熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鎌倉だより・・・鎌倉山の桜満開(2)

2018年03月31日 | 鎌倉・湘南日記
   鎌倉山の桜並木の桜は、殆ど、ソメイヨシノである。
   上野公園や千鳥ヶ淵の桜よりも木が多少小さいので、樹齢が若いのであろう。
   鎌倉山サークルから赤羽に下る途中は、道が広いので、歩道に桜並木を併設できるが、桜並木は、道が細いので、住宅の中に、桜の木が植わっているところがあるので、時々途切れている。
   そのかわり、住宅の庭などに、季節の草花などが植えられているので、点景があって面白い。
   しかし、イギリスやオランダでは、住宅が競って、家の前に、花棚を飾り立てたり、ハンギングバスケットを吊るすなど、街路全体が花の道のように華やかで美しくなるのだが、日本は、殆ど無関心な家も多くて、この並木道でも、綺麗なのは、数軒で、殆どは喫茶店や店舗くらいであろうか。
   
   
   
   
   

   私は、花は、一輪の花弁であったり、接写して一部を切り取るなどと言った写真に興味があり、全体像を写すことは少ない。
   一軒だけ、歩道の空間に濃ピンクの枝垂れ桜が植わっていて、ひときわ目立っていた。
   
   
   
   
   
   
   ソメイヨシノは、白くてはっきりしない花なので、やはり、大写しにするのが良さそうで、接近して一部を切り取ると、何となく印象が薄れるような気がする。
   この並木道には、殆ど、ヤブツバキだが、椿が植わっていて、ところによっては、コントラストが面白い。
   もう一つ、木の幹から小枝を伸ばして、数輪、張り付くように咲いている写真もよくとる。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   鎌倉山のこの桜並木は、林間を縫って走っていて、両側に民家が立っているので、高台にありながら、展望が利かない。
   ところどころ、見晴らし台や展望所があるが、中々、良い下界の展望を楽しむところがない。
   ところによっては、富士山と江の島を同時に展望できる高級住宅があるようだが、道路から南側に奥まった高みに建っていると言う。
   しかし、谷合の向こう側の景色は、それなりに楽しめる。
   
   
   
   

   途中、若松あたりから、急に下りにかかり、笛田公園からは、谷向こうの展望が良く利いて、面白い生活空間が楽しめる。
   遠くに、桜が白く雲のように浮き上がっていて面白い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   歩いている途中、目に留まった風景を数点。
   
   
   
   
   
   
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鎌倉だより・・・鎌倉山の桜満開(1)

2018年03月30日 | 鎌倉・湘南日記
   天気が良く風がおさまったので、鎌倉山の桜を見に行こうと思った。
   鎌倉山桜見物と言っても、源氏山のように頂上があって公園があるわけではなく、鎌倉山を突き抜ける桜並木を歩くのだが、結構、交通のビジーな道路なので、上野公園を歩くようにはいかない。
   鎌倉山の桜は、仮名手本忠臣蔵の四段目の「花籠の段」で、かほよ御前が夫の心を慰めようと、鎌倉山の八重桜を籠に生け、判官へ献上しようとする場面があるなど、鎌倉山の桜は、昔から結構有名なのである。

   この鎌倉山さくら並木道路は、常盤口から鎌倉山交差点までのバス道路で、鎌倉駅から、長谷観音、大仏を経て、江の島へ向かうバスが走っているので、いわば、鎌倉の観光にとっては、重要な道路であるが、観光客が犇めき合って乗ると言うよりは、鎌倉人の生活バスといった感じである。
   鎌倉山は、標高100mくらいなので、それ程アップダウンがあるわけではないが、それでも、この桜並木は、多少の坂道は覚悟せねばならない。

   永井路子さんが、もう50年ほど前の本であろうか、「私のかまくら道」で、
   鎌倉駅から、鎌倉山行き(又は鎌倉経由江の島行き)で常盤口でバスを降り、そこから山道を歩くことをすすめる。ここからか鎌倉山の終点までの桜のトンネルがじつにすばらしいのだ。と書いている。
   この鎌倉山のバス停と言うのは、鎌倉山の石柱が立つ鎌倉山交差点のことで、鎌倉山地区の西端であり、西側の麓なので、常盤口からだと、鎌倉山越えと言うことになる。
   
   
   
   

   永井さんは、私の散歩道だと言って、住んでいる鎌倉山から、途中のバス停旭ヶ丘から山道(?)を下って極楽寺へ歩くと言うのであるから、この本を読んでいても、相当の健脚と言うか散策好きである感じである。
   余談ながら、私にとって興味深いのは、もう、閉鎖されて廃道になっている鎖大師の切通しについて書いていることで、当時は、まだ、使われていたのであろうと思うと時代を感じる。 

   この日、私が歩いたのは、自宅を出て、しばらく歩いて、鎌倉山交差点、すなわち、鎌倉山サークルから、常盤口一つ手前の笛田までで、笛田公園から引き返した。
   この道路沿いには、住宅が点在していて、ところどころ奥まったところに住宅が固まっているところもあるが、ほぼ、比較的大きな住宅が沿道に建っていて、中には、店舗や事務所などが申し訳程度にあるが、最初は、別荘地として開発されたところでもある。

   憩いの場所としては、比較的大きくてキャパシティがあって、食事や喫茶が楽しめる「そばの檑亭(旧清香園)」や、「ケーキのル・ミリュウ 鎌倉山 」は、賑わっていて、一寸大きな喫茶店「マウンテン」も人が入っているようだったが、私は、正直なところ、雰囲気としては、自宅の庭を眺めながらの方がベターなので、これを避けて、歩いただけで帰った。
 
   ほぼ、沿道の桜並木の雰囲気は次のとおりである。
   週日であったので、歩いている人は少なかったが、明日の土日には、観光客が訪れるであろう。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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わが庭・・・椿:エレガンス・シャンパン、エレガンス・シュプリーム

2018年03月29日 | わが庭の歳時記
   唐子咲きと言うか、獅子咲きと言うか、要するに、雄蕊が花弁化した椿で、成長が遅いので、まだ、木は小さいのだが、エレガンス系統の白いシャンパンとシュプリームが咲き始めた。
   シャンパンは、門扉の横の花壇で、式部の対面、シュプリームは、奥まった半坪庭に植えてあるのだが、夫々、アクセントとなってくれている。
   
   
   
   
   
   

   他の椿、トムタム、ミリンダ、鳳凰、青い珊瑚礁、ナイトライダー、
   綺麗に咲き続けている。
   今年は、椿の開花が早かったようだが、わが庭の牡丹の蕾が色づき始めており、花木全般に言えるのであろう。
   近所のソメイヨシノは満開である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   わが庭の他の花は、シャガが咲き始め、ハナニラは庭一面、
   モクレンは最盛期で、ハナカイドウが優雅な蕾を開き始めた。
   
   
   
   
   
   
   

   昨年挿し木した式部の挿し穂に花芽がついていたのであろうか、
   珍しく小さな木に花が咲いている。
   
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三月大歌舞伎・・・「夜の部 滝の白糸ほか」

2018年03月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回、私が観たのは、夜の部。
   プログラムは、次の通り。
   雀右衛門の追悼公演でもあったので、昼の部を見るべきだったのかも知れないが、何度も観ている定番の古典歌舞伎ばかりであったので止めた。
   於染久松色読販と滝の白糸は、初めて観るので、この方が興味があったのである。

一、於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)
小梅莨屋の場
瓦町油屋の場

土手のお六 玉三郎
山家屋清兵衛 錦之助
髪結亀吉 坂東亀蔵
庵崎久作 橘三郎
油屋太郎七 彦三郎
鬼門の喜兵衛 仁左衛門

二、神田祭(かんだまつり)

鳶頭 仁左衛門
芸者 玉三郎


泉 鏡花 作
坂東玉三郎 演出
三、滝の白糸(たきのしらいと)

滝の白糸 壱太郎
村越欣弥 松也
南京寅吉 彦三郎
松三郎 坂東亀蔵
桔梗 米吉
裁判長 吉之丞
郵便配達夫 寿治郎
お辰 歌女之丞
おえつ 吉弥
青柳太吉 秀調
春平 歌六


   「於染久松色読販」は、強請って金を巻き上げようと、悪人の土手のお六と鬼門の喜兵衛夫婦が、油屋へ、乗り込むのだが、山家屋清兵衛に遣り込められて、すごすごと引き返すと言う冴えない物語で、男女の理想像を演じさせれば天下一品の旧玉孝コンビ、人間国宝の玉三郎と仁左衛門が、この悪人夫妻を演じると言うのであるから、正に、期待の舞台である。
  「於染久松色読販」の一場面「小梅莨屋の場と瓦町油屋の場」を切り取っただけなので、同じ強請でも、「弁天娘女男白浪」のような見せ場と迫力に欠けるので、ただ、チンピラが強請に登場したと言った感じで、天下の名優の悪の芸を楽しむと言うことに尽きた感じで、惜しいと思って観ていた。

   清元の舞踊「神田祭」も、鳶頭と仁左衛門と芸者の玉三郎の見せて魅せる華やかで美しい江戸の粋を鑑賞する舞台。
   

   「滝の白糸」は、泉鏡花の「義血侠血」を舞台にしたもので、映画でも何度か上映されていて、多少時代がかった感じだが、人気の高い芝居のようである。
   
   女水芸人「瀧の白糸(水島友)」は、ひょんなことで、乗合馬車の御者の村越欣弥に恋をして、ある夜、金沢の浅野川に架かる卯辰橋で欣弥と再会。欣弥が金のために法律の勉強を諦めていることを知った白糸は、欣弥を説得して、自分が仕送りをすることを約束して東京へ送り出す。欣弥への仕送りを続けるが、人気の低迷が続いて苦しくなり、白糸は、高利貸しの岩淵から、100円を借りて持って帰る途中に、商売敵の南京に強奪される。岩淵のところへ引き返し、南京出刃打の寅吉の落とした出刃で誤って岩淵を刺し殺してしまう。殺害を出刃打の南京にに擦り付けた白糸は、金沢の法廷へ出頭して証言台に立つのだが、その検事補が、学業を終えて初めて検事席に立つ欣弥であった。欣弥は、証言台を離れようとする、放免間際の白糸を呼び止めて、真実の大切さを説くと、堪らずに、欣弥の言葉に白糸は凶行を自白し、舌を噛んで自殺する。裁判員席を離れた欣弥は、ピストルで命を絶つ。

   ほぼ、歌舞伎の筋は以上のような感じであったが、原作の「義血侠血」からも勿論、芝居や映画バージョンからも、少しずつストーリーは違っていて興味深い。
   例えば、ラストは、「義血侠血」では、白糸は、死刑を宣告され、
   「一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永ながく恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居の二階に自殺してけり。」と結ばれている。

   何故、どのようにして、白糸が欣弥に恋に落ちたのか、
   歌舞伎では、
   越中高岡から石動に向かう馬車に乗った水芸一座の太夫滝の白糸は、文明開化の誉れ高い馬車が人力車に追い抜かれたので馬丁に文句を言います。すると、馬丁の村越欣弥という青年は白糸を抱いて馬に跨り、人力車を颯爽と追い抜いてみせるのでした。欣弥のことが忘れられない白糸は、・・・となっていて、このシーンはなく、登場人物が語るかたちで、表現されている。
   いわゆる、一目惚れ、直覚の愛であって、白糸の片思いから始まった恋で、説得力に欠けるが、この激しい恋が、この歌舞伎の太い導線で、しがない芸人と言う悲しさ、妻にしてくれと言えない白糸の苦衷を、歌六演じる春平が、切々と語って泣かせる。

   この歌舞伎の舞台は、歌六を筆頭にして、裁判長の吉之亟など、年季の入ったベテランが脇役陣を固めていて捨てがたいが、白糸の壱太郎や欣弥の松也、南京寅吉の彦三郎などの主役級の役者は、皆、若手中堅で、よくやっているとは思うし楽しませて貰ったが、いかんせん、芸の未熟さは、隠しきれないし、もう一つ、説得力と感動に欠けて、芝居に位負けしている感じであった。
   尤も、ずっと前に、團十郎の金色夜叉を見て、何となく違和感を感じたので、必ずしも、ベテランの大役者が演ずべきだとは思わないが、この泉鏡花の「義血侠血」を読めばわかるが、このような綺麗ごとの舞台ではなく、もっと庶民的でドロドロした泥臭い芝居であったはずで、その意味では、壱太郎も松也も、優等生過ぎると言う感じがしたのである。
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映画「グレイテスト・ショーマン」

2018年03月25日 | 映画
   この映画の主人公のP.T.バーナムは、「ショービジネス」の概念を生み出した人物で、19世紀アメリカの実在の興行師であり、映画は、その半生を描いたミュージカル映画である。
   色々紆余曲折を経ながら、ウィキペディアによると、サーカス・動物園・フリークス・蝋人形展示をない交ぜにしたエンターテインメントを巡業させる「地上最大のショウ」を設立し、サーカス団の規模の拡大に伴い、馬車での移動では全米中の興行が困難となり、その解決策としてサーカス業界初の興業列車を発案して立ち上げたと言うことで、「グレイテスト・ショー」と言うのは、サーカスのショーである。
   この映画では、常設劇場が焼き払われて窮地に立ったバーナムが、ブルックリンでテントのサーカス小屋を立ち上げて、大々的な今日流のサーカス興行に至ったところで幕を下ろしているが、このサーカスの一番の呼び物は、バーナムがロンドン動物園から買い取ったアフリカ象のジャンボだったと言うことのようで、巨大な像が出てくるなど壮観である。

   この映画では、小人症の男、大男、髭の濃い女、全身刺青の男、結合双生児の兄弟など、世間から隠れるようにして生きていた様々な人を集めて芸人に仕立てて、フリーク・ショーのサーカスショーを始めて大盛況となるが、批評家や市民から激しい抗議を受け、バーナム一家は裕福にはなったものの、上流社会からは見向きもされず、真面に認知されなかったことを描いているが、
   実際にも、ワシントンの元乳母の黒人奴隷の女性や、有名な矮人を「親指トム将軍」として見世物にしたようで、また、この映画のように、スウェーデンの女性歌手・ジェニー・リンドと全米公演を行なったり、ヨーロッパ巡業を行なって、ヴィクトリア女王にも面会したのも事実のようである。

   全てを失って失意のどん底にあったバーナムが、パブで酒に溺れているところへ、前述のショー仲間が全員で押しかけてきて、彼にサーカスを再建するよう説得する。サーカスが、いまや自分と団員たちにとっては、みんなが家族そのものであると同時に、人生最高の生きがいとなっていたことを悟るのである。
   やはり、映画であるから、最後は、身分違いのフィリップとアニーが結ばれ、バーナムはフィリップにショーマンの座を譲り、リンドとの不倫を病んで別居していた妻の元に帰って家族との絆を取り戻すと言うハッピーエンドで終わっている。

   私が観たのは、IMAX。
   前面の壁全体がスクリーンになっていて、迫力抜群の音響に包まれた映画劇場での観劇であるから、実際のミュージカルの舞台を観るのとは少し印象が違った、もっと臨場感のある、凄い時間であった。
   「ラ・ラ・ランド」のグループの作品だと言うことだが、WOWOWの録画でしか見ていないので、多少、印象が違うが、とにかく、美しい音楽が迫力満点のサウンドで迫り、ダイナミックで躍動するミュージカルとサーカスシーンが、これでもかこれでもかと、息もつかせず展開されるのであるから、とにかく、楽しい。

   私自身、レックス・ハリソンの「マイ・フェアレィディ」や、ユル・ブリンナーの「王様と私」など、ニューヨークのブロードウェイやロンドンのウェストエンドなどで、結構ミュージカルを観ており、それなりに、ミュージカルを楽しんできているが、
   何度か書いたように、世界の4大オペラハウスで、本物の歌手が実際に登場しているオペラを観るのとは全く違った雰囲気ではあるが、映画であるMETライブ・ビューイングの魅力は捨てがたく、このような映画のミュージカルの良さも大したものであり、その魅力は、映画の映画たる所以であると思っている。

   この映画で、主役のP・T・バーナム -を演じるのは、ヒュー・ジャックマン。
   あの「レ・ミゼラブル」で、感動的なジャンバルジャンを演じきった映画俳優であり、実力は証明済み。
   とにかく、素晴らしい。
   フィリップ・カーライル の ザック・エフロン、チャリティ・バーナム の ミシェル・ウィリアムズ、ジェニー・リンド のレベッカ・ファーガソン、ローレン・アレッド(歌部分)、アン・ウィーラー -のゼンデイヤ 夫々 適役で上手い。
   私の場合、オペラファンなので、グランドシアターの大舞台でNever Enoughを華麗に歌うジェニー・リンド のレベッカ・ファーガソンの素晴らしいステージは圧巻であり、歌手のローレン・アレッド(Loren Allred)をWikipediaなど英語バージョンのインターネットで検索したら、この映画のシーンは勿論、Never Enoughの素晴らしい歌声が聴けて楽しませてくれた。
   
   

   監督のマイケル・グレイシーは、
   Michael Gracey is an Australian director and visual effects artist.Gracey made his feature directorial debut in 2017 with The Greatest Showman.Gracey is also slated to direct an adaptation of manga series Naruto.
   オーストラリアの監督でビジュアル・エフェクツ芸術家、この映画が初作品で、TVアニメNARUTO -ナルトにも参画とか。
   素晴らしい初作品で、将来が楽しみである。

(追記)口絵写真などは、HPやインターネットから借用。
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茅ケ崎・・・氷室椿庭園は満開

2018年03月24日 | 鎌倉・湘南日記
   寒さが、一気に緩み始めたので、氷室椿庭園に出かけた。
   今年は、わが庭の黒椿ナイトライダーが開花したので、少し、椿の季節が早まった感じで、氷室椿庭園も最盛期であった。

   しかし、見たかったのは、卜半系統の唐子咲きの綺麗な花だけだったのだが、残念ながら、昨年も樹勢が悪かったので、間引かれたのか、そこだけ整地されていて、その花は消えてしまっていた。
   昨年と一昨年の写真を思い出に。
   奥まった隠れたような位置に咲いており、近づいて写真を撮れなかったので、良い写真を撮れていなかったのが残念である。
   
   
   
   

   この椿庭園には、何本か同じ種類の椿が植わっていたり、椿がかなり大きくなっているので、同じ種類の椿であったり、同じ木でありながら、枝替わりなどで、花が微妙に違って面白い。
   玉之浦でも、覆輪の白い部分の大きさが違ってくるし、
   普通のヤブツバキのような花でも、唐子咲きのような雄蕊に変わってしまう。
   この枝替わりの枝を挿し木や接ぎ木にして新種を生み出す。
   
   
   
   
   

   千葉の庭で大木になっていた崑崙黒がたわわに咲いていて懐かしかった。
   ここの椿は、殆ど開き切って、このような宝珠様の花弁は少なかった。
   
   
   

   別に意識してではなかったが、結構、唐子咲きやそれに近い花の写真を撮ったような気がするので、アットランダムに、並べてみる。
   要するに、蕊が殆ど消えてしまった椿なのだが、時々、蕊のある花が咲くので種を結ぶことがあるし、接ぎ木挿し木で増やすことが出来る。
   
   
   
   
   
   
   
   この椿庭園の創設者氷室さん作出の「氷室雪月花」は、次の花。
   
   

   あまり、色々な種類の椿が植わっており、名前を憶えても、写真と名前が一致しないので、いくらか写真だけを並べておく。
   この日は、一眼レフに、もう、30年以上も前に買ったマクロレンズ105mmを、F2.8の開放のまま、絞り優先で撮り続けた。
   自然の造形に、感嘆しきり、
   このかけがえのない素晴らしい自然界のエコシステムを、破壊の窮地に追い込んでも、屁とも思わない大統領が居ると言う悲しさ、
   レンズが曇り始めたので、これで置く。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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わが庭・・・椿:式部、越の吹雪、ナイトライダー

2018年03月22日 | わが庭の歳時記
   唐子咲きの「式部」が咲き始めた。
   濃紅色の外弁に、赤白交じりの唐子咲きの一重咲きの凛とした椿で、門構えの両翼の花壇に植えている。
   唐子咲きは、好きな椿で、雄蕊が花弁状に変化しており、卜半とは、この中心の唐子模様が、違っているだけだが、色彩が混じっている分、雰囲気としては、少し華やかである。
   それに、式部の場合には、雄蕊の黄色が顔を出していて愛嬌がある。
   
   
   

   わが庭では、昨年咲かなかったし、比較的花付きの悪い「越の吹雪」は、今年も、数輪蕾をつけただけだったが、やっと咲いた。
   まず、咲いた一輪だが、ラッパ咲きでまだ開き切ってはいない。
   雪椿で、斑入り葉が美しい椿で、花は、赤色の小輪で一重咲き、侘助の雰囲気である。
   
   
   

   黒椿ナイトライダーも花開いた。
   日本の古典品種の黒椿とサルウィンツバキ系の‘Ruby Bells’を交配してニュージーランドで作り出された品種とかで、一寸雰囲気の変わった八重咲の黒椿で、小輪だが、凛とした風格があって良い。
   千葉の庭から移植したので、もう10年以上になるが、枯れかかったりしてまだ小さくて、私には、難しい椿である。
   
   
   

   ピンク加茂本阿弥や青い珊瑚礁、トムタムが、綺麗に咲き続けている。
   王冠も、完全に開いて、15センチ以上の豪華さである。
   
   
   
   
   
   
   

   何故か、わが庭の雪柳は開花が遅くて、やっと咲き始めた。
   昨秋庭植えした紅照手桃が、色づき始めた。
   
   
      

   バラが、新芽を勢いよく吹き出し、ユリも動き始めた。
   牡丹や芍薬の花芽もはっきりと形を表し、アジサイの新芽が茂り始めて、愈々、わが庭の花々も、華やかなプリマヴェーラへスタンドバイである。

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国立演芸場・・・国立名人会:柳家喬太郎の「ハワイの雪」ほか

2018年03月21日 | 落語・講談等演芸
   今回の第416回 国立名人会 のプログラムは次の通り

   落語「錦の袈裟」 柳家喬之助
   落語「夢の酒」 入船亭扇辰
   上方落語「しじみ売り」 林家染二
      仲入り
   浪曲「狸と鵺と偽甚五郎」 玉川奈々福 曲師:沢村美舟
     国友忠=作 玉川奈々福=補綴
   漫談 寒空はだか
   落語「ハワイの雪」 柳家喬太郎

   この名人会で、興味深かったのは、染二や喬太郎の落語にしろ、奈々福の浪曲にしろ、しみじみとした人情噺とも言うべき味のある物語が語られたことで、私などこのような話の方が面白く、楽しませて貰った。

   まず、喬太郎の「ハワイの雪」は、自作の新作落語とか。
   雪深い上越高田に、何年も浪人と留年を重ねて、コロンビア大新潟分校(?)で学んでいる孫娘めぐみと住んでいる留吉のところへ、幼馴染で子供の頃に結婚を約束していた、今、ハワイに住んでいる千恵子の孫ジョージ藤川から、そろそろお迎えが近く留吉留吉と言い続けていると言うairmailが届く。
   商店街の腕相撲大会で、優勝すれば、ペアのハワイ往復航空券がもらえると言うので、85歳以上のディープシニアの部に出場して、恋敵で積年のライバルであった酒屋の清吉の粋な計らいで優勝して、めぐみとハワイに飛んで行き、千恵子と涙の再会を果たす。
   手を握って昔を懐かしみながらしみじみと語りながら再会を喜んでいるところに、ハワイには珍しい雪がちらちら舞い降りて、掌に降った雪をかき集めて二人で、幼い頃に一緒に雪かきをしようと言った約束を果たす。次に同じ土地に同じ年周りにに生まれてきたら必ず所帯を持とうと語る。
   千恵子は静かにあの世に旅立つ。

   留吉が土産に、保冷剤を10も詰め込んで持ってきたのが、高田の雪、
   空っぽになっていたのが泣かせる。

   そんな話だったと思うのだが、大学生のモダンギャルの冴えた会話とじいさんの世間離れした対話が、いわば、語り部的な役割を果たしていて、25分ほどの今様人情噺で、喬太郎の語り口は抜群に上手く感動的である。
   英語が書いてあったレターを、めぐみは、エスペラントなどと言う死語になったような言葉を習っていて英語が分からないと言うのも面白いが、フリガナが打ってあると言うのが何とも言えないギャグ。
   ハワイで、めぐみが、ブロークン英語で語りかけたら、父が落語好きでレコードを聞かされ続けていたと言って、ジョージは、べらんめえ調の江戸弁で受け答えしたのでビックリ。
   雪深い上越高田と常夏のハワイを雪で美しくつないだところが良い。
   歌舞伎の「じいさんばあさん」のしみじみとした舞台を思い出して、感慨深かった。

   染二の「しじみ売り」は、上方落語で、今宮神社の10日戎の日に、12~3歳の幼い子供が、貧しい出で立ちで寒さに堪えて、しじみを売っており、親方は、それを買って事情を聞くと、売れっ子芸者の姉が居て、入れ込んだ若旦那は勘当されて、二人は商売を始めたが失敗し、病身の母を養うために、しじみ売りをしていると言う。
   この親方は、姉夫妻が、安治川で心中しようとしていたのを、集金してきた金を全部与えて助けた本人でもあるのだが、幼いしじみ売りにも、お母さんにと言って2両与え、しじみ売りは意気揚々と天秤棒を担いで帰って行く。
   やはり、関西弁で聴く人情噺は、何となく、温かさが増すような気がする。

   ところで、江戸落語になると、この親方が、茅場町の魚屋和泉屋次郎吉親分、裏では義賊の鼠小僧次郎吉と言うことになって、噺はよく似ているのだが、登場人物や場所は関東に代わる。

   入船亭扇辰の「夢の酒」は、若旦那が夢で、さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけて、歳の頃24~5のいい女が現れて、呼び込まれて酒を進められて酔った弾みに怪しくなる、と言った話をおかみさんにしたらおおむくれ。
   おかみさんに泣きつかれて、そのいい女を探して意見をするべく、寝かされた酒好きのおやじも同じような夢をみて・・・
   とにかく、扇辰のおかみさんやいい女の語り口や品の作り方など、女性そっくりと言うか臨場感たっぷりで、目の動きなど顔の表情は、ビックリするほどで、色気さえん感じさせて秀逸である。

   喬之助の「錦の袈裟」は、何回か聞いている噺。
   町内の若い職人衆が、吉原に遊びに行き、妓楼で、錦のふんどしで芸者たちの度肝を抜こうとして乗り込むのだが、抜け作の与太郎が、妻の入れ知恵で、お寺の和尚さんから錦でできた袈裟を借りてきて締めて行き、あの一行はお大名、今の華族さまに違いなく、前に輪がついたふんどしの、一番おっとりした人がお殿さま、と間違われた与太郎は大もて。
   早朝に返却すると約束して借りた袈裟で、花魁が「今朝は返さない」と言うので、「お寺をしくじっちゃう」。
   吉原に言ってよいかと女房の許しを求める与太郎も与太郎で、全くたわいもない噺だが、上方落語の「袈裟茶屋」を吉原遊廓に置き換えた江戸落語とか、とにかく、喬之助の名調子が冴えている。

   玉川奈々福 曲師:沢村美舟の浪曲「狸と鵺と偽甚五郎」が素晴らしかった。
   上智を出た魅力的な才媛の奈々福が、私の浪曲のイメージを 完全に変えてしまった。
   浪花節と言う感じの歌うような語り口はメインだとしても、会話調のパートは、完全に落語家と変わりなく、熱中すると、綺麗な相好を崩しての熱演で、非常によく分かり、日本古典芸能の奥深さを感じて興味深い。
   三味線の美舟は、美人曲師。
   文楽の太夫と三味線とは、また違った芸のコラボレーションで、正に、語りの伴奏と言う域ではなく、二人の演者が、同時に語り演じている感じで、迫力が凄い。

   ストーリーは、
   江戸の大工留五郎が、信州滞在の甚五郎に弟子入りしようとやってくると、本陣宿に、物の怪が祟っているので厄落としに鵺の像を彫れば10両与えると言う張り紙を見て、甚五郎がすでに滞在していると言う。
   恐る恐る弟子入りを願い出ると、その甚五郎は、和泉村の与平という百姓で、貧窮して、娘を売ろうとしたが、貼り紙を見て金欲しさに甚五郎を騙った、代わりに鵺を彫って助けてくれと懇願されて、止む無く引き受ける。そこへ、母親狸を助けてもらったお返しにと子狸がやってきて鵺に化けたので、急いで逃げ去る。 そこへ、留五郎と子狸が座っていた切り株のところに、宿を断わり続けられていた汚い爺いがやって来て、この切り株に見事な鵺を彫って立ち去る。これが本物の甚五郎で、粋な巨匠の伊那路のいたずらだと言ういい話。

   流石に国立の名人会。3時間の束の間だが、楽しませて貰った。
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国立劇場・・・3月歌舞伎「増補忠臣蔵」「梅雨小袖昔八丈」

2018年03月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎は、2本立て。「増補忠臣蔵(ぞうほちゅうしんぐら)本蔵下屋敷」「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)髪結新三」である。

   意欲的な作品だが、人間国宝の吉右衛門や菊五郎の出演する大舞台と違って、役者が小粒と言うことなのであろうか、空席が目立って寂しい。
   出演者は、次の通り。
   『増補忠臣蔵』
桃井若狭之助   中村鴈治郎
三千歳姫     中村梅枝
井浪伴左衛門   市村橘太郎
加古川本蔵    片岡亀蔵 ほか
   『梅雨小袖昔八丈』
髪結新三      尾上菊之助
白子屋手代忠七   中村梅枝
下剃勝奴      中村萬太郎
紙屋丁稚長松    寺嶋和史
家主女房お角    市村橘太郎
車力善八      尾上菊市郎
白子屋下女お菊   尾上菊史郎
白子屋娘お熊    中村梅丸
家主長兵衛     片岡亀蔵
加賀屋藤兵衛    河原崎権十郎
白子屋後家お常   市村萬次郎
弥太五郎源七    市川團蔵 ほか  

   『増補忠臣蔵』は『仮名手本忠臣蔵』の増補作品で、桃井若狭之助とその家老・加古川本蔵の絆を描いた作品で、『仮名手本忠臣蔵』の九段目「山科閑居」で、虚無僧姿の本蔵が大星由良之助を訪ねる前日譚である。
   高師直に賄賂を与えて主君若狭之助の命を救った本蔵は、そのとばっちりを受けて刃傷に及んだ塩冶判官を背後から抱きかかえて制止した張本人。
   塩冶判官の本懐を遂げるべく仇討に向かう大星由良之助の息子大星力弥と本蔵の息女小浪とは許嫁関係であり、破談を回避して娘の願いを叶えるために、本蔵は、力弥に討たれるべく山科の大星邸に向かう、その前日の若狭之助との感動的な別れの一幕である。

   加古川本蔵行国は、実説忠臣蔵にはない架空の人物であるが、この『仮名手本忠臣蔵』では、非常に重要な登場人物であり、特に、名舞台である九段目「山科閑居」では、座頭役者が演じる最もドラマチックな舞台である。

   今回の舞台では、賂大名として揶揄されて苦悩する若狭之助が、本蔵お手打ちに見せかけて、奸臣の井浪伴左衛門 を一刀のもとに切り捨てて、本蔵に本心を吐露して感謝する主従の最後の邂逅とも言うべき感動的なシーンである。
   娘可愛さに死を決している本蔵の本心を見抜いて、若狭之助は、暇を与えて、選別に虚無僧衣装一式と高師直邸の絵図面を与える。
   正に、九段目「山科閑居」の複線であり、続けて観れば、よく分かって面白いと思う。

   明治30年(1897)12月京都南座で、初代中村鴈治郎が若狭之助を勤めて好評を博し、その後、二代目中村鴈治郎に引き継がれ、三代目中村鴈治郎(現・坂田藤十郎)も平成11年7月に大阪松竹座で手掛け、東京の大劇場では65年ぶりの上演となる今回、当代の中村鴈治郎が初役で勤める。と言う4代継承の舞台である。
   NINAGAWA十二夜の舞台で、翫雀時代に、七つ道具を背負ったコミカルタッチの右大弁安藤英竹を演じるなど、個性豊かな芸域も広い鴈治郎にとっては、久しぶりの目も覚めるような風格と威厳のある殿様ぶりで、やはり、上方役者4代の値打はある。
   登場人物の少ない1時間の1幕ものだが、三千歳姫の中村梅枝、井浪伴左衛門の市村橘太郎、加古川本蔵の片岡亀蔵 夫々、適役で上手い。
   特に、片岡亀蔵は、「髪結新三」で、家主長兵衛を演じていて、あくの強い個性的なマスクとキャラクターを生かして、大活躍で、魅力全開であった。

   髪結新三は、材木問屋白子屋の娘・お熊の婿取りの話を知って、お熊と恋仲の手代・忠七に駆け落ちを唆してお熊を誘拐し、身代金を得ようと企む。
   婿取り話を進めた善八の依頼で、お熊を引き取りに来た名うての親分・弥太五郎源七を威勢よくやり込めて突っ返して悪の凄みを見せたものの、老獪な家主・長兵衛には歯が立たたずコテンパンややられて説得されて、示談金30両の半分を、片身をやると言った初ガツオの話に託けて、かすめ取られると言うストーリー。

   とにかく、悪賢くて悪どいチンピラヤクザ風の新三が、人生酸いも辛いも知った老獪な大家に、徐々に遣り込められて行くと言う落差の激しさが面白い。
   前半は、新三の傍若無人な人を人とも思わない、しかし、姑息な悪の凄さが、平凡な庶民を窮地に追い込むのだが、後半は、強がりを屁とも思わない老獪な大家に、自己流の論理が通用せず、手玉に取られて、頭の回転の止まった新三の狼狽ぶりと陥落。
   ところが、この談判中に、大家の家に泥棒が入って、盗まれた金品と、自分からせしめた15両を差し引いて、大家が大損したと知って留飲を下げるあたりなどは、新三のチンピラのチンピラたる所以で、正に、落語の世界。

   この舞台は、明治6年(1873)6月中村座の初演で五代目菊五郎が髪結新三を演じ、さらに六代目尾上菊五郎が練り上げて持ち役とし、当代の尾上菊五郎も継承し、今回、五代目以来受け継がれてきた新三を、菊五郎の監修の下、尾上菊之助が初役で演じる。と言う、すなわち、4代の舞台である。

   これまでに、勘三郎や三津五郎の髪結新三を観ていて、面白かったと言う印象が強いのだが、菊之助の新三は、非常に、ダイナミックでメリハリの利いた威勢の良い新三
で、溌溂とした江戸の粋と言うか、上方とは違った悪の華の華やかさがあって、非常に楽しませて貰った。
   これも、鴈治郎の舞台同様に、艶やかな美しい女方の菊之助のイメージの方が強いので、菊之助の新境地を観た思いである。
   今回、髪結新三の尾上菊之助の長男・寺嶋和史が、「白子屋見世先」に紙屋丁稚長松として登場しており、可愛くて器用な舞台を見せていて観客は大喜び。
   何しろ、人間国宝の菊五郎と吉右衛門の孫であり、世襲が命とも言うべき梨園のことであるから、将来、どんな至芸を見せてくれるか末恐ろしい限りである。
   
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古書店での本との出合いの面白さ

2018年03月18日 | 生活随想・趣味
   読書が趣味と言えば趣味と言えるが、私にとっては、人生の一部そのものである。
   したがって、暇があれば、神田神保町や東京の大型書店に立ち寄っている。

   その時、結構、神保町の古書店を回わる。
   私が古書店で本を買うのは、新古書、古書店に流れた新本の、主に、経済学書や経営学書で、いわゆる、古本の類は買わない。
   定価でも、普通、2500円止まりなので、それ程気にすることもないのだが、興味深いのは、どんな本が、古書店に回って来るのかを知ることと、偶には、高価な専門書が2~3割安で手に入ることであろうか。

   ところが、古書店を梯子していて、時々、気付いていなくて、興味深い本を見つけることがあるので、この時は、経年などの損傷程度で、人の手が入っていないような本なら買って読むことがある。
   第一、自分自身が本の情報を得て、カバーできる本など限られていて、気付かなくて立派な本はいくらでもある筈で、そのために、書店を歩き回っているのだが、無造作に何の脈絡もなく、古書店の店頭のワゴンなどに並べられている本に魅かれることがある。
   大型の立派な書店では、類型的なディスプレィで、新本主体であり、何の面白みもないのだが、このワゴンの中には、何故、こんなところにこんな本が紛れ込んだのかと思うような本があったりして、興味を持つことがあって面白いのである。
   今は、アマゾンなどがあるので、どんな本でも探せて不自由はないのかも知れないが、廃版や絶版になった古い本など、まず、新本の書店にはないであろうし、古書店でしか、その実物には接し得ないのである。

   先日、神保町の澤口書店の店頭で、
   黒澤明・宮崎駿著「何が映画か」1993年刊を買って、国立能楽堂の公演の帰途、車中で読んで、非常に面白かった。
   映画界の両巨頭が、かたや実写、かたやアニメの視点から、映画の世界について、興味深い話に蘊蓄を傾けて語っており、とにかく、魅かれて一気に読み通した。
   話題に出てくるシーンのショットが出てくるのは勿論、多くの映画のカットや背景写真などが随所に挿入されていて、私など、黒澤作品や宮崎駿作品を結構熱心に見続けていたので、興味津々であった。
   因みに、時間が許せば、この書店で500円以上本を買うと、二階の窓際で、マシーンで抽出した珈琲などを頂けるサービスがあり、靖国通りを見下ろしながら、小休止のひと時を過ごせるのである。

   もう一つ、最近で面白かったのは、
   高峰秀子・松山善三著「旅は道づれ ツタンカーメン」昭和55年刊。
   夫婦で旅立ったエジプトの旅行記である。
   個々に、紀行記を綴っていて、それを合体したようなもので、私の関心事である歴史遺産の旅物語であり、それに、映画界で秀でた芸術家肌の二人の本なので面白いであろうと思ったのだが、夫々の個性や視点の差などが出ていて興味深かかった。
   エジプトの古代遺跡を巡る旅でもあるので、多少学術的な記述もあるのだが、出会った人々との触れ合いや普通の夫婦と変わらない感情のもつれなど、とにかく、旅と言う非日常の異次元の世界に入ると、心が開放されるのであろうか、旅の過程での思いを自由に綴っているので、緩急自在、楽しく読める。
   これまで、高峰秀子の本は、何冊か読んでおり、非常に文才のある知性豊かな文章で、感心しながら楽しませて貰っていた。

   こんな思い出は、いくらでもあって、書けばきりがないのだが、これも、本を読むと言うことのみならず、善き人との出会いが素晴らしいように、善き本との出会いと言うのも、私の読書の楽しみの貴重なエレメントではないかと思っている。
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わが庭・・・椿:青い珊瑚礁、至宝、王冠、ミリンダ、トムタム

2018年03月17日 | わが庭の歳時記
   雨上がりの朝、一気に、椿がほころび始めた。
   少し大きくなった庭植えの椿、タマグリッターズやピンク加茂本阿弥やフルグラントピンクは、派手に咲いていて華やかである。
   
   
   

   ラッパ咲きの中輪の深紅の花は、青い珊瑚礁。
   口絵写真の日陰で撮った写真は、まずまずとして、日に当たると濃い赤の花弁となる。
   青紫に近い色を出すためには、これからの栽培の工夫次第のようである。
   
   
   
   

   至宝。
   まだ、咲き切っていないので、至宝本来の美しい造形には至っていないが、それでも、風格のある優雅な椿である。
   咲く前の、宝珠咲きも中々雰囲気があって良い。
   今年は、昨年よりも、青い色が後退して、赤紫の花色になったが、土壌や気候条件によって、色が変化をするのが面白い。
   この椿、昨年挿し木したのが活着しているので、時間はかかるが、楽しみである。
   
   
   
   

   たった一輪しか咲かなかった王冠。
   白地に紅覆輪一重平開咲きの椿で、真ん中の雌蕊を囲んで、梅芯のようの大きく開いた雄蕊が優雅で、大輪で独特な姿の肥後椿。
   それに、ピンクの八重咲のミリンダ。先日の王昭君の雰囲気で、淡いピンクが美しい。
   よく似た、白覆輪のトムタム、咲き切るまで、中心の宝珠は維持していて優雅である。これまでに、何回か咲いていたのだが、花弁がヒヨドリに落とされて写真にならなかった。
   
   
   
   
   
   
   

   まだ、蕾が固い椿は、エレガンス・シュプリーム、エレガンス・シャンパン、ナイトライダー。
   黒椿は、何故か、開花が遅い。
   
   
   

   今一番、わが庭で咲き乱れているのは、クリスマスローズ。
   エニシダが咲き始めた。
   あっちこっちの野辺にも、紫の花が目立つツルニチニチソウ。わが庭では、グラウンドカバーのような役割をしていて、重宝している。
   
   
   
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松原仁著「AIに心は宿るのか」

2018年03月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本を読んでいて、本題のAIに心は宿るのかと言う問題の前に、羽生七冠との対談を含めて、既に、AIは、将棋や碁、チェスなどの世界では、人知の敗北によって、シンギュラリティを超えてしまった。と言うことは知っていたが、
   4冠を達成した中学生棋士藤井六段が、将棋AIを味方につけて、大きな栄光を手にしたAIネイティブだと言うことに、興味を感じた。
   私の不勉強だが、藤井六段が、AIとのコラボレーション、いわば、サイボーグ紛いの棋士であることを知らなかったので、なるほど、勝負の世界はそこまで来たのかと言う驚きであった。

   五才ほどで480ページの将棋の教科書をマスターし、その才能を絶えず磨き、羽生をして、「歴史的快挙」と言わしめた偉業を成し遂げたのだが、その強さの側面に、将棋AIを駆使して練習を積んできた、将棋AIの評価値を見ながら将棋の研究を重ねて、AIがなくても評価値を判断できるようにする学習をしてきたと言う。
   彼の強さに、「隙のなさ」「踏み込みの鋭さ」があり、「肉を切らせて骨を断つ」に通じる棋風に表れていると言うのである。

   人間の棋士は、王将を取られたら負けなので、その恐怖心から王将を守ろうと必死になるのだが、AIは人間のような恐怖心がないので、王将を守ることなく、チャンスがあれば敵将を討ちに行こうとする「踏み込みの鋭さ」が発揮される。
   それに加えて、膨大な量の棋譜を学習している将棋AIは、局面におけるすべての駒の「間合い」を深く精緻に把握しており、どのような攻撃がどの程度のダメージになるかが非常に高い精度で分かっている。相手に致命傷を与えるためには、多少の「傷を負うことを厭わない戦法を取る。これが、人間の棋士に、「隙のなさ」「肉を切って骨を断つ」戦い方に感じられると言う。

   藤井六段は、これらの戦法を身に着けようとして、歴史的快挙を成し遂げたのであって、AIと人間と共進化して生み出した高い創造性であり、藤井六段の指し手は、AIとの一致率が高いとも言う。
   既に、人間の棋士は、将棋AIには、勝てないのであるから、限りなく将棋AIの棋法をマスターしてそれに近づいた藤井六段には、勝てないと言うことでもあろうか。

   羽生七冠は、将棋AIについて、全く異次元の存在になったという印象で、多くの棋士は、将棋AIは、人間の棋士の手が届かない遠くに行ってしまった存在だと考えている。と言っている。
   人間の棋士が、将棋AIから、「AIの手」を学び、自らの対局に応用するのがここ数年間で将棋界のトレンドになっている。危惧するのは、みんなが同じ将棋ソフトを使って研究したら、みんな同じような将棋になって、形の良しあしではなく、「ねじり合い」の将棋になることだと言うのが面白い。

   しかし、将棋AIは、いわば、24時間休むことなく、連戦に連戦を重ねてディープラーニングを続けているのであるから、どんなに進化して行くのか、恐ろしい話である。このまま、どんどん、進化して行けば、益々、創造性が豊かになって、個性豊かな多様性が生まれてくるのではなかろうかと言う気もしている。
   ロボットが、人間以上に感情豊かになって、ロボットと恋に陥る時代が、もう、そのすぐそこまで来ている、と言われている時代なのである。
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わが庭・・・椿:鳳凰・卜半咲く

2018年03月14日 | わが庭の歳時記
   急に温かくなって、春の花が、一気に動き出した。
   桜の開花情報だと、今年は、少し早いと言うが、さもありなん。
   わが庭の椿は、蕾が色づき始めて、もうすぐ、咲くのだろうが、
   まず、濃いピンクの大輪蓮華咲きの鳳凰。
   もう少し、切れ長の花弁を期待していたのだが、ゆったりとしたボリューム感のある花びらの圧倒的な感触は捨てがたい。
   細長く伸びた白い円筒形の筒の先に黄色い蕊が密集していて、面白い。
   
   

   もう一つ、綺麗に咲いたのは、卜半。
   この椿は、唐子が特色で、花弁の色が赤くて唐子が白い、この椿を月光、紅唐子を日光と言うのだが、唐子の色が複雑な混色で美しい椿があり、一度育てたいと思うのだが、まだ、手に入れることが出来ていない。
   
   

   咲き続けている椿。
   庭植えにした椿では、木の充実に時間を要するためなのであろう、今年咲かない椿が多い。
   ジョリーバー、ブラックマジック、ハイフレグランス、花富貴、天賜、曙、薩摩紅、
   それに、千葉から持ち込んで来た実生苗も、残念ながら、一本も蕾をつけなかった。
   
   
   
   
   

   春の草花は、日本スイセンが殆ど終わって、他の水仙やスノードロップが咲き始めた。
   何しろ、花木や庭木中心の庭なので、花壇は設けておらず、庭木の空間に、球根や宿根草をねじ込んでいると言った感じで、他の春の草花は植えていない。
   昔、玄関口の石段や、二階の窓の花棚などに、カラフルな草花を綺麗に咲かせて植えていたが、手間暇が大変でメインテナンスが厄介なので、最近は、花木や宿根草の花が主体となってしまっているのだが、林間の草花と言う感じも捨てたものでもないと思っている。
   尤も、イングリッシュガーデンのような風情の庭園も良いが、あれは、イギリスのように、冷涼で病虫害の少ないところだからできるのだと思って諦めている。
   
  
   
   
   
   春を迎えて、勢いよく、ユリやシャクヤクやボタン、それに、アジサイなどの芽が動き始めている。
   バラの芽も勢い付いてきた。
   ベルサイユの薔薇とアメジストバビロンの芽吹きは次の通り。
   
   
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箱根の自然風景の爽やかな美しさ

2018年03月13日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   日曜日、甲羅のハイアットリージェンシー・ホテルで一泊して、箱根でゆっくりと過ごす素晴らしい時間を得た。
   特に、温泉に入るとか、特別な目的があったわけではなく、長女夫妻が、我々に、箱根での休日をアレンジしてくれたのである。

   昨日、ガラスの森美術館での一時をレポートしたが、その後、芦ノ湖へ出た。
   もう何十年も前に、家族で休日を過ごして、富士の麓を車で旅行したときからであるから、全く久しぶりであった。
   港の畔の湖畔を散策して、寄せ木細工の店で、買い物をしただけで帰ったのだが、残念ながら、曇っていて、富士山は見えなかった。
   
   
   

   行き帰りに、仙石原のススキの原を通り抜けたが、豪快な枯れすすきの美しい風景が楽しませてくれた。
   大分前に、多少小規模であったが、えびの高原であったと思うが、秋であったので、ススキの美しい風景を展望して感激したのを思い出した。
   若草山のように、ここも、山焼きをしたらどうなるのか、凄いであろうと、つまらないことを考えてしまった。
   
   
   

   ハイアットリージェンシーでは、マウンテンビユーを楽しめるベランダのある角部屋を用意して貰えたので、窓から、箱根の自然風景を楽しむことが出来た。
   甲羅には、結構、ホテルなど施設が建て込んでいいるのだが、やはり、山間のリゾートであるから、それなりのムードのある雰囲気を醸し出していて、休息には格好の場所なのであろう。
   ベランダから、湯けむりやロープウェイ、向こう側の山の中腹の別荘の建物などが、遠望できる。
   窓は、南向きなので、右手から太陽が出て、左手に沈む、ゆっくりと、窓外の風景の移り変わりなど見たことが殆どなかったので、興味深かった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   翌朝、宮ノ下の駅にほど近いNARAYA CAFEで、小休止して、窓の外の対岸を観ていたのだが、向かいの山側が、丁度、屏風のように広がっていて、山肌の木々に風情があって、面白い風景を見せてくれていた。
   ハイアットリージェンシーの方もそうだが、春秋の花や紅葉のシーズンや、新緑の萌える頃には、極彩色の絵の具で絵をかいたような、美しい風景が展望できるのであろうと思う。
   富士ホテルで、ランチを取って、古い箱根も、それなりに楽しんだのであるが、この箱根の自然風景と味わいも、捨てたものではなかった。
   
   
   
   
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箱根ガラスの森美術館に遊ぶ

2018年03月12日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   東日本大震災の日3.11に、箱根のガラスの森美術館を訪れたら、入館料金が安くなっていて、その全額を寄付するのだと言って、珍しく駐車料も無料になっていた。
   館の心遣いと思いやりであろう。

   綺麗な公園で、丁度、ヴェネチア仮面祭をやっていて、本場ヴェニスの仮面とマントを無料で貸し出していたので、それを借りた若者のカップルや子供連れが館内のあっちこっちで、写真を撮っていたので、カラフルで彩を添えていた。
   
   

   美術館と銘打っているので、それ程、広い公園ではないが、綺麗に手入れされていて、ガラスのオブジェなどが光っていて、ヨーロッパ風の雰囲気を醸し出していた。
   館内の展示されている美術品などは、ヴェニスのムラーノ島のガラス工房とのコラボレーションであろうが、展示品もミュージアムショップの商品も結構立派な作品が並んでいて楽しませてくれている。
   
   
   
   
   

   何回か、ヴェニスを訪れており、ムラーノのガラス工房にも行って、素晴らしいガラス美術品の製造現場を見たり、沢山の作品を見て、ヴァネチアンガラスの凄さを実感した。
   面白い経験なのだが、2度目にガラス工房に行ったときに、私が持っていた日本製の高級一眼レフを、案内してくれていた工房のおやじがいたく気に入って、そのカメラを、この工房のどの作品を持って帰っても良いから、譲ってくれと、最後まで私に言い続けていた。
   今思えば、何百万もする凄い作品があったのであるから、交換すればよかったと思うのだが、あの時は、大事な記念写真撮影には代えられないと思ったので、断わった。
   今なら、交換して、ヴェニスのカメラ店に行って、新しいカメラを買って、旅を続けると思うのだが、当時は、その才覚さえなかった。
   
   さて、この日、興味深ったのは、園内のラ・カンツォーネと言うレストランで昼食をしていたら、一時間おきに、イタリア人歌手によるカンツォーネが演奏されていて、聞くことが出来たことである。
   イタリアン・ランチコースを取ったので、都合、2回聞いたのであるが、フニクラフニクラなどお馴染みのイタリアンソングを歌ってくれたので、楽しかった。
   歌手は、パオロ・マッティエッロとサルバトーレ・マニエリ
   メキシコやブダペスト、あっちこっちのレストランで、地元歌手の歌声やヴァイオリンなどを聞きながら、食事を楽しんだのを思い出した。
   
   

   もう一つ、今度は、ヴェネチアンガラス美術館のガラス泉の前で、ヴァイオリニストのアルベルト・デ・メイスの演奏会が開かれていた。
   ビバルディの四季の春を演奏していたが、いわゆる、マイナスワン・レコード、すなわち、独奏ヴァイオリンパートだけ抜けたオーケストラのレコード(この場合にはテープかCD)をバックにして、メイスが、繊細でで華麗なヴァイオリンを奏でるので、正に、コンサートホールで、四季を聴いているような雰囲気である。
   レ・ミゼラブルの・パートやクラシックのイタリア音楽を数曲聞かせてくれていたが、イタリアの建物内部を模した室内での演奏なので、ムード満点であり、楽しかった。
   これも、箱根のアミューズメントの一環なのであろうが、まずまずの雰囲気で楽しかった。

   食事の方は、まずまずであったのが、少し、残念であったが、まず、美術館であるから、こんなもんであろうか。
   
   
   
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