熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ブログに対する執拗な解析の検閲者

2024年01月31日 | 
   13日に、「気になる我がブログに対する執拗な解析」について、「過去のアクセス解析」で、何年にもわたって、毎日、執拗に繰り返されている得体の知れない「記事一覧(138ページ) 13PV」のような多くの「記事一覧」項目で、何故検索されなければならないのか疑問を呈した。
   念のために、「記事一覧」をクリックして、解析されている記事をピンポイントでチェックしたら、問題になりそうな記事は、 書評(ブックレビュー)・読書(755) 政治・経済・社会(763) 政治・経済・社会時事評論(40) と言った「カテゴリー」の記事で、多少辛口の中国関係の記事ばかりであった。アメリカにも多くの批判記事を書いてきたがここには出てこないし、こんなことを問題にして解析するような文明国ではないし、解析者は、中国関係だとしか思えない。
   素人っぽい解析アプローチなので、戯れかも知れないのだが、毎日、何十人もかかって、何百㌻も解析、検閲(?)されていると思うと穏やかではない。

   例えば、引っかかった記事の一例を挙げれば、
   2020年06月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書 「滅亡へのカウントダウン(下):人口を減らす以外にない」の記事で、中国関係のところだけを引用すれば、
   ”・・・例えば水だが、今でさえ、可能ならどんな水源からでも必死に水を引こうとしており、21世紀に、人類は、地球規模で水の責め苦にさらされる。と説く。
  以前に、杉本元上海総領事が著書で、
  中国文明を支えてきた大動脈「黄河」が、断流現象を起こして、97年には、河口から華南省鄭州までの1千キロに及んで226日間断流して、その年、黄河に水が1日中海に流れ込んだのは僅か5日しかなかった。唐代以降森林破壊が続き、今では、上流に建設された3千百余りのダムで水を止め、水を乱用し、無駄に蒸発させて自然な還流システムが働かなくなってしまっていて、1億5千万の人口を要する流域で水の取り合いが深刻となり、三門峡ダムなど8つの発電所の稼働率は3分の1だ。とレポートしていた。
   この「黄河」について、ナショナル・ジオグラフィックが、
   「黄河崩壊 水危機が生む”環境難民”」と言う記事で、「黄河はチベット高原に源をもち、中国北部の大地と人々を潤し続けてきた。だがいま、目覚ましい経済成長の陰で、母なる大河が深刻な危機に陥っている。」とのサブタイトルに、何十年も前の日本のような黒い煤煙を吐き出す化学工場から汚水が、赤茶けて草木一本もない大地の小川に湯気をたてて排出され、黄河上流に流れて行く悲惨な光景を写し出していて、黄河の下流域には、水質汚染で、ガンの発生率が異常に高く”ガンの村”が沢山あると言う。黄河流域を大きくΠ型に蛇行して流れる河流の過半は汚染されていて、特に、韓城あたりからの下流域と、西安を流れる渭河など多くの支流や合流地点の河は大半過度に汚染されていて、農業、工業用水にも不適だと言う。中国の河川の70%は、汚染されていて飲用に供せないと言う記事を見たことがあるが、中国産の食品など、農薬漬けだけのみならず、水そのものが汚染しているのだから恐ろしい。
   ワイズマンは、同じことを、コロラド川が取水過多で断流で河口まで届かず・・・”

   この状況は、NHKでも放映していたし、この程度の記事で、問題とされるのなら、
   政府自ら音頭を取って鳴り物入りで、福島原発の処理水を核汚染水と称して糾弾し、日本産の水産物の輸入を全面的に停止
   この暴挙こそ、問題とすべき所業であろう。
   処理水の放出計画はIAEA=国際原子力機関によって、「国際的な安全基準に合致している」との評価を受けたもので、世界の文明国も追認しているのにである。中国の水質汚染は現実であるが、日本の処理水は科学的次元の問題なのである。
   
   私は、 書評(ブックレビュー)・読書(755) 政治・経済・社会(763) 政治・経済・社会時事評論(40) と言った「カテゴリー」の記事で、世界的にも権威のある学者や識者の見解や論評、それに、然るべき権威と定評のある書籍やメディアを引用したりしてブログ記事を書いているが、いい加減な情報源に頼った覚えは微塵もない。
   中国にとっては、いくらかネガティブであり批判的であったとしても、世界の常識の域を越えてはいないと自負している。

   辛口の引用記事もあったので、出来る限り削除したが、
   2005年3月からだから19年も続いていて何千項目にも亘っているので、チェックのしようもない。
   前述の水問題のような感じの記事が残っているかも知れないが、もう、チェックして削除する気持ちはない。
   
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気になる我がブログに対する執拗な解析(その後)

2024年01月30日 | 
   私のブログに対して、毎日、アクセス解析が表示されており、
   そのうち、「過去のアクセス解析」で、毎日、執拗に繰り返されている得体の知れない多数の 「記事一覧(××ページ) ××PV と言う解析が気になって、
   13日に、「気になる我がブログに対する執拗な解析」という記事を書いた。

   その「記事一覧」の項をクリックして、表示されたブログをチェックすると、観劇記や庭の花など、殆ど人畜無害のたわいもない記事が大半だが、中には国際問題など政治経済や時事評論めいた記事が交じっている。
   書評(ブックレビュー)・読書(755) 政治・経済・社会(763) 政治・経済・社会時事評論(40) と言った「カテゴリー」の記事である。

   これらの記事の殆どの対象国は、アメリカと中国で、中には、批判的な辛口の記事もある。これまでにも、推測がついていたので、意識して、ネガティブな記事は、削除してきたし、批判的な記事など書かないように心がけてきた。
   しかし、まだ、削除漏れがあったり、また、ブックレビューや時事評論などで、他の学者や専門家の意見などは、そのまま引用したり紹介してきているので、これらがネガティブとして引っかかっているのかも知れない。

   我がブログの記事を検索するのなら、「記事一覧」をしなくても、我がブログの最上段右端にある「検索」に、アメリカなり中国なりを記入して、「このブログ内で」をクリックすれば、多少の漏れはあっても、一挙に膨大な関係記事が表示される。
   何の悪意もなく無心にその時感じたことを書き続けてきた私自身の思いなので、もう、一切、記事を削除したり、記事を触らずに、そのまま放置しておくことにする。
   いずれにしろ、こんなことをする検閲者は自明なので、検索解析したければ、し続ければよいという心境である。

   これはわたし自身の思い入れだが、ブログには関係なく、アメリカは、自由で民主主義の牙城であり大学院教育を受けた一宿一飯の恩義を感じているし、中国には、日本の文化文明を支え続けてくれた憧れの偉大な国だと思っているので、もとより、ネガティブな感情など微塵もない。
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厳寒にも結構庭仕事がある

2024年01月29日 | ガーデニング
   今日は、快晴で風も穏やかで、気持ちの良い天気である。
   鎌倉の空も、田舎の風情で真っ青であり、小鳥のさえずりも爽やかである。

   こんな日には庭に出て、何となく動きたくなる。
   まず、残していた植木に寒肥を施すことにした。
   私が寒肥を施肥するのは限られていて、椿、ばら、ブルーベリー、そして、小木のモミジや牡丹などの花木、それに、仏前用に頻繁に切る樒と言ったところで、大きな木には施さない。
   土が軟らかいところは寒肥を土に埋め込むが、殆どは株元に散布するだけである。
   鉢花には寒肥を施さずに、初春に根が動き出す頃に、化成肥料と液肥を使おうと思っている。
   この数日の晴天で、鉢花の表土が乾いていて、当分天気が良さそうなので、置き場所にもよるのだが、水遣りを行った。

   梅が咲き続けている。
   鹿児島紅梅、南高梅、紅千鳥、
   メジロがやって来て、花をつついている。
   残っていた夏みかんを総べて食べ尽くしたのか、リスは来なくなった。
   直前に、3つ夏みかんを確保して、2度目のマーマレードを作ったので、当分は、梅ジャムの頃までは、ブルーベリージャムとの併用で行けそうである。
   
   
   

(追記)1月13日に、「気になる我がブログに対する執拗な解析」を書いて、「過去のアクセス解析」で、不審な「記事一覧」として、我がブログが頻繁に検索解析されていることを表明したが、まだ、続いている。「記事一覧」部分を再チェックして、ほぼ解析当事者の推測がついたので関係記事を削除したが、いつまで、こんな無意味な検索を続けるのか、注視して行きたい。
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映画:シェイクスピア「恋の骨折り損」

2024年01月27日 | 映画
   WOWOWで録画していた「恋の骨折り損」を見た。久しぶりのシェイクスピアである。
   「ローレンス・オリヴィエの再来」と言われる最高のシェイクスピア俳優ケネス・ブラナーの監督・主演の映画であるから面白くないはずがない。
   これまで、何本かブラナーの映画を観ており、このブログでも、「シェイクスピアの庭」、「オリエント急行殺人事件」、「ダンケルク」をレビューしている。
   ブラナーのシェイクスピアの舞台は、ロンドンのバービカン劇場で、RSCの「ハムレット」を1度観ただけだが、その後、監督主演した映画を観て感激したのを覚えている。
   随分、RSCに通いつめていたので、この「恋の骨折り損」も観ていたかも知れないが記憶はない。

   さて、この映画は、舞台が第二次世界大戦直前の1939年に設定されていて、連合軍勝利で沸きかえる群衆の歓喜で終ると言う現代版で、ブロードウェイ調のソングとダンスををちりばめた華麗なミュージカル映画になっていて、普段の劇場でのシェイクスイアの戯曲鑑賞とは違った雰囲気だが、台詞などストーリーはオリジナルを踏襲しているようである。
   ブラナー演じるビローンの流麗な長台詞のシェイクスピア節が限りなく美しく感動的である。それに、ブラナーは、歌も踊りも実に上手く、コミカルタッチの抑揚豊かな演技が秀逸である。
   
   ナヴァール王国の若き国王フェルディナンドは、学業に専念すべく決心して、親友のビローン、ロンガヴィル、デュメーンと3年間、女人禁制や1日3時間しか寝ないとかの誓いを立てる。しかし、そんな時に、フランスから美しい王女が父の代理として債務返済交渉に臨むべく、ロザライン、マライア、キャサリンという魅力的な女性3人を伴ってナヴァールにやって来る。女人拒否なので城外で接見するが、たちまち彼女たちの美しさに魅了された男性たちは、なんとか誓いを破らないよう、無駄な抵抗を試みるが、次第に恋の魔力に取り憑かれる。Love's Labour's Lostである。
   男女4人ずつの華麗なペアダンスや群舞が、特筆もので、エロチックな凝ったダンスも舞台展開の進行を暗示するなど面白い。
   
   ところが、お互いの恋が実り始めた矢先に、フランス王逝去の訃報が入る。
   女王たちは、喪に服するために、男たちに、回答を1年後に延期したまま、それぞれ条件を付けて帰国して行く。
   この戯曲は、他のシェイクスピア戯曲のように、結婚と言うハッピーエンドで終っていなければ、悲劇的結末でもない。
   しかし、ラストシーンで、勝利を喜び合うペアを活写しているところを観ると、ブラナーは、ハッピーエンドを意図したのであろう。

   この映画も以上のような単純な話ではなく、面白いサブストーリーが何本か並行していて、田舎者の恋の鞘当て、ラブレターの取り違い、女家庭教師と神父の幕間演技、仮面を付けた男女たちの対面、劇中劇「九人の英雄伝」などの舞台展開が面白い。
   田舎娘に当てた手紙と勘違いして読んで欲しいと渡されて、ビローンが、ロザラインに当てたラブレターの詩を、家庭教師のホロファーニーズが朗詠するシーンなど、実に美しく感動的で、また、学のない田舎者を、学者気取りの二人が、くすりと見下すあたりの呼吸も面白い。

   この戯曲は、ナヴァール王とフランス王女とそれぞれの側近たちの貴族の恋物語である。
   貴族生活に縁のないシェイクスピアなので、イタリアの文筆家カステリオーネの著書「宮廷人の書」の英訳本が参考になったようである。
   読書家のシェイクスピアは、片っ端から参考文献を読み漁って勉強に励み、曲想を練っていたのであろう。
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わが庭・・・・白梅咲き始める

2024年01月25日 | わが庭の歳時記
   わが庭の白梅も咲き始めた。
   古木なので品種は分からないが、南高梅ではないかと思っている。
   昨年の晩秋に植木屋が入り、大幅に剪定したので、大分さびしくなっている。
   梅雨が明けた初夏に、実を集めて、梅酒と梅ジャムを作ることにしており、綺麗な実がなるかどうかが関心事である。ここ2年、梅雨の影響で完熟前に実が傷んで期待外れであったので、今年の出来を楽しみにしている。
   
   
   
   
   
   先に咲いていた鹿児島紅梅が、今最盛期である。
   遅れて、一重のピンクの梅紅千鳥が、一輪花を咲かせた。
   
   
   

   まだ、わが庭の椿は蕾が固いが、菊冬至だけは咲き続けている。
   
   

   さて、今冬変ったのは、夏みかんが、リスに食い荒らされていることである。
   地面にかじった実が散らばっていて、木に残ったミカンはカマクラのように空洞になっている。
   去年は、完熟期の5月にも沢山実が残っていたのに、これまで、こんなに早い段階で、甘くもない夏みかんがリスに狙われるのは異常である。
   そう言えば、時には春まで残っていたユズの実も、晩秋のある日に悉くなくなっていてビックリした。
   今秋は、鎌倉山のリスのエサが不作で飢饉状態なのであろうか。
   別に夏みかんに執着するわけではないが、もう3つだけマーマレード用に取っておいて、後はリスに任せようと思っている。
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気になる我がブログに対する執拗な解析

2024年01月23日 | 
   自分のブログに対して、毎日、アクセス解析が表示される。
   そのうち、「過去のアクセス解析」では、
   1 トップページ 386PV から、順次、50まで、PVの多い順に開示される。
   2 夏みかんマーマレードを作る 68PV・・・と言った具合に、よく読まれた記事から表示される。
   ところが、気になるのは、何年にもわたって、毎日、執拗に繰り返されている得体の知れない
   10 記事一覧(5ページ) 39PV と言う解析である。
   今日だけでも、これ以外に列挙すると、
   15 記事一覧(2ページ) 26PV
   16 記事一覧(21ページ) 25PV
   23 記事一覧(59ページ) 17PV
   27 記事一覧(104ページ) 15PV
   28 記事一覧(1ページ) 15PV
   31 記事一覧(39ページ) 14PV
   34 記事一覧(138ページ) 13PV
   35 記事一覧(78ページ) 13PV
   49 記事一覧(116ページ) 9PV
   各項目とも、かなりのPV数なので、単数ではなく、かなりの数の人が、何らかの目的を持って集中して解析をしているとしか思えない。

   以前に、ブログがあらされた感じで混乱したことがあったので、何が問題で、何を書いたらダメなのか推測がつくので、問題かも知れないと思う項目のブログを、一気に、大量に削除した。そして、その後は、それらに関連する記事を書かないように注意している。
   一度、教育関連会社から、教材に使いたいのでブログを使わせて欲しいと言う申し出を受けたことがあったが、今回問題にしている「記事一覧」解析は、どう見ても善意のアクセスとは思えない。

   しかし、ブログを書き始めて19年で、記事数も何千と膨大な量で、殆ど忘却の彼方である。
   内容は多岐にわたっているが、政治・経済や経営、それに、国際問題などかなり専門的でかたい記事が多いので、読者の方も限られているしポピュラーでもないのだが、問題があるとすれば、この辺りかも知れないとは思っている。
   まだ、問題とされる記事が残っているのかも知れないし、削除したとしても見落としなどあるのかも知れない。
   それに、自分で問題の記事を書かなくても、問題のある項目や人物に触れただけでもダメなのかも知れない。
   いずれにしろ、同じ記事を何回も何回も解析しているようで、何が目的なのか、不思議で仕方がない。

   現役生活から身を引いて隠居生活に入ってから、徒然なるままに、書き綴ってきたたわいない人畜無害の老人の戯言ばかりだと思うのだが、
   しかし、「過去のアクセス解析」に、毎日、多数の「記事一覧」が出て、検索解析されていると思うと、正直なところ穏やかではない。

(追記)後日報告したように、中国関係の記事が解析されていることが分かったので、追記しておきたい。
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PS:ジョセフ・スティグリッツ「バイデン政権の最近の独禁法での勝利は我々全員を助ける」

2024年01月22日 | 政治・経済・社会時事評論
   PSのスティグリッツ教授の「バイデン政権の最近の独禁法での勝利は我々全員を助ける The Biden Administration’s Recent Antitrust Wins Help Us All」

   米国における企業の市場支配力の着実な増大は、生産性の伸びを阻害し、不平等をもたらし、一般の米国人の生活水準を低下させてきた。 幸いなことに、米国の独占禁止当局は、ついにこの問題を真剣に受け止め、国民に代わって重要な勝利を記録しつつある。
   すなわち、アメリカ経済をスキューして害を成してきた企業の市場支配力を抑制するために、バイデン政権が独禁法政策を強化したと言うのである。

   本来、市場が機能するのは競争である。 しかし、競争は利益を減少させる傾向があるので、 通常の資本利益率を超える利益を得ることが目的である典型的なビジネスパーソンはそれを嫌い、企業は競争を避ける。 「同業者が、たとえ陽気な目的や気晴らしのためであっても、一堂に会することはめったにない。しかし、その会話は結局、大衆に対する陰謀か、あるいは価格つり上げのための何らかの策略で終わる。」とアダム・スミスが 250 年前に述べている。
   少なくとも 130 年間、米国政府は市場での競争を確保しようと絶え間ない戦いを続けてきた。しかし、企業の弁護士は、新しい方法を考案するなどして、企業は常に競争を回避する新手法を編み出してきたので、 政府は、技術の急速な進歩はおろか、これらの慣行のいずれにも追いついてこれなかった。

   現在、米国の市場支配力が増大しているという圧倒的な証拠が存在する。 これは、企業利益の拡大(リスク調整後のリターンをはるかに上回る)、各セクターへの市場集中の増加、新規参入者の減少である。 アメリカ人は、世界中で最もダイナミックな経済を持っており、現在新たな革新的な時代の先端にあると考えたがるが、しかし、データはそのような主張を否定している。
   イノベーションの標準的な尺度である全要素生産性を考えてみよう。これは、労働や資本などの投入量の増加によって説明できる以上の生産量の増加を指す。 新型コロナウイルス感染症のパンデミック前の 15 年間、米国経済全体の TFP の伸びは、それまでの 15 年間の 3 分1に過ぎない。 イノベーション時代の到来はこれで終わりであり、さらに悪いことに、自著『人材、権力、利益』で主張したように、市場支配力の増大も不平等拡大の一因となっている。

   しかし、幸いなことに、悲惨なニュースが絶えないこの時代に、この面では前向きな発展が見られた。 バイデン米大統領政権による競争の維持・強化に向けた取り組みが実を結んでいる。 たとえば、連邦反トラスト当局からの圧力により、Adobe と Figma (「インターフェース設計のための共同 Web アプリケーション」) との 200 億ドルの合併は中止された。 さらに、バイオテクノロジー企業イルミナは、米国連邦取引委員会が、両社の提携が「価格上昇と選択肢の減少を伴いながら、多がん早期発見(MCED)検査の米国市場におけるイノベーションを減少させるだろう」と主張したことを受けて、GRAILからの撤退に同意した。
   さらに重要なことは、FTC と司法省が、米国の独占禁止法の伝統にしっかりと根付いた重要な新しい境界線を画定する最新の合併ガイドラインを発行したことである。 例えば、ガイドラインでは、「競争を実質的に低下させる可能性がある」合併・買収を禁止することで、反競争的な状況の芽を摘むことを目的とした1914年のクレイトン法を挙げている。 絶対的な確実性を持って予測できるものは何もないため、「かもしれない」という言葉は非常に重要である。 2012 年当時、Facebook による Instagram の買収により競争が減少すると確信していた人もいるであろう。 しかし、オバマ政権は、バイデン政権ほど市場支配力の集中に対して警戒していなかった。
   新しいガイドラインはまた、買収や合併によって企業の市場支配力が深化、拡大、延長される可能性があるという考えである定着化にも重点を置いている。 この変化は、競争が本来あるべき動的な現象として見られるようになるということを意味している。 重要なのは、水平合併だけでなく、垂直合併もより厳しい監視の対象となることである。
   競争が限られている状況下では、このような合併が強力な悪影響を及ぼす可能性があることは以前から既知であった。 しかし「シカゴ経済学者」らは、市場には本来的に競争力があると主張し、独占禁止当局は水平的な合併・買収のみに焦点を当てるべきだと主張し、裁判所もおおむね同意していた。 イルミナ/GRAILの判決は、裁判官が垂直合併がもたらす危険性を認識し始めたことを示唆している。

   同様に、新しいガイドラインは、クレジットカード、航空券の予約、劇場のチケットからライドシェアリングに至るまで、今日の反競争的行為の多くが行われている大規模なプラットフォームに独占禁止当局が対処するのに役立つ。 (完全な開示:私はこれらの訴訟のいくつかで専門証人を務めた。)支配的なプラットフォームから得られる持続的な高い利益は卑劣なものになった。 ここでの市場支配力の成長を芽のうちに摘むことが特に重要である。 新しいガイドラインのダイナミックなアプローチは特に効果的である可能性がある。

   我々は皆、市場支配力に苦しんでいる。市場支配力が市場を歪め、全体的な生産性を低下させ、企業が価格を引き上げることを可能にし、その結果、生活水準が低下する。 同時に、市場支配力の拡大と労働力の弱体化が組み合わさって賃金が抑制され、生活水準はさらに低下していく。
   スミスは正しかった。市場支配力との戦いは終わりがない。 しかし、バイデン政権は少なくとも一般のアメリカ人にとってはポイントを獲得した。 これは、極めて敵対的な政治環境の中でのまた一つの素晴らしい成果である。

   スティグリッツ教授の論理は極めてシンプルで疑問の余地なく、先日レビューしたルービニ教授の「メガスレット」での脱グローバル化反論と相通じる論旨で、非常に興味深い。
   重要な軍事情報に関すケースはともかくも、たとえ、AIやデジタル技術に対する高度なハイテク技術や情報についても、グローバル経済の発展ためには、オープンすべきという論旨であろう。
   しかし、米中の対立が激しく、新冷戦に突入して、世界が分断状態にある現状では、どうであろうか。
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ヌリエル・ルービニ:脱グローバル化は巨大な脅威

2024年01月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ルービニ教授は「メガスレット」の「脱グローバル化」の章で、何故、保護貿易政策が巨大な脅威なのかを論じていて興味深い。
   メデイアで、貿易やグローバル化に関する報道がなされると、読者を憤慨させ、自由貿易のメリットを強調しようものなら、抗議が殺到する。工場は閉鎖された、仕事はなくなった、ラストベルトはすっかり寂れて陰鬱な雰囲気、人件費の安い中国やアジアへ製造拠点が移ってしまったからだ、と言うのである。  
   トランプを大統領の座に押し上げたのは、この経済的ナショナリズムのうねりであった。

   しかし、ルービニ教授の論理は正反対。保護主義は魅力的に見えるかも知れないが、過去の例では、ほぼすべての人が経済の梯子段から転落する結果に終っており、脱グローバル化をメガスレットと呼ぶのはこのためだという。
   脱グローバル化によって、20世紀型製造業の雇用を守ろうとすれば、サービス、テクノロジ、データ、情報、資本、投資と言ったもっと大きな市場の取引、更には労働市場全般が低調になると言う形でしっぺ返しを食らうことになるであろう。脱グローバル化は経済成長を妨げ、巨額の債務への対処を困難にし、インフレひいてはスタグフレーションを導くことになりかねない。と言うのである。

   また、保護主義を唱えた国はすべて、悲惨な結果に苦しむことになった。アメリカもそうで、トーマス・ジェファーソンは、高関税は政府を潤し、国内製造業の振興に寄与すると考えたが、その結果はおぞましい不況になり、巣立ったばかりのアメリカ経済を破壊させるところであった。
   ハーバート・フーバーは、1929年の大恐慌時に、農業保護のために輸入農産物に高関税を掛けるスムート=ホーリー法で対抗して、他の産業も動揺の関税を求めるなど大騒ぎをして、経済を壊滅的な状態に追い込んだ。結局、ルーズベルトは、ケインズ政策の逆療法で、経済を救った。

   脱グローバル化は、世界の生活水準を満足なレベルまで引き上げる可能性を閉ざし、貿易を制限すれば世界の生産は縮小し、グローバル化の煽りで失業した労働者の就職先も減ることになる。つまり、グローバル経済のパイが小さくなるのである。また、脱グローバル化は、無数のエンドユーザーと世界各地に散らばっていた生産拠点が蜘蛛の巣のように複雑で精緻なネットワークを形成していたグローバル・サプライチェーンを破壊し台無しにする。
   脱グローバル化は、財の貿易のみならず、サービス、労働、データ、技術、情報の取引にも及ぶ。デジタル情報をはじめテクノロジーの貿易を制限すると、結局はすべての貿易を制限することになる。

   興味深いのは、現在は、「グロボティックス(グローバル化+ロボット化)革命の時代だという指摘である。
   技術の進歩のお陰で、多くのサービスが今や貿易の対象になり、人件費の安い国に住み通信技術を利用して先進国のサービスを引き受ける人材、すなわち、「テレミグラント」の活躍である。
   アメリカの労働者は自分の仕事が人件費の安い国に奪われたと憤っているが、今や、会計士や弁護士、コンピュータプログラマー、医師たち高級サービス業務従事者なども、同じ立場に置かれていると言うことである。

   貿易とグローバル化に対する激しい反発は、今日のハイテク世界にとって巨大な脅威であり、たとえ良き意図から出たものであっても、脱グローバル化は間違った闘いである。
   正しい解決は、グローバル化を推進してきた要因を絶ちきるのではなく、取り残された人々を本気で支える政策を導入し、貿易とマシンと人間の平和共存を図ることである。と言う。
   
   現状は、米中対立を考えても、脱グロ-バル化ではなく、まだ、グローバル化の減速すなわちスローバル化の段階にあり、デカップリングよりはましである。
   しかし、スローバル化によって、競争は縮小し生産性は鈍化するため、スタグフレーションの可能性は高まる。だが、大恐慌のような悲劇的な結末は回避できる。と言うのが、ルービニ教授の結論である。

   ルービニ教授は、アメリカが一番危惧してる国家安全保障の問題には一切触れずに、経済的側面からのみ貿易論を展開しているが、脱グローバル化の展開も、地政学面での国際危機など、政治的な側面の方が重要性を増していることを考えれば、もう少し、論理展開が変るかも知れない。
   尤も、いくら脱グローバル化で国境を閉鎖しても、日進月歩のデジタル革命の時代で、重要なハイテク情報や軍事情報などの情報漏洩は日常茶飯事、
   それに、反対派は必死になってキャッチアップを試みて、相手の対抗意欲を喚起して力づけるので、イタチごっことなる。

   文化文明が進化したのかどうか、
   地球温暖化で宇宙船地球号が悲鳴を上げて泣き続けており、依って立つ地面が崩れかかっているのに、
   ウクライナ戦争やガザ・イスラエル戦争などAI時代には信じられないような愚かな蛮行が、人類を窮地に追い込んでいる。
   
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夏みかんマーマレードを作る

2024年01月18日 | 生活随想・趣味
   今年は裏年で、実がならないはずであったが、わが庭の夏みかんは、数は少ないが、30個ほどの綺麗な実を付けた。
   ここ数年、マーマレードを作っているので、今年も早速挑戦した。
   特に、難しいわけではないが、多少手間がかかると言うことである。

   パソコンで、レシペを検索して、色々試みてきたが、今では、ずっと、JAPANマーマレード協会の國分理事長の遣り方を踏襲している。
   イギリスでの方法だと言うことで、実質的な英国人のやることであるから、良かろうと思ったのだが、その通りで、日本人の理屈っぽい詳細なレシペと違って、非常に合理的で簡単なのである。

   用意するのは、夏みかん 1キロ、レモン 1個、グラニュー糖 1キロ、水 2㍑
   夏みかん3つでほぼ1㎏、甘すぎるので砂糖は750㌘にしている。

   まず、夏みかんの処理であるが、皮の部分のわたを取るなど皮の処理の必要がなく、実を縦割りに8等分して、煮詰めるだけで良い。果肉と種の落ちた透明になった皮をハサミで細かく切り刻む。アクもそのままホっておいて、出来上がり直前に取れば良い。
   漉して残った煮汁に、この切り刻んだ皮を入れて、鍋に掛けて煮詰る。
   飴色に透明になった時点で、汁を小さなプレートにとって冷蔵庫で5分寝かせて取り出して、指を這わせて溝が出来れば出来上がり。

   出来るだけ濃縮したマーマレードにしたいと思って、煮詰めすぎると焦がしてしまうので、火を止めるタイミングが難しい。
   國分さんは、火加減はどのくらいで何分煮れば良いのかと言ったことは一切言わないので、火に掛けている夏みかんの状態をよく見て、処理をしなければならないので、かなり、慣れと経験が必要である。
   私など、作る度毎に味が変っているので、失格なのであろうが、イギリス人だと毎年同じことをしているので、自分流のレシペを編み出しているのであろう。

   この調子だと、5月の完熟時期までに、何回かマーマレードが作れそうである。
   6月には、梅雨次第だが、良い実が結実すれば、梅ジャムが作れる。
   それに、今年は沢山花を付けたので、ビワジャムも作れるかも知れない。


   毎朝、朝食にスコーンを取っているので、どうしてもクロッテドクリームと、ジャムが必要なので、自作のジャムを使えるのは嬉しい。
   
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ヌリエル・ルービニ:必ずしもデフレは悪いわけではない

2024年01月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ルービニ教授の「メガスレット」を読んでいて、興味深かったのは、
   「過去20年間に起きたデフレあるいはローフレーションがすべて悪いデフレだったわけではない」という指摘である。
   (ローフレーションとは、lowとinflationの合成造語で、低いインフレ、すなわち、インフレ誘導目標を下回る水準が続く状態を意味する。)

   その多くをもたらしたのは、技術の進歩、貿易とグローバル化の拡大、移民の増加、中国など新興国のグローバル経済への参入による労働力の供給増である。これは良いデフレであり、かなりの期間にわたって物価に下押し圧力をかけ続けた。実際、パンデミックが襲来する2021年まで、インフレ率は多くの先進国の中央銀行が設定した誘導目標の2%を下回って推移した。と言うのである。

   誤った前提に立つと、デフレの影響は殊更悪く見える。誤った状況判断は誤った政策手段、誤った目標を生む。発想を転換し、ここでデフレを良いものと考えてみよう。貿易のグローバル化、進化した技術、豊富な労働力の供給のおかげで、経済の健全性を損なうことなくものの値段がさがったとと考えるのである。実際にもインフレ率はゼロに近づいた。
   ところが、そうなると、中銀は、2%こそが名目インフレ率の適切な水準だと金科玉条のように信じ込んでいるので、デフレとローフレーションは危険な悪者だと考えて、あの非伝統的政策を引っ張りだして、金利をゼロ更にはマイナスまで引き下げて、量的緩和や信用緩和と銘打って民間部門から金融資産を買い取り、信用規制を緩和すると言った措置を導入した。
   中銀は、良いデフレやローフレーションをニューノーマル(新常態)として容認しようとせず、何も解決を必要としない問題を正そうと試みている。緩和政策を導入して借金を促すのは、借金をして消費に回せばインフレ率は目標の2%に近づくと考えているからである。仮に狙い通りになったとしても、それは、不必要な解決であり、非生産的である。過剰な信用緩和は次のバブルを生むだけである。と言うのである。

   さきに、スティグリッツ教授が、インフレ退治目的のFRBの金利引き上げ政策は間違いであって、銀行を儲けさせただけだという見解を紹介したが、いずれにしろ、ルービニ教授の見解にしたがっても、FRBや日銀の金融政策は、誤っていたということになろうか。
   早い話が、スティグリッツだったと思うが、インフレ率2%が適正水準だという確たる根拠も何もないと言っており、なぜ、この程度のインフレ状態が経済成長なり経済の安定にとって良いのかどうか、理論的にも良く分からない。
   誰が考えても、インフレにもデフレにも問題があって、インフレゼロで、物価水準が上下変動せずに安定し続けている方が良いのに決まっている。
   
   アメリカの1990年代は、「大いなる安定」という名称で記憶されている。通常は低い失業率と安定成長はインフレを伴うものだが、主にインターネットとその生産性押し上げ効果によってインフレに歯止めがかかり、「良いローフレーション」が出現したのである。
   このように、色々な経済の新機軸や革新的なインパクトによって、低い失業率と安定成長を維持しながら、低いインフレの「ローフレーション」状態の方が、2%のインフレターゲット政策よりも、良いことが理解できる。

   ここでは、説明は省くが、須く必要なのは、経済を引き上げるイノベーションをインスパイアーすることで、生産性をアップさせて経済を浮揚させる以外に、成長の道も、良いローフレーションもない。
   日本経済が成長から見放されてしまったのは、政治経済社会のすべてにおいて、イノベーションを忘れたカナリアになってしまったからである。
   デフレで、失われた30年をやり過ごしてきたのであるから、ここで心機一転、
   良いデフレやローフレーションをニューノーマル(新常態)として、経済体制を建て直したらどうであろうか。
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やはり日本は高齢化社会である

2024年01月16日 | 生活随想・趣味
   昨日、行きつけの病院に行った。3ヶ月毎に通っている循環器系の定期健診である。
   いまのところ、体調に異常はないので心配はしていないが、血圧降下剤を飲んでいるので、薬の処方を貰うためにも通院は欠かせないのである。
   結果は、血液検査と心電図とも、全く問題はなかったので、何時もながらホッとしている。

   ところで、病院の待合室で待っていると、結構、高齢者の夫婦連れの患者を見かける。
   両方が受診というわけではなく、どちらか一方が受診者なのだが、患者は圧倒的に夫の方が多い。それも、車椅子に乗っていて奥さんが押している。
   足腰に問題があるのか、病気で歩けないのか分からないが、私自身も足腰が弱ってるので多少は気にはなっている。
   病院の患者は、少子高齢化の所為で、過半数は高齢者で、結構家族の付き添いが多い。

   さて、歳のことだが、今年も、今回で年賀状のやり取りを止めたい。と言う年賀状が何通かやって来た。
   殆ど行き来がなくなって年賀状が唯一の繋がりであったケースが多いので、これで、以降没交渉になることになる。思い出が残るだけで寂しいが、致し方ない。

   先日にも書いたが、運転を止めたので、近所で車が自宅の車庫から消えた家が増えてきたのも、歳の所為である。
   また、門前の前庭や門口に花木や草花を並べて道行く人々を楽しませてくれていた鉢花が消えたり、キウイや葡萄棚が取り壊されたり、ガーデニングに勤しんでいた老人が亡くなると一気に寂しくなる。
   主が逝ってしまって、結構空き家も増えてきている。2世帯や3世帯同居の場合は問題はなかろうが、住人が老人単独の場合には、やはり、生活環境の違いか、空き家になっても、出て行った子供たちが帰ってきて住むケースは殆どない。
   鎌倉と言っても、トカイナカなので、バスなどを乗り継いで、都心まで1時間半くらいはかかるので、通勤や生活に不便なのかも知れない。
   7~80年代の日本経済の絶頂期に生まれた新興住宅も、空き家になると1地所に2戸建って新陳代謝をするのも時代の流れであろうか。
   
   ところで、傘寿を超えた私の同窓生や同年代の知人友人の健康状態はまちまちで、元気であったり病気であったり亡くなったり、
   しかし、奥方たちは大概健康で生活には不自由のない状態を保っているようである。多少歳が若いケースもあったりするにしても、女性の方が老後は強いのであろう。
   いずれにしろ、健康寿命を保ったまま逝きたい。

   有名人もどんどん亡くなっていく。
   とかく、老人の動きが気になる今日この頃である。
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椿タマアリアケ咲き出した

2024年01月14日 | わが庭の歳時記
   玉之浦ファミリーの椿で、最初に咲き出したのがタマアリアケ。
   わが庭には、他に、タマグリッターズ、タマアメリカーナ、タマカメリーナの仲間が植わっているのだが、例年なら咲き出しているのに、まだ蕾が固い。
   千葉の庭には、親木の玉之浦を植えていたのだが、鎌倉には、タマグリッターズだけ持ち込んで移植し、他は苗木を買って庭うえした。

   玉之浦は長崎県五島市玉之浦町で発見された日本椿だが、赤地に花弁の外縁が白い覆輪の美しさを愛でて、外国でも多数品種改良されて、ばら好みの派手な八重椿に生まれ変っている。わが庭の椿は、その仲間だ。
   このタマアリアケ(玉有明)は、「玉の浦」と「岩根絞り」の交配で作られた日本の品種。花によって微妙に違ってくるのだが、白地と赤地のバランスが絶妙で、花弁化した蘂が彩りを添える。
   これからは、椿の季節。入れ替わり立ち替わり、咲き続ける椿をズームアップするのを楽しみにしている。
   
   
   


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爽やかな朝を迎えると嬉しくなる

2024年01月13日 | 生活随想・趣味
   若い頃の習慣が残っていて、どうしても床につくのが深夜を回る。
   夜10時のNHK BSの国際報道2024を見て風呂に入り、パソコンを叩いていると、そんなリズムになる。

   現役時代は、寝る時間が5時間を切っても平気だったが、何故か、歳を取ってからはよく眠るようになって朝は遅い。
   目を覚まして気持ちが良いと、嬉しくなる。

   朝起きてまずするのは、メリタのコーヒーメーカーでコーヒーを煎れること。
   私の朝食は判で押したように決まっている。
   胡桃チョコ入りのスコーンを輪切りにしてクロッテドクリームを塗ってジャムを載せ、残った一方のスコーンを被せてサンドイッチ状にする。ジャムはブルーベリーだが、時期によって、自分で作った梅ジャムや夏みかんマーマレードなどに代わる。
   飲み物は、大きなマグカップに、シロップ漬けブルーベリーをタップリと入れて牛乳を加えて、それに、コーヒーを注ぐ。
   時間を少しおいて、ブラックのコーヒーを啜りながら、日経を詠む。

   天気の良い日には、庭に出て、花木の美しさや自然の移ろいに感動し小鳥たち小動物と対話する。どうしても気になると、植木鋏やスコップを持って庭仕事を始めたりする。無理は出来ないが、千葉の時代から、結構広い庭があって、庭仕事を続けているのが、健康維持の秘訣かも知れないと思っている。庭仕事が大変なので、住み慣れた一戸建てを売ってマンションに移った友が、亡くなったり寝込んだりしているのを思うと、一眼レフを構えて花の艶姿を追っかけている自分の幸せを噛みしめている
   10時からは、NHKの「キャッチ!世界のトップニュース」を見て、本のページを繰っていると、すぐに昼になる。

   外の気温は、10度程度なのだが、陽が照っていて風が止まると、庭では結構暖かい。
   午後は、書斎で録画したMETライブビューイングのオペラを観るつもりでいたが、庭に出て、スティグリッツかシュンペーターを読もうかと思っている。
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PS:ダニ・ロドリック「4 つの最大の経済的挑戦に立ち向かう Confronting Our Four Biggest Economic Challenges」

2024年01月11日 | 政治・経済・社会時事評論
   プロジェクト・シンジケートのダニ・ロドリック教授の論文「Confronting Our Four Biggest Economic Challenges」

   ロドリック教授は、昨年同様に今年も激動の年となり、世界経済が転換点にあることが確認されたとして、 4 つの大きな経済的挑戦に直面している。と指摘。それは、気候変動、適正雇用問題、経済発展危機、そしてより新しく健全な形のグローバリゼーションの模索である。それぞれに対処するには、確立された思考様式を離れ、創造的で実行可能な解決策を模索する必要があるが、その一方で、これらの取り組みは必然的に調整されておらず、実験的なものになることを認識している。と説く。

   気候変動は最も困難な課題であり、最も長い間無視されてきた課題であり、多大な費用がかかる。 人類をディストピア的な未来に追いやるのを避けたいなら、世界経済の脱炭素化に向けて迅速に行動しなければない。 化石燃料から手を引き、環境に優しい代替燃料を開発し、過去の不作為がすでに引き起こした永続的な環境破壊に対する防御を強化しなければならない。 しかし、このうちのほとんどが、世界的な協力や経済学者が好む政策によって達成される可能性は低いことが明らかになってきている。
   その代わりに、米国、中国、欧州連合がすでに行っているように、各国はそれぞれのグリーンアジェンダを推進し、特定の政治的制約を最もよく考慮した政策を実施することになるであろう。 その結果、排出量の上限、税制上の優遇措置、研究開発支援、グリーン産業政策がごちゃ混ぜになり、世界的な一貫性がほとんどなく、場合によっては他国にコストがかかることになる。 厄介なことかもしれないが、気候変動対策を無秩序に推進することが、現実的に望む最善の策かもしれない。

   しかし、我々が直面する脅威は物理的環境だけではない。 不平等、中流階級の浸食、労働市場の二極化は、我々の社会環境に同様に重大なダメージを与えており、 その影響は今や広く明らかになっている。 各国内の経済的、地域的、文化的格差は拡大しており、外国人排斥的で権威主義的なポピュリストへの支持の高まりと、科学技術の専門知識に対する反発の高まりを反映して、自由民主主義(とそれを支える価値観)は衰退しているように見える。
   社会的移転や福祉国家は役立つかもしれないが、最も必要なのは、アクセスを失った低教育の労働者に良質な仕事の供給を増やすことである。大学の学位を持たない人々に尊厳と社会的評価を与えることができる、より生産的で高報酬の雇用の機会を必要としている。 このような雇用の供給を拡大するには、教育へのさらなる投資と労働者の権利のより強力な擁護だけでなく、将来の雇用の大部分が創出されるサービス向けの新しいブランドの産業政策も必要となる。

   製造業の雇用が時間の経過とともに失われることは、自動化の進展と世界的な競争の激化の両方を反映している。 発展途上国はどちらの要因にも影響を受け、 多くの人が「時期尚早の産業空洞化」を経験している。正規の生産性の高い製造企業への労働者の吸収は現在非常に限られており、これは東アジアや他のいくつかの国で非常に効果的だった輸出指向の開発戦略を追求することが妨げられていることを意味する。 気候変動の問題と併せて、低所得国の成長戦略におけるこの危機は、まったく新しい開発モデルを必要としている。
   先進国と同様、サービスは低・中所得国の主な雇用創出源となるであろう。 しかし、これらの経済圏におけるほとんどのサービスは、非常に小規模で非公式な企業 (多くは個人事業主) によって支配されており、模倣すべきサービス主導の開発の既成モデルは本質的に存在しない。 政府は、グリーン移行への投資と労働を吸収するサービスの生産性向上を組み合わせて実験する必要があるであろう。

   最後に、グローバリゼーション自体を再考案する必要がある。 1990 年以降の超グローバル化モデルは、米中の地政学的競争の台頭と、国内の社会、経済、公衆衛生、環境への懸念の優先順位の高まりによって凌駕された。 このようなグローバリゼーションはもはや目的に適わなくなっており、国家のニーズと、国際貿易と長期的な海外投資を促進する健全な世界経済の要件とのバランスを再調整する新しい理解に置き換える必要がある。
   おそらく、新しいグローバリゼーションモデルは、国内の課題や国家安全保障上の責務に対処するために政策の柔軟性を高めることを望むすべての国(大国だけでなく)のニーズを反映した、あまり押し付けがましくないものとなるであろう。 一つの可能性としては、米国または中国が自国の安全保障上のニーズに対して過度に拡大的な見方をし、世界的な優位性(米国の場合)または地域的な支配(中国)を求める可能性がある。 その結果、貿易と投資がゼロサムゲームとして扱われ、経済の相互依存が「武器化」され、経済が大幅に分断されることになるであろう。
   しかし、両国が調整と協力を通じて競合する経済目標をよりよく達成できると認識し、両国が地政学的な野心を抑制する、より好ましいシナリオもあり得る。 このシナリオは、たとえそれが超グローバル化には及ばないとしても、あるいはおそらくそれが理由で、世界経済にうまく役立つ可能性がある。 ブレトンウッズ時代が示したように、世界の貿易と投資の大幅な拡大は、各国が国内の社会的結束と経済成長を促進するためのかなりの政策自主性を保持する、希薄なグローバリゼーションモデルと両立する。 大国が世界経済に与えられる最大の贈り物は、自国の国内経済をうまく管理することである。

   これらすべての課題には、新しいアイデアとフレームワークが必要である。 従来の経済学を窓から投げ捨てる必要はない。 しかし、関連性を維持するために、経済学者は自分たちの取引ツールをその時の目的や制約に適用することを学ばなければならない。 政府が過去の戦略に従わない行動をとった場合には、実験を受け入れる姿勢を持ち、同情的でなければならないであろう。

   以上がダニ・ロドリック教授の見解。
   気候変動やグローバリゼーションへの記述は一般的だとしても、大卒ではない低学歴の労働者への思いやりや、低・中所得国の経済開発など、米国オリジンではない経済学者である所為もあるのか、結局、格差をなくして全体を底上げしないと経済社会の発展も安寧もないという優しい視点が興味深い。

   さて、ユーラシアグループの「2024 年 10 大リスク」で指摘した経済的な要因は、リスク No.6 回復しない中国、リスク No.7 重要鉱物の争奪戦、リスク No.8 インフレによる経済的逆風、リスク No.9 エルニーニョ再来 、強いて加えれば、リスク No.10 分断化が進む米国でビジネス展開する企業のリスク。
   念のため、ルービニ教授の「メガスレット」での10大脅威は、殆ど経済的要因で、積み上がる過剰債務、人口の時限爆弾、大スタグフレーション、通貨暴落と金融の不安定化、脱グローバル化、米中新冷戦、気候変動。
   それぞれ、すべて、脅威であり課題ではあるのだが、分析の切り口の違いが面白い。
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木村 泰司「なぜ、フィレンツェでルネサンスが起こったのか」

2024年01月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   木村 泰司の「名画の言い分 数百年の時を超えて、今、解き明かされる「秘められたメッセージ」」が易しくて面白い。
   まず、私の何時も念頭にある「なぜ、フィレンツェでルネサンスが起こったのか」について、興味深い見解を述べていることである。
   これまで、主に、その繁栄を「メディチ・エフェクト」として論じたフランス・ヨハンセンの文化文明の十字路論などを元にして、当時、正に、その十字路であったフィレンツェに、芸術家や学者や起業家たち優秀な頭脳が糾合して切磋琢磨して、文化芸術・科学技術が爆発開化した。と考えてきた。
  
   木村 泰司論を要約すると、 
   13世紀後半、当時行われていた十字軍の遠征で、海洋都市であったベネチアなどの商人が輸送船を提供するなど協力して、商圏の拡大を許されるなど多大な恩恵を享受して繁栄し、富裕な市民階級が台頭してきた。貧しかった中世時代、神様に雁字搦めに束縛されていたが、豊かになると現世を楽しもうじゃないかという気持ちになって、そこで、同じように人間中心の時代であったギリシャ・ローマ時代に非常に興味を抱くようになった。
   15世紀、当時のイタリアは、多数の都市国家が乱立状態であったが、時のミラノ大公が、自分を古代ローマ皇帝に見立てて、全イタリアを支配下に置こうとしたので、危機感を抱いたフィレンツェは、古代ギリシャのアテネを手本にして、軍事力と政治力、そして、美術の力を用いて国民を鼓舞して対抗した。これを機に、フィレンツェの人々は、ギリシャに憧れ、その文明を継承したローマに憧れ、ギリシャ・ローマ時代の人文学、美術、神々をリナーシタ=再生しようしていった。このリナーシタ=再生が、フランスでルネサンスと呼ばれるようになったのだという。
   要するに、地中海貿易の活況によって、一気にイタリア諸都市が経済的に富裕になり、富と知力を備えた市民階級が台頭して、意識革命・精神革命を起して、ギリシャ・ローマ時代の文化文明に憧れて、文芸復興運動に邁進したということであろうか。
   神様に束縛されるのは、もうこりごりだ、マンジャーレ(食べよう)、カンターレ(歌おう)、アモーレ(恋し合おう)、人間中心の時代への回帰が面白い。

   さて、著者の説明で興味深いのは、「煉獄」という概念である。
   ギリシャやローマ人は、キリスト教徒ではなく異教の人々なので、天国へは行けないが、自分たちの文明のルーツなので地獄に行かれても困る。そこで、地獄でもない、天国でもない、罪を浄化するために留まる天国の手前の場所である煉獄を考えたのである。
   尤も、ダンテは、14世紀初頭に、「神曲」で、「煉獄篇」を描いているが、特別待遇だとは言え、ソクラテスやプラトン、ホメロスなどを地獄に送っている。

   もう一つ注目すべきは、「画家から芸術家への昇華」である。フィレンツェは、商人と職人の街だが、出世欲もあり、競争心もあり、自己顕示欲も生まれた画家たちが、職人階級に甘んじているのを良しとせず芸術家となっていった。
   芸術家と認められるためには、自分の作品を文章で裏付けるなど、豊富な知識と精神が必要で、神様のようにすべてのことに精通した男、万能の人、と見なされなくてはならない。そして、その人の知性と精神が作品に反映されて、はじめて、それが芸術作品と認められた。神に等しい存在となった芸術家たちは、作品を製作するのではなくて、創作するようになったのである。
   バチカンのシスティナ礼拝堂の壁画やレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を見れば、それが良く分かる。

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