熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場11月歌舞伎・・・藤十郎と團十郎の華麗な世界

2009年11月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   首相が、「鳩屋」の大向こうからの掛け声に気を良くしていたと山川さんが語っていたが、この国立劇場の11月歌舞伎は、藤十郎と團十郎の東西名跡の共演。
   2007年1月の大阪の松竹座で実現し、藤十郎が、東西名跡の初共演の実現といたく感激して私の履歴書に書いていたが、その後は、何度か舞台にかかっていて、今回は、近松門左衛門の「傾城反魂香」の「土将監閑居の場」で、
二人の面白い舞台が楽しめた。
   藤十郎の又平女房おとくは適役としても、團十郎の浮世又平はどうかなあと思っていたが、鴈治郎時代に共演済みだと言う。

   勿論、狩野元信をテーマにしたと言うこの物語は、近松の浄瑠璃狂言だが、私は、まだ、文楽の舞台は見ていない。
   しかし、歌舞伎では、4回目で、2回が吉右衛門の又平で、おとくは雀右衛門と芝雀、もう1度は、三津五郎の又平で時蔵のおとくであった。
   三津五郎は、時蔵との相性も良く非常に自然体で感動的な舞台を務めていたが、雀右衛門父子の熱演に支えられていた吉右衛門の浮世又平が、決定版かも知れないと思っている。

   ところで、又兵の師である土佐将監光信は、大和絵の土佐派の重鎮で、右近将監として宮廷に使えていたが、蟄居を命じられて山科に閑居していると言う設定で、律儀で真面目一徹の又平と夫思いの女房おとくが、毎夜のように閑居を訪れて光信夫妻を見舞う。
   ところが、弟弟子の修理之助(亀鶴)が元信の襖絵から抜け出した虎を一筆で消し去った功で、土佐の苗字を許され先をこされる。焦った又平夫婦の必死の嘆願にも拘らず聞き入れられず、飛び込んできた姫救出出立さえ拒否され、将監に「絵の道で功を立てよ」と一蹴される。
   しがない大津絵師としてみやげ物の絵を描きながら、細々と極貧を極めて生きている又平にまともな絵を描く機会など皆無の筈。
   「サァ又平殿。覚悟さっしゃれ。今生の望みは切れたぞや。」との言葉に短刀を手にするが、女房おとくに促されて、おとくが密かに借り受けて差し出した将監の筆と硯を取って、傍らの手水鉢を石塔に見立てて最後の自画像を描く。
   絵師として今生の別れ、精魂込めて描いた渾身の自画像が、手水鉢の硬い石壁を通り抜けて正面に浮かび上がる。

   切腹の前の死に水を取りに手水鉢に近づき柄杓を持ったおとくが絵を見て驚愕する。
   仰天するおとくが又平を手水鉢に導いて又平に伝えるまでのこのスローモーション映画を見ているような演技が、正に歌舞伎の歌舞伎たる由縁なのであろうが、とにかく、藤十郎と團十郎の舞うようなシーンの数々が印象的であり面白い。
   「かか、抜けた」と絶叫する又平。
    将監が登場して、この絵師として例のない奇跡を賞賛して、「土佐又平光起」の名を与える。

   この又平だが、おとくの後に付いて来て、最初の土佐の苗字を願うところでも自分の一大事であるにも拘わらず、自分で切り出せずにおとくに代弁させて頭を下げるだけで、全く、ふがいない頼りないどうしようもない男であった。
   ところが、姫救出を願い出る場面になると、吃音をものともせず、将監の前に進み出て、吃音に必死に抗しながら直訴嘆願し、命じられた修理之助に縋り付いて代役を願い師への抵抗をいさめる女房を蹴飛ばして、そのあまりも激しい抵抗に将監に刀に手をかけられる。
   又平にとっては、このまま吃音にかまけて涙を呑んでいると一生棒に振ると言う危機感が目覚めたのであろう。
   ここで、既に、手水鉢での軌跡の複線が打たれているのだと吉右衛門は語っている。
   この短いが、起承転結の激しい、人生の喜怒哀楽、人間の意気地を凝縮した近松の舞台を團十郎が演じた。

   この舞台の前に、團十郎は、「外郎売」で、得意の早口の外郎売の言い立てを披露した。
   この外郎売は、団十郎家の「歌舞伎一八番」の一つであり、それなりに良く出来た芝居で素晴らしい。
   しかし、この歌舞伎十八番は、七代目が、当時の名優割拠の時代において、「勧進帳」の宣伝を兼ねた差別化戦略の一環として生まれたようだが、無知を覚悟で言わせて貰えば、物語性と言うかリアリズムからは程遠い、言うならば、シェイクスピアなど西欧芸術と言わないまでも、近松や西鶴など上方芸術からも大分かけ離れた見せる芝居である。

   その荒事、団十郎家の歌舞伎十八番を得意とする團十郎が、今回は、又平と言う近松門左衛門の物語性のある芝居の主役を演じたのである。
   女系図で見たのだが、團十郎の演技は、実に大仰でぎこちなく、見方によってはミスキャストにしか見えなかったのではなかったかと思う。
   この又平でも、どうしても荒事の團十郎のイメージが強すぎて、オーバーアクションが気になった。
   吃音での表現だが、吉右衛門や三津五郎の場合にも、出だしは大仰な顔の表現が先立って普通の語り口の言葉が後でついて出る手法は同じだが、團十郎の場合には、出だしの迫力のある表情の後の口調は、いつもの張りのある早口口調が続いてその落差が大きくて、芝居の流れにリズムが打ちすぎる。

   尤も、普通の新劇を見ている訳ではなく、これは様式美と伝統芸を重んじる歌舞伎の舞台であるから、團十郎のようなメリハリの利いた見せる演技が正統なのかも知れない。 
   芝居の流れ、話の筋よりも、舞台を見る楽しさ、千両役者が眼前で芝居をしているその演技を見る楽しさを味わうのが歌舞伎の鑑賞の極意なのかも知れないと考えたりしている。
   その意味では、私には気付かなかった新しい又平像を見せてもらったのだと思っている。

   藤十郎のおとくは、やはり、近松ものを得意とする上方役者の本領発揮で、その夫思いの優しさ甲斐甲斐しさは流石で、團十郎の男を前面に押し出し、夫唱婦随と言うか、新しい又平像の創造に尽くしていたような気がしている。
   彦三郎の将監は、2度目だが、あの朴訥な味が実に良い。
   
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美しい佐倉城址公園の紅葉

2009年11月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   風がなく、遅い午後の淡い陽の光に誘われて、佐倉城址公園に出かけた。
   この広大な公園には、紅葉する木々はそれ程多くはないのだが、本丸入り口の空掘りの周りなどあっちこっちにもみじの巨木が植わっていて、秋が深まると一挙に色づいて華やかになる。

   私が行った時には、やはり冬で、もう既に陽が大分傾いていて、もみじに陽が当たって逆光に輝いて真っ赤に染まっている葉は多くはなかったが、陽が翳れば翳ったで、もみじの錦は別な装いを見せてくれる。
   この口絵写真は、そんな緑陰の紅葉だが、緑から黄色、そして、赤く染まったもみじが、ニシキギ、ドウダンつつじなどの紅葉植物と重なって錦を織り成す。
   もみじの観賞用銘木などはなく、殆どイロハモミジやヤマモミジのようだが、一本の木に、これらのもみじが、少しずつ彩を加えながら葉の輝きを移して行く素晴らしいグラデュエーションは、神業としか思えない。

   ヤマモミジなど葉の小さな普通のモミジは、緑色から少しずつ黄ばんで行って橙色に変わって行き、最後には鮮やかに真っ赤に染まって燃えるように美しくなる。
   しかし、湿度や温度など自然条件が揃わないと、最後の真っ赤に染まるまで、無傷のままで残る葉はそんなに多くはない。   
   今年の佐倉城址公園のモミジは、気温が高かった割には、まだ、全体に色づいては居ないのだが、かなり、鮮やかに紅葉していて非常に美しい。
   陽の良く当たるオープンな空間のモミジは、真っ赤に染まっていて、光り輝く葉を、逆光で透かして見ると、小さなパターン化した文様が空に張り付いた千代紙のように、実に優雅で素晴らしい。

   私は、小さな空間に、緑色から、黄色、橙色、赤までの色のグラデュエーションが見られるようなモミジの木を探したが、残念ながら、葉が痛んでいたりして思うように見つからず、中々シャッターチャンスを掴むのが難しい。
   昔、宇治や嵐山や大津の三井寺などで、美しい錦織のような紅葉を見た記憶があるが、中々、一本の木で、そのような美しい紅葉を見つける機会は非常に少ない。

   少し時間があったので、この城址公園にある「くらしの植物苑」で、恒例の「伝統の古典菊」展をやっており、ついでに立ち寄った。
   去年も出かけたので、同じような展示なのだが、嵯峨菊、伊勢菊、肥後菊、江戸菊と、素晴らしい鉢植えの菊が咲き乱れている姿は、やはり、秋の風物で、見ていて楽しい。
   今年は残念ながら、大掛かりな飾りつけがされている新宿御苑の菊展を見に行くのをミスってしまった。その点、ここは苑内が非常に狭いので、展示もこじんまりしていて小規模だが、夫々の花を、身近に感じながら鑑賞出来るのが良い。
   嵯峨菊など、嵯峨の天竜寺の鑑賞法を模して、縁台を設えて、上から見下ろせる気配りを見せていて面白い。

   定期的に植物鑑賞教室を開いているのであろうか、オープン・スペースの小屋がけの野外教室で、古典菊のセミナーが拓かれていて、老人たちが熱心に聞いていた。
   このくらしの植物苑は、染める、織る・漉く、食べる、治す、道具をつくる、塗る・燃やすといった生活に密着した植物を栽培し研究をしているので、夫々の植物は僅かしか植わっていないが種類が多く、季節毎に、花が咲いたり実がなったりと姿を変えていてその姿を見ているだけでも面白い。

   ここにも、イロハモミジやヤマモミジが綺麗に紅葉していて美しかったが、もう少し前なら、丁度逆光だし、外の銀杏並木をバックにして、コントラストが素晴らしかったのでないかと思った。
   ところで、他の木にイロハカエデと標記されていたので、イロハモミジとイロハカエデとどう違うのか、傍に居た園芸員の方に聞いたら同じだと言うことで、ついでに、ヤマモミジとどう違うのかと聞いたら、違うと言う人もいるが、同じだと考えて良いとの返答が返って来た。
   何となく我流で区別をつけていたのだが、もう悩まなくても良いのである。

   鬱蒼とした緑陰の小道を姥が池に下りて帰途に着いた。
   池は、びっしりと睡蓮の葉や茎が張っていて、数羽の野がもが水草を食んでいる。
   後方の水田様の畑は、綺麗に整えられて翌年の菖蒲床の準備が進められている。
   周りの小高い小山には、色々な種類の木々や潅木が植わっているのであろう。紅葉した落葉広葉樹や巨大なモミジの木などが彩を添えてパッチワークのような風情で、中々雰囲気があって良い。
   この佐倉城は、明治時代に軍隊の駐屯基地を設営するために、壊されてしまったのだが、城址にある沢山の巨大な木々は、それ以前からあった木のような気がしている。

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第6回文楽の夕べ~近松門左衛門の魅力

2009年11月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   大阪の厚生年金ホールで、日経主催の「文楽の夕べ」が開かれ、住大夫と山川静夫さんとの対談、近松の文楽作品・心中天網島のおさんの口説きなどの文楽ミニ公演などを楽しむために、久しぶりに関西に出かけた。
   東京は曇り空だったが、白雪を頂いた富士山が良く見え、真っ白なアルプスの山並みを遠望しながらの飛行機旅で、翌日、錦秋の宇治で秋の気配を楽しんだのだから、悪くはなかった。
   余談ながら、再建整理に入った感じのJALのラウンジでのサービスの低下ぶりは大変なもので、英字新聞や雑誌などがなくなり、飲み物は、ビール、ウイスキーとコーヒー等、ミルクとトマトジュースだけ、それに、おつまみは、あられだけで袋内の量は従来の3分の1程、飴。パソコン・ルームは健在。帰りの大阪発は6時半の便だったが、夕刊さえなく、使い古しの朝刊だけ。痛ましい限りで、ただただ、健闘を祈るのみである。

   さて、両巨頭の対談だが、演題は「近松門左衛門を中心に」と言うことだったが、物真似を得意とする山川さんが、学生時代に勘三郎の声音で優勝して脚光を浴びて放送局荒らしをして賞金を稼いでいたという話から、住大夫の語りの極意の開陳に進んで、語り方談義に話が弾んだ。
   本来大阪弁である筈の文楽の大夫に訛る傾向が出てきて困ると嘆く住大夫師匠。元々、上方が文化の中心で、大阪弁が標準語だっせと言う。
   しかし、文楽が、シェイクスピアのテンペストをやって、若者たちにアピールするなど新境地を拓こうとしている新時代になったのだから、今更、大阪弁で収まる筈がなかろう。
   
   近松については、住大夫の持論で、「近松は字余り字足らずで、私きらいでんねん。近松、おもろまっか。」とにべもない。
   この後で、桐竹勘十郎のおさん(初役)で演じられた「おさん二題」のおさんの口説きの核心部分である「あんまりじゃ治兵衛殿。それほど名残惜しくば誓紙書かぬがよいわいの。」と言うくだりを、指を折って指し示し、改作の「天網島時雨炬燵」で、七五調に変わって良くなったと説明する。
   近松嫌いは、この乱調にだけあるのではなく、普通は山あり谷ありの物語だが、近松は、谷谷谷ばっかりでっしゃろ、と言うから、陰気で難しいと言うことでもあるらしい。
   ところが、山川アナと話していて、近松の「心中宵庚申」の「上田村」の段、ふしなしで難しいけど、よろしおまんなあと言うことになったのだが、昨年5月に東京国立劇場で、住大夫が名調子で語っていたのである。

   ところで、文楽ミニ公演は、おさん二題で、心中天網島と天網島時雨炬燵の夫々同じ天満紙屋内の段を実演。治兵衛が炬燵に入って、遊女小春のことで涙ぐむのを見て、おさんが、女の幸せを踏みにじっている夫に酷いつれないとかき口説くところを、勘十郎のおさん、簔二郎の治兵衛で演じる。
   大夫は、文字久大夫と呂勢大夫、三味線は、清志郎と清二郎。
   その後、国姓爺合戦・楼門の段の「錦祥女」を勘十郎が遣った。
   実際の舞台とは違った核心部分を切り取ったミニ公演なので、三業の人たちも遣り難いであろうし、見る方も大変だが、おさんの振り付けなど微妙な変化が分かって面白かった。
   
   このミニ公演の後、文字久大夫、清二郎、勘十郎で、「楽しい文楽鑑賞法」と題する座談会が持たれた。
   文楽の小道具などを持ち出しての丁寧な説明で実に有意義だったが、中でも、修行の話が面白かった。
   先に住大夫が、今日もしんどいのに3時間厳しい稽古をして来て良い声が出まへんねんと言っていて、何ぼ言うても分からん時には、「何べん言うたら分かるねん。あほか。給料返せ。」と言うたりまんねんと言っていたのを、弟子である文字久大夫が受けて、声やない「音」や言うのを、肝と腰に力を入れて良い「息」を出すべく頑張っていますと言って笑わせていた。
   元新国劇の俳優をしていたとかで、辰巳柳太郎の面白い逸話も語っていた。
   
   清二郎は、師匠が見本を示して理論的に教授してくれる人らしいが、中には、撥が飛んでくる師匠も居るらしい。
   撥を持って三味線を弾いて練習すると喧しいと怒られるので、三味線の糸に手ぬぐいを巻いて音を消しながら撥を叩くのだと実演して見せた。
   3人の話では、他はどうにか誤魔化せるが、三味線が、実演途中で分からなくなって止まるとパニックになると言う話に興味を持ったが、三味線が楽譜を使わないのは、琵琶法師が盲目だったからだと言うことで、この暗譜が大変らしい。

   人形は、師匠と向かい合って稽古することはなく、簔助師匠の遣う人形の左や足を遣っている時の実演の舞台が、稽古であり修行の場だと勘十郎は言う。
   簔助師匠は、口で注意することは殆どないが、「うん」とか声を出して怒ることがあるので、そばの同僚たちに聞こえるので傷つき辛かったと言う。
   聞きに行けば、まだ早いと言われる。表面だけ取り繕っていただけでは、どこ見て勉強してるねんと言われるし、日々の修行の積み重ねだと言う。
   それに、簔助師匠の真似をするなど及びもつかないが、良く似ていると言われると師匠の方が嫌がるのだと笑っていた。
   出来が悪いと、何も言わずに、師匠の機嫌が悪くなるのだが、どこが悪いのか分からないので苦しむとも言う。

   最後にこれからの抱負をと聞かれて、最近立役の主役が多くなって、それはそれで嬉しいのだが、折角、簔助師匠について一生懸命女形の修行を積んで来たのであるから、女形を主体にやりたい、文楽協会の人来たはりますか、お願いしますと言っていた。
   しかし、玉男亡き後、女形を遣う簔助の相手の立役を遣うことが多くなって来ているので、一寸、無理なのではないであろうか。
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錦秋の宇治散策(1)・・・平等院

2009年11月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋の関西で一日休日が取れれば、どこへ行くか。
   唐招提寺が蘇ったと話題なので、奈良へ向かおうかとも思ったが、今回は、宇治に行き、時間があれば、醍醐や小野に抜けて、京都から伊丹空港に帰ろうと決めた。
   宇治は、京大の宇治分校の時に、1年間下宿した懐かしい青春時代のふるさとで、平等院の土手道や、宇治川の畔が、私の散歩道であったので、秋の宇治が、どれほど美しく輝くか知っていたからである。

   京阪北浜から中書島に出て、相変わらずの田舎電車宇治線に乗り換えて、宇治駅に向かうのだが、この京阪電車も、京都行きの特急電車は、季節柄、乗客で詰まっていているのとは対照的に、宇治線は空いていて、昔のお嬢さんたちのグループや熟年夫婦、カメラを抱えて勇ましい格好をした初老の男性、それに、学生くらいでのんびりしたものである。
   宇治は交通が不便な所為か、バスツアー客が多く、ホテルなどないので、すべて素通り客で、殆ど、平等院しか眼中にない。
   今は、紅葉の季節なので、宇治川の中洲・塔の島や橘島、対岸の還流橋あたりにも観光客が多い。

   私は、宇治橋に出て川面に突き出した欄干のところに行き、上流の天ヶ瀬方向を向いて宇治川の流れをながめるのが好きで、ここに立ってしばらく佇むことが多い。
   宇治川の先陣争いで良く知られているが、結構、宇治川の流れは速い。
   川の中央の浅瀬には、陽の光を受けて白く光った水面に、鵜と白鷺が憩っていてシルエットが面白い。
   上流のなだらかな山肌や岸辺は、赤や黄色に色づき秋化粧をした余所行きの風情で、朝もや模様の逆光を受けて錦のように美しい。

   宇治橋のたもと浮船橋に紫式部の像があり、表参道を抜けると平等院の正門に出るのだが、このあたりは綺麗になって、昔の田舎風の参道の面影など全くなくなってしまった。
   表門を入ると、すぐ、目の前の阿字池越しに鳳凰堂の優雅な姿が現れる。
   多くの観光客が真っ先にカメラを構えるのがこの池畔だが、薄緑色の水面に映る平等院の姿とのダブルイメージが結構さまになるので面白いが、大概、無粋な障害物にピントを合わせて大写しにしてハイチーズで済ましている。

   前回、ここを訪れた時には、修復なった阿弥陀如来坐像が、光背なしのままだったので遠慮したのだが、今回は内部に入って直接拝観することにした。
   20分置きのガイデッド・ツアー形式で、50人ずつグループで入ると言う形式だが、あのダ・ヴィンチの最後の晩餐も、余程のことがないと見られなくなってしまったが、世界的な趨勢と言うことであろう。
   私が宇治に住んでいた頃は、何時間も阿弥陀如来像に対面して会話を交わしていても、正面の廊下に座って池を眺めながら考え込んでいても、誰一人咎める人も居なかったが、あんな京都や奈良は、正に遠くに行ってしまったのである。

   この阿弥陀如来坐像だが、修復にあたって、顔に金粉を加えて美しくし、白亳を水晶に付け替えたと説明されていたが、この日は、晴天で堂内に光が回り込んでいたので、表情が良く見えて美しかった。
   壁面の黒ずんだ壁画も、何時もよりは良く見えたが、雲中供養菩薩像52体の内26体が、鳳翔館に展示されているので、白壁の空間が多くて少し寂しい感じがする。
   この阿弥陀如来坐像にそっくりの少し男ぶりに差のある弟分の国宝仏が、日野の法界寺にあるのだが、時間があれば訪れてみたいと思った。

   ところで、木造の雲中供養菩薩像だが、堂内に架かっていると只の飾りのように見えるが、近くでじっくり眺めると、実に立派な仏像彫刻で、私など、舞っている南20号の菩薩像の優雅な姿には感激しきりなのだが、像背後の彫刻なども手を抜かずに全く一体の仏像として立派に仕上げてあり、仏師の力量の確かさは格別である。
   キリスト教のエンジェルとは違った発想の、天を自由に飛翻し極楽を荘厳する菩薩の姿を理想化したと言うことでもあろうが、えもいわれぬ音楽が流れ素晴らしく美しい神々が舞い集うと言う発想は、人間本来の希いの本質であろうか。
   鳳翔館には、彩色された姿の美しい雲中供養菩薩像が参考として展示されていたが、ヨーロッパの教会で見る天使像などの浮き彫りと、どこか相通じる美しさである。

   鳳翔館には、国宝の梵鐘と鳳凰堂の屋根にあった一対の鳳凰像が展示されているが、両方とも、非常に美しい。
   梵鐘の形の美しさは格別だが、鳳凰像の素晴らしさも特筆すべきで、デザインの斬新さと造詣の妙は勿論として、金属片を器用に繋ぎ合わせて造形された細工師の力量は大変なもので、鋲が打ち込まれた槌音まで聞こえてくるような迫力である。
   この国宝館の良さは、眼前で手に取るように見られることである。

   阿弥陀来迎図など出来るだけ原画に近い形で現在的に描かれた壁画が展示さて居ていたが、これが、当時の壁画とすれば、一寸、彫刻などととは違って力量としては差がある感じがした。
   極楽浄土への往生を願っての平等院であり鳳凰堂なのであるから、阿弥陀仏の来迎をテーマにするのは当然だが、一つの壁画に、死の床にある老人に向かって、多くの菩薩たちを引き連れて天から舞い降りる阿弥陀像の行列が描かれていたが、末法の世とは言え、如何にも、現実的過ぎると思った。

   ところで、紅葉だが、鳳凰堂正面のもみじは、この口絵写真の程度で一寸赤みが少なくて、もう少しだが、鳳翔館と梵鐘近くのもみじは結構色づいている。
   しかし、落ち葉を掃き集めていた庭師に聞くと、今年は暖か過ぎて紅葉はもう一つだと言う。
   平等院の紅葉はまずまずだが、対岸の宇治神社の方の紅葉は、これらより大分美しい。
   宇治の紅葉もこの週末が最盛期かも知れない。
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A.ウィギン/K.インコントレラ著「借金大国アメリカの真実」

2009年11月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   国債の残高が800兆円超の日本としては、借金大国と言われても、国債を保有しているのは日本人自身であるから、それ程恐れはしないが、アメリカの借金大国と言う場合のニュアンスは、全く違う。
   と言うのは、その国債の過半を、中国や日本など外国の債権者が保有しているところに問題があり、その帰趨によっては、ドルの弱体化を憂慮せざるを得ない状況となっており、アメリカ資本主義、そして、その屋台骨を揺さ振りかねない状況にまで至っているのだが、殆どのアメリカ人は、その深刻さにさえ気付いていないと言う。

   この借金漬けで、実質的財政破綻に近づきつつあるアメリカ経済の状況を憂慮して製作された映画のBOOK版が、この本「I.O.U.S.A. ONE NATION UNDER STRESS.IN DEBT」である。
   I owe you. 「借りがあるUSA」と言うニュアンスだが、今回の金融危機前だとは言え、グリーンスパン、ルービン、バフェット、ヴォルカー、オニール等々著名人に直接インタビューして、その概要を掲載しており、アメリカ経済に対する危機意識の一斑が伝わってきて面白い。

   アメリカ経済は、ずっと以前から、双子の赤字問題が指摘されていたが、財政赤字については、クリントン政権時代に一時黒字に転換した。
   しかし、実際には、例年大きな余剰金を出している社会保障プログラムからの補填のお陰であり、この余剰金が、ずっと、深刻な財政赤字を支えて来たのだが、ベビーブーム世代の退職者の数が増えるにつれて、社会保障のバランスシートが悪化して、2017年には、支給額が収入を上回って収支逆転して、深刻な事態に陥ると言う。
   これを「シルバー津波」と称して、これ以上の恐怖は、イスラム原理主義者が米国を核攻撃する以外には考えられないと言うのである。
   米国にとって最も深刻な脅威は、ビン・ラディンではなく、自国の無責任な財政であるとも言う。

   1991年から2002年まで、連邦議会議員たちは自ら「ペイ・ゴー・ルール」を課して、すべての支出増加について、それが法制化される前に増加分を手当てすると定めていたので歯止めが架かっていたが、そのルールが失効すると、ブッシュ政権の放漫財政政策によって、一挙に手の届かない所まで財政赤字が跳ね上がってしまったのである。

   ところが、オバマ政権に移行後、深刻な景気対策のみならず、大きな政府政策による大盤振る舞いで、更に財政が悪化し、2009年度の財政赤字は、1.8兆ドルをオーバーし、2010-2019年度の累積赤字額は9兆ドルになると言う。
   この借金の穴埋めのために、中国・日本や他の新興国などに国債を買ってもらって賄っていたが、国債の購入を拒否されれば、一挙にドルが暴落して、基軸通貨から転落してしまい、ドル札を印刷し続けるだけで、世界中からモノを買い続けてこられたアメリカだが、パニックに陥ってしまう。
   もう一つの貿易収支の赤字が、更に深刻であり、アメリカ人の貯蓄率が、限りなくゼロに近い現状を考えれば、先行き真っ暗で目も当てられないような状態だが、悲しいかな、宇宙船地球号は、フラット化したグローバリゼーションで雁字搦めに連結されてしまっているので、アメリカがこければ、世界中がこけてしまうのである。 

   日本の子供たちは音なしの構えだが、アメリカの学生たちは、「憂えるアメリカの若者(CYA)]を立ち上げて、アメリカ政府の赤字支出を「代表なき課税」だとして、いい加減にしろ、と動き出した。
   膨張する連邦債務の行く末と持続可能な給付プログラムがアメリカの経済にかける負担が当面の関心事のようだが、行政の舵取りや健全な財政判断を、上の世代には任せて置けないと果敢に行動し始めたのである。
   この本でインタビューを受けた傑出した人物たちは、「アメリカ経済が現在の進路を持続して行くのは不可能で、何らかの対策を早急に講じなければ、子供や孫に、自分たちの誤りの代価を支払わせなければならなくなる」と言う見方では一致していると言う。

   インタビューで面白いのは、グリーンスパンが、「私たち経済学者が、資産を売却して得る資本利得では、実質資本投資や生活水準維持のための資金は調達できないと説いても、401kがあり、持ち家がある平均的な所帯は意に介しません。」と言っているのだが、ロナルド・ポールとの議論で、住宅価格が上昇しているから貯蓄と同じだとして、上がったり下がったりする住宅は貯蓄ではないと一蹴されている。住宅価格は、いまだかって下がったことがないと言う信念がグリーンスパンを誤らせたということであろう。

   バフェットが、徹頭徹尾、アメリカ経済の健全性を信頼していて、それほど疑いを持っておらず楽観的なのが興味深い。所得格差については危惧はしているものの、一番所得の低い人でも、100年前の一番所得の高い人より遥かに良い暮らしをしており、潮が差せばどんな舟も浮かぶが、ヨットならいち早く浮かぶなどとピンと外れで訳の分からないことを言っている。 
   ブッシュに解任されたポール・オニールの論理展開は極めて明快で、ブッシュやチェイニーの思慮のなさが良く分かって面白い。

   もう一つ興味深いインタビューは、税金を下げれば税収が増えるとするラッファーカーブのアーサー・ラッファーが、滔々とサプライサイド経済学と富裕者優遇政策の利点を説き続けていることである。
   評者である慶大小幡積教授は、完全に誤りだとラッファー説を否定しているが、私自身は、経済状態が異常な状態になった場合、例えば、ブッシュ政権後期のような状態の時などには、むしろ害になるとは思うが、比較的経済状態が正常な時には、有効な政策ではないかと思っている。
   ラッファー云々ではなく、レーガノミックスなりサプライサイド経済学は、完全に無視など出来ない筈である。

   リーマン・ショック以前の本なので、今現在ならどのような内容になるのか、非常に興味深い本だと思っている。                                                                                                                                                          
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千葉の片田舎の紅葉、秋たけなわ

2009年11月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   私の庭のもみじが色づくと、毎年近くの公園に出かける。
   このもみじは、ずっと前に、京都の永観堂で種を貰って直播したのが大きくなった山もみじで、植え場所によっては紅葉の具合が微妙に異なるのだが、椿の花とともに、季節の移り変わりを教えてくれる貴重な植木である。

   この公園に行くのには、可愛がっていたシーズー犬リオを連れて散歩していた、田んぼの中を流れる川の土手道を歩いて行くのだが、もう、既に、渡って来た鴨たちが川面に群れていて、冬の到来を告げている。
   見渡す限りの田んぼは、切り株が残っているだけで、あぜ道の真っ白な薄が風に揺れていて、久しぶりの秋日和の陽を浴びて輝いている。
   宙を飛び交っていた燃えるように真っ赤な赤トンボたちも、消えてしまってもういない。
   寒い冬が、もうそこまで来ている。

   潅木の茂みに一羽の百舌鳥が飛び込んだ。
   急に、川の土手の下から、小鳥が飛び出してきたので、百舌鳥が他の木に飛び移った。
   また、百舌鳥が帰ってきたので、土手の下に隠れた小鳥が、また飛び出してきて、百舌鳥を追い払った。
   良く見ると、その小鳥は、背中のブルーも鮮やかなカワセミである。
   この土手に、穴を掘って造ったカワセミの巣があるのであろうか。
   土の中に巣のあるカワセミでも、自分の縄張りに侵入した外敵は許さないということであろう。
   残念ながら、カメラに望遠ズームがついていなかったので、カワセミの撮影を諦めて公園に向かった。

   今、丁度、山茶花の季節で、この公園には、かなり成長した大木があっちこっちにあって、赤い花をびっしりつつけていて、落ち花が、地面を染めている。
   陽の光を受けて透き通って輝く逆光の花びらは、風に揺れると蝶のように踊って面白い。
   私は、花びらが分裂してチラチラ落ちる山茶花が好きではないので、庭には椿の木だけしか植えていないが、これほど大きくなると山茶花も風情があって良いのであろう。
   私の庭の椿は、天ヶ下、紅妙蓮寺、相模侘助などが咲き始めているが、この公園の椿は、真っ赤な花の藪椿が多いので、まだ、花をつけていない。

   他に季節を感じさせるのは、何本かあるイチョウの大木で、黄金色に光り輝いていて、少しずつ散り始めている。
   佐倉城址公園のイチョウ並木のように、メスの木がないので、銀杏は落ちていない。
   もう一つ、威容を誇るのは、何本かある生きている化石と言われているメタセコイヤの大木で、少し、黄ばみ始めて夕日を浴びて、モミの木のようにすっくと立った姿が美しい。

   ところで、もみじの木だが、太陽の良くあたる公園の外れの子供の遊び場近くの林の斜面に、10本くらい植わっていて、それ程多くはないのだが、相当な大木で、これらが一斉に紅葉すると、華やかな空間を作り出す。
   まだ、真っ赤に染まった葉は少なく、黄色中心だが、気温や湿度の所為であろうか、このあたりのもみじの葉は、真っ赤になる前に、葉がちじれて枯れてしまう。
   この公園には、立派な桜並木があるのだが、同じように、葉は紅葉する前に落ちてしまって桜の紅葉は楽しめない。

   もう一つの問題は、殆どの葉が痛んでいて、完全無欠な葉の集団を見つけるのが中々難しいことで、京都の紅葉のように、どこを向いてシャッターを切っても写真になるのとは違うのである。
   私の庭のもみじも、陽の良くあたる場所のもみじは駄目だが、裏庭の半日陰のもみじの方が瑞々しくて紅葉も美しいのだが、やはり、京都や奈良、宇治などの紅葉が美しいのは、自然環境の所為もあるのであろう。

   この口絵写真は、毎年、撮っている所からの定点写真だが、やや、右上に傾いた午後の太陽の光を受けて、もみじが逆光に輝いて赤く染まっている風景だが、一寸、残念だったのは、道の一番奥にある、何時も真っ赤に色づいているドウダンつつじの葉が紅葉していなくて、画竜点睛を欠いたことである。
   自然の営みは、時々刻々と変化していて、全く、同じことの再現はないということであろうか。
   
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バーバラ・エーレンライク著「スーパーリッチとスーパープアの国、アメリカ」

2009年11月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ハンチントンに「分断されるアメリカ」と言う著書があるが、それとはかなり違った現実のアメリカを直視した辛口の評論を集めたのが本書で、原題は、「THIS LAND IS THEIR LAND   REPORTS FROM A DIVIDED NATION」。
   お馴染みの格差社会が異常な状態にまで深刻化したアメリカ社会が、如何に危機的な重大な問題に直面しているのかを、実際にも極貧生活を経験した著者であるから、実にビビッドに活写しており、庶民の目線からのアメリカ文明社会の告発本と言ったところである。
   表題の和文名は、その現実を伝えており、サブタイトルは、「格差社会アメリカのとんでもない現実」、帯には、「この異常な、笑うしかない格差社会は、明日の日本の姿だ!」。

   21世紀に入って10年が経とうとしているのに、板を張って修繕された住宅が点々とし、敗れてしまった夢が散らばる、働きすぎるほど働いてもどんどん出て行って何も残らない生活。
   どれだけ堤防が決壊し、町が水没し、食料が枯渇し、医療保険未加入者が落命すれば、「目覚ましコール」が鳴るのか。
   崩壊するに任され続けているアメリカの現状とその深刻な病根を抉り出すように、軽妙なタッチで、著者は、ニューヨーク・タイムズ紙などに健筆を振るっていると言う。

   面白いのは、経済成長論議で、経済学者や為政者は、GDP成長率は経済指標だとして経済成長率ばかり強調するが、いくら成長率が上がっても、それと裏腹に、益々、一般庶民の生活は苦しくなって来ている、おかしいではないかと言う。
   現実には、この本のテーマでもある格差拡大の進行が元凶で、スーパーリッチが益々豊かになり、頂点を占める富裕層のGDPに対する貢献度が高くなって成長指標が上昇しても、中産階級の崩壊や、益々搾取されて虐げられている下層階級の困窮感は増大して行き、成長率、生産性、雇用率などといった経済指標が、一般国民の幸せ度や実体経済と乖離してしまっているのである。

   最低賃金よりも多く稼げる仕事に就くためには「歳をとりすぎ」、社会保障給付金を受給するためには「若すぎる」失業者が、生きるために、止むを得ずに、犯罪を犯して、生活費一切の面倒を見てくれる刑務所暮らしを選択する。
   生産性向上のために、海外へアウトソーシングする企業が多いが、頭脳の要らない単純作業だけが海外に委託される筈だったが、今では、研究・開発業務など専門的な高度な知的業務まで海外に移ってしまっているので、大卒も院卒も路頭に迷い、高等教育神話が崩壊してしまっている。

   「毎日低価格」で世界一の商業であるウォルマートの劣悪な雇用環境については、多言を要しないが、この本では、男女の従業員を、「規則に違反し、深い関係になった」と言う容疑で、スパイ被疑者のようにグアテマラ・シティまで追跡して部屋の鍵穴から覗くなどスリラーもどきの調査をしている実態を暴露している。
   会社側のスパイが女性の部屋から「うめき声とため息」が聞こえたと言う報告によるらしいが、しみったれ限りなきウォルマートが、尋常では大金を叩いてまでして探偵を雇う筈がなく、実際は、ウォルマートに商品を供給している中米工場の労働環境を公に批判されるのを恐れたためだとしている。
   
   ところで、このウォルマートだが、商品の80%は中国製のようで数兆円規模で輸入し、その調達管理を人工衛星を2個も使って行っていると言うから、これも一種のイノベーションで、その途轍もないビジネス・モデルは他の追随を許さない。
   ベルリンの壁崩壊後、新興国が資本主義市場に参入しグローバリゼーションの進展によって、価格破壊が起こってインフレーションが抑えられてきたのは、正に、アメリカにとっては天恵とも言うべきで、その最大の貢献者はウォルマートであると言えないこともなかろう。

   私が、ここで言いたいのは、このウォルマートが、労働者を限りなく劣悪な環境で働かせて搾取して実現している低価格が、搾取されている労働者に低価格商品を提供することによって、一部生活を支えていると言うアイロニー皮肉である。
   スーパーリッチなど富裕層は、ウォルマートで買い物をする筈もなく、ウォルマートの顧客は、落ちぶれた中産階級であり貧困層であり一般のアメリカ人である筈で、安く買えば買うほど、ウォルマートの従業員を追い詰めることなると言う、この経済社会の矛盾した現実である。

   これと同じような現実は、アメリカの株主資本主義にも感じている。
   アメリカ企業の株主は、年金基金など労働者の基金を基にした機関が相当な比重を占めているようで、年金基金資本主義とも言われている。
   この株主が、企業に、利益を最大化しどんな手段を使ってでも利益を追求して株価を最高値に保つようプレッシャーをかけ続けている。
   会社もこれに応えて、海外アウトソーシングして、賃金を切り詰め、労働者を首にして、操業を停止するなど、あらん限りの合理化を追求する。
   このジレンマ、アイロニーをどう解決するのか。
   変質してしまった資本主義の現実を直視しない限り、格差社会の解消などありえないような気がしている。
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CO2の25%削減はイノベーションのチャンス

2009年11月22日 | イノベーションと経営
   GEWの公開フォーラム20日は、英語で行われ、米国のルース駐日大使が登場してシリコンバレーでのベンチャー企業について語ったので、外人聴講者が多く参加し、メルビン駐日デンマーク大使の基調講演で幕開けしたこともあり、いきおい、テーマが、CO2削減・地球環境分野におけるイノベーションに集中した感じになった。

   CO2削減問題での日本の取り組み方が如何に深刻な状態にあるのかを意識して、パネラーの大半が日本人であったことも考慮して、「新しいイノベーション・フロンティアを結集せよ~CO2 25%削減はチャンス」と言うセッションで、一橋大米倉誠一郎教授が、直に情報が外国に持って行かれると言いながら、日本語主流で英語同時通訳で、討論を進めた。
   冒頭、米倉教授が、鳩山首相の25%削減目標が、日本と日本人に極めて過酷な重荷を背負わせることとなり、ブレイクスルーには、イノベーションしかないと切り出したのに対して、飯田哲也氏が、これらの情報には多くの誤解があって、これまで、日本は、実質的には殆ど環境保全努力をして来ておらず、この目標達成には、これまでのイノベーションの実績を考慮すれば、それ程困難なことではないと応酬したが、いずれにしろ、果敢なイノベーション遂行が必須であると言う認識で議論が進められた。

   赤羽雄二氏が、日本は、再生エネルギー開発やエコ、グリーン革命に対して、消極的でいい加減な対応をして来た結果、如何にEUをはじめ世界から遅れを取って来たかを説明した。
   欧米や中国等では、太陽電池、太陽熱発電、バイオフーエル、風力発電、電気自動車等のベンチャーに対して、一社10~300億円、関連業界全体で2兆円以上の投資が、新世紀に入ってから投入されており、どんどん、新しい産業が生まれている。
   日本のこの分野の投資は、精々数百億円で、シャープなど世界一を誇っていた太陽電池分野では、ドイツのQセルズに一気に抜かれ、中国のサンテックパワー、アメリカのナノソーラーなどに遅れを取る等は、正に、日本の再生エネルギー政策の誤りを如実に示している。

   また、アメリカのベンチャー・キャピタルは、30ファンド、5000億円規模で中国に向かっているのだが、日本の企業へは、社長の資質・ビジョン・中小企業的経営スタイルやコミュニケーションなどに問題があって、非常に限定的だと言う。

   赤羽氏の指摘で重要なのは、この環境・代替エネルギー分野は全く新しい分野であるために、従来技術の延長線上で勝負をしようとしても、最適化を見出し得ないと言うことである。
   優れた既存組織が、逆立ちして頑張っても、発想力と実行方法に限界があり、既存のインフラ、既存のビジネス・モデルを破壊するような新しい解には挑戦不能であり、無数のベンチャーが生まれて切磋琢磨する多産多死環境を作り出さない限り、新時代を画するようなイノベーションは生まれ出ないと言うのである。
   大企業の中でしかイノベーションを追求できない日本の環境では、正に、クリステンセンの説くイノベーターのジレンマ以外の何ものも生まれないと言うことであろうか。
   
   ルース米国大使も、起業しても98%が失敗して消えて行く、生まれては消え消えては生まれる厳しいシリコンバレーのベンチャー企業の実態を語っていたが、私が印象的だと思ったのは、シリコンバレーには、ベンチャー・キャピタル等金融、弁護士事務所、会計事務所等のプロなどは勿論多種多様な起業とイノベーションを育んで、世界を先導する最先端を行くインフラストラクチュアが総て完備していると言う指摘である。
   起業をサポートする弁護士事務所の実情などを語っていたが、私が、その時思い出したのは、ロンドンのシティは、金融センターとしての一切のインフラがワンセット完全に完結しているからこそ世界の金融センターとして君臨し続けておられると言うことである。
   私自身、ロンドンのシティで大型開発事業を展開して来たので、土地の買収から開発事業の完結まで、この業務に絡む調査・法律実務・金融等々一切の実務機能がこのシティにはあった。

   別な表現をすれば、事業の主体となる沢山の企業やベンチャーが集中してメディチ・イフェクトを創造するのだが、それを支えるクラスター集団やインフラの集積によって、新時代を画する全く新しい産業都市が生まれ出でるということであり、この新興産業都市の構築こそ、新しい世紀の産業政策であるべきだと言うことであろう。
   日本では、堺などの新工業コンビナートが脚光を浴びているが、そんな旧型のコンビナート的な企業集積産業都市ではなく、シリコンバレーのような、新しいシティのような新規産業のメッカを創造することである。

   さて、表題の過酷な目標は、イノベーションのチャンスと言う認識は極めて重要で、日本の工業技術は世界最高水準だと思っている日本人が多いが、今回の仕分け作業で、民主党議員が、スーパーコンピューター予算に難癖を付けたお陰で、世界1位だったスパコンの能力が、現状では31位で、科学産業立国を標榜する日本が、撤退すれば立ち上がり不能な状態にあることを、幸いにも暴露してくれた。

   予算を取り仕切る官僚たちが、民主党議員に、必要性を説得出来なかったから予算を切ると言う思い上がった論理など、まかり通っていることが問題だが、ノーベル賞の小柴先生が、予算を付けた後は、一切口出しをしない、何も知らない役人が介入しない方が、遥かに、科学行政がうまく行くと言っていた。
   偉大だった筈の日本が、奈落の底へ落ちぶれて行く一方の今こそ、科学技術、芸術、スポーツ振興に、膨大な予算を振り向けてこそ、日本の明日を築き上げる最高の戦略だと思っているのだが、甘いであろうか。
   スカラーが暇人を意味するように、学問芸術などは、金をふんだんに使うことの出来る暇人しか生み出し得ないのである。
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諏訪・木曽路・八ヶ岳高原の旅(5)・・・八ヶ岳倶楽部でのひと時

2009年11月21日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   特に八ヶ岳高原での目的といったものはなく、午後早い時間に帰途につく予定をしていたので、まず、柳生父子の経営する八ヶ岳倶楽部を訪れることにした。
   このブログでもブックレビューした「デジカメ散策のすすめ」の著者柳生真悟氏のホームグラウンドでもあるので、何か自然の息吹にでも触れられるのではないかと思ったのである。
   この本に載っている八ヶ岳の写真が、私の撮った写真と全く同じアングルなので、ほぼ、ロイヤルホテルと同じような自然環境にあるのだと思うのだが、やはり、四季を通じると外の世界も、変化に富んだ色々な姿を見せるのであろう。

   車では、ほんの直の距離で、道路に面して配色の良い瀟洒な建物群が立っているので山小屋風と言った雰囲気ではないが、駐車場に面した建物の側面には、綺麗に切り揃えられた薪が積み上げられていたり、山林や畑での野外作業用の道具などが装飾風にアレンジされていると、林間の息吹を感じる。
   まず、ステージと表示された方向の小さな平屋のオープンな建物の中で、ステンドグラス我楽須工房と言うことで、菅原任氏のステンドグラスで作ったステンドパネルやテーブルランプなど、綺麗なインテリア用の作品が展示即売されていた。
   フランスで修行をして、ノートルダムの薔薇窓の修復に参画するなど、多くの作品は、ガレの作品などとともに高く評価されているということで、実に美しい。
   この口絵写真が、その展示の一角なのだが、ランプに灯が灯されていて、白壁に映った影が、実に幻想的で、何となくヨーロッパを思い出させてくれて懐かしくなった。
   私は、ヨーロッパ在住中に、多くの教会や文化遺産的な建造物を周って来たが、ステンドグラスを通して差し込む光が、真っ暗な教会などの廊下やインテリアに極彩色の淡い光を万華鏡のように鏤めて、雲の移動につれて少しずつ動いて行く佇まいなど感激するほど美しいのである。

   フランスの小さな古都で、ガレ風のテーブルランプを買って大切に使っていたが、ロンドンの住まいで、移動中にガラスのテーブルの上に、シェイド部分を落として割ってしまってから、テーブルランプは、陶磁器製など他のものを使っている。
   ただ、日本に帰ってきてから、中国製のイミテーションだが、クラシックなステンドグラスのしっかりしたテーブルランプを見つけたので、玄関先に常夜灯として重宝しているが、やはり、漏れる光の優しさ懐かしさは、ステンドグラスの命であろう。

   別棟の大きな建物は、レストランとギャラリーになっている。
   ギャラリーの入り口には、多肉植物の寄せ植えや壁にかけるリースなどや、珍しい山の植物や花木などが並べて売られていたが、建物の中には、家具からインテリア、服飾、絵画等など、製作者がはっきりした色々な種類の民芸品や手作りの作品が並べられていて、普通のみやげ物の売店ではない。
   謂わば、芸術作品の展示即売、或いは、それ程全国版でなない芸術家のパイロット・ショップと言う感じだが、確かに、作品は、かなり水準が高く、素晴らしいと思ったが、値札を見て、正直なところ、それだけの価値が?と思える作品もあった。
   
   さて、隣のレストランだが、木木をながめながら、お茶やお食事はいかがですか?と言うことで、室内は広い窓から林間が良く見えるレストランとなっており、外には広いデッキが設えてあり、林に向かってカウンター状にイス席があるなど、正に、林間浴を楽しめる絶好のセッティングである。
   私たちは、朝食後すぐであったので、7種類のフルーツを使った贅沢な美味しさと言う触れ込みのフルーツティーを注文した。
   ウオーマーの上に乗せてはあるものの、大型のガラス製茶瓶でサーブされるのであるが、びっしりフルーツが詰め込まれているので、生ぬるい甘い味付きの薄いジュースを飲んでいる感じで、正直なところ、何に人気があるのか分からない紅茶であった。
   私など、自慢じゃないが、在英5年で、欧米伯14年であるから、フルーツティーには、何度もお目にかかって賞味しているが、一寸、フルーツティーと言うのには、距離が有り過ぎる。
   オリジナリティであるから、別に、悪い訳ではないが、上に、柳生風味だとか、八ヶ岳倶楽部風だとか、何か枕詞を付けた方良いのではないかと思っている。

   さて、この倶楽部の林間だが、綺麗に枕木状のしっかりとした木を敷き詰めた遊歩道が作られていて、非常に良い。
   建物の近くしか歩かなかったので、分からないが、谷に下る方には、枯葉の落ちた土の遊歩道があるのであろうか。
   非常に、コンセプト作りが難しいとは思うが、私の感じでは、この倶楽部は、やや、人工的な雰囲気が勝った高級(?)志向のような感じがして、少し、イメージとは違っていた。
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当麻曼荼羅縁起絵巻と運慶阿弥陀三尊像・・・鎌倉国宝館

2009年11月20日 | 展覧会・展示会
   真冬のような寒さと冷たい雨に打たれて、秋の鎌倉散策もままならず、丁度、先月出かけた光明寺の寺宝などを集めた浄土教美術展を鎌倉国宝館で行っていると言うので出向いた。
   何よりも、国宝の「当麻曼荼羅縁起絵巻二巻」が展示されていると言うことで、これを見るのと、浄楽寺蔵の運慶作阿弥陀三尊像を見れば、それで十分だと思っていた。

   当麻寺へは、学生時代に良く出かけた。
   二上山の見える田舎で、野見宿禰と当麻蹴速が相撲を取ったと言う相撲発祥の地のそばを通り過ぎて、かなり整った寺域に入るのである。
   東と西に揃った綺麗な姿をした三重塔が非常に印象に残っており、そして、いまだに、あの時に聞いた澄んだ綺麗な水琴窟の音色が耳から離れない。

   中将姫が、極楽往生を願って蓮糸で、曼荼羅を織り上げて、阿弥陀仏のお迎えを受けて極楽へ旅立ったと言う言い伝えがあり、その曼荼羅が、当麻寺にあるのだと言う話にロマンがあって、その曼荼羅と、その中将姫の話を絵巻にした当麻曼荼羅縁起絵巻が、国宝だと言うので、いつか、是非に見たいと思っていた。
   尤も、当麻寺の国宝の曼荼羅は非公開の本尊であるから拝観は無理で、室町時代の写本(それでも重文)と言うことになるのだが、今回の鎌倉でも光明寺蔵の写本が展示されていた。阿弥陀三尊を中央に描いた非常に詳細な緻密に描かれた曼荼羅だが、黒く変色していて良く見ないと分かり辛い。

   ところで、光明寺蔵の縁起絵巻だが、この口絵はその一部で、阿弥陀佛が沢山の菩薩を従えて天空から、中将姫(この場合は藤原豊成の姫)をお迎えに来迎するシーンのようだが、実に克明に丁寧に描かれていて非常に美しい。
   菩薩団は、謂わば、天国の音楽隊と言った感じで、先頭は大きな琴を演奏しているし、バックには大きな太鼓隊が控えており、笛、鐘、どら、それに、幡を掲げている菩薩も居るし、まだ、鮮やかに残っている絵の具の跡から察すると、大変華麗な来迎図であったと思われる。
   この図の先に、十二単を着た姫たちの居る館に向かって、三体の菩薩の舞い降りる姿が描かれているのだが、正に、天使像のように華麗で美しい。
   光明寺の本堂の欄間の天女像とは違って、これらの菩薩像は、平等院の鳳凰堂の雲中菩薩像のような趣があって、中々素晴らしい。

   別な所では、姫が機織り機に向かって曼荼羅を織っている姿が描かれている。
   部屋など建物は逆遠近法で、やや、遠方に行くほど広がっているので、フラットな感じだが、この阿弥陀像もそうだが、描かれた人物の重要度において人物の大きさを変えて軽重の差をつけている。
   他のページでは、宮殿の建築であろうか、色々な職人たちの作業姿を、丁寧に描いていて、当時の労働の様子が良く分かって面白い。
   
   運慶の阿弥陀三尊像だが、まだ、表面の金色が残っていて、中々、華麗な仏像で、阿弥陀像は、平等院や日野の法界寺の国宝の阿弥陀如来の雰囲気で、脇侍の勢至・観音菩薩のあらわな腰をツイストした姿は、何となく、薬師寺の日光月光菩薩を思い出させて面白い。
   私には、この三尊像が、特に、運慶の仏像の特徴を示しているのかどうかは分からないが、特に、印象深いと言った感じはしない。
   あっちこっちで、運慶を見ているのだが、私の好きな運慶の像は、奈良の円成寺の大日如来坐像で、若さがはちきれそうな初期の作品だが、実に美しいのである。
   
   面白いと思った絵画は、重文の「二河白道図」である。
   縦長の絵の中央部分に、左赤、右黒のカーペット状の空間があり、左には戦い、右には家族の憩いの情景が描かれている。
   そのカーペットの間に一本の白い道が引かれていて、釈迦に見送られた旅人たちが、白道を上に向かって歩き、頂に立つ阿弥陀佛に迎えられる。
   絵の下方には娑婆世界、上方には、壮大な極楽浄土が描かれている。
   真っ赤な火の世界は憎悪、黒い水の世界は愛欲を意味するとの説明だったが、憎悪は別としても、人を愛し、その結果として結ばれる愛が、何故、煩悩であり悪徳なのか、深遠な哲理はともかく、疑問なしとはしない。
   とにかく、極楽浄土へ誘う仏画がいくつかかあって、当時の人々の死生感が分るような気がして面白かったが、幸せは人夫々であろう。
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ドラッカーが教えたイノベーションとその社会的意義~野中郁次郎名誉教授

2009年11月18日 | イノベーションと経営
   GEWの「日本の起業家精神の展望」と言うタイトルの素晴らしいフォーラムで、一橋大野中郁次郎名誉教授の標記講演を聞く機会を得た。
   ドラッカーの生誕100年記念を祝うためにも、書店では、一気にドラッカー・コーナーが活況を呈し始めており、経営戦略論やイノベーション論では屈指の大学者であり、ドラッカーとも親交の深かった野中教授の講演であるから、又とない貴重な機会であった。

   野中先生は、当然、ドラッカーのイノベーションの定義から説明し、ご自身の持論である形式知・暗黙知論へ導いて経営戦略論を展開し、経営者のあるべき姿として提唱している賢慮型リーダーシップの登場によって、イノベーションが、技術やモノに限らないもっと広く大きな経済や社会に拘わる社会的イノベーションであるから、イノベーションと起業家精神が当然となり絶えず継続して行く企業家社会になることが必要だと説き、これこそが、ドラッカーの希求したイノベーションの精神だと熱っぽく語った。

   ドラッカーのすごさは、徹底して形式知を追及し、その連結により個別具体の事例から普遍の本質を掴むことで、事例の追体験と分析によってイノベーションの原理と方法を体系化して明確に定義したことである。
   しかし、観察者としての立場を崩さず、暗黙知を重視しておらず、具体的な方法論にとどまり理論化していないと言う弱みがあった。
   すなわち、イノベーションは目的意識と体系的な形式知の分析により可能となると言う考え方であり、個人の暗黙知、特に、身体知を重視していなかった。と説くのである。
   個別具体に普遍の本質を観るとして、飽くなき形式知を追求したドラッカーの教養、飽くなき経験知の追及した本田宗一郎の現場を例証して、本質の追求こそが知識創造プロセスであり、知識を知恵化するイノベーションだとする。

   更に、野中先生は、イノベーションは、知識創造プロセスそのものであり、企業は、ユニークな未来を創造する存在だとして知識ベース企業観を展開する。
   戦略は、現実を解釈し、新たな現実を社会的に創造し続けてゆく知力であり、知識とは、個人の信念/思いを「真理」に向かって社会的に正当化してゆくダイナミックなプロセスである。
   その根幹にあるのは、知識を「知恵」に練磨するフロネシスだとして、アリストテレスの提唱したフロネシスの概念、「賢愚」「実践的知恵」を具えた完全無欠な(?)経営者の登場の必要性を説く。

   この賢愚経営者論については、このブログで、野中先生の著書「美徳の経営」について触れているが、企業倫理とかコンプライアンスとか企業の社会的責任だとか言った次元の企業経営者論ではなくて、これらを超越した遥かに高次元の経営者像を意図しているのだと思う。
   野中先生のフロネシス(phronesis)とは、価値・倫理の分別をもって、個別のその都度の状況とコンテキスト(文脈)の只中で、最善の判断・行為をできる実践的知恵である。
   賢愚の基礎となるのは、高邁かつ深遠な教養であり、至高経験であり、高度な実践と伝統であると言う。
   先日コメントした東大岩井克人教授が意図していた経営者像も、このようなものだったのであろうかと考えた。

   ところで、野中先生は、従来から、経営戦略における形式知と暗黙知の重要性を説き続けており、ここでも、知識創造は、暗黙知と形式知の相互変換運動だとして、その相互作用によるスパイラルアップこそがイノベーション経営の根幹であり、この経営手法を駆使した賢愚リーダーこそ、これからの社会に最も必要な経営者像だと説き、このことこそ、ドラッカーが目指したイノベーションの社会的意義だと言うのである。

   最後に、野中先生は、「動きながら考え抜く実践知のリーダー」を紹介し、ロダンの考える人と筋肉隆々たるボディビルダーを合わせたような、共通善に向かって「よりよい」を無限追求する知的体育会系(INTELLECTUAL MUSCLE)の知的野蛮人が必要だと説いていた。
   傍観者では駄目で、エイヤーと決断が出来る知的野蛮人的な賢愚リーダーによる勇気と愛だと、講演を締めくくった。

   非常に示唆に富んだ素晴らしい講演で、大変勉強になったが、時間の関係もあろうか、今回は、知識面と言うかKNOWLEDGEに重心をかけた講義であったが、創造的破壊の側面からのダイナミックな社会的インパクトなども聞きたかったと思った。

   野中先生は、ドラッカーの私生活について、面白い話を語っていた。
   書棚には、マネジメントや経済学の本などはなくて、ブローデルの「地中海」など歴史書やジョン・オースティンのカントリー・ジェントルマンものなど文学など他分野の本ばかりだったようで、また、傍観者を押し通したので、TVなども見たことがなかったと言う。ドラッカーが亡くなってから、奥さんはTVを買ったらしい。
   ところで、ドラッカーが、インターネットで多くの情報を取得したとも思えないのだが、どうして、あれだけの最新情報や知識を得て、それらを駆使して文明論を展開し続けてきたのか驚異と言う他はない。
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ミケランジェロと公麻呂の彫像・・・田中英道名誉教授

2009年11月17日 | 学問・文化・芸術
   「ダンテフォーラム」で、東北大田中英道名誉教授が、世界遺産モデル・フィレンツェに学ぶを、美術の視点から、ミケランジェロや天平のミケランジェロと称する公麻呂の彫像を題材にして語った。
   ミケランジェロのダビデ像の頭部をクローズアップした写真(口絵)を示しながら、戦いに臨もうとする瞬間の不安の表情や、メディチ家礼拝堂にあるロレンツオ像のメランコリーやロレンツオの胆汁質な表情が、当時の暗くて陰鬱なフィレンツェの芸術が何だったのかを語っていると説き始めた。

   ダビデ像は、全裸像であり、これは人間が罪のある存在であり原罪を背負っていることを意味しており、岩に埋れた荒削りの人間像「囚われ人」に象徴されるように、同じ裸体でも、多神教で裸体を賛美したギリシャやローマ時代の裸像とは全く違ったルネサンスの芸術であると言う。

   興味深かったのは、殆どが老人である聴衆を相手に、若かった筈のダ・ヴィンチが、自画像を老人のように描き、ミケランジェロのダビデ始め多くの彫像が老人のように彫られているのは、ルネサンス期には老人を大切にする風潮があって、ケチで何時死ぬか分からない老人こそが、想像力を持っていると考えられていたのだと言って笑わせていた。
   権力者であったロレンツオ像のメランコリーに加えてしょぼしょぼした表情が良く、まして貯金箱を後生大事に左手で押さえ込んでいるケチぶりも英雄の象徴で、このミケランジェロの個性的な表現こそ正に芸術で、見る人々を感動させるのだと言う。

   このダビデ像の不安の表情は、東大寺の戒壇院にある公麻呂の広目天の苦悶に満ちた怒りの表情と相通じるところがあり、人間とは何なのかを真っ正面から直視して具象化したこの微妙な表現そのものが芸術であり、人々を感動させる。
   昔から、日本では、仏像は拝む対象だと考えられていて、美の対象であることが無視されてきたが、宗教と芸術とは対立するものではなく、仏像は、美しく人間的に美を創り出しているからこそ、人を感動させるのであると言う。

   田中教授は、ストラスブール大学で美術史などを学び、奈良にある公麻呂の彫刻の美しさに感動して日本回帰した美術史家であり、この公麻呂を、天平のミケランジェロと称して、日本の美術界にインパクトを与えた。
   この日、田中教授は、公麻呂の他の東大寺の増長天、日光菩薩、月光菩薩、新薬師寺のキメラ像や、将軍万福の興福寺の阿修羅像と須菩提像、運慶の興福寺の無著像のスライドを示して、日本の仏像芸術の美を追求した匠たちの力量を語った。
   誰も芸術家としての国中公麻呂を語らないが、公麻呂は、従四位下の貴族に列せられた仏師であり、東大寺大仏殿建立の指揮を取る等、高く評価されていた。

   田中教授の話を聞いていて、学生時代に京大で、何かの拍子に、偉大な仏文学者桑原武夫の講演を聞き、ヨーロッパの視点から見ると日本の良さが浮かび上がると言ったような話を聞いたことを思い出した。
   フェノロサやあのピーター・ドラッカーが、日本の美術に入れ込んだのも、その片鱗であろうが、その辺の事情は、アメリカで学び、ヨーロッパで仕事をして来た私自身が十分に経験していることで、学生時代に奈良や京都で古社寺散策三昧に明け暮れていた頃よりも、遥かに、日本の芸術に対する思いが強く深くなっている。

   余談だが、別に宗教心がない訳ではないが、不思議にも、私自身は、お寺であろうと教会であろうと、随分あっちこっちを周ったが、そこで見る仏像や彫像を信仰の対象として見たことはなく、美しくて、私自身が感動するかどうかと言った視点からでしか見ていない。
   尤も、事前でも事後でも、その彫像や壁画、インテリアなどについては、芸術作品としてのみならず宗教や歴史的背景などについては、出来るだけ勉強することには努力し続けてきたつもりではある。

   何故、フィレンツエが、芸術都市として頂点を極めたのか、田中教授は、ドナテルロの言葉を例に挙げて説明した。
   パドヴァで高く評価されていたドナテルロが、かの地に永住することを強く勧められたのだが、お山の大将で居られた名誉を捨てて、「フィレンツェには、批評してくれる目がある」と言って、ワン・オブ・ゼムに過ぎないフィレンツェに帰って行ったと言う話である。
   このブログでも、イノベーション論で、しばしば、引用したメディチ・イフェクト、メディチ・インパクトに相通じる現象だが、美を美として認識できる厳しい審美眼を持った民衆が居て、偉大な芸術家たちが鎬を削って切磋琢磨する素晴らしい環境があったからこそである。

   芸術文化都市を生み出すためには、良いものを良い、美しいものを美しいと認める、この一般民衆の厳しくも卓越した審美眼を持った高い批評する目を、養うことが最も肝要なことだが、かっての奈良や京都にはそれがあったと言う。
   日本には、日本人が歴史と伝統を重んじて営々と築いてきた素晴らしい芸術や文化があり、もっと、自信を持って、芸術都市を作り上げるべきだと説く。

   東京を始め、どんどん国籍不明の現代都市景観が広がって行く半面、伝統的な地方の都市景観が疲弊して消えて行きつつある。
   民主党の「仕分け人」が、切った張ったで、ムダと言う天下の御旗を振りかざして、予算をぶった切ることしか念頭になく、この派手な立ち回りだけが脚光を浴びている感じなのだが、果たして、この民主党に、日本人が心血を注いで築き上げてきた歴史と伝統、文化芸術遺産を守り抜こうとする高邁な英知と識見があるのであろうか。
   
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ダンテからルネサンスへ・・・樺山紘一印刷博物館長

2009年11月15日 | 学問・文化・芸術
   ダンテの生涯と生きた時代から説き起こして、イタリアの時間と空間の水平線の延長拡大によって、フィレンツェに花開いたルネサンスへの軌跡を、樺山紘一氏が、「ダンテフォーラム2009」で、熱っぽく語った。
   フィレンツェに生まれ、アルノ川の橋の上で、永遠の女性ベアトリーチェに会って、芸術魂を開花されたダンテだが、追放の憂き目にあって、望郷の念を秘めながらも帰ることが叶わなかった故郷で、自身が蒔いた種が開花して、文化の頂点を極めたルネサンスが誕生したのである。
   余談ながら、誰にも永遠の女性はあるのだと、樺山先生は、ダンテのベアトリーチェとの出会いを語っていたが、さもあらん、ダンテは、偉大な「神曲」を生んだ。

   ダンテが生きたのは、1265年から1321年、イタリアを渡り歩き、異郷の地ラヴェンナで亡くなった。
   当時のイタリアは、ドイツにある神聖ローマ帝国下にあり、ローマ法王庁の影響下にもあった聖俗二重国家的な小さな都市国家の割拠であり、国家の体をなしていなかった。
   しかし、ダンテは、教会の価値とは違った、イタリアの世俗国家の価値を強調し、ラテン語を尊重しながらも、イタリア各地の方言を比較し、共通のイタリア語を追い求めるなど、イタリア・ナショナリズム的な考え方を推し進めて行った。

   また、どの都市国家も、その古さと豊かさを強調する中で、ダンテは、詩人ウエルギリウスをイタリアのシンボルと崇め、古代イタリアの栄光を追い求めた。
   古代ローマを、全イタリア人の共通価値として称揚し、同時代のイタリア人を正真正銘のローマ人の子孫と考えたので、最後のローマ人と言われている。
   時間の地平線上にローマと言う像をくっきりと浮かび上がらせて、中世から古代を展望し、時間の水平線を延長したのである。

   一方、航海技術の大発展で、東から西へ、そして大西洋へと、空間の地平線が広がり、地中海が始めてヨーロッパ人が参画する海の舞台となり、諸民族の交流と交錯が現実となって行った。

   ここで、樺山先生が、紹介したのは、スペインの古文献学者アシン・バラシオスが、ダンテを研究し、「神曲」は、イスラムから霊感を得たと解釈していると言う学説である。永遠の女性と人間の聖化、地獄と煉獄の宇宙など、イスラムと共通だと言うのである。
   当時のイタリアの学問体系が、イスラムに極めて近かったことは、ギリシャあたりの学者たちが、最先端を行くイスラム科学や文学等学問や芸術の翻訳文献を持ち込むなどして、大きく影響を受けていることは、良く知られている。
   ついでながら、同席していた田中英道名誉教授は、ここぞとばかり、ダ・ヴィンチの母親はイスラム人で、ダ・ヴィンチの指紋はイスラム人のものであることが分かったと付け加えた。
   
   ダンテの後を、ペトラルカやボッカチオなどが引き継ぎ、14世紀に起こったペストや動乱がが終息した時、ルネサンスが開花することとなったのだが、これは、正に、ダンテが先鞭を付け、イタリアをめぐる時間と空間の延長によって開放されたお陰だと、樺山先生は、強調する。

   新しい時間と空間を投影するフィレンツェに、多様な芸術を支える精神が住み着き、ルネサンスの精神の故郷として、壮大な芸術都市が誕生したのである。
   ルネサンス誕生には、色々な説があるが、ダンテによって触発されたイタリア精神が、時間の水平線:中世から古代眺望、そして、空間の地平線:地中海という母郷の限りなき延長と拡大があってこそであり、謂わば、世界と歴史を投影するフィレンツェには何処よりも芸術を支える精神が満ち満ちており、ダンテを化身したルネサンスが花開いたのだと言うことである。

   このフォーラムで、イタリアやスペインでのキリスト教とイスラム教とユダヤ教の文化の融合や混在などについても議論されていたが、今、アメリカ人が見下しているイスラム文化が、かっては、遥かに、ヨーロッパ文化を凌駕し、より進んでいた事実については無視されることが多い。
   現代は、キリスト教を主体とした欧米文化が主流であり、須く、この欧米文化の視点から総ての物事を見たり判断したりしているが、ようやく、文明の振り子が東に向いて来たので、21世紀は、思想の大転換の世紀になる可能性が出てきた。
   以前に、フランスへ仏教思想が入りかけて圧殺された経緯があるようだが、このダンテが始動したルネサンス精神が、アジアで開花するかもしれないのである。
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吉例顔見世大歌舞伎・・・仁左衛門の「大星由良之助」

2009年11月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座夜の部は、五段目と六段目で、早野勘平を演じる菊五郎と、七段目と十一段目の大星由良之助を演じる仁左衛門と、全く、異質な舞台が連続で演じられるのだが、ある意味では、この落差が、仮名手本忠臣蔵の面白さでもあろうか。
   吉田玉男の「文楽藝話」を読んでいて気がついたのは、主役である大星由良之助が、この舞台で、本格的に主役として活躍するのは、七段目の「一力茶屋の場」であると言うことである。
   確かに、塩冶判官切腹の場から城明け渡しの場は、格好が良くてぐっと来るところだが、玉男の言を借りれば、忠義一徹で通せば良く、「山科閑居」以降も、素人目には、出番も少なく特に特別な演技を求められるようでもないような気がする。
   
   何故こんなことを書くかと言うと、玉男が、玉助の代理で、四段目と七段目の由良助を勤める機会があったのだが、一力茶屋場の由良助を2回も断って、通しで由良助の人形を遣ったのは、ずっと後になってからだったと言うのである。
   「私はまだ30になるやならずの時分で、さすがに茶屋場の由良助は荷が重く、四段目だけ受け持ち、七段目は老巧な紋太郎さんに引き受けていただきました。四段目には決まった型があるので、そこそこ遣いこなせるのですが、本心を隠して遊蕩に耽る七段目の由良助は、その雰囲気を出すのが難しい。ある程度の年功を重ねないと、どうしても出せない味と言うものかなあ、そんなものが必要だと思うのです。そんなわけで、辞退させていただいた。」と言うのである。

   人形浄瑠璃と、生身の役者が舞台に立って演じる歌舞伎とは、勿論違うので、一概には、言えないと思うが、私自身は、この茶屋場こそ、柔と剛の世界を綯交ぜにした大星由良之助像を最も鮮やかに活写した舞台だと思っている。
   酔いつぶれて本心を隠しながら細心の注意を払っていた筈だったのに、それも、正気に戻って読み始めた顔世御前の書状を、お軽(福助)に読まれてしまい、最大の失策を犯してしまった悔恨の思いと慙愧の念に傷ついた心中を如何に収めるか、この一事の表現でさえ役者にとっては至難の技であろう。
   口封じに、由良之助は、お軽を殺害するつもりだったと思う。もしそんなことをすれば、由良之助の、仇討ちの目算が完全に狂ってくるのだが、由良之助役者は、その苦悶を抱えてどうするのか、お軽とちゃらちゃらして身請け話まで約束するのだが、あまりにも落差の大きい心変わりが、動揺の激しさを示している。

   さて、私は、これまで、この段で観たのは、幸四郎、吉右衛門、それに、團十郎の大星で、東京ベースの達人たちの舞台であったが、今回は、仁左衛門の大星で、大分ニュアンスの違った芝居を観て非常に興味深かった。
   私には、どうしても、大星は、根っからの関西人であった筈だと言う意識が強いので、今回、随所に関西弁の訛りと言うかニュアンスの勝った仁左衛門の由良之助を観て、大分、人間大石内蔵助像に近づいたような気がした。
   大石には、剛直で一本気と言うか、関東武士のようなイメージではなく、近松門左衛門と一緒になって塩の専売権の確保と販路の開拓に奔走したり、上方の文化人と交わりながら芸の道を追い求めたり、とにかく、俗世間との接触も豊かで硬軟取り混ぜた文武両道の達人だった筈であり、大坂の商人的な要素を持った能吏家老であったようなイメージを持っている。
   主君の無念を晴らすために仇討ちの一事しか念頭に無く一切ぶれない、そんな関西人的な、計算しつくされた諦観に似た使命感が由良之助を突き動かしており、夢と現実が錯綜する、そんな大石像を、仁左衛門は、思い描いていたのではないかと思っている。

   大星の苦悶を、寺岡平右衛門(幸四郎)が察知して、自分の仇討への参画条件にお軽を殺害しようするのだが、この兄妹の諍いによって、総てを察した由良之助が、平右衛門の仇討ち加わりを許し、お軽に手助けして縁下の敵に寝返った元家老の九太夫(錦吾)を、夫勘平の手柄にすべく討たせる。

   どちらかと言えば、それまでは、酔っ払いを押し通して、時には、お軽とのちゃらちゃらでコミカルでさえあった柔らかだった由良之助の仁左衛門が、九太夫を、獅子身中の虫として激しく打ち据える激しさは、一気にテンションが爆発して、見事なまでの威厳と誇りを表出し、大石の大石たる面目躍如の舞台姿で、千両役者としての仁左衛門の雄姿は流石であった。

   本来、由良之助役者として押しも押されもせぬ名声を博している幸四郎が、足軽平右衛門を演じているのだが、やはり、相手役を熟知しているので、間合いや呼吸の合わせ方など、実に上手い。
   先般、自分が由良之助を演じていて、子息の染五郎がこの平右衛門を演じていたのだが、どんな気持ちであろうか。
   幸四郎は、喜怒哀楽の激しい非常にダイナミックな平右衛門であったような気がしているのだが、貫禄が勝ちすぎている分は、関東武者としての荒削りの無骨さの表現と考えれば良いのであろう。

   お軽は、五・六段目は、時蔵が演じていて、この茶屋場は、福助が演じている。
   幸四郎との呼吸も合っていて、どちらかと言えば現在的でモダンな雰囲気で、それなりに素晴らしいお軽なのだが、前に、玉三郎を観ているので、一寸、演技過剰と言うかはしゃぎ過ぎのような感じが気になった。
   平右衛門に、夫勘平の消息を聞きだす時の恥じらいの表情だが、玉三郎には、何とも言えない女らしさ、そこはかとした色気が滲み出していて、随所に、奥女中、遊女、夫や家族思いの優しい京女と言った女の魅力を感じたのだが、この方がお軽の実像に近いような気がする。
   

   
  
   
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諏訪・木曽路・八ヶ岳高原の旅(4)・・・八ヶ岳高原・大泉のホテルにて

2009年11月13日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   前夜、遅くなって着いたので、宿であった八ヶ岳ロイヤルホテルの温泉に浸かってその日は静かに過ごした。
   高速道路を下りて、真っ暗な中を、八ヶ岳高原の中を突き抜けて来たので、所々の街灯が目に付いた程度で、どのような所を走ったのか全く分からない。

   千葉を出てからずっと天気に恵まれていて、この日も、殆ど快晴に近い良い天気であった。
   諏訪や信州は寒いと聞いていたのだが、この3日間は、千葉に居る時と同じでラフなジャケットで通せたので、気楽であった。
   ところで、私は、八ヶ岳高原と言っているものの、このホテルも大泉高原と言うことで夫々地域によって高原名があるようだが、よそ者の私には、要するに、八ヶ岳麓の高原地域と言う意味である。しかし、実際に訪れたのは、他に、八ヶ岳倶楽部と清里の埋れ木の村と、そのルートや周辺を周っただけで、垣間見ただけである。

   部屋が、背後の森に面していたので、朝起きてカーテンを引くと、まっすぐに伸びたカラマツ林が眼前に迫っていて、丁度、落葉前の所為か、葉が黄変して粗くなっていて、木々の間から、朝日を浴びた八ヶ岳の山々が青く透けて見える。
   6階の窓からだが、カラマツの木は、それより遥かに高くすっくと伸びていて20メートルはあるであろうか、やはり、どこか日本離れしたヨーロッパの木である。
   下の雑木の幹に、綺麗な啄木鳥が止まったので撮ろうとしたが、望遠レンズに交換している間に飛び去ってしまった。

   朝、山の端を上る日の出を見過ごしてしまったが、少し、早かったけれど、外に出て、ホテルの周りの森の中に設えられている遊歩道を歩くことにした。
   ほんの束の間にも、啄木鳥に会えるのだから、四季を通じて観察していると、相当、豊かな自然観察を楽しめるであろうと思いながら、木々の上だけが朝日を浴び、木漏れ陽で明るくなった良く手入れされたカラマツ林を、枯葉を踏みしめながら歩いた。
   林間とは思えないほど明るいので気持ちが良いが、入り込めば出ることが出来ないように鬱蒼としたドイツの黒い森とは随分違うので、この森ならグリム童話や恐ろしいドイツの物語のような民話は生まれないだろうと思った。
   まだ早かったが、一人の中年の婦人に出会ったので挨拶を交わした。すれ違い頭に良い香りがしたので旅人なのであろう。最近、一人旅のシックないでたちの中年女性に会うことが多いような気がするのだが、気の所為であろうか。

   ホテルのゲートの前に、数軒のレストランが並んでいて、この周りには、もみじなど観賞用の木々が植えられていて、丁度紅葉していて朝日を浴びて綺麗に輝いていた。
   高原の紅葉は、雑木が褐色に紅葉するくらいで、色鮮やかな紅葉には、意識して植栽をしなければならないのかも知れない。
   すすきだけは、何処でも真っ白に風に靡きながら、秋を演出しているが。

   ホテルに帰って、屋上の展望台に出た。
   背後の紅葉した雑木林越しに素晴らしいパノラマを見せてくれるのが、この口絵写真の八ヶ岳連山で、一番近いので高く写っているのが、権現岳(2718m)で、続いて右側に小さく阿弥陀岳(2806m)、そして、赤岳(2085m)。
   順光なので、ブルースカイをバックに美しい。
   反対方向を見ると、右手に、南アルプス連山、左手に、秩父連山の山並みが見え、その真ん中の広い空間に、素晴らしい霊峰富士山の雄姿が宙に浮いている。

   南アルプスは、前日、訪れた木曽路方面の山並みで、右手に、甲斐駒ケ岳(2988m)、左手に、観音岳(2841m)、その間にある小さく見える山が北岳(3193m)で、雪を頂いている。
   秩父連山は、近い所為か、低い山だが大きく見えており、先程散策したカラマツ林の向こうに、淡いダークブルーの姿を横たえている。
   南側の山々は、逆光なので、もやに霞んだ明るい灰色のキャンバスに、霞んだダークブルーの絵の具を墨絵のように描いた感じで、その輪郭のリズム感が実に良い。

   高台に上って、遠方の山々をパノラマビューで展望するのは、久しぶりで、山を全く見る機会の無い首都圏に住んで生活していると、実に新鮮で楽しい。
   実のところ、山の風景を楽しんだのは、ヨーロッパ旅行で、マッターホーンやユウグフラウヨッホ、シャモニーなどに行って見た以来かも知れない。
   長い間、涼風に吹かれたながら、展望台に立っていた。
   
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