二八と言いながらも、今月も、歌舞伎・文楽、能・狂言、落語、組踊等々、結構、観劇に通った。
ところで、先日、2月歌舞伎の観劇記を一寸書いたが、蛇足ながら、一寸、書き残したので書いておきたい。
今回、是非見たかったのは、吉右衛門の「籠釣瓶花街酔醒」であった。
人を愛し信念を貫いて自由奔放に生き抜いて若くして逝った不世出の役者勘三郎と芸の極地とも言うべき玉三郎の「籠釣瓶」は、忘れ難い感動的な舞台であったが、吉右衛門の籠釣瓶は、それとは違った、しかし、人間の雄々しさ愛おしさ悲しさ、心の底からの哀切と懊悩を叩きつけた決定版とも言うべき素晴らしい舞台で、先の八ッ橋の福助との舞台を思い出しても、その感動を、もう一度と言う気持ちで出かけたのである。
吉右衛門は、「中村吉右衛門の歌舞伎ワールド」で、
”「断られても仕方ない」と思っているのですが・・・それを、なぜ、わざわざ「皆の見ている前で」切り出すのか、という恥をかかされた悔しさですね。ふられたこと自体よりも、「恥をかかされた」ということのほうが大きいと思います。”と言っている。
私は、残念ながら、観劇をミスったのだが、菊五郎が、初役で佐野次郎左衛門を演じた時に、この縁切り場について、
「愛想づかしをされてしょんぼり帰るところは、風情があって、もちろんいいけれど、私は、縁切りの最中から殺してやろうと思っていて、"袖なかろうぜ"のせりふから一気に逆上して、花魁に怒りをぶつけていくやり方でやってみたいと思っております」。と言っている。
振られたとか恥をかかされたと言う次元以前の逆上で、普通の男なら、そうであろうと思う。
ところで、舞台では、間夫の繁山栄之丞に迫られて、八ッ橋は、万座の前で、平然として次郎左衛門に愛想尽かしをぶっつけるのだが、胡弓の哀切な調べに載せて、次郎左衛門は、「おいらん、そりゃあ、あんまり、そでなかろうぜ・・・」と、夜毎に変わる枕の数で、心変わりはしたかも知れないが、今夜にも身請けのことを取り決めようと寝もやらずに勇んできたのに、案に相違の愛想尽かし、何故、最初から言ってくれなかったのか、と、切々と苦しい胸の内をかき口説く。
キセルを突き立てて表情一つ変えずに泰然と正座する八ッ橋に、横に座った吉右衛門の次郎左衛門は、八ッ橋に手をついて、哀願するように下からあらん限りの忍耐に耐えながら心情を吐露し続ける。
勿論、吉右衛門の次郎左衛門も、愛想尽かしを聞いた瞬間から徐々に、八ッ橋殺害の意思を固めた筈であるが、そこは、激高して啖呵を切って八ッ橋に迫っても恥の上塗りであり、弱みのあるあばた姿の田舎者であるから、この時は、悲しく悔しくて仕方なかったのだが、耐えに耐えたのであろう。
このあたりの吉右衛門の表情や芸の冴えは抜群で、それだけに、終幕で、籠釣瓶を引き抜いて、鬼気迫る凄い表情と迫力の凄まじさが生きてくる。
三世河竹新七の芝居であるから、理屈を言っても仕方がないのだが、いくら能天気の次郎左衛門でも、八ッ橋に間夫がいることくらいは、つかみ得たであろうし、全く分からないのが、二股掛けえる筈がないのに、何故、八ッ橋が、最後まで、成り行きに任せて、次郎左衛門の身請け話に乗ろうとしていたのか。
前回もそうだが、下男治六を演じている又五郎が、抜群に上手い。
この吉右衛門と又五郎のゴールデン・コンビあっての籠釣瓶である。
菊五郎の遊び人で伊達男の八ッ橋の間夫・栄之丞は、少し、老成さが気になるが、もったいないくらいのはまり役で、八ッ橋との親子のやり取りが面白い。
さて、菊之助の八ッ橋だが、実に美しい花魁で、素晴らしい衣装を身に着けた舞台映えする花魁道中は、この舞台の白眉で、ぽかんと口を開けて見とれている次郎左衛門に向かって、花道の角から振り向いて、微かにほほ笑んで送る流し目の魅力は、流石であり、最後の籠釣瓶の刃に仰け反って倒れ伏す流れるような美しさも忘れ難い。
菊之助は、”八ツ橋の魅力はやはり美しさ、そして、廓の掟のなかで生きていく女性の強さも、"及ばぬ身分でござんすが、仲之町を張るこの八ツ橋"のせりふに集約されているように、結局は廓という籠の鳥である儚さも魅力の一つだ”、と語っており、若さを感じさせる芸ではあるが、実父の菊五郎、義父の吉右衛門と言う二人の人間国宝を相手に、堂々と八ッ橋を演じ切った舞台度胸は、正に、大器のなせる業であろう。
次は、海老蔵との花魁・揚巻の艶姿を観たいと思っている。
華麗で美しい菊之助の八ッ橋の写真を、歌舞伎美人のHPから借用すると次の通り。
さて、昼の部の「新書太閤記」だが、太閤秀吉の若かりし頃を演じた菊五郎の遊び心の横溢した舞台と言うべきであろう。
サルと呼ばれながらも天下人となった秀吉のあまりにもポピュラーな出世物語で、どこの劇場で観ても観られる芝居と言った感じで、一流の俳優が演じる上質な芝居を歌舞伎座で観たと言うことであった。
それなりに面白かったが、私自身の先入観が問題かもしれないが、菊五郎の秀吉も、梅玉の信長も、イメージとはかなり違っていて、つじつまを合わせて観なければならなかった。
一寸出の光秀の吉右衛門は、信長に貶められて、暗殺を決意した時の眼の鋭さが印象に残っている。
ところで、先日、2月歌舞伎の観劇記を一寸書いたが、蛇足ながら、一寸、書き残したので書いておきたい。
今回、是非見たかったのは、吉右衛門の「籠釣瓶花街酔醒」であった。
人を愛し信念を貫いて自由奔放に生き抜いて若くして逝った不世出の役者勘三郎と芸の極地とも言うべき玉三郎の「籠釣瓶」は、忘れ難い感動的な舞台であったが、吉右衛門の籠釣瓶は、それとは違った、しかし、人間の雄々しさ愛おしさ悲しさ、心の底からの哀切と懊悩を叩きつけた決定版とも言うべき素晴らしい舞台で、先の八ッ橋の福助との舞台を思い出しても、その感動を、もう一度と言う気持ちで出かけたのである。
吉右衛門は、「中村吉右衛門の歌舞伎ワールド」で、
”「断られても仕方ない」と思っているのですが・・・それを、なぜ、わざわざ「皆の見ている前で」切り出すのか、という恥をかかされた悔しさですね。ふられたこと自体よりも、「恥をかかされた」ということのほうが大きいと思います。”と言っている。
私は、残念ながら、観劇をミスったのだが、菊五郎が、初役で佐野次郎左衛門を演じた時に、この縁切り場について、
「愛想づかしをされてしょんぼり帰るところは、風情があって、もちろんいいけれど、私は、縁切りの最中から殺してやろうと思っていて、"袖なかろうぜ"のせりふから一気に逆上して、花魁に怒りをぶつけていくやり方でやってみたいと思っております」。と言っている。
振られたとか恥をかかされたと言う次元以前の逆上で、普通の男なら、そうであろうと思う。
ところで、舞台では、間夫の繁山栄之丞に迫られて、八ッ橋は、万座の前で、平然として次郎左衛門に愛想尽かしをぶっつけるのだが、胡弓の哀切な調べに載せて、次郎左衛門は、「おいらん、そりゃあ、あんまり、そでなかろうぜ・・・」と、夜毎に変わる枕の数で、心変わりはしたかも知れないが、今夜にも身請けのことを取り決めようと寝もやらずに勇んできたのに、案に相違の愛想尽かし、何故、最初から言ってくれなかったのか、と、切々と苦しい胸の内をかき口説く。
キセルを突き立てて表情一つ変えずに泰然と正座する八ッ橋に、横に座った吉右衛門の次郎左衛門は、八ッ橋に手をついて、哀願するように下からあらん限りの忍耐に耐えながら心情を吐露し続ける。
勿論、吉右衛門の次郎左衛門も、愛想尽かしを聞いた瞬間から徐々に、八ッ橋殺害の意思を固めた筈であるが、そこは、激高して啖呵を切って八ッ橋に迫っても恥の上塗りであり、弱みのあるあばた姿の田舎者であるから、この時は、悲しく悔しくて仕方なかったのだが、耐えに耐えたのであろう。
このあたりの吉右衛門の表情や芸の冴えは抜群で、それだけに、終幕で、籠釣瓶を引き抜いて、鬼気迫る凄い表情と迫力の凄まじさが生きてくる。
三世河竹新七の芝居であるから、理屈を言っても仕方がないのだが、いくら能天気の次郎左衛門でも、八ッ橋に間夫がいることくらいは、つかみ得たであろうし、全く分からないのが、二股掛けえる筈がないのに、何故、八ッ橋が、最後まで、成り行きに任せて、次郎左衛門の身請け話に乗ろうとしていたのか。
前回もそうだが、下男治六を演じている又五郎が、抜群に上手い。
この吉右衛門と又五郎のゴールデン・コンビあっての籠釣瓶である。
菊五郎の遊び人で伊達男の八ッ橋の間夫・栄之丞は、少し、老成さが気になるが、もったいないくらいのはまり役で、八ッ橋との親子のやり取りが面白い。
さて、菊之助の八ッ橋だが、実に美しい花魁で、素晴らしい衣装を身に着けた舞台映えする花魁道中は、この舞台の白眉で、ぽかんと口を開けて見とれている次郎左衛門に向かって、花道の角から振り向いて、微かにほほ笑んで送る流し目の魅力は、流石であり、最後の籠釣瓶の刃に仰け反って倒れ伏す流れるような美しさも忘れ難い。
菊之助は、”八ツ橋の魅力はやはり美しさ、そして、廓の掟のなかで生きていく女性の強さも、"及ばぬ身分でござんすが、仲之町を張るこの八ツ橋"のせりふに集約されているように、結局は廓という籠の鳥である儚さも魅力の一つだ”、と語っており、若さを感じさせる芸ではあるが、実父の菊五郎、義父の吉右衛門と言う二人の人間国宝を相手に、堂々と八ッ橋を演じ切った舞台度胸は、正に、大器のなせる業であろう。
次は、海老蔵との花魁・揚巻の艶姿を観たいと思っている。
華麗で美しい菊之助の八ッ橋の写真を、歌舞伎美人のHPから借用すると次の通り。
さて、昼の部の「新書太閤記」だが、太閤秀吉の若かりし頃を演じた菊五郎の遊び心の横溢した舞台と言うべきであろう。
サルと呼ばれながらも天下人となった秀吉のあまりにもポピュラーな出世物語で、どこの劇場で観ても観られる芝居と言った感じで、一流の俳優が演じる上質な芝居を歌舞伎座で観たと言うことであった。
それなりに面白かったが、私自身の先入観が問題かもしれないが、菊五郎の秀吉も、梅玉の信長も、イメージとはかなり違っていて、つじつまを合わせて観なければならなかった。
一寸出の光秀の吉右衛門は、信長に貶められて、暗殺を決意した時の眼の鋭さが印象に残っている。