熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ダニ・ロドリック著「貿易戦争の政治経済学」早すぎる脱工業化

2021年04月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   グローバリゼーション・パラドクスのダニ・ロドリックの本である。
   私は、経済発展の理論に学生時代から興味を持って勉強しており、この本で、著者が、近年の新興国や発展途上国が、何故、経済発展に苦慮しているのか、脱工業化社会への大きな時代の潮流の中で、「早すぎる脱工業化」という概念で説明しているのに、我が意を得た思いである。
   従来は、成長発展段階の国は、急速な経済社会の工業化によってキャッチアップしてきたが、近年多くの発展途上の国々の経済発展は、途中で失速状態となっているのだが、これは、きちんと工業化することなく、サービス産業に移行してしまった、すなわち、この「早すぎる脱工業化」が、経済発展の足を引っ張って、国家の成長発展を阻害している。と言うのである。

   これまでの歴史を見れば、「成長の奇蹟」を起こした国は、殆ど総て急速な工業化によって経済成長を実現し、その急成長が一過性を超えて持続した国で、日本がその典型だが、欧米の先進国もそうであったし、日本に倣って雁行成長を遂げた東アジアの虎や中国なども、その例である。
   製造業は、急速なキャッチアップを可能にし、輸出を促進して成長の原資を稼ぐ。多くの不利な条件を抱える貧しい国ですら、海外の製造技術を模倣し、実際の製造に生かすのは比較的容易で、その国の政策や制度、地理的条件に関係なく、製造業は技術先進国との差を年間3%のペースで縮める傾向にある。と言う。その結果、農業従事者を工場労働に従事させることの出来る国は、大きな成長ボーナスを得ることが出来、日本は、まさに、この幸運に恵まれた。
   労働者や農業従事者が、近代的な工場労働やサービス業に移り、生産性が向上して経済が発展し、更に、伝統的産業と近代的産業との間の生産性の格差が縮小し、経済の二重構造が徐々に解消されて、その過程で農業技術の向上や単位面積あたりの農家の数が減り、農業の生産性が改善し、経済社会構造が高度化していった。これが、ダイナミックな工業化によって成長発展を遂げた国々の軌跡である。

   しかし、このような発展方法は、最早、過去の話。
   グローバリゼーションと技術進歩の力が合わさって、製造業の仕事の性格が大きく変って、発展途上国の標準所得と人口統計的な決定要因を調整した製造業の雇用と生産高の割合は、十年ごとに低下し、いまや、かってないほど低下してしまって、雇用吸収の余地が激減した。貧しくて経済が未発展のままの状態で、経済社会構造そのものが脱工業化してしまったのである。
   その上に、世界的に急速に進んだ製造業の技術進歩によって、サービスと比較した工業製品の相対価格が低下したことで、発展途上国の企業にとっては新たな市場に参入するインセンティブが低下した。同時に、製造業がより資本集約的、技術集約的になったことで、農業や非公式経済出身の労働者を吸収する潜在力が著しく低下した。
   また、貿易面では、中国など成功した輸出国との競争や世界的な貿易障壁の解消によって、国際競争力が弱体化したために輸出能力がなくなり、更に、国内消費向けの単純な製造業を発展させる機会すら殆どの貧困国にはなくなっている。安い輸入品に駆逐されて、輸入代替による産業化の余地さえなくなってしまった。と言うことである。

   さて、新興国や発展途上国では、今でも、若者たちは引き続き田舎から都市部へ大挙して移動してきているものの、彼らが従事する仕事は工場労働ではなく、殆どが生産性の低い非公式の国の経済統計にカウントされないようなサービス業である。
   実際にも、これらの諸国では、製造業からサービス業へ、貿易財を作る事業から非貿易財を作る事業へ、組織的部門から非公式経済へ、近代的企業から伝統的企業へ、中堅企業・大企業から小さい企業へと、構造変化は逆向きになってきている。と言うから悲劇である。

   発展途上国においては、経営者やバンカーなどと、小商いや家事手伝いなど非公式経済で働く人々との間の収入や労働環境の格差は、かってなく大きくなっている。経済をテイクオフして工業化できなかったために、人的資本や制度の機能を十分に蓄積する前に、早期にサービス経済に移行したことで、先進国でさえ対応に苦しんでいる労働市場における格差や排除の問題を更に悪化させている。

   21世紀初頭に、ゴールドマン・サックスのジム・オニールが、次代の経済大国になると囃し立てたBRIC’s や、NEXT11のうち、中国と韓国は、まずまずとして、ブラジル、ロシア、インド、そして、イラン、インドネシア、エジプト、トルコ、ナイジェリア、パキスタン、バングラデシュ、フィリピン、ベトナム、メキシコなどは、このロドリックの説く「早すぎる脱工業化」の頸木に呻吟していると言うことであろうか、
   国土と人口の大きな国が成長基調だという単純な理論展開に惑わされた感じだが、勿論、有望視されている国もあるが、実際には、殆どの国の政治経済社会情勢は火の車だという、
   「中所得国の罠」を突破できるのかどうかさえ、危うくなってきている。

   ダロン・アセモグルが説く如く、自由で民主主義的な包括的な制度が好循環を促し成長発展を促す、と言うことであろうが、欧米先進国のように国家がそこまで成熟するのは、今の発展途上国にとっては至難の業であって、前述のショートカットとも言うべき工業化戦略が、最早、機能しなくなったとしたら、どうして、新興国や発展途上国は、テイクオフ出来るのか、
   パンデミックが、その悲劇に、更に追い打ちを掛けている。
   グローバリゼーションの進展で一体となった地球上の人類は一蓮托生であって、肝に銘ずべきは、パンデミックも地球温暖化も、総て世界中の問題は、自国ファーストを、最早、貫けなくなって、全人類が同時に幸せにならない限り、自分たち自身の幸せもないと言うことである。

   ウォルト・ロストウの『経済成長の諸段階』、ダニエル・ベルの『脱工業社会の到来』、アルビン・トフラーの『第三の波』、それに、ドラッカーの経営学書などが愛読書であったが、久しぶりに、Post-industrial societyに明け暮れていた昔を思い出して懐かしくなった。
   しかし、宇宙船地球号が、既に成長の限界に達してしまった今、単純な経済成長では無意味で、地球にこれ以上の付加を掛けずに、最貧国共々グローバル全体の質の向上を図らねばならない。
   経済発展の理論を学び続けてきた自分にとっては、貴重な問題意識の転換である。
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わが庭・・・イングリッシュ・ローズ、ザ・ポエッツ・ワイフも咲き始めた

2021年04月28日 | わが庭の歳時記
   黄色いイングリッシュ・ローズのザ・ポエッツ・ワイフは、今年、沢山蕾を付けており、一番花が咲いた。
   イングリッシュ・ローズは、蕾が開き始めるときには、我々がイメージするバラの姿で現われるが、開き始めると、オールドローズとの交配なので、花弁の密なカップ咲きやロゼット咲きの豪華な花になる。
   このザ・ポエッツ・ワイフは、満開直後は花心がオレンジがかった深いイエローだが、徐々に淡いイエローに変ってゆく。
   先に咲いていたモリニューと比べると、イエローの差が面白い。
   
   
   
   
   
   

   黄色いバラは、壮快とミダスタッチが待っているが、まだ、蕾が固い。
   赤いバラ、ベンジャミン・ブリテンとあおいがスタンドバイしていて、この方が先に咲き出しそうである。
   
   
   

   今、庭で元気なのは、萌え始めた新芽に若葉だが、私にとって嬉しいのは、椿が、綺麗な新芽を伸ばして、勢いよく育ってくれていることである。
   この新芽がしっかりし始めた頃に、花芽を付けて、秋から来春の花の準備をするのだが、特に、鉢植えの椿は、水やりをギリギリまでセーブして、枯らせる寸前で水をやるという芸当を演じなければならないので難しい。
   実生苗や、それに、挿し木苗も、結構あるので、どんな花が咲くのか、楽しみなのである。
   
   
   
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わが庭・・・イングリッシュ・ローズ:モリニュー咲き始める

2021年04月26日 | わが庭の歳時記
   わが庭のバラが、やっと咲き始めた。
   まず、最初に咲いたのは、イングリッシュ・ローズのオレン色を帯びた黄色いモリニューである。
   ”デビッド・オースチンは1950年代初め、より美しいバラを生み出すべく育種を始めました。”と言うから、私が英国にいた1980年代には、まだ、それ程普及していなかったはずで、ポピュラーになっておれば、キューガーデンに通い詰めていたので気づいていたと思う。
   尤も、当時は、花を観賞するだけで、殆どガーデニングには興味もなかったし、知識も希薄であったので、偉そうなことは言えないが、イングリッシュ・ローズに興味を持って栽培し始めたのは、帰国してガーデニングを始めた1990年代後半からである。
   このブログは、2005年から書き始めており、イングリッシュ・ローズのことをかなり書いてきているが、椿と違って、どんどん枯らして新陳代謝が激しいので、咲いているのは、精々、買って5年以内の苗木である。
   千葉では、庭植えで栽培していたが、この鎌倉では、殆ど、京成ローズの10号鉢の鉢植えなので、植え替えなどでミスって失敗することが多い。
   
   
   

   もう一つ咲き出したのは、フェルゼン伯爵か、名札が消えたので分からないが、HTの大輪
   淡い赤紫の花弁が開き始めたところである。
   我がバラも、高島屋の包装紙のような懐かしいバラの花の姿をしたバラが殆どなくなってしまった。
   
   

   シャクヤクも咲き始めた。やはり、今年は、春の花の開花が早い。
   オダマキも咲いている。
   尤も、まだ、牡丹も椿も咲き続けている。
   春のモミジも美しい。
   
   
   
   
   
   
   
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ゴルフバッグは3組あるのだが

2021年04月25日 | 生活随想・趣味
   本を探すために倉庫を整理していたら、ゴルフバッグが奥に隠れていた。
   隠れていたと言うよりも、もう、何十年も全く意識になかったと言うことである。

   ゴルフに全く関心もなく、ゴルフをやったこともないし、正式に使ったこともないのに、何故、ゴルフクラブを持っているのかと言うことだが、長い人生、色々なことがあって、ゴルフ用具を一式揃えようとしたことが、何度かあったのである。
   最初は、ブラジルへ赴任したときで、ハワイを経由してサンパウロに向かったので、ホノルルの駐在員の勧めで、何も分からないままに、靴なども含めて一式揃えた。
   前任者が帰国して代表者になり、必然的に、ゴルフ会員権を譲り受けたので、やってみようかと思って、ゴルフクラブに出かけてレッスンを受けたのだが、数回やってみて性に合わないと思ったので、それで止めてしまった。

   次は、ロンドンから帰国して、長い海外生活も終ったので、ゴルフが出来なければ、サラリーマンはやっていけないと、回りからせっつかれて、この時も、同僚の見立てで、クラブなど一式揃えた。
   結局、ゴルフの必要な部署の仕事でもなかったので、全く、手を付けなかった。
   休日など、寸暇を惜しんで、経済や経営の専門書や世界の歴史書などを紐解いている方が性に合っていたのである。

   次は、自分からゴルフ用具を手配したのではなく、某ゴルフクラブの監査役をやっていて、合弁相手の親会社が、有名なゴルフ製品の製造販売会社であったので、株主総会などの時に、キャロウエィや新開発のウッドなどを頂戴した。
   長女の娘婿は、ハンディ一桁のプロ級なので好みが合わず、次女の娘婿は、ゴルフをやらないので、使いようがなく、長女の娘婿の父君に差し上げることはあったが、結局これも一式だけ残っている。
   もう、古いのだと、何十年も、ゴルフバッグを開けたことがないので、錆び付いているのかどうかは分からないが、色々なものを、倉庫に詰め込んだままで過ごしてきたので、貴重であったはずの書物なども含めて、今更、執着心を起こしたくもないので、処分は、娘たちに任せることにしている。

   さて、何故、ゴルフに縁がなかったのか。
   別に、好き嫌いの問題ではなく、ゴルフをやりたいとは全く思わなかったとしか言いようがないような気がする。
   まず、当時の殆どのサラリーマンが入れ込んでいた麻雀だが、これにも全く興味がなく、学友が雀荘でうつつを抜かしていたときにも同調せず、入社したときに、高卒の新入生に「こんなん、出来ないと恥ずかしいですよ」と誘われて手ほどきを受けたが、これも性に合わず、全くやらなかった。
   麻雀とゴルフをやらないし、居酒屋やバーで沈没するわけでもなく、どうして、何十年もサラリーマンをやってこられたのか、自分でも不思議だが、人間関係を軽視した報いは結構感じてはいるが、我が道を行く人生の良さも十分に感じているので、まあまあである。

   人様が、一番不思議がるのは、ゴルフの本場、英国で五年間も生活をしておきながら、ゴルフとは全く縁のない生活をして来たことである。
   プロジェクトなどの開発も業務の一環であったので、ロンドン近郊や南仏のゴルフ場などの視察にも行っており、この口絵写真は、ゴルフの発祥地セントアンドリュースだが、一度、見学に行こうと思ったことがあるのだが、都合が付かず諦めた。
   全英オープンのチケットがあるので行こうと誘われたことがあるのだが、興味を感じなかったのでチャンスをミスった。
   アスコットの競馬には、シルクハット・モーニングコート着用で、何度かいそいそと出かけたし、豪華なクリケット競技場で、一日中宴会を楽しみながら鑑賞したこともあり、ロイヤルアルバートホールで、テニスの国際試合を観たり、スポーツ鑑賞は、嫌いでなかったが。

   さて、ゴルフとジェントルマン・クラブとは関係があるので、ジェントルマン・クラブについて触れておく。
   英国で、ビジネスマンとして豊かなそれなりの生活を送るためには、ジェントルマン・クラブのメンバーになることが必須で、私は、最高峰のクラブの一つであるジェントルマン・クラブRAC(THE ROYAL AUTOMOBILE CLUB)に入会していた。
   このブログで、何度か書いているので説明は省くが、女王陛下が総裁の由緒正しいクラブで、入会が非常に難しく、私も2年ほど待って、面接を受けてメンバーとなった。
   面接の招集通知が来たので出かけると、2階の役員会議室の待合室に、何人か私と同じ様な面接待ちの紳士が慎重な面持ちで待機している。
   私の番になって、役員会議室に招じられた。大きなテーブルの向こう側には、威儀を正した紳士が6人座っている。
   私のロンドンでの仕事については、著名な大プロジェクトを行っていたので比較的知られて居たのでスムーズに話が進み、それに、アメリカのビジネス・スクール(WHARTON SCHOOL)でのMBAが、役に立ったのかもしれない。
   ところが、問題のスポーツのことについても聞かれたのだが、これは私にはあんまり縁がなく、ゴルフもやらないと言うと日本人には珍しいとビックリしていたが、そこは同じ本場の英国、その代わりに、シェイクスピアに通い詰めていると言ったら笑っていた。
   イギリスは、文武両道を尊ぶ国、まして、ここは、自動車をスポーツに仕上げたクラブで、名実ともに功成り名を遂げた英国紳士6人を相手に、スポーツは差し置いて、政治経済から芸術文化等々多岐にわたった30分ほどの面接、何を喋ったのか覚えていないが、終わってホッとして部屋を出た。

   バッキンガムパレスに近いポール・モルのクラブハウスは、小さな宮殿のような建物で、大広間から、レストラン、ラウンジ、バー、客室、地階にはスポーツジムやプールまであって、ジェントルマン生活の一切が完備している。しかし、ダウンニング10同様、表札もなければ看板もなく知る人ぞ知る佇まいである。
   ところで、このクラブは、ウッドコートに立派な18ホールのゴルフクラブを持っているので、私もメンバーだが、とうとう縁がなかった。
   専ら、メインレストランで接客したり、ホールを借りてレセプションをしたり、帰国してからは、ロンドンの定宿にしたり、・・・
   ロンドンでは、日本と違って、接待されるのは、高級ホテルや高級料亭などではなく、自分がメンバーのジェントルマン・クラブや自社ビルのレストラン、時には自宅などあくまで自分自身の城での晩餐会場を旨としていて、この歴史と伝統のある文化が素晴らしいと思うのだが、
   これを知らない日本企業の某社長は、しみったれやがって、と見下げられたと思ってカンカンになって怒っていた。
   このあたりのリベラル・アーツや国際的教養の欠如で、恥をかく日本の実業人が多いのだが、これを書き始めると長くなるので、今回は端折ることにする。
   
   ここで言いたいのは、このジェントルマン・クラブ同様、英国では、ゴルフ・クラブも、ジェントルマン・クラブであって、厳格な審査を経て、信頼できるジェントルマンであると認められたメンバーによって構成されている閉鎖的なクラブだと言うことである。
   高値の会員権が金で売買されて、金さえあれば、猫も杓子もメンバーになれるどこかの国のゴルフクラブとはワケが違うのである。

   私が、ヨーロッパで仕事をし始めた1980年代初期には、ジェントルマンのクラブメンバーなど殆どいなかったし、日本人はヨーロッパのゴルフ場からはみ出した存在で、苦労していて、プレイ権を手に入れても、日本人は多数でコンペをして騒ぐので、オランダでさえ嫌われていた。
   
   それはともかく、ロンドンに五年間も住んでいて、ゴルフを一回もプレイしたことのない日本人は、天然記念物だと言われたことがある。
   しかし、私から言えば、ロンドンに長く駐在していて、シェイクスピア戯曲を一度も観たこともなく、ロイヤルオペラにさえ行かずに、ゴルフに明け暮れていた日本人の方が、異常ではないかと思っている。
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わが庭・・・もう一つの黄色い牡丹

2021年04月23日 | わが庭の歳時記
   わが庭には、牡丹は3株しか植わっていないのだが、最後の黄色い牡丹が咲いた。
   殆ど同じ感じの花ながら、草花のシャクヤクは、冬期は地下に潜っていて邪魔にならないのだが、牡丹は、木本性なので、1年中、それなりに世話をしなければならないので、気を使う。
   楊貴妃が寵愛して、中国では最も有名な名花だが、花弁が華奢なので、花の命が短すぎるのが難である。
   
   
   
   

   イングリッシュ・ローズの蕾が、膨らみ始めた。
   ダッシー・バッセル、モリニュー、ザ・ポエッツ・ワイフ、
   沢山、イングリッシュ・ローズを植えていたのだが、結構栽培が難しくて、枯らせてしまって、幸いにも、残った株の花が咲きはじめているというわけである。
   今年は、多少、意識して世話をしたので、綺麗に咲きそうである。
   
   
   
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コロナで世の中閉塞時代だが

2021年04月22日 | 生活随想・趣味
   コロナ、コロナで、益々動きが取れなくなってしまった今日この頃、巣籠もりも1年以上とも成ると、何となく、生活が固定してしまった感じで、鬱陶しくなる。
   特別アクティブではないし、外出と言えば、時々、観劇やクラシック音楽鑑賞、それに、書店巡り等に東京などに出かけたり、精々、近くの古社寺など湘南鎌倉を散策する程度であったのだが、それも、控えるようになり、鎌倉市内の歴史散歩さえ、億劫になって、足が遠のいてしまう。
   元々、クラブや同好会に入るわけでもなく、自分自身だけで時間を過ごせる趣味や娯楽が多かったので、その点、巣籠もり状態でも、何の苦痛もないので助かってはいる。

   老境に入ってから、庭の世話や雑事を嫌って、一戸建て住宅からマンションにかわった友人が結構いるのだが、花木を育てながらガーデニングに勤しみ、日々の移り変わりを写真に撮って楽しんでいる私にとっては、足腰が動く間は、庭から離れられない。
   今日のように良い気候だと、庭に出て、木漏れ日の中で、涼風を楽しみ、コーヒーを啜りながら、シェイクスピアを読んだり、能や狂言の詞章を繰る楽しみの一時は至福の時間である。
   鶯が囀り続けていて、珍しいアゲハチョウも花をハシゴしている。
   尤も、気持ちの良い日ばかりではなく、雨も降れば風雨で荒れ狂う時もあり、暑さや寒さに閉口することも結構多いのでが、それでも、気持ちの良い日を狙って一時でも憩う時間が取れると、嬉しくなる。
   
   
   
   
   
   さて、寄る年波に勝てないのが、人間の運命。
   数年前から悩んでいる脊柱管狭窄症は、知人から、強烈な腰痛を、ホカロンを腰に当ててサラシを巻いて治したという話を聞いたので、嘘か本当か、
   丁度、坂井学先生の「体を温めると痛みが消えて跛行も改善」という能書きの本を見つけたので、参考にして、毎朝、薄い毛糸の腹巻きの上から、腰の左右にホカロンを貼って続けていたら、朝起きたときの痛みは残ってはいるが、殆ど、症状が消えてしまったのである。
   エゴスキュー運動と、インターネットで学んだ、左右の足首を膝において軽く屈伸すると言う運動は続けているが、大病院のいい加減な先生の痛み止めの薬の継続で悪化すれば手術という処方よりも、遙かに効き目があって良いのを実感している。
   しかし、勝てないのは歳で、少しずつ、足腰が弱くなってきているのを感じ始めた今日この頃である。

   ところで、傘寿を超えると、これが、分水嶺であろうか、友人知人が、一人消え二人消え・・・残っているのも、少しずつ健康を害し始めている。
   定期的に家族で世界旅行を楽しんでいた友が、眼神経疲労と緑内障で殆ど見えなくなり、その上に腰椎骨折で動けなくなったり、
   スポーツマンだった友が、少しづつ認知症が進んできたり、
   積極的にブログを書き、私のブログにアクセスし続けていた友が、ブログを止めて音沙汰がなくなったり、
   世界中を駆け回っていた熱血商社マンが、杖を離せなくなったり、
   尤も、まだまだ、現役で元気に働いている友もいるが、中には、コロナの最中でも、癌手術をしたと言う友も、

   この学友たちと、裏山の吉田山に登って、蛮声を張り上げて「紅萌ゆる」を歌い、口角泡を飛ばして天下国家を論じていたのは、もう、60年前のこと、
   しかし、ここまで良く生きてこられたと思うと胸に迫る、そんな思いの今日この頃である。
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ヌーリエル・ルービニ:スタグフレーションは来るのか

2021年04月20日 | 政治・経済・社会
   プロジェクト・シンジケートの今回の論文は、ニューヨーク大学NOURIEL ROUBINI教授の”Is Stagflation Coming?

   緩々の財政と金融政策が痛みを伴うインフレを引き起こすかどうかについての議論で欠如しているのは、潜在的なネガティブな供給ショックによってもたらされるより広範なリスクである。貿易戦争や脱グローバリゼーションから高齢化やポピュリズム政治まで、地平線上のインフレの脅威には事欠かない。
   今後数ヶ月間に発生するインフレが 、COVID-19不況からの急激な回復, または、持続的な ディマンドプルとコストプッシュ要因の両方を反映して、一時的なものになるかどうかについての議論が高まっている。と、冒頭で問題提起。

   先日紹介したガルブレイス教授の「インフレは起こらない」という見解に対して、ルービニは、全く反対の「インフレが起こる可能性があり、1970年代に起こったスタグフレーション再現の危険さえ想定される」というのである。
   その要因として、第一に、バイデン政権の異常に巨額な財政支出、第二に、連銀や中銀の金融と信用の異常緩和、そして、第三に、ネガティブな総供給ショックをあげている。
   財政と金融の大盤振る舞いと大幅な緩和は、インフレ要因だとするのは一般的な見解だが、ネガティブな供給ショック、すなわち、サプライサイドの蹉跌がインフレを誘発し、スタグフレーションを引き起こすという見解は興味深い。

   ルービニの論旨を纏めてみると、多少荒いが、次の通りである。

   かなりの議論は、インフレーションは、この10年以上にわたり、ほとんどの中央銀行の年間2%目標を下回ってはいるが、持続的長期的な上昇を続けると指摘している。
   その第一は、米国がすでに予想よりも速く回復しているように見える経済に対して過度の財政刺激策を制定したこと。3月に承認された追加の1.9兆ドルの支出が、昨年の春に3兆ドルのパッケージ、12月に9,000億ドルの刺激策に更に加わり、2兆ドルのインフラ法案がまもなく追加される。したがって、この危機に対する米国の対応は、2008年の世界金融危機への対応よりも桁違いに大きい。
   反論は、家計が債務を返済するためにその大部分をセイブするので、この刺激は永続的なインフレを引き起こさない。また、インフラへの投資は、生産性向上の公共資本のストック拡大により、需要と供給も増加する。しかし、もちろん、これらのダイナミクスさを考えれば、この刺激策によってもたらされる民間貯蓄の増加が、累積需要を引き起こす。

   第二に、関連する議論は、米連邦準備制度理事会(FRB)と他の主要中央銀行が、金融と信用緩和を組み合わせた政策によって過度に緩和的であることである。中央銀行が供給する流動性は、短期的には既に資産インフレを惹起しており、経済の再開と回復が加速するにつれて、インフレ的な信用拡大と実質的な支出を加速するであろう。時が来たら、中央銀行は、バランスシートを縮小し、政策金利をゼロまたはマイナスの水準から引き上げて、過剰な流動性を処理できる見解もあるが、この主張はますます吸収が難しくなろう。
   中央銀行は、「ヘリコプターマネー」やMMT理論の適用によって拡大してきた巨額の財政赤字を貨幣化してきた。既に高水準の基礎ライン(先進国のGDPの425%、世界全体で356%)から公的債務と民間債務が増加している時期には、低い短期・長期金利の組み合わせしか債務負担を持続可能に保つことができない。この時点での金融政策の正常化は、債券と信用市場を、そして、株式市場を暴落させ、景気後退を引き起こすだろう。中央銀行は事実上独立性を失う。
   ここでの反論は、経済が、フル・キャパシティと完全雇用に達すると、中央銀行は信頼性と独立性を維持するために必要なことは何でもする。さもなければ、彼らの評判を破壊し、価格上昇の暴走を許すインフレ期待のアンカー解除であろう。

   第三の主張は、財政赤字の貨幣化は、インフレにはならず、むしろ、デフレを防ぐだけであろう。しかし、この世界経済に与えるショックは、資産バブルの崩壊が信用収縮を引き起こし、総需要ショックを惹起した2008年にに似ていると考えられる。
   今日の問題は、ネガティブな総供給ショックからの回復である。したがって、過度に緩い金融政策や財政政策は、間違いなく、インフレ、さらに悪いことに、スタグフレーションを引き起こす心配がある。1970年代のスタグフレーションは、1973年のヨム・キップル戦争と1979年のイラン革命による2つの負の石油供給ショックの後に起こったのである。
   今日、潜在的な成長への脅威と生産コストの上昇を引き起こす可能性のある要因である、多くの潜在的なネガティブな供給ショックについて心配する必要がある。これには、脱グローバリゼーションや保護主義の高まり、パンデミック後の供給ボトルネック、深米中米中冷戦、そして、グローバルなサプライチェーンのバルカニゼーション、低コストの中国からより高コストの国への外国直接投資のリショアリングと言ったような貿易上のハードルが含まれる。
   同様に心配なのは、先進国と新興国の両方の人口動態構造である。高齢者が貯蓄を減らして消費を増やしているとき、移住に対する新たな制限は、人件費の上昇圧力となる。
   さらに、所得と富の不平等の高まりは、ポピュリズムの活動を継続させることを意味する。これは労働者と労働組合を支援するための財政政策と規制政策の形をとり、人件費に対するさらなる圧力源となる可能性がある。一方、企業部門における寡占の集中は、生産者の価格設定力を高めるため、インフレ要因となる。もちろん、ビッグテックと資本集約型の省力化技術に対する反発は、イノベーションを広範囲で減らす可能性がある。

   このスタグフレーション説に対しては、次のような反論があろう。国民の反発にもかかわらず、人工知能、機械学習、ロボット工学の技術革新は、労働力の削減を推進するが、人口動態の影響は、(労働供給の増加を意味する)定年延長によって相殺される可能性がある。
   同様に、今日のグローバリゼーションの後退は、地域統合が世界の多くの地域で深まるにつれて逆転する可能性があり、サービスのアウトソーシングは労働移問題問題の回避策となる。最後に、所得格差の縮小は、深刻なインフレではなく、単に中途半端な需要とスタグフレーションを阻止するであろう。

   短期的には、財、労働、コモディティの市場、および一部の不動産市場の緩みは、持続的なインフレの急増を防ぐであろう。しかし、今後数年間で、緩やかな金融政策と財政政策は、持続的なマイナス供給ショックの出現により、持続的なインフレを引き起こし、最終的にはスタグフレーションを引き起こし始めるであろう。
   間違いを起こしてはならない:インフレの再来は、深刻な経済的、財政的影響を及ぼす。現下の経済は、「大いなる安定“Great Moderation” 」からマクロの不安定な新しい時期に入っている。債券の世俗的な強気市場はついに終わり、名目と実質債券利回りの上昇は今日の債務を持続不可能にし、世界の株式市場を暴落させるであろう。やがて、我々は、1970年代型の経済停滞の復活に直面するであろう。
   と、ルービニは結論づけている。
   ICT革命やグローバリゼーションで経済構造が激変しているので、70年代どおりにスタグフレーションが起こるかどうかは未知数だと思うが、ルービニの警告には注目すべきであろう。

   私がフィラデルフィアで勉強していた1970年代、米国経済は、スタグフレーションに呻吟していたが、その頃から1980年代のレーガン政権時代に掛けて、サプライサイド経済学が隆盛を極めていて、私も専門書を買い込んで勉強した記憶がる。
   2008年の金融不況以降は、デフレギャップが問題でケインズであったが、これからは、インフレギャップを心配しなければならなくなり、サプライサイド経済学の復権と言うことになろうか。

   いずれにしろ、宇宙船地球号を救うためには、何を置いても、シュンペーター、イノベーションであることには間違いない。
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ミニトマトをプランターに植える

2021年04月19日 | ガーデニング
   毎年、プランターに、トマト苗を植えて育てており、今年も苗が届いたので植えた。大きめのプランターに、それぞれ、2本ずつである。
   大玉トマトは、結構、難しいので、最近は、ミニトマトばかりにしている。
   授粉する必要もないし、それほど、手間暇掛けなくても、二本仕立てで育てれば、それなりに結実して楽しめるのである。
   タキイと国華園か、どちらかから接木苗を買っているのだが、両方とも信用できる苗業者であり、安いに越したことはないので、今年は、国華園の4連ポット苗を買った。
   アイコは定番で、CFプチぷよ、そして、黄色いミニトマトの、CFプチぷよイエローとイエローシュガー、それぞれ4本で都合16本。

   今年は、庭木をバッサリと強剪定して、一気に庭が明るく成ったので、ばらも、潤沢な陽を受けて、蕾が沢山付いていて楽しめそうなので、トマトも期待出来そうである。
   とにかく、陽当たりが第一で、害虫や細菌にやられなければ、後は、夏の暑さの程度によるのだが、もう、その頃には終っているであろう。
   
   
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わが庭・・・黄色い牡丹咲く

2021年04月18日 | わが庭の歳時記
   ネイムタグがなくなったので、名前は分からないが、黄色い牡丹が咲き出した。
   随分前に京成バラ園で買って、庭植えしているのだが、確か買ったときには、牡丹とシャクヤクの交配の新種だと記憶しているのだが、牡丹園などでよく見るシンプルな黄色い牡丹とは一寸雰囲気が違う。
   それほど、花は大きくはないが、派手ながら嫌みがないところが好ましい。
   
   
   
  
   
   

   イングリッシュローズが、色付き始めた。
   アメリカハナミズキが高みで派手に揺れている。
   エリーナが、種子を付け始めた。
   鶯が、しきりに囀っている。鎌倉山の麓の春である。
   
   
   
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METライブビューイング・・・「ワルキューレ」

2021年04月16日 | クラシック音楽・オペラ
   今回の「ワルキューレ」は、2011年5月14日の舞台で、ロベール・ルパージュの演出で舞台は壮大な機械仕掛けで同じだが、前回2019年のMETライブビューイングの舞台と異なって、キャスティングが、ジークリンデのエヴァ=マリア・ヴェストブルックだけ同じで、代わっているので、大分雰囲気が違っている。
   2011年のMETライブビューイングで、六本木ヒルズの映画館へ行って観ているので、2回目である。

   今回の陣容は、
   指揮:ジェイムズ・レヴァイン
   演出:ロベール・ルパージュ
   出演:
     ジークフリート:ヨナス・カウフマン、ヴォータン:ブリン・ターフェル、ブリュンヒルデ:デボラ・ヴォイト、フリッカ:ステファニー・ブライズ、 ジークリンデ:エヴァ=マリア・ヴェストブルック

   カウフマンとヴェストブルックのコンビは秀逸で、その後、プッチーニの「西部の娘」で、ミニー:エヴァ=マリア・ヴェストブルック、ジョンソン:ヨナス・カウフマンで共演して素晴らしい舞台を見せている。
   カウフマンが美しい音楽だと感嘆していた第一幕だが、ジークリンデの歌う「冬の嵐は過ぎ去り」、ジークムントの「君こそは春」に続く第一幕の終わりの愛の二重唱の何と素晴らしいこと、そして、第二幕の別れを直前にした二人の二重唱の何と崇高なこと、この美しさ素晴らしさは感動的であった。

   ブリュンヒルデのデボラ・ヴォイトだが、後述するが、前には、ドミンゴのジークムントを相手にジークリンデを歌っていたのが、今回は、ブリュンヒルデで登場して、パンチの効いた凄いワルキューレを見せてくれており、2019年のMETライブビューイングでは、ナビゲーターを演じるという役者ぶり、
   このMETライブビューイングで、ワーグナーで一番好きな「トリスタンとイゾルデ」に登場して、イゾルデを歌ったときには、ビルギット・ニルソンの舞台を思い出して感激し、一気に引き込まれてファンになった。蛇足だが、以前には福与かであったのだが、随分、スマートになり魅力的になった。
   ヴォータンのターフェルは、ロイヤルオペラで、駆け出しの頃から観ているのでその凄さを知っているが、これまで、ジェイムス・モリスで観ることが多かったので、新鮮であり、重厚さが増して、流石にシェイクスピアの国の歌手で、表情豊かで実に芸達者になったターフェルを観て頼もしかった。終幕、ヴォータンが「さらば、勇敢で気高いわが子よ」と歌って、最愛の娘ブリュンヒルデとの別れを吐露し、「ヴォータンの告別」の音楽が感動を呼ぶ。長いモノローグも上手い。

   案内役が、ジークムントでファンを魅了し続けてきたプラシド・ドミンゴなので、解説は勿論、歌手たちとのインタビューも魅力的であるのがよい。

   今回も、METライブビューイングのHPの写真を借用する。
   口絵は、第3幕冒頭の「ワルキューレの騎行」の直後、ブリュンヒルデが、英雄ジークフリートを身ごもったジークリンデを逃すために、怒ったヴォータンから逃れての騎行シーン。以下は、ジークムント、ジークリンデ、ブリュンヒルデ、ヴォータン。
   
   
   

   私が初めて「ワルキューレ」の舞台を観たのは、1989年10月10日、ロンドンのロイヤル・オペラ劇場で、指揮はベルナルド・ハイティンク、ジークフリート:ルネ・コロ、ジークリンデ:ガブリエーレ・シュナウト、ヴォータン:ジェイムス・モリス、ブリュンヒルデ:グィネス・ジョーンズ、フリッカ:ヘルガ・デルネッシュと言う凄いキャスティングであった。
   その後、珍しい公演はロシア色の強いギルギエフの舞台で、2004年9月29日、ニューヨークのMETで、指揮:ワレリー・ギルギエフ、ジークフリート:プラシド・ドミンゴ、ジークリンデ:マーガレット・ジェーン・レイ 、ヴォータン:ウラジーミル・ヴァネーエフ、ブリュンヒルデ:Olga Sergeeva、フリッカ:イヴォンヌ・ネフ、
   ギルギエフが意識してロシア人歌手を起用したのであろうが、 Olga Sergeevaは、凄い歌手のようだが、英文の Wikipediaにも出てこない。

   その他、パンフレットが探せなくて記憶にあるのは、2000年3月にニューヨークに行って観たMET公演と、2006年6月の東京公演で、 
   METのアーカイブで調べて、そのまま転写すると、それぞれ、キャスティングは、次の通り。
   (2000年 New York)
   Conductor...............James Levine
   Brünnhilde..............Jane Eaglen
   Siegmund................Plácido Domingo
   Sieglinde...............Deborah Voigt
   Wotan...................James Morris
   Fricka..................Hanna Schwarz

   (2006年 Tokyo)
   Conductor...............Andrew Davis 
   Brünnhilde..............Deborah Polaski
   Siegmund................Plácido Domingo
   Sieglinde...............Deborah Voigt
   Wotan...................James Morris
   Fricka..................Yvonne Naef
   
   何故、キャストに拘って観た舞台を列挙したかというのは、「ワルキューレ」が上演されることが、比較的少ないうえに、キャストが、かなり、固定していることで、ワーグナー歌いと言うか、この大曲を歌いきる歌手が少なくて、大変だと言うことである。
   ロイヤルオペラで、ハイティンク指揮の「ニーベルングの指環」のうち、序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold)を除いて、第1日 『ワルキューレ』(Die Walküre)、第2日 『ジークフリート』(Siegfried)、第3日 『神々の黄昏』(Götterdämmerung)を観ているが、すべて、ジークムントとジークフリートはルネ・コロであり、ブリュンヒルデはグィネス・ジョーンズであった。
  
   以前に、ウィーン国立歌劇場の指揮者ベリスラフ・クロブチャールを、ウィーンの自宅に訪れた時、丁度、「ワルキューレ」のリハーサルを終えて帰ってきたところで、聞いたら、ブリュンヒルデはグィネス・ジョーンズであった。どうだったかと聞いたら、こんな大物歌手は、公演直前にしか来ないのだと言って笑っていた。ビルギット・ニルソンのブリュンヒルデの凄いCDを残しているが、カラヤンより沢山「ワルキューレ」を指揮しているのだと言ってDATAを見せてくれた。
   当時は、ヨーロッパでは、グィネス・ジョーンズのブリュンヒルデが定番であったのであろうか。彼女の「サロメ」を観たこともあるが、ダイナミックな凄い歌手であって、キリ・テ・カナワと共に好きな歌手であった。

   余談だが、昔、ユダヤ人指揮者は、ヒトラーが傾倒したワーグナーを嫌って演奏しなかったと聞いていたのだが、タブーが消えたのか、ロイヤルオペラで、音楽監督であったベルナルド・ハイティンクの「ニーベルングの指環」の他にも、「トリスタンとイゾルデ」「パルシファル」を観ており、楽しませて貰った。
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わが庭・・・ミヤコワスレ咲く

2021年04月15日 | わが庭の歳時記
   ミヤコワスレが咲き始めた。
   千葉の庭から何株か持ってきて、庭植えしたのが、宿根草として、何カ所か、庭で顔を覗かせる。
   ピンクの花もあったのだが、この淡い青紫の株だけ、土地に合ったのか、毎年、咲き続けてくれる。
   ミヤマヨメナ Aster savatieri と言うシオン属のキク科植物とのことだが、珍しく春に咲き、秋の菊にはない青系統の花なので、植えたのである。
   と言うこともあるが、本当は、ミヤコワスレという名前に惹かれたと言うことでもある。
   私の若かりし頃の学び舎は、日本の古都京都であり、アメリカの独立宣言の地フィラデルフィアであるので、ミヤコには、特別な思いがあるのである。

   何故、この花が、ミヤコワスレという粋な名前が付いたのか。
   「花おりおり」によると、
   鎌倉幕府に、承久の乱で、佐渡に流された順徳天皇が、20年暮らす中で、時にこの花で慰められて、都恋しさを忘れた、と言う伝承に依るのだという。
   
   

   今年は温かくて、少し早く椿の最盛期が終って寂しくなってしまったが、咲き残った花が、ポツポツと咲き続けている。
   ダローネガも、優雅な花を魅せてくれた。
   
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ダニ・ロドリック:バイデンは、未来像をFIXすべし

2021年04月13日 | 政治・経済・社会
   プロジェクト・シンジケートのDANI RODRIKの論文 ”Biden Must Fix the Future, Not the Past”  Apr 9, 2021
   を考えてみたい。
   ダニ・ロドリックは、「グローバリゼーション・パラドクス――世界経済の未来を決める三つの道」の著者で、国際経済学者である。

   バイデンの大胆な巨額の公共投資は、米国の変革にとっても有益だが、激動する時代の変遷で分岐点に立った経済の今こそ、過去の幻想に囚われずに、新しい将来ビジョンに立った未来像を確立すべきだと言うのである。

   米政権が提案した2兆ドルのインフラパッケージは、米国を変革し、それに倣う他の先進国にとっても重要な模範となろう。しかし、その可能性を達成するためには、この計画は、誤解を招く国家対市場の二分法と、時代遅れの冷戦トロープを避けなければならない。
   バイデン大統領の2兆ドルのインフラ計画は、市場が最も上手く機能し作用するという信念に基づいた新自由主義時代が去って、踊場にあるアメリカ経済にとっては、分岐点になる可能性が高い。しかし、新自由主義は死んでいるかもしれないが、何がそれに置き換えられるかはあまり明らかではない。
   米国や他の先進国が現在直面している挑戦は、20世紀初頭に直面した課題とは根本的に異なる。以前の挑戦は、ニューディールと福祉国家を生み出した。今日の問題(気候変動、新技術による労働市場の破壊、超グローバリゼーション)には、新しいソリューションが必要である。私たちは、国内で広く共有された繁栄と海外での世界的覇権を享受したあの神話化された時代へのノスタルジアではなく、新しい経済ビジョンが必要である。

   気候変動に関しては、バイデンの計画は、A・O・コルテス下院議員が提唱したグリーン・ニューディールには及ばない。しかし、電気自動車やその他の二酸化炭素排出量削減プログラムの市場支援など、グリーン経済への多額の投資が含まれており、温室化効果ガスを抑制する連邦政府史上最大の取り組みとなっている。雇用に関しては、インフラに加えて、製造業と成長業種である必須のケア経済に焦点を当てて、より良い賃金と福利厚生を提供して雇用の拡大を目論む。

   政府の役割に関する新しい考え方は、新しい優先事項として重要である。多くのコメンテーターは、バイデンのインフラ計画を、大きな政府への復帰だと考えている。しかし、このパッケージは、8年間に渡るプロジェ口で、GDPのわずか1%の公的支出の引き上げに過ぎず、最終的には収支が合う自己完結型となる。インフラへの公共投資の増加、グリーンへの移行、雇用創出問題等は、長い間、看過されてきた。たとえこの計画が、大企業に対する税金によって賄われる大きな公共投資であるにすぎないとしても、これは、米国経済にとって非常に良いことである。
   このバイデンの計画は、それ以上に価値がある。それは、経済における政府の役割と、その役割がどのように認識されているかを根本的に変える可能性がある。政府の経済的役割に対する伝統的な懐疑論は、利益動機で動く民間市場は効率的であるが、政府は無駄であるという信念に根ざしている。しかし、ここ数十年の民間市場の過剰(独占の台頭、民間金融の愚かさ、所得の極端な集中、経済不安の高まり)は、民間部門の輝きを曇らせてしまった。

   同時に、非常に多くの不確実性を特徴とする複雑な経済では、トップダウン規制が機能しえないことは今日よく理解されている。グリーン技術の推進、ホームケアワーカー向けの新しい制度的取り決めの開発、ハイテク製造のための国内サプライチェーンの深化、または成功する労働力開発プログラムの構築など、特定の分野に関わらず、政府と非政府組織との協力が、不可欠である。

   これらすべての分野で、政府は市場や民間企業、そして、労働組合やコミュニティグループなどの他の利害関係者と協力する必要がある。達成への知識と能力を持ったアクターの完全な参加で、公共目的の追求を確実にすべく、ガバナンスの新しいモデルが必要になる。政府は信頼できるパートナーになる必要があり、そして、同時に他の社会的なプレイヤーを信頼する必要がある。

   過去には、国家と市場間のバランスの過度のスイングが、同時に逆に反対方向に過度のスイングを惹起してきた。バイデン計画は、このサイクルを破ることができる。成功すれば、市場や政府が、代替としてではなく、補完役として機能し、他が、重要性を増したときに、それぞれがより良く機能し、その最も重要で永続的な遺産となり得る。

   この点に関して、バイデン計画を、世界、特に中国におけるアメリカの競争的地位を回復する方法と見なすることは、有益ではない。残念ながら、バイデン自身はこのフレーミングに誤りを犯している。このパッケージで、「今後数年間で中国との世界的な競争に勝つ立場に立つ」と、彼は最近主張しているのである。
   この方法でインフラ計画を売り込むのは政治的に魅力的かも知れない。以前には、米国が、弾道ミサイルや、宇宙競争で、ソ連が優位に立って負けていると言う恐怖感が、国家の技術動員を触発するのに役立った。
   しかし、今や恐怖を恐れる理由ははるかに少ない。党派の二極化の激しさを考えると、この計画に対して多くの共和党の支持を得ることは無理である。そして、それは実際の行動から注意をそらす。計画が、普通のアメリカ人の収入と機会を増加させるならば、それはアメリカの地政学的地位への影響に関係なく、やる価値がある。

   まして、経済学は軍拡競争とは異なる。中国の経済成長がアメリカを脅かす必要がないのと同様に、強い米国経済は中国にとって脅威であってはならない。バイデンのフレーミングは、国内の良い経済学を海外での積極的なゼロサム政策の道具に変える限りにおいては、害になる。バイデン計画に対する防衛策として、中国が、米国企業に制限を強化するとしても、中国を非難できないであろう。
   この計画は、米国を変革し、他の先進国の重要な模範となる可能性がある。しかし、その可能性を実現するためには、誤解を招く国家対市場の二分法と時代遅れの冷戦トロープを避けなければならない。過去のモデルから脱却してこそ、未来への新しいビジョンを描き得ると言うことである。

   私は、ロドリックの本は、「グローバリゼーション・パラドクス」しか読んでいないが、この本では、ロドリックは、
   「世界経済の政治的トリレンマの原理」を提示して、ハイパーグローバリゼーション、民主主義、国民国家(国民的自己決定)の三つは、当然のことだが、同時には満たすことが出来ない、三つのうち二つしか実現できない。として、三つの選択肢を提示して、検討を加えていて、
   自分の選択する道は、ハイパーグローバリゼーションを犠牲にして、民主政治の中心の場として国民国家を維持し、ブレトンウッズ体制を再構築することだ述べていた。
   Dani Rodrikは, Professor of International Political Economy at Harvard University’s John F. Kennedy School of Governmentで、新刊Straight Talk on Trade: Ideas for a Sane World Economy(貿易戦争の政治経済学:資本主義を再構築する)の著者であり、この本を読んでから、もう一度、この論文を考えてみようと思っている。
   グローバリゼーションを手放しでは喜ばない、国民国家アメリカが中心となったしっかりとした国際秩序が統べる国際社会を求めつつ、バイデンに期待しているのであろう。
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わが庭・・・夏みかんが甘くなった?

2021年04月11日 | わが庭の歳時記
   我が庭には、まだ、木にかなりの数の夏みかんがぶら下がっている。
   ぶら下がっているというのは正確ではないが、1月に、親友の奥方が、マーマレードを作るというので送るため、そして、近所の人が野鳥のエサにするので欲しいと言うことで、綺麗なところを殆ど収穫して、採りにくいところに成っていた夏みかんが、残っているということである。
   我が地所ではあるが、フェンスの外側の小川との境界線の崖っぷちの斜面に植わっているので、傾斜のきつい川側の上部の夏みかんは採りにくいのである。
   1月に採ったときには、もう少し小さかったと思うのだが、冬に育つのかどうかは分からないが、12cmを超えてていて、かなり、立派である。
   昔、子供の頃に、食べたことがあるので、懐かしくなって、手前のを一つ採って食べてみたのだが、これが、酸味が殆ど消えて結構美味しいのである。
   何のことはない、晩秋に実った果実が、寒い冬を越して翌年の夏が食べ頃になるので、ナツダイダイ(夏代々)学名Citrus natsudaidai)、その後商品名として夏みかんとなった、と言うことであるから、甘みが出てきて食べられるのは当然なのである。
   皮が、厚くて固くて剥くのが大変だが、甘くはないが、適度に酸味があって、爽やかな味覚なので、悪くはない。
   5月頃に成ると、もう少し甘くなるのであろうか、鎌倉山のリスが下りてきて、瞬く間になくなってしまう。
   去年は、随分沢山の実が成ったので、隔年結実なので、今年は収穫は期待出来ない。
   ユズも、去年は沢山結実して、取り残した実が、まだ、少し残っている。
   
   

   梅の実が、大分大きくなってきた。
   昨年作った梅酒がまだいくらか残っているので、寝酒に楽しんでいるというので、一瓶友人に送った。
   いたく喜んでくれて、近くだと言って霞ヶ浦のウナギの白焼きをお返しに送ってくれたのだが、海老で鯛を釣ったような感じで恐縮している。
   

   わが庭ついでだが、庭には、結構花木が植わっているので、私の日課の一つは、咲いている花を切ってきて、部屋のあっちこっちに置いてある花びんなどに生けること。
   椿のシーズンも終りに近づいて寂しくなったので、今日は、菊垂れ桜とつつじと小手毬に代わった。
   家の中にも、移りゆく自然の息吹が漂っていて、何となく和むのが良い。
   
   
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ジェフリー・サックス:アメリカの第3回目の再構築

2021年04月08日 | 政治・経済・社会
   JEFFREY D. SACHS教授が、プロジェクト・シンジケートで、America’s Third Reconstruction Mar 30, 2021を投稿した。
   ザックス教授は、2020年のアメリカ大統領選挙で、トランプが民主主義を踏みにじって暴挙の限りを演じたと報道されたアメリカの選挙が如何にいい加減か、その一端を語りながら、現在、正道では、選挙に勝ち目のない共和党が、特に、共和党支配下の諸州において、非白人を選挙権から更に排除する法案を続々と作り上げており、今こそ、憲法で保障されている米国国民全員が選挙出来るように改革すべき第三の再構築期だと説いている。
   まず、非白人に対する人種差別的な投票権排除によるアメリカの歴史的推移について語りながら、アメリカの選挙制度の問題点を浮き彫りにしているので、ザックス教授の論点を記してみたい。

   現在、米国全土の共和党が支配する州議会は、非白人を対象とした有権者の参加を新たな制限する法律を制定している。南北戦争以来、アメリカの白人至上主義は、今日では、少数派の縮小に利されて、常に暴力と有権者の弾圧によって力を得てきた。
   アメリカは一つの国に2つの文化が存在し、まず最初の文化は、奴隷制、ネイティブアメリカンの大量虐殺、白人至上主義を強制する「ジム・クロウ」法、そして、ドナルド・トランプの、(これは1月6日の国会議事堂での反乱で最高潮に達したのだが、)いじめ、嘘、残虐行為をもたらした。第二の文化は、解放、公民権運動、バラク・オバマ大統領、そして、ジョー・バイデンの大統領選出をもたらした。アメリカの白人至上主義文化は、マイノリティのシュリンクを良いことに、常に暴力と有権者の弾圧に基づいて力を得てきた。投票権をめぐる現在の戦いがアメリカの将来のための戦いであるのはこのためである。

   2つの文化の戦いは現在、全国とワシントンDCで行われている。バイデンの勝利は、白人至上主義者の有権者弾圧にダブルパンチを食らわせた。共和党は、公正な投票では国の権力を保持できないことを知っているので、共和党が支配する州議会は、非白人を有権者に参加出来ないように新たな制限を制定しようとしている。一方、ワシントンでは、包括的な文化が、すべてのアメリカ人の選挙へのアクセスの確保を意図した1960年代以来、最も重要な投票権改革を議会で進めている。

   有権者の弾圧は、アメリカにおける白人至上主義の長年の手段であった。この物語は、1935年に出版されたアメリカのブラック・リコンストラクションのW.E.B・デュ・ボワによって最も鮮明に語られている。彼は、アフリカ系アメリカ人が、アメリカ内戦(1861-65年)で、自由のために、そして教育と勤勉を通じて、リコンストラクション期(1865-77)の市民として、完全な解放を求めて、どんなに英雄的に戦ったかを、悲惨で包括的な言葉で述べている。しかし、その解放は、多くの南部の白人の暴虐とテロに加えて、多くの北部の白人の無関心と人種差別によって、残酷に半ば踏みにじられた。当時の南部のジム・クロウ政権の中核施策は、憲法違反であるアフリカ系アメリカ人の投票権の弾圧であった。
   1960年代の公民権運動は、ジム・クロウに止めを刺してアメリカの民主主義を再構築を目指して行われた第二のリコンストラクションであった。しかし、1964年の公民権法や1965年の投票権法を含む英雄的な前進も、再び人種差別的な反発を引き起こした。議会の北部民主党が南部分離派民主党の反対を支持して法案を可決すると、民主党は2つに分裂し、リチャード・ニクソン率いる共和党は、1968年の選挙で、白人人種差別主義者に勝つために悪名高い「南部戦略」を採用した。

   南部の白人は民主党から共和党に大挙して移ったが、人種差別自体は残った。南部戦略は、大量の有権者の弾圧のための新しい戦術が続き、今回は、軽微な違反に対する非白人の大量投獄や、または、しばしば、実際の違反に基づかずに、投票を拒否したり生涯投票権を取り上げたりするなど、彼らの投票権を拒否する新戦術が導入された。
   しかし、アメリカの白人至上主義者の権力は長期的には低下している。2008年の選挙と2012年でのオバマの当選、そして2020年の初の非白人で女性のカマラ・ハリス副大統領の選出は、その証明である。これに対し、トランプは、まず州共和党当局者に選挙の集計を改ざんするよう説得し、議会が結果を証明するのを防ぐことや、結果を覆すことによって権力を維持しようとした。

   ニューヨーク大学ロースクールのブレナン司法センターは、トランプの敗北によって、現在、共和党議員が、43州で250以上の多くの有権者弾圧法案を策していると、報告している。ブレナンセンターは、「これらの提案された法案は、非白人の有権者をターゲットにし、パンデミックの影響での郵便投票などを含めて2020年の選挙で実施された選挙の方法を変更して、投票を困難にしようとしている。」と報じている。
   バイデンは、いみじくも、ジョージア州の共和党支配下の議会によって提出された投票を制限する新しい法律を、「21世紀のジム・クロウ」の明確なケースだと呼んでいる。南部の奴隷諸州が奴隷制と白人至上主義を維持し延長するために、連邦から離脱してからちょうど160年後の今、米国は、第三のリコンストラクションに至っている。一番目は、奴隷制度を終わらせるために、2回目はアメリカのアパルトヘイトを終わらせるため、そして、今回の3番目は有権者の弾圧と大量投獄を終わらせるための再構築である。(第三次リコンストラクションの指導者の一人,ウィリアム・J・バーバー2世牧師は,この挑戦を名を冠した本でビビッドに論じている。)

   アメリカの人種差別は根が深くしぶといが、死にかけている。米国下院は、投票権法以来、最も重要な投票権と政治改革法案を可決し、上院に送った。上院のこの法律S.1は、期日前投票や郵便投票、有権者の差別に対する連邦法の施行、そして、刑務所から出た有罪判決を受けた重罪犯罪者に連邦選挙での投票権の回復などを含めて、有権者の登録と投票を容易にするための国家基準を作成する。この法律はまた、キャンペーンファイナンスを改革するためにいくつかの重要な措置を講じる。

   上院はまもなくS.1を取り上げるが、白人至上主義を代表する共和党上院議員は、51の単純な過半数ではなく60票を獲得すべきだという法案で選挙妨害して、それを圧殺しようと目論んでいる。これは、分離主義者が1960年代まで公民権法案を阻止するために使用した戦術だが、1960年代には失敗しており、今回も、彼らの試みは再び失敗する可能性が高い。民主党は、白人至上主義をきっぱりと葬り去ろうとしており、人種差別主義者が再び有色人種の票を抑圧しようとしても、座視しているわけではない。上院は、米国憲法採択から230年以上経った今、すべてのアメリカ人に対する公正な投票が最終的に確保されるように、この重要な法律への選挙妨害を防ぐために規則を変更する可能性が最も高い。
   と、ザックスは希望的観測で稿を終えている。

   結局歴史の分岐点は、断末魔のトランプの悪あがきで、ジョージアの上院議員選挙で民主党が勝利して、権力が民主党側に傾いて、ザックスが説くこの結論のように、第3の復興が実現できそうなことである。

   ジャレド・ダイアモンドが、「危機と人類」で書いているが、アメリカには、自党に有利なように選挙区の区割りを頻繁に変更する「ゲリマンダー」制度があり、
   日本のように、年齢に達すれば自動的に有権者になるのではなく、各自が有権者登録を行う必要があり、人種差別などで故意に登録を拒否されたり、投票日に投票を拒否されたり、このような選挙を阻む障害が随所にあり、
   今回のように、アメリカ政府、あるいは州政府を手中に収めた政党が有権者登録をどんどん操作し、裁判所判事に同調者を送り込み、こうした裁判所を使って選挙結果に介入し、「法的処置」を発動し、警察や国家警備隊、陸軍予備軍や陸軍そのものを使って政治的反対勢力の抑圧をおこなう可能性があるなど、
   信じられないような制度が存在しており、尤も、悪用するのは共和党側のようだが、尋常な選挙システムではない上に、トランプのような常軌を逸した人物が頂点にたち常識さえ欠いた大衆が雪崩を打って迎合すると、独立以降苦難に苦難を重ねて築き挙げてきた憲法の精神も民主主義も、ひ弱な花である悲しさで、瞬時に危機に追い込まれてしまう。

   バイデン政権になって、やっと、常識的尋常な米国に立ち戻りそうになったような気がしている。
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わが庭:菊枝垂れ桜、ボタン

2021年04月07日 | わが庭の歳時記
   庭植えして少し大きくなった菊枝垂れ桜が、咲き始めた。
   まだ、それ程大きくないので、花数は少ないのだが、ぼってりとした八重桜特有の花を咲かせている。
   
   
   
   
   
   
   ボタンも、一輪だけだが、蕾が色づいて膨らんだかと思ったら、一気に大輪の花を開いた。
   
   
   
   
   
   
   今に庭に咲いている花は、トキワマンサク、
   花を付け始めたのは、アメリカ・ハナミズキ、
   梅が、綺麗な実をびっしりと付け始めた。今年は、鹿児島紅梅の実が沢山できているので、小梅だが、特別に小さな容器で、梅酒を試みてみようかと思っている。
   平戸つつじなどのつつじ類。
   下草に、フリージア
   鶯が、しきりに囀り続けている。
   
   
   
   
   
   
   

   わが庭の椿は、もう、殆ど咲き終えた感じで、残った小さな蕾が、ポツポツと咲き続けている。  
   もう、晩春もたけなわで、初夏の雰囲気である。
   
   
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