熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

トマト・プランター栽培記録2013(11)アイコ色づく

2013年06月30日 | トマト・プランター栽培記録2013
   やっと、アイコが、レッドとイエローともに、色付き始めた。
   色々なミニトマトを植えてみたが、このサカタのアイコだけは、間違いなしに花を咲かせて実を結び、それなりの収穫を約束してくれる頼りになるトマトで、わが庭の定番である。
   したがって、どんどん、色付いて成熟してくると、他のトマトも実り始めて、わが庭のトマトのホットな収穫時期になる。
   
   

   さて、前回報告した桃太郎ゴールドの尻腐れ病だが、その後、続いて、都合10個くらいの実を取って落とした。
   イタリアントマトの大玉にも、二つ黒変しているのを見つけたので摘み取った。
   もうひとつ、中玉のレッドオーレにも尻腐れ病が見つかって、これも、10個くらい実を切り取った。
   今のところ、被害はこれくらいで、他には起こっていないので、特に、その後何も手当はしていない。
   桃太郎ゴールドの方は、花房単位で、レッドオーレの方は、花房の中間あたりの実が集中して、尻腐れ病に罹っていたので、肥料が影響しているのかも知れないと思っている。

   タキイの虹色シリーズのトマトの内、イライザが赤い実を、ブリュネルが、黒褐色の実を表し始めて来た。
   少し日当たりの悪い場所にプランターを置いてあるので、背丈が伸びて、先に往くほど身なりが良くて、下部の花房は結実せず消えてしまった感じだが、試みに植えたので、いくらかでも実が成れば面白いと思っている。
   
   

   さて、園芸店に行ったら、今年は、7月と言うのに、まだ、トマト苗を沢山売っていた。
   何の気なしに見ていると、背丈が1メートル足らずの低くても収穫可能なテラストマトの苗を売っていた。
   背丈が低ければ、場所も取らないだろうと思って、よせば良いのに、また、衝動買いをして4株植えてしまった。
   ところで、ピンクのミニトマトやビギナーズトマトなどが成熟し始めたので、少しずつ、朝の珈琲のお供に頂いている。
   
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柿葺落六月大歌舞伎・・・「俊寛」

2013年06月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   第一部のメインは、やはり、吉右衛門の「俊寛」である。
   この歌舞伎は、近松門左衛門の浄瑠璃「平家女護島」の第二段目の後半を舞台に仕立てたもので、平家物語の「足摺」の項などで、一人、喜界が島に取り残されて足摺をして地団駄踏んで泣き喚く弱い俊寛ではなくて、自ら、島に一人残ることを選んだ孤高とも言うべき俊寛の悲劇を描いているので、芝居になるのであろう。

   
   この平家物語を基に、能「俊寛」が作曲されるのだが、
   流人の成経と康頼は、日頃より信仰心あつく、島内を熊野三社に見立てて、祈りを捧げながら島巡りをしているのだが、その帰りに立ち寄ったふたりを出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と名付けてふたりに振舞い、都を懐かしむ宴に興じている時に、清盛の使いの船が来て、大赦を伝える。と言うシーンが加えられている。

   そして、この件が、歌舞伎では、丹波少将成経(梅玉)と海女千鳥(芝雀)との祝言に置き換えられており、更に、悪玉の瀬尾太郎兼康(左團次)を登場させて、本来の上使である丹左衛門尉基康(仁左衛門)を逆に、善玉にして、俊寛を、単なる置き去られた哀れな流人としてではなく、近松門左衛門は、俊寛の人間像を、創作を加えて別な側面から描いて、話を面白くしている。
   重盛の温情によって赦免されたものの、瀬尾から、清盛に言い寄られて最愛の妻が自害したと聞かされ、3人までしか乗船を許されず、4人目の千鳥が船に乗って京へ行けないことを知って、憎々しくて居丈高な瀬尾を殺害すると言う新たな罪を犯して、俊寛自身、自らの意思で島に残るという運命を選択したのである。
   近松門左衛門の当時に、自己犠牲の美意識があったのかどうかは知らないが、俊寛は、既に、運命の終焉を悟っていたのであろうか、
   ”米や麦などの穀物を食べられない餓鬼道の苦しみ、瀬尾と斬りあった修羅道、硫黄の燃えるこの地で暮らす地獄道と、三つの地獄をこの世で味わうその後には死後の平和が待っている。その仏の世に行く舟に乗る以外、今は乗りたい舟などない。”と、千鳥を乗船させて一人残るのである。

   自らの運命を自ら決めて一人孤島に残った俊寛が、去り行く船を追いかけて渚を彷徨い、高台に上って小さく消え行く船影を凝視する姿には、孤高を越えた人間の崇高さと悲しさ、しかし、どうしても避けられない胸をえぐるような人間本来の万感胸に迫る修羅場の世界が錯綜するのであろうか、
   吉右衛門俊寛は、一瞬顔を伏せて悲しみに苦悶する表情を見せるが、すっくと顔を上げて、身じろぎもせず正座して、厳しく遠方をじっと凝視し続ける。
   どんな思いが胸を去来し、頭の中を駆け巡っているのであろうか。

   平家物語の足摺の終幕は、
   ”・・・とりつき給う手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。僧都、せんかたなしに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんぞをしたふように、足摺りをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とわめきさけべども、漕ぎ行く船のならひとて、あとは白波ばかりなり。”

   平家物語も能も、俊寛の絶海の孤島での孤独な最後の別れを詠歎するだけで、この場は終わっているのだが、浄瑠璃や歌舞伎は、近松門左衛門の創作によって、自己犠牲によって崇高な別れを決心しながらも、人間の弱さ悲しさ故に潔く諦めきれない現世への執着に苦悶する俊寛像を描き出すことによって、舞台の奥行きを広げているようで、いわば、芝居のアウフヘーベンであろう。
   そう言う思いを理解して見ないと、吉右衛門が演じる俊寛像も、玉男が遣った俊寛像も、十分に鑑賞できないのではないかと思っている。

   思い切っても凡夫心
   岸の高みに駆け上がり
   爪先立て打ち招き
   浜の真砂に伏しまろぶ
     おぉぉいぃぃ――
   ひとりを捨てて沖津波 幾重の袖や

   皆を乗せた船が沖に見えているうちは望郷の心を思いきれない・・・視界から完全に消えて初めて訪れる諦観。と、吉右衛門は語っているのだが・・・
   この後、平家物語では、
   俊寛は、粗末な寝所へも帰らず、渚で波に足を洗われ、夜露にうたれて夜を明かすのだが、少将は情け深い人だから、清盛に良いように取り成してくれるであろうと頼みに望みを託すと言うところで終わっており、能もこれに近い。

   ところで、この歌舞伎では、俊寛が妻のあづまやを限りなく愛していて、瀬尾から自害したと聞いて、生きる望みを完全に失って、帰郷への思いを諦めて、千鳥に乗船権を譲り自己犠牲へと導く。
   この原作の近松の「平家女護島」の一段目では、清盛が、俊寛僧都の美人妻あづまやにぞっこん惚れ込んで、義朝の愛妾常盤御前のように、邸内に囲って執拗に言い寄るのだが、潔しとせずに、あづまやは、自害することになっている。
   平家物語では、あづまやは、命を懸けて操を守り抜いたのではなく、鞍馬の奥に移り住み、鬼界が島に連れて行けと俊寛に纏わりついた幼女を亡くして悲嘆にくれて亡くなっており、
  「有王島下り」の章で、俊寛が可愛がっていた童・有王が、鬼界が島を訪れて、俊寛にこの話をすると、妻子にもう一度会いたいばっかりに生きながらえて来たのだが、たどたどしい文を書いてよこした12歳の娘を一人残すのは不憫だけれど、これ以上苦労をかけるのも身勝手であろうと、俊寛は、絶食して弥陀の名号を唱えながら息を引き取る。
   この娘も、法起寺にて仏門に入って俊寛の菩提を弔うのだが、
   この俊寛をめぐる一連のストーリーは、涙なしには読めなかったのだが、清盛の傍若無人ぶりは、言語道断を通り越していると言う思いで、学生時代に、平家物語を読んでいたのを思い出す。

   さて、「俊寛」だが、最も最近見たのは、能で、シテ/香川靖継で喜多流の舞台だが、この流派だけタイトルは「鬼界島」。
   その前は、国立劇場で、橋之助の「俊寛」。
   それに、文楽でも、歌舞伎では、吉右衛門、幸四郎の「俊寛」で、夫々何回か観ており、感想は、このブログで書き続けているので、蛇足は避けたい。

   しかし、柿落大歌舞伎であるから、今回は、満を持した最高の舞台とも言うべき豪華な役者揃いで、
   前述した仁左衛門以下、錚々たる面々の出演で、平判官康頼の歌六を加えた役者陣の素晴らしさは、言うまでもなく、感動的な舞台であった。
   
   さて、この第一部で上演された他のプログラムは、
   橋之助、勘九郎、魁春の「鞘當」。
   三津五郎、時蔵の「喜撰」。
   三津五郎のの軽妙洒脱な喜撰法師の舞は、今や頂点と言うべきか、二回目だったが、大変楽しませてくれて満足であった。
   
   
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三菱東京UFJフィナンシャルグループ第8期定時株主総会

2013年06月27日 | 経営・ビジネス
   恒例の武道館でのメガ総会であるが、一般株主の質問や要望が中心であったので、平穏無事な総会で、4月に社長に就任した平野信行氏は、非常に丁寧で真摯な議長を務めており、幸先の良いスタートであったと言えようか。
   総会は、冒頭から、例年の如く、支店での顧客対応の悪さに対する不満や質問が集中した感じであったが、その他で、やはり、注目を引いたのは、最近報道されたイラン関連の不正送金でNY州に和解金2.5億ドルを支払ったと言う件と金利など操作でシンガポール政府から処分を受けたと言う不祥事の問題である。

   三菱東京とUFJが合併した時に、20%の店舗を削減して実施した支店の統廃合によって生じた不都合が、問題の焦点となっていた。
   銀行側は、十分調査の上で、閉鎖した店舗跡にはATMを設置し、統合して存続した支店には、キャパシティを増設するなどサービスを充実すべく十分に対応を図って統廃合を実施したと答えるのだが、顧客にとっては、不便になった上に行員のサービスなり対応が悪いと苦情の連発である。
   いずれにしろ、店舗数を削減して業務の合理化効率化を図るのであるから、顧客にとって、以前よりサービス拠点が減って不便になるのは当たり前で、水掛け論になる。

   銀行としては、パソコンやスマホなどICTを活用して顧客サービスの効率化を図ってサービスを充実したいのであろうが、老齢化の進行と、ITデバイドの顧客が多くなって、何でも、店舗に出かけて行員の世話にならないと何も出来ないし不安で仕方がないと言う顧客が、結構沢山いて、まだまだ、窓口業務が大切であり必要だと言うことであろう。
   顧客サービスやカスタマーセンターなど、電話で対応してくれる窓口もあるが、大抵、音声案内の盥回しで、それに、随分待たされるのがオチであり、
   殆どの銀行業務はインターネットで出来ると言われて、パソコンで処理しようと思っても、中々、よく分からなくなって途中で暗礁に乗り上げてしまう。老人には住み辛い世の中になってしまったのである。
   プロシューマー(生産消費者)の時代で、ATMが最たる例だが、出来るだけ業務を顧客自身に代行させて、業務を合理化しようと言う姿勢も分からない訳ではないが、銀行業務と言うのは、特に、庶民相手のリテールの場合には、最も顧客に密接したサービス業務である筈であるから、やはり、ヒューマンタッチにも十分に意を用いるべきであろう。

  さて、海外事業における不祥事だが、ニューヨーク州に支払った245億円の和解金のことについては、会社の事業報告の最後で行った挨拶で、平野社長は、これに言及して陳謝したが、シンガポールの件については触れなかった。

   まず、三菱東京UFJ銀行が、取り引きを禁じられていたイランやミャンマーなどに違法に送金していたとして、銀行側が2億5000万ドル(245億円)の和解金を支払うと言う件だが、NHKの報道によると、
   ”クオモ州知事の声明によると、三菱東京UFJ銀行は2002年から07年の間にイラン、スーダン、ミャンマーなど制裁対象国やその関連団体との間で、ニューヨーク州を通して2万8000件、金額にして1000億ドル相当の電子決済を行い、当局が制裁違反の取り締まりに用いる取引関連データを除外していた。
   電子決済システムは制裁対象国に絡む取引を自動的に検知し、詳しい調査が行われる仕組みになっているが、三菱東京UFJ銀行は関連データを削除または省略する方法を従業員に文書で指示していたという。”のである。
   今回の問題については、同行が2007年に自主的な社内調査を行って関係当局に報告、その後、事務処理を改めるなど適切に対応したと、総会で、担当役員から説明があった。

   もう一つのシンガポール金融当局から、指標金利などの不正操作を図ったとして、銀行の内部管理の改善を求められた件だが、ブルームバーグによると、
   ”・・・三菱東京UFJ銀行など計20行のトレーダー133人が、シンガポール銀行間取引金利(SIBOR)と銀行間貸付スワップレート(SOR)、さらに外国為替レートの指標について操作を図ったと判断し、当局は指標の不正操作を刑法上の犯罪とすること、監督業務を直接の指導下に置くことも発表した。 当局は19行に対し、不正の度合いに応じてそれぞれ1億-12億シンガポール・ドルを1年間、無利子で積むことを命じた。”と言うことである。
   この問題は、大手銀行によるロンドン銀行間取引金利(LIBOR)不正操作問題が、シティを震撼させた後でもあり、世界的なグローバルベースの金融機関が殆ど加担していると言う深刻な状態である。
   リーマンショックで、ウォールストリートが壊滅状態に直面し、多くの金融機関が、税金で救済されたと言うあの金融危機は、一体何だったのか、喉元過ぎれば、モラルなど、どうでも良いのであろうか。

   今回のこのグローバルベースでの不祥事について、会社は、経緯を説明して、コンプライアンスとリスク・ガバナンスに万全を期して再発を防止すると応えていたのだが、国際部門は勿論法務部門や本社組織を糾合して、どのような管理体制で、どのように社内のリーガル対応システムを整えるのか、そして、実務部門の海外出先とどのように連携してコンプライアンス体制を構築するのか等々、会社の姿勢については、一切、語らなかった。
   何かと言うと、モルガン・スタンレーとの提携を通じたCIB(Corporate & Investment Banking)戦略の推進などを通じて、グローバルビジネスの拡大とプレゼンスの向上を目指す・・・と言うのだが、他の邦銀メガバンクが絡んでいないことを考えると、国際的不祥事まで、欧米並みに拡大するのか疑いたくなる。

   法令遵守や事務管理態勢の徹底的な見直しを行い改善に努めて行くと言うのなら、今まで、何が至らなくてこのような不祥事が起こったのか、そして、それならどのような新体制で臨むのか、また、
   ロイターに、”米国の経済制裁対応に関する同行の現状の内部管理態勢について、第三者機関に検証を委託することなどでも合意したとしている。”と言うのなら、もう少し、会社としての、グローバル・ベースのリーガルなコンプライアンス体制について、説明があってしかるべきではなかったかと言う気がしている。

   本来なら、このリーガルな問題は、極めて重要な経営問題であって、もっともっと追究されて紛糾する筈なのだが、総会屋が居なくなってしまった所為か、総会が、実に大人しい一般株主が、日頃の銀行のサービスの悪さに腹を立てて鬱憤晴らしのような場になって、経営者に緊張感がなくなってしまったような気がする。
   やはり、この総会も、12時になったので、途中で会場を出て、議案の採決の結果については、知らない。
   この日、三井住友も総会日であり、どちらに行こうかと迷ったのだが、結局、例年通り、アクティブな預金口座のある三菱東京UFJに来てしまった。

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ターミナル・ケアをどう考えるか

2013年06月26日 | 生活随想・趣味
   先日、遠い縁戚の老婦人が、脳梗塞で亡くなった。
   死のベッドで、家族間で問題になったのは、延命措置をとるかとらないかであった。
   結局、病床の本人の苦悶状態を見て、堪えられなくなった親族が安らかに見送るのが本人のためと自然死を選んだと言う。
   しかし、場合にもよるのだが、どんなことをしてでも、望みがあれば、出来るだけ永く生き長らえる道を選択して、あらゆる延命措置をとる人たちも結構多い。
   私など、そうなれば、生に執着するつもりはないので、娘たちに、延命措置など無用だと言い続けている。

   さて、問題は、この延命措置が良いのか悪いのかを、社会ベース、国家ベースで考えれば、どう言うことになるのか、トーマス・フリードマンたちが、「かっての超大国アメリカ」で、ターミナル・ケアと言うかたちで取り上げているので、考えてみたいと思う。

   CBSの「60ミニッツ」番組で、”メディケアは、患者が死ぬ前の最期の2か月間の診療費と入院費だけに、550億ドルを費やしており、これは、国土安全保障省や教育省の予算に相当する額である。また、その医療費の20~30%が、治療には殆ど意味をなさなかったと推定される。”と報じていたのを受けて論じている。
   寿命が延び、それを更に伸ばすために高価なテクノロジーや投薬を利用できるようになればなるほど、その組み合わせは国を破綻させる――すべての分野で医療費の増加を鈍らせない限りそうである。このため、政府が金を出すターミナル・ケアには、ある程度、暗黙の医療の割り当てが必要になる。と言うのである。

   
   医療に割り当てる公的資金をいくらにするか、予算措置をとっていない先進国はアメリカだけであり、持続できないような医療レベルを国民に約束して、白紙小切手を切り続けるわけには行かないので、社会の必要と個人の望みとを基盤に、全体の医療のレベルは、何処までが適切で、支払可能で、持続可能かを決めなければならない。
   そして、支払い可能で持続可能な範囲を決める時、ことに最後の1年のターミナル・ケアについて決める時は、科学的証拠に基づくものでなければならない。と言うのだが、要するに、医療行為が意味ある回復や延命に通じるのであればやるべきだが、一部のハイテク医療行為は、患者の利益にもならないものもあり、どうしても、命が終わる時まで医療を望むのであれば、自分の金でやれ、納税者の金で支払うのなら、厳格に規制すべきであると言うのである。

   日本の場合においても、国民健康保険制度の危機が問題となっており、システムはアメリカと違っても、国家財政が関わっていると言う意味においては、全く、同じ問題に遭遇している。
   先日、NHK BS1でのABCニュースで、同じ手術について、複数の病院に見積もりをとったら5倍くらいの開きがあったと報道していたのだが、フリードマンたちは、
   一本化された医療情報システムの確立が必要で、医療費を抑制する一環として、処置のみを基準とするのではなく、質が実証されて、コスト効率の高いサービスを基準に、病院や医師が医療費を支払われるシステムに移行する必要がある。と主張している。

   昔、保険代理店業を営んでいた友人が、人々の寿命が延びると言うことが、人類の不幸の始まりで、益々、年金や保険行政を悪化させ、人類社会を窮地に追い込んでいるのだと言っていたのだが、複雑な気持ちで聞いていた。
   医療に関するイノベーションや高度なテクノロジーの発展が、人々の命を守り、寿命を延ばすの大いに貢献しているのだが、そのために、益々、社会保障制度に負担をかけて財政を悪化させて行くので、ターミナル・ケアの水準を見直して、ダウングレードしなければならないと言うアメリカの現実をどう見るのか。
   一寸考えさせられたので、記事にしてみた。
   
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みずほフィナンシャルグループ第11期定時株主総会

2013年06月25日 | 経営・ビジネス
   他のメガバンクの株主総会が、27日なので、みずほの株主総会に出てみた。
   特に、今回は、不祥事があるわけでもなく、極端な経済不況でも金融危機でもないので、会場としては、トップクラスのイヴェント会場である東京フォーラム(ホールA)であるから申し分なく、平安な総会であった。
   同じような株主質問や要望が続いていたので、2時間経過した時点で、会場を出たので、その後の状態は分からないが、無事に、会社提案議案は承認されて、9件もあった株主提案は、否決されたのであろう。


   やはり、問題になったのは、他の二つのメガバンクと比べての、みずほの株価の低さと配当の少なさ、であった。
   多くの株主が、みずほの株を持っているが故に大損をしている筈だと厳しい指摘があったが、私の場合にも、多くはないが、興銀時代からの株なので、3分の1以下の水準で、回復は有り得ないと諦めているものの、せめて、もう少し上がればと期待だけはしている。

   株主から、名実ともにトップ銀行であった筈の3行が合併したメガバンクのみずほが、何故、これ程までに業績が悪いのかと質問があったが、確かに、私が欧米プロジェクトを、ロンドンなどで一緒に仕事をしていた興銀の人たちのレベルが非常に高くてファンとなって株も買ったのだし、不思議に思ってはいる。

   3メガバンクの比較だが、みずほは、業績や財務内容等が悪いので、株価が低いのは、当然である。
   しかし、リーマンショック以降、経営再生のために、増資を行った時に、株価が低いために発行株式数を水増しせざるを得なかったなどのこともあって、100億株も多い他行の倍近い株式数となっているために、当然、配当が低くなり、更に、株価が低落すると言う悪循環と言うか、下降スパイラル現象が起こる。
   焼け石に水であろうとも、自己株式を購入して株を償却するなどして、発行株式数を減らす姿勢を示す以外に方法はないであろう。
   他のメガバンクと同じ時価総額であっても、そして、同じ配当原資総額で同じ配当性向であっても、発行株式数が倍であれば、配当金額は、他行の半分とならざるを得ず、一株当たりの配当金額で、他行との比較は無理である。
   時価による配当利回りでの比較で満足する以外に仕方がなかろうと思うのだが、古くからの株主は、株数はともかく、他のメガバンクと同じような一株配当金額でないと納得しないであろう。
   複数の株主から、恨み節が語られていたが、かって株主利益の軽視の極とも言うべき、抜き打ち増資を行ったのであるから、株価と配当の低さに対する株主の非難は中々払拭不可能であり、みずほ経営者の背負った永遠の十字架だと言っても過言ではなかろう。

   ところで、配当について質問されると、
   ”当社は、「安定的な自己資本の充実」と「着実な株主還元」の最適なバランスを図る「規律ある資本政策」を推進しており、この方針のもとに、・・・”と鸚鵡返しに応えていたが、早い話が、「安定的な自己資本の充実」とは、「着実な株主還元」とは何なのか、最適なバランスを図る「規律ある資本政策」とは何なのか、最適なバランスなどどうしてはじき出すのか等々はっきり分からないし、大体、配当性向に関する目標数字なり基本的な考え方はないと回答をしていたくらいであるから、好い加減と言われても仕方がなかろう。

   株主から、グループCEOである佐藤康博社長が、たった、600万円の自社株保有(193円×32,880株=6,345,840円)で、責任ある経営が出来るのかと疑問を呈していたのに対して、佐藤社長が、真摯に回答していたが、とにかく、リーマンショックが原因であろうとなかろうと、こんなに酷い株価が続いて、株主にいつまでも、みずほの株主であることを悔やみ続けれられると言うのも辛いと思うのだが、せめても、必死になって、他のメガバンクに並ぶくらいの業績に近づくべきであろう。

   さて、みずほの成長戦略なり攻めの経営については、銀行業そのものが具体性に欠けている所為もあってか、非常に抽象的で、能書きお題目の羅列と言った感じで、分かり辛い。
   「One MIZUHO New Fronteir プラン~みずほの挑戦~」と言う25年度より3年間の中期経営計画を打ち立て、これについてディスプレイを利用して説明を行っていた。 
   今回、みずほ銀行とみずほコーポレート銀行が合併してOne Bank体制になり、証券会社も統合されるので、持ち株会社みずほFG傘下での3本体制になる。
   既に、3つの巨大銀行が合併して肥大化が極に達した組織を、更に、統合して、「One MIZUHO 未来へ。お客様とともに」と言う形で、経営統合のみならず、ブランド戦略においても、一本化を図ると言うことだが、組織疲労も良いところで、単独でさえ18,000人の大所帯を、どうして、シナジー効果を発揮して、グローバル・ベースで、有効かつ強力なグループガバナンスを実現するのか。経営学上も、大いに疑問を感じている。

   正に、グローバリゼーションとICT革命によって、クリエイティブ時代となり、他とは違った価値ある商品やサービスを提供しない限り顧客満足度を高められない昨今、中央統制によるOne MIZUHOで、益々、全体主義的な組織経営体制を取って、統率しようと言うような前近代的な経営方針で上手く行くのであろうか。
   今こそ、組織をアドホックに自由に解き放って、イノベーションを誘発するような総アントレプレナー志向の高度な知的スタッフによるクリエティブなBANKを目指すべきではないかと思うのだが、どうであろうか。

   もう一つ、個人株主から、毎年、多くの株主提案が上程されて、議案となっているのだが、確かに、定款変更と言う形で出ているので、必ずしも、定款に記載すべき程の事項でないことが多いので、当社取締役会の意見として、木で鼻を括ったような説明で退けているのだが、株主が指摘していたように、中には、真っ当な提案もあるので、もう少し真摯に対応すべきであろう。
   慇懃だが意味不明の会社回答で、毎年、退けているのだが、そんな態度をとれるのは、経営を立て直して利益を上げて、株主の満足するような株価や配当で応えることが出来てからの話ではないかと思っている。
   
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トマト・プランター栽培記録2013(10)桃太郎ゴールド尻腐れ病に罹る

2013年06月23日 | トマト・プランター栽培記録2013
   折角結実して、少し大きくなり始めた桃太郎ゴールドの一花房が、口絵写真のように、10円玉くらいの大きさの実が、尻腐れ病に罹ってしまった。
   4つ結実した実の内の3つが罹ったのだが、一つは正常な状態だし、まだ、花が花房の先についているので、取りあえず、病気の3つの実を落として、様子を見ることにした。
   他のトマトの木や、他の桃太郎ゴールドの木や実にも、その兆候もなさそうだし、それに、特に、異常な土を使ったり施肥をしたわけでもないので、全部には影響はなさそうだと思ったからである。

   住友化学園芸のHPによると、
   ”肥料成分であるカルシウムの吸収が足りないと発生します。発生しやすい条件としては、土壌中のカルシウムが不足する場合の他、例え土壌中にカルシウムがあっても、土壌が酸性に傾いている場合や土壌の乾燥が続く場合、また、肥料を多くやり過ぎ、チッ素過多になった場合なども肥料バランスが崩れることでカルシウムの吸収が抑制され、尻腐れ症が発生しやすくなります。”と言うことだが、思い当たるふしもないし、他の木にも兆候が出れば別だが、もう少し、様子を見てから、対策を考えようと思う。

   以前に、尻腐れ病に罹ったことがあり、その時は、2~3本だけだったと思うのだが、色付き前のアイコの実が、花房の殆どの実の底部が真っ黒になったりしたし、他の種類の実も、木によっては、数個ずつくらい黒くなったことがある。
   しかし、どんどん、実が成って色付き始めるので、尻腐れ病に罹った実はもぎ取って間引くだけで、大勢に影響がないので、今年も、そうしようと思っている。
   いずれにしろ、無農薬で育てたいので、気にしないことにする。

   もう一つ、桃太郎ゴールドの他の木のゴルフ玉くらいになった実の一つが、黒ずんでいるのだが、これは、実の先が良く黒ずむことがあるのに似ているので、一寸違うような感じなので、実は落としたが、他の実については、様子見である。
   

   ビギナーズ・トマトの第一花房の実も、色付き始めて来た。
   隣のピンクのミニトマトは、第二花房も色づいて来た。
   やはり、トマトは、色づかないとトマトらしさがないので面白くないのだが、梅雨で雨量が多いと、色付いた実が破裂して亀裂が入ることがあるので、成熟するタイミングも重要である。
   
   

   風が強かったので、支柱に結わえつけて置かなかった上部の枝が、何本か折れてしまった。
   第3花房上くらいで枝が折れると、切り取って、もし、下の方で、取り忘れた脇芽が残っておれば、代わりに、この芽を伸ばして、第3花房くらいまで、代替主柱とすることにしている。
   ところで、アイコなど、何本かのミニトマトは、2本仕立てにしたが、今年は、木にもよるが、副枝の育ちが、あまり良くないので、第3花房くらいで止めることにした。

   他のトマト苗は、まずまずの育ちで、実が大分肥大してきた。
   日本のトマトの苗は、結構、育ちが良くて、テキスト通りの生育だが、イタリアン・トマトは、枝の出方や花の付き方が、個体差が多くて、色々で、どうも、育ちが歪でばらつきが多いのだが、今回の苗木が、悪かったのかも知れないと思っている。
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ワールドカップ投資に反抗するブラジル暴動

2013年06月21日 | 政治・経済・社会
   「Anti-government protests grip Brazil」
    これが、ワシントンポストの記事のタイトルだが、100万人のブラジル人たちが、全土で、正に、内戦さながらの抗議デモを展開しており、国会議事堂がターゲットになるのは当然として、コンフェデの会場にまで押しかけていると言う。
   当初は、地下鉄やバスなど公共料金の値上げに反対した若者たちのデモに源を発したようだが、国民たちの、教育や医療など国民生活の向上を無視して、来年のサッカー・ワールドカップに向けて競技場などに膨大な投資を進める政府への鬱積した不満が一挙に爆発した結果だと言う。
   
   この口絵写真は、ルセフ大統領が就任直後に汚職塗れの閣僚を9人も更迭しなければならなかった時の、エコノミストの記事からの借用だが、古色蒼然としたラテン気質的な政治腐敗やアミーゴ縁故社会的な保守反動社会への国民の開花と目覚めの兆しとも言えようか。
   BRIC'sの文字の真っ先のブラジルだが、経済大国であるとしても、前近代的な政治経済社会体制の遅れとグローバルスタンダードとの乖離が、福祉重視のブラジル人気質と相いれないのかも知れないが、金もないのに、ワールドカップやオリンピックなどの国威発揚に、膨大な金を注ぎ込むのではなく、もっと、足元を見よと言う国民の意思の表れでもある。
   いずれにしろ、熱狂はするが、激昂したり激しくプロテストしたりするようなことのなかったブラジル人が、自分たちの税金がどのように使われているのか、不明朗極まりない腐敗政治から決別すべきだと目覚め始めた国民の強烈なプロパガンダだと言うことであろう。

   
   暴動と言えば、もっと、酷くて、オリンピックに立候補したことさえ忘れて、内戦状態になっているのがトルコで、反政府デモの発端は、イスタンブール中心部に残された数少ない緑地であるゲジ公園の再開発計画だったが、非人道的な警察の行動や、相談もなく強引に進められる巨大計画など、エルドアン首相が国の統治に用いているイスラム教義を押し付けようとする権威主義的な施政に対する若者たちの憤懣が爆発したのだと言う。
   エコノミスト誌が、”このトルコの混乱を、イスラム主義と民主主義が共存できないことを示す新たな証拠と見る人もいる。だが、エルドアン首相の宗教性は、問題の要点ではない。この一連の事態の本当の教訓は、権威主義に関わるものだ。オスマン帝国のスルタン(皇帝)のように振る舞う中流の民主主義者に、トルコは我慢ができないのだ。”と書いているが、アタチュルクとはちがうということであろうか.

   最近のもう一つの激しい動きは、インドネシアでの石油値上げへの国民のデモである。
   インドネシア政府の「4月から石油燃料を約33%値上げする」との発表に反対して、市民・労組員・学生らによるデモが各地で起こって、ジャカルタで数千人規模の抗議デモが街頭に展開され、警官1万4000人が警備にあたったと報道されていた。

   ブラジルもトルコもインドネシアも、アメリカの投資会社が、成長著しい新興国の雄として持ち上げ過ぎている国々だが、政治経済社会体制が、発展段階にあって、非常に脆弱なので、簡単に、国民の激しい抗議行動が勃発して、深刻な社会不安を引き起こす。
   投資有望国であっても、それは平時のことであって、カントリー・リスクは、極めて高い。

   冷戦時代には、海外投資をするためには、真っ先に、その投資先のカントリー・リスクを調査して、リスクの高いところへの投資は避けたのだが、今日では、グローバリゼーションの流布と世界のフラット化によって、殆ど、ホスト国のカントリー・リスクを心配しなくなっている。
   しかし、中国の反日暴動やアンチ・ジャパニーズ・センチメントを警戒して、日本企業が、中国から投資を引き上げるケースが出てきたように、これからは、益々、政情の不安定な民主主義の未成熟な国や地域への投資や進出には、十分に注意すべきであろう。

   その点では、もう少し成熟した先進国では、いくら、政治経済社会情勢が深刻でも、激しい暴動に行くことは、比較的少ない。
   その筆頭は、失業率が20%をはるかに超えていて、若年労働者の56%が失業していると言うスペインであろうか。
   若年労働者の失業率の高さは、EUを始め世界的な傾向だが、それにしても、過半数以上の若者に職がないと言うのは、異常を通り越しており、本来なら、国中が騒乱状態になっていても不思議ではない筈である。
   アメリカや日本なども、深刻さに対する反発係数が、極めて低い国かも知れない。

   さて、なぜこれ程までに、強烈なデモが頻発して、全土に渡って騒乱状態が展開されるのか。
   これは、アラブの春で独裁者たちによる専制政治が一挙に崩壊したように、ICT革命、特に、ツイッターやフェイスブックなどによるソーシャル・ネットワーク革命によって国民のマス行動を可能にしたからである。
   このように規模が大きくて高度な組織統制システムを持つのは、これまでは、政府や軍隊だけであったのだが、安くてかつ簡単に容易に大衆を動員できるICTシステムが普及したことによって、一般市民が持つようになったからであろう。
   今や、何事であれ、情報を隠蔽することなどは極めて難しくなり、中央からの統制などは殆ど不可能になってしまった。

   騒乱状態にあるシリア政府は、当初、外国のネットワーク、テレビ局の国内での取材を禁止すれば、反政府勢力に対する残虐行為が国外に漏れる気遣いはないと考えていたのだが、SNNと称するウエブサイトの立上げによって、アサド政権が自国民を虐殺している動画が流布し始めて、多くの外国メディアがこれを取り上げて、一挙に国際問題となった。
   多数の携帯電話やワイヤレス接続が可能となり、何処の僻地からでも僅かな費用でSNNのような簡易放送局のような簡便な情報発信システムが構築でき、個人のパソコンや携帯端末が、全世界への情報発信基地になってしまった。
   アサド政権も、電気がそうであるように、携帯電話網などをすべて遮断するなどは出来なくなって、手の打ちようがなくなってしまったのだが、これこそ、フラット化する世界2.0の威力だと、フリードマンは説いている。

    四半世紀前のベルリンの壁崩壊の時には、東欧諸国の民衆たちは、無線ラジオで、西欧の情報をキャッチして革命を起こしたと言うのだが、今の情報革命の威力は桁違いに大きくて強力である。
   さて、わが日本の隣国中国などの民主化の進展は、どうであろうか。
   案外、時間の問題かも知れない。
   
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ソニー第96回定時株主総会

2013年06月20日 | 経営・ビジネス
   ソニーの2012年度の決算は、売上高及び営業収益が、6兆8千億円に対して、当期純利益は、430億円。
   僅か0.63%だが、それでも、黒字決算であるから、良しとすべきだが、株主総会召集通知書には、”営業損益の大幅改善は、金融、映画分野が好調であったことに加え、事業ポートフォリオの再編や財務体質強化の一環として行った資産売却にともない2000億円を越える利益を計上したため。”と記されており、要するに、殆ど、血の滲むような合理化やコスト削減と資産売却によって辻褄を合わせた数字であって、攻撃や新規展開によって、業績が回復した訳ではない。
   加藤CFOが、「5年ぶりに最終損益の黒字化を達成したが、テレビ事業が依然赤字であり、課題を残した」と述べたように、コア・ビジネスの業績への貢献は、殆ど無に等しいところに問題があり、平井一夫CEOは、「ソニーの歴史の中で最も大胆な改革を実行した」と就任1年目の成果を強調したのだが、どうであろうか。

   さて、問題の7%の株を取得した大株主である投資ファンドの米サード・ポイント社が映画、音楽などのエンターテインメント事業の独立を求めている会社分割案については、産経は、「検討を先送りする方針を示した。」と報じているが、株主質問に対しては、新聞報道の域を出ない回答に終始して、今回の総会で決定される新役員会で、真剣に検討すると答えていた。
   しかし、これまでの報道や平井CEOの発言などのニュアンスからは、コングロマリット(複合企業)の利点として、娯楽業界に全般的な業域を保有して影響力を持っていたことが同社のブルーレイディスクの販売を支えたことなどを指摘しており、また、エンターテインメント事業は今後もソニーの成長戦略を実現していく上で大変重要なコア事業とし、金融事業も含めてエレクトロニクス事業との一体運営が重要だとも説いており、持てる経営資源を統合してシナジー効果を最大限に発揮して、競争力を強化して行こうと考えていることは明白なので、執行役員CEOとしては、サード・ポイント案には、否定的であろう。

   尤も、ソニーとしての最善の結論を取締役会で決定したとしても、名うてのもの言うアメリカの投資ファンドにどう対決するのか、欧米の投資家やメディアも注視しており、対応次第では、ソニーに激震が走るかも知れない経営上の大きな試練であることには間違いなかろう。

   私は、このブログで、以前に、テレビは、コモディティ化の最たるものであり、最早、日本企業の業域ではなくなっており、ソニーは、テレビ事業から撤退すべきだと書いたことがある。
   WSJが、”ソニーのエレクトロニクス部門は、テレビ事業がほぼ10年間にわたって損失に見舞われているため赤字に陥っており、エレクトロニクス部門から全面的に撤退すべきだとの声も出ている。”と報じている。
   これだけ、赤字が続いている業績の悪い事業を、ソニーが続け得たのは、日本的な経営風土のなせる業であり、ソニーが、金融事業などで収益を上げていたためであって、欧米産業の経営では、あり得ないことである。

   このテレビだが、今回の株主総会後の「商品展示会」の主役は、やはり、4Kのテレビ受像機であった。
   昨年は、3Dテレビだったが、これは、完全に消費者がソッポを向いてしまったのか、鳴かず飛ばずで、最近では、映画館の3D映画さえ、殆ど上映されなくなっている。
   ソフトの充実もなく、テレビ放映もなく、全く、環境条件が整っていない段階で、受像機器だけ鳴り物入りで売り出すなどと言うのは、イノベーションのイも知らない暴挙で、当然であろう。

   さて、今年は、4Kだが、確かに、素晴らしいが、それは、大画面で見た時に、その威力が分かるだけで、家庭のテレビ受像機などでは、フルハイビジョンの段階で、十二分に顧客満足を実現しており、クリステンセンの持続的イノベーションの過剰段階だと考えられるので、顧客は付加価値分を支払おうと思わないであろうし、購買を刺激するとは思えない。
   今普及しているテレビより安ければ買い替えるかも知れないが、テレビそのものがコモディティ化してしまった商品である以上、差別化は殆ど無理で、価格競争が総てとなるので、すぐに、新興国企業がキャッチアップして来て、先行者利潤さえ、怪しくなる筈である。

   総会で、オタク相手ではなく普通の人間が楽しめる、もっと使い易い分かり易いソニーらしい商品を出してくれと言った意見が出ていたのに、スマホとタイアップしたテレビを開発していると答えていたが、ICT革命の時代に、パソコンさえ使えないITデバイドの老人(株主総会に来ている人の相当多くはこの部類)が多いのをどう考えているのであろうか。
   その意味では、説明書なしでも使える、アップルなどのシンプルな製品の良さは、根本的な経営哲学の落差であろうと思う。

   ところで、その4K受像機だが、商品説明会の冒頭、映像作家・貫井勇志氏が、口絵写真のように、イタリアで撮影した写真を、数枚、正面の4K受像機に映して、映像の説明をし、見学者に、デジタル一眼レフα99で、実際に写させて、4Kの威力を説明していた。
   私も、デジカメで、4Kディスプレィ上の貫井氏の写真を撮って拡大して確認したが、写真の粒子と言うか画素の密度は、格段に上達していて、確かに、4Kの素晴らしさを実感した。
   しかし、前述したように、私には、安ければ買うと言う程度の食指しか、動かない。

   さて、平井CEOは、幼少時代からのソニー商品への思い入れを語りながら、「ソニーがソニーであるためには、ワォーと叫ぶような、顧客に経験したことのない驚きや感動を提供し、好奇心を刺激する商品を生み出すことで、機能価値のみならず、心を動かす感性価値を創造することが必須である。顧客満足からはまだ距離のある感性価値を持った製品が少しずつ出て来ており、デジタルカメラDSC-RX1やスマートフォンのXperiaがそれに当たる。」などと製品開発などについて熱っぽく語った。
   平井社長は、「エレクトロニクス事業の強化」「エンタテインメントおよび金融事業の収益強化」「グループ全体の財務基盤のさらなる強化」を今年度の目標とし、モバイル、イメージング、ゲームのコア3事業の変革によって、ソニーの総合力を生かした最強の製品を投入して、今期から攻めの体制にシフトするとも言及した。

   私の注目したのは、最早、ソニーだけでは、製品を開発できなくなって来ており、他者とのコラボレーション連携が必要になったと言っていたことだが、グローバル・ベースで、事業環境が、オープン・ビジネス、オープン・イノベーションの時代に突入しているにも拘わらず、いまだに、コングロマリットとしてのソニー自身の総合力に経営戦略の軸足を置き過ぎているようで、ソニーの外部へのオープン性、コラボレーション、共創戦略には、大いに疑問を持っている。

   クリス・アンダーソンが、「メイカーズ」で、サン・マイクロシステムズのビル・ジョイが、「一番優秀な奴は、大抵、他所にいる。」と言ったと紹介していて、その本の中で、ソニーが鳴り物入りで、スマート・ウォッチを、アメリカで150ドルで発売すると発表した時に、ほんの数人のメーカー的な起業家が、デザインでも価格でもはるかに上を行くウォッチを、オープン・イノベーションで開発して、巨大な多国籍企業ソニーの鼻を明かしたと書いている。

   ソニーは、2000人の優秀な技術集団を抱えたR&E軍団が、新製品開発とイノベーションを日夜熱心に追求していると説明していたが、破壊的イノベーションが、一向に、生まれそうにないのは、内向きだからではないであろうか。
   アップルのスティーブ・ジョブズと比べれば分かるが、ソニーが成功した破壊的イノベーションは、すべて、前世紀的な旧来のモノづくり時代に自社オンリーで生み出したものだが、アップルは、すべて、ICT革命とグローバリゼーションの潮流に乗ってオープン・ビジネスと他者との共創によって生み出したものである。
   平井社長のワクワクするようなソニー製品の開発意欲は、非常によく分かるのだが、私には、ソニーが、どこか、時代の潮流とはややかけ離れたイノベーション戦略を撮り続けているような気がして仕方がない。

   
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アマゾンのプラットフォーム・イノベーション

2013年06月19日 | イノベーションと経営
   先日、ブックレビューしたチェスブロウの「オープン・サービス・イノベーション」に、アマゾンの項で、「成長をつづけるプラットフォームのリーダー」として、かなり、詳しく、アマゾンのイノベーションについて書いてあり、私自身も、利用しているので、その関わりもあって、感想を述べてみたい。
   
   私自身、まだ、キンドルを利用していないので、本については、あくまで、紙媒体の本であり、その他については、アマゾンでのネット・ショッピングに関する印象が主体となる。   まず、チェスブロウのアマゾン説について概観し、その後で、私自身の感想を述べてみたい。

   アマゾンは、オンライン書籍販売からビジネスを開始したが、当初からの大きなビジネス上の長所は、顧客の注文と代金をプロセスの初期の段階で受け取るので、現金を手にしてから業者への発注分の支払いができるので、デルコンピュータ同様、ポジティブなキャッシュ・フローとなり、顧客から直接的に事業拡大の資金が得られる仕組みで、利幅が少なくても、魅力的なビジネスモデルであった。
   プロセスが稼働して、大きな範囲の経済性を生むようになると、CDやビデオ、おもちゃ、電子機器、工具、ソフトウエア、携帯電話、台所用品、ガーデニング用品等々、どんどん、扱う品目を拡大して行き、より多くの買い手が様々な商品を購入するために、アマゾンにアクセスするようになった。
   

   ここで、重要なのは、アマゾンは、オンライン販売の王者として、自社販売商品の種類をどんどん増やして行き、すべての必要な機能を単一企業で満たせるようにするクローズド・イノベーションではなくて、
   他社が商品を掲載できるような強力なオンライン・サイトを構築して、オープン化する戦略を取ったので、このオープン性によって範囲の経済性が拡大して、商品を売ろうとする多くの他社がプラットフォームに参入して来たことである。
   当初は、zShopを開始して、他社がアマゾンのサイトの一部で商品の購入や注文処理を行っていたが、種々問題が起こったので、アマゾンが、支払処理や、商品の掲載や宣伝なども引き受けて、現在では、アマゾンの商品と同様に、単一のウエブ・サイト内で発注処理できるようになり、アマゾンの利用者は、他社への注文かどうかさえも殆ど気が付かないような状態になっている。

   

   更にオープン化が進んで、アマゾンには、通販サイトの運営に関する豊富な知識やノウハウがあるので、自社サイトで商品を扱いたいと言う大手の小売業者と提携して、他社による通販サイトの作成を手助けして、アマゾンのサーバで他社のサイトをホステリングして、インフラの提供者となっている。

   最近では、潜在的な顧客に対する「エラスティック・コンピュータ・クラウド(EC2)」と言う新しいビジネスを創始した。
   自社でIT機器や専門家を管理できないような事業規模や専門知識を持たない中小企業などに対して、アマゾンがコンピュータ能力を提供して、他社のIT機能を肩代わりして、使われたサービスのみに料金を課すと言うシステムで、利用者にとっては、専門知識のない分野に多額の投資をする必要もなく、豊かな経験と知識を持つアマゾンが管理する低額のランニングコストだけで、販売できるのだから至れり尽くせりである。

   このようにして、アマゾンは、他の小売業者と幅広く提携して、商品の幅を広げて行くことで、極めて大きな範囲の経済性を生み出し、様々なニーズを満たす買い物が出来るワンストップ・ショッピングを実現した。
   他社のウエブサイトのホステリングやEC2等で、他社の取引を加えることによって、初期投資だと非常に高くつくインフラの構築であったが、使用頻度の拡大によって、利用コストは、限りなく縮小して行った。
   それ故に、アマゾンは、他社に、インフラを好条件で提供しつつ健全な利益を得ることが出来、利用者は、インフラの購入、設置、運営、修理、維持と言った固定費を削ることが出来たのである。

   更に、重要なアマゾンの優位性は、蓄積した膨大な情報量で、これに匹敵するのは、グーグル、マイクロソフト、IBMと言った一部の企業のみで、書店界の雄であったバーンズ&ノーブルやボーダーズは足元にも及ばず、太刀打ちできなかったのは、当然であろう。
   ネットショッピングの色々な要素を頻繁に組み合わせて、強力かつ維持可能な関係式を作り出し、大量データを処理することで最も効率の高いデータ処理会社として、かつまた、膨大な販売量を活用して、巨大な範囲の経済性を齎して利用者に最高の利便性を提供できる企業は、アマゾン以外にはなく、これこそが、無限大の優位性であり、コモディティ・トラップからの解放であろう。

   以上が、チャスブロウのアマゾンのプラットフォーム・イノベーションの骨子である。

   それでは、楽天やヤフーとどう違うのかと言うことだが、まず、アマゾンの、提携会社や出店会社に対する一体感と信頼性については、問題なく、かつ、ワンストップ・ショッピング機能は十分だと言うことであろうか。
   購入者のレビュー評価や、「○○を購入した60%の人が、××も購入しています」などと言った種々の顧客との共創システムは、どこのネットショッピング会社でも真似をしており、何でもないことだが、アマゾンの膨大なデータ量からの反映だと言うことになると、多少、ニュアンスが違って来るかも知れない。

   
   私は、家電やカメラなど、型番や商品がはっきりしていて同じものについては、結構、ネットショッピングで買うことが多いのだが、価格コムあたりで価格を調べて、まずまずの値段であれば、アマゾンで買うことが、多くなっている。
   かなり安くて、送料やクレジット・カード支払いなど煩わしいことは殆どなく、とにかく、処理が早くて適切で、条件の違う沢山の店舗が出店している他のサイトよりは、便利である。
   商品によっては、他店の販売もあるのだが、「Amazon.co.jp が販売、発送します。」とか、「Amazon.co.jp 配送センターより発送されます」 と明記されている商品もあるし、かなり、アマゾンの管理が行き届いているような気がしている。
   しかし、楽天でワインを買ったり、ヤフーでDVDを買うこともあるし、正直なところ、チェスブロウの言う程、アマゾンの優位性について、あまり感じたことはない。

   本については、日本版のブックレビューは、レビューアーの質に問題があるので、私は、殆ど見ないし参考にもすることはない。
   しかし、アメリカ版のアマゾンのレビューや関連資料は、かなり、しっかりしているので、原書や翻訳本の参考にすることがある。
   ブックレビューは、かっては、熱心に投稿し、ベストレビューアー36位くらいまで行ったことがあったが、故意に、何の連絡もなく、投稿レビューを、数編、一挙に削除されたことがあったので、信用できなくなって、それ以降、止めてしまって、このブログのブックレビューに切り替えた。
   記録も兼ねているつもりなので、かなり、力を入れて書いている。

   本は、アマゾンや他のネットショップと書店で買うのが、半々くらい。
   最近では、読みそびれていた本や資料関連本を、アマゾンの「中古品の出店」と言うコーナーから買うこともあるのだが、「中古品 - 非常に良い」を選べば、殆ど新品で、問題がない。
   どんな本でも、あれば探せると言うネット・ブックショップのロングテール現象のお蔭だが、ITC革命の恩恵でもあろう。
   これは、個人や古書店などの出店なので信頼性は一律ではないが、購入者の評価がアップツーデートに掲載されるので、まずまず、信用できるであろう。
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日本をイノベーション立国に

2013年06月17日 | 政治・経済・社会
   今日の日経朝刊で、早稲田大学とNTTDaTaの共同広告記事として、イノベーションを中心に論じられた「早稲田会議」CEOラウンドテーブルが掲載されていた。
   議論されていることも、提議されている問題意識も、至極御尤もで、異論の余地はないと思うのだが、私なりの感想を記しておきたい。

   そのために、まず、現在をどう捉えるかが非常に重要だと思うので、トーマス・フリードマンとマイケル・マンデルバウムが、「かっての超大国アメリカ」の冒頭で説いている問題意識が、私自身は、最も適切だと思うので、その要旨から論じてみたい。

   ”現在の大きな難題は、グローバリゼーション、IT革命、抑えられない財政赤字と負債、エネルギー需要の急増と気候変動等々、すべては、徐々に進む変化で、これらの難題の最も厄介な特徴は、危機的な段階になるまで察知が難しいことだ。
   現在の難題が、前世紀の難題と最も重要な点での違いは、大恐慌、ドイツと日本のファシズム、ソ連の共産主義等、偉大な世代が直面したのは、いずれも逃げられない差し迫った現実の問題であったが故に、国民一丸となって雄々しく戦って克服してきた。
   ところが、共産主義の終焉によって、最大の強敵を失ったことによって、鋭敏で、外界に注意を集中し、国家建設に真剣に取り組んで、アメリカン・ドリームを体現した豊かな社会を追求して来た活力は何処へやら、
   気が緩んでしまって、徐々に忍び寄って来た深刻な難題を、きちんと理解しなかったために、十分な先行投資をせずに、また、教育や研究開発に力を入れてもっと勉強し、貯蓄して赤字を減らし、インフラを再建し、国を開放して外国の才能ある人々にとって魅力的な国にするなど、アメリカ経済を適切に管理すべきであった時に、その日暮らしをしてきて、アメリカを窮地に追い込んでしまった。

   冷戦終結とその後の難題は、私たちの環境に根本的な変化を齎し、これからの数十年は、新しいグローバル環境に適応できる個人、企業、国だけが繁栄する。
   アメリカのこれまでほぼ総てのもの――政治、社会生活、国際社会における役割、国の個性――の基盤は、経済成長によって実現されてきた。
   したがって、現在の深刻な四つの難題を克服するためにも、アメリカ経済の成長率とそのありようにかかっており、アメリカン・ドリームも、持続する活気のある経済成長に依存していると言えよう。
   イギリスが衰退した時には、アメリカが代役を買って出たが、今や、アメリカに変わって世界政府を引き受ける覚悟のある国は、何処もないので、これらの目前の難題を如何に解決するかは、アメリカにとって重要であるばかりではなく、残された21世紀の世界の命運を決すると言っても過言ではない。”

   もう一つの指摘は、
   IT革命について、「知識の時代の到来」であって、仕事の構成要素を根本的に変革し、従来の仕事を消滅させ、全く新しい産業を含めて、新しい仕事を、これまでにない速さで次々と生み出した。
   そうした仕事は、すべて複雑で、批判的思考(クリティカル・シンキング)を一層必要とし、アメリカ人は、総て、もっと高度な教育を受けなければならず、知力によってのみ繁栄が齎される社会となるのである。としていることである。

   現状の把握については、フリードマンとマンデルバウムは、
   人類にとって死ぬか生きるかと言った危機的な状態は、ベルリンの壁の崩壊によって去ったが、逆に、グローバリゼーション、IT革命、財政赤字、エネルギーと地球温暖化と言う4つの難題にどう対処するのかが問われており、これらの問題を、経済成長によって解決しない限り、人類に未来はないのだが、我々には、危機意識が欠如しており、今こそ、一丸となって立ち上がらなければならない。
   ICT革命によって齎されたグローバルベースの「知識の時代」の到来によって、知力によってのみしかクリエイティブな仕事や価値を創造できなくなって来たので、より良い生活を維持するためには、アメリカ人は、もっともっと高度な教育訓練を受けて知的水準をレベルアップしなければならない。と言っているのであろう。

   課題先進国日本と言う視点から、日本でも同じような問題意識で現状を捉えており、20年以上もデフレ不況に泣きながらも、殆ど有効な手を打つこともなく、国際条理においても、どんどん、地位が下落し続けているにも拘らず、太平天国を決め込んでおり、危機意識の希薄さにおいては、アメリカ以上かも知れない。

   アメリカの難題以外にも、少子高齢化など日本独自の問題もあって、日本の現状と将来も、極めて深刻な局面に陥っているのだが、いずれにしろ、物理的には、いかなる理由があろうとも、経済成長を促進する以外に、問題の根本的な解決策は、日本の将来にはなく、そのためには、日本国家一丸となって、イノベーションを国是として追及するイノベーション立国を国家目標にすることが必須だと考えられる。
   経済成長より、公平でフェアな豊かな社会を目指そうと夢のような理論を展開する政党や人々が居るが、たとえば、誰が計算しても分かるように、経済成長がなければ、税収を異常にアップするか、徳政令の発令など非常手段で国民から調達するかなどして埋め合わせない限り国家債務問題は解決できないし、このままでは、国家経済が破たんすることは、明白であろう。

   しからば、根本的な問題は、やはり、人の問題で、日本国民、特に、若い日本人総てを、イノベーター、アントレプレナーとすること、少なくとも、そうなれるような環境なり土壌を、日本の経済社会に構築することである。
   色々問題はあろうが、ホリエモンや村上ファンドが、活況を呈して、日本の若者たちが、目の色を変えて起業に燃えた、あの時代の環境を作り出すことである。
   そのためには、明治維新や終戦直後のような自由な風土を醸成することが大切であり、古い経済社会を基本とした法制度や規制の徹底的な改革が必須であり、逆に、起業促進関連法規の整備などアントレプレナーが活躍できる環境を作り出すことが、急務となろう。

   フラット化する世界を書いたフリードマンだから、当然の言だが、前述した4つの難題、特に、グローバリゼーションとIT革命によって、知識の時代、クリエイティブ時代になってしまった以上、アメリカ人や日本人は、知力によって、価値を創造するような仕事が出来なけれな、回し車の中の、走れないハツカネズミのように、吹っ飛ばされてしまう。
   この意識が欠如しているから、日本の教育行政は極めてお粗末で、前世紀のままで少しも進歩がなく、国際舞台で、世界のエリート集団と、斬った張ったで互角に渡り合える人材が育たないし、内向きの人間ばかりを育てているから、グローバリゼーションから、益々、遠ざけられる。

   この広告記事で、丹羽宇一郎氏が、日本経済の強みは、質の高い労働力だと、企業の人材育成を説いており、鎌田薫早大総長が、「Waseda Vision 150」で、「未来のイノベーション」を担う人材あるいは研究を育み、社会貢献を目指すのだと言っており、この会議に出席したCEOたちが、人材の育成について貴重な提言をしている。
   しかし、イノベーションについては、このブログでも、随分書いて来たし、国際人材の育成についても書いて来たが、そんなに簡単なことではない。
   一番大切なことは、若い人に、起業しよう、事業家になろうと、思わせるような、そんな経済社会環境を、大学も、企業も、社会も、国家も、一丸となって創り出して行くことである。

   そして、若者に、もっともっと、勉強させることである。
   今のような生ぬるい意識で、ろくすっぽ真面目に勉強しないようでは、BRIC'sやネクスト11、ブレイクアウト・ネーションの若者に、簡単に凌駕されてしまって、下僕に甘んじなければならなくなる。
   それに、大学教授が、もっともっと勉強して、少なくとも、国際舞台の学会で、丁々発止と、戦えるだけの実力を養成することであろう。
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トマト・プランター栽培記録2013(9)ミニトマト色付き始める

2013年06月16日 | トマト・プランター栽培記録2013
   ピンクのミニトマトの一番花房の実が、少し色づき始めた。
   このトマトは、ケーヨーディツーの名前が入った名無しのトマトなのだが、一番順調に花も咲き実が成っているので、かなり、質の高いトマト苗である。
   味はどうか分からないのだが、苗によってばらつきのあるアイコよりは、安定していて、第6花房くらいまでは、2メートルくらいの支柱で、栽培可能である。

   遅く植えたイタリアン・トマトも、実が付き始めて来た。
   マルマンデルと言う種類で、成熟すれば、150グラム以上の大きさになるようである。
   もう一つは、ローマと言う長円形のパスタ用のトマトである。
   どんなトマトかよく分からなくて、植えたのだが、市販されている日本のトマトのように、甘いと言うことを売りものにしているトマトとは違って、イタリアントマトは、料理用に煮たり、サラダやジャムなど加工品にすることが多くて、殆ど味のない淡白な種類が多いようなのだが、私は、それが好きなので、これまでにも何度か植えている。
   
   
   
   ところで、他のイタリアントマトだが、大体大玉のようなので、電気歯ブラシを使って、受粉アシストを行っていて、早いものは、花が落ち始めたので、受粉したのであろう。
   結局、6種類15本のイタリアントマトの苗を植えたのだが、日本のトマト苗と違って、かなり、花のかたちもまちまちであったり、花房の先から葉がでたり、途中で二股に分かれたり、成長にムラがあるような気がしている。
   市販されているイタリアントマトの苗も、青々とした日本のトマト苗と違って、多少葉脈が黒っぽい感じがして、肥料不足か黄ばんでいたのだが、プランター植えして日が経つと落ち着いて来た。
   趣味で植えているので、出来不出来については気にならない。
   一応、日本のトマト苗と同じやり方で、育てて行こうと思っている。
   
   
   

   他の日本トマトの苗木は、特に、病虫害の被害もなく順調に育っていて、実も充実してきている。
   雨上がりに、施肥をしようと思っている。
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ヘンリー・チェスブロウ著「オープン・サービス・イノベーション」

2013年06月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ICTデジタル革命とグローバリゼーションの進展によって、テクノロジーの進歩と知識と情報の流れが加速すると同時に、新製品がどんどん市場に出回り、顧客のニーズを満たすために、カスタム化した製品やサービスへのニーズが増大し、製品寿命が益々短くなって、多くの企業が窮地に立っている。
   コモディティ化と製品ライフサイクルの短縮と言う避けられない圧力が組み合わさって、コモディティ・トラップ(コモディティ化の罠)に陥る。
   イノベーションの最先端を行く企業でさえ、イノベーションの手を緩めると、トレーニングマシーンのトレッドミルから振り落とされてしまう。

   さすれば、どうすればよいのか。
   コモディティ・トラップを回避して、成長への解決策を見つけるには、サービス分野でのイノベーションがキーであり、自社の壁を越えたオープン・サービス・イノベーションを目指して実現することによって、企業に大きな競争優位を齎すことが出来る。
   イノベーションと成長へのキー・コンセプトは、次の四点。
   収益性を維持し、成長し続けるためのビジネスとしてサービスを捉える
   顧客に価値ある経験を提供し、顧客と協働してイノベーションを共創する
   顧客、サプライヤー、補完財メーカーやサービス提供企業など自社のビジネスを取り巻く第三者の専門化がオープン・イノベーションを加速し、サービスのイノベーションや成長を深化させて行き、その結果、顧客の選択肢の幅が広がる
   社内のイノベーションで利益を得ながら、ビジネスの付加価値となる社外にあるイノベーションを刺激すると言う新たなビジネス・モデルが必要となる。

   この原則を適用することによって、ビジネスを成長させ、サービス中心の時代に生き残り、最終的には、コモディティ・トラップやトレッドミル状態から抜け出すためのイノベーションのフレームワークを作ることが出来る。
   以上が、チェスブロウのこの本の要旨だが、詳細な事例を引きながらのオープン・サービス・イノベーションの分析と展開が、非常に興味深い。

   オープン・イノベーションとは、チェスブロウがコインした概念だが、企業が内外部のアイデアを活用して、ビジネスを進めるにあたって双方の経路で市場に参入することを想定したパラダイムで、垂直統合型の研究開発モデルへのアンチテーゼだと言う。
   内部のイノベーションを加速し、同時にイノベーションを外部で利用させるため市場拡大の目的で、意図的に知識を流出、流入させる活用法である。
   チェスブロウは、サービス・イノベーションを、外部調達で自社の知識を拡張して行くアウトサイドイン型、自社の知財販売やライセンス提供するインサイドアウト型、二つを連結した価値共創型の、三つに分類しているが、いずれにしろ、成長発展のためには、イノベーションが必須であり、そのためには、オープン・ビジネス・モデルが最も有効だと考えている。
   ところが、多くが、優秀な研究者を多数抱えて、自社で自前主義で商品や技術を開発し、ブラックボックスで技術優位を死守するのが最も有効な経営戦略だと考えている日本企業には、オープン・ビジネスと言う経営概念は、まだまだ、定着するには程遠いようである。

   チェスブロウは、大企業や中小企業、新興国など、多岐にわたってオープン・サービス・イノベーションを例示している。
   ゼロックスは、本来、コピー機やプリンターを販売し、トナー、印刷用紙、サービス、ローン販売の金利などでも利益を上げていたが、現在では、顧客の社内にコピー機やプリンターを置いて使用料だけを請求する「マネージド・プリント・サービス」を提供している。
   このシステムでの委託で、P&Gは、コピー用紙の40%削減、経費の20~25%削減を見込んでいるのだが、ゼロックスの方も、どこよりもコピー機やプリンターに関する専門的な知識を活用し、より効率的にリソースを管理できるのみならず、全社的なニーズが総合的に把握でき、日々の業務から他社機器の性能など詳細情報や自社機器への乗り換えタイミングなどもキャッチでき、イノベーション推進にも大いに役立つと言う。

   GEアビエーションは、エンジン販売ではなく、エンジンのメインテナンス、スペア部品、ファイナンシングに眼を向けて、「パワー・バイ・ジ・アワー」モデルで、サービスから利益を得るようになった。

   製品やものを売るのではなく、サービスを売ると言うサービス重視のモデルで、ビジネスの提供価値が変わる。
   その一つとして、固定資産の一括購入費用を、長期にわたるが低額のランニングコストへ変換することによってビジネス・モデルを変えることが出来る。
   車を購入するか、タクシー、レンタル、あるいは、最近のカー・シェアリングにするか、お馴染みのケースだが、顧客は、低額のランニングコストや、需給によるフレキシビリティの価値や資産効率の良さの提供には敏感なので、製造販売会社は、このビジネス・モデルの活用を考えてみるべきであろう。

   
   オープン・サービス・イノベーションによって、規模の経済性と範囲の経済性を武器として手に入れたら、自社の能力を最大限に活用するために、有効なビジネス・プラットフォームを構築して、更に、自社のコア・コンピタンスから大きな価値や成長を得ることが出来るとして、アップルとアマゾンの確固たるビジネス・モデルを挙げている。
   オープン・ビジネス戦略による、正に、オープン・サービス・イノベーションの成果であろう。

   イノベーションそのものが、グローバル化している。
   企業は、グローバルなイノベーション・サービスのチェーンにおいて、総てを完結するのではなくて、その一部となることで成功する。
   新興国で開発されて国際化したリバース・イノベーションや、途上国と先進国の両方の長所を取り入れたハイブリッド企業の存在。
   アイデア、技術、人材、サービス等々を求めてグローバル市場へ、オープン・ビジネス・イノベーション戦略を掲げて邁進する、これこそが、残された唯一のコモディティ・トラップからの解放の道だと、チャスブロウは説くのである。
   

   余談ながら、チャスブロウが、イノベーション環境がフラット化していると指摘している点を考えてみたい。
   かってと比べて研究開発の規模の経済性が小さくなって、分散化した環境では、あらゆる組織の企業が外部の技術やアイデアを広く活用できるようになったと言う指摘で、イノベーション活動において、中小企業が不可欠な存在となってきたと言うことである。

   これこそ、正に、ICTデジタル革命による知識情報の爆発・拡散の成せる業であり、中小企業や個人だけではなく、遅れていた新興国や途上国が、かってなかった程、容易に早く、先進国や先進国企業へキャッチアップ出来ると言うことであって、考え方によっては、地球上全体がフラットになって、下克上状態になっても不思議ではなくなったと言うことであろう。
   何の柵もない、何の過去の遺産も呪縛もない、遅れたもの程、すべての人類の知恵と英知を活用して、キャッチアップ出来る時代になったと言うことであり、日本が取り残されて、どんどん、遅れて行くのも当たり前だと言うことである。
 
   
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国立演芸場で、中席の落語を聞く

2013年06月13日 | 落語・講談等演芸
   朝、定期的に通っている山王病院に行った。
   赤坂にある良い病院だと思うけれど、待ち時間など最終的に薬を貰うまでに随分時間がかかるのが問題だが、会社に近かったので通っていて、今もお世話になっている。
   尤も、私の場合には、待つ間、本を読んでおれば良いので、それ程、苦痛でもないのが、まずまずのところであろうか。

   夜の国立能楽堂の企画公演の世阿弥の自筆本による能「雲林院」まで、時間があったので、半蔵門の国立演芸場に行って、中席の落語を聞きに行くことにした。
   病院を出たのが、一時前であるから、当然、寄席は始まっていて、ザ・ニュースペーパーと言うコント・グループが、夫々、安倍首相、谷垣法務大臣、石破幹事長に扮して、カレント・トピックスを適当にアレンジして語っていて、それなりに、面白かった。

   中入り後、まず、最初は、北見伸&スティファニーの奇術。
   暗い舞台から、アラブ風の音楽に合わせて、レースを纏った半裸姿の乙女が左右から身をくねらせて登場。 
   今、暴動が起きているイスタンブールのナイトクラブの激しくも蠱惑的なアラブ女のベリーダンスを思い出した。 
   4人の美女たちのアシストによる箱抜けの奇術で、とにかく、見事だが、あり得ないようなことを見せられて、そのネタが分からないので、最初から最後まで、イライラのし続け。

   面白かったのは、日本に一人しかいないと言う売り声の名人宮田章司の色々な職業や商売人の売り声で、さお竹や金魚、薬売り等々は勿論、各地の昔懐かしい売り声、呼び声を披露して、実に懐かしい。
   私の小さい頃は、宝塚の田舎で過ごしたのだが、田舎芝居や大売出しのちんどん屋や、色々な商売人が、掛け声、売り声を名調子で歌いながら歩いていたのだが、今では、無粋なスピーカーの声で、情緒も何もあったものではなく、騒音以外の何ものでもなくなってしまった。
   たしかに、呼び声売り声一つにしても、極めれば、芸能なのである。

   落語は、桂小文司の「金明竹」。
   骨董屋の叔父に世話になっている一寸頭の弱い与太郎が店番していて、客に、頓珍漢な対応をする話で、最後の客が、中橋の仲買・加賀屋佐吉方から来た男なのだが、この男が、関西弁の早口で、用向きをまくし立てるので、全く分からず、骨董屋の内儀が代わりに出て聞いても理解できず、出先から帰って来た主人に、全く頓珍漢で奇天烈な話をすると言う話。
   仲買に預けた道具七品に関して、男が、主人からの言いつけを伝えに来たのだが、曰く付きの名品ばかりの掛け軸や脇差、茶碗、花生けなどであって、銘や故事来歴で修飾して関西弁で鉄砲玉のように語るので、分かるわけがないのだが、題名の「金明竹」も、その一品の「黄檗山金明竹、ずんどうの花活け」と一度出て来るだけ。
   「古池や蛙飛び込む水の音と申します、あれは、風羅坊正筆の掛け物で。」と言う台詞が出て来るので、オチは、
   「えーと…。確か、古池に飛び込んだとか」
   「飛び込んだァ!? あいつには道具七品が預けてあるんだが、どうなった!?  誰か買ったのか?」
   「いいえ、買わず(蛙)……」

   
   Youtubeを見ると、立川志らくが、この関西弁男を、関西弁を喋るアメリカ人に代えて語っている噺が見られるのだが、関西弁の面白さに、英語を交えたチャンポンの面白さが加わって、更に面白くなっていて、話術の巧みさと、落語の奥深さが感動的でさえある。

   トリは、三笑亭夢太朗の「品川心中」。
   「夢太朗十席」より注文承り候と言うことで、客からのリクエストが最も多かった演題「品川心中」で、品川の遊郭を舞台にした噺である。
   橋下発言で、話し辛くなったと言いながら、まくらで、落語芸術協会5代目会長桂歌丸から聞いた、生家の横浜・真金町の妓楼「富士楼」での経験話であろう、遊女達との話を語り始めた。
   

   品川の白木屋で、板頭(筆頭女郎)を張ってきたお染だが、寄る年波には勝てず、人気が落ちて稼ぎが少なくなり、目前に迫る紋日に金を用立ててくれるパトロンもなく、勝気な女なので、恥をかくくらいなら死んでしまおうと決心して、心中の相棒を探す。
   独り者で、馬鹿で大食らいで助平で欲張りの神田の貸本屋の金蔵に眼をつけて、こんな奴は死んだ方が世のためと説得。お染に岡惚れの金蔵は、一切を叩き売って、お世話になった親分の家に暇乞いをして品川へ行く。
   金蔵が短刀を忘れたので、剃刀でカタを付けようとしたのだが、気の小さい金蔵ががたがた震えるので、引きづるように品川の浜へ連れて行って、南無阿弥陀仏と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、金が出来たと呼び止められたお染は、どうせ何時か死ぬから、その時あの世でと、さっさと心中を止める。
   飛び込んだ筈の金蔵だが、浅瀬で命が助かり、お染の不実を聞いて、「どうするか見ておれ」と、まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ駆け込む。
   ところが、親分の家では、賭博の真っ最中で、戸を叩くので、すわ手入れだと勘違いして大慌て。
   金蔵だと分かってほっとするのだが、その中で一人だけ、泰然と座っている者がいて、
   なんだ、みんなだらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでだ。」
   「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております。」


   ところが、この噺には、下の段があって、金蔵の話を聞いた親分が腹を立てて、二人で、お染に復讐することになっているのだが、最近では、殆ど、前半だけの話になっているようである。
   最後は、親分が、死んだ金蔵が取り殺すとお染を脅しあげて、お染に髪を下ろさせるのだが、
   そこへ、死んだ筈の金蔵がノッソリ登場したので、
   「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ。」
   「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣るから、比丘(魚籠)にされたんだ。」と言うオチになる。


   筋だけ書いたら、こんなに簡単だが、これに色々な修飾を加えて豊かな話題を交えながら、観客の心を捕えて、ひとり語りで話し続けるのであるから、噺家の話術は大変なものである。
   文楽の大夫も、一人で総てを語る、実に大変な話術と語り部の達人であり、大変な芸術家だと思うのだが、落語家の世界も、大衆芸能の粋とも言うべき話術の士の乱舞と行っても良い程、多士済々で、聞けば聞くほど面白い。
   
   この夢太朗だが、ウイキペディアによると、
   幼少時代に馬賊に憧れていたことから、1942年より単身中国北京へ移住。敗戦後帰国し、農林省開拓局に入局。したと言うから、どこか、スケールの大きさがある。
   また、「異性関係などで数々の武勇伝を持つ。」のであるから、今回の品川心中と言った色恋の話も、それ程、異質な話題でもないのであろうか。
   とにかく、面白かった。
   夜の一寸重い能「雲林院」鑑賞準備もできた。
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柿葺落六月大歌舞伎・・・「土蜘」「壽曽我対面」

2013年06月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の第2部は、「壽曽我対面」と「土蜘」であった。
   「壽曽我対面」は、江戸歌舞伎の正月興行に曽我狂言を行うしきたりができて、それ以降初春を寿ぐ祝祭劇として、頻繁に上演されているのだが、今回は、仇である本来悪者の工藤祐経を仁左衛門が演じているので、憎々しさがなくて、さらりとした舞台になっている。
   菊之助のおっとりとして品のある曽我十郎と、勇み立って怒ってばかりいる海老蔵の曽我五郎の相性と微妙なコントラストが非常に良くて、絵のような兄弟の若々しくてダイナミックな演技が、舞台を益々華やかにしていて美しい。
   祐経と曽我兄弟を引き合わせる役割を、関東の豪族の朝比奈三郎が果たすバージョンが普通だと思うのだが、今回は、代わって、朝比奈役を女形の片岡孝太郎が、小林の妹・舞鶴として出演していて面白い。
   仁左衛門の祐経が、高座にあがる時に舞台に一礼するが、江戸時代の劇場の櫓に敬意を表する習わしのようだし、幕切れに、工藤が立って鶴の見得、十郎、五郎、舞鶴が富士山の見得を切るなど、絵になるような恰好の良い様式美を見せてくれるので、殆ど中身のない芝居であるにも拘わらず、名舞台となるのは、やはり、日本歌舞伎の独特の値打ちであろうか。


   さて、私が、興味深く見たのは、「土蜘」で、ずっと以前に一度見たように思うのだが、全く、忘れてしまっていて、覚えているのは、昨夏、国立能楽堂で観た観世流能の「土蜘蛛」である。
   この話は、天下を狙う土蜘(菊五郎)が、大江山の鬼退治をした英雄として名高い源頼光(吉右衛門)を襲う話で、前段は、比叡山の僧・智籌に化けて病気平癒の祈念にと病床の頼光に接近するのだが、見破られて斬りつけられて糸を撒いて退散する。
   後段では、土蜘退治を命じられた平井保昌(三津五郎)たちが血潮を辿って、土蜘の住む塚に達して、土蜘を追い詰めて退治すると言うハッピーエンドになっている。

   止めを刺されたはずの土蜘の精が、やおら立ち上がって真ん中に立って皆を従えて大見得を切る終幕が、如何にも歌舞伎である。
   厳つい独特の隈取をした土蜘の精と保昌たちの立ち回りも、面白いのだが、やはり、見せ場は、次から次へと繰り出す千筋の蜘蛛の糸で、放物線を描いて、パッと四方に広がって行く、滝のように花火のように、真っ白な糸の軌跡が実に優雅で心地よい。
   この糸だが、細くて長い不織布のテープの先に小さな重しをつけてあるので遠くへ勢いよく飛ぶ。
   歌舞伎の場合には、舞台が広いので、蜘蛛が糸を撒くと、黒衣が、巻き取って回収に努めるのだが、能になると、舞台が狭いので、舞台のみならず、橋掛かりや見所にまで飛び散るので、迫力があって良いが、舞台の糸は大変である。
   

   この歌舞伎の舞台は、舞台設定なども能に近く、頼光の病床姿も、左横に櫃を置いて褥の衣を被して悩ましげに横たわる風情を見せたり、舞台中央に置かれた蜘蛛の塚も、上方を緑に葉で覆い、柱と柱の間に蜘蛛の巣状に白いテープを貼った能の作り物と全く同じである。
   大きな違いは、能は、能面 顰(しかみ)と言う異様怪奇な鬼面に赤頭をつけるのだが、歌舞伎は、面ではなく、厳つい鬼面の隈取をすることであろうか。
   あの広い舞台を能面をかけての演技は、前が見えなくて無理だし、それに、表情は能面だけに語らせる能と違って、何でも表情に出して演技をせねばならず、大口を開いて真赤な舌を出して威嚇すると言った芝居の芸当など不可能である。


   ところで、面白いと思ったのは、魁春の演じた侍女胡蝶で、能舞台の胡蝶とよく似た能装束で登場する。
   典薬の頭から薬を預かって届けに来るのだが、胡蝶は、頼光から紅葉の様子を聞かれて、病床の頼光を慰めるために舞を舞う。
   歌舞伎では、何となく、薬を持って美女が見舞いに来たと言うだけの点景のような胡蝶の登場だが、能では、謎めいた雰囲気を漂わせた美女のために、妖艶な表情の「万媚」と言う面をかけることが多いと言うから、とにかく、頼光にとっては、如何にも危ない意味ありげな女の登場であると言うところが能の奥深さと言うか、中々、面白いところである。
   胡蝶から、頼光へ、そして、地謡が、次のように謡う・・・
   療治によりて癒る事の、例は多き世の中に 思いも捨てず様々に 色を尽くして夜昼の、色を尽くして夜昼の、境も知らぬ有様の、時を移るをも、覚えぬほどの心かな。
 

   さて、歌舞伎の舞台であるが、館の庭で、番卒太郎(翫雀)、次郎(松緑)、藤内(勘九郎)に土蜘蛛退治を祈願させ、巫女榊(芝雀)に諫めの舞を舞わせたりするのだが、当然、能にはなくて、御祝儀舞台と言うことであろうが、やはり、上手い。
   同じ舞台でも、歌舞伎になると、一気に鑑賞本位の見せる舞台になって、面白くなるのだが、そのあたりの観客の感触なり嗜好は、他のパーフォーマンス・アートとは随分違っているようで、能もそうだが、何時も、歌舞伎を見ながら、シェイクスピア・ファンなら、どんな気持ちで、歌舞伎を見るのだろうと、変なことを考えている。

   この土蜘の舞台は、やはり、菊五郎の大活躍の舞台で、怪しげな僧・智籌の雰囲気と言い、土蜘の精として、大立ち回りを演じるシーンの展開など、中々、魅せてくれた。
   魁春の胡蝶は、実に魅力的であったが、先に記したように能の雰囲気があれば、面白いと思った。
   吉右衛門や三津五郎は、地で行く様な役割を演じていて、非常に重厚な格調の高い演技に徹していたので、舞台がしっかりとして、充実感十分であった。
   松緑の長男藤間大河君の爽やかな演技が実に良い。
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京成バラ園:まだまだバラ満開で最盛期

2013年06月11日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   5月中旬から開かれていた京成バラ園のローズフェスティバルのスペッシャルウィークが終了して、殆どの特別イヴェントが終わったので、空いているだろうと思って、やはり、曇天の午後遅く、バラ園を訪れた。
   流石に、入園者は少なくて助かったが、しかし、2週間前に来た時と全く同じように、ローズガーデンは、正に、バラの見ごろで、満開最盛期と言ったところである。
   カメラのレンズが望遠なので、全体の風景は表現できないが、何枚か繋げて見て頂ければ、分かると思うのだが、とにかく、全体にバラが咲き誇っていて、極彩色のジュータンが広がっている感じで、美しいのである。
   写真には、見学者が写っていないのだが、意識して人のいないところを狙って撮ったのと、閉園間近で人が一気にいなくなってからシャッターを切ったためである。
   毎日、こまめに、何人かのガーディナーたちが、花柄を摘んでバラを手入れしており、遅咲きのバラが咲き始めたのと、2番花が咲き始めていることもあって、こんなにも綺麗な状態でバラが維持されているのだが、多くの花は最盛期を過ぎているので、完璧なバラの花を写そうと思えば、探さなければならないことも事実である。
   
   
   
   
   
   

   バラの谷とバラの丘の間くらいに、ラ・フランスと言う種類のピンクのバラが植わっているのだが、今回は、幸いにも、一房だけ残っていた綺麗な花を写すことが出来た。
   ラ・フランス (La France) は、1867年にフランス人ジャン=バティスト・ギヨ・フィス(Jean-Baptiste Guillot fils)よって発表されたハイブリッド・ティーローズ第1号のバラで、ラ・フランス誕生以前のバラを「オールドローズ」(Old Roses)、誕生以降のバラを「モダンローズ」(Modern Roses)と称しているほど、エポックメイキングな記念すべきバラなのである。
   私など、イングリッシュローズに関心を持つまでは、ハイブリッドティーのモダンローズばかり、植えていたのだが、バラほど、原種からはるかに遠ざかって品種改良されてきた花はないのかも知れない。
   

   イングリッシュローズの咲くバラの丘に登ると、ローズガーデンが一望できるのだが、私の目的は、この丘に沢山植わっているイングリッシュローズを見ることである。
   これらの花は、既に一番花は咲き切っており、返り咲きも咲いてはいるが、下のローズガーデンのモダンローズと比べれば、花付きがそれ程でもないので、ちらほら咲きであり、華やかさに欠けてはいる。
   しかし、フォールスタッフは、綺麗な花が何輪か咲いていて、他のイングリッシュローズも、綺麗な花を付けていた。
   
   
   
   
   
   ベルサイユのばらのコーナーは、やはり、人気があるようで、池田理代子さんの描いたオスカルとマリー・アントワネットの絵の前で写真を撮る人が多い。
   今日は、前よりも、深紅のバラが綺麗に咲いていた。
   ホームページを見ると、兵庫県宝塚市の宝塚大劇場前の遊歩道「花のみち」で、宝塚市主催のベルサイユのばら植樹式式典が開催されたと言うことで、オスカルとアンドレがモチーフの「ベルサイユのばらモニュメント」の周囲に植樹された写真が載っていた。
   宝塚は、私が中学まで過ごした故郷であり、この劇場横の花のみちなども良く歩いたし、剃刀を当てれば鮮血が迸り出るような青春の思い出が詰まっていて、実に懐かしい。
   
   
   
   
   さて、この京成バラ園は、綺麗なパンフレットを作っていて、非常に親切に、見どころやルートガイドなどを書いてくれているのだが、あまりよく見たことはない。
   とにかく、ここでは、気の向くまま足の向くまま歩いて、写真を撮って帰ると言うのか、ゆっくりと、椅子に座って憩いだりすることはまずないし、レストランかカフェで寛ごうと思っても、人が一杯で、結局、ガーデンセンターで、花や植木などを一渡り見て、何か必要なものを買って、そのまま、駐車場へ直行することが多い。
   昔、キューガーデンでは、人の殆ど居ない林間やテムズ川べりで、読書したり瞑想にふけったり、気ままな時間を楽しんでいたのだが、この京成バラ園は、今は、派手派手で美しすぎて、憩うような雰囲気ではないと言うことであろう。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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