熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

春の京都の旅(5)銀閣寺、京大、そして、清水から八坂へ

2013年03月31日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   この日は、東山沿いに歩いてみようと思っていた。
   本当は、詩仙堂あたりから南に下れば良いのだが、家族連れだし、とにかく、まず、銀閣寺に行って考えようと思ってバスに乗った。
   四条河原町からのバスで、それ程混んではいなかったのだけれど、銀閣寺口に着くと、参道から沢山の観光客で一杯であり、何時もどこからそんなに人が集まるのか不思議に思いながら、雑踏の中を銀閣寺に歩いた。
   総門を抜けて右折れして、突き当りを左折れすると質素な中門に至るのだが、この間、左右に聳えたつような銀閣寺垣が圧倒し、その生垣に藪椿が使われているので、花の季節には、何時も、赤い椿を見て身が引き締まる思いになる。
   それに、中門を入って、五葉の松を左に見て直進して唐門を抜けると、一気に、空間が広がって真っ白な銀沙灘と向月台が眼前に展開されるので、そのコントラストが好きで、シェイクスピアが、総てこの世は劇場であり、人は単なる役者に過ぎない(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)と言った言葉を思い出しながら、質素で質実剛健な筈(?)の禅寺での舞台を楽しむことにしているのである。
   
   

   青山秀夫教授の経済原論の授業の時、雪が深々と降り始めたので、「銀閣寺にでも行きなさい」と、授業を早く切り上げたことがあり、折角だからと、銀閣寺道を歩いたことがある。
   学生の頃は、まだ、観光客も少なくて、近くなので良く銀閣寺を訪れたことがあるが、大概は、桜の美しい春や紅葉の美しい秋のハイシーズンで、これは、京都に通学している学生の特権として、正確な絶好のタイミングに合わせて、銀閣のみならず、京都の古社寺などの魅力を思う存分楽しめると言うことでもあった。   

   京都と言うと、どうしても、歴史上は、平安時代や安土桃山、江戸幕末の頃が脚光を浴びて、どちらかと言えば、暗くて応仁の乱など京都を焦土と化した悲惨な歴史を背負っている所為か、室町時代の影が薄い感じがするのだが、歴史上の中世時代の不人気と同様ながら、この銀閣寺や金閣寺などを見ても、結構存在感を示しており、私など、最近、能狂言に興味を持ち始めてからは、一寸意識して勉強を始めている。
   義満の金閣と義政の銀閣、そして、そのバックに流れる北山文化と東山文化を考えてみるだけでも、奥深い。
   
   この銀閣寺は、金閣寺より境内が狭いのだが、私は、微妙に変化する池畔の雰囲気や高台からの境内の展望など、コンパクトながらの自然の営みを観察しながら境内を歩くのが好きである。
   高台からは銀閣や方丈、東求堂などを一望出来て、吉田山の麓に広がる京都の住宅街が見えて、聖と俗の接点が興味深いのである。
   一輪、どこから落ちたのか分からなかったが、真赤な椿が落ちていて、その横の侘助有楽の落ち椿が、苔に映えて美しかった。
   
   
   


   参道を下って哲学の道の角に出たのだが、桜にはまだ早いし、小学生の孫に哲学でもなかろうと思って、何時もなら、哲学の道を川沿いに永観堂あたりまで歩くのだが、この日は、孫に、わが母校を見せておこうと百万遍に向かった。
   孫に、京大を目指せと言っているのだが、何故か、無理だとか何とか言って抵抗するので、お祖父ちゃんでも行けたのだから行けない筈がないと家族も後押しをすると素直について来たので、久しぶりに、京大の構内を散策した。
   学生の雰囲気を味わわせるためには、生協の学生食堂で昼食を取るのが一番良いと思って、学生や先生に交じって、食事をした。
   帰りに、記念にと思って、生協の売店に行って、マグカップや文具など、京大グッズを選ばせて買ってやった。
   フィラデルフィアのわが母校ペンシルベニア大学のショップには、ウォートン・スクールの帽子やシャツなどまであって、色々な種類の大学グッズを売っているいるので、これまでにも、買ってやっているのだが、京大の場合には、東大と比べても、大学グッズの品揃えは貧弱である。
   ところで、構内や出入り口に立てられた派手な立て看板だが、我々の時には、米帝国主義打倒だとか革マル派のプロパガンダだとか政治闘争が総てであったが、今は、同好クラブや研究会の勧誘看板ばかりで、正に、今昔の感である。
   
   
   
   東一条からバスに乗ったのだが、京都駅行きだったので、大変な混みようである。
   観光客は勿論学生や京都市民も乗っているのだが、結構、老人も乗っているけれど、まず、シルバーシートにも近づけない。
   しかし、老人たちは困っているようでも文句を言うでもなく、毎度のことだと言った感じである。
   それに、京都市バスの運転は、極めて乱暴で、私の場合、バスに乗ることは殆どないので、関東でもこうなのかは分からないが、気を付けていないと、なぎ倒されてしまうし、シルバーシートを必要とする人など、乗っては危ないと思う程である。それに、条里制の碁盤目十字路ばかりだから、何回も止まる。
   今回知ったのだが、市内の限定区間内に限って、500円均一の市バス専用一日乗車券カードがあるのが有難い。

   普通は五条坂を清水へ上るのだが、この日は、松原通りから清水坂を上って、三年坂の入り口に向かって歩き、仁王門についた。
   三叉路の七味屋本舗まで上るとほっとするが、それから仁王門までの道がごった返していて大変である。
   仁王門前の紅梅が花盛りで、朱塗りの仁王門の赤と真っ青な空に映えて、被写体になるので、記念写真を撮る人が多い。
   下からは、鐘楼、三重塔などが見える程度で、本堂や舞台は、その裏手にある。
   
   

   結局、清水寺に入ったのは、私と孫だけだったが、舞台や音羽の滝、そして、遠くに見える京都市内の風景などに興味を持ったようであった。
   この日は、本堂の内陣まで上がっのだが、大体、多くの人は、孫と同じで舞台とこの寺の名前の由来でもある音羽の滝くらいにしか興味を持っていないようである。
   桜や紅葉の季節には、清水寺の魅力が倍加するのだが、この日は、適当に殺風景な風景を眺めながら、順路沿いに境内を回って下山した。
   
   

   
   その後のコースは、三年坂、二年坂、八坂の塔を左手に見て、ねねの道を石塀小道に左折して、八坂神社を通り抜けて、四条大路に出た。
   町並保存がかなり徹底していて、京都でも、観光に耐え得る散策コースだと思うのだが、孫は、そこに立ってと言ったら、素直に写真を撮らせていたが、これは、何十年も前に、私が好んで歩いた道で、あの頃は、もっと静かだった、京都は、大学で勉強する以上に得るものが多くて、学生生活を送るのには、最高の環境だと思うと言ったら、頷いていた。
   もう一度、花見小路に入って、昼の一力の前に立ったが、閑散としていた。
   
   
   
   
      
   

   
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わが庭:コゲラが訪れて来た

2013年03月30日 | わが庭の歳時記
   小鳥が直立した木にとまってしきりに幹をつついている。
   よく見ると、キツツキの一種であるコゲラであった。
   何故、気づいたのかと言うと、以前に八ヶ岳に出かけた時に、この鳥を見て不思議に思って、鳥類図鑑を見ていたので、知っていたのである。
   キツツキのなかでは、最も小さい種類の鳥だと言う。

   二階の窓から見ていたので、早速、カメラを探して、窓辺に着いた時には、どこかに消えていた。
   暫くすると、木の茂みから現れて、忙しなく小枝を渡り始めた。
   二羽飛んで来たのだが、一羽は見えなくなり、残った一羽は、非常に敏捷に枝から枝に飛び渡って、適当な木にとまると、幹をつつきながら、少しずつ下の方に向かって下りて行き、また、別な木に飛んで、同じことを繰り返し続けている。
   

   このカメラには、何時も300ミリの望遠レンズをつけているので、かなり遠くても被写体として捉えることが出来るのだが、激しく移動するので、ピント合わせが大変である。
   それに、木の茂みの中を動き回るので、木の葉や枝が邪魔になり、中々、写真にならない。
   ほんの4~5分、わが庭にとどまっていたのだが、二羽揃って、公園の桜の木の方に飛んで行った。
   コゲラも、メジロとおなじように、敏捷に飛び回り、必ず二羽一緒に行動しているのだが、シジュウカラも同じで、小さな小鳥は、番なり、小集団を作って移動するのであろう。
   
   

   ところで、毎日、わが庭や近所にきて、鳴き続けているウグイスは、同じように小さな小鳥で、非常に敏捷に枝から枝へ渡り歩くのだが、何時も一羽での行動のようで、高い木の上を非常に早く動き回るので、私など、写真には撮れそうにない。
   私の庭を訪れて来た鳥では、シメ、ジョウビタキ、ツグミ、モズ、キジバトなどは、一羽の単独行動で、ムクドリやヒヨドリなどは良く分からないが、単独ではなさそうである。
   しかし、わが庭に、色々な小鳥たちが訪れて来てくれるのを見ていると、非常に嬉しくなり幸せを感じる。
   先日、佐倉城址公園で、バードウォッチングの仲間たちが、双眼鏡を使って小鳥たちを観察していたが、居ながらにして、小鳥たちの営みを眺められるのも、日頃、庭の維持管理に努力している為もあろうと、自己満足している。
   
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佐倉城址公園の桜満開

2013年03月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日の日経朝刊に、佐倉城址公園内の歴博のロビーから写した額縁に入ったようなライトアップされたソメイヨシノの写真が掲載されていたからと言うわけでもないであろうが、平日にも拘わらず、春休みの所為か、城址公園は、桜見客で賑わっていた。
   何時もなら閑散としている駐車場も満杯で、公園内の仮設第二駐車場もほぼ満車で、くらしの植物苑前の大きなグラウンドも車で一杯であり、明日からの週末はどんなに混雑するのか、私など、こんなことは久しぶりの1~2度の経験で、殆ど静かな城址公園しか来ないので、他人事ながら気になった。

   さて、その額縁に入ったように見えるソメイヨシノの大木の雄姿であるが、歴博のエントランスを入って、階下にある左手のミュージアム・ショップの上の巨大な7枚のガラス窓越しに見ると、口絵写真ように見える。
   今日は、曇り空で、真っ青な空をバックに出来なかったので、一寸、ぼやけた桜風景になってしまったが、晴天に恵まれると、桜が輝いて、実に美しいパノラマが展開される。
   
   メインのソメイヨシノは、次の写真だが、左右の地面に照明器具が3基ずつ設置されていて、夜にはライトアップされるのであろう。
   新聞には、4月1~7日の午後5時から7時まで一般公開すると書いてあったが、今日も既に少しずつ散り始めていて、恐らく、この週末が最盛期で、散り際の潔いソメイヨシノが、そんなに持つわけがない。
   私など、城址公園の桜を見る時には、真っ先に、このパノラマ風景を見に行くのだが、注意をして眺めたり写真を撮ったりする人は殆ど居ない。
   
   
   私が、何時も歩く散歩道は、姥が池まで下ってくらしの植物苑横のグラウンドの手前を右手に折れて、城址公園に入って、茶室を右に見て本丸跡の広場に出るコースである。
   茶室手前の広い遊歩道には左右に巨大なソメイヨシノが沢山植わっているのだが、千鳥ヶ淵のように垂れ下がったり左右に広がっているのではなく、大きく天に向かって伸びていると言う感じで、見上げないと桜の良さが分からない。
   私は、ソメイヨシノの単調な美しさには、あまり興味がないので、桜の季節には、色が変わっていたり姿かたちが違っている他の種類の桜を探して見ている。
   この城址公園には、かなり、色々な種類の桜の木が植えられているのだが、今日、気づいたのは、ウザク、ミケルマガエシ、ヤエムラサキザクラ、オオカンザクラ、ギオウジギジョザクラ、シロタエ、それに、ピンクの枝垂れ桜くらいであった。
   シロタエと枝垂れ桜は失敗したのでダメだが、夫々写真で示すと次の通りである。
   
   
   
   
    

   このブログで、何回か書いている筈だが、殆ど、観光客が関心を持っていないのだが、この城址公園には、かなりの八重桜が植わっていて、この桜が満開になる時期は、1週間くらいずれるけれど、その頃には、むしろ、他の色々な桜も開花して、桜を鑑賞するためには、ソメイヨシノの派手さはないが、一番良い時期だと思っている。
   さて、私の関心は、やはり、椿で、この公園には、沢山の藪椿が植えられていて、殆どが、巨大な大木に成長している。
   上を見上げて歩かないと分からないのだが、幸い、地面には、落ち椿が散乱しているので、椿の存在が分かる。
   この千葉には、薄紫のスミレが群生してあっちこっちに咲いているのだが、その上に落ちた落ち椿も、風情があって良い。
   
     

   本丸跡の広いオープンスペースには、家族連れや老人グループ、婦人グループなどが、輪になって花見を楽しんでいる。
   流石に、酒にうかれてメートルを上げたり、下手な歌をがなっている集団はいなくて静かだった。
   しかし、幾組かの老人夫婦が、名前を知らないのだが、テニスのラケットの柄を短くしたようなラケットで、かなり、重くて堅そうなボールをバトミントン風に打っていて、下手な所為もあって、あっちこっちにボールを飛ばして、座って花見をしている子供に当たりかけた。
   昨日、千代田区か何かで条例を改正して、子供の体力強化のために一定時間公園での球戯を許すことにしたと報道していて、規制の対象になっているボール遊びを、足腰が十分に動かない老人が、観光客でごった返しているところでするとは如何に危険か。よせばよいのに、気になったので、夫に注意したのだが、わかったふりをしながらも、妻に言えなくて、続けていた。
   別なところでは、中年夫婦が、バトミントン。
   千葉の田舎に来ると、公衆道徳がすたれてしまうのであろうか。
   
   
   
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わが庭:まだまだ咲き始める椿

2013年03月28日 | わが庭の歳時記
   梅が咲き切った庭には、今は、椿が、代わってわがもの顔に咲き乱れている。
   梅や桜は、一輪一輪と言うよりもマスで楽しむ花だが、椿は、茶花として珍重されるように、一輪一輪が鑑賞に耐える花姿であるために、活けて楽しむと言う良さがある。
   私の場合には、新しい花が咲くと、素晴らしい花を見つけて鋏を入れて、数輪ずつ、気に入った花瓶に挿して楽しんでいる。
   日本酒を飲む習慣はないのだが、旅に出ると、生け花に使うために、銚子を買うことが多い。
   一輪挿しにもなるし、時には、数輪アレンジして挿すとと、結構様になるのである。

   さて、先日、わが庭に咲き始めた椿を紹介したが、その後、まだまだ、新しい椿が咲き続けている。

   ピンクで、ほのぼのとした美しさが心を和ませてくれる羽衣。先に、白羽衣が咲いたのだが、この花の豪華な美しさは格別だが、もう一つの紅羽衣は、枯らせてしまって、残念ながら、今は、わが庭にはない。
    
   

   もう一つは、桃太郎。天賜をイメージして買ったのだが、一寸、雰囲気が違うが、美しい。
   それより、ぐっと小さくなって、清楚に咲くのが、春風。風鈴一号くらいの小輪だが、凛とした花姿が良い。 
   
    

      
   鮮やかな赤色に近い濃いピンクの椿が、ピンク賀茂本阿弥。非常に目立つ美しさで、他を圧する雰囲気がある。
   白い花は、タグが取れてしまって名前が分からないのだが、本来の賀茂本阿弥ではなかろうかと思っている。
   花弁がすぐに落ちるのを嫌って、生け花では、この賀茂本阿弥など丸い蕾の状態で使うようだが、実際には、かなり花持ちが良い。
   
    

   変わった色形のブチの椿が、玉霞。この写真は、満開前の状態だが、白に赤い模様が浮いたボールのような蕾が、開きかけて、大きな黄色い蕊を覗かせる頃が、一番美しいと思っている。
   もう、一つ、変わっているのは、玉之浦を親木にして外国で品種改良されて里帰りしたタマグリッターズ。玉之浦のように、白縁がついているが、完全に開くと、フルグラントピンクのように、八重状態の花弁の間のあっちこっちから黄色い蕊が覗くこともあって面白い。
   
   
   
   


   今回、興味深い収穫は、崑崙黒の種を蒔いた実生の苗木に花が咲いたことである。
   沢山、椿が植わっていて、まして、殆ど蕊のない崑崙黒が自家受粉する訳がないので、当然、雄蕊の花粉は、他の種類の椿からだが、その姿は、色こそ崑崙黒には近いが、鮮やかな蕊のついた、紺侘助を大輪椿にしたような一種の黒椿である。
   この崑崙黒に接近して玉之浦が植わっているので、その花粉かも知れないが、いずれにしろ、私の庭で生まれた雑種一代椿である。
   この新種と、崑崙黒の典型的な宝珠型の花姿と、開花しても殆ど蕊のない花を、参考までになれべておく。
   既に2メートルをはるかに越す大きさに育っていて、沢山の花を咲かせるのだが、結実の可能性は極めて限られている筈だが、数年前に、珍しくも一個だけ崑崙黒の種を見つけて植えて置いたのである。
   
   
   

   ところで、わが庭だが、チューリップが咲き始めて、椿の下草として妍を競っている。
   牡丹の蕾が膨らみ始めて、芍薬が芽を出して伸び始めた。
   ユリも立派な芽を力強く伸ばし始めて来た。
   今年は、春の訪れが早いようだが、芽をグングン伸ばし始めたバラも早く咲き始めるのであろうか。
   朝起きて見る庭の変化が面白いのも、春の楽しみの一つかも知れない。
   
   
   
   
      
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春の京都の旅(4)金閣寺、竜安寺、そして、太秦映画村

2013年03月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   第一日目は、金閣寺を目指して、河原町のホテル前のバスストップで京都市営バスに乗った。
   そこからは、石庭の竜安寺が近いので、仁和寺を経て、嵯峨野・嵐山に抜けようかと考えていた。
   旅行前に、まんが日本の歴史全巻を渡して読んでおくようにと孫には言っておいたのだが、どこまで読んだか覚束ないが、とにかく、京都を見せることだと思った。

   私自身、随分、世界中を歩いて来たのだが、ギリシャのパルテノン神殿やフィレンツエのルネサンス芸術など、教科書や図鑑などで見て、憧れて夢に描いた世界を、実地に反芻しながら歩いて来たようなもので、そんな思いの一端を、孫に見せれば、それが一番の勉強になると考えて、理屈を説明するよりは、まず、見せることだ思ったのである。
   鎌倉に住んでいて、日本の歴史的な環境には接する機会も多いし、別な視点から、上方、それも、京都を感じることが大切であると言うことで、私なりに企画した孫の卒業旅行なのであった。

   本来、禅宗のお寺でありながら、何故、全面に金箔をはって、マルコポーロのジパングの象徴のような金ぴかで、光り輝く煌びやかな金閣を、義満は作り上げてしまったのか。
   将軍職を義持に譲った後も、この北山殿で、実質的に政治を取り仕切っていた義満の、いわば、御所であったのが、その死後に、義持が禅寺に変えてしまったために、寺には似つかわしくない(?)建物が残ったと言う訳である。
   金ぴかでなければ、修行僧に放火されて焼失されずに残ったかも知れないと思うと、運命の皮肉が見え隠れして面白いが、京都でも最も豪壮な日本庭園に映える金閣の威風は、流石である。
   そんな複雑な日本歴史の一面を、この風景を見ながら考えてくれれば良いと思ったのだが、孫は、角度を変えながら写真を撮り続けていた。
   
   

   
   竜安寺の池畔を歩いていると、急に、雨が降り出してきた。
   冷たい雨である。
   金閣寺の時には、気づかなかったが、竜安寺の観光客の半数は外人で、中国人が多い他の寺院よりは、白人客が多い感じであった。
   最近、能楽堂に通うことが多いのだが、結構、白人客が来ているのに驚くことがある。
   日本文化の普遍性の一面を示しているのかも知れないと思っている。

   この庭は、枯山水の日本独特の庭で、宇宙空間を表しているとか色々と神秘的な説明がなされているのだが、人夫々の思いで鑑賞することが肝要であろう。
   庭の縦横や石の配置などが黄金律で表現されているとか、築地塀から本堂にかけて段々傾斜して低くなっているとかと言った西洋の技法が採用されていると思えば、また、どこから見ても15置かれた石が必ず一つは隠れていて見えないと言った、完全を嫌って十三夜を愛でる中国の美意識を体現するなど、極めて精神性の高い凄い庭なのである。
   私など、学生時代から考えれば、随分、この竜安寺に通ってきて、この庭に座って、白砂と庭石と対話し続けているのだが、悲しいかな、雑念ばかりで、あられもないことばかりを考えているようで、寂しい限りである。
   庭の手前に、小さな石庭の模型が置かれていたが、蛇足というものであろう。
   
   
   

   娘、すなわち、孫の母が、太秦の東映映画村を見せたいと言うので、急遽、予定を変えて、嵐電に乗り換えて、太秦に向かった。
   NHKの時代物の大河ドラマの多くが撮影される”えさし藤原の郷”などはかなり立派だと思うが、それでも、撮影用の仮設建物の上等なものと言った感じで、ホンモノの歴史的建造物と比べれば、雲泥の差があるので、この太秦の撮影所の疑似空間も、そうだろうと思って期待はしていなかった。
   不思議なもので、同じディズニーランドであっても、本物の素晴らしい古城などの残っているフランスでは、パリのディズニーランドの建物も、他のディズニーランドと比べて、手抜きせずに、かなり、力を入れて本格的に建設されているように思うのだが、やはり、ディズニーは別格であろう。
   入り口を入ったところに、昔懐かしいちんちん電車が展示されていたが、まず、その横に、吉原通り。
   江戸の街では、長屋や旅籠など、庶民の生活を彷彿とさせるセットが並んでいて面白かった。
   娘が、孫に、時代劇扮装の館で、時代劇の扮装をして写真を写そうとしきりに勧めていたが、嫌がって逃げていた。
   世界最強の幽霊屋敷と言うのに入りたいと言ったので、仕方なく一緒に行ったが、いざ、真っ暗な場内に入ると、見たいが怖いと言った調子で私の後から恐々ついて来た。
   中には、幽霊に扮した実際の役者が、異様な姿で飛び出してくるのであるから、気持ちの良いものではなかった。
   沢山団体客や子供連れ客が来ていたが、入場料だけで2200円(子供1100円)と言うのは、どうであろうか。
   
   
      
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春の京都の旅(3)夜の先斗町と祇園

2013年03月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   高瀬川沿いの蕎麦屋で軽く夕食を済ませて、少し時間があったので、京都の夜の賑わいを見るために、散策に出た。
   小学校を卒業したばかりの孫にとっては、良いのか悪いのか分からなかったが、何事も勉強と思って、私の独断と偏見で、コースを決めた。
   高瀬川通りから先斗町に入って、先斗町を南に河原町通りまで歩く。河原町通りを左折れして四条大橋を渡って、南座の前を通り過ぎて、お茶屋一力亭の手前を右に折れて、花見小路を南に下って建仁寺の手前まで歩いて夜の祇園の雰囲気を見る。と言うルートである。

   この口絵写真は、四条大橋からライトアップされた南座を臨んだ景色だが、いつ行っても、このあたりは雑踏で、四条通は観光客でごった返している。
   しかし、京都の人々にとっては、生活圏と言うか商圏が変わってしまったのか、四条河原町の角の阪急百貨店が店じまいして丸井に代わっており、このあたりの商売の賑わいは、京都駅の伊勢丹などに完全に取って代わられてしまった感じである。
   私の学生時代には、まだ、阪急は四条大宮までで、そこから市電に乗って八坂神社前で東大路を北上して東一条まで通っていたのだが、殆ど、今も、風景は変わっていないのに驚く。

   先斗町は、道幅が二間あるかないかの狭い路地で、昔は、お茶屋と言う表札がかかって舞妓さんや芸妓さんの名前が書かれた表札が横に並んでいた古風な佇まいの家が軒を並べていた感じであった。
   しかし、今は、殆ど消えてしまって、料亭やスタンド、飲食店酒場に変わってしまったような気がするのだが、流石に先斗町で、あっちこっちにある下卑た歓楽街と言った雰囲気ではなくて、夫々の店の外観は、工夫を凝らしてかなり凝っていて雰囲気があり、外人観光客も多くて、賑わっている。
   前に、一度だけ、この先斗町の喫茶店でコーヒーを楽しんだことがあるのだが、何故か、学生の頃に、河原町で、クラシック喫茶でモーツアルトなどを聞いたのを思い出して無性に懐かしくなった。
   新入荷のレコードと言う訳で、玄関脇にレコードのジャケットが飾られていたのだが、あの頃、また、歌声喫茶と言うのが流行っていて、そこに行って、皆と合唱するのを楽しみにしていた友がいた。
   
   

   四条の河原町は、出雲の御国が、歌舞伎を起こした故地でもあり、南座の斜向かいの角に、御国の銅像が立っている。
   私は、まだ、南座で観劇したことがないのだが、12月の顔見世興行の時は、京都の着倒れと言うくらいに、京都美人たちが着飾って集うと言うのであるから、大変、華やかな社交舞台が展開されるのであろう。
   大学への行きかえりに、南座前の賑わいを見ていたので、何となく雰囲気が分かる。
   しかし、大阪もそうだが、この京都も、歌舞伎人口が減ってしまって、折角の劇場も、一年の内、ほんの2~3か月くらいしか、歌舞伎が上演されなくて、殆ど他の演劇などを上演しているようである。
   文楽は、まだ、本拠を大阪に残しているが、歌舞伎は、完全に下ってしまった。
   

   南座から八坂神社までの四条通は、両側には、沢山の土産物店や飲食店が軒を並べていて、観光客の賑わいは、四条河原町よりも、ここの方がはるかに多いようである。
   私には、全く興味のない世界なのだが、小奇麗な店が並んでいて、面白そうである。
   途中、おはぎの丹波屋と言う屋台のような雰囲気の店で、桜餅とおはぎを買って帰ったのだが、これが、実に美味しくて、それも、たったの120円だと言うのだから泣かせる。
   以前に、キューガーデンに住んでいた時に、メイド・オブ・オナーズと言う店の独特のスコーンが好きで通い詰めた記憶があるのだが、丹波屋が近くにあれば、いつでも行きたいと思っている。
   京都で面白いのは、漬物屋さんが結構人気があって大きな店を構えている。
   家では、大安の千枚漬でないとと言うのだが、どこの漬物も結構いけるのだが、血圧の高い私には、漬物とは縁が遠くなった。
   

   さて、花見小路の一力だが、仮名手本忠臣蔵で大星由良助が活躍する七段目が有名であるが、実際に大石内蔵助が遊んだのは、伏見の撞木町だったようである。
   しかし、歌舞伎の舞台としては、この一力は格好の場で、その門前に立つと、何となく歴史上の大舞台を感じさせる風格がある。
   舞妓さんが出て来ないかと門前で待つ観光客もあるようだが、この一力から都おどりが行われる祇園甲部歌舞練場手前までの花街で、タイミングが良ければ舞妓さんの姿を見ることが出来るののだけれど、私も、1~2回しかチャンスがなかった。
   一度、都おどりの実に華やかな舞台を見たことがあるのだが、舞妓さんを見るには、これが本筋かも知れないと思っている。
   

   ところで、私は、海外からの要人の接待で、2度ばかり、祇園で舞妓さんを呼んで接客を受けて舞を見たことがある。
   随分前の話なので、殆ど記憶に残っていないのだが、お茶屋さんの手配で、立派な料亭の御座敷に、舞妓さんが来てくれて、酌をしたり舞を舞って見せてくれたりした。
   外人客が興味を持って変な質問をするので、仕方なく無理を承知で通訳をしていたのだが、お蔭で、色々な裏話を聞くことが出来て面白かった。
   今では、全国から舞妓さんを募集しているようだが、当時は、京都人に限られていると言うことであったが、やはり、京言葉や文化的伝統を重んじていたのであろう。
   興味深いのは、タイミングよく、料理が運ばれてくることで、これは、仕出しの料理屋から、頃を見計らって運ばれてくるようで、京都のこの舞妓さんや芸妓さんを交えた接客システムは、場所を提供する料亭と舞妓さんを抱えているお茶屋と仕出し料理屋との絶妙な三業のコラボレーションによると言うことで、文楽の三業共演とも甲乙付け難い、正に、感嘆すべき京文化である。
   それに、信頼関係で総てが成り立っているこのビジネスでは、徹頭徹尾、一元さんお断りで通しているのも当然であると思う。

   ところで、この時、分かったのは、舞妓さんや芸妓さんは、毎日が修業修行の連続で、大変な職業レディであると言うことであった。
   勿論、家庭を持って両立させるなどと言うのはあり得ない話のようで、芸を磨きあげる厳しさは、並の芸人の世界の比ではないと言うことである。
   しかし、一歩仕事から離れると、極普通のヤングレディで、ハワイ旅行の楽しさを相好を崩して語っていた。

   さて、孫には、忠臣蔵と大石内蔵助の話程度はしたが、その他は何も話さなかったので、このショート・ナイト・ツアーをどう思ったか分からないが、この夜の祇園の花街を、子供連れの観光客が結構いたので、ほっとしている。
   
   
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わが庭:椿が一気に咲き始めた

2013年03月25日 | わが庭の歳時記
   5泊6日留守をして帰ってきたら、私の庭が様変わりしていた。
   綺麗に放射状に波打っていたピンクの枝垂れ梅の花が消えてしまっていたのだが、代わりに、多くの椿が一気に開花していた。
   満開になっていたのは、曙椿、さつま紅、小磯、港の曙、天ヶ下、乙女椿、それに、何種類かの侘助椿で、大分、落ち椿が地面を埋めていた。
   地面から顔を出した菫の葉っぱの上に小磯椿の花弁が落ちているの等は風情があって良いのだが、曙椿のように大輪の厚ぼったい花弁がべったり地面に落ちて、褐色に色変わりして重なり合っている落ち椿は、頂けない感じで、その趣はそれぞれの椿によるのが面白い。
   
   

   かなり大輪で咲き始めたのは、四海波、岩根絞、花富貴、昭和の曙、白羽衣、蜀光錦。
   
   
   
   
    
   

   少し花弁が小さくて一寸変わった椿は、
   花弁が細長く切れ込んで鳥の尾のような伸びている孔雀椿。
   花弁の周りが白縁の玉之浦。
   黒光りのする宝珠型の花弁を持つ崑崙黒。
   2~3センチの小輪の風鈴一号。
   
   
   
   
  

   私の庭には、洋椿も何本か植わっており、咲き始めたのは、
   切れ長のピンクの花弁が美しいチューリップタイム。
   2センチくらいの花弁でベル型の花が咲くウエディングベル。 
   ピンクの八重で、花弁の間から黄色いしべを出す小輪のフルグラントピンク。
   ピンクの小輪のワインガーベル。 
   ピンク小輪のサルト、かぐや姫とも称する匂い椿なので外国種ではないかも。
   
   
   
   
   

   植え場所がないので、まだ鉢植えだが、鮮やかな赤い凛とした美しい花弁の赤西王母が、また、咲きだしてきて美しい。
   私の庭には、ピンク系統の椿が多いのだが、この頃、やや、濃い赤色のラッパ咲きの小磯や、この赤西王母のような花に興味を持ち始めている。   
   
   

   黒椿は、一番遅れて咲くのだが、まだ、蕾の固い椿も残っている。
   早いのは、秋の初めから咲き始めるけれど、やはり、椿は字の如く春の木、春の花である。
   椿が好きで、園芸店に行くと真っ先に目につくのが椿。大切に育てると、素晴らしい花を咲かせて私を魅せて、自然の奥深さと優しさ温かさを教えてくれている。
   

(追記)使っている縮小ソフトが悪いのか、椿の色が非常に悪くなってしまって一寸残念。
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春の京都の旅(2)京都の朝のコーヒー・タイム

2013年03月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   欧米での出張や旅行の時には、ホテルで朝食を取るのが普通で、行く先々の地方色豊かな朝食が楽しみであった。
   一番印象深いのは、やはり、イングリッシュ・ブレックファーストで、オーダーすれば色々な種類のディッシュが一挙に出て来るたっぷりとした朝食を取ると、昼食の時間がずれたり多少ミスっても心配なく旅が続けられたので、非常に重宝した。
   私がメンバーであったロイヤル・オートモビル・クラブのイングリッシュ・ブレックファーストは、トップクラスの英国人紳士の定番であるから、典型的なものであったのであろうが、とにかく、ロンドンでの定宿でもあったので、古色蒼然とした雰囲気総てが、私のイギリス生活の貴重な一部でもあった。
   
   ジュネーブ、ローマ、ウィーン、ベルリン、コペンハーゲン、オスロ、色々なところでのブレックファーストは、案外、上等なホテルだと、コンチネンタルやアメリカンと言ったコスモポリタンの朝食で、面白くなかったのだが、中には、その地方色豊かな朝食に出くわすことがあったりして、楽しみでもあった。

   さて、京都だが、出張の時には、河原町のホテルに宿泊することが多かったので、朝、河原町から三条通りを西に向かって、堺町通を下った所にあるイノダコーヒー店(口絵写真)に出かけて朝食を取ることにしていた。
   その手前の三条通りに少しモダンで綺麗な三条店があるのだが、開店時間が遅かったし、大正時代の倉庫を店舗にした本店の古い雰囲気の方が好きだったので、ここに通っていた。

   この店に入ったところに小さな坪庭があって、その奥がコーヒーショップになっているのだが、興味深いのは、入った一番最初の右手奥の大きな円形テーブルが、地元の常連客の指定席になっていて、列をなして待っている観光客を尻目に素通りして、顔見知りと挨拶を交わしている。
   今回行った時には、殆ど引退した老人客が大半で新聞を広げていたが、以前には、あのあたりの商売仲間の情報交換の朝会のような雰囲気で、一寸、緊張したような雰囲気があった。
   あのロンドンのシティのロイズの保険業務もコーヒーショップの集まりから始まったと言われているのだが、いわば、このイノダコーヒーが、旦那衆のミーティングの場を提供していたのであろう。
   その所為かどうかは知らないが、開店時間が朝の7時からで、喫茶店としては異例だが、私には好都合であった。
   
   
   私がオーダーを入れるのは、あまり拘る方でもないので、京の朝食(開店~11:00am)(ジュース・サラダ・タマゴ・ハム・パン・コーヒーまたは紅茶)と言った定食にしている。
   変わっているのは、コーヒーで、ミルクと砂糖をお任せにすると、これらをミックスした出来あがりのコーヒーを持ってくることで、最良のミックスと言う訳であろうが、コーヒーの味や風味など全く分からないことである。
   しかし、これが、”コーヒーは、開業当時より当社コーヒーにはミルク、砂糖を入れて お出ししております。”と言う のがこの店のポリシーであるから、堂々と、この店のブランドと言う訳である。
   面白いのは、スプーンに5ミリくらいの小さな角砂糖が一つ乗せられて出て来ることで、これが、結構味を左右する。
   この日はかなり混んでいて、広いメインルームではなく、離れの小部屋であったが、いずれにしろ、周りは観光客ばかりなのだが、室内に音楽などが流れていなくて静かなのが良い。
   

   もう一つ、京都の町で、見かけたら入るコーヒーショップが、小川珈琲で、今回も、ホテルからすぐの高瀬川沿いの三条店に出かけた。
   小さなモダンな感じの店で、カウンター後ろの棚が中々清楚ながらも美しいインテリアとなっていて、メニューに合わせてコーヒーカップを選んでいるのが良い。
   コーヒー店では、その店のブレンドコーヒーを頂くことにしているのだが、まず、ストレートで味わって、その後、クリーム、砂糖と言う順序で味を確認する。
   どのようにコーヒーを抽出するのか見ていないので分からないのだが、老年のマスターかマダムが、サイフォンを温めてことこととコーヒーを淹れる店が、地方に行かなければ見られなくなってしまったのも時代の流れであろうか。
   
   

   JTBのガイドに、三条通りから寺町を上がると老舗のスマート珈琲店があると出ていたので、出かけてみた。
   開店一時間後くらいで、タイミングが悪くて、寒中を待たされたので帰ろうと思ったのだが、店先には、古いコーヒーミルや焙煎機などが置かれていてそれなりの雰囲気があったし、家族が待とうと言うので辛抱した。
   入り口を入れば、奥の厨房を見渡せる小さな店で、客は総て観光客のようであった。
   オーダーを取りに来た中年の女性ウエイトレスは、まちまちのメニューをメモも取らずに受け答えして、間違いなしに品物を持ってきたので、今の日本では珍しいと思って見ていた。
   ここも同じなのだが、何故か、コーヒーが後で遅れて出て来るので、一寸、フレンチトーストを食べてしまった後の写真になってしまったのだが、癖のないコーヒーであった。
   この店は、特にモーニングメニューがあるわけでもなく、コーヒーは、スマート・オリジナル・ブレンド一本で、店もこの寺町の本店だけと言うイノダや小川と違った老舗珈琲店のようである。
   少し離れたところに上島珈琲店があったが、私は、毎朝、UCCのブルーマウンテン・ブレンドをメリタで淹れて飲んでいるので、ここが合ったのかも知れない。
   
   

   都合4泊したので、最終日には、河原町を三条通りに入ったところにある進々堂に行くことにした。
   京大時代に、北門のそばにあった進々堂のコーヒー店で、だべったり本を読んだりして過ごした時期があったので、今回は、行けなかったこともあって、懐かしさも手伝って出かけたのである。
    1930年 3月に、京都大学北門前に京都で初めての本格的フランス風喫茶店「カフェ進々堂」(現在別法人)を建築したと社歴にあるので、あの店は、もう、80年以上の歴史があるのである。
   知らなかったのだが、初代はパンつくりの修業のためにパリへ渡ったとかで、パン屋が最初らしく、店の半分は、パンの販売コーナーになっていて、色々な珍しいパンが沢山並んでいた。
   それに、セットメニューをオーダーすると、ウエイトレスが、色々カラフルなパンの入った籠を持ってきて好きなパンをトレーに置いてくれるので、興味深かったし、コーヒーのお替り自由も有難いサービスである。
     
   

   さて、今回の京都旅で、4か所の珈琲店で、朝食を取ったのだが、一緒した孫はコーヒーが飲めないのでジュースで通していたのだが、珈琲店での朝食の雰囲気は分かったと思う。
   私も、随分色々なところで、コーヒーを味わってきたが、スターバックスが生まれるまでは、アメリカにもヨーロッパにも、日本のように気楽にお茶を楽しむことが出来る喫茶店やコーヒーハウスなどはなかった。
   大概は、ホテルのコーヒーショップやロビーなどで、あるいは、ファーストフードの店で飲むくらいであったが、ウィーンやブダペストなどハプスブルグ王朝の都市では、カフェ文化が育まれていたので、素晴らしいカフェがあって、憩いのひと時を存分に楽しむことが出来た。
   私は、出張でも旅行でも、ウィーンでは、切符が手に入れば必ずウィーン国立歌劇場に行ってオペラを見ることにしていたので、ホテルは、すぐ隣のザッハーなどにしていた。
   そのために、これも並びのカフェ・モーツアルトに良く出かけて、世紀末の良き時代のウィーンの香りを楽しんでいた。
   最初は、ザッハートルテにウィンナ・コーヒーと言った定番だったが、慣れて来ると一寸変わったメニューを楽しめるようになった。
   ブダペストでも、随分素晴らしいカフェに、地元の仕事仲間が連れて行ってくれたのだが、どこへ行ったのか記憶さえ薄れてしまったのだけれど、やはり、コーヒー文化は、良き文化の香りの象徴なのである。
   
   勿論、いくら雰囲気があると言っても京都の珈琲店は、雰囲気と言い格調の高さと言い、これらハプスブルグのカフェとは雲泥の差ではあるのだが、旅の途中に、非日常の雰囲気を味わうのには貴重な存在である。
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春の京都の旅(1)桜開花前の花

2013年03月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   昨日、京都の桜の開花宣言があったようなのだが、東京は満開だと言うのに随分遅い。
   同じ日に、清水寺を訪れたのだが、僅かに、枝垂れ桜がちらほら咲いている程度で、桜の蕾は固かった。
   この写真は、三条大橋から賀茂川の東岸を望遠した風景だが、殆ど桜は咲いていない。
   賀茂川の岸辺には桜並木が延々と続いているので、春の散策には非常に良いのだが、シーズン前の時期なので、河原で遊ぶ人影も少ないし、四条河原町近辺の人ごみは大変だが、他の観光地は比較的すいている。
   
   

   今回の京都旅は、孫の小学校卒業記念にと思って、卒業式の後、鎌倉を離れたので、一寸、タイミングがずれて、一番、花の少ない春のシーズンに当たってしまった。
   本当は、我々が住んでいたイギリスや母親が過ごしたオランダを見せたくてヨーロッパ旅を計画していたのだが、一週間続けて時間が取れなくて、4泊5日の京都旅に変わってしまったのだが、何回か両親とは訪れててはいるが、私が大学生活を送って最もよく知っている京都を、私自身で案内して、日本のことを教えたいと思ったのである。

   着いた日に、木屋町を歩いていて、秀次の墓所である瑞泉寺の門を入った正面の紅梅が実に美しかったので、翌日、梅の名所である北野天満宮を訪れたのだが、残念ながら、既に、満開時期からは大分経ってしまって、殆ど、散ってしまっていたのだが、同じ種類の八重の紅梅や何種類かの梅には、まだ、綺麗な花がついていたのでいくらか写真を撮ることが出来た。
   梅も桜も、花の時期は非常に短くて、非常に儚いのだが、それだけに、満開に咲くと美しくて感動的である。
   
   
   
   
   
   梅と言えば、清水寺の仁王門の右手前の紅梅が、鮮やかな朱塗りの仁王門に映えて輝いていた。
   この寺も、今は、殆ど花はなく、本堂横の椿や境内にちらほら植わっている藪椿の赤が目立つ程度で、彩がないとやはり、豪壮な舞台も映えず形無しである。
   清水の参道を下って、三年坂に入ると、急勾配の石段の左手に聳える枝垂れ桜の花が綺麗に咲いていて、夕映えに光輝いていた。
   通りかかった乙女のグループが写真を撮ってくれと携帯を渡されたのだが、石段が陰っていて、人物が暗くなっているので、白く輝く桜とのコントラストが強すぎて、フラッシュがないと上手く写らないので困った。
   
   
   
   

   今回は、美しい京都の桜を楽しめなかったのだが、ソメイヨシノが主体の東京とは違って、関西は、比較的桜の種類が多くて、御室のサトザクラまで、かなり、桜の時期が長いので、来月、機会を見て訪ねてみたいと思っている。
   ところで、帰りの車窓から、東京近辺の満開の桜を眺めていたのだが、東京から少し離れて成田に向かうと、まだ、満開には程遠く、私の近辺も、大分咲き出してはいるのだが、満開にはまだ時間がありそうである。
   昔、上野から仙台まで、常磐線で北上したことがあるのだが、東京では満開に咲き乱れていた桜が、ほんの30分刻みくらいで、少しずつ蕾の数が増えて行って、仙台に近づくにつれて、開花から少しずつ時期がずれていく桜開花模様を見て、面白いと思ったことがあるのだが、ほんの僅かな自然現象の違いで、花の動きが違ってくるのである。
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わが庭:ツバキが一気に活気づく

2013年03月18日 | わが庭の歳時記
   この口絵写真のツバキは、小磯。
   ある園芸店の説明には、「鮮明な紅色、一重筒咲き12月咲き」と書いてあるのだが、私の庭の小磯は、既に2メートルほどの大きさになっていて、毎年、沢山の花をつけるのだが、今頃からが、花季である。
   侘助ツバキの雰囲気であるが、しっかりした深紅の花弁に艶があって凛とした美しさで、黄色い花粉が花弁に落ちて風情がある。
   惜しむらくは、メジロが来てつついたり、手で触れたりすると、すぐに花弁が落ちてしまうことで、侍が嫌う典型的な椿であろうが、最も美しい時に散るので、地面に落ちて夕日に映えた落ち椿は、実に、美しい。
   

      
   曙椿が咲き始めて大分経つのだが、やはり、小鳥たちが蜜を求めてやって来たり、最近の強烈な春の嵐にあうと、繊細な淡いピンクの花弁が傷んで黄変する。
   しかし、この木は、ツバキのなかでも成長の早い木で、ぐんぐん大きくなって、3メートルくらいの大株に育っていて、ほんの数年前まで、花が数輪しか咲かなかったのが不思議なくらいである。
   蕾のうちに切って、花瓶に活けておくと、一気に花を開いてコーヒーカップのソーサーくらいに広がって、部屋が明るく華やかになる。
   二枚目の写真の真ん中の木が曙で、その下の赤い椿がさつま紅であり、右手のピンクが椿が匂い椿の港の曙。
   やはり、曙の蜜は濃厚で、テーブルにびったりと着くと取れないくらいで、ヒヨドリがアタックしてくるのが良く分かる。
   
   
     
   

   何故かヒヨドリに花弁を食べられるのが、天ヶ下なのだが、赤と白の斑が目立つのであろうか。
   比較的成長の遅い木である。
   逆に成長の早いのは、小さなピンクの花がびっしりと咲くワインガーベル。
   乙女椿や小公子や紅妙蓮寺は、咲き続けており、菱唐糸や春風が咲き始め、四海波や白羽衣や昭和の曙の蕾が膨らみ始めた。
   名札のタグがはずれて、名前の分からない椿も咲き始めているので、今年は、ソメイヨシノの開花が早まったように、すこし、春の花の季節が前倒しになりそうである。
   
   

   草花は、クリスマスローズが満開で、スノードロップが咲き始めて来た。
   チューリップやヒヤシンスの蕾が顔を出し始めた。
   牡丹は、新芽の先に丸い小さな蕾をつけ始めてきており、芍薬は、地面から茎を伸ばして葉が出始めている。

   バラは、勢いよく新芽を出して、葉が広がり始めた。
   今回は、念入りに消毒や薬剤散布を行っているので、今のところ、黒点病など病気の気配はなく、ひとまず安心しており、一寸早いかも知れないのだが、庭植えのバラには液肥を与え始め、鉢植えには、追肥を施した。
   霜焼けで新芽が枯れたベルサイユのばらは、まだ可哀そうな状態だが、別のところから新芽が芽吹き始めたので、まずまずだと思っている。
   毎日、春の嵐が吹き荒れているので、ツバキなどの鉢がコロコロ転がって、いくら起こしてもダメで困っているのだが、春は、正に駆け足でやって来ており、花たちが必死になって成長を始めている。
   
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国立劇場三月歌舞伎・・・「隅田川花御所染」

2013年03月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場は、今月も通し狂言で「隅田川花御所染」を上演している。
   鶴屋南北の作品で、清玄桜姫物を脚色した作品とかで、恋に狂った清水寺の僧清玄を、当時人気絶頂であった女形・岩井半四郎の乱れた僧姿を見たくて、清玄を女にして、女清玄を主役に書き換えたのが、今回の歌舞伎だと言う。
   
   清玄桜姫物語は、清玄が清水寺で、桜姫を見染めて言い寄るので寺を追放されるのだが、桜姫には相手にされず振られる。さびれた庵室に住んでいると、そこへ桜姫が偶然来合わせ、清玄は桜姫に再び恋慕の情に燃えてアタックするが、桜姫の家の奴に殺される。恋に狂った清玄は、死してなお桜姫に執着し幽霊となって現れる。と言う話である。
   ところが、これだけでは、簡単すぎて芝居にならないので、お家騒動や隅田川物などあっちこっちの逸話や話をくっつけて、この「隅田川花御所染」を作り上げたと言う。
   凄惨でオドロオドロシイ話は、南北の定番だが、とにかく話が複雑で込み入っていて、何の準備もなしに一寸見では、筋が中々追えなくて、理解に苦しむ。

   今回の舞台は、50代の福助と錦之助と翫雀が主体で、、女男蔵、宗之助、松也、新悟、それに、ぐっと若くなって、福助の子供・児太郎、錦之助の子供・隼人などが準主役を演じるなど、次代を担う若手が活躍しているので、台詞を忘れたり足腰が怪しい大御所の舞台とは違って、ある意味では、非常に清新でパンチが効いていて面白い。
   しかし、江戸時代でも、公演回数がそれほど多くはなかったと言う南北の複雑な芝居であるし、看板スターの枚数の不足か、観客数は、半数くらいで、閑古鳥が鳴いていて寂しい。
   舞台も、華麗でスペクタクルあり、大いに見せ場もあって、流石に、国立劇場の歌舞伎だけあって意欲的な素晴らしい舞台なのだが、惜しい限りである。

   ところで、私自身も、後で、ウイキペディアを見て、多少、筋が詳しく分かった程度で、ぶっつけ本番で見たので、それ程、細かいニュアンスなどは分からなかった。

   入間家の姫である花子の前(福助)が、許嫁の吉田松若丸(隼人)が出奔して居なくなったのでこの世に亡き者と諦めて出家する。
   ところが、野望を抱く松若丸は、入間家を相続することになった花子の前の妹・桜姫(児太郎)の許嫁に成りすまして現れて、二人は慣れ親しむ。
   一方、清玄尼となった花子の前は、偶然に松若丸に会って出家の身でありながらも契ってしまい、それがあられもない夢であったことを知り、恥じて清水の舞台から飛び降りて気絶している。ところが、それを見つけた松若丸に、口移しで水を受けて助けられる。
   惚れ薬効果を仕組まれた草履を履かされた花子の前、すなわち、清玄尼は、益々、松若丸に恋の情念を燃やして、激しく迫り後を追う。
   追放された清玄尼が住んでいる鏡が池近くの妙亀庵に、花子の前に恋い焦がれていた猿島惣太(松也)が現れて女になれと迫るが、清玄尼が抵抗するので、切り殺して井戸に沈める。清玄尼は、人魂として現れる。
   大筋は、そんなところだが、桜姫の恋模様、お家乗っ取りを策する局の岩藤、翫雀演じる阿闍梨・僧桜ン坊、錦之助演じる忠臣下部軍助等々多彩な人物が登場してサブテーマが展開され、隅田川物語まで登場すると言うサービスぶりだが、南北のオリジナルからは相当省略があって、一部脚色されている。
   
   最後は、蛇となった凄い形相の清玄尼と暫の團十郎ばりの勇ましい井出達をした翫雀の粟津六郎俊兼と押し戻しで対決し、清玄尼は、釣鐘の中に消えて行くと言う、何が何だか分からないような結末で、とにかく、あっちこっちの歌舞伎や能の舞台をちゃんぽんにしたような面白い歌舞伎であった。
   ロンドンで、シェイクスピアに入れ込んで真面な戯曲を楽しんできた私にとっては、とにかく、芝居の鑑賞法を根本から変えてしまわないと、おかしくなるような芝居だが、しかし、それなりに興味深くもあり、別な楽しみ方が出来るのが面白い。

   品格のある美しいお姫様が、邪恋に翻弄されて懊悩してのた打ち回る清玄尼となり、蛇となって華麗に激しく舞うと言う福助の独壇場の舞台だが、花道の七三で、頭巾がずれ落ちて見せる坊主頭の生々しい色気や夢の中のしっぽりとした濡れ場など、ハッとするシーンを見せてくれて、中々素晴らしく、福助座頭の風格十分である。
   何時も大体良い男の役の錦之助が、今回は、大かたきである粂平内左衛門を演じて新境地を開いた感じで非常に良かった。
   同じく、何時もは若衆や女形の松也が、実に威勢の良い大かたきの猿島惣太を演じているのだが、男前の中々良い仇役で、清玄尼を甚振り、最後には、嬲り殺すと言う実に凄惨な場を、見せ場十分に演じていて楽しませてくれた。
   この殺戮場で、惣太の刀を素手で握った清玄尼の手先が切れて、10っ匹の白蛇になってノタウツと言う凄いシーンがあって、黒衣の活躍が光る。
   翫雀の間延びした一服の清涼剤のような大らかな坊さんと、全くジャンルの違った荒事の世界を、器用に演じ分けて、魅せてくれた。

   児太郎と隼人の二世コンビは、溌剌とした清新さも魅力だが、流石に、親の演技を見て勉強したのであろう、夫々に工夫と努力の後が感じられて、上手いと思った。
   隼人の一寸ニヒルな表情が印象的で、児太郎の育ちの良さと言うか嫋やかな姫姿が中々良い。
   とにかく、今回の歌舞伎は、若い役者たちが、非常に意欲的な素晴らしい舞台を務めていて、その器用さと素晴らしい演技力に感動しながら見せて貰った。
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ネスレのコーヒーメーカー・マシンのイノベーション

2013年03月16日 | 生活随想・趣味
   雑誌で見たのかテレビで見たのか記憶はないが、スターバックス並のエスプレッソやカプチーノ、ラテマキアートまで、瞬時に家庭で抽出できるマシン「バリスタ」と言うのが、ネスレから出ていると言うので興味を持った。
   円筒形のロボットが立ったようなスタイルのバリスタのほかに、円形のマシーンの真ん中にコップを置く形の面白いのが発売されたと言うので、よく分からないままに、ネスレのホープページを立ち上げて、口絵写真の「ネスカフェ ドルチェ グスト サーコロ 」と言うのを買ってみた。
   インターネットでオーダーを入れたら、間髪を入れずに、2日後に送られてきた。

   確かに、コーヒーの抽出は簡単で、プラスチックのタンクに水道水を入れて、特製のコーヒーなど材料の入ったカプセルをマシーンにセットし、レバーを引くだけで、ほんの1~2分で、ラテマキアートが出来上がる。
   レギュラーブレンドやエスプレッソのように材料が一つの場合には、一つのカプセルで済むのだが、カプチーノのように、ミルクとコーヒーがブレンドされる時には、二種類のカプセルが必要だが、全く動作がない。
   味などは、スターバックス並かどうかは個々人の趣味テイストの問題であろうが、それ程、問題にするほどではなく、瞬時に手元で、直に、カプチーノが頂けるのが良い。

   私のイギリスの友人のジムは、メカ好きのエンジニアだったので、随分前から、高級なコーヒーマシンを買って、エスプレッソなど好きなコーヒーを煎れていたが、簡単だと言っていたが、毎日となると、私には、一寸無理であった。
   今回のこのサーコロは、使ったカプセルだけ捨てて、新しいのに変えるだけなので、何の手間もいらない。
   問題は、市販のコーヒーや自分の好きな豆を焙煎してなどと言ったことは出来なくて、ネスレ特製のカプセルを買わなければならないと言うことである。
  カプセル一つの単価が、50円強であるから、カプチーノなら100円一寸、と言う訳だが、高いか安いかは、その人次第だと思うが、安い瓶入りの粉末ネスカフェの愛好者には、高すぎるであろうし、スターバックスやターリーズなどに行っている人にとっては、安くて便利なのかも知れない。

   私は、朝、コーヒーとパンにしているので、必ず、毎朝、コーヒーを淹れている。
   大きめのメリタコーヒーマシンで、UCCのブルーマウンテンブレンドを使って少し多めに淹れて楽しんでいるのだが、これで、十分に毎日重宝していて、全く不満はない。
   しかし、ブレンドやアメリカンは、自由に作れるのだが、バリエーションがない。
   それで、サーコロを加えたと言うことである。


   時間のない時などには、ダージリンのティーバッグで済ますことがあるが、今度からは、このサーコロを使えば良い。
   どこで、このネスレのコーヒーマシンが開発されたのかは知らないが、やはり、ヨーロッパかも知れない。
   メリタもドイツの会社のようだが、以前には、日本製のコーヒーメーカーマシンを使っていたのだけれど、あまり満足できなかったので、さすがに、ネスレとメリタには、飲食文化に拘るヨーロッパの気風が現れていると思った。

   私は、パウダー状の粉末コーヒーが嫌いだったので、ネスレのコーヒーには一切関心がなかったし、飲まなかった。
   いくら違いが分かる男とテレビで宣伝されても、粉末は粉末であって、他の飲料でも、粉末には手を出さなかった。
   

   日本の喫茶店のコーヒーは、やはり、コーヒー文化として、それなりに思い入れがあって、恐らく、まともなコーヒー店でのコーヒーの味は、世界屈指ではなかったかと思う。
   アメリカでは勿論、ヨーロッパでも、相当高級なホテルなりレストランなどではない限り、日本の喫茶店並のコーヒーは飲めなかった。
   そんな訳だから、スターバックスが、ドラッカーさえもがイノベーションだと言うほど注目を浴びて、大ブレイクして、フォーチュン500の大企業にまで上り詰めたのである。

   
   さて、ネスレのバリスタにしろ、ドルチェ グストにしろ、いわば、スターバックスを事務所や家庭に持ち込んだイノベーションである。
   何の技術も苦労もなくて、それなりの品質の美味しいコーヒーを、それも、かなり多様なバリエーションで楽しめると言うのは、食文化の一歩前進だと思っている。
   冷凍食品やインスタント食品など、便利な商品が沢山出回っているのだが、やはり、インスタントで本物とは違っていて、どこか、不満の残る飲食物が多い。
   私は、スローライフ主義とは言わないまでも、やはり、ヨーロッパなどのスローフードを楽しみたいと思っているので、インスタント的な動きには同調しかねるのだが、本物の便利さの追求については、大いに賛成であり、このようなネスレのイノベーションは歓迎である。
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国立劇場前庭の春の花

2013年03月15日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   10日ほど前に、国立劇場の庭の梅が満開だと書いたのだが、もう、全く梅の花は消えていて、桜の花が咲き始めた。
   この口絵写真は、神代曙と言う品種の桜だが、この程度に咲いたのが、2~3房あり、もう一週間で満開であろう。
   ソメイヨシノよりも一寸早いと言うところであろうか。
   

   国立劇場正面の小さな桜の木、熊谷桜は、今、満開である。
   故市川團十郎が、昨年の3月の「一谷嫩軍記」に出演した時に、熊谷市から送られたのを手植えしたのだと言うのだが、たったの一年で花を咲かせたが、植えた主は、もうこの世にはいないと言う儚さ。
   「十六年は一昔、夢だ夢だ」 あの慟哭が聞こえてくる。
   大きく成長すれば、真正面の真ん中であるから、素晴らしいシンボルツリーとなるであろう。
   

   今咲いている花で一番目立つのは、ユキヤナギであり、他には、黄色いサンシューユやヒュウガミズキが咲いている。
   一本、その隣に、馬酔木がピンクの花を咲かせている。
   その間に、良く知らなかったのだが、ベニガクと言う房状の花か何か分からない感じの花が咲いていて、中々、形が面白い。
   
   
   
   
   

   一寸面白いのは、これも、まだ、咲き始めたところだが、マンサクが花らしくない姿で、スタンドバイしている感じである。
   カンサラサと言うボケが咲いているのだが、これは寿命が長いのか、梅が咲いていた時にも咲いていた。
   今、公演中の福助の「隅田川花御所染」の休憩時間に、庭を歩いたのだが、暖かくなって涼風が気持ちが良い。
   殆ど、庭を見る人はいないのだが、静かに季節を待って咲く花は風情があって中々素晴らしい。
   
   
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竹中平蔵著”竹中流「世界人」のススメ”

2013年03月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   帰国子女でもない竹中教授が、30を越えてから英語を勉強して、ハーバード大で教え、ダボス他世界的な会議に出席して英語でスピーチするなど、世界中を駆け回って活躍している。
   そんな私が言うのだから、心がけ次第で、いくらでも世界人になって世界中を飛び回れる。
   と、日本人が世界に飛び出すための条件を、非常に分かり易く説いたのがこの本で、日頃の経済談義ではなくて、砕けた調子の竹中節の語り口が非常に面白い。

   グローバル化した社会において、世界と関わらずに生きて行くことは不可能であるなら、積極的に海外に関心を持った方が良いし、その方が楽しい。
   海外に出て、仕事をして、世界中の街を訪ねて、素晴らしい音楽を聴き、最高の絵画を鑑賞するなど芸術に触れることは勿論、そんな世界で活躍することは、もっと楽しくて素晴らしい。
   と言って、そのためには、
   ☆世界と戦う覚悟を持つ
   ☆世界を知る
   ☆世界で戦うための力を身につける
   ことだとして、詳細に竹中流の指南を開陳している。

   私自身、多彩な海外経験者ではあるけれど、竹中教授程でもないので、偉そうな口を叩く資格も、そのつもりもないのだが、竹中教授が言うほど楽しいことばかりではないし、苦労の連続でもあったのだが、確かに、他の人が知らない世界に遭遇しながら、人生を人の何倍も凝縮して生きてきたような気がしていることは事実である。
   平知盛が、壇ノ浦で「見るべきものは見つ」と叫んで、碇を背負って豪快に入水した時の心境ほどではないにしても、実に、考えられない程の、素晴らしい音楽や絵画は勿論、人類の築き上げた偉大な文化芸術遺産に触れ、美しい都市や自然の景観に感激するなど、見るべきものは随分見る機会を得てきたと思っている。

   私の場合の海外への切っ掛けは、会社の人事部長から海外留学して勉強して来いと命令を受けたことに始まる。
   どうして留学すれば良いのかさえも分からなかったので、山王にあったフルブライト委員会の事務所に出かけて資料を必死に読んで、つけ刃の英語力で試験を受けて、幸運にも、ビジネス・スクールへ留学するチャンスを得た。
   須らくこのアメリカでの2年間の大学院生活と、アメリカ製MBAが、私のパスポートとなって、ブラジルから始まって、オランダ、イギリスを拠点にして私の海外での仕事が始まったのである。

   竹中教授の説く、世界と戦う覚悟を持つに関しては、留学したのは、Japan as No.1以前の、まだ、日本そのものが弱い時期であったので、正に、決死の覚悟であった。
   世界を知るについては、専攻が経済学であった所為もあってか、かなり、以前から、その方面の勉強はしていたつもりだったが、実際に世界を知ったのは、海外に出てからで、一泊以上した国が40か国以上なので、実際の異文化異文明との遭遇についても、あっちこっちで、カルチュア・ショックの経験を重ねている。
   しかし、もっと、世界を知るようになったのは、本当は、日本に帰ってから勉強を重ねて、客観的に見られるようになってからではないかと思っている。

   最後の世界で戦うための実力の涵養だが、これは、実地に海外に出て実戦の場で、経験を重ねて習得する以外にないと思う。
   竹中教授は、一般論を語っているので、それはそれなりに正しいと思うのだが、いずれにしろ、欧米は勿論、世界中のトップエリートと丁々発止と渡り合える実力を身につけることが最も肝要であることには間違いがない。
   国際舞台で、通用するような人材となるべく努力する以外に、安易な王道はない筈である。

 
   些細な例だが、ドラッカーが、日本が一番グローバル化が遅れていると喝破したのだが、竹中教授が、この本でも触れていたけれど、日本のテレビのニュース番組では、殆ど国内ニュースが主体で、海外ニュースが過半である海外テレビ番組と雲泥の差であり、そんな環境では、世界人が生まれ出る筈がない。
   NHKのニュース番組の多くが、どこで火事が起きて2人亡くなったとか、交通事故で親子が重傷だとか、雪山で遭難したとか、どうでも良いとは思わないけれど、大切な公共電波をハイジャックしてまで報道すべきかどうかと思うことが多いし、、国民を世界から疎外するような国内ニュースばかり流して、隣の半島の一触即発の危機的状態や、隣の大陸の公害や環境破壊の酷さについては殆どプログラムからは排除されている。
   私は、必ず、NHK BS1のワールドWaveニュースをフォローしているのだが、テレビは勿論、新聞も雑誌も、国内メインで、日本のメディアからは、適切なカレント国際情報は、悲しいかな、中々、得ることが難しい。

  大分脱線してしまったが、この竹中教授の本では、第2章の「世界は今、どうなっているのか」を知る――竹中流国際情報の読み方 を読んで、現在の世界各国、特に、アメリカ、中国、シンガポール、韓国、ブラジル、EUなどの情勢分析や世界観を知るだけでも面白いし、参考になる。
   世界人へのススメをテーマにした、竹中教授が綴った現在文明概論でもあると思って読むと興味が湧く筈である。
   
   
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寺島実郎流のあまい「デルの紛争回避論?」

2013年03月11日 | 政治・経済・社会
   先月27日に、このブログで、中西輝政教授やミアシャイマーの対中論について、”「マクドナルドのある国同士は戦争しない?」の欺瞞”と言うタイトルで、トーマス・フリードマンの「紛争防止の黄金のM型アーチ理論」と、それを発展させたデル・システムのようなジャスト・イン・タイム式サプライ・チェーンで密接に結合された国々の間では、旧来の脅威を駆逐(?)するので戦争など起こらないとする「デルの紛争回避論」を紹介して、
   いくら、経済的関係が深くても、問題なく、紛争や戦争は起こり得ると言う見解について論じた。

   
   ところで、寺島実郎氏は、「大中華圏」で、覇権型世界観からの脱却――米中覇権争いという世界観の貧困を説いていて、ヘゲモニーで世界をとらえるやり方は、冷戦時代の時代遅れの思考様式であると、このフリードマンの「デルの紛争回避論」に似た理論を展開して、経済の相互依存が高まり、情報ネットワークが深化すればするほど、相互依存の過敏性の状況に直面し、国同士の紛争や戦争などの可能性はなくなると言っている。

   覇権型世界観は、既に終わりを告げており、グローバル化時代の世界認識が必要とされる時代であり、経済的に相互依存が深まって、貿易や投資を通じて世界が正に呼吸を一つするくらいになっている。いかなる国と言えども、自己完結できる国はないと言うのが、グローバル化時代の世界認識の基本であって、我々に残された選択肢は、しなやかな連帯しかなく、
   相互依存の時代においては、極端に言えば、国民国家対国民国家の戦争と言うことさえ論理的には不可能なほど、お互いに依存しあっていて、全員参加型秩序の時代に行きつかざるを得ない。と言うのである。

   従って、覇権についても、中国が如何にアジア太平洋や中東に進出し展開しても、今度は、これに対する反発と警戒が高まり、単独覇権を国家戦略の中心においている国など、もはや成立しえないし、要するに、アメリカも中国も、影響力最大化のゲームを演じているに過ぎないと言うのである。
   さて、そんなに単純なものであろうか、と言うのが私の気持ちである。

   中国の覇権国家志向については、
   ジョン・J・ミアシャイマーは、「大国政治の悲劇」において、経済やビジネス関係の連鎖など、平和維持には何の関係もなく、とにかく、経済大国となれば、必ず、軍事力を強化して覇権を狙う危険な国になるので、中国が世界経済のリーダーになれば、その経済力を軍事力に移行させ、北東アジアの支配に乗り出してくるのは確実である。と説いていて、
   多くのアメリカ人が、もし、中国の急速な経済成長が続いて「巨大な香港」へとスムーズに変化し、中国が民主的になってグローバル資本主義システムに組み込まれれば、侵略的な行動は起こさずに、北東アジアの現状維持で満足するであろうから、アメリカは経済的に豊かで民主的になった中国と協力して、世界中に平和を推進することが出来ると言うような甘いアメリカの関与政策が失敗するのは確実である。と、アメリカのリベラル派の対中国観を一蹴している。
   現実の中国の軍事費の異常な拡大と軍事強化、そして、尖閣諸島問題や南沙諸島での近隣諸国等との国際紛争、アフリカ等発展途上国での天然資源争奪戦、チベットやウイグルへの弾圧等々を見れば、中国が世界の覇権を目指していることは、歴然たる事実であって、疑いの余地はなかろう。

   また、中西教授は、
   経済的な依存関係があれば、冷戦的対立や戦争が起こらないのかと言うことだが、答えは否で、歴史上、経済の相互依存関係がどれだけ深くても、戦争が起こっている事例は数限りなくある。
   日米が開戦した太平洋戦争を考えても、あるいは、これ以上ないほどの緊密な相互依存関係にある国内での内戦の勃発を考えても、経済の相互依存が軍事対立や戦争を防ぐことが出来ないことは自明であって、日中の経済関係についても、国家を超えて「相互依存はもはや死活問題と言えるほど深い」と言うことは絶対にあり得ない。と言うのである。
   下部構造の経済がいくらグローバル化してフラット化しても、上部構造の政治統合が実現不可能である以上、気まぐれな国家戦略や為政者の暴走によって、紛争は勿論、戦争の可能性さえ否定できないことは、ならず者国家の動向を見れば、あるいは、現在の尖閣問題での一部報道された軍部の暴走や異常な中国の好戦的世論の高まりを考えれば、残念ながら、明らかであろう。
    現実にも、現在の中国の対日政策が、「デルの紛争回避論」的な日中の緊密な経済関係など、殆ど眼中にはないのは明白で、それにしても、図体だけは大きいのだが、一党独裁で民主主義でもなく法治国家でもなく、政治腐敗の酷さは限度を越えており、苦しんでいるのは日本企業だけと言った感じさえして悲しい。

   また、もはや過去のものと寺島氏が否定する冷戦についても、中西教授は、
   急速な経済成長を遂げた中国が、国力の増大にまかせてアジア太平洋への露骨な成長政策を取ったことによって、アメリカは、従来の「関与」政策から、「抑止」政策に転じて、今や、中国を盟主とする全体主義勢力と、アメリカを中心とする民主主義勢力とがアジア太平洋地域で対峙する、新たな冷戦が始まったのだと説く。

   中西教授は、「迫りくる日中冷戦の時代」で、間違いだらけの中国観の章で、「中国市場」という呪縛で、日本企業は「チャイナ・マーケットの幻想」に完全に侵されていて最悪だと言う。
   その中で、寺島氏が、テレ朝の「報道ステーション」で、「中国経済は回復軌道に入って来て内需が拡大している。いまや日本にとって中国の内需は外需ではなく、日本の内需なのである。」と言ったとして、その日中の経済を一つの単位と見る見方を、屈服だと信じがたい言葉だと非難している。
   これは、寺島氏の大中華圏に関する見解の一端を日本のアプローチとして語っただけで、他意はないのであろうが、いくらグローバル経済が進展しても、国益・国籍とは無縁になり得ないとする中西教授にとっては、中国市場拡大に汲々する日本企業の動向と同様に、頭にくる発言であったのであろう。

   寺島氏は、日本が避けなければならないのは安手のナショナリズムへの回帰であって、国権主義への誘惑を断って、あくまで民主主義国家として個人の自由と民主的な意思決定を大事にして、過去の反省と総括の中から作り上げてきた平和主義に徹した戦後民主主義を守り通すことだと主張しており、全く異存はない。
   また、日本の価値は、技術を持った産業国家として、より新しい付加価値を技術によって生み出し、新しいイノベーションを通じて国際社会に貢献することだとも言っており、これも、至極尤もである。
   確かに、日本企業は、何のためらいもなく、経済活動の拡大をのみ意図して、持てる技術と資本を投入して中国市場へアプローチして、中国の近代化や成長発展に貢献してきた。
   しかし、私には、清国の建国から、欧米日列強による蹂躙に泣いた屈辱の近代の歴史を経て、やっと経済大国への道を驀進して、近い将来に世界最強のアメリカを凌駕出来るかもしれない可能性が見え始めた今こそ、漢民族が、中華思想を実現出来る千載一遇のチャンスだと考えて、覇権国家への夢(?)に向かって邁進しようと考えるとしても、あながち、間違っているようには思えないのである。
   日本も日本企業も、中国に対しては、平和と経済文化交流の拡大以外に何の野心をも抱いていないことは明白な筈なのだが、私には、中国の世界戦略や対日政策については、この中国の世界戦略への意思と動向に対する懸念と不安を拭いきれないのが、正直なところで、悲しいかな、現在の中国に対しては、期待と不安が相半ばしている。

   寺島氏の「大中華圏」は、非常に示唆に富んだ書物だと思っているのだが、今回は、中国の覇権と紛争回避論についてのみの感想に止めた。
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