昨夜、東京文化会館でのプラハ国立歌劇場の「アイーダ」の開演前に時間があったので、外に出ると、向かい側の国立西洋美術館の庭にあるロダンの「地獄の門」が電光に映えて美しく浮かび上がっているのに気づいた。
丁度、美術館が、その日は夜間延長日で、夜の8時まで開門していたので、これ幸いと中庭に入って、あっちこっちにあるロダンの作品を鑑賞させて貰おうと思った。
日頃は、日中の中庭のロダンしか見ていないのだが、夜の静寂にスポットライトに映える彫刻の美しさは格別で、それも、ロダン最後の未完の大作である「地獄の門」であるから、その素晴らしさは、正に、感動ものである。
何十年も前に、このロダンの「地獄の門」は、世界に3つしかなく(実際には7つと言う話もある)、東京の上野とパリとフィラデルフィアにあるのだと知って、是非、見たいと思っていたので、まず、留学でフィラデルフィアに行き、フィラデルフィア美術館の手前にあるロダン美術館に、真っ先に出かけて見た思い出がある。
その後、パリに行って、同じ地獄の門を見て感激したのは、勿論である。
この「地獄の門」は、パリのく国立美術館のモニュメントとして製作を依頼された作品だが、ロダンは、ダンテの「神曲」地獄篇の「地獄の門」をテーマに選んだ。
「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」の銘文のある、あの地獄門である。
この「地獄の門」には、丁度、システィナ礼拝堂に描かれているミケランジェロの「最後の審判」のように、嘆き苦しむ多くの人間群像が、凄いエネルギーと迫力で描写・浮き彫りされていて、息を呑むような感動を呼ぶ。
門扉の頂上に座って地獄門を見下ろしている「考える人」はあまりにも有名だが、この「考える人」もそうだが、群像の一つ一つの人物像が、単独のロダンの作品として残っており、ロダン作品の集大成と言った趣のある作品で、昔、世界の色々な美術館や博物館でロダンの作品を見ながら、この像は、門のあそこにある人物だと探すのが楽しみであった時期があった。
とりわけ、「考える人」などは、大小取り混ぜてあっちこっちにあり、この上野の西洋美術館の庭の反対側に大きな像が鎮座ましましている。
この「考える人」は、ダンテともロダン自身とも言われているが、私は、カミユ・クローデルとの恋に悩み続けていたロダンだろうと思っている。
男にとっては、失った恋の苦しみほど深いものはないと言う。
この口絵写真の左側手前のかすかに光っている像は、弟子のブールデルの「弓を引く人」だが、こちらの方は、もう少し荒削りではるかに迫力があるが、地獄の門の右側に立つ小さなロダンの「イブ」像の肉感的艶かしさとは対極にあって面白い。
この庭には、入り口から入って反対側の手前に巨大な「カレーの市民」群像が立っている。
首に縄を付けられて引き立てられてゆく市長以下数人のカレー市民の群像だが、毅然とした面構えの威厳に満ちた素晴らしい人間像である。
白く光りすぎた石の台座と対照的に、鈍色に浮かび上がる黒っぽい彫像の姿が闇にフェーズアウトして行く。
随分、あっちこっちでロダンの彫刻を見てきたが、やはり、私は、小さな作品だが、「接吻」を始め、若い男女の愛の営みを描写した作品が美しいと思っている。
ミケランジェロを師と仰いで独学独習で偉大な彫刻家として名をなしたロダンだが、殆ど、人影のない美術館の庭で、微かな電光に映えた作品を眺めていると、一挙に、ミケランジェロを通り越して、ギリシャ・ローマの素晴らしい彫刻などが走馬灯のように頭を駆け巡って来るのが不思議である。
丁度、美術館が、その日は夜間延長日で、夜の8時まで開門していたので、これ幸いと中庭に入って、あっちこっちにあるロダンの作品を鑑賞させて貰おうと思った。
日頃は、日中の中庭のロダンしか見ていないのだが、夜の静寂にスポットライトに映える彫刻の美しさは格別で、それも、ロダン最後の未完の大作である「地獄の門」であるから、その素晴らしさは、正に、感動ものである。
何十年も前に、このロダンの「地獄の門」は、世界に3つしかなく(実際には7つと言う話もある)、東京の上野とパリとフィラデルフィアにあるのだと知って、是非、見たいと思っていたので、まず、留学でフィラデルフィアに行き、フィラデルフィア美術館の手前にあるロダン美術館に、真っ先に出かけて見た思い出がある。
その後、パリに行って、同じ地獄の門を見て感激したのは、勿論である。
この「地獄の門」は、パリのく国立美術館のモニュメントとして製作を依頼された作品だが、ロダンは、ダンテの「神曲」地獄篇の「地獄の門」をテーマに選んだ。
「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」の銘文のある、あの地獄門である。
この「地獄の門」には、丁度、システィナ礼拝堂に描かれているミケランジェロの「最後の審判」のように、嘆き苦しむ多くの人間群像が、凄いエネルギーと迫力で描写・浮き彫りされていて、息を呑むような感動を呼ぶ。
門扉の頂上に座って地獄門を見下ろしている「考える人」はあまりにも有名だが、この「考える人」もそうだが、群像の一つ一つの人物像が、単独のロダンの作品として残っており、ロダン作品の集大成と言った趣のある作品で、昔、世界の色々な美術館や博物館でロダンの作品を見ながら、この像は、門のあそこにある人物だと探すのが楽しみであった時期があった。
とりわけ、「考える人」などは、大小取り混ぜてあっちこっちにあり、この上野の西洋美術館の庭の反対側に大きな像が鎮座ましましている。
この「考える人」は、ダンテともロダン自身とも言われているが、私は、カミユ・クローデルとの恋に悩み続けていたロダンだろうと思っている。
男にとっては、失った恋の苦しみほど深いものはないと言う。
この口絵写真の左側手前のかすかに光っている像は、弟子のブールデルの「弓を引く人」だが、こちらの方は、もう少し荒削りではるかに迫力があるが、地獄の門の右側に立つ小さなロダンの「イブ」像の肉感的艶かしさとは対極にあって面白い。
この庭には、入り口から入って反対側の手前に巨大な「カレーの市民」群像が立っている。
首に縄を付けられて引き立てられてゆく市長以下数人のカレー市民の群像だが、毅然とした面構えの威厳に満ちた素晴らしい人間像である。
白く光りすぎた石の台座と対照的に、鈍色に浮かび上がる黒っぽい彫像の姿が闇にフェーズアウトして行く。
随分、あっちこっちでロダンの彫刻を見てきたが、やはり、私は、小さな作品だが、「接吻」を始め、若い男女の愛の営みを描写した作品が美しいと思っている。
ミケランジェロを師と仰いで独学独習で偉大な彫刻家として名をなしたロダンだが、殆ど、人影のない美術館の庭で、微かな電光に映えた作品を眺めていると、一挙に、ミケランジェロを通り越して、ギリシャ・ローマの素晴らしい彫刻などが走馬灯のように頭を駆け巡って来るのが不思議である。