熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

都響定期・・・小泉和裕指揮「皇帝」とシューマン:交響曲第2番

2017年05月31日 | クラシック音楽・オペラ
   4月末のプロムナード・コンサートに行けなくて、振替プログラムで、同じ小泉和裕指揮の第833回 定期演奏会Aシリーズに出かけた。
   以前に、このAシリーズの定期に通って居たのだが、年8回の夜のコンサートが苦痛になって止めてしまったので、久しぶりの文化会館での都響である。
   プログラムは、
指揮/小泉和裕
ピアノ/アブデル・ラーマン・エル=バシャ
曲目
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73《皇帝》
シューマン:交響曲第2番 ハ長調 op.61

   学生時代に、クラシック音楽に興味を持ち始めて、最初に手に取ったレコードは、有名な交響曲や3大ピアノ協奏曲や3大ヴァイオリン協奏曲と言った定番なのだが、その1枚が、
このベートーヴェンの「皇帝」で、ウィルヘルム・バックハウスのピアノで、指揮:ハンス・シュミット=イッセルシュテットの ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のレコードであった。
   同じ ヴィルヘルム・バックハウス(P)で、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮のバイエルン国立歌劇場管弦楽団のレコードもあったが、これやカラヤンなどのレコードを買ったのは、もっと後からであった。
   私が実演に接したのは、ヴィルヘルム・ケンプやスヴャトスラフ・リヒテルやアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリあたりからで、バックハウスなどは、既に亡くなっていて、豪快で質実剛健な折り目正しい演奏は、レコードで聴く以外にはなかった。
   ピアニストは、ホロビッツとルービンシュタインは聴く機会を逸したが、殆どの著名ピアニストのコンサートには行っていて、その後、海外に出て、フィラデルフィア管やアムステルダム・コンセルトヘヴォー、ロンドン響などで、実際の生演奏に接してからは、益々、好きになったピアノ協奏曲である。

   今夜、この「皇帝」を聴くのは、本当に久しぶりで、聴き込んだ好きな曲なので、頭の中をベートーヴェンが駆け巡り、一気に気分が高揚し、楽しいひと時を過ごすことができた。
   迂闊にも、ピアニストのアブデル・ラーマン・エル=バシャ をよく知らなかったのだが、淡々とした表情でピアノを奏でる姿は、どこか高僧に似た崇高な威厳のある雰囲気でありながら、第2楽章冒頭の柔らかくて美しい音色など、天国からのようなサウンドであり、激しく高揚するダイナミックな演奏も緩急自在で、感動的であった。
   私など、随分、クラシック音楽鑑賞には年季が入ってはいるが、いまだに、ハ長調がどうだとか曲想がどうだとかと言ったことは分からないし無頓着であり、コンサート・ホールに行って、自分の恣意的で個人的な感性だけで聴いて満足している。
   幸い、ヨーロッパ生活も比較的長いし、結構、歩いてきたので、その音楽が生まれた故郷の背景や情景などは思い出せるので、その思いを増幅させて想像豊かに聴いていることが多い。
   ベートーヴェンもモーツアルトもシューマンも、故郷や活躍した故地を訪ねても、何故、これだけ素晴らしい音楽を生み出せたのか、感に堪えず驚嘆の一言だが、小澤征爾さんが言っていたように、神が手を取って作曲させたのであろうと思っている。

   シューマンの交響曲は、第1番の「春」や第3番の「ライン」は、聴く機会があったが、この第2番は、聴いたのか聴かなかったのか、記憶にない。
   
   端正で折り目正しい小泉和裕の指揮は、都響を限りなく豊かにダイナミックに歌わせて、観客を魅了していた。

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わが庭・・・ばらとシャクヤク、ノカンゾウ

2017年05月30日 | わが庭の歳時記
   わが庭も、大分、花が咲き始めて、賑やかになってきた。
   まず、ベルサイユの薔薇が、深紅の花を開くと、一気に華やかになる。
   四季咲きのHTなのだが、私にとっては、一度枯らしているので、結構難しいばらの花なので、綺麗に咲いてくれると嬉しい。
   
   

   一寸雰囲気が似ている深紅のばらは、ルージュ・ロワイヤル。
   
   

   ピンクの中輪で、匂うように美しいピンクのばらは、ハンスゲーネバイン。
   鉢花を移動中に倒して、一部枝を損傷して哀れな姿になったが、残った枝に綺麗な花を咲かせてくれた。
   年末に剪定すれば、回復しそうである。
   
   
   

   微妙な色彩の赤紫のばらが、あおい。
   京都の雅を思わせるややくすんだ感じの花が、房状に咲くのでブーケに似た雰囲気である。
   
   
   
   

   今咲いているイングリッシュローズは、アブラハム・ダービー。
   この花は、千葉で植え始めたので、もう10年ほどの古株だが、既に10本以上枯らせてしまっているイングリッシュローズで、残っている数少ないばらであり、毎年、元気に咲いてくれるのが嬉しい。
   オレンジ花のレディ・オブ・シャーロットも、まだ、返り咲いている。
   
   
   
   
   
   

   シャクヤクは、庭木の合間の空間に、植え付けてあるので、鬱蒼としたところから、茎をのばして咲いているので、一寸可哀そうだが、何もないところから、春先に芽を出して五月に咲くので、牡丹より冷遇されている。
   もうすぐ咲き始めるユリもそうだが、沢山庭木や草花を植えすぎて、夫々、草花などを間引かずに、そのまま咲かせ続けているので、季節の変化を味わえて、それは良いのだが、とにかく、混みこみが、問題でもある。
   シャクヤクの花の一部は、次のごとし。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   他に咲いているわが庭の花は、黄色いノカンゾウ。
   梅の木に這い上がっている湘南と言う名のクレマチス。
   アジサイが、咲き始めている。
   沢山咲いているのは、プランターのミニトマトの花で、結実しているので、早ければ6月下旬には収穫できるかも知れない。
   
   
   
   
   
   
   
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徳川美術館をはじめて訪れる

2017年05月29日 | 展覧会・展示会
   名古屋には何回も行っており、源氏物語絵巻などを見たくて、徳川美術館へは、足を運びながら、休館日であったり閉館時間であったりして、見学のチャンスがなかった。
   しかし、今回、やっと見る機会が出来て、多少時間に余裕もあったので、隣の庭園徳川園を散策することも出来た。
   それに、春季特別展「金と銀の国ジパング」の最終日でもあり、幸いであった。
   

   この特別展は、沢山の金銀の貨幣から、仏像や経典、金碧の障壁画、純金・純銀の器や装飾品、調度品、刀剣や甲冑等々、多岐にわたった金銀ゆかりの文化財が展示されていて、壮観であった。
   何と言っても、異彩を放っていたのは、3代将軍徳川家光の長女で、尾張藩主徳川光友の正室霊仙院千代姫所用の国宝や重要文化財に指定されている婚礼調度(初音の調度及び他の調度)の数々で、この美術館の所蔵ながら、一部は、これまで、他の展示で観てはいるが、これだけ、一挙に見る機会を得ると、その凄さに圧倒される。
   学生時代から、古社寺を巡っているが、当時の関心は、建物や庭園のほかは、仏像や障壁画など絵画が主体であったのだが、この頃は、今回の千代姫のような調度品をはじめ、金工、漆工、染織、陶磁などの工芸品、それに、刀剣・武具と言った凄い匠の技に感激しながら、鑑賞する機会が多くなった。
   特に、台北の故宮博物館で観た工芸品や彫刻の凄さには、正に、度胆を抜かれる思いであった。
   尤も、まだ、良く分からないことが多いのだが、あのような凄い工芸品をどうして作れるのかと思うだけで、感激してしまう。
   これも、幸いにも、欧米の目ぼしい博物館や美術館を巡り歩いて、随分素晴らしい工芸品を見続けてきたおかげの様な気がしている。
   
   常設展の名古屋城の二の丸御殿の数寄屋の広間や茶の湯や能舞台など、素晴らしい室内や関連装飾品などがディスプレィされていて、先日、名古屋城を見ているので、興味を持って面白く鑑賞させてもらった。
   第6展示室「王朝の華」は、源氏物語絵巻の部屋なのだが、残念ながら、国宝の複製が展示されていて、映像をビデオで流しているだけであった。
   二回くらい、この源氏物語絵巻の原本を、別の展示会で見ているのだが、やはり、複製と実物では、印象が全く違う。

   この日、清盛が厳島神社に奉納した国宝の平家納経は、妙法蓮華経如来壽量品第十六の原本が展示されていて、その素晴らしさに感動して、長い間眺めていた。
   インターネットで、そのコピーを借用すると次の通りだが、1巻の全体がディスプレィされていたので、絢爛豪華な装飾の美しさは出色で、清盛以下、重盛・頼盛・教盛など一族が筆書したと言うのであるから、その凄さにびっくりする。
   

   徳川園は、かなり広大な池泉回遊式の日本庭園で、今は、新緑の季節で緑一色だが、春の桜や秋の紅葉の頃には、美しいと思う。
   この池の錦鯉は、壮観で、広々とした池の雰囲気が、また、実に良い。
   池畔の観仙楼では、結婚式が催されていて、式を終えた3組くらいのカップルが、庭園のあっちこっちで写真を撮っていた。
   
   
   
   
   
(追記)口絵写真は、HPより借用。
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半世紀ぶりに名古屋城を訪れる

2017年05月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   急用ができて名古屋に行くことになり、寸暇を惜しんで、学生時代以降だから、半世紀ぶりに名古屋城を訪れた。
   学生の頃は、京都や奈良の古社寺を訪れる歴史散策に明け暮れていたので、日本の城も好きで、良く訪れたり、勉強もした。
   真っ先に訪れたのは、近くの大阪城や二条城で、その後、姫路城や彦根城、犬山城や熊本城、松山城や松本城、と言った調子で歩き始めて、北海道の五稜郭から、沖縄の首里城まで、結構、日本の城を巡って歩いた。
   その一つが、名古屋城であった。
   
   

   残念ながら、大阪城も熊本城も名古屋城も、立派なお城の大天守はコンクリート製の再建で、昔の面影は、模した外観と石垣などの遺構くらいなので、やはり、姫路城を筆頭にオリジナルが残っている古城の素晴らしさは、何ものにも代え難いと思っている。

   名古屋城は、木造のオリジナルに近い再建の計画があると言うことだが、今回、立派に再建された本丸御殿を見ていて、やはり、そうあるべきだと感じている。
   戦争で焼失した元の写真がディスプレイされていたが、狩野派の襖絵で蘇った素晴らしい御殿の内部を見ていて、どれだけ凄かったのかが分かる。
   
   
   

   私が一番注目したのは、城内に展示されていた焼失前の名古屋城の写真である。
   昭和6年、昭和15年の航空写真だが、明治時代まで使用されていたと言うから、夫々、その写真の威容は、素晴らしい。
   しかし、この素晴らしい天守は、大地震など多くの震災や明治維新の廃城の危機にも耐えたのだが、1945年の空襲で焼失した。ウィキペディアによると、焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火したといわれている。と言う。
   焼ける天守の写真も展示されていて、実に痛々しいが、馬鹿な戦争をしてしまったことを悔いる以外に仕方がない。
   
   
   

   京都・奈良・鎌倉など、貴重な文化財の残る古都が米軍の空襲を免れたのは、その価値をアメリカが認めてくれたからだと、ウォーナー博士やスチムソンの恩人説が流布した一方、それに対して出鱈目だと論じられるなど両論が出ているが、いずれにしろ、名古屋城は米軍の爆撃で消失したが、京都・奈良・鎌倉の多くの日本の貴重な文化遺産が守り抜かれたことは事実であり、不幸中の幸いだと言うことであろう。
   
   先の熊本大地震で、直撃を受けた熊本城の石垣が辛うじて支えて櫓の崩壊を免れた姿を見て感激したのだが、美しくて見栄えのする天守や櫓と比べて、目立たず地味な石垣、岩組が如何に貴重かと言うことが良く分かって、この頃、しみじみと石垣の微妙な姿を眺めている。
   以前、ペルーのマチュピチュやクスコのインカの建物の石垣が、剃刀一枚入り込めない程、ピッタリと積み上げられているのを見て感激したのだが、日本の石垣は、大小多くの石が無造作に嵌め込まれて積まれているように見えるが、はるかに強いことを知って、その知恵と技にいたく感服している。
   天守の石垣を積んだ加藤清正の石曳きの像が、重文の東南隅櫓の対面に立っているが、城は、縄張や石組が大変重要なのであろう。
   
   
   

   今回、ホテルの窓から、遠く、名古屋城が遠望できた。
   コンパクトデジカメで、望遠が利かないのでピンボケだが、その写真を。
   
   
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クリエイティブ時代のトランプ経済策の効果は?

2017年05月27日 | 政治・経済・社会
   ロバート・ライシュが、「最後の資本主義」の冒頭で、米国など先進国の普通人が、経済的ストレスで悩んでいる原因は、「グローバル化と技術革新が多くの人々から競争力を奪ってしまったことが原因で、我々がやっていた仕事を、今や海外の低賃金労働者やコンピューター制御の機械が、もっと安価にこなしてしまうからだ。」と明言している。
   ICT革命によるコンピューターの効果を除けば、トランプが言っているように中国やメキシコにアメリカ人の仕事を奪われてしまったと言うのは、真実だと言うことになり、トランプの保護貿易主義的な内向きの経済政策が、分からないわけでもない。

   尤も、これが、一般的に説かれている現在の先進国の労働者の現状であり、異存はないと思うのだが、果たして、実際の問題は、こう単純に考えてよいのかと言うことである。

   これは、エドワード・ヒュームズの「移動の未来」を読んでいて、iPhoneのコスト分析で、アップルの収益が、58.8%だと言う記述に接して、これは、クリエイティブ時代のなせる業だと気づいたのである。
   加州アーバイン校の調査では、iPhoneのような最新の電子機器は、どこで作るにしても、全体の製造コストに占める人件費の割合は微々たるもので、中国の人件費はiPhoneの価格の僅か1.8%で、アメリカ国内を含む世界全体の人件費を合わせても5.3%で、材料費の21.9%と比べてもとるに足らない数字である。
   一切をアウトソーシングして製造して、クリエイティビティをフルに発揮して、企画デザインで無から有を生み出したアップルの様なファブレス先端企業が、現在、グローバルに展開している下請けなど末端の製造業を叩きに叩いて、異常に高い付加価値を叩きだして高利益を上げている。
   このビジネスモデルが、製造業を歪にスキューしているのではないかと言うことである。

   これは、ライシュも言っていることだが、第二次世界大戦後30年に及ぶ高度成長期には、経済は将来への希望を生み出すもので、年々国民の生活状況が向上して行き、豊かな中産階級が活力を得て好循環を生む幸せな時期であった。
   これは、日本にも言えることで、団塊の世代などは経験していることだと思うのだが、戦後復興効果はあったものの、日本経済はどんどん高度成長を続けて年々所得が上がって生活が向上し、1億総中流家庭と言われる幸せな時期が続いて、Japan as No.1の高見まで上り詰めた。
   ところが、今日、経済成長から見放されて、先の経済情勢は不透明で見通しが利かず、どんどん、経済格差が拡大して、貧富の差が激しくなって、富裕者は益々豊かになり、貧困率の悪化で貧困者は困窮の極に達している。

   何がそうさせたのか。
   資本主義そのものが、富が富者や強者に集中して行く体制システムに変質してしまったからである。
   経済構造そのものが大きく変革して、富と権力が、ICT革命に乗った革新的な先端ICT企業に、そして、金融イノベーションによって金融機関に集中するなどに加えて、
   「大企業の重役や彼らを取り巻く弁護士やロビイスト、金融業者やそこに群がる政治家、百万長者、億万長者たちなど、「自由市場」を声高に擁護する者たちは、何年もかけて自分たちを利するようせっせと政治を動かし市場を再構築し、そうしたことを問題にされないよう画策した」結果なのである。
   ウォール街を占拠せよの「We are the 99%.」が、その典型だが、現代資本主義はあまりにも、あの戦後の成功を続けた平安無事な(?)良き時代から隔たってしまっている。

   いずれにしろ、先のアップルのように時の潮流に乗ったクリエイティブ企業や強者に富が集中するようになってしまっている以上、トランプが、いくら、ラストベルトを救済すべく、保護主義政策をとって、重要性と比重が低下したレッドオーシャン企業を守ろうとしても、殆ど効果はなく、むしろ、競争力がなくなったコストの高い雇用を温存することとなって物価上昇を招いて国民生活にダメッジヲ与えるだけであろう。

   労働については、リチャード・フロリダが、「新クリエイティブ資本論」で説いているように、現代経済で、成長させる機能を持っているのは、クリエイティビティと、新たな社会階層「クリエイティブ・クラス」の台頭だと説いている。
   クリエイティブ・クラスは、科学、テクノロジー、メディア、カルチャーで働く人々のほかに、従来の知識労働者、専門職労働者などから構成され、現在、アメリカの総労働人口の3分の1近くに達していると言う。
   簡単に言えば、アップルのようにクリエイティブな商品やサービスを生む企業が利益を叩きだすように、新しい価値を創造し付加価値を生むクリエイティブな労働者が、経済社会の発展を推進する即戦力であって、その働き如何がアメリカの経済力の源泉だと言うことである。

   したがって、トランプの「アメリカ ファースト」の雇用政策は、大半アメリカが競争力を失ってしまったレッドオーシャン企業の雇用であり、既に時代遅れであって、更に、アメリカの労働の質の低下とその温存だとしか言えないのではなかろうか。

   強者をさらに利する減税に加えて、経済格差縮小の逆を行くオバマケア廃止のみならず、アメリカの発展のために必須の文教や科学振興予算を叩き切ると言う、時代の潮流に逆行する正気の沙汰とも思えないトランプ政策は、アメリカファーストと言うよりも、アメリカキルとも言うべき暴挙であろう。
   ラッファーカーブが示す連邦所得税の減税が経済成長を促すと言う理論は、これまで、現実化した事実はないと言われており、今回のトランプ減税政策が、アメリカ経済を3%も上昇させるなどと言った前提など、弱体化の一途を辿るアメリカ経済にとっては、夢の夢であろう。

   話は、一寸脇道へ飛んでしまったが、要するに、私が言いたいのは、クリエイティブ・クラスしか、有効な付加価値を生まなくなった時代に、トランプは、アメリカの雇用を守るべく、時代遅れとなったラストベルトのレッドオーシャン企業の雇用を取り戻そうとしているが、このクリエイティブかつグローバル時代においては、要素価格平準化定理の作用によって、既にその効果は消滅しており、この政策の推進は、むしろ、アメリカ経済の国際競争力を削いで下方修正するだけに終わるのではないかと言うことである。
   むしろ、文教や科学テクノロジーなどに、どんどん、資金を注ぎ込んで、アメリカを、益々、最先端のクリエイティブ・クラス社会へ突進させることであろう。
   
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国立能楽堂・・・狂言「ふろしき」・能「綾鼓」

2017年05月26日 | 能・狂言
   この日は、国立能楽堂の5月主催公演の最終日で、「新作から古典-男心の内側へー」と言う興味深い演目であった。
   要するに、男と女の恋と言うか、微妙なLOVEの物語りである。
   尤も、狂言の方は、一寸した恋心の行き違いで夫婦喧嘩を回避するコミカル話だが、能の方は、なさぬ恋に陥った老庭掃きが狂い死にすると言う悲惨な物語で、狂言と能のコントラストが面白い。

   狂言の「ふろしき」は、落語の「風呂敷」を脚色した茂山千之丞の新作で、いわば、狂言のスタイルを借りた現代喜劇と言った趣の舞台で、徹頭徹尾笑わせる。
   独り者の若い男(童司)が、兄貴分の家に立ち寄り、日頃から憎からず思っている女房(千五郎)が酒を勧めて持成しているところへ、遅く帰って来る筈の亭主(あきら)がへべれけに酔って帰って来る。人一倍焼き餅焼きの亭主なので何をするか分からないのを恐れて、女房は若い男を押し入れに押し込む。ところが、亭主は、酔い潰れているのに更に酒を求めて押し入れの前にどっかと座って飲み始める。困った女房は、亭主が一目置く知人にとりなしを頼むこととし、頼まれた男(七五三)は、やって来て、酒飲みの嫉妬深い男の話を仕方噺で語りながら、亭主に持ってきた風呂敷を被せて、若い男を逃げさせる。

   結構通って居ながら、まだ、落語の風呂敷を聞いていないのだが、落語は、このあたりのオチで終わっているようだが、この狂言は、更に、女房が亭主に奥に寝間が敷いてあるのでそこで寝るように促すのだが寝込んでしまったので、これ幸いと頼まれた男が、女房を口説いて寝間へと誘うのだが、若い男ならまだしもと、振られてくたびれ儲けで幕となる。

   この女房、茂山千五郎家の若き当主千五郎が、コミカルに演じるのだが、相当、魅力的な色気のある女性のようで、男心をくすぐるところが面白いし、年甲斐もなく助平心を覗かせる七五三のニヤケぶりも秀逸である。
   いくら美人で素晴らしく魅力的な奥方でも、勿体ない話であるが、四六時中一緒に住んでいると、亭主にはその有難味が薄れてしまうのであろうが、世間の男には、一寸でもお近付きになりたい、アタックしたい、スミに置けない気になる存在と言うアイロニー。
   こういう笑劇は、笑いと諧謔、人間の心の底から笑いを湧き上げる狂言の独壇場で、見ていて、にやにやほろっとしながら楽しめる、毒にも薬にもならない軽妙さが実に良い。

   能「綾鼓」は、よく似た能「恋重荷」の方がポピュラーだが、次のようなストーリー。
   しがない庭掃き老人(シテ香川靖嗣)が、垣間見た女御(ツレ友枝真也)に恋をし、池の畔の桂の木に掛けた鼓を打って、その音が皇居に聞えたら女御が姿を見せると言われて、必死に鼓を打つが、綾を張った鼓なので鳴る筈がなく、騙されて恥をかいた老人は池に入水して死ぬ。臣下(ワキ森常好)が女御にその旨を伝えたので女御は鼓の傍まで行き狂い始めるのだが、そこへ、老人の怨霊(シテ香川靖嗣)が現れて、女御に鼓を打てと強要し打擲して苦しめて消えて行く。

   この能は、今回は、喜多流で、昭和27年に土岐善麿喜多実によって改定された新作能だと言う。
   今年の1月に、復曲能「綾鼓」シテ浅見真州を観ているのだが、私には、その違いなどは分からなかった。
   全く、救いようのない陰鬱な物語であるが、かなり、動きがストレートに表現されていたので、ストーリーを追うのは易しかったし、それなりに、興味深かった。

   一方的な老人の片思いであり、身分の違い、老若の違いなど、本来なら、あこがれだけで終わる恋心なのだろうと思うのだが、何故か、ふっと、無法松の一生を思い出した。
   チャタレー夫人の恋人のケースなど、世の中にはいろいろな恋があるのであろうが、総て、プラトンが言っていたように、神によって引き裂かれた人間が、自分の片割れベータ―ハーフを求めての希求と言うことであろうかと思うと、笑ってもおれない気がする。
   しかし、恋は異なもの味なもの、生きていて良かったと思う。
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「見えざる手」論は、A・スミスではなくB・マンデヴィル

2017年05月24日 | 政治・経済・社会
   アダム・スミスは、国富論において、
   市場経済では、「見えざる手」の導きによって、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分がなされて、社会全体の利益となる望ましい状況が達成されると書いたとして、「見えざる手」は、スミスがコインした理論だと言うのが通説である。
   しかし、先にブックレビューした「善と悪の経済学」で、 トーマス・セドラチェクは、この言葉は、アダム・スミスではなく、バーナード・マンデヴィル((Bernard de Mandeville、1670年11月20日 - 1733年1月21日 オランダ生まれのイギリスの精神科医で思想家、主著『蜂の寓話)が説いた理論だと言っている。

   スミスは、見えざる手と言う言葉は、著作の中で3回しか使用しておらず、一つは「国富論」で個人の利己心の追求を調整する装置として、もう一つは「道徳感情論」で社会的な再配分の装置として、そして、最後は「天文学」で、万能神の力としてである。
   「国富論」の肉屋やパン屋の主人が商売をするのは博愛心を発揮するからではなく利益を上げるためであって、「だが、それによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分が全く意図していなかった目的を達成する働きを促進することになる。」と言う箇所が、スミスの「見えざる手」論の根拠だが、別に、スミスが言ったとしても、間違いではなかろう。
   しかし、スミスはこの程度しか論じておらず、そもそも、この「見えざる手」の概念を最初に本格的に唱えたのは、マンデヴィルだと言うのがセドラチェクの言い分である。

   マンデヴィルの説くのは、明らかに利己心、利己主義の原理に依拠しているので、スミスとは視点が違っている。
   人間から悪徳を、具体的には利己心を取り除こうとすれば、繁栄は終わる。
   なぜなら、悪徳こそが、財(贅沢な衣装、食事、邸宅等々)、あるいは、サービス(警察、規則、弁護士等々)の有効需要を形成するからで、発達した社会は、こうしたニーズが経済的に満たされることによって成り立っている。と主張するのである。

   強欲は社会の進歩に必要な条件であり、強欲なくては進歩もない。
   強欲なしで、悪徳なしで、どこまで行けると思っているのか、社会は発展の初期段階で頓挫し国際競争にも勝てない。
   欲しいものとすでに持っているものとの間に差がある時には、需要が満たされるまで所有を増やすべきである。
   マンデヴィルの凄いところは、進歩を実現する唯一の道は、とにかく、需要を増すことだと言ったと言うのであるから、ケインズばりの近代経済理論を展開していたのである。

   とにかく、このセドラチェクの本は、面白くて楽しめる。
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トーマス・セドラチェク著「善と悪の経済学」

2017年05月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   トーマス・セドラチェクのこの本「善と悪の経済学 ギルガメッシュ叙事詩からウォール街占拠の経済的意味の探求Economics of Good and Evil: The Quest for Economic Meaning from Gilgamesh to Wall Street 」 は、壮大な人類の経済および経済史の歴史の物語である。
   セドラチェクの問題意識は、ギルガメッシュから説き起こして、
   どんな経済学でも、結局のところは善悪を扱っている。現代の主流派経済学は、この善悪の判断のみならず、一切の価値判断や主観的意見あるいは信仰を何としてでも避けようと躍起になっている。経済学、さらに科学全般は、善悪と袂を分かち、実証主義や価値中立性を目指すことを望んでいるが、科学を含め、人間のあらゆる活動には倫理がつきまとい、最早、善悪に無知でいることはできない。経済学の根本的な部分は、苦悩、非効率、無知、社会的不平等などは悪とされ、取り除くべきだとされ、どんな科学においても、逃れたいと言う願い、この規範的判断に基づいている。歴史の大半を通じて、倫理と経済学は、緊密に関連付けられ、切り離して考えることはまずなかった。「善は報われるのか」と言う基本的な問いを提示して、経済学の「善悪軸」を探求して、現代の主流派経済学を考察する。と言うことである。

   本書を通じて、セドラチェクは、経済学の精神あるいは魂を探してきたが、今や、道具が生命を獲得し道具に支配される、人間に仕えるべきものが生命を持ち、独自の論理を持って立ち向かってくる。それを恐れて、経済学者は、経済学から意味や倫理や規範性を抜き取り、経済学から、魂を抜き取ってしまった。不当にも意味を剥ぎ取られてしまった今日の支配的な「成長資本主義」から脱皮しなければならない。と説く。

   今直面しているのは、資本主義の危機ではなく、成長資本主義(数千年の西洋文明の発展を見れば、こう名付けるしかない)の危機である。
   つねに成長するのが当然だとする見方に慣れていて、成長が万事を解決してくれると信じ切ってきたが、最早、経済は成長しなくなった。
   我々は、長期にわたるゼロ成長に備えるべきで、景気刺激策に頼らない自立的な回復が復活したら、できるだけ早く、次の危機が襲ってくる前に、既存の公的債務を減らすことが至上命令となる。

    セドラチェクは、経済成長については認めているが、最早、経済成長が望めなくなったので、成長を目指すことを前提にした経済成長経済学を排すべしと言っているのである。
   旧約聖書の時代より欲望の歴史は始まっており、人間はどれほど持っていてもなお多くを求めて消費に囚われ、快楽主義的プログラム(供給増)を選び、禁欲主義的プログラム(需要減)を退け続けてきた。
   ギルガメッシュ以来、これまで判明した世界のどの文明の歴史においても、現代以上に豊かだった時代はない。したがって、もう物質的な快適さはよしとし、物質的繁栄が齎す幸福を躍起になって求めるのは止めなければならない。
   なぜなら、成長が止まった経済で、物質的目標を追求する経済政策は、必ず借金へと突き進む。常に借金を背負っていたら、経済危機によって被る痛手は一段と深刻になる。次の危機が来る前に借金を返さず、過去の教訓から学ばずに自己満足に浸っていると、無防備で次の危機を迎えることになり壊滅的な打撃を受ける。
   現代の経済学は、新しい考えの一部を捨てて、古い考え、すなわち、恒久的な不満足を断ち切り、人為的に作り出された社会的経済的な不足を排除し、既に持っているものへの充足と感謝を取り戻すべきである。と言うのである。

   もう一つ、現代経済学に対するセドラチェクの重要な指摘は、
   経済学は、経済学者が認めている以上に、規範的な要素を多く含んでいて、他の学問、例えば哲学、神学、人類学、歴史学、文化史、心理学、社会学等々と深い結びつきがあり、多くの接点があることで、経済学と言う大きな器には、価値中立的で倫理的判断を避け、実証的で記述志向であり、数学的モデルに依拠する還元主義的・分析的アプローチと言った主流派経済学よりも、もっともっと多くのものが詰まっている。と言う見解である。

   経済学は数学的理解よりももっともっと幅の広い魅力的な物語だと、経済と経済学の魂を求めて、スミスの見えざる手の導きやケインズのアニマルスピリットなど、興味深いトピックスを交え、善と悪を検証しながら、数千年の世界経済史を展開するスケールの大きさは流石で面白い。

   セドラチェクの展開する議論については、ほぼ、現在の欧米日の先進国の経済の現状を説いているので、殆ど異存はない。
   しかし、経済成長に関する見解には、これまで、このブログでも書き続けてきたが、本当に、経済成長が止まったのか、あるいは、別な経済成長の形があるのではないかとか、多少、疑問を感じてはいるが、これについては稿を改めたい。

   英文ウィキペディアによると、この本は、中欧最古の母校カレル大学Charles University in Pragueに、学位論文として提出したのだが、科学的価値に疑問として拒否されたものの改訂版だと言うから面白い。
   セドラチェクは、数学傾斜傾向の数理経済学を徹底的に批判しているので、カレル大学の主流もそうであったのであろう、哲学的宗教的で叙述的なスケールの大きなセドラチェク経済学が、科学的一点張りでないところに価値があるにも拘わらず、理解されなかったのかも知れないと思う。

   セドラチェクは、学生時代にハヴェル大統領の経済アドバイザーとなった元東欧の共産主義国家チェコの経済学者ではあるが、幼少年期には、5年フィンランド、4年デンマークに在住して、インターナショナルスクールで学んでおり、ベルリンの壁崩壊後に、青少年期を送っており、スカラシップを得てイェール大学で学んでいるので、東西両陣営の経済を知っており、その意味でも、貴重な経済学書である。
   私は、ベルリンの壁崩壊直後とその少し後、2回プラハを訪れているが、世界一美しい都だと思っている。
   モルダウ河畔の小高い丘に建つプラハ城を仰ぐ絵のように美しい風景を思い出しながら、この本を読ませてもらった。
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国立劇場・・・五月文楽:豊竹呂太夫襲名披露「菅原伝授手習鑑」

2017年05月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりの華やいだ満員御礼の文楽:豊竹呂太夫襲名披露公演である。
   襲名披露狂言は、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」である。
   その前の「寺入りの段」は、義太夫を呂勢太夫と三味線を清治、「寺子屋の段」は、前を呂太夫と清介、切を咲太夫と燕三。
   3年前の住大夫の引退披露狂言が、この「菅原伝授手習鑑」の「桜丸切腹の段」で、大阪の文楽劇場で観たのだが、その時と同様に今回も簑助の桜丸で、浄瑠璃を弟子の文字久太夫と三味線藤蔵で演じられて、当時を彷彿とさせ、口上を経て、呂勢太夫と清治の素晴らしい「寺入りの段」の後、この呂太夫の襲名披露狂言に続く重要な後半部分の簡略版「菅原伝授手習鑑」は、非常に充実した格調の高い舞台で感動的であった。
   
   この「寺子屋の段」のメインテーマは、
   「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」、
   松王丸が、我が子小太郎を菅秀才の身替りに立てて、その本心を武部源蔵に明かす時に、引いた丞相の詠んだ歌で、
   「菅丞相には我が性根を見込み給ひ、何とて松のつれなかろうぞとの御歌を、松はつれないつれないと、世上の口にかかる悔しさ、推量あれ源蔵殿。倅がなくばいつまでも人でなしと言われんに、持つべきものは子なるぞや。」
   「松だけが、つれない筈がない」と認めてくれ、烏帽子親である丞相の御恩に報いたい気持ちは、敵方藤原時平に仕えても、決して忘れていない、心底丞相に忠義者であって薄情ではない証として、最愛の息子小太郎を犠牲にして、丞相の子菅秀才の命を守り抜くことで、身をもって実証した松王丸の断腸の悲痛。
   これが、この舞台の眼目であり、身替り、もどりなど義太夫浄瑠璃の常套手段が使われているが、やはり、息を飲むシーンは、松王丸が、首実検で、菅秀才の首だと小太郎の偽首を見る場面であろう。
   歌舞伎でも、色々な型バリエーションがあるが、松王丸が桶に手をかけようとすると、とっさに源蔵(和生)が遮り、緊張が走り、丁々発止の緊張が舞台に漲り、松王丸の苦渋と安ど綯い交ぜの表情が悲しい。
   この日の主役呂太夫の情緒連綿たる浄瑠璃と清介の三味線の名調子が、観客の肺腑を抉る。

   それに、何と言っても感動を呼ぶのは、幕切れの死んだ小太郎の野辺の送りの「いろは送り」の流麗で哀調を帯びた浄瑠璃が哀切極まりない。
   舞台中央で、美しい白装束で慟哭をこらえて踊るように舞う勘十郎の女房千代は、サンサーンスの瀕死の白鳥を思わせる優雅さと悲痛。
   躍り出た玉男の松王丸との流れるように優雅な相舞の絵の様なシーン。
   千代はエビぞりの後ろ振りで哀惜の情を表し、松王丸は棒立ちになって中空を仰いで左手で顔を覆って慨嘆・・・感動的な咲太夫と燕三の浄瑠璃に乗って、悲しくも美しい幕切れが涙を誘う。
   すごい舞台であった。
   
   
   
   
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落穂ひろいは永遠の指標であろう

2017年05月20日 | 政治・経済・社会
   少し日本経済も上向き傾向だと報じられている。
   失われた10年、あるいは、失われた四半世紀と言われて久しく、日本のGDPが、500兆円を境にして、一向に上昇せずに、エズラ・ヴォーゲルが、Japan as No.1を書いたのは1979年であるから、もう、昔々の話で、夢の世界である。

   さて、何故、こんな話になったのか。
   積読であった大著のトーマス・セドラチェクの「善と悪の経済学」を読んでいて、第2章 「旧約聖書」の社会の幸福と言う箇所で、落穂ひろいの話が出ていて、迂闊にも知らず、非常に興味を持ったからである。
   このブログでも、We are the 99%.運動など、経済格差の拡大が、非常に深刻な問題として今日の資本主義、民主主義を毒していると言うことについて書いてきたが、古くから、弱者救済への教えがあったと言うことを感じて、感銘を受けたのである。

   この口絵に借用したフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた「落穂ひろい」の絵は有名で、私もパリのオルセー美術館で何度か見ており、印象に残っているが、この絵そのものが、この旧約聖書の「レビ記(Leviticus)」記されている、貧しい寡婦や貧農などのために、落穂を残さなければならないとの戒律に想を得たと言うことである。
   この絵を見た時に、解説書か何かで見た記憶も微かにあるのだが、忘れてしまっていた。

   宗教的なことは分からないので、詳細は避けるが、貧困層のために広く富を残すと言う社会政策と結び付けられた巧みな経済規制だと思うのだが、このような慈善は、善意の表れではなく、むしろ責任と見做されて、寡婦とか孤児と言った弱者だけではなく、移民も社会的保護の対象になったと言う。

   もう一つ、セドラチェクが言及しているのは、キリスト教の章で、私有財産制について、例外規定を設けていて、「貧困の際には、すべてのものは共有財産となる」として、現世の財産は本来的に共有されると言う考え方があって、「飢えた人は満たされるまで他人のぶどうを食べてよい」と、これは、前述の落穂ひろいに関する定めと同じで、社会的弱者を守るための掟だと説いている。

   何千年も経た今日、世界中には、経済格差が益々拡大して、移民排斥が渦巻き、環境破壊が勢いを増し、正に、宇宙船地球号が危機に瀕している。
   それに、中流社会だと言われて貧富の格差が比較的軽微であったわが日本社会が、経済の歪が進行して、先進国中でも、経済格差が拡大して、貧困率が上昇して悪化の一途を辿っている。
   最近、世情において、殆どこの弱者救済対策など経済社会のセイフティネットの構築議論が、俎上に上らなくなったが、益々、状態は悪化している筈であり、日本の政治が迷走を続けているが、非常に憂うべき状態だと思っている。
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團菊祭五月大歌舞伎・・・「昼の部」

2017年05月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回、観たかったのは、まず、新皿屋舗月雨暈の「魚屋宗五郎」。
   新皿屋舗月雨暈と言った雰囲気の殆どない独立した世話物の舞台で、庶民の典型的な代表のような魚屋宗五郎の泣き笑いの生き様を、人間国宝の菊五郎が至芸を見せるのであるから、何回観ても感動する。
   それに、この舞台には、菊五郎の孫、すなわち、寺嶋しのぶの長男寺嶋眞秀が、酒屋丁稚与吉として初舞台を踏み、可愛くて器用な素晴らしい芸を見せてくれたのである。

   この舞台については、あまりにもポピュラーなのだが、
   ”屋敷勤めの妹が無実の罪を着せられて殺されたと知った宗五郎は、堪らずに禁酒の誓いを破って、酒乱と化して磯部屋敷に乗り込むと言う話である。
    普段は分別のある宗五郎だが、次第に酔って行き、恨み辛み憤りが朦朧とし始めて、磯部(松緑)憎しだけが昇華して、われを忘れて酒乱状態になって行く。
    召使おなぎ(梅枝)が持参してきた酒を、湯呑茶碗に注がれたのを口をつけて一気に飲み干し、飲むうちに湯呑茶碗では満足できずに片口から直接飲み始め、おはま(時蔵)や三吉(権十郎)の止めるのを振り切って、角樽を鷲掴みにして飲み干して酒乱に変身。目が座って、人が変わったように暴れ出して、おはまや三吉を蹴飛ばし突き飛ばし、壁をぶち破って、角樽を振り回しながら、磯部の屋敷へ突進して行く。
   酒乱と化した宗五郎は、磯部邸の門先で、散々に悪態を突き家老の浦戸(左團次)に悔しい胸の内をぶちまけて寝込んでしまう。
   目が覚めたのは屋敷の庭先、そこへ磯部主計之助が現れ、短慮からお蔦を殺めたことを深く詫び、弔意の金も与え、典蔵の悪事も暴かれ、めでたしめでたし。”

   去年、国立劇場で、芝翫の魚屋宗五郎と梅枝のおはまで観ており、幸四郎の魚屋宗五郎でも観ているのだが、菊五郎の舞台が一番多くて、今回同様に、時蔵のおはまと團蔵の父太兵衛と左團次の浦戸十左衛門が定番のように印象に残っている。
   玉三郎のおはまもそうだったが、格調高く風格のある芸で観せる時蔵が、「文七元結」や、この舞台で、菊五郎と魅せる庶民の女将の実に滋味深い味のある芝居は特筆ものである。

   短気で一寸問題のお殿様磯部公は、今回は、松緑であったが、染五郎であったり錦之助であったり梅玉であったり、颯爽とした二枚目が登場して、それぞれの風格を見せてくれた。
   この新皿屋舗月雨暈の舞台だが、この魚屋宗五郎の前の舞台などが上演されて、殺された妹のお蔦が登場してお家乗っ取り騒動の物語が展開されるなど面白いのだが、私は、この魚屋宗五郎の世話物の舞台だけで、完結していると思っている。

   今回は坂東彦三郎家の襲名披露公演であるので、昼の部では、「梶原平三誉石切」が、メイン舞台であろう。
   襲名した彦三郎の祖父十七世市村羽左衛門の殆ど晩年の舞台あたりから歌舞伎鑑賞を始めたので、襲名した楽善の渋い舞台を観続けてきた感じだが、
   今回の「梶原平三誉石切」は、彦三郎の梶原平三、父楽善の大庭三郎、弟亀蔵の猪俣五郎の親子二代が、重要な役を演じた正に襲名披露狂言に相応しい素晴らしい舞台であった。

   これまで、何度か、この「梶原平三誉石切」を観ているが、吉右衛門や幸四郎の梶原平三で、吉右衛門型だったようで、今回は、彦三郎は、当然、羽左衛門型で演じると言う。
   いい加減にしか観ていないのか、その違いは良く分からないのだが、これまでは、大御所の成熟した舞台を観ていたので、彦三郎の若さと活力の漲った清新な梶原平三像は、正にフレッシュで、強烈な印象を与えた。
   朗々と響き渡る綺麗な台詞回しやハツラツとした流れるような演技や流麗な見得の数々、多少ぎこちなさの残る芸ながら、感動的な舞台であり、父弟そして二人のおじのバックアップも素晴らしかった。

   今回、菊之助が颯爽とした奴菊平で、松緑がコミカルで愉快な剣菱呑助で登場して、華を添えていて面白い。
   それに、團蔵の父太兵衛と市川右近の梢が、良い味を出していて楽しませてくれた。

   義経千本桜の「吉野山」は、海老蔵の佐藤忠信と菊之助の静御前の観せて魅せる絵の様な美しい舞踊劇。
   それに、コミカルな男女蔵の逸見藤太が、華を添える。

   いずれにしろ、流石に團菊祭で、密度の濃い舞台であった。
   
   
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クライド・プレストウィッツ著「2050 近未来シミュレーション日本復活」

2017年05月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、”Japan Restored: How Japan Can Reinvent Itself and Why This Is Important for America and the World”
   上智大学や慶応大学でも学びウォートンを出て、自動車や半導体などの経済摩擦時に日米交渉等対外貿易交渉にあたるなど国際経済に精通した現在経済戦略所長であるClyde Prestowitzの日本経済論。
   抜本的な再生計画を実現して、世界に冠たる経済大国に復活した2050年の日本の姿を展望して、その道程へのシミュレーションを綴った興味深い本である。
   ”復活した日本 どのようにして日本は蘇り、その再生が如何にアメリカや世界にとって重要なのか”と言う問題を提起した経済学書で、ある意味では、日本人以上に日本を知った知日派の提言であり、現在の世界のシステムなどのベストプラクティスの導入なども目論んだ再生論であり、単なる絵空事ではなく、参考にもなることもあって、面白い。

   日本は、かって、明治維新と第二次世界大戦の二度の改革を経験してきた。
   これら過去二度の改革は、大きな危機に見舞われたのが切っ掛けとなったのだが、日本は、今まさに、アベノミクスが失敗すれば経済が崩壊するかもしれない短期的な重要問題のみならず、米軍の撤退など予断を許さない国際情勢の激変など、色々な危機が国家の非常事態を招きかねない状態にある。
   これに対処するために、日本政府は、社会の様々な分野の知名人を糾合して「特命日本再生委員会」を立ち上げ、三度目の国家改革を行って、2050年に日本復活を実現した。
   と言うシナリオである。
   この本が書かれた2015年時点から、2050年に向かってのシミュレーションなので、2017年の現在読むと、現実と仮想が混在していて、事実関係に混乱を来すのだが、我々日本人とは、違った発想が随所に現れて困惑することもある。
   しかし、著者が描きあげている2050年の日本復活像と言うかそのイメージが、非常に興味深い。

   このシミュレーションで、まず、意表を突くのは、ソニーがサムソン電子の傘下に入って「サムソン—ソニー」になるとか、三菱重工がボーイングを買収すると言った産業編成である。
   著者が言うように、日産がルノーの傘下に入り、パナソニックが日本史上最大の損出を出し、日立は数百の事業から撤退し10万人近い人員削減で会社を守り、エルピーダやルネサスが倒産寸前まで追い込まれ、超巨大なトヨタでさえシェアの低下に頭を抱えて・・・、かっての日本株式会社がこれであるから、何があっても可笑しくないと言うことであろうか。
   東電が原発事故で危機に陥り、シャープは台湾の軍門に下り、東芝の惨憺たる苦境、電通の違法行為・・・コーポレートガバナンスの欠陥か経営者の無能なのか、弱り目に祟り目で、日本企業が迷走して危機的な状況が続く。

   いずれにしろ、詳細は避けるが、著者の日本経済に対する知見や分析、評論はかなり的を得ていて、イノベーション立国、エネルギー独立国、日本株式会社から「ミッテルシュタンド」へ、「インサイダー」社会の終焉、等々の章での記述には、殆ど異存はない。
   さらに、女性が日本を救う、とか、バイリンガル国家「日本」と言う指摘などは、当然であろう。

   他に、信憑性はともかく、次のような仮説も提示していて面白い。
   ✓2017年、中国による尖閣占領危機
   ✓米軍が日本から完全撤退
   ✓沖縄で独立運動が勃発する 等々

   この本のサブタイトルにもあるように、この本の重要な指摘は、
   ”結び―――アメリカと世界にとって日本が重要である理由”である。
   まず、世界経済に占める、日本の経済規模や経済的貢献度も評価すべきだが、「グローバル・サプライチェーン」における、今日の世界経済を支える最も基本的なコンセプトやプロセスである「ジャスト・イン・タイム」や「カイゼン」が如何に偉大か。
   日本の「侘び・寂び」の美意識から日本美の数々、無駄を排した簡潔な様式や作法、歌舞伎など伝統芸術、本音と建前の概念等々。

   もっと重要なことは、日本が衰退し続ければ、アジア太平洋地域は勿論、世界全体が非常に不安定になる。
   経済大国で、民主的で、大きな軍事力を持つ日本、第二次世界大戦後独自の平和外交を推進し、重要な近隣諸国やオーストラリアやインドと言った国とも相互安全保障体制を結ぼうとしている日本は、アメリカにとってかけがえのない大きな利益になる。
   アメリカの地政学的な負担を大きく軽減するとともに、世界の民主主義勢力を強化し、世界の経済成長にも貢献してくれる。
   日本復活は、全世界の、そして、特に、アメリカの、極めて大きな利害に関わっている。
   と言うことである。

   このあたり、ワシントンポストも論評しており、アメリカでは、かなり評価されているようである。
   "Clyde Prestowitz's new book is one of the more thought-provoking forays into Asian-Pacific geopolitics to have been published in recent years — at least as noteworthy for its messenger as for its message." —The Washington Post
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クレジットカードのフィッシング詐欺

2017年05月15日 | 政治・経済・社会
   今朝、メールを開けたら、
   三菱東京UFJ銀行(メールアドレス)【重要:必ずお読みください】と言うメールが入っていた。
   開けると次のような内容であった。

   MUFGカードWEBサービスご登録確認
いつも MUFGカードWEBサービスをご利用いただき、ありがとうございます。
この度、MUFGカードWEBサービスに対し、第三者によるアクセスを確認いたしました。
万全を期すため、本日、お客様のご登録IDを以下のとおり暫定的に変更させていただきました。
お客様にはご迷惑、ご心配をお掛けし、誠に申し訳ございません。
何卒ご理解いただきたくお願い申しあげます。
http://www.(以下略)
上記MUFGカードWEBサービスIDは弊社にて自動採番しているものですので、
弊社は、インターネット上の不正行為の防止・抑制の観点からサイトとしての信頼性・正当性を高めるため、
大変お手数ではございますが、下記URLからログインいただき、
任意のIDへの再変更をお願いいたします。
なお、新たなID?パスワードは、セキュリティの観点より「10桁以上」のご登録を強くおすすめいたします。
http://www.(以下略)
*ID変更の際はこれまでご利用いただいておりましたIDのご利用はお控えいただきますようお願い申しあげます。
*他のサイトでも同じIDをご利用の場合には、念のため異なるIDへの変更をおすすめいたします。
-----------------------------------------------------------------------
本件に関するお問い合わせにつきましては、MUFGカード係まで
お電話いただきますようお願い申しあげます。
お問い合わせ・ご照会
<三菱東京UFJ銀行 BizSTATION>
受付時間 9:00〜19:00(土日・祝日・銀行休業日を除きます)

   さらに、次のように書いてあった。
   ご協力お願いします:2017年5月15日月曜日までに開始してください。2017年5月15日が期限です。
   宛先には、私のメール以外に、よく似たメールアドレスが列挙されていた。

   冒頭のbiglobeの発送メールアドレス(三菱より削除されたので表示が消えた)やこれらをよく見れば、フィッシング詐欺のメールであることは良く分かるのだが、私は、JALカードを持っているので、良くも考えずに、大変だと思って、記述のURLをクリックした。
   セキュリティはマイクロトレンドを使っているので、すぐに、警告表示が現れたので、フィッシング詐欺メールであることが分かった。

   すぐに、三菱UFJニコスに電話を入れ詳細を伝えたら、15分後に回答があって、三菱からそのようなメールを発信したことはないので、メールを削除してくれと言われた。
   安全のため、カード番号を変更しようとか、暗証番号やメールアドレスを変更するようにと言われたのだが、とにかく、あっちこっちに使っているデータなので、変更すれば、たちまち困ってしまう。
   フィッシングされたわけではないので、当分、このままで様子を見たいと言った。

   しかし、問題は、JALカード、すなわち、三菱UFJのカードのメールアドレスが、何者かに漏洩していることは確かで、それ故に、このようなフィッシング詐欺メールが届いたので、どの程度個人情報が漏洩しているのか不安だが、その対策だけは頼んでおいた。

   マイクロトレンドの警告がなければ、このフィッシングに掛かっていたであろう自分の不注意に愕然としたのだが、よく考えてみれば、長い人生、これに似たようなバカな経験は何度もあったような気がして、反省しきりである。
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今日の一日・・・国立能楽堂、神田祭の神輿、国立演芸場

2017年05月13日 | 今日の日記
   昼頃には、かなり、激しい雨が降り、少し寒い日であった。
   朝、青山の病院に立ち寄って、午後、開演の国立能楽堂の「普及公演」に出かけた。
   普及公演なので、冒頭に、天野文雄氏の能楽案内の話があり、その後、狂言・大蔵流「呼声」と能・観世流「清経」が上演された。
   風邪をひいており、薬の所為もあって、冴えない観劇であった。
   

   その後、夜6時からの国立演芸場での「国立名人会」まで、時間があったので、いつものように、神田神保町の書店街に行った。   
   古書店で、書棚を見ていたら、調子のよいお囃子の音が聞こえてきた。
   外に出てみたら、笛や鐘など鳴り物入りの屋根付きの車が先導して、お神輿が見えた。
   猿楽町の神輿である。
   
   

   この日は、神田祭の神幸祭の日で、神輿が、”江戸・東京の下町を巡行し、祭礼絵巻を繰り広げる神田祭のメイン神事”を行うと言うことである。
   私が見たのは、猿楽町と神田一丁目の神輿である。
   猿楽町の神輿は、靖国通りを行ったので、そのまま見過ごしたが、神田の神輿は、すずらん通りをねって三省堂裏で、拍子木を打って小休止するところまで見ていた。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   その後、靖国通りの駿河台下あたりで、神輿が合流して、大変な賑わいであったが、時間の関係で、遠望しただけで、北参道に向かった。
   

   この日の「国立名人会」は、「小朝が愛する人々 2」と言うタイトルであったが、まだ、小朝の高座を聞いたことがなかったので、聞いてみたかったのである。
   落語は、ぴっかりの「動物園」、正蔵の「鼓ヶ滝」は二度目、木久蔵の「看板のピン」は、これまでに聞いているので、それなりに、話術の差があって面白かった。
   マツモトクラブは、相手の言葉や自分の心象をナレーションで語る一人芝居で、ウィットやギャグが利いて面白い。
   尼神インターは、吉本の上方漫才で、パンチの利いた大阪の女の子の話で、故郷感覚。

   小朝は、新作であろうか、「お見舞い」。
  先輩の噺家の病気見舞いに病院に通う男の述懐で、その度毎に色々話し込むのだが、患者には感謝されていなかったことが、患者の書き残した日記で分かり、金輪際見舞いには行かないと言う話。
   弟子が、先輩の見舞いに行くと言うので、これで、何かを買ってお見舞いにしろとお金を渡すのだが、持って行ったのは、「沢尻エリカのヘアーヌード本」。
   師匠が、病人に持って行ったのが、「五月みどりと小柳ルミ子と西川峰子のヌードの本」で失敗したと言う話を逆手に取った強烈なオチである。
   高座にだけ照明を当てた舞台で、病院での会話では、更に照明を落として語り、日記を読むときには、バックのナレーションにあわせて表情を変えるなど、芸の細かい舞台であった。
   
   
   
  
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マーティン・ファクラー著「世界が認めた「普通でない国」日本」

2017年05月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   本書の帯に、「憲法9条は「ジャパニーズドリーム」、天皇は「日本の良心」だ」と大書されているように、変な外人(?)の日本への提言書である。
   ブルームバーグ、AP、WSJの日本駐在員、その後、NYTの東京支局長を務めた敏腕ジャーナリストの興味深い日本論だが、ファクラーの考え方には突っ込まずに、本書における印象記を記してみたいと思う。
 
   ファクラーが、日本が普通でない国だと言うのは、憲法第9条を護り抜いて、1945年終戦以降、一度も戦争をしてこなかった大国であり、ODAなど平和外交を展開して相手国の経済援助を促すなど、日本の貢献とその存在を世界の国が認めていると言うことで、この平和日本を日本の世界の中のアイデンティティとして維持して普通でない国を目指すべきだと提言しているのである。
   日本人は、先の戦争についても、十分に総括せず、近隣諸国との歴史的認識においても収束していない現状だが、世界が大きく変わりつつ、日本も転換期を迎えていることさえ十分に認識しておらず、現下の様な世界情勢の中で日本がどうあるべきかと言う国民的議論が全く足りていないので、今こそ、日本人が挙って、真剣に、日本が如何にあるべきか、国民的な議論を起こして考察すべきである、と言う。
   日本製品のガラパゴス化を逆手に取って、多くの先進国と全く違う道を歩いてきたガラパゴス・日本が、貴重な存在として脚光を浴びてきたので、他国と違う、オンリーワン、脱・普通の国こそ、日本の進むべき道である、と説いている。

   この本で、2章に亘って、日本の経済や経営やイノベーションなどについて議論を展開しているのだが、東大経済学修士なので、多少辛口の論評ながら、殆ど違和感なく納得できる。
   イノベーションや起業に対して、「日本版シリコンバレーを作れ」は、止めた方が良いと言うのが面白い。
   日本の強みは、シリコンバレーのように突然何か大きなアイデアをバーンと世に出すアメリカ的な短期的爆発的な想像力(創造力)ではなく、職人あるいは達人がこだわって時間をかけて、すごくいいものを世に出すと言う長期的で地味な想像力(創造力)であるからである、と言うのである。
   この問題は、政治経済社会システムなど、国のかたちを変えない限り難しい論点だと思っている。

   素晴らしい日本文化と言う章での文化談義については、私自身よりも現在の雑日本文化論については、詳しくて斬新なので、興味深く読んだ。
   今や、IT技術はシリコンバレーで、スマホはアップルが圧倒的で、日本のイメージは、ハイテク技術でも家電製品でもなく、デザインと食べ物だと言って、世界で活躍する日本の建築家、美術家、音楽家などから説き起こし、江戸時代以前の文化を蔵から取り出し始めた日本を論じていて興味深い。
   食については、ラーメン好きの著者故か、値段によって味が天地程違う欧米と比べて、どこで食べてもほどほどに美味しい日本の強みはB級グルメだと言って、日本人シェフが世界で認められる時代となり、日本食のイメージは、一挙に、フレンチやイタリアン並になったと言う。

   この本で、結構、迫力があるのは、「劣化する日本の政治家」と言う章である。
   前述の、今こそ日本のあるべき姿を国民的議論にすべし、と言う観点からすれば、今の国会や東京都議会に関する報道を見ていれば、如何に、箸にも棒にも掛からないお粗末極まりない議論に終始して空転しているかを考えれば、ファクナーに言われなくても分かっている。
   それに引き換え、象徴天皇を、高く評価しているのが興味深い。

   もう一つ、平和日本を支えてきた船のバラストの役割を果たしているのは、戦争を経験してきた老人たちであり、どんどん消えていくので、今後どの方向へ行くのか分からないと言う論点も面白い。
   「絶対戦争をしてはならない」と言う哲学と価値観の喪失とでも言うのであろうか。

   また、日本の民主主義は、ヨーロッパのように市民が犠牲を払って勝ち取ったものではないので、民主主義の基本的な価値観が、国民には浸透していない。とも言う。
   万機公論に決すべしとしながらも、徹底的な国民的議論を完遂せずに政治や国家運営を行っていると言うのがファクラーの見解であろうか。

   しかし、真の民主主義国である筈のアメリカの現下の政治の異常さ迷走ぶりは、どう考えればよいのか。
   一宿一飯の恩義があるので、アメリカを批判したくないが、今回の異常なトランプ現象が巻き起こす激烈な反民主主義的な嵐を生むアメリカの民主主義の土壌が、果たして、健全と言えるのかどうか分からないのである。
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