熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

グローバル・ビジネス概論の試み(1)

2013年07月30日 | 経営・ビジネス
   ここ3年間ばかり、大学で講義する機会を得て、「グローバル・ビジネス」概論を、若い人たちに語り続けている。
   国際ビジネスを経験した企業の元役員たちが、夫々、得意とする国なり、国際事業などについて、グローバル・ビジネス課程の講座を輪番に受け持って講義を行うのだが、やはり、大学の正式な授業であるから、手を抜くわけには行かないので、皆、老骨(?)に鞭を打って、熱心に準備に余念がない。

   私の場合には、最初、ブラジル学の講義から、授業を引き受けたのだが、別な大学で、どうしても、若い人たちに、異文化異文明の遭遇の主戦場であるグローバル・ビジネス環境が、如何に、想像を超えた複雑怪奇な世界であるかと言うこと、そして、それを理解して順応し、受けて立つ能力と気迫を涵養して、世界の檜舞台で戦い抜く決意を固めることが如何に大切かを伝えたいと考えて、グローバル・ビジネス概論擬きの講座を頂戴した。

   私自身は、アメリカでビジネス教育を受け、英蘭中心にヨーロッパでのビジネス経験が長いのだが、全く異文化ラテンのブラジルにも在住し、仕事柄、アジアや中東など新興国での仕事も多かったので、いわば、異文化異文明の遭遇する人種の坩堝のようなビジネス環境で、揉まれに揉まれて仕事を続けて来たようなものであった。
   それに、一泊以上した外国は、40か国を越えているので、全く、ものの考え方も価値観も気質も違う人々とのコミュニケーションが如何に難しくて大変かを、身を持って感じており、しかし、それだからこそ、異郷の人と人との触れ合いが、如何に、感動的で素晴らしいことか、そんな時には、この宇宙船地球号で起居を共にする生きとし生きるもの総てが、愛しくてしかたがなくなるのだが、そんな本当のグローバル・ビジネスの姿を語りたかったのである。

   ウォートン・スクールの「インターナショナル・ビジネス」の最初の授業で、フランクリン・ルート教授が、黒板に大書したのが、「TIME」と「PLACE」。国々によって異なるこの違いを理解することが国際ビジネスのスタートだと言う訳である。
   例えば、TIMEだが、日本は交通機関さえ時間厳守だが、スペインでは、事務所で、相手が約束の時間に30分以上遅れて出て来るのは常識だと言っていた(実際に待たされたのだが、かと言って、日本人の私は、次からスペイン流に遅れて行くわけに行かず又待たされた)し、ブラジルで、代表者交代パーティを、6時スタートに設定しても、ブラジル人は、8時頃にやって来るし、こんな状態だから、サンパウロのサントリーレストランなどは、日本人客とブラジル人客の二回転で深夜まで賑わっていた。
   PLACEだが、日本では、相当、大きな会社でも、長い間、社長や役員などが、大部屋に机を構えていたことがあり場所には比較的無頓着だが、アメリカでは、事務所の位置と大きさ豪華さは、地位の象徴であるから、役職の上下では雲泥の差がある。イギリスでは、何処に住んでいるのかが極めて重要だし、ホテルでも、例えペイペイでも、日本に出張に来ると帝国ホテルとか高級ホテルに当然顔で宿泊するのだが、逆に、日本の社長や重役でも、会社に旅費規程なるものがあって、一時、ポンドが異常に高かった時に、ロンドンで場末のホテルに泊まらざるを得なかったことがあったのだが、たちまち、場所で相手を値踏みするイギリスのビジネス相手に軽蔑されてしまって、交渉が決裂したと言う話があった。

   この異文化異文明の遭遇で、もっとビジネスに本格的に影響するのは、法律や契約で総てを律する法化社会のアングロ・サクソンの世界と、法令や契約など朝令暮改でアミーゴしか信用しないラテン気質のブラジルと言った政治経済社会(華僑やマフィアの世界もこれに近いかも知れない)の成り立ちが根本的に違う世界でのグローバル・ビジネスの複雑怪奇さであろう。
   汚職贈賄が政治やビジネスにビルトインされているとしか思えないブラジルなど、現在のジルマ・ルセフ大統領(Dilma Vana Rousseff)が就任後1年足らずに、9人の閣僚を更迭しなければならなかったと言う。
   Forbesが、”Investing in Brazil? Don't Overlook Hidden Costs”で、
   In conclusion, the document revealed last week by Wikileaks and the recent faxina suggest businesspeople to be careful when investing in Brazil. Do not overlook hidden costs related to corruption, security, bureaucracy and our dysfunctional legal system.
   贈賄は、ブラジルでは、隠れたコストだと考えて置けと言うのだろうが、ブラジルは、神はブラジル人に違いないと言われるほどBRIC'sでも最も天然資源に恵まれた豊かな国なのだが、多くのブラジル・コストが、外資を逡巡させていて、アメリカとはまた違った難しさのある国である。

   私は、よく、日本とサウジアラビアとの違いを語ることがある。
   例えば、雨だが、日本では、五月雨や梅雨、春雨等々季節の移り変わりによって雨に微妙な違いがって表現も豊かだが、サウジアラビアでは、雨はすべて雨である。
   出張中に、一度、バーレン空港から豪雨にあって、砂漠の涸れ川が凄い勢いで氾濫して一面湖のようになったのだが、アラビアのビジネス・パートナーは、商談を中止して、家の子郎党を引き連れて、我々を弁当持ちで郊外の氾濫原に見物に連れて行った。それ程、珍しいのである。
   また、日本には、色々な名前の違った花が四季の豊かさを感じさせてくれるけれど、サウジアラビアでは、やはり、花は花のようである。ところが、ラクダになると、叔父叔母は勿論、何種類も歳や関係によって呼び名が違うのだと言う。
   所変われば品変わると言うことだが、まず、グローバル・ビジネスで成功するためには、「違いの分かる男」になる必要があると言っても良かろうか。

   さて、私のグローバル・ビジネス概論は、これまでは、空間軸で語っただけであって、これは走りであって、これからもっと大切な論点に入る。
   次は、ICT革命とグローバリゼーションの進展によって、大きく成長進化軌道を短縮した時間軸からの分析を展開して見たいと思っている。
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楠木健著「経営センスの理論」ふたたび

2013年07月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、楠木教授のこの本で展開されているイノベーション論に反論したが、アマゾンのブックレビューでも、かなり多くの辛口の評価が投稿されているように、私にとっても、随所で違和感を感じることが多い。
   一つ一つ反論していても埒が明かないので、今回は、「グローバル化の理論」と言う個所に限って、私見を述べてみたい。

   冒頭、マウリッツハイス美術館のフェルメールの「デルフトの眺望」を話題にして、鑑賞最適距離からの「点景」描写が如何に大切かを論じて、グローバル化で目を引く
   第1の点景は、「言語の壁」だとして、英語力をメインに、コミュニケーション・スキル
   第2の点景は、「多様性」、そのマネジメントで、多様性の「統合」こそ経営の本領だとして、「統合しないことによる統合」と「どこをローカルに任せ、どこをグローバルに統合」するかについて持論を展開している。
   もう一つの論点は、それまでのロジックで必ずしも通用しない未知の状況でビジネスをやると言う「非連続性」こそグローバル化の正体があり、未知の未整理の土地で白紙から商売を興して行くと言う仕事がついて回るので、商売丸ごとを動かせる経営人材が必要であり、そのためには、早い段階から、商売センスのある人を抜擢して経験訓練を積ませことが大切である。と説いている。

   要するに、グローバル化の本質は、非連続性に挑戦する経営の必要性にあり、この非連続性を乗り越えて行ける経営人材の見極めこそが、多くの日本企業にとって最重要課題であるので、そこさえ克服すれば、次々に可能性が拓ける筈である。と言うのである。
   楠木教授の説には、特に、反論する必要はないと思うし、間違っているとは思わないが、ドラッカーが、日本は一番グローバル化が遅れた国であると言っていたことを考えても、例えば、日本本社のトップ・マネジメントそのものが、グローバル化、ないし、グローバル・ビジネスに十分対応できる体制なり能力が備わっていなければ、いくら、楠木教授が言うように現地へ派遣するトップなり従業員が、センスのある有能な経験者であっても、見殺しにしてしまうだけで成功の見込みなどあり得ない。

   
   そして、もっと重要なことは、ローカルの政府や経済社会組織は勿論、グローバルで活躍しているMNEなどのトップリーダーと互角に渡り合える資質能力を、マネジメントや派遣社員に備えさせることが必須で、MBAやPhDなど海外のトップ教育研究機関の学位などをもっともっと取らせて、グローバル社会で受容され縦横無尽に活躍できる人材の質量等をアップして層を厚くすることが、何よりも大切である。
   そうでなければ、勝負にさえならないであろうし、それだけの気概を持って態勢整備してグローバル市場に打って出るべきだと思っており、これらの点については、これまで、このブログで詳論しているので、今回は触れないことにする。

   さて、まず、第一に、言語の壁についてだが、海外で事業を行おうとするのなら、そのローカル市場の言語、ないし、少なくとも英語を使ってビジネスが出来なければ、まず、失格と考えるべきであろう。
   ローカル市場の文化文明、歴史習慣、国民性や気質等々全く違っていると考えて間違いないので、そのビジネス環境や市場を、その国の言葉、少なくとも、国際ビジネス語の英語を通じて、出来るだけ正確に掴めなければ、ビジネス感覚さえ働かない筈である。
   楠木教授は、ブロークン英語でも通じれば良いのだと言うが、とにかく、ローカル・ビジネスで通用する言葉を駆使できることが必須で、通訳を使ってのグローバル・ビジネスなど考えるべきではない。(但し、語学力は必要条件だが、絶対に十分条件ではない。)

   次の多様性についてだが、前述したように、外国との関わりがなければ、単一民族かつ単一言語で、強大な国内市場を持っていてそれだけでビジネスが成り立つ日本人には、国際感覚なりグローバル感覚など殆どないと思って間違いなく、一歩海外に出れば、悉く異文化異文明の世界との遭遇であり、カルチャ―ショックの連続である。
   これを、楠木教授は非連続性と表現するのであろうが、要するに、これまで慣れ親しんで来た日本のビジネス感覚が完全にぶち切られて、日本の常識的なビジネス手法が通用しなくなると言うことであろう。

   楠木イノベーション論の非連続性とも、ドラッカーの断絶の時代の非連続性とも違う概念であるが、連続、非連続と言った生易しい認識ではダメで、異文化異文明との遭遇であり、トインビーの「挑戦と応戦」エフェクトを巻き起こすくらいの気概がなければ発展性はなかろうと思う。
   品質が良くて安いMade in Japanが、世界市場を制覇していたあの幸せな時代とは違って、正に、下克上とも言うべきクリエイティブ時代の熾烈なグローバル競争の激流に抗して打ち勝って行くためには、一歩も二歩も先を行く破壊的な攻撃力を供えなければならないのである。

   また、楠木教授は、多様性に対処するためには、日本的エレメントとローカル・エレメントの統合が大切だと説くが、要するに、その進出先に最も適合したビジネス体制をグローカルミックスで構築すべしと言うことであろう。
   現実には、当然のこととして、日本企業の経営・生産上の競争優位性を現地化の要請に合わせて適応したハイブリッド工場が、海外で生産活動を行っている。
   マネジメントとしては、当然のことであり、何の疑問もないが、グローバル・ビジネストータルでのこの構築そのものが、非常に難しい難問題なのである。その前に、例えば、以前に触れたT・カナ&K・G・パレプの「新興国マーケット進出戦略」で論じたように、日本企業の既存の能力を土台に、如何に競争優位を構築して、進出国の「制度のすきま」を切り抜けるか、「すきま」を埋める機会を特定し、「市場仲介者」の役割を果たすことによって、如何に市場の現状の構造を有利に活用できるかなど本質的な経営問題を追求して、サステイナブルな戦略的ビジネス像をしっかり作り上げてから、ビジネス体制を考えべきであろうと思っている。

   楠木教授のグローバル・ビジネス論だが、この後、MBAプログラムについても論じているのだが、その目的は、グローバルな経営センスを磨くことにあると言う。
   この本のタイトルが「経営センスの理論」であり、経営センス、商売人としてのセンスと言った形で、センス、センスが連発されているのだが、センスと言う言葉自体が、曰く言い難く極めて曖昧模糊とした概念であり、非常に把握困難である。
   MBA教育については、これまでに、ミンツバーグの理論を引いたりして、随分持論を綴って来たので、これ以上論じるつもりはないが、私自身は、ビジネスへの運転免許書であり、トップクラスのMBAは、グローバル・ビジネスへのパスポートだと思っている。
   

(追記)もう、随分前の話だが、オランダに4年いたので、フェルメールの「デルフトの眺望 下記の写真」は、何度もじっくりと見ている。
   フェルメールに初めて会ってファンになったのは、始めての旅行で、アムステルダム国立博物館を訪れて「牛乳をそそぐ女」を見た時で、それから、故郷のデルフトを訪れたり、フェルメールと言っては、あっちこっちの美術館を回って、36くらいしか残っていないフェルメールの作品を30以上は観ている。
   カメラ・オブスクラを使った精巧な、そして、色彩豊かで微妙な光を描いたフェルメールの絵を、光が微かに差し込む古いデルフトの家の佇まいの中で過ごしながら、感じたのも、今では、懐かしい思い出である。
   
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国立能楽堂の蝋燭の灯りによる「瓜盗人」「熊坂」

2013年07月26日 | 能・狂言
   薪能のシーズンだが、国立能楽堂は、恒例の「蝋燭の灯りによる企画公演」で、今回は、大蔵流の狂言「瓜盗人」と宝生流の能「熊坂」が、上演された。
   照明の関係で、勿論、字幕表示のディスプレィもお休みで、私のような初心者には、とにかく、能の方は、謡が十分には聞き取れないので、事前に、詞章や解説書を読んで、勉強して行っても、中々、すっきりと流れに乗れないのが苦痛ではあった。
   しかし、今回の熊坂は、平安時の大盗賊熊坂長範が主人公であるから、特別に、六尺三寸の薙刀を振り回して派手な立ち回りを演じるので、それなりに、楽しむことが出来た。

   熊坂長範を主人公にした能は、他に、「烏帽子折」があるのだが、両方とも、
   鞍馬寺を出奔した牛若丸が身をやつして、金売吉次の供に同行中、吉次の荷を狙う盗賊・熊坂長範一味が襲って来たので、牛若丸は武勇を発揮して獅子奮迅の働きで賊を蹴散らして、長範を討ち取ると言う話を、主題にしている。
   「烏帽子折」の方は、牛若丸も登場して、実際の戦いを演じる進行形の能だが、この「熊坂」の方は、夢幻能の形で、長範の亡霊(朝倉俊樹)が現れて、義経に殺された無念の思いを謡うと言う後日譚になっていて、義経は登場せず、弔いを頼む旅僧(ワキ/宝生欣哉)と所の者(アイ/茂山逸平)の3人だけである。

   シテの朝倉俊樹は、前シテは、直面の僧姿で登場するが、後シテの熊坂長範では、長霊癋見の強面の派手な面をかけて、立派な薙刀を持って凄い井出達の僧兵姿で登場して、舞台狭しと縦横無尽に激しく立ち回りを演じるので、静で動きの殆どない能舞台に慣れていると、大げさに言えば、驚天動地の驚きである。
   暖色系の衣装が、蝋燭の灯りに溶けて、刺繍の金糸銀糸が鈍色に光って、実に美しく、正に、幽玄そのもので、夢幻能の雰囲気を醸し出している。
   双眼鏡で長霊癋見の面を観ていると、何故か、大盗賊の厳つい顔が、ぎょろりと大きく見開いた目に愛嬌があって、案外、長範も人間味のある優しい人恋しい人物ではなかったかと思えてくるのが面白かった。

   狂言の「瓜盗人」は、久しぶりに、京都の茂山千五郎家の舞台で、シテ/男が千三郎、アド/畑主が正邦で、男が瓜畑に入って瓜を盗み、それを、阻止するために、畑主が、案山子姿になって、男をとっちめると言う話であるが、かなり、込み入った内容のある狂言で、それに、後半、舞台に囃子連中が登場するなど、中々面白かった。

   まず、男が、盗んだ瓜をさる方に進上した所、非常に喜ばれて手作りかと聞かれてそうだと答えてしまって、また欲しい、もっと欲しいと言われて断わり切れずに、盗みを繰り返す悲しさ面白さ。
   丹精込めて育てた瓜が盗まれ瓜畑が荒らされて腹を立てた畑主が、案山子を立ててダメなので、自ら案山子になって男をとっちめる話。
   男が、案山子を畑主だと見間違って、許してくれと平身低頭謝るのだが、更に捻った面白さは、翌日、案山子が畑主に変わっているのに気付かずに、案山子が罪人に良く似ているので、村の祭礼で鬼が罪人を責める作り物を出すことになっているので、案山子を相手に見立てて稽古をしようとして、案山子が適当に反応してくれるので、良く出来たカラクリ仕掛けの作り物だと感心していると、畑主が、案山子の扮装を取って、杖を振り上げて男を追い込む。
   この罪人の話は、先日、萬狂言で、実に愉快な「籤罪人」を観ていたので、興味深かった。
   暗闇で、瓜が上手く見つからず、「夜、瓜を取るには、転びを打って取る」と言う言葉を思い出して、舞台を転がりながら瓜を取る仕草も面白いが、瓜が頭の下に来たので、これはまくわ瓜ではなく、まくら瓜だと駄洒落るあたりにも狂言の味があって良い。
   とにかく、ここまで来ると、狂言も、中々奥深いのである。
   
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歌舞伎:国立劇場・・・「芦屋道満大内鑑」

2013年07月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この歌舞伎は、「葛の葉」のとも称されている信田の森の白狐の異類婚姻譚の話である。
   安倍保名が信田の森で、狩人に追われていた白狐を助ける。その時に怪我をしたのだが、そこに許嫁の葛の葉(時蔵)がやってきて、保名を介抱し見舞っているうち恋心がつのって結婚し、童子という子供をもうけて幸せに暮らしている。ところが、童子が5歳の時に、本当の葛の葉姫を伴って両親が来訪して来たので、女房葛の葉(時蔵)の正体が保名に助けられた白狐であることが分かってしまう。泣きの涙で童子と分かれた葛の葉狐は、次の一首を裏の障子に残して、信太の森へと帰って行く。
   ”恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉”

   この童子が、陰陽師として有名な安倍晴明だと言うのである。
   清明は、狐との混血であるから、超能力を持った傑出した陰陽師であるのは、当然であると言う設定であろう。
   日本では、狐は、お稲荷さんであり、あっちこっちで、神使の白い狐がシンボルとなっている神社があったり、狐を主人公にした民話や伝説があって、非常に、親しまれたキャラクターであるが、欧米では、狩りの対象としては、超ポピュラーだが、民話になるような異類婚姻譚の話は、殆どなさそうなような気がしている。

   この歌舞伎の見どころの一つは、やはり、葛の葉の子別れで、前述の和歌を障子に書き込む時に、左右反転した文字で書いたり、泣き縋る童子を腕に抱きあげて筆を口に銜えて書き上げる「曲書き」のシーンであろうか。
   その前に、葛の葉は、狐の本性を現して、童子を寝かせつけていた衝立の屏風や、木戸を、念力で動かしたり、狐詞や狐手を使うなど、工夫がされていて面白い。

   もう一つの見どころは、女房葛の葉と葛の葉姫の二役を演じる時蔵の早替りの演技で、世慣れた熟女(?)の女房と、初々しい処女のお姫様とを、殆ど瞬時に演じ分けなければならないと言う難役の至芸である。
   舞台の上下に登場しながら、鬘や衣装は勿論、言葉の表現から仕草まで、一気に切り替えなければならないので、外連味だけの早替りだけではダメなのである。
   今や歌舞伎界を代表する立女形の時蔵であるから、「曲書き」のシーンも含めて流石に上手く、独壇場の舞台である。
   葛の葉と言えば、私も、既に二回観ているのだが、やはり、藤十郎が決定版で、燦然と輝いているのだが、前回観た魁春の葛の葉にしろ、時蔵の葛の葉にしろ、現在進行形の芸であろうから、次からが楽しみである。

   子別れの辛さ悲しさ、その断腸の悲痛は、随分、歌舞伎や文楽で描かれている。
   「重の井子別れ」「幡随長兵衛子別れ」「先代萩の千松の死」「佐倉義民伝・子別れ」等々、色々のシーンがあるのだが、やはり、子別れと言えば、恐らく最もポピュラーなのが、この「葛の葉子別れ」で、なさぬ仲の「異類婚姻譚」と言う人間と動物の間の別れであるからこそ、丁度、動物報恩譚の一つである「鶴の恩返し」と同様に、観客の涙を誘うのであろう。

   「少しも気にしない、戻って来てくれ」と、おろおろしながら、童子丸を背負って、信太の森を目指して追って行く保名の朴訥素朴な坂東秀調の演技が、二枚目からは程遠いのだが、中々、雰囲気を出していて良い。
   それに、葛の葉姫の父親・信田庄司の歌橘と庄司妻柵の右之助も、控えめながら品格のある芸を披露していて、話に厚みと幅を加えて面白くしていて好感出来る。

   最後の「信田の森道行の場」は、始めて観るのだが、葛の葉が、信田の森へ向かう途中に、奴藤次(宗之助)と藤内(萬太郎)に取り囲まれて、立ち回りを演じて逃げ切ると言う綺麗なシーンである。
   前の舞台が、どちらかと言えば、物語性の豊かな劇的なシーンの連続なので、何となく、はぐらかされた感じの見せるシーンなのだが、これも、歌舞伎の歌舞伎たる所以であろう。
   ここで、奴の一人を演じていた萬太郎は、時蔵の次男。
   前座で、「歌舞伎のみかた」の解説者として登場していたのだが、中々、芸達者で好感の持てる好青年である。
   
   観客の大半は、学生生徒と年寄りだったが、普及版と言う国立の夏の試みと言うことだから、上出来だし、この程度だと、気楽に楽しめるし、入場料2万円と言う歌舞伎座の舞台と違って、大人3800円と1500円で、学生は1300円だから、大衆芸能としての、歌舞伎本来の姿であろうと思っている。
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トマト・プランター栽培記録2013(14)イタリアン・トマト色付き始める

2013年07月24日 | トマト・プランター栽培記録2013
   イタリアン・トマトの苗を15本植えたのだが、殆ど、花付きも実成りも悪くて、今年は、期待できそうにない。
   尤も、僅かに実の成ったトマトは、少し色づき始めて来た。

   一番先に花が咲き、サカタのアイコをやや大型にしたような長円形の実の成るローマは、順調に生育していて、この二本は、まずまずの出来だが、後の5種類のイタリアン・トマトは、いくらかでも、実が成れば、満足すべきかも知れない。
   ケーヨーディツーで買った苗なのだが、タグは綺麗なタグがついていたのだが、何処を探しても、育苗会社の社名が入っていないので、怪しいと思ったその時の勘が当たっていたと言うべきであろうか。
   同じイタリアン・トマトでも、サントリーの苗は、以前に育てたことがあるので、まずまずの出来で満足していたのだが、ユニディは閉店して、京成バラ園やジョイフル本田は少し遠いので、近くには、ケーヨーしかガーデニング・センターがないので、ここで疑いもなく買って育てたのだが、正に、苗木も雑草のような荒れようで、失望している。
   他の日本のトマトと全く同じ条件で育てているので、気候に合わないとすれば、苗の質が悪いとしか言いいようがない。

   さて、ローマは、完熟したトマトを賞味してみたが、淡白な味ながら、やや甘みがあって、爽やかな感じで良かった。
   隣に植えたマルマンデとサンピェールも、この写真のように綺麗に色づいたのだが、残念ながら、裏の見えないところは、尻腐れ病で、すぐに切り落とした。
   
   
   
   
   ところで、アイコなどの日本のトマトは、順調に実が成り、どんどん完熟しているので、毎朝、結構収穫出来て、楽しんでおり、孫たちも喜んでくれている。
   去年は、猛暑で実が成らなくなったので、途中で諦めたのだが、今年は、どこまで行けるか、とにかく、まだ、トマトの木は元気そうなので、当分は、このまま世話を続けようと思っている。
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現在の最大の不幸は若者にチャンスを与えられないこと

2013年07月23日 | 政治・経済・社会
   私は、これまでに何度か、失われた10年、いや、失われた20年の、日本にとって最大の不幸は、少子化高齢化社会の到来にも拘らず、バブル崩壊後のデフレ不況と言う未曽有の経済悪化によって、新卒者の若者たちに、就職への道を閉ざして、人生への新スタート、キャリアへの登竜門へのチャンスを削ぐなど、若者たちへの上昇、成長発展の機会を潰してきたことだと、書いて来た。
   フリーターなど、定職につけなかった多くの若者たちも、既に、壮年期に達するなど、あたら、有能な若者たちの人生を無茶苦茶にして来たと言う慙愧の思いが、いまだに、古い日本を支配し続けている大人(?)たちにあるのかないのか分からないが、今でも、依然、若者たちにとっては、受難の時代が続いている。

   しかし、日本の未来にとって、最も重要であり喫緊の問題である筈の若者たちにチャンスを与える社会を築こうと言う提言を真正面に掲げて、選挙活動を行った政党は、私の知る限り、何処にもなかったし、選挙の争点にもならなかった。
   東京選挙区で、山本太郎氏(38)と、吉良 佳子さん(30)が、多くの若者の支持を集めて、当選したのは、いわば、虐げられた若者たちの切羽詰った意思表示であり、一種の反乱であったと、私は思っているのだが、日本人には、殆ど、その認識さえない。
   支持政党なしの無党派層の多くの若者たちが、前回の選挙では、新しいチャンスを与えてくれる筈だと期待して民主党を支持したが、あまりにも無残悲惨極まりない体たらくの失政によって夢破れて失望したのであるから、東京大坂で、民主党が見限られるのは、当然の成り行きだと言えないであろうか。

   若者受難の時代は、日本の後追いをして不況に喘ぐ欧米でも、全く同じ現象が起こっており、人類の歴史においても、極めて問題多き不幸な状況が続いている。
   まず、アメリカだが、ポール・クルーグマンが、「さっさと不況を終わらせろ」と言う本の第1章「事態はこんなにひどい」で、若者の失業問題に触れているので、引用してみたい。

   若い労働者は良い時期でも年長者よりも失業率が高いのだが、この経済危機を乗り越えるのに一番よい立場にいると思われがちな若い労働者たち――最近の大卒者たちで、現在経済の要求する知識や能力を持っている見込みがずっと高い存在――も全く安全ではなく、最近の新卒の4人に1人は、失業しているかパートタイムの仕事しかしておらず、常勤でも賃金が安く、おそらくその多くは、大学教育を活用しない低賃金で我慢しなければならない。
   イェール大のリサ・カーンの調査では、失業率が高い時期に大学を出た人と、好況期に大学を出た人と、キャリアを比べると、タイミングが悪い時期の卒業生は圧倒的にキャリアも悪い。それは、卒業後の数年だけの話ではなく、生涯にわたり引退まで続き、今回の不況はこれまで以上に長期なので、若者たちの生涯に対する長期的な被害は、ずっと深刻なものになろう。と言うのである。
   
   更に興味深いのは、アメリカにも、パラサイトシングル現象が起きていると言うことである。
   24歳から34歳のアメリカ人で、親と同居している人数が激増している。これはみんなが突然親孝行に目覚めたわけではない。巣立つ機会が激減したことを示しているのだ。と言うのである。

   学校を出ても、良い定職につけないので、経済的自活さえままならず、親に面倒を見て貰わねば生活が出来ない。
   している仕事にしても、何時まで続くかさえ分からず、不本意なレベルの低い仕事であるから、能力のブラッシュアップにも人間としての成長にも役に立たず、当然、キャリア・ディベロップメントにもならないので、先の望みも夢さえも持てない。

   こんな不幸な若者たちが、日本のみならず、米欧に広がっており、若者の56%が失業していると言うスペインを筆頭に、ヨーロッパの債務超過に呻吟している南欧の国々の若者の現状は、悲惨を通り越して極めて深刻である。

   鉄は熱いうちに打て 《 Strike while the iron is hot. 》
    鉄は、熱して軟らかいうちに鍛えよ。と言うことで、人間も、精神が柔軟で、吸収する力のある若いうちに鍛えるべきだと言う格言だが、時代の潮流が目まぐるしく激動し、猛烈な勢いで進歩を続けている今日ほど、この言葉が、意味を持つ時代はなく、寸暇を惜しんで、若者たちにチャンスを与えて、切磋琢磨させて、成長発展を図らせるべき好機はない。
   一刻でも時期を失して速度を緩めると、回し車のハツカネズミのように、振り飛ばされてしまう。
   しかし、今現在、熱い鉄を、無残にも野ざらしにして、何ものにも代え難き貴重な人類の宝とも言うべき若い煮えたぎるエネルギーを、封殺してしまっているのではなかろうか。

   今の日本のように、あたら、有能で未来のある若者の伸び盛りの芽を摘むような社会には、未来などない筈であるから、その障害物となっている社会の規範や法体系を一挙に排除するなど、抜本的な解決策はないであろうか。
   私は、若者、例えば、35歳以下の起業については、5年間なり10年間なり所得税を含めて無税にするとか、とにかく、イノベイティブな日本人の若者魂を爆発させるような施策をどんどん打つべきだと思っている。
   賛否あるであろうが、もう一度、ホリエモン現象を現出させて、若者を燃え立たせることである。
   
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楠木健著「経営センスの論理 」

2013年07月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   楠木教授の「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 」を読んでいないので、偉そうなことは言えないが、手っ取り早く、新書を読んで、楠木教授のイノベーション論など経営戦略論の一端に触れられれば幸いだと思って読み始めたのだが、私の感想は、賛否相半ばだったが、興味深く読ませて貰った。

   今回は、楠木教授は、イノベーションに関する見解を、第2章の「戦略の論理」と言うところで、開陳しているので、この点に限って、私の感想を述べてみたいと思っている。

   イノベーションとは、単に「新しいことをやる」と言うことではない。進歩(progress)とイノベーションとは全く異なる概念だ。
   スマホが軽く薄くなる。画像が鮮明になり、音質も良くなり、消費電力が少なくなる。こうしたことはすべて技術の「進歩」であるが「イノベーション」ではない。イノベーションの本質は「非連続性」にある。
   非連続であっても、斬新なだけではダメで、イノベーションとは供給より需要に関わる問題であるから、多くの人に受け入れられて、その結果、社会にインパクトをもたらすものでなければイノベーションとは言えない。と楠木教授は言う。

   イノベーションの話のポイントは二つ、第1に、イノベーションは技術進歩とは異なる。第2に、イノベーションは供給よりも需要に関わる現象であり、顧客が受け入れてこそイノベーション。
   イノベーションの条件が非連続だとしても、それが徹頭徹尾非連続であればイノベーションにはならず、供給側の提案を世の中が受け入れて初めてイノベーションになるので、非連続性と連続性の組み合わせで出来ており、このミックスをどうつくるかがイノベーションの成否の決め手になると説いて、
   サウスウエスト航空、アマゾン、アップルのビジネスを例に挙げて、持論を展開している。

   さて、楠木論の、イノベーションは、進歩とは全く異なる概念だと言うことは、分かるが、初歩的な理論展開だが、クリステンセンの「イノベーターのジレンマ The Innovator's Dilenmma」によると、スマホの進化は、持続的イノベーションであり、楠木論のイノベーションは、非連続だと言うから、クリステンセンの破壊的イノベーションに近い概念を言っているのであろう。
   また、イノベーションは、顧客が受け入れてこそであって需要の問題だと言う論点については、全く当たり前のことで、その為に、イノベーターは、ダーウィンの海を渡り死の谷を越えるために四苦八苦しているのであって、需要を生み出せなければ、ビジネスにさえならない。
   だからこそ、エイドリアン・J・スライウォツキーが、「ザ・ディマンド」で、需要の創造が如何に重要な経営戦略のキーポイントであるかを説いているのであって、このブログのブックレビューで紹介している。
   人々が欲しいと思う前に、人々が愛するものを創造すること、これこそが、ディマンド、すなわち、真の需要の創造であって、企業の経営戦略の要諦であると説いて、イノベーション論を展開している。

   楠木教授は、また、次のように説く。
   イノベーションは、「できるかできないか」よりも、「思いつくかつかないか」の問題であることが多く、難しいからできないのではなく、それまで誰も思いついていないだけなのである。
   人間や社会のニーズと言うのは、その本質部分では連続的なものであるから、「全く新しいニーズ」とか、「今はないけれども将来は出て来るニーズ」などと言うものは、元々存在せず、いまそこにないニーズは、将来にわたっててもないままに終わる。
   未来を予測したり予知する能力など必要ない。いまそこにあるニーズと正面から向き合い、その本質を深く考える。大きな成功を収めたイノベーションは、その点で共通している。

   この楠木教授のイノベーションを、思いつかなかっただけのことをビジネス化することだとか、今あるニーズが総てであって、全く新しいニーズなどは存在しない、未来予測など必要ないと言う論点については、全く、承服しかねる。
   直接論破するのではなくて、間接的な見解だが、人間の創造性が無限であると言うことを例証して、反論に代えたい。

   茂木健一郎氏の説明を借用するのだが、
   クリエイティビティにとっては、脳に記憶された経験と知識の豊かさが大切で、その記憶の豊かな組み合わせの多様性が創造性を生むのだと言うのである。
   経験や知識は、必ずしも新しいものではないのだが、脳に知識として内包された経験と知識がお互いに触発し合って生み出す無限の組み合わせが、新しい発想や発明・発見を生み出すと言うことであり、無限に新しいものが創造される。
   したがって、人間に創造する能力が備わっている限り、人間のニーズも、創造され得るものであって、既にあるものが総てでそのニーズをビジネスに乗せればイノベーションが生まれると言った単純な話ではない筈だと言うことである。
   後述するが、技術や産業革命の大半は、供給と言うか、新発明・新発見・新しい創造が需要を誘発して、成長発展の原動力となっており、必ずしも、先に需要ありきではない。


   もうひとつ、本質的な問題だが、イノベーションを論ずるなら、シュンペーターを無視してはならないと言うことである。
    重要なコンセプトは、「創造的破壊 Creative Destruction」で、
    「資本主義・社会主義・民主主義」において、
   ”(内外の新市場の開拓および手工業の店舗や工場からUSスチールのごとき企業にいたる組織上の発展は、)不断に古きものを破壊し新しきものを創造し、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異(――生物学的用語を用いることを許されるとすれば――の同じ過程を例証する。この)「創造的破壊」の過程こそ、資本主義についての本質的事実である。”として、突然変異だと説いている。
   また、シュンペーターの説くイノベーションは、
    ①新しい財貨の生産
   ②新しい生産方法の導入
   ③新しい販路の開拓
   ④原材料あるいは半製品の新しい供給源の開拓
   ⑤新しい組織の実現
   シュンペーターは、必ずしも新しい技術や発明・発見ではなくても、既存の技術やアイディアであっても良く、それらを新しく組み合わせることによって生み出された革新的な「新結合 neue Kombination」を実行・実現することをイノベーションと考えている。
   正に、茂木氏の創造性論の世界の現出である。

   
   また、シュンペーターは、イノベーションの例として、駅馬車から鉄道への変革をあげており、フォードのT型車を良く引用したと言われているが、駅馬車を駆逐した汽車もそうだが、フォードが従来の自動車製造システムを改革して大量生産したT型車を考えても、このようなイノベーションや、第1次、第2次産業革命、あるいは、昨今のICT革命などと言った本格的なイノベーションについては、前述の楠木イノベーション論では、説明できない。
   ブルー・オーシャン市場の創造や、無消費者市場の開拓と言った企業戦略論の段階でのイノベーション論としては、ともかく、
   私には、楠木論は、あまりにも単純なイノベーション論の展開のような感じがして、イノベーションの本質から、少なくとも、文明論としてのシュンペーター理論から、離れてしまっているような気がして、違和感を感じている。
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中国人の「象牙愛好」がアフリカ内戦を激化

2013年07月20日 | 学問・文化・芸術
   表記のような記事が、産経電子版に載っており、ケニアで急増する象牙密猟の現実をフジテレビで、放映していた。
   以前に、「死に追い詰められたシルバーバックのマウンテン・ゴリラ」と言うタイトルで、このブログで、殺された巨大なゴリラを、20人近くの現地人が運んでいる写真を口絵にして論じたことがあるが、アフリカの野生動物を保護する運動と裏腹に、激しい殺戮との戦いに、文明社会を悩ませていると言う。
   何故、絶滅寸前のゴリラが殺されるのか。ゴリラの生息地である森林を伐採して木炭を製造する為に、守護神であるべき筈のコンゴのヴィルンガ公立公園のディレクターHonore Mashagiroが、部下に命令して殺させたと言うのである。から、正に、無法地帯である。
   アマゾンの熱帯雨林の崩壊についても論じて来たが、自然環境の破壊によって利益を追求しようとする悪徳事業家によって、地球上の貴重な天然資源の枯渇を促進するのみならず、動植物の多様性が、どんどん、失われているのである。

   ところで、このアフリカ象の殺戮だが、この目的は、象牙で、豊かになった中国で「ホワイトゴールド」と呼ばれ、富の象徴でもある象牙を得ようとする動きが加速化して、アフリカに進出して来ている多くの中国人による違法な持ち帰りなど、象牙密輸で空港で逮捕される90%は中国人だと言うことである。
   WSJによると、象牙の中国での売買価格だが、2008年には1キロ157ドル(約1万2千円)だったのが、11年には最高7000ドル(約56万円)に跳ね上がっており、アフリカに入る中国人労働者の、象牙への誘惑が益々強まっていると言うのである。
   この動きが、ケニアなどアフリカの経済社会を攪乱し、内乱の遠因となっていると言うのだから恐ろしい。

   中国人が、アメリカ人並に、大きな家に住み、大きな車に乗り、高度な消費生活を行うようになれば、地球は破滅してしまうと、新マルサス論を展開して恐怖心を煽る欧米の識者が後を絶たないが、少なくと、中国のGDPが、アメリカのGDPを追い抜くのは、そう遠い話ではないことは、大体のコンセンサスを得ている。
   前世紀には、殆ど誰も考えなかったことなのだが、現実に、もう一つのアメリカが、近い将来生まれようとしており、このままでは、天然資源の枯渇のみならず、宇宙船地球号の命運さえ危うくなると考えても、あながち間違いではなかろう。
   いずれにしろ、異文化異文明の中国の経済的な台頭は、これまでなかった歪な天然資源への需要圧力を喚起して、象牙に止まらず、第二、第三の象牙問題が、起こって来ることは必定であろう。

   さて、毎年のことだが、今年も、土用の丑を前にして、ウナギの高騰が騒がれている。
   マグロもそうだが、結局は、人工養殖に頼る以外、道はないと思うのだが、日本の貴重な伝統的な食文化であるので、大切にしたいと言う思いもあろう。
   しかし、クジラもそうだが、天然資源、自然資源の枯渇が騒がれ、宇宙船地球号のエコシステムが危機に瀕している時に、何故、ウナギやマグロやと言って拘る必要があるのか、と、私は、何時も思っている。
   私の子供の頃には、また、マツタケご飯かと思ったり、頻繁におかずに出るカズノコが嫌で仕方がなかった思い出があるが、庶民の伝統とは、そう言うものなのである。
   品薄になって食べられなくなったら、無性に懐かしくなって食べたくなる。

   日本文化と伝統の維持は、大切だと思うし、貴重なことだと思う。
   しかし、もう、20年以上も経つが、赤坂の料亭に、イギリス人夫妻を連れて行って、会食した時に、それ程、日本人が大切にするマツタケだが幾らするのかと彼らが聞くので、中居さんに聞いたら、半切れのマツタケの吸い物が、当時の交換レートで50ポンドだと言われて、ロンドンなら、まずまずのフランス料理をフルコースで食べられると呆れていたことがある。
   私の、在欧時代に、あっちこっちのミシュランの星のついたレストランをはしごして歩いたことがあるが、実に美味しくて雰囲気抜群なのだが、赤坂程異常なレストランは皆無であった。
   マグロやウナギ、そして、クジラなど、旬のものなど伝統の食文化への日本人の拘りは、少し、異常かも知れないと思うこともあるのだが、
   そんなことを考えながら、中国人の象牙偏愛文化の行方を考えていた。
   
   

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七月花形歌舞伎・・・「加賀見山再岩藤」

2013年07月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部の通し狂言は、「加賀見山再岩藤」。
   これは、「加賀見山旧錦絵」の後日譚で、討たれて死んだ筈の悪辣な局岩藤が、墓場に野ざらしにして捨て置かれた骨から復活して、元の姿になって中空に舞い上がる、俗に、「骨寄せの岩藤」と称される河竹黙阿弥作の「加賀見山旧錦絵」のパロディ版だと言う。

   私は、お家騒動の陰に展開される逸話の数々も面白いし、中臈尾上と召使お初と、局岩藤とのこってりとした女の戦いを軸にした「鏡山」の方が、芝居としては上出来であるような気がする。
   この歌舞伎は、玉三郎や時蔵の中老尾上、仁左衛門、菊五郎、海老蔵の局岩藤、勘三郎、菊之助、猿之助の召使お初の舞台を観ているのだが、中々、味と芸に深みがあって面白かった。

   今回の「骨寄せの岩藤」の方は、蛍光色に光った岩藤の骨が少しずつ動き出して寄せ集まったり、岩藤が宙乗りしたり、弾正と尾上の対決の絢爛豪華な金殿が急に暗転して弾正の姿は消え、岩藤の亡霊があらわれて草履で尾上を打ち据える等々工夫や演出としては面白いが、お家乗っ取り騒動と世話物風の鳥井又助内切腹の場の混在ぶりが少し話を錯綜させているようで、私自身は、一寸、違和感を感じた。
   この歌舞伎の題名は、「かがみやまごにちのいわふじ」と読むので、主題は、墓場に散乱していた骨が、討った張本人のお初(二代目尾上)が、回向しようと念仏を唱え始めると、一斉に寄り集まりやつれ果てた岩藤の姿になって、次の場では、元の局姿で中空に舞うと言う岩藤の話である筈だが、登場するシーンは、所詮、亡霊の姿であって、最後に、岩藤の亡霊が現われて、恨みのある尾上を取り殺そうと襲いかかるようだが、省略されていたので、岩藤の霊の存在感が良く分からなかった。

   私としては、きっちり芝居になっている「鳥居又助内切腹の場」が、一番興味深かった。
   鳥居又助(松緑)は、追放となって病のため足萎えとなって病床にいる主人求女(松也)を匿っている。求女を愛する又助の妹おつゆ(梅枝)は、健気に世話を焼くのだが、朝鮮人参100両の薬代のために苦界へ身を沈める決心をする。又助もそれを許し、それを聞いていた求女は、全快したら必ず請け出して女房にすると約束。
   そこへ、浅野川の岸で拾ったという求女の刀(又助が暗殺に使った)の鞘を持って家老の安田帯刀(染五郎)がやってきたので、お柳暗殺の手柄で主人の帰参がかなうのか、と喜ぶ又助に、望月弾正(愛之助)に騙されて暗殺したのは、お柳の方(菊之助)ではなく多賀大領(染五郎)の正妻お梅の方(壱太郎)であったと知らされたので顔面蒼白。主人によかれとしたことが逆にアダとなって大変な過ちだったと知り、切腹の覚悟を決め、目の不自由な弟の志賀市(玉太郎)が弾く琴の音を聞きながら、切腹し、求女のお家帰参、妹弟の行く末も請け合うという帯刀の言葉に安堵して息絶える。

   この舞台の主役は、当然、又助の松緑だが、単純明快な演技が冴えていて中々味があって上手い。
   この松緑は、岩藤の霊も演じていて、凄みも中々のもので、初めて上臈風の女形姿を見たのだが、目力があるので、雰囲気もあり、将来、八汐や「鏡山」の岩藤などの舞台を観たいと思った。

   また、おつゆの梅枝のしみじみとした情のある演技は秀逸で、控えめながらしっとりと聞かせる求女の松也、それに、琴の演奏も堂に入った芸達者な又助弟志賀市の玉太郎が、素晴らしく、この舞台を観るだけでも、値打ちがあると思って観ていた。
   
   さて、染五郎は、今回は、お殿様と家老の二役で、最もくらいの高い役なので、鷹揚で品格のある役柄を、無難にこなしていて、好感が持てた。
   面白いのは、お家乗っ取りを図る悪人・望月弾正を演じた愛之助だが、今、放映中の「半沢直樹」の嫌味たっぷりの国税庁役人の嫌らしさとダブって、非常に鮮烈な印象を与えていた。
   二代目尾上とお柳の方を演じた菊之助だが、この歌舞伎では、中途半端な役作りなので、持ち味が出せず、気の毒な役回りである。
   尾上も岩藤の霊にせめられるのだが、中途半端だし、お柳は、大領の愛妾でありながら、お家乗っ取りを図る弾正の実質的妻で身籠っており、その子を世継ぎにしようとの陰謀なのだが、そのあたりの悪も中途半端だし、やはり、3時間の通し狂言にしようと思えば、随所に皺寄せが来るのであろうか。

   
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都響プロムナード・コンサート~シベリウス交響曲第2番ほか

2013年07月16日 | クラシック音楽・オペラ
   今季2回目のプロムナード・コンサートだが、以前の定期演奏会Aシリーズの夜のコンサートを止めて、休日の昼に切り替えると、気分的に随分楽で、楽しめる。
   それに、プログラムも、定期公演と違ってかなりポピューラーな曲が主体のようで、昔のように、重くて難解な曲を聴く余裕もなくなったので丁度良い。

   今回は、フィンランドの女性指揮者エヴァ・オリカイネンが、祖国の大作曲家シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品47と交響曲第2番ニ長調作品43を振るのであるから、素晴らしくて当然であろう。
   北欧人としては小柄で、気さくなレイディのいでたちで颯爽とタクトを振る姿は、あまり見慣れた風景ではないが、指揮はてきぱきとしていて実にダイナミックですごい迫力である。

   最初に聴いたシベリウスは、レコードのフィンランディアとトゥオネラの白鳥だったが、かなり、以前に、アムステルダムのコンセルトヘヴォーでシベリウスの交響曲第2番を聴いて、その凄いエネルギッシュでダイナミックな演奏に圧倒されてから、随分通ったコンサートの間に、ヴァイオリン協奏曲とともに何度か聴いており、一度聴くと、長い間、メロディーがずっと頭から離れない程、お馴染みになっている。
   あの渋くて黒光りのするビロードのような重厚なコンセルトヘヴォー・サウンドの素晴らしも圧倒的だが、今回の都響も、オリカイネンのタクトに応えて、実に良く歌っていて、地から湧き出るような圧倒的な迫力のコントラバスに続いて、天地も砕けんばかりの管楽器の咆哮で一気に上り詰める終幕のコーダなど、何度聴いても、身の毛が逆立つほど感動する。

   コンセルトヘヴォーなら、皆総立ちで拍手するのだが、残念ながら、ここは、東京のサントリーホールなので、歳を考えて、スタンディング・オベーションは諦めた。
   この曲を聴くと、何時も、ソ連の空軍機がフィンランドの上空を掠めると、シベリウスは、怒って、自動小銃を持ち出して、天に向かって発砲したと言う逸話を思い出す。
   ベルリンやウィーンで音楽を学び、イタリアに遊学したと言うシベリウスだが、大変な愛国者であり、それだからこそ、あの凄くエネルギーの充満した圧倒的な第2の国歌と言われるフィンランディアを作曲出来たのであろう。

   私は、2回しか、それも、夏の良いシーズンに、フィンランドを訪れており、森と湖に囲まれた美しい風物を知っている。
   ムーミンの故郷であり、サンタクロースの故郷であり、それに、民話や北欧神話の宝庫であり、ヘルシンキを訪れただけでも、独特の雰囲気がする素晴らしい国である。
   私が、視察団で訪れたのは、ベルリンの壁が崩壊して、その後、ソ連が分解して、一気に貿易相手国を失って経済的に苦境に陥っていた頃なので、まだ、ノキアさえも、新ビジネスに足掻いていた。
   しかし、その後、一気に、最先端技術を誇る素晴らしい一等国に浮上し、経済や民度の高さは、世界屈指となっている。

   ところで、ヴァイオリン協奏曲は、やや、暗い感じの、しかし、美しい曲なのだが、韓国系ドイツ人の女流ヴァイオリニスト・クララ=ジュミ・カンのソロで、実に端正な演奏を展開し、かなり多いカデンツァに素晴らしい美音を奏でて、聴衆を魅了した。
   演奏後、鳴り止まぬ観衆の拍手に応えて、バッハのサラバンドをアンコールに弾いていた。

   もうひとつの曲は、ブラームスの「悲劇的序曲作品81」で、私の受験時代の旺文社のラジオ番組のテーマ音楽が、抱き合わせで作曲された「大学祝典序曲」なので、嫌でも、聴いて覚えている。
   オリカイネンのタクトが振り下ろされた瞬間から、あの懐かしい青春時代を思い出して、感無量であった。
   
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トマト・プランター栽培記録2013(13)桃太郎ゴールド色付く

2013年07月14日 | トマト・プランター栽培記録2013
   大玉の桃太郎ゴールドが色づき始めた。
   随分、尻腐れ病で、実を落としてきたのだが、最初に結実した実は健在だったので、それが色づき始めたのである。
   いくら収穫できるが問題だが、立派に実ると、随分甘くて美味しいトマトなので、注意して、最後まで育てようと思っている。
   昨年は、暑すぎて花が咲いても結実しなくなったので、途中で、トマト栽培を諦めたのだが、今回は、ここ数日の猛暑が遠ざかって少し涼しくなりそうなので、一安心している。
   しかし、7月一杯が勝負ではないかと思っている。
   

   さて、中玉トマトのレッドオーレも色づき始めた。
   このトマトも、いくらかは、尻腐れ病に罹って、被害が出たのだが、苦土石灰が効いたのかどうかは分からないが、今は落ち着いている。
   小さなテラストマトのイエローも収穫できるようになった。
   ミニトマトより、実成りは少なく、少し小さい感じだが、マイクロトマトではなく、小さなプランターでも育てられるので、マンションなどのベランダ向きかも知れない。
   
   

   イエローアイコなどは、第3花房、ピンクのミニトマトやビギナーズトマトは、第4花房まで、色づいており、大分、収穫量が増えて来たので、2歳の孫が喜んで食べると言うので、鎌倉の娘宅に、少し送った。
   千葉からでは、朝早くヤマトの事務所に持ち込めば、その日の内に鎌倉へ届けてくれる。
   プランターで完熟したトマトを早朝捥いで、送るので、スーパーなどで買うトマトとは違って、結構、甘くて美味しいのである。
   
   
   

   イタリアン・トマトは、相変わらず実成りが悪くて、はっきり定まらないのだが、ローマと言うトマトだけは、順調である。
   パスタに向くと言うので、楽しみにしている。
   
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フランスの格差拡大社会

2013年07月13日 | 政治・経済・社会
   ダニエル・コーエンの「迷走する資本主義」を読んでいて、ポスト産業社会の分析も非常に面白いのだが、随所に、母国フランスの文明文化批評が展開されていて、その中で、フランスが、益々格差社会が拡大して行く様子について書いているので、一つの文明国の世界的傾向として、考えてみたいと思った。

   話の発端は、ヨーロッパの社会的連帯について、国によって自由に対する考え方が違っていると言う問題意識から、個人主義的なイギリスの自由、共同体モデルのドイツの自由に対して、フランスの自由人は、法的なものではなく、殆ど心理的な意味において他人に従属していない人をさし、これまで両立することができなかった聖職者価値観と貴族的価値観の二つの価値観のシステムから生じる矛盾の狭間に依拠していると言う指摘からである。
   教会は、神の前では全員平等だと普遍的な価値観を説くが、貴族は、神が与えた自分たちの高貴な身分や行動を褒め称えるのだから、二つは相容れず、偽善に陥るだけなのだが、このアンビバレンスが引き伸ばされたことによって、フランス革命が、貴族制度を廃止して特権階級を葬り去った直後に、エコール・ポリテクニーク(理工科大学校 俗にポリテク)やエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)など名門グランゼコールを創設し、独自の新貴族階級を生み出したのである。
   
   フランス・モデルの最も肯定的な定義は、エリートの社会的出身階級を葬り去ったことである。例えば、トップ・グランゼコールの一つENA(国立行政学院)に入学すれば、最早、農民の息子や娘ではなく、他の同級生と同様に、行政官や特権階級、すなわち、今様貴族になるのである。
   このエリートへの関門である名門グランゼコールへの入学が益々難しく熾烈な競争となり、社会的同類婚(同じ社会階級に属する者同士の結婚)の進展によって、国家のエリートたちは、幼稚園の段階から先制攻撃をかけて英才教育に励んでいると言う。

   フランス全体でみると、社会階層の分離と固定化現象は、益々、進展拡大を続けていると言う。
   今では、金持ちと貧しい人たちは明確に区分された地区で生活するようになり、都市部の街角は、社会階層が混在する場所ではなくなってしまったと言うのである。
   悪いことに、RER(高速郊外鉄道網)の発達によって、通勤距離を引き延ばすと同時に、難民や貧困層が住む都市部郊外を飛ばして、更に郊外に豊かな住区を作り出している。

   もっと深刻な現象は、前述した同じ社会階層に属する者同士の同類婚による社会階層の固定化がどんどん進んでいて、一連の閉じた世界が形成されつつあると言う。
   この社会的同類婚に関する傾向を「選択的ペア理論」として、ノーベル賞経済学者ゲーリー・ベッカーが分析しているのだが、一番目の組み合わせである金持ち美男子と金持ち美女の恵まれた同士の結婚が進むと、恵まれないもの同士が結婚する以外に道がなくなる。醜くて貧しい男が、金持ちの美女と結婚する非対称的な組み合わせの場合もあるが、この場合には、男は女に対して、より多くのものを提供しなければならない筈である。

   金持ちから始まったこの分離は、社会全体に広がり、同類婚が常態化しつつあるのだが、最上流階級において最も顕著だと言う。
   この選択的組み合わせの理論から、明らかになったのは、人々は、「均質化された社会層」から相手を見つけるようになり、愛の要素は減り、自分より貧しい者を拒絶するようになると言うのである。

   さて、このポリテクを出たフランス人のエリート意識だが、私が、パリで仕事をしていた時に、一人だけかなり親しく付き合った知人がいた。
   ポリテクの学生は、あのパリ祭で、凱旋門からコンコルド広場に向かってシャンゼリゼ通りを先頭に立って行進する特権を持っているのだが、卒業すると暫くお礼奉公として政府で働いて、その後、政財官などの組織のトップとして転出するとかで、知人は、随分若かったが、非常に頭の切れる優秀な人で、中堅のエンジニアリング会社の社長を務めていた。
   何かの拍子に、私が、ウォートン・スクールのMBAだと分かって、同類だと認めて対等に付き合ってくれたのだが、この時、国際条理のビジネスなり交渉では、如何に、世界的なトップ大学卒の資格なり学位が必須であるかを、米英以上に感じたのを覚えている。
   貴族社会を否定したフランスは、超名門校の学歴で、エリートを創出していたと言うことだろうが、これは、世界全体の傾向のようで、まだ、日本の方が、名門学閥への拘りが少ない方で、学歴に対する考え方はかなり穏健であり平等主義的であると思っている。
   

   私は、アメリカ、オランダ、イギリスと、欧米在住は、合計10年だが、コーエンの言う同類婚は、私の知る限り、殆ど常態化しているではないかと感じている。
   4年住んでいたブラジルも、仕事をしていたアジアや他の国でも、やはり、同類婚が普通のようで、日本の方が、同類婚ではない自由結婚のケースが多いようで、学歴に対するのと同じように、民主的な平等社会ではないであろうか。
   人生をやり直せないので、あくまで仮定の話だが、色々な与件が入り込むのであろうが、好きになれば、それが一番重要な決定因子のようになるだろうと思っている。

   格差の拡大が、このフランスのように、社会的な階級構造の新しい傾向だと言うことになると、格差縮小に対する経済社会政策の方向性が、違って来るかも知れない。
   多様化の時代だと言いながら、社会そのものが、社会構造の分離と固定化に、どんどん、進んで行くと言うことは、政治経済社会システムが硬直化して来ると言うことでもあり、国家運営のかじ取りが、益々、難しくなると言うことであろう。
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七月花形歌舞伎・・・「東海道四谷怪談」

2013年07月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座も、柿葺落で3か月続いた特別公演も終わった所為か、大分、落ち着きを取り戻してきた感じである。
   しかし、相も変わらないのが、メトロ駅に繋がっている歌舞伎座地下の木挽町広場で、観光客でごった返している。
   そんなに広い訳でもないし、特別な店があるとも思えないのだが、やはり、オープン前のマスコミ報道人気の継続であろうか。

   さて、今回観たのは夜の部の通し狂言「東海道四谷怪談」で、私には、二回目の鑑賞である。
   前回は、吉右衛門の民谷伊右衛門、中村福助のお岩であったのだが、今回は、花形歌舞伎と言うことで、染五郎の伊右衛門、菊之助のお岩であり、それに、直助権兵衛が松緑、お岩の妹お袖が梅枝、お梅が尾上右近であるから、若返った舞台と言うことである。

   この鶴屋南北の「東海道怪談」は、「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた外伝ということで、忠臣蔵は冬、四谷怪談は夏に、歌舞伎の舞台にかかっていたようだが、
   「東海道四谷怪談」の方は、箸にも棒にもかからない色悪の塩谷の家臣伊右衛門が、産後の肥立ちが悪くて病床のお岩を邪険に扱って苦しめ、こともあろうに、この伊右衛門を見初めて恋い焦がれている隣家のお梅に添わそうと、その祖父伊藤喜兵衛(実は、高家の家臣:團蔵)と母である後家お弓(萬次郎)が、産後の肥立ちに効く妙薬だと言って、お岩に飲ませて殺害する(実際は醜くすると言うことだったが、芝居では誤ってお岩は死ぬ)と言う話がメインであるから、実に、陰惨で暗い。
   この伊右衛門は、仕官を条件にあっさりと祝言を認めて、その夜お岩が死ぬと、自宅に新嫁としてお梅を迎えると言う鉄面皮であるから驚く。
   

   しかし、鶴屋南北ともあろう大戯作者が、いくら、流布していたお岩伝説や不倫の男女が戸板に釘付けされて神田川に流されたと言う話を題材にして、忠義忠義で湧いていた忠臣蔵物語の裏をかいて、こんな悲惨な物語を、安易に書く筈がないと言うのが、私の関心であった。
   平家物語を基にして書かれた多くの平家の末路の話にしてもそうだし、このお家取り潰しにあって断絶した浅野の家臣たちのその後にしてもそうだが、美談(?)の陰には、筆舌に尽くしがたい苦難と言うか、時には、人間性を否定さえして生きて行かなければならなかった人々がいた筈であり、その断末魔の苦しみ・命の叫びを、南北は、芝居にして叩きつけたかったのではないかと思っている。
   この四谷怪談には、公金横領を筆頭に善の一かけらもない徹底した極悪人伊右衛門や、お袖をものにしたいばかりに許嫁の佐藤与茂七(菊之助)を殺害する直助、それに、孫娘に添わせたいばかりにお岩を平気で殺める喜兵衛やお弓と言った、どうしようもない極悪人キャラクターを登場させているのも、その為であろう。

   ところで、この芝居では、特に、お岩が毒薬を飲んで、顔半分が醜く腫れ上がり、隣家にお礼参りに行こうとして、髪を梳きながら、どんどん毛が抜けて行き、最後には、柱に刺さった短刀に喉を居抜かれて悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門浪宅の場)が、注目のシーンで、菊之助は、たっぷりとした髪を何度も何度も丁寧に前に梳き上げて、苦悶の表情を見せて、実に哀れで感興をそそる。
   そして、お馴染みの注目の「提灯抜け」や「仏壇抜け」も期待どおりの面白さで満足であった。

   もうひとつ、菊之助が3つの役を演じていて、その二役お岩と小仏小平の死体を、一枚の戸板の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚く戸板返し(三幕目・砂村隠亡堀の場)も意表をついて面白い。
   これは、同じ人物が裏表で登場するので、早変わりのように思えて吃驚するのだが、実際には、それぞれの役の衣裳が、あらかじめ戸板の表裏につけてあり、戸板にあけられた穴から顔を出すだけなので、戸板を裏返すと同時に早替りとなると言う寸法のようである。
  
   ところで、伊右衛門は、お岩の妹お袖の夫佐藤与茂七(菊之助)に殺されて仇を討たれるのだが、この舞台では、対決シーンの始まりで幕となっている。
   この敵討の後、与茂七(矢頭右衛門七だと思う)は、高師直邸に向かって、主君の仇を討つと言う段取りのようである。

   伊右衛門を演じた染五郎だが、ニヒルな表情が実に良く、颯爽とした色悪で、素晴らしい舞台を見せてくれたのだが、あまりにも、整い過ぎて、アクドサ、嫌味、エゲツナサなどと言った吐き気を催すような極悪人伊右衛門像が見えなくて、綺麗な舞台に終わってしまっていたように感じた。
   そして、菊之助は、何時も、天性の役者として生まれてきた稀有な歌舞伎役者だと思って見ており、今回演じた立役の素晴らしさも絶品なのだが、やはり、美し過ぎて、お岩のイメージの役者ではないように思いながら見ていた。それに、醜く腫れあがった顔だが、メイクではなくて、ファントム・オペラのようにマスクを付けた感じだったので、岩の凄さ醜さ迫力が出て来なくて、これも、拍子抜けであった。
   松緑の直助だが、貴重な役どころで、中々、雰囲気を出していて上手いと思っているのだが、何故、台詞回しも含めて、いつまでも一本調子の素人ぽさが抜けないのか、不思議に思っている。
   お梅の右近、お袖の梅枝ともども、実に雰囲気のある女性を演じていて、素晴らしかったし、奥田庄三郎の亀三郎の存在感も貴重である。
   何よりも、この舞台を素晴らしい芝居にしていたのは、四谷左門の錦吾、按摩宅悦の市蔵、そして、萬次郎、團蔵と言ったベテランの脇役の貢献で、危なげのない芝居の安定感が何とも言えないほど有難い。
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アフリカは、ブレイクアウト・ネーションになるのか

2013年07月11日 | 政治・経済・社会
   横浜で開催された第5回アフリカ開発会議(TICAD5)に対する安倍内閣の入れ込みようなどもあって、最近、テレビでも、新聞雑誌でも、アフリカ経済の成長加速現象を反映して、アフリカ市場が注目されて来ている。
   プラハラードのBOPビジネスの対象として注目される点から言っても、日本企業にとっても、中国や韓国と比べて、遅れを取り戻すためにも、努力を傾注すべき市場かも知れない。
   ゴールドマン・ザックスのネクスト11には、エジプト、ナイジェリア、
   ルチル・シャルマのブレイクアウト・ネーションズには、南アフリカ、ナイジェリア、東アフリカ共同体等が列記されている。

   さて、IT革命とグローバリゼーションの進展によって、近年では、遅れていた発展途上国でも、人口やエネルギー、天然資源等に恵まれていると、世界中から資金を集めて、最先端の科学技術や経営手法を活用して、一気に、経済発展を加速して、キャッチアップできると言う錯覚なり風潮が強くなって来ている。
   この典型が、成長著しい中国とインドで、両国が、共産主義体制から資本主義へ転向し、長年にわたって押さえつけられていたダイナミズムが一挙に爆発して、社会制度を大きく変えることなく、一寸した改革によって、一気に高度経済成長を達成して、経済大国として伸し上ってきた。
   ところが、ダニエル・コーエンは、この転向が持続する保証は全くなく、その判断を下すには慎重でなければならないと言う。経済的発展は必ず政治的発展を促すと考えるよりも、政治が経済的発展から受ける影響には、本質的に両義性があって、経済活動は、二つの方向に、同時に作用すると考えた方が良いと言うのである。
   私は、中国などは、政治的に暗礁に乗り上げると思っているのだが、現在、中所得国の罠についても心配されているし、第一、かっての日本と違って、経済力の巨大さと人口圧力が桁違いに大きなっていて、その成長と発展を、グローバル経済のみならず、宇宙船地球号さえ、吸収できない筈である。

   ところで、ここで問題にしたいのは、中国やインドのことではなく、アフリカの発展である。
   近代の経済成長は、国民国家の近代的枠組みに依拠しなければならず、社会に根差す深い下部構造が重要であり、それが整っていないグローバリゼーションから取り残されたポール・コリアーが言う「最底辺の10億人」には、無理だと、ダニエル・コーエンは、言うのである。
   富を生産するためには、資本(機械)、人材(教育・公衆衛生)、効果的な社会制度(きちんと整備された市場、公平な司法)がほぼ同等の割合で必要であり、このうちの後者二つ(人的資本と社会制度)は、国家が生み出す社会インフラであって、この国家が責任を負う「公共財」が、十分に整備されていなければ、経済成長のみならず、健全な発展は無理だと言うことである。

   ここで、コーエンは、日本を引き合いに出して、
   日本が成功した理由は、国が、学校・公衆衛生・司法・領土など、基本的な公共財をきちんと整備したからであり、このやり方を、アジア全域でコピーしたからこそ、今日のアジアの隆盛があるのだと説いている。
   ところが、アフリカ諸国には、これらの要因が徹底的に欠如しており、これこそが、成功した日本と、アフリカの将来の決定的な差だと、コーエンは説くのである。

   テレビで放映されていたが、アフリカでは、ほんの数キロ離れたところと交易するにも、交通網が整備されていないので大変な困難を伴う。確かに、ケニアでは、M-ペサと言う携帯電話を使用した新しい決済サービスおよび送金サービスと言ったICT技術を活用したビジネスが銀行業の代わりを果たすなど、新ビジネス、BOPビジネスが、生まれてはいるのだが、本格的な国家の経済発展には、それ程、役には立っていない。

   少し前に、T・カナ&K・G・パレプ著「新興国マーケット進出戦略」のブック・レビューで、
    新興国市場(エマージング・マーケット)とは、”買い手と売り手を、容易に、あるいは、効率的に引き合わせて取引させる環境が整っていない国々の市場のことで、理想としては、どの経済でも、市場の機能を支える各種制度が整っていることが望ましいのだが、発展途上国の場合、多くの面で、それが不十分なのである。”と書いたが、
   正に、これこそが、コーエンが言う「公共財」の欠如で、
   この制度が整わない領域、すなわち、「制度のすきま(institutional void)」が、市場をエマージング(発展途上)の状態にして、これらが取引コストを高くしたり、業務が様々な障害に阻まれる原因となるのだが、新興国には、必ずこの制度のすきまがあり、夫々の国には固有の歴史、政治、法律、経済、文化的要因が市場を形成しており、新興国毎に、具体的なすきまの種類や組み合わせや深刻度が市場によって異なるので、その市場の攻略のためには、この制度のすきまに対処するために、如何に、適切な進出戦略を打ち立てるべきかが、多国籍企業や進出企業にとって最も重要な経営戦略だと、カナとパレブは説いているのである。

   例えば、ネットショッピングを考えれば分かるが、インターネットが通じているからではなくて、決済システムから流通ロジスティック、関連する司法体制など、高度に完結した公共財としての経済社会体制が整備されているからこそ、アメリカにはアマゾンがあり、日本には楽天があり、中国にはアリババがあるのであって、アフリカ諸国がキャッチアップするためには、まだまだ、時間がかかるであろう。

   話が、少し脱線してしまったのだが、
   確かに、アフリカは、将来的には、有望なブレイクアウト・ネーションズの資格のある国があって、日本企業としては、事業展開を図るべきエマージング・マーケットではあるのだが、ゴールドマン・ザックスやモルガン・スタンレーのレポートに安易に乗せられるのではなくて、十分にアフリカのホスト国の「公共財」の現状を理解して、「制度のすきま」を埋めるべく、イノベーションなり、ビジネスモデルの構築に自信を持ってから、臨むべきであろうと思っている。
   
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ダニエル・コーエン著「経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える」

2013年07月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルの直訳は、「悪徳の栄え――(不安になる)経済学入門」だと言うことだが、あまり、フランス人経済学者の本を読まないので、レトリックと言ったらよいのか、米英の経済学書に慣れた私には、いくらか、理解に苦しむ部分もあったが、流石に、フランス人であり、博学多識で、米英の最新の経済学書の引用も多くて、幅広い視点からの21世紀のグローバル経済への展望が、非常に興味深い。

  
   翻訳本のタイトルは、1万年史からとなっていて、確かに、経済の誕生から説き起こしているのだが、その経済史や文明論については、幅広く論じていて興味深いが、特に、新鮮味があるわけでもないので、今日の、ICT革命とグローバリゼーションによって大きく変貌を遂げた資本主義を、「ニュー・エコノミー」と捉えて、非物質的商品の生産と収穫逓増の法則と言う形で分析しており、かなり、ユニークなので、その点に限って考えてみたい。

   サイバー・ワールドにおける情報・コミュニケーション技術の到来とも言うべき、非物質化する経済が台頭してきた。このニュー・エコノミーは、アダム・スミスやカール・マルクスが打ち立てた経済学の従来のパラダイムに、根源的な変化を迫っている。
   数式・記号・分子構造式などに置き換えることが出来る情報の開発コストは、その情報が記録されている物質的な中身を開発するコストよりも、はるかに高額だ。ニュー・エコノミーでは、最初のユニットの製造コストが最も高く、二番目以降のユニット製造コストは安く、極端なケースでは、殆どゼロだ。例えば、医薬品の場合には、開発コストが膨大だが、それに比べて製造コストは極めて低く、また、電子ブックなどは、作品を生み出し電子ブックに乗せるまでにはコストがかかっても、一度電子ブック化すれば、追加コストはゼロに近いと言うことである。

   経済学的な観点からは、非物質的なモノの生産には、収穫逓増の原理が働く。
   ニュー・エコノミーが登場した過程を振り返ってみると、経済が収穫逓減の農業時代から、収穫一定の工業時代へ、更に、収穫逓増の非物質的なモノの生産の時代へ移行したことが分かる。
   このニュー・エコノミーの先端技術は、すべての産業に行きわたり、情報の幅広い拡散、参入障壁の引き下げ、さらに、経済主体間の競争圧力を強化すると言う。

   ところで、コーエンの非常に興味深い指摘は、先端技術の保有者に与えられるレントは、農村部における不動産レント(超過利潤)と非常に似ていて、収穫逓増の法則から、主要企業は、他者を引き離し、難攻不落の地位を確保する傾向にあり、マイクロソフト、ヤフー、グーグルなどの企業は寡占化するので、今後、彼らは、競争相手を全く寄せ付けないであろう。
   特に、ヨーロッパ系企業にとっては勝ち目がない。非物質的なモノの生産が、どうして裕福な国の比較優位なったのかが理解できると言うのである。

   このコーエンの指摘では、非物質的なモノの生産で、最先端技術を開発したイノベーターの快進撃とダントツの利益確保は理解できても、マイクロソフトを見ても、グーグルやフェイスブック、あるいは、アップルなどの追い上げを受けて苦戦しており、その難攻不落であった筈の地位が、新規参入イノベーターの挑戦を受けて、危機に瀕することもあると言う、競争原理の変革など、新しい資本主義のマーケット・メカニズムの変貌については、説明できない。

   ところで、この非物質的なモノの生産の時代に突入した今日の資本主義社会においては、アメリカの一人勝ちの天下であって、
   テクノロジーや金融だけではなく、文化面でもアメリカの成功、ヨーロッパの劣勢は明白だと言う。勝負にならないと言うのである。
   アメリカは、巨大かつ完結した国内市場のお蔭で、娯楽作品に対して幅広い選択肢を自国内で用意でき、国内の競争を勝ち抜いたアメリカの生産者の作品は、次に海外市場においてもベストセラーやブロックバスターになる。
   文化産業は、オープンで多様性に満ちていると信じられている世界だが、「スター・システム」と言う原則に基づいて機能しているので、映画・歌・書籍・展示品など、ほんの一握りの作品や興行が一人勝ちする。
   情報過多になると、人々は社会的つながりを求め同じものを観たがり、更に、宣伝広告によって全員が観客動員数の多い映画を見るように仕向けられるなど、スター・システムが機能する世界では、勝者が総てを獲得するするモデルであるから、分裂したヨーロッパの勝ち目など、更々ないと言うのである。

   もう一つのコーエンの論点は、非物質的なモノのグローバリゼーションは、英語を話すと言う前提のもとに組み立てられている。21世紀のグローバリゼーションは、シリコンバレー発のテクノロジー、ウォール街発のガバナンス規範、そして、ハリウッド発の映画なのである。
   ヨーロッパは、産業革命以前は、共通文化であったラテン語を通じて、諸国間の競合が促進され、思想の統一が図らて文化文明を支配してきたが、最近では、各国独自の文教政策を推進していて、研究にしろ文化にしろ、EU共同体間の資源配分も、バランスに配慮した極めて消極的な状態に留まっていて、何処にも中心となるべき拠点がなく、アメリカのように有名大学周辺に、学問文化の中心を築きあげているのとは雲泥の差だと言う。 

   コーエンの言う、一人勝ちのアメリカに対する、ヨーロッパ文化の劣勢については、今のEUとアメリカとの貿易交渉について考えてみると面白い。
   現在、EUは、米国との貿易を自由化する環大西洋貿易投資連携協定(TTIP)の締結交渉開始に向けて協議を開始したのだが、ヨーロッパ文化保護をめぐって難航している。
   ハリウッド映画に代表される米文化の侵食を懸念するフランスが、映画制作への補助金や外国作品のテレビ放映制限といった欧州の文化保護政策を交渉のテーブルに一切載せてはならないと文化保護を理由に映画やテレビなどの音響映像サービス分野を交渉対象から外すよう強硬に主張し議論は難航していると言うのである。

   先のコーエンの論旨から言えば、いくら、EUが必死になって、フランス映画界の要求を、アメリカに飲ませても、いずれにしろ、このニュー・エコノミーの時代においては、ハリウッド映画が、ダントツのディファクト・スタンダードであって、所詮は、フランス映画も駆逐されてしまって、文化の多様性さえ危うくなる巨大なモノカルチャーの世界になってしまうと言うことであろうか。
   私自身は、ハリウッド映画だけの味気ない世界には抵抗感があるし、フランス映画やドイツ映画の名画の記憶も鮮烈だし、フランス映画を守るのは勿論、文化の多様性を、いかなる犠牲を払ってでも、維持すべきだと思っている。

   ところで、最後に、コーエンは、最も深刻な問題だとして、地球規模でコミュニケーションが行われる新たな時代における最大の疑問は、迫り来るエコロジー危機に対応して、世界全体に普及させるように、西欧諸国の消費基準を変革できるであろうかと言っている。
   経済成長に成功して豊かになれば成るほど、人類は窮地に追い込まれて行く。もう、チッピング・ポイントを越えて、帰らざる河を渡ってしまって、人類に明日はないと言うのだが。
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