熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

地デジ地デジと言うけれど~私の場合

2010年08月30日 | 政治・経済・社会
   来年の7月23日にテレビのアナログ放送が終了するので、その後は、地デジ受像機かチューナーを使わないとテレビが見られないので、テレビ、特に、NHKテレビでは、地デジ切り替えに関する放送が、喧しいほど流されていて、総務省も、これ宣伝に努めている。
   先年、アメリカでもデジタル放送への切り替え時に、政府がチューナーを配布するなど、全米的な運動を展開していたが、テレビ放送が、ゼネラルパーパス・テクノロジーであるならば、電気やガスや水道と同じであるから、個人の自由に任せるべきで、何故、これほどまでに教宣活動をして、かつ、政府が補助運動までせねばならないのか、不思議なくらいである。
   しかし、常識では考えられないような振り込め詐欺の被害にあったり、それに、ITデバイドの年配者が多いなど新しい生活に慣れない人も多く、また、生活に苦しんでいる家庭が多くなっているので、啓蒙活動をしたり、NHK受信料免除の人には、デジタルチューナーを無料配布するというのも、当然なのかも知れない。

   さて、私の場合には、テレビ、特に、NHKの教養番組を聴取したり録画するのは、私の生活の一部のようなものであるから、BS放送は勿論のこと、地デジが千葉で受信可能になった時には、もう、時を置かずに、機器を揃えて受信体制に入っている。
   テレビ受像機は、早くからBS・CSおよび地デジ対応の薄型であったし、BSとCS放送は、屋外アンテナを使い、地デジは、在来のアナログ放送時から、ケーブルテレビを引いていたので、受信機器の方を調整すれば簡単にデジタルへの移行が利いたので、何の造作もなかった。
   アナログ放送受信をアンテナからケーブルに変えた時に、BSやCSも移せば良かったのだが、直接アンテナから受信する方が録画には良いと言われたので、そのままにしたのだが、如何せん、天候が悪くなって荒れたり、雪が降ってパラボラアンテナに雪が積もると受信出来なくなる。

   さて、今回、パソコンを買い替えて、BSとCS,それに、地デジの受信が可能で、録画容量も1テラバイトあるHDDを搭載したパソコンにしたので、受信装置をどうするかと迷ったのだが、結局、室内アンテナ線を張り替えたり、あるいは、分配器を接続して長いコードで室内を繋ぐのも億劫なので、元々、フレッツ光を引いてパソコンや光電話を使っていることでもあり、フレッツテレビに切り替えることにした。
   これまでの古い機器とは違って、パソコンも電話もテレビも、すべての端子がついたルーターに切り替えたのだが、これ一つでそれぞれの機器に接続すれば、用が足りるのであるから、これほど便利なものはない。
   光ケーブルは、私の書斎のパソコンの傍に引いてあるので、このフレッツ光回線は、階下にあるテレビには接続せずに、それはそのままにして、私のパソコンだけに使うことにした。

   フレッツテレビのルーターについている同軸ケーブルコネクタ端子は、一つだけで、3波を集約しており、私のパソコンFH900/5ADRも同じ端子なので、分配器や混合器を使わずに、同軸ケーブル1本繋ぐだけで3波総てのテレビが受信できて、非常に楽であった。
   B-CASカードを差し込み、パソコンで登録を済ませて、パソコンで、テレビ受像の設定を行えば、すぐに、テレビが受信できて、録画が開始できるのであるから、特に問題はなかった。
   これまで、テレビとDVDレコーダーとパソコンを分離して使っていたのだが、それらは、そのまま使うとして、今回は、更に、一台で、これらの機能をこなせるAVパソコンが手元に出来たので、少し楽になって助かっている。
   
   今回、このパソコンやテレビの設定を経験して、使ってみると、フレッツ光が、200ギガに向上したのは勿論としても、とにかく、ICT革命の恩恵か、ICT機器等ハードやソフトの質の向上には、びっくりするほどの進歩があり、イノベーションの凄さを実感せざるを得なかった。
   しかし、いずれにしろ、滑り込みセーフで、ITデバイドを免れて、どうにか、誰の助けも借りずに、自分一人でパソコンを操作して、ICT機器を楽しめるようになっているのを幸せだと思っている。
   歳の割には、地デジ地デジと、慌てなくても済んでいると言うことだからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭の歳時記・・・猛暑で朝顔もほおずきも元気なし

2010年08月29日 | わが庭の歳時記
   私の庭は、今、夏の新緑に覆われてジャングルのような様相を呈しているのだが、毎日暑くて手が付けられない。
   それに、庭の空間に、沢山のトマトのプランターを置いたので、オープンスペースが少なくなって、一層悲惨な状態なのだが、このトマトも、猛暑で結実しなくなったので、廃却しようかと思っているものの、昨年は、10月始め頃まで、少しは収穫があったので、その決心がつかずに様子見の状態である。

   昨年、沢山実をつけたブルーベリーは、殆ど不作で、小鳥のエサで終わってしまいそうで、それに、たわわに実って処分に困ったほどのゆずも、今年は、花が少なかったので、見る影もない。
   実のなる花木は、隔年収穫で、その落差が、非常に大きい。

   紫式部の実が、少しずつ綺麗な淡い紫色に色づき始めている。
   下草のヤブランも、淡い青紫色の花茎をぴんと伸ばして花をつけている。
   百日紅の花は、殆ど終わってしまって、今、私の庭は、緑一色である。

   この口絵写真は、ホオズキの花である。
   ホオズキにも色々種類があって、良く分からないのだが、知人に苗を貰って移植したら、草丈30~40センチくらいに育って、清楚な花を咲かせて、ホオズキの袋をつけ始めた。
   もう一つ、私は、ホオズキ・トマトと言うのを植えているのだが、これは、草丈50センチ以上になって繁茂し、沢山の袋を被った実をつけている。
   袋を剥ぐと、1センチ足らずの小さな実が出てくるのだが、熟したのを食べてみると、確かに甘いが、ホオズキ・トマトと銘打って育てるほどのこともない。
   やはり、ホオズキはホオズキで、何処から集まって来たのか、カメムシがいっぱいである。

   水遣りをしくじって、大分、椿の鉢植えの苗を枯らしてしまって、可哀そうなことをしたと思っている。
   鉢が多くなってきたので、裏手の軒下に移動したのだが、ついつい、水遣りを忘れてしまったのである。
   ところで、ベトナム椿のハイドゥンが3鉢ある。最近殆ど花が咲かなくなってしまったのだが、今夏は、極めての猛暑なので、故郷を思い出して、秋に咲いてくれるのを期待している。

   さて、今年もあっちこっちに植えたアサガオだが、今年は、もう一つ花の咲き具合が思わしくない。
   地植えであっても、水遣りや施肥には注意をしているのだが、猛暑の所為か、勢いがなく、花数も少ない感じである。
   一鉢、行燈仕立てにしてみたのだが、見栄え良く綺麗に咲かせるのは難しく、やはり、心を籠めて世話をする必要があり、私のように、植えっぱなしで、水遣りと偶の施肥くらいではダメなのである。

   何故か、大分大きくなった崑崙黒の葉を虫に食べられて、大分弱って来ていたので、久しぶりに薬剤散布をした。
   庭には、沢山椿が植わっているのに、何故、この崑崙黒一本だけ被害にあうのか分からないのだが、昨年も、少しやられていたので、その所為かも知れない。
   もう少しすると、少しずつ、椿が咲き始める。
   気の所為か、庭を訪れるトンボが、少し赤みがかって来たような気がする。
   庭にたくさん飛びまわっていたアブラゼミが、急に少なくなった。
   もう、秋がそこまで来ているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事雑感~民主党の迷走の不可思議

2010年08月28日 | 政治・経済・社会
   円高株安で、益々、日本経済が窮地に陥ってしまっているのに、世の中は、民主党の代表選挙一色、そうでなければ、長寿高齢者の行方不明ニュースばかりで、世相が殺伐としている。
   今回の民主党代表選挙、すなわち、総理大臣を選ぶ選挙であるにも拘わらず、国民がシラケ切っているのは、あれだけ期待して民主党政権を実現させた国民が、完全に、この1年間の民主党の治世に失望してしまったからである。
   特に、経済財政政策については、逆行も甚だしく、元々成長戦略さえなきスタートで、まして、労働組合よりの良く分からない生活重視の政策を掲げて、経済界の危機意識に冷や水をぶっかけて意欲を削ぎ、その上、消費税を増税すれば成長・財政・社会保障問題が一挙に解決するのだとぶち上げて参議院選挙で敗北し、生活環境は益々悪化するばかりで、お先真っ暗。

   あれだけ、金と政治で国民の疑惑を招いて幹事長を止めて後方に引いていた小沢一郎が、突如、代表選に出馬表明しても、国民の拒否反応が弱わまっており、むしろ、小沢待望論まで出て来たのは、国民が、何も変わらなくて、少しも将来に希望が持てるとは思えない(?)菅内閣に嫌気がさして、いっそのこと、ヤリ手の小沢一郎に任せた方が、何か思い切ったことをやってくれて、この閉塞状態を打破してブレイクスルーしてくれるのではないかと言う期待があるからであろう。
   金と腐敗した政治が何だかんだと言っても、清水魚棲まずで、兎に角、こんなに経済状態が悪化して、日本国民の生活水準が、どんどん、国際水準から下落して貧しくなり、格差の拡大で世間が殺伐として来れば、金権政治であろうと何であろうと、強引に効果的な経済財政政策を推進して、世の中を変えてくれる方が、はるかに良いと言うのが、大方の正直なところではないかと邪推したくもなる。
   衣食足って礼節を知れば良いのであって、今の日本の状態は、あまりにも切羽詰って悲しすぎると言うことである。

   卑近な円高の問題だが、日本が悪くてと言うか、あるいは、日本が良くて、円高になっているのではない。
   須らく、アメリカとヨーロッパの経済状態が悪くなり過ぎての円高であるから、政府と日銀は、かってのように円安への介入をすれば解決出来るように思っているような節があるが、全くの誤解で、そんなことで、この円高傾向を止められる筈がない。
   アメリカにとっては、ドル安、すなわち、円高は国益にも沿った良策であり、経済的には痛くも痒くもないと言うことを、先日、榊原英資教授の書評で触れたし、また、域内の貿易の比重が極めて高いEUにとってもユーロ安の被害は少なく、むしろ、輸出促進になって好都合であり、米欧が、挙って自分たちの通貨安政策を推進している以上、おいそれと円高傾向が終息する訳がない。
   榊原先生がミスター円であった頃には、数十兆円規模の介入で円高を抑えたこともあったようだが、今では、その程度の規模で済む筈もなく、まず第一に、日本の国に、そんな力など残ってさえいない。

   それに、もっと根本的な問題は、日本の経済そのものが、金融緩和なども含めて、金融政策をいくらうまく駆使しても、解決できないところまで来てしまっていることである。
   エコポイントやエコ減税が、効果があったように、もっとドカンと大きな国民を喜ばせ奮い立たせるような、インセンティブ塗れの経済政策を打って、企業や国民のやる気と士気を高めない限り、日本全体が益々沈み込んでしまう。
   一時は、国家経済崩壊の危機にまで直面した韓国が、IMFやアメリカ資本主義の権化に煮え湯と劇薬を飲まされたにも拘わらず、苦汁を忍従して、必死に頑張って国家一丸となって難局を克服して、今や経済再建の模範として一等国への成長街道を驀進している現実を、他山の石として学べないのであろうか。
   朝早くから、多くの老人たちが、猛暑を避けてスーパーの待合コーナーに屯し、昔、×××銀座通りであった地方都市の駅前商店街が、犬と猫しか歩いていないシャッター通りに変わってしまったのを見て、日本人は悲しいと思わなくなってしまったのであろうか。

   先日、シャピロの日本経済批判に触れて、日本の労働生産性が、先進国中最低水準にあると言うことが、如何に日本の経済に対して危機的かと言うことを書いた。
   日本企業の国際競争力がどんどん落ちて行くのは必然で、要素価格平準化定理が働いて、国内の労働賃金や所得水準が下落の一途を辿って行って国民生活を圧迫し、その上、未曽有の円高で、日本の経済の底力である中小企業を、窒息死させるようなことになれば、あるいは、第二の空洞化で海外移転に追い込むようなことになれば、ただでさえ、20年以上もの不況局面に喘いできた日本の経済社会が、根底から崩れてしまう。

   あくまで、私の私見だが、今こそ、強力なリーダーの登場が必要であり、そして、民主党と自民党の意気に燃えた有志による大連合によって閉塞状態の政治を改革して、この非常時とも言うべき難局を乗り切る以外に、日本が立ち行く道はないと思っている。
   民主党の中に、金と腐敗には無縁の清廉潔白で、夢と希望に燃えた強力なリーダーシップを持った素晴らしい人材はいないのであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

格安旅行は楽しめるのであろうか

2010年08月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   JALが再建計画の中で、格安航空会社(LCC)を設立すると言う報道と並行して、格安航空券販売R-A-Jが破産したと言うニュースが報じられていた。
   全く性格は違うが、要するに、正規の航空運賃ではなく、安い切符で同じ目的地へ旅をすると言う目的では同じである。
   日本では、規制で雁字搦めであった航空券業界に、HISが殴り込みをかけて、安い航空券を売り出して格安旅行に先鞭をつけてから、既に、久しいが、海外では、もう何十年も前から、格安航空券があった。

   私が、アメリカへ留学していたのは、1972-1974年だが、当時日本では不可能であったので、フィラデルフィアで、家族呼び寄せ便と銘打った格安航空券を手配したし、急に家族が帰国する必要が起きた時にも、格安航空券(何故かJAL便)を買って帰した記憶がある。
   この留学中に、ペンシルバニア大のヨーロッパ留学生達がクリスマス休暇にパリ往復のパンナム・チャーター便を手配したので、これに便乗して家族で欧州旅行をしたのだが、
   とにかく、これ以外でも、ヨーロッパ旅行を、学生でも簡単に出来るくらい、格安航空券がいくらでもあったので、留学生や研修生の多くは、夏休みなどには、アメリカでじっとしているよりも、殆ど同じ出費で異国体験を楽しめると言うことで、あっちこっちを旅行していた。

   その後、私自身、海外生活が長くなったのだが、その間は、勿論、会社のためにも問題が起きると大変なので、格安航空券など買わずに、すべて、正規運賃で正規の航空便を使って旅行をした。
   しかし、私自身は、海外旅行では、出張でも家族旅行でも、団体旅行には絶対に参加せず、すべて、自分自身で航空券・ホテルは勿論一切を手配するので、一線を離れてからは、JALの悟空などを使うことがあり、国内旅行でも、格安旅行手段を適当に使っている。

   格安航空券と言っても、今回のJALのLCCのように最初から安い飛行機を飛ばす安売りと、悟空のように同じ正規運賃を格安で売るのと両方のケースがあるので注意が必要だが、私の場合には、勿論、後者で、同じ値打ちのあるものを安く買う方法を取る。
   百貨店などが、バーゲンセールをする場合に、バーゲン用に用意した商品と、平常に店舗で売っているものを期間限定で安売りする商品と両方あるが、この後者を選ぶのと同じ要領である。

   さて、国内の格安旅行だが、インターネットで、検索すれば、沢山の格安航空券やJR新幹線切符、それに、ホテルなどをセットした格安旅行プランなどが出て来てびっくりする程である。
   私の経験では、事前予約でルートやスケジュールなどが限定されていて変更不可能な場合が多いので注意が必要だが、それさえ気を付ければ、ホテル代がタダになって、往復航空券やJR新幹線代が更に安くなると言った格安料金で、旅行がセット出来る。
   
   この場合、どのような旅行業者を選ぶかがポイントだが、飛行機を利用するのなら、JALやANA,新幹線ならJR各社の関係会社や子会社、乃至は、名の通った旅行代理店またはその関係会社などを選べば、まず、心配はないと思っている。
   勿論、通常の場合には、クレジット・カード決済が普通なので、心配だと言う友人がいるが、その場合には、代引きにすれば良いし、私の経験から言って、何十年も海外を含めて多くの取引をクレジットカードで決済してきたが、全く、由々しき問題はなかった。
   決済が終われば、旅行開始前に、チケットなどが宅配便で送られてくる。

   余談ながら、プラスチック・カードなど全く信用出来ないと言って、いまだに、クレジットカードを一切持たずに、キャッシュ・オンリーで通している学歴もあり功なり名を遂げた天然記念物のような知人がいるが、飛行機恐怖症であったあのリヒテルでさえ、コンサート・スケジュールをこなす為に涙を呑んで飛行機に乗ったのだし、いずれにしろ、アメリカなどでは、クレジット・カードさえ持てない人間だと解釈されて、ホテルさえ泊めて貰えないのである。

   ところで、この格安旅行だが、この頃は、高級ホテルなども選べるパック旅行プランも売り出しており、季節や条件次第では、かなり、高級な旅行を、格安で楽しむことが出来るようになってきている。
   ICT革命のお蔭で、居ながらにして、旅行代理店などを通さずとも、インターネットを使って、自分好みの旅を計画し実行出来るのである。
   シルバーエイジの余暇を楽しむためにも、インターネットくらいは、自由に駆使出来ないと、生活の質まで違って来るICT革命の時代なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BRIC'sと言うけれど、危ういインド、ロシア~ロバート・J・シャピロ

2010年08月25日 | 政治・経済・社会
   先日、論じたシャピロだが、「2010」の「世界の経済成長を牽引する両――中国と米国」の章で、脚光を浴びているBRIC'sのインドとロシアについて、非常に辛口の議論を展開していて面白いので、取り上げてみたい。

   まず、ロシアであるが、国際政治の場では大きな勢力を持つことは間違いないが、経済的には、GDPはスペインやブラジルより小さく、一人当たりのGDPは、リビア、ポーランド、ボツワナにも及ばず、今後も特に進展なくマイナー勢力に終始するだろうと言う。
   新興国の経済成長は、海外から積極的に直接投資を勧誘し、世界の最良の技術とビジネス手法を活用することが不可欠だが、これまでのところ、そうした海外投資を惹きつけるだけの諸条件を国内に整備できていない。
   石油帝国ユコス石油会社の資産をプーチン政権が一方的に差し押さえたことや、政府役人の汚職を撲滅できずにビジネス環境が不穏当であるなどのために、ロシア資本がどんどん海外に流出しており、このような国内外の投資が、ロシア国内で持続的かつ大幅に伸びて行かない限り、かっての超大国並みの経済成長は、望みえないと言うのである。

   また、エネルギー価格の高騰に支えられていた世界最大の埋蔵量を誇る石油産業だが、原油の人為的な低価格と高い人件費が相まって、石油産業全般に亘って投資も近代化も圧迫されてしまって、石油回収技術は悲しいほど時代遅れで、新たな油井の掘削とパイプラインの建設が事実上ストップするなど、非常に劣悪な状況にあると言う。
   ロシアの投資水準の低迷は、ソ連時代に強力であったほかの産業分野も蝕んでいて、鉄鋼業を筆頭に主要産業の激しい衰退が、今後のロシアの経済的見通しを更に暗くしている。
   
   もっと深刻なのは人口問題で、先進国や主要新興国と比べて、出生率と平均寿命は最低で、逆に、乳幼児と若年者の死亡率は最高で、ロシア科学アカデミーの予測でさえ、出生率の低さと疾病の罹病率と死亡率の高さが原因で、今後15年間で、就業年齢人口が14~25%、子供の数が20~25%縮小すると言うのである。
   シャピロは、更に、多くの高齢者が退職と同時に深刻な貧困に直面している様子なども述べているが、国内政治においては、正に、発展途上国並みなのであろう。
   金融危機後の銀行の金融逼迫については、このブログでも触れたが、経済的基盤が脆弱であり、殆ど国際競争力のある産業を持たないロシアとしては、石油とガス価格の高騰と言う神頼みしかないと言うのが、実情だとすると、何が、BRIC'sだと言うことかも知れない。

   さて、インドだが、中国とともに脚光を浴びているが、一人当たりGDPは世界第118位、対GDP貿易額は世界最低に属し、農業人口がインド人口の60%で、生産性は米国の15%とと言う低さで、極度の貧困が存在するなど、経済的にはまだまだ後進国で、世界経済に影響を及ぼすようになるには何十年もかかる筈で、今後10~15年で経済大国となることはないだろうと言う。
   シャピロが金科玉条のように褒め上げる海外直接投資だが、インドは、長い間禁じて来ていたし、今でも、中国と比べても格段に低く、グローバル経済への門戸開放が遅れている。

   企業投資の面でも問題があり、インドの一般家庭の貯蓄の中で、株や社債、銀行預金などと言った企業の事業拡大になり得るようなものが少なくて、むしろ、土地建物、家畜、金製品の形で貯蓄したがり、個人資産の半分は金の装身具だと言うくらいだから、インドの金融システムを流れている資金量は非常に少なくて、海外投資の少なさを埋め合わせる力強い国内投資など殆ど期待できない。

   もう一つの問題は、深刻な停電で象徴されるように、電力網が世界から半世紀も時代遅れだと言うようなインフラの貧弱さで、電力生産量の40%が無料で提供させられたり盗まれていると言う現状で外資は寄り付かず、政府が、経済成長を遂げるためにも、積極的に、道路、橋、港湾、空港、上下水道、公衆衛生関連設備の改善・充実に本腰を入れない限り、多くを望めないと指摘する。
   シャピロは、インドの近代化の強さと弱さの縮図は自動車産業だとして、スズキの快進撃は別として、1998年まで外国自動車メーカーはインドでの生産が許されず、それ以降も、設備機器に対する輸入関税や、海外企業への法人税に高さ、それに、国内にインフラのお粗末さなどが相まって、長い間、激しい自動車産業のグローバル競争の蚊帳の外にあったと言う。
   IMFもインドを最も規制の厳しい部類に入れているようだが、インドの外資に対するこの消極姿勢は、外資とその技術、経営ノウハウを徹底的に利用して近代化を成し遂げた中国との大きな差だが、この経済政策の違いが、インドを、アマルティア・センが言う「社会主義国に見られる保健医療や教育の充実も実現していなければ、利益追求を奨励する資本主義の特徴を活かして活気ある経済を実現することもできていない」中途半端な国にしているのかも知れない。
   民主主義国家であるが故の、強力な保守的反動的な勢力の存在が、インド政府の近代化政策や経済成長政策に抵抗し、その足枷になっていること等については、政治勢力の異常な分散などとともに問題点であることを以前に論じたので、ここでは省略したい。

   ところで、世界に冠たるインドの知識産業であるITソフトや医薬品、エンターテインメント産業だが、ネール首相が創立したIIT(インド工科大学)を筆頭に、毎年5~10万人と言う、特に科学や数学に秀でた人材を輩出し、これらの人的資源が、インド近代化の成果とも言うべき最先端産業を支えている。
   しかし、インドの教育制度は、大部分の国民に基礎教育さえ満足に施すことさえ出来ないほど貧弱であり、世界でも最悪だと言われているので、このような、頭脳労働の産物――アイデア――を基盤として飛躍してきた企業に、創造性に富む才能や、高い技術を持つ若き人材は、極一握りにしか過ぎない。
   IITの卒業生が、故国インドでは職がなく、アメリカへ頭脳労働で流出したのだが、その優秀な移民経営者や技術者が、シリコンバレーからアウトソーシングして爆発したのがインドのITソフト産業だが、そのIITでさえ、ニューズウイークの「アメリカ後の世界」の著者ファリード・ザカイヤは、教育の質など不十分だと言う。

   このシャピロが辛口批判するインドだが、曲がりなりにも、自由主義的な民主主義の国であり、マンモハン・シン首相の自由化政策の実施と定着で、政治や経済社会構造などが近代化してきたようだが、中国のように一党独裁で、すべてを強引に政治決着して近代化を進められる国とは違って、巨像の動きの遅いのは仕方がないのであろう。
   とにかく、BRIC'sと一口に言っても、全く、違うのだと言うことで、シャピロの論点は非常に面白かったと思っている。   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅内閣で日本経済は大丈夫か

2010年08月24日 | 政治・経済・社会
   円高基調は依然変わらず、株も、とうとう9000円を割ってしまった。
   経済第二位の地位も、中国に明け渡してしまって、一つも誇るところのない経済状態の冴えない筈の日本の通貨円が、これだけ超人気なのも不思議だが、
   代表選挙と言うコップの中の争いで、政治そっちのけで右往左往する政権政党・民主党員の無様な姿を見ていると、バブル崩壊で一挙に経済大国の地位から滑り落ちて、20年以上も経済不況局面に喘ぐ哀れな日本の将来について、益々、心配せざるを得なくなる。

   さて、今回は、先日から引き合いに出している民主党の経済顧問で元商務次官であったロバート・J・シャピロが、近著「2010 10年後の世界秩序を予測する」の中で、「ヨーロッパと日本はこのまま衰退するのか」と言う章を設けて、今後10年のうちに日本経済が劇的に好転することは望めないとして、如何にダメかを論じているので、取り上げてみたいと思う。
  
   まず、興味深いのは、ヨーロッパ経済苦悩の原因は、一般的に、働く意欲を失わせるような気前の良い失業手当、高水準の最低賃金、天を突くばかりの高額な給与税、従業員の解雇を困難にする法的規制などが指摘されるが、これはごく一部の原因に過ぎず、
   米国でこの20年間に新たに創設された雇用の大部分は、起業によるもので、米国経済に活力のあるのは成長著しい新興企業のお蔭であることを考えれば、欧日の起業は米国の半分以下であり、この起業の差が根本的な問題ではないかと言うのである。
   欧日の場合には、起業したくても、厳しい官僚制の壁にぶち当たり、更に銀行やベンチャー・キャピタルから資金を調達するにも多大な苦労を強いられ、起業に漕ぎ着けたとしても、政府から気前の良い補助金や保護を受けている同業者と競争する羽目になり、起業を促進する風土にはないと言う。
  

   ヨーロッパの労働問題については、経験豊かな年齢層に早期退職を奨励し、女性に働かせないように暗に求めると言った文化的なバックグラウンドも問題で、米国と比べて労働時間も短く、それに、労働生産性も相対的に低く、このような現状は、グローバリゼーション下の先進国では、人材と技術と言う資源以外に経済成長を促進する手立てはないのだから、由々しき問題だと指摘する。
   日本は、これとは逆に、労働時間は長く、失業率も低く、高齢者の就労率も高いが、(アメリカより40%も低く)主要先進国で最低の生産性と女性の就労率の低さが問題だと言うのだが、競争に晒されずに過保護で育った内需型産業、特に、サービス業等の生産性の低さは、国際競争場裏では、目も当てられない程ひどいと言うことであろうか。

   シャピロは、更に論点を進めて、問題の核心は、欧日の大部分の企業、経済政策、商業文化に通底する基本的な特徴にあり、それは、グローバリゼーションが先進諸国に求めている役割と合致していないからではないかと言う。
   グローバリゼーションについては、EUの場合には、門戸を開くどころか、むしろ、グローバリゼーションによる域外諸国からの圧力を拒絶すると言った「EUの城塞化」とも言うべき戦略を取っており、世界で最も安い規格品の数々が消費者の手に届かず、最も低価格の材料や半製品を企業が入手できず、もっと悪いことには、世界で最も成長の著しい市場へのアクセスを自ら断ち切って、生活レベルを押し下げる愚挙を犯していると手厳しい。

   日本のグローバリゼーション対応は、比較的アメリカに似ているが、日本の最大の弱点は、自国の経済から世界各国を締めだしていることで、日本は長い間、外国からの殆どあらゆる種類の海外直接投資を拒絶し続けており、その対GDP比は、米国の7分の1、ドイツの20分の1、イギリスの30分の1で、日本の外資系企業の事業規模は、経済規模を考慮に入れればトルコの5分の1に過ぎないと言うことで、M&Aもままならず、仕方がないから、外国の投資家は、日本企業の株式を買うと言う挙に出ていると言うのである。
   
   グローバル化した経済の現状を拒む日本のやり方は、ヨーロッパ同様に破壊的で、各産業部門の日本企業の周りに壁を築いて、世界をリードする海外企業が推し進めていることから遮断してしまって、米国の企業や経済を変貌させつつある様々なイノベーションが及ばなくしており、非生産的な国内企業が広範な規制で保護されていて、先進諸国の企業との競争がない。
   このために、日本の企業は独自の技術や最適の経営・生産の手法を開発したり、他社が開発したものを自社に適応したりする必要に迫られなくなるので、その結果、今や、日本経済は、世界の先進経済諸国の中でも最低の生産性に喘いでいるのだと言う。

   激しく厳しいグローバル競争に晒されているので、日本の企業は大変な危機意識を持って戦っており、シャピロの言うニュアンスとは大分違うと思うが、しかし、コスト競争力や並みの差別化など従来の競争原理ではで新興国に勝てなくなってしまった以上、
   最先端を行く技術やノウハウを駆使しして、頭脳をフル回転してイノベーションを追求して、起業や新規事業を活発化し、一方、新興国などの経済力をアウトソーシングなどでで手玉にとって、エマージング市場を攻略するなど経営戦略を変えることの大切さは論を待たない。
   
   更に、シャピロは、生産性の低い広範な補助金や保護政策に守られている日本の企業と比べて、外資系の日本企業の生産性は、製造業では60%、サービス業では80%夫々高いのだと言う。
   シャピロの指摘するように、本当に、トヨタやキヤノンなど国際競争に打ち勝った先端的な製造業は別にして、一般的に日本企業の生産性が、それ程低いのかどうかは、調べる余裕がなかったので分からないが、
   もしそうなら、グローバル経済下では要素価格平準化定理が働くので、日本の賃金水準を更に下げざるを得ず、今、日本国内で議論されている雇用条件の改善などは夢の夢で、益々、格差の拡大を惹起することとなり、景気云々と言った経済問題以上に、日本人の生活に深刻な打撃を与えることになる。
   円高とのダブルパンチで、日本の宝である筈の技術優位のイノベイティブな中小企業さえ窒息死し、日本経済を根元から蝕んでしまう。
   果たして、菅内閣は、この現状を認識しているのであろうか。

   シャピロの論点である外資に閉鎖的と言うか敵対的(?)な日本の経済社会風土は、確かに、グローバリゼーションの時代に入っても依然強くて、ブルドックソースや成田空港にアクセスしたオーストラリア企業の排除などはどう考えても度を越していると思うし、国際競争を正面から受けて立つ日本人の気概がどんどん薄れて来ているのは紛れもない事実で、輸出立国を標榜して外国頼みの経済に依存し続けるのなら、やはり、もっともっとオープンに開国すべきであろう。

   余裕がないので端折るが、良くも悪くも、あの村上ファンドやホリエモンがアクティブであった時代のような、クリエイティブでイノベイティブな活力漲る日本の経済社会風土を醸成しない限り、明日の日本はないような気がしている。
   菅内閣の、日銀とさえ円高対応を十分に話し合えず、財源さえも益々逼迫して行くのに、ばらまき財政を続けて行く、先の見えない確固たる指針のない経済政策で、この非常時であり、風雲急を告げている日本丸のかじ取りは、大丈夫なのであろうか。
   兎にも角にも、政権安定が先で、高邁な理想を掲げた清廉潔白で、有意かつ有為の強力なリーダーに、未曽有の危機にある日本を託す以外に、残された選択肢はないと言うことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKプロフェッショナル~市川海老蔵:荒ぶる魂、覚悟の舞台へ

2010年08月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先日、NHKの番組プロフェッショナルで、歌舞伎役者市川海老蔵の非常に興味深い番組を放映していた。
   番組は、プロ歌舞伎役者としての海老蔵の真実を追い求めて、結婚など私生活も含めて多岐に亘っっており、非常に内容も豊かであり、今新橋演舞場で上演されている「義経千本桜」の、ロンドン・バージョンの準備段階から舞台の模様なども映し出されていたので、時宜を得ていたこともあって楽しませて貰った。

   ロンドンでは、座長公演でもあり、本来、演出家のいない筈の歌舞伎でありながら、海老蔵は、演出の細部にまで目を配ってスタッフに指図をしていた。
   サドラーズ・ウエールズ劇場は、全く日本の劇場とは違ったダンス専門劇場で、花道上空での宙乗り狐六法が出来ないので、止めてしまえば「培ってきたものが台無しになるので」と苦しみながら、舞台中央で宙乗りして、拍子木や桜吹雪で雰囲気を盛り上げて、子狐の喜びを宙で演じながら幕を引かせる演技に変えて、拍手喝采を浴びていた。
   私は、評価の最も厳しい筈の英国人が、殆ど、スタンディング・オベーションで海老蔵の舞台を称賛していたのにびっくりした。
   大分前になるが、在英5年間で、ケネス・ブラナーの「ハムレット」の舞台でも、ロイヤルオペラのドミンゴやキリ・テ・カナワの「オテロ」でも、ほかのどんなに素晴らしいスーパースターの舞台でも、スタンディング・オベーションなどは稀だし、あんなにイギリスの観衆の熱狂ぶりを見たことがなかったのである。
   鼓が、親(狐)に見えたと英人夫人が語っていたが、海老蔵への最高の褒め言葉であろう。
    

   番組最後に、プロフェッショナルとはと聞かれて、海老蔵は、「昨日の自分を超えることを継続し続けること」と答えていたのに興味を持った。
   その前に、「歌舞伎役者は、20とか30とか40とかはハナタレ小僧なんだよね。体がようやく動かなくなってから、芸とはなんなのかってことが見えてくる。やっぱりそういうところで闘わなくっちゃいけないと言うのは、今をどれだけ突き進むかに結構かかっていると思うんですけど。」と言っていた。ハツカネズミのように、精進の連続なのである。
   350年の伝統を背負う海老蔵が、成田屋の芸の伝統とその至芸に一歩でも二歩でも近づこうと言う意味でもあり、更にその先の歌舞伎と芸の向上進化を追求しようと言う意味でもあるのであろうが、番組は、その苦悩の軌跡を活写しながら、海老蔵の成長を追い求めていた。

   お家の芸を、世襲と言う形で子孫が代々襲名して継承して行くと言うのは、あの文楽の世界でさえ実力主義だと言うから、世界にも殆ど例を見ない、歌舞伎など極限られた日本の芸能の特質であろう。
   海老蔵は、「10歳くらいでも、「いいわよ」「悪いわよ」と言われちゃうんですよ。残酷な世界ですよ。子供の時から、そういう環境にいて、ひのき舞台に一人で出て、恥を知り、悔しくなり、本当に涙を流して、そして、どんどん大きな器を作って行って、現場の修業をすることが、僕たちの世襲のいいところで・・・」と語っていた。
   先祖が築き上げた芸が至芸であればある程、先祖に偉大な名優が居れば居る程、その子孫の覚悟や試練は並大抵どころか、その重圧は熾烈を極める筈である。
   先日、「二代目」の書評で触れたが、あの天下の名優吉右衛門でさえ、死を考えたことがあると言うのである。
   
   私が、非常に興味を持ったのは、海老蔵は、役者、芸術家として最も大切な特質である神がかり的な直覚の鋭さを持っていると言うことである。
   結婚の相手をどうして決めたのかと、茂木健一郎に聞かれて、「もう、直観ですよ。びりびりと言う感じで、この人だなあと会った瞬間に決めた。」と答えており、直観を信じる、直観が一番合っていますよ、と言う。
   それに、明快な答えは、人生は、運と勘と縁だと言う。運は、育てるものだし良くするものだし、縁は、その延長線上にある自分の持っている力で、それを働かせるのが勘だと言うのである。
   このブログでも、直観による経営判断や意思決定の重要性や、グラッドウエルの第1感の正確性などのついて論じたことがあるが、私自身も、ひとめぼれ、すなわち、直覚の愛を信じている方で、特に、芸術家にとっては、この感性の豊かさ、直観力が、最も重要だと思っている。

   台詞を覚えるのが抜群に早い海老蔵の台詞記憶術について語っていたが、何もせずに究極まで自分を追い詰めて、ヤバいヤバいでストレスの塊を凝縮させて膨大なエネルギーを蓄積すると、一挙にリミッターが外れて、幸せな脳みその状態が2~3時間続いて、台詞を2~3回読めば覚えられるのだと言う。
   このストレスは、外部からではなく、すべて、自分自身の内部からプレッシャーをかけて発信すると言っており、更に、重要なことは、外部からの影響は一切気にしない、人の言うことは一切気にしないと言っていることである。
   芸の世界では、どうかは分からないが、心酔し切っている偉大な師匠である父・團十郎は別として、海老蔵は、人からの教えよりも、歌舞伎芸術そのものに自分自身で真摯に直接対峙しながら芸を磨き精進を続けているのであろう。

   直観力が冴えているのは、海老蔵襲名興行の最中に、團十郎が急性白血病で病院に担ぎ込まれたときに、勘で、父は死なないとハラを括って、評判を取ることこそ父への孝行と舞台を務め続けたと言うことで、
   今の自分に市川家の芸と伝統を守れるのか、このままで納得できる役者に成れるのか、偉大な父を失う怖さをひしひしと感じながら、歌舞伎にすべてを捧げる覚悟を決めて、生活を180度変えて精進に精進を重ねたと言う。苦しいから、それを乗り越える喜びがあることに気付いたと言うのである。
   勧進帳の弁慶を演じる初日の前夜に、余りにも重い役であることの重圧に耐えかねて出奔したあの海老蔵の姿は、完全に消えてしまっている。

   経済発展の理論からすれば、海老蔵は、テイクオフしたのである。
   日本の伝統芸術である歌舞伎も、グローバリゼーションの時代に、どう生きて行くのか、歌舞伎界のホープである350年の伝統を背負って立つ海老蔵が、答えてくれるかも知れない。

(追記)私のこのブログも、開設してから、今日で2000日目を迎えた。6年と少しだが、徒然なるままに綴った駄文を、随分多くの方々に読んで頂き、感激頻りである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト栽培日記2010’(15)・・・猛暑で結実しなくなった?

2010年08月21日 | トマト栽培日記2010
   8月に入ってから、猛暑の所為か、トマトの木には、花は咲くのだが、殆ど結実しなくなってしまった。
   先日、テレビでも、専業農家においても、高温のために、花粉や蕊に異常が発生して、結実が悪くなったり、結実しても、実が異常な形になったりすると報道していたので、そのような現象が起こっているのかも知れない。
   とにかく、派手に花が咲いているのだが、仇花で、どの種類のトマトの木も同じように実がならないのだが、昨年は、このようなことはなかったし、全く栽培方法も変えていないし、水やりや施肥なども従来通りに行っているので、不思議である。
   まだ、木も元気を保っているので、このまま様子を見て、猛暑が終わるのを待とうと思っているのだが、それ程、期待できるとも思えない。

   尤も、これまで小さかった実が、少しずつ大きくなって色づいて来ているので、毎朝の収穫には、さしあたって問題はないのだが、要するに、在庫の食いつぶしのようなものだから、喜べない。
   キュウリも同じような状態だが、まだ、トマトよりは被害が少ない感じである。
   
   いずれにしろ、素人の趣味と実益を兼ねての野菜栽培であるから、収穫如何については、それ程、気にはならないのだが、お百姓さんは大変だろうと、いつも思う。
   生産性が、それ程高くもなく、それに、付加価値もそれ程高い商品でもない農産物を、あなた任せの気象条件に晒されて翻弄されて、生産量さえ不確かであり、価格は情け容赦なく乱高下するのを覚悟で、生産しなければならない。
   グローバリゼーションの進展で、益々、競争力が失われて行き、苦境に追い込まれて行くばかりでもある。
   政府の補助・庇護が最も高い雁字搦めの規制業種である所以なのかも知れないが、結局、最も資本主義経済で競争原理の働く産業だと見られていたが、既に、アメリカ農業とは違った方式ではあろうが、大企業による工場生産方式へとビジネスモデルを変えて行かない限り、生き残れないのではないかと思ったりしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事雑感~福祉国家が国を滅ぼす

2010年08月20日 | 生活随想・趣味
   ロバート・J・シャピロの「2020」を読んでいると、ヨーロッパの没落を当然のことだと説いていて興味深いのだが、その主な要因は、人々の自助努力や競争心と言った向上意欲を削いでしまった文明の進展にあると言うことである。
   2020年を予測するにあたって、最近の世界の潮流の大きな変化を、人口構造の変化、特に、高齢化と労働人口の減少、グローバリゼーションの進展、共産主義世界の崩壊と冷戦の終結、と言った3要素だとしてとらえて議論を展開しているのだが、新興国など眠っていた新世界の台頭にも拘らず、グローバリゼーションと言う文明の急激な変化の潮流に乗れない旧世界のジレンマを説いていて、日本を考えるのに参考になる。

   たとえば、国民の生活においても、失業者に対する保護に劣らず、就労者に対しても手厚い保護を与えていて、「ゆりかごから墓場まで」と言った過度とも言うべき経済的な補償を与えているので、格段に高い給与税(社会保障企業分担金)が、企業の経営を圧迫して、国際競争力を削ぎ、米国などの2倍の失業者を生む。
   このような国民の確固たる生活の安定保証は、ベビーブーム世代が労働力の中核を担って経済成長を謳歌し、海外企業との競争も今日ほど熾烈ではなかった時代に築き上げられた仕組みであって、今や、グローバル国際競争で新興国に連戦連敗し、少子高齢化で国家財政が破たんの危機に直面している。
   経済成長から見放された経済情勢において、国家が取り得る選択肢は、国民の福祉を切るか、増税するか、次世代の幸福を犠牲にして大規模な財政赤字を抱えるかしかない。
   要するに、ギリシャのように、国民の生活水準を一挙に落とす以外に解決策はないと言うことである。

   しからば、残された道は、老骨に鞭を打ってでも実現しなければならないのは、経済成長で、イノベーションと経済の開放による国際競争力の強化しかないと言う。
   ところが、ヨーロッパの大半の国々と日本には、イノベーションや雇用創出を推進する経済的、政治的な文化が欠けている。企業家精神を直接的に支援する法律や姿勢が見られない。逆に、幾重にも張り巡らされた補助金や規制やしがらみが、企業の既得権を守っているので、全く新しい形の新興企業が誕生するのはまれだと言うのである。

   菅内閣は、経済成長と財政再建と社会保障政策を実現すると言う。
   言っていることは正しいが、この三つは、トレードオフで、まず、真っ先に、経済成長有りきの筈。増税してその税金をすべて成長政策(?)に支出すれば、3つの政策を同時に実現できると夢のようなことを言うエセ学者の提言を真に受けて、増税論議をしかけて参議院選挙で大敗した首相も首相だが、果たして、日本の明日はどうなるのであろうか。
   大体、経済成長が実現できても精々2~3%と言うことだが、毎年、2~3%しか昇給しない90万円(手取りは、50万円以下)しか給料を貰っていない家庭が、どうして、更に増え続ける888万円の借金を返せるのか、子供でも分かるような馬鹿馬鹿しい議論を繰り返す為政者も為政者であると思うが、怒りを感じなくなった国民も国民である。

   ギリシャもそうだが、花見酒の経済を続けて浮かれすぎたイタリアが、最も危ないと言うのがシャピロ先生の言だが、さて、日本はどうであろうか。
   あれほど、政治と金にウンザリして、民主党に政権を移した筈の日本が、またまた、最も金権政治のイメージの濃厚なお人を担ぎ出そうとしているのだが、日本丸と言う船が沈みかけているのに、どうなっているのであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットショッピングが主流になる時代へ

2010年08月18日 | 生活随想・趣味
   これまで使っていたパソコンが、古くなった所為なのか、キャパシティが不足するようになったのか、機械音痴の私には良く分からないのだが、8年間、だましだまして使っていたのだけれど、動きが悪くなって不便を来すようになったので、先日、新しいデスクトップのパソコンに買い替えた。
   私の場合には、パソコンの用途以外に、BS放送受信や録画機能などがあった方が良いと思うし出来るだけ最新のものをと思う方なので、勢い、フラッグシップ・モデルと言うことになるのだが、性能は格段に良くなっている筈だが、価格は、当時の半分になっていた。
   既に、6月発売の2010年夏モデルが、20%以上のディスカウント価格になっていて、価格競争の激しさが良く分かる。
   
   ところで、購入手段だが、当然、価格コムで価格などを丹念にチェックして、ネットショッピングで買った。
   カード支払いが可能であれば、海外の劇場のチケットでも何でもカードで支払うのだが、普通、このようなカメラや電化製品などのネットショップでは、カード会社へ支払う手数料を嫌気して、銀行振り込みか代引きが多い。
   私は、代引きを選んで、パソコン到着時に、宅急便スタッフに代金を支払った。

   さて、何故、パソコンをネットショップするのかと言うことだが、同じ規格の同じ商品を、最も安く買えるからである。
   商品がはっきりしていて、品質その他に全く差がなければ、私は殆どネットで買って、自分でセットして使っているが、殆ど問題はない。
   今回は、事前にパンフレットやメーカーのホームページの情報で機種などを決めておいて、最初に、ビッグカメラに出かけて、直に商品を見て店のスタッフと話したのだが、価格コムの価格と比べて、はるかに高いし、いつ使うか分からないようなポイントを貰っても仕方がない。
   これは当然のことで、有楽町の一等地に店舗を構えて多くのスタッフを抱えている店が、いくら安く合理的に商品を調達しても、パソコンで注文を受けて、倉庫かメーカーあたりから発送する店舗も販売員も持たないネットショップと比べて、間接的な一般管理費的なコストでは雲泥の差があり、価格競争などできる訳がないのである。
   寅さんが、たとえ、露店で同じものを叩き売りしても、紅白粉を付けた黒木屋白木屋のおねえちゃんが立派なデパートで売るのとでは、価格面では、既に勝負がついているのと同じである。

   この流通コストを極限に切り詰めたネットショッピングの利点は、価格競争の点だけに限っても、流通革命の最たるもので、丁度、中国やインドが、先進国を尻目に、経済成長で快進撃しているのと同じように、実店舗での商業を、バーチャルなネットショップが、どんどん、蚕食して行くのは、歴史の必然であり、百貨店やスーパー、特に工業製品などを扱う分野での凋落を止めることは出来ないであろう。
   ICT革命によって引き起こされ、商業を取り巻く環境が大きく変化したのであるから、当然、商売のビジネスモデルを大きく変えなければならない筈なのだが、それにうまく乗って改革を進められないところに、日本の流通産業の問題点があるようである。
   どんなに足掻いてみても、百貨店もスーパーも、アマゾンや楽天には、逆立ちしても勝てない、時代が変わってしまったのである。

   興味深いのは、実店舗、たとえば、百貨店や、ビッグカメラやヨドバシカメラ、主要書店など色々な店が、ネットショップを併設し始めている。
   この場合に、丁度、アマゾンがネット書店を開設して間もなく、負けじとばかり、米国トップクラスの書店バーンズ&ノーブルがネットショップを始めたのだが、実店舗とネットショップが競合して経営を圧迫したように、これらの日本の店舗でも、その兼ね合いが難しくて、無理に使い分けていて、どっちつかずになっているケースが多い。
   クリステンセンのイノベーションのジレンマ理論と同じで、企業環境やビジネスモデルが完全に変わってしまっていても、そこそこやって行ける現業を切り捨てて改革するなどは到底出来ないのである。
   スライウォツキーが提案するダブルベッティング戦略など、ソニーでさえ失敗したのだから、日本の並みの企業が、そんな器用な経営ができる訳がないのであろう。

   さて、ネットショップの低価格に話を戻すが、ネットショップだからと言って、すべての店が安いのではなく、ビッグカメラや近所のカメラ電化店などと比べても、決して安いと思えない店も多い。
   しかし、ポイントは、最低価格が分かることで、その最低価格とそれを提示する店から順番に店舗表示されることで、その店が、どの程度信頼されているのかなど購入者の評価が表示されていて、購入希望の人間には非常に参考になることである。
   その他、売れ筋情報から信頼度、注目度は勿論、その商品にたいする消費者のレビューや意見・感想など、正に、ウイキノミクス時代の最先端を行く消費者主権が満ち溢れているのである。
   
   私は、この価格コムの情報を見ていて感じるのは、メーカーがこの価格コムを非常に注視しているのは分かるのだが、比較的弱いメーカーが、価格操作と言わないまでも、パイロット的な店舗を使って、かなり意識して瞬間的に価格を下げるなどして販売促進をしているのではないかと思うことがある。
   弱いメーカーだから、あるいは、売れ筋ではないからなどと言った理由で、価格変動するのは当然だと言えないこともないが、あまりにも、ドラスティックな価格変動をしているのである。
   たとえば、一眼レフデジカメのキヤノンやニコン、パソコンのソニーやNECなどの商品は、変動が少なく、時系列とともに徐々に下がって行くと言った価格の軌跡を描いているのだが、ほかのメーカーによっては、乱高下が激しいものが結構ある。

   もう一つのネットショップの特徴は、同じ製品を沢山在庫で持っておらず、極僅かな商品保有であるから最安値のショップからすぐに売り切れて、価格コムの店舗順位なり店舗名が、すぐに入れ替わる不思議さである。
   私など、カメラや電化製品などは、ネットショッピングすることが多いのだが、私がネット注文した直後に、価格コムから、その商品の表示から消えてしまったこともある。

   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サステイナビリティとイノベーション

2010年08月16日 | 地球温暖化・環境問題
   東大の「小柴ホール」で、サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシャム(SSC)の設立記念シンポジュームが開かれたので聴講した。
   地球環境と人類社会の持続可能性への展望を示すことは、それが危機的状況を迎えている21世紀において、学術界に課せられた最も大きな課題である。
   この課題に果敢に挑戦しようと言うのが、サステイナビリティ学で、今、世界中で、このサステイナビリティ学の創生に取り組む運動が急速に進展しているのだが、小宮山宏先生をリーダーとしていた東大サステイナビリティ学連(IR3S)が中心となって、いよいよ、コンソーシャムが立ち上げられたと言うことである。

   さて、Sustainabilityと言うことだが、持続可能性と一般的には訳されているのだが、どう言うことであろうか。
   一番有名なのは、マルサスの人口論(1798年)で提起された食料は算術級数的に増加するのだが人口は幾何級数的に増加すると言う命題で人類の危機を警告したケースだと思われるのだが、前世紀の後半に入って、ローマクラブが、「成長の限界」を発表して、資源には限りがあり、汚染物質の発生が地球の限界を超えて進み得ると、データをもとに指摘して、人類の将来にとって、非常に重要な問題を提起したのが、本格的であろうか。
   尤も、このすぐ後に、私は、留学のために渡米して、つぶさに最先端を行く超大国アメリカの現状を見聞きしたのだが、ラルフ・ネーダーの消費者運動で、大企業への利益誘導型のアメリカ帝国主義的な経済体制への批判は、ある程度脚光を浴びており、環境問題なども俎上に載せられてはいたが、まだまだ、世界中は発展途上にあり、経済成長と社会の発展を如何に追及実現して行くのかと言うのがすべての国家の最重要課題であって、この成長の限界論は、殆ど無視されていたのが現実であった。

   味埜俊東大教授の指摘では、サステイナビリティに関わる課題として、問題とされているのは、地球温暖化、資源の枯渇、食料の確保と安全、金融危機、貧困だと言うことだが、このサステイナビリティを規定するのは、人間/社会の側面からは、時間・空間を超えた公平性の確保であり、経済の側面からは、拡大を前提とした経済システム、グローバリズムと地域経済と言ったその多重性、貨幣価値以外の価値観、短期的な視野に基づく投資だと言う。
   したがって、これらの問題を総合して持続可能性を追求する学問体系が必須であると言う。IR3Sの定義するサステイナビリティ学とは、地球環境問題や人間の安全保障の問題に代表される地球・社会・人間システム、およびそれらの相互関係の破綻をもたらしつつあるメカニズムを解明し、持続可能性と言う観点からシステムの再構築、およびそれらの相互関係を修復する方法とビジョンを目指す新しい学問体系だと言うのである。

   ところで、味埜教授は、サステイナビリティとはと言う説明の中で、環境と開発に関する世界委員会(ブルントラント委員会)の定義する「持続可能な開発/発展 Sustainable Development」を示して、「次世代のニーズを損なわずに現世代のニーズを追及する開発」だとしていることに触れたのだが、私の関心事は、サステイナビリティと経済成長やその発展との関わり、相関関係がどうなるかと言うことであるので、非常に興味を感じた。
   成長の限界と言う言葉からも分かるように、逆に言えば、経済成長するから、そして、人口が増加し続けるから、持続可能性を維持出来なくなる、地球の限界に達してしまう、のだと言う理論が先行して、サステイナビリティと経済成長は、トレードオフの関係とみられることが一般的だからである。

   一方、グリーン・イノベーションと言う言葉にも内包されているように、サステイナビリティを追及維持する運動をチャンスと捉えて、地球環境の維持と経済成長を両立させようとする動きが加速化しており、特に、ヨーロッパを主体にしたエコ・プロダクツの開発など、積極的に環境ビジネスに関連して、イノベーションへの意識が高まって来ている。
   茨城大の三村信男教授は、気候変動への賢い対応と題して、気候変動への対応を、科学技術の飛躍により新たな社会と価値を作り出す好機として、社会の成長を促す駆動力にすべきだと主張していたが、これもこの考え方であろう。

   また、ビジョン2050を掲げて、地球温暖化問題を解決出来ると語る小宮山宏先生は、エネルギー効率3倍、再生可能エネルギー2倍、物質循環システムの構築すれば良いと言う。
   日米欧で、自動車保有台数が増えなくなったように、今現にある家、車、テレビ、新幹線、原子力発電所等と言った人工物は、必ず飽和して生産がダウンし、その上、自動車など、ハイブリッド、電気自動車・燃料電池車と進展して行くことによってエネルギー効率は10倍になるなど、イノベーションによる技術の進歩は未知数であり、中国もインドも、同じ道を辿って成長して行くので、心配する必要はないと説くのである。

   同じように楽観的な見解を、ロバート・J・シャピロが、「2020 10年後の世界新秩序を予測する」の中で、マルサス論やローマクラブ、あるいは、ロックフェラー委員会の懐疑的な見解を一蹴して次のように述べている。
   「いずれも、イノベーションの力が新たな資源を生み出し、既存の資源の有効活用を可能にしてくれることを見落としていた。そして増加する若年層の国民により良い教育を施せば、多くの富が生み出されると言う点を過小評価していた。さらに、社会や経済体制によっては、状況の変化に見事に順応して行けると言うことも理解していなかった。」

   さて、それでも、私の見解は、そんなにイノベーション頼み一辺倒のの考え方で、地球環境の危機を乗り切って行けるのかと言う心配は消えない。
   人口の自然淘汰現象が起こらない限り、どんどん人口は増えて行くであろうし、第一、自動車が飽和したとしても、人間の欲望は無尽蔵であり、次から次へと、自動車などに代わる、あるいは、それ以上のものを求めて悪戦苦闘する筈で、人間の活動は止まるところを知らないとしか考えられないのである。

   人類の偉大な英知や知的遺産をを守り抜くためにも、サステイナビリティ学の進展を祈りたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八月大歌舞伎・・・海老蔵の「義経千本桜」

2010年08月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   ロンドンとローマでの海外公演で人気を博して、凱旋公演と銘打って人気絶頂で大入りが続いているのが、結婚ほやほやの海老蔵が演じる「義経千本桜」の狐忠信の舞台である。
   私がこれまで見た狐忠信は、勘三郎と菊五郎なのだが、決定版とも言うべきこれら大御所が演じる舞台とは、かなり雰囲気が違った感じで、とにかく、若さあふれるはちきれんばかりのパンチの利いた舞台で、大いに視覚聴覚を楽しませてくれた。
   同じく、若手のホープでもある勘太郎が義経を、七之助が靜を、これも溌剌とした素晴らしい演技で共演・サポートしているのであるから、リズム感と言い、テンポと言い、舞台全体が息づいているようで兎にも角にも、華やかで美しいのである。

   多少、若さゆえの荒削りで、時には芸やテクニックの未熟さが垣間見えて気にならないわけではないが、私自身は、歌舞伎は、見せる、そして、魅せる芝居でなければならないし、それに、美しければこれに越したことはないと思っているので、大いに満足であった。
   第一、セリフの入らないような役者が出演していないので、耳障りなプロンプターの声は聞こえないし、それに、外連味の勝ったスリリングな演技の場合でも、安心して見ていられるのが、何よりも良い。
   文楽の場合には、どんな年代の人が遣っても、女でも男でも、あるいは、大人でも子供でも、人形を持ち替えれば良いのであるから、それ相応の年齢の演技を人形に演じさせられることが出来るのだが、生身の役者が舞台を務める芝居の世界では、悲しいかな、体がものを言ってしまうので、それなりに芸の表現に限界が出てくる。
   
   さて、先に、「訪欧凱旋公演」と銘打っているので、興味を感じて、イギリスにおける海老蔵公演のレビューをチェックして見た。
   まず、サドラーズウェールズ劇場の古いホームページを開くと、鳥居前の舞台で取り手たちを相手に大立ち回りを演じている荒事の勇壮な海老蔵の写真を掲載しており、右下の「play clip」をクリックすると、海老蔵が宙乗り狐六法で上空に消えて行く川連法眼館の最後のシーンの動画が映し出される。
   infomationでは、非常に丁寧に歌舞伎から舞台について解説されており、galleryでは、海老蔵の写真集、synopsisでは、義経千本桜の筋書きが掲載されていて、非常に役に立つ。
   その上に、歌舞伎のエキスパートRONARD CAVAYEが、歌舞伎の伝統や歴史、海老蔵、千本桜などについて語っているナレーションが聞けるのである。
   このサドラーズウエールズ劇場は、4年前の海老蔵公演でも舞台となったようだが、主にダンス劇場で、ロンドンの北にあって、私も在英中に、幸四郎の「王様とわたし」を見た。

   インターネットで調べたので、一部のレビューだけだが、夫々がまちまちで面白い。
   まず、興味深いのは、ガーディアン紙のリン・ガーディナー女史の論評で、昨年ンバービカン劇場で上演された蜷川の歌舞伎スタイルの「十二夜」を、日欧劇場を水と油のようにミックスした賢くない舞台だとして、本物の歌舞伎を見たい人には、この1748年誕生の古典歌舞伎義経千本桜は、はるかに尊重に値すると書き出しており、海老蔵の正装した佐藤忠信の写真のDelicate elegance・・・と言う添え書きが冴えている。
   余程、古典歌舞伎に惚れ込んでいるのか、観客は舞台を見れば、200年の間殆ど変らずに継承されて来たものだと言うことに恐怖と畏敬に満たされ筈だと言う。
   チョコレートの箱のように美しく、時にはキラキラ輝きカラフルで、最初から最後まで一寸現実離れした素晴らしい舞台だと述べ、兄頼朝と不仲で逃亡する義経と静と初音の鼓のことを説明しながら、最も興味深いラストシーンは、この忠臣忠信が、人間ではなく狐だと言うことが明らかになることだと書いている。
   忠信を演じる海老蔵が、17世紀から続いている伝統あるダイナスティの末裔で、エキゾチックな鬘をつけて顔には鮮やかな隈取をして登場し、見るだけでも値打ちがあり、その立ち振る舞いは、デリケートで優雅であり、時には堂々たる喜劇役者ぶりを発揮していると言っていて、海老蔵にぞっこんである。
   この新聞は、先に、海老蔵の紹介記事で、海老蔵は、17世紀からの名門歌舞伎役者の末裔であるばかりではなく、映画やTVでの名俳優でもあり、今回の大作千本桜で、忠勤な侍と謎めいた狐の精を演じて、声と肉体を駆使して最高の名人芸を見せるのだと期待を表明していた。

   ファイナンシャル・タイムスのジェラルド・ドウラーは、歌舞伎のスーパースターが4年ぶりにロンドンに帰ってきたとして、今回、海老蔵は、非常に意欲的に、義経千本桜で、芸術様式の最高の奥義に対する理解と解釈を更に深めて、その成果を披露しようとしているのだと言う。
   歌舞伎役者は、名優の襲名を行うので、イギリスでは、さしずめ、アレックス・ギネス2世だと持ち上げている。
   この舞台において、海老蔵は、成田屋が得意とする荒事から不思議な狐まで、姿かたち、動き、声音、しぐさ等をを早変わりを含めて巧みに変化させて、移り変わる舞台をバックに、非常に幅広い表情を見せていると紹介し、一番良かったのは、「道行初音旅」の海老蔵の合戦を語る舞踊だったと言うのが面白い。
   ついでながら、芝雀の靜の美しさに感激したのであろうか、クイーンマザーのようなデリカシーを持った、非常に芸術的に理想化された女性像を示したと、昔、歌右衛門の舞台に通い詰めて、LOVE,LOVEの電報を打ったグレタ・ガルボのようなことを言う。

   ほかに、海老蔵讃歌のレビューはあるのだが、きりがないので、今回はこれでやめる。
   イヤホーン・ガイドが克明に説明を加えていたようで、英国人にも良く分かって好評だったようである。
   
   上村以和於氏が、日経の歌舞伎評で、海老蔵のセリフ表現に問題がるとして、文楽の大夫に師事して勉強せよと言ったようなことを書いていたが、さて、どうであろうか。
   私は、浄瑠璃から来た歌舞伎の舞台であって、たとえ同じ題材をテーマとするパーフォーマンス・アートであっても、三業で成り立ち大夫の語る文楽の世界と、生身の役者が演じて喋る舞台とは全く異質であって、まして、狐言葉の表現など決定版がある筈もないし、これこそ、歌舞伎の伝統やしきたりなど貴重な価値を継承しておれば、硬い型に無理に嵌めるべき性格の舞台ではなく、役者の創意工夫によって進展して然るべき芝居だと私は思っている。
   海老蔵は、海老蔵なりの哲学があって、新しい試みと芸術の進化を手探りで必死になって追及しようとしているのだと思う。

   狐忠信で外連味あふれる芸で宙を舞って、五代目が、あれほど希って夢にまで見て実現したかった芝居の都ロンドンで、少なくとも、喧しいロンドンっ子を感激させたのであるから、海老蔵の今後の精進を祈るべきであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スタンフォード大学の起業戦略・・・ジョン・L・ヘネシー学長

2010年08月13日 | イノベーションと経営
   日立のコンベンションで、ジョン・L・ヘネシー学長が、「シリコンバレー復活に見る日本の課題」と言う演題で、非常に興味深いイノベーション論を展開した。
   テーマとは殆ど関係なく、スタンフォード大学が、シリコンバレーを通じて、如何に、現代アメリカの先端技術のイノベーションを遂行して来たか、その特質を語りながら、アメリカ経済のダイナミズムの秘密を論じたと言うのが、私の感想である。
   金融危機の影響で、アメリカ資本主義そのものに、疑問符が打たれてしまったが、しかし、経済活動に火を付けて起動させるために、人間の希求と飽くなき渇望を呼び起こすべく如何にあるべきかと言う一点においては、アメリカの経済活動は、極めてダイナミックで健全なのである。

   ヘネシー学長は、冒頭、リサーチとイノベーションが、経済成長の牽引車であると断言する。
   新しいテクノロジーが生まれると、新しい産業にブロックを構築するのだとして、ベル研究所で半導体が発明されると、シャックリー・ラボやフェアチャイルドやTIがこれに呼応して重層化したように、ワークステーションや現代PC,インターネット、ウエブ、バイオテクノロジーなども全く同じ状態で推移して、新産業群を生み出して、これらが、産業界に機会を誘発して、経済発展の引き金となったのだと言う。
   しかし、新テクノロジーは、連続的に生まれ出てくるのではなく、長期間を要する非連続的な産物で、経済的にも体力的にも企業がやりおおせなくなってしまっているので、イノベーションを生み出す基礎的技術の開発は、長期的なR&Dが可能な大学の役割となって来ている。

   大学や企業でイノベーションを生み出すためには、
   適切な人材の確保
   テクノロジーの切っ先にいること
   革命を引き起こすようなテクノロジーや発見の追及
   メリットクラシー、選択の自由、リスクテイク等のカルチャー
   と言った条件を確保することが必須だと言う。
   次に重要なことは、ラボからイノベーションを製品として完成することである。

   クリエイティブ時代において、最も重要な生産要素は、人の頭脳であることは周知の事実で、学長は、グローバルベースで、最高の人材を探し出して、その人材に世界を変えさせるような意気ごみを感じさせるようなインセンティブと仕事環境を与えてエンパワーすることが、如何に大切かを強調する。
   そのためには、能力主義は当然で、詳細なリサーチのアジェンダなどは中央から与えるのではなく研究者たちに任せるべきである。
   ほとんどの成功やブレイクスルーは、企図されたものではなくセレンディピティで生まれているのであるから、リサーチの戦略的方向性なども含めて自主的運営が効果的だと言うのである。

   人材活用の重要性については、新しいテクノロジーをイノベーションに転換する時においても、最も大切な要素は、人であると言っており、アイデアやテクノロジーではなく、それらを最も熟知している技術者を送り込んで、イノベーター、メンターとして活用せよと言っているのである。
   スタンフォードの成功の大部分は、人による成功であって、シリコンバレーで成功した大企業が、これを証明していると言う。

   新しいテクノロジーや科学の動向を一早くキャッチし、そのインパクトを把握するため、そして、テクノロジーの変化を見据えて明日の問題を解決するためにも、そのフロンティア、最前線に居ることが極めて大切であると言っているが、最先端技術の場合には、ポーターの説くクラスター以上に重要な要素で、シリコンバレーの存在が、そのことを如実に物語っていると言えるであろう。
   先端技術のエッヂであると同時に集積でもあり、更に、あらゆる起業とベンチャー事業のためのインフラが完全装備されているシリコンバレーは、正に、今日の最も進化し凝縮された産業センターと言うべきであろう。
   少し前に、ルース駐日アメリカ大使が、シリコンバレーについて、同じような話をしていたのを思い出した。
   
   もう一つの興味深い指摘は、イノベーションを実現するためには、相互尊重の伝導的な環境が必要だとして、シリコンバレーの父と言われているフレッド・テルマンの果たした役割について言及した。
   大学のファカルティは産業のために働く、卒業生のために西海岸産業を興す、リサーチを新産業発展のキーとする、アンテルプルナーシップを鼓舞する、インダストリアル・リサーチ・パークを作る、と言った思想を持っていて、テクノロジー優先の産学共同世界を夢見ていたのだという。
   
   メモを見ながらのヘネシー学長のスピーチの印象記なので、間違いがあるかも知れないが、ジャック・アタリが、「21世紀の歴史」の中で、現在が、ロサンジェルス(サンフランシスコからロサンジェルス、ハリウッドからシリコンバレー)の時代だと、喝破しているのは、正に、このようなクリエイティブでイノベイティブなスタンフォードの環境があったればこそだと言うことであろう。
   いわば、スタンフォードが核となって、今様メディチ・エフェクトを生み出して、アメリカの再生のみならず、資本主義の再生、あるいは、延命を行ってきたと言ってもあながち間違っていないと思う。
   悲しいかな、坂の上に雲があった頃には、世界一流であった日本だが、このようなスタンフォードが生み出したメディチ・エフェクト(インパクト)を日本で有効に生み出すなどと言うのは、夢の夢だと思うと何となく寂しい気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト栽培日記2010(14)・・・コガネムシが集まる

2010年08月12日 | トマト栽培日記2010
   私のプランター植えのトマトも、殆ど最盛期を過ぎて、間延びした感じで、実が上の方ばかりに移動してしまった。
   花は、まだ、咲いているのだが、実つきも悪くなったのか、仇花が多くなっている。
   最初の頃は、熱心に電気歯ブラシを使って受粉させていたが、煩わしくなってやめてしまうと、大玉トマトの結実は、極端に悪くなってしまった。

   暑さが増すと、実の成熟が早くなるのか、すぐに熟してしまう。
   この口絵写真のように、実が破裂すると、コガネムシやナメクジが集まって来て、実の割れ目から、トマトを食べ始める。
   小さいので、トマトの被害は少ないし、もともと、私の庭は、出来る限り、動植物との共生と言うか、同じ地球を住処としてシェアしている仲間なので、共存共栄を旨としており、駆除することを避けているので、その部分は放置している。

   ネットを張ってトマトを育てている家庭もあるが、幸いと言うか、私の庭では、小鳥たちによる被害はない。
   ところで、その小鳥だが、前に、トマトの葉を食べていたので、実成りの悪いトマトの木に移したアゲハチョウの幼虫を、みんな食べてしまったようである。
   10センチ以上にもなっていたので、蛹になっていても不思議ではないのだが、蛹どころか跡形もなく消えてしまっているのを見るとそうに違いない。
   食物連鎖による自然界のエコシステムが、うまく働いていると言うことではあろうが、何となく可哀そうな気がしている。
   

   まだ、毎朝、小さなバスケットに一杯になる程のトマトの収穫があるので、家内は、トマトジャムにしたり、スープやカレー、それに、煮炊きもの料理の時に、隠し味に使ったりして、結構重宝している。
   毎朝、私は、ブルーベリージャムをレーズンブレッドに塗って食べているのだが、夏の間は、トマトジャムが、トッピングとして加わる。
   桃太郎ゴールドの黄色いジャムなど、結構美味で行けるのである。

   先日、高血圧症で定期的に通っている山王病院で、血圧が下がってきているので、薬のランクを一つ下げて貰ったのだが、夏には血圧は少し下がるのだと言うけれど、私は、トマトのお蔭だと思っている。
   食育というけれど、結局、薬を飲むよりは、衣食同源と言うことだから、出来れば、日常の食事を調整して、健康に留意する方が良いと言うことであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小玉祥子著「二代目 聞き書き 中村吉右衛門」

2010年08月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎役者の本で、比較的多く出版されていて私が読んでいるのは、勘三郎と幸四郎と吉右衛門だと思うのだが、今回、この吉右衛門の「二代目」を読んでみて、「私の履歴書」風の展開で、時代を追いながらの芸術談義が主体なので、吉右衛門の人間像そのものが良く分かって非常に興味深かった。
   孤高とも言うべくそそり立っていた偉大な初代の偉業を、生まれる前から継承すべく運命付けられており、悪戦苦闘、死をも考えて呻吟し続けて来た吉右衛門の人となり芸となりが、実に克明に、そして、鮮やかに描かれていて、非常に感動的である。

   幸四郎の本も殆ど読んでいるので、二人の大役者の視点からの先代の幸四郎像が非常にビビッドに表出され、それに、高麗屋や播磨屋を軸とした現代歌舞伎の現像などが垣間見えて興味津々である。
   同じ兄弟でも、そして、共通の父から殆ど同じように教えられ同じような芸域を踏襲しているにも関わらず、幸四郎と、随所に違いがあるのも面白い。

   松本白鸚と一門の東宝入りと言う驚天動地に近い芸術環境の変遷の中で、片やミュージカルで成功を収めて脚光を浴びた幸四郎と違って、吉右衛門は、歌が歌えなくて、「マイ・フェア・レディ」のフレディ役で菊田一夫のオーディションを受けたが落とされてミュージカルへの道を諦めている。
   水谷八重子や山田五十鈴や杉村春子と言った三大舞台女優とも共演をするなど、歌舞伎から距離を置いた芸術活動が吉右衛門の芸に幅と奥行、それに深みを加えたのであろうが、歌えないし二枚目でもないので、菊田一夫に、お前は歌舞伎だけやってればよいのだと言われて、一人で、東宝を飛び出して松竹に帰ったと言うことである。

   面白いのは、吉右衛門の生身の女優との舞台や映画での対応。
   女役を女方と言う男性が演じる歌舞伎では、恋人同士の役でも男と男が寄り添っているだけだから、何の色気も感じなかったのだが、相手が生身の女優だと全く勝手が違って来る。
   触ってよいのか、女形相手のような芝居をしていると、菊田一夫から普通にやれと言われたが、その普通がわからない。篠田正浩の「心中天網島」では、体に手をかける程度どころか、岩下志麻とキスしたりまさぐったり、旦那の監督から「遠慮しないで」と言われたが、大いに照れたと言うのである。



   萬之助時代に、白鸚が、歌舞伎と文学座との乗り入れで「明智光秀」を上演したり、映画にも出演したりした時に、異業種(?)とも言うべき劇団や映画俳優の人たちとの交流が始まっている。
   芥川比呂志など劇団人の演技や理論などエリート然としたインテリジェンスに触発されて、大学へ行こうと思ったと言うから面白い。
   有島武郎の息子・森雅之にも傾倒したようで、アカデミックと言うかインテリと言うか知的水準の高い芸術風土に憧れていたところがあったようである。
   勉強好きは当然で、松貫四作品としてれっきとした立派な現代歌舞伎を何本もものしているのであるから、推して知るべしである。
   私など、最近の「日向嶋景清」と「閻魔と政頼」くらいしか知らないが、中々面白い作品である。

   特筆すべきは、「すばらしき仲間」の収録で、澤村藤十郎と中村勘九郎と三人で金丸座として知られている「旧金毘羅大芝居」を訪れて、それがきっかけで、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が始まったと言うことである。
   国の重要文化財の建物で上演するのは、新たに発信するもので新作でなければならないと言うことになったが時間がなく、吉右衛門が、松貫四の名で、「偶曽我中村」を脚色して「再桜偶清水」を書き上げて上演にこぎつけたと言う。
   
   初代吉右衛門の息女であった母の正子の素晴らしさ偉大さについても触れている。
   明治、大正、昭和の歌舞伎界を背負って立っていた名優吉右衛門のそばにいて、その道の一流の人々とも多く接して耳学問で何でも知っていて、幼き日より舞台に立って踊りや唄など芸事一般に精通したので、実父・白鸚と同様に芸の師匠みたいな存在だったと言うのである。

   とにかく、この本で、知らなかった吉右衛門の色々な側面が見えてきて、非常に面白かった。
   来月の歌舞伎は、初代吉右衛門の追善の舞台秀山祭で、吉右衛門の活躍が楽しみである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする