四月の大歌舞伎で興味深かったのは、昼の部の方で、私自身、舞踊は苦手だし、それに、「絵本太閤記」の何となく陰に籠った芝居に興味が持てない所為もあって、夜の部で面白かったのは、「権三と助十」だけであった。
昼の部の「お江戸みやげ」については、先日、書いたので省くが、やはり、「一條大蔵譚」は、菊五郎の一條大蔵長成と言え、「封印切」の藤十郎の亀屋忠兵衛と言え、現在の歌舞伎界では、最高峰の舞台であろうし、とにかく、何度見ても、芝居の面白さを感じさせてくれて楽しいのである。
「一條大蔵譚」は、私は、襲名披露の時の勘三郎と、それに、吉右衛門の決定版とも言うべき素晴らしい舞台を見ており、元敵方であった高貴の公家が、平家全盛の乱世とも言うべき時代に如何に生き抜いて行くか、作り阿呆と常人の狭間での葛藤を、実に器用に感動的に演じていて面白い。
「篤姫」で登場した徳川将軍家定なども、作り阿呆だと言う設定だったが、考えてみれば、あの大石内蔵助も、バカを装って吉良方を出し抜いたと言うことになっているし、とにかく、古今東西何処にあっても、作り阿呆で、世を生き抜いてきた人は五万といる。
いわば、能ある鷹は爪を隠すと言う処世術の一種の変形であろうが、逆に、そんな生き方を潔しとしないとして正攻法で生き抜いて散って行った硬骨漢も沢山いて面白い。
菊五郎の大蔵卿は、阿呆さ加減も国宝級だが、何よりも品があるのが良い。
逆臣勘解由(團蔵)を御簾の中から刺し殺す正気に戻ってからの大蔵卿の凛々しさと威厳は、また、格別で、ただ単に、正気の姿が実で、作り阿呆が虚だと言うその虚実の演じ分けだけが眼目ならうまく演じる役者は、いくらでもいるであろうが、菊五郎を見ていると、虚実が、ふっと入れ替わったような瞬間があって、実は、虚も実も、大蔵卿そのもであって、生活そのものを、正に二重人格で生き抜いている、そんな生き方を十二分に楽しんでいると言う風情を感じさせて、流石だと思った。
20年間も、作り阿呆で押し通し続けるなど不可能であって、実際にも、自分から兵を挙げて、平家追討に立ち上がる意思も能力もなければ、常盤御前(時蔵)を守りながら、時が来るまでは意思だけはしっかりと保ち続けて、とにかく、芸を嗜み表舞台で世の中を楽しみながら生きるに越したことはないと言う、そんな平安貴族の人生観が現れていて面白い。
この大蔵卿の作り阿呆と直接関係はないのだが、今や、義朝の妻であった常盤を妻に迎えており、その常盤の本心を探ろうと屋敷に潜り込んだのが源氏の忠臣吉岡鬼次郎(團十郎)と妻のお亰(菊之助)で、平家調伏のために清盛の隠し絵を弓で射抜く常盤の本心を知り、勘解由を討った大蔵卿から、牛若丸へのメッセージと源氏の剣を託されると言うのだが、筋と言えばこれがこの芝居の筋であろう。
大蔵卿のたった一度だけ正気に戻った瞬間だが、また、勘解由の首を弄んで阿呆の大蔵卿に戻って幕。結局、心は、正気でも、生きて行くのは阿呆ただ一筋、本心を隠し通す苦悩や後ろめたさなどはなかった筈である。
さて、「封印切」だが、近松門左衛門の浄瑠璃「冥途の飛脚」である。
恋飛脚大和往来と言う持って回った題名より、冥途の飛脚と言うタイトルの方が、はるかに味があって良い。
私は、この近松の芝居を、歌舞伎でも文楽でも、何度か見ているが、一番、感激して観た舞台は、文楽では、2度見た玉男と簔助の舞台で、歌舞伎では、残念ながら、実際の舞台ではなく、一昨年の京都南座での公演のNHK録画の舞台である。
忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤め、井筒屋おえんの玉三郎に左團次と言う東京歌舞伎のベテランが加わっての東西名優の競演と言う触れ込みの豪華な舞台で、藤十郎と秀太郎の醸し出す上方和事のしっぽりとした情感の滲み出た舞台は、正に様式美溢れる近松門左衛門の世界そのものであるばかりではなく、現在感覚にもマッチした出来栄えで、それに、本来二枚目俳優の仁左衛門が、軽妙で洒脱な(?)な何とも言えないやくざな助演男優賞ばりの素晴らしい舞台を見せていて、実に楽しませてくれた。
今回は、忠兵衛は藤十郎、梅川は扇雀、井筒屋おえんは秀太郎、槌屋治右衛門は我當、それに、興味深いのは、丹波屋八右衛門は三津五郎で、これが、実に上手い。
私は、近松門左衛門は、徹頭徹尾、上方人だと思っているので、ベートーヴェンやブラームスを演奏させれば、二流であってもドイツの指揮者や楽団が演奏すれば、感動ものとなるのと同じで、上方役者でないと、本当の味が出ないと思っている。
あのどうしようもない、煽られただけで、われを忘れて地獄へ突っ走てしまう、がしんたれの大坂男と、健気できっぱりと人生を甘受する潔い大坂女の生き様は、関西人だと、他人ごとではなく自分のこととして分かると思うし、それこそが、上方の和事の世界だと言う気がしている。
人形浄瑠璃は、大阪弁やないとあきまへんと、住大夫は、良く言っているが、近松の世界も、正に、大坂の魂抜きでは語れないグローカルな世界だと思っている。
藤十郎、秀太郎、我當の至芸は言うまでもないが、藤十郎の薫陶を受けて、扇雀が、実に、ムード十分の大坂女の哀歓と情の濃さを滲ませていて感動的であった。
昼の部の「お江戸みやげ」については、先日、書いたので省くが、やはり、「一條大蔵譚」は、菊五郎の一條大蔵長成と言え、「封印切」の藤十郎の亀屋忠兵衛と言え、現在の歌舞伎界では、最高峰の舞台であろうし、とにかく、何度見ても、芝居の面白さを感じさせてくれて楽しいのである。
「一條大蔵譚」は、私は、襲名披露の時の勘三郎と、それに、吉右衛門の決定版とも言うべき素晴らしい舞台を見ており、元敵方であった高貴の公家が、平家全盛の乱世とも言うべき時代に如何に生き抜いて行くか、作り阿呆と常人の狭間での葛藤を、実に器用に感動的に演じていて面白い。
「篤姫」で登場した徳川将軍家定なども、作り阿呆だと言う設定だったが、考えてみれば、あの大石内蔵助も、バカを装って吉良方を出し抜いたと言うことになっているし、とにかく、古今東西何処にあっても、作り阿呆で、世を生き抜いてきた人は五万といる。
いわば、能ある鷹は爪を隠すと言う処世術の一種の変形であろうが、逆に、そんな生き方を潔しとしないとして正攻法で生き抜いて散って行った硬骨漢も沢山いて面白い。
菊五郎の大蔵卿は、阿呆さ加減も国宝級だが、何よりも品があるのが良い。
逆臣勘解由(團蔵)を御簾の中から刺し殺す正気に戻ってからの大蔵卿の凛々しさと威厳は、また、格別で、ただ単に、正気の姿が実で、作り阿呆が虚だと言うその虚実の演じ分けだけが眼目ならうまく演じる役者は、いくらでもいるであろうが、菊五郎を見ていると、虚実が、ふっと入れ替わったような瞬間があって、実は、虚も実も、大蔵卿そのもであって、生活そのものを、正に二重人格で生き抜いている、そんな生き方を十二分に楽しんでいると言う風情を感じさせて、流石だと思った。
20年間も、作り阿呆で押し通し続けるなど不可能であって、実際にも、自分から兵を挙げて、平家追討に立ち上がる意思も能力もなければ、常盤御前(時蔵)を守りながら、時が来るまでは意思だけはしっかりと保ち続けて、とにかく、芸を嗜み表舞台で世の中を楽しみながら生きるに越したことはないと言う、そんな平安貴族の人生観が現れていて面白い。
この大蔵卿の作り阿呆と直接関係はないのだが、今や、義朝の妻であった常盤を妻に迎えており、その常盤の本心を探ろうと屋敷に潜り込んだのが源氏の忠臣吉岡鬼次郎(團十郎)と妻のお亰(菊之助)で、平家調伏のために清盛の隠し絵を弓で射抜く常盤の本心を知り、勘解由を討った大蔵卿から、牛若丸へのメッセージと源氏の剣を託されると言うのだが、筋と言えばこれがこの芝居の筋であろう。
大蔵卿のたった一度だけ正気に戻った瞬間だが、また、勘解由の首を弄んで阿呆の大蔵卿に戻って幕。結局、心は、正気でも、生きて行くのは阿呆ただ一筋、本心を隠し通す苦悩や後ろめたさなどはなかった筈である。
さて、「封印切」だが、近松門左衛門の浄瑠璃「冥途の飛脚」である。
恋飛脚大和往来と言う持って回った題名より、冥途の飛脚と言うタイトルの方が、はるかに味があって良い。
私は、この近松の芝居を、歌舞伎でも文楽でも、何度か見ているが、一番、感激して観た舞台は、文楽では、2度見た玉男と簔助の舞台で、歌舞伎では、残念ながら、実際の舞台ではなく、一昨年の京都南座での公演のNHK録画の舞台である。
忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤め、井筒屋おえんの玉三郎に左團次と言う東京歌舞伎のベテランが加わっての東西名優の競演と言う触れ込みの豪華な舞台で、藤十郎と秀太郎の醸し出す上方和事のしっぽりとした情感の滲み出た舞台は、正に様式美溢れる近松門左衛門の世界そのものであるばかりではなく、現在感覚にもマッチした出来栄えで、それに、本来二枚目俳優の仁左衛門が、軽妙で洒脱な(?)な何とも言えないやくざな助演男優賞ばりの素晴らしい舞台を見せていて、実に楽しませてくれた。
今回は、忠兵衛は藤十郎、梅川は扇雀、井筒屋おえんは秀太郎、槌屋治右衛門は我當、それに、興味深いのは、丹波屋八右衛門は三津五郎で、これが、実に上手い。
私は、近松門左衛門は、徹頭徹尾、上方人だと思っているので、ベートーヴェンやブラームスを演奏させれば、二流であってもドイツの指揮者や楽団が演奏すれば、感動ものとなるのと同じで、上方役者でないと、本当の味が出ないと思っている。
あのどうしようもない、煽られただけで、われを忘れて地獄へ突っ走てしまう、がしんたれの大坂男と、健気できっぱりと人生を甘受する潔い大坂女の生き様は、関西人だと、他人ごとではなく自分のこととして分かると思うし、それこそが、上方の和事の世界だと言う気がしている。
人形浄瑠璃は、大阪弁やないとあきまへんと、住大夫は、良く言っているが、近松の世界も、正に、大坂の魂抜きでは語れないグローカルな世界だと思っている。
藤十郎、秀太郎、我當の至芸は言うまでもないが、藤十郎の薫陶を受けて、扇雀が、実に、ムード十分の大坂女の哀歓と情の濃さを滲ませていて感動的であった。