熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

訪日外国人の増加、観光立国へ

2014年12月30日 | 政治・経済・社会
   訪日外国人が、年間、1千万人を突破したと思ったら、JTBは、2015年には1500万人に達すると言う。
   今日の新聞報道では、”訪日外国人の消費、初の2兆円突破 “爆発消費”の中国人が牽引”といった記事まで出て、外人観光客の増加が、日本経済に大きなインパクトを与え始めている。
   東京オリンピック開催を目指して、政府も地方公共団体も積極的で、外人観光客の誘致活動に熱心であり、経済活性化の一助にと、期待が膨らんでいる。

   どちらかと言うと、移民は勿論のこと、外国人受け入れについては消極的であった日本としては、大きな変わりようだが、東京の銀座を歩いていて、特に、百貨店やユニクロなどの基幹店舗に入ると、外国人の買い物客が多い。
   店そのものも外人客の受け入れに、積極的になり始めたようだが、2兆円と言えば、GDPのほぼ0.4%で、かなりの比重を占めており、経済成長が、2%くらいの経済には、非常に高い貢献度である。
   
   尤も、産経の報道では、
   ”訪日外国人による買い物は国内総生産(GDP)の6割を占める個人消費には該当せず、輸出扱いとなるため統計上には表れにくい。
   ただ、外国人の消費が増えることで企業業績や生産なども押し上げることになり、日本経済を底上げする存在になりつつある。”と言う。
   現実にも、銀座の高級店舗などでも、外国観光客特需と言うべきか、特に、中国人観光客の購買効果は大きく、業績の底上げ要因になっているのではないかと思われる。

   中国人は知らないが、外国観光客の多くは、英文の観光ガイドとして素晴らしい評価の高いフランスオリジンのミシュランの「Michelin Green Guide Japan」や、同じく、英国オリジンのロンリープラネットの「Lonely Planet Country Guide Discover Japan (Lonely Planet Discover Japan) 」、「 Lonely Planet Japan」、それに、シティガイドの「Lonely Planet Tokyo」や「Lonely Planet Kyoto」を持って、日本を歩いている。
   祖谷渓の記述まであるので、外人も訪れるのである。
   私も、ヨーロッパで生活していた頃は、ミシュランのグリーン本のカントリー・ガイドとレッド本のホテル・レストラン・ガイドと地図を頼りに、ヨーロッパ中を歩き回ったのだが、非常に信用できる高度な旅行ガイドで、非常に有意義で助かった。

   私自身、随分、外国も日本も、あっちこっち歩いたのだが、相対的に、言い過ぎかも知れないが、日本のガイドブックは、質がかなり低くて、ミシュランやロンリープラネットの足元にも及ばないのではないかと思っている。
   したがって、日本政府が、本当に外人観光客を積極的に誘致したければ、官民一体となって、英語版、出来れば、外人観光客の地元の原語の、本当の日本を語った立派なガイドブックを作成すべきだと思っている。

   詳細は避けるが、私自身、1泊以上した国は、40以上になるので、ある程度自信を持って語れると思うのだが、色々な分野を考えても、日本ほど、外国人を喜ばせ魅惑できる要素を総体的に持った国は、世界広しとしても、比肩する国はないと思っている。
   日本人の、外国でのプレゼンスが、相対的に低いことが災いしていると思うのだが、やはり、沈黙は金と言うお国柄の所為か、宣伝広報が下手なのである。

   工業立国で勇名を馳せた日本だが、観光立国との両輪で、国家百年の計を練り直しても良いのではないかと思っている。
   オリンピック効果、オリンピック景気に便乗して、観光立国を目指そうと言うのなら少しさびしいが、大きな車が、やっと、動き出したと言う感じはしている。
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ミハイロフスキー劇場管弦楽団~ベートーヴェン:「運命」&「第九}

2014年12月29日 | クラシック音楽・オペラ
   横浜みなとみらいホールで開かれたミハイロフスキー劇場管弦楽団のベートーヴェンの演奏会に出かけた。
   年末に、日本では、ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱付き」が、恒例として演奏されるのだが、黒柳徹子さんの父上が、コンサートマスターの時に、楽団員の年越しの餅の助けにと始めたと聞いている。
   私の在欧時にも、ドイツなどでも演奏されていたので、もはや、年末の「第九」は、世界標準になったのであろう。

   久しぶりに、この「第九」を聞こうと思って、都響か、このロシアのオーケストラにするか考えたのだが、サンクトペテルブルグを訪れたことでもあり、マリインスキーと並ぶオペラ・バレエ劇場であるし、何しろ、歌劇場の「第九」には、ソリストが登場するので、願ってもない機会であったので、この演奏会を選んだ。
   ウィーン国立歌劇場は、ウィーン・フィルとしても登場する両刀使いなので別格として、ピットに入る管弦楽団は少なく、また、劇場の楽団が、単独でコンサートを開くことも少ないのだが、このミハイロフスキーは、両方でも活躍しているらしい。
   「第九」は、何よりも、最後の楽章の「合唱」が聞きどころでもあるし、このベートーヴェンをオペラハウスの劇団で、是非聴いてみたいと思っていた。

   
   
   この記事と写真は、ミハイロフスキー劇場のホームページの抜粋だが、12月28日から1月18日までのジャパン・ツアーを報じており、この横浜みなとみらいホールの演奏会が、初日なのである。
   その所為でもなかろうが、聞きなれたベートーヴェンの「交響曲第5番運命」の最初のサウンドから、どこか違和感があり荒れている感じがした。
   尤も、演奏が進むにつれて、法華の太鼓ではないが、どんどん、調子が上がって行き、正に、ベートーヴェン。第九の華麗で福与かな流れるような美音が、合唱で頂点に上り詰めて圧倒的な迫力で、観衆を感動に導いて行く。

   この楽団は、流石に、歌劇場のオーケストラであるから、限りなく美しく流麗に歌っていて感動的ながら、劇場の音楽監督であり首席指揮者のミハイル・タタルニコフの畳み掛けるようなダイナミックで迫力のあるタクト捌きで、正味、1時間少しの快進撃。
   昔、ミュンシュの59分から、朝比奈隆の82分まで、「第九」の演奏時間は、まちまちだと聞いたことがあるが、タタルニコフの場合には、オーケストラを実に美しく歌わせ、緩急自在と言うべきか、歌手や合唱団のドラマチックな歌声と呼応して、心を揺さぶり続けて心地よい。

   
   4人のソリストが実に素晴らしい。
   ソプラノのマリア・リトケと、テノールのフェドール・アタスケヴィッチは、ミハイロフスキーのソリスト、バスのユーリィ・ヴァラソフは、マリインスキーのソリスト、メゾ・ソプラノのオレーシャ・ペトロワは、サンクトペテルブルグ音楽院劇場のソリストで、錚々たるロシア歌手。
   特に、ロシアのバスの凄さは、これまでにも、何度か経験しており、「合唱」冒頭のバスの第一声から、ヴァラソフの素晴らしい歌声に感激。
   
   テノールのアタスケヴィッチは、実に力強いパンチの利いた歌声で、黄金のトランペットと言われたデル・モナコやパバロッティや、素晴らしく抒情的で感情豊かなドミンゴやホセ・カレーラスとも違った、正に、ロシアのテノールと言うべきか。

   ソプラノのリトケの澄み切った張りのある歌声が、心地よく、やわらかで温かさを感じさせるメゾ・ソプラノのペトロワ。
   1階中央少し後方の席から、ロシア人歌手の歌声を、双眼鏡を構えながら、ジックリと鑑賞させて貰った。
   素晴らしい歌劇場の管弦楽団で、ゆかりの深いソリストたちが、オペラさながらに歌う「第九」の素晴らしさを実感できて幸せであった。

   合唱団は、辻志朗指揮の「志おん混声合唱団」。
   始めて聞く合唱団ではあったが、素晴らしい圧倒的な合唱で感動している。
   なお、オーケストラにも、弦楽5部各パートに、3~4人の日本人奏者が、アシストしていた。

   初めて、実演に接して聴いた「第九」は、大阪のフェスティバル・ホールでのカラヤン指揮のベルリン・フィル。
   フィラデルフィア管、コンセルトヘヴォー管、ロンドン響、それに、セント・ポール寺院でクルト・マズアの「第九」、ロイヤル・アルバート・ホールでアシュケナージの「第九」。
   N響、新日本フィル、岩城メモリアル・オーケストラ等々、殆ど半世紀に近い音楽行脚だから、色々なところで、随分、「第九」や「運命」を聴いて来たと思うのだが、その都度、新たに感動し続けて来たのだから、素晴らしい経験であった。

   帰途、みなとみらいのショットを、3点。
   
   
   
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野村進著「千年企業の大逆転」

2014年12月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   風雪に耐えて生き抜いてきた日本の老舗企業の波乱に満ちた歴史を、ドキュメンタリー・タッチで語り、その秘密を垣間見せる興味深い本である。
   著者も言っているように、実際には、金剛組のような千年の歴史を経た企業ではなく、百年ないし二百年程度の老舗の話なのだが、何故、命脈を保ちながら、今日があるのか、その変遷と推移が面白い。

   ここに扱われているのは、オンリーワンと言わないまでも、その分野では、トップ企業とも言うべきイノベイティブな特色のある企業だが、どちらかと言えば、同族的で非上場の中小企業であり、日本には、かなり多く存在するケースの代表例である。
   良くも悪くも、このような企業は、創業者の係属が継承する同族企業である場合が多く、
   前に、IMDの研究を基にD.K.ルヴィネ氏とJ.L.ウォード教授が著した「ファミリービジネス 永続の戦略 FAMILY BUSINESS KEY ISSUES」と「強国論」の著者D.S.ランデス教授の「ダイナスティ 企業の繁栄と衰亡の命運を分けるものとは DYNASTIES Fortunes and Misfortunes of the World Great Family Busunesses」を読んで、ブックレビューしたり、同族経営について書いて来たのだが、
   この本では、そのあたりの掘り下げより、メインとなるビジネス・モデル、コア・コンピタンスの推移に注力していて、その意味では、イノベーションの追求によるブルー・オーシャン戦略の成功が見えて来て面白い。

   ランデスは、銀行と自動車と鉱業に焦点を当てて論述し、ロスチャイルドやロックフェラー、フォードやトヨタ等の企業王国の興亡の歴史など、エポックメイキングな、巨大企業を論述しており、
   実際にも、世界企業の過半がファミリー企業であるし、大企業においても「フォーチュン500」の3分の1は、ファミリーの経営か創業者の家族が経営に参加していると言われていて、歴史のある優良企業は、欧米では、ドイツ、スイス、新興国でも、インドにも多数存在する。

   著者は、歴史と伝統のある千年企業(百年企業)は、日本にだけに存在する特色のように述べているが、ここで語られているような企業は、言わば、中小企業であって、ある時期には、日本のあっちこっちにある歴史の古い菓子店や旅館や飲食店や土産物店などと少しも変わらない状態であったであろうし、偶々、家業が変遷を遂げながら、現在、優良企業として存在していると言うケースなのではなかろうか。

   日本の家を継承して伝統を守っていくと言うのは、例えば、能や歌舞伎などの古典芸能や、あるいは、陶芸などの伝統工芸の世界でも、日本は突出していて、商店の場合でも、ものづくりの世界でも、実業でも同じ傾向を維持してきたと言うことであり、それ程、日本の歴史においては、特異なケースではないように思う。
   大切なことは、我々が、今、存在するのは、先祖からの命の輪が切れなかったのと同じように、途中で事業の輪が切れずに継続し続けたと言うことであろう。

   ところで、前述したように、私が興味を持ったのは、どのように時代の変遷と経済社会の荒波に抗して、事業を継続しながら生き抜いて来たのか、その企業の生き様である。
   例えば、この本の第三章に語られている新田ゼラチン(株)のケースだが、工業用の電動ベルトの製造から始めて、余った皮を有効利用するために、ニカワの生産を始めた。
   ニカワの主成分であるゼラチンをどう使うか、牛の骨を主原料にして、フィルム材料を製造し活況を呈したが、デジタル化によるフィルム離れと、BSE騒動による原料難で暗礁に乗り上げて、食用と薬のカプセルに活路を見出した。
   写真用から、食用・医療品用へドラスチックな切り替えから、レコード・ジャケットからノーカーボン紙へ、そして、食材としてコンビニの商品の質の向上に貢献し、お化け素材のゼラチンの3本柱と言うべき、コラーゲンとゼラチンとゼラチン・ペプチドを活用して、健康食品やサプリメントの分野で「美容と健康に良い」製品を、次から次へと生み出して新境地を開いてヒットを飛ばしている。
   これこそ、正に、イノベーションの追求によるブルー・オーシャン市場の開拓であり、ものづくり企業の鏡であろう。

   ここで面白いと思ったのは、この新田ゼラチンも、第四章で語られている呑み口や瓶のBS王冠などの三笠産業(株)なども、自力と言うよりも、ユーザーなり得意先などからのリクエストで、徹底的に研究開発して新製品を生み出していると言うことであり、デマンド・プルのイノベーションだと言うことである。
   このことは、あの岡野工業の岡野社長も語っていたが、他では誰も出来ないようなものを頼まれて作るのだと言う、あの敢闘精神と企画開発力、それに、クリエイティブなイノベーション力の発露である。
   しかし、独自の企画製品を開発して、オンリーワン企業として、トップ企業に躍り出ている日本企業もあって、やはり、生きるか死ぬかは、価値ある創造にかかっていると言えよう。

   いずれにしろ、日本のベンチャーや経営に苦しむ中小企業が目指すべき方向を示してくれる興味深い本であると思う。
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十二月の文楽・・・玉女の舞台、玉男の襲名

2014年12月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場に文楽を見に行って、来春四月に、玉女が、二代目玉男を襲名し、披露公演を、4月の大阪で、5月に東京で行われることを知った。
   文吾が逝き、玉男が逝った後、骨太で豪快な立役の人形遣いが寂しくなっていたので、玉女の玉男襲名は、満を持しての快挙であろう。
   今日の日経夕刊でも、口絵写真の記事が掲載されていて、関西では、新春早々、翫雀が4代目鴈治郎襲名と慶事が続くことになる。

   今月、社会人のための文楽鑑賞教室で、「絵本太閤記」の「天ヶ崎の段」で、玉女の武智光秀を観た。
   勘十郎とのダブル・キャストであったのだが、初めてだったので玉女を観たくて、この舞台を選んだ。
   もう一つは、本舞台の方の「紙子仕立両面鑑」の万屋助右衛門で、上演されることが少ないようだが、渋い舞台であった。

   人間国宝の文雀と簑助は、既に、神憑りのような枯れきった至高の芸域に達した眩しいくらいの境地に入っているので、俗世間にどっぷりつかった人間世界の息吹を漂わせたダイナミックでドラマチックな人形を遣える玉女や勘十郎や和生などの次の世代、と言っても還暦を迎えたと言う、が、正に、脂の乗り切った旬の芸を披露してくれるのである。
   「師匠の人形の足遣いを10年、左遣いを15年させていただきました」と玉女が言っているのだが、大変な修行であり、特に、師匠が並外れた偉大な芸術家であれば、その艱難辛苦は、筆舌に尽くし難いのではないかと思う。

   玉男が、何かの本に書いていたと思うのだが、人形遣いが足らなかった時に、アルバイトに来た中学生の一人が、玉女だったと言うことのようだが、
   玉男自身、
   ”小学校卒では、会社勤めで出世でけへんので、何でもエエから手に職をつけた方がええと思って、「文楽て、なんや?」と言う少年が、誘われて「そんなら、いっぺん見に行くわ」と言って出かけて、最初に観た文楽で、一度にその気になった話。”をしているのだから、運命とは分からないものなのであろう。

   玉女は、10月の襲名披露会見で、「僕は不器用ですが、近松ものなどの立ち役で私なりに芸の幅を広げていきたい。80歳を過ぎても現役で色気があった師匠の芸を目指したい」と言っていたようだが、
   私は、玉男の人形を最初に見たのは、ロンドンでの「曽根崎心中」の徳兵衛であり、その後日本で見た「冥途の飛脚」の忠兵衛など近松門左衛門の舞台を観て、いたく感激したので、是非、玉女のがしんたれで頼りない、しかし、必死になって恋に生き抜いた大坂男の、しみじみとした生き様を観たいと思っている。
   晩年の玉男が、行こうか戻ろうか、三味線の名調子にのってステップを踏みながら、徳兵衛を遣っていた、あの懐かしい姿が、今でも、脳裏から離れないのである。
   来月、大阪で、玉女と勘十郎の「冥途の飛脚」があるが、どうするかと言ったところである。

   還暦を迎えたと言っても、玉男の境地まで行くとしても、まだ、20年近くもあり、その頃には、もっともっと、実際の寿命も芸術の寿命も、延びているであろうから、どれほど、新境地を開拓して芸域を広め、芸術の域をを深化させて行くか、楽しみではある。
   とにかく、若い頃から、立役が得意で、師匠に「早う(玉)女から(玉)男になれ」と促された。と言うのが面白い。
   まだ、襲名まで、1月の大阪と、2月の東京で、玉女最後の舞台が鑑賞できるのだが、楽しみにしたいと思っている。
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横浜能楽堂・・・能楽の燭光:能「蝉丸」

2014年12月25日 | 能・狂言
   私が能に興味を持ったのは、ほんの2年ほど前で、その時に、能に触れようとして読んだ本の中に、梅若玄祥の「まことの花」と「梅若六郎家の至芸」があって、能が大変な歴史を経て来たことを知って感激した。

   その時に、特に印象に残っているのは、明治の開幕と同時に、
   ”それまで幕府の式楽として篤く保護され、大名家のお抱えとなって武士に匹敵する地位にあった能楽師たちは、失職し、すべての流儀(座)が活動停止状態に追い込まれてしまうのです。
   幕府自体が存亡の危機に、能どころではなかったからだと思います。”と言う文章であった。
   能楽師たちは商売道具の面や装束を売り払ったり、転職して、煙草屋や薬屋や、爪楊枝を削る内職などをして、糊口をしのいでいたと言うのである。

   梅若家も、どうにか恰好がつくようになった明治への転換期に、二間に三間の粗末な舞台を建てて、稽古もでき、この舞台で、梅若実初世は、宝生九郎師や桜間伴馬師らとともに、能楽復興のために切磋琢磨したと言う。
   この時、観世宗家は、慶喜に付き添って静岡に下って、観世で、東京に止まったのは、梅若と銕之丞だけだった。

   ところが、宗家だけが有していた弟子への免状を初世が発行したために(許しを得たと言う)、この「免状問題」が尾を引いて、大正10年に観世流から除名される。
   関東大震災で、蔵だけ残して焼け出され、頼みの綱であった身内の銕之丞家と万三郎家が観世流に復帰してしまい、その上に、戦争で、再び家も舞台も焼かれてしまって、梅若家は苦難の連続であったと言う。

   能の存亡の危機を救った初世に、明治9年の天覧能で、楽屋入りを誘われた宝生九郎師が、天皇の「ぜひ舞うよう」との一声で、「熊坂」の半能(後半だけ)をつとめたのを、九郎師は、一生恩に着て、「生きています間、よくつとめ」てくれたと感謝していたらしい。

   さて、今回の横浜能楽堂の「明治八年 能楽の燭光」であるが、幕府の崩壊で前途を悲観して能楽から距離を置いていた宝生九郎師に、舞台復帰を勧め、明治8年に、梅若実のツレで、梅若舞台で舞ったのが、今回の「蝉丸」だったと言う。
   明治初年の能自体が危機的な状態にあったからこそ、宝生と観世の異流共演が実現出来たのであろう。
   能楽鑑賞初歩の私には、流派の違いそのものが良く分かっていないので、異流共演であるかどうかなど分かる筈もないのだが、貴重な機会だと思って、初めて、横浜能楽堂に出かけて行った。

   シテ/逆髪が宝生和英宗家、ツレ/蝉丸が人間国宝梅若玄祥、ワキ/清貫が殿田謙吉、アイ/博雅三位が人間国宝野村萬と言う錚々たる面々で、密度の高い90分の舞台であった。
   宝生宗家と梅若家当主が、140年を経て、流派を越えて、同じ役割で、その舞台を再現しようと言うのであった。

   醍醐天皇の御代、盲目の皇子・蝉丸は、君命で逢坂山に捨てられることとなり、付き添って来た廷臣の清貫(ワキ)は蝉丸に剃髪させて、蓑・笠・杖を与えると、断腸の思いで山を下る。その後、琵琶の弟子博雅の三位(間狂言)が庵を作って蝉丸を庵へ導く。その頃、皇女・逆髪(シテ)は狂乱が高じて京を彷徨い出て逢坂へとやって来る。琵琶の音色に誘われて、逆髪は弟・蝉丸と思わぬ再会を果たして、お互いの不運を嘆き悲しむのだが、やがては別れ行く運命で、逆髪は旅立ち、留まる蝉丸は、見えぬ目で後を追い、今生の別れに涙する。

   優雅な舞もなく、殆ど動きのない、実に悲しく、儚い物語である。
   しかし、この能は、「順」と「逆」も別のものではない一如観で、「会者定離」と言う世界観をテーマにしていて、陰惨な曲だと言うのは正確な把握ではないと、「能を読む」は説いている。
   「生者必滅会者定離」で、この世で出会った者には、必ず別れる時がくる運命にあること。この世や人生は無常であることのたとえの仏教語。のようで、天皇の二皇子の不幸がテーマではなくて、二人が会って別れると言うのが、本意だと言うことであろうか。
   それにしても、全編シテもツレもしおってばかりいる感じで、最初から最後まで救いのないような謡と舞が続いている。

   興味深かったのは、普通は、あまり重要ではない里人を演じているアイが、今回は、蝉丸から琵琶の伝授を受けた博雅の三位だと言うことで、蝉丸が逢坂山に捨てられたと聞いて京都からやって来て、蝉丸の世話をして、藁屋を設えて住まわせ、御用があればお呼び下さいと言って退場するのだが、人間国宝の野村萬が、実に丁寧に熱のこもった演技をしていて、感動的であった。

   宝生和英の蝉丸、梅若玄祥の逆髪、夫々、偉大な歴史を作った先祖の140年前のエポックメイキングな舞台を思いながらの熱演。
   一瞬にして消える、一期一会の能舞台の輝きを彷彿とさせる舞台であったのであろう。
   
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晩秋のロシア紀行(16)ロシア旅を振り返って

2014年12月24日 | 晩秋のロシア紀行
   7日のロシア旅であったが、機内泊や移動があったので、実質的なロシアでの観光時間は、正味4日と言うことで、サンクトペテルブルグとモスクワの2都市を、正に、駆け足で回り、あっという間に終わった。
   しかし、15人の小人数の団体旅行で、JALパックのベテラン・ツアーコンダクターが全行程同行し、有能なロシア人ガイドが、アテンドすると言った体制であったので、かなり、効率的で充実した旅が出来て、期待以上の勉強が出来たので、喜んでいる。

   まず、一番心配をしたのが、-4°C~-9°Cと言う厳寒の気候であった。
   オランダでは、かなり、寒い冬を過ごしており、-21°Cとなって、凍って開かない車のドアーのカギ穴に熱湯をかけたら瞬時に凍りついた経験もしているのだが、毎日、日本では経験のないような氷点下の寒さを、どう乗り切れるのかであった。

   結論から言うと、ロングのダウン・コートを買って持って行き、帽子を被れば、戸外はこれで十分であり、むしろ、美術館やレストランや劇場など室内では、日本での生活と殆ど変らないので、逆に、ヒートテックの下着が災いして、暑くて困るほどであった。
   全日、晴天に恵まれた所為もあるのだが、持って行った沢山のホカロンは、一度も使うことはなかった。
   ロシア人たちも、日本の東京で歩いているような普通の防寒具で街を歩いていて、-20°や-30°くらいになって、初めて、映画に出て来るような毛皮の防寒具になるようで、氷点下程度では寒い部類に入らず、今は、まだ、秋だと言っていた。

   もう一つは、治安の問題だったが、ツアーを離れて、自由行動を取ったのは、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場とモスクワのボリショイ劇場でのバレイやコンサート鑑賞に出かけたその前後だけだったので、何とも言えないが、長年の海外生活から得た感じでは、それ程、心配はいらないように思った。
   もっと危険だった頃のアメリカでも生活していたので、本人の注意次第だと思うのだが、とにかく、晩秋であり緯度が日本より北故に、朝夕長い間、外が暗いので、その間、自由がきかないと言う所にも問題があった。
   それに、英語が殆ど通じず、ロシア語が分からないので、いざと言う時には、対応が難しいので、短期間の旅では、注意が肝要かも知れない。
   また、現在なら、大変な経済危機で、物価の異常上昇や品不足などで国民生活にもかなり逼迫感や不安が広がっているようで、大変であろうと思う。

   さて、食事だが、朝は米系ホテルのバイキングで、世界共通であり、ロシア料理を食べたのは、団体行動をした昼と夜で、ボルシチやピロシキ、キエフ風カツレツ、シチーと言った典型的だと言うロシア料理を頂いたが、パックツアーの限界でもあり、ツーリスト・メニューとは言わないまでも、それ程、高級なレストランでの食事ではないので、何とも言えない。
   私は、これまで、ヨーロッパ各地を歩き回っていた時には、ミシュランの星付きのレストランを意識して廻っていたのだが、やはり、それなりの店で、それなりの地元料理を頂かないことには、その国の料理やエスニック料理については、大きなことは言えないと思っている。
   その典型は、イギリス料理で、不味いと誰もが云うのだが、まともなレストランに行って食べると、びっくりするほど美味しいことに気付く筈である。

     
   土産物だが、ルーブルが、年初から比べてかなり割安だったので、買い物にはよかったのかも知れないが、特に欲しいものもなく、孫に、ロシアの陶器製のチェスと、ムーミンのマトリョーシカなどを買ったくらいである。
   ロシア陶器も、ロマノフ王朝窯だと言うのだが、これまで買ってきたマイセンやヘレンド、アウガルテンなどから比べれば、それ程でもないので止めた。

   今度、もう一度、ロシアに行く機会があれば、やはり、マリインスキー劇場やボリショイ劇場で、じっくりとオペラを観、モスクワ芸術座などで、プーシキンやチェーホフなどのロシア演劇などを鑑賞したいと思っている。

   今度の最大の収穫は、ロシアを実際に訪れたことによって、ロシアへの関心なり考え方なりが少し変わって来たと言うことであろうか。
   ただ、大きな国であり人口が多いと言うだけで、BRIC'sをコインしたジム・オニールにのせられて、ブラジル、ロシア、インド、中国にアプローチしてきたが、突っ込めば突っ込むほど、その違いが見えてくる。
   夫々、奥が深いので、おいそれと理解など無理な話だが、日本人の常として、アメリカ経由でものを見ているので、ロシアに対する見方が、一番、スキューしているように感じている。

   何もロシアに限る話ではないが、ウクライナ問題。
   例えば、日本と国境を接している某国に、日本人が住民の半数以上を占めている自治区があって、その某国が、住民の意向とは違った政策を推進しようとしていて、それに承服できない日系住民が某国を離れて日本に帰属したいと願って行動を起こしているとした場合には、日本、そして、我々日本人は、どう対応するのか。
   ウクライナの場合には、ロシアには、政治的戦略的かつ意図的な思惑もあるであろうし、ソ連崩壊時に政策的に線引きされた国境なので、もっと、現実としては、熾烈な軋轢の渦巻きなどホットだとは思うが、そう言った視点も、時には、必要なのかも知れない。

   ロシアへの経済制裁だが、利害関係の少ないアメリカは、自国の国益を優先してイデオロギー主体で押し通せるが、ヨーロッパ諸国は苦慮しており、これを見れば分かるが、日本としても、独自のロシアへの対応があるのではないかと思っている。
   (完)

(追記)本ブログの左の欄のカテゴリーの中の「晩秋のロシア紀行」をクリックして頂くと、全16稿が、降順ですが、一覧表示されます。
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晩秋のロシア紀行(15)モスクワの街歩き

2014年12月23日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワでには、19日昼にサンクトペテルブルグから飛行機で入って、21日の午後に、空港から日本に発ったので、丸2日の滞在で、その内、半日は、郊外の黄金の環に出て行ったので、殆ど、観光する時間は、なかったと言えよう。
   19日、モスクワに着いた午後、モスクワ大学などをバス観光して、その後、地下鉄駅を、見学方々乗りついて、赤の広場へ出て時間を過ごして、近くのレストランで夕食を取った。
   翌20日は、朝、郊外の黄金の環の古都セルギエフ・パッサートに行き大聖堂などの観光と、マトリョーシカの工場で絵付け体験、
   その後、モスクワに取って返して、中心街に出てアルバート通りなどでショッピング。
   私は、ボリショイ劇場のガラ・コンサート鑑賞があったので、グループから離れて、単独行動であった。
   21日は、午前中は、クレムリンで過ごして、昼食を取ってから、空港へ向かった。

   ミシュランの緑本(英語版)の最新版が出ていないので、日本のガイド・ブックを使ったが、地球の歩き方とか、るるぶの「ロシア」程度しかないので、極めて情報は貧弱であった。
   しかし、赤の広場やクレムリン、それに、博物館や劇場などの情報くらいで、他に、モスクワ大学のある雀が岡や文学散歩程度で、後は、教会などの説明くらいなので、それ程、観光スポットとして魅力のある古都ではなさそうであり、JALパックのスケジュールで良かったのであろう。

   モスクワ大学は、あの巨大な逆三角形様の建物を遠望しただけだが、町中にある同じような形をした巨大なアパートが、スターリン時代の典型的な建物として残っている。
   良くも悪くも、戦中戦後を統べたスターリンは、今では、歴史から消え去ってしまっているのだが、ロシアは、上下、大ブレに揺れる運命を背負っているのであろうか。
   途中で、ノヴォテヴィッチ修道院を遠望した時に、公園を散策したのだが、冬季が長くて公園に彩りがないので、花壇の表面にペンキが塗ってあり、遠くからは花が咲いているように見えた。
   モスクワ市内の道路の路肩の斜面ににも、芝生様の装飾が施してあって、面白いと思った。
   
   
   
   
   

   ところで、マトリョーシカ工場だが、郊外の鄙びた寂しい集落が、工業団地のようになっているので、普通の田舎であり、それとは分からない。
   殆ど廃業したと思えるような工場に入って、職人の作業を見たり、白木のマトリョーシカの彩色を試みたが、子供の頃のように上手く筆が進まない。
   日本のこけしや入れ子細工から想を得たようだが、ぴったりと嵌め込む職人の技術に感心して見ていた。
   ところで、モスクワやサンクトペテルブルグの土産店に行けば、素晴らしくディスプレイされた沢山のマトリョーシカのオンパレードなのだが、実際の制作の現場は、貧しい(?)中小企業のようである。
   高級なマトリョーシカよりも、もっともっと美しく細密で繊細に絵が描かれたシュカトゥールカと言う小箱は、謂わば、高度な民芸芸術品で、高いものは、何十万円もするが素晴らしい。
   
   
   
   
   
   
   
   

   口絵写真は、クレムリンのすぐ傍で、モスクワ河畔に建つ白亜の教会・救世主キリスト大聖堂である。
   周りを散策しただけだが、紆余曲折があって、1990年代、ソ連崩壊後に、細部まで忠実な形で19世紀の大聖堂が再建されたのだと言う。
   流石に、宗教をアヘンだとして弾圧し続けたスターリンで、1931年に、ソヴィエト宮殿を建設するために爆破したのだが、跡地から地下水が噴出したので、ソ連時代には、巨大な温水プールであったと言う。
   再建されたのが、せめてもの幸運かも知れないが、元は1883年の完成と言うから、神田のニコライ堂と同じような歴史なので、随分、新しいのである。
   高台から見るモスクワ河畔の夜景は、旅情を誘う。
   
   
   
   
   
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国立演芸場・・・歌丸の「竹の水仙」

2014年12月22日 | 落語・講談等演芸
   年末の笑い納めに、国立演芸場の「国立名人会」に出かけて、歌丸の「竹の水仙」を聞いた。
   前に聞いた「ねずみ」と同じ、左甚五郎のしみじみとした人情噺である。
   大病で2か月も入院したと、大変だったこの1年を振り返りながら、いつも通りの名調子で、張りのある元気な高座を務め、満員御礼の観客を喜ばせた。
   

   修行のための自由気ままな江戸への旅の途中、無一文になった甚五郎が、神奈川の宿で、とある宿屋の二階に泊まるのだが、一銭も払わず飲み食い放題で、長逗留する。
   最初は、「宿賃は、催促なしで、去る時に支払う」という約束だったが、宿の食材も何もかも底をついたので、主人の大黒屋金兵衛が、妻に責められて、勘定取りに二階に上がる。
   「金はない」と言われて仰天した主人を尻目にし、甚五郎は、「支払いの算段をするので、よく切れるノコギリを持って宿の裏にある竹やぶについて来い」と言う。
   甚五郎は、しぶしぶ命じられて主人が切ったその竹で、部屋に籠って、水仙のつぼみの彫刻と、花立てを作りあげて、主人を呼んで、「これが売れたら、売り上げを宿賃として支払う」と言う。
   主人は、半信半疑で、甚五郎の指示どおりに、その花立てに水をたっぷり入れて、竹の水仙をさし、「売物」と書いた紙を貼って軒先の目立つ場所に一晩置く。
   朝日がさして光を受けると、竹で作ったつぼみが割れ、竹の水仙の花が見事に開き、香ばしい香りまで放つ。
   そこへ、肥後熊本の細川越中守の行列が通りかかり、越中守は、軒先の竹の水仙にいたく執心して、側用人大槻刑部に買い求めよと命じる。
   タカが竹の細工物なので、学のない宿の主人と側用人との頓珍漢な会話が交わされ、甚五郎の指値200両に腹を立てて買わずに帰った側用人を、越中守が、あの方を誰だと思うとこっぴどくしかり飛ばし、求めて来なければ切腹だと申し付ける。
   殴られた腹いせで「売り切れ」と隠して、主人が勝手に言った300両で買い取られる。
   気を良くした主人が、神奈川中の孟宗竹を全部買い占めるので、ここで、竹の水仙を作ってくれと頼むと、甚五郎の答えは、否で、
   「竹に花を咲かせれば、寿命が縮む」。 

   この話の前に、歌丸は、甚五郎の修業時代から、竹の水仙を献上して宮中よりひだり官の称号をうけた話や、三井家から運慶の戎像の対として大黒像の彫刻を依頼されて、その手付金30両で、江戸への旅に出たことなどを話すのだが、40分のしみじみとした味わい深い話は、瞬く間に、終わってしまう。
   話の最後に、歌丸は、甚五郎の願いだとして、宿の夫婦に語りかける。
   ”このような宿屋稼業をしていれば、どんな客が泊まるかしれない。身なりで決して人の良し悪しを決めてはなりませんぞ。”  

   この「竹の水仙」は、歌丸が得意としている噺のようだが、奇を衒った笑いやギャグなどがあるわけではなく、取り立てて面白おかしく語る噺ではないのだが、歌丸の滋味深い語り口と表情が、身分や境遇の違った人と人との触れ合いと会話を通して、ほのぼのとした温かさと優しさ、そして、おかし身が滲みだしてきて、笑いを誘い、実に楽しいのである。

   さて、この日の他の落語は、遊雀の「電話の遊び」、鶴光の「木津の勘助」、鶴昇の「味噌蔵」。
   夫々、流石に、名人会の噺家ばかりなので、面白い。
   

   日頃は、江戸落語を聞いているので、鶴光の上方落語は、非常に新鮮で、元関西人の私には、関西弁の懐かしい響きもあって、楽しませて貰った。
   この「木津勘助」の話は、講談や浪曲でも語られているようで、鶴光の得意中の得意噺とかで、立て板に水の名調子で、大坂のインフラ整備に尽力し、飢饉の時に米蔵をぶち壊して庶民を救って島流しにあったと言う男・木津勘助を語り続けた。
   木津勘助の話しだすが、今の政治家にも米蔵を破る気持ちが欲しいでんな……そうすれば一俵(一票)の重みが分かるやろ。と一言。

   演芸場では、開場35周年に寄せて「演芸資料展」を開いていた。
   歌丸の颯爽たる高座の写真があったので、複写したのを載せておきたい。
   
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晩秋のロシア紀行(14)モスクワ・シティ・プロジェクト

2014年12月21日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワの街を、観光バスで走っていると、丁度新宿のような、一群の近代的な高層ビル群が、時々、車窓から見え隠れする。
   実際には、この場所には行ってはいないが、ロシア経済なり、ロシアの今後について、大変重要な示唆を与えているように思えるので、後追いの情報知識を含めて考えてみたいと思う。
   この高層ビル群は、「モスクワ・シティ」と称されるモスクワ最大の近代的都市開発プロジェクトである。
   インターネットで得た現状の写真なり完成図は、次のとおりである。
   
   
   

   この開発プロジェクトは、クレムリンの西方の旧工業地帯であったモスクワ川北岸に計画されて実施され、進行中ながら現在中断されているのだが、サンクトペテルブルグでもモスクワでも、私が旅行中にバス等で走って見た限りでは、近代的な建物群が存在するのは、これ以外にはなかった。
   単発のかなり大規模の中高層のアパート建設は散見されたが、BRIC'sと騒がれ急成長を遂げていた筈のロシアの二大都市で、不思議にも、現在進行中、ないし、最近開発済みの近代的な建物群は殆ど見当たらないと言うことは、ロシアの近代化が、どこかで止まっているのではないかと言うことであろうか。

   取りあえず、ウイキペディアを引用すると、
   ”モスクワ・シティは、ロシア及び東欧において最初の大規模商業・業務・住宅・娯楽コンプレックスの建設が目標である。いわば「都市の中に都市を作る」ともいうべきこの計画は、1992年モスクワ市政府によって企画・立案された。
   開発地区の総面積は約1平方キロメートルで、計画から15年経った現在でも多くの工場やコンビナートが立ち並んでいるものの、ゆっくりとではあるが、多くの高層建築の林立する新市街へと変貌を遂げようとしている。”と言うことである。
   しかし、ロシアNOWによると、
   ”2008年の経済危機により、シティ建設に携わっていた建設会社は資金繰りが苦しくなり、建物が一時作業中断を余儀なくされたり、膨大な建設資金が行方不明になったりするケースも出てきた。
   118階建てで高さ612mの超高層ビルであり、完成すればヨーロッパでは最高、世界でもドバイのブルジュ・ドバイに次ぎ2番目に高いビルとなると鳴り物いりで喧伝されて着工された「ロシア・タワー」建設は、とりあえず2016年まで凍結されている。”のである。

   「モスクワを世界の金融センターの一つにする」ことを目指して計画されたモスクワ国際ビジネスセンターの象徴であった超高層ビル「ロシア・タワー」が頓挫し、これに次ぐ高さの「フェデレーション・タワー」を建設中の会社も怪しくなったと伝えられており、象徴を欠いた形のこのモスクワ・シティ開発プロジェクトが、どのように進行するのか、予断を許さない状態になっている。

   計画では、全体の完成は2020年を予定していると言うことだが、ロシア経済は金融危機と原油価格の急落で失速し、不動産バブルの崩壊に伴いオフィス需要が減少、投資先に資金の拠出を拒否されるなどして、資金繰りに行き詰まり、 建設工事を続行できなくなっている現状に加えて、
   今回、更に、石油価格の大幅下落と欧米のウクライナ制裁によってルーブルの大暴落によって、ロシア経済が最大の危機に突入してしまった以上、お先真っ暗と言う以外に言いようがなくなってしまった。
   プーチン大統領でさえ、今回の経済危機からの回復には2年はかかると国民に耐乏生活を乞わざるを得なかったと言う状態である。

   モスクワNOWは、「大株主はエリツィン・ファミリー」として、
   ”モスクワ市政府も参加する資産運用公開株式会社「シティ」が創設され、インフラの保障、「セントラル・コア」の建造、摩天楼の建設用地の販売を手掛けてきた。同社の株は、元大統領府長官ワレンチン・ユマシェフ氏が 49 ・ 58 %、その娘婿である「ロシア・アルミニウム(ルサル)」社社長オレグ・デリパスカ氏が 34 ・ 34 %保有している。”と述べている。
   前述の建設会社の経営悪化とどう言う関係にあるのかは不明だし、この「シティ」と言う組織が、どのような権能なり役割を持っているのかも分からないので、何とも言えないが、この中核となる会社が、政府主導ならともかく、民間組織(?)が、株の圧倒的部分を保有しているとすると、恐らく、資金繰り等財政面で、暗礁に乗り上げるのではないかと思う。
   政権上層部や利害関係者等の利権が絡んで、先のオリンピックの総コストが何倍にも膨れ上がったと言うお国柄であるから、先行きは不透明と言うべきであろうか。

   私が、疑問に思ったのは、このプロジェクトの推移と言うよりも、ロシアの国家としての発展なり近代化、経済成長が、疎かにされて来たのではないかと言うことである。
   前述したように、サンクトペテルブルグもモスクワも、あの近代的な高層ビルが林立して活況を呈している中国や東南アジア諸国の大都市と比べて、殆ど変らず、正に、世界遺産の様相を呈していると言う不思議である。

   急カーブで高騰する石油と天然ガスによって稼ぎ出した膨大な外貨を、無尽蔵だと思われるほど大盤振る舞いをしてバブル成長を謳歌し、また、BRIC'sと騒がれて世界の注目を集めて、一等国に上り詰めたと思った瞬間の世界的金融危機で急転直下。
   1998年のロシア危機では、殆ど国家経済崩壊の危機に直面しながらも、2005年にロンドンに行った時には、街に、ロシア人が溢れて、高級不動産が飛ぶように売れ、毎夜の如く超高級ホテルでは、ロシア関係の大宴会が催されていると言った状態で、飛ぶ鳥落とす勢いであったが、これもあれも、総て、石油と天然ガスのお蔭。

   イソップのアリとキリギリスの話や、仏教説話の「雪山の寒苦鳥」を思い出した。
   潤沢な天然資源の輸出によって国家が繁栄して製造業が成長発展せずに衰退して行くと言う「オランダ病」と言うべきか。
   いまだに、世界に冠たる先進的な工業力の萌芽さえ見えず、近代的な都市開発さえ殆ど行われおらず(?)、その虎の子の「モスクワ・シティ」さえ、財政危機で暗礁に乗り上げていると言う現状をどう見るのか。
   BRIC'sとは、一体何だったのか。
   これまでに、ロシア経済について、このブログで何度か触れたが、今現在、現実のロシア経済をよく理解しないままに、この文章を書いているので、少し、真剣に、ロシアの政治経済社会などを勉強しなければならないと思っている。

   (追記)この写真は、モスクワ大学のある丘から、プロジェクトを遠望したものだが、右方の赤っぽいロシア・タワーが、工事途中であることが分かる。
   
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サンクトペテルブルグ室内合奏団~アヴェ・マリア

2014年12月20日 | クラシック音楽・オペラ
   横浜のみなとみらいホールで、サンクトペテルブルグ室内合奏団の「クリスマス/アヴェ・マリア」コンサートが開催されたので出かけた。
   今までは東京ばかりで、初めて出かけたのだが、良いホールである。

   タイトルの如く、バッハ/グノーから始まって、カッチーニやシューベルトの「アヴェ・マリア」が三曲、前2曲は、ナタリア・マカロワ、最後は、マリーナ・トレグボヴィッチのミハイロフスキー劇場のソプラノ歌手の素晴らしい歌声で、観衆を魅了した。
   必ずしもクリスマス関係曲ばかりではないのだが、G線上のアリア、タイスの「瞑想曲」、ボロディンの「夜想曲」や「カヴェレリア・ルスティカーナ」の間奏曲など、お馴染みの美しいムードのあるロマンチックな名曲で鏤められた楽しいコンサートであった。

   コンサートマスターのイリア・ヨーフがヴァイオリンを奏しながら指揮者兼ソロで楽団をリードし、弦楽5部にハープを加えた17人のコジンマリした楽団だが、実に、美しい魅力的なサウンドを奏でて、2時間の珠玉のようなコンサートであった。
   何時もは、もう少し固いまともなクラシックの演奏会ばかり行っていて、このようなポピュラーな肩の凝らないコンサートには殆ど出かけたことはないのだが、リラックスして良い。
   それに、若い頃は、ウィーンだベルリンだ、マリア・カラスだカラヤンだ、パバロッティだと言って超一流スターばかり追っ駆けてコンサートに出かけていたが、この頃は、あまり、そんなことに拘らずに、どうせよく分かっていないのだから、楽しめれば良いと思ってコンサートに出かけることが多くなった。

   さて、シューベルトの「アヴェ・マリア」とモーツアルトの「ハレルヤ」で素晴らしい歌声を披露したトレボヴィッチにマカロワが加わって、アンコールで、日本語と英語で「きよしこの夜」を歌って、聴衆を喜ばせた。
   最後のアンコールが、サンサーンスの「白鳥」。
   チェロのソロに、ハープが優雅な伴奏で呼応する実に美しい感動的な演奏で、この二人の珠玉のようなサウンドが、先のアヴェ・マリアの間奏でも遺憾なく魅力を発揮していて、選曲のアレンジに、感服した。

   あのカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲は、よくアンコールでも聞くのだが、実際に、あの悲劇的なオペラで聞くと、感動が大分違って来る。
   METで、最初に聴いたのは、1975年1月で、サントッツアは、グレイス・バンブリーで、同時上演の「道化師」では、ネッダを、美人歌手で有名であったアンナ・モッフォが実に感情豊かに歌ったので、よく覚えている。
   私は、この組み合わせのオペラが好きなのだが、他にヨーロッパで一度くらいで、鑑賞する機会が殆どない。

   ところで、プログラムの前半の最後は、ヴィヴァルディ「四季」の「冬」であった。
   冒頭の漸進的なサウンドからして、聴きなれたイ・ムジチの明るくて透明な音色とは違って、力と迫力があって、流石に厳寒のサンクトペテルブルグである。
   あのゲーテでさえ、ブレンナー峠を越えた時に、イタリアの風光と気候に感激したのであるから、ロシアの奏者が奏する「四季」の音色が違って当然なのであろう。
   ヨーフのヴァイオリン・ソロが、美しく胸に響く。

   劇場の広いロビーから見た風景2ショット。
   
   

   
   
   
   
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外出先で財布をなくしたら?

2014年12月18日 | 生活随想・趣味
   外出先で財布をなくしたら、あるいは、財布を忘れて外出してしまって、大切なもが手元になくなったらどうするか?
   こんなことは、私自身、何度か経験していて、その度に困っている。

   今日、コンビニで、支払いを済ませた後で財布を、何時ものように背広の左の胸の内ポケットに入れたつもりで店を出ようとして、何の気なく、ポケットを押さえたら、財布がない。
   コンビニのキャッシャーから、ほんの数メートル歩いて出て、店の戸口で気付いて、後を引き返したので、ほんの10秒足らずの話なのだが、どこにもないし、キャッシャーに聞いても全く記憶にないと言う。
  コートを脱いで、背広のあっちこっちを押さえて探し、入れた筈のないバッグもひっくり返して探したが、全く出て来ない。
   なければ、たちまち困るので慌てた。

   横にいた若い店員が、一寸待ってくださいと言って、奥へ入った。
   私の相手をしてくれていた店員が、ビデオを確認しに行ったのだと言ったので、上を見ると、ビデオのレンズがキャッシャーのカウンターを向いていて四六時中写しているのだと言う。
   ああ、あのカメラねえ、と言って指をさした。
   暫くして、後ろから老人が、落ちていたと言って私の財布を持ってきてくれたので、調べてみると間違いなく、私の財布で、中身もそのままであった。
   私が通った通路ではないところに落ちていたと言うのだが、とにかく、病院の予約時間に間に合わなくなるので、全く恥ずかしかったが、醜態を晒して迷惑をかけてしまった人々に深くお礼とお詫びを申し上げて、急いで店を出た。
   コートの上から、背広の内ポケットに財布を滑り込ませたので、ポケットに入っておらず、服の間から擦り落ちたのであろうと思う。
   かなり、重さがあり落とせば分かりそうだが、迂闊にも、気付かなかった。
   私の不注意とミスで、迷惑と心配をかけて申し訳なく恥ずかしくて穴に入りたい思いだったが、
   とにかく、不幸中の幸いで助かったので、これ程、有難いことはなかった。
   逆回りしていた時計の針が、一気に、正常に戻って時を刻み始めた気持であった。

   この時、財布の中には、銀行のキャッシュカード(この時は1枚だけ)とクレジットカード3枚、健康保険書、大切な私文書などが入っていたので、財布がなければ、病院に行けなくなるし、それ以上に、大変困る。
   手元にある薄い定期入れには、自動車免許書と病院の診察券、スイカ・パスモと5000円札一枚が入っているのだが、これでは、鎌倉の家に帰るのがやっとである。
   銀行がすぐ近くにあったので、駆け込もうと思ったのだが、スマホもタブレットも持っていないので、クレジットカードの盗難届などの処理が、電話さえも記録していないし、大変である。
   とにかく、出て来たのだから、これらの事後処理を避け得たのだから、大変助かった。

   これまでに、こんなことは何度も経験しているのだが、記憶にあるのは、随分前に、ロンドンのオフイスにコソ泥が入って、財布を盗まれたこと、その後、日本で、イオンの中の菓子店で財布を落としたこと。
   ロンドンの場合には、1ヶ月くらい経ってから、他の階の便所の水タンクの中にあったとかで、管理人が届けてくれたが、財布は腐食していて、現金だけなくてカードなどはそのままであった。
   クレジットカードは、カード処理専門会社のセンティニアルと言う組織に総てデータを届けてあったので、電話一発で処理してくれたので、助かった。
   イオンでは、翌々日、駐車場に落ちていたと言って連絡があったが、これも現金だけなくなってカードはあったが、前日、銀行のキャッシュカードと5枚くらいのカード処理で四苦八苦した。

   
   何度か、外出時に財布を忘れて出てしまって、立ち往生したこともあって、財布がなくて困ったことが結構ある。
   困ることが分かっておりながら、クレジットカードを分散するとか、財布を二つ持つとか、いまだに対策を取っておらず、情けないとは思っている。
   いずれにしろ、現金は仕方がないにしても、銀行関係のカードやクレジットカード、健康保険書などは、悪用される心配があるし、とにかく、カードなどの盗難処理とその回復が大変なので、やはり、なくしたら一番困るのは、財布である。

   歳を取って、大分、注意散漫になっていることもあり、注意しないと、自分が困るだけではなく、人様に大変なご迷惑をかけることになるので、心して振舞うべきだと肝に銘じている。
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晩秋のロシア紀行(13)クレムリン

2014年12月17日 | 晩秋のロシア紀行
   クレムリンと言うと、何となく、強大な権力の象徴のような印象が強いが、プーチン大統領の公邸や大統領府などが存在するにも拘らず、一般に公開されていて、観光客の人気スポットの一つになっている。
   まず、クレムリンは、12世紀に基礎が築かれたほぼ三角形の堅固な赤茶色の2.2㎞の城壁に囲まれた区域で、赤の広場に隣接している。
   グーグル・アースとウィキペディアの写真を借用すると、次の通りの眺望である。
   
   

   高い城壁に囲まれているので、外周からは良く分からないのだが、赤の広場からやバスの車窓から垣間見た情景は、
   
   
   
   
   
   
   
   

   鳥瞰図の中央右側上方の三角形の建物(壁を隔ててレーニン廟に隣接)が、元元老院の建物でプーチン大統領の公邸、その右下の方形の建物が、大統領府である。
   大統領がいる時には旗が立っていると言う。
   左側中央の長方形の建物は、クレムリン大会宮殿で、共産党時代に建てられた党大会や国際会議が開かれた所だが、モダニズムの建物であるため、ここだけ世界遺産から外されている。
   あっちこっちに骨董の大砲がディスプレィされているのが興味深い。
   
   
   
   
   

   鳥瞰図底辺中央のオープンスペース聖堂広場に、教会群の建物が残っている。
   時々、セレモニーが行われるようだが、今は、博物館のようである。
   共産党政府にとっては、王制や教会などは、革命の敵であり、否定の標的であった筈なのに、そして、権力組織の心臓部に存在しながら、何故、これ程までも完璧に保存されて来たのか、散策しながら驚異に感じていた。
   
   
   
   

   時間の関係で、我々が入場したのは、ウスペンスキー大聖堂だけ。
   1479年の再建建物のようで、かってはロシア帝国の国教大聖堂で、ロシア皇帝の戴冠式やモスクワ総主教の葬儀が催されてきたと言う。
   イコンとフレスコ画で飾られた典型的なロシアの教会の雰囲気で、ロシア人は、これ程美しい世界はないと言うのだが、実際のミサなどが行われれば、そう見えるのであろうか。
   出入り口横から見える宮殿の建物の屋根から飛び出たネギ帽子が面白かった。
   
   
   
   

   鳥瞰図三角形の左下頂点の位置に、武器庫と称した博物館がある。
   こので小1時間ほど鑑賞に時間を費やしたのだが、写真撮影が許されなかったので記録はない。
   ロマノフ王朝の遺産と言うか宝物殿と言った位置づけの博物館で、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の王冠、宮廷衣装や宝飾品、ロマノフ家の馬車などが展示されているのだが、ガイドの説明では、ロマノフ王家が、外国から贈られた献上品やプレゼントや外国への発注品が大半のようで、MADE IN RUSSIAは少ない。
   やはり、相当遅くまで、先進ヨーロッパ諸国やトルコから後れを取っていたのである。
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晩秋のロシア紀行(12)黄金の環・セルギエフ・ポサード

2014年12月16日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワの北東に環状に連なる古都群があって、モスクワから70キロと最も近くて素晴らしい宗教都市が、セルギエフ・ポサードである。
   近づくと、16世紀に構築された城壁の向こうに、教会の丸屋根などが見えてくる。
   壁画の古風なゲートをくぐると、教会の建物が目に飛び込んで来る。
   
   
   

   街の中心にあるのは、トロイツェ・セルギエフ大修道院で、聖セルギエフが、1345年に修道院となる僧院を建てたのが始まりで、15~18世紀に建てられたと言う。
   メインは、1585年に建てられた4つの青いドームの中央に金色のネギ帽子の屋根を頂いたウスペンスキー大聖堂で、真っ白な壁面が光り輝いていて美しい。
   鐘楼や小さな教会堂が周りを取り囲んでいて、絵になっている。
   時々、300人いると言う聖職者が、そばを横切る。
   
   
   
   
   
   

   目を見晴らされるのは、ウスペンスキー大聖堂に入ってからで、堂内の装飾は、正に、豪華絢爛と言うか、17世紀の壁画で鏤められた堂内の雰囲気は他のロシアの教会と同じだが、ヨーロッパに良くある教会堂を、巨大な金色のイコノスタなど、もっともっと緻密に精巧に彫刻を施して金色に装飾して、天井壁画を豪華に描いた感じの、正に、煌びやかな宮殿のような教会堂である。
   モスクワのクレムリンの中にあるウスペンスキー大聖堂を模したと言うのだが、けばけばしい壁画で装飾されたそれよりも、遥かに豪華で素晴らしいと思った。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この教会堂は、博物館のようだが、トロイツキ―聖堂は現役の教会のようで、祝福を受けている信者や熱心に祈っている人々もいて、宗教はアヘンだとして弾圧していた共産党時代には、どのようにして信仰を保ってきたのか、考えさせられた。
   かっての日本のように廃仏毀釈や戦後の混乱期を潜り抜けて来て、寺院や文化財が、破壊されながらも、どうにかそれなりに維持されてきたが、ロシアでも激しい教会破壊があったようだが、タリバン同様、過激な宗教弾圧思想が、人類の偉大な文化遺産を破壊し続けてきた。
   
   
   

   面白かったのは、堂内の大広間の祭壇で、修復作業している人々の様子を見たことである。
   時間がなかったので、暫く見ていただけだが、絵画を外したり、装飾柱を削ったり、5~6人の男女が根気よく仕事をしていた。
   昔、バチカンのシステナ礼拝堂のミケランジェロの壁画や、ミラノのダ・ヴィンチの最後の晩餐の壁画の修復を、修復前と途中と完成後を見ていて、その素晴らしい仕事の重要さを実感しているので、非常に、興味深いひと時であった。
   
   
   
      

(追記)石油価格の大幅な下落で、ロシア ルーブルが、急激に下落している。
交換レートで行くと、最高時には、1ルーブル3.2円くらいだったが、今や、1.8円、ほぼ、半分の値打ちである。
私が旅した先月は、両替所で、1ルーブル3円くらいであったのが、今では、2円、正にバーゲン価格だが、果たして、ロシア経済はどう動くのであろうか。
   
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国立劇場:十二月歌舞伎~通し狂言「伊賀越道中双六」

2014年12月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の歌舞伎は、通し狂言「伊賀越道中双六」で、昨年の藤十郎の通し狂言でメインであった「沼津」を外して、唐木政右衛門(吉右衛門)と、和田志津馬(菊之助)たちの沢井又五郎(錦之助)仇討ストーリーを「岡崎」を中心に据えた通し狂言である。
   この国立劇場では、「岡崎」は、1970年に、2代目鴈治郎の政右衛門、13代目仁左衛門の山田幸兵衛、今の藤十郎のお谷で上演されているのだが、凄い舞台であったのだろうと思う。
   文楽でも、この「岡崎」は、21世紀には昨年と平成18年しか上演されておらず、2時間以上にも及ぶ充実した舞台で、これを鑑賞するだけでも、大変な感激である。

   昨年5月に、小劇場で、2部に亘って上演された文楽の通し狂言「伊賀越道中双六」は、両方を通した、もっと本格的な通し狂言で、満を持しての流石の舞台であった。
   こう言った素晴らしい狂言を、国立劇場のように、作出された本来のストーリ展開で楽しめてこそ、歌舞伎や文楽鑑賞の醍醐味だと思うのだが、日頃は、名場面ばかりを上演するみどり狂言が主体で、分かったのか分からないのか、良いこととは思えない。
   比較は適当ではないとは思うが、オペラやシェイクスピアを、分解して、サワリだけを上演しても、殆ど意味がないのに等しいと思っている。

   この「伊賀越道中双六」は、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件を題材にして脚色された近松 半二たちの作品で、仇討を契機に運命の悪戯に翻弄されて泣く親子兄妹夫婦の柵や断腸の悲痛を紡ぎ出して、実に感銘深い物語となっている。
   執筆当時の時代の制約故に、史実とは違って、時代を江戸から室町に移し、弟など目下の人間の仇討は認められなかったので、親の仇討ちに変えて物語が創られているので、人間関係に深みと幅が出来て、正に、面白い芝居になっている。

   浪人・唐木政右衛門は、和田行家の娘お谷(芝雀)と、親の許しを得ずに夫婦になったので義子と認められていないために、表だって、お谷の弟和田志津馬に、仇討の助太刀が出来ない。
   このために、身重のお谷を離縁して、七歳の妹おのちを正式な結婚の相手に選んで義理の息子となり、御前試合で無理に負けて主君から暇を賜って志津馬と仇討ち道中に発つ。
   この件は、第五の「唐木政右衛門屋敷の段」を見れば良く分かるのだが、今回の歌舞伎には省略されている。

   さて、大舞台の「岡崎」だが、前半、志津馬と山田幸兵衛(歌六)の娘お袖(米吉)とのホンワカとした恋物語が展開させるのだが、メインは後半で、関所破りをして来た政右衛門が、追われる身を幸兵衛に助けられ、二人は、昔剣術の子弟の間柄であったことが判明し再会を果たすのだが、
   幸兵衛は、先に道中で得た手紙(又五郎守護の依頼状)を持って又五郎に成りすましてお袖に連れられて来ている志津馬を守るために、又五郎に加勢してくれと頼むので、敵味方であることが分かる。
   そこへ、生まれた子供を政右衛門に見せたい一心で死ぬ思いで旅を続けているお谷が、門前に倒れ込む。
   嬰児を抱き抱えて疲弊困憊した妻お谷だと分かっていても、仇討ちのためには、又五郎の情報を掴む千載一遇のチャンスであり、口が裂けても、身分を明かす訳には行かず、寒風吹きすさぶ門外に放置する。
   赤子が泣き叫ぶので、幸兵衛の女房おつや(東蔵)が、赤子だけを抱き上げて奥に入れるのだが、縫い包みの中の書付から政右衛門の子供だとわかり、幸兵衛は、人質に使おうと喜ぶ。
   咄嗟に、政右衛門は赤子を掴みあげて、喉笛に小柄を突き刺し、人質など卑怯な手を使わないと言って、死骸を庭先に放り投げる。
   政右衛門の一筋の涙を見て、政右衛門の決死の覚悟と断腸悲痛一切を悟った幸兵衛は、既に、又五郎と名のった若者も志津馬であることも見抜いており、二人に加勢することを伝える。
   又五郎を中山道に落としたことを明かし、志津馬を思いながら尼になった娘お袖に、中山道への道案内を命じる。
   門口から転げ込んで来たお谷が、亡きわが子をかき抱いて号泣する。

   昔の剣の師匠である幸兵衛が、敵方についていることが分かって、偶然訪れて来た妻を雪中に閉め出し、夫に見せたい一心で妻が連れて来た幼い息子を一刀の下に殺してまで素性を隠し、敵の居場所を知ろうとする・・・これが、封建時代日本の忠義であり最善の義理の発露とするなら、実に悲しい話だが、さて、私ならどうするかと、考えると苦しくなる。

   吉右衛門は、この政右衛門は、初役だと言うが、豪快な侍から人情味豊かな世話物の世界は勿論、藤山寛美ばりの喜劇でも器用にこなす人間国宝なので、このような目だったアクションが少なくて芸で見せて魅せなければならない舞台も上手い。
   朝日のインタビューで、
   ”初代をはじめとする芸談や義太夫節の演奏などを、役作りの手がかりとしているという。「初代は、心理描写を主にした地味なやり方だったそうです。できるだけ復元したい」
   感情をセリフや動作に出さない、いわゆる肚芸が求められる。「すぐに分かるような表情や動きはしませんが、どこかでお客さんに分からないといけません。先人の型はそれの連続ですので、大事にしないと」”と言っている。
   台詞回しが実に丁寧であり、瀕死状態の妻を吹雪吹き荒れる門外に置いて、赤子の火がついたように泣き叫ぶ声に、平静を装いながらも苦悶に動転している心の動揺を目の表情や煙草を刻む包丁の動きに託して、演じている。
   おつやが奥に入った瞬間を見定めて、一気に門口に出て、お谷を抱き上げて薬を飲ませて、束の間の焚火を起こして、苦衷を分かってくれと、立ち去ることを命じる何とも言えない苦悶と苦渋に満ちた優しい表情が忘れられない。

   この歌舞伎だが、吉右衛門の座長公演で、一門のベテランを糾合した層の厚い役者陣による舞台なので、非常に質の高い歌舞伎を現出しており、44年ぶりの「岡崎」だと言う価値は十分である。
   歌六の幸兵衛は、貫録十分で情に厚い親分肌の役どころを、実に感動的に演じていて、ほれぼれとする。「高野聖」の時の親父の、枯れた滋味豊かな感動的な舞台を思い出した。
   中村東蔵、中村芝雀、中村又五郎、中村錦之助、それに、吉右衛門ファミリーに加わった尾上菊之助の水も滴る颯爽ぶりなど、これ以上の役者陣を望めないような布陣であり、
   ベテランの橘三郎や桂三に加えて、第二世代の歌昇、種之助、米吉、隼人などの溌剌とした若手の活躍が、実に、良い。

   東蔵と芝雀は、正に、地で行くような適役で本領発揮である。
   錦之介の悪役又五郎も、性格俳優としての新境地であろうか。
   面白いのは、素晴らしいお殿様誉田大内記を演じたかと思うと、コミカルタッチの粋とも言うべき奴助平を演じた又五郎の活躍で、特に、助平の舞台は、正に、一人芝居で本格的な喜劇役者そのものであろうか。
   ところで、お袖を演じた米吉は、実に可憐で可愛いギャルで、文楽では、人間国宝文雀が遣っていたが、志津馬に一目惚れして、ボーとして、あらぬ方向に茶を注ぐところなど、面白い。

   久しぶりに、非常に質の高い歌舞伎の舞台を観た思いである。
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晩秋のロシア紀行(11)S・P、モスクワの交通事情

2014年12月14日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルクやモスクワの公共の都市交通は、何本かのメトロと、路面電車、トロリーバス、バスで、他の地方とは飛行機と鉄道で繋がれている。
   やはり、人口が1000万人や500万人と言った大都市にしては、インフラが貧弱で、昼夜の交通渋滞は、甚だしく、市内の移動もままならず、我々の観光バスの運転手にとっては、「目的地に何時着くのかとと問われるのが一番嫌だ」と言うことである。

   我々の泊まっていたモスクワのホテルは、少し、都心から離れていて、メトロの駅があって、路面電車もトロリーバスもバスも駅があるので、比較的便利なのだが、メイン道路が走っているので、朝晩のラッシュ時には、郊外からの通勤用の自動車の波に巻き込まれて、大変な渋滞になる。
   一枚目の写真の左側中央の黄色い箱型の建物がメトロ駅で、バスなどの停留所は、交差点左右にある。
   
   
   

   この写真は、SPのホテルの側の交差点だが、まだ、朝暗いうちから、郊外のプーシキン市からの通勤車で、渋滞になっている状態である。
   

   一枚目の写真は、郊外のメトロ駅入り口である。大きなショッピングセンターが、そばにあった。
   ところで、バス停だが、厳寒のモスクワもSPも、極めてシンプルで、これで、いつ来るか分からないバスを待ち続ける苦痛は如何ばかりか、心配になった。
   車道からみた鉄道駅だが、やはり、大陸横断と言うか、凄い迫力である。
   
   
   

   市内の渋滞の最大の問題は、沢山の車の乗り入れだが、東京やニューヨーク、ロンドンなどの先進国の大都市のように、郊外と都心を結ぶ高速鉄道網や有効な私鉄などがないので、殆ど自家用車に頼っていて、一気に都心に乗り入れようとするから渋滞する。
   それに、古い石やコンクリートの建築物が大半で、自動車交通を意図して開発された都市ではないので、駐車施設が存在せず、殆どの車が、空き地や道路などに路面駐車している。
   パリでも、狭い道路に犇めくように路面駐車の車が並んでいて、警官が切符を切り続けていたのを見ていたが、ロシアでは、違法駐車などがあるのかどうか知らないが、とにかく、所狭しと車が放置されている。

   勿論、政府当局も、事情は分かっているようで、あっちこっちで、高速道路などの建設現場が目につく。
   オランダなどでは、冬季に入ると地面が凍結するので地下工事は止まる筈なのだが、もっと凍結が厳しい筈のロシアなのに、あっちこっちで掘り起こしている。
   
   

   因みに、タクシーだが、マリインスキー劇場やボリショイ劇場への行き帰りに、ガイドの手配で利用したが、メーターがあるのかないのか、定額制であったように思う。
   ボリショイを出る時に、沢山の運転手が、タクシー、タクシーと寄って来たが、危ないと言われていたので、近くのホテルに行ってフロントで手配を頼んだ。
   何しろ、外人観光客プライスと言う悪弊がまかり通る国であり、言葉が通じない場合が多いので、タクシーは使わなかった。
   ボリショイの場合には、メトロを使えば、便利だと思ったのだが、ガイドの注意もあり、タクシーにした。

   さて、駅が宮殿のように綺麗だと評判のモスクワのメトロ駅だが、確かに、壁画や彫刻が駅舎を飾っていて、素晴らしい。
   欧米の鉄道駅のターミナルは、あのオルセー美術館を見ても分かるが、素晴らしい建築が多いのだが、確かに、地下鉄駅を飾っているのは、モスクワのメトロだけであろうか。
   入場の時だけ、改札機にタッチするのだが、出口は自由である。
   とにかく、吹きさらしの入り口を入って切符を買って、改札ゲートを入って、プラットフォームに至るまでの地下が深いので、エスカレーターの長さは、ロンドンなどの比ではない。
   メトロの客車も乗り降りも、乗客の様子も、ニューヨークやロンドンと全く同じで、違和感はない。
   
         
   
   
   
   
   
   
   
   
    
     

   新興国や発展途上国の最大の問題は、インフラの未整備・不備で、特に交通事情の悪さは突出しており、これが惹起する経済損失は莫大である。
   公共投資の拡大による経済需要促進効果はあるだろうが、実際に国民経済を正常に起動させ、発展に導くためには、更に、膨大な富と時間の投入が必要となる。
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