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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・まだ咲いているバラ,もう咲き続けている椿

2015年12月31日 | わが庭の歳時記
   昨日は、久しぶりに穏やかな温かい日で、午後のひと時、庭に出て椅子に座って読書を楽しんでいた。
   雰囲気に合わせて取り出したのは、「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。
   真善美を追求し続けた偉大な二人の芸術家の往復書簡と思いを込めた絵画の素晴らしさ。

   真冬には珍しく、奇麗な花が咲いているわが庭での、穏やかなひと時、
   ダージリンの微かな香りが、心地よい涼風を誘う。
   
   庭には、まだ、霜が降りていないので、遅咲きのバラが元気で、小さい花だが、健気に咲き続けている。
   本来なら、枯れたバラの花が下がっていても不思議はないのだが、まだ、乙女のような清楚で可憐な花を咲かせていて、ほっとさせてくれる。
   年が明けたら、冬の剪定をしようと思っている。
   
   
   
   
   

   今年の温暖化を反映してか、もう一つの異変は、三月から四月にかけて咲く筈の椿が、今咲き始めたり、咲いていることである。
   越の吹雪やタマグリッターズやフルグラントピンクが咲いていることは、先日、紹介したのだが、勿論、まだ、奇麗に咲き続けている。
   続いて、艶やかなピンク加茂本阿弥も式部も咲き始めた。
   
   
   
   
   
   

   気付かなかったのだが、鹿児島紅梅の蕾が、赤く色づき始めており、正月には咲き始める気配である。
   来月、下旬に京都へ行こうと思っているので、北野天満宮に行けば、早咲きの梅が楽しめるかも知れない。
   ボケも、随分前から咲いていて、わが庭は、春の気配である。

   今年も、随分、庭に咲く花々と、色々な思いを共有しながら過ごしてきた、
   春咲きの球根を植えた大地をそっと撫ぜて、自然の恵みに感謝感謝である。
   
   
   
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「出版物販売落ち込み最大」と言う本離れ

2015年12月30日 | 経営・ビジネス
   昨日の産経のネット版に、「出版物販売落ち込み最大 今年1.6兆円割れ 雑誌離れ響く」と言う記事が出ていた。
   「市場規模はピークだった平成8年の2兆6563億円の6割を下回る水準」と言うのであるから、日本経済が、バブル崩壊後大企業倒産ラッシュが起きた大変な頃と比べてであり、大変な落ち込みであることが分かる。

   しかし、その出版業界凋落の原因の多くは、経済の状況変化によるのではなく、おそらく、その原因の大半は、デジタル革命、インターネットの普及などによって引き起こされたICT革命によって根本的に変わってしまった文化文明の大潮流の変革のなせる業であろう。
   簡単で便利な楽しみや暇つぶしが無尽蔵に生まれ出た今日、もう、殆ど、特別な心構えなり多少の苦痛を耐えなければ入り込めないような紙媒体を相手にしての、真善美の追及や、娯楽や楽しみの世界への没入など、現代人には不向きになってしまったのである。

   それに、大きな影響を与えているのは、少子化高齢化。
   私の友人の多くは、歳とともに目が不自由になってきて、活字生活からどんどん遠ざかり始めており、親友の一人は、視覚障害者等のための音声図書やサピエ図書館などにお世話になって楽しんでいると言う。
   どんどん、高齢化社会が進行して行けば、いくら活字文化で育った世代でも、本から遠ざかって行く老人たちが増えて行く。
   それに、生まれた瞬間からICT革命後の生活が始まるデジタル・キッズにとっては、教科書さえ電子化されたものに変わってしまう筈で、紙媒体の活字本などから縁遠くなるのは当然の成り行きであろう。

   この頃、時々、趨勢を知るために、ブックオフに出かけることがあるのだが、当初から比べると、かなり、本の質もよくなってきており、それに、108円コーナーが過半を占めていて、定価の半額原則のほかの本も、本によっては300円程度に値下げするなど、随分、安くなってきている。
   それでも売れないと言うのであるから、これから見ても、本屋がどんどん倒産するのも当たり前であろう。

   この記事の後に、同じく産経だが、「「1冊も本を読まない」…47・5% 文化庁調査で「読書離れくっきり」」と言う記事が載っていた。
   文化庁が実施した「国語に関する世論調査」によれば、マンガや雑誌を除く1カ月の読書量は、「1、2冊」と回答したのが34・5%、「3、4冊」は10・9%、「5、6冊」は3・4%、「7冊以上」が3・6%だったのに対し、「読まない」との回答が最も多く、47・5%に上った。と言うのである。
   本と言う事で、半分の日本人が本を読まなくて、読んだ人でもまともな本かどうかは分からないので、大宅壮一が1億総白痴化と言った時代よりも、事態はもっと深刻である。

   読書減少の理由だが、最も多かったのは「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」の51・3%、次いで「視力など健康上の理由」が34・4%、「(携帯電話やパソコンなど)情報機器で時間が取られる」が26・3%、「テレビの方が魅力である」が21・8%-など。だと言うが、私は、殆ど理由にならないと思っている。

   いずれにしても、由々しきことは、貴重な紙媒体の活字文化が廃れると言う事は、ある意味では、グーテンベルグ以来の人類の文化文明の基礎とも言うべき最も重要なツールの退潮であることには間違いなく、営々と築き上げてきた貴重な人類の財産が消え行くと言う事であり、英知の衰退につながらなければ良いのだがと思わざるを得ない。

   話は飛ぶが、最近、鎌倉に移ってきて鎌倉を歩いているので、鎌倉関係の本を結構読んでいる。
   歳の所為か、古い本ほど味があって良い。
   永井路子の「私のかまくら道」などは、簡略すぎて追跡が難しいのだが、前世紀の雰囲気濃厚で面白いし、時代離れした語り口が何とも言えなくてよい。
   太陽編集部の「鎌倉 小さな豊かな町を歩く」は、2000年刊の本だが、高見順夫人の秋子さんたちが、終戦直後の混乱期に、鎌倉在住の文士たちが蔵書を持ちよって、鎌倉文庫と言う貸本屋を始めて結構繁盛して糊口を凌いだと言う話を紹介している。
   知に飢えた人びとが本に殺到して貪るように読んだ。飽食の時代の今日と違う。
   こういう時代こそ、本当に価値ある時代だと思う。

   私は、経済学や経営学と言う、殆ど、無味乾燥に近い殺伐とした本ばかり読んできたのだが、この頃、やっと、日本の古典を、もう一度紐解きながら、万葉や明日香、奈良や懐かしい京都の街々を歩いてみたいと思っている。
   その時は、やはり、色褪せた学生時代に読んだ本を小脇に抱えて歩きたい。
   そして、今、鎌倉に住んでいて、おそらく間違いなしに、ここが終の棲家になるのであろうから、もう少し、鎌倉文学館に通って勉強して、川端康成など鎌倉ゆかりの文士たちの小説をじっくりと噛みしめて味わってみたいと思っている。

   さて、読書習慣の定着については、子供たちの読書活動について文部科学省は「言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないもの」と強調して、平成14年以降、3次にわたり「子ども読書活動推進基本計画」を策定し、家庭における読み聞かせ教育の推進や、小・中・高校での朝読書の普及、公立図書館の整備などに努めてきた。と言う。
   あまり良い方法とは思えないが、親世代の大人が本を読まないのだから、学校側が、徹底的に、子供たちに読書習慣を身に着けさせるべく指導教育することである。
   話は違うが、日本の古典芸術の普及のためにも、同じ手法で、学習要綱に繰り入れて鑑賞機会を増やすなどして、鉄は熱いうちに鍛えるべしが定石である。
   真善美に対する真摯な姿勢を子供たちに徹底的に教え込むことこそ、教育の在り方であろうと思う。
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仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス

2015年12月29日 | 映画
   春夏秋冬、学校が休みに入ると、子供向けの映画やアニメが、映画館で上映される。
   孫の映画館通いにお供をするのは、二人とも男の子なので、祖父である私の役目である。
   これまでにも、随分、映画館に通っているのだが、とにかく、我々の知っている日本昔話だとか、アンデルセンやトムソーヤなどと言った優しい西洋童話のようなストーリーではなく、時空を超えた宇宙の世界だとか、今回の仮面ライダー映画のように、「時空のゆがみによって10年前の世界に飛ばされて」と言った調子で、ドラえもんの秘密の扉どころか、難しすぎて分からないのである。

   4歳の孫の一番好きなテレビ番組は、「ニンニンジャー」と「仮面ライダーゴーストとドライブ」で、録画してあるので自分で捜査して何度も見ており、機関車トーマスやムーミン、アンデルセン童話や日本昔話などは押しやられてしまって影が薄い。
   幼稚園では、リサイクルコーナーがあって、新聞を筒状に丸めて刀芯にして、ペットボトルのふたやヤクルトの空きポットなどを器用に鍔などの付属品にして、カラフルなガムテープで張り付けて剣を作って、それを持って、園児たちが運動場を走り回っている。
   テレビを見ているので、当然、何本も剣や合体する武器などのおもちゃを買わされて持っているのだが、この頃の玩具はマイコンなどが埋め込まれていて精巧にできていて、動きは勿論、声や音、光などが自由自在で、びっくりするほどの進歩である。
   
   さて、今回の映画「仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス」だが、HPから、そっくり借用すると、次のようなストーリーである。
   ”一度死んで蘇り、期限付きの命を燃やす青年・天空寺タケル。彼は英雄の力を得て戦う仮面ライダーゴーストだ。そして、ロイミュードとの争いを終え、ベルトさんに別れを告げた泊進ノ介=仮面ライダードライブ。共通の敵・眼魔を追う中で出会った2人の仮面ライダーは、突如巻き起こった時空のゆがみにより、10年前の世界へ飛ばされてしまう!そこには進ノ介と知り合う前のベルトさん、今は亡きタケルの父の姿があった。一方、過去へ“異物”が迷い込んだ影響で、現代では何とロイミュードが復活を遂げていた!マコト、剛、そして大切なものを守って散ったあの男も現れ、必死に食い止めるが、ロイミュードの力はより強まっていた。
2人が現代に戻らなければ人類が危ない。しかしタケルは父の命を奪う魔の手が迫ることに気づいていた・・・。彼は過去に残り、父を救う決意を固める。それが眼魔の手によって蘇った「世紀の大天才=レオナルド・ダ・ヴィンチ」が仕掛けた“罠”と知らず・・・。最強の敵となった“英雄”が時を超え、世界を揺るがす大事件を起こす!”

   分かったようで分からないストーリー展開だと思うのだが、観客席を観ていると、殆どが、幼稚園児か小学初年くらいの子供を伴った親子連れで、孫の年代であり、子供の頭の中では、つじつまが合っているのか、楽しかったと言っている。

   幼い子供たちが、レオナルド・ダ・ヴィンチだとかミケランジェロだとかラファエロとかと言って遊んでいるのは、正に、驚異と言うべきだが、
   さて、ルネサンスのみならず、人類史上、最大の芸術家であり偉人である3人の巨匠を、悪の権化に仕立て上げて戦わせて、木っ端微塵に消滅させると言うのは、どうであろうか。
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人並みに三崎マグロ祭りに行ってみた

2015年12月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   年末、現役を離れた私には、何の感慨もないのだが、長女に頼んで、正月気分を味わうために、鎌倉から近いので、三崎に車を走らせてもらった。
   朝、NHKで、三崎マグロ祭りの様子を放映していたわけではないのだが、千葉に居た頃、町内会で私の担当でツアーを組んだことがあるので、懐かしくなって行く気になったのである。

   とにかく、鎌倉からは40キロほどの一本道なのだが、ローカルロードの典型として、車が渋滞するとどうしようもない程、時間がかかる。
   娘たちに止められて車を運転しなくなって、自由が利かないので、思うように動けなくて、三浦行きを娘に頼ったのである。
   昔のことだが、あのどうしようもない程危険なブラジルを車で縦横無尽に走り回り、ヨーロッパでは、ロマンチック街道を突っ走ってウィーンで憩い、ドナウ川を下ってメルヘン街道をアムステルダムに取って返し、はたまた、ハンブルグからコペンハーゲンへドライブし、そして、イタリアのブレンナー峠を越えてアウトバーンを一気に突っ走ってアムステルダムへ、イギリスでは、イングランドをあっちこっち、スコットランドからウエールズを走り回ったのは、誰のお陰か忘れてしまって、ハンドルを握らせないのである。
   
   まず、三崎港について、最初に行ったのは、常設の三沢港直産センター「うらり」。
   前回も、台風直撃の日であったので、行ったのはここだけで、皆ここで買い物をして帰って行った。
   今回、マグロ祭りが行われているのは、ここではなくて、三浦朝市が行われている魚市場の方だと、暇を持て余して油を売っている市の案内所のおばさんが教えてくれた。
   別に、立て札も看板もないので、始めて行く客には分かる筈がない。
   かなり広範囲にわたっての露店の集まりだが、屋根のある仮説のショッピングコーナーもあるのだが、とにかく、マグロと言うよりは、海産物はいろいろ、それに、多種雑多な食品から雑貨、蚤の市まがいの骨董ガラクタ、色々の店が出ていて、マグロ祭りと言う大大セールと言うよりは、日曜市である。
   NHKが放映した割には客が少なく、露天コロッケ屋の親父が嘆いていた。
   
   
   

   日ごろ、私には関係ない世界なので、安いのかどうかは勿論、買う値打ちのあるものを売っているのかさえ分からない。
   いずれにしろ、マグロ祭りと言う三崎港のイヴェントなのであるからと思って、マグロやタラバガニなど海産物などを人並みに買って帰った。

   早速、帰宅して夕刻に、マグロのカマの切り身を煮魚にて、1991年の純米長期熟成酒三二四の酒の肴に頂いたが、結構楽しめて満足であった。

   帰途、「すかなごっそ」と言う神奈川県と言うか横須賀の農産物直売所があったので、立ち寄って、野菜などを買って帰った。
   鎌倉と言うところは、生活に不便なところなので、こんなところが結構役に立つのである。
   道中、海岸線が見え隠れしていたのだが、見通しが良くなかったので、富士は見えなかった。
   
   
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国立演芸場・・・歌丸の「紺屋高尾」ほか

2015年12月27日 | 落語・講談等演芸
   私にとっては、今年最後の観劇だが、国立演芸場の「国立名人会」が面白かった。
   トリは、歌丸の「紺屋高尾」。

   歌丸は、一月五日の、この舞台での高座中に倒れたと言う話から、今年は大変な年だったと言うことから始めて、花魁紺屋高尾の演題なので、人生にはいろいろ不幸があるのだが最大の不幸の一つは、昭和三十三年三月三十一日の赤線廃止だったと語り始めた。
   体調が心配されている歌丸師匠だが、痩せて頬骨が浮き上がって見えるのだが、いたって元気で、足の調子が良くないと言ってせんべい座布団に左足を流しての横座りだと言うが、きちんと座っていて、こじんまりとした佇まいながら、語り始めると、一気に大きく見えるのが流石。
   最盛期と少しも変わらない名調子で、しっとりとした滋味深い江戸の人情話をしみじみと語る。

   この「紺屋高尾」は、以前に三遊亭歌司で聞いている。
   その時のブログを引用すると、次のような噺である。
   神田の紺屋の染物職人久蔵が、吉原で花魁道中を見て絶世の美女である高尾太夫に一目惚れして恋煩いで寝込むのだが、医者の助言で3年間一生懸命働いて、9両を貯めて親方に1両足してもらって10両を持って三浦屋に行き、幸いにも高尾に見えて初回を迎える。
   花魁に「今度はいつ来てくんなます」と訊ねられて感極まって、「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯め、今度といったらまた三年後。」と正直に苦しい胸の内を吐露する。
   高尾は、ホロリと涙ぐみ、大名相手とは言えお金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとはと、久蔵の至誠を感じてこの人なら間違いないと思って、自分は来年の二月十五日に年季が明けるので、その時女房にしてくんなますかと言う。
   実に爽やかな純愛物語だが、実際にあった噺のようで、ウィキペディアには、
   5代目 - 紺屋高尾。駄染高尾とも。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。のち3人の子を産み、80歳余まで生きたとされる。

   情が移って晴れ晴れとした朝帰り、その間の話は、この話の2倍くらいかかるのだが、当局がやかましいので、皆様のご想像に・・・

   私は、こう言う人情話が好きなので、圓朝の噺も当然だが、歌丸の語り口がたまらず、最近は、感激しながら聞き続けている。
   

   この日聞いたのは、まず、遊雀の「悋気の独楽」。
   何回も聞いているのだが、旦那が寄席に行くと言って朝帰りするので、心配になった女将さんが丁稚の定吉に後を付けさせる話。噺家の語り口の違いが面白くて、游雀の色っぽいお妾さんの語りや仕草が秀逸で面白い。

   文治の「掛取り」は、大晦日の話で、昔は現金決済がなく、すべて掛売。
   貧乏長屋の住人八五郎は、赤貧洗うがごとくで、家賃から米酒等々悉く払えないのだが、芸が立つので、狂歌の好きな大家をはじめ、落語や歌舞伎の好きな酒屋などの掛取りには、芸のひとくさりを披露して煽て上げて、いい気持にさせて、支払いを引き延ばし、喧嘩早い魚屋には挑発して借金棒引きにさせるなど、とにかく、奇天烈な発想が愉快である。
   それに、歌舞伎では忠臣蔵の上使に見立てて「お掛け取り様の、お入いーりいー」と花道から登場する気にさせて門口を引き返させたり、文治の異業種の伝統芸も本格的で、そのバリエーションが面白い。
   この話には、掛取りの趣味や好みに合わせて相手を変えるようで、三河万歳や相撲や早慶戦やクラシック音楽や三橋美智也等々多彩で、その噺家の得意芸が披露されると言うから興味深い。
   文治は、この間、落語のところで、東京の寄席の客風景を語っていて、繁華街の寄席の品のなさと、横が最高裁判所でついでに来ると言う客がいないこことは、大違いと面白おかしく語っていたのだが、これは、他の噺家もよく話題にする。
   国立は、歌舞伎でもそうだが、比較的安くて良質なのが良い。

   小遊三は、「蒟蒻問答」で、食い詰めて蒟蒻屋に世話になっている八五郎が、空き寺の木蓮寺の住職におさまるのだが、門前へ永平寺の諸国行脚の雲水沙弥托善が問答に来ると万時窮す。問答など出来る筈がないので、無言の行で押し通し、目くら滅法の手話が何を間違ったのか、雲水を感服させて退散させると言う話。
   豆腐にケチを付けられたと勘違いして、反発した手話が、仏の道の高度な教理に通じたとか、宗教も地に落ちたものと、笑い飛ばす機知が面白い。

   鯉昇は、「武助馬」。
   呉服屋の奉公人だった武助が、役者になりたくて芝居の一座に入って5年後に、所属の中村勘袋一座がこの町で芝居を打つので来てくれと挨拶に来る。  
   持ち役は、「一ノ谷嫩軍記」の馬の後ろ足で、当日、客席から大勢で武助に「待ってました! 馬の足!」と掛け声をかけるので、調子に乗ってハチャメチャの舞台になる話。

   とにかく、全く無害無臭、笑って笑い飛ばす3時間だが、同じ古典芸能でも、能・狂言、歌舞伎・文楽とは、随分違う世界。
   今年も、随分、劇場に通ったが、面白かった。
   
   
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鎌倉便り・・・稲村ケ崎に立った

2015年12月25日 | 鎌倉・湘南日記
   ”七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎、名将の剣投ぜし古戦場”
   小学唱歌「鎌倉」の最初の歌詞なのでよく覚えているのだが、横を江ノ電や車で通ったことは何度かあっても、まだ、岬の突端に立ったことはなかった。
   今回、魚を賞味しようと思って、稲村ケ崎の街道沿いにある池田丸と言うしらす・地魚料理の漁師の店に出かけて、ゆっくり、昼食の後、岬の高台に上った。
   とにかく、魚が新鮮で美味いのが有難い。
   


   今では、この岬の背後に切通を貫いて、江ノ電や国道が走っているので、岬だけが切り離されてしまって、小高い丘のようになっているが、鎌倉室町当時には、この稲村ケ崎の突端は、険しく切り立っていたので、極めて通行困難だったのである。
   したがって、鎌倉に攻め入ろうとした新田義貞が、渡ろうとして、潮が引くのを祈って剣を投げ入れたと言う逸話のある場所である。
   
   
   
   私は、腰越から稲村ケ崎に向かったので、岬越しに、鎌倉や逗子、三浦半島の方角が遠望できた。
   高台に上れば、右側に、七里ガ浜の磯伝いに飛び出した江の島が見えて、本来なら、島を結ぶ橋の上に富士山を遠望できる恰好の場所なのだが、この日は、曇っていて、富士山は見えなかった。
   岬の先端は、鎌倉海浜公園になっていて、逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件の慰霊碑や、新田義貞の故事の碑、コッホ博士記念碑などが建っている。
   若い人たちののデートコースになっているのであろうか、殆ど観光客はいないのだが、二人連れのカップルが何組かいて、憩っていたのが意外であった。
   
   
   
   
    
   
  
   中年のアメリカ人カップルが近づいてきて、漢字が読めないのだが、あの看板は何が書いてあるのか教えてくれと言った。
   ”ひとりで抱え込まないで”と言う自殺防止のホットライン表示であった。
   苦しくなってこの断崖から飛び降りる人がいるので、その前に電話してくれ、助けられるかも知れないから、と言う意思表示なのだと説明すると、じっと頷いていた。
   
   
   すこし、展望台にいたのだが、公園を離れて、国道を横切ったところにあるMainと言うレストランに入って、コーヒータイムを楽しんだ。
   この公園自体は、何の変哲もない至って殺風景な公園なので、一度は訪れてみる価値はあろうが、むしろ、観光スポットとしては、この海岸線に沿って沢山並んでいるレストランやカフェ、ホテルなどで過ごす展望を楽しみながらの憩いのひと時ではないかと思う。
   狭い砂浜に隣接して国道と江ノ電が走っていて、すぐその上の七里ガ浜沿いの岸部は高台になっていて、キラキラ輝く美しい海を見ながらサーフィンの人々や江の島など魅力的な風景を楽しめるのである。
   一寸、時代離れしたような江ノ電が、がたごと側を通り抜けていくのも、雰囲気があって面白い。
   老年には分からないが、このあたりが、恋人たちの魅力なのかもしれないと思った。
   
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友人は毎日退屈だと言うのだが

2015年12月24日 | 生活随想・趣味
   先日、現役時代の同僚に、久しぶりに会ったら、毎日が退屈で仕方がないと嘆いていた。
   人付き合いが良くて、大いに活躍して働いていた成功者とも言うべきビジネスマンであったのだが、悠々自適の生活に入って、何故、退屈するのか、不思議に思った。
   「人生、いろいろ」なので、どのように退屈なのか、何かやることがないのか、聞かなかったが、私には良く分からない現象である。
   現役中は仕事中心の生活に埋没していて、その後に続けて行ける趣味や楽しみなどを見つけ出せなかったのか、暇になってからの生活の切り替えが上手く行かなかったのか、色々な理由があるのであろうが、いわば、人生の刈入れ時と言う黄金時代になって、実に惜しい話だと思う。

   私の場合だが、毎日、色々とやることがあって、焦りこそすれ、退屈だと言う思いをしたことは、一度もない。
   別に、人様と特別に変わった日常だとは思えないし、普通の生活をしているつもりである。

   人様との違いと言えば、人付き合いが悪いと言うか、友人関係を考えなくても、あるいは、サークルなどグループに入って何かをするのでもなく、家族や親しい人たちとの人間関係を除けば、自分自身で、すべて、日常生活を律しながら生活できていると言う事ではないかと思っている。
   多忙な現役時代でも、友人知人の中には、アフター5や休日など、飲みに行くかマージャンをするかゴルフに行くかなど誰と何をするかの手配に熱心であったり、趣味娯楽などで積極的に団体行動をしたりサークル活動などをしていたり、外向きと言うか人との付き合いを大切にしていた人が多かったが、私の場合には、多少、関心ごとや趣味など志向が異なっていたのか、人様を巻き込まずとも、自分一人でやれる、あるいは、やらなければならないことが多かったような気がする。
   付き合いは適当にして、自分の余暇の過ごし方などは、自分自身で、考えて行動していたと言うことであろう。

   
   例えば、クラシック音楽やオペラ鑑賞の楽しみなどは、趣味のグループに入って楽しむ方法もあるが、このあたりの趣味人は、意外に少なく非常にマイノリティであって、普通の場合、身近に、このような話を親しく楽しく話せる人は稀有であるし、むしろ、自分自身で楽しみながら努力して鑑賞力を向上させるしかない。
   写真でも、良い写真を撮ろうとかコンテストに出品しようとか思っていなかったので、好きな写真を好きな時に撮り続けているので、これも、自分自身で楽しめばよいのである。

   最近、クラシック音楽からは距離を置いて、歌舞伎や文楽に加えて、能や狂言に鑑賞の比重を移しているのだが、いずれにしろ、奥深い世界なので、勉強しなければならないことばかりである。
   能楽堂に通うだけではなく、楽しむためには、詞章や解説書を読んだり、資料を調べたり、結構忙しい。
   のめり込まなくても、関連する古典や、その舞台や故地など調べ始めると限りがなくなってくる。

   趣味とか楽しみでやっていることは、他にも色々あるのだが、例えば、大学と大学院での専攻だとは言え、今でも、経済学や経営学については、専門書などを紐解きながら、勉強を続けている。
   自分が勉強しようと思う分野や主題は、少しずつ変化してきているが、いずれにしろ、ハーバード・ビジネス・レビューくらいは、ある程度、読んで分かる学力を維持したいと思っており、専門書を結構読み続けている。アメリカの大学院での経験の所為もあって、専門書の読書量などは、今の方が、大学時代よりもはるかに多い。
   これなどは、話そうと思っても、大学に行くか、特別な場に行かない限り、誰も相手にしてくれない。

   それに、ガーデニングなどに至っては、季節の移り変わりによって、どんどん、作業が出てくる。
   最近、雑草の処理とか、庭のメインテナンスが苦痛になったと言うことで、先祖から長く続いていた一戸建て住宅をも売ってしまって、マンションに住み替えた友人が何人かいる。
   分からない訳ではないが、寒い冬に耐えて、土の中から小さな芽を吹いて、綺麗な花を咲かせてくれる草花や、厳つい古木の幹から必死に芽を出して可憐な花を咲かせてくれる花木の神秘を思うと、出来る限り、世話を続けたいと思う。
   庭の植え場所も、もう限界なのに、相変わらず、花木の苗や、草花の球根や宿根を買っては、仕方なく、鉢などに植え続けているのだが、これも、中々、止められない。

   観劇や経済セミナー受講のためなどに、結構、東京に出かけて行くし、健康のためには、1日、5~6千歩は散歩したい。
   新聞も読みたいし、録画したNHKの世界ニュースは毎日見たいし、時には、沢山録画し続けたオペラや歌舞伎なども観たい。

   もっと真実を知りたい、もっともっと善きものや美しいものに接して感動したい、そんな思いが、ドライブ要因であったような気がする。
   しかし、全く、計画性などないし、何の脈絡もなく、思いついた時に、好きなように日々を過ごしてきたので、とにかく、必要なことをするにもままならず、時間がなくて、毎日を、焦りながら生活しているような気がしている。

   これが幸せなのかどうか、自分にも良く分からない。
   長い人生、反省と悔恨ばかりであったような気がしているのだが、今更、方向転換などできないし、ぼつぼつ、終着も近くなってきているので、人様に迷惑をかける心配さえなければ、このまま、元気で走り続けて終われば良いと思っている。
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粟谷明生編「粟谷菊生 能語り」

2015年12月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、「お能は僕の人生そのもの」と言う能楽師人間国宝の故粟谷菊生の能人生や芸論を、子息で同じく喜多流シテ方能楽師粟谷明生が、聞き語りで纏めた貴重な記録である。
   昭和初期から大戦を経て、2008年までの83歳の軌跡であり、最も後から生まれた弱体な喜多流であるので、正に、山あり谷ありの波乱万丈の物語が展開されていて、非常に面白い。

   能をこよなく愛し、能とともに生きた師であり父である最高峰の先達からのインタビュー形式の聞き語りなので、能の作品や能舞台など時には専門的で高度な話題が展開されているのだが、能にはまだ初歩の私の埒外なので、印象的であったテーマや個所について、付箋を貼ったので、列記してみたいと思っている。

   装束をつけ終わった時から、人が変ったみたいにその人間になり切り、鏡の間で腰かけて鏡を見、自分の面を見ると、だんだんその中に入って、愛嬌者の粟谷菊生は、「鉢木」なら佐野源三衛門に、「景清」なら景清になり切る。
   面をかけて別人になって、本当の孤独を味わうのだが、その刺激が何とも痛快である。

   舞台では、面をかけて視界が狭められ、重い装束をつけて動きがままならない。
   それでも、自分を誰も助けてくれないし、自分で舞台を努めなければならないのだから、それはすごく孤独である。
   でも、この孤独な刺激は何とも言えないもので、「おまーく」と幕が揚がると、孤独ではあるが、向こうに囃子方や地謡がいて、ワキがいる、みんな自分のために能を作ろうとしてくれている、その何とも言えない連帯感を感じる。

   能は「まだるっこしい」と言う人がいるが、「急ぎ候」と言ったら「はや唐土に着きて候」と、あっという間に行き着く。
   能舞台は、6メートル四方の本舞台と橋掛かり、舞台装置もたいしてない。しかし、観る人の想像によって、安達ケ原の荒涼とした原野にも、管弦講を催す宮中にも、天女の舞う三保の松原にもなり、こんなにスピーディなことはない。
   ヴェニスで、ギリシャ劇を観たが、観客席の中央に舞台があって背景もなく、四方八方から観客の目が注がれて、この形式は能と同じである。
   能は、何もないところで、お客さんに自由に想像してもらうもので、演者は、お客さんが想像しやすいように演技をする、それに徹した方が良い。
   
   能は、舞は3年で一応格好がつくが、謡は10年稽古しないと謡らしくならない。
   謡は間が大事で、落語はあの絶妙な間があるから聞かせるので、間の取り方については、狂言やワキの人たちから随分教わったし、歌舞伎や映画からも頂いた。
   狂言や歌舞伎、映画、落語から学ぶことは沢山あった。あらゆるものが能の栄養になるので、貧欲であってほしい。
   何事も経験することで、それを能に還元することが大切であり、小さいころ飯田橋の近くに、寄席や映画館が沢山あって良く行ったし、小学校の演芸会で落語をやったし、「鬼界島(俊寛)」は、初代の吉右衛門の芸から頂いた。

   能が、600余年続いた伝統芸能ではあるが、代々の人たちが、みんなその時代の空気を入れ、自らの工夫を凝らしてきたからこそ、今に伝わっている。
   室町時代の通りをやっていたら、とっくの昔に滅びていた筈である。
   我々は、現代に生きる能の職人である。

   能は足の芸術、運びの芸術である。
   橋掛かりを出る時、頭や身体を揺らさずに運ぶ・・・それが上手くいくかどうかで、その日の能が決まってしまう。能は、運びの美しさが勝負である。
   演者が完ぺきな運びをすれば、観る人は自由に色々な世界で遊べる。
   運びを奇麗にするためには、足腰を鍛えておかなければならない。
   自分の場合には、スキー、スケート(アイスもローラーも)、ダンス、ゴルフ、バスケットボール、スポーツは好きでいろいろやったが、全部役立っている。

   上手な能役者は、白くお化粧をしなくても、女の声音を使わなくても、女を感じてしまう。自分の場合は、節使いや声の調子で謡い分けている。
   これは、日常生活や映画、歌舞伎の中で女性を観察して研究してやっている。  
   新宿のバーで、ママが三人の男を相手にして、三人とも平等に愛情を示さなければならないので、一人には目を見つめて話しかけ、もう一人には手を握っていて、三人目には、足をそっと男にくっつけている。
   みんな能のためだよ。

   能楽師が喉を傷めるのは、職業病。
   このつらい経験をどうやって乗り切るのか、そうなって、初めて歳を取って行くことのつらさ、年配者の苦しさが理解できる。

   ところで、”曲に添えて”と言う章があって、生涯で150曲勤めたと言う事で、菊生自身の著作からの引用も含めて、背中と足の裏で俊寛を表現した凄い吉右衛門に刺激された「鬼界島」、バージンロードの思いで演じた今でも通じる父娘の情の「景清」から始まって、能の名曲の数々の思い出や熱い芸への意気込みなど、ユーモアたっぷりに蘊蓄を傾けて開陳しており、非常に興味深い。
   それに、豊かな交遊録からも、能の世界は勿論、日本の文化の歴史の一端が垣間見えて面白い。 

   ”能舞台に人生を捧げた菊ちゃんの面白おかしい楽屋裏話”と、本の帯に書かれたこの本、3200円+税なので、少し値が張るが、読み応えのある素晴らしい能楽本である。

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国立劇場:十二月歌舞伎・・・「東海道四谷怪談」

2015年12月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場の12月の歌舞伎は、通し狂言「東海道四谷怪談」。
   お岩の幽霊シーンが有名だが、れっきとした忠臣蔵外伝で、主人公が塩谷浪人かその関係者であり、今回の通し狂言では、前後に、忠臣蔵の舞台が展開されていて、大詰めの最終場面は、仇討の場で、討ち入りシーンが繰り広げられるなど、正に、年末のプログラムである。
   忠臣蔵との関係は、南北に扮装した染五郎が、すっぽんに登場して、冒頭で、その次第を語るので良く分かる。
   ただし、四世鶴屋南北作の怪談であり、父親のみならず、貞女のお岩までもが夫の伊右衛門に惨殺されて、幽霊となって復讐を果たすという物語で、浪々の身となった家臣たちやその家族の屈折した陰惨な運命を主題にしている所為もあって、ストーリーそのもののが暗くて陰鬱であり、怪談として面白くても、見ていて楽しい歌舞伎ではない。
   
   そんなこともあってであろうか、お岩に伴う舞台の仕掛けや4役を演じ分ける染五郎の早変わりなど、舞台展開に興味深い趣向や工夫が施されていて、それなりに面白く見せてくれるのは、これまでに築き上げられた伝統の賜物であり演出の冴えであろうか。

   お岩(染五郎)の夫民谷伊右衛門(幸四郎)は、お岩の父である元塩冶藩士四谷左門(錦吾)に、公金横領などの極悪非道な行いを悟られて、辻斬りに見せかけて殺した上に、
   隣家の高家の重臣伊藤喜兵衛(友右衛門)が、伊右衛門に恋い焦がれる孫娘(米吉)の婿に迎えるべく、お岩の面相を醜くして離縁させようと仕込んだ毒薬によって、化け物のようになったお岩は、恨みを残して死んで行く。
   その後、お岩の幽霊が伊右衛門を悩まし続けて、伊右衛門の母(萬次郎)や仲間を次々に死へ導き、最後に伊右衛門は、お岩の妹お袖(新悟)と夫の佐藤与茂七(染五郎)によって討たれる。
   とにかく、伊藤の口車に乗って孫娘を娶り、お岩の身ぐるみ剥いだ上に子供の着物まで持ち出すと言う、どうしようも救いのない極悪人の伊右衛門が主人公なので、私など、少しも面白くないのだが、しかし、どう考えても悪人にはなり得ない、と言うよりも、どう演じても悪人とは思えない幸四郎が演じているので、私にとっては、救いだと思って観ていた。
   同じように、騙してお袖を嫁にした極悪人の直助権兵衛を演じていた彌十郎の方は、サブキャラクターなので、それなりに、観ていた。

   この歌舞伎では、お馴染みの「元の伊右衛門浪宅の場」がメインであろうか。
   毒薬を飲んで悶え苦しみ顔が醜くなったお岩が、「下座音楽」の「独吟」に乗って、鉄漿を塗り、櫛で髪を梳くのだが、櫛を当てる毎に、髪が抜け落ちていく鬼気迫る壮絶な「髪梳き」シーンが、たまらなく哀れである。
   蒼白でくちゃくちゃになった染五郎の悲壮な表情が実にリアルで悲しい。

   この歌舞伎での見せ場である仕掛けのシーンが、「堀の場」で展開される。
   まず、「戸板返し」で、 堀で釣り糸を垂れる伊右衛門の前に、戸板が流れついて、その戸板には、彼が殺したお岩と小平の死体が表裏に打ち付けられている。「戸板返し」は、この戸板にお岩と小平の2役を演じている染五郎が打ち付けられている勘定であるから、ひっくり返した瞬間、染五郎は早変わりしなければならない。
   びっくりして観ていたのだが、後で調べて分かったのは、お岩と小平役の衣裳が、前もって戸板の表裏に打ち付けてあって、戸板にあけられた穴から顔だけを出せば良くて、戸板を裏返すと同時に早替りができると言う寸法である。(今回の早変わりについては、これとは違っていたようで、まるさんのコメントをご参照ください。私も1階7列目で観ていて、リアルだと言う印象はありましたが。)
   この他に、この場では、お岩の幽霊が、燃えさかる提燈から飛び出して来て中空を泳ぐ「提灯抜け」や、仏壇の中に人を引き入れる「仏壇返し」などのシーンが登場してきて面白い。
   この仕掛けは、小さな模型だが、東京の江戸東京博物館にあって、毎日実演をしているので、見ることが出来て、そのカラクリが分かって面白い。

   これまでに、確か、2回、四谷怪談を観ており、最初は、吉右衛門の民谷伊右衛門、中村福助のお岩、そして、2回目は、染五郎の伊右衛門、菊之助のお岩であった。
   伊右衛門役は、高麗屋家の芸なのであろう。
   染五郎は、伊右衛門を演じているので、そのほかの役にも馴染みがあり、やり易かったのであろうか。

   この歌舞伎では、やはり、幸四郎の重厚な伊右衛門あっての舞台であると思うが、特筆すべきは、お岩と小平と余茂七を演じた染五郎の八面六臂 の活躍と華麗で確かな芸であろうと思う。
   小平や与茂七は、これまでの延長線上の芸であるから造作もなかろうが、お岩は、この舞台の看板であり象徴であり、同じ、女形でも異色の役柄である。
   前回は、女形の福助と菊之助なので、当然の役作りであろうが、主に、立役専門の染五郎にしてみれば、それなりの挑戦であったのであろうが、器用に4役を演じ分けていて、流石であると思った。

   正味、4時間の舞台であり、充実した歌舞伎であった。
   劇場正面の庭に、1本だけ、もみじの木が植わっていて、紅葉していた。
   
   
   
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M・サンデル&小林正弥著「サンデル教授の対話術」

2015年12月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   NHKのテレビは見たが、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう 」などや小林教授の本も、それなりに買ったが積読で、殆ど読んでいない。
   プラトンが著したソクラテスの弁明などは、挑発的で迫力があって面白いのだが、サンデルの場合には、本人も述べているように、延々と対話をさせておいて、最後に本人の考え方を述べる手法なので、まどろっこしいのである。

   さて、この本についてだが、この本の主題から離れるかも知れないが、そして、この本の対話だけで議論するのは危険だと思うのだが、私が興味を持ったのは、サンデルの資本主義なり市場経済なりに関する考え方についてなので、その点について考えてみたいと思う。

   先の世界金融危機は、この30年の市場勝利主義の終演を示唆しており、市場経済は、多くの意味で豊かさと繁栄の増大を齎したが、その対価として支払ったのは不平等の増大であり、今こそ、正義の問題に直接取り組まなければならない時代となった。と言う。
   結論から言えば、市場至上主義的な経済政策の進行、そして、その結果としての経済成長やグローバリゼーションの行き過ぎで、貧富の拡大や社会秩序の混乱など共通善の追及による善き社会への人々の営みが疎かになっている。今こそ、善き社会とは何か、正義や公正など共通善について、真剣に考えなければならないと言うのである。

   サンデル教授の見解を私なりに要約すると、

   市場経済とは、繁栄と豊かさを増大させると言う目的のために市場を手段、道具として利用するものである筈なのだが、この市場が、目的自体を定義するようになり、我々コミュニティや普段の生活の本質を定義するのは危険である。
   しかし、今や、市場は、公共善を達成する上での主要な手段ではないにも拘らず、行き過ぎて、教育、健康(医療)、公民権、安全保障、軍役等々と言った非市場的な価値によって適切に収められるべき生活の領域にまで入り込んで、本来の善を押し出してしまいつつある。
   我々の社会の中に市場経済があるのではなくて、我々そのものが市場経済となってしまう危険が増大してきている。

   また、経済学は、「何が良き社会を作るのか、何が正義に適った社会を作るのか」と言う問題には答えてくれない。これは、政治的・道徳的な問題だからであって、ある程度精神的な問題も含まれる。
   しかし、近年の経済成長至上主義的な経済論理が、公共的生活から真剣な政治的な討論や道徳的議論を押し出してしまいがちであった。
   多くの社会で、政治的な空白が生じ、政治の大部分が、管理的・技術的になり、政治が多くの道徳的問題や正義の問題に直接的に真剣に取り組まない傾向が出てきたからである。

   このようなグローバル資本主義の成長促進と格差拡大と言う両面を持った力は、コミュニティや伝統を侵食し、社会的混乱の一因ともなり、家族構造や相互扶助・健康医療におけるコミュニティの支援を破壊するなど、社会主義的な要素の強いヨーロッパでも起こっており、市場の価値と非市場の規範の間の対立が鮮明になりつつある。

   積極的な民主的市民を作り出すための共通善の重要性や、公民的美徳を涵養することの重要性については、全く異存がないとしても、どのようにして、それを追及するかについては、議論が分かれるところであろう。
   アメリカのように、個人主義的な伝統が強くて、強い政府に反対し、市場へのある種の信仰、市場的な個人主義に対する深い信仰のある社会では、正義や正しさについての問題を善の問題と分けて考えようとする傾向があり、サンデルは、これに反対しており、学会の内部から批判があると言う。

   さて、サンデルは、経済学は、共通善など、一切、非市場的な価値を追求しないと突っぱねているが、経済学は、本来、政治経済学であって、この見解は、必ずしも、正しくはない。
   確かに、ミルトン・フリードマンは、「企業はほぼ自己完結的な存在であり、社会問題や地域社会の問題はその守備範囲の外にあって、個人の利益追求の道具である会社の経営者が、独自の判断で慈善事業や文化活動を行うことは、個人の選択の自由の巾を狭めてしまう反社会的な行為であって許せない」と論じてCSRに反対し、利益追及至上主義であった。

   しかし、最近では、マイケル・ポーターは、企業の使命目的は「共通価値の創造 Creating Shared Value」であるべきだと提唱して、この議論に一石を投じている。
   ポーターの説く「共通価値」は、企業が事業を営む地域社会の経済条件や社会状況を改善しながら、自らの競争力を高めると言う方針とその実行であって、社会のニーズを満たしながらの社会の発展と、利益の追及と言う経済発展とを両立させることで、あくまで価値(コストを越えた便益)の原則を用いて、社会と経済双方の発展を実現することを目的としている。
   今日のグローバル経済には、健康、住宅整備、栄養改善、高齢化対策、金融の安定、環境負荷の軽減など多くの社会的ニーズが存在するが、これらの喫緊の深刻な社会問題に対して、慈善事業ではなく、あくまで事業として取り組むことが何よりも効果的であると言う認識に立って、資本主義に関する理解を新たにして、企業本来の目的が、単なる利益の追求ではなくて、共通価値の創出であると再定義すべきであるとポーターは説くのである。     

   さらに、このポーター説の背景にある現代資本主義の見直しや社会的ニーズを満たすべき新しいビジネスの追及については、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなどの唱える創造的資本主義やムハマド・ユヌスのソーシャル・ビジネスなどにも現れている。
   そして、C・K・プラハラードが、ネクスト・マーケット(THE FORTUNE AT THA BOTTOM OF THE PYRAMID 2005)で、世界最貧困層BOPでのイノベィティブな市場の胎動について記し、市場とは看做されずに、経済の埒外に置かれていた最貧困層の人々に、イノベーションを追及して価値ある製品やサービスを提供することによって、貧困撲滅を目指しながら社会的価値を創造しようと立ち上がった発展途上国の起業家や先進国のMNCの活動を紹介しながら、資本主義社会と企業経営の明日への新しいパラダイムシフト哲学を展開している。
   これを更に推進したのが、ヴィジャイ・ゴヴィンダラジャンで、中国やインドで開発された医療機器が先進国市場でベストセラーになったとしたリバース・イノベーション論を展開して、新興国市場での社会的ニーズの実現が、資本主義と企業活動の拡大発展に貢献している。

   日本においても 野中郁次郎教授が、「美徳の経営」で、 暴走する世界において、アリストテレスの「賢慮フロネシス」を持ち出して、最高の実践的智恵の追求を賢慮リーダーの資質としており、美徳の経営を目指して、市場や組織の背後にある、より深層の変化の要因を把握し、行為の目的を実践して行くための、判断力や実践力が迫られていると言って展開している理論なども、この一環だと言えると思っている。

   言ってみれば、経営学を包含した経済学の、政治経済学への回帰とも言うべき現象であって、本来、政治と経済は不可分であり、経済学も、共通善の追及に貢献すべきであり、これを無視しての経済学の存立などはあり得ないと言うことである。
   サンデルが、このような経済学なり経営学の新しい動向に対して、どのような議論を展開するのか、興味のあるところでもある。
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野村四郎著「狂言の家に生まれた能役者」

2015年12月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、タイトルのように、狂言の和泉流の野村万蔵家の4男として生まれて、15歳まで徹底的に狂言を教え込まれた後に、能の観世宗家に内弟子としてスタートした能役者野村四郎の非常に興味深い自伝であり芸術論である。
   兄が、父親同様に、両方とも、人間国宝として活躍している野村萬と野村万作と言う凄い能楽師たちの家柄であり、二人の舞台や著作などから、その素晴らしい狂言の世界を感じることが出来て興味深いのだが、今回、この本を読むことによって、また、違った能楽の立場からの能・狂言の世界が垣間見えて非常に面白いと思った。

   冒頭に、内弟子になって何が変ったかと言えば、殴っても教えようと言う環境から、教わることもままならないと言う環境への変化で、宗家から手取り足取り教えられるわけではなく、能のイロハも分からないのに、自ら学ぶ、独学と言うのが自分たちの世界では一番大事だと言う境遇に放おり出されたと言うのである。
   それに、15歳まで狂言をみっちり仕込まれたので、身体には狂言の血が入っていて、いくら自分でいいつもりで芸を盗んでやってみても、「狂言の足だ」「狂言の手だ」「狂言だ」と言われっぱなしで、「なんだよ、狂言はそんなに軽いものかよ」「馬鹿にすることはないじゃないか」と反骨精神が出てきた。
   「何クソ」と、「今に見てろ」と言って今日まできた、自分の人生は、「今に見てろ人生」であったと言う。
   落語の小三治が、師匠の小さんから、何も教えて貰わなかったと語っていたが、昔から、「芸や技術は、教えて貰うものではなく、盗め」と言われていたが、この世界なのであろう。

   先輩の関根祥六が、一生懸命、教えたり面倒を見てくれた話や、観世流の謡は何も謡えなかったので、芸大の邦楽科で観世流の謡を謡っていた兄の狂言師野村萬に教わったことなど興味深い逸話が尽きない。
   能の修行については、観世寿夫から指導と薫陶を受けたことを克明に描いており、そして、裏話などを交えながら、野村四郎の観世寿夫論やその芸術論などを語っていて興味深い。

   狂言から能に移られたので、前述の「狂言はそんなに軽いものかよ」と言う下りの狂言軽視についてどのような経験をされたのか分からないが、兄の万作が、「太郎冠者を生きる」の中で、芸術祭の催しで「土蜘蛛」の間狂言を一生懸命稽古して大いに期待して出かけたのにも拘わらず、シテの旅行の汽車の都合で、間狂言がカットされてしまったので、こんな人格を無視した無謀なことがあって良いのかと言いようのない屈辱感を味わったと書いている。
   能と狂言が同一舞台で演じられるのは、単に能一番の中に狂言の役があるから頼むので、狂言は、どうでも良いのだと言っても良いくらいの結びつきだったと言うのである。
   今も狂言軽視があるのか分からないのだが、一昨年2月の「式能」の舞台で、能「翁」と能「岩舟」の後、続いて、和泉流の狂言「三本柱」が、シテ万作で演じられたのだが、休憩なしで延々2時間半の連続公演であるとは言え、人間国宝野村万作が登場しても、席を立つ人が多くて、日頃のしわぶき一つさえ憚られる静寂そのものの能楽堂の雰囲気とは様変わりであった。

   能が、何故、600年以上も続いてきたのか。
   芸は生き物だからで、決まったものではなく、時代時代の価値観と芸とは一緒に呼吸してきたからである。
   観阿弥、世阿弥の時代から能が続いているのは、夫々の時代で新しい能本が書かれ、演出や演技の工夫が付け加えられ、新たな創造と言う形で爪を立ててきたからで、時代とともに変化して行く価値観と離れずに調和し、かつ、改革の精神を持ってきたからこそであったと言うのである。
   もう一つ興味深いのは、能は、50年周期くらいで変革期があって、何回も何回もこれを繰り返しており、「このままでは、能は五十年持たないぞ」と若い能役者に危機意識を持たせて叱咤激励していると言う。
   戦後の荒廃期に観世寿夫が救世主のように現れて、それ以来ほぼ五十年、自分は、伝統に爪を立てて現行演出の「砧」を否定して、新しい演出の「砧」を演じたが、このような改革革新が、能の活性化には必須だと言うのである。

   この本は、能の性根、能の構造、能の演出等々、かなり、専門的な記述があって、初歩の私には少し理解の域を超えているのだが、能はかなり観ているので、翁から始まって色々な曲についての興味深い解説は参考になった。
   面白かったのは、後半の能の越境や能の教育での藝大での邦楽総合アンサンブルの試みなどでの、能とそれ以外の芸術との遭遇による創造の世界であった。
   義太夫の凄さを実感して、住大夫の追っかけをした話など興味深いのだが、邦楽総合などもそうだが、夫々の純粋培養ではなくて、頂点に達した異分野の邦楽のみならず、舞台芸術や音楽、あるいは、科学の世界と遭遇すれば、どのように創造的な芸術が生まれ出るのか。と考えると、興味津々である。

   詳述は避けるが、私は、イノベーションについて勉強し続けてきたので、異文化異文明、そして、多彩な学問技術芸術などが遭遇するフィレンツェのような文明の十字路が、人類の創造性を育むために、如何に重要な役割を果たしてきたかを感じている。
   文化文明の進歩、国家の繁栄、企業の改革革新、全く同じように、豊かで高度な芸術の創造も、この遭遇と爆発以外にありえないと思っている。
   茂木健一郎によると、
   クリエイティビティにとっては、脳に記憶された経験と知識の豊かさが大切で、その記憶の豊かな組み合わせの多様性が創造性を生む。経験や知識は、必ずしも新しいものではないのだが、脳に知識として内包された経験と知識がお互いに触発し合って生み出す無限の組み合わせが、新しい発想や発明・発見を生み出すと言うことであり、無限に新しいものが創造される。のだと言う事で、
   新しくて価値ある創造は、絶対に無から生まれ出るものではなくて、経験と知識のベストマッチの組み合わせから生まれると言う事であり、著者がいみじくも積極的に展開してきた能からの越境や藝大での多彩な試みから生まれ出たものは、非常に大きいであろうと思う。

   脱線してしまって、一寸変わったブックレビューになってしまったが、私にとっては、非常に啓発された面白い本であったことを付記しておきたい。
   
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わが庭:椿が咲き始めると言う異変

2015年12月16日 | わが庭の歳時記
   大分前に、わが庭の椿のタマグリッターズやトムタムが咲き始めたと言う記事を書いたのだが、何時も、初春から咲く筈の越の吹雪が咲き始め、タマグリッターズによく似た玉之浦の洋替わり椿のタマカメリーナも咲いた。
   椿は、初秋から咲く種類もあって、晩春近くまで咲き続けるのだが、大半の椿は、字のごとく春の花木で、3月から4月にかけて、一番美しく咲き乱れる。
   これまで、タマグリッターズも腰の吹雪も、ずっと、春に咲いていたのだが、暖冬のためか、今年は、この初冬に咲き始めたのである。
   同じく、何時も春に咲いているフルグラントピンクもほころび始めて、ピンク加茂本阿弥ややエレナまでもが、蕾が色づき、もうすぐに、咲く気配である。
   どう考えても、今年の椿の咲き具合は異常である。
   暖冬だと言う事だけなら良いのだが、地球温暖化の影響が、気候変動を引き起こして、生物の自然体系を変えてしまうようになれば大変である。
   
   
   
   
   
   
   
   パリでのCOP21が終わって、やっと、世界全体が地球温暖化を食い止めようとコンセンサスを得たようだが、これまで、何度も、このブログで書き続けてきたのだが、決定とアクションが遅すぎるのである。
   かりに、大天変地異が起こらないとしても、平均気温が4度上昇しただけで、人類の滅亡とは行かなくても、太平洋の諸島国は殆ど消えてしまうし、例えば、上海の人口の76%を筆頭にして、世界中の臨海部の東京やニューヨークなどの人口密集大都市の多くが、壊滅的な打撃を受ける。
   その前に、中国では、例えば、大気汚染の指標となる微小粒子状物質PM2.5やPM10の濃度が生命の危険水域にまで達して警告が発信され続け、生活水域の殆どが危険な状態まで汚染されており、中国の国民生活を窮地に追い込んで行く。
   後先を考えずに成長成長で驀進して、世界経済をリードしたと浮かれていた内に、自縄自縛、杞憂さえ本当になってきた。

   さて、わが庭だが、まだ、冬の剪定には早いので、自然に任せているバラが、少しだが咲いている。
   霜が降りれば枯れてしまうのだが、まだ、雰囲気は保っている。
   秋桜のエレガンスみゆきも、代わる代わる枝の先端から、一輪一輪と咲き続けている。
   興味深いのは、鉢花であったシャコバサボテンを、花後、暑い夏もそのまま庭に放置していたにも拘らず、奇麗に咲いてくれていることである。
   
   
   
   
   
   
   
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十二月大歌舞伎・・・「妹背山婦女庭訓」

2015年12月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の夜の部は、通し狂言「妹背山婦女庭訓」。
   これと同じバージョンに最後の入鹿誅伐を加えた四段目の舞台を、国立劇場の決定版ともいうべき文楽で見ているので、その比較から言っても非常に興味深い舞台であった。
   この歌舞伎は、玉三郎の座頭公演とも言うべき企画演出で、若手の花形役者を揃えて紡ぎあげた新鮮なイメージの綺麗な舞台であった。

   この四段目は、三輪の酒屋の娘お三輪の悲恋の物語で、文楽では、勘十郎が師匠の簑助譲りの素晴らしい人形を遣ったが、歌舞伎では、前半の「杉酒屋」と「道行恋苧環」のお三輪を七之助が、後半の「三笠山御殿」のお三輪を玉三郎が演じた。
   二年前の文楽では、道行から御殿まで、紋壽が、温もりのある端正なお三輪を遣って、ベテランの冴えを見せて好演していた。

   人形である筈のお三輪が、隣の淡海に思い焦がれて恋一途にのめり込み、悩み悶えて嫉妬に狂う。乙女が優しく、そして、激しく息づきながら舞台を泳ぎながら、観客の感動を誘う。
   こんなに慕われて愛されて一途に思い詰められても、肝心の求馬(淡海)は、お三輪を、現地妻とは言わないまでも、当座の体良い愛人扱いで、訪ねてくる人品卑しからぬ上品な乙女・入鹿の妹・橘姫の方にご執心。
   最初から分かっている結末にも拘らず、お三輪は、七夕には、白い糸を男、赤い糸を女に見立てて、男の心が変らないようにと願いを込めて、苧環を祭る風習があるので、神棚に苧環を祭り、「心変わりはない」と言う求馬の誓いに安心して、赤い苧環を求馬に渡す。
   あろうことか、この苧環の赤い糸の端を、次の「道行恋苧環」の舞台で、求馬は、夜明けの鐘に驚いて去って行く橘姫の袖に付け、後を追って行き、一悶着はあるものの、御殿で祝言と言う事になる。
   可哀そうなのはお三輪で、橘姫を追って去って行く求馬の裾に白い糸を付けて後を追いかけて行くが、途中で糸が切れてしまい、難渋して入鹿御殿に着くものの、意地悪な官女たちに散々虐め甚振り続けられて、最後には、運命の悪戯で殺されてしまう。

   折角の通し狂言であるから、お三輪は、一人の女形が、全舞台を通して演じるべきだと思うのだが、歌舞伎では、今回は、前述したように、七之助と玉三郎が演じ分けていた。
   七之助の初々しくて健気で品のあるお三輪が、素晴らしくて感動的であっても、大ベテランで人間国宝の玉三郎の演技と、七之助との演技の差は、歴然としていて、後半の御殿の場は、やはり、格別である。

   今回、前半の「杉酒屋」と「道行恋苧環」の舞台は、七之助のお三輪、松也の求馬、児太郎の橘姫と言う今人気の高い若い花形俳優の非常に意欲的な、新鮮で華麗な魅力的た舞台が展開されて、見せて魅せる舞台になっている。
   玉三郎が、後世に残そうと思って作り上げた現在の「妹背山婦女庭訓」のお三輪物語のスタンダード・バージョンと言う事であろう。
   一方、先の文楽では、お三輪が勘十郎、求馬(実は藤原淡海)が玉男、橘姫が和生、と言った重鎮3人の揃い踏みで、すごい舞台を見せてくれていたが、これはこれで、文楽の世界であろう。
   
   しかし、今回、前半の舞台で、七之助の代わりに玉三郎が、お三輪を演じておればどうだったであろうか。
   そう考えれば、御殿の場で、お三輪の玉三郎が、ベテランの歌六の入鹿や灰汁が強くて厳つい女官たち、そして、パンチの利いた鱶七の松緑、初めての女形だと言うコミカル芸が抜群に上手い中車の豆腐買おむらを相手にして超ド級の芸を見せても、バランスが取れたと言う事であろう。

   玉三郎のお三輪を注視しながら、双眼鏡で、顔の表情を追い続けていた。
   女官たちに担ぎ上げられて、花道のすっぽんに投げ出されて、放心状態になって中空を仰いだ美しい顔が、一気に、屈辱と怨念に歪み始めて、阿修羅のような険しい表情になって御殿を睨みつける。
   紅葉狩の鬼女の隈取よりも、能の般若の面よりも、もっともっとリアルで凄まじく、御殿に向かって突き進む。
   鱶七に突き立てられて瀕死の状態で生き血を取られて、「喜べ、北の方」と言われて喜びの表情をちらりと覗かせながらも苦痛を耐えて、「一目お顔を見たい」と断末魔の恋情、苧環を小脇に抱えながら息絶えて行く健気さ崇高さ、・・・玉三郎の独壇場であろう。
   
   年末も押し詰まって、もうすぐ、正月。
   奇麗な歌舞伎を楽しませてもらった。
   
   
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能の鑑賞が趣味になったのだろうか

2015年12月13日 | 生活随想・趣味
   昨日、国立能楽堂で、普及公演、狂言「鶏聟」と能「殺生石」が上演されたので出かけた。
   この能楽堂では、主催公演として、毎月、普及公演、定例公演、特別公演と言うプログラムで、4~5回、能・狂言が上演されていて、この4年くらい、大体出かけて鑑賞しており、短期間ではあるが、かなりの鑑賞歴だが、残念ながら、いまだに、歌舞伎や文楽と比べると、よく分かっているとは思えない。
   学生時代に、能や狂言のサークルに入っていたり、社会人になってから、この方面の教室に通って修練を積んだり学んだ友人知人たちは、それなりに、楽しんでいるようだが、殆ど、分かる筈がないと敬遠していたのだが、とにかく、鑑賞してみようと思って、能楽堂に飛び込んだ無趣味人には、やはり、ハードルが高いようである。

   尤も、クラシック音楽に対しても、殆ど関心がなかったのだが、学生時代に、時空を超えて、簡単に言えば、時代や国に関係なく、世界中の人が、良いと言って楽しんでいるのに、ベートーヴェンやモーツアルトが分からないようでは話にならないと思って、ステレオ装置とクラシック名曲シリーズのレコードを買って、ベートーヴェンの「運命」や「田園」から聞き始めた。
   次は、三大ヴァイオリン協奏曲、カラヤンやアンセルメ・スイスロマンドのバレエ音楽へ、と言った調子で広がっていって、コンサートにも出かけるようになり、ついには、来日したバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」や万博で来日したカラヤン・ベルリンフィルやバーンスティン・ニューヨークフィル、ベルリン・ドイツ・オペラやボリショイ・オペラなどにも出かけて行き、ウィーン・フィル、シカゴ、ボストン、レニングラードなどと言えば、無理をしてでも出かけて行った。
   その後、アメリカとヨーロッパで14年を過ごすことになったのであるから、オペラもシンフォニーもシーズンメンバー・チケットを取得するなど、暇に飽かせて通い詰めた。
   しかし、結局は、分かったかと聞かれれば、何も分かっていないとしか答えようがないのだが、とにかく、音楽を聴く喜び楽しさを味わえるようになったと言う事実だけは残っており、それだけ、人生が豊かになったのかなあと思っている。

   さて、能・狂言の方だが、これは、全く興味がなかったわけではなく、日本の古典芸術なので親しもうと思って、以前に、一度、宝生能楽堂に出かけたことがあるのだが、全く、何のことかは分からなく、囃子だけは派手ながら、殆ど動きがないので、それ以降は、能に食指が動かなくなって遠ざかっていた。

   それでは、何故、能・狂言に行き始めたのか。
   最初は、萬斎の狂言「釣針」を見て、これは、歌舞伎舞踊曲の「釣女」と同じで、非常に面白かったし、しかも、歌舞伎や文楽のオリジンだと言う事が分かって、歌舞伎の「勧進帳」が能の「安宅」から、歌舞伎の「身替座禅」が狂言の「花子」であることを、フッと思い出したのである。
   それまでにも、同じストーリーでも、歌舞伎と文楽の違いの面白さを感じていたし、歌舞伎・文楽ともに、オリジナルの能・狂言から、松羽目物として多くが取り入れられているので、どのように取り入れられて、どのように変化して行ったのかを、勉強してみようと思った。
   パソコンを叩いて、まず、狂言の舞台を探したら、国立能楽堂で「狂言の夕べ」をやっていて、電話を掛けたら、1枚だけ脇正面の最後部席が残っていた。
   国立能楽堂に行ってみて、毎月定期的に、能・狂言の主催公演を行っていることを知って、とにかく、これに乗ろうと決めて、分かる分からない、楽しい楽しくないを度外視して、通い続けて、今に至っている。
   止めようとは思わずに、毎月8日になると、いそいそと、パソコンを叩いて、チケットを取っているし、
   それに、毎年2月の「式能」、納涼能、能楽祭、靖国神社の「夜桜能」、ユネスコ能、横浜能楽堂等々にも出かけているのだから、趣味として定着したのであろう。


   ところで、この能楽堂での主催公演は、日本芸術文化振興会の国立能楽堂の専門スタッフが、研究と趣向を凝らして企画実行しているので、意欲的なテーマを選択してプログラムを組むのみならず、新旧問わず全流派の舞台は勿論のこと、能・狂言にとどまらず、講談・落語・声明等々関連芸能や文化演目などを取り入れるなど、バリエーションとその奥の深さは格別で、毎回、楽しみながら勉強させもらっている感じである。

   先月、「平家と能」と言うテーマの企画公演が、2夜(2日目は昼)にわたって上演された。
   第1夜は、狂言「柑子」、平家琵琶「卒塔婆流」、能「俊寛」
   第2夜は、狂言「清水座頭」、平家琵琶「竹生島詣」、能「経正」

   第1夜のテーマは、鹿ケ谷での平家追討の秘密の談合が発覚して、激怒した清盛に、喜界が島に島流しされた俊寛、康頼、成経の話で、能はそのものずばりの俊寛で、平家琵琶は、信仰厚い康頼が熊野権現に願掛けて流した千本の卒塔婆の1本が厳島神社に流れ着いて、赦免の切っ掛けとなったそのくだり。狂言は、主から預かった貰いものの柑子を太郎冠者が3つとも食べてしまって、その言い訳に、最後の一つを、俊寛にかまけて可哀そうになって、六波羅(自分の腹)に入れたと言う話であり、こじつけだが、面白い。
   能は、シテ俊寛僧都は野村四郎、ワキ赦免使は宝生閑、アイ船頭は茂山七五三で、歌舞伎のように芝居性は希薄だが格調の高い舞台であった。
   宝生閑の「幻視の座―能楽師・宝生閑聞き書き」を読み、今、野村四郎の「狂言の家に生まれた能役者」を読んでいるところなので、舞台に大いに興味があって、楽しませて貰った。

   第2夜のテーマは、清経が琵琶の名手で、能では、その平家物語の「竹生島詣の事」が題材になって竹生島が舞台であり、平家琵琶でも、その「竹生島詣」である。ところが、狂言の方は、座頭と瞽女が、清水寺で連れ合いを見つけると言う話で、関係はないのだが、二人の出会いの余興で、座頭が、平家物語の一ノ谷の源平合戦の面白い話を語った平家節が、取り上げられたのであろう。
   知らなかったのだが、斬られた顎と踵を取り違えてくっつけたと言う滑稽譚で、狂言の世界でも、相当、物語や歌など古典文学にも精通していないと楽しめないと言う事で、興味深い。

   さて、2夜にわたって語られた平家琵琶は、◆平家琵琶検校◆生田流箏曲・三弦・胡弓教授◆財団法人国風音楽会会長等の肩書を持つ平家琵琶の名手である今井勉師によって、琵琶を爪弾きながらの感動的な弾き語りであった。
   聞くところによると、今井勉師が、平家琵琶の唯一の奏者だと言う事であるから、非常に貴重な経験をさせてもらったことになる。

   大分前に、筑前琵琶の上原まりの「平家物語」を聴いて感動したことがある。
   上原まりは、宝塚で、「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネットや「新源氏物語」の藤壺を演じたと言う美女であり才媛であるから、楽しくない筈がないのだが、このような形で、平家物語を鑑賞できると言う事は、非常に、素晴らしいことだと思っている。

   幸いにも京都であったので、学生時代に、京都や奈良や兵庫を皮切りにして、岩波の日本古典文学大系の「平家物語」を読みながら、平家の故地を訪ね歩き、その後、壇ノ浦、厳島、平泉等々、平家物語散策を続けているので、私にとっては、平家物語は、青春の証でもある。
   その平家を、今、能や狂言、平家琵琶など、あらためて、違った視点から反芻しており、幸せだと言うべきであろう。
   
   さて、昨日、能の終演後、千駄ヶ谷駅への道中、並木のイチョウが、前日の防風雨にも負けずに、奇麗に色づいていたので、数ショット、シャッターを切ったので添付しておきたい。
   
   
   
   
   
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秋の鎌倉便り・・・光則寺・御霊神社

2015年12月11日 | 鎌倉・湘南日記
   長谷寺への参道のほんの20メートルほど北側の路地を上って行けば、光則寺に通じるのだが、訪れる人は少ない。
   派手ではないのだが、境内一面に色々な花木や草花が植えられていて、季節の移り変わりによって、様相や雰囲気を変えて行く花の寺なのである。
   山門そばに幼稚園があって、生活の息吹が感じられて面白い。
   山門を入ったところ右手に、真っ赤に色づいたオオモミジが、燃えるように輝いていて華やかで良い。
   
   
   
   
   

   入山して、最初に感じたこの寺の紅葉だが、少し、来るのが遅れたのではないかと言う感じで、日当たりのよいところなどは、もみじの先端や上部は、かなり、縮んだようななっていた。
   しかし、その意味では、境内のもみじの殆どは、黄色っぽいもみじが多かったが、まずまず紅葉していて、十分に色づいていて、奇麗であった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   この寺の境内の良さは、京都の古寺の日本庭園のように、哲学があって本格的に造形されたような庭園ではなくて、イングリッシュ・ガーデンのような自然を重視したような大らかさと言うか、飾らない自然の美しさが漂っていて、心地良いことである。
   どこと言う事がなくても、シャッターを切れば、そのまま、絵になるところであろうか。
   
   
   
   
   

   境内には、今、ところどころに、サザンカが咲いていて、彩を添えていた。
   それに、万両が、奇麗な実をつけていて、小鳥が啄まないのかと思うほど、どの木もたわわに実がなっていた。
   古寺には、ミカンまで、庭木になるのであろうか。
   
   
   
   
   

   そのあと、長谷寺を右に見て、御霊神社に向かった。
   前に来た時に、見過ごして、安楽寺に行ってしまったので、今回、立ち寄ったのである。
   ひっそりと静まり返っていて、殆ど、訪れる人はいなかったが、境内の大銀杏が奇麗に紅葉していて、美しかった。
   丁度、大通りから参道への道を、江ノ電の線路が横切っていて、電車が走っていて、興味深かった。
   切通しに並行して走っているので、トンネルがあって、江ノ電が出てきたので、シャッターを切った。
   
   
   
   
   

   前のように、成就院と極楽寺に足を延ばしたが、両寺ともに、秋色全くなしの、珍しい雰囲気であった。
      
   ところで、昨夜からの大暴風雨で、わが庭のもみじの葉の70%くらいは散ってしまった。
   鎌倉の紅葉の名所のもみじも、相当散ってしまったのではないかと思うのだが、元気で綺麗な葉だけが残っているのなら、それも良いかも知れない。
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