昨日のブログの「国家はなぜ衰退するのか」のブックレビューで、
収奪的な政治・経済制度と経済成長が両立しないと言う訳ではなく、どんなエリートでも搾取するものを増やすためにできるだけ成長を促進したがるので、最低限度の政治的中央集権化が達成されておれば、ある程度は成長が可能だが、問題は、そのような収奪的制度下の成長は、持続しないとして、中国は、収奪的な政治制度を取っているので、必ず、成長が挫折するとの、アセモグルとロビンソンの見解を紹介した。
私自身も、このブログで、中国が、早晩、経済成長の結果アメリカに追いつき凌駕して、世界第一の経済大国になると言う世論で当然視されている見解には同調できず、必ず、途中で失速すると主張してきたが、今回は、アセモグルたちの見解に固守して、中国の経済成長は持続しないと言う問題を考えてみたいと思う。
まず、毛沢東時代の沈滞から、中国の再生が実現したのは、毛沢東の死と四人組の権力闘争での敗北が決定的な岐路となり、旧弊を打破して、一連の極度に収奪的な制度からの脱却と包括的制度を目指す大きな動きがあったからで、農業と工業における市場インセンティブと、その後の外国からの投資と技術投入によって、中国は急速な経済成長の軌道に乗った。
大躍進と文化大革命が引き起こした荒廃と人的被害が、変化への十分なニーズを生み、そのおかげで小平と盟友たちが政治闘争で勝利を得たのだが、収奪的政治制度下ではあったが、非常に急激な30年間の持続的経済成長を実現した。
持続的経済成長に必須だと考えている包括的な制度と漸進的制度化改革への地ならしとなる政治改革は、社会への極めて広範かつ多様な集団への権限移譲に成功するかどうかであると言う。
しからば、包括的政治制度の基礎である多元的に必要なことは、政治権力が社会に広く行き渡ることであり、既存の大勢に挑む社会運動がすぐに無政府状態に陥らないようにするとか、幅広い連合が形成維持されるとか、権限移譲のプロセスが必要である。
また、権限移譲のプロセスにおいて変化を齎し維持する役割を果たす主体として、メディアの存在とその健在が重要な要因だと言う。
こう考えれば、現在の中国の収奪的構造は、中国当局のメディア支配に決定的に依存しており、恐ろしいまでに精緻であり、一党独裁を維持するためには、党による軍部の支配、党による幹部の支配、党によるニュースの支配の三原則が、徹頭徹尾維持されており、ほころびの余地さえない。
尤も、自由なメディアと新たな通信技術が力を発揮できるのは、情報の提供、より包括的な構造に向けての人々の要求と行動の調整と言った周辺部分だけであって、メディアの貢献が有意義な改革に結びつくのは、社会の幅広い階層が政治を変えるために行動を起こして協調し、党派的理由や収奪的構造の支配の為ではなく、収奪的構造を包括的構造へ変えて行く時ではある。
このような大々的な国民運動が、共産党一党独裁と言う既存の収奪的政治制度を、破壊するだけのパワーを持ち得るのかどうか、大いに疑問であり、これまでの歴史上、すべての収奪的政治制度下での経済成長が、挫折したように、中国の経済成長は、持続しないと言うのが、アセモグルとロビンソンの結論なのである。
中国の高度成長と言う経験は、あくまで、収奪的政治制度下の成長例であって、近年、中国では、イノベーションとテクノロジーに重点が置かれているものの、成長の基礎は創造的破壊ではなく既存のテクノロジーの利用と投資である。
また、重要な点は、中国では所有権が全面的に保証されていないことであり、労働者の移動が厳しく制限されていることである。
共産党が絶対的な権力を持って、国家の官僚機構、軍隊、メディア、経済のかなりの部分を全面的に支配し、中国国民には政治的自由が殆どないし、選挙もなければ政治的プロセスへの参加も皆無に等しい。
こんなに極端な収奪的政治制度下の中国が、包括的制度への移行がなければ、いくら、包括的経済の拡大を装っても、このままでは、成長は本質的に限られて持続できないと言うのである。
中国の成長は、遅れの取り戻しであり、外国の技術の輸入、低価格の工業製品の輸出に基づいた成長プロセスは暫く続くだろうが、中国の成長は終わりに近づいており、共産党と経済エリートが当分権力を強固に把握し続けるにしても、創造的破壊を伴う成長と真の改革は訪れず、中国の成長はゆっくりと萎んで行く。
経済が停滞すれば、上昇志向の芽を摘まれた国民の不満が爆発し、人権を徹底的に無視し、環境破壊の極に達した国土の荒廃を前にして、これだけ上から下まで腐敗し切った政治社会が、果たして生き長らえて行けるのか、と言うことでもある。
アセモグルとロビンソンの理論は、極めて単純明快で、中国が、収奪的政治制度を維持する限り、経済成長の根幹となるイノベーションへのインセンティブが働かず、創造的破壊の進行を圧殺するので、経済成長は持続しない。と言うことである。
この独裁体制は、単なる通過段階に過ぎないとするシーモア・マーティン・リプセットの近代化理論や、為政者や政策立案者が無知であるから教育すれば良いとする無知論をも論破して、持論を展開している。
二人の理論展開には、それ程、違和感はないのだが、私自身は、もう少し別な側面から、共産党一党独裁が崩れて、中国の政治経済社会が、暗礁に乗り上げるのではないかと思っている。
ところで、私は、イアン・ブレマーが、「自由市場の終焉(The End of the Free market)」の中で、国家資本主義の台頭と言う理論を展開しており、この面から中国の経済動向を考えてみるのも、非常に面白いと考えている。
蓄積した膨大な国家資本、国営企業、政府系ファンド(SWF)を活用して、国益と支配層の利益増進のために、政治経済面の影響力拡大を狙ってグローバル市場を支配しようと試みていると言う考え方である。
中国のみならず、ロシア、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などのアラブ君主国等もそのような動きを加速しており、資源ナショナリズムの台頭など、場合によっては、自由競争市場である筈のグローバル経済市場を、大きくスキューする可能性が出て来る。
そして、問題は、この国家資本が、前述したような為政者・支配者の権力の維持や利権確保のために、活用されることであり、国家経済の停滞のみならず、グローバル経済にさえ悪影響を及ぼしかねないと言うことである。
この二つの理論の総合については、もう少し考えてみたいと思っている。
収奪的な政治・経済制度と経済成長が両立しないと言う訳ではなく、どんなエリートでも搾取するものを増やすためにできるだけ成長を促進したがるので、最低限度の政治的中央集権化が達成されておれば、ある程度は成長が可能だが、問題は、そのような収奪的制度下の成長は、持続しないとして、中国は、収奪的な政治制度を取っているので、必ず、成長が挫折するとの、アセモグルとロビンソンの見解を紹介した。
私自身も、このブログで、中国が、早晩、経済成長の結果アメリカに追いつき凌駕して、世界第一の経済大国になると言う世論で当然視されている見解には同調できず、必ず、途中で失速すると主張してきたが、今回は、アセモグルたちの見解に固守して、中国の経済成長は持続しないと言う問題を考えてみたいと思う。
まず、毛沢東時代の沈滞から、中国の再生が実現したのは、毛沢東の死と四人組の権力闘争での敗北が決定的な岐路となり、旧弊を打破して、一連の極度に収奪的な制度からの脱却と包括的制度を目指す大きな動きがあったからで、農業と工業における市場インセンティブと、その後の外国からの投資と技術投入によって、中国は急速な経済成長の軌道に乗った。
大躍進と文化大革命が引き起こした荒廃と人的被害が、変化への十分なニーズを生み、そのおかげで小平と盟友たちが政治闘争で勝利を得たのだが、収奪的政治制度下ではあったが、非常に急激な30年間の持続的経済成長を実現した。
持続的経済成長に必須だと考えている包括的な制度と漸進的制度化改革への地ならしとなる政治改革は、社会への極めて広範かつ多様な集団への権限移譲に成功するかどうかであると言う。
しからば、包括的政治制度の基礎である多元的に必要なことは、政治権力が社会に広く行き渡ることであり、既存の大勢に挑む社会運動がすぐに無政府状態に陥らないようにするとか、幅広い連合が形成維持されるとか、権限移譲のプロセスが必要である。
また、権限移譲のプロセスにおいて変化を齎し維持する役割を果たす主体として、メディアの存在とその健在が重要な要因だと言う。
こう考えれば、現在の中国の収奪的構造は、中国当局のメディア支配に決定的に依存しており、恐ろしいまでに精緻であり、一党独裁を維持するためには、党による軍部の支配、党による幹部の支配、党によるニュースの支配の三原則が、徹頭徹尾維持されており、ほころびの余地さえない。
尤も、自由なメディアと新たな通信技術が力を発揮できるのは、情報の提供、より包括的な構造に向けての人々の要求と行動の調整と言った周辺部分だけであって、メディアの貢献が有意義な改革に結びつくのは、社会の幅広い階層が政治を変えるために行動を起こして協調し、党派的理由や収奪的構造の支配の為ではなく、収奪的構造を包括的構造へ変えて行く時ではある。
このような大々的な国民運動が、共産党一党独裁と言う既存の収奪的政治制度を、破壊するだけのパワーを持ち得るのかどうか、大いに疑問であり、これまでの歴史上、すべての収奪的政治制度下での経済成長が、挫折したように、中国の経済成長は、持続しないと言うのが、アセモグルとロビンソンの結論なのである。
中国の高度成長と言う経験は、あくまで、収奪的政治制度下の成長例であって、近年、中国では、イノベーションとテクノロジーに重点が置かれているものの、成長の基礎は創造的破壊ではなく既存のテクノロジーの利用と投資である。
また、重要な点は、中国では所有権が全面的に保証されていないことであり、労働者の移動が厳しく制限されていることである。
共産党が絶対的な権力を持って、国家の官僚機構、軍隊、メディア、経済のかなりの部分を全面的に支配し、中国国民には政治的自由が殆どないし、選挙もなければ政治的プロセスへの参加も皆無に等しい。
こんなに極端な収奪的政治制度下の中国が、包括的制度への移行がなければ、いくら、包括的経済の拡大を装っても、このままでは、成長は本質的に限られて持続できないと言うのである。
中国の成長は、遅れの取り戻しであり、外国の技術の輸入、低価格の工業製品の輸出に基づいた成長プロセスは暫く続くだろうが、中国の成長は終わりに近づいており、共産党と経済エリートが当分権力を強固に把握し続けるにしても、創造的破壊を伴う成長と真の改革は訪れず、中国の成長はゆっくりと萎んで行く。
経済が停滞すれば、上昇志向の芽を摘まれた国民の不満が爆発し、人権を徹底的に無視し、環境破壊の極に達した国土の荒廃を前にして、これだけ上から下まで腐敗し切った政治社会が、果たして生き長らえて行けるのか、と言うことでもある。
アセモグルとロビンソンの理論は、極めて単純明快で、中国が、収奪的政治制度を維持する限り、経済成長の根幹となるイノベーションへのインセンティブが働かず、創造的破壊の進行を圧殺するので、経済成長は持続しない。と言うことである。
この独裁体制は、単なる通過段階に過ぎないとするシーモア・マーティン・リプセットの近代化理論や、為政者や政策立案者が無知であるから教育すれば良いとする無知論をも論破して、持論を展開している。
二人の理論展開には、それ程、違和感はないのだが、私自身は、もう少し別な側面から、共産党一党独裁が崩れて、中国の政治経済社会が、暗礁に乗り上げるのではないかと思っている。
ところで、私は、イアン・ブレマーが、「自由市場の終焉(The End of the Free market)」の中で、国家資本主義の台頭と言う理論を展開しており、この面から中国の経済動向を考えてみるのも、非常に面白いと考えている。
蓄積した膨大な国家資本、国営企業、政府系ファンド(SWF)を活用して、国益と支配層の利益増進のために、政治経済面の影響力拡大を狙ってグローバル市場を支配しようと試みていると言う考え方である。
中国のみならず、ロシア、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などのアラブ君主国等もそのような動きを加速しており、資源ナショナリズムの台頭など、場合によっては、自由競争市場である筈のグローバル経済市場を、大きくスキューする可能性が出て来る。
そして、問題は、この国家資本が、前述したような為政者・支配者の権力の維持や利権確保のために、活用されることであり、国家経済の停滞のみならず、グローバル経済にさえ悪影響を及ぼしかねないと言うことである。
この二つの理論の総合については、もう少し考えてみたいと思っている。