先日、NHK教育TVで、京都南座の恒例の顔見世公演を放映していたので見たのだが、大和往来恋飛脚の「封印切」は、正に、絶品であった。
近松門左衛門が、淡路町の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛が、新町槌屋の遊女梅川に唆されて、蔵屋敷に届ける公金300両の封印を切って着服して、その金で梅川を身請けして、二人で逃げたと言う事件を題材にして、浄瑠璃「冥土の飛脚」を書いたのだが、その歌舞伎版の核心部分であるのが、この「封印切」の段。
実話とは違って、梅川を張り合っている金持ちでどら息子の丹波屋八右衛門に、悪口雑言を浴びせられてその挑発に乗って、忠兵衛が、とうとう、公金である250両の封印を切ってしまい、その金で梅川を身請けはするものの、死罪を覚悟で逃亡せざるを得なくなる話になっている。
苦界から抜け出したい一心で、気が短いが純情一徹の忠兵衛を唆して封印切りに追い詰めたので、梅川は、したかな女と言うことで評判が悪いようだが、恋しくて恋しくて、ひと時も忘れられない若い二人に仕立て上げて、「冥土の飛脚」と粋なタイトルをつけて、シェイクスピアの向こうを張った近松門左衛門の心意気が素晴らしいと思っている。
尤も、オリジナルの文楽の話とは、歌舞伎の場合には大分違っていて、八右衛門を、本物の悪役に仕立て上げてしまっているところは、多少、大坂の情の世界から離れてしまって、奥行きを浅くしているように感じている。
忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤め、井筒屋おえんの玉三郎に左團次と言う東京歌舞伎のベテランが加わっての東西名優の競演と言う触れ込みの豪華な舞台で、非常に面白い。
藤十郎と秀太郎の醸し出す上方和事のしっぽりとした情感の滲み出た舞台は、正に様式美溢れる近松門左衛門の世界そのものであるばかりではなく、現在感覚にもマッチした出来栄えで、それに、本来二枚目俳優の仁左衛門が、軽妙で洒脱な(?)な何とも言えないやくざな助演男優賞ばりの素晴らしい舞台を見せていて、実に楽しませてくれた。
藤十郎は、実に若々しく、格好を付けたがるダンディな優男と言うべきか、一寸軽薄で煽られただけで徐々に激昂して切れて行く大坂の男を、実に、リアルに、現代タッチで演じており、さすがは、人間国宝・文化勲章である。
梅川への迸るような愛を胸に秘めながら、世間への恥や男の意地に翻弄されてわれを忘れて奈落へ落ちて行く悲しい男の意気地を叩きつけた演技が秀逸で、その人生に込めた万感の思いが、最後の花道での玉三郎のおえんとの「近いうちに」と交す有り得ない別れの挨拶で頂点に達する。
それに、名優を糾合しての座頭・藤十郎の力量が遺憾なく発揮された舞台でもあった。
本来ならおえんの筈の秀太郎が、恋に身を焼く乙女のような梅川を、思った以上に初々しく演じているのには、新鮮な驚きを感じた。
私は、秀太郎の若い頃の女形の舞台を知らないので、残念だと思っているのだが、近松の女がどうだったのか、素晴らしかっただろうと思って見ていたが、槌屋治右衛門に逆らって忠兵衛に身請けされたいと訴える健気さや、忠兵衛の説得で、浮世に未練を感じながらも心中を決心するあたりの心の襞の表現などほろりとさせて感動的である。
仁左衛門のこの性格俳優的な悪役は、以前に、いがみの権太で、上方歌舞伎風の本物の舞台を見て感激していたので、その延長とも言うべき、根性はどこか捻じれているが根っからの悪ではなく、愛嬌のある憎めない爽やかな雰囲気が実に良く、緩急自在の煽りと嫌味の連発で、忠兵衛の苦衷をあぶり出し、徐々に激昂へと追い込んで行く呼吸の確かさなど、流石である。
インタビューで、八右衛門の台詞は、あってないようなもので、私のオリジナルですと言っていたが、これこそ、仁左衛門の名優の名優たる所以で、元関西人の私には、正に納得である。
仁左衛門の現代劇的な演技に対して、伝統と様式美を堅持していた藤十郎の演技が、実にうまく融合していたのには感心して見ていた。
これらの上方歌舞伎の伝統を受け継ぐ名優に、玉三郎と左團次が、五分に構えての熱演は流石である。
このNHKの放映舞台を真っ先に見たシーンは、玉三郎のおえんが、忠兵衛をコテンパンに扱下ろす八右衛門に対して痺れを切らして、「いんでくれ」と啖呵を切るところで、一声を風靡した孝玉時代の名優二人の、時代を経て新境地を開いた舞台にたまらなく魅力を感じたのだが、上方歌舞伎の筈の近松の世界に、玉三郎がどっぷりと浸かった素晴らしい舞台に接して、引き込まれてしまった。
忠兵衛と梅川を離れに導いてしっぽりと語らせる場を設けたり、落ち行く忠兵衛を門口に立って静かに見送る姿など、この舞台の随所に滲み出るような愛情豊かな感動的なシーンが出てくるのだが、この歌舞伎の素晴らしさは、この助演女優賞ものの玉三郎のおえんあってのものだと感じている。
背の高い玉三郎の、藤十郎に合わせての膝を屈めての品のある演技が爽やかである。
槌屋治右衛門の左團次だが、梅川の身請けを八右衛門に頼まれて、その説得に井筒屋へ来るところからの登場だが、その存在感だけで十二分の価値がある。
非常に抑えた正攻法の演技だが、起伏の激しい舞台に安定感を齎して気持ちが良い。
私としては、殆ど関心を抱かなかったのだが、南座のこの顔見世だけは見たかったと、後で、後悔している。
残した録画DVDだけでも、収穫かも知れない。
(追記)口絵写真は、NHKTV画面から。
今年の大晦日は、毎年出かけていたベートーヴェン交響曲全曲演奏会は止めて、久しぶりに家族と紅白を楽しむことにした。来年は、ロリン・マゼールが振るようなので、出かけることになろうと思っている。
近松門左衛門が、淡路町の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛が、新町槌屋の遊女梅川に唆されて、蔵屋敷に届ける公金300両の封印を切って着服して、その金で梅川を身請けして、二人で逃げたと言う事件を題材にして、浄瑠璃「冥土の飛脚」を書いたのだが、その歌舞伎版の核心部分であるのが、この「封印切」の段。
実話とは違って、梅川を張り合っている金持ちでどら息子の丹波屋八右衛門に、悪口雑言を浴びせられてその挑発に乗って、忠兵衛が、とうとう、公金である250両の封印を切ってしまい、その金で梅川を身請けはするものの、死罪を覚悟で逃亡せざるを得なくなる話になっている。
苦界から抜け出したい一心で、気が短いが純情一徹の忠兵衛を唆して封印切りに追い詰めたので、梅川は、したかな女と言うことで評判が悪いようだが、恋しくて恋しくて、ひと時も忘れられない若い二人に仕立て上げて、「冥土の飛脚」と粋なタイトルをつけて、シェイクスピアの向こうを張った近松門左衛門の心意気が素晴らしいと思っている。
尤も、オリジナルの文楽の話とは、歌舞伎の場合には大分違っていて、八右衛門を、本物の悪役に仕立て上げてしまっているところは、多少、大坂の情の世界から離れてしまって、奥行きを浅くしているように感じている。
忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤め、井筒屋おえんの玉三郎に左團次と言う東京歌舞伎のベテランが加わっての東西名優の競演と言う触れ込みの豪華な舞台で、非常に面白い。
藤十郎と秀太郎の醸し出す上方和事のしっぽりとした情感の滲み出た舞台は、正に様式美溢れる近松門左衛門の世界そのものであるばかりではなく、現在感覚にもマッチした出来栄えで、それに、本来二枚目俳優の仁左衛門が、軽妙で洒脱な(?)な何とも言えないやくざな助演男優賞ばりの素晴らしい舞台を見せていて、実に楽しませてくれた。
藤十郎は、実に若々しく、格好を付けたがるダンディな優男と言うべきか、一寸軽薄で煽られただけで徐々に激昂して切れて行く大坂の男を、実に、リアルに、現代タッチで演じており、さすがは、人間国宝・文化勲章である。
梅川への迸るような愛を胸に秘めながら、世間への恥や男の意地に翻弄されてわれを忘れて奈落へ落ちて行く悲しい男の意気地を叩きつけた演技が秀逸で、その人生に込めた万感の思いが、最後の花道での玉三郎のおえんとの「近いうちに」と交す有り得ない別れの挨拶で頂点に達する。
それに、名優を糾合しての座頭・藤十郎の力量が遺憾なく発揮された舞台でもあった。
本来ならおえんの筈の秀太郎が、恋に身を焼く乙女のような梅川を、思った以上に初々しく演じているのには、新鮮な驚きを感じた。
私は、秀太郎の若い頃の女形の舞台を知らないので、残念だと思っているのだが、近松の女がどうだったのか、素晴らしかっただろうと思って見ていたが、槌屋治右衛門に逆らって忠兵衛に身請けされたいと訴える健気さや、忠兵衛の説得で、浮世に未練を感じながらも心中を決心するあたりの心の襞の表現などほろりとさせて感動的である。
仁左衛門のこの性格俳優的な悪役は、以前に、いがみの権太で、上方歌舞伎風の本物の舞台を見て感激していたので、その延長とも言うべき、根性はどこか捻じれているが根っからの悪ではなく、愛嬌のある憎めない爽やかな雰囲気が実に良く、緩急自在の煽りと嫌味の連発で、忠兵衛の苦衷をあぶり出し、徐々に激昂へと追い込んで行く呼吸の確かさなど、流石である。
インタビューで、八右衛門の台詞は、あってないようなもので、私のオリジナルですと言っていたが、これこそ、仁左衛門の名優の名優たる所以で、元関西人の私には、正に納得である。
仁左衛門の現代劇的な演技に対して、伝統と様式美を堅持していた藤十郎の演技が、実にうまく融合していたのには感心して見ていた。
これらの上方歌舞伎の伝統を受け継ぐ名優に、玉三郎と左團次が、五分に構えての熱演は流石である。
このNHKの放映舞台を真っ先に見たシーンは、玉三郎のおえんが、忠兵衛をコテンパンに扱下ろす八右衛門に対して痺れを切らして、「いんでくれ」と啖呵を切るところで、一声を風靡した孝玉時代の名優二人の、時代を経て新境地を開いた舞台にたまらなく魅力を感じたのだが、上方歌舞伎の筈の近松の世界に、玉三郎がどっぷりと浸かった素晴らしい舞台に接して、引き込まれてしまった。
忠兵衛と梅川を離れに導いてしっぽりと語らせる場を設けたり、落ち行く忠兵衛を門口に立って静かに見送る姿など、この舞台の随所に滲み出るような愛情豊かな感動的なシーンが出てくるのだが、この歌舞伎の素晴らしさは、この助演女優賞ものの玉三郎のおえんあってのものだと感じている。
背の高い玉三郎の、藤十郎に合わせての膝を屈めての品のある演技が爽やかである。
槌屋治右衛門の左團次だが、梅川の身請けを八右衛門に頼まれて、その説得に井筒屋へ来るところからの登場だが、その存在感だけで十二分の価値がある。
非常に抑えた正攻法の演技だが、起伏の激しい舞台に安定感を齎して気持ちが良い。
私としては、殆ど関心を抱かなかったのだが、南座のこの顔見世だけは見たかったと、後で、後悔している。
残した録画DVDだけでも、収穫かも知れない。
(追記)口絵写真は、NHKTV画面から。
今年の大晦日は、毎年出かけていたベートーヴェン交響曲全曲演奏会は止めて、久しぶりに家族と紅白を楽しむことにした。来年は、ロリン・マゼールが振るようなので、出かけることになろうと思っている。