最近は、能楽堂で、狂言だけの「狂言の会」が上演されることが、多くなったようで、私など、上演時間が短いし、それに、分かりやすいので、楽しみにしている。
今回は、夫々、30分以下くらいの3曲で、夕刻ながら、帰りも早くなってベターである。
「鴈礫」は、
狩りに来た大名(シテ/大藏彌太郎宗家)が雁を射ようとしたところへ、突如通りかかった男(茂山良暢)が石礫で雁を打殺し持ち去ろうとする。
悔しがった大名が、自分が狙い殺したので自分のものだと主張して、男に矢を向けて脅す。
そこへ仲裁人(善竹忠一郎)が現れ、大名に、雁を射ることができたら、大名のものとしようといい、その雁を基のところへ置いて射させる。
射抜こうとして矢を番えたのだが、矢が手元に落ちて失敗してしまったので、男が雁を持って立ち去る。
これだけの話なのだが、狩り姿に威儀を正した厳つい恰好の大名が、本来なら、このあたりに住むものでござるなどと言って出て来るのだが、冒頭から、「いずれもご存じの者でござる」と大言壮語して登場し、全編、威張り散らすのだが、狩りは全くの初歩で、恰好は良いのだが、矢を反対に番えるなど、真面に弓矢が使えないダメ大名。
狙い殺したと言う言い分も笑止千万だが、死んだ鴈を射るにも自信がないので、二人を睨みつけながら、少しずつ仕切り線を外して前ににじり寄る小心さや、鴈を持ち去ろうとする男に向かって、片羽がひなりとも置いて行け、羽箒にすると言って、後を追って揚幕へ走り込むと言う惨めさ。
勿論、大名狂言の大名は、家来が一人か二人と言う小名なのだが、これが、庶民の面前で、醜態を晒して、笑いものになると言う可笑しさ面白さ。
流石に、大蔵流の宗家で、彌太郎の芸は、徹頭徹尾、格調の高さと滲み出る笑いとアイロニー、実に上手い。
次の「千鳥」は、3曲の中でも最もポピュラーな曲であろう。
今回は、大蔵流である。
急な来客で、主(若松隆)は太郎冠者(シテ山本則俊)を呼び、酒屋(東次郎)へいって酒を買って来いと命じるのだが、太郎冠者は、つけが残っているので嫌だと断わるのだが、主は、成功して帰れば口切りをさせるとと約束し、太郎冠者を無理矢理行かせる。
酒屋に酒を無心するが、前回の支払いが終わらねば渡す事は出来ぬと突っぱねられる。
思案した太郎冠者は、話好きの酒屋に面白い話を聞かせ、その隙を見て酒を持って帰ろうと思いついて、
津島祭りで見た千鳥を取る話を仕方話として語ることとして、酒屋の主人に囃させ、謡い舞いながら隙を見て酒樽に手をかけるのだが、失敗し、今度は、山鉾引きを試みて、樽を橋掛かりに向かって引いて行くのだが、これも失敗。
次に、流鏑馬の話をして、酒屋に「馬場のけ馬場のけ」と先払いをさせて、太郎冠者は木杖にまたがり後について、流鏑馬の騎手の態で舞台を回りながら、隙を見て、酒樽を持って一目散に逃げて行く。
酒屋が気付いた時には、橋懸りに走り込んでいて、後の祭り。
さて、1年半くらい前に、和泉流の舞台を観た筈だが、大分内容が違うようなのだけれど、全く記憶が定かではない。
いずれにしろ、掛け買いの清算がついていないので、酒屋が樽を渡さないのだが、太郎冠者が四苦八苦しながら、仕方話で、酒屋の隙をついて、持ち逃げすると言うストーリーで、太郎冠者と酒屋の掛け合いが面白いのである。
和泉流では、流鏑馬を2度行い、
太郎冠者が、樽に手を掛けるのを酒屋が見とがめると、太郎冠者は、弓を構えて危ないと脅し、更に走り回って「当たりとなあ」と左手で的の扇を打って酒屋を倒して、樽を持って行く。と言うようで、いわば、持ち逃げである。
その意味では、大蔵流の場合には、太郎冠者と酒屋は相口(互いに話が合う間柄)だから、主が、そこの所は上手く話して来いと好い加減な事を言っており、太郎冠者が代わり(代金)を取に帰ろうとするのに、酒屋が、どうせ暇だし、もう一つ面白い話をして良く出来たら代わりはいらないと引き留めての流鏑馬の話であるから、何となく、ほんわかとした可笑しみがあって、この方が、悪気がなくて狂言らしいように思っている。
人間国宝東次郎は、益々元気で、芸の冴えは流石であり、弟の則俊の太郎冠者と呼吸ぴったりで、心地よいリズム感豊かな舞台を楽しませてくれた。
「賽の目」は、あまり上演されないようだが、登場人物が、少人数の狂言だが、聟候補三人・舅・召使い・娘と6人も登場して劇的効果も高く、30分弱の上演時間ながら、非常に面白かった。
和泉流の狂言で、芸達者な萬斎が、表情豊かでユーモアたっぷりの軽妙洒脱な芸で、非常に面白い舞台を見せてくれた。
ある金持ち(石田幸雄)が、自慢の美人の一人娘に聟を探そうとして、算用に達した者(計算に強い人物)を聟にすると高札を立てる。
これを知った候補者(深田博治、高野和憲)が次々と親もとを訪ねると、舅は、『五百具の賽の目の数はいくつか?』と問うので、悪戦苦闘するも、分からないので好い加減な答えをして、追い返される。
最後に、計算の名人(萬斎)がやって来て、謡い舞いながら見事な回答をしたので、聟に決まり、吉日なので祝言を上げるべく、娘(竹山悠樹)が呼び出されて対面する。
両人、580年万々年も連れ添いましょうと誓う。恥ずかしそうにしながら、聟が嫁の顏を観たくて、被きを取ると、これが、まれに見るおかめ。
びっくり仰天、腰を抜かして逃げ惑う聟を、嫁が捕まえて背に負って、橋懸りに連れこんで幕。
美人だ美人だと言いながら、深層の令嬢と言うことか、被きを取ると、オカメの面と言うのが面白い。
計算に強いと言うことは、算術に長けた商才のある男と言うことであろうか。
今では、バランスシートが読める会計財務に強い男を後継者に迎えると言うことかも知れないが、昔は、読み書きそろばんと言ったので、要するに、頭の良い才能のある男と言うことであろう。
それにしても、候補者たちが言っているように、見目麗しいとか他の条件を無視して算用に達した者と言うだけの指定が面白い。
この話は、男が嫁を得たくて祈願して、醜女に巡り合って逃げ惑うと女狂言の一つで、
西宮の夷三郎のお告げで釣針を垂らして嫁を釣ると言う「釣針」や、清水の観音に祈願して、月の夜に五条の橋で笛を吹いて妻乞いする「吹取」と言った狂言と同じで、いずれも、嫁を得た嬉しさで、千年も万年もと誓いながら、被きを取ると目も当てられない醜女であったので逃げ惑うと言う、全く身勝手な男を揶揄したような話で、その泣き笑いが面白い。
この「釣女」と「吹取」とも万作家の和泉流の舞台で見ており、醜女を掴むのは、「釣女」では、シテ太郎冠者の萬斎、「吹取」では、シテ男の万作で、夫々の素晴らしい至芸を楽しませて貰った。
理屈抜き、ストレートの可笑しみ、悲しさ、迸り出るヒューマンなユーモアである。
今回は、夫々、30分以下くらいの3曲で、夕刻ながら、帰りも早くなってベターである。
「鴈礫」は、
狩りに来た大名(シテ/大藏彌太郎宗家)が雁を射ようとしたところへ、突如通りかかった男(茂山良暢)が石礫で雁を打殺し持ち去ろうとする。
悔しがった大名が、自分が狙い殺したので自分のものだと主張して、男に矢を向けて脅す。
そこへ仲裁人(善竹忠一郎)が現れ、大名に、雁を射ることができたら、大名のものとしようといい、その雁を基のところへ置いて射させる。
射抜こうとして矢を番えたのだが、矢が手元に落ちて失敗してしまったので、男が雁を持って立ち去る。
これだけの話なのだが、狩り姿に威儀を正した厳つい恰好の大名が、本来なら、このあたりに住むものでござるなどと言って出て来るのだが、冒頭から、「いずれもご存じの者でござる」と大言壮語して登場し、全編、威張り散らすのだが、狩りは全くの初歩で、恰好は良いのだが、矢を反対に番えるなど、真面に弓矢が使えないダメ大名。
狙い殺したと言う言い分も笑止千万だが、死んだ鴈を射るにも自信がないので、二人を睨みつけながら、少しずつ仕切り線を外して前ににじり寄る小心さや、鴈を持ち去ろうとする男に向かって、片羽がひなりとも置いて行け、羽箒にすると言って、後を追って揚幕へ走り込むと言う惨めさ。
勿論、大名狂言の大名は、家来が一人か二人と言う小名なのだが、これが、庶民の面前で、醜態を晒して、笑いものになると言う可笑しさ面白さ。
流石に、大蔵流の宗家で、彌太郎の芸は、徹頭徹尾、格調の高さと滲み出る笑いとアイロニー、実に上手い。
次の「千鳥」は、3曲の中でも最もポピュラーな曲であろう。
今回は、大蔵流である。
急な来客で、主(若松隆)は太郎冠者(シテ山本則俊)を呼び、酒屋(東次郎)へいって酒を買って来いと命じるのだが、太郎冠者は、つけが残っているので嫌だと断わるのだが、主は、成功して帰れば口切りをさせるとと約束し、太郎冠者を無理矢理行かせる。
酒屋に酒を無心するが、前回の支払いが終わらねば渡す事は出来ぬと突っぱねられる。
思案した太郎冠者は、話好きの酒屋に面白い話を聞かせ、その隙を見て酒を持って帰ろうと思いついて、
津島祭りで見た千鳥を取る話を仕方話として語ることとして、酒屋の主人に囃させ、謡い舞いながら隙を見て酒樽に手をかけるのだが、失敗し、今度は、山鉾引きを試みて、樽を橋掛かりに向かって引いて行くのだが、これも失敗。
次に、流鏑馬の話をして、酒屋に「馬場のけ馬場のけ」と先払いをさせて、太郎冠者は木杖にまたがり後について、流鏑馬の騎手の態で舞台を回りながら、隙を見て、酒樽を持って一目散に逃げて行く。
酒屋が気付いた時には、橋懸りに走り込んでいて、後の祭り。
さて、1年半くらい前に、和泉流の舞台を観た筈だが、大分内容が違うようなのだけれど、全く記憶が定かではない。
いずれにしろ、掛け買いの清算がついていないので、酒屋が樽を渡さないのだが、太郎冠者が四苦八苦しながら、仕方話で、酒屋の隙をついて、持ち逃げすると言うストーリーで、太郎冠者と酒屋の掛け合いが面白いのである。
和泉流では、流鏑馬を2度行い、
太郎冠者が、樽に手を掛けるのを酒屋が見とがめると、太郎冠者は、弓を構えて危ないと脅し、更に走り回って「当たりとなあ」と左手で的の扇を打って酒屋を倒して、樽を持って行く。と言うようで、いわば、持ち逃げである。
その意味では、大蔵流の場合には、太郎冠者と酒屋は相口(互いに話が合う間柄)だから、主が、そこの所は上手く話して来いと好い加減な事を言っており、太郎冠者が代わり(代金)を取に帰ろうとするのに、酒屋が、どうせ暇だし、もう一つ面白い話をして良く出来たら代わりはいらないと引き留めての流鏑馬の話であるから、何となく、ほんわかとした可笑しみがあって、この方が、悪気がなくて狂言らしいように思っている。
人間国宝東次郎は、益々元気で、芸の冴えは流石であり、弟の則俊の太郎冠者と呼吸ぴったりで、心地よいリズム感豊かな舞台を楽しませてくれた。
「賽の目」は、あまり上演されないようだが、登場人物が、少人数の狂言だが、聟候補三人・舅・召使い・娘と6人も登場して劇的効果も高く、30分弱の上演時間ながら、非常に面白かった。
和泉流の狂言で、芸達者な萬斎が、表情豊かでユーモアたっぷりの軽妙洒脱な芸で、非常に面白い舞台を見せてくれた。
ある金持ち(石田幸雄)が、自慢の美人の一人娘に聟を探そうとして、算用に達した者(計算に強い人物)を聟にすると高札を立てる。
これを知った候補者(深田博治、高野和憲)が次々と親もとを訪ねると、舅は、『五百具の賽の目の数はいくつか?』と問うので、悪戦苦闘するも、分からないので好い加減な答えをして、追い返される。
最後に、計算の名人(萬斎)がやって来て、謡い舞いながら見事な回答をしたので、聟に決まり、吉日なので祝言を上げるべく、娘(竹山悠樹)が呼び出されて対面する。
両人、580年万々年も連れ添いましょうと誓う。恥ずかしそうにしながら、聟が嫁の顏を観たくて、被きを取ると、これが、まれに見るおかめ。
びっくり仰天、腰を抜かして逃げ惑う聟を、嫁が捕まえて背に負って、橋懸りに連れこんで幕。
美人だ美人だと言いながら、深層の令嬢と言うことか、被きを取ると、オカメの面と言うのが面白い。
計算に強いと言うことは、算術に長けた商才のある男と言うことであろうか。
今では、バランスシートが読める会計財務に強い男を後継者に迎えると言うことかも知れないが、昔は、読み書きそろばんと言ったので、要するに、頭の良い才能のある男と言うことであろう。
それにしても、候補者たちが言っているように、見目麗しいとか他の条件を無視して算用に達した者と言うだけの指定が面白い。
この話は、男が嫁を得たくて祈願して、醜女に巡り合って逃げ惑うと女狂言の一つで、
西宮の夷三郎のお告げで釣針を垂らして嫁を釣ると言う「釣針」や、清水の観音に祈願して、月の夜に五条の橋で笛を吹いて妻乞いする「吹取」と言った狂言と同じで、いずれも、嫁を得た嬉しさで、千年も万年もと誓いながら、被きを取ると目も当てられない醜女であったので逃げ惑うと言う、全く身勝手な男を揶揄したような話で、その泣き笑いが面白い。
この「釣女」と「吹取」とも万作家の和泉流の舞台で見ており、醜女を掴むのは、「釣女」では、シテ太郎冠者の萬斎、「吹取」では、シテ男の万作で、夫々の素晴らしい至芸を楽しませて貰った。
理屈抜き、ストレートの可笑しみ、悲しさ、迸り出るヒューマンなユーモアである。