釈迦堂を出て東へ少し歩き、左折れしてまっすぐ北に10分ほど歩けば大覚寺の山門に至る。
私のように散策を目的にして歩いてくる観光客は、比較的少なくて、大概の人は、京都駅や京阪三条からバスで来る。
平日だと、タクシーに乗ったり自家用車で来る人が、他の観光地よりも、何故か、いつも少ないような気がするのだが、やはり、このお寺は大分離れたところに位置している所為もあり、かなり通の京都愛好家か古社寺に関心を持った人が訪れるのであろうか。
時によって違うが、この日は、大覚寺に直接入らずに、先に大沢池を一回りしようと思って、右側に回りこんで池畔に向かった。
昔は、自由に直接アプローチして池畔を回れたと思っているのだが、相当前から大覚寺の管理下に入っていて木戸を通らなければならない。
少し時期が早いので、池畔の桜が咲き始めた程度で殺風景だが、周りには、立派な梅林や竹林もあり、池畔の桜が満開になったり、紅葉が錦色に燃える頃には素晴らしい景色が展開される。
平日の午後だと言う所為もあるが、とにかく、人は少なく、10人も入っていない感じで、素晴らしい空間が勿体ないような気になった。
大沢池は、嵯峨天皇の嵯峨院の庭池だが周囲1キロだと言うから、平安貴族たちが舟を浮かべて管弦の遊びを楽しんだ池だが、他の寺社や宮殿・城などの付属池と比べて桁違いに大きくて、オープンなのが素晴らしい。
洞庭湖には及びもつかぬが、とにかく広く、湖面には、天神島と菊が島があり、湖の中ほどに立つ庭湖石には、大きな鵜が2羽休んでいたが、綺麗な鴨の群れが池面を滑っていて、実に長閑である。
大覚寺と反対側の池畔からは、田園地帯が広く広がっており、遠くに緩い起伏の森や林が見晴るかせる。
学生時代には、ここから東に向かい、もっと大きな広沢池を越えて、仁和寺や竜安寺あたりまで歩いたことがあった。
名古曽の滝跡の傍に、巨大なサンシュユが鮮やかな黄色い花を満開に開いていて、その左右に寄り添うように立つ大きな枝垂れ桜もほぼ満開で、そこだけ、明るく光り輝いていた。
中年の女性画家が、構図を定めるために、折りたたみいすを移動させながら木の周りを動いていたが、写真だと実に簡単なのにと思いながら見ていた。
この口絵写真は、もう少し歩いてから、池の桜越しに大覚寺の建物を遠望したものだが、かなり寺域は広い。
大門を入って式台玄関までの左手に、嵯峨流の綺麗ないけばなが飾ってあり、流石に、嵯峨流の本拠地だと実感した。
嵯峨菊のふるさとでもあるのだが、ガーデニングと宗教学と言ったテーマの話でも聞けたら面白いと思った。
大覚寺は、流石に門跡寺院で、建物が豪壮であり、宸殿の狩野山楽の「牡丹図」や「紅梅図」のエネルギッシュな絵の素晴らしさもそうだが、型どおり置かれた「左近の桜」「右近の橘」の向こうに、白砂の広い庭を隔てて菊のご紋章も鮮やかな綺麗な唐門が見える風景など、スケールの大きさを感じる。
当然だが、橘が、小さな金柑様の実を付けていたが、桜は、咲き始めているものの満開にはもう少しである。場所柄、桜は、剪定が強くて可哀想だが、雛人形の飾りを思い出した。
この大覚寺は、南北朝の時代に、南朝の御所となったとかで、中々風格のある佇まいで、正寝殿には、後宇多法王が院政を執ったという「御冠の間」には玉座が設えられている。
この建物だったかどうか忘れたが、襖の下の板戸に、渡辺始興が描いたと言う色々なウサギの表情を展開した「野兎図」が面白かった。
中庭に真っ赤に咲く藪椿の、苔と白砂のはざまに散った落ち椿の鮮やかさが、胸に染みるほど美しい。
天竜寺もそうだったが、ここも、寺宝展は、4月に入ってからのようで、残念ながら、今回も見逃すこととなった。
この日、本当は、大沢池から、田んぼのあぜ道でも歩きながら、嵯峨野の田舎を感じたかったのだが、次に譲るとして、今回も、どうしても、太秦の広隆寺に行きたかったので、早々に大覚寺を後にした。
私のように散策を目的にして歩いてくる観光客は、比較的少なくて、大概の人は、京都駅や京阪三条からバスで来る。
平日だと、タクシーに乗ったり自家用車で来る人が、他の観光地よりも、何故か、いつも少ないような気がするのだが、やはり、このお寺は大分離れたところに位置している所為もあり、かなり通の京都愛好家か古社寺に関心を持った人が訪れるのであろうか。
時によって違うが、この日は、大覚寺に直接入らずに、先に大沢池を一回りしようと思って、右側に回りこんで池畔に向かった。
昔は、自由に直接アプローチして池畔を回れたと思っているのだが、相当前から大覚寺の管理下に入っていて木戸を通らなければならない。
少し時期が早いので、池畔の桜が咲き始めた程度で殺風景だが、周りには、立派な梅林や竹林もあり、池畔の桜が満開になったり、紅葉が錦色に燃える頃には素晴らしい景色が展開される。
平日の午後だと言う所為もあるが、とにかく、人は少なく、10人も入っていない感じで、素晴らしい空間が勿体ないような気になった。
大沢池は、嵯峨天皇の嵯峨院の庭池だが周囲1キロだと言うから、平安貴族たちが舟を浮かべて管弦の遊びを楽しんだ池だが、他の寺社や宮殿・城などの付属池と比べて桁違いに大きくて、オープンなのが素晴らしい。
洞庭湖には及びもつかぬが、とにかく広く、湖面には、天神島と菊が島があり、湖の中ほどに立つ庭湖石には、大きな鵜が2羽休んでいたが、綺麗な鴨の群れが池面を滑っていて、実に長閑である。
大覚寺と反対側の池畔からは、田園地帯が広く広がっており、遠くに緩い起伏の森や林が見晴るかせる。
学生時代には、ここから東に向かい、もっと大きな広沢池を越えて、仁和寺や竜安寺あたりまで歩いたことがあった。
名古曽の滝跡の傍に、巨大なサンシュユが鮮やかな黄色い花を満開に開いていて、その左右に寄り添うように立つ大きな枝垂れ桜もほぼ満開で、そこだけ、明るく光り輝いていた。
中年の女性画家が、構図を定めるために、折りたたみいすを移動させながら木の周りを動いていたが、写真だと実に簡単なのにと思いながら見ていた。
この口絵写真は、もう少し歩いてから、池の桜越しに大覚寺の建物を遠望したものだが、かなり寺域は広い。
大門を入って式台玄関までの左手に、嵯峨流の綺麗ないけばなが飾ってあり、流石に、嵯峨流の本拠地だと実感した。
嵯峨菊のふるさとでもあるのだが、ガーデニングと宗教学と言ったテーマの話でも聞けたら面白いと思った。
大覚寺は、流石に門跡寺院で、建物が豪壮であり、宸殿の狩野山楽の「牡丹図」や「紅梅図」のエネルギッシュな絵の素晴らしさもそうだが、型どおり置かれた「左近の桜」「右近の橘」の向こうに、白砂の広い庭を隔てて菊のご紋章も鮮やかな綺麗な唐門が見える風景など、スケールの大きさを感じる。
当然だが、橘が、小さな金柑様の実を付けていたが、桜は、咲き始めているものの満開にはもう少しである。場所柄、桜は、剪定が強くて可哀想だが、雛人形の飾りを思い出した。
この大覚寺は、南北朝の時代に、南朝の御所となったとかで、中々風格のある佇まいで、正寝殿には、後宇多法王が院政を執ったという「御冠の間」には玉座が設えられている。
この建物だったかどうか忘れたが、襖の下の板戸に、渡辺始興が描いたと言う色々なウサギの表情を展開した「野兎図」が面白かった。
中庭に真っ赤に咲く藪椿の、苔と白砂のはざまに散った落ち椿の鮮やかさが、胸に染みるほど美しい。
天竜寺もそうだったが、ここも、寺宝展は、4月に入ってからのようで、残念ながら、今回も見逃すこととなった。
この日、本当は、大沢池から、田んぼのあぜ道でも歩きながら、嵯峨野の田舎を感じたかったのだが、次に譲るとして、今回も、どうしても、太秦の広隆寺に行きたかったので、早々に大覚寺を後にした。