熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

春の嵐山・嵯峨野を歩く(2)~大覚寺と大沢池

2009年03月30日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   釈迦堂を出て東へ少し歩き、左折れしてまっすぐ北に10分ほど歩けば大覚寺の山門に至る。
   私のように散策を目的にして歩いてくる観光客は、比較的少なくて、大概の人は、京都駅や京阪三条からバスで来る。
   平日だと、タクシーに乗ったり自家用車で来る人が、他の観光地よりも、何故か、いつも少ないような気がするのだが、やはり、このお寺は大分離れたところに位置している所為もあり、かなり通の京都愛好家か古社寺に関心を持った人が訪れるのであろうか。

   時によって違うが、この日は、大覚寺に直接入らずに、先に大沢池を一回りしようと思って、右側に回りこんで池畔に向かった。
   昔は、自由に直接アプローチして池畔を回れたと思っているのだが、相当前から大覚寺の管理下に入っていて木戸を通らなければならない。
   少し時期が早いので、池畔の桜が咲き始めた程度で殺風景だが、周りには、立派な梅林や竹林もあり、池畔の桜が満開になったり、紅葉が錦色に燃える頃には素晴らしい景色が展開される。
   平日の午後だと言う所為もあるが、とにかく、人は少なく、10人も入っていない感じで、素晴らしい空間が勿体ないような気になった。

   大沢池は、嵯峨天皇の嵯峨院の庭池だが周囲1キロだと言うから、平安貴族たちが舟を浮かべて管弦の遊びを楽しんだ池だが、他の寺社や宮殿・城などの付属池と比べて桁違いに大きくて、オープンなのが素晴らしい。
   洞庭湖には及びもつかぬが、とにかく広く、湖面には、天神島と菊が島があり、湖の中ほどに立つ庭湖石には、大きな鵜が2羽休んでいたが、綺麗な鴨の群れが池面を滑っていて、実に長閑である。
   大覚寺と反対側の池畔からは、田園地帯が広く広がっており、遠くに緩い起伏の森や林が見晴るかせる。
   学生時代には、ここから東に向かい、もっと大きな広沢池を越えて、仁和寺や竜安寺あたりまで歩いたことがあった。

   名古曽の滝跡の傍に、巨大なサンシュユが鮮やかな黄色い花を満開に開いていて、その左右に寄り添うように立つ大きな枝垂れ桜もほぼ満開で、そこだけ、明るく光り輝いていた。
   中年の女性画家が、構図を定めるために、折りたたみいすを移動させながら木の周りを動いていたが、写真だと実に簡単なのにと思いながら見ていた。
   この口絵写真は、もう少し歩いてから、池の桜越しに大覚寺の建物を遠望したものだが、かなり寺域は広い。

   大門を入って式台玄関までの左手に、嵯峨流の綺麗ないけばなが飾ってあり、流石に、嵯峨流の本拠地だと実感した。
   嵯峨菊のふるさとでもあるのだが、ガーデニングと宗教学と言ったテーマの話でも聞けたら面白いと思った。

   大覚寺は、流石に門跡寺院で、建物が豪壮であり、宸殿の狩野山楽の「牡丹図」や「紅梅図」のエネルギッシュな絵の素晴らしさもそうだが、型どおり置かれた「左近の桜」「右近の橘」の向こうに、白砂の広い庭を隔てて菊のご紋章も鮮やかな綺麗な唐門が見える風景など、スケールの大きさを感じる。
   当然だが、橘が、小さな金柑様の実を付けていたが、桜は、咲き始めているものの満開にはもう少しである。場所柄、桜は、剪定が強くて可哀想だが、雛人形の飾りを思い出した。

   この大覚寺は、南北朝の時代に、南朝の御所となったとかで、中々風格のある佇まいで、正寝殿には、後宇多法王が院政を執ったという「御冠の間」には玉座が設えられている。
   この建物だったかどうか忘れたが、襖の下の板戸に、渡辺始興が描いたと言う色々なウサギの表情を展開した「野兎図」が面白かった。
   中庭に真っ赤に咲く藪椿の、苔と白砂のはざまに散った落ち椿の鮮やかさが、胸に染みるほど美しい。

   天竜寺もそうだったが、ここも、寺宝展は、4月に入ってからのようで、残念ながら、今回も見逃すこととなった。

   この日、本当は、大沢池から、田んぼのあぜ道でも歩きながら、嵯峨野の田舎を感じたかったのだが、次に譲るとして、今回も、どうしても、太秦の広隆寺に行きたかったので、早々に大覚寺を後にした。
   
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柳生真吾著「デジカメ散策のすすめ」~八ヶ岳山麓の自然との営み

2009年03月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   新幹線の中に持ち込んだ本が数冊、結局読んだのは、アスキー新書の2冊で両方とも写真の本だったが、面白かったのは、NHKの趣味の園芸のキャスターを務めていた柳生真吾の「デジカメ散策のすすめ」で、ガーデニングと写真が合体したような本だから、私の趣味に合っている。
   八ヶ岳山麓で雑木林を造って、ギャラリー&レストランを経営しながら山の生活をしている農学部出の著者であるから、当然、園芸やガーデニング、林業などはプロであり、その生活を通じての写真の楽しみの数々を開陳しているので、新鮮な驚きがあり楽しい。

   まず、野鳥の写真についてだが、やはり、山梨県の八ヶ岳南麓の雑木林の中にある「八ヶ岳倶楽部」の周辺に集まる野鳥だから、里にいる雀やカラスとは違って、珍しい小鳥の姿も多いのであろう。
   雪の上に降り立ったオオマシコという赤い小鳥の写真など極めて貴重だと思うのだが、やはり、野鳥好きのプロはいるもので、グーグルで「オオマシコ」と打って検索すると、もの凄く素晴らしい写真が続々掲載されているのにびっくりする。

   冬の撮影の楽しみは野鳥だと言う事で、家の傍に巣箱やえさ台を置いて訪れてくる小鳥の姿を家の中から写すのだと言う。
   ニコンのデジカメ一眼レフで、200ミリの望遠、すなわち、300ミリで、三脚を立てて撮っているようだが、やはり、野鳥は、コンパクトデジカメでは無理だということでもある。

   私の場合には、三脚など立てたことはないし、野鳥が傍に来れば適当にシャッターを切って撮っているということで、計画性などは全くない。
   森や林などでの野鳥撮影などは、まず、鳥との距離が遠すぎるので無理であるし、近くの民家の植え込みなどにとまっている小鳥を狙おうものなら怪しまれるのが落ちである。
   結局、わが庭を訪れて花木などに止まる野鳥を撮ることになるのだが、良い形になってシャッターチャンスに恵まれる機会は極めて少ない。
   
   椿などの花の蜜を求めて飛んでくる鳥や、色々な木の実を求めてくる鳥や、地面の昆虫などを餌とする鳥など色々な野鳥が飛んでくるが、何故か、気付くのは、夏鳥はツバメくらいで、冬鳥の方が多いような気がするのが面白い。
   渡りに成功して日本に辿り着く鳥は僅かで、まして、わが庭を訪れてくる鳥など、非常に稀有な筈だが、毎年、入れ替わり立ち代りやって来てくれている。
   今年は、もう、シベリアへ帰ったのであろうか、つぐみもジョウビタキもシメも見えなくなってしまった。

   私は、三脚を使わないので、すべて、花も野鳥も、カメラを手持ちで撮るので、手ブレを考えれば、300ミリの望遠が精々である。
   デジカメなので、450ミリということであるが、やはり、本格的に野鳥を狙うのなら、500ミリは欲しいと思っている。
   手持ちではぶれて駄目であろうが、カメラ本体とレンズ両方からの手ブレ補正機能がシンクロされれば、可能になるかもしれない。
   
   この口絵写真は、大きな野鳥が、花の散ってしまった枝垂梅の枝に止まったので、カメラを向けてピントを調整していると、もう一匹の野鳥が飛んできて戯れ始めた。
   飛んできた鳥は、私のよく知っているモズのオスで、先に止まっていたやや薄い褐色の鳥は、モズのメスだったのに、やっと気づいた。
   このブログにも載せたが二度目のメスの写真である。

   ところで、この番のモズの写真を撮れたのは偶然で、ファインダーを覗いて見ていたので、二匹がファインダーに入っていたのはほんの一瞬。シャッターチャンスはたったの二回で、オスはすぐに何処かへ消えてしまった。
   メスはくちばしに何か小さな木の実のようなものを銜えて、はしゃぐような格好で、両羽を小刻みに羽ばたかせている。小鳥も人間も同じなのである。
   偶然とは言え、このような写真が撮れることがあるので、写真がやめられないのかも知れない。

   柳生さんは、普段は、海外旅行でも、高級なコンパクトデジカメと高品質のカメラ機能を備えた携帯電話で押し通していると言う。
   実際には、重くて交換レンズの必要な一眼レフデジカメは、何か目的があって写真を撮ろうと思う時以外は中々使えないもので、私の場合も、旅だとか、外出して何か撮ろうとする時でも、キヤノンのIXYやニコンのCOOLPIXだけで通している。
   どうせ、プリントでは、Lサイズか、精々、はがきサイズか2Lサイズ程度にしか引き伸ばさないし、このブログに使う程度なので、十分である。
   1000万画素もあれば、たとえ多少トリミングしてA4程度に引き伸ばしてもびくともしないし、難を言えば、ボケ効果が欠けるとか少しは思うような写真にはならないことがあると言ったくらいだと思っている。  
   プロでない限り、カメラは、携帯性とチャンスがすべてだと思っているし、昔の銀塩カメラ時代と違って、随分カメラも良くなったし対応が便利になった。

   さて、柳生さんのこの本だが、
   身近にあふれる自然の世界も、よく観ると、謎や不思議だらけ。
   今まで気付かなかった、最高の贅沢に会える!
   いつも片手にデジカメを。
   と、帯に書いてある柳生流自然観察と写真術の指南書である。
   写真は、私の方が年季が入っているので、兎も角として、愛情を込めて自然に接し、日々の移り変わりを追いながらの素晴らしい写真の数々は、八ヶ岳山麓の冷気が漂い小鳥たちのさえずりさえ聞こえてくるような臨場感があり、それに、豊かな知識と経験で培ってきた自然観察の確かさは抜群で、読んで見て楽しめる楽しい本となっている。
   これは、柳生さんのパーソナリティであろうが、どこまでも素人っぽい優しい雰囲気を漂わせながらの語り口が新鮮で素晴らしい。
   それに、八ヶ岳倶楽部のホームページを開くと、柳生真吾の素晴らしい膨大な量の写真が掲載されていて、見るだけでも高原の息吹が漂ってくる。
   
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春の嵐山・嵯峨野を歩く(1)~渡月橋から釈迦堂、宝筐院へ

2009年03月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりの関西だったが、急に午後フリーになったので、東京へ帰るまで、奈良か京都に行こうと思った。
   昨年は、宇治と醍醐に出かけて、幸いにも桜の満開時期に遭遇して素晴らしい桜花爛漫の風情を楽しむことが出来たのだが、今年は、少し時期が早い。
   時間的にも遠出は出来ないけれど、天気も崩れそうにないので、嵯峨野の田舎を歩こうと決めた。
   日本橋のホテルからは、地下鉄直通で阪急京都線に入り、桂で嵐山線に乗り換えれば簡単に行ける。

   私は、初年度は宇治に下宿していたが、二回生になってからは、この阪急京都線で京大に通っていたのだが、天気の素晴らしい日などは、河原町四条の方には向かわずに、良く桂で乗り換えて、嵐山や嵯峨野で沈没していた。
   雪が深々と降りしきる美しい冬の日、青山秀夫教授が、「今日は、銀閣寺にでも行って雪景色を楽しんで来なさい。」と行って、野暮な授業を早々に切り上げたのを覚えているが、そんな大学であった所為もあり、あの頃の学生たちは、自分たちにとって何が最も価値的なのか考えながら、主体性を持って生きていたような気がする。

   当時は、このあたりも俗化しておらず、平家物語の世界と同じで、祇王寺や滝口寺などへは、正に、山の中を踏み分けてと言った感じであったし、大覚寺や大沢池なども、草深い田舎の風情の中にあった。
   この嵯峨野は、平家物語の舞台であり、軍記ものとはかけ離れた恋の物語が展開されていた所で、私は、特に、「葵の女御」の巻の、仲国が「小督」を尋ねて小倉山あたりを彷徨ううちに、高倉院を想いながら「想夫恋」を爪弾く小督の爪音が聞こえてくるくだりが好きで、このあたりもよく歩いた。
   「亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、・・・」

   祇王寺は、清盛が仏御前に気移りして寵愛を失った義王が、ひっそりと隠棲して結んだ草庵で、今では随分小奇麗になっているが、当時は、荒れ放題の佇まいで、季節毎に姿を変えて、桜の季節には軽やかに華やぎ、秋深い紅葉の頃には、錦を織り成したような極彩色に輝き美しかった。
   その小庵を回りこんで少し急坂を上って行くと寺とも思えないような質素な「滝口寺」があった。もう40年以上も行っていないので記憶は定かではないが、高野聖で有名な滝口時頼と、建礼門院の雑仕の横笛との悲恋の物語の舞台である。
   絶世の美女横笛と恋に落ちた時頼が、父親に許されず世を儚んで出家して嵯峨野奥深く隠棲するのがこの場所で、共に仏の道を歩みたいと露を踏み分けて尋ね来た横笛をつれなく拒絶して、仏道修行の妨げとなると高野山に逃げる(?)。
   その後、横笛は、奈良の法華寺で寂しく世を去る。滝口入道と横笛の15歳と14歳の幼い恋の物語だが、この古寺から少し北に歩くと化仏、少し南に下ると定家の草庵跡や去来の落柿舎に至るが、昔は、鹿が鳴いていたと言う。

   阪急嵐山駅は、嵐山側にあるので、中の島公園の向こうには、渡月橋を通して亀山公園下の料亭や観光街や小倉山が見えるだけで、絵葉書での定番嵐山風景を見るためには、渡月橋を渡って対岸に出なければならない。
   桜はまだちらほらで、殆どの木は蕾が固く、中の島公園の大きな枝垂桜だけが満開で人々が写真を撮っていたが、殆どの観光客は、桜など無頓着で、どんどん、渡月橋を渡って賑やかな観光街に向かって行く。
   私は、亀山公園を上って大河内山荘あたりから小倉山に入って化仏あたりまで歩こうとも思ったが、時々日が差し寒さも緩んで来たので、大覚寺まで出て大沢池を散策し嵯峨野の田舎風景を楽しもうと決めた。

   対岸に渡って桂川縁を西に下り、しばらく、川岸に座って、渡月橋越しに嵐山を遠望していた。
   嵐山の中腹の一角だけ桜が咲いているのであろうか白く浮かび上がっていたが、まだ、殆どはくすんだ初春の空気を漂わせていた。
   川岸の桜が一本だけ咲いていたので、枝越しに渡月橋を写したショットがこの口絵写真である。

   私は、観光客で賑わう商店街を、嵐電嵯峨駅を右にして北方向へ、釈迦堂である清涼寺を目指して歩いた。
   途中にある「美空ひばり座」だが、流石に時代の流れであろうか、派手な幟とは対照的に、殆ど観光客が寄り付いておらず閑古鳥が鳴いている風情であった。
   北に向かって歩き進むにつれて観光客が途切れ、嵯峨小学校に至ると住宅街となり、釈迦堂あたりに店がある程度で、渡月橋近辺の賑わいが嘘のようになる。

   今回は釈迦堂には立ち寄らずに、門前を左折れして、すぐ突き当たりにある宝筐院を目指した。
   この寺は、白河天皇の開設で、小楠公すなわち楠木正行首塚のあるお寺ながら、普段なら殆ど注視されない観光スポットだが、私には特別な思い出のある場所なのである。
   もう40年以上も前、京大の学部の学生の頃、大学連合の経済大会参加のための勉強会の合宿道場として、一週間ほど篭って勉強をしたことがある懐かしいお寺なのである。
   今では絶版になっているのであろうが、J.シュタインドルの「アメリカ資本主義の成熟と停滞~寡占と生長の理論」を中心に、ゼミの学生12人が勉強した。スタグフレーションの研究である。
   
   私がリーダーだったのであるが、別に厳しくしていた訳ではなかったが、日頃雀荘に入り浸り、川原町の飲み屋を徘徊していた同輩たちも、朝夕一緒に大人しく勉強し続けていたと記憶している。

   簡素な山門をくぐって押しベルを鳴らし、拝観を告げて400円也を支払って小さな木戸を開いて中に入った。
   殆ど記憶は残っていなかったが、合宿した書院や本堂が右手に並んでいて、左手から奥にかけてオープンな庭園が見通せる。
   白砂と青苔の地面に楓の木が一面に植わっている枯山水の回遊式庭園が広がっており、楓には、まだ葉が付いていないので、庭は広々として明かるい。
   それほど大きな木ではなかったが、これだけ楓一色に列植されていると、晩秋初冬の紅葉の季節には、どんなに素晴らしい光景が展開されるのだろうと思うと想像が限りなく広がる。

   小楠公の首塚から枯山水の岩山までの遊歩道の左右には、小株ながら色とりどりの椿が植えられている。植えて10年前後であろうか、ところどころ咲いているが、もう少し大きく育つと見事な椿の回廊となろう。
   庭園には、小さな枝垂桜や雪柳、ボケなどの花が咲いているが、大木など全くない優しい女性的な庭である。
   誰一人訪れる人のない静かな庭園に、小一時間、色々のことを考えながら佇んでいた。
   
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三月大歌舞伎・・・元禄忠臣蔵・夜の部

2009年03月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部と違って、夜の部の舞台は、重厚な3舞台を、團十郎、仁左衛門、幸四郎と3人の役者が、それぞれ大石内蔵助を演じることで、その豪華な競演が素晴らしい。
   討ち入り前に瑤泉院に別れを告げる「南部坂雪の別れ」を團十郎、討ち入り後の詮議「仙石屋敷」を仁左衛門、切腹当日の「大石最後の一日」を幸四郎が、それぞれにまったく違ったニュアンスで大石内蔵助を演じているのだが、何の違和感もなく、忠臣蔵を通して鑑賞できるのは、不思議なくらいである。

   この歌舞伎座版では、真山青果の原作にも、そして、国立劇場の舞台にも登場した「吉良屋敷裏門」と「泉岳寺」の2舞台が端折られている。
   四十七士に入りながら逐電したとして切腹に漏れた足軽の寺坂吉右衛門が、浅野本家へ報告のために、一味を離れて吉良門前から涙を飲んで立ち去る逸話や、大石が、討ち入り成功後、泉岳寺の先君冷光院の霊前に額づき、仇討ちの心中を吐露するくだりや、伯父に秘密を漏らして一味から抜けた高田郡兵衛が、攻め込んでくる上杉勢を一手に引き受けるので忠義の列に加えてくれと嘆願するも堀部安兵衛に恥を忍べと追い返される話、それから、吉良を討った一番槍か一番太刀かの功名争いなどの興味深い物語が、これらの舞台で展開されている。

   ところで、この歌舞伎では、討ち入りで吉良の御しるしをあげる決定的瞬間の場がないのだが、その経緯を、「仙石屋敷」の段の詮議で明らかにするのが真山青果版なのだが、その面白さは、シェイクスピア戯曲と同様、豊かで奥行きのある台詞劇にあるのだから、当然なのかも知れない。
   従って、古典歌舞伎、特に、江戸歌舞伎の荒事や南北物のような様式美も派手な見せ場もないが、役者に語らせることによって観客を感動させる。

   先の国立劇場も、今回の歌舞伎座の公演でも、大石内蔵助を3人づつの名優に分けて演じさせているが、聴かせる歌舞伎なら、かって、白鸚がやったように、一人の大役者に、最初から最後まで、一本の太い筋を通して演じて貰うのが、本来かも知れないと思っている。
   シェイクスピア劇の鑑賞は、イギリスでは、観ると言うのではなく、聴くと表現されているのだが、真山青果のこの劇も台詞も、実に豊かで、流れるような美しいリズムを刻みながら畳み掛けるように流れていて、正に、感動的である。
   実にシンプルながら重厚さの漂う、何の衒いもない美しい舞台セットが、劇的効果をいやがうえにも高めており、素晴らしい。

   「南部坂の別れ」は、瑤泉院への暇乞いなのだが、この舞台は、一念を吐露できないために、大石にとっては四面楚歌で、何かと赤穂浪士に肩入れしている同門の国学者羽倉斎宮(我當)に罵倒され、奥家老の落合与右衛門(東蔵)にも責められ、はては、仇討ちを示唆する瑤泉院(芝翫)にも相手にされず亡君の位牌への焼香さえ許されず立ち去らざるを得なくなる。
   落合に手渡した和歌集に託した誓紙血判を見て瑤泉院は事の次第を知って、深く降り積もった雪道を去ろうとする大石に、門の小窓から詫びるのだが、大石を迎えに来た寺坂吉右衛門(松江)に翌14日は吉良在宅と告げられ、大石は、15日の夜明けまでには吉報をと言って立ち去る。
   この場は、ほかの場と違って、やや、台詞回し以上にニュアンスの勝った腹芸が要求されるのだが、そのあたりは、流石に團十郎で実に上手い。
   瑤泉院は、前回の時蔵の方がイメージ的には近いのだが、今回の芝翫は、やはり、貫禄で、若くて美しい筈の瑤泉院だが、浅野家の奥方として、このような風格と威厳があってもよい筈だと思わせるところが名優の名優たる所以であろう。
   いつもながら、台詞がワンテンポ遅れるので、間が悪いのが気になる。
   東蔵は、前回もこの与右衛門を演じていたが、適役である。

   「仙石屋敷」は、大半、詮議を取り仕切る仙石伯耆守(梅玉)と、仇討ちの正当性を説く大石内蔵助(仁左衛門)との問答形式の台詞劇で、元々、討ち入りを高く評価している仙石が、幕府役人の手前、いろいろな疑問を呈しながら、大石の真意と一念を聞き出させながら、青果は、大石の口を通して忠臣蔵の意義を説き明かそうとしている。
   梅玉は、颯爽とした格好の良い仙石を、正に地で行くスタイルで、テンポ爽やかに演じていて気持ちが良い。
   仁左衛門の大石は、日頃の声音とは全く違ったどすの利いた口調で、滔々と持論を展開し、澱みがない。
   来月、玉三郎との共演で、優男の大坂のぼんぼんを演じるのだが、実に、幅と厚みのある役柄を縦横無尽に演じる器用さと言うか、スケールの大きさには感服する。
   ところで、ここで、冒頭、仙石屋敷を訪れて仇討ちを略記した口上書を持参する吉田忠左衛門を演じる彌十郎だが、先の「江戸城の刃傷」での多門伝八郎役もそうだが、今回は、役に恵まれた所為もあろうが、重厚な素晴らしい芸を見せてくれている。

   最後の「大石最後の一日」は、間山青果が最初に書いた忠臣蔵の舞台だと言うのだが、ここの主題は、大石の「初一念」で、細川家の嫡男細川内紀(米吉)に一生の宝となるようなはなむけの言葉が欲しいと言われて、大石は、「人はただ初一念を忘れるな」と告げ、浪士たちの死を見届けて、切腹の場へ向かう幕切れで、「これで初一念が届きました」と吐露する。

   仮名手本忠臣蔵の最終幕はぱっとしないが、この真山青果版は、劇的な場面こそないけれど、非常に味のある舞台で、この舞台の底本である覚書を書いた堀内伝右衛門(歌六)の頼みで、大石が、死の直前に、男装した親友の娘おみの(福助)と相思相愛の磯貝十郎左衛門(染五郎)とを合わせる心遣いなどきめ細かい人生の機微が描かれているなど、感動的でさえある。
   福助は、やや、うぶな乙女を演じようと無理に若作りを装って客席の笑いを誘っていたが、切々と訴えかける台詞回しの上手さは流石であり、前回の芝雀とは違った新鮮さを見せてくれた。
   磯貝の染五郎も、彌十郎同様に、先の「御浜御殿」の富森助右衛門役と合わせて重要な役回りを非常にエネルギッシュにこなして好演していた。

   この舞台のなんと言っても立役者は、大石内蔵助の幸四郎で、国立劇場でも演じており、今や、正に、幸四郎の十八番の舞台なのであろう。
   前回書いたように、私の大石内蔵助イメージは、かなり、インテリジェンスの高い企業家のような武士なので、幸四郎が通しで内蔵助を演じる機会が来れば非常に面白いと思っている。
   
   
   
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三菱UFJ信託銀行の端株処理対応のお粗末さ?

2009年03月24日 | 経営・ビジネス
   昔々、何十年も前に、当時在職していたA社の勤続表彰で、数十株かの同社株を貰ったが、海外勤務だったので、東洋信託銀行より関西の親元に送られてきていた。
   その後、帰国しても東京に移り住んでしまったので、僅かの株だし、全く、記憶から消えてしまい、そのまま、ほって置いたのだが、先日、何かの拍子に、親戚から、三菱UFJ信託から書類が来ていたので二度転送したと言う話を聞いたのだが、住所表示の間違いのためか、私には届かず受け取っていない。

   端株の処理かもしれないと思って、迷惑をかけても何なので、照会のために、三菱UFJ信託に電話を入れた。
   本人確認のために、名前や住所を聞かれたので、述べたが、住所の一字が抜けているので、本人だと確認が出来ないので駄目だと言われた。
   押し問答をしても仕方がないので、住居表示の変更があったのを記憶していたので、伊丹市役所に電話を入れて、旧住居表記も確認して電話をかけ直した。
   しかし、その表示でもなく、現在の住居表示の町名の上に一字が抜けているので、駄目だの繰り返しであった。
   
   現在の住居表示の上に何か漢字の一字が乗った町名や住居表示を調べたが、伊丹市にはないし、市役所も、住居表示は間違っていないと言う。
   三菱UFJに登録されている住所を見ないと分からないが、A社が、東洋信託に通知した住所が間違っていたのか、東洋信託の表記が間違っていたのか、有り得ない間違った住所が、銀行に登録されていることだけは間違いなさそうである。
   本人が、届け出たわけでもなく、書類を一度も見たことがなく、まして、正しくて正確な住所ではなく、全く本人が与り知らない間違っている住居表示を言えと言われても、いえる訳がない。

   しかし、いくら説明しても担当者は、A社に問い合わせて住所報告を正しくしたか確認しろと言う。
   何十年も前の担当者が誰でどのような通知を東洋信託にしたのか、記録など残っている筈もないし、確認しても、埒が明く筈がないと説明しても、とにかく、住所表記の一字が違っているので、本人確認は出来ないと言う。
   どうすれば良いのかと聞き返したら、他の手段でいくらでも本人の確認は出来る筈なのに、問題を株主の立場になって解決しようと言う姿勢は皆無で、一切何も行わずに、今後も、三菱UFJ信託から連絡が行くのでそれを受け取って、それで対応せよと剣もほろろである。

   もう、送られてきている住所には、1年前から記載の住居には家がなく、転送されているのでいつまでも人を煩わせるわけにも行かず困るのだと説明したが、本人の氏名住所と銘柄を、正確に確認出来なければ、本人確認は出来ないとの一点張りで、もうこれ以上前に進めず、馬鹿らしくなったので、電話を切った。
   念のため、転送したと言う親戚に連絡したら、この伊丹の住所で郵便局に転送依頼をしており、それに基づいて転送されて来ているのだから、絶対に間違いない、三菱の間違いだと言って怒る。(住所の一字違いで、今まで届いていたのかいないのか分からないが、ほっておいた私も悪いが、何十年もだから、不思議でもある。)

   本件は、電話での対応であったが、一次担当者2人が、証券代行部の上司に電話を振っての回答なので、全く、マニュアル人間によるスペアパーツ的な対応だが、正式の三菱UFJ信託の姿勢なのであろう。
   
   私自身、メガバンクの株主総会には良く出ていて、顧客株主が、銀行の対応がいかに悪いか、切々と訴えていたのを聞き流していたけれど、改めて、銀行の質の低下の一端に触れた感じである。
   しかし、一般人にとって、こんな場合に、問題提起するにしても、MUFGの株主総会でぶちまける以外に方法がないのが、何とも寂しい限りであるが、昨年、サブプライム処理でいい加減な回答をして逃げていたので、今年の株主総会は面白くなるかも知れない。
   当時、私の大学の学部の同級生のほぼ50%は銀行に就職しており、大半は今のメガバンクの旧構成銀行に勤めていた。私自身、海外で欧米銀行と切った張ったの経験をしていたので、如何に日本のバンカーが軟弱だと思ったかを彼らに語っていたのだが、久しぶりに思い出した。

   私自身は、監査やコーポレート・ガバナンスなどにたずさわって来たので、このあたりの顧客サービスやセキュリティ対策にも力を入れて勉強してきているので、その視点から本格的に論じるべきだと思ったが、今回は、事実だけの記録に留める。
   本件を、ブログに書いても良いかと、聞いたら、勝手だと言うことだったので、金融危機にあって信用を失墜しておりながら、信託銀行が、証券業務を代行している顧客企業の株主への対応・顧客への対応がこの程度なのだと言うことを、参考のために、とりあえず、記しておくことにした。
       
(追記)本件の顛末。
   A社に電話を掛けて調査を依頼したら、町名の後ろに「町」の字がついていた。
   現実には、町のついた地名は存在せず、前述したように、何十年も前のA社からの届出間違いか、東洋信託の記載間違いの結果であって、私の全く感知しないところである。
   残っている記録・記載がすべて真実であって、これに基づいてすべてを処理すると言う原則が、正しい事務管理であり、セキュリティ対応であろうか。
   1株の端株でも、何十万株と言う大量の株でも、処理事務は同じのようだから大変だとは思うが、社保庁の年金問題が典型的だが、イレギュラーなことが発生するのは常態であるのだから、何をどのように処理するのが最も合理的で顧客満足となるのか、もう少し考えても良いような気がする。(2009.3.25)
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ファリード・ザカリア著「アメリカ後の世界」その4~アメリカは没落するのか

2009年03月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   脱アメリカ世界を展望しながら、ザカリアは、アメリカがこのまま没落するのではないとしている。
   興味深いのは、先の覇権国イギリスと対比させながらのアメリカ論で、アメリカはイギリスとは逆に、良い経済と悪い政治が特色だとして、興味深い将来像を描いている。

   まず、イギリスだが、経済面の支配力を失った後も数十年間、抜け目のない戦略的見地と優れた外交の組み合わせによって、世界一の地位を守り続けた。
   アメリカ経済の台頭による勢力の均衡の変化を見て取ったイギリスは、勢力を延命させるために、アメリカと争うのではなく、アメリカの台頭に順応することに決めて、西半球の支配権を譲り渡しながら、巨大な利権を保持し続けたのである。
   イギリスの政治的役割と経済的能力は落ちる一方で、独伊の台頭と世界大戦で、経済大国の地位から完全に転落するまでは、シンガポール、喜望峰、ジブラルタル等の「五つの鍵」を抑えて、世界中の航路と海路を支配し続けて海の覇権を握り続けた。
   ヤルタ会談は、ルーズベルト、スターリン、チャーチルの3巨頭会談ではなく、2巨頭だったのだが、これは、イギリスに並外れた意志力と卓越した政治起業家チャーチルあったればこそで、彼の政治力のお陰で、イギリスは、20世紀の末まで、さまざまな大国の要素を保持することが出来た。

   あくまで、「悪い政治」ではなく、「悪い経済」が、世界の超大国としてのイギリスを葬ったと言うのがザカリア説の根幹である。
   何故、イギリス経済がそれほど悪かったのか。ザカリアは、一般に言われている産業構造の問題のほかに幅広い文化の影響も否定できないとしている。
   当時、支配層であったエリート的な地主階級などのイギリスの富裕層たちは、製造と技術をさげすむ風潮があり、オックスブリッジでは、科学や工学と言った実利教育を学ぶ代わりに、古代ギリシャ・ローマの歴史や文学や哲学などを学んでいたと言うのである。
   (私には、この風潮は、むしろ、イギリスの民主主義の発展と進化を促進した要因であり、リベラル・アーツの教養豊かで哲学を持った有能な経営者を育成する役に立ったのであって、ネガティブだとは思えないのだが。)

   一方、アメリカは、イギリスの凋落の要因となった「不可逆的な経済の衰退」などとは無縁で、その経済的覇権は、130年以上も続いている。
   アメリカの世界のGDPに占める割合は、ほぼ一定を保ち、100年以上もの間、25%以上を保っている。
   現在のアメリカも、依然、イノベーションと活力と起業家精神における優位さを示しており、その活力によって生み出された揺るぎない経済基盤と科学技術基盤に基づいた強大な経済力が、世界に冠たる強大な軍事力を支えており、アメリカ軍が、陸、海、空、宇宙と言うあらゆる場所を支配化において覇権国家の地位を維持し続けていると言うのである。

   アメリカは、これまでに、三度、優位性の喪失を懸念する事態に直面した。ソ連のスプートニク打ち上げ、原油危機と低成長、日本経済の台頭だが、アメリカのシステムが資源と柔軟性と復元力に富み、過ちを正す能力と認識を転換する能力を備えており、かつ、経済の衰退に注目した結果、アメリカは、衰退の危機を克服してきた。

   さて、ザカリアが悪いと指摘するアメリカの政治だが、現在、幅広い連合を作り出す能力と、複雑な問題を解決する能力を、アメリカの政治システムが失ってしまっている。
   無駄な支出と補助金のカット、貯蓄率の向上、科学技術教育の拡大、年金制度の安定化、実効性のある移民制度の創設、エネルギー消費の効率化等々、政策を変えて実行しさえすれば、これらの問題を解決出来るのだが、アメリカの政治システムは、大規模な妥協を成立させる能力を失ってしまっていると言うのである。

   過度の硬直化した時代遅れの政治システムは、金や、特殊権益や、扇情的なマスコミや、イデオロギー的な攻撃集団によって翻弄され、政治は、実利を取ったり、妥協を成立させたり、計画を実行に移すことが殆ど出来ないほど深刻な機能不全に陥っている。
   アメリカは、今や、”何もしない”政治プロセスを背負い、制度に命じられるまま、問題解決よりも党派争いに明け暮れ、、過去30年間で、特殊権益、ロビー活動、利益誘導型予算が増大する一方、格段に党利党略の度合いが強まり、目的達成の効率が落ちてしまった。
   アメリカの制度の特徴は、権力の分立、機能の重複、抑制と均衡にあり、これの制度下で前進するためには、両党派の幅広い連合と、党の方針に逆らう政治家が必要なのだが、これが機能しない。
   特に、深刻な問題を抱えている外交問題をはじめ、医療、社会保障、財政改革など悪化の一途を辿っていると言うのである。

   さりながら、アメリカは、サブプライム問題で引き金を引かれた今回の大不況の結果、経済もおかしくなり、政経同時に混迷の度を深めてしまった。
   政治的に安定しているように見えるのは、旧共産圏の中国とロシア、それに、一部の独裁国家だけで、わが日本国も、目も当てられないような迷走ぶりである。

   むかし、経済学は、政治経済学であったが、先祖帰りが必要であると同時に、政治経済の舵取りも、もっと深みのあるスケールの大きな学際的な発想と哲学を持たない限り、あらゆる分野で引き起こされている100年規模のパラダイム・シフトに対して、有効に対処できないのではなかろうか。
   オバマ政権への期待が大き過ぎて、前途に暗雲が垂れ込め始めているのだが、時間が経てば、むくむくと自律的に蠢き始める経済の回復が、案外、高邁な改革や理想の実現をなし崩しにしてしまう心配があるような気がしていることも事実である。
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有名人の推薦書やベストセラーは参考になるのか

2009年03月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   新学期が始まったり、入社式が始まる今のような時期には、新人に対して、どんな本を読むべきかと言った本のアドバイス特集が、雑誌などでなされている。
   この口絵写真は、先週、神保町の三省堂のビジネス書のベストテンのディスプレーであるが、勿論、ベストセラーと、良書(?)推薦書とは、違うので、一概には言えないが、一致しない場合が多い。
   結論から言えば、良書に巡り合うためには、一期一会、自分自身で苦しんで、良書を探す以外にないと思っている。

   私の場合には、小さな頃から、本は自分で、本屋さんに行って、自分で選んで買ってきて読み続けてきたので、一応参考にはするが、殆ど、ベストセラーにも、推薦本にも、影響されたことはない。
   図書館を利用したのは、精々、高等学校の図書館までで、京大にも、ペンシルバニア大学にも、立派な図書館があったが、殆ど利用しなかった。
   大分経ってから高校を訪れた時、懐かしくなって、図書館に出かけて自分が借りて読んだノイマンの「未来への道標」の貸出しカードを見ていたら、自分の名前と、ひとつ後輩の彼女の名前だけが残っていた。彼女とは直接話したこともなかったのだが、唯一の甘酸っぱい図書館での思い出である。

   また、友人などから本を借りることも殆どなかったし、また、借りても特別な本は別として、殆ど読むことはなかったように思う。
   結局、読みたい本は、すべて自分で選んで買ってきたし、その時読みたいと思って買った本だが、あんなに本と格闘し続けてきたにも拘わらず、その本さえも十分満足に読みこなしていないと言うのが正直なところである。
   
   ところで、誰にも、愛読書だとか座右の書だとかと言った特別な本があるようで、NHK BS2でも、「私の一冊 日本の100冊」と言う特集番組で、有名人たちが、自分にとって、こころに残る本とか大切な本として思い思いの本を紹介している。
   しかし、残念ながら、私には、その時々には、感激し素晴らしい本だと思ったことはあっても、今、最も心に残る本、大切な本は何ですかと聞かれて、この本ですと答えられる本がない。

   一番影響を受けた本は、何かと聞かれれば、おそらく、シュンペーターの「経済発展の理論」だと思うのだが、これさえも、学生の時以来、殆ど手にとってはいないし、結局、この本で学んだコンセプトが、その後の勉強や読書などによって、大きく増幅されて、私の頭の中で育ってきたということであろうか。

   本もそうだが、良く考えてみれば、一番影響を受けた人は誰ですかと問われてみても、また、世界中で、一番素晴らしい風景はどこでしたかと聞かれてみても、あるいは、あなたにとって一番・・・・・は何ですかと質問されても、いろいろあると言うか、ぼやけた印象しかなく、殆ど、これですと言って答えられないと言うことに気づいた。
   比較的、自分の考え方や意見などは、はっきりしているし、どちらかと言えば十分考えると言うよりは直感型で、ものをずばずば言う方なのだが、これには、自分でも不思議な気がしている。

   さて、本のことだが、特に仕事や問題意識がなければ、自然と書店や神保町に足を向けているのだから、私にとっては、本は趣味と言うよりも生活そのものであり、人生の活力の源でもある。
   いろいろな書物を紐解きながら、新しい発見や素晴らしい勉強の機会に遭遇したりすると、たまらなく嬉しくなる。

   先日も、あるセミナーで、安藤忠雄氏が、学生たちに、もっと本を読め、病気になるほど勉強しろと言っているのだと語っていた。
   読書を続けて行くためには、それだけの心構えと忍耐が必要で、必ずしも楽しいことばかりではない。
   漫画や通読小説など比較的読み易い本もあるが、専門書や学術書などは、時には難解で、正に真っ向から挑戦せざるを得ない場合が多いが、知との交流の楽しさ、真実を学ぶ喜びには、何事も代え難い。
   尤も、最近では、視聴覚関連のマスメディアやAVの発展進化などで便利にはなり、豊かな代替手段は随分増えたが、やはり、活字を通しての知の挑戦ほどの喜びはないのではないかと思っている。

   本としての活字文化の存在意義は、膨大な知識と豊かな文化芸術など、人類にとって深みと幅のある知的活動と知の保存伝承に向いており、ジャーナリスティックかつニュース的な情報手段としては、インターネット等代替手段で十分だと思っている。
   したがって、私自身は、日経や日経ビジネス、ナショナル・ジオグラフィック、Foreign Affairsなどほか数点、限られた新聞や雑誌を講読はしているが、新聞・雑誌・週刊誌などと言ったこの方面の分野のメディアは、縮小して行くだろうと思っている。
   シェイクスピアは、やはり、本で味わいたいが、カレント・トピックスは、紙媒体ではなく、インターネットで十分だと言うことである。
   
   歳をとると、先の人生が短くなってきて焦る所為かもしれないが、最近では、歴史や文化芸術と言ったスケールの大きな本よりも、経済や経営などの専門書を読むことの方が多くなってきているのが不思議だが、「おくりびと」ではないけれど、ぼつぼつ、自分の納棺の時に、納めて貰いたい本を決めておこうかと思ったりしている。
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三月大歌舞伎・・・元禄忠臣蔵・昼の部

2009年03月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   三月の歌舞伎座公演は、真山青果の「元禄忠臣蔵」だが、平成18年秋に三回に分けて国立劇場で上演された舞台を、昼夜に分けての公演であるから、多少省略されてはいるが、重要な舞台は踏襲されているので、筋は十分に通っており、同じように骨太で重厚な忠臣蔵の世界が展開されていて面白い。
   夜の部では、3舞台とも主役の大石内蔵助が登場し、團十郎、仁左衛門、幸四郎が、夫々内蔵助を演じるのだが、昼の部は、3舞台のうち、内蔵助が登場するのは、「最後の大評定」だけで、これは幸四郎が演じている。
   国立劇場の舞台では、この場面の内蔵助は、吉右衛門が演じており、兄弟ながら、ニュアンスがかなり違っていたような気がした。

   昼の部は、冒頭の「江戸城の刃傷」では、浅野内匠頭を、両舞台とも、梅玉が勤めており、その後、「最後の大評定」が続き、最後の「御浜御殿綱豊卿」の舞台は、2年前に、歌舞伎座で上演されており、新井勘解由だけが、歌六から、富十郎に代わっただけで、仁左衛門の綱豊卿、染五郎の富森助右衛門、芝雀のお喜世など主要な役者は同じなので、印象的には、懐かしくて素晴らしい舞台を反芻している感じであった。

   先の国立劇場の舞台と、今回の舞台とで、印象が大きく違ったのは、富十郎と歌六が、夫々、役を交代していることで、先の勘解由の場合とは逆に、「最後の大評定」で登場する重要人物である内臓助の竹馬の友であった井関徳兵衛が、富十郎から歌六に代わっており、私は、国立劇場のキャスティングの方が良かったと思っている。
   剛直で一本気の野武士のような浪人の凄まじさと哀れさは、内蔵助に対峙できる千両役者としての富十郎の真骨頂でもあり、学者新井白石としての品と風格は、もう少しあたりの柔らかくて芸の印象に幅のある歌六の方が向いているように思うし、仁左衛門の綱豊との相性も良いのではないであろうか。

   真山青果の忠臣蔵観は、はっきりしており、「最後の大評定」の最後で、割腹して果てようとする井関徳兵衛に対して、「内臓助は、天下のご政道に反抗するのだ」と吐露させており、
   「御浜御殿綱豊卿」の場で、綱豊卿が、新井白石に向かって、仇討ちを成功させて武士道が廃れた軟弱な元禄の世直しをしたいと示唆しており、
   同じ舞台で、助右衛門を挑発して、仇討ちの意思ありやなしやを詰問しながら、大学の跡目相続を願うと言う失策を犯しながら、これと相矛盾する仇討ちをしようとしてする葛藤と苦悶が、内蔵助を苦しめているのだと、綱豊卿に言わしめている。
   綱豊が将軍に、大学の跡目相続を言上されて許されると、仇討ちの目的が消えてしまうので、助右衛門が、御殿に来て能舞の舞台に登場する吉良上野介を闇討ちしようとするのを、綱豊卿に、「義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、本分をつくし至誠を致すことだ」と一喝させている。
   
   私は、これまでのブログでも触れたように、この浅野内匠頭の切腹事件は、当時、繁栄を極めて大きな収入源になっていた赤穂の製塩業に対して、将軍綱吉と吉良義央の幕府側が、強引に製塩技術と塩販売の利権の譲渡を要求しており、この利権争いが伏流にあると言う認識が重要だと思っている。
   殿中での刃傷とは言え、内匠頭は、即刻田村家にお預け、当夕刻庭先で切腹、夜に泉岳寺に埋葬と言う幕府の理不尽極まりない暴挙が罷り通った太平天国の元禄の世が透けて見えてくるのだが、いずれにせよ、惰眠を覚醒させるような赤穂義士の快挙(?)なので、江戸市中を熱狂させたのであろう。
   この事実を踏まえれば、仁左衛門が胸が空くような格好良く演じた綱豊卿の出番などなかった筈なのだが、これは、芝居の話なので、それなりに面白いとしよう。

   私が、この元禄忠臣蔵を見ても、仮名手本忠臣蔵を見ても、何時も思うのは、主人公とも言うべき大石内蔵助の実像である。
   この二種類の歌舞伎の舞台においても内蔵助像はかなり違っているし、実際には、どのような人物であったのだろうかと言うことである。
   これも、先の製塩業利権の争い同様に、近松門左衛門の九代目近松洋男氏の「口伝解禁 近松門左衛門の真実」からの知識だが、内蔵助は、京都で、門左衛門と一緒にスペイン人牧師から西洋文学や西洋事情を習っていたかなり文明開化したインテリであったのみならず、その後も、自由の身になった有名劇作家で、謂わば、今で言う敏腕ジャーナリストでもあった友人の近松門左衛門から、逐一、吉良・浅野の世評や政治情報を報告を受けており、知性と情報収集能力は抜群であった筈である。

   それに、当時も文化文明の中心であった京都や、経済の中枢であった大坂に頻繁に出入りして上流社会にも通じていたであろうし、言うならば、エクセレント・カンパニーの赤穂製塩株式会社のCEOでもあった訳であるから、並みの外様大名の城代家老とは、桁が違うのである。
   米の先物取引で、デリバティブの発祥の地だと言われていた当時の世界経済の最先端を行っていた大坂経済との関わりの中で、内蔵助像を描き直してみると面白いかもしれない。

   余談が長くなってしまったが、仁左衛門や梅玉の「御浜御殿綱豊卿」、そして、「江戸城の刃傷」や「最後の大評定」については、これまでに、このブログで書いたし蛇足になるので止めるが、幸四郎の内蔵助について一言。
   高麗屋の伝統を受け継いだ素晴らしい内蔵助像を確立した東西随一の歌舞伎俳優だと思うのだが、先に記した私の内蔵助像との絡みから考えても、今回の内蔵助については、芸に没頭しすぎて感情移入がやや過多で、自分で感激してしまって他の家来たちと同次元で感動を表現しているのには、多少違和感を感じたのを付記しておきたい。 
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スーパーは寡占化しているのか?・・・松岡真宏FR代表取締役

2009年03月19日 | 経営・ビジネス
   日経のセミナー「世界不況を乗り切る企業変革」で、フロンティア・マネジメントの松岡代取が、再生機構の経験などを語りながら、現在の日本の企業経営について、いくらかの既成概念に対する思い込みを指摘していて面白かった。
   その内の一つが、スーパーは、イオンとイトーヨーカ堂の二強に修練して行くような印象を与えているが、実は、近年、地方スーパーが全国スーパーを成長において凌駕しているのだと言うことを、小売業の業態別シェア推移を示しながら説いていた。

   M&Aなどが頻発していて離合集散が激しいので、単純には比較出来ないが、同じ小売業でも、コンビニや家電量販店や紳士服専門店などの大手集積は激しいのだが、スーパーとドラッグストアだけは、大手5社のシェアが下がっている。
   コンビニなどは、ローソンが、エーエム・ピーエムをM&Aし、更に、ミニストップを巻き込むと、殆ど、二強の世界となるのだが、スーパーとコンビニの業態や流通或いは顧客へのアクセスの差が出ていて面白い。

   最近、スーパーと言っても、車でしかアクセス出来ない郊外店では、大型のショッピングセンターと言った形で、総合店的な様相を呈し始めており、わが近郊でも、巨大なジョイフル本田やベイシアなどのショッピングセンター型の大型店が、スーパーを併設しており、スーパー機能だけでは成り立たなくなって、他機能を持った店舗の集積が必要となってきている感じである。
   
   ところで、松岡氏指摘の、全国スーパーと地方スーパーの推移だが、わが近郊でも、この現象が現れており、全国スーパーのイトーヨーカ堂が閉店したが、茨城県神栖市の本部を置くスーパー・タイヨーが気を吐いて頑張っている。
   タイヨーの戦略、即ち、生鮮3品(青果、鮮魚、生肉)が新鮮で豊富で、他に類を見ない安さを追求する地産地消の独特なマーチャンダイジングが効を奏しているのであろうか、もとより、高くて新鮮さに欠ける全国スーパーが競争できる相手ではない。
   尤も、タイヨーは、食料品だけの、店構えも貧弱なスーパーだなので、何でもありの全国スーパーと比較するのは無理だが、中途半端で戦略が明確に客に見えない全国スーパーと比べて、その地方の住民・顧客のニーズに密接に対応した姿勢が受けているのである。

   さて、全国スーパーだが、私は、今回のイオンの新戦略に注目している。
   衣料品や食料品など、取り扱う商品数を四割削減するほか、卸会社を通さないメーカーとの直接取引の拡大などで大手メーカー品3400品目を値下げするということだが、なかでも、「トップバリュ」等の独自ブランドの強化なども含めたメーカーへの直接介入に大きな意味があると思っている。
   
   以前から、ソニーやキヤノンの競争相手は、同業各社ではなくヤマダ電機だと言われているが、松岡氏の指摘する如く、家電量販店の快進撃は凄まじく、薄型テレビやデジカメの値崩れと急激な価格下落は、このヤマダ電機など量販店が牽引し、「価格コム」や「楽天」が煽り立てるネットショッピングとの相乗効果以外の何ものでもないと思っている。

   同じことを、はるかに以前から、ウォルマートが実践し、調達のはるか先の段階でメーカーを手玉にとって支配して「エブリデイ・ロープライス」を実現してきた戦略に、やっと、イオンも本格的に乗り出そうと言うことだが、これからが正念場で、消費者のWANTとNEEDSを適確に把握して、良い物を安く適切に提供することが出来れば、国民生活に大きく貢献すると思っている。

   これまで、政府の産業政策も、あまりにも、生産者中心で、国民の消費者としての側面への配慮が欠如していたので、消費者主権の回復が必須である。
   経済が成熟に向かえば向かうほど、内需の占める比重が重要さを増し、その掘り起こしのためにも、消費者の需要の促進が急務なのである。

   今、中国で、これまでアメリカへの輸出が経済成長を牽引してきたのだが、これが頓挫して経済の悪化を招いているので、内需拡大が必要だとして騒いでいる。
   発展途上の新興国では当然の経済政策であろうが、アメリカや日本のように、GDPに占める個人消費の比重が50%をはるかに超えている先進国では、この個人消費の維持拡大が如何に重要かは論を待たない。
   問題点だけの指摘に止めるが、内需拡大といえば、リチャード・クーも含めて、すぐに、公共事業の拡大だ政府支出の増加だと騒ぎ立てているのだが、もっと大切なことは、この個人消費支出を如何に拡大するかと言う経済産業政策にあることは間違いのない事実である。
   更に、経済から退場してしまって眠っている膨大な個人貯蓄を、如何に、目覚めさせて、マーケットに取り戻すのか、この適切な経済産業政策の実現以外に、日本経済の再生は有り得ないとも思っている。
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男の憩いの場を庭に作るはなし

2009年03月18日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   随分前のことだが、江尻光一さんの新書本で、庭に男の憩いの場「小さな温室」を作ろうと言う話を読んだ記憶がある。
   月光の美しい夜などに、温室に入って、月下美人漬けの美味しいお酒を味わいながら、至福の時間を過ごしてみるのも、おつなものではないかと言った話だったような気がする。

   温室を作るには、かなりの庭の広さが必要であり、余程、ガーデニングに興味を持っていない限り、いざ作って見ても、ただのガラス張りの倉庫になってしまうのが落ちだと思うのだが、要するに、男として、家の中に、自分らしさを取り戻せる憩いの場を持とうと言うことであろうと思う。
   ガーデニング好きにとっては、自分だけの温室を作って、好きな時に、そこに入って、大切に育てている植物に囲まれながら、気ままな時間を過ごすことが、如何に大切かと言うことであろうか。

   私は、二階にある自分の小さな書斎(?)が、狭い所為もあるが、どんどん本が増えて、書架に収まらず、積み上げただけではなく足の踏み場もなくなり、特別補強をしたものの、床が抜けると家内から言われ続けていたので、書庫と江尻さんの言う温室をも兼ねて、ジョイフル本田に行って、小さなワンルームの丸木小屋でも探してみようかと思ったことがある。
   しかし、イギリスにいた時住んでいたキューガーデンの家に、暖房つきのかなり大きな温室が併設されていたが、実際には、殆ど使わなかったことを思い出して、自然の厳しい日本で、冷暖房もないガラス張りの小屋を使える時期など限らており、邪魔になるだけだと気付いて止めてしまった。
   
   我が家だが、都心から離れた千葉なので、幸い土地に余裕があり敷地の半分以上は庭になっていて、木を植えたり草花を育てているので、多少庭らしくなっており、グリーンに囲まれた田舎の雰囲気を味わうことが出来る。
   もう、20年以上も経つので、無手勝流ながら、自分思いの庭になってきており、季節の移り変わりにともなって風景を変え、花が咲き、枯葉が散り、小鳥や昆虫が訪れて、楽しませてくれている。
   人生、楽しいことばかりではなく、むしろ、意に添わない苦しい時の方がはるかに多いような気がするのだが、庭に出て、草花の営みや小動物たちとの戯れを感じながら、癒されたり、自分なりの憩いの時間を持てた幸せは計り知れないほどある。

   気持ちの良い天気の日には、本を持って庭に出て、書斎代わりに小休止することがある。
   芝庭に、鋳物製の小さなテーブルとイス2客を置いてあり、日ごろは、鉢植えなどを上に置いて点景にしているのだが、その日は、コーヒーか紅茶の入ったマグカップに代えて、時間を過ごすことにしている。
   私の憩いの場は、書斎であるから、言うならば、江尻さんの温室設営の意図と同じことを、庭に実現しているのだと思っている。

   涼風に吹かれて小鳥の鳴き声を聞きながら、雰囲気を楽しむのが目的なので、肩の凝る本ではなく、気楽な本を読むことが多い。
   先日読んでいたのは、「スティーブ・ジョブズ iCon Steve Jobs」で、マッキントッシュ・コンピューター、iPod、コンピュータ・アニメのピクサーなどICT革命を地で行くイノベーターとしてのアップルの総帥スティーブ・ジョブズの八面六臂の大活躍ぶりのみならず、生身の人間スティーブ・ジョブズが、非常にビビッドに描かれていて面白かった。
   井深さんや盛田さんが始めた頃のソニーは、正に、このような状態ではなかったかと思いながら、夢を追うイノベーターの素晴らしさを実感していた。
   尤も、この本だが、本文だけでも500ページをはるかに超える大著なので、何日か掛かっている。

   こんなひと時、メジロが飛んで来て、傍の「港の曙」の花に戯れ始めた。
   傍らにカメラがあったので、撮った写真が、この口絵写真で、一頃、花の蜜を吸ってから勢い良く飛び去って行った。
   庭に、私がいるので、大きなヒヨドリは寄り付かず、メジロたちは、何時ものように追い払われずに、蜜を楽しめたのかも知れない。
   
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政治の混沌と民度の高さ

2009年03月16日 | 政治・経済・社会
   世界中が大不況の最中、歴史の転換点に立って人類すべてが呻吟しているにも拘わらず、日本の政治は迷走し、西松の巨額献金で民主党の小沢代表に飛び火するなど、政治も経済も、そして、社会も混乱と迷走の極に達している。
   国民の民意が反映されない政治に問題があることは自明だが、結局、日本人すべてが、もう少し賢くならなければならないと言うことに尽きると思っている。

   まず、一連のゼネコンに絡む不祥事の問題だが、建設業に対して、完全に自由競争にすればどうなるかを考えてみれば、問題の本質が見えてくる。
   巨大なカネが動き、利権が絡む建設事業には、談合や献金など非競争原理が働くのは、古今東西歴史が示す所で、日本だけでの問題ではなく、民度が低く遅れた国ほど、深刻な問題である。
   
   直接関係ないが、談合が深刻な問題であったオランダでは、もう、数十年前になるが、談合に対しては極めて重罰が課されて厳しく取り締まられていたのを思い出すが、
   当時、世界中に拠点を張って活躍していたトップ・ゼネコンの社長の息子が、デルフト工科大学を優秀な成績で卒業してシビル・エンジニアになったのだが、コネ就職は許されないので、オランダでは職に就けないため、インドネシアに渡って職を探すのだと話していたことがあった。
   一事が万事なのである。

   アメリカの場合でも、或いは、他の英仏などヨーロッパの国々でも、建設業における自由競争確保のためには、大変な努力が払われており、まず第一に、日本と比べて、民主主義の成熟度が、格段に高い。
   イギリスの金の掛からない選挙を実現するまでの苦難の歴史は、大変なものだが、この程度にまで、市民社会としての民主主義の質と国民の民度を上げない限り、序の口の日本の建設業関連の不祥事などは解決できる筈がない。

   民主党が主張する「公共事業を受注する企業からは献金を受けない」と言う言う極めて単純な政策さえ抵抗のある日本であるから、政治家も、そして、官民こぞって、現在の体制を抜本的に変えようとする意思はなく、不祥事が起こる度毎に、犬の遠吠えを繰り返すだけなのであろう。
   
   先に提起した建設業の完全自由化であるが、官庁による指名入札などの現行制度や多くの規制の存在が、現在の体制を作り上げており、これによって利している多くの既得利権者が存在し、これによって秩序が維持されている以上、日本では実現不可能なのであろうか。
   ゴルフなどスポーツには、フェアな競争を確保するために、ハンディを設けるなどルールや規制が必要だと言うのが、一般的な認識だが、この錦の御旗を隠れ蓑にして利権を守ろうとする、その最たるものが、日本建設業のシステムかも知れない。

   現在、世界的な大不況と経済的混乱のために、市場原理主義批判によって、資本主義の本質である筈のマーケット・メカニズムにまで、疑問を呈する風潮が強くなっているが、発展途上段階ならいざ知らず、競争原理が有効に働かない経済社会システムが機能するとは思えない。

   さて、建設業だが、例えば、地方の中小企業の受注を確保するための「官公需法」の実施の弊害の一例。
   本来、20キロメートルの高速道路の建設事業を、1キロメートルづつに工区分けして発注すると中小建設業に発注可能だが、受注しても施行能力がない場合が多いので、大半は大手に丸投げされて「上請け」と言う「下請け」とは逆の逆転現象が生じて、これが、政治などとの癒着現象を生み出す。
   一括発注すればはるかに安く施行出来るので経済効率の悪化は勿論、弊害が大きいのだが、この一例だけでも、このような法制度や政府による規制などで雁字搦めに構築されたシステムの問題点が分かる。

   大手ゼネコンの力の支配には、多くの問題を抱えているのだが、極端に言うと、ニューヨークの場合には、建設業の許可さえも必要とされていないと言う状態であることを考えれば、
   一度、現在の法制度や政府の規制などをゼロベースにして、白紙状態から、何を法制度で定めて何を政府が規制するのが良いのか、考え直すと言うのはどうであろうか。
   私は、建設事業については、多少荒療治であろうとも、極力、自由競争に近づけるべきだと思っている。
   
   何でもそうだが、規制があり制限があるから、裏をかいて儲けようと言う人が現れるのである。
   今回の一連の西松建設の巨額献金事件だが、政治資金規正法に則って処理しているので問題はないのだと言って政治家は逃げているが、ゼネコンとの癒着が問われているのだと言う厳粛な事実が、そもそも、政治家としての資格要件を欠いているのである。
   このような民主主義不適格の政治家を排除するだけの民度の高さを保つためにも、我々国民一人一人が賢くなる以外に道はない。
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ダンテ・フォーラム2009~精神と音楽の交響

2009年03月15日 | 学問・文化・芸術
   ”地上で最も甘やかな音を流して心を惹くメロディーも 雲裂きとどろく雷のたぐいだ。
   宝石のように天を飾ったあの麗しい碧玉の冠、天の竪琴の音に較べれば。”
   今道友信東大名誉教授は、ダンテフォーラムで、ダンテの「神曲」天国篇の一節を引きながら、「精神と音楽の交響」について語った。

   平等院の奏楽天女群像やフラ・アンジェリコの天使奏楽図で示されているように、宗派を超えてあらゆる高等宗教においては、天上の音楽の素晴らしさを説いているように、崇高な美しい音楽は、精神と交響することによって、この猥雑な世界から、人々の魂を洗い清め至高の高みへと導く。
   芸術音楽は、topos(場所)に支配されない垂直に立つ 限りなく自由な 超越志向の精神とあこがれの夢の結晶である。

   不遜にも、遅れて途中から聴講した所為もあり、私には、ダンテは程遠く、今道先生の高邁な講義を理解するのには、多少無理があるのだが、講義を聞く毎に、世俗に塗れて詰まらぬことにうつつを抜かして生活している自分を反省しながら、有難く聞いている。
   今道教授は、哲学者としても美学者としても大変な大学者で、ユーモアたっぷりながら仙人のような風格のある語り口で、人間として、心すべき大切なことを教えてくれる。

   自作の詩「チェロを弾く象」を朗読したが、この作品自体が、時空を超えた文化文明論を駆使しながら詠った、人類の未来を憂うる高邁な詩で、是非、機会を見てじっくり鑑賞させて頂きたいと思った。
   
   興味深かったのは、ピアニストのシューラ・チェルカスキーとの逸話で、芸術家の目的は何かと聞いた時に、彼があこがれだと答えたのに感激し、芸術も学問も、このあこがれが最も大切だと強調したことである。
   司会者の松田義幸氏が、あこがれだけでは食って行けないと発言したのに対して、確かに、あこがれは一文にもならないし、自分も仕事を得る為に乞食のように頼み込んだこともあるが、あこがれをなくしてしまったら、芸術家も学者もおしまいだと、毅然として応えていた。 
   崇高な魂へのあこがれが、美しい天国のような音楽に巡りあって交響し、至福の高みに止揚してくれる、そんなことを伝えたかったのかも知れないと思って聞いていた。

   三村利恵さんが、ザルツブルグの教会で聞いたフォーレのレクイエムに感激のあまり涙したと語っていた。
   心の中に良い音楽を思い出して、崇高な精神を呼び戻し心を高揚させる、記憶は良いものだと今道教授は語っていたが、そのためにも、よい音楽を聴いておくことが、まず、大切である。
   経験がなくても、美しい音楽に接して、琴線に触れて感激することもあろうが、しかし、音楽もそれなりの訓練と学習が必要で、やはり、素晴らしい音楽にあこがれ続ける姿勢は必要であろう。
   ベートーベンだけがまともな音楽家で、ハイドンもモーツアルトも、ただの職人にすぎないと言って憚らなかった三枝茂彰氏だが、天上の音楽とも言うべき音楽を作曲したモーツアルトが、人間を最も天国に近づけ得る作曲家であったと言うことを認識していないのは確かで、今道先生との落差は大きい。

   この後、ウィーンで活躍していたソプラノの白石敬子さんが、夫君の白石隆生さんのピアノ伴奏で、世界の桧舞台で歌った素晴らしいイタリア・オペラのアリアを聞かせてくれた。
   ヴェルディの「オテロ」から、「柳の歌~アヴェ・マリア」
   プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」から、「わたしの愛しいお父さん」
   そして、「蝶々夫人」から、「ある晴れた日に」

   九段南のイタリア文化会館での、休日の午後の至福の時間であった。
     
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ファリード・ザカリア著「アメリカ後の世界」その3~アメリカに似ているインド?

2009年03月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ザカリアは、インドの政治の不安定性や混沌とした複合的雑多な文化を内包した民主主義体制がアメリカに似ており、将来、アメリカと同じような道を辿るであろうと言う。
   覇権国として世界に君臨したイギリスとアメリカを対比させて、イギリスは政治は良かったが経済が悪くて国力が疲弊したが、アメリカは経済は良いが政治が悪い。インドは、そのアメリカと同じだと言うのである。

   現在のインドと似ているのは、19世紀のアメリカで、世界政治におけるアメリカの台頭を大きく遅らせたのは、国内の制約要因である。
   1890年代当時、アメリカはイギリスから世界一の経済大国の地位を奪取していたものの、外交と軍事の面ではまだまだ二流国に過ぎなかった。
   アメリカの強みは、その弱みで、アメリカの権力の源と言うべき活気溢れる社会は、経済を拡大させる一方、アメリカの台頭を阻害し、軌道からの逸脱を引き起こし、世界の舞台への関与を脆弱とさせた。
   長く続いたモンロー主義的なアメリカの孤立主義にも色濃く反映されたアメリカの外交政策であろうが、経済大国として驀進中のインドは、これと同じで、不一致と分裂、かつ、穴だらけで弱々しいインドの政治制度が足を引っ張って、世界のグローバル化が与えてくれる機会に堂々と対応出来ないと言うのである。

   インドと中国の成長レースを比較すれば、既に勝負がついており、インドが中国を追い抜くには、両国の軌道に夫々激変が起こり、その変化が数十年間継続される必要がある。
   しかし、最も可能性が高いシナリオは、中国の大きな優位が続くとしても、インドには、成長を続ける巨大経済、魅力的な民主政治、刺激に満ちた世俗主義と寛容精神のモデル、西洋と東洋に関する鋭い知識、アメリカとの特別な関係と言う長所を利用する手がまだ残っており、これらの力を結集させ、優位性を利用出来れば、第二位なのか、第三位なのか、第四位なのかは別にして、強力な総体となる、と言うのである。

   ここで言うアメリカとの特別な関係と言うことだが、世論調査によると、インドは、世界で最も親米的な国で、アメリカから極めて高い満足度を得ており、アメリカに対して強い好感を持っている。
    重要な点は、インド人がアメリカを理解していると言うことで、騒々しく開放的な社会と、無秩序な民主制度が共存するアメリカは、インド人から見れば自国そっくりで、また、アメリカの無制限な自由競争も、自国の資本主義とそっくりであると感じている。
   インドの都市生活者の多くは、アメリカを熟知し、アメリカ的な発言をし、アメリカの知人や親戚と交流を持っている。

   両国文化の橋渡し役となっているのが、ITT卒業生を筆頭に国を離れざるを得なかった優秀なインド人移民が作り上げたインド系アメリカ人のコミュニティであり、卑近な例においても、例えば、インドの驚異的な経済成長に点火したのもシリコンバレーのインド系技術者たちの力だと言われている。
   従って、インド人が国を離れる現象は、頭脳流失と呼ばれるが、実際は両国にとって頭脳増進と呼ぶべき現象が起こっているのだと言うのである。

   もっと重要なザカリアの指摘は、アメリカとインドの関係を、社会どうしのつながりと言う視点で捉えていることで、アメリカとサウジアラビアとの関係のようにほんの数十人の政府高官のみが繋がっている政府レベルのみの二国間関係ではなく、アメリカとイギリスやイスラエルのように、戦略的関係をはるかに超えた結びつきを築き上げつつあると言うことである。
   この点は、インドの核問題に対するアメリカの承認などを見ればよく分かるのだが、アメリカ在住の印橋のみならず、共通の言語と、似通った世界観と、高まるお互いの魅力が、ビジネスマンや非政府系活動家や作家など民間外交をも促進していると言う。

   しかし、アメリカとイギリスの場合と違って、アメリカとインドでは、似通っていると言う世界観にも大きな差があり、ヒンズー教などを背景としたインド独自の歴史や宗教や文化の違いのほか、利害の対立などもあり、アメリカとの外交政策など乖離があり、米印関係は平坦ではないことを、ザカリアも認めているが、いずれにしろ、中国や日本などの経済大国と比べれば、はるかに、米印関係が密接であることは自明であり、この米印コンプレックスの動向については、今後、注目に値すると思っている。

   ここでは、触れないが、ケント・カルダーが、著書「日本同盟の静かなる危機」や日経への寄稿などで警鐘を鳴らし続けている日米関係の希薄化と無関心については、このザカリアが指摘する米印関係を他山の石とすべきだと思っている。
   ザカリアは、ポストアメリカン・ワールドを主題にして本を著したが、アメリカの凋落は有り得ないとも言っており、私は、今後も、良好な日米関係が、日本の将来にとっては、最も重要な課題だと思っている。

   余談だが、このポストアメリカと言う英語を、アメリカ後と訳しているが、「脱アメリカ」と訳す方が適切だと思っている。
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映画をはしごした~「おくりびと」&「マンマ・ミーア」

2009年03月12日 | 映画
   ある日の午後、久しぶりに家内と一緒に映画館に行ってはしごをした。
   ワグナーのオペラの公演等を考えれば、連続4時間の映画でも別に気にはならないのだが、問題は、気分の切り替えが上手く行くかどうかである。
   尤も、歌舞伎や文楽などは、時にはアラカルト演出で、天と地も違うほどの演目を平気で公演することがあり、同じ役者が演じると言う離れ業も見ているので、少し真面目で深刻な日本映画「おくりびと」の後に、ミュージカル映画で底抜けに陽気な「マンマ・ミーア」をぶっつけてみたのである。

   「おくりびと」は、アカデミー賞の外国映画部門の最優秀賞を受賞した出色の日本映画で、やはり、感動的で素晴らしい映画であり、後の客席の老夫婦が声を忍んですすり泣き続けていた。
   芸術家のように美しい仕草で、しにびとに、最後の威厳と人間らしさを死化粧に施して送り出す納棺師の物語なのだが、美しい東北の田舎風景をバックに、久石譲の情感豊かなチェロとピアノの朗々とした音楽が荘厳し、実に感動的で美しく展開して行く。

   シェイクスピアが、「お気に召すまま」の中で、ジェークイズに、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、それぞれ舞台に登場しては退場していく(小田島雄志)」と語らせている。
   私は、この言葉が好きで、ストラトフォード・アポン・エイボンなどシェイクスピアの故地を歩きながら、随分、シェイクスピアの世界を反芻して来たが、この映画を見ながら、その思い出と重ね合わせながら、生(LIFE)の不思議に感動して映画を見ていた。

   客入りが悪くて楽団が解散したので、職を失って故郷に帰ったチェロ奏者小林大悟(本木雅弘)が飛びついた求人広告は、
   ”年齢問わず。高給保証!実質労働時間わずか。
   旅のお手伝い。  NKエージェント”
   旅行代理店かなあ、と思って面接に出かけてみたら、事務所の壁面には3つの棺桶が立てかけてある。
   仕事の内容を聞くと、社長の佐々木(山崎努)が、「ああ、この広告誤植だな。」と言って、事もなげに、「旅のお手伝いではなくて、安らかな”旅立ちのお手伝い”だ。」広告にペンを入れる。
   履歴書など見ないし、何も聞かずに、間髪を入れずに、佐々木は「採用」と告げる。
   

   人生など、一寸先は分からないものである。
   ひょんなことから、苦難の泣き笑い人生が始まる。
   シェイクスピアの言う人生と言う舞台から消えて行く役者の最後のステージを、晴れ姿に荘厳して送り出す納棺師としての仕事の始まりである。
   
   遺体を棺に収める納棺師と言う、一見地味で触れ難いイメージの職業をテーマにしながら、ユーモアを絶妙に散りばめて、愛すること生きることを紡ぎ出す異色の感動作、と言うのが、この映画の解説だが、
   正に、適切な表現で、じめじめした暗さは微塵もなく、人間同士の深い柵や絆を愛情に包みながら、生きるということの大切さを真正面から考えさせてくれる映画である。
   最大の功績は、監督滝田洋二郎の力量であろうが、主演の本木雅弘がとにかく感動するほど上手い、そして、健気で実に意地らしいその妻美香の広末涼子と人生を見つめて酸いも辛いも知り尽くした飄々とした山崎努の社長の芸の上手さは特筆ものである。
   それに、NKエージェントの事務員役の余貴美子、銭湯のお上さんの吉行和子、その銭湯の常連客の笹野高史など、脇役がまた素晴らしく、映画の醍醐味をしみじみと実感させてくれる。
   
   次の「マンマ・ミーア」だが、「タイタニック」以上に観客動員数を誇る凄い作品で、ミュージカルとしてロングランを続けているが、メリル・ストリープ主演で映画になった。
   ニューヨークのピカデリーの街角の「大看板」が目を引くが、ウインターガーデンでミュージカルが上演されていて、先般、ニューヨークを訪れた時に、観に行きたかったが、オペラや美術館めぐりの方がプライオリティが高くて断念した。

   もう30年以上も前に、ABBAがヒットさせた「ダンシング・クイーン」を、還暦直前のメリル・ストリープが、大変な迫力とエネルギーで画面狭しと、歌って踊リ、あのエーゲ海の美しい小島を背景に、ポップ・ミュージックのビートの利いたサウンドを響かせて、人生謳歌の大パノラマを演じている。
   若くて美しかった乙女の頃に、同時に3人の男と恋をして生まれた誰の子か分からない娘の結婚式直前。恋多き母親の日記を読んだ娘が、バージン・ロードをエスコートして欲しくて、3人の父親候補に手紙を出して結婚式に招待して引き起こされるどたばた喜劇。

   お天道様が与えてくれた一度だけの人生、自由奔放に生きて人生の素晴らしさを、何処までも青くて光り輝く美しい地中海の風景に叩きつける、底抜けに明るくてパワフルな人間賛歌!
   正にラテンの素晴らしい世界が展開されている。

   北欧のバイキングが地中海にやってきて色濃く文化の足跡を残しており、スェーデンのABBAのポップ・ミュージックが、ギリシャの小島のラテン世界と融合して素晴らしいミュージカル文化を生み出すのも何かの縁。
   楽しくてギャラなどいらないと言ったメリル・ストリープの大変なタレントぶり、そして、大女優の魅力を満喫できる映画でもある。
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初春のわが庭模様と花木の目覚め

2009年03月11日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今朝早く、庭木の茂みで鳴く鶯の初音を聞いた。
   ホーホケキョと鳴いていたので、ずっと前から鶯が鳴いていたのであろうが、気付かなかっただけであろう。
   季節の初めの鳴き始めの鶯の声は、ケキョ、ケキョと言った調子で、まともに、ホーホケキョと鳴くのには、練習が必要なのか、かなり、時間が掛かるのである。
   庭木の茂みを、素早く、飛び渡るので、中々、姿をはっきりと見ることは難しいのだが、メジロに似た俗に言う鶯色で、かなり、地味な小鳥である。
   広々とした田んぼの向こうに林があって、そこを歩くと、鶯の鳴き声を聞けるのだが、住宅街の一番外れにあるわが庭にも時々訪れては美しい声を聞かせてくれる。

   温かくなって来たので、私の庭の春の草花も急に勢いづいて、芽を出したり、花が咲き始めた。
   住宅街の外れで少し寒いのか、わが庭の花木の動きは、ワンテンポ遅れるので、クロッカスは咲き乱れているが、やっと、ハナニラとスノードロップの花が咲き始めたところである。
   1月植えのチューリップなので、この方は、どうにか芽を出した所で、水仙は蕾を出しているが、花はまだ咲いていない。

   長い間植えっぱなしで、株が増えて群生していたので、水仙とスノードロップは株分けして、植木の根元などに分配したのだが、ガーデニングの邪道かもしれない。
   しかし、林の中で、木も草花も、ところ構わず好きな所で、育ったり咲いたり、居場所を見つけて生きているのが自然だと、キューガーデンで、気付いて実行しているのである。
   尤も、日当たりの良い花壇植えより花付きは悪い。

   ユリや芍薬の芽が動き始めたが、まだ、地面に張り付いている。
   植えっぱなしのヒヤシンスが、球根が育っていない所為もあって、貧弱な蕾を付けて顔を出し始めたが、やはり、健気でいとおしい。
   同じ球根の草花で、植えっぱなしで放置していても、クロッカスや水仙やスノードロップは、どんどん球根が増殖して行くが、チューリップやヒヤシンスやユリなどは、翌年は、貧弱な花を咲かせるか殆ど咲かないか、或いは、消えていってしまう。
   
   バラは、勢い良く新芽を出し始め、牡丹は、新芽を伸ばして茎や葉を現し始めた。
   ぐっと遅くなったが、私の庭の枝垂れ梅が、今、満開である。

   庭の椿も、さつま紅や孔雀椿や崑崙黒や乙女椿の一番花も咲き出して、椿の開花レースに加わって賑やかになってきた。
   今、急に、一斉に咲き始めたのは、この口絵写真の小磯や、出雲大社のような一重で中輪筒咲きの赤い椿である。
   侘介椿より少し大型の椿だが、やや濃い紅色の鮮やかなしっかりした椿で、凛とした花姿が、実に清々しくて良い。
   ぼってりとした藪椿と対照的に、赤い花で、黄色の蘂は同じだが、細面ですらりとしたスマートさが何とも言えない。
   残念なのは、花持ちが悪く、直ぐに、花弁を落とすことである。

   この花を求めて、メジロが椿を渡り歩き、大きなヒヨドリが小さな港の曙椿の花弁に嘴を入れて蜜を吸っているのだが、どれほどの栄養になるのか、不思議に思いながら見ている。
   小さな昆虫たちも花を渡り始めたが、まだ、蝶の訪れはない。

   不思議なもので、私の椿に対する好みが少しづつ変化してきている。
   初期に買った椿は、庭植えにして大分大きくなっているのだが、四海波、岩根絞り、天ヶ下と言った派手な花や、羽衣や白羽衣や天賜と言った華麗な花や、崑崙黒のように変わった花の椿が目立っているのだが、その後は、侘介椿は別として、少しづつ、花が単色一重の花系統に移り始め、この頃は、花の大きさが2~3センチの小輪花にも興味を持ち始めている。
   先日など、蕾が数ミリのエリナと言う椿の鉢植えを買ったが、どんな花を咲かせるのか楽しみにしている。

   残念なのは、花弁が数センチで、あたかも名前のとおり桜の様に咲き乱れていた鉢植えの椿を、もう10年以上も前に枯らせてしまったことである。
   椿は、色々なことで駄目になることがあるが、比較的強い木である。しかし、竹と同じで、水切れを犯すと完全に枯れてしまう。
   暑い夏の頃の手入れが悪くて、枯れてしまった銘椿が結構あって、寂しい思いをすることがあるが、花は、動物のように声を出して意思を伝えてくれないので、栽培者が、心して十分気をつけて世話をしてやらないと、可哀想なことになりかねない。
   ものぐさの私には、毎日手入れの必要な草花は無理だと思って、花の咲く花木に切り替えて行ったのだが、それでも、植物栽培は自然との勝負で難しい。
   
   鉢植えのベトナム椿は、昨年は、一つしか蕾を付けなかったし、金花茶は、蕾さえ付けなかったので、今年は、頑張って、花を咲かせたいと思っている。
   
   
   
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