今日の都響のC定期公演は、インバル×都響の”スタンダード”
指揮/エリアフ・インバル ピアノ/サリーム・アシュカール
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 op.15
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
インバルは、都響に1991年に初登壇、特別客演指揮者(1995~2000年)、プリンシパル・コンダクター(2008~14年)を務め、2014年4月より都響桂冠指揮者という存在であるから、精神的にも両者一体という感じで、肝胆相照らす関係というか、コンサートホールでは、燃えに燃えるのであろうか。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番の演奏では、ピアニストのアシュカールの端正で折り目正しい演奏に呼応すべく、オーソドックスなサウンドに終始したが、チャイコフスキーの5番においては、自然を限りなく偉大だと賛美したロシア語のウミレニエの爆発、普遍性を内包した土俗性の強烈な発露というか、美しく感動的なメロディーから迸り出るダイナミックなエネルギーを感じて、感激して聴いていた。
高峰秀子が、パリの真っ赤な夕日の思い出を書いていたが、私には、この交響曲を聴いていて、初めて見たザンクトペテルブルグの美しいネバ川の夕闇の風景を思い出していた。
私は、不思議にも、能を観ていて、詞章を膨らませて想像やイマジネーションを活性化するのは苦手なのだが、クラシック音楽のコンサートでは、欧米の懐かしい風景や思い出が、どんどん出てきて、いくらでも、自分の世界に入って行けるのである
フィナーレの壮大なドラマの咆哮ともいうべき高揚では、インバルは、背後のバーに、2度も手をついて体を支えて大きく片手を振り上げる激しい指揮で、最後に両手を振り下ろした時には、その途轍もない感動に感極まった表情でフリーズ。会心のチャイコフスキーを紡ぎ出した満足感を味わったのであろう。
チャイコフスキーとしては、第6番の悲愴が有名だが、コンサートでは、案外、この5番を聞くことの方が多い。
インバルは、ユダヤ人のようだが、時代が変わったのであろう。
昔、フィラデルフィアに居た時に、アカデミー・オブ・ミュージックで、ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルの演奏会があったのだが、当時、ソ連が、ロシア系ユダヤ人の海外移住を認めなかったので、在住ユダヤ人が抗議を意図して、座席の一方、右だったか左だったか忘れたが、チケットを買い占めて、劇場の座席半分が空席のままの演奏会が開かれてびっくりしたことがあった。
別に、ユダヤ人のインバルが、ロシア人のチャイコフスキーの演奏をしても不思議はないのだが、あのユダヤ人ハイティンクが、ロイヤル・オペラで、ワーグナーの楽劇の殆どを演奏したのを聴いて、ユダヤ人のワーグナー拒否が解禁されたのかと思って、気をもんだことがあったが、音楽には国境がなくなったと言うことであろうか。
私は、ロシア人魂もロシア人気質も全く知らなくて、ただ、ロシアを1週間旅しただけなので、偉そうなことは言えないのだが、インバルのチャイコフスキーを聴いていて、多くの本や映画や資料の数々から作り上げた私のロシアのイメージが、一気に彷彿としたことは事実である。
ピアノのサリーム・アシュカールのアンコールは、トロイメライ。
指揮/エリアフ・インバル ピアノ/サリーム・アシュカール
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 op.15
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
インバルは、都響に1991年に初登壇、特別客演指揮者(1995~2000年)、プリンシパル・コンダクター(2008~14年)を務め、2014年4月より都響桂冠指揮者という存在であるから、精神的にも両者一体という感じで、肝胆相照らす関係というか、コンサートホールでは、燃えに燃えるのであろうか。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番の演奏では、ピアニストのアシュカールの端正で折り目正しい演奏に呼応すべく、オーソドックスなサウンドに終始したが、チャイコフスキーの5番においては、自然を限りなく偉大だと賛美したロシア語のウミレニエの爆発、普遍性を内包した土俗性の強烈な発露というか、美しく感動的なメロディーから迸り出るダイナミックなエネルギーを感じて、感激して聴いていた。
高峰秀子が、パリの真っ赤な夕日の思い出を書いていたが、私には、この交響曲を聴いていて、初めて見たザンクトペテルブルグの美しいネバ川の夕闇の風景を思い出していた。
私は、不思議にも、能を観ていて、詞章を膨らませて想像やイマジネーションを活性化するのは苦手なのだが、クラシック音楽のコンサートでは、欧米の懐かしい風景や思い出が、どんどん出てきて、いくらでも、自分の世界に入って行けるのである
フィナーレの壮大なドラマの咆哮ともいうべき高揚では、インバルは、背後のバーに、2度も手をついて体を支えて大きく片手を振り上げる激しい指揮で、最後に両手を振り下ろした時には、その途轍もない感動に感極まった表情でフリーズ。会心のチャイコフスキーを紡ぎ出した満足感を味わったのであろう。
チャイコフスキーとしては、第6番の悲愴が有名だが、コンサートでは、案外、この5番を聞くことの方が多い。
インバルは、ユダヤ人のようだが、時代が変わったのであろう。
昔、フィラデルフィアに居た時に、アカデミー・オブ・ミュージックで、ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルの演奏会があったのだが、当時、ソ連が、ロシア系ユダヤ人の海外移住を認めなかったので、在住ユダヤ人が抗議を意図して、座席の一方、右だったか左だったか忘れたが、チケットを買い占めて、劇場の座席半分が空席のままの演奏会が開かれてびっくりしたことがあった。
別に、ユダヤ人のインバルが、ロシア人のチャイコフスキーの演奏をしても不思議はないのだが、あのユダヤ人ハイティンクが、ロイヤル・オペラで、ワーグナーの楽劇の殆どを演奏したのを聴いて、ユダヤ人のワーグナー拒否が解禁されたのかと思って、気をもんだことがあったが、音楽には国境がなくなったと言うことであろうか。
私は、ロシア人魂もロシア人気質も全く知らなくて、ただ、ロシアを1週間旅しただけなので、偉そうなことは言えないのだが、インバルのチャイコフスキーを聴いていて、多くの本や映画や資料の数々から作り上げた私のロシアのイメージが、一気に彷彿としたことは事実である。
ピアノのサリーム・アシュカールのアンコールは、トロイメライ。