熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

吉例顔見世大歌舞伎・・・藤十郎の「廓文章 吉田屋」

2008年11月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の顔見世興行は、藤十郎や仁左衛門が主役を演じていた舞台が、「廓文章 吉田屋」と「寺子屋」二本あったので、幾分、江戸歌舞伎と上方歌舞伎の合体と言う感じがした。
   役者が違うと、当然、お家芸としての芸の伝承があるので、がらりと演出に差が出てくるのだが、今回、廓文章で、同じ上方でも、鴈治郎家と、先に観た仁左衛門家とでも、大きな差があることを知って興味深かった。

   仁左衛門の方は、幾分芝居的な要素が強いのだが、鴈治郎型の方は、本来の文楽に近い演出の所為か、藤十郎の伊左衛門も魁春の夕霧も台詞は少なく、舞うような仕草で演じており、視覚芸術的な美に比重を置いている。
   夫々の伊左衛門で二回づつ観劇しているのだが、その度毎に、新鮮な楽しさを感じさせてくれる。

   前回の仁左衛門は、どちらかと言えば、一寸知能的に弱いなよなよとした大店のぼんぼんと言った感じだったが、今回の藤十郎の場合には、育ちの良い遊び人のどら息子と言う雰囲気で、夕霧が病気だと聞いて心配で心配で、京都から、カネもないのにノコノコと紙衣を着て歩いて来たと匂わせるあたりから、堂に入っていて、典型的な大阪の道楽・放蕩息子を演じていた。

   先々代の仁左衛門が、80歳を越してから、NHKに拝み倒されて、古典芸能鑑賞会に出た時の心境を、随想に残している。
   大坂の豪商の若旦那でまだぼんぼんの気の抜けない伊左衛門を演じるには、肉体的にも体力的にも自ずと限界があり、若い頃のような軽やかな動きはとても望めないが、お客様の期待に応えた満足な舞台を勤めなくてはならない・・・心配が高じて、伊左衛門の甲高い声が出なくなった。等と、あの大歌舞伎役者が、初舞台の時のように、その苦衷と狼狽振りを吐露している。
   幕が開き床の宮園節の三味線を聞いているうちに、もうなにもかも忘れて伊左衛門になりきることが出来て、無事に幕がおりるとき、初めて拍手が耳に入ったと言うのである。
   私は、この仁左衛門は、映画でしか知らないので、息子のの仁左衛門の伊左衛門の舞台を重ね合わせて想像するしかないのが残念である。

   その点、ほぼ、四捨五入すれば80歳に手が届く筈の藤十郎の方は、まだまだ、若さ凛々で、さすが、70を超えても舞妓と浮名を流して、ガウン治郎とフォーカスされるほどの筋金入りの人間国宝であるから、芸にも磨きが掛かっていて、瑞々しさは後退していても、執念のようなラブハンター心が垣間見えて面白い舞台であった。

   夕霧を演じた魁春が、実に美味い。
   錦絵の様に、これほど美しく絵になる魁春を観たことがない。   

   善意そのものの夫婦を演じた吉田屋の主人喜左衛門の我當と女房おきさの秀太郎の至芸については、コメントの必要もないと思うし、若い者松吉の亀鶴もそうだが、やはり、上方歌舞伎で培われてきた芸の伝統と重さを感じざるを得ない。
   そして、この舞台ほど、竹本連中と常磐津連中の語り・音曲の素晴らしさを感じさせてくれる舞台も少ないと思っている。
   
   今月の舞台は、「盟三五大切」の薩摩源五兵衛と「寺子屋」の松王丸を演じた仁左衛門の活躍が出色であった。
   一度に二役を演じず、一役に集中するのだと言っていた仁左衛門が、最近では、人気に押されてか、出が多くなった。
   どんな舞台でも器用に、水準をはるかに越えた演技を披露しているのだが、今、役者として一番充実した時期なので、器用貧乏に気をつけて、仁左衛門しか演じられない決定版と言うべき至芸を残して欲しいと思っている。
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美術館の未来~社会と対話する美術館

2008年11月29日 | 学問・文化・芸術
   日仏交流150周年記念として、日経主催、フランス大使館、日仏美術学会後援で、日仏の美術館関係者が参加して、「美術館の未来」シンポジウムが丸ビルホールで開かれた。
   日仏の現代美術館の活動報告を皮切りに、美術館の教育普及活動の方法とメディエーション(仲介機能?)について事例が紹介され、最後に、このような取り組みに対して、行政機関やディベロッパーがどう対応するのか等々、美術館の未来のあり方をテーマにして非常に意欲的で建設的な、シンポジウムが展開された。

   所謂、ルーブルや上野の西洋近代美術館などのような在来型の美術館ではなく、最近創設された現代美術に焦点を当てた美術館についてのシンポジウムであった所為もあるが、
   第一印象は、美術館の機能なりコンセプトが随分変わったなあと言うのが正直な感想であった。
   元々、パリのポンピドー・センターなどは、国立近代美術館があるけれども、それ以外に劇場や映画館、産業創造センター、音響音楽研究所などが併設された総合芸術センターであるから、絵画や演劇、音楽などパーフォーマンス・アートとのコラボレーションがあっても不思議はないのだが、
   今回、紹介された金沢21世紀美術館(不動美里学芸課長説明)でも、現代絵画の収集・展示だけではなく、美術館の内外を問わず劇場や美術作品の媒体として積極的に活用して、絵画や造形と演劇・音楽などのパーフォーマンスを合体させながら芸術作品を生み出すと言った試みを行っており、更に、市街に出て芸術活動するなど非常にアクティブである。

   興味深いのは、パリの郊外に新設されたヴァルヌ・ド・マルヌ現代美術館(ステファニー・エローさん説明)だが、共産党の肝いりで、文化の多様性の確保と人民への開放と言う政治的意図が働いて出来たと言うことだが、ここなども、ある意味ではもっと積極的に社会との対話のみならず浸透を図っており、学校予算の1%は芸術に投資すべきだとする法にしたがって、中学校の校庭に、18メートルもある巨大な鹿の彫刻を据え付けたりと言った館外活動も行っている。

   今回のシンポジウムでは、若者を巻き込むプロジェクトと言う触れ込みもあり、特に、子供たちへの芸術教育と言う観点から、各美術館の子供たちへの教育普及活動について、詳しく、説明されていた。
   フランス大使館のエレーヌ・ケレマシュター文化担当官が、前職のカルティエ現代美術館の経験を語っていたが、狭い展示会場に設置された作業台の上で、集まった子供たちに、画家と同じ手法で絵を描かせたり造形を作らせたりしていたが、これらが、他の鑑賞者たちと同化していて決して違和感なく進行しているのが面白い。
   取っ付き難い高名な芸術家ジャン・ピエール・レノー氏を招いて、作品の前で、4歳以上の子供たちと説明と質疑応答等対話を行ったのだが、こんなことから縁の遠かったレノー氏が、子供たちから新しいビジョンを教えられたと言っていたことを披露していた。

   現代美術については、固定観念の強い大人には、全くスムーズには受け入れられなくて、教育が必要だが、子供たちにはストレートに入っていくのであろうか。
   私など、板に沢山釘を打ったボードや、絵の具をぶっちゃけて筆で殴り書きした様な絵画や、風車のお化けのような造形や、色電気が点いたり消えたりした暗い小部屋から良く分からない音が聞こえて来たり、・・・とにかく、何処がどのように良いのか分からず理解に苦しむことが多くて、正直なところ、何時も、美術館では、現代美術のコーナーは、小走りに見過ごすことが多くて、修行が足りないと反省している。

   正直なところ、美術館としては、東京都現代美術館、ポンピドー・センター、グッゲンハイム美術館程度しか見ていないのだが、これを機会に、鎌倉の神奈川県立近代美術館から歩いてみようと思っている。

   ところで、日本とフランスの美術館で差があったことで興味深かったのは、
   日本の場合、子供たちを巻き込むのに、美術館が、学校や教師に積極的に働きかけて、教育の一環として組み込もうとしているのに対して、フランスでは、学校教育とは一切関係なく、子供たちへの美術教育の普及だと考えて独自に子供たちにアプローチしていること、
   そして、日本では、美術館のアシストに、民間や学生などのボランティアを活用しているが、フランスでは、プロないしプロに近い人を給料を払って雇って働かせていると言うことであった。
   フランスでは、文化活動の一環であっても、雇用の創出とか、芸術家に対する機会の提供や、関連産業への経済的波及を考えているようで、お国の事情と言うか、考え方の差が現れていて面白い。
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過去をめぐる安全と安心~アフリカの歴史から・・・東京外大永原陽子教授

2008年11月27日 | 学問・文化・芸術
   安全と安心のできる社会と言うテーマで、東京のトップ大学の「四大学連合文化講演会」が、一橋記念講堂で開かれ、昨年同様聴講した。
   学術研究の最前線をやさしく開設すると言うのが狙いだが、聴講生の殆どは、四大学(東京外大、東京工大、一橋大、東京医科歯科大)のOBと思しき老紳士で占められ、水準の高い非常に感銘深い講演会であった。
   そのうちの一つの講座であるが、東京外大の永原陽子教授が、アフリカの歴史から、如何に、これまで黒人たちの人権が無視されて来たか、そして、現在、少しづつグローバリゼーションの激しい潮流の中で人格を認めれつつある現状を、
   一人の南アフリカの先住民コイコイ人(ホッテントット)女性サラ・バールトマンの悲しくも残酷な人生を紐解きながら語った。

   サラは、1789年生まれで、白人の農場で働いていたが、1810年に、ロンドンへ連れて来られて、「ホッテントットのヴィーナス」として見世物に出され、ピカデリー広場でのショーにイギリス人がわんさと押しかけマスメディアに好奇の記事が書かれたと言う。 
   更に、1814年にパリに移され、ここでも見世物に出され、1815年に同地でなくなった。
   残酷にも、死亡と同時に、解剖学者G・クヴィエが解剖し、パリ人類博物館に、サラの骸骨、脳・性器のホルマリン漬け、蝋人形が作られて、1974年まで展示されたと言うのである。
   
   イギリスの意思で、1964年から獄舎に長い間収監されていたネルソン・マンデラが釈放され、1994年に南アフリカの民主化が実現し、サラの身体の変換を求める声が沸きあがり、フランス政府もこれに抗し切れず、返還なって、2002年8月9日に、伝統に則り故郷の地・南アフリカ東ケープのハンキーに埋葬された。
   長い間、南アフリカは、アパルトヘイトで人種差別が激しかったにしても、それとは関係なく、サラは、英仏人からは、サルか人間かの境の動物同様に扱われていたと言うことが問題で、彼らの人道主義とか人権尊重とか大きなことを言っても、その程度の低俗さであったのである。

   私が、子供の頃、もう50年以上も前のことだが、世界地理の本に、この口絵写真の絵のように、ホッテントットの女性は、お尻が飛び出しているのだと書いてあったし、半信半疑だったが、学校でもそう習った記憶がある。
   マンデラについては、ロンドンで何度もイギリス政府に対するマンデラ開放の激しいデモを見ていたが、ガンジーに対するイギリス政府の態度は完全にイギリスの方が間違っていたと確信していたので、マンデラの場合も同じことだと思ってイギリス人と激しく渡り合ったことがある。

   一方、アメリカに居たのは、1972年から2年間だったが、キング牧師の大変な努力で、1964年に公民権法が制定されていたにも拘わらず、公民権運動に不快感を示し、人種隔離政策を執拗に唱えていたジョージ・ウォーレス・アラバマ州知事が、大統領選挙に出るなど、まだまだ、黒人やマイノリティ国民に対する白人アメリカ人の差別意識は高かったのを覚えている。
   また、この時、アメリカ軍が北爆を停止しヴェトナムから撤退を始めたが、まだ、激しい戦争は続いていたし、アメリカ人のヴェトナム人に対する人権尊重意識などさらさらなく、アジア人蔑視感覚は濃厚であったし、これに懲りず、同じことをイラクで繰り返している。

   余談だが、メキシコ・シティで、闘牛を見ていた時、隣にいた若いアメリカ人のカップルが、マタドールがトロに止めを刺すのを見て、見ていられないと目を覆ったので、君たちは同じことをヴェトナムでしているではないかと言ったら、「あれは悪夢だ。言わないでくれ。」と顔を伏せたのを思い出した。
   アメリカには、今でも、クー・クルックス・クランと言う極端な白人至上主義の集団があるし、ドイツでも、ネオナチ集団が活動していると言うことだが、世界歴史は、20世紀の後半から新世紀の幕開けに向かって、大きく、民主化平等化への道を進み始めている。

   オバマ大統領の登場が、新しい時代の到来を告げる歴史の大転換だと言われているが、必然の結果であり、驚くべきことではないと思うが、しかし、随分時間がかかってしまったとつくづく思う。
   私自身もアジア人であり、日本人なので、欧米では自分のアイデンティティについて随分思い知らされたし強烈に意識したことがある。
   しかし、幸いと言うべきか、日本が上り調子で、国力が隆盛を極めていた1990年代前半までの海外での生活および仕事だったし、アメリカが私自身に高等教育を与えてくれていたので、欧米人とは、機会があれば、徹底的に、文明論や世界観など持論を展開して来た。
   相手が分かったか分からなかったか、そのことも大切だが、自分たちの拠って立つアイデンティティに誇りを持って、自分たちの歴史、文化、伝統などの尊さを語ることの大切さをかみ締めていたのである。

   日本人である我々は、このように世界に誇るべ偉大な遺産を継承しており、国力も充実していて幸いだが、人類発祥の地であるブラック・アフリカは、まだまだ、大変な苦難の中にある。
   永原陽子教授は、アフリカ先住民の歴史を研究しながら、自らの歴史を記録のなかった/できなかった人々の歴史の回復のために努力を続けていると話を締めくくった。
   久しぶりに、感動的な講演を聴いた。
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佐倉城址の秋・・・くらしの植物苑の伝統の古典菊

2008年11月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋たけなわ、佐倉城址の紅葉は、もみじそのものが少ないのであまり派手ではないが、本丸近くの深く掘れ込んだ土塁あたりの紅葉は、今が一番美しい。
   多目的グラウンドの道路沿いの銀杏並木は、残った数本の木が最後の黄金色に輝いているが、もうすぐ冬支度で箒のようになる。

   ところが、公園内の「くらしの植物苑」は、今、特別展「伝統の古典菊」展示の最中で、色々な菊が咲き乱れており、来月から始まるさざんか展示の準備も兼ねて、苑内には、花の鉢植えのオンパレードで非常に華やかである。

   菊と言えば、私たちは、厚物と呼ばれる多弁でまり状に厚く咲く豪華な菊を真っ先にイメージするが、この植物苑は、古典菊展と言うことなので、嵯峨菊、伊勢菊、肥後菊、江戸菊に焦点を当てている。
   勿論、豪華な厚物や奥州、それに、ぽんぽんダリヤのような花に細くて薄い棒状の花弁が放射状についている綺麗な丁子と言った種類の鉢植えも沢山展示されている。

   この口絵の菊は、江戸時代に開発された江戸菊で、面白いのは、蕾から咲き始めて萎むまで、花が開くにつれて長い花弁がよれて巻き上がり、元に戻って真っ直ぐになり、また巻き上がると言う花芸を演じることで、1ヶ月も楽しめると言うのである。
   それに、花弁の表と裏の色が違うので変化を楽しめる、謂わば、菊のリーバーシブルである。
   この芸が完成したのは、文化・文政の頃だと言うから、江戸の園芸は正に大変な文化であったのである。
   この花芸を、「狂い」と言うようだが、日本の伝統芝居を、「かぶく」「歌舞伎」と言うような粋な表現である。

   花弁が、中心から細く刷毛のように直立して咲くのが嵯峨菊で、一番古く、嵯峨野の大覚寺で明治まで門外不出で育てられたようで、天皇が愛でた尊い花の様である。
   七五三作りと言う2メートル近くまで延ばして咲かせる独特な仕立て方で鑑賞するとのことで、この植物苑でも、庭の菊を高い廊下から見下ろすと言う大覚寺の作法に倣って、台の上に上って見下ろせるように気を使っている。

   ところで、伊勢菊の方は、この嵯峨菊の花弁が、柔らかく垂れた感じの垂れ咲きで、もじゃもじゃ頭のヒッピーのような感じだが、元々は嵯峨菊が基本となり作出されたようで、伊勢の国司や伊勢神宮の斎宮などが、都恋しさに関わったと言う。

   肥後菊は、江戸中期に、肥後の藩主が園芸奨励のために始めたと言うことだが、この藩は、肥後椿や肥後朝顔など独特な園芸植物を作出した非常に演芸に力を入れた文化度、民度の高い藩である。
   野菊のような黄色くて大きな丸い蘂から、細い花弁が放射状に線香花火のように出ているのだが、その花弁の数が少なくて空け空けなのが特徴で、花弁の形で、平弁と、先がしゃもじのようになっている管弁の二種がある。
   蘂がはっきりしているのは、この肥後菊だけなので、肥後菊の花だけに、ミツバチが群れている。
   いずれにしても、中国渡来の帰化植物である菊花が、日本固有の国花のような顔をして咲き誇っているのが面白い。

   新宿御苑の菊は、今盛りであろうか。
   忙しそうに花の手入れをしていた庭師の婦人が、新宿のことを話したら、あちらは菊専門の方がいて世話をされているようですが、こちらは、二人の庭師だけで全ての世話をしていますから・・・と笑っていた。
   しかし、それにしては、立派なものである。
   仕事の手を休めて、菊の鑑賞の仕方や季節の花について語ってくれた。

   この植物苑は、非常に規模の小さな植物園だが、このように季節が来ると、その季節の花を展示して特別展を催すのだけれど、
   本来くらしの植物苑だから、苑内には、食べる、織る・漉く、染める、治す、道具を作る、塗る・燃やすなどと言った生活文化を支えて来た多くの植物が、所狭しと栽培され植えられているのだから、刻々変化する植物の姿かたちの多様性を鑑賞するだけでも実に面白い。
   いつでも、何か花が咲き実が成っていて、小鳥たちが囀っている。
   
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芸術の秋はやはり「日展」・・・彫刻と工芸美術の部

2008年11月25日 | 展覧会・展示会
   乃木坂の新国立美術館で、日展が開かれているので、ミッドタウンでの午後のフォーラムを端折って見に行った。
   毎年殆ど変化はないのだが、その時代を反映した新しい作品が出てくるので、それを感じる楽しみもあり、それに、やはり、日本の現在の絵画や彫刻、工芸、書などの集大成でもあるので、ゴーイング・コンサーンと言うかアクティブな芸術作品を鑑賞する楽しみがある。
   しかし、実際のところ、絵にしても、彫刻にしても、特別な知識がある訳でもなく、これまで多くの作品を見てきたと言うだけだから、好きか嫌いかと言った自分の直感を頼りに鑑賞する以外にない。
   時間の所為もあったが、書だけは、全く鑑賞眼がないので、今回も見なかった。

   まず、この口絵写真の彫刻部門だが、何時もながら女性のヌード立像が多く、作品の8割以上だと言うと言い過ぎであろうか。
   ところが、特選になっているのは、この写真のように、shortcut(阿部鉄太郎作)と銘打った下着を着けた少女坐像であったり、wish(二塚佳永子作)と題する下着姿の乙女の立像で、ヌードではない。
   良く見てみると、この二体の素晴らしい女性像は、実に緻密に丁寧に仕上げられており作者の意図と主張がはっきりしているが、他の女性像は、大方出来が荒く、何を訴えたいのか表題とのチグハグ感と言うか、奇を衒った感じが濃厚で意味不明の作品が多いような気がした。
   私など、ギリシャやローマ、ミケランジェロやロダンなどの彫刻のイメージがこびり付いているので、どうしても、彫刻は、まず、シンプルで美しくなければならないと思っているのでなおさらである。
   
   尤も、嶋畑貢作の「風の舞」と言う日展会員賞に輝く黒光りのする美しいブロンズ像は、伏目がちに瞑目する乙女の一瞬を描写した素晴らしいヌード像である。
   ボーイッシュ・スタイルのスマートな女性像で、とにかく、実に美しいのである。

   もう一つ印象深かったヌード像は、入選作品ではなかったが、田丸稔作の「部屋」と言う濃茶色の、上品なエロチシズムを感じさせる作品である。
   低い台に左肘を預けてたたずみ、自分の美しさを謳歌するように、右腰を前方斜めに突き出して身をくねらせた女性像で、涼しい表情で前方を見据える姿の美しさは格別である。

   興味深かった作品は、口絵写真の左端の「写してみたら・・・?」(正しくは、映してみたら、であろう)と言う田中厚好作の作品で、犬がじゃれて鏡に飛びついたら自分の顔が人間だったと言うストーリーだが、講評では、現代社会の側面をシニカルかつコミカルに描写した社会性に富んだ彫刻の斬新さが評価されている。
   鏡に映った顔の表情だけがリアルで、他は荒削りの描写だが、頭で考え抜いたと言った作品で、物語性があるのが面白い。
   
   隣の工芸美術の部だが、陶磁器様の置物から染色や織物、漆塗り等のスクリーンなど色々なジャンルの作品が並んでいて興味深い。
   衝立や壁飾りと言ったスクリーン風の作品は、抽象的な造形美や色彩の美しさを意図した作品が多いような気がして、分からない所為もあって、どうしても絵画的な作品が趣味の私にはあまり食指が動かなかった。
   旅をしながら、色々な置物や人形などを見て歩いた思い出が重なっていて、やはり、置物のデコレーション作品に目が行ってしまう。
   夫々の作品に、物語性があって面白いのである。

   今回、印象的だったのは、栗本雅子作の「白い渚」と、久保雅裕子作の「風のみち」である。
   白い渚は、白い優雅なイブニングドレス風の白衣を風になびかせながら渚で戯れる3人の乙女たちを造形した群像で、非常に繊細で不安定な乙女たちのムーブメントの一瞬をフリーズした作品だが、モーツアルトの喜遊曲が、どこかから聞こえてくるような爽やかさが実に良い。
   風のみちは、円筒形の磁器を逆さにして、表面を滑らかに磨き上げた艶消しシルキータッチの表面に、実に繊細でシンプルだが優雅な絵が描かれ、例えば、色彩豊かな一羽の小鳥の絵など正に日本伝統の美意識を凝縮させたような造形美で、これが有線七宝だと言うのだから驚く。講評では、「蓮池に吹く風の気配を自ら焙烙合せで調合した釉薬の淡い色彩でまとめ・・・」とされているが、このような綺麗な七宝作品をはじめて見た。
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錦秋の鎌倉を歩く(3)~建長寺

2008年11月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   建長寺は、山がちの鎌倉にあって比較的平面のあるところに建てられている所為なのか、かなりオープンで、豪壮な建築群が素晴らしい。
   総門を入ると、三門まで参道がやや斜めに導線が取られていて、大きな三門の背後に仏堂と法堂、そして、方丈が並ぶ姿は、中々、壮観で、流石に、鎌倉五山の筆頭である禅寺の貫禄である。
   鎌倉に、何故、禅寺が多いのか、色々言われているが、当時政治の中心として確固とした地歩を築き上げた鎌倉幕府にとっては、やはり、海外渡来の最新の教えであった禅宗を取り入れて大寺院を建立することは、国威発揚に似た権威を誇示する為には格好の手段であり、既成仏教や京の公家勢力に対して対等にわたり合おうとした大きな野心があったからであろう。

   建長興國禅寺と大書された巨大な看板を掲げた三門の背後に、この寺の本尊地蔵菩薩坐像が安置されている仏堂が見える。
   その背後にある法堂より小ぶりの瓦葺の建物だが、芝の増上寺にあった徳川二代将軍秀忠の夫人小督の方の霊屋を移築したとかで、中々優雅な建物であり、内陣の装飾なども凝っていて美しい。
   天井には、小さく碁盤目状に仕切られた金地の枠毎に絵が描かれていて、中央の折り上げ天井には、8弁の極彩色で飾られた美しい天蓋が下げられており、また、正面の欄間には素晴らしい鳳凰の透かし彫り、左右の欄間には大和絵が描かれているなど、褪せたとは言え綺麗な彩色が残っていて、禅寺とは思えない優雅さである。

   本尊の地蔵菩薩は、左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つお姿は、おなじみの地蔵像だが、坊主頭と白目を鮮やかに彩色した切れ長の両眼の印象を除けば、蓮座に座られた他の菩薩などと殆ど変わらない堂々とした仏像で、まだ、彩色が残っているので、お堂にうまくマッチしている。
   内陣の天蓋が堂の中央にあり、少し後退して鎮座まします地蔵尊の上には天蓋がない。光背は、中抜きの輪型の板で、上部・左右の3箇所に宝珠をあしらったシンプルなもので、背後の壁に金地の板が設えられている。
   背後の欄間の下に「前和尚」の名前を書いた表札がずらりと貼り付けられているのが面白い。

   仏堂の後にある法堂は、住職が仏に代わって説教するお堂で、本来、仏像は祀らないようだが、現在、千手観音菩薩坐像が安置されており、そのお前立ちのような形で、パキスタンから贈られたと言うブロンズ製の釈迦苦行像が置かれている。(口絵写真)
   千手観音は、白目が彩色されて首飾りが描かれているが、木の地肌そのままの非常にモダンな仏像で、京都や奈良の古寺で見る重厚で哲学性を帯びた美しいお姿とは大分印象が違っており、
   お腹が極端に凹んであばら骨が露出して、骨と皮だけになっても、毅然としたお姿で瞑想に耽るお釈迦様の苦行像との対象が、いかにもちぐはぐで面白い。

   この苦行像は、ラホール美術館にあるオリジナルを愛知万博のために複製した唯一のレプリカで、万博後、建長寺に寄贈されたと言うことだが、昔から知っていたので、間近で拝見できるのは、正に感激であった。
   この仏像には、一寸した思い出がある。サウディ・アラビアのリアドには何度か出張していて、一度だけ、乗り継ぎのために、パキスタンのカラチ空港で数時間の待ち時間があったので、国立カラチ博物館に行けば、この苦行像のような仏像なり、仏教関係の遺産が見られるのではないかと思って、観光も兼ねようとタクシーに乗って街に出た。

   しかし、残念ながら、カラチ博物館は、建物だけはまずまずだったが、展示されているものは極めて貧弱で、目ぼしい作品など何もなかった。
   欧米の博物館の素晴らしさを見慣れていたので、世界文明の十字路であり歴史の宝庫であるパキスタンの中央博物館だから、凄い作品があるだろうと思っていたのは幻想で、目ぼしい遺産の殆どは悉く欧米に持ち去られており、民度の低さもあって博物館の維持管理などに注力する余裕などなかったのである。

   その前にジャカルタ博物館を訪れてジャワ原人の化石を見るなどしていたのだが、こちらの方は、かなり充実していた。
   先年、ブッシュがバグダッドを占領した時に、バグダッド美術館が襲われて、文化遺産が流出したと言う報道がなされて胸が痛んだのだが、人類の文化遺産を守ると言うのは大変なことなのである。
   日本でも、明治代の廃仏毀釈で、多くの仏像などの貴重な遺産が失われたし、馬鹿な戦争をして国土を焦土と化したのみならず、戦後の荒廃時期には、今の国宝などでも、塔など建物は叩き売られそうになったり、仏像などは始末に困って倉庫や地面に転がされていたと言うのだから、日本人の美意識なり価値基準なども自慢できたものでもないと言うことであろうか。

   ところで、この法堂には、創建時から天井画がなかったので、鎌倉出身の画家で、京都建仁寺に天井画・双龍図を描いた小泉淳氏の作画によるモノトーンの水墨画で雄渾かつ迫力のある雲竜図が、1997年に掲げられた。
   これまでに、何箇所かのお寺等で、龍の天井画を見た記憶があるが、この龍は、5本の爪で玉を握り締めている。
   龍の5本の爪は、中国の皇帝に許された特権で、朝鮮の王室には爪4つ、日本には爪3つしか許されなかったと言われているが、既に中国には皇帝はなく、私の勝手でしょ、と言うことになったのであろうか。中国の皇帝のものでない陶器などの骨董の龍の絵の爪は、確かに4つであったような気がする。

   一番奥にある建物が、方丈で、その前にある唐破風の唐門が、素晴らしい浮き彫り彫刻で装飾されていて美しい。
   方丈の裏庭が、これまた素晴らしく、植栽は極限られ、大きな池の周りには芝が一面に張られただけの非常にオープンな空間が、背後の山を借景に背負って広がっていると言う豪壮さで、京都の緻密で計算し尽くされた精神性の高い庭園とは違っているが、この方が、縁側で静かに瞑目して思いを馳せる方が哲学的かも知れない。

   境内には、もう一つ、円覚寺に似た立派な国宝の梵鐘がある。
   鐘楼が、三門横の広場に並んで建っているので有り難味が薄れるが、優雅な形の鐘で親しみを覚える。

   1時過ぎに約束があったので、鶴岡八幡宮の方に回る時間がなく、小町通りの雑踏を通り抜けて帰途に着いた。
   4時間ほどで、都合10キロほどを歩いた錦秋の鎌倉散歩だったが、京や奈良の歴史散歩とは一寸趣の変わった楽しみ方が出来たと思っている。
   歩いた所が偶々古社寺であったと言うことで、宗教がどうだと言った感覚全く無しでの散策なので、何時ものように、足の向くまま気の向くままであった。

   
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錦秋の鎌倉を歩く(2)~円覚寺、そして、名月院

2008年11月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   北鎌倉駅の真後ろの禅寺が円覚寺である。
   道路に面して総門があり円覚寺と大書した石柱が立っていて、丁度、その門に覆い被さるように色づき始めた紅葉が鮮やかなので、観光客は、境内に入る前に写真を撮っている。

   その門をくぐって先に進むと、かなり長い石段が続いていて、その上に巨大な三門が威圧するように聳えていて、今まで歩いてきた浄智寺や東慶寺などとスケールが違い、やっと、鎌倉の禅寺に来たと言う気持ちがする。
   三門の背後は開けた感じで、仏殿、方丈と続き、境内のもみじが紅葉して秋色を濃厚に醸し出していて、冷気が清々しいので気持ちが良い。

   私は、円覚寺では、国宝の舎利殿の姿を見ることと境内を散策して秋を感じることくらいしか目的がなかったので、堂宇に入ったのは、通り道にあった座禅道場である選仏場だけで、その後、背後の山に上って休憩所の赤毛氈の床机に座って涼風に吹かれていた。
   丁度、境内の建物や木々が下に広がっており、しばらく、紅葉混じりの緑に包まれた禅寺の雰囲気を楽しんでいた。

   舎利殿へ行く途中、正伝庵の前に小さな池があり、緋鯉などが泳いでいるのだが、水際の石の上で、1羽のアオサギが剥製のようにじっと動かずに水面を凝視しているのに気がついた。
   鯉の子供たちが浮き上がって空気をパクパクし始めると、サギが静かに近づいて勢い良く長い首を伸ばして嘴を突っ込んだが、失敗して対岸に飛び去った。
   確かに沢山魚が居るので良い餌場なのであろうか、人が寄り付いても無頓着で逃げないところを見ると、何時も来ているようである。

   ところで、この舎利殿だが、正月と秋の虫干しの時期の僅かな期間しか公開していないので、何回も来ているが近づけず、今回も、門口から垣間見るだけであった。
   正面の唐門が邪魔していて、奥にある舎利殿本体は、裳腰の上から屋根だけしか見えないのだが、関東には殆ど国宝の建物がないので何時も残念に思いながら帰る。
   門口から参道にかけて紅葉が大分進んでいるが、やや、時期が早いのであろうか、まだ、くすんだ色合いで赤い色が出ていない。
   京都や奈良の紅葉と比べたら、鎌倉の紅葉は大分落ちるようだと言ったら、娘に怒られたが、やはり、大原の山里や、宇治河畔の鮮やかな錦に輝く紅葉の美しさを、今まで他で見たことがない。

   仏殿の東側の急な石段を上って弁天堂に向かうと、頂上に、国宝の洪鐘がある。
   国泰民安と大書された優雅な形の梵鐘で、貞時の寄進だと言う。
   ここは、高台になっているので展望所も兼ねていて、駅舎のある谷底を隔てて、向こう側に東慶寺の境内がそっくり見える。
   また、右手の山の切れ目から富士山が見えるのだが、朝方美しく見えていた優雅な姿も雲に覆われて霞んでしまっていた。
   茶店があるのだが、まともなコーヒーがある筈もないので諦めて山を降りた。

   表の道路に出て、線路から離れて鎌倉に向かって歩くと、途中に、谷川に沿った感じの良い小道が山に向かっている。しばらく歩くと、前方の黄色く色づいて光っているイチョウの木の向こうに質素な名月院の総門が見える。
   私は、一度アジサイの頃に来たことがあるが、アジサイ寺として有名であるから、アジサイは美しいのだが、とにかく、境内が狭いので、芋の子を洗うような人込みで、銀座の雑踏の比ではなかった。
   寅さんが、マドンナの石田あゆみとランデブーする場所だったが、アジサイの香りが漂ってくるようなあの映画は、寅さんシリーズでも、私の好きな映画である。

   総門を入ると、なだらかな鎌倉石の参道が三門まで続いていて、その小道の左右にアジサイが所狭しと植え込まれていて、毎年梅雨の頃には美しく咲き乱れる。
   右手の山の手には、素晴らしい竹林があって立派な孟宗竹がすっくと伸びて美しい造形を形作っていて気持ちが良い。
   この寺は、花の寺としても有名で、季節毎に色々な花が咲き乱れて境内を彩るので散策するのが楽しい。
   今は、萩、シュウメイギク、ホトトギス、サザンカ、そして、紅葉の季節である。

   この日は、本堂に上がって、丸窓から縁先に出て、本堂後庭園を見た。
   この口絵写真は、本堂の外側から部屋を通して丸窓から庭園を遠望したものだが、ユニセフ募金に協力すれば、上に上がって、せんべいとお茶で憩いながら広々とした庭園を鑑賞することが出来る。
   アジサイや菖蒲、そして、晩秋の紅葉時に、庭の散策が許されているようだが、この日は庭には入れなかった。
   縁先からのすぐの庭は、背の低いドウダン躑躅様の生垣と小さな池に囲まれた京都風の庭園だが、その背後の広々とした空間には芝生庭園が広がっていて、更にその向こうにはもみじに囲まれた菖蒲畑があり、周りの山が借景となった素晴らしい庭園が展開されている。
   京都の古社寺の庭園ほど、高価な木や花木、石材などが使われているようには思えないし、庭の造りもかなり雑だが、とにかく、随分広くて、境内全体の半分くらいの面積を占めており、自然の美しさを生かしたオープンで調和の取れた庭園は、実に素晴らしく、小さな小部屋から、丸窓をくぐって出て見た時の感激は一入である。

   反対側の本堂正面の庭は、枯山水庭園だが、やはり、本堂の部屋の高見から眺めると、また、別な風情を感じさせてくれて、中々、素晴らしい。
   質素な三門の柱に、青竹に無造作に穴を開けた花活けが立て掛けられていて、三つの節毎に、野菊やシュウメイギクなどの草花が生けられていたり、垣根に竹筒を立ち上げて、その頭を切って花活けにして季節の草花を生けているのなど、実に風雅で味があって良い。
   それにこの寺では、境内の地蔵さんや石仏に、真っ赤な毛糸織りの帽子や着物、マフラーをつけたり、また、水入れは勿論、あっちこっちに花を置いたり活けていたりしていて、その色彩感覚の豊かさは日本離れしていて面白い。
   昔、奈良の法起寺で、尼さんが、仏壇の前に小さなかわらけ風の茶碗に一つづつ色々な椿の花を浮かせて飾っていたのを覚えているが、侘び寂が全てではなく、仏を美しい花で荘厳するのも、祈りの姿かも知れないと思った。   
   
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錦秋の鎌倉を歩く~源氏山から浄智寺、そして、東慶寺へ

2008年11月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋の冷気が気持ちの良い良く晴れた日の朝、源氏山を越えて北鎌倉に向かって歩こうと思い立った。
   ほんの2キロ程度山道を歩けば、浄智寺に辿り着き、東慶寺を通って北鎌倉駅を越えれば円覚寺に出る。
   その後、建長寺を経て鶴岡八幡宮に出れば良いと思って歩き始めたのである。
   私が泊まっている娘たちの住居がある佐助稲荷神社に近い佐助2丁目の住宅街は、朝夕は、全く車の音からも隔離されたような山懐に抱かれた静かな空間だが、日中は、銭洗弁財天に向かって歩く観光客で賑わうので、少し、様相が変わる。
   9時前に家を出たので、全く静寂そのもので、行き交う人も殆ど居ない。


   銭洗弁天の横を通り抜ける急坂は、ほんの数百メートルの源氏山への道だが、運動不足の熟年にはかなり堪える。
   一組の若い乙女たちのグループが賑やかに上って行くので立ち止まる訳にも行かず、調子を合わせて歩いたので、源氏山公園に着いた時には、恥ずかしながら息が荒れてしまっていた。
   この公園を歩いて、葛原岡神社に向かう途中に、鬱蒼と茂った木の切れ間があって、富士が見える。青空をバックに雪を頂いた霊峰富士の美しい姿がくっきりと浮かび上がっていて嬉しくなった。

   葛原岡神社を左にして、山の中を葛原ヶ岡ハイキングコースが始まる。
   踏み分け道のような遊歩道で、ここからは下り坂になって、北鎌倉まで続いている。
   森は雑木林なので、鬱蒼とした感じではなく、かなり、明るいので、歩くのには問題ないが、誰一人歩いて居ないので少し寂しく感じながら歩き始めた。
   木の根っこが剥き出していて、中々風情のある道だが、ずっと木々で覆われた林間なので、見晴らしが利く訳でもなく、花が咲いている訳でもなく、夏などには森林浴を楽しむメリットがあるかも知れないが、今の季節の一人歩きは、単調で退屈なハイキング・コースである。
   途中に、一団の観光客のグループと行き交い、地元の人であろうか、一人の若いチャーミングな女性がジョギングして後ろから追い抜いて行っただけで、他には誰とも出会わず、民家のある平地まで出た。
   このあたりの雰囲気は、どこか嵯峨野の田舎に似ている。

   一寸、開けた空間が見えたと思ったら、浄智寺の楼門が見えた。
   このお寺は、円覚寺派の禅寺で、13世紀末の創建だが、関東大震災で殆ど倒壊したとかで、この楼門も真新しくて美しく、二階に鐘を下げた優雅な建物で、朝の陽の光に輝くススキ(?)をバックに照り映える姿は、中々優雅で素晴らしい。(口絵写真)
   この浄智寺は、笠智衆がインタビューの時には必ず指定した場所だと、何かの観光案内で読んだ記憶があるが、寅さんの御前様ではなく、ここは、小津安二郎の世界である。
   鎌倉には、京都とは違った、どこかシックで独特な雰囲気を持った粋な香りがするのだが、それが、井伏鱒二や小津安二郎の醸し出す空間なのかも知れない。

   楼門の左手側に、釈迦を真ん中に阿弥陀・弥勒の木造三世仏坐像などを安置した仏殿などが並んでいるが、いかにもこじんまりとした静かな寺域である。
   その背後に、鎌倉第一と言われる巨大なコウヤマキの大木が聳えており、春には見事な花を咲かせると言うタチヒガンなど豊かな花木群が、谷戸と呼ばれる緑豊かな森を背後に背負っていて清清しい。

   裏山天柱峰に向かって質素な小屋がけの門があり、その左横に植えられた柿木がたわわに実をつけて門に覆い被さっている。
   真っ赤に染まった熟柿からまだ若い実まで入り組んでぶら下る柿の実を、下から見上げると中々の迫力で面白い。
   迫った山に向かって歩いて行くと小さな洞窟があり、その向こうの岩の祠に陽気な佇まいの石の布袋尊が立っている。
   お腹を擦ってくださいと書いた紙切れが張ってある所為か、大きなお腹のところが黒光りしている。
   ところで面白いのは、にこやかな顔の下で、前に突き出した布袋さまの右手の人差し指の先が飛び出していて、その姿かたちが男の象徴に良く似ていて、ここも立派に黒ずんでいた。
   
   裏山から寺域に入ったので気付かなかったのだが、表門は、下の街道からすぐにある石橋を渡った甘露の井の傍らにあり、そこから林道の中を真っ直ぐに伸びた石畳の参道が楼門まで続いている。
   下から見上げると、丁度、朝日に輝くススキをバックにした楼門が美しい。

   車の激しい街道に出て、少し左手に歩くと、駆け込み寺で有名な東慶寺に着く。
   8代将軍時宗の妻覚山尼が朝廷の許しを得て縁切り寺の法を定めて幕末まで続いたと言うが、今でもドメスティック・バイオレンスが深刻な問題だが、女性を守る駆け込み寺とは、中々、粋な計らいである。
   市場原理主義の横行で、自己責任論議が喧しいが、私自身は、世の中の弱者への心配り、駆け込み制度の充実は絶対に必要だと思っている。

   この寺は、明治35年まで尼寺であった所為か、中々、しっとりと落ち着いた全く派手さのない寺域で、秋草の咲き乱れている風情など、イングリッシュ・ガーデンの日本版と言った雰囲気である。
   街道からすぐの表門も小屋がけ風の質素な佇まいで、中に入ると、石畳の短い小道が真っ直ぐに露天のブロンズ製の仏坐像まで続いているのだが、左右に植えられた木々や花木なども、小ぶりの落葉樹が多くて明るく、地際の苔や万両や千両の赤い実が陽の光を受けて照り映えている。
   柏葉アジサイであろうか、大きな団扇手様の葉が、赤く色づいていて美しい。

   山に向かっての寺域は、全く、山間の田舎家の雰囲気で、田んぼに残された野菊が咲き乱れており、色々な植物が勝手気ままに生を謳歌している。
   十月桜が花をつけて静かに佇んでおり、珍しい小町と言う藤が綺麗な紫色の実をブドウの房状につけているなど、ホトトギス、シュウメイギクも加わって、日常の花木や草花などとは違った植物が独特なムードを作り出しており、イングリッシュ・ガーデンのような派手さと華麗さはないが、どこか、侘び寂の雰囲気を漂わせていて、私には、一寸精神性を帯びた日本独特の庭を感じて、しばらくじっと庭の静けさを楽しんでいた。

   
   
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本を捨てるな・・・国民読書年推進会議・安藤忠雄座長

2008年11月21日 | 学問・文化・芸術
   建築家安藤忠雄氏が、座長就任に際して、推進会議発足の集いで「本を捨てるな」と言う演題で、講演を行った。
   自身で設計した石川県の西田幾多郎記念館、姫路の和辻哲郎文学館、そして、司馬遼太郎記念館などのプロジェクトを、建築写真を示しながら語った。
   司馬家を訪れた時、夥しい数の蔵書を見て、司馬文学に鏤められた力に満ちた言葉の背後にあるものを垣間見た思いで感銘を受け、壁面を全て書架で覆って三層吹き抜けの展示空間のイメージを編み出したのだと言う。

   ところで、今、安藤事務所に30人のスタッフが居るが、全く新聞を読まないらしく、漢字離れが激しいと嘆く。
   安藤氏は、高校の時に、大学に行きたかったが、経済的に無理だったので諦めたと言う。その後で、何時も、頭の方も無理だったのでと付け加える。
   卒業後1年間は、何処へも行かず、建築の本を読んで独学することに決めて、京大や阪大の教科書など建築関係の本を一心に読んで勉強したと語る。

   同時に、建築物を見て勉強することを心に決めて、20代に数回世界放浪の旅に出たが、その時には、必ず数冊の本を携えて出かけ、読んでは建築を見、見ては読みながら、精神の高揚感を感じながら建築への限りなき感性を磨いた。
   「移動の時間はひたすら本を読み、新しい街に立つと、太陽が沈むまで、一心に建築を探して歩き回る。旅の過程、本を読みながら、同時に現実から学ぶことで、知的探究心はより深められた。現実の多様な価値に満ちた世界と本の誘う創造的世界、この二つの世界を行ったりきたり、旅して回る中で、私の建築家としての骨格が形作られていった。」と言うのである。

   「先人の叡智が詰まった本は、誰にも開かれた心の財産である。
   それを自ら放棄することは、あまりにもおろかな所業である。」ときっぱり断言する。

   私自身は、本が趣味と言うよりは、私自身の生活そのものであり、人生の一部であるから、安藤氏の語っている言葉は痛いほど良く分かるし、それに、私の場合には、これまで、幸い仕事の関係などで海外生活や海外を歩く機会が多く、趣味も兼ねて積極的に歩き回ったので、
   本などで知識や情報を得ながら、実際の異文化や世界の文化・歴史遺産などに遭遇することで如何に多くの貴重な資産を与えて貰ったか、その恵みは限りないと思っており、私は、安藤氏の話を聞いていて感動さえ覚えた。
   
   この日、安藤氏は、建築設計上奈良の神社仏閣を見学する必要があった時、大阪から歩いたと語った。30キロほどなので、10時間くらいで着き、その間、色々なことに遭遇し、ものを考えるので好都合だと言うのである。
   事務所に来ている若者は京大の学生が多いのだが、夜、10時前になるとそわそわするので何故だと聞くと、終電が10時10分で遅れると帰れないと言うので、歩いて帰れば良いではないかと言った。広島大学の学生は、広島まで歩いて帰ったが、この時の経験が大学時代の最大の収穫だったと言っていると、こともなげに語る。
   この何ものにも囚われない、パーフェクトでフリーな安藤氏の人生哲学が堪らなく感動的なのである。

   この日、安藤氏は、今の子供には放課後がないと言った。
   塾や習い事に追いまくられて、ものを考え豊かに発想する、感性を養い本当の人間的な感動や喜びに浸るフリーな時間が全くないと言うのである。
   そう言われれば、私の子供の頃には塾などなかったし、学校から帰るとかばんをほっぽりだして、日が暮れるまで、野山を駆け回って遊びほうけて勉強などせず、毎日が放課後であった。
   
   今度結成された「国民読書年推進会議」は、日本を代表する叡智が20人以上参加し、安藤忠雄氏が座長で動き始めた。
   源氏物語千年紀の記念すべき年に発足した会議であり、日本の将来に何を残してくれるのか楽しみでもある。
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「2010年国民読書年推進会議」に自民幹部揃い踏み

2008年11月20日 | 学問・文化・芸術
   6月6日に超党派で衆参両院で採択された「2010年国民読書年とする国会決議」を受けて、文字・活字文化推進機構が開催した推進会議発足の集いに、自民党の錚々たる面々が来賓挨拶に登壇し、何時ものように公務のためにと言って即座に退席して帰って行った。
   霞ヶ関に近い日本プレスセンター・ホールが会場とは言え、塩谷立文部科学大臣、細谷博之幹事長、川村達夫官房長官、中川秀直衆議院議員と言う自民党の重鎮が、夫々関連組織の会長を引き受けているとは言え、やはり、文化でも、トッププライオリティの課題となると足を運ばざるを得ないのであろうか。

   当日は、福原義春会長の挨拶の他、阿刀田高氏挨拶や、安藤忠雄氏の講演を含めて1時間と言う凝縮されたプログラムであったので、それなりに充実していたが、
   先生方の話は、文化や文字や読書など、日本の将来のために大切だと能書きは勇ましいのだが、殆どありきたりの話で、演説などで、文字の誤読、読み違え、解釈間違いを犯して失敗したと言う話で聴衆を笑わせていた。
   このブログで、参院で40年の「五車堂書房」の店主が最近の議員の読書について、「勉強不足、本当の読書家いないね」と言っていたと言う日経の記事についてコメントを書いたことがあるが、その時、日経が議員たちに読書について聞いて書名などを列記していたが、到底、日本の国を背負って国政を担っている人物たちの読書とは思えないようなお粗末さであった。
   多少、見栄を張って良い格好をして回答したとするのなら、なおさら情けない限りであるが、来賓挨拶を聞きながら、どんな気持ちで、若者の文字離れを憂い、日本国の国語文化の将来を慮っているのか、甚だ疑問を禁じ得なかった。

   細田幹事長は、父親が読書好きで万冊の本に埋もれながら読書に勤しんでいたと言う話をした後で、麻生首相が、原稿を読み飛ばした話をとやかく言うのはどうかと言って笑わせて首相のマンガ好きの話をしながら、そんな人柄を見込んでお仕えしているのだと語っていた。
   中川氏は、誤読や解釈間違いの経験を冗談交じりで語り、その日、ゴア元副大統領との昼食会で、オバマ次期大統領の話が出たのだが、オバマ氏のシカゴでの大統領当選スピーチを全文英語で読み、同じアメリカは一つだと言う言い方にしても、あれだけ豊かで内容のある卓越した演説が出来るのには感服したと述べた。(日本の政治家は、足元にも及ばないと言うニュアンスを込めて。)

   ところで、わが総理大臣閣下だが、週刊新潮が、
   「学習院の恥」だとOBも見放した「おバカ首相」麻生太郎 マンガばかり読んでいるからだ!
   と言う大見出しで記事を書いているらしいのを、電車の吊り広告で見た。
   語ることは何時も威勢が良いのだが、今回の医師にたいする失言にしても、知的な香りが全くしないことは事実である。叔父さんは、偉大な英文学者吉田健一氏なのだが。
   スタンフォードとLSEで何を勉強して来たのであろうか。
   ウイキペディアの麻生太郎の記事で、国会での文字の誤読の酷さを列記しているが、文字・活字文化推進機構は、大臣にどう物申すのであろうか。
   私は、マンガは読まないので、ゴルゴ13など、ルビがふってあるのであろうか。
   この調子では、ブッシュ大統領の演説程度の格調さえも備えられない国会演説しか聴けそうになさそうである。
   
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インド経済シンポジウム・・・早大インド経済研究所

2008年11月17日 | 政治・経済・社会
   日経ホールで、早大インド経済研究所主催で、恒例のインド経済シンポジウムが開かれた。
   インドからトップクラスの役人やバンカーなどが出席し、日本からも、主催者代表の榊原英資教授、行天豊雄氏、アジア開銀黒田東彦総裁、斉藤敦東証グループCEOなど錚々たる面々が参加して活発な討論がなされるなど、非常に密度の高いシンポジウムであったが、日ごろあっちこっちで開かれているインド株式投資セミナーなら満員になるのに、今回のように程度が高くなると空席が目立ち、勿体無い限りである。

   BRIC'sの一翼を担う新興国であるインドも、御多分にもれず、世界金融危機の影響を受けて、経済は、下降気味だが、それでも、これまでのGDP成長率9%はダウンするが、7%程度の成長は維持すると言う。
   基本的な成長路線は変わらないが、世界的な不況の影響で、輸出が激減してIT関連を筆頭に企業業績が悪化し、世界中から入って来ていた短期的な外資の引き上げで、株価や不動産価格が暴落するなど実体経済にも、かなり打撃を受けているようである。
   株価など、優良企業でも、時価総額が、PBRが1以下と言うよりも企業のキャッシュ残高より低くなっていると嘆いている。

   ところで、日本から、デリ-・ムンバイ大動脈構想の一環であるデリ-・ムンバイ間貨物専用鉄道プロジェクトへ4500億円の巨額な円借を実施することになっている。
   インド政府は、外国からの投資や企業誘致に極めて積極的だが、インドが、今一番欲しいのは、国家の開発および経済成長の促進のために、資金的には問題ないと言ってもPPFを意図しているし、ハードであろうとソフトであろうと技術的なノウハウも必須だし、インフラ整備への国際的な援助であろう。
   鉄道、道路、電力、空港、港湾等々国家経済と産業発展のための生命線であるインフラを整備しない限り多くを望めない。
   トヨタやみずほなどの担当者から、インドのインフラの貧弱さが投資へのボトルネックになっていることを指摘されていたが、いくら民主主義だと言っても、インフラ整備であろうと何であろうと一党独裁の国家権力で押し切って実施出来る中国とは、雲泥の差がある。
   
   日本からの投資については、
   トヨタの第二工場の建設、
   第一三共の大手製薬会社ランバクシー・ラボラトリーの買収、
   NTTドコモのタタ・テレサービシーズへの26%出資、などを最近の目ぼしいプロジェクトとして列挙していたくらいであるから、日本の進出は、大分ビハインドのようである。

   トヨタの岡部聰専務が、トヨタのインド進出戦略を語っていたが、その中で、既に輸出で可也のプレゼンスのあったアメリカへは一挙に巨大な投資を行って進出したが、インドへは、後発で経験不足のためもあって、「小さく生んで大きく育てる」戦略で、まず、ニッチな市場から参入して、ステップ・バイ・ステップで、着実な拡大策を取る方針だと言っていた。
   岡部専務は、貧弱なインフラ問題の他に、不明瞭な法制度や税制度、複雑でリスクの高い労働問題など、インド投資への問題点を指摘していたが、このあたりは、インド経済の成長力と底力を強調し、ばら色の投資環境をアピールするインド側のパネラーとの意識のギャップはかなり鮮明で面白かった。

   興味深かったのは、タタ・キャピタルのプラビーン・P・カドレ社長が、日本企業を含めてインドでの事業利益が、本国の企業利益率より、夫々高く、インドでの事業の方が有望だと指摘していたことである。
   この見解とは関係なく、インドの技術の優秀性とそのコストの低さについて、東証の斉藤社長が、宇宙へ打ち上げるロケットの価格が先進国の5分の1であることを例証して指摘し、利益率の高いインドの企業が東証に上場し、高いリターンで株主に恩恵を与え、発展成長を目指すことが望ましいと語っていた。

   このブログでも書いたが、私は、インドでの日本の製造業は、日本での製品の延長やバリエーションではなく、プラハラード教授が、「ネクスト・マーケット」で、紹介していた「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネスへの展開を図るべきだと思っている。
   プラハラードは、ジャイプル・フットと言う義足を紹介しているが、アメリカ製のようなものではなく、インド人のように地面に直接座ったり、泥道を走り回っても役に立つ義足で、それも、アメリカ製の8000ドルに対して30ドルであるような義足で、貧しい人には無償で支給出来る様なものを開発して販売するのである。
   もう一つ紹介していたのは、アビランド・アイ・ホスピタルの白内障手術とそのレンズで、欧米の何十分の1のコストで、世界最高峰のサービスと製品を提供しているが、これが、インド人の失明者の多くを救済している。
   
   トヨタは、地場産業とは正面から競合しない製品・技術の提供を目指しているので、比較的質の高い自動車を生産しようとしているが、クリステンセンの指摘が正しければ、タタ自動車のローエンド・イノベーションにやられてしまう(?)運命にあるのかも知れない。
   みずほコーポレート銀行の佐藤康博副頭取が、地政学的にインドは非常に良い位置にあり、中東、アフリカ、ヨーロッパに近いと指摘していたが、「貧困層」市場を狙うためにも、或いは、ローエンド・イノベーションを追求するためにも、理系の極めて水準の高い若いエンジニアや技術者が世界一多く居るインドは、格好の投資市場であろう。

   製造拠点、或いは、販売拠点と言った単純な考え方で、中国への進出と同じような気持ちでインドへアプローチすれば、必ず失敗するので、有望市場だけに、有効な戦略の構築と周到な準備が、何よりも大切な気がしている。

   金融関係の議論も活発で、有意義なシンポジウムであり、行天氏や黒田総裁の議論も興味深かったが、長くなったので、コメントは端折ることとする。
   
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C&Cユーザーフォーラム:CEO達の講演

2008年11月16日 | 経営・ビジネス
   NEC主催のC&Cユーザーフォーラムについては、ニコル氏と安藤忠雄氏の講演について書いたが、他に聞いた講演で多少興味を持ったのは、三井住友銀行の奥正之頭取と伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長の話であった。
   他のCEOたちの話は、企業の社会的責任等を強調した非常に高邁な経営理論や明るい未来像を展開していて、耳には優しいが、果たしてそんな奇麗事の経営でよいのかと思うようなもので、ミルトン・フリードマンが聞いていたら噛み付くであろうと思って聞いていた。

   奥頭取は、世界経済危機が深刻になる前に、ITシステム全般をお世話になっているNECの依頼があったので引き受けたが、非常に時期が悪かったと言いながら、今回の金融危機の顛末や状況について、実に丁寧に解説したので、本題のSMBCの不確実時代への取り組みについて、駆け足であった。
   私の記憶に残っているのは、本題とは離れるが、
   LTCMの破綻に対しては、当時アメリカに居て関わっていたが、儲かっていた時点で、キャッシュ化したので、損得トントンになり、幸い被害がゼロだったので、今日ここに立っておられるのであると言う話と、
   リーマンブラザーズのディック・ファルドCEOは以前から知っていたが、最近会った時には、びっくりするほどワンマンになっていたと言うコメントである。

   LTCMなど氷山の一角で、今回のサブプライムについては関わりが軽微だとしても、全く見通しの不確定な、ファイナンシャル・エンジニアリングを駆使した高いレバリッジを利かせた危険でリスクの高いファンドやデリバティブなどに巨額の資金を振り向けたことが問題なのである。
   最近では、傷ついた巨額の不良資産の処理が、あたかも企業経営の健全化に資するように考えられていて、時には、株価が上がるのなどは、正に、深刻な経営者のモラルハザード以外の何ものでもないと思っている。

   もう一つのワンマンぶりだが、これも経営者としての深刻なモラルハザードと言うか経営者の使命感とエシックスの欠如で、今回、世界金融危機対策で、システムの法制度など規制を強化しようと言う決定がなされているが、経営者の倫理観が地に堕ちた場合には救いようがない。
   トヨタの奥田碩氏が、「厚生労働行政のあり方の懇談会」で、「TV報道の厚労省叩きは異常な話で、マスコミに報復してやろうかな、スポンサーを降りるとか」と発言したと言って物議を醸しているが、これなど、実に悲しい話である。

   この点、丹羽会長など、清廉潔白で、企業の業績など悪ければ総てCEOの責任であり、野球でも負ければ総て監督の責任だと一刀両断である。
   日本の財政赤字の深刻さは致命的であり、先延ばしにする訳には行かないので、国民がこぞって応分の負担をすべきで、高額所得者が率先して協力せよと言う。

   日本の生きる道は、食料、エネルギー、水、資源等一切を輸入に頼らざるを得ないので、財産は人財と技術しかない。
   企業の発展のためには、この人財を如何にやる気を起こさせて活性化することが出来るかが最も重要だとして、伊藤忠の人材育成システムの一環を説明した。

   入社4年以内に、必ず海外に赴任する。
   新任課長研修には、短期のMBAコースを受講させる。
   国内の組織に、必ず、日本語の出来ない外国人を一人常駐させる。
   と言ったメニューだが、やはり、異文化との遭遇によって、従業員をインスパイアーすることであろうが、全社がこう言った動きをすることは非常に効果的で素晴らしいことだと思う。

   明治時代には、時の世の多くの分野で、例えば、漱石や鴎外は勿論、日本をリードした人物の多くは、海外留学など海外経験者が多かったが、最近では、グローバリゼーションと騒がれている割には、海外経験者が冷遇されており、まともに高度な学問芸術や研究のために留学する若者が極端に減少して来ている。
   嘘のような話だが、普段、欧米での海外生活や経験などを語ると毛嫌いされるので、絶対に話さないように心がけており、時々、経験者だけが集まって密かに語る会を設けて憩っていると言う。これが、日本の現状であり、
   日本人の、国際化、グローバリゼーション志向の精神など、おいそれと育つ筈がない。
   外国文学好きだとか、昔からハイカラ志向で、海外情報や文物だけは溢れているのだが。
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国立劇場:江戸宵闇妖鉤爪・・・江戸川乱歩「人間豹」の歌舞伎化

2008年11月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場で江戸川乱歩の「人間豹」を、岩豪友樹子脚色、九代琴松(幸四郎)演出で、時代背景を明治から江戸に置き換えて、歌舞伎に衣替えして演じられている。
   高麗屋父子に春猿等が加わり、一寸ニュアンスが違うが、今様ホラータッチの鶴屋南北を彷彿とさせるような面白い舞台が展開されていて楽しめる。

   幸四郎の明智小五郎は、隠密回り同心で、何時もの持ち前のスタイルだが、
   色男の幕臣・神谷芳之助と殺人鬼・人間豹の恩田乱学の二役を演じる染五郎は、神谷の方はこれまでの歌舞伎の世界だが、半人半獣の人間豹の方は、忍者姿のフランケンシュタイン風の井手達で、美女を噛み殺し宙を舞うと言う活劇ものだから、正に新境地の開眼であり、その迫力とエネルギーの発露は注目に値する。
   この明智小五郎の幸四郎が、人間豹・恩田乱学の染五郎に戦いを挑み追い詰めるのだが、最後は、人間豹が、凧に乗って花道上空を宙乗りして消えて行く。江戸川乱歩の原作では、気球に乗って飛んで行くようだが、高所恐怖症の染五郎が歯を食いしばって、中空を舞いながら演技をしている。

   女形陣だが、両人とも人間豹に殺されるのだが、神谷芳之助の想い人である商家の娘・お甲と女役者お蘭、そして、明智小五郎の女房お文の3役を春猿が演じる。
   艶やかな美しさ、そして、性格の違う女の魅力を夫々に強弱・メリハリをつけながら器用に演じ分けて醸し出す芸の確かさは出色であり、高麗屋父子とがっぷり四つに組んで舞台に厚みと豊かさを加えている。
   人間豹を育てた老婆百御前の鐵之助のおどろおどろしさ、蛇女に変えられた娘お玉の高麗蔵のしみじみとした哀れさなど、脇役陣も実に上手い。
   
   この話は、人間と豹の半人半獣の登場人物そのものが既に奇想天外で、ミステリーと言うよりもホラーだが、精神性などある筈がなく、最初から最後までマトモな物語として見ていると足をすくわれるので、ある意味では、見世物を見て楽しむと言う楽しさに集中すると興味が倍加する。
   見世物小屋の設定で、檻の中で、人間豹たちに囚われて雌豹に変えられた明智の女房お文が黒豹の人間豹に襲われる劇中劇の面白さや、明智たちのピストルに追い詰められて目潰しの爆竹を打って舞台から消えたり、背中にピアノ線をつけて舞台をぴょんぴょん飛び跳ねて逃げたり、或いは、凧に乗って逃げて行くと言った染五郎の人間豹の演技など、見ごたえ十分で面白い。
   
   ところが、この歌舞伎だが、冒頭の江戸のしっとりとした待合宿の雰囲気から舞台設定も非常に工夫されていてムード十分であり、新内流しの情緒溢れる音曲などのバックも素晴らしく、新作であり、江戸川乱歩のミステリーを題材にしたとは思えないほどクラシックな舞台であり、歌舞伎として全く違和感がない。
   むしろ、舞台設定や舞台効果など、新しい技法や技術を取り入れている分、新鮮な魅力が付け加わって舞台芸術の楽しさを盛り上げており、幸四郎の演出の冴えは流石である。
   それに、染五郎を自由に泳がせて、その魅力を存分に引き出しており、幸四郎の染五郎への期待と芸への信頼感を感じさせてくれて清清しい。
   私にとっては、何よりも、実にしっとりとした情緒たっぷりの舞台が堪らなく魅力的であったし、この舞台を、たった正味2時間15分でやり果せたと言う岩豪友樹子氏の脚本の傑出振りも見逃せないと思う。

   ところで、江戸川乱歩であるが、アメリカの推理作家エドガー・アラン・ポーに憧れて推理小説を沢山書いているのだが、子供の頃、少年探偵団など読んだくらいで、私は、殆ど、その作品を知らない。
   私自身、推理小説には全く興味がないので仕方がないが、娘たちは、シャーロック・ホームズやアガサ・クリスティを好んで読んでおり、横溝正史の映画などにもつきあっているのだが、乱歩には縁がなかった。
   この乱歩の原作「人間豹」だが、ぱらぱらとページを捲っただけだが、どうも私の趣味ではないので止めた。
   しかし、他にも乱歩の「黒蜥蜴」等と言った、このような素晴らしい新作歌舞伎が生まれるのなら観て見たいと思っている。

(追記)写真は、日本芸術文化振興会のホームページより借用。
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自然と共に生きる・・・安藤忠雄

2008年11月14日 | 学問・文化・芸術
   
   今、27カ国でプロジェクトを抱えて、一ヶ月ごとに世界中を走り回っている安藤忠雄氏が、最近の作品などを解説しながら、本来の人間らしさを取り戻して幸せに生きるためには、建築や都市が如何にあるべきか、大阪訛りと発想で持論を展開した。
   同じ日の午後、同じ内容の安藤氏の講演を、私は、日経BP社の建設フォーラム2008の「自然と建築の共生―最新プロジェクトを通して」とNECのC&Cユーザーフォーラム2008「自然と共に生きる」で2回聞いたが、非常に新鮮で面白かった。
   要するに、聴衆に訴えていたのは、「日本人は、感性を磨かなければならない。」日本人の感性のなさは致命的で、このままで行くと、日本の将来は暗いと言うことである。

   何時も語るのは、日本の女性が何故男より元気なのかと言うことだが、好奇心があるからだと言いながら、ドバイで出会った大阪の中年婦人たちのことを語った。
   大阪の関空23時30分発の直行便に乗り日帰りすると0泊2日で往復出来るので、この便を利用して3回往復したが、帰途ドバイ空港で大阪に帰る件の婦人たちに会ったので話していると3泊の旅でエステに来たと言う。別れて歩き始めて「もう遅い」と口走ったら、追っかけて来て「そんなこと言うから男は駄目なんや」と言われた。
   夜に知人宅に電話をすると電話口に出てくるのは必ず主人で、奥さんは歌舞伎を見に行って居ない。
   それにひきかえて、男たちは、昼には、「売り上げを上げよ、利益を上げよ」と追い立てられているので、休みには寝転がっているか、偶のゴルフくらいだと揶揄する。

   現在、ベニスで、フランスのブランド王国ピノー財団のために古い文化財的な建物を改装しているが、その前の運河にディスプレイされたジェフ・クーンズの彫刻の写真を見せて、日本人の感性のなさを語った。
   一見、阪神ファンが7回や勝利後に打ち上げる長い風船を折り曲げて作った犬のような真っ赤なオブジェだが、重さが18トンと言う巨大な鉄の塊である。
   これを見て美的感覚も何も働かない日本人が、15億円するのだと言うと、「ホーッ」と感心すると言う。

   もう一つの話は、関空のために土を取って裸になった跡地を緑の公園にして、海の波打ち際に、帆立貝をびっしり敷き詰めて美しい浜辺を造った。
   これを見に来た一団の母子。子供は「ワーッ。綺麗!」と歓声を上げた。
   ある母親が、「このプラステック、よう出来てるわ」と言った。その親の子を見ると、ボケッと感性の全くない顔をしていた。
   この話の後で、こんな話を付け加えた。聞いたこともない大学を出た両親が、子供に「何が何でも京大に行け」と言ってるので、貴方たちの子供ですかと聞いたら「そうです」と言う。頭は遺伝するのに・・・
   親が感性を磨かない限り、子供に感性など育つ筈がない。親がこの状態だから、日本の明日は暗いと言うのである。

   安藤氏は、デビュー作であるコンクリート打ちっぱなしの2階建て「住吉の長屋」の話から始めたが、この住宅は、3分の1を占める真ん中の部分を中庭として開放し、厳しい条件下の都市住宅でも自然と共生する新しい生活像を提案したと言うのである。
   真ん中が天井無しのがらんどうだから、雨の日など、居間から台所へは嵐の中を傘をさして行かねばならないし、真冬の深夜に尿意を催すと厳寒の中庭を渡らなければならないし、とにかく、冷暖房なしの自然のままの住居なのだが、オーナーは、30年以上も、寒さ暑さにに耐えて住み続けていると言う。

   この中庭をオープンにした建物は、アラブのモスクの影響を受けてラテン・ヨーロッパやラテン・アメリカに、美しい邸宅などのパティオとして素晴らしい住空間を形作っているが、あくまで、大邸宅などの中庭としてである。
   ロンドンのシェイクスピア劇場であるグローブ座も、オリジナルを模して円形の劇場の真ん中は青天井である。したがって、平土間の立見席の客は、雨の日にはビニールの簡易コートを身に付け、太陽の照りつける日には、紙の帽子を被る。
   京都の町屋などは、中庭があって、風通しを良くして住環境を快適にしている。
   しかし、いずれにしても、安藤氏の住吉の長屋ほど、劣悪な住環境ではない。
   この自然空調システムのアイディアを活用すると同時に、安藤氏のもう一つのイメージである卵型フォルムを駅舎空間に取り入れて、東急東横線渋谷駅を設計した。30メートル下まで、空気が自由に出入りする自然換気システムの実現である。

   今では、普通になっている屋上緑化であるが、安藤氏は、30年以上も前だが、大阪駅前開発の時に、市の開発するビルに、何度も屋上に木を植えたパースを持って出かけたが聞いてもらえなかったと言って、全く緑の欠片もない大阪駅前の鳥瞰図写真を示して、如何に、計画性がなく、個々のビルがいい加減に好き勝手に建てられているか、無秩序なコンクリート・ジャングルを語った。
   2006年にオープンした表参道の同潤会青山アパートの跡地に建てた表参道ヒルズで、屋上全面に木を植えており、夢を叶えている。
   屋上緑化など、ドイツでは、随分以前からやられているのだが、いずれにしろ、誰もが意識さえしなかった頃から、安藤氏は、エコ空調の建物空間の創造や屋上緑化など、自然環境を活用した建物を志向していたのである。

   この安藤氏の自然との共生と言うビジョンは、神戸淡路大震災の時に、もくれん30万本運動から勢いを増し、日本中に緑の美しい空間を造ろうと、最近では、東京湾のごみの山に木を植えて、循環型社会のシンボルにしようと「海の森」プロジェクトを推進している。
   先日書いたニコルさんのプロジェクトと同じように、素晴らしい人間賛歌への営みである。
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森からみる未来・・・C・W・.ニコル

2008年11月13日 | 学問・文化・芸術
   強くなりたくて柔道や空手を学ぶために、日本に来たが、素晴らしい日本のブナの原生林の美しさに感激して日本に住み着いて45年。日本国籍を取って、ケルト系日本人になったと、日本の素晴らしい自然の美しさと、長く住んでいる黒姫に開発したアファンの森を語りながら、「森からみる未来」について、作家のC・W・ニコル氏は、1時間、NECのC&Cユーザーフォーラムで熱っぽく講演した。

   ブナの原生林があってさんご礁がある、大きな島国でありながら独立を保ってきた、言論と宗教の自由それに宗教からの自由のある国、大戦後ずっと平和を守り続けている・・・こんな素晴らしい国は、世界中に稀有だと言う。

   故郷のサウスウエールズは、あの素晴らしい映画「故郷は緑なりき」の舞台だが、かっては、炭鉱のためにぼた山が延々と続き野山の自然が破壊されて、緑地が5%しかなかった状態だが、近くに、ブナの森が維持されていた。
   このブナ林が一番美しいと思っていたのだが、日本の原始のままのブナ林を見て、そのあまりの素晴らしさに、誇り高き自分たちの祖先のケルト人が、何故必死になって、聖なる木である筈のブナの林を原始のままの状態に死守してくれなかったのか、悔しくて泣いたと言うのである。

   私が、ウェールズを旅したのは、もう、20年ほども前になるが、イングランドと違って比較的山がちなので緑は多い方だと思った。
   しかし、イギリス人は、世界制覇のための造船用に、産業革命時の燃料のために、或いは、牛や羊の放牧などのために、即ち、自分たちの産業と生活のために、原生林を悉く伐採し破壊しつくしてしまっており、まして、植民地のようにイングランドに征服されていたウェールズに、ニコル氏が憧れるブナの原始林など残っている筈がないのである。

   イギリスの森や林、まして、特別に造られた風景庭園の美しさには目を見張るものがあり、また、牧歌的な田園風景など、正に、コンスタブルの絵になるような美しさだが、これ皆、人工の美しさであり、原始の美など残っていないのである。
   日本の白神山地のブナ林や屋久島の杉や大台ケ原などと言った原始のままの素晴らしい自然美の存在は、正に、八百万の神を敬い自然との共生を重んじる日本人の自然観のなせるわざで、私自身は、このエコシステム尊重の日本魂は、世界に冠たるものだと思っている。
   イギリス人は、ギリシャの廃墟や建物をあしらって自然景観を模した風景庭園を造り、俗に言われているイングリッシュ・ガーデンのように自然の風情を醸し出したガーデニングを好むが、これなど、悉く、似非自然なのである。
   日本の庭園も、多少、これに似て人工的だが、森や林については、下草を刈ったり、ひこばえを払ったり、人工の手を加えながら、原生林を大切に維持してきた。

   大陸の原生林も、その多くは、牛の放牧など牧畜のために破壊されてきており、ヨーロッパ人は、自然のエコシステムを破壊し殆ど自分たちの都合の良いように訓化して来た。
   今、地球温暖化が問題になっているが、環境破壊、エコシステムの破壊は、有史以降、文明国であった筈のヨーロッパで、延々と続いて来たのである。

   ニコル氏は、大きく手振りを交えて、ブナ林の素晴らしさを語った。
   ブナは水の神様の木、涼しい風を作り出し、何とも言えない芳しい香りを放ち、木漏れ日はどのステンドグラスよりも美しく、何処からでも流れ出てくる水は素晴らしく美味しい、
   何処よりも人口密度の高い日本で、水俣病や公害の激しかった日本で、原生のブナ林が生きているのを見て涙が出たと言う。
   ヨーロッパのどの人種よりも古いドルイド教徒であったヨーロッパの主ケルトの血が、本当の自然に接して蘇ったのであろうか。

   アングロサクソンやバイキング等に苛め抜かれたケルトには、戦い好きの遺伝子があるのだと言う。
   それに、自然の中で自由に生きていた遺伝子であろうか、ニコル氏は、最大東京に4日、ロンドンに2日、パリには行く前から、それ以上居ると耐えられなくて蕁麻疹が出るのだと言う。
   広い所を見たい、不自然でないものを見たいと思って堪らなくなるので、都会生活は合わないのだと言うのである。

   放置されていた竹薮を買って、森を再生した。アファンの森である。
   美しい森の風景を映しながら、激しく鳴きしきる素晴らしい小鳥たちの鳴き声をバックに、森が蘇って行く姿や人々の活動などをビデオで流した。
   先日、チャールズ皇太子一行が訪れた話、東京のNECの同業者の女子社員が訪れた時に「木には種類があるのですか」と信じられないような質問をした話、親に虐待されて捨てられた子供たちが森で嬉々として遊ぶ姿、
   そんなことを話しながら、如何に森が人間にとって素晴らしいものかを、ニコル氏は語り続けた。

   40年前の日本の田舎、そして、里山には素晴らしい自然があり、人々との共生が、あったことを見て知っていると語った。
   ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・そんな世界である。
   貧乏だったけれど、貧しくなかった。
   子供たちの目は輝いていたし嬉々としていた。
   野山は子供たちの天国。
   子供たちを森へ帰そう。
   We can do!
   ニコル氏は、そんな言葉を残して演壇を去った。
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