熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

映画「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」

2018年02月28日 | 映画
   夢枕獏の小説『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』をチェン・カイコー監督が映画化した幻想怪奇シーンに満ちたスペクタクル映画と言う感じであろうか。
   私には、ストーリーそのものよりも、大唐時代の壮大な中国風景を見たと言う思いで、十分満足であった。
   1979年、文革後、門戸を開いた北京に行き、天安門から故宮に入って、殆どひと気のない広大な宮殿内を一日中散策して、壮大な中国王朝の歴史の一角に浸って、感に堪えなかったので、一層、その思いが強い。

   この夢枕獏の小説『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』(文庫本ながら、2000ページ以上のボリューム)は、二年前の歌舞伎座の四月大歌舞伎公演で、この小説を下敷きにした幸四郎(当時染五郎)の「幻想神空海」の舞台を観た後で、もう少し勉強したいと思って読んでいる。
   まず、映画鑑賞記を書く前に、ハッキリしておかなければならないのは、この映画は、宗教家空海なり空海の真言密教とは、殆ど、何の関係もないと言う事、そして、夢枕獏の小説とは、換骨奪胎とは言わないまでも、かなり、大幅な脚色がなされており、この小説からスピリットを得た創作映画と言う感じとなっていることである。

   殆ど忘れてしまっているので、2年前のブログ記事を引用しながら書くことになるのだが、
   この小説は、空海(染谷将太)と橘逸勢が主人公だが、しかし、あの絶世の美女楊貴妃(チャン・ロンロン)を廻る物語で、幻術を使う異教の道士や呪師が暗躍して唐王朝を手玉に取ると言う幻想的な怪奇伝奇ロマン小説であり、沙門空海が、唐の国、玄宗皇帝(チャン・ルーイー)と楊貴妃が愛を育んだ華清宮で、鬼と宴す物語なのである。

   まず、以下で原作をダイジェストするが、
   小説で興味深いのは、楊貴妃は、玄宗皇帝に妻を殺された胡の道士黄鶴(リウ・ペイチー)が、妻に生き写しの楊玄琰の妻を幻術を使ってものにして通い詰めて孕ませ生ませた女児・楊玉環(楊貴妃)だと言う設定で、玄宗に娶わせるまでが面白いのだが、
   安禄山との戦いで窮地に立った玄宗が、楊貴妃を馬嵬で殺害することになった時に、黄鶴は、尸解の法(尸解丹を飲ませて針を刺して人の生理を極端に遅く仮死状態にして後に再生させる方法)を使って、高力士に因果を含めて仮死させて楊貴妃を石棺に納める。
   その後、その石棺をあけて楊貴妃を蘇らせたのだが、黄鶴の弟子の丹龍(オウ・ハオ)と白龍(リウ・ハオラン)が、楊貴妃を連れて出奔し、玄宗と黄鶴の前から姿を消す。
   丹龍がどこかへ消えてしまい、白龍は、楊貴妃に恋い焦がれて女にしたものの、自分には靡かず丹龍の名前ばかりを口走るので恨み骨髄に徹して、黒猫の妖怪が引き起こす劉雲樵の家の怪異事件、徐文強の綿畑で俑の妖怪が暗躍する事件、長安の街路で順宗の死を予言する立札が立ち続ける事件等々不吉な事件を頻発させて、大唐国の皇帝を呪詛し滅ぼそうとすれば、必ずそれを察知して長安に舞い戻るであろうと考えて、ペルシャの邪教の呪師と化した白龍が、自分から逃げた相棒の丹龍を誘き寄せるために打った妖術であった。
   最後に、尸解の法で長生きしてきた黄鶴が現れて白龍(実は楊貴妃の弟で実子)を殺し、娘を道具にし続けたその黄鶴も、正気に戻った楊貴妃にその刀で殺される。
   楊貴妃も、自害しようとしたのだが、丹翁が思い止まらせて二人で仲良く消えて行く。
   したがって、楊貴妃は死んでおらず、原作では、80歳を超え老いさらばえた楊貴妃を登場させて、華清宮で舞わせており、実年齢で空海と対面させている。
   夢枕獏は、胡人をメインキャラクターに据えて、ゾロアスター教の闇を暗躍させて、インドで生まれた仏教から中国で成熟した密教の世界を描こうとしたのであろうか。
   
   この映画では、楊貴妃は、玄宗と黄鶴に騙されて尸解の法で馬嵬で殺されて、丹龍と白龍が棺から運び出すが、父黄鶴から聞いて知っていた白龍から、楊貴妃の死の真実を聴かされ、ゾロアスター教の呪師となっていた丹龍が、怒って玄宗が可愛がり楊貴妃の見守りをしていた黒猫に乗り移って妖猫と化して、唐王朝を揺るがす壮絶な怪奇事件を引き起こして世間を騒がせる。
   それらの事件に、空海と白楽天(橘逸勢役をも継承:ホアン・シュアン)が巻き込まれて、面白い映画が展開される。ということで、楊貴妃を葬った唐王朝に対する恨みが引き起こした物語で、「美しき王妃の謎」と言うわけである。
   しかし、故人を主人公の一角に据えて世界最大の国際都市大都長安を舞台に繰り広げられた夢枕獏の小説のスケールの大きさを、この映画も歌舞伎も、たったの2時間少々ではフォローできないのは当然であろう。

   小説には、安倍仲麻呂(阿部寛)が、最後には関わっては来るのだが、この映画のように、楊貴妃を愛していたと言うのは、奇想天外な設定で興味深い。
   側室の白玲(松坂慶子)が、死後破棄せよと言われていた記録を盗み読みしたら、愛されていたのは自分ではなかったと言うのが面白い。
   
   とにかく、玉蓮や牡丹など胡人の妓生が艶めかしく蠢き激しく舞い踊る胡玉楼という遊郭まがいのナイトクラブのエキゾチックな雰囲気や、玄宗皇帝と楊貴妃が愛を育んだ華清宮での豪華絢爛たる素晴らしく壮大な大宴会のグランドショー、それに、豪壮な甍を連ねた巨大な大都長安のパノラマ風景や王朝イベント等々、正に現代絵巻で、魅せて見せるシーンの連続である。
   もう一つ、興味深いと思ったのは、歌舞伎で松也が演じた橘逸勢に代わって、空海の相棒として詩人白楽天を準主役の狂言回しの役割で登場させて、「長恨歌」を、事実との対比で絡ませながら、フォローしていることで、その一方、詩仙李白を飲んだくれの詩人として端役で登場させているのも面白い。
   それに、コミカルタッチの、お馴染みの安禄山(ワン・デイ)や、高力士(ティアン・ユー)のキャラクター描写が、非常に面白かった。
   玄宗皇帝も、生身の人物と言った調子で描いており、習近平が中国の世界国家への再興を目指す大唐帝国を、カロカチュアに巻き込むチェン・カイコー監督の力量を感じて清々しい。

   いずれにしろ、最も注目すべきは、歌舞伎ではほとんど不可能で、原作でもそれ程重要な役割を演じることのなかった黒猫を、ICT技術、CGを駆使して、妖怪猫に仕立てて、主人公まがいの大活躍をさせていることであろう。
   凄い迫力であり、映画の魅力と可能性を最大限に謳歌していて面白い。
   
   
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わが庭・・・椿・ジュリアフランス、唐錦咲く

2018年02月27日 | わが庭の歳時記
   フランス帰りのピンクの大輪椿ジュリアフランスが咲き始めた。
   椿姫の国なのだが、安達瞳子さんの説明では、椿姫のヒロイン・マルグリットの愛していた椿は、アルバ・フィレと呼ばれる乙女椿系の千重咲きの椿だったと言う。
   オペラ「ラ・トラヴィアータ」で見る椿は、赤か白か記憶にはないが、シンプルな単色のヤブツバキだったような気がするが、椿と分かれば良いのであろう。
   日本から、ポルトガル人やオランダ人が椿を持ち帰って植えたのだが、アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が小説を書いた頃には、かなり、椿にもバリエーションがあたのであろう。
   日本ユリからカサブランカを作出し、多くの花木や草花を改良して素晴らしい花を生み出したオランダで、洋椿が生まれていないが不思議である。
   
   
   
   
   
   

   もう一つ咲き始めたのは、唐錦。
   淡桃地に紅色の小絞りや吹掛け絞りが密に入る蓮華咲きの筒しべの八重大輪花だと言うのだが、最近買ったので、まだ、鉢植えだが、二輪咲いただけ。
   しかし、一番最初に開花した宝珠咲きの花がそのままで、後で咲き始めた花が、黄色い筒状の蕊を表したのが面白い。
   
   
   
   
   
   
   

   他に咲いているのが、かなり、大木になった一休。
   白椿だが、花もちが良くなくて、すぐに、花弁が落下する。
   もう一つ、かたい蕾を開き始めたのが、王昭君。
   これも、最近買った椿だが、昨年、ピンクで匂うように美しい桜の王昭君に魅了されて、同名なので、雰囲気を味わいたくて手に入れた。
   先日第1花が蕾を開いたのだが、ヒヨドリにやられて落花し、、第2花は、咲かずに霜にやられ、これが、やっと咲き始めた第3花であり、やはり、期待にたがわず美しい。
   何故か、淡い匂うように清楚で美しいピンクの花に魅かれる。
   
   
   
   
   
   

   他の椿の蕾も、少しずつ、色づき始めてスタンドバイしている。
   残念ながら、この鎌倉に移転してきて、庭植えした椿が大半なので、椿が、それなりに、地面に落ち着いて安定しないかぎり、花付きが悪く、思うように咲かないので、今年は、半分くらい蕾がついていない。
   椿の里のように、庭一杯に椿が咲き乱れるのは、ずっと先のことだろうと思うと寂しいが、毎年、これが咲くかあれが咲くかと期待しながら世話をするのも、それなりに楽しい。

   さて、まだ、白梅が、最盛期で咲き乱れているので、メジロが頻繁に訪れて、戯れている。
   あまり、私などを気にする様子もなく、ひとしきり、蜜を突くと、さっと、飛び去って行く。
   この程度で、栄養が足っているのか、いらぬ心配をしている。

   今朝、裏庭で、鶯の初鳴きを聴いた。
   まだ、完全な囀りではないが、ホーホケキョと聞こえたので、立派な成鳥ウグイスであろう。
   これから一挙に春、楽しみである。
   
   
   
   
   
   
   
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国立演芸場・・・圓朝に挑む!

2018年02月26日 | 落語・講談等演芸
   江戸歌舞伎で、上方歌舞伎とは一寸雰囲気が変わった作品を観ることが多いのだが、好き嫌いがあって、例えば、鶴屋南北の作品よりも、圓朝の作品の方が好きである。
   同じ怪談や怪奇模様の演目でも、圓朝の方が、少し、人間味があるような気がするからである。
   それに、圓朝は、落語で聴くことが多い所為もあろうと思う。
   尤も、猟奇じみた江戸歌舞伎よりも、まだ、上方歌舞伎の近松の心中物の方が良い。

   久しぶりに圓朝特集の落語を聴いた。
   国立演芸場の”2月特別企画公演「圓朝に挑む!」”である。
   演目は、
   落語「下女の恋」 林家彦丸
   落語「豊志賀の死」 橘家圓太郎
     ― 仲入り ―
   落語「霧隠伊香保湯煙 ~後編~」三遊亭圓馬
   落語「怪談 乳房榎 ~龍の腕~」三遊亭萬窓
   
    萬窓の「乳房榎 ~龍の腕~」は、おきせ口説きから、早稲田の料理屋、落合の蛍狩りまでの物語で、丁度、中段である。
   しかし、以前に、このかなり長い圓朝の「乳房榎」を、一時間ほどのダイジェスト版に仕上げた歌丸の高座を聴いており、その名調子に聞き入って、圓朝の怪談の醍醐味を味わった。
   歌丸の語り口は、怪談であっても、非常にしみじみとした温かみのある人情味を感じさせる感動的な高座なのだが、萬窓は、直球勝負の正統派の語り部と言う感じで、滔々と淀みなくぐいぐい引っ張り込む語り口が爽やかである。
   正介の台詞や表情など役者以上で実に上手い。

   萬窓の語ったストーリーは、
   絵師:菱川重信の妻・おきせに惚れた浪人磯貝浪江は、重信に弟子入りして、師の留守中に仮病をつかって泊まり込み、子供を殺すと脅迫して関係を結び、おきせをものにする。それに飽き足らない浪江は、師を惨殺することを思いつき、重信が制作中の南蔵院を訪問して、下男の正介を馬場下の料理屋に誘い,酒を飲ませ,叔父甥の約束をさせて,正介を殺すと脅して、重信殺しの手伝いを約束させる 。正介は,重信を落合の蛍狩りに連れ出し、薮に隠れていた浪江が重信を斬り、正介も木刀で撲って、浪江が止めを刺す。正介が、南蔵院に重信が襲われたと報告に戻ると,重信が寺の本堂に居て、残っていた最後の女龍の腕を描き上げると姿を消す。
    
   最初は、浪江の卑劣さに泣いたおきせだが、浪江の要求が重なるにつれて情が移り、おきせの方から誘い込む・・・圓朝は、こう語っていますが、と言って、
   ある生命保険会社の調査では、80%の主婦が、来世では、今の夫とは結婚したくない、更に、50%が、夫の顔も見たくない(この表現だったかどうか定かではないのだが、要するに、関わるのも嫌だと言うことであろうか)と言う事だったと語って、笑わせていた。

   以前に、長谷川嘉哉氏の認知症に関する興味深い話を聞いて、このブログに、「妻は旦那を忘れ、旦那は妻を忘れない!」を書いた。
   長谷川先生によると、男性は、「妻取られ妄想(=嫉妬妄想)・・妻を所有?」に陥って、妻が浮気していないかどうか気になって仕方がないと言うことらしい。すなわち、男は妻を自分の所有物だと思っているので、それを失いたくないと言う気持ちが強くて、妻のことが絶えず気にかかる。
   私には、そんな意識はないし、気にはしないが、次の女性への指摘は、身近な知人を見ていてよく分かる。
   すなわち、女性の場合には、「物取られ妄想・・具体的な物事に拘る」と言う症状が現れて、財布がなくなったとか誰かに取られたと言った妄想が起きて来るらしいが、元より夫を自分の所有物だと言う意識はないから、取られても取られなくてもそれ程気にならないし、夫のことなどは、すぐに忘れてしまうので、居なくなっても心配なく、先立たれた後は、むしろ、伸び伸びと暮らせるのだと言う。のである。
   妻が夫に執着しないのなら、案外、モーションをかければ、憧れのマドンナにお近づきになれるかも知れないと友が言ったのだが、そうかも知れない。

   さて、
   歌舞伎では、最近、八月花形歌舞伎の「怪談乳房榎」で、2度鑑賞しており、夫々、浪江が獅童、お関が七之助、正助が勘九郎と言うキャスティングで、ニューヨークでも脚光を浴びたと言う作品で、非常に面白かった。
   生身の歌舞伎俳優が演じると、落語と違って、当然だが、もっとリアルで臨場感がある。

   圓馬の「霧陰伊香保湯煙」は、足利の機屋の茂之助に見受けされた芸者お滝とその情夫の松五郎の二人が、次々と名前を変え,悪事を重ねて行く物語で、今回は、中段の「伊香保から四万温泉」にかけての物語。
   圓朝の噺は、長くて錯綜していて、登場人物が多くて、とにかく、噺を聴いているだけでは、ストーリーを追うだけでも大変である。
  この噺は、青空文庫にも収載されていて読めるのだが、飛ばし読みでも、難しい。

  圓太郎の「豊志賀の死」は、長編「真景累ヶ淵」の一部であるが、噺が悲惨。
   「豊志賀の死」 は、男嫌いなはずの豊志賀が、世話を焼いてくれる若い男新吉と深い仲に陥るのだが、皮膚病に苦しみ始めると、嫉妬と憎悪に苛まれて、耐えられなくなった新吉が離反し哀れな最後を遂げると言う噺で、男女の仲への色模様、恋に溺れる豊志賀に対する弟子の長屋連中の離反、若い弟子お久の登場と新吉との仲の邪推、等々、微妙な話が絡まって面白いのだが、救いようない噺である。

   彦丸の「下女の恋」は、三遊亭圓朝が「春雨・恋病み・山椒のすりこ木」を題に作った三題ばなしの、春雨だと言う。

   圓朝の噺の登場人物は、私には理解できないようなキャラクターが大半だが、フッと、何を生きがいに生きているのだろうと思うことがある。
   とにかく、オチのつく普段の落語と違って、圓朝ばかりの落語を続けて聞き続けるのも面白い。
   
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わが庭・・・沈丁花、中国ミツマタ、クリスマスローズ

2018年02月25日 | わが庭の歳時記
   急に寒さがぶり返したような気候だが、日差しは、もう、立派に春の息吹。
   陽が長くなってきた所為か、急に花木が動き始めた。

   沈丁花が、数輪、少しずつ花弁が開き、微かに、心地よい芳香を放ち始めた。
   秋の金木犀と同じで、春が来たぞ、と素晴らしい香りで伝えてくれる貴重な花で、この花は移植は難しいが、挿し木で、かなり、楽に増やせるのが良い。
   それに、それ程手を加えなくても、こんもりとお椀状に樹形を整えるところが好ましく、庭には必需の花木である。
   
   

   もう一つ咲き始めたのが、中国ミツマタ。
   普通のミツマタだと、色々な種類の色があるのだが、中国ミツマタは、花が一寸大振りで、中国の朝廷が珍重した黄色基調が美しかったので、園芸店で買い求めた。
   まだ、外輪の花が咲き始めただけなので、豪華さは分からないのだが、かなり、木が
大きく育ってきたので、花数も多くなって華やいできた。
   ミツマタは、沈丁花科だと言うから、面白い。
   
   

   まだ、数株だが、華やかに咲き出したのは、クリスマスローズで、株が結構大きくなるので、全部、鉢から出して庭植えにしたので、庭に広がっている。
   花を支える茎が、それ程長く伸びないので、地面に張り付いた感じで、大概、花が下を向いていることもあって、鑑賞には一寸難がある。
   20株以上、庭に植わっているのだが、まだ、花茎が伸び始めた株が殆どで、蕾は固い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   紅梅の鹿児島紅梅と白梅は、今盛りであり、紅梅は少しずつ黒ずんで萎れて行き、一重の白梅は、風にひらひらと散っている。
   まだ、苗木を移植して間もないので、背は低いのだが、紅梅・紅千鳥が、一気に咲き出した。
   雰囲気は、鹿児島紅梅に似ているが、八重咲ではなく、一重である。
   
   
   
   
   
   
   

   椿の蕾が膨らみ始めて、色づいてきたので、来月には、一斉に咲き出しそうである。
   アジサイ、ばら、牡丹などの芽が伸び始めて来ている。
    
   雨上がりの後、まだ、寒さが厳しかったので、二回目の硫黄合剤の10倍液を薬剤散布した。
   これで、一応薬剤散布を済ませた形なので、様子を見ながら、春から晩秋にかけて、花ごとに薬剤を使用して病虫害を退治すれば、1~2回の薬剤散布で済みそうである。

   一寸した気まぐれで、庭の花を切ってきて、インテリアとして生けるのも、ガーデニングの楽しみ。
   鎌倉彫と九谷焼の花瓶だが、花瓶に限らず、アウガルテンやヘレンドの食器であったり、バカラやボヘミアのガラス器であったり、萩焼の徳利であったり、一時の息抜きながら、旅先での思い出が詰まった花器を選びながら過ごす一時も捨てがたい。
   
   
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二月大歌舞伎・・・吉右衛門の「井伊大老」

2018年02月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎で、期待したのは、やはり、吉右衛門のこの「井伊大老」である。
   2014年の顔見世大歌舞伎で、この「井伊大老」が、殆ど、同じ役者で演じられており、(変わっているのは、大膳が又五郎から梅玉、正妻昌子の方が菊之助から高麗蔵)、私のその時のブログ「吉右衛門の「井伊大老」が、結構読まれており、それに、他にも何回か観劇記を残しており、それ以上の印象記は書けないし、蛇足になるのだが、先日も、吉川英治の「井伊大老」のブックレビューもしたので、多少、感想を付記しておきたい。

   「井伊大老」は、初代白鷗の芸を吉右衛門が継承しており、これまでに、側室お静の方が、夫々、歌右衛門、魁春、雀右衛門で、吉右衛門の舞台を3度観ており、今回が4回目である。
   
   ところが、2017年の壽初春大歌舞伎で、高麗屋直系の当代白鷗(当時、幸四郎)の井伊直弼で、仙英禅師 歌六、長野主膳 染五郎、昌子の方 雀右衛門、お静の方 玉三郎の舞台を観ており、殆ど同じ舞台設定で演出もそれ程違わないのだが、やはり、白鷗と吉右衛門のキャラクターの差が見え隠れしていて、興味深かいと思った。
   吉右衛門の「歌舞伎ワールド」には、先代雀右衛門のお静の方との写真が掲載されているのだが、やはり、お静の方は、歌右衛門と雀右衛門の系統役者の世界なのであろう。
   玉三郎が、感動的な女性を演じたのには舌をまいて、私は、
   ”実に初々しくて涙が零れるほど健気で優しいお静の方を、人間国宝の玉三郎が、実に、乙女のように可愛くそして品よく演じ切って感動的である。”と書いた。

   一方、今回、雀右衛門のお静の方を、あらためて見て、吉右衛門が、殆どの舞台で女形の相手役に雀右衛門を起用しており、今回も、お静の方で、再登場したのもよく分かった。
   玉三郎のお静とは違ったニュアンスながら、雀右衛門が、これ程、純ないじらしい感動的な女を演じられる歌舞伎役者であることに感じ入って、こんな女性がいるのだと噛みしめて観ていた。

   この舞台の感動的な主題は、お静の温かい一言で、日本の危機的な運命に翻弄されて断末魔の苦痛に喘ぐ直弼の、心に平安が訪れて人生の悲哀を拭い去り、従容と運命を受け入れると言うところである。
   その切っ掛けと確信を悟らせてくれたのが、浪々時代に愛を交わしたお静の方で、直弼の生き様の集大成が、そのお静との魂の交歓とも言うべき暗殺前夜の一夜だったと言うのが、虚実は別として、北条秀司の作家としての力量であろう。

   直弼は、禅師が「一期一会」と書き記した笠を残して立ち去ったので、自分に別れを告げたと知って、華やかに飾られた雛人形を見ながら、お静と二人で、しっとりと酒を飲み始める。
   二人がひな祭りの夜に契った彦根時代の埋木舎での貧しくても楽しかった昔を思い出しながら、あの頃に帰りたいと述懐して、直弼は、藩主になった結果、お静に悲しい思いをさせたことを詫び、自分の信じて正しいと思って決然と実行したことを誰にもそして後世の人にも理解してもらえないであろう苦衷を打ち明ける。
   一緒に死ぬ覚悟を決めているお静の方に、「それならそれでいいのでは」といわれて、「よく言ってくれた」と、自分がしてきたことの正しさを、自分自身が晴れやかに認めて死んでいけばそれで良いのだと悟って、心の平安を得た直弼は、「次の世も又次の世も決して離れまい」とお静の方の肩を抱きしめる。
   その翌朝、雪が降りしきる桜田門外で、直弼は果てたのである。

   余談ながら、開国以外に日本の将来はないと言う一点については、井伊直弼の決断と政治行為については、何の疑問も感じてはいないが、長野主膳に、何故あれ程入れ込んだのかとか、安政の大獄への厳しさなどには、私自身の理解不足もあって、多少理解に苦しんでいるのだが、
   直弼の死後、遺品として大部の洋書や地図などが残されていたと何かで読んだ記憶があるので、
   私は、アヘン戦争で西洋列強の餌食になった中国の苦衷を知り過ぎるほど知っていた筈であり、英明な直弼ゆえ、日本の進むべき道は、はっきり見えていた筈で、太平天国に酔いしれていた大衆とは、一歩も二歩も前に進みすぎていた悲劇の最期であろう。と書いた。
   
   太平洋戦争と言う不幸な経験をした日本だが、奇跡的な復興を遂げ得たのも、日本の民度の高さと激動の時代を戦い抜いて明治維新を経て、破竹の勢いで近代化を成し遂げた日本人魂にあると思っているので、そんな思いで、井伊大老を観ていた。
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二月大歌舞伎・・・幸四郎の「一條大蔵卿」

2018年02月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座は、高麗屋三代襲名披露公演の二か月目で、どちらかと言うと、私には、先月よりも意欲的な作品が上演されたような気がしている。
   私が観たのは、夜の部の適当な日のチケットが取れなかったので、昼の部だけ鑑賞した。
   それでも、冒頭の「春駒祝高麗」は兎も角として、幸四郎の「一條大蔵卿」、海老蔵の「暫」、吉右衛門の「井伊大老」と大曲が並んでいる。
   夜の部は、白鷗の「七段目」に、寺岡平右衛門とお軽に、仁左衛門と玉三郎、海老蔵と菊之助と言うダブルキャストの人気役者の登場と言うご馳走が付加されたので、人気絶頂となったのであろう。
   この一力茶屋の場は、色々な役者で随分観ているのだが、実録には全く関係のない平右衛門とお軽が活躍する舞台で、エポックメイキングな内蔵助の祇園での放蕩三昧にスポットライトを当てたフィクションの世界であって、いわば、カリカチュア、名優の至芸を楽しめるのが良い。
   海老蔵と菊之助は、初めてなので、観たかったのだが、一寸、残念であった。

   「昼の部」で、直接襲名に関係あるのは、幸四郎の「一條大蔵卿」で、染五郎の時から、二度目であり、同じく、吉右衛門の指導であろうが、だいぶ慣れて工夫を加えて精進した所為か、芸に余裕が出た感じで、芝居っけが、消えたように思って観ていた。
   実際に、徹頭徹尾、作り阿呆で通せるのか、清盛と組んだ悪人八剣勘解由(歌六)が家来として四六時中仕えて監視しているので、非常に難しい話であるが、「花道を入るときに長成は、門前の鬼次郎(松緑)を見て、キッとして扇で顔を隠す」のなど、正気に戻った瞬間を演じている。
   この場は、通し狂言としては、鬼次郎と妻お京(孝太郎)の常盤御前(時蔵)の動向の探索が本筋であろうが、作り阿呆の大蔵卿の虚実が主題となっていて、座頭役者が取って置きの芸を披露するのが面白い。
   本当の阿呆であっては、一條卿のように徹底した阿呆を通しきれない筈のところを、虚実皮膜で、舞台では阿呆らしく見せるのであるから、正に、芸の力である。

   この阿呆と言うのは関西弁主体で、アホと発音するのだが、関東では、馬鹿と言うようで、ニュアンスが相当違っているものの、東西、お互いに違った言葉での罵倒のされ方をすると、一層傷がつくと言うのが面白い。
   元関西人の私など、間の言葉として、「アホとちゃうか」と言うのを、何の悪意も意味もなく使っているのだが、自分の阿呆ぶりを棚に上げての表現かも知れないので、気を付けるようにしている。

   さて、吉右衛門の著書では、元々、阿呆から正気への派手な変身だけが見せ場の他愛ない芝居だったのを、初代吉右衛門が、本心を曝け出せず思い悩む貴人・・・まあ、日本のハムレットと言う性格描写を吹き込んだのだと言う。
   吉右衛門は、「明かすべきか隠すべきか、それが問題だ」と言う立場の人間だと言うのだが、ストーリーとしては明かしているので、大蔵卿の心象風景であろう。

   文武両道の達人であり、本心では源氏を応援しつつ、したがって、常盤御前が清盛調伏のために仏壇に据えた清盛像を毎夜のごとく弓矢で射抜いていることも知っていながら、役立たずの作り阿呆を演じて世を欺いて、いわば、卑屈に(?)生き続けている。
   ところが、源氏再興を願って常盤に迫った鬼次郎夫妻の至誠に感じ入って、図らずも、正気に戻って、一気に堰を切ったように「今まで包むわが本心」を曝け出して、鬼次郎夫妻に、義経たちへの源氏再興の檄を飛ばす。
   幕切れで、切り捨てた勘解由の首を弄んで、憎っきき清盛に見立てて高らかに笑い飛ばすのだが、吉右衛門が言うように、表舞台に背を向ける者の寂しさが色濃く漂う。
   幸四郎が、「鬼次郎を見ているうちに、何もできない自分の悲しさを感じ始めます。そして、最後は本心を押し隠し、再びつくり阿呆になります。「長成が本心を現すことはもう一生ないんだ」、ということを叔父に教えられました。」と言っているのも、鬼次郎たちに触発されて、明かした本心の発露は、あの一回限りであって、そのまま、封印して、死ぬまで、暗黒のような悲しい阿呆を通して生き抜かねばならない、そんな悲哀を残して幕が下りたのである。
   そんなことを思って観れば、初代吉右衛門の思いも、そして、あれだけ、この舞台に打ち込んで作り阿呆を磨きに磨いて演じていた吉右衛門の心意気がよく分かる。
   その吉右衛門のあたり芸を、今月時点で、幸四郎が継承した記念すべき舞台であったのである。
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わが庭・・・梅にメジロとシジュウカラ

2018年02月22日 | わが庭の歳時記
   紅梅は、花盛りを過ぎたが、白梅は、ほぼ、七分咲き。
   しかし、春風の到来か、強風にあおられて散り始めている。

   梅に鶯と言うのだが、まだ、鶯の訪れには早いようで、頻繁に梅の木にやってきて、飛び回っているのが、メジロとシジュウカラ。
   スズメより少し小さな感じのこの鳥たちは、何故か、同じように木々を移動しているようで、前後して飛んでくる。
   大概、番いで訪れてくるのが面白い。

   千葉にいた時には、花木の背丈が低くて、高みであったので、庭の窓越しに、野鳥の写真を、比較的勘単に撮れたのだが、ここ鎌倉では、少し離れていて、梅の木が高木なので、カメラを持って、庭に出る間に、飛んでしまっていて、中々写真にならない。
   やっと撮れても、遠いので、ピンぼけかフォーカスが甘くて、写真にならないのが残念である。

   ひっきりなしに飛んできて喧しいのがヒヨドリで、この鳥は、全く魅力に乏しく、せっかく、咲き始めた椿の花をつついて、花を落としてしまうので、私には害鳥である。
   それに、悪食か、大食漢で、所かまわず、糞を撒き散らす。
   尤も、それ故に、面白い花木が、庭のあっちこっちで芽を出すのかも知れないが、とにかく、鳥によって好き嫌いがあるのが面白い。
   綺麗な鳥の一つは、腹部がオレンジ色のジョウビタキ。
   時々、庭で小休止して、すぐに飛び去ってしまう。
   鶯もやって来るが、鳴き声を追って木を見上げても、小さくて敏捷なので、中々、写真には撮れない。

   やはり、頻繁に訪れてきて梅や桜の花をつつくのは、メジロで、鶯は褐色に近い地味な色の鳥なので、鶯色と言うのは、この鳥のことであろう、
   とにかく、愛らしくて可愛い鳥である。
   
   
   
   

   シジュウカラは、白と黒の燕尾服スタイルの可愛い小鳥で、どちらかと言うと、小枝を梯子するメジロより、活発で高いところに飛び上がる感じである。 
   四十雀と言うことだが、巣を作らずに、シジュウ空の巣を探して卵を産むとかで、最も巣箱を使う小鳥と言うことである。
   
   
   
   

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国立劇場・・・文楽「女殺油地獄」

2018年02月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の文楽で、是非観たかったののは、この近松門左衛門の「女殺油地獄」。
   どうしようもない放蕩息子、大坂のぼんぼん崩れの典型的な気の弱いワルが、この浄瑠璃の主人公の河内屋与兵衛(玉男)で、親父の印判を使って借りた金を返せなくなって、切羽詰まって同業の豊島屋七右衛門(玉志)の女房お吉(和生)を殺害して金を奪い、捕縛されると言うストーリーである。
   そんなアホな息子でも可愛い一心の、親の徳兵衛(玉也)と女房お沢(勘彌)の親バカぶりが、実に切なくて泣かせるのだが、その親の純愛に一瞬だがホロっと感じ入る姿を見せる与兵衛が、せめてもの救いであろうか。
   住大夫が、この「女殺油地獄」で、はじめて、おじいさんおばあさんを出して愁嘆場をこしらえたと言っているが、主人公の与兵衛も、心中物のがしんたれの大坂男と違って、不良ながらも、商家の跡取り(?)のぼんぼんで、色男であり、かしら名が、源太と言う飛び切りの男前として登場するのであるから、がらりと雰囲気の変わった浄瑠璃となっている。

   この文楽は、かなりの省略はあるのだが、他の近松物と違って、脚色は殆どなく、丁寧に近松の元の浄瑠璃を踏襲しているのは、それだけ聴衆の心をつかむ完成度が高いのであろう。

   さて、この近松門左衛門の「女殺油地獄」は、文楽でも歌舞伎でも随分観ている。
   1993年から、歌舞伎と文楽には、大概通っているので、1990年代には、初代玉男のお吉、簑助の与兵衛と言う考えられないようなゴールデン・コンビの逆を行った公演があったようで、観ていると思うのだが、このブログは、2005年から書いているので、残念ながら、その記録も記憶もない。
   それでも、2005年の、簑助のお吉、勘十郎の与兵衛
   2009年の、紋壽のお吉、勘十郎の与兵衛
   2014年の、和生のお吉、勘十郎の与兵衛 を観ており、このブログに書いている。
   今回、玉男の与兵衛を観るのは初めてであって、先代玉男の人形ぶりはどうだったであろうかと想像しながら観ていた。

   一方、歌舞伎の方は、2009年に、仁左衛門の与兵衛、孝太郎のお吉、と言う素晴らしい舞台を観ており、その感動の記録を残している。
   仁左衛門の舞台は、色々観ているが、立派な風格のある立役も良いが、やはり、上方の歌舞伎役者で、血や言葉がそのように誘うのか、近松門左衛門のナニワオトコを演じると天下一品である。ブログにも書いたが、どうしようもない放蕩息子だが、親の愛情にホロリとして手を合わせる与兵衛の心の揺れ、弱さ悲しさは、門左衛門の世界である。
   もう一つ印象的であったは、2011年、ル テアトル銀座で行われた殆どオリジナルに近い通し狂言の舞台で、幸四郎(染五郎)の与兵衛、猿之助(当時亀治郎)のお吉と言うエネルギッシュで迫力に満ちた凄い舞台である。

   この舞台では、簑助が、与兵衛の妹おかちを遣っている。
   与兵衛に頼まれて、先代の徳兵衛を騙って、病身の身を起こして、自分の婿取りを止めて、与兵衛に好きな女を娶らせて家督を譲れば、自分の病は治ると、訴える役回りである。それが聞き入れられないと知った与兵衛が、父の徳兵衛を殴る蹴るの狼藉を働くので、おかちは、このように言えば、商売に精を出すと約束したのにと明かしたので、与兵衛は、おかちも、外から帰ってきた母お沢をも、蹴り飛ばして暴れるので、勘当されて追い出される。
    そんな健気な商家の病人の町娘を、簑助は、実に、丁寧に情感豊かに遣っていて、いつものように、美しくて素晴らしい。
   
   この舞台で興味深いのは、やはり、大詰め、豊島屋油店の段、与兵衛思いの老親の愁嘆場とお吉殺戮の場であろう。
   瀕死の状態のお吉が、店の油壺を倒して床を油まみれにしたので、逃げ惑うお吉を抜き身の刀を追いかける与兵衛が、滑りながら、くんずほぐれつ、
   お吉の人形は、裾を足遣いが腹ばいで引っ張って、一気に舞台の端から端まで滑り抜き、与兵衛の人形は、足や左の激しい動きに加えて、玉男が刀を杖代わりに床を激しく突き立て必死に立ち上がろうとノタウツ激しさ、
   仁左衛門や染五郎、孝太郎や亀治郎も凄い至芸の連続であったが、三人の人形遣いで織りなす人形だからできるスペクタクルモードのシーンの数々は、目を見張る迫力で、物語の凄まじさを増幅する。
   この段を、一気に語り抜き、観客を頂点に誘うのが、呂太夫と宗助。
   住大夫は、愁嘆場で点数が稼げる、おじいさんおばあさんで浄瑠璃らしゅう情を語って、殺しの場面になったら、あとは、新劇みたいなもんですから、リアルに語ってたらいいのです。と言っているが、この「豊島屋油店の段」だけで、立派に、みどりの一幕になる長丁場の凄い舞台である。

   義太夫・三味線も人形も、感動の連続、
   もう一度、近松門左衛門を読み直したが、凄い浄瑠璃である。
   これまで、この歌舞伎や文楽の舞台については、十分に書いたので、蛇足は避けたいと思う。
   

(追記)この口絵写真は、国立劇場のHPから、借用転写。
    前回の舞台写真で、殺戮の場と与兵衛が勘当される前の乱暴狼藉のシーン
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国立能楽堂・・・第五十八回式能

2018年02月18日 | 能・狂言
   私にとっては、通い始めて7回目の式能である。
   朝の10時に始まって、夕刻の7時半まで、
   大晦日のベートーヴェン交響曲全曲演奏会や、ロンドンのオペラハウスで聴いたワーグナーの楽劇の数々を彷彿とさせる長時間の連続芸術鑑賞で、またとない貴重なひと時でもあり、楽しみでもあった。

   【番組】は、次の通り。

    第1部
     能 金春流『翁』金春憲和『三番三』山本則孝
       『金札』辻井八郎
     狂言 大蔵『鎧』善竹忠一郎
     能 宝生流『小袖曽我』辰巳満次郎
     狂言 和泉流『文荷』三宅右近
    第2部
     能 喜多流『杜若』出雲康雅
     狂言 大蔵流『二九十八』大藏彌右衛門
     能 金剛流『鉄輪』宇髙通成
     狂言和泉流『酢薑』野村万蔵
     能 観世流『雷電 替装束』片山九郎右衛門


    「翁」は、2017年4月、金春流81世宗家を継承した金春憲和師で、昨年、鎌倉宮での「薪能」で、素謡「翁」 シテ/金春憲和 で聴いている。
   この「翁」は、4流の宗家が輪番に舞っているようで、2014年に、金春安明宗家の翁を鑑賞している。

   さて、いつも、荘重ながらよく分からない「翁」の「とうとうたらりたらりら」の詞章は、チベットの「ケサル王伝説の最初に謡う神降ろしの歌」だと言って、チベット人が、「あらたらたらりたらりら」とケサル王伝説を謡ったと、安田登著「能」に書いてあったが、伝説や信仰と芸能との関り、その神秘を感じて興味深い。
   学生時代に、安田徳太郎が、著書『万葉集の謎』で、日本語の起源はインドで使われるレプチャ語だと唱えて、よく似た日本語とレプチャ語を対比させて書いていたのを覚えているのだが、日本の歴史の起源を思わせるようで面白いと思った。
  いずれにしろ、日本古典芸能として最も洗練され昇華されている能狂言が、グローバルベースの背景を背負っていると思うと、その奥深さを感じて感慨深い。

   冒頭の「翁」から始まって「金札」、狂言「鎧」まで、途切れることなく連続公演で殆ど3時間、観客は、見所で釘づけだが、それだけの緊張感と観劇の醍醐味がある。
   私は、能「金札」も狂言「鎧」も初めての鑑賞であった。

   能の「小袖曽我」、「杜若」、「鉄輪」、「雷電」は、これまでにも鑑賞しており、「能を読む」や岩波講座の能鑑賞案内を読んで予習をして行ったので、かなり、楽しむことが出来たが、今回、セットされていなかったので、国立能楽堂の字幕ディスプレィの有難さを感じた。
   やはり、各流派のトップ能楽師たちの満を持しての公演なので、流石に、感動的な能の連続で、もったいないくらいであった。
   近くの客席では、謡本を手にして鑑賞している人が、かなりいて、私のような初歩は、どうしても謡よりは舞の方が主体で、舞台から目を離せないのだが、聴いているだけで、情景が髣髴とするのであろう。

   狂言の「二九十八」は、初めてだったが、「文荷」と「酢薑」は、何度も観ており、何度観ても面白い。
   「翁」の「三番三」は勿論、能舞台のアイ狂言でも、非常に重要な役割を演じており、狂言の凄さを感じている今日この頃である。

   鑑賞記などは、おこがましいので、これでおき、非常に貴重な充実した一日を過ごせたことに感謝しつつ、来年もまた出かけて行くことにしている。
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国立劇場・・・文楽「心中宵庚申」

2018年02月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の文楽では、織太夫襲名公演の「摂州合邦辻」は、先月、大阪の文楽劇場で鑑賞していたので、近松門左衛門の「心中宵庚申」と「女殺油地獄」に期待して出かけた。

   今回のこの文楽「心中宵庚申」の舞台は、原作の中の巻からの話で、
   半兵衛(玉男)の妻のお千世(勘十郎)は、これまでに2度嫁入りしたものの、半兵衛とは3度目の縁組みで、今度こそ、夫と添い遂げたいと願っていたのだが、半兵衛の義母である姑(文司)は、お千世のことを良く思わず、半兵衛の留守中に、懐妊中のお千世を実家へ帰す。
 お千世の実家・山城国上田村では、お千世の姉・おかる(清十郎)夫婦が、病気で寝込んでいる老父・島田平右衛門(玉也)と暮らしていて、老父は、姑に戻されて来たお千世の身の上を案じながらも温かく迎え入れる。
 そこへ、半兵衛が、浜松からの帰りがけに訪ねてきて、事情を聞かされて恥じ入り、どんなことがあっても、お千世と添い遂げることを誓う。喜ぶ老父は、娘が二度と実家に戻らぬことを願って見送り半兵衛夫婦は大坂に戻る。
   お千世を連れ帰った半兵衛は、自分に財産を譲り跡を継がせようとしている義母の顔が立つように、一旦お千世を家に戻し、改めて自分から離縁を言い渡して、お千世を家の外に追い出す。半兵衛は、夫婦2人でこの家を「去る」のだと言い聞かせ、庚申詣りの人込みに紛れて、生玉神社へ向かう。
   お腹の子を思いながら、半兵衛はお千代を刺し、辞世の句を詠んで、切腹して果てる。

   この浄瑠璃は、近松門左衛門の最晩年の心中物で、
   大坂新靫の八百屋の養子半兵衛と、姑のために離縁された女房の千世とが宵庚申の夜、生玉の大仏勧進所で心中した事件を脚色したもの。だと言う。
   何故、姑がお千代を嫌うのか分からないが、この舞台では、徹底的な嫌味ばばあで、自分では生き仏だと言っているところが愛嬌だが、血のつながった甥ではなく、血縁も何もない養子の半兵衛に身代そっくり譲り渡すと言う心境との落差が、面白い。

   私など、心中しなくても、いくらでも、家を出て生きる道はあると思うのだが、そこか、当時の庶民の義理と人情に生きる生き様であったのであろうか。
   お千代は、2度結婚していて、1度目は夫の破産で生き別れ、2度目は死別しているので、半兵衛とは3度目だが、この文楽では、真面な相思相愛の夫婦であって、姑だけが、悪者で横車を押しており、旦那の方は、能天気で無関心と言う事らしい。

   実話通りに、生玉神社境内の東大寺再建の勧進所での心中である。
   念仏を唱えた後、半兵衛は、お千代に切っ先を向けるが、あれは自分のための祈りで、お腹の子どもの供養がしたいと涙を流し、半兵衛も唱和して涙にむせぶシーンが、実に切なくて悲しい。
   明日はあの世で夫婦になる、別れはしばらくのことと思い定めて、元は武士の半兵衛は、大切に持っていたのであろう刀で、後ろ振りに仰け反るお千世を刺す。お千代は激しく痙攣しながら息絶え、そして、半兵衛は、辞世の歌を詠み、武士のしきたりどおりに切腹し、心中を遂げる。
   半兵衛が息絶えるまでに、かなり間があるのだが、今回、勘十郎は、横向きに倒れたお千代の首をシッカリと、最後まで握りしめて支えており、玉男の半兵衛が、抱きついて倒れかけるのに応えていた。
   普通は、亡くなった人形は、そのまま、舞台において、人形遣いは、去って行くのだが、勘十郎の温かさを感じて感動。

   玉男の半兵衛、勘十郎のお千代は、東西一の名コンビで、感動の一語。
   真面目一方で人情に篤い娘思いの老長けた玉也の老父、そして、実に優しくて甲斐甲斐しく妹を愛しむ清十郎のおかる、絶品であった。
   文字久太夫と東蔵、千歳太夫と富助、三輪太夫・團七ほかの、義太夫と三味線、とにかく、ぐいぐい、胸を締め付ける、流石に近松の浄瑠璃は凄い。

   余談だが、私が初めて人形の心中シーンを見たのは、もう、30年ほど前の、ロンドンでのジャパンフェスティバルの「曽根崎心中」。
   初代玉男の徳兵衛、文雀のお初。
   同じような後ろ振りのお初を、徳兵衛が抱きかかえるようにして、崩れ折れる壮絶なシーンであった。

   私など、心中する勇気もその思いもないが、大変なことだと思っている。
   
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エドワード ルトワック著「戦争にチャンスを与えよ 」(1)

2018年02月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、翻訳者の奥山真司が、エドワード ルトワックとのインタビューをまとめたもので、タイトルの「戦争にチャンスを与えよ」は、「戦争は平和をもたらすためにある」と言うのが、ルトワックの本意であるか、言い得て妙である。

   戦争は巨悪であるが、大きな役割を果たす。
   現在、多くの戦争が、終わることなき国際紛争となってしまっているが、いずれにしろ、重要なことは、一つの解決に至るまでは、戦いは続けられのだが、外部からの介入によって、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」と言う二つの終戦要因を阻害されているからである。
   すなわち、極論すれば、戦争は、すべてを焼き尽くすかもしれないが、戦争の当事者が、決定的な勝利か、戦争に疲弊すれば、終結する。ところが、国連なり平和機構なり強国なり民間機関なりが、戦争に介入すると、戦力戦意を復活継続させて、戦争や紛争は終わらない。それが、現在の国際紛争である。と言うのである。

   紛争に介入してはならないということで、「人道主義」の美名のもとに、遠隔地の殆ど知識もない地域の紛争に安易に介入する、例えば、イラク戦争の場合、ワシントンの人間は、イラクに民主制を導入すれば上手く行くと考えて、サダム・フセインを排除し、同じように、カダフィ大佐さえ廃除すれば、・・・しかし、混乱に輪をかけて、収拾のめどが立たない。
   戦争を止めるために、安保理の権威のもとで、停戦や休戦が頻繁に課されたコソボ危機に対するNATOの介入など、多くの介入によって、バルカン半島では悲惨を極めて紛争が継続し続けたし、第一次中東戦争など、安保理に命じられた二度の停戦がなければ、戦争は数週間で終わっていたなど、殆どの国際紛争は、介入によって解決が阻害されてしまっている。と言うのである。

   もっと悲惨なのは、人道支援である筈の難民支援が難民を永続化させ、紛争を永続化すると言う指摘で、国連より害悪になるNGOの介入として、ルアンダの国境沿いのコンゴ民主共和国の巨大な難民キャンプが、紛争によって雲散霧消していた筈のフツ族を生きながらえさせ、フツ族過激派の越境侵入してツチ族を殺すための基地」となっており、他の国の国境沿いの難民キャンプを同様だと言うのである。

   いずれにしろ、良いか悪いかは別にして、「決定的な勝利」や「戦争による疲弊」によって収拾がついて平和を取り戻す、「戦争が平和をもたらす」と言う逆説を、国連などの介入が、ことごとくぶっ壊していると言うルトワックの指摘だが、なるほどと分かっても、中々、そうだろうと言えないところが悲しいところである。

   このルトワックの指摘で、想起するのは、先日、このブログで書いた”株価崩落は当然なのか・・・オーストリア学派の見解”で、経済不況を解決するために行う政府や中銀の介入や景気浮揚策は、経済の自律的回復システムを破壊するので、やるべきではないと言う論理と、全く同じだと言うことである。
   また、以前に、貧困国家や発展途上国への国際的な経済援助は、援助を受けた国の自律的成長意欲を阻害したり、権力者を利して独裁体制や専制政治を促進するだけで、何の解決にもならないと論じた本を読んだことがある。

   良かれとして行う人道的な支援が、悪い結果を招くと言うことについては、やり方にも問題があるのであろうが、
   経済政策については、ルーズベルトが大恐慌後に実施した大々的なニューディール政策によるケインズ経済学的な政府出動や弱者救済など民主的な政策が、経済不況の克服に貢献したのみならず、その後のアメリカの民主主義的な政治経済社会発展の礎となったことは明白な事実であって、政府の介入の利点を示している。

   経済にしろ、戦争など国際紛争にしろ、今日のグローバルベースでの混迷ぶりは、宇宙船地球号の危機とも言うべき域に達しており、異常な格差拡大や国際政治の機能不全が、次善の策である筈の民主主義や資本主義を、窮地に追い込みつつある。
   ルトワックの説くごとく、戦争や国際紛争を、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」と言う二つの終戦要因によって解決するなどと言っている余裕もなければ、格差拡大が極に達している貧困国の状態を、このまま放棄しておれば、人類の滅亡さえ招きかねない。

   それでは、どうすればよいのか、ルトワックのこの本は、我々に決断を迫っている。
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鎌倉だより・・・稲村ケ崎波高し

2018年02月15日 | 鎌倉・湘南日記
   久しぶりに娘二人と家内で、ランチに稲村ケ崎のRestaurant MAIN へ行った。
   丁度休んでいた娘二人とであるから、今娘たち家族を合わせると9人のファミリーだが、私としては、オリジナルの家族である。
   このレストランの席からは、七里ガ浜越しに江の島と富士山が展望でき、反対側には、稲村ケ崎の岩山が聳えていて、その間に広々とした太平洋の海が広がっている。この風景が、憩いのひと時を楽しませてくれるのである。

   同じ家族ながら、オーダーするメニューが、それぞれ全く違っていて、何故、こうなったのか面白いのだが、私も、欧米が長かった割には、とんかつ系統が好きで、この日も、かつカレーを注文した。
   インド料理は、あっちこっちで結構食べてはいるのだが、このかつカカレーなどと言うのは、ちゃんぽんも良いところで、いわば、色々な種類のラーメンと同じで、微妙な日本オリジナルな食べ物であろう。
   しかし、真っ黒な特製デミグラスソースを使ったカレーのようだったが、美味しかった。

   風が強くて一寸寒かったが、海岸に出て、稲村ケ崎の上に出た。
   自殺防止のために、閉鎖されていて、突端には行けないのだが、ここに出れば、反対側の由比ガ浜から逗子葉山方面を展望できるのであろう。
   波打ち際に出たら、豪快な波しぶきが岩を食む。
   江の島が暗く横たわっている。
   残念ながら、曇り模様と薄雲で、富士山がはっきりとは見えなかったが、地球の鼓動を聴いているようで、小休止を楽しんでいた。
   
   
   
   

   この日は、バレンタインデーであったので、帰りに、娘たちは、菓子店に寄りたいと言う。
   まず、鎌倉山のル・ミリュウ 鎌倉山 (le milieu)に向かった。
   ここからは、殆ど海は見えないのだが、高台にあって、眼下に、鬱蒼とした緑に包まれた鎌倉山の風景が楽しめる。
   時々、やってきて、ケーキと珈琲で小休止を楽しんでいる。
   
   

   次に、いつも、バースディ・ケーキ・を買っている西鎌倉の レ・シュー (les choux)に行った。
   創作フランス菓子と言うことで、湘南では、かなり人気のある店のようで、結構、楽しませて貰っている。
   この店には、小さないす席があって、二三人は憩える空間はあるのだが、案外、喫茶室を併設すれば、喜ばれるのではないかと思う。
   
   
   
   
   

   さて、バレンタインチョコレートだが、私の場合、これまで、家族からや職場などでの義理チョコは貰ったことはあるのだが、悲しいかな、胸の時めくようなバレンタインプレゼントは貰ったことがない。
   商業主義に煽られたイベントだとしても、一喜一憂する人生が、あっちこっちで起こっていると思うと興味深い。
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株価崩落は当然なのか・・・オーストリア学派の見解

2018年02月13日 | 政治・経済・社会
   ニューズウィークの電子版を見ていたら、「株価崩壊は当然だ──アメリカの好景気はフェイクだった(A Stock Market Tumble Is the Correction We Need)」と言う記事を見つけた。
   FEEのジョナサン・ニューマンの記事だが、ミーゼスを引いてのオーストリア学派の見解を示していて、面白いと思った。
   要するに、サブプライムとリーマンショック以降、FRBが、市場経済の回復力を待たずに、不況脱出、景気回復のために行ったドラスチックな金融緩和やゼロ金利などの一連の政策が、経済をスキューして、見せかけの好況を演出して株価を一本調子で押し上げてきたので、崩壊するのは当然だ、と言うのである。
   ケインズ経済学流の需要拡大や金融政策の緩和などによって、不況時に、経済浮揚策を取ることは、当然だと考える一般論に対して、それをやり過ぎたから、経済が常軌を逸して過熱したのであるから、崩壊するのは当然だと言う論理は、そんな考え方もあるなあと思わせて新鮮でさえある。

   不況になれば、景気底入れのために、極端に悪化している需給ギャップを回復するために、公共投資など需要を喚起するための財政政策を取り、金利を下げたり金融を緩めるなど開放的な金融政策をとるなど、政府や中銀が積極的な景気浮揚策を取るのだが、
   オーストリア学派のミーゼスは、計画経済を鋭く批判しており、いかなる種類のものであれ市場現象への干渉行為は、その意図とは逆に、効果がないののみならず元の状態よりも更に悪化させ、福祉国家などの大きな政府は、まさに介入主義であり、必ず経済を停滞させるとする立場であるから、今回の株価暴落の主犯、悪の権化は、FRBのやってはならない無駄な介入である。とする。

  米国の株価は2009年に底を打ってから、安定して上昇を続けてきたが、2月に入って、1月に付けた最高値から、ダウ工業株30種平均は2200ポイント以上も下落(-8.5%)、スタンダード&プアーズ(S&P)500社株価指数も7.9%下落した。
   株価下落の主要因だと指摘しているのは、次の3件。
   ・今回の税制改革が、あらゆる企業に対して更なる先行き不透明感を惹起した。
   ・債券市場が、将来の価格インフレを引き起こして、事業コストを引き上げる。
   ・インフレ懸念に加え、米労働省が発表した米雇用統計での賃金上昇と言う楽観的な見通しによって、FRBが更なる利上げに踏み切る

サブプライム危機とリーマン・ショックによる2007~2008年の金融危機が、実体経済にも壊滅的な影響を及ぼした時、FRBは、大規模な量的緩和で市場に資金を供給し、フェデラルファンド(FF)金利を事実上ゼロにするなど前例のない行動に出た。
   FRBは、数兆ドルの資金を金融市場や銀行に供給し、企業がかつてなく低コストで資金を調達できるようにするなど、投資と雇用を刺激するために、大胆な政策に踏み切ったが、これは、住宅価格や資産価格の下落に歯止めをかけ、2000年代半ばまで続いた上昇基調に戻ることを目指した。

  ここまでは、周知の事実であるが、オーストリア学派のミーゼス流の論理になると、興味深いのは、
  FRBを、ドラスチックな行動に駆り立てたのは、株価暴落と住宅バブル崩壊だが、それは病気の原因や進行具合を教えてくれるX線画像のようなもので、画像を加工して病気を消してしまっては、医者も患者も正しい治療はできない。と言うことである。
   FRBは、異例の大胆な金融政策をとることによって、この2つの病巣を世間から覆い隠してしまった。米経済に必要だった健全な調整の機会を奪った。と言うのである。

   ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、中央銀行が「景気循環」の元凶だと初めて指摘した偉大な経済学者のようだが、企業は、事業を営むのに、どのように戦略戦術を打つかは、市場金利に基づいて判断している。中央銀行が介入しなければ、借り手と貸手の需給バランスを取るうえで重要な役割を果たすのが金利で、金融市場から流れる情報に従っておれば、最も生産性の高い方法で効率的に資本を分配できる。それが混乱するのは、中央銀行が介入するからで、
   今回のように、FRBが量的緩和を実施すると、市場に過剰資金が溢れて金利を押し下げ、企業も人も実際より多くの資本があるように錯覚して、企業は資金調達して雇用を増やし、工場や機械などのあらゆる資本財を新たに購入する。消費者も同様に、低金利を利用して住宅や車など、さまざまな消費財をローンで買う。このような、バブル状態の経済の好循環が、景気を必要以上に過熱させて、株価は史上最高値を更新させた。 
   
   言うなれば、過剰な生産や消費をし、企業も市場から誤った情報を受け取ったために事業判断を誤って、より高いリスクを負ってしまっており、そんな好循環がいつまでも続く筈がない。
   現在は、信用の蛇口が絞られてバブルがはじけ、人々が改めて自分のお金の使い方を見直し始めたところで、景気失速は失業や倒産の増加、株価の下落などを伴うが、自分たちの事業計画や支出を現実に即して見直すための健全なプロセスだ。と言うのである。

   株式市場は、バブル崩壊に向かっているか? それとも調整を経て、安定した持続可能な経済成長路線に乗ることができたのか? それは今日時点ではわからない。
   はっきり言えることは、10年にわたる株価の好調が、持続可能性と生産性をベースにした新しい時代を反映したものではないということだ。実際、数々の株価指数は、FRBが緩和したお金の分だけ上昇した。
   あれほどの金融緩和とゼロ金利で悪銭を供給してきたのであるから、企業業績も雇用も良くなり株価が高騰するのは当然であって、ブームが、避け得ない崩壊に至っても、驚くべきではない。
  
   以上が、ジョナサン・ニューマンの論旨だが、市場に任せろと言う理論だから、政府やFRBが一切不況対策も景気浮揚策も実施せず、放任して置けと言うことだが、それではどうすればよいのかよく分からないが、確かに、何もせずに市場経済に任せておいても、不況は深刻化し長期化したとしても、必ず、景気循環によって、好況を取り戻すであろう。
   政府の市場経済への介入は一切避けるべきだと言う、何か、消えていた懐かしい経済学が突然蘇ってきたような錯覚を覚えたのだが、いずれにしろ、景気状況に応じた経済政策は打つべきだろうと思っている。

    むかし、リチャード・クーが、バランスシート不況を論じながら、日本政府が膨大な公共投資で需要を支えて来たのでこの程度の日本経済の不況で済んだのだと論じていたのだが、その良し悪しは別として、このミーゼス流の論旨から行けば、そのような、無意味な政府の介入があったが故に、日本経済を健全な状態に戻して成長軌道に乗せるのに失敗して、失われた四半世紀状態に呻吟し続けたのだ、と言えないこともないのであろう。

   極論だとは思うが、中途半端な日本の経済政策なり、企業の戦略戦術が、厳しい時流への挑戦と対応力を削ぎ、それが、グローバリゼーションとICTデジタル革命・第3次産業革命と言う人類史上最大の大変革期に遭遇したために、残念ながら、キャッチアップ出来ずに、どんどん、後塵を拝する結果になってしまっていると言うことであろうか。
   その意味では、オーストリア学派的な市場原理、競争原理に基づいた厳しい政治経済的な対応姿勢も必要だろうと言う気がしている。
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ローレンス・S・バコウ:次期ハーバード大学長に

2018年02月12日 | 学問・文化・芸術
   NYTの電子版をみていると、”Harvard Chooses Lawrence Bacow as Its Next President”と言う見出しの記事が載っていた。
   この学長選出において、トランプの影が差しており、面白いと思ったので記事にした。

   ローレンス・S・バコウ(66歳)は、ミシガンのポンチャックで育ったが、19歳の時に、戦後になって、リバティー船で渡米して来た、家族で唯一のアウシュビッツ生き残りの母と、ミンスク生まれで、子供の時にナチの大量虐殺から逃れて来た父との間に生まれた移民の二世で、BAはMIT、J.D.、M.P.P. と Ph.D.はハーバードから取得しており、前のタフツ大学の学長であった。
   今回、高等教育が炎上しているこの時期に、彼の外交的手腕とリーダーシップ能力を評価されて、ハーバード大の学長に選ばれたのだと言う。
   バコウは、学者と言うよりは、マネージャーや組織のリーダーとして有名であり、膨大な基金を得ているエリート大学に対するトランプ政権の敵意(antagonism)に対応するために、舵取りが難しい時に、自制力のある冷静な対応を取れると言うバコウの資質が、ハーバードのニーズにマッチすると言うのである。
   そのまま、引用すると、委員会議長のウィリアム F・リーが、   
    Mr. Bacow as the right leader “at a moment when the value of higher education is being questioned, at a moment when the fundamental truth of fact-based inquiry is being questioned and called into doubt.”と述べていて、非常に興味深い。
   the fundamental truth of fact-based inquiryをどう理解すべきか、
   事実に基づいた研究の基本的な真実 と言う意味だとすると、それに、疑問符が打たれて、疑いが持たれていると言うのであるから、非常に、深刻な問題であろう。

   トランプの文教政策につては、手元に資料がないので分からないが、文教予算をぶった切り、アメリカファーストで最も重要なイノベーションを生む根幹とも言うべき研究開発費を大幅に削減すると言う方針を立てて、例えば、エネルギー研究開発費を半分に削減すると述べたのを覚えているので、高等挙育に対しては、目の敵にしているのであろうか。
   それに、米国でICT分野は勿論、学者や研究者、企業の高級技術者など、その多くを外国からの移民や入国者に頼っていると言うのに、ビザの発給を差し止めるなど、アメリカの活力を削ごうとしていた。

   いずれにしろ、ハーバードと雖も、トランプの時代逆行と言うか、時代錯誤の文教政策にたいして、身構えて、政治的な対応をしなければならない、と言うことが起こっている。
   このことを、この学長選出記事を読んで、悲しいかな、トランプが大統領になったばかりに、かなり激しいアメリカの迷走が、歴史を逆行させているように思えたのである。
   
   余談ついでだが、
   トランプは、ワシントン・ポスト取材班著の「トランプ」で、たしか、箔付けにウォートン・スクールへ行ったのだと書いていたように思うのだが、日本では、不動産学専攻のMBAだと誤解されて報道されているが、英文のウィキペディアでは、Alma mater The Wharton School (BS in Econ.)と記されているから、修士ではなく経済学士であって、在学中に、父の事業不動産業に携わっていたと言うから、大学課程だけでは、経済学なり学問に身を入れて勉強したとは思えない。
   MBAかどうかは、ウォートンの卒業者名簿を見れば分かるのだが、倉庫の奥で探せないので、諦めるが、実業者として大変なキャリアではあるものの、トランプの主義主張や政策を見ていると、どうしても、知的な香りを感じられないのである。
   それに、アメリカ人学生でも必死になって勉強していたから、トランプが、MBAコースを履修していて、本人が言っているように、一番で卒業できたなどと言う程、ウォートンは、甘くないのである。

   潤沢な資金を投入して、世界最高峰の学問水準を維持して、最高最先端の研究開発を追求することによって、世界中から最高の頭脳、俊英を糾合して、人類の文化文明の高みを目指す。
   これが、アメリカの誇りであり、国是であった筈なのだが、この夢を、ことごとく、野蛮人のトランプが叩き潰そうとしている。
   極論かも知れないが、そんな思いと恐怖が、アメリカの学問の府にあるのではないかと言う気がしている。
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NYT:クルーグマン・・・財政タカ派の欺瞞

2018年02月11日 | 政治・経済・社会
   NYTのコラムに、クルーグマンが、”Fraudulence of the Fiscal Hawks”を書いた。

   オバマ政権時代に、ライアンが、強烈に、財政赤字を糾弾していた。この保守党が、財政赤字に対して宗旨替えして、先週、大幅の減税を実施したのを、多くの論評が、疑問視している。しかし、これは、政策変更したのではなくて、保守党は、元々、債務や赤字などについては関心はなく、それは欺瞞であって、変わったのは、保守党の人間が、ホワイトハウスに入ったと言うことだけである。と言うのである。

   ライアンは、巨大な財政赤字の恐怖を煽って、保守党は、連邦債務の上限アップを拒否して財政危機を引き起こし、オバマを恐喝して国内プログラムの支出減に追い込むなど米国経済を窮地に追い込んだが、当時の赤字は、それ程、大きかったのであろうか、と問う。
   2012年の連邦債務は、10.9兆ドルであったが、その大半は、経済不況のために、収入が減り、失業補償やその他の社会保障などセイフティネット・プログラムのための支出が増加したためであった。しかし、この財政赤字は、その数年後の経済回復によって、急速にダウンしたのである。

   しかし、今回のトランプの巨大な減税は、全く、異なった状況下で起こっており、非常に問題である。
   2012年の深刻な経済状態では、財政赤字は、当然の帰結で正しい政策であった。ところが、独立の専門家が、来年の財政債務は、11.5兆ドルになると予測しているが、この今回の赤字は、これとは違って、経済は完全雇用状態にあり、FRBは、インフレ回避のために金利を上げようとしている状況下で起こっている。
   2012年の政府債務は、2008年の金融危機の後遺症で、失業率は8%と言う高位にあり、FRBが、限られた手段の中で、金利をゼロに引き下げ、量的金融緩和を実施して、経済不況を克服すべき戦っていたのだが、これに対しても、ライアンは、通貨の品位貶めだと厳しく糾弾していた。
   経済学の知識があると思えないライアンを、何故、クルーグマンが引用して批判するのかかが分からないのだが、保守党の重鎮であり論客であるからであろうか。

   ケインズは、「スランプではなく、ブームこそ、財務省にとっては、緊縮経済の時」と言っていたが、トランプは全く聞く耳を持たず、何はともあれ、この完全雇用の好機を利用して、債務削減を図るべきであるのに、失業率8%の時よりも、失業率4%の好況時に、減税して、もっと経済的刺激を与えようとしている。
   この減税効果が、経済を刺激するとしても、タイムラグがあるので、来年度は大幅の赤字になるであろうし、更に、インフラ整備で膨大な公共支出を実施すれば、更に、国家債務を押し上げることになる。

   クルーグマンは、好況時に、屋上屋を重ねる現在のトランプの経済政策など愚の骨頂だと言うのだろうが、私は、先日のブログでも書いたように、経済成長は、イノベイティブなサプライサイドが作用しなければ、ケインズ経済政策では、強力なドライブ要因になるとは思っていないし、トランプの経済政策は、期待を裏切って、むしろ、国家財政の更なる悪化を導くだけだと思っている。 
   もう一つ、トランプが、ラストベルトの失業と経済苦境に追い込まれたプアーホワイトなど米国社会から疎外された人々を守るために、国内企業の活性化を図るとして一連の貿易や産業政策を実施しているが、これは、グローバリゼーションで一体化した国際的産業構造にビルトインされた本質的な経済変革の結果であって、トランプが、いくら足掻いても、元の木阿弥で、解決など不可能だと思っている。
   大統領選直後、私は、自分たちの救世主だと信じてトランプに投票したプアーホワイトの期待は、必ず、裏切られると書いたが、富者優先の保守党が、弱者のために働く筈がないのである。

   この点について、更に、クルーグマンが、保守党の政策は、富を、弱者から強者へ、貧者から富者へと移行させ、経済格差拡大へと傾斜していると、厳しく指摘している。  
   保守党が、如何に、赤字について不真面目であったのか、彼らの財政政策の議題を見れば明らかで、常に、富者に対する大幅な減税で、それも、奇妙なことに、社会保障関連費の残忍な削減を伴ってであった。
   赤字は、特定できない抜け穴への支出を中止したり、特定できない政府プログラムを削減したりすれば、膨大な財源が捻出できると言う想定に基づいている。
   言い換えれば、保守党の財政タカ派姿勢のピーク時においても、保守党の提案の総てが、貧者から富者への再分配であった。
   債務について、さも心配しているように見せかけて、他の政治的目的を遂げようとする、それは、社会的なプログラムのカットをごり押ししたり、オバマ大統領を引き摺り下ろそうとする手段であった。
   と、クルーグマンは言う。
   益々、経済格差を拡大させて、アメリカ経済をもっともっと窮地に追い込むと言うのであろう。

   さらに、クルーグマンは、この問題を掘り下げて論じているが、
   最後に、この債務に関する保守党の言うことは、すべて間違いであって、信じてはならないと結んでいる。

   しかし、アメリカは、大統領も上下両院も、保守党。
   チャーチルが次善だと言った民主主義が、簡単に道を踏み外すとしたら、文明の進歩とは、一体、何なのであろうか。
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