熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

歌舞伎・文楽・能・狂言・落語・・・今月の観劇雑感

2016年01月31日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   年初の国立名人会の歌丸や小三治の落語に始まって、歌舞伎座の壽新春歌舞伎から、能・狂言、文楽など、今月も結構、観劇に通った。
   その都度、適当に観劇記を綴ってきているのだが、そのほかにも、書き漏れたものもあるので、纏めてみたい。

   まず、歌舞伎座の舞台であるが、昼の部と夜の部を観て、「茨木」と廓文章の「吉田屋」については、書いたが、吉右衛門や幸四郎の大舞台や、梅玉、橋之助、染五郎、松緑、魁春、芝雀、あるいは、左團次や歌六など名優たちの素晴らしい舞台については、触れなかった。
   吉右衛門の「梶原平三誉石切」や幸四郎の「二条城の清正」は、望み得る最高の舞台だと思っているが、ある意味では、それだけに、私などの観劇記を書くのは気が引けたし、橋之助の豪快な佐藤忠信の「鳥居前」についても、通り一遍の感想しか書けそうにないのでやめてしまった。
   一つだけ、しんみりとした温かい舞台を観て、感慨深かったのは、染五郎の直次郎、芝雀の三千歳、東蔵の丈賀などの「直侍」であった。
   進境著しい染五郎のどこか陰のあるニヒルな直侍も上手いが、雀右衛門を襲名する最後の歌舞伎座の舞台を務める芝雀の何とも言えない情の深い生身の女そのものの激しさ温かさが滲み出た舞台の素晴らしさ、それに、正に、ベテランのベテランたる所以を地で行くような按摩の東蔵の味のある芝居。
   うらぶれた蕎麦屋の舞台設定そのものもそうだが、しみじみとした、実に日本的な、懐かしさを感じながら観ていた。
   
   大阪の国立文楽劇場の舞台については、嶋大夫の引退披露狂言の「関取千両幟」と「国性爺合戦」については、観劇記を書いた。
   しかし、第1部では、素晴らしい「新版歌祭文」とコミカルタッチの狂言からとった「釣女」が、上演されたのである。

   「新版歌祭文」は、お染久松の野崎参りで有名な物語で、一途に思い詰めて恋に突進する若いお染久松のために、久松の許嫁の田舎娘おみつが身を引いて尼になると言う切ない話である。
   祝言であった筈の席に、島田まげを根から切って尼姿で現れたおみつの「・・・嬉しかったのはたった半時、・・・」が、実に悲しい。
   今回の舞台には、久松との祝言を何よりも喜んでいたおみつの母親が登場しなかった分だけ、救いだったかも知れないのだが、
   咲大夫と燕三・清公、呂勢大夫と清治の素晴らしい義太夫と三味線にのって、和生のおみつ、玉也の親久作、清十郎のお染、勘彌の久松たちが、苦しい胸の内を切々と吐露し慟哭し、おみつの、愛する久作のために悲しくも自ら身を引く終幕の感動へと演じ続ける。

   釣女は、狂言の「釣針」からの脚色で、歌舞伎もそうだが、とにかく、愉快である。
   独身の大名が、嫁を紹介して欲しくて、西宮の戎神社に行ってお祈りしたら、お告げで釣竿があったので、それを使って美女を釣り上げた。それを見ていた太郎冠者も、同じく妻を釣り上げたが、ブスであったので、すった転んだの大騒動。

   さて、能・狂言だが、横浜能楽堂での能「羽衣」と沖縄の組踊については書いたが、ほかに、4回、国立能楽堂に通っている。
   観世流の能「仲光」は、多田満仲(観世銕之丞)が、中山寺へ勉強に出した子息美女丸が、武芸ばかりに精を出して学芸一切ダメなので怒って、部下の藤原仲光(大槻文蔵)に、首を討てと命じたのだが、仲光は、代わりに自分の子幸寿丸を殺して忠義を貫き、その後、比叡山の恵心僧都(宝生閑病休、宝生欣也)が、命拾いした美女丸を連れて現れて、親子面会する。と言うストーリーである。
   満仲親子再会で、シテの仲光が、慶祝の意味で「男舞」を舞うのだが、忠誠のためにわが子への慈愛を犠牲にした武士道的悲劇を込めての舞姿が、胸を打つ。
   この能で、興味深いのは、舞台が私の小中高の学区内で、中山寺などへは良く行ったし、多田の荘などは、当時は、全くの山深き僻地とも言うべきところで、よそ者が田舎道を歩くと、農仕事の人たちが、手を止めて立ち上がって見続けていると言った状態であった。
   今では、ずっと奥まで開発されて、大阪のベッドタウンとして都市化されて、住宅地が広がっていて今昔の感である。

   祝祷芸の様々と言う企画公演では、菊池の松囃子が演じられ、舞囃子「高砂」(シテ宝生和英宗家)、狂言の「松囃子」(シテ万歳太郎・野村又三郎)、狂言「靭猿」が上演された。
   興味深かったのは、茂山七五三家三代の「靭猿」で、大名・七五三、太郎冠者・宗彦、猿引・逸平、猿・慶和(逸平の長男)で演じられた。
   同じ千五郎家の「猿引」でありながら、少し前に演じられた千五郎の大名、七五三の猿引の時の舞台とは、大分、演出なり演じ方が違っているのが、面白かった。

   定例公演の狂言「岡太夫」は、聟入りの話で、萬斎の芸の冴え、
   能宝生流「蟻通」(シテ/宮人岡崎隆三)は、紀貫之が、歌を詠んで蟻通明神を鎮める話。

   今日の特別公演は、
   能・金剛流「鱗形」(シテ/廣田幸稔、ワキ/高安勝久)
   狂言・大蔵流「舟船」(善竹忠重、善竹十郎)
   最後の能・観世流の「唐船」が、興味深かった。
   箱崎の某(ワキ・福王和幸)に抑留されて牛飼いとして働いている祖慶官人(シテ・武田志房)のところへ、唐から実子二人が財宝を携えて迎えに来るのだが、日本で生まれた二人の子の帯同が許されないので、進退窮まった官人は、海に身を投げようとする。
   4人の子供が泣いて止めて、嘆き悲しむのを見て、流石の箱崎某も許して全員帰港させる。
   最後は、脇正に置かれた唐船に、一番後ろに船頭が乗り帆柱を立てて帆を張り、その前に4人の子供が座り、その前の舳先部分の狭いところで、官人の「盤渉楽」。
   一条台の上で舞う「邯鄲」と同じ趣向で、非常に狭いところで、広々としたところで舞っているかのように優雅に舞い続ける。
   この舞台で活躍するのは、4人の10歳くらいの子方の凛々しい晴れ姿で、聴いていて非常に頼もしいと思った。
   作り物でも、この舞台の唐船は、布も張ってあり、かなり、立派な出来であった。
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シーボルトが紹介した日本文化

2016年01月30日 | 学問・文化・芸術
   人間文化研究機構主催で、【公開講演会・シンポジウム】 第27回「没後150年 シーボルトが紹介した日本文化」が、ヤクルトホールで開催されたので聴講した。

   基調講演は、ボン大学のヨーゼフ・クライナー名誉教授の「シーボルト父子の日本コレクションとヨーロッパにおける日本研究」
   続いて、
   大場 秀章東大名誉教授の「ジャポニズムの先駆けとなったシーボルトの植物」 
   松井 洋子東大教授の「近世日本を語った異国人たち:シーボルトの位置」の講演
   最後に、歴博の大久保純一教授の司会で、講演者全員に、歴博の日高薫教授が加わって、
   パネルディスカッション 「シーボルト研究の現状とこれから」が行われた。

   もう、20年以上も前の話になるが、オランダに住んでいた時に、ライデン大学は、シーボルトゆかりの土地なので、ライデン大学付属の植物園を訪れたことがある。
   シーボルトが日本から持ち帰ったイチョウやフジなど、日本の花木が、そのまま生育していて、無性に、懐かしさを覚えた思い出がある。
   今、素晴らしい日本博物館のシーボルトハウスが建設されて、人気を博しているようだが、あの時、何か、その前のシーボルトの遺品などを集めた展示施設があったのか、それを見る機会があったのか、全く、覚えていない。

   クライナー教授は、ヨーロッパにおける日本学について語った。
   最初は、文献、書物、文学なおど献学的な文学中心の日本学が、社会学的な側面を加え、更に、VISUAL TURN 美術芸術を包含するように進展していったと言う。
   しかし、最初に体系的・総合的に日本研究が試みられ、それを成功させたのは、1820年代に、ヨーロッパに渡ったシーボルトコレクションであったり、著作NIPPONだったと言うから、非常に最近のことなのである。

   大場教授は、シーボルトが、日本の庭園が、多様な自生植物を取り入れた豊かな多様性の高い庭園植物相を具えているのを実感して、貧弱な庭園植物相しかもっていなかった庭を、日本の植物で変えたいと考えて、沢山の鑑賞用に供される日本植物をオランダに移送したとして、その後の推移など、興味深く語った。
   ユリ、つつじ、アジサイ、もみじ等々、オランダで品種改良された話などを含めて興味深い話が続いた。

   ところが、チューリップがオランダで注目され始めたのは、1620年で、チューリップバブルの崩壊は、1637年2月3日であり、実際に、チューリップの品種改良が全盛期を迎えたのは、1700年代と言われている。
   また、花を中心に描く静物画が脚光を浴びたのもこの頃だが、まだ、オランダでも、非常に富裕な家庭でさえもデルフト陶器のチューリップ用花挿しに一本ずつ花を飾るのが精いっぱいだったと言われており、シーボルトの時代でさえ、今のように、家の内外に花が咲き乱れる風景は、皆無だったのである。

   余談だが、シーボルトの日本植物の移送は、かなり、プリミティブであったようで、移植できたのは非常に限られていたと言う。
   世界中の植物の収集移植などに関しては、イギリスのキュー・ガーデンの右に出るものはないはずで、地球上のあらゆるところにプロのプラント・ハンターを送り込んで植物を採集して、船舶に温室や特別な保蔵設備を設置したり、イノベーションにイノベーションを重ねて珍しい植物を集めて運び込んで、育成し品種改良するなど学術的な調査研究を行っている。
   私は、近所に3年以上住んで通い詰めたので、良く知っているが、桜は季節には咲き乱れるし、もみじや椿など、多くの日本の花木が、広大な庭園のあっちこっちに、土地の種のように普通に植えれれていて、全くの異質感がない。

   松井教授は、出島を通じての日蘭関係や当時の交易や情報収集状況などの仕組みや歴史などを語りながら、シーボルトはじめ日本に関係した外国人たちの資料を通して、江戸時代以降の日本像を語った。
   私には、出島の組織や機能、その歴史など、初めて聞くような話が多くて非常に興味深かった。

   私が、一番気になっていたのは、今回のシンポジウムで、シーボルトの日本学への貢献など偉大な業績については、全く、頭が下がり、尊敬に値するのだが、以前にNHKのドキュメントで放映されていた伊能忠敬の作った日本地図を持ち出そうとした所謂シーボルト事件に対する疑問である。
   その目的は、何だったのか、クライナー教授に質問したら、教授は、シーボルトは、何でも熱心に集めて研究する人間であって、地図もその中の一つであり、スパイの意図はなかったと回答されていた。
   興味深かったのは、これほど、詳細で精密な地図が出回っているのであるから、最早、日本は鎖国の意味がないと言う考えがあったと言う指摘であった。

   さて、日本学と言うか日本に対するヨーロッパの感心だが、ドナルド・キーン先生が、
   ケンブリッジで勉強していた頃、(1950年代の前半のよう)何を勉強しているのかと聞かれて「日本文学」だと答えると、何故、猿真似の国の文学を勉強するのだと、10人中9人から聞かれたようで、当時、日本に関して欧米人が知っていた唯一のことと言えば、日本が猿真似の国であると言うことだったと語って、それ程、日本のことが知られていなかった。と語っている。
   私が、アメリカの大学院で勉強していた1970年代には、少しずつ、日本に対する関心が高まり始めて、日本経済が台頭し始めた1980年代、JAPAN AS NO.1の頃には、一気に日本人気が世界中を駆け巡ったのだが、1990年代に入ると、欧米の新聞やメディアのASIAのタイトルのトップはCHINAで、JAPANは消えてしまった。
   私のこれまでの経験では、日本学の方は良く分からないが、日本人が思っているほど、世界の人々は、日本にもそれ程関心を持っていないし、日本のことを知らないと言うことである。
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国立文楽劇場・・・「国性爺合戦」

2016年01月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この「国性爺合戦」は、昨年2月に、国立劇場で上演されたが、「千里が竹虎狩りの段」から「紅流しより獅子が城の段」まで二段目の後半から三段目までの部分だけだったが、今回は、初段の「大民御殿の段」から三段目までの通し狂言である。
   この後、
   神意を得た和藤内の妻・小むつが栴檀皇女を伴って平戸から中国松江に渡る。皇子を匿って山中にいた呉三桂と、鄭芝龍ともども、見える。敵兵に攻められるが、雲の掛橋の計略によって難を逃れる。とする四段目と、
   和藤内と甘輝が、呉三桂と竜馬ヶ原で再会し、韃靼攻略に南京城に向かった鄭芝龍の後を追って、南京城を攻め、敵を倒して、皇子を位につける。と言う五段目が続く。
   しかし、これらが、上演された記録がなくて、今回のような規模の通し狂言も、1984年7月以来初めてで、大半の公演は、三段目が主体である。

   尤も、この同じスケールの通し狂言が、平成22年11月に、歌舞伎バージョンで、国立劇場で上演されていて、
   和藤内(鄭成功)市川 團十郎、五常軍甘輝 中村 梅玉、錦祥女 坂田 藤十郎、老一官 市川 左團次、母渚 中村 東蔵 等の名優によって演じられている。
   松竹のように、「見取り」と言うアラカルト形式で、良いところを集めて細切れ上演するのとは違って、通し狂言を上演できると言うのは、やはり、国立劇場の良さであろうか。

  
   この浄瑠璃の主人公である、和藤内(鄭成功)が、中国人の父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に日本の平戸で生まれて、中国に渡って大成功を遂げて偉人として尊敬されたと言うことは、事実だが、異母姉の夫・甘輝と同盟を結んで韃靼に闘いを挑んだと言うのは、近松の創作である。
   この浄瑠璃では、
   追放されて平戸に渡って老一官と称した明の元役人鄭芝龍が、日本妻を娶って生まれたのが和藤内で、
   逃亡を企てて日本の平戸に流れ着いた栴檀皇女から、民国が、韃靼王に滅ぼされたと聞いて、征伐のために、一官夫妻と和藤内が民国に渡る。
   鄭芝龍が2歳で明に残した娘が、五常軍甘輝の妻錦祥女となっているので、この伝手で、和藤内は、甘輝に加勢を願い出て、その同意を得て、「延平王国性爺鄭成功」の名を与えられ、討伐軍を立ち上げる。

   しかし、元々明の臣下であった甘輝は、鄭成功への加勢には同意するが、女の情に絆されて一太刀も交えずに寝返ったとすれば、末代までの恥辱だとして、錦祥女を殺そうとする。
   錦祥女は、甘輝の説得に成功すれば、城に流れる水路に白粉を、失敗すれば紅粉を流すと城外の和藤内に伝えてあったので、自分の胸に懐剣を刺して自らの血を水路に流す。
   交渉決裂と知った和藤内は、城内に入って甘輝と剣を抜いて戦おうとした時に、瀕死の状態の錦祥女が現れて、和藤内への加勢をかき口説き、これを知った一官の妻が、義娘を見殺しにしては日本人としての誇りが許さないと錦祥女の懐剣を取って自らも自害する。
   これを見た甘輝が、意を決して、和藤内を大将軍と仰ぎ鄭成功の名を与えるのである。
   この部分が、この近松門左衛門の浄瑠璃のクライマックスで、文楽のみならず、歌舞伎でも、名舞台として上演され続けているのである。

   ところで、従来多くの舞台が、和藤内たちが民国に渡って、千里が竹の虎狩りから始まるのに比べて、今回は、冒頭の舞台が中国で、中国オンリーの物語である民国の危機から始まり、民国皇女の漂着で始めて日本の芝居となっており、印象が新鮮であると同時に、何故、和藤内たちが、明朝再興のために中国に出かけて旗揚げするのかが分かって面白い。

   今回の舞台では、大夫と三味線では、異動があるのだが、人形の方は、甘輝が、玉男であるほかは変っておらず、錦祥女だけが、前回の清十郎に変わって、今回は、勘十郎が遣っている。
   衣装こそ中国の姿をしているが、実に、親子の情愛、姉弟の絆を感動的に人形を遣って語りかけており、観客の拍手を誘って爽やかである。
   老一官妻の勘壽が出色の出来で、老一官の玉輝もうまい。
   勿論、甘輝の玉男の威風堂々とした風格と貫禄、和藤内の幸助の颯爽とした偉丈夫、も感動的である。
   千歳大夫と富助、文字久大夫と藤蔵など、浄瑠璃と三味線が絶好調で、更に、観客の高揚感のボルテージを上げる。
   
   さて、実際の鄭成功は、5歳で父に伴われて中国に渡っており、新王朝となった清と戦ったが、父は抵抗無益と悟って清に降り、南京を目指すも敗退し、台湾に転進してオランダ軍を追放し、台湾では、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されていると言う。
   したがって、この浄瑠璃の「国性爺合戦」は、完全に近松門左衛門の創作であり、甘輝も錦祥女も実在しなければ、紅流しもない。

   橋本治が「浄瑠璃を読もう」の、『国性爺合戦』と直進する近松門左衛門と言う章で、この浄瑠璃では、父の老一官は方向性を示すだけで何もしない、甘輝との説得工作をするのは、錦祥女の義母に当たる和藤内の母(歌舞伎では渚)で、その日本人のバーさんが、「国性爺合戦」の中では、最も重要な役割を果たす人物となる。と書いている。
   勿論、近松が意図したのは、唐でもない和でもないハーフの英雄:和藤内を主人公にした日本精神発揚の物語を書いて聴衆にアピールしようと思ったのであるから、義理人情、忠君愛国を表出するためには、母こそ格好の登場人物だったのである。
   そうでないと、「千里が竹虎狩りの段」で、和藤内が、伊勢神宮のお守りを掲げると、猛虎がおとなしくなり、お守りを首にかけた虎が神通力を発揮して敵を退治すると言う奇想天外なストーリーを挿入するわけがない。

   当時は、鎖国の時代で、中国と言えども、殆どファンタジーの世界で、エキゾチックなこの浄瑠璃が受けたのであろう。
   通し狂言の良さは、どっぷりと、物語を、筋を通して楽しめることであろう。
   
   
   
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文楽への関西旅・・・(2)JAL機窓から・羽田ー伊丹

2016年01月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   24日、大寒波来襲と言うことで、飛行を心配したが、晴天で、クリアな空模様のために、機内からの展望を楽しむことが出来た。
   最近、携帯に、大型カメラが苦痛になってデジカメながらかなり写りの良いSONYのRX100を愛用しており、これでなければ、小型のミラーレスを使っている。
   
   離陸時は、やや、霞んでいたが、木更津からの高速が一直線に、そしてその先に海ほたるが見えてきて、このあたりから、かなり、展望が良くなった。
   東京湾の南側を飛んでいるので、やや、遠くて、東京の街並みは、はっきりしなかったが、川崎から横浜方向は、展望が利いた。
   まず、川崎と横浜の写真だが、かなりクリアに見えている。
   首都圏でも過密な地域なので、殆ど全域が生活区と言う感じで、窒息しそうな感じである。
   
   
   
   
   
   

   富士が見えてきたが、東方向からガスがかかっている。
   前方右側の窓際の席に座ると、天候によるが、富士を遠望できるのだが、毎回、その姿が変っていて面白い。
   富士の手前の箱根や富士五湖あたりには、雲がかかっていて、見晴らしが良くない。
   この日は、富士山は、東面に雲がかかっているが、かなり、クリアで、宝永山の噴火跡もよく見えた。
   鎌倉に移り住んでからは、それ程、縁がなくなったわけではないのだが、よそ者には、富士山は特別な山で、見えると嬉しくなるのである。
   
   
   
   
      
   中部山脈や日本アルプス方向は、雲がかかっていて展望が良く利かなかったし、奇麗な雪を頂いた高山も見えなかった。
   静岡の西部から名古屋に近づいてくると、急に視界が広がってきた。
   3枚目の写真の中央の高いビルは、名古屋駅であり、その右方向の緑地が名古屋城である。
   知多半島や中部空港が、奇麗に見えた。
   
   
   
   
   
   

   名古屋湾を横切ると、三重県。
   四日市と津市が見えてきて、背後に、近畿地方の山々が見えてくる。
   遠くの方に、微かに、琵琶湖が一直線の帯状に見えてくる。
   
   
   
   

   最初の3枚の写真は、三重上空から琵琶湖方面を遠望したもので、上方のうっすらとした直線が琵琶湖である。
   三重県から奈良の上空に向かうと、宇治方面から、遠くに京都が見えてくる。
   白く光っているだけで、まだ、この時は良くは見えないのだが、雪を頂いた比良山系が見えるので、東側からは、その手前が琵琶湖で、その右手には京都があると言うことである。
   奈良がかなりよく見えている。
   雨で2割しか山焼きが出来なかったと言う若草山が、右手の白い山で、東大寺の大仏殿が5枚目の中央に微かに見えている。
   
   
   
   
   
   

   最初の写真は、中央の若草山の背後が、京阪奈の学園都市方向で、その向こうに伸びている街並みが京都である。
   生駒山を眼下にすると、もう、奈良の北部上空で、左手に大阪の街並みが広がる。
   淀川の向こうに天王山から三川合流地点、その先が京都で、高く比叡山が見えるが、雪をかぶっているのは、その北(左手)にある比良山である。
   写真の淀川の先の左手に濃く伸びているのが天王山で、その左の小さな緑地が石清水八幡宮の森で、その向こうが京都の街並みである。
   背後にあった巨椋池の巨大さが良く分かる。
   この三川合流地点は、阪急や京阪で通過すると地峡のように迫ってくるのだが、上空からみるとフラットな感じがして面白い。
   このあたりは、能や歌舞伎・文楽などの舞台になっていて、興味深いところでもある。
   淀川が見えると、大阪の上空に差し掛かり、北部の大阪の都市が一望できるのだが、緑地らしきものは殆ど見えず、完全に都市化されてしまっていて、私の学生時代とは、今昔の感である。
   北摂の街並みが見えるので、万博公園の太陽の塔も見えている。
   前には、大阪梅田などの上空を通過したので、都心部が写せたのだが、この日は、少し北側を飛んだようである。
   
   
   
   
   
   
     
   
   
   
   
   
   いつもは、機中で本を読んで過ごすのだが、この日は、窓から日本の姿を遠望していた。
   乱開発の爪痕が、沢山残っていて、ショックではあったが、幸か不幸か、バブル崩壊後の失われた20年のお陰か、昔ほど酷くなくなっていたのは救いであった。
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国立文楽劇場・・・豊竹嶋大夫引退狂言「関取千両幟」千穐楽

2016年01月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   文楽の本拠地大阪から始まっている嶋大夫引退狂言「関取千両幟」の千穐楽公演を見る機会を得た。
   「関取千両幟」の幕開き前に、盆が回って登場した嶋大夫と三味線の鶴沢寛治師が正座して深々とお辞儀をすると「嶋大夫!」の掛け声と熱狂的な拍手、司会兼口上を述べたのは呂勢大夫で、立て板に水の名調子で、嶋大夫の業績などを語り、観客の惜しみなき感動の拍手に迎えられて幕が開く。
   
   
   
   

   一時体調を崩されていたようだが、嶋大夫は、何時ものように、演台に手を添えての素晴らしい熱演で、冒頭の「芝居は南、米市は北、相撲と能の常舞台・・・」と語りはじめると、水を打ったような静寂、観客の熱いまなざしを受けて浄瑠璃が熱を帯びる。
   髪梳きで、「相撲取りを男に持ち、江戸長崎国々へ、行かしやんすりりやその跡の、留守はなほ更女気の、独りくよくよ物案じ・・・」
   恩ある贔屓筋のために、勝負に負けなければならない苦衷に泣く夫猪名川に、何故、打ち明けてくれないのかと、涙ながらに夫への熱い思いをかき口説くおとわの哀切極まりない嶋大夫の浄瑠璃に、簑助の遣う人形が嗚咽を堪えて甲斐甲斐しく試合前の猪名川の髪を梳く。実に優雅で美しい。
   嶋大夫は、この、おとわのクドキが情があって、いいんですよ、と言う。

   さて、今回の舞台は、一門で臨む最後の舞台と言うことで、嶋大夫のほかに、師匠の孫・豊竹英大夫(猪名川)、以下弟子の竹本津國大夫(鉄ヶ嶽)、豊竹呂勢大夫(北野屋)、始大夫(大坂屋)、睦大夫(呼遣い)、芳穂大夫、靖大夫と一門が顔をそろえた。
    「引退にかけて、劇場が一門でやらせてあげようという親心だと思う。うれしいし、ありがたい」。嶋大夫は顔をほころばせると言うのだが、
   引退披露狂言の選定は、この日経の小国由美子さんの記事では、”嶋大夫は掛け合いで、おとわを演じる。自身の希望ではなく、文楽劇場から勧められたという。”と言うことで、このアレンジも、嶋大夫の決断ではなかったようである。

   しかし、嶋大夫が、1994年4月より切場語りとなったと言うことで、私自身、丁度、その前年にロンドンから帰って来て、その後、殆ど欠かさずに国立劇場へ通い続けて文楽を鑑賞しているので、嶋大夫の得意とする情あふれる「世話物」の語りや、それらの文楽の名場面は、十分に楽しませて貰っており、このブログにも書いている。
   一期一会であるから、この素晴らしい最後の「関取千両幟」のおとわを聴いて、聴きおさめと言うのも、凄いことだと思っている。
   尤も、もう一度、東京の国立劇場で、千穐楽を聴くことにしている。

   ところで、国立劇場の上演記録を見ると、平成25年2月では、おとわは、源大夫が休演で呂勢大夫が、平成18年2月では、おとわは、咲大夫が勤めており、嶋大夫が演じたのは、平成7年9月と平成4年11月で、この国立文楽劇場では、ほぼ、23年ぶりなのである。
   私は、平成18年の方は記憶が残っていないが、平成25年の舞台を観ており、簑助のおとわや藤蔵などの三味線の曲弾きのなどのすばらしさについて、このブログに書いているが、今回の舞台でも、寛太郎が、凄い曲弾きを披露していた。
   それに、臨場感たっぷりの相撲シーンもあって、鉄ヶ嶽が、塩の後で、琴奨菊よろしくイナバウアー・スタイルをして、観客を喜ばせていた。

   玉男が、「世話物、女形の艶のある語り、きれいな声が印象に残っております。」と語っているが、女形を遣っては最高峰の簑助のおとわの人形に血も涙も、そして、魂をも吹き込んで情に生き情に泣かせるのであるから、最高の引退披露公演であろう。

   さて、八代豊竹嶋大夫引退披露狂言「関取千両幟」終演後、幕が開くと、舞台を終えたばかりの鶴澤寛治、吉田簑助が花束を持って舞台に立っていて、呼ばれて登場した嶋大夫に、花束が贈呈された。
   簑助は、おとわの人形を優雅に遣って花束を渡し、嶋大夫と握手をさせていたが、身売りしてまで夫の義理を立てた女の鏡とも言ううべき(尤も、今から言うとナンセンスだが)理想の女神からの感謝の花束を演じていたのかも知れない。
   このシーンは、国立文楽劇場のHPの写真を借用して転写する。
   
   

   さて、嶋大夫の人間性そのものの発露なのであろう、劇場には、派手で目立った引退披露狂言と銘打ったディスプレイも飾りつけも何もなく、平静と変わらない、実に静かな佇まいである。
   唯一、嶋大夫の写真が飾られているのは、1階ロビーから2階のエントランス・客席へ上る階段ホールの壁面にかけられている「関取千両幟」のポスターだけである。
   
   
   
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文楽への関西旅・・・(1)はじめに

2016年01月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   大阪の国立文楽劇場で上演中の八代豊竹嶋大夫引退披露狂言の「関取千両幟」の千穐楽を聞きたくて大阪に行った。
   当然、第1部、第2部とも鑑賞することになるので、大阪で2泊することにした。
   いつもは、文楽劇場に近い日本橋やなんばのビジネスホテルに泊まるのだが、最近は、中国人観光客の団体が入って、予約不能で、今回は、現役時代に使っていた天満橋のホテルに泊まった。
   爆買いで日本経済が潤っているとかで良いのか悪いのか分からないが、道頓堀や黒門市場で、街頭で食べ物を食べて闊歩している人の大半は、中国人で、街がハイジャックされているような雰囲気である。

   さて、これまでも、大阪の国立文楽劇場へは、住大夫の引退披露公演や二代目吉田玉男襲名披露公演の時もそうだし、仮名手本忠臣蔵の通し狂言の時もそうだが、特別な公演の時には来ているのだが、やはり、2泊の予定で来ている。
   しかし、私の故郷でもあり、青春の思い出が凝縮している関西であり、折角の関西旅行であるから、その間、目一杯、京都や奈良などを歩いたり、人に会ったり、有効に過ごしている。

   今回は、この文楽公演を中心にして、次のような日程で移動した。
   第1日目 JAL111便にて、10時45分 伊丹着
        京都に行き、北野天満宮、御室仁和寺、太秦広隆寺
   第2日目 奈良 西ノ京へ行き、唐招提寺、薬師寺、
        奈良にて、親友に会い昼食 
        文楽劇場で、第2部鑑賞
   第3日目 なんば散策 文楽劇場で、第1部鑑賞
        生玉神社、四天王寺、お初天神
        JAL134便にて、19時30分 伊丹発

   第1日目の24日は、大変な寒波が予想されて、大雪など飛行機が飛ぶのか天候が心配されたのだが、大変寒かったが、中央アルプスは雲で見えなかったが、富士はよく見えたし、名古屋上空くらいから快晴で、多少ガスがかかった感じではあったが、琵琶湖が微かに見えたし、雪に白くなった京都が遠望できたのだが、初めての経験で嬉しかった。

   京都と大阪の古社寺散策は、能や文楽の舞台を訪れようと思って出かけたのだが、北野天神では、梅が咲き始めていて奇麗であった。
   仁和寺は、大学時代以来であるから、懐かしかった。
   広隆寺と唐招提寺と薬師寺では、素晴らしい仏像に再会できて、感激一入で、この時は、珍しく、和辻哲郎の「古寺巡礼」を持って行ったので、学生時代の古社寺散策の思い出が、走馬灯のように駆け巡って感無量であった。
   大阪では、四天王寺は、能の弱法師だが、他は近松の曽根崎心中の世界を訪れようとしたのだが、お初天神も何十年ぶりかで、様変わりが著しくてびっくりした。

   文楽も素晴らしかったが、結構写真を撮ったので、この旅の印象記を書いてみたいと思っている。
   
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鶴岡八幡宮・・・ミシュランの鎌倉観

2016年01月24日 | 鎌倉・湘南日記
   何十年ぶりかで、鶴岡八幡宮の石段を上って、本殿の前まで行った。
   普段は、大鳥居の前で左折したり右折したりして、ほかの古社寺などの観光スポットに行っているので、機会がなかったのである。
   鎌倉へ来る観光客の大半は、この八幡宮を訪れるので、鎌倉駅頭から小町通りや若宮大路の歩道は、毎日、大変混雑している。

   さて、若宮大路から大鳥居越しに、朱塗りの鮮やかな舞殿と本宮が重なった緑に映える風景は、正に、鶴岡八幡宮の象徴とも言うべき有名な風景である。
   私など、この鶴岡八幡宮の朱塗りの建物は、仮名手本忠臣蔵など、歌舞伎の舞台で見ることが、結構多い。
   江戸時代の歌舞伎は、江戸を舞台にして当時の現代劇を演じることを憚られたので、江戸を鎌倉に置き換えることが多かった所為であろうか。

   興味深かったのは、実朝が暗殺された樹齢1000年といわれゆかりの大銀杏が、平成22年3月10日未明に倒壊したのだが、倒れた大銀杏の幹は切断され、移植されのが、舞殿の建物越しに見える。
   本宮への急な石段横に立っていて、素晴らしい景観だったのだが、再生すれば素晴らしいと思う。
   
   

   本宮の建物は、非常に巨大で威圧感抜群である。
   建物そのものも、美しい。
   いつも不思議に思うのは、おみくじやお守りなどを販売している社務所に人が集まっていて、それに、絵馬を熱心に書いて奉納している人が、若者でも、結構多いことである。
   
   
   
   
   
   

   本宮の前に立つと、舞殿の屋根の向こう、大鳥居越しに、若宮大路と周辺の街並みが遠望できる。
   檀蔓の改修工事が大分進んでいるようだが、どうも、私の誤解か、桜が植え替えられると思っていたのだが、そのままの状態のようで、今年の春には、檀蔓の桜並木を楽しめそうである。
   
   

   さて、ミシュランのThe Green Guide JAPANを見ていて、興味深かったのは、一番権威のある英文の日本ガイドで、鎌倉が、どのような評価なり人気を博しているのか興味を持った。
   本文では、2つ星だが、ほかのページではすべて、Highly recommendedであるから、ミスプリで、文句なしの3つ星観光地なのであろう。

   ところで、この鶴岡八幡宮の評価だが、1つ星で、やはり、檀蔓の桜並木が特記されている。
   政子が、舞殿への三つの架け橋をデザインしたとか、この舞殿で、静御前が舞ったとか、頼朝が義経の家族に切腹を命じたとかが書かれているのが、興味深い。

   ついでながら、鎌倉で、3つ星の指定を受けているのが、報国寺と東慶寺。
   報国寺は、やはり、あの竹林で、Bamboo forestとして写真が載っている。
   東慶寺も写真が載っているが、四季の花々で彩られる美しい庭園が評価されていて、それに、駆け込み寺に興味を感じたのであろう。
   英語でDivorce Templeと表記されているのだが、一寸、ニュアンスが違う。
   いずれにしろ、外国の日本ガイドは、結構、参考になって面白いのである。
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壽初春大歌舞伎・・・鴈治郎と玉三郎の「廓文章・吉田屋」

2016年01月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   

   正月歌舞伎の夜の部に、玩辞楼十二曲の内 廓文章の吉田屋が上演され、これまでの藤十郎や仁左衛門とは違って、代替わりと言うべきか、襲名なってメキメキ芸の充実を示してきた鴈治郎が、この新歌舞伎座の柿葺落五月大歌舞伎で仁左衛門と登場して以来、久しぶりに出演した玉三郎の扇屋夕霧を相手にして、華やかな舞台を見せた。
   鴈治郎は、昨年5月に、実父藤十郎の夕霧に華を添えられて演じており、今回は満を持しての晴れ姿であろう。

   この歌舞伎は、歌舞伎美人では、男女の恋模様がみどころの上方和事の代表作と言うのだが、何度見ても、男女の典型的な色恋模様と言うよりも、近松を筆頭に、あの「夫婦善哉」もそうだが、頼りなくてがしんたれの大阪男の代表のような男の芝居であるから、げらげら笑って見ていても、何となく、あほらしくて切ない。
   今放映中の朝ドラの「あさが来た」のあさと新次郎を見ているようで面白いのだが、何故、物語の世界では、しっかりして敢然と運命に対峙する健気な大坂女と、頼りなくて能無しの大坂男ばかりが、登場するのであろうか。

   尤も、昔から、「また負けたか八連隊」と言われていて、大阪の兵隊は負けてばっかりだったと言う風説が立っているのだが、これは、本当ではなく、ウイキペディアによると、口数が多く弁舌が立ち、商人気質で損得勘定に敏く、かつ反権力的というステレオタイプかつ偏見混じりの大阪商人気質のイメージの反映だと言う。
   とにかく、それもこれも、近松門左衛門の大坂を舞台にした心中物、曽根崎心中の徳兵衛とお初、心中天網島の治兵衛とおさん&小春、冥途の飛脚の忠兵衛と梅川、それに輪をかけたような、夫婦善哉の柳吉と蝶子、のイメージが悪過ぎる。
   すべてこれであるから、弁解のしようないのかも知れない。

   さて、歌舞伎の「吉田屋」は、
   大坂新町の吉田屋に、放蕩の末に勘当されて、編笠をかぶって紙衣姿の藤屋の若旦那伊左衛門が、恋人の夕霧に会いたくてやってくる。落ちぶれたとはいえ、元々の飛び切りの上客であったので、喜左衛門夫婦の計らいにより座敷へ迎え入れられる。嫉妬してふて寝している伊左衛門のところに、伊左衛門に会えなくて病気になった夕霧が姿を現すのだが、二人は、つまらない痴話喧嘩を始めてすったもんだ。ようやく仲直りをした二人のところに、勘当が許されたと、夕霧の見受け金が届けれれて、万々歳。

   ところで、この吉田屋は、近松門左衛門の「夕霧阿波の鳴門」の冒頭の九軒吉田屋の段と結末を合わせて改作した浄瑠璃なのであって、実は、そんなちゃらちゃらした芝居ではないのである。
   伊左衛門と夕霧の間には、既に7歳になる男の子がいて、夕霧の客である阿波の侍・平岡左近に、二人の子供だと嘘をついて預けている。
   左近の妻雪が夫の実の子ではないことを知って悲嘆にくれるが、二人から子としてもらい受けることを約束させて源之介として育てる。
   その後、いろいろ、複雑なストーリーが展開されるのだが、どうしても子供に会いたい一心の夕霧は乳母になり、伊左衛門は親子を名乗って二人とも左近に追い出されて乞食になって彷徨い、吉田屋に戻って瀕死の状態になっていた夕霧に再会して、最後に、雪からの夕霧養生のための身請け金800両と、伊左衛門の母「妙順」の調達した金で、伊左衛門は目出度く許されて、花嫁、初孫と認められ、喜んだ夕霧が本復する。
   そんな話なのである。

   しかし、近松の深刻な悲喜劇話を、エエ所取りして、大坂のバカボンを主人公にして、絶世の美女夕霧のしっぽりとした美しさ艶やかさ優雅さを見せてくれた人畜無害の面白い能天気な浄瑠璃にしてくれたのだから、改作も悪くはないと言うことであろう。
   伊左衛門を思い詰めて病弱になって紫の鉢巻きをつけた夕霧が、すねて相手にしないので、「懐紙」を取り出して口にくわえて口説くシーン、こたつを持って追いかけっこするシーン、ラブレターを引っ張り合って破れるシーン・・・コミカルタッチで描かれているのだが、遊郭の色事を彷彿とさせて、考え方によっては、実に艶っぽいのである。

   いくら考えても分からないのは、才色兼備で遊芸に秀でた教養豊かな傾城夕霧が、何故、伊左衛門と言うちゃらちゃらしたバカボンに恋い焦がれて病気になるほどの物語を、近松門左衛門が書いたかと言うことである。
   日本のシェイクスピアと称される近松門左衛門だが、そう言えば、シェイクスピアの戯曲にも、理解に苦しむストーリーが多かった。
   それが、偉大な劇作家の劇作家たる所以でもあるのであろうか。

   この廓文章の観劇記は、何度か書いているので、鴈治郎と玉三郎の素晴らしい舞台であったことを記して終えたい。
   鴈治郎に配慮したのであろう、玉三郎の膝立ち姿のシーンが多かったが、その優雅さ美しさも、また、中々、絵になって素晴らしかった。
   
  

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鎌倉国宝館・・・肉筆浮世絵の美

2016年01月22日 | 鎌倉・湘南日記
   元旦から、鶴岡八幡宮の隣の鎌倉国宝館で、「氏家浮世絵コレクション」の肉筆浮世絵展が、開かれているので、興味を感じて出かけた。

   氏家浮世絵コレクションは、浮世絵の優品の海外への流出を憂えた、肉筆浮世絵の蒐集家の故・氏家武雄氏と鎌倉市とが協力し、鎌倉国宝館内に設置した財団法人であるとか。
   肉筆浮世絵は、版画と違って、細やかな筆使いや微妙な色彩を駆使して描かれ、その美しさとともに画家本来の技量を知る貴重な資料でもあり、海外でも人気が高い。
   ロンドンで、激しい春画なども含めた浮世絵展を見たことがあり、この時から興味を持ち、ボストン美術館の収集作品の展示などに出かけたりしている。
   明治維新以降の混乱期から、膨大な日本絵画などの日本美術の名品が流出しており、惜しい限りだが、維持管理すべき能力がなかったのであるから、パルテノン神殿の破風彫刻のように、世界のどこかで、しっかり管理展示されておれば、良しとすべきなのであろう。

   「浮世」とは「現代風」という意味であるから、当時の風俗を描く風俗画と言うことであるが、とにかく、物凄く種類が多岐であり、日本人の芸術感覚の凄さを実感する。
   当初の肉筆画は希少価値だが、版画になってからは、庶民の愛玩用となって広く広がり、富山の薬売りが、土産に持って地方を行脚して、江戸の風俗や流行など最新情報を伝えて顧客サービスにこれ務めたと言う。
   また、浮世絵については、国立劇場で、隣接する「伝統芸能情報館」や劇場の展示室などで、役者絵や芝居絵などを見る機会が多いので、興味を持って見ており、古典芸能鑑賞の役に立っている。
   
  今回の展示は、鎌倉国宝館によると、
   ”葛飾北斎の作品を中心に、菱川師宣、懐月堂安度、宮川長春、月岡雪鼎、喜多川歌麿、歌川広重らの肉筆浮世絵の名品約を一堂に展観するものです。浮世絵の草創期から幕末に至るまでの各時代の作品を網羅し、さらにそれぞれの浮世絵師たちの代表的な肉筆作品を取りそろえる同コレクションは、江戸時代に花開いた浮世絵の展開を跡付ける上でも重要な意義を持っています。と言うことである。
   この国宝館の展示室は、ワンフロワーで、半分が重要文化財などの「鎌倉の仏像」常設展示場で、その半分の絵画などの常設展示に加えて、今回の浮世絵展示がなされているので、それほど広くなくて、37点の肉筆浮世絵の出展である。
   ポスターなどに使用されている絵は、菱川宗理の「娘に猿図」。
   猿に着物の裾を引っ張られて、見返り美人のように振り返る娘姿であるが、非常に地味な格好で、顔の表情が可愛いので、娘に見えると言うところであろうか。
   

   国宝館のHPから借用して作品の一部を表示すると、順に、葛飾北斎「桜に鷲図」、菱川師宣「桜下遊女と禿図」、月岡雪鼎「しだれ桜三美人図」、歌川広重「高輪の月図」
   
   
   
   

   葛飾北斎の作品は、ほかに、素晴らしい雪中張飛図や、とぼけた調子の「蛸図」など、一寸違った雰囲気の浮世絵があって興味深かった。
   美人画なども掛け軸を意図した絵画が多いので、絵が縦長で広がりに欠けるのだが、奥村政信の「当世遊色絵巻」などの絵巻は、物語性があって、面白かった。

   北斎については、ロンドンにいた時に、大英博物館の日本室の増改修工事に携わったことがあり、その後で、富嶽三十六景の全図の特別展が開かれて鑑賞して、感激した思い出がある。
   歌舞伎関係の浮世絵展示も、ここで見たのだが、外国で見る日本芸術の良さは、望郷の思いも重なって、特別な感慨を覚える。

   仏像の方は、これまでに見ているので、また、お会いしましたねえ、と言う感じであったが、先のポスターの右上に表示されている
   八幡宮の弁財天坐像と、修理して奇麗になった養命寺の薬師如来坐像は、特別展示であった。
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国立劇場:歌舞伎・・・通し狂言「小春穏沖津白波」

2016年01月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   正月の国立劇場の歌舞伎は、「復活狂言」が恒例と言うことで、今回は、2002年に138年ぶりに上演され、2014年再演された舞台に、さらに工夫を加えて上演された河竹黙阿弥作の「小春穏沖津白浪」。
   11年前の舞台では、日本駄右衛門が富十郎、船玉お才は時蔵、子狐礼三が菊五郎で、今回、菊五郎は、礼三を菊之助に譲り、日本駄右衛門に回っており、時蔵だけが再登場である。
   日本駄右衛門は、富十郎なら、ドスが利いて迫力があったであろうが、菊五郎は、威厳と風格があって華麗である。
   時蔵は、日頃の雰囲気のある女形とはかなりニュアンスの違った匕首片手に華麗な立ち回りを演じる派手な見せ場を展開していたが、出色の出来であり、今回素晴らしい舞台を見せている子息の梅枝と萬太郎ともども、素晴らしい役者一家である。
   何といっても、この歌舞伎は、華麗でダイナミックなタイトルロールとも言うべき礼三を演じた菊之助の八面六臂の大活躍あっての舞台であろう。
   ほろっとさせるようないい女のお三輪を彷彿とさせる田舎娘から、鷹揚で泰然とした若旦那、狐がとりついた盗賊など、器用に早変わりして役どころを熟しているのは流石であるが、朱塗りも鮮やかな千本鳥居の上を妖術を使って走り回って華麗な立ち回りを演じる華麗さ美しさなどは、正に絵になる活躍で、千両役者の風格十二分である。
   

    さて、この歌舞伎は、大名・月本家の家宝「胡蝶の香合」をめぐるお家騒動が底流にあって、月本家にゆかりのある盗賊・日本駄右衛門、船玉お才、小狐礼三らの盗賊たちが活躍して解決すると言う白波ものである。
   3人が妖術を使って華麗に演出する、冬、秋、春と次々に情景を変化させて繰り広げる「雪月花のだんまり」や、稲荷神社で展開される、ドミノ倒しのようにずらりと並んだ鳥居を舞台に、上を下へと繰り広げられる派手でテンポの速い大立ち回りなど、カラフルでダイナミックな華やかなシーンが、あっちこっちで展開されて、とにかく、ナンセンスながら、見せて魅せる面白い歌舞伎である。

   歌舞伎座の方は、非常にオーソドックスな古典歌舞伎の名場面を、名優を糾合して決定版とも言うべき素晴らしい舞台を展開しているのだが、空席がかなり多いのは、やはり、同じ演目の繰り返しで、観客も、マンネリに食傷気味なのであろう。
   この小春穏沖津白波の方は、新鮮であるのみならず、見せ場が多くて、随所に昨年の流行語大賞のギャグを取り入れたり、五郎丸の真似をさせたり、サービス精神旺盛なところも受けていて面白い。

   上野清水観音堂の場での「新薄雪物語」のパロディ版であったり、盗賊3人が3幕「隅田堤」で義兄弟の契りを結ぶシーンなどは、「三人吉三」の焼き直しだと言う、どこかで見た雰囲気のシーンがあったりして面白いのだが、いずれにしろ、家宝の行方とお家騒動、花魁に現を抜かす若殿、それに、惡の華とも言うべき大盗賊の活躍など、正に、歌舞伎のエッセンスを糾合した活劇ものであるから、肩がこらなくて、4時間近くを楽しめるのであるから、上質な正月の娯楽である。

   やはり、舞台が楽しいのは、登場する人を得た役者の活躍であろう。
   しっとりとした女形の梅枝が、嫋やかな若殿の月本数馬之助を、尾上右近が、御姫様と花魁を器用に演じ分けながらの傾城花月を、片岡亀蔵が、この舞台の極悪人である三上一学を実に憎々しく演じて出色の出来で、それに、坂東亀三郎が奴弓平 、中村萬太郎が六之進/友平 を颯爽と演じていて楽しませてくれる。
   私が興味を持ったのは、色男礼三の馴染みの花魁の傾城深雪を演じた、何とも雰囲気がぴったり来ないコミカルながら大真面目な市村萬次郎の年増の老獪さと芸の確かさで、笑いを噛みしめてみていたが、これこそ、大ベテランの芸の神髄であろう。
    中間早助/遣手婆お爪を演じた 市村橘太郎の実にコミカルであくの強い芸の楽しさも出色であって、私など、このあたりのなんば花月劇場の雰囲気が好きである。
   三上一学であっても適役であった筈の團蔵が、今回は、珍しく日本円秋と言う格好良い役を神妙に演じていたのも印象的であった。

   菊五郎の演出、そして、一座の成功を賞賛すべき舞台であった。

   劇場の雰囲気を数ショット
   
   
   
   
   

   前庭の梅がちらほら咲き始めていた。
   蝋梅が、」奇麗に咲いていた。
   
   
   
   
   
   


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鶴岡八幡宮:神苑ぼたん庭園・・・冬ぼたん

2016年01月20日 | 鎌倉・湘南日記
   鶴岡八幡宮の冬ぼたんが、見頃だと言うので出かけた。
   
   綺麗に咲いていて見頃だとは思うが、やや、最盛期を過ぎた感じで、咲き切った牡丹の花弁の先端が、少し弱っていて、まだ、蕾の状態のぼたんが殆ど残っていなかったのである。
   
   
   
   
   
   

   冬に咲くぼたんを、寒牡丹と言うのだが、上野東照宮のHPによると、
   牡丹には二期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、このうち冬咲きのものが寒牡丹と呼ばれています。寒牡丹の花は自然環境に大きく左右され、着花率が低く、二割以下といわれています。そこで、花の少ない冬にお正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬牡丹です。春夏に寒冷地で開花を抑制、秋に温度調整し冬に備えるという作業に丸二年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花をつけます。 と言うことである。
   
   冬ぼたんは、 霜よけのために藁囲いに包まれているのだが、中々、優雅であり、雪が降って真っ白な銀世界に覆われると、風情があって良かろうと思う。
   週末、もう一度雪が降るようだが、訪れられれば良いと思っているが、無精者なので分からない。

   このぼたん園は、上野東照宮のように、春の花木や草花があまり植わっておらず、庭の部分は、常緑樹中心の日本庭園であったり、中国風の石庭なので、ぼたんオンリーで、彩に欠ける。
   その点、上野は、梅などの春の花がちらほら咲いて、ぼたんに彩を添えていて、何となく、雰囲気があって、好ましい。
   ここでは、蝋梅が、一本咲いていたが、椿は、まだ、蕾が堅かった。
   
   
   一方、この八幡宮のぼたん園は、大きな源氏池の池畔に沿って伸びた回遊式の庭なので、カモメやハトが飛び交っていて、オープンな空間の醸し出す雰囲気が良く、池に面した赤い毛氈の床几に座って、ひと時を過ごすのが良い。
   今年は、途中に茶店が出ていなかったので、一寸寂しい。
   
   

   時間にもよるが、鶴岡八幡宮には沢山の人が押しかけて行くが、ぼたん園を訪れて、花を愛でようとする人は、意外に少ないのである。
   
      
   
   
   
   
  
   そのほかのぼたん風景は、次の通り。
   陽が差して、逆光に映えるぼたんの優雅さも捨てがたい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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久しぶりに雪化粧をしたわが庭

2016年01月18日 | わが庭の歳時記
   暖冬続きであったが、急に寒くなって、夜半から降り出した雨が雪に変わって、朝起きると、庭一面に雪景色。
   しかし、鎌倉は温かいのか、雨に変わっていて、雪も霙状態に変わりかけていて、やや、情趣を欠き始めていた。

   私自身は、大阪や東京などに近い太平洋沿いの地方に住んでいたので、一年に一度くらい降れば良い方であろうか、雪には殆ど縁がない。 
   ヨーロッパにいた時も、アムステルダムでもロンドンでも、雪景色は、非常に稀であったような気がする。
   アムステルダムでは、一度、大雪が降ったので、娘のために小さな雪橇を買ったのだが、その時だけで、使い終いに終わってしまった。
   フィラデルフィアでは、かなり、雪が降って、大学のキャンパスが真っ白に覆われて、異国に来たなあと言う強烈な思い出があるが、かの地の厳寒は、冷蔵庫の底を歩いているような感じで寒かった。

   いずれにしても、雪のぬかるみや残雪で凍てついた道を歩くのなどは、好きではないのだけれど、何となく、雪景色には、懐かしい憧れのような思いがある。

   すこし、起きるのが遅かったので、花に乗った雪は、すでに解けて、シャーベット状になっていて、風情には欠けるのだが、重そうに頭を垂れているのが面白い。
   ピンク加茂本阿弥と越の吹雪、それに、色づき始めた沈丁花。
   残念ながら、バラは剪定済みなので、残った枝だけが、雪を突き抜けていて、寂しいのだが、厳しい冬に耐えて、初春に新芽を出し始めて、一気に春めくのを待つのも楽しみである。

   
   
   
   
   
   
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横浜能楽堂・・・能「羽衣」・組踊「銘苅子」

2016年01月17日 | 能・狂言
   横浜能楽堂で、「能の五番・朝薫の五番」と言う初めての公演を鑑賞する機会を得た。
   実際に演じられたのは、能「羽衣」と、沖縄の古典芸能・組踊の「銘苅子」(めかるし)」なのだが、この「銘苅子」は、18世紀の琉球王朝の踊奉行の王城朝薫によって、能の物語を取り入れて作曲された「朝薫の五番」の作品群の一曲で、羽衣伝説をテーマにした組踊であるので、能「羽衣」と一緒に鑑賞しようと言うわけである。

   能は、観世流で、シテ(天人)浅見真州、ワキ(漁夫白龍)は宝生閑であったが、宝生閑は病休で、工藤和哉が代演。
   宝生閑師は、11月の野村四郎の「俊寛」の時には出演されていたが、12月の梅若玄祥の「木賊」の時に休演して、子息の宝生欣哉が代演していた。
   お早いご回復をお祈りいたしたい。

   「羽衣」を鑑賞したのは、5回くらいで、3回は国立能楽堂なので、記録を調べたら、金剛流、宝生流、喜多流なので、夫々、違った演出で興味深かったのであろうが、殆ど記憶はない。他で見たのは、式能と都民劇場能。
   微かに記憶があるのは、あの羽衣について、後見が松の立木を正先に置き長絹を架けるのと、一ノ松の勾欄に架けるのとがあったように思う。
  
   かなり印象に残っているのは、最も最近に観た喜多流の人間国宝友枝昭世の優雅な舞と綺麗な謡、それに、終末の三保の松原から浮島が原へ、更に愛鷹山から富士の高嶺へ舞い上がり春霞に消えて行くシーンの美しさに感激した。
   勾欄に体を預けて舞台を仰ぎ見る姿の神々しさなどは、正に、天空から去り行く天女の優雅さで、ヨーロッパで観たティエポロなどの天井画の天国の情景を思い出していた。

   今回の浅見真州の終幕は、舞台での優雅な舞で表現して、橋懸りで一度舞うくらいで、揚幕に消えて行ったのだが、序の舞など舞い姿の優雅さ美しさは感動的であった。
   富士を仰ぎ見る白砂清祥の三保の松原を舞台にした極めて美しい羽衣伝説をテーマにした能であるから、私など能初歩の人間にとっても想像し易いので楽しめる。
   上演時間がどのくらいか知らないのだが、予定70分が10分ちかく延びた熱演であった。

   さて、組踊だが、中国皇帝の使者である冊封使を歓待するための琉球王朝きっての最高のもてなしとして生まれた古典芸能であるから、美しくて優雅なのは当然であろう。
   それに、組踊とは、能に嗜みのある朝薫が、能のテーマを模して創作した、せりふ、音楽、所作、舞踊によって構成される歌舞劇として生まれた、いわば、総合芸術であるから、奥が深いのであろう。
   形式は能や歌舞伎に近いが、せりふに昔の沖縄の言葉、音楽に琉球音楽、舞踊に琉球舞踊を用いるのが特徴だと言うことで、今回鑑賞した「銘苅子」も、せりふは、全く理解できなかった。  

   羽衣伝説にはいくらかバリエーションがあって、この「銘苅子」の羽衣伝説は、能「羽衣」とも違っていて、天女が男に羽衣を取られて天に帰れなくなるところまでは同じであるが、妻になれと言い寄られて仕方なく夫婦になり、二人の子供を産んで幸せに暮らすことになる。
   しかし、ある日子供の謡う子守歌で、羽衣が米蔵に隠されていることを知って、羽衣を見つけた天女は、子供たちを寝かせつけて、気付いた子供たちを振り切って天に帰って行く。
   銘苅子と子供たちの悲しみを聞いた王府が、役人を送って、銘苅子に衣冠を、姉に城内での養育を、弟に成人後役人に取り立てを伝えたので、親子は喜ぶと言う結末である。

   冒頭、能と同じで、銘苅子が揚幕から登場して正中からやや目付柱よりに着座し、続いて、天女が登場して、囃子座の笛の場で羽衣を脱ぎ、音曲に乗って舞台を踊りながら回り、その間に、銘苅子が、衣を奪って、妻約束をさせて、手を引いて揚幕に消えて行く。
   その後は、セリフは良く分からないけれど、ストーリーがほぼ分かっているので、舞台を観ておれば、理解できて、楽しめる。
   能舞台であるので、何のセットも道具もないのだが、舞台写真を見ると、実際の沖縄の舞台では、歌舞伎のようにセットなどが使われているようである。
   後の口絵写真を見れば分かるが、天女が、子供たちを置いて天へ帰って行く名残のシーンは、今回は、天女は、橋掛かりの揚幕前に立って名残を惜しんでいたが、写真では、セットの高みに立っている。
   今回の舞台のチラシの写真を借りるが、最初の長い衣の裾を引いた写真は、天女を演じた人間国宝宮城能鳳で、その後の写真は、国立劇場おきなわのパンフレットから転写させてもらっている。
   
   
   
   
      

   さて、能の囃子と地謡を合わせたような役割を果たすのが、組踊音楽歌三線で、三線を真ん中にして、箏、太鼓、笛、胡弓で構成されており、今回は、地謡座に、奥から、たいこ、琴、三線、胡弓、笛の順に一列に並んでおり、謡は、3人の三線が担当していた。
   組踊音楽歌三線は、三線の演奏にのせて組踊各場面の背景や登場人物の心情などを繊細に歌い出すものである。演技者の台詞の最後にかかるように歌い出したり、動作に応じて微妙な緩急をつけるなど、組踊の筋の展開や演技、台詞との関わりなどに配慮して表現され、芸術上特に価値が高く、芸能史上特に重要な地位を占め、かつ地方的特色が顕著である。と言うことである。
   
   
   舞台は、歌舞伎と言うよりは、能舞台に近く、非常に、静かで、登場人物の歩き方や演技なども非常にスローテンポでシンプルであり、神性を帯びたような雰囲気を醸し出していた。
   そして、非常に優雅で美しい舞台なのだが、この曲だけなのかも知れないし、気の所為かも知れないのだが、何となく、哀調を帯びて物悲しい感じがした。

   私の場合、同じテーマの主題を、違った形態の舞台芸術では、どのように上演されているのかに非常に興味を持っており、今回の観劇の楽しみもその延長線上なのだが、また、一つ、ジャンルが増えたことになる。
   来月、国立劇場で、沖縄の村の組踊公演があるようだが、これよりも、茅ヶ崎市民文化ホールで、国立劇場おきなわの県外公演で、朝薫の五番の「執心鐘入」が行われるようで、これは、能「道成寺」の脚色曲なので、これに行くことにしている。

   人生大詰めに近づきつつありながら、趣味を広げてどうするのかと言うことだが、殆どの伝統古典芸術は勿論、オペラなど多くのパーフォーマンス・アーツに対する卓越した見識と鑑賞眼を備えて、正装して劇場に通う素晴らしい方がおられるのを見ていると、足元にも及ばないし、今まで、何をしていたのだと言う気にもなっている。
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わが庭・・・石灰硫黄合剤を散布する

2016年01月16日 | わが庭の歳時記
   今年は、昨年の暖冬気候の影響か、花木の芽の動きが早いようである。
   わが庭のイングリッシュローズも、少し芽が出始めてきている。

   冬に悩むのは、薬剤散布をどうするかである。
   わが庭で、一番気になるのは、バラへの散布である。
   以前に、イングリッシュローズに関する京成バラ園のセミナーで、
   薬剤散布については、趣味の園芸の有島薫さんが、剪定後、すなわち、2月の適当な時期に、殺菌のために、ダコニールかサブロール剤を散布し、三月に、ベニカで薬剤散布、これを、もう一度くらい、五月の開花までに散布すれば良いと語っていた。
   これを実施しようと思っている。

   しかし、長い間、千葉のわが庭で重宝していた石灰硫黄合剤の散布の効果については、経験積みなので、これを外すわけには行かない。
   最近、禁止されていて、園芸店では、小さな瓶に入った合剤は販売されていないので、昨年、無駄を承知で、ネットで10Lのものを買って使用したので、今年もこれを使うことにした。

   溶剤の希釈度や効用など、あるいは、散布時期などについては、解説がまちまちでどれを信じてよいのかが問題だが、私自身は、出来れば、1月から2月にかけて、寒い日に、2週間ほど空けて、2回を目安にして、一回目は、10倍、2回目は、20倍に薄めて散布することにしている。
   主に、落葉樹の花木や果樹であるが、椿など常緑樹については、出来るだけ避けて、春以降、病虫害が出た段階で、薬剤を散布することにしている。

   薬剤散布機だが、以前には、電動式のものを使っていたのだが、最近、蓄圧式噴霧器を使っているのだが、結構重宝している。
   原理は至って原始的で、ピストンで加圧するのだが、5L用で、上等な噴霧器を選んで買えば、作用も安定していて、安心できるのである。

   溶剤を調合して噴霧器に入れて、散布するだけなのだが、多少気を使うのと、養生や後片付けなどが厄介で、しばしば、やりたいとは思わないけれど、奇麗な花や充実した実を育てるためには、大切な作業で、春以降に効果が出ると嬉しくなる。

   薬剤散布を終えて、着替えて家を出て、横浜の書店で午後のひと時を過ごして、夕刻の国立能楽堂の定期公演を鑑賞する。
   そんな日課も、自由時間に恵まれた今の余裕かも知れないと思っている。
   

   
   
   
   
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真冬の大船フラワーセンター(2)

2016年01月14日 | 鎌倉・湘南日記
   もう一つ興味があったのは、梅が開花しているかどうかであった。
   このフラワーセンターには、20種類くらいであろうか、夫々種類が違った梅の木が、植えられている梅林がある。
   開園時に植えられたのであろうが、相当大きくなった成木ではあるが、湯島天神のように風格のある古木ではない。

   1~2本、かなり咲き始めた梅の木があるが、最高でも数輪と言うのが半分くらいで、大半の木は、蕾が少し色づき始めて膨らみかけている状態で、やはり、季節通りに、2月初旬からの本格的な開花であろうと思われる、

   記録に間違いがなければ、開花花を写した次の梅の花は、
   道知辺、八重茶青、初雁、水心鏡、鹿児島紅、八重寒紅、鴛鴦、緋の司、玉牡丹
   最後の2種類が、かなり開花していて美しかった。
   最後の写真は、緋の司をバックにした玉牡丹である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   わが庭に咲いているのが、鹿児島紅梅だが、奇麗なピンクの小花で凛とした咲き具合が良い。
   残念ながら、横幅5メートルほどの円形に奇麗に生育したピンクの八重枝垂れ梅が、豪華なアンブレラのように開いて華やぐのだが、移植を断念して、千葉の家に残して来てしまった。
   この梅の花が、八重寒紅とそっくりの花であったので、思い出して懐かしくなった。
   菅原道真の心境である。

   私は、関西では、月ヶ瀬に出かけて、素晴らしい梅を見た。
   奈良や京都など関西の古社寺にも、夫々、風情のある梅が植えられていて、感動することがある。
   天神さんは、北野、大宰府、大阪くらいだが、水戸の後楽園は、何度か行って、素晴らしい梅を鑑賞した。
   平安以前は、花と言えば、梅であったようだが、桜のように華やかではなく、ひっそりとした佇まいが好ましい。
   また、学生の頃の様に、京都や奈良の田舎を歩きたくなってきた。


   さて、このフラワーセンターを歩いて気付いた花は、蝋梅、そして、始めてみたひめ彼岸花である。
   それに、雪柳が、奇麗に咲いていた。
   園内の睡蓮のプール横の花壇に菜の花が咲き乱れていた。
   
   
   
   
   
   
   

   日本庭園に、寒牡丹があったようだったが、出口のディスプレィで見て知ったので、見過ごして帰った。
   
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