと言う問題については、コストパーフォーマンスが悪いので、全体としてはマイナスだと思うが、毎日新鮮なトマトを収穫し、トマト栽培を勉強して来たのだから、十分に価値があったと思っている。

   今、種まきから始めたので遅れて育ったサカタのアイコが、ミニトマトだが、最盛期でかなりの収穫になっており、これだけで、十分に間に合っている。
   結局、6~7段花房程度まで育てて、今収穫は中間あたりだが、それ以上はエキストラだから、途中から摘心を止めて、放置している。
   花が咲いており、木がしっかりしているので、切り倒すのも気がひけるので、実がなってもならなくても、そのまま自然に任せて様子を見ようと思っているのである。
   ところで、アイコの実の先端が黒くなって腐る病気は、特定の木に集中していたようで、2本ばかりは、実の半数以上は駄目になったが、全く被害のない木もあった。

   今、イタリアン・トマトが、色づいて収穫時期に入っている。
   何種類か植えたのだが、ピーマンのような形のサントリーのズッカと、楕円形の渋柿様の形をしたデルモンテのイタリアン・レッドが、成功して、かなり、大きな実を収穫出来るようになった。
   ほかのトマトと全く同じ育て方をしたので、特に、気づいたことはないが、両方とも、二本仕立てにしたけれど、問題はないと言うことも分かったので、植えるプランターの大きさを大きめにして肥料を十分にやれば、うまく行くのではないかと思っている。

   プランター植えで、小規模のトマト栽培を楽しむためには、同時に苗を植えて育てると、収穫期が一致して短くなるので、時間差を設けて1ヶ月くらい差を置きながら順番に、出来れば違った種類のトマトを、植えて行くのが、良さそうである。
   私の場合には、今月一杯くらいは、トマトの自給自足は続けられそうに思っている。

   
   
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吉本新喜劇・・・なんばグランド花月(2)

2009年08月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   ところで、今回の吉本新喜劇だが、辻本茂雄が、ある老舗旅館に住まう座敷童子(ざしきわらし)として登場する。
   この座敷童子と言うのは、岩手県の民話で語られている、旧家や豪家の奥座敷に住むと言う赤面垂髪の悪戯好きの童子で、その存在が家の趨勢を制すると言われており、その家の者にしか見えない謂わば隠れ神である。
   ところが、この舞台は、東北など全く関係なく、有馬温泉のどこかの老舗旅館と言った雰囲気。
   本来は、柳田國男の東野物語のような世界なのであろう。山田監督が怒るかも知れないが、謂わば、寅さんの世界に近い今様パロディと言ったところで、色々な種類のわらしが出てくるし、謝金の単位は、円ではなく、「わらし」で、ここまで来ると、話のつじつまよりあほらしさが先にたつ。

   5~6歳の子供である筈が、あの顔でおかっぱ頭にして、奇天烈な格好をした辻本の座敷童子は、妻も子もあり、それに、借金取りに追われていると言う設定で、この辻本わらしが、狂言回しになって登場人物の運命を操るのであるから、舞台はハチャメチャ。
   国道交通大臣夫妻の離婚騒動から、中年男と駆け落ちする社長令嬢をめぐるドタバタ、それに、潰された土建会社の恨みなど、旅館の女将・従業員や秘書・警察などを巻き込んでの迷走劇であるから、馬鹿らしさの極みで、知性教養などはほんの片鱗、哲学・思想・芸術性ゼロの不毛な演劇。
   勿論、金と時間の無駄使いで、開演直前半額になるイングリッシュ・ナショナル・オペラのモーツアルトを見ている方が遥かに有益だが、それでも、とにかく、面白いのである。

   甲子園に来ている地方の高校野球の生徒から、地元の高校生と思しき生徒たちなど、観客の殆どが若い人たちで、ギャグの応酬や突拍子もない激しいアクションに爆笑・哄笑。東京では考えられないような雰囲気である。
   私など、大阪を長い間離れているので、大阪人としての感が鈍ってしまって、その笑いについて行けず、何故、笑っているのか分からない始末。

   子供の入場制限などしていないようで、客席で幼児が親と話しているし、子供たちが平気で通路を行き来し出入りしている。
   朝の興行は、「こども特別公演」と銘打っているが、プログラムは殆ど変わっていないようである。
   今回、漫才のネタに、大阪は日本一痴漢が多いと言って、痴漢撃退法を教えるなどと言いいながら漫才の二組までもが痴漢を話題にして、「お前女になれ」と言って身をくねらせてお尻を触るなど、全く、大らか限りない。
   アムステルダムの飾り窓は、何の境もなく、市役所別館や民家の並ぶ住宅街に散在しているのだが、あの大らかさに似ている。良いのか悪いのか、判断に苦しむ。    

   ところで、漫才だが、やはり、年季の差であろうか、中田カフス・ボタンや、西川のりお・上方よしおは、それなりに、話術が冴えていてうまい。
   悪戯好きであり暴力団との噂も話題になった中田カフスだが、おお取りなので「ものづくり」をテーマにして少し長く舞台に立っていた。
   そのネタだが、歯ブラシの毛は種を植えるのだと言う奇想天外な話を、花屋での種の買い方から始めると言う馬鹿話。しかし、あの何とも言えない間延びした惚けた会話の面白さは秀逸で、ある意味では上方漫才の極致かも知れない。

   西川のりおは一時東京に進出したが、フィーリングが合わないのか帰ってきているが、やはり、大阪で育った芸人も、全国版と地方版があるのであろうが、勿論、芸の優劣には差がないと思う。
   週代わりで登場するオール巨人・阪神なども、全国版ではなく、大阪で絶大な人気を博する漫才で、やはり、漫才は、上方と東京とでは、芸の質が全く違うからであろうと思う。
   私も、東京に転勤してきた時、コロンビア・トップ・ライトの漫才には違和感を感じて面白くなかったのを覚えている。
   その点、文珍、三枝、鶴瓶など落語陣は、それほど芸や話術に差がないので全国的な人気を博することが出来るのであろうか。

   2列目に座っていた丸坊主頭の小さな小学生が、あまりにもげらげら笑い転げているので、「こら!マルコメ、ここに出て来い」と言って大の漫才師が掛け合っていたのが面白かったが、これが、吉本の舞台なのであろう。
   次代の吉本予備軍かもしれない。  



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吉本新喜劇・・・なんばグランド花月(1)

2009年08月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   お盆特別興行と銘打った「なんばグランド花月」の公演だが、タイトルもなければ、何をやるのか演目の中身さえ分からないし、ただ、「漫才・落語」「新喜劇」と書いて大写しにした出演者の顔写真を並べただけのビラがあっちこっちで踊っている不思議さ。
   それでも、花月劇場前には、原宿にいるような流行のヤングファッションに身を包んだ沢山の若者たちが集まっており、劇場は大入りなのである。

   久しぶりに来た大阪であるから、本当は、文楽を観たかったのだが休演で、もう、何十年ぶりになるであろうか、代わりに、上方漫才と吉本新喜劇を見ようと思って、なんばグランド花月に行ったのである。

   私が吉本を楽しんでいたのは、関西の住人であったずっと前の若い頃のことで、その頃の花月劇場は梅田にあって、みやこ蝶々・南都雄二、ミスワカサ・島ひろし、夢路いとし・喜味こいし、中田ダイマル・ラケットと言った漫才師が活躍し、森光子も若くて色香匂う花形のお笑い系で「漫才学校」でどたばたを演じていた、そんな昔のことである。
   みやこ蝶々や森光子の至芸は、腹の底から笑い転げ、ところ構わず号泣する開けっぴろげの大阪人の観衆あって生まれ出でたのだと思っている。
   「今日はテレビもラジオも入ってへんからええやないか」と言って際どいエロネタも平気で飛び出していたし、「アホとちゃうか」と言った毒にも薬にもならない馬鹿話のオンパレードであったが、文部省から離れている分、とにかく、面白かった。

   吉本新喜劇も、エンタツの息子・花紀京や西川きよしや岡八郎が、辻本茂雄たちに代わっただけで、思想性芸術性全くゼロで、馬鹿丸出し。
   世相をうまく取り入れて、普通の世間話をテーマにしながらも、飛んだり蹴ったり芸などはそっちのけ、可愛い女優が、急に変身して、河内の男でも気が引けるようなエゲツナイ柄の悪い言葉を連発して観客を唖然とさせて煙に巻いたり、あるいは、どついたりはたいたり、ゴム製だがハンマーで頭を叩きまくるのは序の口で、腹が立つと勢い良く跳び蹴りして相方を吹っ飛ばしたり、しかし、最後には、庶民の心の琴線を震わせてほろりとさせる、そんな泣き笑いの人情劇のスタイルは全く昔と変わっていない。
   西川きよしが、後に妻にしたヘレンと演じていたどたばたが、辻本茂雄と若井みどりのどたばたに代わったくらいであろうか。
   しかし、この上方芸人のギャグや即興の妙技などの機転の利き方、タイミング・反応の速さは抜群で、観客の爆笑が絶えないところが凄いのである。
   

   私は、その後、東京に移り住み、長い間海外に出てしまったので、渋谷天外・藤山寛美などの松竹新喜劇の方は観る機会が少なかったが、この両方が、文楽や上方歌舞伎など上方芸能の系譜を、少し変えた形で継承して生き続けているのだろうと思う。
   万博が終わって、すぐ、東京に転勤になったのだが、日曜日の昼番組で楽しみにしていた「吉本新喜劇」の放映が、東京ではなかったので、寂しかったのを覚えている。
   あの頃は、まだ、土曜日も出勤していたので、日曜日のほっとするリラックスタイムは貴重だったのである。

   尤も、当時、吉本ばかり見ていたのではなく、同時に、初任給よりも高いチケットを買って、大阪フェスティバルのバイロイト祝祭劇場のワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を観ていたのだから、ちぐはぐも甚だしかった。
   この私が、その後、芸術行脚に入れ込んで、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピア劇や、コベントガーデンのロイヤル・オペラに通いつめるようになったのだから、人生も不思議なものである。
   
   さて、このなんばグランド花月と言う劇場だが、道頓堀に近い南の中心なんばの歓楽街のど真ん中にあるのだが、向かいに、騒がしいゲームセンターとかなり充実した書店ジュンク堂が並んでいて、一寸ちぐはぐだが、何時行っても、前の広場には若者で溢れている元気な街角である。

   劇場は、私見だが、どちらかと言えば、映画館に毛の生えたような貧弱な佇まいで、舞台も、歌舞伎や文楽と比べれば、非常に簡素と言うか質素で、漫才などは、幹部クラスのバックは多少飾ってはいるものの、舞台の中央に、1本のマイクがあるだけ。新喜劇の方も、そんなに金を掛けて作った舞台とは思えない。
   開演前に、正面の寸詰まりのスクリーンに、間寛平の世界一周のルポ映像などを流していたが、このハイビジョン時代に、荒い画像で見辛いこと限りなし。
   顧客サービスなどは、殆ど眼中にあるとは思えない。

   以前に、林せいとその弟林正之助の伝記まがいの本を読んだが、苦労に苦労を重ねて紆余曲折を経ながら、吉本王国を築き上げた泣き笑いの人生が、今の隆盛を支えているのであろう。
   とにかく、今や日本のお笑いの世界を席巻する勢いであるが、芸が面白ければそれで良い、と言う徹底したエンターテインメント哲学は見上げたものである。
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田崎史郎著「政治家失格」

2009年08月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   愈々、天下分け目の総選挙だが、どちらが勝つにしろ、日本の将来は、あまり変わりそうにないような気がして仕方がない。
   日本の未来の道標について、ハッキリした理想像が、今回の選挙の争点から欠落しており、全く先が見えないからである。

   大阪の書店で暇つぶしをしていて、現在の政治について一寸勉強してみようと思って手に取ったのが、サブタイトルに「なぜ日本の政治はダメなのか」と書かれたこの田崎史郎著「政治家失格」である。
   読んでみて最初に思ったのは、政治家列伝と言った感じで、権謀術数を弄する魑魅魍魎の政治世界は活写されているのだが、世界平和、日本の発展、日本人の真の幸せと言った高邁な理想の実現のために、政治家たちが如何に戦って来たかと言った視点からの論述は全くなく、大上段に振りかぶれば、世界のため日本のためにいかに立派な政治家であったかと言う視点がないので、政治家失格と言うタイトル自体がボケていると言うことである。

   私にすれば、何を、総理大臣として国民に残したかと言う実績そのものが大切であって、政局をうまく乗り切ったとかと政治がうまかったとか言ったことなどはどうでも良いのである。
   従って、田崎が説く、「政治家にとって必要な6つの力」、すなわち、角栄の「風圧力」、竹下の「運用力」、金丸の「デザイン力」、梶山の「軍師力」、橋本や小渕の「操縦力」、小泉の「言葉力」が、政治家の資質を見極める際の「判断基準」となるとする考え方などは、必要条件の一部かも知れないが、全く、政治家そのものの値打ちとは一切関係がないと思っている。

   尤も、「三角大福中」に比べ、「安竹宮」は小粒になり、今の政治家は、竹下と比べても、もっと小粒になったとする考え方については、任期途中1年足らずで政権をホッポリ出す世襲総理が2人も出て来て、国民が愛想を尽かしているのに解散権行使に執着した総理が出るなど末期的症状を呈しているのであるから、これには異存はない。

   この本は、著者が述べているように、自身が見てきた30年の政治の総括であり自分史だと言うことなので、田中角栄から話が始まり、麻生太郎や小沢一郎に至る今日の政治の論述に主眼が置かれている。
   そして、政局主体の記述なので、例えば、経済政策がどのように日本の失われた20年(?)に陰を落としているのかとか、日米外交がグローバリゼーション下でどのように変化してきたかのと言った広義の政治については、全く、触れられていない。

   気になったのは、政治家の合従連衡、呉越同舟、同盟・だまし討ちなどと言ったことや、例えば、どの政治家が、誰をどのように操縦して法案を通したかなどと言ったような政局絡みのことばかりが政治記者の関心を引いて、政治ジャーナリズム関連の記事が書かれているとするのなら、恐ろしいことだと言うことである。
   政治が大切であればあるほど、高い視点からの政治報道が重要であると思う。
   昔、ニューズウイークのウォルター・リップマンのコラムを読んで感激したことがあり、アメリカにいた時には、先に逝ったウォルター・クロンカイトのCBSのイブニング・ニューズを毎夜見ていたが、やはり、質の高い政治報道に接したいといつも思っている。
      
   さて、田崎説に対する私の私論だが、「政治家は育てられるのか」と言うところで、松下政経塾に対して、政界を代表するような人物は今のところ見当たらないとして低く評価していることに同意出来ない。
   民主党の前原や野田を例に挙げて、政治家の真の能力は、重大な危機に直面したときや、重要な意思決定の場面で現れ、政治に必要な意識や能力は、その人間の天賦の才能、あるいは体験から生まれてくるものであって、どこかの機関で教育するものではないのではないかと言っているのだが、
   政治家としての高度な教育なり、高等教育機関での高い教育経験を経て蓄積した高度な知識教養や高邁な政治哲学や思想などは、政治家として、十分条件ではないにしても必要条件であり、日本の政治家が、この点で欧米の政治家と比べて、あまりにも遅れを取り過ぎていることこそ問題なのである。

   同じように、大前研一氏も「一新塾」でネクスト・リーダー育成教育に努めており、熊谷俊人千葉市長などもその出身だが、謂わば、これまでの政治家の多くが、高度な高等教育なり政治リーダー専門教育経験なり識見なしに、すなわち、ドライバーズライセンスなしに運転してきたことに、この本のサブタイトル「なぜ日本の政治はダメなのか」の一半の責任があるのである。

   ついでながら、派閥システムが政治家育成に良かったとする著者の考え方については、日本に典型的に存在したシステムで、これまでの経済人・ビジネスマン教育にも共通する、謂わば、戦後の日本固有のものだが、もう、時代はどんどん先に進んでいて、時代錯誤と言うか、そのようなシステムを許すような時代ではなくなっていると言うことを付け加えておきたい。
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