熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

久しぶりの佐原~震災の後生々しい

2012年03月31日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   佐原は、関西や西日本に散在する小京都に良く似た歴史的な雰囲気を漂わせる関東の、数少ない街だが、昨年の東日本大震災の被害を受けて、古くて重厚な日本建築の多くが被害を受けて、今でも、屋根にブルーのシートを被せた老舗の酒蔵や文化的な民家や商店の建物や倉庫が、沢山残っている。
   伊能忠敬旧宅も復旧はまだだし、綺麗な街並みをつくっていた忠敬橋の近くの古い建物も殆ど被害を受けていて、旧関西人で蕎麦の苦手な私が良く訪れていた小堀屋本店も閉鎖されていて、数軒離れた昔銀行の建物だったと思しき建物で営業をやっていて、同じメニューでも雰囲気が違うと味まで違う様な気がしてきて不思議である。

   古い蕎麦店は、二階建ての店舗で、明治25年に江戸期の様式を再現した建築で、昭和49年に千葉県有形文化財に指定されていて、座敷の手前には蔀戸があると言う非常にムードのある店であった。
   間口3間くらいの玄関口には、ガラス障子戸に大きな暖簾がかかっていて、左手の蔀戸の前に置かれた床几の上には、盆栽や季節の花鉢などが置かれていて、何が書いてあったか忘れたが、1階の屋根と蔀上部に、大きな古木を荒削りした板の看板がかかっていて、古風な美しさがあって、バックにして写真を撮る人が多かった。
   再建されるのかどうか、現在は、正面はシートを張ったままである。

   ところで、今の店は、田舎の公衆浴場のように靴を脱いで上がり、一段高くなった畳部屋が奥にあるが、ガラーンとした広い部屋にテーブルが置かれているだけの田舎のレストランのようで、全く殺風景でムードも何もなく、折角の老舗の蕎麦屋が台無しである。
   玄関を入った壁際に飾ってあるのが、この口絵写真のおよそ300年前の鹿革の半纏で、そばや創業よりさらに1世紀ほど前のもので、お祝いなどあらたまった席に着用したものと言い、小堀屋本店の宝物である。
  下の藍色の布は、江戸時代の集金用巾着だと言うことで、面白い。

   さて、私が、この蕎麦屋で頂くのは、松前の昆布を加工して黒い色を出した黒切蕎麦の天盛りと蕎麦がきと決めている。
   イタリアのレストランに行っても、イカの黒墨スパゲッティを探すくらいだから、黒い食べ物が好きなのだが、ここの黒切蕎麦は、腰があって歯ごたえとのど越しが良く、それに、軟らかくて味のシンプルな蕎麦がきとマッチしていて、私は気に入っている。

   伊能忠敬記念館の前に、国宝指定記念の立て看板がかかっている。
   平成22年6月29日に、2345点の関係資料が国宝指定を受けたのだと言う。
   4月26日から5月2日まで、香取市民体育館で「完全復元伊能大図展」が開かれるようだが、もう一つ、近くの駐車場にはためいているのは、「伊能忠敬を大河ドラマに」と大書したブルーの幟旗である。
   国宝に指定された記念にと言うことで、推進協議会が結成されて運動をしていると言うことなので、私も賛成署名をして来た。
   シーボルトが、この伊能忠敬の日本地図を持ち出そうとして捕縛され、日本から 追放されたのは、1828年のことだが、当時の日本としては、伊能忠敬の偉業は大変なものだったのである。
   
   さて、どうでも良いことかも知れないが、この伊能忠敬記念館の裏に、立派な観光トイレ(厠)が出来ている。
   記念館の貧弱なトイレでは、観光客が満足しなかったのであろうが、一寸、雛にも稀な日本建築風のトイレとは思えないような厠で、この日は、玄関口を入った待合用のいすに座って長い間旅のルートを打ち合わせていた女性グループが居たほどである。
   ただ、この佐原だが、市町村合併で市名が香取に統一されて、由緒ありかつムードのある佐原が地図から消えてしまっている。
   少し前に、この佐原の街中の古風な料亭で食事を頂いたのだが、中々、雰囲気も味も良くて、東京の街中の普通の店などよりは、はるかにエコノミーでコストパーフォーマンスの高い経験をしたのだが、酒や醸造関係の酒蔵や建物などの雰囲気や街並みと言いい、やはり、佐原には、相当良質な歴史と伝統が息づいていて、街角の一寸したところにも文化を感じさせる味わいがあって良い。

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国立能楽堂~狂言「樽聟」・能「誓願寺」

2012年03月30日 | 能・狂言
   能・狂言の鑑賞を始めて、やっと、半年だが、この日の国立能楽堂の舞台は素晴らしく、楽しむことができた。
   パーフォーマンス・アーツの鑑賞には、大概の場合には、夜が多いのだが、能や狂言、歌舞伎や文楽などの古典芸能の場合には、昼の公演があり、結構、これが気分的にも楽で楽しいのである。
   文楽などでは、3部制の時があって、朝から晩まで観ることがあるのだが、通し狂言ならいざ知らず、この頃では、避けて別の日にしている。

   演目は、まず、狂言の「樽聟」で、聟志願の者または聟をシテとする聟狂言の一つだが、この狂言は、上演が稀で、国立能楽堂では初めてだと言うことで、岩波講座の狂言鑑賞案内にさえも出ていない。
   これは、聟入りの話で、良く事情が呑み込めないのだが、昔は、結婚前に夫と妻の親が対面せずに、結婚後しばらくして、はじめて夫が妻の実家を訪ねて、妻の親兄弟と杯を交わすと言うことだったようである。
   昔は、夜這いが普通で、親の知らない間に、出来ていたと言うことであるから、娘が誰と結婚しようと構わなかったのかも知れないが、その後の結婚が、家と家との結婚となって、雁字搦めの因習に縛り付けられた形式に変わって行ったと言うのが面白い。

   この「樽婿」は、その日が最上吉日なので、舅(アド/万作)が、聟(シテ/石田幸雄)を迎える用意を太郎冠者(小アド/高野和憲)に命じたので、聟が樽酒を持って、舅を訪ねることにして、
   婿は、土産の樽酒を持たせる家来の者を借りるために、何某(小アド/萬斎)を訪ねるのだが、家来は皆出払って誰もいないので、何某が無理に代理を勤めると言って譲らないので、仕方なく酒肴を持たせて行く。
   問題は、それからである。聟が舅に面会して挨拶を始めると、樽酒を渡してくれた何某が聟だと思い込んでしまっていた太郎冠者が、これは使いの者で、聟は外にいると言って、何某を連れて来て、聟を追い払う。
   何某は、自分は聟ではないと何度も抗弁するのだが、奥ゆかしく遠慮していると思われて、舅は、美味い酒を振る舞い、上等な太刀まで、何某に遣わす。
   舅は、自分もこのあたりで一寸名の知れた人物であり、自分の聟だから、見栄えが悪くて風采の上がらない人物が聟である筈がないと言って、何某が婿聟あると言い張るので、聟は痛く傷つくのだが、最後には、どうでも良い、貴殿に遣わすと言って太刀を何某に渡してしまう。
   その結果、聟と何某が、自分が貰ったものだと言って太刀を奪い合い、太刀を持って逃げる何某を婿が追っかけて橋掛かりを退場して行く。

   やはり、喜劇は、親兄弟が、婿がどんな風体で誰かも分からずに娘が結婚して、結婚後初めて夫が妻の実家へ挨拶に行くと言う婿入りシステムなのだが、今回は、聟も、迂闊にも平服のままで、威儀を正した装束で訪れたのではないし、樽を待たせた何某が、口入家業の親方で風采のあがった好人物と来ていた所為もあって、比較されて格下とみられてバカにされたと言うことであろう。
   普通は、聟の無才や無知を笑うことが主題で、舅が聟の失敗をとりなして終わる形になっており、全体として芽出度さの漂う演出がされて、脇狂言に準ずる扱いにされるのだと言う。
   しかし、とにかく、愉快な狂言で、芝居の進行も実にリアルでストーリー性も高く、石田の聟と萬斎の何某のやり取りや絡みが、実に愉快で楽しいし、3人の登場人物に対する万作の要としての受け答えが秀逸である。

   能の「誓願寺」は、一遍上人と和泉式部の話で、前シテ/女&後シテ/和泉式部を舞った今井清隆の舞姿の美しさと謡の素晴らしさに感動した。
   特に、後場大詰めの極楽の歌舞の菩薩としての「太鼓入り序ノ舞」の優雅さ美しさは格別で、昔から、女面の崇高な美しさには憧れに似たような思いがあったのだが、今回は、シテの舞う和泉式部の絵のような舞姿に感動して見ていた。

   この序の舞だが、上村松園の仕舞「序の舞」の絵を見た時には、その美しさに感激したのだが、今井清隆の和泉式部が、この絵のように扇を握った右手を前に出して同じポーズを取った時には、もっと違った静かに息づく生身の女の匂い立つような優雅さ美しさを感じて、私には、その臨場感が堪らなかった。
   小ぶりの端正な真っ白な面が、優雅で華麗な装束にマッチししていて、この美意識の素晴らしさは、日本文化独特の世界であって、その美しい天女のような和泉式部が、熱い思いを内に秘めて静かに舞っている。
   二十五菩薩来迎の浄土世界の素晴らしさを地謡が謡っているのだが、私には、まだ、能楽の舞台を鑑賞していて、それを感じられる能力はないので、学生時代に通い詰めた京都や奈良などで見た、そして、私が下宿時代に良く通った平等院の阿弥陀来迎図などを思い出しながら、舞台を見ていた。

   シテの今井清隆の謡が、非常に透明で美しいので、調べてみたら、同志社のグリークラブだと言うから当然であろうと思った。
   美しい素晴らしいと見上げていただけで、まだ、シテの今井清隆の舞についても謡についても、その意味さえ全く分からないのだが、素晴らしい芸術に接したと言う思いを感じられたことで、まず、上出来であったと思っている。
   金剛流と言うことで、金剛永謹宗家が、地謡にでていたが、この舞台には、ワキ/一遍上人の宝生閑や大鼓の亀井忠雄などの人間国宝(狂言の万作も)が登場するなど非常に豪華な舞台でもあった。

   
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マッキンゼー編「日本の未来について話そう」

2012年03月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の原題は、Reimagining Japan: The Quest for a Future That Works。
   昨年の3・11東日本大震災直後に出版されたのだが、日本内外の多方面の著名な人々が執筆していて、色々な建設的な提言などが出ていて非常に面白い。
   全部、読んだわけではないので、私の関心を持った外国人の人たちの記事について、雑感を記してみたい。

   まず、Japan as No.1のエズラ・ヴォ―ゲルだが、日本に今必要なのは、諸問題に長期的視点から有効に対処できる政治制度だと言う。
   日本の将来については、日本には政治家が長期的視点に立って考えることができる制度が必要なのに、今のところそういう制度がないので、正直言って心配だと繰り返して強調している。
   若手政治家として、河野太郎と林芳正を評価し、ビジョンを持った強力なリーダーとして中曽根康弘を語っているのだが、失われた20年の間に、指導力を発揮した首相は、小泉純一郎ただ一人で、国民が期待した民主党になってからも、アメリカで勉強しておきながら全くアメリカが分からずに普天間問題を無茶苦茶にした子ども手当塗れの坊ちゃんや、何も知らないのに知ったふりをしてリーダーシップのはき違えで3・11問題を窮地に追い込んだ市民派や、消費税さえあげればすべてが解決出来るかのように説き続けるビジョン欠如のドジョウ派が続いただけで、悲しいかな、日本の将来に関しては、益々、悲観的になるだけで先が全く見えない。
   メリル・ストリープが、サッチャーに扮して熱演してアカデミー賞を受賞したのにである。
   
   ヴォ―ゲルの指摘で面白いのは、外国からの労働者移民については、今のような、労働許可証を発行せず不法労働者になる制度は、厄介な問題が起これば、簡単に本国に送還すれば良いだけなので、現行制度は非常に巧妙で上手い手で、移民受け入れは必ずしも必要だとは思えないと言う。

   ビル・エモットは、3つのアジアの大国が地域で肩を並べる時代になったが、現在、日本が直面している地政学的局面では、脅威と言うよりはチャンスを与えてくれそうだと言う。アジアは、世界で最もダイナミックに急速に成長を続けている地域で、中印などの猛烈な勢いでの工業化や都市化は、日本経済飛躍の最大のチャンスだと言うのである。
   しかし、現在の日本には、迫りくる危険な状態や、商業的・文化的競争の圧力には背を向けたがる内向的傾向が強く、孤立主義に陥るリスクが高いのが問題だと言う。
   これは、ヴォ―ゲルも、グレン・フクシマも、他の多くの識者が指摘していることだが、海外で学んだり働こうとする日本人の若者が激減していることが問題で、今回の震災が、復興努力第一で、慎重な守りの体制が強くなって、孤立主義的傾向を一層強めるのではないかと指摘している。
   アジア市場攻略のために、日本がどのような戦略戦術で打って出るかと言う問題さえ難題なのに、グローバル時代に逆行して内向きになりつつある日本人をどう方向づけるかと言う問題の解決が必要とは悲しい話である。

   エモットは、日本の将来戦略について、3点指摘している。
   1.サービス経済の分野での問題として、欧米先進国と比べればかなり生産性が低く遅れているのだが、アジアでは最も豊かで進んでいるので、高品質なデザイン、アート、金融サービス、高齢化対応の医療、デジタル・テクノロジーなど高付加価値の分野での産業が有望である。
   しかし、影響力を獲得するためには、公取の抜本的改革を視野に入れた積極的な自由化促進が必要であり、法律、電気通信、卸・小売流通、輸送などの産業障壁を撤廃することで、このことが活力とイノベイティブなパワーを生み出し、震災後の日本の再建に役立つだろうと言う。
   2.アイデアや技術・文化・知識の分野では、日本の代表的な大学の世界へ向かっての門戸開放を積極的に行って、真のイノベーションセンターとして、変化の原動力とすること。
   海外との競争、市場の開放、サービス部門の生産性の飛躍的な向上と言う圧力のもとで、日本企業は間違いなく刺激を受けて、研究開発やテクノロジーへの投資が増加するであろうと言うのである。
   いずれにしろ、閉鎖的な学問文化芸術分野やサービス分野で、大きく世界に門戸を開放して、激烈なグローバル競争に晒さない限り、益々、日本の経済社会は、世界の競争場裏から、取り残されて行くと言うことであろう。
   3.汎アジア共同体への取り組みについては、日本の立場が、EUのフランスに似ていると言う指摘が面白い。
   日本経済の弱体化で、日本の地位の低下は仕方がないが、2030年までに、日本が強力な汎アジア共同体を結成し、加盟各国が国家主権の一部を共有し、協力体制が習慣として定着すれば、地域で最も豊かで最も自由な民主主義国家として、日本はこうした共同体内部で確固たる地位を築ける。
   中印に主権の共有化を説得できるかどうかだが、日本が先頭に立って十分な数のアジア諸国を味方に引き込めば、クラブのメンバーになることが有利であることが分かるだろうと言うのである。
   このアジア諸国の抱き込みで、日本の自由な民主主義の良さと豊かな高度な文化などソフトパワーを活用することによって、アジアの平和と安定に貢献することが、日本の国防と国益に大きく役立ち、中国へのカウンターベイリングパワーになることを、マイケル・グリーンも指摘している。

   21世紀は、アジアの世紀だと言われており、経済発展のセンターは、正しくアジアに移動しており、日本は、そのアジアの真っ只中に位置すると言う千載一遇の地政学的チャンスを握っている。
   経済規模では中国に凌駕されたが、自由で民主主義的な、そして、高度にかつ豊かに発展した文化文明を内包した最先端を行く近代国家であることは紛れもない事実で、この最も恵まれた立ち位置を如何に活用して国家発揚を目指すべきか、日本の直面する最大の課題であろう。
   しかし、ヴォ―ゲルが言うように、願うべきは、ビジョンと強力なリーダーシップを持った卓越した総理大臣の登場である。
   
   
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梅若六郎玄祥著「梅若六郎家の至芸」

2012年03月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   江戸から明治への時代の激変で幕府の式楽であった能はその役を失い、大きな変革を強いられたのだが、梅若六郎家が現在の姿で存続できたのは、初世梅若実として活動してきた五十二世梅若実の努力あったてればこそなので、それ以降、著者である梅若六郎玄祥までの4代の評伝で六郎家の能を語り、そして、後半は、著者が、能楽の事どもを語る「玄祥がたり」で構成されているのがこの本で、舞台写真も沢山掲載されていて、中々面白い。
   まともに受けてブックレビューなど書く能力などは、私にある訳はないので、読んでいて印象に残ったところを、私なりに整理してみたいと思う。

   まず、興味深いのは、初世は、梅若家に縁はあれども、能とは直接かかわりのない札差の家に生まれており、懇願されて梅若家に入って能役者になっていることである。
   丁度、歌舞伎の七代目 松本幸四郎が、実父は三重県員弁郡の農家で、全くの素人から舞踊の二代目藤間勘右衛門の養子となり、偉大な歌舞伎役者となって、更に、十一代目市川團十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑の実父として、現在の歌舞伎界を背負って立つ名優を輩出するなど後世に絶大な貢献をしているケースと良く似ている。
   ところが、能や狂言の世界は分からないが、小山觀翁さんによると、歌舞伎の世界でスターになるためには、名門に生まれるか、名門の養子になるか、この二つしか道がない、と言うことで、謂わば、梨園と言うか世襲の世界である。
   文楽の場合には、やはり、公共的な組織でもあるので、門戸は開放されているようだが、襲名を伴うこの伝統の伝承が重要な要件である古典芸能の世界で、今後、世襲と門戸開放をどう考えるかと言うことでもあろうか。
   いずれにしろ、歌舞伎もそうであるようだが、伝統と言っても、能や狂言の今日ある姿も、明治時代に確立されたようである。

   能の番組の組み立て方が良く出来ていて、昔の能の公演は、日の出から始まって、日の入りに終わって、一日の序破急が人間の生理に従っていたとして、昔は、光と陰の効果を考えて、能楽堂を建てる方向を決めていたと言う。
   そして、中野の能楽堂で、天窓を開けてお日様が入るようにして演じたら、日がさんさんと入って、自然の中で演じている感覚があって良かったと言って、靖国神社の能楽堂や篠山の春日神社の能舞台での印象的な戸外での能舞台での思い出を語っている。
   あのシェイクスピアの戯曲も、元々は、今のロンドン・サウスバンクのグローブ座のような青天井の劇場で演じられていて、シェイクスピアの鑑賞は、シェイクスピアを聴くと言うことであって、今でも、観るとは言わない。
   確かに、太陽の燦々と照りつける劇場で、漆黒の闇のリア王のシーンを鑑賞し、雨に打たれて土間席を移動しながら、ロミオとジュリエットの純愛に涙するなどと言った芸当は、観ると言う感覚だけでは味わえない筈である。
   しかし、私の経験では、ヴェローナの巨大な円形競技場など欧米の野外劇場などの青天井の舞台で、オペラや劇やコンサートを楽しんだ限りにおいては、条件が良ければ、自然環境の中で、高度な芸術を楽しむ時の、非日常的な非常に素晴らしい経験を味わえることは事実である。

   先日、観世清和の「砧」で、著者の玄祥さんは、地謡に登場していたが、この本で、
   観世寿夫さんは「おれは歳をとったら、地謡かたりになる」といっていらしたそうです。私も五十を過ぎてから、地謡が面白くなってきましたと語っている。シテは自分の思いだけ謡えばいいですが、地謡は当事者になったり、第三者になったり、ワキやツレの思いもあるかも知れない。いろんな人の相手や、シテとどうやり取りするか、他の地謡をどうひっぱて行こうか、責任も重いが喜びもある、と言うのである。

   異流共演の楽しさ、面白さについても、いろいろ語っている。
   マイヤ・プリセツカヤとの能とバレエのコラボレーションで、お互いに事前に何も決めないでやりましょうと言って本番を迎えたのだが、表情やアイコンタクトですべてが分かりあえたと言う話。
   両方とも、具体的な表現ではなく、抽象的な表現が多く、身体の内から湧き出てくるものが多いと言う共通点があったからだと言う。
   要するに、言葉の重要性が増せば増すほど、その芸術は個々の文化文明を内包する傾向が強くなるので、バックグラウンドの差が大きくなって理解し難くなると言うことで、絵画や音楽がコスモポリタン的要素が強いのは当然と言うことであろうか。
   先日、BS放送で、ピクサーの「ウオーリー」と言うごみ処理ロボットと白く輝く美しい最新型ロボット・イヴとの恋物語を放映していたが、ロボットなので殆ど喋らないのだが、実に感動的な映画で、言葉も何の説明もいらない世界なのである。

   ところで面白いのは、「弱法師」を世阿弥自筆本でやろうとした時に、演出を堂本正樹さんに頼んだのだが、意見が合わず、古典の能の場合には、演出家が入ることが難しいと言う話である。
   シェイクスピアの「十二夜」の歌舞伎の時には、蜷川幸雄さんが、演出したが、あのような劇のような世界での新境地では、コラボレーションが可能だと言うことであろうか。
   
   さて、玄祥さんの能への思いだが、能と言うものを知らない人がまだまだものすごく多いのだが、能楽師本人が能の本当の良さを分かっていない人が増えており、能楽師は能を愛して、世阿弥の世界を目指して実践して行き、能は世界一古い演劇のひとつなのであるから、力を結集して、能の可能性を追求し、世界に向かって発信して行きたいと言う。
   ロシアでオペラを見たら能の手法を使っており、世界の演劇で能の影響をうけているものが多い。削ぎ落した演出で、その言葉が分からなくても、観客に想像させる余地があり、そこに本当の能の世界が見えて来る筈で、能はもっと素晴らしいもので、まだまだ可能性を秘めており、能は能だけで終わらせたくない。
   能の境界について云々されるが、演者が境界を考えたらどんどん狭くなってしまうので、「能楽師が出れば能なんだ」と自負を持って出れば良く批判されれば甘んじて受ければ良いと言う。
   もう一つ興味深いのは、関西の能に惚れ込んで、今後は関西に拠点を移すつもりですと言う。関西は芸どころですし、これから私自身、楽しんで能を舞いたいと思っていますので、そう言う意識の人がいっぱいいる関西で舞いたいと思っていますと言うのである。

   玄祥さんの新作については、十字架を舞台のバックに据えてパイプオルガンを奏する「伽羅沙」も驚きだが、アイルランドの作家イェイツの作品を原案にした「鷹姫」でのバレエとコンテンポラリダンスとのコラボレーションについては、写真を見ただけだが、正に、新境地の開眼である。
   機会があれば、是非、これらの能舞台を鑑賞する機会を得たいものである。

(追記)口絵写真は、同書の写真を転写借用。「竹生島」後シテ 弁財天。
   
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わが庭の歳時記~枝垂れ梅が咲き始めた

2012年03月26日 | わが庭の歳時記
   私の庭のピンクの枝垂れ梅が、やっと、数輪花をほころばせ始めた。
   ここに引っ越してきて最初に植えた木の1本なので、もう、30年近くになるのだけれど、まだ、背丈は3メートルくらいなのだが、パラソルのように左右に大きく張り出した枝に、毎春、優雅なピンクの造形を作り出してくれる。
   丁度、その頃から、庭の沢山の椿が最も華やかに咲き乱れるので、私の庭も一気に明るくなる。
   最近、庭植えに加えたのが、鹿児島紅と豊後梅なのだが、咲き競うまでには、大分時間が掛かりそうである。
   
   
   椿で今一番優雅に咲いているのは、この小磯で、小輪ながら、白い筒の先に黄色い花粉を乗せた凛とした蕊を抱え込んだ鮮やかな赤い花弁の美しさは格別で、最盛期に落花するので、落ち椿が美しく、夕日などを浴びて輝くと、歌心のない私でも詩情をもよおす。
   更に、枝がしなやかで長いので、下に垂れ下がった枝の先から這い上がるように顔を覗かせる赤い花弁のしっとりとした風情も絵になる。

   それに、これも小輪だが、八重咲きで洋花椿のフルグラントピンクの優雅さも捨てがたい。
   このように雄蕊が分散していて、雌蕊がどこにあるのか分からない椿なので、実生と言うよりは挿し木で増やすのだろうが、しかし、不思議なもので、どんなに複雑な椿でも、偶に実を結ぶことがあって驚くことがある。
   もう一つ咲き乱れているのは、匂い椿の港の曙で、小輪だがびっしりと花をつける。
   3枚の花弁が大きくて三角形に張り出すのだが、薄いピンクの小さな花弁は2枚なのか3枚なのか分からない程小さい。
   大輪の曙椿は、沢山咲いているのだが、ヒヨドリなどが花をつつくので、弱くて繊細な美しい花弁にすぐに傷がついて、可哀そうである。
  
  
     
   普通より少し遅いのだが、私の庭では、今、クリスマスローズが花盛りである。
   地面を這ったように蕾を付けていた枝が、すっくと伸びて、花を一気に開いて、太陽に顔を向けたのである。
   少し木陰の空間に、10本ばかり植え込んで、今年もまた増やしたのだが、植え場所が良ければ生育が早くて、2~3年で大株になり、沢山の花を咲かせる。
   園芸店では、珍しい沢山の苗が売られていて目移りがするのだが、種類によっては、万を超える株もあって、愛好家の垂涎の的のようだが、私などのように、ものぐさで庭に植えて育てる者にとっては、謂わば、どんな種類でも良く、雰囲気で選んで植えているようなものである。

   私の庭では、今、チューリップやヒヤシンスなど、春の草花が蕾を付けはじめた頃なのだが、バラの新芽も、一気に沢山出て、動き始めた。
   先日、京成バラ園に出かけて、2株四季咲きの大輪系のハイブリッドティを買って来て、鉢植えにした。
   6号鉢と7号鉢の今春そのまま咲く鉢植えなので、大きな鉢に移し替えただけだが、これまでは、イングリッシュ・ローズやフレンチ・ローズや中輪フロリパンダだったので、一寸、趣向を変えようとしたのである。
   1株は、昔植えていた懐かしいラベンダー色のシャルル・ドゴール、もう1本は、住んでいたオランダ所縁のケーニゲン・ベアトリクス(ベアトリックス女王)で、この花は初めてだが、淡い茶色がかったオレンジ色なので面白いと思った。
   これから、2か月くらいは、牡丹や芍薬、カサブランカなどのユリが咲き乱れる季節まで、私の庭も賑やかになる。
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映画「マーガレット・サッチャー  鉄の女の涙 (The Iron Lady)」

2012年03月25日 | 映画
   アカデミー賞授賞式を、WOWWOWで見ていたが、何回もノミネイトされながら長い間主演女優賞から遠ざかっていたメリル・ストりープの嬉しそうな顔が、非常に印象的であった。
   私のストリープの記憶は、最初は、「クレイマー・クレイマー」で、次は、「マジソン郡の橋」、最も最近は、「マンマ・ミーア」と、非常に限られているのだが、美人でもないし女性としてセクシーな魅力がある訳ではないのだが、現在の最高の女優の一人であることには間違いがないと思っている。
   今回のサッチャーについては、正に、声音と言い、表情と言い、ストリープの演じるサッチャーは、当時のサッチャーを髣髴とさせていて、実際のドキュメント画像も使用されていたので、私には、サッチャー首相が、目の前に蘇った感じであった。

   私には、この映画は、ストリープや他の役者たちが映画に登場して演技をしているのを楽しむと言うよりは、当時のイギリスの歴史のドキュメントを見て楽しむと言う気持ちの方が強かった。
   私が、最初にアムステルダムに赴任してロンドンに移って、ヨーロッパに駐在してイギリスで仕事をしていたのは、1985年から1993年までだが、最初にロンドンに行ったのは1979年で、その後赴任まで何回かロンドンに出かけており、サッチャーが首相だった1979年から1991年の間のイギリスは、具に見て知っている勘定になる。

   サッチャーの退陣は、この映画でも描かれているように、正に、あっという間の出来事で、結局、人頭税導入の失敗と、誰の言うことも聞かずに傍若無人となったサッチャーから、すべての閣僚が離反して、一種のクーデターもどきで終わっているのだが、一番良識派でサッチャーを支えていたジェフリー・ハウを、閣議でコテンパンに罵倒し、意を決したハウが、辞表提出後、国会で訣別演説をぶったのが総ての始まりであった。

   退陣と引き換えに、ジョン・メージャーを後継に選んだのだが、サッチャー路線を引き継いだと言われながらも、結局組閣時には、サッチャーに反旗を翻した多くの閣僚を再登用せざるを得なかった。
   メージャーは、1997年の選挙の大敗でブレアに引き継ぐのだが、サッチャーが居なければ、オックスブリッジ卒が幅を利かせる英国政界で、サーカス芸人の息子で高校中退のメージャーがトップに躍り出る可能性などはなかった筈で、やはり、鉄の女であった。
   
   この映画の冒頭で、ごみ収集さえままならず、廃墟のようなロンドンの街風景が描かれていたが、これは、1970年代後期のロンドンの本当の姿で、イギリス病と揶揄されていた頃のイギリスそのものであった。
   戦後のゆりかごから墓場までと言った行き過ぎた社会主義政策と産業の国有化などで、国民の勤労意欲が低下したり、既得権益にしがみつく傾向が増長されて、経済と社会の著しい停滞を招いて、イギリスの政治経済社会が暗礁に乗り上げてしまったのである。
   私の経験だが、ヒースロー空港では、必ず何時も、間違いなしに荷物が開けられて盗難にあい、ホテルでスーツケースが切り裂かれて盗まれると言うことなどは日常茶飯事であった。

   もう一つ、私の忘れられない経験は、英国各所で頻発する労働組合のストやサボタージュの酷さである。
   例えば、門扉を修理するのに、極端な言い方をすると、仕事を分配するために、1日に10枚くらい煉瓦を積んで職人が帰るので、何か月もかかると言った信じられないようなケースである。
   マードックがザ・タイムズを買収して印刷業務を合理化しようとした時に、植字工たちが職を維持するために激しい暴力的なストを打ったり、とにかく、英国全体が総て後ろ向きで目も当てられない状態であった。

   この世界最高の文明国であった英国を蝕んで、経済社会をどん底に追い込んでいたイギリス病から、たったの10年で、労働組合を叩き潰して、グレイター・ロンドンを葬り去り、ビッグバンなど荒療治をを実施して、英国経済を起死回生させたのは、紛れもなく、この映画の主人公であるマーガレット・サッチャーであって、恐らく、サッチャーが登場しなければ、今日のイギリス社会の繁栄は有り得なかった筈である。
   
   サッチャーの経済政策は、ネオリベラリズム(新自由主義)と称されるもので、その後、レーガンと中曽根が継承すろのだが、国家による福祉・公共サービスなどを縮小する小さな政府と産業の民営化、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする経済思想である。
   したがって、経済的には政府による介入を極力排除し、市場や企業の活動への規制を撤廃して、弱肉強食の自由競争を促進し、経済成長を重視するので、大企業や富裕層への減税により投資を誘発し、民営化や規制緩和によって、従来政府が担っていた機能を市場に任せ、福祉や公共事業による有効需要の創出よりも、供給サイドの強化を重視するサプライサイド経済政策をとる。

   この市場至上主義的な経済政策が、昨今の世界的な金融危機を引き起こし、格差の拡大を惹起したと非難されているのだが、前述したように社会主義政策の行き過ぎでイギリス病に陥って、経済社会の崩壊の危機に瀕していたイギリスとしては、やむを得ない必然的な経済原理の揺り戻しであったと言うことであろう。
   その新自由主義が、今回、逆に経済危機を引き起こして、格差解消の為の福利厚生経済の強化や需要創出のケインズ政策の復権が台頭して来たのだが、そのアメリカでは、新保守の共和党が依然強力なのが面白い。

   もう一つ、この映画のハイライトは、アルゼンチンに占領されたフォークランド諸島を奪還するために仕掛けたサッチャーの戦争への決断であろう。
   政治的にも経済的にも窮地に陥っていたアルゼンチンが、窮地を脱するために国民の関心を外に向けようとした大博打なのだが、まさか、イギリスが戦争を仕掛けるとは思わなかったとアルゼンチンの大統領が述懐したと言うに至っては言語道断だが、サッチャーの意気込みは、やはり、女性ゆえに決断できたジョンブル精神の発露であろうと思っている。
   殆ど南極に近いフォークランド海域に、経済的に疲弊していたにも拘わらず国運をかけて、海軍の3分の2を派遣して戦ったと言うのだから、イギリスとしては、血の滲むような苦渋の決断だった筈であり、サッチャーが梃子でも動かない鉄の女であった査証である。
   このフォークランド諸島だが、周りから石油が出るので再び色気を出したアルゼンチンが、また、動き出したので、イギリスは、ウイリアム王子を2月初めに英国空軍パイロットとしてフォークランドへ派遣した。
   
   さて、この鉄の女と呼ばれたサッチャーが、ロイド・ジョージ、クレメント・アトリー、ウィンストン・チャーチルの元首相3人の銅像と並んで、生存者として初めて銅像が国会内に置かれて、その除幕式で「"鉄"の像の方が、私には良かったかもしれません。でも、ブロンズもいいですね、サビませんから」と言って参列者を笑わせた。
   
   サッチャーは、ニッサンのサンダーランドへの誘致に大変熱心だった。
   ここは、アメリカの初代ワシントン大統領の故郷で、会社が建設に関係していたので私は何回か訪れたが、サッチャーは、国家経済を活性化するためには、外資導入には積極的で、ウインブルドン現象と呼ばれてイギリスの会社が外資の軍門に下っても平気で、あのシティなど、イギリスの金融機関は殆ど外資系となったのだが、世界一の金融センターを維持して英国経済の再興を実現した。
   私が離英した頃のロンドン・シティは輝いていて、昔の廃墟のようなロンドンの姿は微塵も残っていなかった。
   サッチャーは、やはり、不世出の偉大な英国の首相だったのである。
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観世清和著~「一期初心 能役者森羅万象」

2012年03月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、能楽観世流二十六世宗家観世清和の15年ほど前のエッセイを纏めたものだが、能楽について、非常に興味深い話が満載で面白い。
   私は、これまで、他のパーフォーマンス・アーツには親しんでいても、能楽には殆ど縁がなかったので、特に、能楽が、他のものとは随分違う芸能だと言うことを知って、驚くと同時に、アーツの奥深さに感じ入っている。

   たけしとの番組で、能は、ぶっつけ本番だと語っていたのが印象に残っているのだが、この本の「申し合わせ」と言うところで、「能では、古くはリハーサルにあたる「申し合わせ」というものをやっていませんでした。」と言っており、ぶっつけ本番でもできる、能とはそういう世界であり、システムであり、世界でも稀な素晴らしい芸術だと言う。
   シテ方では、謡を覚え、舞を覚えるが、それと並行して普段から囃子の稽古もしていて、稽古の時には、実際に太鼓や鼓や能管、道具も使い、ワキの謡や地謡の稽古も怠らないと言い、当然、囃子方も、謡の稽古を積み、人によっては舞の稽古もし、一曲を通してその意味にさかのぼって勉強しており、舞台の上にいる者は皆、謡もお互いの動きも良く知っていると言うのである。
   余談だが、ウィーン国立歌劇場のワーグナーのリハーサルを終えて帰って来た指揮者クロブチャールに、自宅で、ギネス・ジョーンズも来ていたのかと聞いたら、彼女はぶっつけ本番だと言っていたが、欧米では、スーパースターは別格なのであろう。

   能では、誰かが指導をして全体を合わせる訳ではなく、シテとワキと囃子方と地謡方それぞれがそれぞれの世界を表現し、各パートの単純な足し算ではない新しいハーモニーを作ろうとぶつかり合う、その激しい緊張が、能の舞台を美しく引き立てると言うことである。
   したがって、テンポが遅いか早いか、リズムはどうか、音程は正しいかと言った個々の要素に分解して評価することはなく、個々のパートがぶつかり合う全体が生み出すものを、品格まで含めて全体を「位」で評価する、それこそが、総合芸術としての能の能たる所以だと言う。

   もう一つ驚異的なのは、歌舞伎やミュージカルなど連日同じ演目の舞台を展開しているが、能ではただ一回の舞台が総てである。
   同じ曲をまったく同じメンバーで勤めるということはおそらく二度となく、そこに能独特の緊張感が生まれると言うのだが、正に、演者全員がその舞台に総てを掛ける一期一会の世界である。
   来月の国立能楽堂では、観世清和の「阿古屋松」が2回上演されるのだが、これは、「世阿弥自筆本による能」シリーズの最終公演なので特別なケースなのであろう。

   ところで、能楽は、伝統や約束事が決まっていて殆ど固定した古典芸能だと思っていたのだが、「舞台の演目が決まれば、稽古の合間をみて蔵に入り、自分なりの解釈で装束と面を選びます。」と言う。
   同じ曲でも、装束の色合いや面、舞いっぷりや謡いっぷりなどの演出面も含めて、すべては、演者一つで変わってくるというのである。
   昔、ピアティゴルスキーの回想録を読んだ時に、ハイフェッツなどとの三重奏の演奏会で、途中で曲を間違ってしまって、メクラ滅法3人で合わせて演奏したと言う逸話があったが、名人は、どんな環境にあっても、素晴らしい芸術を生み出せるのであろう。
   
   「面をかける」と言うところで、その思いを語っている。
   「一刻も早く面をかけたい、世界を逃れ、曲中に身を投じてしまいたいと思う日がある一方、なかなか気持ちが定まらず、いつまでも愚図愚図しているということもあります。面をかけるということは、単に扮装の仕上げという異常に、大変精神的な意味あいの強いものです。」
   「面をかけた時のシテは孤独です。・・・しかし、そうであるからこそ、シテは自分の内側に深く降りてゆくことができるのです。
   面は、外に表情を示すとともに、シテに孤独を強い、しばしば現実とは次元を異にした魂の世界に生きることを求めるものとも言えそうです。」
   あの面をかければ、シテは、殆ど視界が閉ざされて前が見えないと言う。
   私は、魂が入った面は、素晴らしい仏像と同じで、神聖を帯びた人類の崇高なる創造物だと思って、見所から仰ぎ見ている。

   さて、この本だが、高邁な能楽の話ばかりではない。
   「パチンコが好きなんです。実は。」「お酒も好きです。」
   阪神淡路大震災を神戸のホテルで経験した話や、映画はSFが良いとか、「隠れワグネリアン」だと言ってクラシック音楽が好きな話や、とにかく、日本の誇るべき凄い能役者でありながら、興味津々の滋味深い話題が満載の本で、能楽ファンでなくても一読に値する良書である。

(追記)口絵写真は、NHKたけし番組から転写。観世清和「羽衣」。
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瀬戸内寂聴著~「秘花」

2012年03月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   申楽浸しの脇目もふらぬ一筋の道。生涯かけてひたすらその道だけに賭けて生き抜いてきた世阿弥が、72歳の老耄の涯に、上をないがしろにしたと言う覚えなき理由で、将軍義教に、佐渡流謫の刑に処される。
  「その運命をどう受入れたのか、老いとどう向き合ったのか、そしてどう死を迎えたのか知りたかった。」と言う思いで3年間温め続けて、寂聴さんが書いたのが、世阿弥の佐渡での晩年を綴ったこの小説「秘花」。
   奈良が終焉の地だと言う説もあるが、寂聴さんは、この流刑地佐渡で、世阿弥が、色っぽい話をも交えながらも、案外大らかで伸び伸びした生活をおくって臨終を迎える話にしている。

   佐渡は水がいい、魚が捕れる、そしてお米もとれる。それだけでもう暮らせるから、島の人たちの人情がとても優しい土地だし、それに、流人心得で申し渡されたのは、島の外への逃亡はご法度だが、滞在中は、何の仕事について生計を立ててもも良く、世阿弥の場合には、京都から持参した生活資金がいくらかあり、それに、娘婿の金春禅竹から仕送りもあり、謡の一人稽古、仕舞、読書や書き物、それに、座禅や瞑想、読経三昧の生活を送れた。
   唯一困り抜いたのは、良質の紙を手配出来なかったことで、白い布きれをも、書き物に使ったと言う。

   生誕から流罪に至るまでの、世阿弥の生い立ちや申楽人生などについては、比較的史実と言うか、一般的に流布している話を軸にして寂聴さんの創作が加えられている感じだが、佐渡での晩年については、前半は自分語りで、後半は、世阿弥の侍女であり後添えでもあった紗江が、没後に佐渡を訪れて来た出家した次男の元能に語る形で、物語が進められていて、世阿弥の思想や人間性が滲み出ていて興味深い。
   佐渡時代で、世阿弥が残したのは、配所への道行きと佐渡の風物を綴った『金島書』だけなので、寂聴さんは、創作を交えて、色々な呪縛や柵から解放された人間世阿弥の情緒豊かな味わい深い晩年を浮かび上がらせている。

   世阿弥が、紗江の頬を撫ぜていとしそうに優しい声で、臨終の瞬間に呟いた言葉は、「つ・ば・き」、苦難を共にしてきた妻・椿の名前。
   哀れなのは、世阿弥も椿も、大樹、すなわち、将軍義満の執拗で淫らな焔の下での慰めものとして屈辱に耐えて来たもの同士で、椿は、下げ渡された妻。世阿弥の心の恥と屈辱を知り抜いている椿とは、1年近くも屈辱の垢を洗い流すために、肌を合わせられなかった。
   この世阿弥だが、椿一人を守った訳ではなく、一人の女に捕われてしまうと、能の話を造る創造力が枯渇しそうで、不安だと言い、椿は、「始まったものは、必ず終わりがある」と言って耐えたと言う。
   この夫婦に、子供が出来なかったので、世阿弥の後継として、弟・四郎の子供に三郎元重の名を与えたのだが、その後、椿が2人の男の子と1人の女の子を生む。
   この霜降の妻を、娘婿善竹に託して、世阿弥は佐渡に渡り、とうとう会えずにその死を知る。

   ところで、世阿弥は、やはり、人の子で、結局、自分の子供が可愛くて、長男元雅を後継にするのだが、この元雅は若くして殺されてしまい、二男の元能も出家する。
   また、絶大な庇護を受けていた義満や二条良基准后に先立たれ、田楽の隆盛に負け、また、養子にした元重も離反して新将軍義持の庇護を受けて隆盛を極めて、世阿弥の観世一座は、衰退の一途を辿って行き、このような時期に、気に入らなければ、どんどん、人を容赦なく消し去る傍若無人な将軍義持の佐渡流罪を受ける。

   観阿弥が、美童世阿弥を男色好みの義満に差し出し、京へ上るためにあらゆる手を使って頂点に上り詰めた観世も、瞬時に凋落すると言う激烈な競争場裏にあった草創期の能楽の世界が見え隠れしていて興味深い。
   先日、梅若六郎の「まことの花」の稿で、江戸時代以外は、能楽師の地位は非常に不安定であったことに触れた。
   観阿弥は、申楽は万民に快楽を与える芸、すなわち、福寿増長、福寿延長でなければならないとしていたが、同時に、権力者の庇護バックアップ、そして、識者の美意識・鑑賞眼を満足させなければならないのだろうが、それは、猫の目のように激しく変化する。

   今日では、世阿弥は、能楽の世界では、最高峰だが、晩年には、一座の凋落に遭遇し、後継者を失い、最期には、流罪の悲哀に泣き、生涯かけて築き上げてきた自信も栄誉も人間としての尊厳も叩き潰された。
   能の台本を2曲書いたと言う寂聴さんの、随所に紹介されている世阿弥の芸術論も分かり易くて良く、それに、佐渡での、紗江との生活や風土や風物の懐かしささえ感じさせてくれるような臨終までの世阿弥の人間的な生き様の描写が、私には救いであった。
   
   ”命には終わりあり 能には果てあるべからず”
   ”花とは、色気だ。惚れさせる魅力だ”
   ”幽玄とは、洗練された心と、品のある色気だ”
   難しいが、素晴らしい言葉が、流れている。

   最後に、新しい能の筋が浮かんだと言って世阿弥が紗江に口述筆記させようとした題名が、”秘花”
   紗江は、あちらからお師匠さまのお声が毎夜届き「秘花」の詞章が語られ続けています。それを書きとることが、ただ今のわたしの密かな生き甲斐でございます。と言う。
   恋も秘すれば花、と言うことであろうか。
   
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ブログを書き続けて早や7年

2012年03月20日 | 生活随想・趣味
   このブログを書き始めたのが、2005年3月8日、もう、7年も前のことである。
   「ブログの開設から 2575 日」の表示が、編集画面に記されているのだが、2回の病気入院で、10日ずつくらいは途切れたこともあり、旅行などでも1週間くらいずつは休んだこともあるが、大体、平均、月25回くらいは書き続けたので、今日で、2205回目になる。
   何か書きたくて、最初は、アマゾンのブックレビューに投稿していたのだが、書き換えられたり、途中で理由もなく何編かバッサリ削除されたので、嫌気がさして止めたのだが、丁度その頃、ブログが流行り出したので、このブログを始めた。
   最初は比較的小文だったが、その後、1編2000字をかなりオーバーした長文になってしまっているのだが、自分の考えを纏めるのには、丁度適当だと思っている。

   やはり、長く続いているので、有難いことにかなりの皆様にお読みいただいており、日によって違っているのだが、大体、毎日、500人くらいの訪問者をお迎えし、3000~5000回の閲覧数があり、アクセス・ランキングは、gooの170万人いるブロガーの中で1000位前後である。
   皆さまのブログのように、特別なテーマに絞って書いておらず、興味に任せて自分が思うままに書き綴っているので、分裂症気味に多岐に亘っていて統一性がない。
   私自身の勝手な自己満足と言うか、正に、熟年(老年と言うべきか)の文化的(?自分ではそう思っている)な日常生活における徒然なるままに綴った、紛れもない雑記帳である。
   
   最初は、それ以前に、海外生活が長くて、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパでトータル14年を過ごし、海外事業を担当していたこともあって、1泊以上した外国が40以上あり、自分でも想像できないような貴重な経験をしたので、それに関連することどもを書こうとしたのだが、結局、現実的な生活に引っ張られて、自分自身の専門でもあった経済や経営に関するテーマが多くなって、それに、趣味でもあった観劇や園芸、読書、時事雑感と言ったテーマに広がってしまった。
   しかし、実際には、自分の経験したことに影響されて生きているのであるから、随所に、海外での懐かしい思い出について言及せざるを得ず、かなり、異質な雑記帳になってしまっているのではないかと思っている。

   さて、ブログのテーマの一つである、政治・経済・社会、経営・ビジネス、イノベーションと経営、地球温暖化と言ったカテゴリーについては、私自身、学者でもないし、決して学究の徒でもないので、専門などと言うのはおこがましいのだが、大学の専攻は経済で、大学院は米国製MBAで経営学専攻であり、欧米でのビジネス経験などをも通じて、その後、専門分野の専門書などを絶えることなく読み続けて勉強しており、新しい学問の潮流や動向をフォローして来ているつもりなので、厚顔ながらも、それなりの思いを込めて、持論を展開させて貰っている。
   自己満足であり、思い上がりかも知れないとは思うが、半世紀近くも経済学や経営学について学び、大変な時代の潮流と文化文明の途轍もない変遷に翻弄されると、若い頃には見えなかった世界が、今頃になって、鮮やかに見えて来ることもあって、その思いを記録しておきたいと言う気持ちがあることも事実である。

   観劇については、若い頃は、クラシック音楽やオペラ鑑賞が主体で、有名音楽家などが来日すると無理をしてでもコンサートに出かけていたのだが、海外に赴任してからは、現地で益々拍車がかかって来た。
   フィラデルフィア管、コンセルトヘボー管、ロンドン響、ロイヤル・オペラなどはシーズン・メンバー・チケットを持って通っていたし、片っ端から、有名音楽家やオーケストラなどのコンサートに出かけて行き、訪れる都市ごとにオペラ劇場を訪ねてオペラを鑑賞してきた。
   最後のロンドンでは、これに、シェイクスピア戯曲の観劇が加わって、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを追っかけて、ストラトフォード・アポン・エイボンとロンドンを掛け持ちし、ロイヤル・ナショナル・シアターのシェイクスピア劇も欠かさなかった。
   日本に帰ってからは、この比重が、徐々に、歌舞伎と文楽に移り、私のブログも、この方面に比重が移って来て、最近では、年期だけ入って来たので、これも厚顔無恥を承知で、勝手な印象記事を書かせて貰っている。
   初期には、劇評ブログで有名な「劇場の天使」のハンナさんにご注意やご教示を頂きながらのよちよち歩きだったのだが、今では手前勝手な観劇印象記を臆面もなく書いている。まあ、悪意の記事は書いていないつもりなので、一ファンの戯言と言うことで許して貰えるのではないかと、タカを括っている。
   それが、最近では、宗旨を変えて(?)、狂言から能楽へと、鑑賞舞台を展開しようとして、世阿弥関連本を読み始めている。
   しかし、これも、昔、学生の頃、勉強は程々にして、京都や奈良の古社寺を巡り歩いて、日本の歴史と文化の勉強に明け暮れていたので、歳を取った今、やっと、先祖返りと言うか、日本人としての自分自身のアイデンティティを確認したくなってきたと言うことではないかと言う気がしている。

   書評・ブックレビュー、展覧会・展示会、旅のことども、その他、花鳥風月など園芸関係は、私の趣味の一環であり、その雑感である。
   欧米の旅紀行は2シリーズだけだが、やはり、アメリカかヨーロッパだが、ぼつぼつ、気ままな旅に彷徨ってみたいと思っている。

   振り返ってみて、やはり、7年とは長いような感じがするが、読み返してみると、昨日のような気がする。
   写真だけは随分残して来たが、今でも残念に思うのは、このブログの最初の趣旨でもあったことだが、私自身が歩んできた随分波乱と思いがけない運命の悪戯に満ちた海外での生活と経験を、何故記録に残せなかったのかと言うことである。
   殆ど忘却の彼方に消え去ってしまって、僅かな記憶しか残っていないのだが、何故か、今の生活を大切に生きたいと言う気持ちが強いので、強いて思い出して記録に残しておこうと言う気持ちがでるまで待つ以外になさそうである。
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国立能楽堂~観世清和の「砧」

2012年03月19日 | 能・狂言
   私の観能経験もようやく10曲を越えたところで、国立能楽堂にも少し慣れて来た。
   今回は、一寸程度を上げて、企画公演の観世清和がシテを舞う「砧」を観る機会を得た。

   この「砧」は、観世清和宗家にとっては、父観世元正との生涯最後の舞台となり、その時、ツレを勤めていて、終演後に父は旅先の病院で、かえらぬ人となったと言うことを、著書「一期初心」の「父と子」で語っている。
   冒頭の「それ鴛鴦の衾の下には、立ち去る思ひを悲しみ・・・」と言うシテの一声は、今も耳元に残っていて、いつにもまして気力が漲り、それでいて打ちひしがれたシテの悲しみを、静かに謡ったものでしたと言う。
   恐らく、観世清和宗家は、謂わば、この日は、「同行二人」、父君と一緒に舞台に立った心算で勤めて居られたのはないかと思って、見上げていた。

   この「砧」は、訴訟のために京に上った夫(ワキ 芦屋某 森常好)を慕う遠国の妻(前シテ 芦屋の妻 観世清和)が、何の音沙汰もなく孤閨の寂しさに堪えていると、3年経って侍女夕霧(ツレ 夕霧 坂口貴信)がその年に帰ると伝えに帰って来たのだが、益々寂しさが募り、妻の打つ砧の音が万里離れた蘇武に伝わったと言う故事に倣って二人して砧を打つも、また、夫の帰国が伸びてしまって、妻は夫の心変わりを按じ苦しさに耐え切れず絶望して病没してしまう話である。
   後段は、ようやく帰国した夫の前に、尚も恋慕の妄執にもがき苦しんでいる妻が霊(後シテ 芦屋の妻の霊 観世清和)となって現れて、夫に対する恨み辛みを述べながら自分の執心を恥じ、地獄の責めの苦しさを切々と訴えるのだが、夫が合掌して法華読誦すると法華経の功徳によって成仏する。

   悲痛なのは、前段の最期に、京からその年も帰れぬと知らせが来たので、その悲しい知らせに絶望した妻が、両手を覆って嘆くのだが、ツレが、シテの後ろに回って、そっと腰に手を添えて立たせて、そのままツレはシテの後ろから幕に向かって消えて行く大詰めである。
   清和宗家は、「それが、父との最後の舞台になろうとは夢にも思わず、私は父の腰に手を添えて橋掛かりを歩みました。」と述懐している。

   能楽は、大変に洗練された古典劇で、人間の妖しい情念の世界に降りて、俗を去り形を抽象化して、美を極めようとしている。と、観世清和宗家は、書いている。
   台詞の氾濫と、凝った舞台の背景やハイテクの照明や豊かな音響効果などで、ふんだんに装飾増幅された現代劇や歌舞伎などの舞台芸術に慣れていると、正に、能楽の世界は、驚天動地、全くの別世界で、今の私には、殆ど白紙状態のパズルを埋めて行くような感じで舞台を見ている。

   ところで、国立能楽堂のプログラムで、水原紫苑さんは、この夕霧の存在を源氏物語の夕顔に準えて、芦屋の妻を、六条御息所に対比させて考えている。
   六条御息所は死霊として彷徨い続けているが、芦屋の妻は、夫を許すことによって個我から脱却して総てが救われたのだと言う。
   同じ末法でも、爛熟期の平安と、天変地異と騒乱で時代が極端に暗かった鎌倉室町とは、時代背景と日本人の思想や人生観が全く違うのだから、そうとも言えないと思うし、第一、女性の紫式部と、男色とは言え世阿弥の女の情念に対する考え方は違うであろうし、世阿弥の場合には、もっと、宗教的かつ心霊的な要素が多分に入り込んでいるような気がしている。
   ただ、それが当時としては帯同が普通だったのかどうかは知らないが、何故、世阿弥が、夕霧と言う若い侍女を、ここで介在させたのか、興味なしとはしないと思ってはいる。
   
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わが庭の歳時記~春が一気に到来

2012年03月18日 | わが庭の歳時記
   最近、天気が良くない日が続いているが、陽が長くなってきた所為もあって、大分温かくなって来たので、私の庭も、椿の花が、一気に咲き始めて、曙椿も、鎮まり返っていたような木を荘厳し始めている。
   薩摩紅も、重い深紅の八重花を開き始め、タマグリッターも、淡いピンクの花弁に白い模様を浮かせ、白羽衣も、花富貴も、大きく膨らんで蕾が色づき始めた。

   今、真っ盛りに咲き誇っている春の草花は、クロッカスだけだが、チューリップも、ヒヤシンスも、水仙も、ムスカリも、一気に芽を伸ばして、蕾が動き始めている。
   クリスマスローズも、蕾を開き始めたが、まだ、花茎は地面を這っている感じで、しっかりと首を上げて綺麗に花をほころばせるためには、もう少し時間がかかりそうである。
   牡丹の芽は、大分、ほころんできたし、シャクナゲも、ピンクの芽を地面から覗かせている。
   少し遅れて咲くユリの芽も、大分伸びて、しっかりと茎を直立させて、元気なところを見せている。

   剪定して切り込んだバラの木にも、勢いよく新芽が出て来たので、芽だし肥料を万遍なく周りに埋め込んだ。
   私の庭は、洋花もあれば、和花もあって、全く、統一が取れずにちぐはぐだが、イングリッシュ・ガーデンの雰囲気に慣れてしまったのか、一向に、チャンポン模様の庭の雰囲気が気にならなくなってしまった。

   庭の花木や草花の趣味趣向は、歳とともに随分変わってしまったようである。
   昔は、門口の階段や、二階の花台などに、季節の草花を植えて丁寧に手入れを怠らなかったのだが、いつの間にか、手入れが比較的楽な草花や、バラや椿などの花木の鉢植えに、変えてしまっている。
   その花木も、椿だけは、私の最も好きな花なので変らないのだが、最近は、バラや牡丹が多くなって、花も、芍薬やユリと言った、大ぶりな派手なものになってしまった。
   それに、秋は、モミジで、この木はすぐに大きくなるので気をつけなければならないのだが、昔から園芸品種が多くて、夫々に風情と趣きの妙があって、芽だしの時期から葉が散るまで、色や変化を楽しめるのが、実に良いので、私が手入れしている唯一の秋の花木である。

   春が近づくと、庭の姿が日に日に変わって行く。
   寒くて凍てつくようなある日、突然、地面から草花の新芽が出ているのに出くわすと、堪らなく嬉しくなる。
   それに、一気に、賑わってきた地面を見ていると、自然の営みの不思議に感嘆せざるを得ないし、歳の所為もあるのだろうが、一本一本の芽や若葉が愛しくて仕方なくなってくる。
   毎年、それなりの手入れを怠らなければ、ほっておいても、春になると、芽をだし花を咲かせるのだが、今年のように寒い日が続いて、芽吹きが遅れて来ると、何故か、無性に心配になってくるし、地面が動き始めると、堪らなく嬉しくなって感動する。
   庭に出て、何をするのでもなく、じっと、庭木を眺めながら、過ごす時間が、結構多い。

   

   
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西川善文著「ザ・ラストバンカー」

2012年03月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   銀行には一番縁のない私だが、日本の銀行が最も苦しんでいた時期に、如何に、銀行が呻吟しながら、不況の中を生き抜いて来たのか、その片鱗を知りたくて、この本を読んだ。
   一回だけ、三井住友の株主総会で、西川氏の議長ぶりを拝見したことがあるが、社内株主を前列にぎっしり並べて、「賛成異議なし議事進行」と言った総会屋対策一辺倒の昔風の株主総会で、極力株主の意見などを封殺して手っ取り早く総会を終えようとする雰囲気が充満していて、住友カラーと言うべきか、重苦しい嫌な総会であった記憶がある。
   それに、三井住友は、自社ビルでの総会で、東京フォーラムのみずほや、武道館での三菱東京UFJなどの多少オープンな雰囲気とは違って、如何にも閉鎖的で、総会日がかち合う所為もあるが、最近は行かなくなっている。

   さて、西川氏が、何故、住友の頭取になったのか。
   営業経験も殆どなく海外経験さえもなく、我武者羅に働いた30代から50代半ばまで、殆どの期間を、安宅産業の破綻処理、平和相互銀行合併問題とイトマン事件の処理、そしてバブル崩壊に伴う不良債権に費やしてきた、それまでの頭取と比べれば、謂わば、歪な経歴を歩いて来たにも拘わらずである。
   西川氏が頭取であった時期は、1997年から2005年。日本経済がバブル崩壊で、失われた10年に呻吟しながら、アジア通貨危機が勃発し、山一や北拓銀行が破綻した正にその年からであり、一時、9.11やITバブルの崩壊はあったが、世界同時好況を謳歌していた時ではあったが、日本経済は、深い不況の谷間から抜け出せず、特に、小泉竹中体制路線の進行で、金融機関は、不良債権の早期解決など強力なハードランニングの管理体制が敷かれていた時である。
   正に、銀行にとっては、防御防戦一方の後ろ向きの経営に終始すべき乱世であり、経済成長に酔いしれた攻撃と拡大路線に終始したそれまでのバンカーには、全く太刀打ちできない経営環境であったと言うことである。
   西川氏が、唯一前に出たのは、「金融ビッグバンはビッグチャンス」とと捉えた諸政策かも知れない。

   90年代後半に入ってからは、ベルリンの壁の崩壊後のグローバリゼーションの急激な進展や、世界経済がICT革命によって新時代に突入していたにも拘わらず、この西川氏の著書を読めば分かるように、日本経済を背負って立っていた筈のメガバンクが、一切、このグローバルな新潮流から取り残されて、内輪向きの防戦一方の経営に明け暮れていたかが分かり、暗澹とせざるを得ない。
   西川氏が、ポール・ボルカーとの知己を自慢しているが、名うての米国金融機関から金を借りただけで、時流を読む国際感覚とグローバル金融市場で泳いで行ける才覚があったかどうかは別の問題であろう。
   また、日本の銀行は、世界の潮流に乗り遅れて、金融業の急速なICT化に踏み込めなかった故に、リーマンショックの被害が少なく済んだと言う説もあるが、逆に、能がなかった故に詰まらぬメクラ滅法な投資にのめり込んで世界金融恐慌の被害を被ってはいる。

   ここで触れておくべきは、当時、国際会計基準の導入などが騒がれていた時期でもあったが、同時に、バブル崩壊後の企業の経営環境が、財務諸表重視の時代に突入し、バランスシートが読めない経営者は、丘に上がったカッパ同然となり、経営管理能力を喪失し始めたと言うことである。
   その意味では、破綻企業や危機に瀕した破綻寸前の企業の経営指標や財務諸表を分析把握して、荒療治で再建処理する経営感覚と能力のあった西川氏が、あの時期に、三井住友の頭取として立ったのは必然だったのかも知れない。
   昔、ロンドンに居た時に、住友の優秀な営業マンが、開発案件をどんどん持って来たのだが、その案件の収支目論見や何故投資に値するのか、一切説明する能力がなかったのに気付き、プロジェクト・ファイナンスを旨とする欧米銀行と比べて、その落差の酷さを感じたことがある。

   西川氏のこの本で、いくらか興味深い記述がある。
   1992年8月に、宮澤総理が、銀行のトップを軽井沢に呼んで、不良債権を処理するために金融機関への公的資金注入についてどう思うかと内々に相談があったが、公的資金が注入されるとトップの責任につながると懸念して断ったと言うことで、あの時決めておけば、こんな大騒ぎにならなくて済んだのにと言う巽頭取の忸怩たる思いの紹介である。
   また、UFJとの合併問題で、UFJの沖原頭取と玉越会長に会談を誘われながら、その意を解して十分に対応できなくて、折角のチャンスをミスってしまったと言う反省。
   面白いのは、財界内の仲間だけで話をして、組織も硬直化して民僚が幅を利かせている経団連は、もはや無用の長物だと思うと言う発言であり、さもありなんと思われる。

   さて、多言を避けて結論だけにするが、西川氏を、日本郵政の社長に指名した小泉竹中の決定は、正に、正解で、この起用があったればこそ、多々問題はあったにしろ、民営化が、ここまで進展したのだと思っている。
   私は、弱肉強食の市場至上主義の競争原理の経済理論には、あまり、賛成ではないが、国営企業や官僚制度など政府組織には、もっともっと、競争原理を導入して風穴を開けるべきで、コーポレート・ガバナンスとは何かを辛酸を舐めつくして知り抜いて来た西川社長の郵政民営化と経営の合理化高率化には、全く異論がなく、早期に、石を持って追われる如く退任したのを、むしろ、残念に思っている。
   逆に、前面に出て足を引っ張っていた政治家の無能と識見のなさと、政権の猫の目のような変転ぶりに暗澹とせざるを得ない。

   
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国立劇場三月歌舞伎~「一谷嫩軍記」

2012年03月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場は、歌舞伎座とは違って、意欲的な新趣向の歌舞伎を上演するので、何時も楽しみなのだが、今回は、
   『平家物語』から,岡部六弥太忠澄と薩摩守忠度,熊谷次郎直実と無官太夫敦盛という二組の源平の武将間についてのエピソードを題材に採り,その裏側に隠されたドラマを描こうとして、平家討伐の総大将・源義経の命令に端を発して物語が二つに分かれ,歌道に秀でた忠度の和歌が“よみ人知らず”として『千載和歌集』に選定される経緯を描く二段目「林住家」(通称「流しの枝」)と,敦盛討伐を命じられた熊谷の悲劇を綴る三段目「熊谷陣屋」へ繋げて、今回は,義経が命令を下す大序「堀川御所」を序幕に据え,「流しの枝」「熊谷陣屋」と続ける,珍しい場面構成の歌舞伎。」と言うことである。

   しかし、この歌舞伎は、忠度(團十郎)や直実(團十郎)を主人公にしていても、平家物語とも現実の歴史とも違っていて、あくまで、並木宗輔の創作であり、私には解せないが、義経を善玉に仕立て上げた芝居になっている。
   有名な「熊谷陣屋」は、敦盛を法皇の落しだねと言うことにして、「一枝を伐らば一指を剪るべし」と弁慶が認めた高札を渡して義経が救命を命じたので、直実が代わりに自分の一子小次郎を身替りに殺して、悲哀と無常を感じた直実が出家すると言う話になっている。
   ところで、今回、久しぶりに上演されたと言う忠度が主人公になる二段目の「流しの枝」では、一谷の合戦で忠度を討った張本人の岡部六弥太(三津五郎)が、義経(三津五郎)の命を受けて、忠度の歌”さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな”を千載集に収載することを告げに登場すると言う設定になっている。
   岡部六弥太は、実際には、忠度の戦場での最期に感じ入って、 忠度 の菩提を弔うため、領地の埼玉県深谷市の 「清心寺(せいしんじ)」に供養塔を建てたと云うことだが、生前にはこの合戦時が唯一の邂逅で、この歌舞伎で言うような武士の情けの余地などはない。

   平家物語には、一谷合戦の段で、この一谷での忠度の最期について書かれていて、実際は、忠度が六弥太を三刀切りつけたのだが急所に至らず、助けに来た家来が忠度の右腕を打ち落したので、最早これまでと観念して、抑え込んでいた六弥太を突き飛ばして、しばし待てと命じて、西に向かって高声にて念仏を唱え、その念仏が終わらない内に、六弥太が、後ろから首を討ったと言う。
   名乗らせずに討ったので誰だと分からなかったのだが、高紐(箙とも)に文が結び付けられていて、開いて見ると、「旅宿の花」と言う題で”行き暮れて 木の下かげを宿とせば 花やこよいの あるじならまし” 薩摩守忠度 と聞かれている。
   ここの件の後をそのまま原文で引用すると、
   「いとほしや。平家の一門の中には、歌道にも武芸にも達者にましましつるものを。さては、はや討たれ賜ひけるこそ」とて、敵も味方も涙ながし、袖をしぼらぬはなし。
   昔の侍は、教養があって粋だったのであろう。

   もう一つ、この歌舞伎では、忠度の一首を、忠度の愛人だとする俊成の娘菊の前(門之助)が、義経に千載集に載せて欲しいと頼みに来て義経が認めると言う設定だが、平家物語では、「法皇鞍馬落ち」の段の「薩摩守・俊成の卿対面の事」と言うところで、都落ちの途中に都に取って返した忠度が俊成卿の宿所を訪ねて巻物一巻(忠度朝臣集)を渡して一首勅撰和歌集への収録を願い、俊成が安心してくれと応える感動的なシーンが描かれている。
   実際には、平家が都落ちして騒乱状態で治安が悪化していて落人を許すわけにもいかず、俊成も門を開くことなく面会し、忠度は門から巻物を投げ入れて、俊成の芸術家的な良心にすがった悲壮な賭けだったと言うことのようである。
   しかし、『千載和歌集』には、俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載したのだが、『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集され、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されていると言う。   

   冒頭、義経が、”六弥太は薩摩守忠度の陣へ向ひ、御願ひのこの御詠歌千載集には入りしかども、勅勘の御身なれば名を顕はすを憚りて読人知れずと記されし趣を演説し、集に入りたるその印この短冊を結びたる山桜を送るべし”として、千載和歌集への収録は、義経の意向と言うことになり、全く歌心があるのかないのか分からない義経や六弥太が、表に出て、重要人物である筈の俊成が一切登場せず、娘の菊の前が恋人として死出の旅に立つ薩摩守を見送ると言う愛情物語に仕立て上げらてしまっているのだが、私は、やはり、あの平安時代でも、良い歌は良い歌であると言う芸術の良心が生きていたと言うことは、誇るべきことだと思っている。
   
   ところで、この流しの枝の場の並木の台本だが、知盛同様に忠度は、人気の高い傑出した平家の文武両道に秀でた武将であるので、もう少し工夫があって然るべきだと思っており、それに、忠度を演じるには、團十郎よりは、三津五郎の方がイメージに近いのではないかと思って見ていたのだが、どうであろうか。
   門之助の本格的な女形を、久しぶりに見たが、中々、清楚な女らしさも滲み出ていて良かった。

   さて、熊谷陣屋の方だが、これまで、何度も書いて来たので、蛇足は止めるが、これまでの熊谷直実は、幸四郎が一番多くて、仁左衛門を除けば、吉右衛門と染五郎であるから、高麗屋系統の舞台に慣れていた。
   しかし、今回の團十郎の熊谷は、やはり、荒事イメージの強い團十郎家の舞台で、非常にパンチの利いたスケールの大きな直実で、同じ、隈取でも、或いは、見得でも、目力から迫力が違っていて、正に、見せて魅せる舞台で、デフォルメされたようなオーバーな演技が秀逸で、そうでありながら、繊細な團十郎のキメ細かい心配りが随所に顔を出していて、新鮮な楽しさを味わわさせて貰った。

   東蔵の藤の方の良さは、ベテランとしては当然で言うも愚かだが、魁春の相模は、進境著しく、それに、彌十郎の弥陀六もスケールが大きくて人間味があって良かった。
   やはり、ぶつ切りのアラカルト方式の歌舞伎の舞台よりも、国立劇場のように、通し狂言や、今回のような同じ演目を通して演じるような公演が、見ていて楽しくて良いのは言うまでもない。
   昨秋から続いた国立劇場四十五周年記念の舞台は、大成功に推移しているようだが、しかし、空席の多いのには、一寸残念ではある。
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湯島天満宮の白梅が美しい

2012年03月14日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
  湯島天神の方がしっくり行くのだが、正式には、改名して湯島天満宮と称するらしい。
  N響のコンサートまで時間が空いたので、久しぶりに梅の花を見たくて、湯島天神に出かけた。
  高台に建つ天満宮社に向かって、左側の直線に切り立った石段のあるのが男坂、右側の横側から斜めに上るなだらかな坂道が女坂、その間に挟まれた斜面に、びっしりと古木の白梅が植えられていて、満開には少し早いが、微かな芳香を放っていて、湯島の白梅として慕われるのが良く分かる。
  陽が当たらないので、古木の幹は黒々としているのだが、複雑に曲がりくねっていて、自然の造形とは思えないような優雅さで、中々、趣があって素晴らしい。

  坂を上りつめて、境内に入ると、社殿の前には僅かな空間はあるのだが、門から参道の両側には、沢山の食べ物などの屋台店が並んでいて、横に広がる庭園に繋がる梅園の周りの空間に人々が集って、観梅を楽しんでいる。
  以前には入れた庭園には、ブロックされていて入れなくなっている。
  梅の花に、何羽かのメジロがやって来て、蜜を吸いながら敏捷に渡って行く。
  人々は思い思いに写真を撮っているのだが、一眼レフを持っている人は僅かで、殆どが簡易なデジカメか携帯で、カメラが売れないと言うのも良く分かる。
  庭園の梅園には、紅梅やピンクの枝垂れ梅などが植わっていて、変化があって面白い。
  社殿の裏の枝垂れ梅は、今、満開で、ループを描いた豪華な雰囲気が良い。

  ところで、天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真公を祀ってあるので、受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れるらしく、境内に何か所かある絵馬掛けには、びっしりと絵馬が掛けられていて、丁度、合格発表が終わった頃でもあり、合格報告に来た受験生が、合格御礼詣りの絵馬を貰って掛けているので、鈴なりである。
  見ていたら、東京芸大に合格した受験生が、だるまの絵が描かれている絵馬に、目玉を黒く塗りつぶして、裏にびっしりと何かを書いていた。
  絵馬に合格祈願を書きつけるのは受験生だけだと思っていたら、親や恋人らしい人の絵馬もあって、面白い。
  昔、京都のお寺で、「男はんを忘れられません。どないしたらよろしおすやろ。」と書かれた絵馬を見たことがあるが、見るともなく見ると、人生の縮図が見えて面白い。
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WANTS と NEEDS、BRAND と COMMODITY

2012年03月13日 | 政治・経済・社会
   今日、あるシンポジウムで、奥山清行氏の「ものづくり」から「ことづくり」へ と言うタイトルの講演を聞く機会があった。 
   何時も、非常にユニークで豊かな話題満載で、啓発されることが多くて、楽しみに聴講している。

   さて、現在の経済社会の変化について語り始め、冒頭で、WANTSとNEEDS,BRANDとCOMMODITYの違いから話を切り出した。
   今日の世界は、買いたくて仕方のないものしか付加価値を生まず、そして、ライフスタイルをデザインするブランド商品でないと、消費者は高く評価しないと言うのである。
   日本のメーカーは、ユニーク性や差別化の低いコモディティを製造しているので、スマイルカーブの底辺にあって殆ど利益を確保できないのだが、逆に、ブランド商品を製造販売する欧米のメーカーは、逆スマイルカーブで、高い利益率を上げている。
   
   NEEDSを満たすコモディティの精巧な日本製クオーツ時計は1万円でも、時間が不正確であっても、誰もが欲しがるロレックスは100万円以上するものもある。
   ハイクオリティで精巧なトヨタ車に対して、はるかに、性能が劣るドイツ車が、その値段の何倍かで売れるのも、消費者が買いたくて仕方のない車であり、ブランド車だと言うことであろうか。
   一方、Appleの商品というのは多少プレミアムを払ってでも買いたいと思う商品「プレミアム・ブランド」で、ラグジュアリーブランドではないので沢山売らなければ儲けにならない。これは、安いものだが、ただハードウェアを売るのではなくて、ハードを売る前に色々なソフトを総合してインフラを作って、全体の仕組みを売ってトータルで儲ける。そのデバイスを通して、どういうトータル・エクスペリエンスを提供しているかというのがこのブランドの価値で、いわゆるコモディティ商品がエクスペリエンス・デザインに変わっていくことが非常に重要である。
   ブランド商品はライフスタイルデザインになって、コモディティ商品はエクスペリエンス・デザインになって、初めてビジネスが成立するということなのだが、この方面で、日本企業は完全に後れを取っている。

   これは、クリエイティビティの時代の到来で、創造性のみが価値を生むと言う現象の発露なのだが、品質の向上のみを追及し、大量生産方式の成功で繁栄を築き上げてきた工業立国日本には、中々出来ない転身で、比較的成功を収めている日本企業の多くは、スマイルカーブの先端である原材料や部品・素材メーカーであることを考えると、グローバリゼーションでの日本の製造業の位置づけが良く分かる。
   日本の経済成長が頓挫している最大の原因は、買いたくて仕方のないものWANTSを提供できない製造業の不振であって、消費者の消費を牽引誘発できないために、GDPの最大構成要素である個人消費支出が伸びないからである。

   話を元へ戻すと、日本の消費者の大半は、もう、大概のものは手元に揃っているので、欲しいものがないと言って、殆ど新しくものを買わなくなってしまったと言われている。
   日本の企業が、いまだに、NEEDSばかりを満足させるコモディティばかりを生産し続けて、欲しくて買いたくなるようなWANTSを満足させる付加価値の高いBRAND商品を作り出せなくなってしまったと言うこと、ものづくり、工業立国日本と唱え続けながらも、その肝心の工業力の疲弊が、益々、日本の経済社会を窮地に追い込んでいるのではなかろうか。
   アップルの新製品が出れば、深夜でも店頭に並んで客は待つのだが、日本では、行列のできる店は、ビジネス街の小さな昼食レストランだけなのであろうか。
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