熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

新宿御苑・・・秋たけなわ:紅葉が美しい

2016年11月30日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   機会がなかったので、国立能楽堂の定期公演が終了した後、新宿御苑を訪れた。
   3時15分に終演なので、大通りを越えれば目と鼻の先に、千駄ヶ谷門があるので、造作もないのだが、日暮れ前なので、3~40分くらいしか、時間がない。
   結局、芝生広場を抜けて、中の池に出て、 日本庭園に向かって歩き、殆ど、通り抜けるだけで、新宿門へ向かうことになった。
   それでも、艶やかに色づく紅葉の美しさを感じることが出来たのは幸いであった。
   (写真は、曇り空の夕暮れなので、多少、コントラストと彩度調整して掲載している。)

   芝生広場は、イギリス風景式庭園よりは、大分小規模なオープンスペースだが、まわりの巨木が接近していて、雰囲気があって良い。
    
   
   

   中の池の池畔の紅葉は、今、丁度、錦色のグラジュエーションが美しく、鬱蒼とした木陰から見上げると奇麗である。
   陽が照っているともっと面白いと思うのだが、池畔に映る紅葉も、なかなかのものである。
   
   
   
   
   
   
   
   

   中の池の端を渡って、日本庭園の入り口にある銀杏の巨木が、黄色く色づいている。
   中国ムードの旧御涼亭や翔天亭の周りの紅葉もなかなか美しい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   旧御涼亭から神の池までにも、池や小川があって、まわりにもこじんまりとして林間の雰囲気の庭園が続いている。
   
   
   
   
   

   上の池に出ると、一気に明るくなり、展望が開ける。
   真ん中にかかった橋のたもとのススキが白く光っていて、秋の風情を濃厚に醸し出している。
   
   
   
   
   
   
   
   

   新宿門に出た頃には、殆ど薄暗くなっていたのだが、昼に新宿門を潜れば、黄色く輝く大銀杏が迎えてくれて、温室に向かうメインロードは、何百メートルか、綺麗に色づいた紅葉が楽しめたはずだったが、残念ながら、少し入園が遅かった。
   尤も、閉園間近なら、人が少なくて、夕日の美しい時刻なら、逆光の紅葉の美しさは抜群であろう。
   
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ジョセフ・E・スティグリッツ著「.ユーロから始まる世界経済の大崩壊」(2)年金減額は「賃金窃盗」

2016年11月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「年金法案、衆院委で可決」のニュースがメディアを走った。
   年金支給額の上昇を抑える「マクロ経済スライド」を強化する国民年金法改正案なのだが、安倍晋三首相は、年金法改正案を「将来の年金水準確保のための法案であり、世代間の公平性を確保するものだ」と強調している。
   しかし、年金法改正案は、現役世代の将来の年金受給水準を維持するため、賃金の変動に合わせて年金額を改定する仕組みを盛り込んでおり、物価が上昇しても賃金が下がることもありうるため、民進党など野党は「年金カット法案」だと批判している。

   この法案が、年金カット、すなわち、年金支給者に、これまでの規定のように支払わずに、減額を意図する法案で、これを政府が強行するとなると、この本で、スティグリッツが説く「賃金窃盗」だと言うことになる。
   ギリシャ危機について論じていて、ドイツが、ギリシャ債務の再編の必然性が明白になっても、契約は契約であるから、再編すべきではないと主張し続けたのだが、この契約の神聖性を、年金には敷衍されず、約束した年金を全額支払わないのは、事実上、契約の破棄に等しい。と批判している。
   年金減額は、社会の最も脆弱な成員に影響を与え、貸し手側が金融の知識に通じ、債務不履行のリスクを理解している債務契約と同列に論じるべきではない。と言うのである。

   今日、世界中で、「賃金窃盗」--労働者が仕事を成し遂げたのに、雇用者が約束に賃金を支払わないことーーの懸念が高まっているのだが、労働者は時間を返してもらうことが出来ないので、「賃金窃盗」は言語道断の犯罪と見做される。
   未来の年金は、適正な報酬パッケージの一部とみなすべきで、約束した水準から年金を削減するのも、異なる形態の「賃金窃盗」なのである。と言うことである。

   有能な人材を惹きつけるためには、適正な報酬パッケージが必要であり、公共セクターの労働者が適正な報酬を受けていなければ、公共セクターは必要な責務を果たすことが出来なくなり、公共サービスの質の低下が、国民の納税意識を殺ぐなど悪循環が始まるのだが、そのようなことさえ、トロイカは顧慮しなかったと非難する。  
   尤も、ギリシャの年金制度なり、その支給額など、そのシステムが、適正であったかどうかは、ともかく、労働協約、特に、年金をも含めた報酬契約は厳正であるべきであって、理由の如何に拘わらず、一方的に減額してはならない、すれば、賃金窃盗だと言うのである。

   スティグリッツの見解は、理解できるが、正しいのかどうかは、私には分からないが、そのような認識は必要であろう。
   安倍政権に、その意識があるかどうかは、大いに疑問だが、良かれ悪しかれ、戦後の政治経済社会のかじ取りを、殆ど一切取り仕切ってきた自民党なり国家官僚のなせる技が導いた失政の結果が、この日本の深刻な国家財政の赤字であり、社会福祉制度なり、年金問題だと言えないとすれば、結局は、国民が無能であって、花見酒の経済に酔いしれていた結果だと言うことであろう。
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わが庭・・・椿タマアメリカーナ咲く

2016年11月27日 | わが庭の歳時記
   椿の花が、一輪でも咲き始めると嬉しくなる。
   前の千葉の庭のように、30年近くかかって、50種類以上の椿を育てると、大きくなって沢山の椿が一斉に咲くので、どうしても、マスとしての鑑賞になってしまうのだが、この鎌倉の庭には、3年弱の間に、少しづつ庭植えして、まだ、木も小さくて、20種類もない椿になると、一本一本の椿が愛しくなり、一輪一輪の花が、咲いたり散ったりするのが、無性に気にかかる。

   イギリスから帰って来て、近くの園芸店で、真っ先に買ったのが、薩摩紅と天賜(てんし)。
   40センチくらいの苗木で、綺麗な花が数輪咲いていて、窓辺で楽しみ、その後、庭植えにした。
   大きくなって毎年咲き乱れていたのだが、そのまま千葉の庭に残して、鎌倉に移転してきた。

   タマアメリカーナが、まず、一輪咲いた。
   一寸、白い覆輪部分が多いような感じだが、
   一本の木で、全く同じ色や姿かたちの花が咲く椿が普通だが、尾張五色椿などのように、成木になると、赤・白・絞りなど多彩に咲き分ける椿もあるので、バリエーションがあるのであろう。

   私は、花の写真を撮り続けて、もう、何十年にもなるが、三脚を使わずに、殆ど手持ちで、マクロレンズも使っている。
   昔はフィルターなども使って微調整しながら写していたが、根が不精の所為か、それ程、写真に拘りがないのか、最近では、絞りやシャッター速度なども含めて、殆ど考えずにシャッターを切っているので、どんな写り方をするのか、パソコンに取り込むまで分からない。
   今は、殆ど、デジタル一眼レフに、18~200ミリのズームレンズを付けて、絞り優先開放で、写しており、時々、マクロ100ミリ1.8を使うことにしている。
   尤も、外出する時には、大体、機動性に欠けるので、小型のミラーレス一眼や高級デジカメを使っており、これで、十分である。
    
   
   
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国立演芸場・・・「正蔵 正蔵を語る」

2016年11月26日 | 落語・講談等演芸
   今日は、国立演芸場で、「正蔵 正蔵を語る」を聞いた。
   私には、二度目だが、この高座での正蔵は、山田洋次監督の「東京家族」のような軽妙なタッチの若作りではなく、非常に老成した噺家の雰囲気で、しみじみとした語り口が良い。

   プログラムは、次の通り。
落 語「松竹梅」林家はな平
俗 曲 柳家 小菊
落 語「蛸坊主」 林家正蔵
落 語「ちりとてちん」柳家さん喬
―仲入り―
紙切り  林家正楽
落 語「鰍沢」 林家正蔵

   中入り前の「蛸坊主」は、元上方落語だと言うのだが、先代の正蔵が得意とした落語で、YouTubeで、その語りが聞ける。
   先代は、やはり、一昔前の穏やかな語り口だが、当代は、現代的でてらいのない語り口が良い。

   まず、まくらが面白かった。
   高座で会場に行く途中、出迎えの人の案内で、テレビなどでよく出てくる石原慎太郎ロードを通ったと言って、あの人は、非常に分かり易い。嘘をつく時には、必ず、目を瞬かせる。と言って   
   先日、高座に上がったら、前列の客が近づいてきて、「私はファンです。」と言って目を瞬かせたので、嘘だと思ったと。
   また、名所の話を切り出して、
   奈良の大仏が、大地震で、片目が腹の中に落ちたので、皆困ったのだが、一人の男が、直せると言って、目から大仏の腹の中に潜り込んで、落ちた目を嵌め込んだのは良いが、出口をふさいでしまったので皆が心配した。ところが、鼻から出てきたので、利口な人は、目から鼻に抜けるのだと語って、笑わせていた。
   トリの「鰍沢」は、まくらなしに、一気に圓朝噺を語り始めた。

   この落語「蛸坊主」は、次のような話。
景色よし味よし、器もサービスも満点で大評判の不忍池のほとりにある料理屋に、高野一山の修業僧だと称する4人の坊さんがやって来て、幼少の折から戒律堅固に過ごしているから、なまぐさものは食らわない、精進料理を出してくれと言って椀物を注文する。
   だし汁は何からだと聞くので、主人は、土佐の鰹節だと答えたので、四人は戒律堅固に暮らしていたのが、この碗を食べたので戒律を破り修業が台なしになってしまったので、最早高野山には帰れないから、この店で一生養ってもらうおうと強請り始める。
   それを、隣の座敷で聞いていた歌丸のように痩せた老僧が、仲裁に入ると言って、四人に対面し、高野一山の者と言うが、貴僧たちはこの愚僧の面体をご存じかと問い詰めて、諸国の雲水一同高野に登って修業するなら、この真覚院の印鑑なくして足を止めことができない。高野の名をかたって庶民を苦しめるにせ坊主、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主
と言って罵倒する。
   4人は、蛸坊主の証拠を示せと老僧に襲い掛かるが、何処から力が湧き出るのか、老僧に不忍池に投げ込まれて、8本の足を出して頭から池にずぶり。「蛸坊主!」

   さて、「鰍沢」だが、青空文庫を見ても、圓朝噺としては、非常に短い。
   正蔵も、25分で語り切った。

   身延山へ父の遺骨を納めた新助が、帰途、大雪に遭って闇夜の山中で道に迷い、偶然見つけた一軒家に飛び込むと、妙齢の美人・お熊が現れて、宿を貸すと言う。このお熊は、かつては吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁で、一夜を共にしたことがあり、心中を図って江戸を離れて猟師となった夫の妻であることが分かる。新助は宿の礼として、お熊に、財布の大金の封を切って3両渡し、お熊に勧められた卵酒を飲んで寝込んでしまう。
   お熊は、客に酒を供してなくなったので、夫のために酒を買いに行くため外出する。そこへお熊の夫が帰ってきて、新助が残した卵酒を飲み苦しみ始める。帰ってきたお熊は夫に、新助にしびれ薬入りの酒を飲ませて殺し、大金を持っているのでそれを奪い取るのだと語る。それを聞いた新助は、毒消しを飲んで雪でかき込んで、嵐の中を外へ飛び出し、必死に逃げる。気付いたお熊は鉄砲を持って追いかけてくる。
  新助は、川岸の崖まで追い詰められる。そこへ雪崩が起こり、新助は突き落とされ、岸につないであったいかだに落ち、その弾みで、いかだが流れ出す。お熊の放った鉄砲の弾が飛んでくるが、それて近くの岩に当たる。急流を下るうち、綱が切れていかだはバラバラになり、残った1本の材木につかまり、懸命に南無妙法蓮華経と題目をとなえながら川を流れていく。窮地を脱した旅人は、父のご加護。お材木(=お題目)で助かった。

   歌丸の圓朝噺とは、大分、年季の差もあって、しみじみした語り口とは違って、語り口調は普通の落語調だが、身振り手振り、顔の表情などにメリハリが利いて面白く、中々、聴かせてくれた。

   中トリの柳家さん喬の「ちりとてちん」は、流石に絶品。
   何度か、他の噺家で聞いているのだが、年季の入った語り口と言い、話術の冴えと言い、ベテランとはこういうものかと思わせる正にそんな噺家。
   最後の「ちりとてちん」を、見栄を張って食す仕草など、実際に、腐った豆腐に唐辛子を混ぜたゲテモノを食べて実験したとしか思えない様な臨場感たっぷりの語り口など秀逸である。
   
   

   帰りに、永田町駅に行く途中、何人かの外人たちが、オープンな小型車で走っているのに出くわした。
   
   
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第20回 相曽賢一朗ヴァイオリン・リサイタル2016

2016年11月25日 | クラシック音楽・オペラ
   恒例の相曽賢一朗ヴァイオリン・リサイタル2016は、第20回記念となり、昨年同様に、全曲、バッハの無伴奏ヴァイオリン演奏でプログラムを組んだ非常に意欲的な演奏会であった。

   プログラムは、次の通り。
   J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番 イ短調 BWV1003
        無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
        無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV1011(ヴィオラ)
        無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番 ハ長調 BWV1005

   2時間、休憩を挟むものの、休むことなく無伴奏で、一糸乱れることなく、ダイナミックに緩急強弱自在に相曾独特の美音を奏で続けたのは、流石で、アンコールには、ボーイングを長く保ちながら天国からのような美しいG線上のアリアを演奏し、喝采を浴びていた。

   バッハと言えば、若い頃に、良く分からにままに、カール・リヒターのマタイ受難曲やミサ曲ロ短調などのコンサートを無理して聴きに入ったり、欧米に行ってからは、教会でのバッハのオルガン演奏や、コンサートでのブランデンブルク協奏曲を聴くくらいで、私には、非常にハードルの高い音楽家であって、聴く機会が少なかった。
   まして、器楽曲の無伴奏作品と言えば、NHKで放映されたロストロポーヴィッチの無伴奏チェロ組曲を録画して聴いた以外は、パルティータをヴァイオリニストのアンコールで聴くのがやっとで、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを、今回の相曾リサイタルのように、本格的に聴くなど想像もできなかった。

   相曽君が、ロンドンのアカデミー・オブ・ミュージックに留学で訪英してきた時に、キューガーデンの我が家に滞在して、聴かせてくれた一曲が、宮城道雄の「春の海」の尺八パートで、それまでに、宮城道雄とシュメーの演奏を聴いていたので、かすれた正に尺八そのものの音色を聴いて、強烈な印象を持った。
   あれから、もう24年。
   今回の20回のリサイタルの全記録を見ても、相曽賢一朗の大変なヴァイオリン行脚の凄さが分かるのだが、ロンドンで鍛えに鍛えて、今や、最初の留学先アメリカにも活躍の場を広げており、更に、バーミンガム音楽院や英国王立音楽アカデミーなど各地で教鞭をとるなど、八面六臂の活躍をする著名なヴァイオリニスト。

   ロンドンの頃に、相曽ファンになった我々オールド・ファンは、この日本でのコンサートに同窓会を兼ねながら駆けつけているのだが、10年振りかで訪れた元ビジネス戦士が、相曽さんの音色に随分豊かな艶が出てきたなあと言ったら、当たり前ですよと奥方が相槌を打っていた。

   今回のリサイタルは、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータだけのプログラムを組んで、日本の音楽ファンに対峙する相曽賢一朗の並々ならぬ自信と誇りが炸裂した演奏会であった。
   遠い遠い存在であったバッハに、改めて、音楽の楽しさ素晴らしさを感じさせてくれた一夜で、感謝している。

   口絵写真は、東京文化会館でのリサイタルの終演後、ファンへのDVDのサイン中に、こっちを向いてもらって撮影したもの。
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吉例顔見世大歌舞伎・・・中村芝翫の「盛綱陣屋」

2016年11月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回は、昼夜の中村芝翫襲名披露公演を、通して一日で観た。
   実質的な芝翫および子息たちの登場する舞台は、昼の部の「祝勢揃壽連獅子」、夜の部の「口上」、「盛綱陣屋」、「芝翫奴」であった。
   連獅子は、親子4人の気合のあった素晴らしいパーフォーマンスで、亡くなった先代芝翫が、立派な後継者を残したことを天下に知らしめていて、福助児太郎父子、勘九郎七之助の中村屋兄弟を加えた一門のパワーは、大変なものであることが分かる。
   この能「石橋」から脚色した親子の厳しくも温かい情愛を表現した連獅子の舞台は、豪快な狂いと勇壮な毛振りを観ただけでも、正に、親子4人が披露する襲名の舞台には、最も似つかわしい演目であったと言えよう。

   「口上」で、児太郎が、父福助が、再起を期してリハビリに頑張っていると語っていたので、次の歌右衛門の艶姿の登場の近いことを心から祈りたい。
   落語の襲名披露口上とは違って、歌舞伎が面白くないのは、ともかくとして、天下の名優たちの晴れ姿なのであるから、もう少し、列座する役者たちは、心と頭を働かせて、もっと気の利いた口上を語れないのかといつも思う。
   仁左衛門は、大阪での口上で語るので、ご来場願いたいと語り、扇雀は、こうちゃんに公私ともにお世話になったが、私を語ると自分にとばっちりが来るので止めると笑わせていた。

   芝翫が、立役として、大舞台を務めたのが、夜の部の「盛綱陣屋」でのタイトルロール盛綱である。
   これは、能「藤戸」に登場する盛綱ではなくて、本作は、大阪の陣に材料を取って、徳川と豊臣の対立、すなわち、真田信之と真田幸村の兄弟の対立を、源頼朝没後の実朝と頼家の世継争いに準えて作り変えた芝居で、徳川側は鎌倉方、豊臣側は京方と言う形になっている。
   元々仲の良かった盛綱と高綱の兄弟が、戦場で敵同士になり、盛綱は、戦場で討ち取られた高綱の首を見て、贋物だと気付くのだが、捕らわれの身であった高綱の子小四郎が、その首を見て、「父上」と呼びかけて切腹したので、高綱小四郎父子の事前に交わされていた策略に気付いて、検視に来ていた北條時政に、小四郎を見殺しに出来ないので、「高綱の首に相違ない」と言上し、命を捨てる覚悟で弟の計略に乗るのである。
   その前に、盛綱が、母微妙に、小四郎を囮にして高綱を誘き寄せようとしている時政に背くことになるので、自分には出来ないが、代わりに、弟のために、小四郎に切腹させて欲しいと頼みこむ悲痛なシーンがあり、更に、小四郎の母篝火が忍んできて小四郎に会うなど、悲劇的な展開があるのだが、盛綱の弟や甥を思う、封建時代には一寸珍しいヒューマニズムが表出していて興味深い。
   ところが、弟の高綱を、和田兵衛を送り込んで救出を策すものの、事前に子供小四郎に自害を言い含めて、犠牲にしてでも、生き延びようとする敵将として描かれているのが、私には一寸疑問であり、戦国時代とは言え、当時の子供を囮や犠牲にする戦略戦術の非情さが、いつも、歌舞伎の舞台を観ながら、気になっている。

   芝翫は、このあたりの微妙な心の動きを、悠揚迫らぬ大きな立ち居振る舞いで演じて、堂々たる盛綱像を創出した。
   私は、幡随院長兵衛を観なかったので、何とも言えないが、超ベテランのいぶし銀のような微妙の秀太郎と、和田兵衛秀盛の幸四郎を相手にして、互角に演じ切り、今回の披露公演で、素晴らしい演技を披露したこの盛綱が、出色の出来だと思った。

   ひょんなことだが、結婚前の芝翫の奥方三田寛子さんを、一度、ロンドンで、ロイヤル・オペラ・ハウスのバレエ公演の時に、ロビーで見かけたことがある。
   その時には、影も形もなかったはずの3人の男の子が、橋之助、福之助、歌之助として、こんなに、立派に成長して襲名して、素晴らしい舞台を務めているのである。

   名門梨園の襲名披露だが、親子4人が同時に襲名して、素晴らしい披露公演を実現させるなどと言うのは、非常に珍しく、将来が大いに期待できると言うことで、成駒屋のみならず、歌舞伎の世界においても、大変な慶事と言えよう。
   
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鎌倉便り・・・秋深し:長勝寺から御霊神社

2016年11月23日 | 鎌倉・湘南日記
    安国論寺の高台から、鮮やかに黄色く色づいた銀杏の姿が見えたので、長勝寺だと歩を進めた。
   横須賀線の踏切を渡ればすぐである。
   鶴岡八幡宮の大イチョウが倒れてからは、寂しくなったのだが、荏柄天神社に行きたかったけれど時間がないので、長勝寺の後、帰途でもあるので、銀杏の紅葉を見るために、御霊神社に行こうと考えた。

   長勝寺の銀杏は、門前から見ると、一本の木のように見えるが、雌雄二対の大銀杏なのである。
   墓所に覆いかぶさるようにそそりだっていて、今まさに、一番美しい紅葉を見せている。
   奥の銀杏が雌で、ギンナンをたわわに実らせていて、落ちればどうするのか、面白いと思って観上げていた。
   
   
   
   
   

   法華堂の前に、もみじの巨木が植わっていて、このもみじが、錦の紅葉で、背後の大銀杏とのコントラストが美しい。
   朝早ければ、良いのかも知れないが、もみじ側の陽が陰っているので、写真には撮りにくいのが残念である。
   
   
   
   
   
   

   この境内で目を引くのは、サザンカで、一本だけ白い八重の花が咲いていたが、匂うように美しい。
   もう一本、小堂脇の赤いサザンカで、たわわに咲き乱れて散って、びっしりと地面に敷き詰めて、赤い絨毯のような雰囲気を醸し出している。
   
   
   

   長勝寺を出て、水道路から大町四つ角を目指し、左折れしてJRと江ノ電の踏切を越えて、由比ガ浜大通りを真っすぐに長谷寺へ向かおうと考えて歩き始めた。
   北鎌倉からも鎌倉中心部の古社寺へ歩くのだが、京都と比べれば、鎌倉の街の規模が良く分かる。

   途中、何の変哲もないパン屋があったので、ガイドブックにあった店だと思って、中を覗き込むと、老人が一人店番をしている。
   何となく話しかけたら、この店を70年も続けており、93歳だと言う。
   元気と長生きの秘訣は何だと聞いてみたら、遊ぶこと、女遊びだと言って、10代からの武勇伝を語り始めた。
   遊びの出来ない人間は一人前ではないと、今でも、50代、60代、70代の女友達が4人いて、現役だと言いながら、とにかく、面白い話を滔々と語り始めたので、私には別世界の話ながら、これも勉強だと思ってしばらく拝聴していた。
   店に並んでいたパン、揚クリームとじゃがチーズを一つずつ買って、途中で、毒気抜きのつもりで食べたが、おいしかった。
   店には、中身を変えた面白いパンが並んでいるのだが、どうも、主人には似つかわしくない斬新な新製品の開発やネーミングは、後継者の孫、ひ孫たちの発想であろうが、手書きの品書きや何十年前と変わらない店の佇まいが、実に懐かしくてうれしい。
   これが、鎌倉の良さであろう。
   
   
   

   下馬から長谷寺への大通りに面しては、流石に鎌倉だと思わせる店があって、激しいバス通りながら、面白い。
   
   

   長谷寺へは寄らずに、長谷寺観音前の交差点を左折れして、次の路地を右折れして、御霊神社に向かった。
   銀杏が、少し紅葉しているのが見えた。
   この神社にも、本殿の左右に、雌雄の銀杏の大木が植わっている。
   本殿に向かって、右側が雌で、この方が色づいていて、左の雄の方は、すこし、紅葉が遅い。
   
   
   
   
   

   いつものように、時折、鳥居外を、江ノ電が通り抜けるので、シャッターを切った。
   路肩の季節の花を靡かせて、列車は通り抜ける。
   長谷寺に着いた時には、閉門前であったので、入るのをあきらめた。
   参道横の対僊閣の戸口が開いていたので、何となくシャッターを押した。
   長谷寺前からバスで鎌倉山まで帰り、バスを降りて歩きだしたら、安国論寺の展望所から見えなかった富士山が、前方に浮かび上がっていた。
   
   
   
   
   
   
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鎌倉便り・・・秋深し:妙本寺から安国論寺

2016年11月22日 | 鎌倉・湘南日記
   少し晴れ間が出たので、鎌倉の秋は如何ばかりかと思って、鎌倉山からバスに乗って、鎌倉駅を目指した。
   シーズンだと言う割には、鎌倉駅も、小町通も人が少なかった。
   若宮大路を渡って、目と鼻の先の大巧寺の門を潜った。
   椿の花を見るためだったのだが、まだ、少し早くて、あけぼのと西王母、ヤブツバキやサザンカくらいしか咲いていなかったが、一つ、隠れ磯と言う知らない椿が咲いていた。
   つゆうめもどきと言う黄色い実がびっしりついた木や、南天桐と言う赤い実を付けた木も面白かった。
   それに、酔芙蓉も、ムードがあって良い。
   
   
   
   
   
   
   
   

   本覚寺を通り抜けて、妙本寺に向かった。
   ここの紅葉は、一部のもみじが紅葉している程度で、まだ、時期が早く、大イチョウも緑のままであり、山間の所為か、秋色は薄い感じである。
   今日も、新婚のカップルの写真を撮っていたが、境内が広くてオープンなのが好まれるのであろうか。
   
   
   
   
   
   
   
   

   椿やサザンカ、千両、本堂前のキンカン等々、風情を添えているのが良い。
   
   
   
   
   
   
   

   次は、安国論寺に行った。
   この寺の門前に、かなり、大きなイチョウの木と、枝垂れ桜の木が植わっていて、春秋結構目立つのだが、果たして、銀杏の紅葉はどうであろうか。
   残念ながら、2~3日遅い感じで、微かな風にも、散り続けていて、地面がびっしりと黄色く染まっている。
   
   

   不思議なもので、この寺の境内を20メートルほど奥に入った本堂前の銀杏は最盛期で、綺麗に黄色く光っていた。
   ここのもみじも、紅葉していて、コントラストが美しい。
   その奥に、市の天然記念物であるサザンカの巨木が、白い花を咲かせていた。
   
   
   
   
   
   
   
   
   境内には、下草風に、千両などひっそりと、彩を添えていて、ほっとする。
   この寺の裏山に上って行くと展望台に出て、遠く、稲村ケ崎から伊豆半島、それに、富士山が遠望できる。
   今日もダメだったが、霞んでいて富士は見えなかった。
   
   
   
   
   
   
   
   

   鎌倉の秋だが、もみじは、場所にもよるようだが、まだ、最盛期は先のような感じで、銀杏は、気候に大きく左右されて、散っているところもあれば、最盛期のところもあり、まだ、緑のところもあって、ばでょによるようである。

  
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吉例顔見世大歌舞伎・・・仁左衛門の「御浜御殿綱豊卿」

2016年11月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎


   この「御浜御殿綱豊卿」の舞台だが、私の記録では、2007年と2009年に、仁左衛門の綱豊卿、染五郎の富森助右衛門で、観ていることになっているのだが、仁左衛門の非常に格調の高いお殿様ぶりと能衣装を着けた素晴らしい姿が、印象に残っている。
   吉右衛門や梅玉の綱豊卿を、国立劇場でも見ているのだが、仮名手本忠臣蔵とは趣の違った正攻法で赤穂事件に対峙したこの舞台は、いつ見ても感動する。
   
    「御浜御殿綱豊卿」では、綱豊卿が、勘解由(新井白石)に向かって吐露しているのだが、大石達に仇討ちを成功させて武士道が廃れた軟弱な元禄の世直しをしたいと言う思いが、重要なテーマとなっている。
   「勘解由、討たせたいのう。」「は、は。」「躯にかかわりなき事ながら、いささか世道人心のためにも、討たせたいのう。目出とう浪人たちに、本望を遂げさせてやりたいのう。」と言う言葉がすべてを語っている。

   綱豊お気に入りの中臈お喜世への瑶泉院筋からや、綱豊の奥方の関白近衛家からの督促で、浅野家お家再興願いが、綱豊に来ており、将軍に願い出れば、認められるはずなのだが、大儀を通すべきか、綱豊は、逡巡しており、勘解由を呼んで確認したのである。
   吉良の面体を見たくて御殿に入り込んだ赤穂浪士の富森助右衛門を呼びつけて挑発して、仇討ちの意思ありやなしやを詰問しながら、誤って大学の跡目相続を願うと言う失策を犯しながら、これと相矛盾する仇討ちをしようと決意して、内蔵助は、その葛藤と苦悶に苦しんでおり、そのことが内蔵助を遊興に走らせているのだと、綱豊卿に言わしめている。
   綱豊が将軍に、大学の跡目相続を言上されて許されると、仇討ちの目的が消えてしまうのだが、明日、将軍に会うと言われて、切羽詰まった助右衛門が、
   場面代わって、お喜世の導きで、御殿に来て能の舞台に登場する吉良上野介を闇討ちしようとする。
   しかし、襲ったのは吉良ではなく綱豊で、取り押さえられて、「義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、本分をつくし至誠を致すことだ」と一喝される。

   この最後のシーンは、原作では、能「船弁慶」と重なって演じられるようになっていて、綱豊は、知盛の出じゃと言って舞台に向かうが、この能には知盛は出ないし、また、お喜世が、助右衛門に、吉良がシテで出るので、それを襲えと示唆するも、吉良が、静御前を舞うと言うのも面白い。
   とにかく、豪華で奇麗な舞台が展開されていて素晴らしい。

   さて、この歌舞伎の舞台は、実際の真山青果の原作とは、少し違っていて、綱豊と助右衛門との対面部分は、殆ど、同じだが、茶亭のシーンや綱豊と勘解由との興味深い会話など、ところどころ、面白い、あるいは、冗長な部分が省略されている。
   例えば、原作では、冒頭に、助右衛門が、妹のお喜世を訪ねて来て、お喜世に、無礼講の「お浜遊び」を見たいので庭番に頼んでくれと押し問答するシーンがあって、それを御年寄上臈浦尾に見つけられて、手紙を見せろと詰問される歌舞伎の舞台につながる。
   どこから得た情報か、助右衛門だけが、主客上杉とともに吉良がやってくることを知っていて、顔を見たくてお喜世に頼むのだが、それを知らない他人は頓珍漢な会話を交わす。

   この冒頭の舞台となる東屋風の茶亭に、綱豊がやって来て、中臈江島から、助右衛門のことを聞いて、お喜世から、助右衛門が赤穂の浪士だと知っているので、上野介の面体を見たいと言うのは当然で、侍心が失せぬ証拠と喜んで、生垣の間からなら大事ないと許し、勘解由との面談後、呼び寄せて、恐縮して逃げ腰の助右衛門に大義を説くのである。
   散々嘲弄され、内蔵助の放蕩を責められて頭にきた助右衛門が、綱豊に、「あなた様には、六代の征夷大将軍のお望みゆえ、それでわざと世を欺いて、作り阿呆の真似をあそばすのでござりまするか!」と胸のすくような啖呵を切るのが、興味深い。

   もう一つ、元々、大石家は、綱豊の奥方のさとの関白近衛家の重臣であり、名望高い内蔵助を是非に仕官させたいと思っており、浅野家の帰趨が決まらない限り首を縦に振らないので、浅野家再興を将軍から許しを得てくれと連日矢の催促で、奥方からも責められ、
   それに、お喜世からも、寝物語で再興の願いを聞いており、
   勘解由の母も元は浅野家の奥方つきの小女郎であった上に、
   浅野内匠頭の切腹について御所から不興を買っているなど、早く、再興問題を処理せねばならないのだが、
   「もし大石内蔵助はじめ赤穂浪人ら、かねて辛苦の本望遂げ、目出とう内蔵助臨終の鬱憤を晴らせしと、雲の上まできこえ上げなば、その時の御満足は大学頭が二万三万の瘦せ大名に取り立てられた時より、百層倍ご機嫌にかなうと思われるが、如何に?」と勘解由に、大学頭再興を将軍家に願い出たくはないと心情を吐露する。

   これが、この舞台のテーマで、大石内蔵助の放蕩を、内蔵助が誤って先に大学頭の浅野家再興を願い出て、その為に、仇討の名目が立たなくなっている苦悶ゆえだと、綱豊の苦しい胸の内と重ねて、描き出しているところが面白い。

   結果としては、大石内蔵助は吉良を討ち、
   1709年に、将軍綱吉死去による大赦で許され、1710年に、大学は、新将軍徳川家宣に拝謁して改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を賜り旗本に復したのだが、果たして、それでよかったのかどうか、忠臣蔵ストーリーだけが、脚光を浴び続けている。

   とにかく、仁左衛門の綱豊、染五郎の助右衛門は、絶品の出来で、私など、最初から最後まで感激して観ていた。
   左團次の勘解由、時蔵の江島の脂の乗り切った貫禄と風格、
   梅枝の初々しくて上品な佇まいなど、忘れられない。
   
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国立劇場・・・十一月歌舞伎:通し狂言「仮名手本忠臣蔵 道行旅路の花聟から七段目まで」

2016年11月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   塩谷判官切腹でお家取り潰し、路頭に迷った浪士たちの動静がスタートするのだが、今回興味深いのは、従来、浄瑠璃にはなくて、歌舞伎に新しく、三段目「裏門」を書き替えた所作事で、色彩の鮮やかな背景と華やかな清元の名曲である「道行旅路の花聟」を、東京式の通し上演では四段目の後に上演されるのが通例なのだが、今回は、その後に続く勘平とおかるの悲劇の序曲として上演していることである。 
   不思議なもので、こうなると、最初から最後まで、おかるが重要なキャラクターとして、勘平、由良之助、寺坂平右衛門を相手にして舞台に登場して、さながら、おかるの芝居であるかのような感じがする。
   尤も、この仮名手本忠臣蔵が、元々、おかるの色恋沙汰の軽はずみで、塩谷家を葬り去り、大星たちを路頭に迷わせて仇討に導いたのであるから、不思議でないのかも知れない。
   20年前に特別上演された通し狂言でも、この道行は、第一部で上演されている。
   
   

   まず、話ついでに、おかるだが、今回の舞台では、道行と六段目を、菊之助が、七段目の一力茶屋の段では、雀右衛門が演じている。
   「六段目のおかるは腰元の心で、七段目のおかるは女房の心で」と言う有名な口伝があるようだが、橋本治によると、これは、おかると言う女は、「自分の現在が身に染みない、ワンテンポずれた女」だと言うことだと言う。
   職場に男を探しに来た、OLとしての自覚のない、結婚してもOL気分の抜けない、結婚後パートに出ても、結婚しているからどうでも良いと思っている中途半端な人妻がおかるであって、「仮名手本忠臣蔵」の中に、こんな現代女がいたことに驚嘆すると言っているのである。

   現代女であることには、異存はないが、私には、それぞれの境遇に置いて、必死に生き抜こうとしている健気な女と言った感じで、商人の街大坂の庶民の浄瑠璃ファンの期待を裏切らないために、作者が編み出した和事の世界の女であって、大星たちの仇討の世界とは、一線を画した重要なキャラクターだと思っている。
   実際にも、この「仮名手本忠臣蔵」は、顔世に対する高師直の横恋慕がことの起こりであり、おかると勘平、小浪と力弥のそれぞれの恋が、重要なサブテーマとして描かれており、仇討以上に、この恋を巡って巻き起こされる興味深いストーリーが、当時の庶民の心をつかんでいる筈なので、私自身は、その舞台ごとに、おかるの生きざまを鑑賞すべきだと思っている。

   その意味では、今回の腰元から山崎での恋女房を菊之助が、そして、一力茶屋での遊女おかるを成熟した女として演じたキャリアを積んだ雀右衛門のキャスティングは、成功していたと思っている。
   道行の菊之助のおかると錦之助の勘平は、悲劇の逃避行でありながら、実に優雅で、桜の咲き乱れる富士山を背景にして、美しく絵のような舞台を展開していて、楽しませてくれた。
   この日、花道のすっぽん直近の席から見ていたので、役者たちの息遣いまで感じて、芸の凄さを実感した思いであった。

   雀右衛門のおかるは、前回、吉右衛門の寺岡平右衛門との素晴らしい舞台を見ているので、再びの鑑賞だが、軽妙なタッチで細やかなコミカルムードを醸し出して熱演する又五郎との相性も非常に良く、感情の起伏の激しいおかるを、実に感動的に熱演していて、襲名披露以降の進境が著しい。

   さて、今回の舞台では、何と言っても、五段目と六段目の勘平を演じた菊五郎と、七段目の茶屋場で由良之助を演じた吉右衛門の凄い役者魂!の発露とも言うべき決定版の芸の世界であろう。
   両方の人間国宝のこれらの舞台の至芸の鑑賞は、少なくとも二回はあると記憶しているのだが、もう、これ以上突き詰めようがなくなった研ぎ澄まされた頂点の舞台だと思って観ていた。
   10年前に、この国立劇場で、真山青果の「元禄忠臣蔵」を、3か月にわたって通し上演されたが、あの時には、勘平は登場しないので、吉右衛門の大石内蔵助だったが、これは、実録赤穂事件に近いので、やはり、素晴らしい舞台であった。
   3年前に、歌舞伎座で、通し上演されたが、途中一部を省略して、九段目と十段目を抜いて、一気に十一段目の大詰めに飛ぶ演出なので、やはり、国立劇場のように殆ど全段を通した上演の価値は計り知れないと思う。
   今回も、大星由良之助を、幸四郎、吉右衛門、梅玉とトリプルキャストであるが、他のおかるや勘平もそうであり、これは、当然と言うか、自然の成り行きなのであろう。

   ところで、五段目と六段目は、山崎を舞台にした謂わば世話物の世界だが、実に、細かい機微に入った人間心理を穿った芝居で、知らずに誤って義父を殺して金を奪ったと思って、断腸の悲痛に苦悶する勘平を、そうと誤解した義母おかや(東蔵)が追い打ちをかけて責める愁嘆場は、正に、丁々発止の二人の人間国宝の至芸の極地で、深い感動を呼ぶ。
   義理と人情に苦悶する勘平の奥底には、武士の誇りと意地が渦巻いており、それを必死に堪えて腹を切る勘平の断末魔は、勘平の台詞「色に耽ったばっかりに」に集約されているのだが、菊五郎の右頬に走る二本の血のりが、実に哀れで悲しい。
   
   
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YOKOHAMAのみなとを散策す

2016年11月19日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   パスポートが切れるので、横浜のパスポートセンターに出かけた。
   手続きは、小一時間で終り、東京での会食までに時間があったので、何十年ぶりかで、港の方に出てみることにした。
   パスポートは、アメリカ留学で初めて取ってから、その後、ブラジルへの赴任を皮切りにヨーロッパなど海外へ出ることが多くなったので、ずっと、何十年も更新を続けている。
   昔は、有効期間が10年などと長くなかったと思うのだが、毎回、ロンドンも含めて、更新場所が異なっているのが面白く、今回の横浜も初めてである。

   この横浜港を歩いたのは、16日なのだが、その翌日から、歌舞伎座や国立劇場など、歌舞伎や能鑑賞に出ずっぱりで、時間がなくブログを書けなかったので、秋景色など、雰囲気が少し変わっているかもしれない。

   パスポートセンターは、山下公園の少し陸よりの産業貿易センタービルにあるので、電車を関内で下りて、横浜スタジアムを右手にして横浜公園に出て、日本大通りを真っすぐに海に向かって歩き、右に歩けばよいと言うことを、パソコンで調べた。
   大船から横浜へは、いつも東海道線か横須賀線なのだが、この根岸線は、桜木町に行く時くらいしか使わないのだが、途中駅が多くて、横浜で折り返した方が早い。

   横浜公園は、オープンな空間で、桜の巨木の葉が残っていて、色づいており、銀杏が一本黄色く光っていた。
   子供たちが、落ち葉拾いをしていた。
   
   
   
   

   日本大通りは、数百メートルの短い通りだが、両側に巨大な銀杏並木のある整然とした素晴らしい大通りで、観光客も結構多くて、神奈川県庁のキングの塔を写真に収めている。
   
   
   
   

   パスポートセンターを出てから、目の前の歩道橋に上ると、前方に横浜の港風景と海が広がる。
   淡い陽が見え隠れする穏やかな天気だったので、赤レンガ倉庫の方に出て、みなとみらいを抜けて、桜木町に出ることにした。
   この赤レンガ倉庫の改修に、知人の設計家の新居千秋が、参画したと語っていたが、ヨーロッパなどでも、立派な古い倉庫が素晴らしい商業施設に様変わりしているのを見たことがあるが、やはり、欧米の発想であろう。
   新居千秋は、私がフィラデルフィアのウォートン・スクールで学んでいた頃、同じペンシルバニア大学の芸術学部建築学科で 偉大なルイス・I・カーンに師事し、その建築設計事務所でも勉強したカーン最後の弟子であり、素晴らしい作品を多く残している。
   
   
   
   
   
   

   大桟橋の國際客船ターミナルに、豪華客船飛鳥IIが、横付けになっていた。
   さすがに、日本籍の最大の客船だと言うだけの威容で、光り輝いている。
   豪華客船だが、一度だけ、フィンランドのヘルシンキから、スウェーデンのストックホルムまで、乗ったことがあるが、その時は、バルト海の波高く、結構揺れたのを思い出す。
   
   
   
   
   
   

   海上保安庁の桟橋には、あきつしまが接岸していた。
   このあたりから、対岸の港風景やみなとみらいの方向が遠く見えて絵になる。
   横浜税関の船も港に係留されている。
   面白いと思ったのは、いつも帆掛け船スタイルしか見ていないヨコハマグランドのホテル棟が、船の先端を思わせる姿に見えたことである。
   
   
   
   
   

   途中の秋色に色づいた公園を抜けて、にっぽん丸の側のエスカレーターに辿りついた時には、大分、暗くなっていたのだが、横浜の知らなかった風景が見えて興味深かった。
   
   
   
   
   
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ポール・クルーグマン・・・Trump Slump Coming?

2016年11月16日 | 政治・経済・社会
   今回のクルーグマンのニューヨークタイムズのコラムは、「Trump Slump Coming?トランプ不況が来るのか」。
   冒頭から、クルーグマンは、ドナルド・トランプをホワイトハウスに送り込むのは、大変なミステイク。手に負えない気候変動を制御する、恐らく、最後であり最高のチャンスを葬り去ると言うことを考えただけでも、その結果は、世界の終末を予言するほどの不幸である。と述べている。
   ところが、面白いのは、選挙直後には、グローバル不況が即座に到来すると示唆したが、トランプニズムのその効果が出るのは、もっと後であって、1,2年、経済成長が加速されると考えても驚くべきではないと言っていることである。

   一般原則では、長期的に、社会にとって良いこと、経済にとって良いことは、今後しばらくの間、経済状況が良いかどうかとは関係がないと言うのである。
   気候変動に対する対応を取りそこなうことは、文明を破壊することであっても、これによって、来年の民間消費支出が削減されるかどうかは分からない。
   トランプの貿易政策についても、保護主義に回帰し貿易戦争をやれば、世界経済を更に貧困化させ、特に、製品製品の輸出には市場の開放を必須とする貧困国を追い詰めることとなる。かといって、トランプ主義的な関税が、不況を引き起こすかどうかは分からない。輸出が減り輸入が減れば、多少はともかく、雇用の削減を惹起するけれど。
   Brexitで実証済みなのだが、Brexitは英国を、長期的には、貧しくさせるであろうし、大方の予測もそうであったが、注意深い経済的な理論に基づいたものではなかった所為もあって、今現在は、Brexit不況は起こっていない。

   一般論とは違って、トランプ政府も、間違った理由で正しい政策を打つかも知れない。
   8年前、世界経済が深刻な財政不況に陥った時、過度の財政出動に抵抗が強かったものの、結果的に、巨大な財政赤字と高いインフレ経済に突入したが、これが、むしろ、経済には良かった。   

   しかし、今や、権力は、徳と高潔さを持ち合わせない人物の手中に陥ってしまったとして、
   クルーグマンは、トランプの富裕層や資金を潤沢に持っている企業への大盤振る舞いとなる大幅減税策については、オバマ時代の5倍もの規模だが、次の10年間に4.5兆ドルの財政負担をかけるだけで、経済刺激効果は殆どない誤った政策であり、また、膨大なインフラ整備支出を公約しているが、やれるかどうかは怪しいと説いている。
   しかし、偶然に実施された誤った財政刺激であっても、短期的には、やらないよりはやる方がましだと言うあたりは、ケインジアンである。

   短期的には、即座のトランプ不況を期待すべきではないと再説している。
   長期的には、トランプ主義は、経済には悪いのだが、政策次第では、即座に不況になるとは限らない。しかし、公務員の質や独立性が害され、新しい経済不況に突入した場合には、財政改革を取りやめると、対応の準備が出来ていないので混乱をきたす。と言う。
   更に、トランプ主義の政策は、特に、アメリカの労働者階級を助けるのではなく、害する。 Make America great again で、古き良き時代を蘇らせると言う夢の約束は、悪い冗談( the cruel joke )であったことを暴露する。と言うのである。

   先日のブログで、私は、トランプのMake America great againに対して、アメリカの労働者階級プア―ホワイトが、熱狂して雪崩を打ってトランプ支持に回ったが、本来、共和党は、強者を益し弱者に厳しい政党であって、支持者であったプア―ホワイトの夢を壊して、間違いなく、期待が費える可能性が高いと言えよう。と書いたが、クルーグマンも、私以上に厳しく「悪い冗談」だとまで言っている。
   私が注目するのは、ポピュリズムに煽られた大衆の選択が、如何に根無し草で危ういものなのかと言うことで、今、ヨーロッパなどにも広がりつつあるネオナチズムなど歴史をひっくり返すような思想運動の台頭を非常に憂えている。

   さて、トランプ現象についてだが、トランプ自身が、不動産業で成功したビジネスエリートであっても、政治家としては、全くの素人であり、その人物が、世界唯一の覇権国家のトップに上り詰め、今や、世界最高の権力者として君臨するのだが、
   私自身は、トランプが、大統領選中などで公約した政策や公言した思想哲学などが、真にトランプの頭の中にある信念なり考えそのものなのかどうかは分からないし、まして、実際にホワイトハウスに入って現実を知れば、どのように変わるのか、そして、実際の施政はどうなるのか、殆ど未知数に近いと思っている。
   
   可能性には疑問もあろうが、既成観念に囚われない斬新で革命的な政策を実現して、暗礁に乗り上げていて、殆ど危機状態にあるアメリカの政治システムや経済社会構造を大きく変革し、右傾化の傾向は強いであろうが、世の中を変えるかも知れないと言う気も、全くしないわけではない。
   アメリカの大統領の権限は極めて大きいのだが、必ずしも、トランプ一人の力で、アメリカの政治がすべて動くわけではなく、いくらでも、カウンターベイリング・パワーが機能するであろうし、チェック機能が働くのであろうから、大きくのりを越えることのないように祈りたい。
   少なくとも、クリントンンが大統領になった場合には、不確定要素は少なかったであろうけれど、殆ど、先は見えているし、大きく世の中が変って良くなると言う期待は持てなかったであろうことも事実であろう。
   それに、クルーグマンの指摘していたように、長期的なトレンドはともかく、短期的には、経済的予測さえ難しいと言うことであり、トランプ選出後のドルの動静や株価の動きを見ても、全く、予測を超えた動きをしており、ドラッカーが言っていたように、益々、不確実性の高い断絶の時代に突入して行くと言うことである。

   さすれば、予測はともかく、新しい世界と時代の潮流を受けて立つ以外に道はない。
   最たる課題先進国日本の将来が、益々、試練に立つと言うことである。
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わが庭・・・木々の紅葉が秋の気配を

2016年11月15日 | わが庭の歳時記
   急に寒くなってきたと思ったら、庭の落葉樹の紅葉が、鮮やかになってきた。
   若い頃に、関西から東京に移り住んだ時に、大阪と比べて秋が非常に短く、暑い夏から秋を通り越して、一気に冬になる感じがして、驚いたことがあるが、今でも、そう思っている。

   気付いてみれば、わが庭の落葉樹も殆ど葉を落とし、もみじも、知らない間に少し黄変してきている。
   もみじの成木は、いろはもみじだけで、これは、紅葉し始めたが、まだ、1メートルくらいの獅子頭と琴の糸は、緑のままである。
   鴫立沢は、葉が気候変動について行けずに痛んでいるのだが、色々な紅葉段階がそのまま残っているので面白い。
   真ん中の緑葉で、筋のあるのが本来の葉だが、春の芽吹き頃は美しい。
   わが庭だけではないと思うのだが、雨や湿度や温度など、関東の秋の気候がもみじには厳しいのか、京都や奈良の紅葉と比べて、葉が痛んだり色がくすんだりして、中々、良い紅葉に出合えない様な気がしている。
   
   
   

   ヤマボウシは、殆ど落葉して、花にもよるが、アメリカハナミズキは、残っているのもあれば散っているのもあり、しかし、残っている葉は、赤くなっていて、もう、かなり大きくなった蕾と共存している。
   真っ赤な実は、とっくに落ちてしまっている。
   
   

   急に紅葉したのは、ドウダンツツジ。
   花は、ひっそりとして大人しい感じだが、紅葉は、刈り込まれた木にびっしりと鮮やかな濃い橙色に染まるので華やかである。
   
   

   まだ、植えて2~3年なので、木が小さくて少し寂しいが、鮮やかで美しいのは、ブルーベリーの紅葉である。
   千葉の庭に残したブルーベリーは、2メートル以上の大きなブッシュ状で、沢山の実を付けていたのだが、この庭にも、10種類ほど違った種の木を植えてあるので、もう、5~6年もすれば楽しみである。
   
   
   
   
   柿の葉は、殆ど散ってしまって、錦繡が、落ち葉でわずかに残っているが、やはり、鮮やかである。
   秋咲きの桜エレガンスムみゆきは、まだ、蕾は固いのだが、葉が紅葉して少し残っている。
   酔芙蓉も、葉が黄変し始めた。
   まだ、アジサイは、緑の葉を残しているが、切り忘れた花が一輪、まだ咲いていた。
   
   
   
   
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秋の夜長・・・イギリス人たちの知恵

2016年11月13日 | 生活随想・趣味
   私は気付かなかったのだが、部屋の中に鈴虫が入って来て、りーんりーんと鳴いていたと言う。
   私が子供の頃、宝塚の田舎では、やはり、コオロギが全盛で、あっちこっちでコロコロと鳴いていて、真っ暗になるまで、野山を駆け回って遊び呆けて、家に帰る畦道での懐かしい思い出である。
   先日、遅く帰る途中、バスを降りた草むらで、ガチャガチャクツワムシが鳴いているのに、気付いたのだが、最近では、虫の鳴き声に注意を払うことが少なくなったことを思って、一寸、寂しさを覚えた。

   秋の虫の鳴き声を聞くと、和歌や俳句が詠めなくても、そして、朴念仁であっても、何となく、秋の気配を感じて感興を覚え、詩心に浸るのだが、欧米人は、この鳴き声を、騒音だと言う。
   虫の鳴き声が激しくなると、夜空が益々クリアになって、月が美しく輝き、見えなかった星が瞬き始め、悠久の世界に感動する。
   寒いので、億劫になって、夜、外に出ることも少なくなったのだが、6週間に一週間回ってくる夜回りの時には、鎌倉山や江の島方面の美しい夜空を仰いで、日本の夜空も捨てたものではないと思う。

   私など、長くなった夜長を如何に過ごすか、歳の所為もあるが、観劇も、夜のプログラムを殆ど昼に切り替えて、家にいることが多くなって、書斎に籠って時を過ごすことが多くなった。
   パソコンを叩くか、本を読むか、撮り貯めたDVDやテレビを見るか、あまり建設的な時間を過ごせてはいない。

   ヨーロッパの冬は、東京などとは違って、殆ど陽の射さない陰鬱なくらい日々が続く。
   こう言う場合には、欧米人は、徹底的に社交を楽しむ。
   私がロンドンにいた時には、随分、頻繁に、パーティやレセプション、観劇会や社交の場に招待されて、出かけて行ったし、秋から春にかけては、オペラやミュージカルや芝居やコンサートがシーズンで最盛期を迎えるので、私たち自身も、家族で、毎週のように、劇場に出かけて行った。
   隣のアーキテクトと弁護士の夫妻など、呼んで呼ばれて、毎夜のように出歩いていたし、私たちも、イギリスの知人や友人や、ビジネス関係などで呼ばれると、お返しに、夕食会やオペラ観劇などに招待するので、とにかく、秋冬の方が、社交に忙しかった。
   我が家での夕食会では、親しくしていたエンジニアリング会社のイギリス人の社長夫妻が、手伝ってくれたのだが、料理や準備は、家内が、日本料理を織り込みながら孤軍奮闘してくれた。
   
   余談ながら、イギリスでは、どんなに偉い人でも、その家の主人が、甲斐甲斐しく、食事のサーブから雑用の殆どをやるのが、日本と大いに違うとところであろうか。
   私も、それ以降、出来るだけ、これに倣っている。
   もう一つ、イギリスでは、自宅で接待するのが最高の持て成しであり、会社などの場合でも、日本のように、高級ホテルや高級レストランでの会食接待ではなく、自社の食堂やレセプションルームで接待する方がはるかに上等だと考えられていて、しかるべき会社や組織なら、必ず、自社に、そのような設備を備えている。
   イギリス人を接客する場合、特別な経験をさせると言うのならいざ知らず、自社にそれなりの施設があるのなら、無理をして、高級レストランに誘うことはないと思う。

   さて、ロンドンの劇場は、コベントガーデンやウエストエンドなど繁華街にあるので、少し郊外のキューガーデンから往復するのだが、車で移動するので、それ程造作はなかった。
   いつも、綺麗なネオンに輝くロンドンの街や、綺麗なビッグベンの時計を眺めながら、家路につくのである。
   車は、繁華な劇場街でも、路上駐車でも、殆ど問題はなかったのだが、一度、ロイヤルオペラが跳ねた後、車に近づいたら、ポリスに輪っかを嵌められる寸前であった。
   正規なギルドホールなどでのホワイトタイのレセプションと言った重要なイベントや、大切なお客さんとの長い正式な会食を伴うオペラ鑑賞などでは、ハイヤーを使うことがあったが、殆ど、自家用車で通した。
   接客中に、乗っていたベンツが盗難に遭い、大分経ってから、マレーシアで見つかったことがあったが、トラブルは、これ一度だけであった。
   イギリス人は、かなり、上級の役人やCEOでも、結構、時間外は、自分で自家用車を運転することが多くて、社交で、公用車を使うことは少なかったように思う。

   サウスバンクのロイヤルフェスティバルホールには、大きな駐車場があり、ロイヤルアルバートホールの周りには、巨大な空間が取り巻いているし、バービカンセンターでは、住宅街に駐車すれば問題ない。
   ローマ時代の道も残る古い都のロンドンで、ビルも年期もので駐車場など殆ど作れないのだが、公園が多いのか、道が広いのか、街路はびっしりの車だが、駐車スペースを探すのに、苦労した記憶はない。
   とにかく、コンサートや観劇の後、キューガーデンに、メトロやバスで帰るなど考えられず、若かった所為もあろう、とにかく、半分は仕事上の付き合いだったが、それ程、苦痛だと思ったことはなかった。

   このような社交も、日本のように男ばかりの飲んだり食ったり遊んだりの夜ではなく、相当多くが、夫婦同伴のイベントが占めていて、イギリス人は、この社交の場での会話や交流で、知識や情報を得ることが多いので、知性や教養を涵養される場だとも言う。
   結構、能や狂言や、源氏物語や平家物語が話題に乗ることもあって、語れなければ恥をかくし、シェイクスピアについても、互角に語り合えなければ、バツが悪くなる。 
   リベラル・アーツなり、一般教養を軽視する日本の教育システムが、馬脚を現すのだが、夜の社交だと言ってバカに出来ず、ここも、ある意味では、厳しいビジネス競争の隠れた戦場なのである。    
   
   そう思えば、私のように、ゴルフには一切興味なく、元々好きでもなかったカラオケには、ブラジルで一緒に行ったジャングルに居た小野田少将より歌を知らないのにショックを受けて止め、飲んでだべるのも趣味に合わなかったので、日本人との付き合いよりは、勢い、イギリス人との付き合いの方が多かった。
   お陰で、アスコットにも出かけたし、クリケットの試合をボックスで宴会がらみで一日中観戦したり、グラインドボーンのオペラに何度も行ったり、古城でのコンサートを楽しんだり、とにかく、激烈なビジネスだけではなく、生きる喜びと楽しみを創り出して人生を裏表謳歌するイギリス人の知恵を、随所で教えられた。
   その一端が、寒くて暗いヨーロッパの夜長を楽しむイギリス人の知恵が見え隠れする人生を楽しむ生き方であろうか。

   尤も、一人で、晴耕雨読、人生を噛み締めながら、静かに夜長を過ごすのも、捨てたものでもないと思ってはいる。
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国立能楽堂・・・能観世流「三笑」、狂言大蔵流「二人袴」

2016年11月12日 | 能・狂言
   今日の国立能楽堂の普及公演は、次のプログラムであった。
解説・能楽あんない  仙境への憧憬―能「三笑」を巡って  林 望(作家)
狂言 二人袴  大藏 教義(大蔵流)
能  三笑 松山 隆雄(観世流)

   女子高校の生徒が沢山鑑賞していたが、林望が、能「三笑」は、初めて能を観る人には、どうであろうかと言って笑わせていた。
   しかし、中国の賢人隠者の佇まいや風光明媚な廬山の情景などを彷彿とさせるこの一寸エキゾチックな能は、日頃慣れ親しんでいる夢幻能とは違った面白さがあって良かった。
   前半は、作りものの庵から出た慧遠禅師と、訪れてきた陶淵明と陸修静が、床几に掛けて対坐し酒を汲み語り合い、後半は、子方/舞童(松山絢美)が舞い、3人の賢者が、相舞いすると言う、60分のシンプルな(?)舞台なのだが、台湾の故宮博物館の絵画や中国で見た風物を思い出しながら、観ていて、結構面白かった。

   この能だが、「廬山記」の故事「虎渓三笑」を題材にした唐能で、銕仙会によると、
   ”俗世を離れた山の中で、心おきなく語り合う三人の隠者。瀑布の音を背景に、三人が舞う酔狂の舞。薫り高い、中国絵画の世界。”
   晋の慧遠 禅師(松山隆雄)は、廬山の東林精舎に隠棲して二度と虎渓の石橋を越えないと誓っていたのだが、訪ねてきた詩人の陶淵明 (会田昇)と 道士の陸修静(梅若紀彰)と酒を酌み交わし肝胆相照らす至福の時を過ごして、見送っていく途中、話に夢中になって不覚にも石橋を渡ってしまったので、三人で大笑いする。と言う話で、東洋画の画題として有名である。
   儒教・仏教・道教における三人の賢者が、会って話しに夢中になって時を過ごすなどと言う異教間の交流が、一寸意外だが、今、李白の本を読んでいると、李白は、結構、高名な道士や隠者と交流して知識の涵養や精神形成に資したと言うことであるから、特に変わったことでもないのであろう。
   尤も、この故事は、話に夢中になって虎渓を越えてしまったことを、虎の吠える声を聞いて気づいた三人が、大笑をしたと言うことなのであろうが、何かに夢中になって大切なことを忘れてしまうと言うことは、よくあることで、ほっとしている。

   ところで、この能の舞台の虎渓にある廬山だが、3賢人の仰ぎ見たのもこのような風景なのであろうか。
   インターネットから借用した写真を使わせてもらうと、
   
   

   同時に上演された狂言は、大蔵流「二人袴」。
   聟入り狂言の一つなのだが、ファザコンで、親離れ出来ない息子と子離れのできない親の物語で、一人で舅宅へ聟入りできない息子が、親について行ってもらい、用意した袴が、息子の分だけであったので、二人が舅に対面せざるを得なくなり、袴を取り合っている間に二つに裂けて、夫々、半分ずつ身につけて舅の前に出て、必死に後を見せずに押し通すのだが、舞を舞うはめになって後を見せて、大恥をかくと言う話である。
   聟入りとは、 「結婚後,夫が初めて妻の生家を訪れ挨拶に行く儀式」と言うことで、この狂言でも、お初にお目にかかりますと言って相互に挨拶を交わすのだが、娘の親と全く会わずに妻を娶っていたのか、いまだに、不思議に思っている。
   しかし、ダダをこねて聟入りを嫌がる息子に、弁慶の人形を買ってくれたらと行くと言われて、喜んで応じる親が、あの時代に居たのかと思うと、今の大学の卒業式への参加者が、学生より親の方が多くて、学校によっては、二回に分けて行うと言う現象も、異常でないのかも知れないと思っている。
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