熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

第七回目のコロナワクチン摂取

2023年09月30日 | 健康
   28日に近くのクリニックで、7回目のコロナワクチンを打って貰った。
   65歳以上の枠で、鎌倉市役所から送られてくるワクチン接種案内書にしたがって受けていたら、いつの間にか7回にもなってしまったと言うことである。
   最初は、市役所指定の場所および日時に往復タクシー券付きと言うお仕着せシステムであったが、今では、自分自身でインターネットで予約して出かけることに簡便化されている。
   ワクチンのメーカーはファイザーだったが、最近の2回はコミナティである。
   幸い、私の場合、副反応が全くないので助かっているのだが、家族によっては酷いので止めている。

   ワクチン接種のお陰かどうか分からないが、今のところ、コロナには縁がない。
   コンサートや病院や買い物などで遠出するときや公共交通機関の中、それに、近くのスーパーや郵便局など、人との接触機会のある場などには、マスクを心がけている。
   公共の場であっても、最近では、ノーマスクの人が結構多くなったが、後期高齢者であるので、用心に超したことはないと思っている。

   新型コロナウイルスに関する発表が厚生労働省のリリースに初めて登場したのは2020年1月6日と言うから、もう、4年近く、  
   知人友人の中にも結構罹っている人がいて、他人ごとではないが、早く終熄して欲しい。
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鎌倉山の山の端の中秋の名月

2023年09月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日は曇りの予報で心配していたが、綺麗な中秋の名月が表われた。
   我が家の庭から、やや高みの鎌倉山の端から月が顔を出すので、月の出は、いつも、ワンテンポ遅れる。
   TVで、東京の名月が綺麗に見えていたので、すぐに表われると思って待っていると、薄雲を通して顔を出した。
   

   さて、いつも忘れてしまって、気がついて和菓子屋に行ったら、団子が売り切れていたり、ススキがなかったりして、月見飾りさえ真面に出来ていないのだが、今日は意識して、まず、ススキと団子の手配をした。
    わが庭のススキは、出たり出なかったりで、出てもいつも遅いので、今日は、諦めて路傍のススキを頂戴して使うことにした。鎖大師の切り通しの名残の崖プチのススキなど風情があって面白い。
   団子は、本職の団子屋というか和菓子屋で買おうと思ったが、スーパーの方が選択肢が多いと思って、スーパーに出かけて何種類か買って帰った。
   季節の果物は、家にある梨と柿を使った。
   お供え物は、5種類とかで、他に里芋、秋の七草と言うことだが、省略した。

   尤も、団子やススキなどを用意したのは、孫たちに、自然の営みと季節の移り変わりを通して、日本の風習を感じさせるためである。それにしては、手抜きであって恥ずかしい限りであるが、中秋の名月を見て歓声を上げていたので、役に立ったのであろう。

   夜遅くなって、このブログを書き終える前に、庭に出て空を仰いだら、中天真上に綺麗な名月が輝いていた。
   なぜか、アジアとヨーロッパを跨ぐダーダネルス海峡に煌々と照り輝いていたイスタンブールの月光を思い出して、無性に懐かしくなってきた。
   
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平川 祐弘 :ダンテ『神曲』講義  宗教観

2023年09月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、ダンテの「神曲」を、もう少し勉強したいと思って読み始めたので、レビューの対象ではない。
   しかし、先に読んだ今道友信先生の「ダンテ神曲講義」のとは違った面白い知見も得たので、ここで、特に気になった宗教観について考えてみたいと思う。

   キリスト教徒でありキリスト教至上主義者のダンテは、強烈な独断と偏見で、この「神曲」を書いたのであるから、どんなに凄い歴史上の偉人であっても、悉く地獄へ落としており、当然のこととして、宗教に対しても容赦がない。

   特に酷いのは、地獄篇第二十八歌における、分裂分派の徒と見做して地獄に突き落として真っ二つにしているマホメットの描写で、詳細は省略するが、異教とはいえ、許されないほど常軌を逸している。当時、イスラム勢力が強くなっていて、ダンテなどは切歯扼腕だったようで、それに、祖父の祖父カッチャグイダが、十字軍に参加して陋劣な民に殺されたと言う個人的な恨みもあったのであろう。

   興味深いのは、これに対して、イスラム教の始祖を地獄の底に落とし、イスラム寺院を下地獄の悪の城に見たてているダンテの「神曲」を、これから先も長く世界文学の最高峰と奉ることははたして賢明であろうか。ちなみに「神曲」はアラビア語への翻訳が英語からの重訳で1957年に出た由だが、地獄篇第二十八歌は削除されている。と言う著者の記述である。

   ユダヤ教に対しても容赦がない。
   キリストを死刑に導いたサドカイ派の会議の司会者であったカヤパを、「永劫の流謫の地」に落している。
   また、著者は、第二十三歌の「悪魔は嘘つき、嘘の父親という説」の典拠は「ヨハネ伝」であり、ルターのドイツ語訳で更にアンチ・セミティズムが増幅され、子供時代から教え込まれれば、ナチズムの台頭以前に反ユダヤ感情が培われるのは当然であろうと言う。

   面白いのは、この「神曲」で、辛うじて救いとなるのは、イスラム人でありながら、あの世で罰を受けない人として、名君の誉れ高かったサラディン王が、一人地獄の辺獄におかれて別格の待遇を受けていることである。
   著者は、
   ボッカッチオの「デカメロン」で、サラディン王がユダヤの富者で知者のメルキゼデックに、「ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの法の中で、一番真実の法はどれか」と質問したところ、3人の後継者に同じ指輪を授けて後継者争いをさせて決着が着かなかったという逸話を語って、
   自分こそが真の法の所有者、自分こそが真の戒律を神から直接授かったものと思い込んでいる。しかし、三者の誰が本当に授かったのか、それは指輪の場合と同様、いまだに解決されていない。と答えたと言う。

   艶笑作家と低く観られているボッカッチオの方が、ダンテより、遙かに識見知見共に優れていたのが興味深い。
   さて、ダンテは、釈迦を地獄のどの谷に落すのであろうか。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(11)ウォリック城を訪れる-2

2023年09月26日 | 30年前のシェイクスピア旅
   外に出て、宮殿の外れのゴースト・タワーの側にある塚山の望楼に上ってみた。
   眼下には壮大な庭園が開け、その中を緩やかにエイボン川が蛇行している。その向こうには、ストラトフォードやコッツウォルドの沃野が広がっている。
   この庭園は、18世紀半ばに、造園家ランスロット・ブラウンによって造られたもので、小山あり、谷あり、中州ありで、エイボン側にあるので、河畔からは、ガーデン越しに城の宮殿が見える。残念ながら、今回は時間がなくて、ガーデンを散策できなかった。

   今回、興味があったのは、アーデンの森がどんな森なのか、知りたかったことである。
   シェイクスピアの戯曲には、森のシーンが随所に登場する。しかし、その森は、ドイツの森のように、真っ黒で、一度入り込むと出てこられないような、鬱蒼とした森ではないはずだとと言う気がしている。ドイツの森は、一度しか行っていないが、シュヴァルツヴァルト(黒い森)に代表されているように、鬱蒼とした原生林のような大海原の雰囲気で、その中では人が住めない全く阻害された世界と言った感じがするが、シェイクスピアの描く森は、きっと、故郷アーデンの森に違いない、それを見たい、と言うのが今回の旅の一つの目的であった。

   眼下には、ずっと遠くの方まで、緑の森や田畑が広がっている。それは、ドイツの森と全く違っていた。相当部分は森林で覆われているが、鬱蒼とした森林地帯には程遠く、所謂、ニュー・フォレストで、小さな村や農地が散在する樹木の多い田園地帯という雰囲気である。あの当時、このアーデンの森には、牧草地の麦畑に交じって、小規模な工業や鉄鉱山があったと言う。
   ”お気に召すまま”で、ジェイクイーズが、「この世界は総べてこれ一つの舞台。人間は男女を問わず総べて、出ては消えて行く役者に過ぎぬ。」と唱えた森も、”真夏の夜の夢”で、タイターニァがボトムと戯れた森も、”ウィンザーの陽気な女房たち”で、ファルスタッフが妖精たちにいたぶられるラストシーンも、このアーデンの森が舞台なのであろう。眼下の、緑滴るエイボン川を飽きずに眺めながら、シェイクスピアの世界を反芻していた。

  中庭に戻って、城壁に上る。ベアー・タワーとクラレンス・タワーの上を歩いて、ガイズ・タワーに達する。タワーに入って細い螺旋階段を上る。シーザーズ・タワーと共に、この城で最も高い塔で、眺望は素晴しく、鄙びたウォリックの町が見え、その背後に森と田園地帯が広がっている。大きな建物は、セントメアリー教会だけで、黄緑色の牧草地が点在する濃い緑色の沃野が何処までも続いている。
   マクベスの城は、スコットランドだが、最終幕のバーナムの森がダンシネンの丘に攻め上ってくる光景は、何処であろうかと思いながら、中世の城の高い望楼からの展望を楽しんでいた。
   シェイクスピアの頃には、この城は厳然と建っており、隣町に住んでいたので、城内に入らなかったとしても、城のことは十分に聞いていたであろうし、城下に来てこの城を見上げたであろう。シェイクスピアの戯曲で重要な位置を占めている英国史劇が、比較的リアルであるのは、英国の話であると言う以外に、この典型的な素晴しい中世の城郭ウォリック城が身近にあって、よく知っていたからであろうと思う。

   なお、口絵写真は、ウィキペディアからの借用だが、城の望楼からウォリックを展望した風景のようなので、前述の描写の参考になろう。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(10)ウォリック城を訪れる-1

2023年09月24日 | 30年前のシェイクスピア旅
   夜の「ロミオとジュリエット」の公演まで一日空いていたので、隣町のウォリック城に出かけた。シェイクスピアの英国史劇を鑑賞するためにも必見の由緒ある古城でありながら、何度も機会を逸して行けなかったのである。
   シェイクスピアは、この故郷ストラトフォード近辺とロンドンから離れたことがないと言われているので、戯曲で描いた城や宮殿のイメージの多くは、このウォリック城から得たはずなのである。

   ストラトオフォードからロンドンへ帰る道を西にとってM40とのジャンクションを越えて10分ほど走ると城のゲートに着く。ゲートは林の中にあって、着いても城の姿は全く見えない。駐車場は、エントランスまで何ブロックも数珠状に繋がっていて、下りて、かなり密に生えた高木の林の中を抜けると、前方が開けて、ステイブルズ・エントランスに達する。その手前の通用口の間から、広々とした芝生の原の上に大きな城壁と塔がそびえ立っているのが見える。

   この城は、1068年にサクソンを征服したノルマン人によって築城されたイングランド統治のための出城の一つで、当初は、外壁に囲まれた塚であった。その後、重要な城址となり、フランスとの100年戦争の頃には、壮大な要塞へと姿を変えた。更に、17~18世紀にかけて、豪華な宮殿や壮大な庭園が構築されて、現在では、英国屈指の名城の一つとして、ほぼ、完全な形で現存している。
   エントランスを入ると、城壁をバックに中世の騎士姿の男が飾り立てた軍馬に跨がり立っていて、風景に溶け込んでいる。堀は日本のような堀ではなく、空堀で一方が平坦でオープンであるので、大きな小山の上に城壁が築かれている感じで、圧倒される。さどかし下からの攻撃は難しく難攻不落と言っても良かろう。

   跳ね橋を渡ると城門で、二重の落とし格子門を抜けるとゲイト・ハウスに達する、方形の搭状の建物であるが、狭い階段を上ると小さな部屋が沢山あり、窓が小さいのでどこにいるのか全く分からない。各部屋で城の歴史の展示をしている。
   ゲイト・ハウスを出ると城内に達し、広々とした緑の中庭に出る。三方はタワーのある城壁に囲まれており、エイボン川に面した一方は、宮殿の建物が建っている。ゲイト・ハウスと左手シーザーズ・タワーとの間に、兵器庫、地下牢、拷問室などのある中世の建物があるのだが、見物客が列をなしているのでスキップして、となりのキング・メーカーの展示室に向かった。
   キング・メーカーとは、ばら戦争で活躍して、英国王の首をすげ替えるほどの実力のあったウォリック伯リチャード・ネヴィルのことで、シェイクスピアのヘンリー6世でも、重要な役割を演じて活躍している。
   この部屋の展示は、タッソーの蝋人形を使っていて、克明に、当時の城内の兵士や騎士たちの仕事ぶりや生活などを見せており、観ていて楽しい。戦争準備の兵士、蹄鉄を鍛えている鍛冶工、車輪造りの車大工、軍旗を縫いテントを繕う女性たちなど、最後に、死出の闘いのために剣を携えて家臣たちに檄を飛ばすウォリック伯爵の像が、ランタンの薄明かりに映えて浮かび上がっている。所々に、当時の衣装を身につけた係員がいて、蝋人形に溶け合って雰囲気を醸し出している。あっちこっちで、タッソーの蝋人形を観てきたが、良くできていて何時も感激している。

   次の展示は、グレート・ホールとステート・ルームである。これは、18世紀半ばに豪華絢爛たるステート・ダイニング・ルームやプライベート・アパートメントを備えた宮殿が完成して出来上がった部分の見学である。ロイヤル・ウィークエンドパーティ1898は、タッソーの蝋人形使ってプライベート・アパートメントで展示されている。これらの宮殿部分は、元からあったものもあり、ほぼ、18世紀半ばには現在のような状態になっていたようである。
   内外共に、当時のイングランドの超一流の技師や芸術家、職人たちによって設計施工されたもので、ベルサイユやウィーンの宮殿にも見劣りしない素晴しいものである。

   ステート・ルームの一つグリーン・ドローイング・ルームの中央に、二枚の伊万里の大皿がスタンド型のテーブルに嵌め込まれて鎮座ましましているのが面白い。マイセンの磁器が、伊万里を真似て艱難辛苦の末に完成されたことを思えば、けだし当然であろう。
   グレート・ホールは、この城最大のホールで、甲冑、武具、金属製の大皿、獲物の角などが壁一面に所狭しと飾られており、華麗な彫刻を施された重厚な木製の飾り棚や、金属製の武者や騎馬像が部屋に威厳を添えている。
   小さな祭壇を備えたステンドグラスの美しい礼拝堂も、ステートハウスに付属している。
   ドローイング・ルームの華麗さはまちまちで、天井の素晴しい石膏細工や豪華なシャンデリア、縫い目なしの精巧な絨毯、威厳と華麗さに満ちた絵画や彫刻、繊細さと豪華さを兼ね備えた家具調度など、それぞれ工夫を凝らされていて、赤やブルーといったカラーを基調に装飾されている。

   プライベート・アパートメントは、部屋がこぢんまりしているので、もっとみじかな感じがする。
   鎧ではなく背広を着たウォリック伯やその夫人、それに来客のエドワード皇太子などが、蝋人形姿で、コンサートを聴いたり、カードをしたり、談笑したり、化粧をしたりしている。ライブラリーで、若き日のチャーチルが本を広げている姿が珍しい。隣のオックスフォードシャーのブレンハム・パレスの御曹司が遊びに来られたという設定であろうか。
   19世紀末に、伯爵夫人の気前よい豪華な接客が有名にに成って、ウォリック城は、後期ヴィクトリアの上流階級の社交場になった。当時の写真が残っていたので、当時の家具調度などをそのまま配置して、ウィークエンド・パーティを再現したのである。
   セッティングがあまりにもリアルであり、そのすぐ側を歩いているので、タイムスリップしたような雰囲気になる。

(追記)口絵写真は、エイボン川に面するウォリック城。ウィキペデイアから借用。
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クラシックコンサートは楽しいのだが

2023年09月23日 | クラシック音楽・オペラ
   今日、都響の第982回定期演奏会Cシリーズを、東京芸術劇場コンサートホールに聴きに行った。
   プログラムは、           
   出 演
      指揮/ローレンス・レネス
     ヴィオラ/タベア・ツィンマーマン
   曲 目
     サリー・ビーミッシュ:ヴィオラ協奏曲第2番《船乗り》(2001)[日本初演]
     ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 op.27
       ヴィオラ/タベア・ツィンマーマンのアンコール曲は、
        1.ヴュータン:無伴奏ヴィオラのためのカプリッチョ op.55
        2.ヒンデミット :ヴィオラ・ソナタ op. 25 第1番より 第4楽章
 
   18日のサントリーホールでの都響公演と同じ出演者で、曲目が違う。
   しかし、曲が変ると印象が全く変ってくる。
   今回演奏された曲は、二曲ともコンサートでは初めて聞く曲であった。そんな時、私にとっては、何か特別な感興を覚えれば別だが、聴いたときに、何か違和感のようなものを感じて拒絶反応を起すか、すんなりと曲想に乗って楽しめるかと言うことであって、今日の二曲とも、極論すれば、ムード音楽を聴いている感じで楽しませて貰った。
   尤も、これも経験によって変ってきており、モーツアルトやベートヴェンばかり聴いていた初期には、リヒャルト・シュトラウスにさえ拒否反応を覚えていたのだが、もう、60年以上も聞き続けていると、不思議にも、最近では、どんな新しい曲を聴いても、それなりに楽しめるようになって来ている。

   ところで、私のクラシック音楽行脚だが、始めて本格的なコンサートを聴いたのは、もう60年ほども前のことで、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィル、京都会館であった。
   その後、カラヤン指揮ベルリン・フィル、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル、ハイティンク指揮コンセルトヘボウとどんどん広がっていって、欧米生活が長かったので、クラシックもオペラも、聴くべきものは殆ど聴いてきた。

   さて、そんなことは別にして、最近、歳の所為で、コンサート会場に出かけるのが、シンドイというか億劫になり始めてきたのである。
   ウィーン・フィルやベルリン・フィルやと言って浮き足立っていた昔と違って、今は、都響の定期に東京へ出かける程度なのだが、年間、お仕着せプログラムで、8回、
   14時開演の午後のコンサートで、それなりの意欲的なプログラムで楽しませて貰っているので、文句はないののだが、
   2時間のコンサートに、江ノ島にほど近い鎌倉の片田舎から、バス、JR、東横線、メトロを乗り継いで、往復5時間、
   杖をついているので、席を譲って貰えて助かっているのだが、しかし、青天の日ばかりではない。

   今期のC定期の公演は、まだ、5公演残っており、行けるかどうか、
   来期の定期継続をどうしようかと思っている。

   ここで、脳裏をかすめるのは、先日書いた「海外旅行は若くて元気な内にやるべき」と言うことと同じで、とっておきのクラシック・コンサートも、無理をしてでも若くて感受性の豊かな時にこそ聴いておくべきだと思っている。
   尤も、体力気力が伴う旅行と違って、ただ座っていて聴くだけのコンサートは、歳とは関係なさそうだが、それが、大いに違うのである。

   もう一つ、定期公演のシリーズ券を買うべきかどうかと言うことだが、普通2割くらい安いし、単発の公演が少なくて、その都度、チケットを手配しなければならないので、プログラムに五月蠅くなければ、取得するに超したことはない。
   私は、海外で、代々メンバーが孫子の代まで継承して市場に出ないので取得が難しいと言われていたフィラデルフィア管弦楽団やアムステルダムのコンセルトヘボウ、それに、ロンドン交響楽団のシーズンメンバー・チケットを取得していたので、大いに助かった。普通には取得困難なチケットが含まれていることが多くて、単独では、中々チケットが買えなくてミスることが多かった。

   今日は、何となく、こんなことを考えてしまった。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(9)ストラトフォードの街を歩く-2

2023年09月22日 | 30年前のシェイクスピア旅
   街の中心にとって返してハイストリートを進むと、角に古い旅籠ギャリック・インとアメリカのハーバード大学を創立したジョン・ハーバードの母親キャサリン・ロジャースが住んでいたハーバード・ハウスが、昔そのままの優雅なファサードを誇示するが如く寄り添って立っている。三階建ての白壁の太い木組みの美しい建物で、上階に行くほど道に張り出している。ハーバード・ハウスは、柱と梁に優雅な彫刻が施されており、ギャリック・インは、蛙股の柱が面白い。二階床の張り出した梁から、溢れるばかりの色とりどりに花を満載したフラワー・ハンギングが下がっており、一階の金属で黒く縁取られた格子窓に映えている。道路を隔てて向かい側に、壁にシェイクスピア像を嵌め込んだ石造りの市庁舎の建物が建っているのだが、チューダー朝の木組みの街並みには不調和である。
   
   
   
  
   さらに直進してチャペル通りに入ると、左手にシェイクスピア・ホテル、右手を少し進むとファルコン・ホテルがあり、チューダー朝のファサードとフラワー・ハンギングが目を楽しませてくれる。両方とも間口が広くて広がっているので街並みのシックリト溶け込んでいる。
   イギリスの場合、個々の建物毎に建築許可が下りるので、街並みは二の次で、どうしても、建物そのものが個性を主張することとなって、都市計画がしっかりしていて街並みが統一されているフランスとは違って、美しいと言えば、その不調和の鬩ぎ合いが醸し出す造形美であろうか。

   ファルコン・ホテルの向かい側に、シェイクスピアが晩年を過ごした家の跡地ニュー・プレースがある。跡地というのは、18世紀になて、この家の主人になった弁護士が、来訪者の多さに音を上げて取り壊してしまって現存しないからである。基礎と井戸が残っているだけだが、しかし、跡地にある庭はグレート・ガーデンと称されるほど大きく、常緑樹の生け垣で縁取りされた内部は、イングリッシュ・ガーデンになって、市民の憩いの場となっている。木の間から、スワン座の半円形の屋根がよく見える。

   このニュー・プレースに接して、シェイクスピアの孫娘エリザベスが住んでいたナッシュ・ハウスが建っている。前世紀には、モルタル作りの味気ない建物に成っていたのを、トラストが買い取って、木組みの古風なファサードに変え、二階をストラトフォードの歴史博物館にした。建物の構造はそのままだが、オリジナルのファサードの記録がなかったので、建物の正面は創造で設計されたという。一階は、当時の家具や調度がセットされ、当時の民家の雰囲気が現出されているが、内部はそれなりに美しく、堅実な生活ぶりが忍ばれる。

   ニュー・プレースの向かいに、道を隔ててギルド・チャペルがある。その裏が、二階建てのギルド・ホールとグラマー・スクールがある。16世紀のシェイクスピア時代の建物なので、床や天井がでこぼこで、屋根や垂木の線が大きく波を打っている。この建物の中で、シェイクスピアは、勉強をしたり、祈祷に耳を傾けたり、ロンドンからの役者たちの演劇を楽しんだりしながら、生長していったのであろう。シェイクスピアが13歳頃までは、父親も町の名士で羽振りも良く豊かな生活をしていたようだが、その父の破産で父の記録がなくなり、それから町を離れるまでの消息が分からなくなる。

   このギルド・チャペルのあたりは、シェイクスピア時代の建物が多く残っていて、今にも、子供時代のシェイクスピアが飛出してきても不思議ではない雰囲気である。ロンドンの劇団から離れて、ストラトフォードに隠棲してからは、ニュー・プレースの家から、チャペル横を通って、今の劇場を通り抜けてエイボン川にに出て、森の中を散策したのかも知れない、などと考えながら街を歩いていると楽しい。あれほど、花の都ロンドンで活躍したシェイクスピアが、老いと闘いながら、どのような余生をここで過ごしたのか大変興味深い。シェイクスピアが住んでいた頃のストラトフォードは、200軒ほどの小さな静かな村であった。今でも、歩けばほんの10分くらいで街外れに出てしまう、そんな小さな、しかし偉大な街である。

   この記事は、30年前の記録だが、昨年、ケネス・ブラナー監督主演の映画「シェイクスピアの庭」をレビューした。ケネス・ブラナー悲願のプロジェクト 不朽の名作を生み出した文豪シェイクスピアの晩年、すなわち、故郷ストラトフォードでの最後の人生ををついに映画化した作品だが、非常に興味深い。
   

(追記)当時のデジタル写真の記録がないので、ハンギング・フラワー写真は、カンタベリーで撮った写真を代用している。
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PSジム・オニール「G20がグループ戦で勝利 The G20 Wins the Group Battle」

2023年09月21日 | 政治・経済・社会時事評論
   先月、PSに、「BRICSの拡大には何か意味があるのか? Does an Expanded BRICS Mean Anything?」を書いたジム・オニールが、興味深い「G20がグループ戦で勝利 The G20 Wins the Group Battle」を投稿した。

   ニューデリーでのサミットで発表された共同宣言は、G20が地球規模の問題に対して真に地球規模の解決策を提供する範囲と正当性を備えた唯一の機関であることを裏付けるものとなった。 それに比べれば、G7 や新たに拡大された BRICS などの代替グループは余興のように見える。新しいBRICSプラスに も G7 にも、世界的な課題に取り組む信頼性または能力がないが、G20(世界最大の経済大国19カ国にEUを加えたもの)が、地球規模の問題に対して真に地球規模の解決策を提供する正当性を持つ唯一のグループとなった。と言うのである。

   G20サミットで発表された共同宣言は、 加盟国は幅広い問題に取り組むことで合意に達し、これをさらに裏付けるものとなっている。加盟国の運営方法に大きな違いがあるなど、明らかな課題もあるが、G20の役割が疑問視されていた長い期間を経て、G20の妥当性を再主張することに成功した。
   最終コミュニケを押し進める上で最大の役割を果たしたのは、おそらくインドと米国であろうが、ニューデリー宣言は、気候変動、世界銀行刷新の必要性、感染症対策、経済の安定、ウクライナ戦争などの世界的問題に取り組むためのより強力な協調努力の第一歩となる可能性がある。 この議題はロシアのプーチン大統領と中国の習近平国家主席の不在下で合意されたが、出席したロシアと中国の代表はそれぞれの政府との合意なしには何も署名しなかった筈である。習近平が中国の長年のライバルの一つであるインドとインドのモディ首相を軽蔑するためにサミットを欠席したのではないかと推測されているが、動機が何であれ、彼の決定は、多くの人が中国の勝利とみていた最近のBRICS会議の意義を損なう結果をもたらした。現状では、G20会議の成功により、モディ首相が今シーズンの首脳会議における明らかな勝者となり、習近平よりも先見の明のある政治家のように見える。

   さらに、G20 はアフリカ連合を含めてその地位を拡大し、G21 とすることに合意することで、微妙ではあるが重要なもう 1 つのステップを達成した。 この躍進はモディに明らかな外交的勝利をもたらし、グローバル・サウスの擁護者としてのイメージを高めた。
   ロシアのウクライナ戦争では、G7が示してきた団結によってG7は依然として非常に有能な機関である。しかし、 戦争に関するG20コミュニケの文言は、ウクライナ指導者が好むレベルには達していなかったものの、国際的に認められた国境を侵犯しようとする可能性のある他の国々に明確なメッセージを送るには十分な力強さであった。 また、プーチン大統領に対し、BRICSの友人とされる一部からの表面的な支援さえも期待すべきではないことも伝えている。 そしてもちろん、この宣言は西側諸国や個々の指導者がより強力な言葉で戦争を非難することを妨げるものではない。
   世界経済、気候変動、公衆衛生、その他多くの問題に関して真に重要なのはG20の集合的な声である。 G7の指導者たちは、自分たちが依然として世界情勢に大きな影響力を持っていると考えたいが、現実はそうではなく、 ニューデリー首脳会議から得た大きな教訓は、新興大国を含めない限り、世界規模の大きな課題に対処することは不可能だということであった。

   確かに、G20 を批判する人たちは、効果を発揮するには大きすぎて扱いにくいと反論するであろう。 ユーロ圏加盟国が本当に共同プロジェクトの永続性に対する信念を示したいのであれば、G20のような国際会合には、各国の代表者を1人ずつではなく、代表者を1名だけ派遣するだろうと私は観察した。 これにより、グループはより扱い易くなり、強力な慣例が確立された。 BRICS を含む他のブロックが同じことをすれば、その結果、目的に真に適合したグローバル・ガバナンス・グループが誕生するであろう。

   ところで、今日の日経で、イアン・ブレマーが、「グローバルサウスの推進役」という記事を投稿して、BRICSプラスを評価しないジム・オニールとは、ややニュアンスの違った見解を示していて興味深い。BRICSは、グローバルサウスの協議を推進する最重要勢力を固め、途上国にとって最上位の経済フォーラムであるG20首脳会議を越えた。と言うのである。
   欧米の影響力に対抗する手段として参加国の拡大を求めてきた中国の外交的勝利である。しかし、利害は必ずしも一致してはおらず、共通点が一つあるとすれば、激化する米中対立、ウクライナで続く激戦、加速するエネルギー転換のなかでグローバルサウスの利益を探り、それぞれの国益を追求する多極的な国際システムを求めていること。BRICSプラスは、共通の課題で歩調をあわせるどころか、政治・経済システムすら異なる。
   BRICSプラスは、国連やIMF,世銀などの多国間組織における影響力を拡大し、米ドルからの依存脱却を目指すであろう。気候変動や金融問題などでグローバルサウスの議事設定力が高まり、新規メンバーはより効果的にリスクを減らし、勢力の均衡をはかることが可能になる。また、反欧米的な安全保障体制と言うよりは、概ね経済フォーラムであり続けるはずで、新冷戦の幕開けを招くものではない。と結論付けている。

   いずれにしろ、統治能力のある組織は、民主主義を掲げる先進資本主義国グループのG7だけ、
   G20も、BRICSプラスも、いわば、実質的な実体性の乏しい経済フォーラムと言った組織だが、お互いの組織に対して、有効なカウンターベイリング・パワーとして作用することを期待したい。
   
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NHK世界トップニュース:英国パブが廃業続出危機に

2023年09月19日 | 経営・ビジネス
   NHKが、今日の世界のトップニュースで、「英国パブ 1日に2軒のペースで廃業」と報じた。
   パブ(Pub)とは、パブリック・ハウス(Public House)。イギリスでは、何処の街角にもある酒場のことで、ビールなどの酒類や簡単な軽食などをサーブする気軽な居酒屋である。
   最近10年くらいは英国に行っていないので、今様事情は分からないが、在英5年間には随分お世話になった。
   ロンドン市内でも、昼食時やアフター5などには、街路狭しとサラリーマンがジョッキ片手にひしめき合って憩いの時を過ごす貴重な出会いの場でもある。
   このパブが、英国経済不況の煽りであろう、経営難と人手不足で、ここ数年、半年に400店ペースで廃業しているというのである。
   
   

   ロンドンのシティの開発案件を実施したので良く覚えているが、パブは、存続を旨としており、余程のことがない限り潰せない。どんなに素晴らしい近代ビルに再開発しようとも、元あったパブは、消滅させることは罷りならない、必ず地下か一階に収容する必要があり、ペパーコーンレイト(殆ど名目程度の安い家賃)で貸すこととされている。
   これがイギリスの文化であり知性でもあり、イギリス文化の華であったはずにも拘らず、この公序良俗が廃れようとしているというのである。

  ところで、私の旅とパブの関係は極めて密接で、特に求めてレストランに行くことがなければ、気侭な旅だと昼食時と余暇の大半はパブで過ごしていた。まともにランチを取ろうとすると、正式なレストランで、あまり美味しいとは言えない料理に、長い時間とカネを費やすだけとなり、とにかく、無駄。かと言って、ファーストフッドや日本料理店も味気ないので、気楽気ままに、何時でも食事が出来ビール等を飲んで憩えるパブが、私には恰好の休憩所であった。
   ロンドンに居た頃は、昼には、事務所に近いパブに出かけて、何かメインの一皿を取ってギネスのビターを1パインで昼食を終えることが多かった。イギリス人など、ビールだけで昼食を済ます人も多い。アムステルダムにいた時には、ホテルオークラまで出かけたが、ロンドンでは和食堂には馴染めなかった。
   
   コベントガーデンやストランドなどで、観劇を楽しんだ後、独りの時は、良く、チェアリングクロス駅の近くにあるシャーロック・ホームズ・パブに行った。シャーロック・ホームズなど実在しないが、熱烈なファンが作ったパブで、シャーロック・ホームズ縁と思しきグッズが壁面に所狭しと飾られており、2階には、「シャロック・ホームズの部屋」まである懲りよう。別に、料理が美味い訳でもなく、特色がある訳でもないが、イギリスそのものの雰囲気を楽しめるので、11時の閉店間際だが、小休止の為に良く出かけた。
   
   
   

   イギリス国内を車であっちこっち走ったり旅をしたが、鄙びた田舎などで、歴史的な建造物や骨董品のような綺麗なパブに出会うと嬉しくなって、沈没して、何時間も過ごすことがあった。 田舎だけでなく、ロンドンのストランドやソーホー辺りのパブでも、暇な時などパブの主人やカンバン娘と話していると実に楽しい。
   カンタベリーのトマス・ベケット・パブでは、バーカウンターの女主人が実にチャーミングな美人で優しく、それに、主人の気の利いたサービスなど印象的だったが、豊かなイギリスの文化に触れる憩いの時間が旅の疲れを癒してくれる。

   古いパブには、入り口が2つある。階級制度の名残とかで、昔は、中産階級のサロンと労働者階級のパブリックバーとに区別されていて、真ん中のカウンターは共通だが、入り口と部屋が分離されていた。
   もう、40年も前になるが、日産のイギリス工場のプロジェクトで出かけた時、米国初代大統領ワシントンの故郷ワシントンの片田舎で、完全に2つに分離された歴史の名残を止めたパブに行ったことがある。仕切りなどは取り外され行き来自由になっていたが、イギリスの歴史を見た思いがしたので良く覚えている。
   客が場違いな場所に入ったら、主人はどうするのだとジムに聞いたら、「あちらの方が、貴方には、もっと気楽に楽しんでもらえると思うのですが。」と言うのだと言った。

   とにかく、私には、パブには色々な思い出がある。そのパブが、バタバタ消えていくなどと聞くと、文化の退化を感じて悲しい。
   
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都響:プロムナードコンサート9月

2023年09月18日 | クラシック音楽・オペラ
   久しぶりに、サントリーホールへ都響の演奏会に出かけた。
   私は、C定期の会員で、このプロムナードの演奏会は、振り替え公演である。
   概要は次の通り
   
都響:プロムナードコンサートNo.404
日時:2023年9月18日(月・祝) 14:00開演
場所:サントリーホール

出 演
指揮/ローレンス・レネス
ヴィオラ/タベア・ツィンマーマン

曲 目
モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622(ヴィオラ版)
プロコフィエフ:バレエ《ロメオとジュリエット》より
  ~ローレンス・レネス・セレクション~
  :噴水の前のロメオ/情景/朝の踊り/少女ジュリエット/モンタギュー家とキャピュレット家/マスク/ロメオとジュリエット/僧ローレンス/タイボルトの死/別れの前のロメオとジュリエット/ジュリエットのベッドのそば~ジュリエットの葬式~ジュリエットの死

  今回、聞きたかったのは、モーツァルト:クラリネット協奏曲、
  この曲は、私がクラシック音楽を聴き始めて、一番最初に魅了されて好きになった音楽で、同じモーツアルトのクラリネット五重奏曲と共に、レコードを聴き込んで、クラリネットの音色が脳裏に染みこんでいる。
  演奏会で、コンセルトヘボウだったと思うが、ホールで一度だけ聴いたくらいで、その後、聴く機会がなかったので、若かりし頃から、殆ど半世紀を経ての出会いであるから、無性に懐かしい。

   殆どメロディは、覚えているのだが、やはり、私の記憶の世界は、クラリネットであるので、いくら素晴しい名手の演奏でも、ヴィオラのサウンドでは、どこか異質で、私の耳には違和感が邪魔して、スンナリとモーツアルトの世界に入り込めない。

   私は、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲を聴くような気持ちで、モーツアルトのヴィオラ協奏曲を聴いているような錯覚に陥って、タベア・ツィンマーマンの演奏をじっと見ながら聴いていた。
   この日は、最前列の中央右寄りの席で、指揮者とダブって視界から消えることもあるが、直近であるから、最弱音のサウンドまで聴こえて、ボーイングの子細まで手に取るように分かって、興味深かった。
   聴き始めは、少し戸惑ったが、文句なしにモーツアルトの音楽であるから、ドップリと懐かしい青春時代のモーツアルトの世界に引き込まれて感動した。

タベア・ツィンマーマンのアンコール曲は、
クルターグ:イン・ノミネ

   ~ローレンス・レネス・セレクション~プロコフィエフ:バレエ《ロメオとジュリエット》は、1時間弱の素晴しいドラマチックな演奏で、実に楽しい。
   映画やテレビでお馴染みの劇的な悲劇の舞台音楽の連続であるから、曲想が舞台イメージを増幅して目まぐるしく展開する。
   私は、映画は、フランコ・ゼフィレッリが脚色・監督、レナード・ホワイティングとオリヴィア・ハッセー主演の作品しか見ていないが、この音楽の元のバレエは、ロンドンのロイヤル・バレエで観ているので、そっくり、作品のイメージが湧く。
   しかし、もっと、それより前のシェイクスピアの戯曲の世界を、RSCの舞台で、何度か観ている。そして、イタリアのベローナに何回か行って、ジュリエットの邸宅など実際の世界を訪れている。
   私の頭の中には、ロメオとジュリエットの世界が幾重にも重なって、走馬灯のように駆け巡っている。
   音楽の難しいことや、演奏の醍醐味や良さなど何も分からないが、こう言った中途半端な聴き方も、コンサート行脚の楽しみの一つではなかろうか。
  
   
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(8)ストラトフォードの街を歩く-1

2023年09月16日 | 30年前のシェイクスピア旅
   ホテルで重いイングリッシュ・ブレックファストを取って、カメラを片手に街に出ることにした。
   欧米での旅では、昼食は何処で取れるか、真面なレストランに入ると時間のロスだし場所探しも難しいし、重量級の英国風朝食を取れば、昼は、適当なファーストフードで済ませられるので重宝なのである。

   まず、ホテルのすぐ前にはRCAのスワン座、
   大劇場のロイヤル・シェイクスピア劇場は、1932年に建てられた記念劇場だが、このスワン座の方は歴史が古く、1879年に建てられたが、1932年に火災で焼けたので、1979年に内部をエリザベス朝時代の劇場の複製を目指して大改造された。ジャコビアン・スタイルのエプロン・ステージとギャラリー形式の座席がそれで、東京のグローブ座がこれに近い。舞台が劇場中央に大きく迫り出し、それを三方で囲い込むように数列の座席が並び、その上部にギャラリー席が重なっている。総べて木製で、その内部造形が美しい。外装のファサードも凝っていて、ビクトリア朝の華麗な雰囲気を醸し出していて、中々素晴しい劇場である。以前に演目は忘れたが2回ほどここで観劇しており、大劇場ではなくこぢんまりした芝居小屋風の臨場感溢れる舞台に魅せられている。この日、「テンペスト」の公演があったのだが、大劇場のアドリアン・ノーブル演出の「ロミオとジュリエット」を観たくて、涙を飲んだ。エントランスの左手に、昔のままの真っ赤なポストと電話ボックスが並んでいて素晴しい点景となっている。
   

   劇場の前のバンクロフト公園を横切って、エイボン川に架かったトラムウエイ橋を渡って対岸に出た。河畔の柳越しに、祈念大劇場とスワン座の丸屋根が水面に映えて美しい。今回英国に来てからずっと素晴しい快晴で、川面の浮かぶ白い小舟や白鳥が目に痛い。エイボン川越し遠くに、シェイクスピアの墓があるホーリー・トリニティ教会が見える。公園の角に、ゴワー記念碑が建っていて、シェイクスピアの座像を真ん中にして、四隅に戯曲の代表的な登場人物、ハムレット、マクベス夫人、ファルスタッフ、ハル王子の銅像が取り巻いている。各々イメージ通りの姿で、シェイクスピアは劇場を背にして座っている。

   ブリッジ通りを経て、ヘンリー通りに面したシェイクスピアの生家に向かった。このあたりでは、この家だけが古い現存家屋である。彼が、手袋商人として成功して郡長にまでなったジョン・シェイクスピアと郷士の娘メアリー・アーデンとの間の長男として生まれた家で、「世界最高の天才で最も名誉ある記念碑」と言われており、世界のシェイクスピア・ファンの神聖なる聖地でもある。チューダー朝のかなり大きな民家で、19世紀半ばに描かれたこの家の絵と比較すると、当時は、相当くたびれていた感じで、補修が繰り返されてきている。しかし、柱、梁、筋交いなどは絵と全く同じなので、出入り口や窓などが多少変更された程度である。
   この生家へは、1981年に完成したシェイクスピア・バース・プレイス・トラストの建物から入る。コンクリートの近代建築で、全く周りとの調和を欠いたアグリーな建物だが、BBCで放映されたシェイクスピア・ドラマに使用された衣装等が展示されていて、中々興味深い。生家の中は、出来るだけシェイクスピア当時の面影を残しているようで、フッとシェイクスピアが飛出してきても不思議ではない。裏庭は、比較的広くて、イングリッシュ・ガーデン風に草花が咲き乱れている。シェイクスピア戯曲に出てくる花や木々が植えられていて、彼の描いた自然が、イギリスのものであることが分かる。
   シェイクスピアが、この家に住んでいたのは子供の頃で、父親の事業が傾いた13歳までは、何不自由なく、この家からグラマー・スクールに通っていた。世界最高の劇作家を生んだ揺籃の地がこの生家なのである。
   
   
   
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阪神優勝・・・本当に嬉しい

2023年09月15日 | 生活随想・趣味
   昨夜、TVで阪神巨人戦を観ていて、阪神の優勝決定に感動した。
   岡田監督、選手の皆様や関係者の方々のご努力の結果であるが、京阪神を活性化したい熱狂的なファンの力も大きい。

    ロンドンに5年間生活しながら、一度もゴルフをやったことはないし、ブラジルに4年間住みながら一度しかサーカーを観戦していないほどだから、スポーツには、殆ど興味がない。
   しかし、阪神に対する思い入れは、スポーツが好きか嫌いかの域を越えている。

   私が阪神ファンなのは、至って単純で、私が、阪神の本拠地西宮に生まれて、子供の時に、甲子園球場に潜り込んで遊んでいた記憶があるなど、幼年期を過ごしたふるさとであり、生まれながらにして刷込まれたDNAであろう。
   甲子園球場へは、高校の時に、高校の野球部が兵庫県予選に出場したので応援に行ったり、夏の高校野球の甲子園大会を何度か見に行ったくらいで、その後関西を離れてしまったので、阪神戦も観ていないし一度も行っていないので、テレビでの印象しかないのだが、何故か無性に懐かしい。

   このブログでも、何度か阪神について書いているが、もう、30年以上も前になるのだが、パリで、阪神の吉田義男監督と一度会食したことがあり、星野阪神が優勝を決めた年のの2005年09月13日に、「阪神優勝・・・パリの吉田監督との思い出」として書いているのだが、懐かしいので、一部採録したい。
   当時、吉田監督は、オリンピックを目指して頑張っていたフランスチームの監督としてボランティアで働いておられた頃で、私は、仕事の都合でロンドンから出かけてJALホテルでお会いして、色々、興味深いお話を拝聴した。

   残念ながら、殆ど忘却の彼方だが、1985年のリーグ優勝と日本一の話の中で、覚えていることが二つある。
   一つは、阪神の優勝。
   「あんた、あの時、阪神優勝すると思いました?
    そうでっしゃろ、私も思いまへんでした。
    勝ち始めたら、あれよあれよですわ。いきおいですなあ。」
   もう一つは、その翌年の惨憺たる阪神の成績。
   「どんな手を打っても、あかん時はあきまへん。
    朝起きたら、真っ先に空を見まんねん。
    なんでや思いはります?
    雨やったら、その日は、試合がないから、負けんで済みますやろ。」

   私は、艱難辛苦の日々の苦労など、身を切るような思いに微塵も触れずに、淡々と語る吉田監督の顔を見ながら、大将とは如何に孤独で厳しいものかを感じて胸が痛くなった。
   運や偶然では決してない。恐らく、あの当時は孤軍奮闘で、大変な辛吟の中、必死になって頑張っておられたのであろうと思う。それでも、日本一に上り詰めたと思ったら、次には奈落の底、
   結果は天と地程も違ってくる。

   もう一度、吉田監督の話。
   「次、阪神は何時優勝すると思います?
    20年後?
    きつい事言わはるナァ。」
    この時、7~8年経っていたが、次の優勝は、18年後の2003年と2005年であった。

   長嶋監督が、弱い阪神が野球をダメにしていると言って阪神を立て直す為に星野監督に阪神入りを勧めたとか、逆に、当時は、巨人がプロ野球存続の足を引っ張っていた。
   「勝っても負けても、関西には熱烈な阪神フアンが居て、甲子園球場に来て電車に乗ってくれる、阪神電車が儲かれば良いのだ。」と言った阪神のお粗末な経営理念を、星野監督は根本的に叩き潰して優勝に導いた。
   コーポレート・カルチュアを変えてしまったから阪神は強くなった。
   もう、何十年も前の阪神に戻ったのである。

   さて、ドラッカーが、晩年になって、どんな組織でも、マネジメント理論は有効であると、理論展開を広げて本質論を説いた。
   阪急阪神Hの経営理念が、阪神の将来の帰趨を決すると言うことであろうか。
   タカが野球ではない。
   野球は、謂わば、文化文明の総てを凝縮したような総合産業であり、経営収支を越えて最も経営学の手法を必要とし、また、活用できる事業ではなかろうか。
   AIの進化と共に、どの様に野球が変って行くのか、興味深いが、やはり、阪神優勝で、道頓堀に飛び込む泥臭いファン心理も大切にしたいと思っている。

   理屈は兎に角、阪神が勝てば、文句なしに嬉しい。  
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わが読書:読み返した本は殆どない

2023年09月14日 | 生活随想・趣味
   小学生の頃から、本屋に通って自分で本を買って読み続けてきたのであるから、私の読書遍歴も、既に、75年。
   買った本は数千冊、読んだ本も、年に200冊を越えた年もあるから、2~3000冊は優に超えているであろうが、米国でのアメリカ留学や海外生活も長いので、英書も含めてだが、大半は、専門書や学術書などで、かなりかたい本である。
   読書が趣味かと言われれば、趣味かも知れないが、むしろ、生きていく証というか義務のように感じていて、生きがいに近かったように思う。
   何の疑いもなくどんどん読み続けて、立ち止まると人生を放棄したような気持ちになって、途中で逡巡することもなかった。
   海外に在住しているときには、出張などで帰国の度毎に、神田に通って大量の本を買い込んで持ち込んだ。

   さて、今、平川 祐弘 のダンテ『神曲』講義 を読んでいて、ふと思ったのは、私は、同じ本を殆ど二度と読み返したことはないのではないかと気付いたことである。
   この本は、25回にわたる講義録なので、意識して、1日に、1~2講ずつ、併読の合間に読んでいるのだが、最初に平川ダンテ「神曲」全訳本から読み始めて、今道 友信のダンテ『神曲』講義をビデオで聴講し講義を読み、その後、何冊かの神曲関連本を読み、ギュスタヴ・ドレエやウイリアム・ドレイクのが神曲画集など観てきたので、その積み重ねが功を奏したのか、随分、ダンテ「神曲」が、身近にビビッドに分かってきたのである。
   最初に、神曲全編を読み始めたときには、難しくて良く分からなかったし、本当は、今道先生の講義を何回か反復読書するなど繰り返して読んで、理解を深めた方が良かったのかも知れない。しかし、私の読書習慣で読破するだけで繰り返すことはなく、興味に任せて、どんどん、同じテーマの関連する本に移ってゆく。
   難しくて難渋していたこの神曲だが、この講義を読んでいて、乱読のお陰か、随分良く分かって楽しめうようななって来ているのである。
   同じ本を何度も深読みして理解を深めるのか、それとは違って、関連本をどんどんハシゴして周辺知識を取り込みながら楽しむのか、どちらが良いのか私には分からないし、今更、読書習慣を変える訳には行かないのだが、それ程無駄でもなかったような気がしている。

   さて、このダンテ「神曲」が、数多の芸術家をインスパイアーして産み出させた芸術の数々が凄い。
   ミケランジェロが、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂に描いた「最後の審判」の地獄風景。オーギュスト・ロダンが地獄篇第三歌より着想した「地獄の門」。ボッティチェッリや、サルバドール・ダリなどの『神曲』の挿絵や神曲に想を得た名画の数々。音楽では、チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ 」。
   これらの関連芸術を鑑賞しながら、ダンテ「神曲」の世界を増幅させながら楽しむのも、読書の妙味であろう。
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わが庭・・・スイフヨウ咲く

2023年09月11日 | わが庭の歳時記
   我が家の夏庭は、花気がないので殺風景である。
   カラフルなサルスベリが何株か植わっていたのだが、台風で倒れて切り倒したりして、白花の高木一本だけが残っているのだけれど、鑑賞向きではない。
   ところが、これも台風で倒れた花木なのだが、かなり大きくなっていたスイフヨウ(酔芙蓉)の根元20センチほど残しておいたら、芽吹出して一気に大きくなり、今年花を咲かせた。
   この花は、芙蓉の仲間なのだが、朝咲き出したときには真っ白な花が、少しずつ酔っぱらったように、赤み始めて、昼頃にはピンク、夕刻にはかなり赤く色付く。
   アサガオのように、朝咲いて夕刻には萎む1日の儚い命なのだが、曇天が続くので、鳥や虫がやって来た気配がない。誰がために、お化粧をして待つのか。
   
   
   

   下草で、顔を覗かせ始めたのが、ハナトラノオ。
   下から次々と順に小花が4列に咲き上がる面白い花なので、花言葉は、「達成」「希望」だと言う。
   
   
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(7)RSCのじゃじゃ馬ならし

2023年09月10日 | 30年前のシェイクスピア旅
   さて、今夜鑑賞するのは「じゃじゃ馬ならし」、人気の高い喜劇で、
   強情で手の付けられないほどのお転婆じゃじゃ馬娘のキャタリーナは、嫌われ者なので嫁のもらい手がない。ところが、ペトルーチオという豪傑が街にやって来て、持参金に魅力を感じて嫁にして、徹底的に調教して、何でも言うことを聞く素直で貞淑な妻に変貌させると言う話である。尤も、シェイクスピアのことであるから、それ程単純な話ではなく、冒頭、鋳掛屋のスライを欺して貴族に仕立てて、枠物語としてはじまる芝居にしたり、キャタリーナの妹で「理想的な」女性のビアンカをめぐる求婚者たちの争いを描くなど、サブストーリーも込み入っていて面白く、エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが主演した1967年の映画版『じゃじゃ馬ならし』も記憶にある。

   開演までに時間があったので、ロイヤル・シェイクスピア劇場のボックスオフィスに、チケットを取りに出かけた。窓口は2つあり、その1つの窓口嬢に、予約に使ったダイナースカードを渡すと、チケットの入った茶封筒の束から一通を引き出して、今夜と明日の夜のチケットですねと念をおして渡してくれた。今夜は「じゃじゃ馬ならし」で、明日は「ロメオとジュリエット」、スーパーシートで間違いない。チケットはコンピュータ打ちの10センチ四方の簡単なものだが、裏に印刷されている広告が面白い。ケンブリッジ大学プレスのもので、シェイクスピアが20歳の時からの印刷出版と銘打ってその歴史を強調して、台本、解説書、評論などのシリーズものを、劇場の売店で販売しているという宣伝である。

   何時もなら、2階のボックス・ツリー・レストランに行って夕食を取るのだが、昼にロンドンで、マイクとヘビーなランチを取ったので、劇場がはねてから軽い軽食を取ることにして、部屋に帰った。こんな場合には、劇場直近のホテルが便利で、オペラを観るときには、ウィーン国立歌劇場の裏手にあるザッハーに泊まっていた。部屋でゆっくりとプログラムを読んで、開演少し前に劇場に出かけた。席は、ストール(平土間)のほぼ中央の真ん中のL13,土間の傾斜がかかってすこし高くなった所で、丁度舞台がよく見える。前に特別背の高い人が来なければ最高の席である。

   ロンドンのRSCのシェイクスピア劇場であるバービカン劇場には、上下に引かれるガラスのカーテンがあるのだが、この大劇場には幕などはなくて舞台はそのままで、劇場の照明が暗くなるとドラマが始まる。劇によっては、準備の段階から役者が舞台に上がり、作業者の中に交じり込み、演技をしているのかしていないのか分からないうちに本番に入ることもある。
   元々、シェイクスピアの時代には、カーテンなどなかったしセットも貧弱で、青天井の野外劇場で芝居をしていた。今のように、素晴しい照明やセットでの芝居など今昔の観で、太陽が燦々と照りつける舞台で、漆黒の闇にハムレットの父王の亡霊が登場し、オテロのあの恐ろしい夜の暗殺シーンが演じられるのであるから、役者の話術と演技だけで観客に納得させなければならなかった。シェイクスピア戯曲は観るのではなくて聴くと言う由縁である。いずれにしろ、シェイクスピア劇は、短時間で舞台がポンポン変るので、その度に幕を引いたりセットを転換していては芝居にならない。

   これまでに、一度、ロンドンのバービカンで、RSCのじゃじゃ馬ならしを観ている。この演出は、比較的クラシカルで、イタリアのパデュアを舞台にしたという雰囲気が濃厚だったが、今回のオーストラリアの女流演出家ゲイル・エドワードの演出は、モダンでカラフルで、過去の伝統にはあまり囚われていない感じであった。例えば、ルセンシオとタミーノの乗る馬は、スクータ紛いのオートバイで、ペトルーチオとキャタリーナの乗る馬は、真っ赤なクラシックカーと言った調子である。エイドリアン・ノーブルのように比較的視覚を重視する演出で、現代感覚を重視し、登場人物の個性を強調する演出で、二人の良き主役を得たこともあって、何本もある副主題も上手く整理して面白い舞台を作り上げていた。
   視覚的で美しいのは、冒頭からで、スライと妻が諍い絡み合いながら登場する場面で、稲光で間欠的に照らしだす印象的なシーン。このスライが欺されて伯爵に祭り上げられる枠芝居は、大幅に省略されて象徴的となりすぐに本舞台に入った。ペトルーチオの婚礼の衣装は、破れ鎧ではなく、烏が孔雀のように極彩色の鳥の羽を飾り立てた派手な格好で、ウエディング・ドレスのキャタリーナとチグハグ、先入観が邪魔して一寸違和感。
   この演出では、主役の二人に比べて、ルセンシオとビアンカの影が少し薄い。面白いのは、じゃじゃ馬のキャタリーナと比べて理想的な女性である筈のビアンカが、必ずしも美しくて素晴しい女性としてではなく、可愛いが、一寸はすっぱな軽い感じに描かれていて、何故、3人もの崇拝者が彼女を競うのか、ピントがずれてしまう。しかし、じゃじゃ馬のキャタリーナに焦点を当てるためには、この演出でも趣向が変って面白かったのかも知れない。
   
   じゃじゃ馬キャタリーナのジェシー・ローレンスは、RSCデビューだが、結構キャリアーのある女優で、非常に安定した個性派で、この舞台では、ただのじゃじゃ馬ではなく、何か威厳というか誇りさえ感じさせる演技をしていて、調教されて良い女に成ったのではなく元々の淑女だったのだという雰囲気で興味深かった。ペトルーチオのマイケル・シベリーは大ベテランで畳みかけるような演技で歯切れが良い。この二人の大人の演技がずば抜けているので、後の役者は自由に泳いでいる感じで面白い。ご主人に成りすましたトラーニオのイカレポンチ風の演技が秀逸であり、ビアンカにモーションを掛ける求婚者たちのコミカルな演技も面白い。
   この演出のテキストは、本来のものとは違って、作者不詳の版を使用しているので、スライが最後にも登場する。キャタリーナが、素晴しい妻としての義務を説く幕切れで、照明が暗くなり始めると、ペトルーチオがキャタリーナの前に跪き倒れると、元のスライに戻り、領主の衣装を剥ぎ取られて元の場所に置き去りにされる。劇中劇だったというのは分かるのだが、何故、その劇が、じゃじゃ馬ならしだったのか。

    時差ボケで眠くて苦しいところもあったが、久しぶりに愉しませて貰った。
    気持ちよい夜風に吹かれてホテルとは反対に、電光に映えてぼんやりと輝いているストラトフォードの街に向かった。開いているのは、レストランとバーとパブだけ。エイボン河畔のパブに入って、何時もなら、ギネスの黒ビールなのだが、英国ビールは常温ばかりなので、冷たいハイネッケンにした。
    やっと、イギリスに来て、旅情を感じた。
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