今や、眠れる獅子であった中国が大躍進を遂げて、超大国アメリカと並ぶG2に躍り出て、世界地図を完全に塗り替えてしまったが、
同じく、イギリスに搾取に搾取を重ねられて、独立はしたものの成長から見放されて停滞していたインドが、最先端のIT産業のリーダーとして飛躍的な快進撃を遂げ、次代の経済大国への道をひた走り始めている。
この変貌著しい現代インドの夢と現実を、ドキュメンタリー・タッチで、鮮やかに描き切ったのが、本書ダニエル・ラク著「インド特急便!」で、翻訳本でも400ページ以上もボリュームのある大著だが、これほど鮮やかにインドを活写した本には、お目にかかったことはない。
路上に古びたレンガを両側に積み上げ、厚手の板を渡して、その板の上に屈み込んで、旧式アイロンを使ってアイロンがけを生業としている貧しい職人ラームさんが、客から借りた50ドルと一心不乱に働いて貯めたお金を基にして、血の滲む様な苦労の末に二人の子供をソフトウエア・エンジニアに育て上げた話から、この本は始まっているのだが、
イギリスBBCの特派員として、インド、ネパール、パキスタンで20年近い取材経験を積み重ねたカナダ人ジャーナリストであるから、ジャーナリスティックな描写のみならず、大英帝国や先進国の視点からの文化・文明的な歴史展望を加味した現代インドレポートを展開しており、非常に示唆に富んでいる。
インド経済躍進の旗頭でありIT産業の雄であるバンガロールのインフォシスの超近代空間と、それに隣接する地獄のようなスラム空間を同時に描くことから始めて、
強烈な格差とコントラストを示す明と暗が同居するインドの多様さ複雑さが、如何にインドを運命付けているかを、経済社会、政治、宗教、教育、外交等々多岐に亘って問題点を掘り下げて、歴史的、文明論的に分析している。
その為か、インドの明るい未来を展望しながら、その将来について、欧米人からの発想で、インドが、「アジアのアメリカ」としてリベラルな超大国となるであろうと予見している。
リベラルとはどう言う意味なのか不明であるが、自由主義的な民主主義社会を意味すると考えるなら、インドが、独立後長い間社会主義政策を取っていたとは言え、イギリス型の制度を継承して来た民主主義国家であり、未来の大国候補の中国やロシアが、そのような国にはなり得ないことを考えれば、このまま経済成長を持続して行けば、世界最大の民主主義の超大国となることは、間違いなかろう。
ところで、私が、この本を読んでいて、興味を感じた点が幾つかあったので、これらについて、少しコメントしてみたい。
インドの独立の立役者は、なんと言っても、マハトマ・ガンジーとジャワハルラル・ネルーだが、ネルーは、ロシア型の共産主義体制を敷いて国家主導型の経済モデルを推進した。
インドの近代化にとって、この方針が良かったかどうかは、いまだに議論が絶えないところだが、ネルーは、筋金入りの合理主義者で、自然は科学の力で活用し管理すべきで、人類の利益に役立てるべきだと確信していた。
ネルーは、ダムを「近代科学の聖堂」と考えていたようで、1950年代に、ネルーのビジョンに従って、ガンジス川以北、カルカッタ以西の水域に一連のダムが建設された。このエンバンクメント(堤防)工事により、300万人の住民が何の補償も手当てもなく放逐されたのみならず、洪水や氾濫で水系一帯を無茶苦茶にしてしまって、いまだに立ち直れない後遺症を残していると言う。
一方、不正に対する良心に立脚した非暴力主義を押し通したガンジーは、自由への闘争のその先を見据えて、村の暮らしと地域に密着した農業の力に、目を向ける社会を実現しようと考えていたと言い、この本では、この精神を引き継いで、貧困と地方の開発のために活躍する指導者たちを描いている。
これは、プラハラードのBOPの最底辺からの真のイノベーションを彷彿とさせるのだが、農民たちの生活を改善し農業生産力に貢献しているNGOが、完全有機栽培を目指して大々的なミミズ養殖作戦を展開して、世界の食料生産革命を起こそうとしている。
タタ・モーターズの20万円の小型自動車もそうだが、私は、これからの産業イノベーションの相当多くは、ロー・エンドの破壊的イノベーションの形で、大地に根差し自然との共生を目指すインドで起こってくるような気がしている。
IT技術者を輩出し、世界最高峰と賞賛されているITTだが、この創立は科学万能主義者(?)のネルーの功績である。
面白いのは、ラクが、古代の最高学府であった仏教の聖地ナーランダー寺院を、古代のITTだとしていることである。
ヒンズー教徒のインド人は、仏教は外国人が信仰し実践する宗教で、自分たちには縁のない宗教だと考えているようだが、ラクは、当時世界中から俊英を集めて隆盛を極めていた宗教と学問の聖地ナーランダーを訪れて、インドにおける釈迦や仏教の位置づけを試みていて興味深い。
ヒンズー教については、インド人の熱心な信仰心やカースト制度の深刻さなど宗教世界を克明に描いているが、パンカジュ・ミシュラの説を引用して、元々ヒンズー教等存在せず、一群の神々の多彩なイメージを集合した超自然的な存在を信じる生成過程にある比較的最近に始まった宗教だとしている。
万物を貫く力(神)であるブラフマンと自己であるアートマンが一体であり、神は自己の中にあり、聖性の本質は人間たち自身の身の内に見出され、創造や破壊の力を持つ何か超自然的なものではなく、至る所に神が存在するのだと言う。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教と言った一神教との対極にあり、我々日本人の思想感情に近い。
ところで聖なるガンジスの町バナラシ(ベナレス)で、敬虔なヒンズー教徒たちは、聖なるガンジス川で清めの沐浴の儀式を行うのだが、この川、悪臭が満ちて淀み、黒く濁流と化した公害の極地とも言うべき状態で、この聖なる水が一滴たりとも口に入れば死にかねないと信者たちが言っているのを紹介している。
ガンジス川に対する敬意を失い、聖典を無視して汚し放題に汚して、それでいて、聖なる下水と化したこの毒の中で沐浴して、罪からお救いくださいと神に祈っている。それが今日のヒンズー教の姿なのです、と、敬虔な信者代表が吐露しているのである。
我々の前にある多くのインド関係本は、BRIC’sの雄であるインドの輝かしい経済成長と、その躍進、限りなき未来の栄光を語っているものが大半だが、人間が生きると言うことはどう言うことなのか、原点に戻って、これほど、インドの限りなきバイタリティと苦渋に満ちた柵と言うか、インドの明と暗を浮き彫りにした本はないと思う。
同じく、イギリスに搾取に搾取を重ねられて、独立はしたものの成長から見放されて停滞していたインドが、最先端のIT産業のリーダーとして飛躍的な快進撃を遂げ、次代の経済大国への道をひた走り始めている。
この変貌著しい現代インドの夢と現実を、ドキュメンタリー・タッチで、鮮やかに描き切ったのが、本書ダニエル・ラク著「インド特急便!」で、翻訳本でも400ページ以上もボリュームのある大著だが、これほど鮮やかにインドを活写した本には、お目にかかったことはない。
路上に古びたレンガを両側に積み上げ、厚手の板を渡して、その板の上に屈み込んで、旧式アイロンを使ってアイロンがけを生業としている貧しい職人ラームさんが、客から借りた50ドルと一心不乱に働いて貯めたお金を基にして、血の滲む様な苦労の末に二人の子供をソフトウエア・エンジニアに育て上げた話から、この本は始まっているのだが、
イギリスBBCの特派員として、インド、ネパール、パキスタンで20年近い取材経験を積み重ねたカナダ人ジャーナリストであるから、ジャーナリスティックな描写のみならず、大英帝国や先進国の視点からの文化・文明的な歴史展望を加味した現代インドレポートを展開しており、非常に示唆に富んでいる。
インド経済躍進の旗頭でありIT産業の雄であるバンガロールのインフォシスの超近代空間と、それに隣接する地獄のようなスラム空間を同時に描くことから始めて、
強烈な格差とコントラストを示す明と暗が同居するインドの多様さ複雑さが、如何にインドを運命付けているかを、経済社会、政治、宗教、教育、外交等々多岐に亘って問題点を掘り下げて、歴史的、文明論的に分析している。
その為か、インドの明るい未来を展望しながら、その将来について、欧米人からの発想で、インドが、「アジアのアメリカ」としてリベラルな超大国となるであろうと予見している。
リベラルとはどう言う意味なのか不明であるが、自由主義的な民主主義社会を意味すると考えるなら、インドが、独立後長い間社会主義政策を取っていたとは言え、イギリス型の制度を継承して来た民主主義国家であり、未来の大国候補の中国やロシアが、そのような国にはなり得ないことを考えれば、このまま経済成長を持続して行けば、世界最大の民主主義の超大国となることは、間違いなかろう。
ところで、私が、この本を読んでいて、興味を感じた点が幾つかあったので、これらについて、少しコメントしてみたい。
インドの独立の立役者は、なんと言っても、マハトマ・ガンジーとジャワハルラル・ネルーだが、ネルーは、ロシア型の共産主義体制を敷いて国家主導型の経済モデルを推進した。
インドの近代化にとって、この方針が良かったかどうかは、いまだに議論が絶えないところだが、ネルーは、筋金入りの合理主義者で、自然は科学の力で活用し管理すべきで、人類の利益に役立てるべきだと確信していた。
ネルーは、ダムを「近代科学の聖堂」と考えていたようで、1950年代に、ネルーのビジョンに従って、ガンジス川以北、カルカッタ以西の水域に一連のダムが建設された。このエンバンクメント(堤防)工事により、300万人の住民が何の補償も手当てもなく放逐されたのみならず、洪水や氾濫で水系一帯を無茶苦茶にしてしまって、いまだに立ち直れない後遺症を残していると言う。
一方、不正に対する良心に立脚した非暴力主義を押し通したガンジーは、自由への闘争のその先を見据えて、村の暮らしと地域に密着した農業の力に、目を向ける社会を実現しようと考えていたと言い、この本では、この精神を引き継いで、貧困と地方の開発のために活躍する指導者たちを描いている。
これは、プラハラードのBOPの最底辺からの真のイノベーションを彷彿とさせるのだが、農民たちの生活を改善し農業生産力に貢献しているNGOが、完全有機栽培を目指して大々的なミミズ養殖作戦を展開して、世界の食料生産革命を起こそうとしている。
タタ・モーターズの20万円の小型自動車もそうだが、私は、これからの産業イノベーションの相当多くは、ロー・エンドの破壊的イノベーションの形で、大地に根差し自然との共生を目指すインドで起こってくるような気がしている。
IT技術者を輩出し、世界最高峰と賞賛されているITTだが、この創立は科学万能主義者(?)のネルーの功績である。
面白いのは、ラクが、古代の最高学府であった仏教の聖地ナーランダー寺院を、古代のITTだとしていることである。
ヒンズー教徒のインド人は、仏教は外国人が信仰し実践する宗教で、自分たちには縁のない宗教だと考えているようだが、ラクは、当時世界中から俊英を集めて隆盛を極めていた宗教と学問の聖地ナーランダーを訪れて、インドにおける釈迦や仏教の位置づけを試みていて興味深い。
ヒンズー教については、インド人の熱心な信仰心やカースト制度の深刻さなど宗教世界を克明に描いているが、パンカジュ・ミシュラの説を引用して、元々ヒンズー教等存在せず、一群の神々の多彩なイメージを集合した超自然的な存在を信じる生成過程にある比較的最近に始まった宗教だとしている。
万物を貫く力(神)であるブラフマンと自己であるアートマンが一体であり、神は自己の中にあり、聖性の本質は人間たち自身の身の内に見出され、創造や破壊の力を持つ何か超自然的なものではなく、至る所に神が存在するのだと言う。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教と言った一神教との対極にあり、我々日本人の思想感情に近い。
ところで聖なるガンジスの町バナラシ(ベナレス)で、敬虔なヒンズー教徒たちは、聖なるガンジス川で清めの沐浴の儀式を行うのだが、この川、悪臭が満ちて淀み、黒く濁流と化した公害の極地とも言うべき状態で、この聖なる水が一滴たりとも口に入れば死にかねないと信者たちが言っているのを紹介している。
ガンジス川に対する敬意を失い、聖典を無視して汚し放題に汚して、それでいて、聖なる下水と化したこの毒の中で沐浴して、罪からお救いくださいと神に祈っている。それが今日のヒンズー教の姿なのです、と、敬虔な信者代表が吐露しているのである。
我々の前にある多くのインド関係本は、BRIC’sの雄であるインドの輝かしい経済成長と、その躍進、限りなき未来の栄光を語っているものが大半だが、人間が生きると言うことはどう言うことなのか、原点に戻って、これほど、インドの限りなきバイタリティと苦渋に満ちた柵と言うか、インドの明と暗を浮き彫りにした本はないと思う。