グローバリゼーション・パラドクスのダニ・ロドリックの本である。
私は、経済発展の理論に学生時代から興味を持って勉強しており、この本で、著者が、近年の新興国や発展途上国が、何故、経済発展に苦慮しているのか、脱工業化社会への大きな時代の潮流の中で、「早すぎる脱工業化」という概念で説明しているのに、我が意を得た思いである。
従来は、成長発展段階の国は、急速な経済社会の工業化によってキャッチアップしてきたが、近年多くの発展途上の国々の経済発展は、途中で失速状態となっているのだが、これは、きちんと工業化することなく、サービス産業に移行してしまった、すなわち、この「早すぎる脱工業化」が、経済発展の足を引っ張って、国家の成長発展を阻害している。と言うのである。
これまでの歴史を見れば、「成長の奇蹟」を起こした国は、殆ど総て急速な工業化によって経済成長を実現し、その急成長が一過性を超えて持続した国で、日本がその典型だが、欧米の先進国もそうであったし、日本に倣って雁行成長を遂げた東アジアの虎や中国なども、その例である。
製造業は、急速なキャッチアップを可能にし、輸出を促進して成長の原資を稼ぐ。多くの不利な条件を抱える貧しい国ですら、海外の製造技術を模倣し、実際の製造に生かすのは比較的容易で、その国の政策や制度、地理的条件に関係なく、製造業は技術先進国との差を年間3%のペースで縮める傾向にある。と言う。その結果、農業従事者を工場労働に従事させることの出来る国は、大きな成長ボーナスを得ることが出来、日本は、まさに、この幸運に恵まれた。
労働者や農業従事者が、近代的な工場労働やサービス業に移り、生産性が向上して経済が発展し、更に、伝統的産業と近代的産業との間の生産性の格差が縮小し、経済の二重構造が徐々に解消されて、その過程で農業技術の向上や単位面積あたりの農家の数が減り、農業の生産性が改善し、経済社会構造が高度化していった。これが、ダイナミックな工業化によって成長発展を遂げた国々の軌跡である。
しかし、このような発展方法は、最早、過去の話。
グローバリゼーションと技術進歩の力が合わさって、製造業の仕事の性格が大きく変って、発展途上国の標準所得と人口統計的な決定要因を調整した製造業の雇用と生産高の割合は、十年ごとに低下し、いまや、かってないほど低下してしまって、雇用吸収の余地が激減した。貧しくて経済が未発展のままの状態で、経済社会構造そのものが脱工業化してしまったのである。
その上に、世界的に急速に進んだ製造業の技術進歩によって、サービスと比較した工業製品の相対価格が低下したことで、発展途上国の企業にとっては新たな市場に参入するインセンティブが低下した。同時に、製造業がより資本集約的、技術集約的になったことで、農業や非公式経済出身の労働者を吸収する潜在力が著しく低下した。
また、貿易面では、中国など成功した輸出国との競争や世界的な貿易障壁の解消によって、国際競争力が弱体化したために輸出能力がなくなり、更に、国内消費向けの単純な製造業を発展させる機会すら殆どの貧困国にはなくなっている。安い輸入品に駆逐されて、輸入代替による産業化の余地さえなくなってしまった。と言うことである。
さて、新興国や発展途上国では、今でも、若者たちは引き続き田舎から都市部へ大挙して移動してきているものの、彼らが従事する仕事は工場労働ではなく、殆どが生産性の低い非公式の国の経済統計にカウントされないようなサービス業である。
実際にも、これらの諸国では、製造業からサービス業へ、貿易財を作る事業から非貿易財を作る事業へ、組織的部門から非公式経済へ、近代的企業から伝統的企業へ、中堅企業・大企業から小さい企業へと、構造変化は逆向きになってきている。と言うから悲劇である。
発展途上国においては、経営者やバンカーなどと、小商いや家事手伝いなど非公式経済で働く人々との間の収入や労働環境の格差は、かってなく大きくなっている。経済をテイクオフして工業化できなかったために、人的資本や制度の機能を十分に蓄積する前に、早期にサービス経済に移行したことで、先進国でさえ対応に苦しんでいる労働市場における格差や排除の問題を更に悪化させている。
21世紀初頭に、ゴールドマン・サックスのジム・オニールが、次代の経済大国になると囃し立てたBRIC’s や、NEXT11のうち、中国と韓国は、まずまずとして、ブラジル、ロシア、インド、そして、イラン、インドネシア、エジプト、トルコ、ナイジェリア、パキスタン、バングラデシュ、フィリピン、ベトナム、メキシコなどは、このロドリックの説く「早すぎる脱工業化」の頸木に呻吟していると言うことであろうか、
国土と人口の大きな国が成長基調だという単純な理論展開に惑わされた感じだが、勿論、有望視されている国もあるが、実際には、殆どの国の政治経済社会情勢は火の車だという、
「中所得国の罠」を突破できるのかどうかさえ、危うくなってきている。
ダロン・アセモグルが説く如く、自由で民主主義的な包括的な制度が好循環を促し成長発展を促す、と言うことであろうが、欧米先進国のように国家がそこまで成熟するのは、今の発展途上国にとっては至難の業であって、前述のショートカットとも言うべき工業化戦略が、最早、機能しなくなったとしたら、どうして、新興国や発展途上国は、テイクオフ出来るのか、
パンデミックが、その悲劇に、更に追い打ちを掛けている。
グローバリゼーションの進展で一体となった地球上の人類は一蓮托生であって、肝に銘ずべきは、パンデミックも地球温暖化も、総て世界中の問題は、自国ファーストを、最早、貫けなくなって、全人類が同時に幸せにならない限り、自分たち自身の幸せもないと言うことである。
ウォルト・ロストウの『経済成長の諸段階』、ダニエル・ベルの『脱工業社会の到来』、アルビン・トフラーの『第三の波』、それに、ドラッカーの経営学書などが愛読書であったが、久しぶりに、Post-industrial societyに明け暮れていた昔を思い出して懐かしくなった。
しかし、宇宙船地球号が、既に成長の限界に達してしまった今、単純な経済成長では無意味で、地球にこれ以上の付加を掛けずに、最貧国共々グローバル全体の質の向上を図らねばならない。
経済発展の理論を学び続けてきた自分にとっては、貴重な問題意識の転換である。
私は、経済発展の理論に学生時代から興味を持って勉強しており、この本で、著者が、近年の新興国や発展途上国が、何故、経済発展に苦慮しているのか、脱工業化社会への大きな時代の潮流の中で、「早すぎる脱工業化」という概念で説明しているのに、我が意を得た思いである。
従来は、成長発展段階の国は、急速な経済社会の工業化によってキャッチアップしてきたが、近年多くの発展途上の国々の経済発展は、途中で失速状態となっているのだが、これは、きちんと工業化することなく、サービス産業に移行してしまった、すなわち、この「早すぎる脱工業化」が、経済発展の足を引っ張って、国家の成長発展を阻害している。と言うのである。
これまでの歴史を見れば、「成長の奇蹟」を起こした国は、殆ど総て急速な工業化によって経済成長を実現し、その急成長が一過性を超えて持続した国で、日本がその典型だが、欧米の先進国もそうであったし、日本に倣って雁行成長を遂げた東アジアの虎や中国なども、その例である。
製造業は、急速なキャッチアップを可能にし、輸出を促進して成長の原資を稼ぐ。多くの不利な条件を抱える貧しい国ですら、海外の製造技術を模倣し、実際の製造に生かすのは比較的容易で、その国の政策や制度、地理的条件に関係なく、製造業は技術先進国との差を年間3%のペースで縮める傾向にある。と言う。その結果、農業従事者を工場労働に従事させることの出来る国は、大きな成長ボーナスを得ることが出来、日本は、まさに、この幸運に恵まれた。
労働者や農業従事者が、近代的な工場労働やサービス業に移り、生産性が向上して経済が発展し、更に、伝統的産業と近代的産業との間の生産性の格差が縮小し、経済の二重構造が徐々に解消されて、その過程で農業技術の向上や単位面積あたりの農家の数が減り、農業の生産性が改善し、経済社会構造が高度化していった。これが、ダイナミックな工業化によって成長発展を遂げた国々の軌跡である。
しかし、このような発展方法は、最早、過去の話。
グローバリゼーションと技術進歩の力が合わさって、製造業の仕事の性格が大きく変って、発展途上国の標準所得と人口統計的な決定要因を調整した製造業の雇用と生産高の割合は、十年ごとに低下し、いまや、かってないほど低下してしまって、雇用吸収の余地が激減した。貧しくて経済が未発展のままの状態で、経済社会構造そのものが脱工業化してしまったのである。
その上に、世界的に急速に進んだ製造業の技術進歩によって、サービスと比較した工業製品の相対価格が低下したことで、発展途上国の企業にとっては新たな市場に参入するインセンティブが低下した。同時に、製造業がより資本集約的、技術集約的になったことで、農業や非公式経済出身の労働者を吸収する潜在力が著しく低下した。
また、貿易面では、中国など成功した輸出国との競争や世界的な貿易障壁の解消によって、国際競争力が弱体化したために輸出能力がなくなり、更に、国内消費向けの単純な製造業を発展させる機会すら殆どの貧困国にはなくなっている。安い輸入品に駆逐されて、輸入代替による産業化の余地さえなくなってしまった。と言うことである。
さて、新興国や発展途上国では、今でも、若者たちは引き続き田舎から都市部へ大挙して移動してきているものの、彼らが従事する仕事は工場労働ではなく、殆どが生産性の低い非公式の国の経済統計にカウントされないようなサービス業である。
実際にも、これらの諸国では、製造業からサービス業へ、貿易財を作る事業から非貿易財を作る事業へ、組織的部門から非公式経済へ、近代的企業から伝統的企業へ、中堅企業・大企業から小さい企業へと、構造変化は逆向きになってきている。と言うから悲劇である。
発展途上国においては、経営者やバンカーなどと、小商いや家事手伝いなど非公式経済で働く人々との間の収入や労働環境の格差は、かってなく大きくなっている。経済をテイクオフして工業化できなかったために、人的資本や制度の機能を十分に蓄積する前に、早期にサービス経済に移行したことで、先進国でさえ対応に苦しんでいる労働市場における格差や排除の問題を更に悪化させている。
21世紀初頭に、ゴールドマン・サックスのジム・オニールが、次代の経済大国になると囃し立てたBRIC’s や、NEXT11のうち、中国と韓国は、まずまずとして、ブラジル、ロシア、インド、そして、イラン、インドネシア、エジプト、トルコ、ナイジェリア、パキスタン、バングラデシュ、フィリピン、ベトナム、メキシコなどは、このロドリックの説く「早すぎる脱工業化」の頸木に呻吟していると言うことであろうか、
国土と人口の大きな国が成長基調だという単純な理論展開に惑わされた感じだが、勿論、有望視されている国もあるが、実際には、殆どの国の政治経済社会情勢は火の車だという、
「中所得国の罠」を突破できるのかどうかさえ、危うくなってきている。
ダロン・アセモグルが説く如く、自由で民主主義的な包括的な制度が好循環を促し成長発展を促す、と言うことであろうが、欧米先進国のように国家がそこまで成熟するのは、今の発展途上国にとっては至難の業であって、前述のショートカットとも言うべき工業化戦略が、最早、機能しなくなったとしたら、どうして、新興国や発展途上国は、テイクオフ出来るのか、
パンデミックが、その悲劇に、更に追い打ちを掛けている。
グローバリゼーションの進展で一体となった地球上の人類は一蓮托生であって、肝に銘ずべきは、パンデミックも地球温暖化も、総て世界中の問題は、自国ファーストを、最早、貫けなくなって、全人類が同時に幸せにならない限り、自分たち自身の幸せもないと言うことである。
ウォルト・ロストウの『経済成長の諸段階』、ダニエル・ベルの『脱工業社会の到来』、アルビン・トフラーの『第三の波』、それに、ドラッカーの経営学書などが愛読書であったが、久しぶりに、Post-industrial societyに明け暮れていた昔を思い出して懐かしくなった。
しかし、宇宙船地球号が、既に成長の限界に達してしまった今、単純な経済成長では無意味で、地球にこれ以上の付加を掛けずに、最貧国共々グローバル全体の質の向上を図らねばならない。
経済発展の理論を学び続けてきた自分にとっては、貴重な問題意識の転換である。