熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ブログを書き始めて13年目に入った

2017年03月31日 | 生活随想・趣味
   このブログ「熟年の文化徒然雑記帳」を、書き始めたのは、2005年3月21日であるから、丁度、13年目に入っており、投稿したブログも、はるかに4000稿は越えている。
   最初は、海外生活が結構長くて、出張や個人旅行なども含めれば、欧米を主にして40数か国を歩いてきたので、海外での思い出などを、少しずつ綴って、記録に残しておこうと思ったのであるが、結局、書いている間に、関心が広がって行き、雑多な文章を書くことになってしまった。

   もう一つの切っ掛けは、現役当時に、年間、主に、経済や経営の専門書を200冊以上は読んでいて、時々、アマゾンのブックレビューに投稿していたのだが、書き換えられたり勝手に削除されたりしたのに嫌気をさして、それなら、自分のブログに書こうと思ったのである。
   この関連記事は、このブログでは、ブックレビューになったり、「政治・経済・社会」になったり、「経営・ビジネス」に書いたりで、結構、入り組んでいるのだが、やはり、経済学と経営学は、私の大学及び大学院の専攻でもあり、老年の今でも読み続けているので、この方面の記事が、一番多いようである。
   経営学関係については、かなり、はっきりと自分の考えを書いているのだが、政治・経済・社会に関する記事については、以前、かなり、チェックされていたような形跡を感じたので、最近では、意識して私見など書かないように注意している。

   ところで、海外での思い出を書くことについてだが、結局、ブログを始めてからの目ぼしい海外旅行、イタリア・イギリス、ニューヨーク、ロシア、上海・江南の4シリーズの旅紀行と、時に及んでの「海外生活と旅」の記事くらいに終わってしまっている。
   それでも、中国旅以外は、私のテーマでもあった文化・芸術鑑賞を主題にした旅行記であり、その意味では、知盛ではないが、「見るべきものは見つ」と言う思いを求め続けてきた。
   私にとっては、ある意味では、20年程にも亘った壮年期の、激動の世界を歩いた波乱万丈(?)の海外生活関連の生き様とその思い出を描きたかったのだが、記録も乏しく、それに、思い出だけで綴るのも憚られるし、記憶も消えて行くので、残念ながら書けずに終わってしまった。

   アフリカだけは行っていないので全く知らないのだが、異文化・異文明の遭遇に翻弄された熾烈なカルチャーショックの連続、ベルリンの壁崩壊前後の激動のヨーロッパ、オペラ劇場や世界遺産や博物館・美術館を巡った文化鑑賞旅、丁々発止の国際ビジネス、等々、いくらでもトピックスはあるのだが、語れば長い話である。
   アンデスの山ふところ真っ赤な夕日を浴びて微かに波打つチチカカ湖の慕情、バンドネオンの咽び泣くようなサウンドに誘われて激しくステップを踏むタンゴ・ダンサーの息遣いが胸に染みるブエノスアイレス・ボカのビエホアルマセン、コヴェントガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスでどっぷりと4時間も5時間も浸り続けたワーグナーの楽劇の数々、机を叩きながら口角泡を飛ばして激論したサウジアラビアでのタフ・ネゴーシエーション・・・目を瞑れば、走馬灯のように懐かしい思い出が、脳裏をかすめて行く。
   

   最近では、本は読み続けてはいるが、現役を離れて大分経つので、セミナーやシンポジウムなどに行くことも少なくなって、経営や、政治・社会などへの関心も薄くなってきて、少しずつ、気にならなくなってきた。
   歳の所為もあるのかも知れないのだが、その代わり、実際の生活に関連するトピックスよりも、人類や世界の歴史や文化文明論の方に関心が移りだしてきて、その方面の勉強を始めている。

   それに、悠々自適と言うか、金はないけれども、時間が自由になってくると、晴耕雨読と言うことで、自分の趣味に走るようになる。
   最近、このブログも、観劇やガーデニング、カメラを持って鎌倉歩きが多くなって来たのも、その所為である。
  
   何時まで、このブログを書き続けられるか、まだ元気であり、医師より、大丈夫だと言われているので、安心して、駄文を書き続けて行きたいと思っている。
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茅ヶ崎:氷室椿庭園・・・椿が綺麗に咲いている

2017年03月30日 | 鎌倉・湘南日記
   先日来、わが庭の椿や江の島の椿について書いてきたが、昨年、初めて見学に行って、非常に感激したので、春の陽気に誘われて、氷室椿庭園を訪れた。
   バスで藤沢に出て、JRの茅ケ崎で下りて、海の方へ向かって20分ほど歩けば、氷室椿園に着く。
   茅ヶ崎市に寄贈された椿庭園で、非常にオープンで、自由に出入りが出来るのだが、立派な邸宅の庭を椿園にした、非常に手入れの行き届いた立派な庭園である
   

   200種以上の椿が植えられているとかで、丁寧に名札が付けられてはいるのだが、それは、一部で、元のオーナーの氷室捷爾さんが交配して作出した椿などもあったり、雑種が生まれたりして、名前が分からない種類の椿も多いのだと言う。
   庭園の奥に、氷室さんの作出した「氷室雪月花」が植えられていて、花が咲いている。
   淡桃色の地に紅色の絞りが入った美しい花で、一重のラッパ咲き中輪で、中々優雅である。
   
   
   

   昔から評価の高い銘椿は、言うに及ばず、沢山の素晴らしい椿が植えられているのだが、新しい椿や洋椿は、少ない。
   気づいた洋椿は、入口に植えられている見上げるように大きくなって咲き乱れているフルグラントピンクと、これも、珍しく花が咲き乱れているサンダイアルであった。
   
   
   
   

   懐かしかったのは、わが千葉の庭で、かなり大木になって綺麗に咲き続けていた崑崙黒と孔雀椿であった。
   崑崙黒は、宝珠咲きは、咲き始めのを一瞬だけなのだが、ここの椿は、一部、宝珠咲きを維持していた。
   
   

   先日も書いたが、私は、唐子咲きの椿に興味を持っており、この日も、意識して探した。
   数株植わっていたのだが、写真に撮れたのは、次の通りである。
   名前は、良く分からなかった。
   
   
   
   
   
   

   大木の下にびっしりと言った風情ではないのだが、落ち椿もかなりあって、椿の木が小木で地面を這うような感じなので、花と一体となっている。
   
   
   

   さて、まだ、咲き切っていない椿もあり、この椿庭園の最盛期は、いつなのか分からないのだが、綺麗に咲いている。、
   ただ、何処でもそうだが、椿は花弁が繊細で弱いので、すぐに痛んでしまって、完璧な姿で残っているのは少ない。
   かなり、綺麗な写真を残しておくと次の通り。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
  
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三月大歌舞伎・・・「助六」「引窓」「名君行状記」ほか

2017年03月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座の三月大歌舞伎は、
   「昼の部」が、
   1.名君行状記
   2.義経千本桜 渡海屋 大物浦
   3.神楽諷雲井曲毬 どんつく
   「夜の部」は、
   1.引窓
   2.けいせい浜真砂 女五右衛門
   3.助六由縁江戸桜

   義経千本桜については、先日観劇記らしいものを書いたが、後はそのままであったので、今回は、印象記だけ記しておきたい。
   
   まず、最後の「助六」だが、これは、成田屋の正に看板歌舞伎なので、何度か、團十郎の名演と言うか磨き抜かれた決定版の舞台を観ていて、強烈な印象が残っている。
   
   7年前に、海老蔵の助六を観ての印象記は、
   海老蔵の助六は、恐らく、実際と思しき助六のイメージにより近いと思うし、はちきれそうな艶のある色男の魅力は抜群なのだが、しかし、同じ粋さ加減でも、助六の男伊達としての美学なり人間的な表現の広がりと奥深さと言うか、その滲み出てくるような男の魅力においては、團十郎の方がはるかに勝っており、これは、正に、芸の差、年論の差であろうと思う。
   それなりのエネルギーと迫力は感じたのだが、歴史と伝統に培われた歌舞伎の醍醐味と言うか奥深さを味わう喜びにはやや欠けていたような気がする。
   本当は、海老蔵の助六像が確立されつつあるのだろうが、私の印象は変わらなかった。

   これは今回の「助六由縁江戸桜」を観ての相対的な感想でもあるのだが、以前に観た、團十郎の助六、白酒売新兵衛の菊五郎、意休の左團次、母の曽我満江の秀太郎は同じだったと思うが、玉三郎の揚巻に加えて、仁左衛門のくわんぺら門兵衛、その子分・朝顔仙平の歌六、通人里暁の勘三郎、福山かつぎ寿吉の三津五郎の舞台を観ていると、歌舞伎役者の芸の蓄積・経験が、如何に役者を育み、芸の深化と舞台の豊かさ素晴らしさを生み出す源泉になっているかが良く分かって、この舞台の凄さを実感した。
   その意味では、今回は、多少、軽量級の舞台であったと思う。

   この前の海老蔵の助六で興味深かったのは、三浦屋格子先だけではなく、水入りまでの舞台が演じられ、久しぶりに、助六が、意休を切り倒して名刀友切丸を取り戻し、追っ手からの逃げ場に困って、天水桶の水の中に隠れると言う派手な幕切れを観たことである。
   このあたりの海老蔵は、やはり、水も滴る良い男で、この助六の舞台では、白酒売りの染五郎などの若い俊英役者を支えて好演していたのが、揚巻の福助、意休の歌六のベテラン役者で、特に、母親の曽我満江を演じた秀太郎の格調高い名演。
   今回も、菊五郎、左団次、秀太郎の芸の冴えと確かさが、舞台を支えて余りあった。

   「引窓」は、中々、感動的な舞台で、南方十次兵衛の幸四郎、濡髪長五郎の彌十郎、女房お早の魁春、母お幸の右之助は、夫々、適役で、文句なしの素晴らしい舞台で、しっとりとした感動的な芝居を堪能させてもらった。
   「女五右衛門」の「南禅寺山門の場」は、藤十郎と仁左衛門の世界だが、錦絵を見せるような極彩色のシーンの連続。

   昼の部は、芝居としては、やはり、真山青果の作品なので、「名君行状記」が面白かった。
   名君の誉れ高い藩主の池田光政に対して、その名君と言う名望に嫌気をさし許せなくなった若い藩士青地善左衛門(亀三郎)が、本当に名君なのかを知りたくて、死罪を覚悟でご禁制の禁猟地で鳥を撃ち殺して、これを、明快に光政が裁く。
   いくら名君でも、こんなバカな家来を持てば災難だが、有為な青年故、上手く裁いて助けると言う話。
   このような格調高い名君を演じるのは、当然、梅玉。
   亀三郎が、血気盛んな全学連の闘士のようなバカ者を熱演しており、いつも悪役の團蔵が、好々爺の家老を好演している。
   この亀三郎は、「助六」の通人里暁も器用に演じており、活躍中。

   「神楽諷雲井曲毬 どんつく」は、三津五郎の三回忌追善狂言であるので、已之助の独壇場の舞台。
   菊五郎以下、名優はじめオールキャストが勢揃い。
   親方鶴太夫の松緑と太鼓打の亀寿が、一緒に威勢よく踊っていた。

   
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江の島・サムエル・コッキング苑の椿

2017年03月28日 | 鎌倉・湘南日記
   久しぶりに、バスに乗って江の島に向かった。
   江の島の頂上のサムエル・コッキング苑には、かなり、広い椿園があって、丁度、椿が咲きそろい始めた頃なので、見に行こうと思ったのである。
   勿論、弁財天にも、たこせんべいにも、遺跡にも一切興味なく、椿の花見たさに行ったのだが、青銅の鳥居から瑞心門までの弁財天仲見世通りは、大変な人で前に進めないくらいの混みようであった。

   残念ながら。この日は、曇り空で富士山を仰ぐことができなかったが、枝垂れの彼岸桜と寒桜であろうか、少し、桜が咲いていて、途中、乙女椿とヤブツバキが咲いていた。
   ソメイヨシノは、蕾が膨らみかけていたので、1週間ほどで咲くのであろう。
   
   
   
   
   
   
   

   コッキング苑の椿園は、一画が、椿だけの植栽なのだが、遊歩道脇に並木様に植えられている椿は、かなりの大木になっていて、広く広がっている。
   まず、椿園で目に付いたのは、赤い花弁の八重咲の紋繻子である。
   千葉の庭にも植えていたので、なじみの椿だが、かなりの大輪で、華やかに咲く。
   よく似たのが、繻子重で、同類なのであろう。
   
   
   
   

   この花によく似た赤い花弁で、芯の蕊が四散して、少し豪華になった感じの花が、京牡丹。
   そして、紅麒麟。
   
   
   
   
   赤い花弁の椿は、ほかに、大虹、天女の舞。
   
   

   わが庭の門前に咲く式部も咲いていたが、全く、そっくりだと思ったのが、笠舞と言う椿だった。
   卜伴も咲いていた。
   私は、唐子咲の椿に興味を持っており、特に、唐子の部分の色彩に関心があり、今後、この色彩が微妙に入り組んだ椿を植えてみたいと思っている。
   
   
   

   淡いピンクの椿も美しい。
   典型的な大輪椿は、曙。
   王昭君や笑顔、三浦乙女も美しいし、小輪の香妃も品があって良い。
   それに、熊坂も、一寸、ムードが違った雰囲気が良い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   源氏名前を冠した椿が、結構、あるのだが、ここには、源氏車と光源氏が咲いていた。
   
   

   単色ではなくて、赤やピンクや白が、入り混じったり、小紋になったり、縦絞になったり、吹き掛け絞りになったり、と言ったバリエーションのある椿もある。
   月の輪、燭光、抜筆、眉間尺、菊更紗、春の台など。
   
   
   
   
   
    
   
   
   

   白い花の椿は、いくらか咲いているのだが、殆ど花弁が痛んでいて、写真に耐える花弁を維持した椿は少ない。
   鶴の毛衣、雪見車、白菊、淀の朝日、連見日。
   
   
   
   
   
   
   

   ざっと、羅列しただけだが、この椿園は、木が密集していて、かなり、日当たりが悪いので、花付きが、相対的に良くないような感じがする。
   街路脇の大木になった椿の木の花付きが、比較的良いのは、日があたっているからであろう。
   いずれにしろ、植物園の椿園の植木なので、花に容易に近づけないので、綺麗な花を見つけても、写真には撮れないのが残念ではある。
   この椿園でも、地面を這うようにして、虫を追っていたシロハラを見た。
   椿園には、メジロやシジュウカラのつがいが多いのだが、花を根元から落とすヒヨドリは興ざめである。
   
   
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わが庭・・・やはり、春は椿である

2017年03月27日 | わが庭の歳時記
   私だけであろうか、春の花は、椿だと思っている。
   漢字が、春の木と言うことだが、実際には、春には最盛期だけれど、早いものは、初秋から咲き始めて、種類にもよるのだが、大きな木になると、その頃から、真冬にも綺麗な花を咲かせて、5月の初めころまで咲き続ける。

   まず、その後に咲き始めた花は、小佐渡侘助、ピンク加茂本阿弥、荒獅子、王冠、三河雲竜、鴇の葉重、トムタム。
   加茂本阿弥は、千葉の庭から移植したものだが、千葉に置いてきた荒獅子と王冠は懐かしくなって、そのほかは、新しく最近買い求めて庭植えしたので、まだ、木が小さい。
   三河雲竜は、侘助によく似た成長の遅い地面に這う椿のようなので、もう少し育ったら、門扉外の花壇に移植しようと思っている。
   ここには、既に、エレガンス・シャンペンと式部を植えていて、綺麗に咲いてくれる。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   3本庭植えにしたマーガレット・デービスが2本咲いているのだが、やはり、雑種の洋椿なので、咲いた花の雰囲気が大分違っていて、非常に面白い。
   かなり大輪の唐子模様の千重咲の椿で、バラのように華麗な花弁が、中々、優雅で美しい。
   洋椿は、やはり、バラを愛する欧米人の作出なので、大半は、大輪で、豪華と言うか華麗な花姿になっているのが、面白い。
   安達瞳子さんによると、オペラ椿姫のマルグリットは、椿以外は身に着けない女性で、その椿は、アルバ・フィレ、すなわち、乙女椿だったと言う。
   乙女椿は、イギリスから帰った時に、庭に植えてそのままにしていたのに再会して、その美しさに感激して、私が椿にのめり込んだきっかけとなった椿なのだが、花弁が淡い上品なピンクで、ポンポンダリアのように幾重にも重なって花の中心の花蕊が見えない千重咲の椿である。
   マルグリットは、肺を病んでいたので、花粉を吸いこむことのない椿を選んだと言う説もあるが、千重咲きは、フランス人にとっては、左右対称の完全美、つまり、フォーマル・ダブルであったからではないかと言う。
   
   
   
   

   とにかく、私の庭には、ジュリア・フランス、フルグラントピンク、タマグリッターズなど、洋椿が、綺麗に咲いている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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映画「仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦」を見に行ったのだが

2017年03月26日 | 生活随想・趣味
   何時ものように、5歳の孫を連れて、映画館109シネマ湘南に出かけた。
   タイトルは、「仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦」。
   もう、高校生になっている長女の息子も、殆ど、私が一緒に映画に行ったのだが、孫の映画のお供は、ずっと、祖父としての私の役割であった。

   この映画、ストーリーと言うことで、
   ”世界消滅の運命をかけた“死の闘技場”が「仮面ライダーエグゼイド」と「宇宙戦隊キュウレンジャー」の前に立ちはだかり「ゲーム世界」が「現実世界」を総攻撃!完全に閉ざされた異空間から脱出するため、歴代の仮面ライダー、スーパー戦隊が、まさかの大乱戦!未曾有のバトルフィールド、ゲームと現実をつなぐ数々の謎、そして、“あの”ヒーローたちの復活・・・すべてがスケールアップ!すべてが掟破り!そして、現実の世界が消滅目前、窮地に陥った時、想像を絶するニューヒーロー登場!?2017年春、かつてない「驚き」と「興奮」が押し寄せる!”
   と言うことなのだが、最近は、ずっと、仮面ライダーの映画を観続けているはずなのに、残念ながら、良く分からないのである。
   早い話、どちらが良い方で、どれが、敵なのかさえ分からなくて、少年や少女たちのような俳優が、ガシャットとか言うアイコンをベルトに差し込んで、様々な戦士に変身して戦うのだが、とにかく、ICT技術を駆使した派手な戦闘シーンばかりの繰り返しなので、中々、ついて行けるような状態ではない。

   ところが、劇場は、殆ど満員状態で、親に連れられた幼稚園や小学低学年くらいの男の子で一杯なのである。
   孫に説明させると、詳しく、誰が誰で、どうしてどうなったのか、詳しく知っていて、びっくりするし、観客の子供たちも、喜んで観ていて、終わったら興奮気味で帰って行く。
   尤も、これまでにも書いたが、ピカチューやドラえもんのアニメでさえも、”宇宙空間を越えた異次元の世界に突入して・・・”と言った調子のストーリー展開なのであるから、シェイクスピアや能狂言やオペラの世界にどっぷりであった私などには、分かる筈がなくて当然なのであろうが、何となく、疎外感を感じて、寂しい感じもする。
   余談だが、ジブリもそうだが、ピクサーにしろ、まだ、ディズニー映画の方が、私には良く分かるし好ましいと思っている。

   話は飛ぶが、これは、ずっと前から感じているのだが、娘たちが口遊んでいた新しいソング(?)などでも、リズムやメロディーや音程などがはっきりした単純な歌しか知らない私には、殆ど、歌えないと言うか付いて行けないと思ったことがあった。
   とにかく、映画や歌と言った身近な日常性格の世界で、付いて行けなくなると言うのは、それだけ、時代が変わって行き、前進なり進歩して行くと言うことなのであろうが、良いのか悪いのかは分からない。

   映画の帰りに、仮面ライダーの「仮面ライダーエグゼイド DXマキシマムマイティXガシャット 」が昨日発売されたと言うので、ヤマダ電機のLABI大船に行ったら、おもちゃ売り場が取り壊されて閉鎖されてしまっていた。
   孫は、「最低の日だ。」と言って失望して帰ったのだが、確かに、これまで、この売り場には子供たちが少なかった。

   それは、ともかく、孫は、この仮面ライダー関係のおもちゃのみならず、コンピューターや電子機器を組み込んだ複雑なおもちゃを沢山持っていて、器用に組み込んだり合体させたり操作しながら遊んでいる。
   パソコンの操作やDVDの録画再生などは、教えてもいないのに自分でやったり、あまり、進められることではないが、ドライーバーなど道具を使って組み立てたり組み替えたり、分解したり、とにかく、独自の世界を編み出して遊んでいる。

   私の子供の頃、宝塚の田舎に居た頃だが、同じような年頃から、自分で野山を駆け回って、自分で、竹を切って、竹トンボや水鉄砲、竹馬などを作って遊んでいた。
   糸と針、ウキやシズミを買って来て、釣竿を作って、池や川で魚釣りをしたし、草履なども自分で編んだこともあるし、とにかく、終戦後の貧しい日本であったから、遊び道具の多くは、自分たちの手製であった。
   今、ナイフで鉛筆を削れないと言う子供がいるようだが、ナイフやのこぎりなど工作道具は、我々の必需品であったし、自分で砥石でといたり、手入れは怠らなかった。

   そんなことがあったので、親は喧しく言うが、孫が自由に自分の発想で工夫して遊んでいるのは、注意しながらも大目に見ている。
   時代の差が、あまりにも大きすぎるのだが、世の中は動いているのである、どんな世界が展開して行くのか分からない。
   私の子供の頃とは全く違う孫の日常生活を見ながら、時流の流れの激しさを感じている。
   
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ジョン・B・コッター著「実行する組織」

2017年03月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   リーダーシップ論の権威コッターの近著で、リーダーシップではなく、「大組織がベンチャーのスピードで動く」経営組織論であり、非常に興味深い。
   今回は、初めて二つの点で、これまでの方針を変えて、本当の意味で既成観念の殻を破ろうとするリーダー、革新的な組織運営によって並外れた成功を収めている経営者にだけ焦点を合わせて、彼らのモデルの再現を試みることによって、変化のスピードが激しく混乱や激動に渦巻く経営環境に対処するために、起業当時に慣れ親しんでいた筈のシステムを有機的に再導入するデュアル・システム論を打ち立てたのである。

   現在一般的な企業の階層組織では、タスクホース、専門家チーム(タイガーチーム)、プロジェクト・マネージャー部門を新たに導入したり、エグゼクティブが後ろ盾になったり、変革や新しい試みを成功させようとするのが普通である。
   しかし、階層組織は、人間の慣習に拘る性癖や現状維持志向など人間の社会的関係によって、時代の潮流について行けずに、変化を遅らせ停滞させる。
   また、階層組織につきものの、他部門と孤立・分断されるなど、組織のサイロ化が進行し、様々な規則や手続きなども、機先を制して戦略を素早く実行に移す妨げになる。など、経営環境の激動に、十分に対応できない恨みがあり、これらのシステムも十分有効とは考えられない。

   しかし、コッターの説き明かす新しいデュアル・システムは、この階層組織に手を付けずに維持しながら、新しい第二のシステムを構築しようと言う提言なのである。
   第一の階層組織のシステムではなく、それを補う、スタートアップの太陽系に似た、スピードと俊敏性を追求するリーダーシップ発揮型プロセスを企図した、機動的かつ創造性を目指したネットワーク構造の組織の構築である。
   マイケル・ポーターやクレイトン・クリステンセンやダニエル・カーネマンの考え方を反映させていると言うから、非常に興味深い。
   このディアル・システムの一翼を担うネットワーク組織は、多くの社員をチェンジ・エージェントとして取り込んでスピードを上げることによって、チャンスに油断なく目を光らせた危機意識を研ぎ澄まし、変革プロセスを加速させて、チャンスを見極めたら、一段とアクセルを踏む。スピードと俊敏性を企業文化に浸透させる。のだと言う。

   デュアル・システムは、階層組織とネットワーク組織の二重構造なのだが、イノベーションや困難な改革や大規模な戦略イニシャティブな迅速な実行など、従来はタスクフォースや戦略部門でしのいでいた仕事の大半を、ネットワーク組織に移管することになるのだが、階層組織と並行して確立されるシステムなので、階層組織の負担は減って、本来の業務に集中できることになる。

   このような説明で、コッターは、デュアル・システム論を展開するので、非常に分かり難いのだが、要するに、現存の階層組織内に、全社から意欲的な人材を糾合して、太陽系のような組織を作って、太陽が全体を率いて、惑星が戦略イニシャティブを進め、衛星が補助的なイニシャティブを担当すると言う具合に活動し、個人主義、創造性、イノベーションが大ぴらに認められ、階層やサイロ毎に滞留していた情報が自由に行き界い、自由な発想で、スピードと俊敏性を備え、機動的かつ創造的な企業経営を追求しようと言うのである。
   したがって、問題意識は様々であって、極めて動的であるために、様々な案件に応じてくっついたり離れたりで止まることなく、活動を続ける。

  コッターは、このデュアル・システムを成功に導く五つの原則を掲げる。
  ★社内の様々な部門から沢山のチェンジ・エージェントを動員する
  ★「命じてやる」のではなくて「やりたい」気持ちを引き出す
  ★理性だけではなく感情に訴える
  ★リーダーを増やす
  ★階層組織とネットワーク組織の連携を深める

  ネットワーク組織の基本プロセスは、経営トップが率先して動くこと、ネットワーク組織と階層組織が嚙み合って一つのシステムとして機能すること、いったん形成されたら止まることなく機能することとして、八つのアクセラレータを提示している。
  ★危機感を高める
  ★コア・グループを作る
  ★ビジョンを掲げ、イニシャティブを決める
  ★志願者を増やす
  ★障害物を取り除く
  ★早めに成果を祝う
  ★加速を維持する
  ★変革を体質化する

   このアクセラレータを順に追って行けば、ネットワーク組織の運営が分かるが、企業の経営に危機意識を醸成して、戦略イニシャティブを推進しようとする意欲的な社員を糾合してコア・グループを形成する。
   これらの社員は、階層組織に所属している社員であって、決して雇われコンサルタントでもなく、新たに採用されたプロジェクト要因でも社長匿名タスクフォースのメンバーでもないので、階層組織の日常業務の効率改善にも貢献する。

   私は、このコッターの提言で、リナックスやウィキペディアのオープンソース・イノベーションの成功を思い出した。
   詳しくは知らないが、リナックスのOSの開発やその進歩に貢献しているエンジニアの大半は、名だたるICT企業の優秀なエンジニアたちであって、自分たちの属する組織や、銭金や名誉などとは一切関係なく、純粋なエンジニアとして、誇りと喜びを感じてサポートしているのだと聞いている。
   あの最高峰のエンサイクロペディア・ブリタニカを凌駕するとも言われるウィキペディアも、無償のボランティアあっての大事典なのである。

   いざ、鎌倉! 正しい危機意識を醸成して、意気に燃えた社員を糾合して、時代の激しい潮流に立ち向かって経営革新をドライブする。
   コッターの目指すのは、社員のこのエンジニアと同じような精神と意欲を、社内に立ち上げたネットワーク組織に構築して、企業を最先端へ導こうとする。
   既存の階層組織をそのまま維持しながら、社内の人材をフルに活用して、経営革新を目指すと言うデュアル・システム故に意味がある。
   成功するかしないかは、須らく、経営者の資質・才覚次第。
   このような組織を立ち上げて、日常業務を熟し乍ら、一方では、コア・チームのチェンジ・エージェントとして、危機意識を持って企業の行く末を凝視して、迅速に時代の潮流に対応して創造的なビジョンを構築しながら、企業経営に参画できるとするならば、最高の人事政策とも言えるであろう。

   コッターは、非常に丁寧に、このデュアル・システムについて語っていて、経営学書でありながら、感動的な書物であり、本来の経営とは何かを語っていて、あまりある。
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三月大歌舞伎・・・仁左衛門の「渡海屋・大物浦」

2017年03月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回は、仁左衛門の知盛に期待して、歌舞伎座に行った。
   襲名披露の時に、仁左衛門の「助六」や、その後の「松王丸」などを観て、いたく感激して、これまで観ている東京ベースの名優が演じている知盛とは違った新鮮で強烈な「渡海屋・大物浦」が楽しめると思ったのである。
   本来スマートで格好の良い仁左衛門だが、冒頭の渡海屋銀平の堂々たる押し出しからして流石の井出達であり、その重量感は、錨を背負って仰向けに海に落ち行く豪快なラストシーンまで続いて感動的であった。
   瀕死の状態で海岸に辿り着いた知盛が、胸に刺さった矢を引き抜いて、渇きを癒すためであろうか、切先の血のりを舐める姿など、平家の名将知盛を忍ばせて清々しい。

   この「義経千本桜」は、随分観ていて、何度も印象記を書いているので、今回は、一寸違った視点から、綴ってみたい。

   この「義経千本桜」は、壇ノ浦で平家が滅亡した後、義経が頼朝に面会すべく鎌倉に下って行ったにも拘わらず、腰越で留め置かれ、斬鬼の思いで引き返さざるを得なかった後日談と言ったストーリー展開である。
   史実では、多少異同はあるであろうが、この後、義経は、後白河法皇に、頼朝追討の院宣を求めて賜っており、完全に敵対関係となって、都を落ちて行く悲劇の段階なのだが、この歌舞伎では、判官贔屓の所為であろうか、平家物語が語っていない義経のその後を、花の英雄として美化して描いている。

   さて、この歌舞伎の「渡海屋・大物浦」に関して以降、平家物語に語られているのは、次の簡単な叙述のみ。
   ”大物の浦より舟に乗つて下られけるが、折節西の風烈しく吹き、住吉の浦へ打ち上げられて、吉野の奥にぞ籠りける。吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。奈良法師に攻められて、また都へ帰り入り、北国にかかつて、終に奥へぞ下られける。”

   頼朝の軍勢が、義経追討のために上京すれば大変なことになるので、しばらく、鎮西へまかり下りたいとの願いを入れて、
   ”臼杵、戸次、松浦党、総じて鎮西の者ども義経を大将として、その下知に従ふべき由、院の御下し文を給はつてければ、その勢五百余騎、明くる三日の卯の刻に京都にいささかのわづらひもなさず、波風も立てずして下りにけり。”で、都を出て、途中、太田太郎頼基の抵抗はあったものの蹴散らして、無事に大物浦に到着する。
   その直後が、この「渡海屋・大物浦」の場である。
   ”折節西の風烈しく吹き”と言うことで押し返され、他の源氏の船も、”たちまちに西の風吹きける事も平家の怨霊の故とぞおぼえける。”と言う逸話に題材をとって、
   能の「船弁慶」では、「嵐の中から知盛の怨霊が現れて、その進路を阻む」ことになっている。

   このストーリー展開を脚色して、生き延びて安徳天皇を守護してきた知盛を登場させて、義経を阻む決戦を仕掛けて、平家きっての勇将知盛の最後を美しく歌い上げながら、義経を賛美した舞台を作り上げたのである。
   一行は大物浦から船団を組んで九州へ船出したが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されたのだが、散々な状態であって、この歌舞伎のように、錨を背負って豪快に海に落ちて行く知盛に、「安徳天皇を、何処までも守護する」などと言った状態ではなく、哀れな奥州への逃避行が続くのである。

   さて、平家物語では、知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水して、壇之浦も藻屑となって消えて行った。
   この歌舞伎も、知盛にとっては、華々しい劇的な最後だが、私は、「見るべき程のことは見つ」と言う心境の知盛の方が好きである。

   私は、平家びいきなので、この壇ノ浦の合戦で、義経の取った禁じ手を破った卑劣な戦法・平家方水取梶取の殺戮を許せない。
   木下順二さんが、「平家物語」で、船軍では、非戦闘員は殺さないという不文律を、船所正利らから十分いわれていたのを踏みしだいて命令を出した、それが戦争技術者としての義経の本領であった。と述べている。
   丁度、東流が西流に変わってしまった時に、水取梶取を殺戮したので、平家の船団は操船ままならず、敗北を帰した、と言う。
   木下さんは、それまで義経にさせて持ちこたえて闘い抜いた知盛が、義経に拮抗し得るまでの優れた戦争技術者であったと考えたいと述べているのだが、平家は、悲壮な最期を遂げたのである。
   いずれにしろ、日本人気質は、判官贔屓。
   私は、能や歌舞伎や文楽で、義経の名舞台が展開されているのを観ながら、一寸、何となく、距離を置いて観ている。
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C・P・キンドルバーガー著「経済大国興亡史 1500-1990」(4)オランダの盛衰ー2

2017年03月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   たかだか、人口200万人のヨーロッパの小国オランダ共和国が、歴史上、一時的だとは言え、その独創性と生命力によって、ヨーロッパの列強を抑えて経済覇権を確立して、世界に冠たる地歩を築いたと言うのは驚異でさえある。

   キンドルバーガーは、オランダの栄枯盛衰につて、かなり、詳細にわたって論述しているが、衰退の原因については、次のように総括している。

   外部的な原因としては、戦争、外国の重商主義、オランダの技術の外国における模倣、ヨーロッパが、まず、貿易で、続いて金融でアムステルダムを中継市場として利用しなくなったこと、フランスに貸し付けていた資本がフランス革命で失われたこと、ナポレオンとの戦争で負けてフランスへ賠償金としての課徴等々。
   内部的な原因としては、貿易と工業から金融への後退、ロンドンからパリへの貸付先の切り換え、賃金の高騰を齎した高い消費税、求心的な方向性の強化に対する州の抵抗、ことに、課税を巡っての抵抗、熟練労働者の喪失、誇示的奢侈消費、歪められた所得分配等々。
   その中間の原因として、漁業と捕鯨業におけるイギリスとドイツとの激しい競争について行けなかったこと、特に、熟練労働者や船員の外地への流出と言う要因による。
   それ程重要だとは思えないのだが、キンドルバーガーは、この最後の要因が、カギを握っていると思うと述べているのが興味深い。
 
   昔ながらの、厳格で、質素な商人の生活様式が、17世紀最後の四半世紀の間に廃れてしまい、贅沢な様式、田舎の家屋、大地主のような生活に変わって行った。
   アムステルダムでは、人々は商業から自分の金を引き上げて、建造物にそれを投下した。

   富裕な商人たちが都市貴族化するなど、都市貴族には職業を持たないものも多く、商人ではないので、海上でのリスクを負おうとせずに、収入を家屋や土地や証券・長期国債から引き出しており、この都市貴族が、どんどん増殖して、この傾向が1650年ころから1700年頃にかけて盛んとなり、海上から陸上への移動が進んで行き、
   一方、貿易から金融への転換が、投機精神が芽生えたために、実業への怠惰が蔓延るなど、オランダ経済の衰退の兆しを見せ始めてきたのである。
   これと並行して、17世紀の半ば頃から、発明や技術革新のペースが落ち始めて、企業家精神に富んだ活力が、オランダ経済から抜け落ちて行ったと言う。

   要するに、生命力とエネルギーに満ちた若い国こそが、古びた独占的な国に挑戦するのであり、年老いた国には、その挑戦に革新的な反応をもって対処する能力に欠ける。
   私は、文化文明も国家も企業も、須らく、シュンペーターの説く創造的破壊、すなわち、イノベィティブな企業家精神とイノベーションが、推進力のダイナミズムの根幹だと思っているので、オランダの凋落の原因は、色々あるであろうが、この企業家精神の活力を失ったことだ思っている。

   オランダが、他のヨーロッパ諸国と大きく異なるのは、構造的な要因として、強力な封建貴族もいなく、強力な教会もなく、市民が中心となって大を成した国であり、アムステルダムのあるホラント州が多少指導者として振舞っていたにしても、7つの州による共和国体制で、分権化が進んでいた。
   キンドルバーガーは、このシステムを、クゥエーカー教徒の集会システムに準えていた。
   トップからの指令も完全にしたからのイニシャティブがないままに、「集会の意見の大勢」に従って結論に到達すると言うシステムだが、これが、初期のダイナミズムを生み出して快進撃をサポートしたが、逆に、国家の大難に立ち向かうべき凋落期には、諸州の利害が対立して裏目に出て、オランダの衰退を加速させた。

   オランダの凋落は、歴史上仕方がないとしても、惜しむらくは、オランダは、イギリス、ベルギー、フランス、ドイツで進行していた産業革命に触発された工業化の過程を見習うことができないうちに、一世紀の歳月が過ぎ、やっと、19世紀末に近代化への移行に辿り着いたと言うことである。

   オランダについては、このブログで、随分書いてきたので、蛇足は避けるが、非常に信義に厚く、極めて、ビジネスには厳しいが、本当の大人の国である。
   高地がなくて、国土の4分の1が水面下だと言う特異な国だが、道路を走っていて、トンネルの上空を大型汽船が悠々と航行して行く国、道路上には、縦横に張り巡らせた運河には勝鬨橋のような橋が架かっており、また、飛行場の滑走路が走っていて、時折、車を止めらられるので高速で突っ切れない国。
   普通、三保の松原でもそうだが、海岸線に近づけば、浜辺に到達するが、オランダでは、海岸線に沿って小山に近い土手が築かれていて、一気に駆け上がって、反対の方を見ると、 海が迫っていて、反対側の陸地よりもはるかに水位が高い。
   デルフトの陶器を眺めながら、オランドの思い出を反芻している。
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国立劇場・・・3月歌舞伎「通し狂言 伊賀越道中双六」

2017年03月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   

   義太夫狂言の名舞台ながら、戦後の上演が二回しかなかった「岡崎」(山田幸兵衛住家)が、平成26年12月国立劇場で、44年ぶりに上演が実現した。
   初代中村吉右衛門が演じた唐木政右衛門を、当代の吉右衛門が継承し、これまでとは違って、「沼津」ではなく、「岡崎」をメインとした通し狂言として上演されて、非常に好評を博したので、今回は、配役も殆ど変えずに、再演されたのである。
   前回と違っているのは、「大和郡山誉田家城中の場」が、「相州鎌倉円覚寺の場」に代わったことである。
   歌舞伎の作品で初めて「読売演劇大賞」大賞・最優秀作品賞を受賞し多と言うことで、劇場ロビーに、トロフィーが展示されていた。
   
   

   何故、上演が途絶えていたのか。
   上村以和於さんの説明によると、
   ”仇討ち遂行のために幼いわが子の首を斬ると言う行為の不条理を、悲劇の表現とみるより前近代的な野蛮な行為と見做す近代主義の解釈が拒んでいたのが最大の原因だった。”と言うことである。
   さてどうであろうか。人気歌舞伎の名舞台である「寺子屋」や「熊谷陣屋」などで、忠義のために自分の子供を殺す舞台があるのだが、現実的な殺害の場はないものの、「伽羅先代萩」の御殿の場では、政岡の面前で、実子千松が、八汐に嬲り殺される残光なシーンが展開される。
   尤も、この「岡崎」では、良い人質を取ったと喜ぶ幸兵衛の面前で、間髪入れずに、”政右衛門ずっと寄って幼子引き寄せ、喉笛貫く小柄の切先”と言う惨忍極まりない仕打ちに出るのであるから、問題なのかも知れない。
   苦悶の表情で、吉右衛門の政右衛門は、左手で寝かせたわが子已之助を右手に握った小柄で一気に刺殺し、”死骸を庭へ、投げ捨てたり”と言うことで、人形であるから良いものの、実際の子役であったら、観ておれないであろう。

   もう一つ、
   ”ギリシャ劇などを通じ、演劇上の残虐行為を皮相的に見ない現代の観客の成熟も、上演を可能にした半面がある。”と言う指摘である。
   イギリスに居た時に、RSCの公演で、バービカン劇場で、「オイディプス王」を観たのだが、やはり、観るに堪えない程残酷だったが、ギリシャ悲劇は、ギリシャ悲劇であって、
   ”アリストテレスによれば、ギリシア悲劇はディオニュソスに捧げるディテュランボス(酒神讃歌)のコロス(合唱隊)と、その音頭取りのやり取りが発展して成立したものだという(ウィキペディア)”ことで、必ずしも、残虐なものばかりではない。
   それに、ギリシャ悲劇は、悲劇の舞台のみならず、オペラでも映画でも、沢山上映されていて、44年前と特に変わっているわけでもないし、観客の成熟や「岡崎」とは、何の関係もないと思う。

   能の舞台でもそうであろうが、名曲でありながら、色々な事情で、上演されなくなって、長い年月を経て再上演されたり、復曲されたりするケースがある。
   再上演なり復曲上演のためには、大変な勇気とエネルギーなり熱意が必要だろうと思うのだが、上演する側にも鑑賞する側にも、受け入れる準備が出来なくなっているのだから、相当なプロモーターの出現が必要であり、それが、国立故の国立劇場であるから、可能になったと言うことであろう。
   それに、今回、前回のオリジナルメンバーが、更に、磨きをかけて演じると言うことであるから、役者が揃わなければ、上演できないような高度な芝居であると言うことでもあろう。

   さて、舞台だが、今回は、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った「鍵屋の辻の決闘」を彷彿とさせる「伊賀上野 仇討の場」が終幕で上演されているので、やっと、「伊賀越道中双六」の結末が見えてほっとする。
   舞台は、岡崎から、一気に伊賀上野まで飛ぶのだが、「伏見北国屋の段」が続いて、「伊賀上野敵討の段」となり、
   ”急ぎ行く されば唐木政右衛門、股五郎を付け出し、夜を日に 継いで伏見を出で、伊賀の上野と志し 心もせきに 北谷の四つ辻にこそ入り来る”と言うことになって、決闘が展開される。
   貫禄があり過ぎて一寸優雅さには欠けるが、政右衛門の吉右衛門の雄姿と、大悪の風格を漂わせた沢井股五郎の錦之助と颯爽とした和田志津馬の菊之助との流れるようなエネルギッシュで鮮烈な立ち回りが素晴らしい。

   今回の通し狂言の見どころは、やはり、「岡崎」すなわち「三州岡崎 山田幸兵衛住家の段」である。

   志津馬は、奪った書状を使って股五郎に成りすまして、娘お袖(米吉)の許嫁であったことを幸い、股五郎に味方する幸兵衛から情報を得るため、幸兵衛(歌六)の家に宿泊する。
   関所破りで、追われる身の政右衛門が役人と戦っているのを見て、自分と同じ新陰流の達人であることを見抜いて家に入れて語ると、幸兵衛は、十五歳まで養育していた愛弟子の庄太郎と分かり、妻のおつや(東蔵)と温かく迎える。
   幸兵衛は、庄太郎が政右衛門であることを知らずに、股五郎の味方を頼むのだが、股五郎の居場所が分かると思って偽って承諾する。
   その時、雪の降りしきる中を、乳飲み子を抱えた政右衛門の女房お谷(雀右衛門)が、門口に倒れこみ、政右衛門は、素性を悟られまいと、必死になって、無関心を装って、煙草を刻み冷たくあしらうのだが、おつやが、乳飲み子を家に入れて温めてやる隙に、門口に出てお谷をいたわり、股五郎の居場所が分かる大切な時なので、一丁南の辻堂に居てくれ、死ぬなよと送り出す。
   乳飲み子の守りの中の書付に、『和州郡山唐木政右衛門子。巳之助』と書いてあり、人質だと喜ぶ幸兵衛の前で、政右衛門は、おつやから已之助を奪って、人質を取るような卑怯な真似はしないと、一気に刺殺して庭に投げ出す。
   その時の政右衛門の一筋の涙を見た幸兵衛が、総てを察して、志津馬が、聞いている股五郎と年配恰好などがあまりに違っていたので疑問を感じており、敵味方の二人を対面させると、二人はびっくりしたので、政右衛門と志津馬であることを悟る。
   二人の様子に納得した幸兵衛は、股五郎の行方を教える。
   忍んできたお谷が、変わり果てた乳飲み子已之助をかき抱いて断腸の悲痛。
   契りを交わした娘お袖が、”籬の小蔭より、思ひ切髪墨染の、袈裟に変りしそぎ尼姿”で現れて、幸兵衛は、お袖に、股五郎が逃げ行く中仙道への案内に立たせる。

   前述の筋書で、舞台の熱気と、役者たちの至芸が彷彿とする筈。
   とにかく、吉右衛門を筆頭にして、歌六、東蔵、雀右衛門、錦之助、菊之助の素晴らしい演技は、特筆もので、凛々しい忠臣の佐々木丹右衛門とコミカルタッチの助平を演じた又五郎と初々しくて美しく実に魅力的な乙女を演じぬいた米吉の熱演は、感動的である。
   名演を演じた雀右衛門と歌六は、歌舞伎座の公演と掛け持ちと言う大車輪の活躍、二人とも、素晴らしい舞台を見せて魅せてくれた。
   

   2年前のポスター
   
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C・P・キンドルバーガー著「経済大国興亡史 1500-1990」(3)オランダの盛衰ー1

2017年03月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本で、経済的覇権を確立した個別の国家の成長と衰退が、時系列で論じられていて、低地諸国の章で、すなわち、ベルギーとオランダについて記述されている。
   私自身、オランダに4年間在住して、多少なりとも、この国について知見があるので、本来なら、国際経済をリードする経済覇権など望みえないような小国が、どうして、世界の歴史において、燦然と輝く偉業を刻み込めたのか、非常に興味津々のトピックスなので、キンドルバーガーの見解を反芻したいと思った。

   1590年から1620年まで続いたオランダの急成長は、経済的な奇跡と呼ばれたとして、その有利に働いた諸要因について列挙している。
   まず、地理的に、太平洋、北海、バルト海へのアクセスが簡単であって、豊かな後背地があり、そこから一連の幅の広い川が幾筋も注ぎ込んでいること。
   構造的な要因として、強力な封建貴族がいなかったこと、強力な教会がなかったことも重要な要因で、それに、教育が広く普及していたこと。

   幸い、スペインのアルマダ艦隊が、イギリスに駆逐されるなど、ヨーロッパをリードする国が、弱くなって、ネーデルランド連邦共和国が、徐々に先頭に出る余地が生まれたと言う偶然も幸いしている。
   スペインとイギリスの海軍の弱体化とは逆に、オランダの海運業の発展に道を開き、当時、ニシンがバルト海から北海に移動してことも幸いして、オランダの漁師はハンザの漁師を凌駕して優位に立ち、その後の投資に必要な資本の本源的蓄積が提供され、アムステルダムは、ニシンの屋台骨を土台として建設されたと言う。
   それに加えて、才能ある人物や資本が流入して、新しい経済生活を創出する起動因となったと言う偶然も働いた。

   一方、アルフレッド・マーシャルは、オランダ人はイギリス人と比べて、発明においては遅鈍であったと言っているのだが、キンドルバーガーは反論して、
   排水と土地改良、船舶の設計と建造、穀物の製粉や造船用材を挽くための風車の利用などの組織的な手法、トレックファールトの発明、オランダ東会社の創設、小型の商戦隊を効率的に護衛するシステムの創設、他sh多様な金融手段の開発、その他多くの技術革新等々を列挙している。

   貿易立国を目指したオランダにとって、有利に働いたのは、外国商品の集積地として機能したことに加えて、政府が国内産の商品の規格を定めて、それが厳守されるよう目を光らせたことだと言う。
   この世界貿易首位の座を、オランダは、1585年から1740年まで、1半世紀維持したと言うのであるから驚くべき快挙である。
   ところが、この世界貿易の集積地としての中継貿易が、必然的に一時的なものであって、1700年代後半には、直接貿易の方がより経済的で有利となり、オランダ優位を蚕食したのである。

   貿易の衰退は、かなり早く来たようだが、オランダの優位は、金融に移って行った。
   オランダの諸州が、マーチャントバンカーからの借り入れを止めて、富裕な人々に長期国債を直接売りだすことに切り替えたと言う、いわば、財政革命は、政府債権発行の先鞭をつけた。
   アントワープの難を逃れてアムステルダムなどに移り住んだマーチャント・バンカーたちが、貿易のブームに触発されて、高度な金融技術を駆使して、膨大な貯蓄のプールをこしらえたと言う。
   しかし、興味深いのは、貿易から金融への転換の原因は、投機への精神が芽生えたために、そしてそれと同程度に、怠惰がはびこるようになったために、オランダ人の心性に変化が生じたと言うことで、オランダの凋落を暗示していることである。

   もう一つ面白いのは、スペイン領ネーデルランドから金融技術を借用すると同時に、ギャンブル好きを受け継いだと言うことである。
   謹厳実直、ダッチアカウントに見られるように金銭に厳しい筈のオランダ人の特質からは、正に、これらの変則、矛盾、逆説こそが、1636年のチューリップ投機狂騒曲を現出させた。
   ところが、この月謝を支払ったおかげか、オランダの投資家は、かなり機転が利く連中で、フランスのミシシッピ会社の倒産やイギリスの南海泡沫事件では、ひどい打撃を被ると言うことはなかったと言うから興味深い。
   
   スペインやポルトガルから追放されたユダヤ人は、とりわけ革新的であり、先物取引やオプションに精通しており、これらの取引は、実物商品見ることなしの取引なので、「風の取引」と呼ばれたようだが、このような純粋な金融投機は、17世紀の前半の早いうちに始まって、世紀後半に外国貿易よりも選好されるようになったと言う。

   キンドルバーガーは、」「低地諸国」の前に、時系列順に、イタリア、ポルトガル、スペインを取り扱い、その後、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の盛衰について語っていて、夫々の推移が非常に興味深い。
   特に、イギリス以前については、大航海時代の幕開け以降のヨーロッパの経済的覇権の歴史を紐解きながら、文明史を語っていて、楽しませてくれる。

   今回は、主に、オランダの発展について書いたが、次には、その衰退と凋落について考えてみたい。
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国立劇場の花・・・歌舞伎「岡崎」を見る間に

2017年03月16日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今日は、半蔵門の「国立劇場」に、通し狂言「伊賀越道中双六」を観に出かけた。
   従来演じられている「沼津」を中心とした通し狂言ではなく、26年12月に44年ぶりに再演された「岡崎」を主体とした上演なので、大分雰囲気が違うのだが、非常に、意欲的で熱の籠った舞台で、感動的であった。

   昨日、歌舞伎座で、夜の公演を観たので、特に、感動したのは、両劇場掛け持ちで、大役を演じている雀右衛門の大車輪の活躍であり、同じく、歌六の熱演も、特筆ものであった。
   雀右衛門などは、大役も大役で、この「岡崎」では、吉右衛門演じる唐木政右衛門女房お谷を演じて、歌舞伎座では、海老蔵の助六を相手に、三浦屋揚巻を演じているのであるから、大変な活躍であり、立女形の面目躍如である。
   歌六は、岡崎では、最も重要な役柄の一つである山田幸兵衛を重厚かつ格調高く演じて、助六では、コミカルタッチのくわんぺら門兵衛を演じて出色の出来。
   これらのために、国立劇場では、夜の部の上演がないのである。
   この観劇録は、別稿に譲るとして、今回は、国立劇場の前庭の花について書いてみたい。

   劇場正面には、先の團十郎を記念して植えたと言う熊谷桜が、綺麗に咲いている。
   一寸、小ぶりのピンクの花弁で、非情に美しい。
   まだ、木が小さいのだが、大きくなれば、劇場のシンボルツリーとなろう。
   
   

   名物の桜の木は、蕾がびっしりとついていて、少し、色づき始めていて、もうすぐ咲くべく、スタンドバイしている。
   
   

   こんもりとした雰囲気の黄色い花と白い花が目立つのだが、まず、黄色い花では、サンシュユとトサミズキ。
   
   
   
   
   
   

   白い花では、ユキヤナギと小松乙女とカンサラサと馬酔木。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   椿の木が何本か植わっていて、今咲いているのは、キンカチャと玉霞と黒椿。
   劇場横には植わっていたが、前庭には、椿が意外に少ない。
   
   
   
   
   

   珍しい花は、ナンバンキブシ。
   桜ほどは、目立たないが、結構、国立劇場の前庭には、季節の花が咲いていて、インターミッションの合間にでも、眺めてみると面白いのである。
   
   
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芸術鑑賞団体を退会しての劇場チケット取得

2017年03月14日 | 生活随想・趣味
   随分ながい間、芸術鑑賞団体の会員になって、歌舞伎など、劇場のチケットを取得して劇場に通って居た。
   しかし、最近、特にメリットがあるわけではなく、止めてしまった。

   例えば、この組織に入会していると、歌舞伎の場合、しかるべき年会費(この場合は、半年ごと)を払って居れば、2か月に1回、すなわち、年6回は、輪番で、1等席か2等席のチケットが、配布される。
   実質的には、2~3割の割引であろうか、非常に安いようで、定期的に案内が来て、何日かの選択肢から日にちと昼夜の選択をして、はがきを返送しておけば、チケットが送られてくるので、レイジーな私には、気楽で便利であったが、席は一切自分で決められない。

   しかし、20年近くも、この組織に参加していて、一等席や二等席と言っても、割り当てられる席は、端の方か後方で、良い席であったためしはなかった。
   要するに、割引でチケットが割り当てられている鑑賞団体には、事前予約にも拘わらず、それなりの席が割り当てられていると言うことであろうか。
   これは、あるエクゼクティブ・クラブの鑑賞団体においてチケットを申し込んだ時にも、1割引きではあったが、よい席ではなかったので、いわば、埋め草で、割り引くが席はそれなりの席を割り当てると言う劇場のポリシーなのであろうと思う。
   これは、オプション予約の歌舞伎座などの三階席A席の予約においても、1割引きではあったが、5列まである席で、大概は最後列の6列目で、良くても、5列か4列であったし、他の公演チケットでも、ほぼ同様であった。
   
   それに、この団体は、メンバーの多くが年寄りでITデバイドの所為なのであろう、インターネット予約制度は取っておらず、定期公演の予約などは、一切はがき予約で、それ以外も、総て、電話予約である。
   特殊な鑑賞団体と言うことで、このようなシステムが取られているのであろうが、ネット予約が一般的である今日、いわば、時代錯誤と言うか、天然記念物のような存在で、早晩、淘汰される存在であろう。

   しからば、どうしているか。
   私の場合には、最近は、日本の古典芸能の鑑賞が多いので、国立劇場の「あぜくら会」に入会していて、チケットの発売日に、インターネットで予約すれば、殆ど用が足せるのである。
   わずかな年会費を払って居れば、一般のチケット販売よりも、1日か2日、早く予約できるプライオリティが与えられており、それに、1割引きで、無料でチケットも郵送されてくる。
   能・狂言、歌舞伎、文楽、落語等々、国立劇場関係の公演は殆どカバーできているし、何よりも良いのは、自分の気に入った公演日で、その時点で自分の好きな席を自由に選んで、チケットを取得できると言うことである。

   もう一つ、歌舞伎座など松竹関係は、歌舞伎会に入って居れば、あぜくら会と同じような特典が与えられるのだが、この場合は、公演日数が多いので、12日の一般販売日でも、十分に、自分の意図した席のチケットを取得できる。
   それ以外では、観世能楽堂や横浜能楽堂のように、HPからチケット予約が可能であるし、劇場にそのようなシステムがなくても、イープラス、ぴあなど、チケット販売サイトがあり、日経などは、インターネットで通知が来るので、それらを利用すれば、殆ど不都合も不自由もない。
   イープラスなど、得チケ情報なども送ってくる。
   それに、この頃では、欧米並みに、ネット販売システムでも、席が自由に選択できるので、非常にオープンで、自分が納得したチケットが取得出来て良い。 
   前述の鑑賞団体のように、チケットが送られてくるまで、何日の公演で、何処の席かも分からず、それが、良くもない席だと言うのなどは、致命的であろう。

   欧米などは、もう、随分前から、劇場のボックスオフィスが、自身のネットでのチケット販売システムを開設しており、私など、MET、スカラ座、ロイヤル・オペラ、それに、ボリショイやマリインスキー劇場など、トップ・オペラ劇場でも、ネット予約で通してきたが、全く問題なく、クレジットカードのトラブルも起っていない。
   随分前に、ベルリンの壁崩壊後、それ程経っていない時期に、チェコのプラハのオペラ劇場のチケットを予約した時にも、一か八かやってみたが、心配は杞憂であった。
   
   ロンドンに居た頃でも、パバロッティやドミンゴのチケットを取るのは、大変であったが、歳の所為でもあろうが、もう、そんな情熱もなくなってしまったが、いずれにしても、良い舞台に接したくて、チケットをあれこれ思いながら、追っかける楽しみも捨てたものではないと思っている。
   
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わが庭・・・椿の香りが増してきた

2017年03月13日 | わが庭の歳時記
   まだ、結構寒い日が続いているのだが、陽が長くなってきた所為もあろう、過ごしよくなってきた。
   庭の椿の蕾が色づき始めて、ある日、朝起きて庭に出て、気づいた時には、綺麗な花を咲かせているのである。

   今日も、ジュリアフランスが、綺麗な薄いピンクの優雅な花を開いていた。
   昨夜、雨が降ったのか、花弁に、少し、水玉が乗っている。
   この清楚な匂うようなピンクは、初夏に咲く薔薇のハンス・ゲーネバインを思わせる。
   しかし、花弁が薄くて繊細なので、一寸した自然の悪戯で傷がつく。
   花の命は、短いのである。
   
   
   
   
   
   
   ピンクの椿は、少しピンクが勝ってくるのだが、小輪ながら、沢山花をつけるフルグラントピンクも優雅で美しい。
   この椿は、千葉の庭にも何本か植えていたのだが、一本だけ持ってきて、この鎌倉に移植したのが、根付いているのである。
   もう一つのピンクは、日本椿の「桃太郎」。
   筒咲きで侘助椿の雰囲気なのだが、残念ながら、花の命が短い。
   ピンクの椿で、残念だったのは、殆ど最初に魅せられて、30年以上も大切に育ててかなり大きくなったいたのだが、花弁の付け根が白くて徐々にピンクとなる桃地に底白ぼかしの「天賜」を、千葉の庭に残したままで鎌倉にきてしまったことである。
   
   
   
   
   

   マーガレット・ディビスの別の株が、開花し始めたのだが、赤色が勝って、雰囲気が大分違っているのが面白い。
   やはり、木が大きくならないと、落ち着かないのであろう。
   しかし、不思議なもので、木が小さくて、一輪一輪咲く度に、一喜一憂しながら、眺めている間が、一番良いのかも知れないと思っている。
   

   まだ咲いていない他の椿の蕾も膨らんで、色づき始めている。
   
   
   

   今春、もう、庭植の余裕もないのに、また、椿の苗木を買って、大きな鉢に植え替えた。
   以前に植えていて懐かしくなったのが、紅乙女と紺侘助。
   新しく手配したのが、紫の椿「至宝」と淡い黄色の「ダローネガ」。

   尤も、「天賜」も手配したのだが、千葉の庭のように、咲き誇るようになるのかどうか。
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鎌倉便り・・・大巧寺の椿、長楽寺

2017年03月12日 | 鎌倉・湘南日記
   鎌倉国宝館を出て、若宮大路を南に向かって歩き、椿の花を見たくて、大巧寺に行った。
   大路に面した山門を入れば、裏門までは100メートルもない小さなお寺なのだが、境内を抜ける一本の小道の左右に、10種類以上の椿が植えられていて、椿寺の風情である。
   椿の木は、それ程大きくなくて、種類が多いだけなのだが、やはり、交通の激しい大路に面している所為か、花弁の痛みが激しいのが難である。

   この寺は、おんめさまと称して、安産を願う妊婦が、日本全国や海外からも、お札を受けに訪れると言うのである。
   境内に入ったところから、あけぼの、黒竜、明石潟、羽衣、卜半、侘助など、夫々、数輪ずつ咲いている。
   
   
   
   
   
   

   ロゼクローラ、婆の木、ヒジリメンと言った私の知らない椿もあって、興味深かった。
   ティファニーと言うピンクの八重咲の大輪椿が咲きかけていて、美しいと思った。
   
   
   
   

   そのほか、アトランダムに、開花椿を並べると次の通り。
   
   
   
   
   
   
   

   境内には、緋寒桜や備後梅、ボケなどほかにも花が咲いていた。
   
   
   
   
   

   大巧寺の裏門から、本覚寺に出て、妙本寺に向かった。
   特に、花が美しいと言う寺ではないが、どっしりとした塔頭や、広々としたオープンな境内の雰囲気が好きで良く行く。
   豪壮な二天門の仁王像が素晴らしい。
   ネットが張ってあって、中がが暗いので良く見えないのだが、望遠レンズで写して、拡大して確かめている。
   
   
   
   
   

   境内の紅白の梅の花が、少し残っていた。
   祖師堂の横の墓地のそばを、青い小鳥が飛び過ぎたので、止まったところを写したら、ルリビタキであった。
   これも、肉眼では殆ど認識できないのだが、やっと写して拡大したが、200ミリでは、ボケざるを得ない。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この寺は、もうすぐに咲き乱れるハナカイドウで有名なのだが、もう、芽が動き出していて、花芽が、かすかに色づいていた。
   
   

   山間の参道の横の小川の斜面に、沢山のぜんまいが、芽を出していて、面白い造形を作っていた。
   その参道を出て左折れして、少し歩いて、ぼたもち寺と八雲神社を経て、大通りに出て、長谷寺を目指して歩いた。
   昔懐かしい老舗のパン屋日進堂に立ち寄って、揚げパンを買って、前回同様に、90歳をはるかに超えた名物店主に、若かりし頃の武勇伝を聞いていた。
   人間遊ぶことを知らなければ一人前じゃない、10代のガキの頃から始めて、現在まだ現役だと言って、4人の女友達との色の道を語り始めたところだったが、運悪くと言うか運良くと言うか、近所の婦人がパンを買いに入ってきたので、話途中ながら、店を出た。
   
   
   
   
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