今回の舞台は、時間的にインフレートしたと言うか、「日本振袖始」には、序幕の「出雲国簸の川川岸桜狩の場」を付け加えたり、「曽根崎心中」の「北新地天満屋の場」で、お初(藤十郎)と徳兵衛(翫雀)が、夜陰に紛れて逃走した後に、九平次(鶴亀)が落とした筈の印判が見つかって悪事がばれて、徳兵衛の義父平野屋久右衛門(竹三郎)に取っちめると言うシーンが、挿入されている。
後者は、本来なら、悪者が罰せられると言う結末が見えて観客にとっては、溜飲が下がるところだが、近松の原文のように、「顔を見合わせ、あゝ嬉しと、死にに行く身を喜びし。あわれさ、つらさ、あさましさ、後に火打ちの石の火の、末こそ、短けれ。」で終わる方がはるかに、余韻があって良い。
全くの蛇足である。
憎々しくてパンチの利いた鶴亀の迫力のある九平次の良さが完全に死んでしまっている。
「日本振袖始」の方は、話が良く分かって、これは、これで成功だと思う。
「日本振袖始」は、素戔嗚尊(梅玉)が、八岐大蛇(魁春)を成敗して、生贄に差し出された稲田姫(梅丸)を助けて、宝剣を取り戻すと言うだけの単純な神話の世界で、ようするに、軽量なスペクタクルを見せる芝居だが、一寸気になったのは、登場人物の衣装が、あの神話の世界のムードではなくて、平安朝モードであることである。
魁春の八岐大蛇の迫力と、7人の小型の大蛇の群舞に、胴体に成ったり尾に成ったりと変化する造形の美しさは流石であった。
侍女くまざさの松江のコミカルな演技や個性的な乳母くまざさの歌江などが面白かったが、梅玉としては定番の演技でまずまず、梅丸の稲田姫が可愛かったものの一寸声が悪くて興ざめであったのだが、気が付かないのであろうか。
藤十郎のお初は、国立劇場では初めてのようだが、襲名披露の時の舞台でもあったし、既に何度か見ている。
非常に上手くて、今回も、随所に意欲的に新趣向を取り入れていて、びっくりする程芸の確かさに感動するのだが、やや、マンネリで、1300回と言うが回を重ねれば良いと言うものではない。
私は、むしろ、翫雀の徳兵衛に、扇雀のお初の方を見たいと思っている。
人形浄瑠璃と違って、舞台で演じる役者の場合には、視覚芸術である以上、イメージも大切な筈なのである。
私は、「曽根崎心中」は、はるかに、文楽の方が良いと思っている。
玉男と簑助 の舞台は最高だと思っているし、特に、「曽根崎の森の場」での、冒頭の「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」と大夫が語り始めると、堪らなくなってしまう。
この歌舞伎も、それまでに、対話劇が、一気に語りと三味線に合わせた舞踊劇のような様子を呈するのだが、あの文楽の切れ味の良い悲痛感と言うか一種の恍惚感は、滲み出て来ない。
最後の幕切れだが、徳兵衛が、お初に脇差を突きつけたところで幕がおりる。
あのカルメンでも最後のシーンは演じるし、文楽のように潔く断末魔の崩れ折れと言う程リアルにする必要があるとは思えないが、いつも、消化不良の感じがして落ち着かない。
批判ついでにもう一つ、曽根崎の場のバックシーンは、巨大な松が何本も植わった鬱蒼とした森だが、曽根崎は、梅田(埋めた田)にあって、田んぼが広がっていて、多少茂った鎮守の森でも、ドイツのブラック・フォレストのような森ではない。
同じ境内でも、大坂の街中の森は、もう少し優しい筈であるから、悲劇が生きて来るのである。
後者は、本来なら、悪者が罰せられると言う結末が見えて観客にとっては、溜飲が下がるところだが、近松の原文のように、「顔を見合わせ、あゝ嬉しと、死にに行く身を喜びし。あわれさ、つらさ、あさましさ、後に火打ちの石の火の、末こそ、短けれ。」で終わる方がはるかに、余韻があって良い。
全くの蛇足である。
憎々しくてパンチの利いた鶴亀の迫力のある九平次の良さが完全に死んでしまっている。
「日本振袖始」の方は、話が良く分かって、これは、これで成功だと思う。
「日本振袖始」は、素戔嗚尊(梅玉)が、八岐大蛇(魁春)を成敗して、生贄に差し出された稲田姫(梅丸)を助けて、宝剣を取り戻すと言うだけの単純な神話の世界で、ようするに、軽量なスペクタクルを見せる芝居だが、一寸気になったのは、登場人物の衣装が、あの神話の世界のムードではなくて、平安朝モードであることである。
魁春の八岐大蛇の迫力と、7人の小型の大蛇の群舞に、胴体に成ったり尾に成ったりと変化する造形の美しさは流石であった。
侍女くまざさの松江のコミカルな演技や個性的な乳母くまざさの歌江などが面白かったが、梅玉としては定番の演技でまずまず、梅丸の稲田姫が可愛かったものの一寸声が悪くて興ざめであったのだが、気が付かないのであろうか。
藤十郎のお初は、国立劇場では初めてのようだが、襲名披露の時の舞台でもあったし、既に何度か見ている。
非常に上手くて、今回も、随所に意欲的に新趣向を取り入れていて、びっくりする程芸の確かさに感動するのだが、やや、マンネリで、1300回と言うが回を重ねれば良いと言うものではない。
私は、むしろ、翫雀の徳兵衛に、扇雀のお初の方を見たいと思っている。
人形浄瑠璃と違って、舞台で演じる役者の場合には、視覚芸術である以上、イメージも大切な筈なのである。
私は、「曽根崎心中」は、はるかに、文楽の方が良いと思っている。
玉男と簑助 の舞台は最高だと思っているし、特に、「曽根崎の森の場」での、冒頭の「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」と大夫が語り始めると、堪らなくなってしまう。
この歌舞伎も、それまでに、対話劇が、一気に語りと三味線に合わせた舞踊劇のような様子を呈するのだが、あの文楽の切れ味の良い悲痛感と言うか一種の恍惚感は、滲み出て来ない。
最後の幕切れだが、徳兵衛が、お初に脇差を突きつけたところで幕がおりる。
あのカルメンでも最後のシーンは演じるし、文楽のように潔く断末魔の崩れ折れと言う程リアルにする必要があるとは思えないが、いつも、消化不良の感じがして落ち着かない。
批判ついでにもう一つ、曽根崎の場のバックシーンは、巨大な松が何本も植わった鬱蒼とした森だが、曽根崎は、梅田(埋めた田)にあって、田んぼが広がっていて、多少茂った鎮守の森でも、ドイツのブラック・フォレストのような森ではない。
同じ境内でも、大坂の街中の森は、もう少し優しい筈であるから、悲劇が生きて来るのである。