熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

日本経済復活の処方箋・・・大前研一

2009年04月29日 | 政治・経済・社会
   バブル崩壊後、日本経済は奈落の底に入った。この時、政府や官僚の取った手段は総て間違っていて、このまま行ったら、経済は長期停滞、日本の明日はない。
   こんな書き出しで、大前研一氏は、「さらばアメリカ」など近著で、日本経済復活に向けての持論を展開しているが、ここでは、新書「マネー力」での論述を参考に考えてみたい。
   この本は、謂わば、大前研一監修の「株式・資産形成講座」の宣伝本なのだが、総花的ではあるが、現在の大前氏の国際経済社会や日本の現状、投資戦略等に関するホットでアップツーデイトな見解が展開されているので、読んでいて興味深い。

   さて、日本経済の回復は、オバマ政権次第だとして、その景気浮揚策は、ルーズベルト型の公共投資中心のニューディール政策か、地球環境を守るための戦争だと指摘して、後者の可能性が高いので、高度な対応技術力を保有する日本の出番でありチャンスだと言うのである。
   実際には、この戦いのメリットは、恐ろしく効率が悪いことで、それ故にこそ経済効果が大きく、膨大な投資を必要とするので、ニュー・ニューディール政策として、途方もない投資支出を伴う。
   原子力発電、太陽光発電、CO2封じ込め技術、省エネ車、排煙脱硫・脱硝技術等々、日本は最先端の技術を開発して来たが、東欧、中国、インドなどが必要としているので、正に、チャンス到来だと言う。
   これについては、私自身は、従来の単体としての技術ではなく、フル・パッケジ化したソフト・ハード込みのシステム・テクノロジーとしての提供が必須で、日本企業の連合体的な取り組みが大切だと思っている。

   さて、これは他力本願的な景気浮揚策なので、日本自らが舵をとる景気回復策とし、大前氏は、3つの施策を提言している。
   ①個人の金融資産を高齢者から若者に移す。そのために、相続税、贈与税をゼロにする。
   ②21世紀に相応しい都市づくりを行う。東京のマンハッタン化etc.
   ③統治機構の改革、すなわち、戦略的単位としての道州制への移行。

   ①の論点、眠っていて市場に帰ってこない1500兆円とも言われ続けている個人保有の金融資産の活用については、ガルブレイスも亡くなる少し前に提言していたが、アメリカ経済の良し悪しは別にして、貯蓄の投資型消費への転換が如何に効果的かは論を待たない。
   100歳を超えた老人が、老後のためにと言って年金を貯蓄に回す日本人のメンタリティを変えないとどうしようもないと思うのだが、確かに、相続税ゼロ、贈与税ゼロにすれば、多少、老人の財布の紐が緩むかも知れない。

   しかし、大前説だと、日本の老人たちが、一人当たり3500万円の金融資産を抱えて死んで行くと言う現実を熟知している財務省が、虎の子の相続税や贈与税を諦める筈がない。
   税収が減ると言うような姑息な考え方ではなく、遅かれ早かれ、どうせ、これらの老人が死んで行くのは時間の問題であり、その時に、税金として、がっぽり国庫へ収めてもらえば、財政赤字の2~300兆円などは、すぐに穴埋め出来ると思っている。
   住基カードや国民総背番号制のソーシャル・セキュリティ番号システムを厳格化して、徹底的に個人情報を収集して置けば、たとえ、節税紛いの脱税でも、完全に捕捉出来ることは間違いない。
   
   嘘か本当は知らないが、大前説では、先年、財務省が、新円発行時に、ATMを活用して、旧1万円札を新8千円と交換して、国民の金融資産1500兆円の内、20%の300兆円を没収する徳政令を敷こうとしたきらいがあると報じている。
   財務省としては、何と言っても膨大な財政赤字で積み上げた国債の異常さは最大の痛恨事で、インフレ期待もその一環で、とにかく、あらゆる手段を使って、棒引きしてでも消し去りたいと思っている筈。
   しかし、あまり姑息な手段を弄すると、愈々、日本の優良企業なり、富裕な日本人の海外移籍が始まるかも知れない。
   早い話、税金の安い海外へ移籍して何故利益を上げようと考えないのかと経営者が詰問され、株主代表訴訟を起こされても不思議ではない筈なのである。

   ②の論点、日本の貧しいインフラまみれの都市景観を、一挙に、21世紀型の高密度の都市へと、都市の再生を図ろうと言う提案については、半ば賛成、半ば反対である。
   現存の都市を大前説で、高度化するマンハッタン化については概ね正しいと思うが、逆に、これ以上、全世界的に、都市化を進展させてどうするのかと、大いに疑問を感じている。
   人口の異常な増加については、如何ともし難いのだが、人間にとって、どのような地球環境が最も望ましいのかと言う重要な視点が欠如していると思っている。
   別な、ところで、大前氏が論じている人々の財産として価値のある家づくりへの提言には大いに賛成で、これについては、リチャード・クーも、再三論じており、日本全体として、徹底的に理想像を追求すべき課題だと思っている。

   ③の論点、戦略的事業単位としての道州制については、大いに賛成で、アメリカが世界大国になったのは、正に州に権力を分散した連邦制にあり、EU的な将来像を考えても、日本と言う規模で、総てを律すべき時代は終わっており、県単位では小規模すぎる。
   まだ、形骸として残っている官僚が総てを仕切ると言う中央集権的な日本型社会主義システムを、如何に変えて行くかが課題だが、立法権や徴税権など中央の権限を地方に委譲して事業単位として活動できる権限を道州に与えて、自律、かつ、自立させると言う発想は、既に、実施段階に入っていても不思議ではないと思っている。
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緑萌ゆる新宿御苑

2009年04月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   桜の季節が終わった新宿御苑は、新緑萌ゆる正に緑一色で、芽吹いた柳の大木が、池畔で、風に揺れながら逆光に浮かびあがる風情は、実に清々しくて美しい。
   久しぶりに、寒気が上空を覆ったために、逆戻りした冷気が程よく肌をさし、クリアな光が木漏れ陽として地面に揺れる緑陰の新宿御苑の散策は格別である。

   鮮やかな色彩を庭園に鏤めるのは、季節を迎えたツツジと皐月で、玉造りに綺麗に刈り込まれた木々が、微妙な濃淡に息づく新緑に映えて輝いている。
   特に、一群の玉造りのツツジのオンパレードであるツツジ山は、赤い雪洞が地面から生えてきたような感じで面白い。

   オオヤマレンゲの大木に、大きな蘂を付けた白い大輪の花が鏤められていて壮観である。
   昔、花の形が気に入って庭植えしたのだが、すぐに枯れてしまった。知らなかったとは言え、このようなオープンな庭に育ってこその花木で、ほっとしている。
   公園事務所のボードには、今咲いている花情報が書かれていたが、ぐるりと回っただけなので、気づいたのは、山吹と、シランの群生と君子ラン、緑陰の花々には、目が届かなかった。

   私は、キューガーデンでの散策経験が多いので、広大な公園の緑陰や池畔の散歩が好きで、特に、木洩れ陽のさす冷気の漂う林間の風情に限りなく憩いを感じる。
   特に、逆光に照らされて、浮かび上がる木々のささやきが好きで、暗いトンネルのような林間や木々の陰から、宝石のように光り輝く緑の輪舞を見つけると嬉しくなる。

   私は、何時も新宿御苑には、新宿門から入って、日本庭園の方に向かって歩き、池畔にでる。
   椿の林を抜けて茶室楽羽亭を過ぎると池畔に出て、オープンな空間が広がる。
   この口絵写真は、その池畔の休憩小屋から、上の池の対岸を展望したもので、橋の袂の柳が輝いていた。
   
   池畔に沿って、中の池、下の池と歩いて、プラタナスの並木のあるフランス式整形庭園に出る。
   手前に、バラ庭園が広がっているのだが、蕾が固く、咲いている花はほんの僅かで、2~3週間まだ早い。
   プラタナスも、葉が少し出始めたところで、様にはならない。

   このフランス庭園から、新宿門に向かっては、広々とした芝生の空間であるイギリス風景式庭園が広がっている。
   周りの遊歩道沿いには桜などの大木が植えられてはいるが、何故、この何もない緑の芝生の空間を、イギリス風景式庭園と言うのか、全く分からない。
   世界有数の庭園王国イギリスの名誉のために言っておくが、原始林を切り刻んで地球の自然環境を破壊してしまったイギリス文明の野蛮さは許せないと思っているけれど、イギリスの庭園の美しさと奥深さには、目を見張るものがあると言うことだけは付記して置きたい。
   私は、在英中、ミシュランの緑本を手にして、あっちこっちのイギリスの広大な素晴らしい名園の数々を回ったが、自然と共生するイギリス人の美意識を感じて、文化の豊かさを実感している。

   新宿御苑で許せないのは、閉園30分前から園内に流す強烈なスピーカーで、おまけに、15分前からは、大音響で蛍の光を延々と流し続ける。
   ただでさえ、御苑をハイジャックしているカラスの鳴き声に精神の平衡を揺すぶられているのに、無粋なスピーカーで、折角の緑陰の憩いを台無しにされて公園を出る後味の悪さをどうすれば良いのか。
   尤も、「もしもし、ベンチで囁くお二人さん・・・」と言う歌が流行ったことがあるが、お節介な場内放送は、どこの公園もやっているようで、これをサービスと考える民度の低さと言うべきか、文化度の欠如と言うべきか、日本だけ(?)の悲しさ。
   今は、陽が高くなったが、夕暮れで穏やかな斜光に輝く公園が一番美しくて心和む時間であることを、環境省は分かっているのであろうか。

   本当のイギリス風景式庭園に、もう一度、戻りたいとつくづく思っている。
   
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ジム・ロジャーズ著「商品の時代」

2009年04月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   グローバリズム経済の世界同時好況で鰻登りの上昇を続けていた石油や天然資源など商品価格が、同じく、今回の世界的な経済不況の影響で一挙に暴落するなど、乱高下が激しい。
   5年前の本で一寸古いのだが、商品価格の上げ潮の時期に書かれたので、ジム・ロジャーズの当時の見解が、どのくらい正確に商品価格の動向を語っているのか、多少、興味を持って、積読だった本書「商品の時代 HOT COMMODITIES」を読んでみた。

   勿論、商品投資を始めようとしたのではなく、経済を考える上での商品の位置づけなど、あくまで、経済学の勉強のためと思って読んだのだが、
   前半は、謂わば、商品市場や商品投資に関する解説書であり、中間の中国の時代の章の後には、石油、金、鉛、砂糖、コーヒーといった商品市況の概説と言った調子で、正に、懇切丁寧な商品投資の手引書であり、知らなかった世界とは言え、結構、面白かった。
   それに、大投資家ジム・ロジャーズの投資哲学が垣間見えると共に、その生き方などもビビッドに描かれていて、非常に興味深かった。
   
   付箋を付けた箇所を一部列挙すると、
   今後○○年は、商品価格が確実に上がる。その結論を得られるのは、経済の一番基本的な原理、需要と供給であり、世界の商品の需給バランスが今は大きく崩れている。強気相場がやってくることを示す古典的兆候である。
   歴史的に見て、株と商品の価格変動には負の相関関係があり、株が下がれば商品は上がる。
   商品と株の違いは、商品の価格はゼロにならないが、株はエンロンのようにゼロになることもある。
   チャートやテクニカル分析、数学モデルに基づいて投資する人がいるが、彼らの幸運を祈ろう。テクニカル分析で儲けた人は殆どいない。
   
   要するに、商品でも他の市場でも、価格は、需要と供給によって決まるのであって、そのような便利で簡便な投資手法や理論など役に立つ筈はなく、現実の世界の需給関係がどう動くのか、ファンダメンタルの分析が大切であり、商品取引では、知識はお金儲けの入り口だと言うのである。
   とにかく、この本の後半では、石油から語り始めて、夫々の商品を克明に分析しており、その勉強振りと博学多識に舌を巻く。

   驚くなかれ、世界最高峰の投資家ジム・ロジャーズが、「この私はトレーダーとして最低だ。」とのたまう。
   最高のトレーダーは、投資市場への駆け引きに長けていて出入りのタイミングが分かっているので、恐れることなく市場に出入りする。
   しかし、投資家を何十年もやってきて分かった一番良い投資方法は、好きになれて、しかも値段の安いものを見つけて、ポジションを取り、長期にわたってそれを持ち続けるやり方で、トレーダーとしては下手くそなので、「短期投資」は避けている、と言うのである。

   バフェットにしても、ソロスにしてもそうだが、投資哲学は極めて単純で、優良な株や商品に目を付けて割安の時に買い込んで長期保有を目指すと言う手法をとるが、そのためには、政治経済社会は勿論、その金融商品等を、そして、それを取り巻く外部環境などを、徹底的に自分の目で研究・分析するということのようである。
   まともに経済学や経営学の勉強をしたとも思えない似非評論家や投資アナリストの投資講座やセミナーに繰り出して、推薦株や商品を聞き出して投資しても駄目だということで、自分で、一所懸命勉強して投資しろと言うことであろうか。

   ジム・ロジャーズは、自分自身の商品投資が有望であるとする考え方を、イェール大学とウォートン・スクールなどの学問的実証研究を引用しながら理論付けている。
   1959年以来、商品先物の年平均リターンは、株式より高く、債権に比べれば更に格差は大きい。商品は、株式や債券よりも、リスクは低く、リターンは高い。商品投資を危険極まりない投資だとする一般概念とは、全く違う有望な投資だと主張するのである。
   しかし、上昇相場だと言っても、一直線に上昇する商品など殆どなく、その過程で必ず調整が入るし、総ての商品が同時に上昇する訳ではないので、世界中の商品取引リストを広げて、サルに投げさせて当たったものを買えば儲かると言うものではない、要するに、勉強せよと言うことである。

   余談だが、ジム・ロジャーズは、上昇相場の熱狂はこんなものだとして例証している喩えが面白い。
   ドットコムの暴騰で「ニューエコノミー」になったと言う2000年頃の主張、日本が世界を征服すると言う1989年ころの主張、石油価格は三桁になると言う1980年代の主張、である。
   商品の上昇局面を予言したジム・ロジャーズが、皮肉にも、石油の三桁への上昇だけは外れたのだが、行過ぎると、根拠なき熱狂に翻弄されると言うことであろうか。
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トマト栽培日記・・・(3)花芽が色付きはじめた

2009年04月26日 | トマト栽培日記
   市販トマト苗を植えて、丁度2週間目だが、やっと、一番花が色付き始めた。
   テキストの説明では、このように花芽の出ている苗を買って来て植えるのが良いと言う事だが、私の場合には、もっと成長の遅い幼苗を買ってプランターに植えたので、既に、背丈40センチメートル以上の大きさに育ってしまっていてこの状態である。

   これは、ミニスイートと言うミニトマトの苗木だが、色付いた蕾が開いて、まともな花の形になるには、まだ数日かかりそうである。
   枝先には、小さな第二花房が現れている。
   6本の苗木の内、この苗と同じ状態に育ってきているのは1本だけで、他の4本の苗は、一番花房の蕾は、まだ、緑色で小さくて固い。
   昨日の強い雨風の悪天候に晒したが、支柱にしっかりと結わえていたんで、苗木の状態は、何の変化もなかった。

   先日、ガーデニング・センターに出かけたら、タキイ種苗や、サカタのタネ、それに、地元農家のトマトの苗が大量に出ていた。
   高いのはタキイの1本350円くらいする苗だったが、どんなに違うのであろうか。私は、桃太郎くらいしか知らないのだが、スーパーで売っているトマトなど、あまり、他の果物や野菜のように銘柄などなくて、同じようなトマトしか売っていないように思っていたので、不思議な気がしている。

   昔、タキイ種苗の社長と話す機会があって、タキイは、野菜や果物の原種の種の収集とコレクションの豊かさを誇っていて、農林省にも貸し出しているのだと聞いたことがある。
   良く分からないが、掛合わせを繰り返して限りなく原種に近づけるのかも知れないが、流行なり消費者のニーズに合わせて、その原種を取り出して掛け合わせることによって、新しい種を作り出すのだと聞いたような記憶がある。
   甘いトマトが良いとか、病虫害に強いトマトの苗が良いということになれば、その特性の遺伝子を持った原種苗を掛け合わせるなどして、実験や研究検査など試行錯誤を繰り返しながら新種を生み出すのであろう。
   
   ところで、私が、種を蒔いて育てているサカタのミニトマト「アイコ」や「イエローアイコ」の苗も店頭に出ていたが、私のアイコのポットの苗は、一番大きくなった苗でも、まだ、5センチほどの大きさなので、本植えするには、まだ、2~3週間かかるであろう。
   5月の下旬となると梅雨前になるのだが、夫々、2本選んで、1メートル四方あれば良さそうなので、庭の片隅にでも路地植えをしようかと思ったりしている。

   さて、今の私の庭だが、椿が殆ど終わって、新しい新芽が勢いよくで出して気持ちが良い。
   牡丹の花は、今盛りで、芍薬のほうは、少し遅れて、蕾が少しずつ色付き始めている。
   山吹が満開で、こでまりが咲き始めた。
   クレマチスが、もう少しで咲き始める。

   草花は、チューリップが残っているくらいで、他の春の草花は、花期を終わった。
   一面に咲き乱れていたスミレも、もうすぐ終わる。
   今、一番美しいのは、淡い青紫色の野菊のような都忘れで、思い切って株分けして、あっちこっちの空き空間に植えつけたので、
   デルフィニュームの青色と相性が良くて、風に揺られてなびく姿が優しくて風情があってよい。

   グミの木が、枝を切りすぎた所為か、枯れてしまったので、その後に、ロウヤガキを植えた。
   これまでは鉢植えだったのだが、どうも、雌雄異体のようなので、すずらんのような花をつけるのだが、すぐ落ちて実にはならない。雄の木を探してきて植えなければならないのだが、庭に余裕がないので諦めようと思っている。

   ゆずの木が、どうにか大きくなって、沢山の小さな白い花を付け始めた。
   金柑は、まだ、小さいので、昨年は実が二つ。今年は、どうであろうか。
   レモンを植えたいのだが、千葉では、寒くて駄目なようである。昨年、試みにオレンジレモンの苗木を買って鉢植えをしているのだが、冬に殆ど葉が落ちてしまった。勢いよく、小さな新芽が出始めているのだが、何処まで樹形を回復出来るのか、楽しみにしている。
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四月大歌舞伎・・・藤十郎の「曽根崎心中」の世界

2009年04月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   近松の心中ものでも最右翼の演目で、不入りで潰れかかっていた竹本座を救ったのが、この「曽根崎心中」だが、
   恐らく、門左衛門をして、醤油屋の手代徳兵衛と堂島新地の遊女お初が、曽根崎の露天神の森で心中した悲しい事件を題材にして、このような弱者を限りなく愛しんだ感動的な浄瑠璃を書かせたのは、その前年に、吉良邸討ち入りで切腹して果てた親友の大石良雄やわが子のように愛しんだ近松勘六兄弟と言った縁深き人たちの死という悲哀があったからであろう。

   御所侍を辞して後、近松門左衛門は、若かった大石良雄の夢、幕府の手を離れた塩専売を広く異国にも広げたいと言う「塩の道」を構築するために、大石やスペイン人宣教師などと共に設営した高観音近松寺の「塩の道塾」を起点にして、東奔西走の隠密活動を続けていたので、実際に、浄瑠璃作家としてのスタートを切ったのは、そのずっと後、赤穂藩との契約満了の1682年だと言う。
   翌年に、処女作「世継曾我」が生まれ、初めての世話物「曽根崎心中」が世に出たのは、その20年後であった。

   塩の専売権を赤穂から取り上げようとして画策した幕府権力の理不尽さ、大名やその家臣と言えども公権力の前には平伏せざるを得ない残酷さ。
   まして、名も無き庶民ともなれば従うほか無く、そのように虐げられ、抵抗の術を持たない人たちに対する共感を覚えていた近松門左衛門が、悲しみの淵にあったればこそ、二人の限りなき悲しみと心の葛藤を、ありありと思い描くことが出来たのだと、近松洋男氏は述べている。

   私は、初めて「曽根崎心中」を観たのは、もう、20年も前のロンドンでのジャパンフェスティバルでの人形浄瑠璃、玉男の徳兵衛と簔助のお初の舞台であった。
   ”此の世の名残、夜も名残、死にに行く身を譬ふれば、あだしが原の道の霜
一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなり ・・・”
   これは、最後の「曽根崎の森の場」の死に急ぐ徳兵衛とお初の哀切極まりない道行きの語りだが、この七五調の壮絶な名調子が今でも心に残っており、文楽や歌舞伎の舞台を観る毎に、胸が締め付けられるような気持ちになる。
   文楽では、後ろ振りのお初を徳兵衛が脇差で刺す場面が演じられるが、歌舞伎の藤十郎と翫雀の舞台では、その直前で幕が下りてフェーズアウトするのだが、花道の出から、その幕切れまで、情緒面々とした音曲と絵画の素晴らしい世界が展開される。
   同じように、死に行くもの、滅び行くものへの憐憫と哀切を演じても、これだけは、シェイクスピアでも絶対に描けない日本独特の美意識の発露であると思っている。

   ところで、歌舞伎の舞台でのお初は、藤十郎の専売特許とも言うべき役柄で、既に、1300回出演だとかだが、70歳を超えてのお初の瑞々しさ、初々しさは、恐ろしいほど衰えていない。
   堂島新地の遊女であるから、花魁、太夫と言った高級遊女とは桁違いの下級遊女なので、冒頭の「生玉神社境内の場」での徳兵衛との会話などで示すお初の仕草など、今でも、道頓堀や心斎橋筋で見かける女の子と少しも変わらない生身の臨場感があって面白いのだが、
   一転して、「北新地天満屋の場」では、軒下に隠れている徳兵衛の首に素足の右足をナイフのようにあてがって、死ぬ覚悟があるか確かめるところの凄さや、夜中を待って天満屋を抜け出し徳兵衛の手を引っぱって落ち行く姿などは、流石に大坂女の面目躍如であり、
   最後の哀切極まりない死への道行きの、健気でいじらしい涙が零れるような女らしさなど、徹頭徹尾お初の魂が乗り移ったような藤十郎の芸に脱帽である。

   私の履歴書によると、1953年新橋演舞場で、大谷竹次郎会長の発案で、実父二代目雁治郎の徳兵衛を相手に、表舞台で初めてお初を演じて、一世を風靡して扇雀ブームを生み出したと言う。
   近松の戯曲に打ち込んで関西歌舞伎を、至高の芸術にまで高めた藤十郎に憧れ、その芸を伝承したいとの大望を抱いて四代目藤十郎を襲名したのであるから、元禄で江戸が此の世の春を謳歌していた時代に、近松、藤十郎、竹本義太夫と言う途轍もない芸術家三巨人を擁していやがうえにも気を吐いて輝いていた上方の芸の伝統を再現するのは自分だと意気込んでいるのであろう。
   その意味でも、藤十郎の「曽根崎心中」のお初は、藤十郎の芸の集大成でもあり、いまや、立派に芸の継承者として育って来た実子翫雀の徳兵衛に叩き込み、扇雀に徹頭徹尾舞台を見せて残して置きたいのであろう。

   この曽根崎心中は、親友だと思っていた油屋九平次(橋之助)に嵌められて盗人呼ばわりされ、満座の前で恥を掻かされて男の誇りを失って失望したがしんたれ男・徳兵衛が、相思相愛の愛のみを信じて殉じてくれる薄倖のお初を道連れに死に急ぐ儚い心中物語かも知れない。
   しかし、関係あるかないかは神のみぞ知るだが、ふっと、セルバンテスの「ドン・キホーテ」を思い出す。
   「塩の道塾」で、近松は、スペイン人からスペイン文学の手ほどきを受けたイスパニスタ門左衛門であったから、知らなかった筈はなく、名誉と恥、至高の愛に命を捧げて突っ走ったドン・キホーテの生き様を、庶民のどうしようもなく悲しい人生のサガを追いながら、この戯曲にこめたかったのではなかったかと、思うことがある。

   もう、40年近く前に、藤十郎は、ローレンス・オリヴィエに会って、イギリスには、シェイクスピアを専門にやるRSCのような劇団があるが、日本にも、近松専門の劇団があるかと聞かれたのが切っ掛けで近松座が生まれたと言う。
   六月の歌舞伎座で、仁左衛門が、近松の「女殺油地獄」を、一世一代にて相勤め申し候と言うことだが、藤十郎が健在で、仁左衛門など僅かに残る上方歌舞伎の伝統が息づいている間に、近松門左衛門の世界が、大いに展開されることを祈りたい。

   この「曽根崎心中」の舞台だが、翫雀の徳兵衛も、今や、藤十郎の切っても切れない相手役として育っていて頼もしいが、素晴らしい芸と雰囲気を醸し出している平野屋久右衛門の我當が存在感を示し、九平次の橋之助が、大分、関西芸に近づいてきた感じであったことを記して置きたい。
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日本は外国人失業者に旅費等を支給して本国へ・・・ニューヨーク・タイムズ

2009年04月23日 | 政治・経済・社会
   本日のニューヨーク・タイムズ電子版に、写真スライド入りで、「日本は外国人労働者に支払って帰国へ Japan Pays Foreign Workers to Go Home」と言う記事が掲載されていた。
   この記事への反応メール90が紹介されていたが、日本人の外国人嫌いや人種差別などに言及する批判的な意見が相当な比重を占めていて、世界中に結構ネガティブな印象を与えている。

   浜松の例が紹介されている。労働者一人に3000ドル、扶養家族一人ずつに2000ドルの支給のようだが、多寡はともかく、特に、印象を悪くしているのは、一旦、旅費等給付金を受け取った外国人労働者は、二度と日本で就業出来ないと言う規定である。
   この旅費を立替支給すると言うニュースを知ったのは、TVで、日系外人労働者として来日していた両親が失職して、名残を惜しみながら日本の小学校をやめてブラジルへ帰る女生徒の様子が放映されていた時だが、二度と帰ってくるなと言う条件を付けているとは知らなかったので、少しショックを感じた。
   川崎元大臣が、「・・・we're suggesting that the Nikkei Brazilians go home. Naturally, we don't want those same people back in Japan after a couple of months.」とコメントしているのだから、ニューヨーク・タイムズの記事は、概ね正しいのであろう。

   ニューヨーク・タイムズの記事だけで言及するのだが、
   1990年代に、工業労働者、特に、3Kの仕事をする労働者が不足したので、日本政府は、ブラジルやペルーなど南アメリカへ移民した日本人の子孫たちに特別労働ビザを与えて招聘し、現在では、36万3千人が働いており、その多くが、今回の経済不況で、失業して困っているのだけれど、日本人でさえ職探しに困っているのだから、旅費を出すから国へ帰れと日本政府は言っていると言うことである。
   このプログラムは、近視眼的で非人間的であり、折角、日本が、外交人労働者に日本経済を開きかけた矢先の出来事で日本に対して打撃となると、手厳しい批難をしている。

   この記事の最後は、6年前に来日して10月にストーブ工場を失職し、政府に帰国補助を申請して6月に帰国する予定のウエリントン・シブヤ氏のコメントで終わっている。
   「彼らは、労働が必要な時は我々を使ってくれた。しかし、今は経済が悪くなったので、僅かな金を払って、サヨナラだ。我々は、一所懸命に働き、慣れるのに必死だった。しかし、瞬く間に、我々を蹴飛ばして追い出してしまった。こんな国から、おさらば出来るのは幸せだと思っている。」
   夢破れて帰って行く日系ブラジル人の思いは、恐らく、このような心境だろうと思う。
   棄民として母国から捨て去られた日本人移民の、そのまた子孫たちが、再び祖国から捨てられたように日本から出て行かざるを得ない、この悲惨さを何と表現すれば良いのであろうか。

   私は、ブラジルブームの時、1974年から79年まで、大型プロジェクトを追っかけてサンパウロに赴任してしたのだが、あの時は、私のバックには経済大国日本と大企業と言う大きな支えがあったので心配などはなかったが、しかし、異文化異文明とも言うべき新天地での仕事は苦労の連続で、今回の南アメリカからの日系労働者たちの苦労は筆舌に尽くし難いのではなかったかと思うと胸が痛む。
   
   このブログで、BRIC'sの一国であるブラジルが、日本の将来にとって、如何に大切な国であるかと言うこと、そして、ブラジルへの協力とコネクションの成功のために、日系ブラジル人の存在が、如何に貴重な日本の財産であるのかと言うことを論じたが、日本政府も日本産業界も日本人の大半も、悲しいかな、この厳粛な現実を全く認識していない。
   今、日本にあるブラジル人の子供のためのブラジル学校が閉鎖されようとしていると聞く。棄民であった日本人に対しては日本政府は冷たかったが、同じ海外移民であったドイツやイタリアなどの移民村には、びっくりするくらい素晴らしい学校や文化施設が本国の援助で建設され運営されていたのを思い出して、同胞に対する思いやりの無さと言うか落差に暗澹たる思いを禁じ得ない。

   現在、これら失業中の南アメリカからの日系労働者に対して、日本語研修や職業訓練や職業コンサルなどの支援が少しずつ進められているようだが、ニューヨーク・タイムズが触れているように、日本人の労働人口はどんどん減少しており、老人介護関連や農業など労働不足が心配される分野もあり、早晩、外国人労働力の活用を真剣に考えざるを得なくなる。
   「バッファーとして使っただけで必要が無くなれば使い捨て」と言う厳しい世界の批判の矢面に立っている日系外国人労働者への日本の対応だが、日本の経済社会の将来を見据えるためにも、今こそ、絶好の好機、ブラジルやペルーなど日系移民や子孫たちの日本での深刻な労働と生活問題を真剣に考えるべきだと思っているのだがどうでろうか。

(追記)写真は、ニューヨーク・タイムズ電子版より借用。
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佐倉:オランダ風車の回るチューリップ畑

2009年04月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   印旛沼に面した佐倉市のふるさと広場で、例年どおりに、オランダ風車の回るチューリップ畑に花が咲き乱れていて美しい。
   ふるさと広場と銘打っているが、畑の中に小屋があってオランダから輸入した風車が回っているだけの所なのだが、周りの畑に、公表138種50万本のチューリップが植えられていて、この4月の中旬には、大変な人出となる。
   チューリップ祭は、15日までだったのだが、まだ、広大な畑には、チューリップが咲き乱れていて、極彩色に織り成す素晴らしい空間が広がっていて楽しませてくれる。

   風車のあるチューリップ畑の北面に接して、1キロメートルほどの一直線の桜並木が池畔に沿って伸びていて、その向こうには葦が生え、養殖柵などが浮かぶ印旛沼が、春霞にけぶりながら広がっている。そのオープンさが実に清々しくて良い。
   この口絵写真のように、たった4本だが、並木道沿いのほうき状のポプラが点景となっていて、ここへ来ると、ふっと3年間住んでいたオランダのことどもを思い出す。

   オランダのチューリップ公園で有名なキューケンフホフの周りがリセと言う田舎町で、周りには、一面にチューリップやスイセン、ヒヤシンスなどの広大な球根畑が広がっていて、季節には、極彩色の光の帯が空間を圧倒する。
   桁ははるかに違うのだが、一部の雰囲気は、この佐倉のチューリップ畑と似ていて、キューケンホフにも一基だけ風車が残っていて、畑から遠望するとチューリップ畑の中央に風車が浮かび上がる。
   オランダは、全土殆ど平地でフラットであり、水に囲まれているので、この印旛沼の畔の、広大なチューリップ空間が、私には、実に懐かしいヨーロッパでのふるさとの写しえとなっているのである。

   オランダに居た時は、ロンドン、パリと飛び回っていたので、休みが取れると、特に行き先を特定せずに、一人で車を走らせてオランダの田舎町を巡った。
   ミシュランのグリーン本(観光案内版)と赤本(ホテル・レストラン版)、それに、ミシュランの地図は必ず手元にあった。
   しかし、載っていない様な田舎道に分け入ったり、気に入ったところで小休止するのであるから、とにかく、気ままな一時だったが、何処までも清潔で美しいオランダの田舎が好きであった。
   尤も、オランダの道は、田舎道だと運河沿いなどで直線で比較的分かり良いけれど、アムステルダムなど、くるくる螺旋状で、いくら行っても道に迷って困ったのだが、いずれにしろ、走れば2時間くらいで国境を越える小さな国なので、道に迷っても、家に辿り着くには動作はなかった。
   真っ暗な運河沿いの道(柵などある筈がない)を、恐る恐る走ったことも、今となっては、懐かしい思い出である。

   チューリップ畑沿いの桜並木横の細い車道を走りながら、懐かしいオランダの田舎道を思い出していた。
   生まれたばかりでよちよち歩きの子羊や、醜いアヒルの子である白鳥の雛の行列に会ったのも、この田舎道であった。
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米企業:経済不況期にR&D支出を持続・・・WSJ

2009年04月21日 | イノベーションと経営
   日経ビジネス最新号の「世界鳥瞰」で、ウォール・ストリート・ジャーナルの翻訳版が紹介されているが、" R&D Spending Holds Steady in Slump  Big Companies Invest to Grab Sales in Recovery ; iPod Lesson "のタイトルの記事で、米国のトップ企業は、経済不況で、大きく業績が悪化しているにも拘らず、R&D支出は、そのまま減額せずに持続し続けていると報じている。
   イノベーション投資額の大きな米国28社の2008年第4四半期の対前年同期の売り上げ高は、7.7%ダウンしたにも拘らず、R&D支出は、0.7%しか落ちていないと言うのである。

   アメリカで生まれた多くの新製品やプロセス・イノベーションは、不景気のときに誕生しており、経営者たちは、この事実を熟知しているので、景気回復後の激しい競争に打ち勝つためにも、苦境の時期にこそ、開発投資を持続して、技術革新の種を蒔いて行くことが必要なのである。

   この記事の電子版では、Bad Times, Good Ideasと言うタイトルで、大恐慌時代のミラクル・ホィップから9.11後のiPodまでと、7枚のスライド・ショーで、苦境時に生まれたイノベーションを紹介している。
   このミラクル・ホィップだが、クラフト社が、新しく特許を取ったホィップ機で、マヨネーズ、サラダドレッシングとスパイスをホィップして1933年のシカゴ万博で出したら一世を風靡したと言うのだが、
   次のイノベーションは、同じくクラフト社の編み出した「マカロニ・チーズ・ディナー」で、写真を見ると、今の冷凍ピザと良く似た形のパックで、19セントと安上がりで9分で完成と言う正に革新的なインスタント食品が、1937年に生まれたのである。
   デュポン社が、ニューヨーク万博で発表したナイロン、そして、ブタサイト、それに、GEが、80年代に開発したF-Classガス・タービンや、90年代半ばのボーイング777に使われたGE-90エンジンなども写真入で紹介されおり、製造業が強かった時のアメリカを彷彿とさせてくれる。

   GEについて、かなり詳細に論じていて、照明事業への投資不足でLED照明の開発に遅れを取り、今世紀初頭に売却を試みたが失敗していることや、
   冷戦終結後の航空機需要の減退に抗して、17億ドルの巨費をかけて、チタンより軽い複合材を使ってGE-90エンジン開発の賭けに出たが、幸い成功して777の主力エンジンとして採用されて起死回生を図れたこと、
   それに、ホンダとの共同開発で生まれたHF120ターボファンエンジン搭載の「ホンダジェット」の市場投入などに触れ、経済環境の悪化にも拘らず、R&D投資を維持していると言う。

   米国企業は、R&D投資の効率化を図るために、外国企業への外部委託を考えているようだが、やはり、中国やインド企業の追い上げや熾烈な競争を心配している。
   ここでは、インドのハイテクIT企業インフォシス・テクノロジーについて触れているが、競合するIBMやHPと比較すれば、R&D投資比率は低いが、年々、驚異的な伸びで開発投資額が増えていると言う。

   さて、わが国日本企業の不況期でのイノベーションの動向はどうであろうか。
   国内市場の狭隘化で外国市場にあまりにも頼り過ぎてきて、今回の経済不況で最も被害の大きかったのが、ものづくり日本の製造業だが、投資額の大幅ダウンに呼応して、R&D投資額も、かなり、落ち込んでしまっているのではなかろうか。

   最も、日本の製造業は、石油ショックや円為替の大幅切り上げなど、危機的な悪環境に直面する毎に、R&D投資額はともかく、イノベーション、イノベーションで活路を切り開いて、生産性をアップして国際競争力を強化しブレイクスルーし続けてきた歴史を持っている。
   しかし、今日のグローバル経済社会での技術的ブレイクスルーは、これまでのような、単体の新しい製品やサービスにおけるイノベーションによるものではなく、ハード・ソフト融合のトータルパケッジとしての新機軸の国際競争に勝利することである。

   日本企業の欠点は、水の浄化など水技術に関しては世界最高だと豪語しても、トータル事業としてのアプローチが出来なかった故に、水事業でのスエズ社の圧倒的な支配力には対抗できずに、下請けに甘んじざるを得ないと言う現実からも見えてくるようである。
   世界最高と自慢する省エネ、地球環境対策技術、太陽電池等々、とにかく、個々の単独技術は世界最高であっても、日本産業界が協力して、トータル・システムで世界のグローバル・スタンダードを構築して世界市場に打って出ない限り、日本製造業の明日は暗い。

   世界中から一番良いものを糾合して纏め上げて、トータルパケッジとして最終需要者に提供すると言う、悪く言えば、人の褌で相撲を取ると言う欧米の知恵は、世界の国々を植民地化して培って来た欧米人の植民地支配の悪知恵なのであろうか。
   
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四月大歌舞伎・・・仁左衛門と玉三郎の「廓文章」

2009年04月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座公演の夜の部の目玉演目は、何と言っても、仁左衛門が、藤屋伊左衛門で、玉三郎が、夕霧で登場する「廓文章」の「吉田屋」であろう。
   それに、吉田屋喜左衛門に我當、その女房おさきに秀太郎と言う松嶋屋の3兄弟が共演すると言う関西歌舞伎のムード満喫の舞台であるから、楽しくない筈がない。
   この「吉田屋」は、近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡」の一部を切り取って改作して、謂わば、一人立ちした人気狂言だが、実際には、この伊左衛門と夕霧の間には、一人の男の子が生まれているのだが、この舞台では、そんな間柄を払拭したような雰囲気に変わっており、身持放埓で勘当された極貧生活の大坂のバカボンと、絶世の美女夕霧との、実にたわいない馬鹿話になっているのが面白い。

   勘当されて京都に逼塞している伊左衛門が、夕霧が病気だと聞いて、心配で心配で、編笠と紙衣と言う零落した姿で、大坂新町の「吉田屋」を訪れる所からこの話が始まる。
   実際は、ラブレーターを継ぎ接ぎした紙衣のようだが、青紫の綺麗な一重姿の実にスマートな井出達で、前後に、差し出し(面あかり)のほのかな蜀光に導かれながら、花道を静かに登場する伊左衛門のシーンそのものが絵になっている。
   江戸時代、藤十郎は、実際にも紙衣姿で登場したようだが、当代藤十郎が、襲名披露の時に、特別誂えの紙衣を着て舞台に立ったが、滑らかな優しい線を作るのが至難の技だったといっていたが、このやつしの典型的な関西歌舞伎の和事の舞台でありながら、今の舞台衣装だけでは、むしろ、視覚的なスマートさが勝って、伊左衛門の零落した貧しさは、登場人物の会話や仕草で感じる以外になくなってしまっている。

   「廓文章」の舞台は、この仁左衛門の舞台と、藤十郎の舞台を何度か観ていて、このブログでも、夫々の舞台について書いており、蛇足となるので止めるが、同じ演目でありながら、松嶋屋型と、雁治郎型との差が興味深く、夫々が決定版とも言うべき至芸に到達しているのが面白い。
   伝統芸としての作法なり、性格や人生経験の差が出ているのであろうが、藤十郎の伊左衛門は、正に、大坂商家の大店の放蕩息子の典型と言った感じだが、仁左衛門の場合には、匂うような気品を保ちながら、少し頭の弱い優男風の三枚目的なコミカルな雰囲気を醸し出していて、会話にも味があるなど大いに魅せてくれる。

   夕霧は、元京都の島原の太夫だったが、大坂の新町に移り27歳で夭折した伝説的な美女だったとして有名だが、この「吉田屋」では、伊左衛門に恋焦がれて病気になっている。
   折角座敷を抜け出して伊左衛門に会いに来たのに、他の座敷に居て接客していたとして伊左衛門にすねられて狸寝入りで逃げ回られると言う耐える女に徹した役柄だが、玉三郎の美しさが際立つ素晴らしい舞台である。
   篠山紀信の「玉三郎写真展」で、夕霧の豪華絢爛たる舞台衣装写真がメインを飾っていたが、今回の豪華な孔雀に似た鳳の衣装の素晴らしさも目を見張るばかりで、見せる芸術である歌舞伎の面目躍如である。

   さて、今、NHKの「際付歌舞伎謎解」で、松井今朝子さんが、「光源氏の末裔――『廓文章』」と言う番組で、非常に興味深い解説をしている。
   登場人物が、何らかの理由で、その人本来の姿よりみすぼらしくなる設定の「やつし」は、元禄歌舞伎の定番で、近松門左衛門が、藤十郎を今様光源氏に擬えて恋愛を一般庶民に示したこの光源氏の近世版が典型だと言うのである。

   江戸時代では、身分制度を壊すので、恋愛はご法度であったので、身分違いの恋愛は、舞台でも、心中と言う不幸な形でしか出て来なかった。
   ところが、この廓文章では、大店の若旦那が、落ちぶれてやつしの姿で登場することによって、身分関係を近づけて、遊女である夕霧と対等に恋愛が出来たと言うのである。
   当時の遊郭は特別な世界で、出身はいかなる境遇であっても、太夫なり花魁なりトップクラスの高級遊女は、大名や豪商など身分の高い、あるいは、財力抜群の実力者を相手にしていた、謂わば、プロであったから、身分には関係ないとは思うのだが、この説明は、何となく説得力があり分かるような気がする。

   「みたて」や「やつし」と言った意外性を舞台に持ち込んで、芝居の奥行きを深めて豊かにすると言う日本の芸術観は中々素晴らしいと思うのだが、これは、日本の文化芸術での特色でもある「わび」「さび」とも相通じる重要な美意識でもあると思うと、庶民の歌舞伎も中々奥の深い伝統芸能なのである。

   今回の舞台は、若い観客も多くて大入りだったが、とにかく、素晴らしい舞台で、大いに楽しませてくれ、歌舞伎の醍醐味を満喫させてくれること間違いなしである。
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トマト栽培日記・・・(2)一番花の蕾が出た

2009年04月18日 | トマト栽培日記
   市販のトマトの苗を植えて一週間経ったが、5~6センチメートルは成長した感じで、葉の張りも茎の強さも成長の効果が出て来ている。
   気がついたのは、茎の上部に、小さな花房がついたことで、やっと、一番花の準備が出来て来たのである。
   大小はあるが、6本の苗総てについている。

   茎が伸びるに連れて、葉が互生につきながら大きくなるのだが、花房は、葉と葉の間の茎の真ん中から、葉などを伴わずに、単独で飛び出す。
  孤高というか、ミニトマトなら、二列に真っ赤になって垂れ下がるようである。
   園芸本などには、第一花房がついて花が咲いている苗を選んで買ってきて定植するのが良いと書いてあったが、まだ、そこまで育った苗はなかったので、比較的成長の良いしっかりした苗を選んで来たのだが、これで、取りあえず、安心である。
   来週には、黄色い花に変わるのであろう。

   もう一つ、茎を一本仕立てに育てるべしと言うことなので、夫々の葉の根元から出ている側枝を一つずつ手で摘み取る芽かきを行った。
   花の下の側枝は、6~10センチになったらかき取れと書いてある園芸本もあるが、その記述のない本もあるので、取り合えず、気づいた時にと思ってかき取った。
   
   いずれにしろ、苗が少し大きく育ってきた以外には変化がないので、このまま、様子を見ようと思う。
   先日、雨が降ったが、苗床は、そのまま、外部に放置していた。
   花が咲き始めたら、あまり、風雨にさらさない方が良さそうだが、当分、戸外に置いて育てようと思っている。

   ところで、種まきした「アイコ」の芽が育って、本葉が2枚出てきたので、先日、小さなポットに植え替えた。
   ピンセットでするような細かい作業だが、しっかり根がついているようで、心なしか大きくなった感じである。
   丁度、市販苗と一ヶ月ほど遅れた感じである。
   結構な数の苗が取れそうだが、当初は、5~6本育てれば良いと思っていたので、規定外だが、とにかく、一人前の苗に育ててみようと思っている。
   何処に植えて育てるかは、それから考えれば良い。
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テレビの見方が変わるのであろうか

2009年04月16日 | 生活随想・趣味
   先日、確かNHKで、テレビ放送のあり方等について、討論会形式で議論されていたと思うのだが、日本での放送が開始されてから、ほぼ、半世紀しか経っていないと思えば大変な発展進歩である。
   日常生活の中においても、インターネットなどによるパソコンや携帯電話などの代替手段の競合はあっても、依然、テレビなしでは生活できないと言った風潮が一般的である。
   色々な意見が出ていたが、果たして、自分にとって、今のテレビ放映システムが良いのか悪いのか、考えて見たが、別に、不都合ではないことに気づいた。

   あまり、真剣に考えたことがなかったが、何を見て、どのようにテレビを重宝しているのかと、改めて考えてみると、私自身何となく惰性で見ていると言う感じで、特に、見なくてはならないものでもない。
   気になってみているのは、殆どは、ニュース関連の番組ばかりだが、これは、新聞やインターネットなど他の媒体でことが足りるのだが、しかし、速さ臨場感においては、テレビの方が便利である。
   NHK中心のニュース番組主体だが、程度の問題と無駄の排除等で、BS1のBSニュースやワールドニュース、それに、ニュース系の特別番組を見ることが多い。
   民放のニュース番組は、日曜日朝の特別番組以外には、時々朝日の報ステやWBSくらいだが、ヤフーのニュース画像をクリックすれば、コマーシャルなしで手っ取り早く見られるので、これを重宝している。
   外国ニュースも、インターネットで英米の新聞や放送局などのメディアのネット版の動画を見れば事足りる。

   他の番組については、大河ドラマなど興味のある特別なドラマについては、放送時に合わせて見ているが、他の関心のある番組については、殆ど録画をして、後で、見たりDVDに落としたりすることが多い。
   オペラや歌舞伎、クラシック音楽などの舞台芸術、歴史・文化・芸術関連の教養番組や特別番組、ドキュメンタリー、映画などが大半であるから、いきおい、NHKのBShiやBS2、それに、WOWWOWに集中してしまう。
   民放しか見ないのでNHKの視聴料を払わないと言う知人がいるが、私など、二倍払っても良いくらいNHKの恩恵を受けている。

   NHKが、アーカイブの番組を、オンデマンドで頒布するようになったので、テレビのオンデマンド化が脚光を浴び始めている。
   見たい番組だけ見て、その分の視聴料を支払うと言う方式は、他のシステムでも一般的だが、見たい番組を何時でも見られるということは非常に便利で安上がりだし、第一、録画の手間が省けるだけでも重宝する。

   しかし、私の場合には、さあ、今から見たいので、オンデマンドで見ようと言うような姿勢ではなく、適当なときに途切れ途切れで見ると言った見方をするので、結局、録画してみると言うのが一番性に合っている。
   それに、見たいものは、余程のことがない限り、殆ど録画しているので、いまさら、オンデマンドでもない。
   とにかく、問題は、余生を総てかけても見切れないくらいビデオやDVDに録画しており、その方が問題である。

   ところで、最近は、テレビも見ないし、新聞や雑誌も読まないと言う若者が増えてきたと言うし、インターネットの普及などで、これらのメディアの経営は大変だと言うことらしい。
   質の高い雑誌などの廃刊や休刊などが目白押しだし、欧米でも、立派な新聞が廃刊に追い込まれており、新聞社や放送局のあり方にも変化が求められていると言うのである。
   インターネットの普及で、個人個人が、パソコンにしろ携帯電話にしろ、自分自身の情報受・発信端末を手元に持っていて、随時、いかなる場所においても、好きなように、情報にアクセス出来る以上、瞬く間に陳腐化して行く紙媒体を、だんだん必要としなくなって行くのは当然の帰趨である。

   それに、最近、書店の閉店が多くなっている。
   東京のみならず、関東の近郊書店も例外ではないが、アマゾンなどのネット書店やブックオフなどの台頭による一般書店のシェアー縮小のみならず、やはり、一般の書籍離れの傾向が益々進行しているからであろうか。

   本については再販制度維持が問題となっているが、良質な本の出版のために必須の制度だと言うのが日本の方針だが、多くの先進国では撤廃されているし、アメリカなどの場合には、新刊書を大幅値引きで売っているケースが多いのだが、日本よりはるかに程度の高い本が、どんどん出版されて売られている。
   本の質については、その国民の民度の程度が問題であると私は思っており、例えば、日本の民放テレビのように、朝から晩まで目も当てられないような馬鹿番組を放映し続けている限り、読者の質が上がる訳がなく、再販制度を維持し続けても、本が売れなくなるだけで、何の益にもならないと思っている。

   本題が横道にそれてしまったが、テレビ番組および現在の放送システムについては、録画システムの高度化によって、番組の選択肢が増えて自分で自由に選択視聴できるチャンスが増えてきた以上、私にとっては、別に不都合はないとと言うのが正直なところである。
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K.R.マクファーランド著「ブレイクスルー・カンパニー」

2009年04月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   起業した企業が、破竹の勢いで成長したかと思うと失速する、すなわち、カリスマ経営者が、神通力を失ってしまうのか、とにかく、起業当時の活力を持続しながら、成長を続けて行く企業は、非常に少ない。
   何故なのか、その答えを追求するために、著者は、米国のビジネス雑誌「Inc.」が選定する「アメリカで最も急成長を遂げた非公開会社500社」を中心に、CEOや関係者などとのインタビューを含めて膨大な資料を調査分析して、9社のブレイクスルー・カンパニーを選び出し、その成長持続戦略の秘密を解き明かした。

   尤も、トム・ピーターズの「エクセレント・カンパニー」や、J.S.コリンズの「ビジョナリー・カンパニー」など、成功した企業の成長の秘密を分析して成長戦略を追求した書物は沢山あり、それらの成長企業も、時間の経過と共に失速して跡形もなく消えてしまったケースもあって、決定版などはあり得ない筈だが、
   それなりに興味深いのは、大企業ではなく、売上高を25億円以上100億円以下のテイクオフしたばかりの中堅企業に的を絞っていることで、従来の大企業向けへの経営学ではなく、小さな会社が大きく伸びる法則を打ちたてようとしているところに特色があることである。
   
   会社というものは、長期的には、成長するか消滅するかのどちらかで、企業の利益が拡大すれば、それだけ、新製品の開発や顧客に提供する価値の拡大に投資できるが、それを怠れば、競合他社に出し抜かれるだけで、成長しない企業は、必ず消滅する。
   しかし、早く成長すれば良いという事ではなく、ブレイクスルーは、大胆な戦略的跳躍と言うよりは、一つの足がかりから次の足がかりへと、強い意志を持ってたゆまぬ努力を続けることで実現でき、リーダーは、利益の成長に伴い、それに対応できるだけの能力を会社の中に育てて行かなければならず、それが出来て初めて安定した持続的成長が可能になるのだと説く。

   冒頭から、面白い議論を展開している。
   初代大統領ワシントンを例に挙げて、国王に推挙されたが固辞して有期の大統領に徹したことによって、今日の民主主義的な偉大なアメリカが実現出来たのだが、成長出来なかった多くのベンチャー企業は、創業者たちが、自分の頭に王冠を載せることに夢中で「会社に王冠をかぶせる crown the company」ことが出来なかったからだと説く。
   カリスマ創業者であればあるほど、ブレイクスルーするためには、何よりも、会社のリーダーが率先して会社に王冠を被せる、すなわち、組織がリーダーに仕えるのではなく、リーダーが組織に仕える努力をしなければならないと言うのである。
   
   カリスマ起業経営者が、長く居座る弊害は、会社が成長・発展期に到達した段階で、その起業家精神――たとえば素早い決断、簡単に諦めない頑固さなど――が、むしろ、企業にとって最大の敵になる。
   起業家は創業当時は、「何でも屋」であり、色々な役割をこなす才能があるが、ある時点に達すると、何もかも自分ひとりで出来なくなり、会社の成長に齟齬を来たして来る。

   しかし、ベンチャー企業は、創業時のチームを解体して、プロの経営者に切り替えるべきだと言う考え方は、必ずしも正しくはなく、「会社の成長につれて経営者自身も変化しなければならない」と理解さえして対応しておれば、むしろ、このような創業者が経営する会社のほうが業績が良い。
   著者が選んだ超優良なブレークスルーカンパニーの殆どが、創業当時のチームないし、創業者が選んだ後継者が、会社の方針を決定している。
   すなわち、会社に王冠を被せて、組織に主権を持たせる原則がしっかりしておれば、創業者には、業界、市場、顧客のニーズに生じる微妙な変化をつかむ能力に長けているので、創業者が会社に関わり続けることには、利点がある。
   要は、創業者が去るべきかどうかではなく、創業者が、会社の成長発展に応じて、自分の役割を変化に適応させられるかどうかが大切だと言うのである。

   ここで、著者は、起業家に適応能力があったとしても、適応の必要性に気づいて、その方法を知るためには、外部に足場を築いたり、インサルタントの力を借りるなど、積極的に支援を求めるかどうかで命運が決まってくると言う。
   これは、何も、創業者だけの問題だけではなく、企業の経営戦略を高度化するためにも、社外リソースのネットワークを築くなど外部に良質で高度な足場を構築したり、企業の近視眼や惰性の弊害を排除するために、鋭い批判と疑問を呈することによって、社内の基本的な思い込みに対する批判的思考を呼び起こしてくれる「インサイドのコンサルタント」の必要性は、多言を要しない筈である。

   このほか、著者は、ブレイクスルーカンパニーとなるためには、
   時間をかけて情勢を有利に持ち込むための投資である賭けに、掛け金を上げて積極的に打って出ること、
   コスト削減からコスト最適化を目指して、ビジネスのバーミューダトライアングルを突破すること、
   更に、会社は、発展途上で必ず難局に直面する筈だが、そのタフタイム大学を卒業するために、如何にして、会社と社員の潜在能力を限界まで活用して組織から最高の活力を引き出すか等々、
   ブレイクスルーパワーを作り上げるために、戦略、社員、実行と言う3つの分野から、その経営施策を提言している。

   著者の指摘で面白いのは、企業には企業文化(コーポレート・カルチュア)などと言うものはなく、会社の性格があることで、ブレイクスルーカンパニーは、この「会社の性格」と言う基盤の上に成り立っており、多様ではあるが、人を公正に扱う、人を信じる、戦略的につましい、言葉に責任を持つと言う4つの特徴を共有して持っていると言うことである。
   マキャベリズム的な戦略論が一時流行ったことがあるが、株主のため、企業価値を上げるためには形振り構わずまい進すべしとするフリードマン流のマーケット至上主義的な発想からは、ブレイクスルーは生まれないと言うことであろうか。
   
   果たして、マクファーランドの説を踏襲すれば、実際に会社が、成功裏に、起業からブレイクスルーして持続的成長を続けられるのかどうかは分からないが、この分野を扱った経営書が殆どなかったので、小さな会社が大きく脱皮して行くためには如何にあるべきかを考える一助としては、非常に面白い本である。
   
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四月大歌舞伎・・・通し狂言「伽羅先代萩」

2009年04月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりの通し狂言としての伽羅先代萩で、玉三郎の政岡、仁左衛門の八汐と細川勝元、吉右衛門の仁木弾正と言った役者のそろった意欲的な舞台が展開されていて面白い。
   伽羅先代萩は、何度も見ている演目だが、印象に残っている前回の通し狂言は、仁左衛門は同役で登場していたが、政岡は菊五郎、仁木弾正は團十郎、それに、田之助や富十郎と言った人間国宝が登場する、もう少し、灰汁の強い舞台であった。

   ところで、この通し狂言としての伽羅先代萩だが、他の歌舞伎と少し違っているようで興味深い。
   一応、放蕩三昧の領主が登場して、その身持放埓故に強制的に隠居させられて、幼い君主が跡を継ぎ、両派対立のお家騒動が起きて、お上の裁判で決着を見るが最後は刃傷沙汰と言う江戸時代初期の伊達藩の一連の事件を土台にした歌舞伎ではある。
   しかし、舞台を足利時代に移し変えたり紆余曲折を経ながら、あっちこっち継ぎ足して完成された所為か、芝居として統一性に欠けている感じがして、やや違和感を感じざるを得なかった。

   冒頭の「花水橋」は、足利頼兼(橋之助)が刺客に襲われて、相撲取り絹川(染五郎)に助けられる立ち回り主体の舞台で、
   次の「竹の間」「御殿」は、政岡が八汐などの追い落とし戦術に耐えながら、毒殺を恐れて茶道具で飯炊きをしながらも、実子千松は毒饅頭を食って殺害されるものの、幼君足利鶴千代を守り通す御殿での女の戦いの場は、竹本の浄瑠璃が冴え渡り、
   「床下」での荒獅子男之助(三津五郎)と仁木弾正との対決の場は、歌舞伎の正に荒事で、これから、がらりと変わって、男だけの舞台となり、
   最後の「対決」「刃傷」は、仁木弾正一派と、渡辺外記左衛門(歌六)との裁判を山名宗全(彦三郎)と細川勝元が裁き、仁木外記に刃傷の及ぶ舞台は、実録風の台詞芝居
   と言ったところで、話が、4分裂しているだけではなく、その演出スタイルも全く違っている。
   ここらあたりの芝居展開は、同じような経緯で戯曲を生み出しながらも、かなり統一性があり筋のしっかりしたシェイクスピアとは、大きな違いで、やはり、聞く芝居ではなく、見せる芝居である歌舞伎の特長であろうか。

   この歌舞伎で面白いのは、やはり、「竹の間」の政岡と八汐との対決と、「御殿」での、毒殺を恐れての政岡の飯炊きと、千松が鶴千代の身代わりとして毒饅頭を食べて、証拠隠滅のために八汐に殺される母としての政岡の慟哭、そして、「対決」で、細川勝元が、小気味良く、弾正一派を追い詰めて行くお裁きの舞台であろう。
   特に、この中でも、「御殿」とその後の「床下」は、頻繁に舞台に乗せられていて、見る機会が多く、政岡では、玉三郎や菊五郎の他にも、雀右衛門、藤十郎、勘三郎、福助と立女形の揃い踏みとも言うべき演目である。

   歌右衛門の舞台を見ていないので何とも言えないが、大半、この伝統と芸風を踏襲しているようで、藤十郎の政岡だけは、文楽に近い大坂歌舞伎の伝統を引いて一寸異質な様であり、演出にもかなり差がある。
   これまで、政岡については何度か書いているので止めるが、私自身は、藤十郎のように、感情を迸るままに表現してリアルに演じる大坂型の舞台の方が好きである。
   藤十郎は、飯炊きの場でも、君主でありながらひもじい思いをせざるを得ない亀千代の苦境を思って、茶道具を相手にしながら目を真っ赤にして泣いていたし、一人になって我に返ると、たちまち、千松の亡骸をかき抱いて号泣して母としての苦衷をかき口説いていた。

   ところが、これとは対照的に、玉三郎の政岡は実に優雅で美しく、正に、流れるような視覚的な演技で、政岡の心理描写を象徴的な仕草で表現している感じで、正に芸術である。
   飯炊きの場での、鶴千代を思っての苦衷の涙は、衝立で身を包み込んで隠れて咽び泣き暗示的に表現する。
   最も、現実離れした表現は、我に返って千松の亡骸を見やりながら周りをうろつき、「出来しゃった、出来しゃった、鶴千代の苦難を良く救ってくれた、国の礎となった」と褒め讃えるのだが、愛しい千松を抱きしめるのは、ずっと後になってからである。
   芝居はともかくとしても、母親なら、何をさて置き、真っ先に、嬲り殺しに合って非業の最期を遂げて仰向けに倒れているわが息子の亡骸にしがみついてかき抱く筈である。
   国の礎になったと褒める前に、政岡の苦衷は、「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなと叱るのに、毒と見えたら試して死んでくれと言う胴欲非道な母親がまたとひとりとあるものか。武士の胤に生まれたは果報か因果かいじらしや、死ぬるを忠義と言うことは何時の世からの慣わしぞ・・・」。この心境に尽きると思う。千松は、忠義ならまだしも嬲り殺しにあったのである。
   
   もう一つ、仁左衛門の、八汐のいけずで性悪女の芸の巧みさも、目の覚めるような大岡裁きとも言うべき颯爽とした細川勝元像も、文句のつけようもない程の出来栄えである。
   それに、夜の部の、「廓文章」での、「吉田屋」の伊左衛門の、全く異質な優男のバカボンぶりも立て板に水の流れるような舞台が秀逸であった。
   「大きなお役を頂くと役が終わるとぐったりしてしまい、最近では一つの役に集中したい」と、仁左衛門は、何かのインタビューに答えていたと思うのだが、自家薬籠中の芸であり、得意中の得意の芸とは言え、人気に煽られての芸の切り売りで、芸の精進を怠って器用貧乏にならないことを祈るのみである。

   もう一人の立役者、仁木弾正を演じた吉右衛門だが、流石に上手く、「床下」のすっぽんの出から花道を消えて行く舞台は中々重厚で素晴らしい。
   ただ、「対決」「刃傷」の場では、悪は悪なりの風格が必要であり、存在感にやや欠けた感じで、悪人だったかどうかは別にして、伊達騒動の正に張本人であった家老原田甲斐の底知れぬ悪辣さが背後にあるわけだから、もう少し、灰汁の強さを前面に出しても良いのではないかと思うほど、大人しい演技であったような気がする。
   
   悪の黒幕栄御前と忠臣渡辺外記左衛門を演じた歌六は、役に恵まれた所為もあるが、中々の好演で、女形姿を始めて見たのだが、悪くはなかった。
   
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トマト栽培日記・・・(1)プランターに市販苗を植え付け

2009年04月11日 | トマト栽培日記
   家内が健康のためにと、トマトに気を使っているので、プランターで栽培してみようと思い立った。
   昔、子供の頃、祖父母の故郷である宝塚の田舎に住んでいたことがあるので、多少、畑の知識はあるが、要するに、野菜の栽培も、ガーデニングも同じだろうと思って始めることにしたのである。

   種から栽培しようと思って、園芸店でサカタのタネの細長のミニトマトである「アイコ」の種を買って来て、3月の中旬に蒔いたのだが、寒かった所為か、やっと、4月に入って芽が出てきたので、まだ、大分待たないと一人前の苗として植えられない。
   それはそれとして、近くの園芸店でトマトの苗を売り出したので、まず、この苗を買って植えてみることにした。
   いつもなら、トマトの栽培に関する本を手にして始めるのだが、今では、グーぐルで検索すれば、その程度のノーハウは簡単に手に入る。そう高をくくってスタートしたものの、疑問ばかりが出てきて覚束ないが、バラの栽培の時も、結局、自分自身で頭を打って学ぶ以外に良い方法がなかったことを知っているので、見切り発車した。

   園芸店ケーヨーD2で、普通のトマトの苗が1本68円だが、ミニトマトがなかったので、カネコ種苗オリジナルと言う一寸値が張るが良さそうなので、1本248円の苗を買うことにした。
   良く分からないが、スイートミニとか、スイートジャンボとか、スイートトマト系統のトマトで、スイートなら良かろうと思って、何の疑問も抱かずに、5種類1本ずつ(ジャンボは2本)買って植えることにした。

   プランターだと株間を30センチ以上あけろと言うことで、土も一株20Lくらい必要だと言うことなので、とりあえず、容量34Lと42Lのかなり大きなトマト2本用と思しき支柱立て付野菜プランターを買った。
   用土だが、市販のものを使うつもりだったが、丁度、苗と一緒に、「スイートトマトのベストマッチ肥料」と言うのが並べられていた。植え付けから収穫まで一度で済むと言う万能の肥料で、活着を促す肥料から、後期に効く被膜肥料まで6種類の肥料が混合されているので収穫までしっかりとサポートすると嘘のような能書きが書いてある。
   ものぐさの私であるから、文句なしに衝動買いした。
   
   問題は、用土に何を使うかである。
   幸い野菜の培養土と言うのが市販されている。しかし、これには、肥料配合と明記されている。
   念のため、傍にいた店員に、その培養土を使って、この便利な肥料を併用して良いのかと聞いたら、用土はあくまで用土であり、肥料は必要なので、両方使えと勧める。
   何故、肥料配合用土に、更に肥料が要るのか、どうせいい加減なことを言っていると思ったが、深追いしなかった。

   このケーヨーデイツーは、品物が何処にあるのかくらいは聞けばあり場所を教えてくれるが、間口の広い何でも屋のホームデポのような店舗であるから、店員の商品知識は不足気味で、まして、園芸関係になると、余程、専門的な知識と教養がないと、殆ど明後日の答えしか帰って来なくて役に立たない。
   
   大体、野菜も、草花も、培養土には、大なり小なり肥料が配合されていて、プレーンな用土は、鹿沼土や川砂や黒土や腐葉土と言った単体しかない。
   トマトは、肥料過多だと葉ばかり育って実成りが悪くなると言うことなので、大事を取って、一番シンプルな草花用の培養土には、規定どおりのベストマッチ肥料を混ぜ込み、一方、肥料配合の野菜培養土には、規定の半分のベストマッチを配合して苗床を作り、二種類平行して植えることにした。

   プランター3個に、それぞれ2本ずつトマトの苗を植えつけて支柱を立て、虫除け薬品として、根元に、オルトラン顆粒を少量撒いて、たっぷり水をやって植え付けを終えた。
   雨が当たらない方が良さそうだが、日当たりも問題なので、日当たりの良い軒下近くに置いて移動し易いようにした。
   さて、どんなトマトが出来るのか、ウイークリー・ベースで記録を残そうと思っている。
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江戸の名園・六義園の春

2009年04月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   古都京都と違って、東京にある名園は、江戸時代の豪壮な感じの文化を色濃く残している感じだが、今回、初めて江戸時代の大名庭園の代表と言うべき六義園を訪れた。
   有名な内庭大門そばのシダレザクラは、既に若葉が茂り始めており、他の桜の木も、吹上茶屋の裏手の桜が1本だけ僅かに花を残すのみで、咲き始めの宣春亭前の八重桜を除いて、全く、季節外れと言う感じであった。
   この口絵写真は、残っていた桜を、白鷗橋を渡って林間の遊歩道越しに撮ったものだが、そこだけ明るく輝いていた。

   さて、この六義園は、赤穂浪士で有名な浅野長矩を切腹させた張本人である柳沢吉保が築園したもので、4代将軍綱吉に寵愛されて大老格として幕政を主導した実力者であるから、とにかく、スケールが大きくて素晴らしい庭園である。
   リッチモンドにあるハンプトンコート宮殿を造ったトマス・ウルジーが、その壮大さのために、ヘンリー王に嫉妬されて献上せざるを得なくなった話があるが、綱吉は何度も、この六義園を訪れているようだが、嫉妬しなかったのは、江戸城内の庭園の方がはるかに良かったのか、吉保が愛い奴過ぎたのか、変なことを考えてしまった。

   園内の説明では、築園当時の庭園を狩野派の画家に描かせて、将軍に献上したとかで、その絵のコピー写真が展示されていたが、どうも、桜の木が中心で、そばに赤い花の花木(まさか、紅葉ではない筈で、桃であろうか)が描かれている程度であったから、この庭園のポイントは、桜の名園と言うことであったのであろうか。
   園内の桜の木は、悉く大木だが、1702年当時の木ではない筈なので、岩崎彌太郎の別邸になってから植えられた桜の木かも知れない。
   しかし、桜の木は、オープンスペースでの単植は少なく、林間に溶け込んだ巨木が殆どで、新宿御苑の桜とは全く違っている。

   今、園内で綺麗に咲いている花は、一重で黄色の山吹の花だが、少しずつ咲き始めたツツジや皐月類の花との対照が美しい。
   これからは、庭園のあっちこっちに植えられたツツジや、綺麗に刈り込んで成形された皐月やツツジの景観が見事になるであろう。
   しかし、今、何よりも美しいのは、木漏れ日を浴びて風に揺れる新緑のモミジや木々の織り成す濃淡取り混ぜた緑のオンパレードで、正に、桜の去った春の林間の風情である。

   この庭園の素晴らしさは、やはり、大きな池の中に妹山・背山のある中ノ島、臥龍石、洞窟石組の蓬莱島などを臨み、背後に展開される和歌の名所をあしらった築庭を眺めながら散策しながら楽しむ「回遊式築山泉水」の庭であろう。
   とにかく、池を眺めながら、池の周りを一周するだけでも、移り変わる景色の変化が楽しめて素晴らしいのだが、その背後にある高台の藤代峠や林間の茶店など、がらりと変わった名園の姿を味わえるなど、サービス精神横溢の庭である。

   私は、豪壮な池越しの風景を楽しむ吹上茶屋より、林間にひっそりと佇むつつじ茶屋や、水音が心地よい滝見の茶屋の雰囲気の方が好きで、質素な佇まいながら、屋根と僅かな壁があるだけの完全にオープンで、林間の木々に溶け込んでおり、ここだけは、五月蝿くて興ざめなカラスの鳴き声からフリーで野鳥のさえずりが聞こえてくる。
   つつじ茶屋など、明治年間のつつじの古木で建てられたとかで、曲がった柱の風情が何ともいえないほど風雅であり、周りはモミジで覆われているので、秋の錦はさぞかし素晴らしいであろうと思われる。
   閉園前の斜光になった木漏れ日の柔らかな光の乱舞を楽しみながら、静かな茶屋の長いすに座って、色々なことに思いを巡らせていた。
       
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