熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「惣八」:能「正尊」

2019年04月30日 | 能・狂言
   27日の国立能能楽堂の企画公演は、異流派共演の《特集・対決》
   プログラムは、
   狂言 惣八  (そうはち) 善竹十郎・山本東次郎(大蔵流)
   能  正尊 (しょうぞん) 宝生和英・金剛龍謹
    
   狂言「惣八」は、和泉流では、「宗八」、
   有徳人(山本則俊)が僧侶と料理人を雇おうと高札を掲げると、出家した元料理人(山本東次郎)と料理人になった元僧侶(善竹十郎)が志願して、雇われる。有徳人は、僧侶に法華経を渡して読経を、料理人に俎板、包丁、真魚箸と魚を与えて、鯛の背切りと鯉の細作りを作るよう命じるのだが、俄か坊主であり、俄か料理人であるから、互いに不慣れでどうすれば良いのか分からない。四苦八苦しているうちに、二人の前職が分かり、相談の結果仕事を取り替えてやっているところへ、有徳人がやって来たので、慌てて席に戻り、僧侶は鯛を法華経に見立てて読経し、料理人は法華経を包丁で切り刻もうとするので、有徳人は、怒って二人を幕に追い込む。
   殺生を禁じられている筈の僧侶が魚をさばき、料理人が殺生を諫める経を読むと言うあべこべ家業を揶揄するところが眼目なのかは分からないが、袈裟衣で襷掛けをして魚を裁き、職人姿で経を読むちぐはぐ振りも面白い。
   器用に魚を裁く東次郎と狂言では何時もそうなのだが、いい加減な読経をする十郎の二人の真面目で可笑しみ溢れたシテの演技が楽しませてくれた。


  能「正尊」は、頼朝から義経殺害の命を受けて、上洛した正尊が、義経や静に対峙して、弁慶などと戦って捕縛されると言う話で、特に、後場は、戦いと言うビジュアルな演出なので、初心者にも良く分かる能である。
  それに、能では、子方が舞うことの多い義経を、成人のシテ方が舞うことで、今回は、子方が静を演じており、舞いを舞って、正尊を接待する。

   興味深いのは、観世・宝生・喜多は、正尊をシテとして、弁慶をワキとしており、金春・金剛は、弁慶をシテ、正尊をツレとしているのだけれど、今回の舞台は、宝生・金剛・観世共演であるので、宝生流の宝生和英宗家の正尊がシテ、金剛流の金剛龍謹の弁慶がツレ、観世流の観世淳夫の義経がツレとなっているのだが、正尊・弁慶とも、シテの舞であり、ツレの義経も、子方(廣田明幸)ともども、最後まで重要な役回りを演じ続けており、楽しませてくれた。
   義経や弁慶に密命を見破られている正尊が、自分の潔白を示そうと起請文を読むのだが、シテの弁慶が読むケースもあるようだが、今回は、正尊が読んだ。

   さて、この能「正尊」は、「平家物語」巻第十二の五 土佐房被斬を殆ど踏襲している。
   しかし、この能では、正尊方と義経方との戦いの後、正尊は捕縛されて橋掛かりを退場して行く形で終わっているのだが、平家物語では、勝目なしと悟った正尊は、こともあろうに、義経の故地鞍馬の奥へ退却して、僧正が谷に隠れていたのを、法師らが捕縛して、翌日義経に引き渡したと言う。
   義経は、起請文を反故にした理由などを問い質したが、主君の命を重んじ自分の命を軽じる志は殊勝だ、望むなら命を助すけて鎌倉へ帰してやろうと言ったら、命は頼朝殿に差し出したので鎌倉へ戻れない、急いで首を刎ねてくれと言ったので、すぐ六条河原へ引きずり出して斬った 。と言う話になっている。

   ところで、正尊が起請文を読む場面だが、何もないところにその場で書くのだから、弁慶の勧進帳と相通じる見せ場である。
   岩波講座によると、この「読み物」は、漢文口調の文章を拍子に合わせるために複雑な拍子当たりが施されているもので、高度な技術が要求される習い事で、全体は強吟で、状を両手で捧げて荘重に読み始めて、徐々にテンポを進めて行き、最後に高々と頂いて力強く言い収めるのだと言う。
   和英宗家の正尊だったから、素晴らしかったのであろうが、そのあたりの芸の深さには気づかずに、ぼーと観ていた感じで終わってしまい、惜しいことをしてしまったと思っている。

   金剛龍謹の弁慶は、正に、骨太の剛直な弁慶で、あの凛々しい風貌に張りのあるパンチの利いた素晴らしい声音の魅力は格別で、凄い舞いを魅せて貰った。
   後見の永謹宗家の存在感も流石。
   義経の銕之丞師の子息淳夫の格調と、静御前の子方廣田明幸の初々しさ、
   達者な立衆たちや、囃子方、地謡相まっての素晴らしい奏者たちのコラボレーションあっての舞台であったのであろう。
   正尊は、これで、2度目だと思うが、平家物語は、半世紀前、学生時代からの愛読書で、故地を回り歩いたので、何時観ても、感動する。

   今日は、平成最後の日。
   天皇皇后両陛下の偉業に最大の感謝を捧げつつ!
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四月大歌舞伎・・・新版歌祭文 座摩社・野崎村

2019年04月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座には、昼の部に出かけた。
   プログラムは、次の通り。
   
   平成代名残絵巻
   新版歌祭文  座摩社・野崎村
   寿栄藤末廣 鶴亀
   御存 鈴ヶ森

   「平成代名残絵巻」は、平成最後の歌舞伎座公演の幕引きを飾る新作の華やかな舞台とかで、平家の建礼門院や時子や徳子、知盛が登場したかと思うと、源氏方の遮那王や常盤御前が登場して白旗が・・・
   何故、これが、平成の世を讃える一幕なのか、私には良く分からない舞台であった。
   福助が、座ったままだが常盤御前で元気な姿を見せて、遮那王(義経)の児太郎と親子共演。

   「寿栄藤末廣 鶴亀」は、藤十郎の米寿を祝う絢爛な舞台で、女帝の長寿と弥栄を願って舞う祝儀舞踊。
   猿之助が、亀で、鴈治郎の鶴とともに、色を添えていた。

   「御存鈴ヶ森」は、夜の鈴ヶ森が舞台で、白井権八(菊五郎)と幡随院長兵衛(吉右衛門)とが運命的な出会いを交わす一連のシーン。
   任侠の大親分幡随院長兵衛はともかくとして、前髪の美少年と言う設定の白井権八を、大勢の雲助たちを見事な刀さばきで次々と切り倒して、その様子を見ていた幡随院長兵衛が感服して見とれると言う肝心の筋書きだが、いくら決定版だとしても、果たして、歌舞伎界最高峰の人間国宝二人が・・・
   隣に座っていた二人連れの婦人は、何時も見慣れた舞台なのか、幕開き前に帰ってしまった。

    私が観たかったのは、新版歌祭文 座摩社・野崎村 であった。

   今回の「新版歌祭文」は、「野崎村」の前段の「座摩社」の場が、約40年ぶりに上演されたとかで、錦之助の丁稚久松が、雀右衛門の油屋の娘お染との忍び逢い、しっぽりと濡れた後で、久松を追い出して油屋を我が物にしようと企む又五郎の手代小助に、集金してきた商い銀を贋金とすり替えられて、紛失した罪を着せられて油屋を追われると言う経緯が描かれていて、次の場で、何故、久松が「野崎村」に帰えされてきたのかが良く分かる。歌六の育ての親久作のもとに帰ってきた久松は、久松に思いを寄せていた時蔵の久作の娘お光と祝言を挙げようとした直前に、お染が、久松を追ってやって来る。久作に意見されて分かれる決意した二人だが、心中する決心であることを見抜いたお光は、出家を決めて嫁入り衣装ではなく尼姿で登場する。そこへ、秀太郎のお染の母である後家お常がやって来て、事情を呑み込んで二人を連れ帰ることにして、お染が舟で、久松は駕籠で、大坂に帰っていく。お光と久作は、断腸の悲痛で、去り行く二人を見送り、お光は、崩れ落ちて久作にしがみ付き親子で慟哭する。

   養い子の久松と妻の連れ子お光とを夫婦にしたいと思っていた久作は、なくした金と同額を小助に突き出して叩き出し、久松の帰りを幸いと、二人の祝言を進め、また、お染が久松恋しさにて来た時にも、お染と久松に、お夏清十郎の話をして別れるべく説得するのだが、このあたりの義理と人情の鬩ぎあいや親子の情愛の辛さ悲しさなどを掻き口説いて泣かせる名優は、歌六が最右翼であろうと思う。
   それに、この舞台の主役は、何と言ってもお光を感動的に演じた時蔵で、健気で真実一路の哀切極まりない乙女の奥ゆかしさと固い心根、しかし、弱くて儚い女心を覗かせながら切々と演じぬいた至芸。
   お染の雀右衛門と久松の錦之助は、誠心誠意、純愛を貫けばよい役柄で、地を行く熱演、
    真山青果 の「元禄忠臣蔵」の、「大石最後の一日」での、浪士の磯貝十郎左衛門とその許婚のおみのの純愛を演じた二人の素晴らしい舞台を思い出して観ていた。
   悲劇でありながら、前半、この舞台を面白くするのは、惚けた調子の小賢しく悪知恵の働く手代小助の又五郎のコミカルタッチの演技、凛々しい侍をやらせれば天下一品の役者でありながら、ぬけ作をやらせても、実に上手い。

   ところで、今回の野崎村は、省略版で、お光が髪を切って尼姿になって登場した後に、別室で病気で寝ていた何も知らない母が出てきて、目が見えないので取り繕うとするのだが、ばれてしまう、悲しくも切ない愁嘆場のシーンが省略されている
   その様子に耐えらなくなったお染や久松が死のうとする。
   お光の心が分からなければ自分が死ぬと久作、そして、久作が死ぬのなら自分もとお光と母も一緒に死ぬと取り乱す。義理と人情と恩愛の板挟みで死ぬことも出来ず窮地に立ったお染久松・・・そこへ、お園の母お勝が登場する。
   このシーンは、そのまま、今回の舞台の終幕へも繋がって行く。

   ところで、お染久松の浄瑠璃で別バージョンがある。
   5年前に見た文楽の菅原専助の「染模様妹背門松」。
   その時のブログを引用すると、
    油屋の娘お染(清十郎)が、主家筋の山家屋清兵衛(玉志)への嫁入が決まっているのだが、丁稚の久松(勘彌)と相思相愛で、久松の子を身籠っていて、切羽詰っている。
   お染の母おかつ(簑二郎)や久松の父百姓久作(和生)の説得で、久松は在所へ帰り、お染は嫁ぐことを了承したのだが、心中を恐れて閉じ込められた蔵の中で久松が、座敷でお染が、夫々命を絶つ。
   大恩あるお主の家に疵を付けた身は死ぬしかないと久松、久松を死なせて嫁入して生き恥を晒すよりは、一緒に死んで未来で契りを交わした方が良いとお染、世に出ることのないお腹の子を不憫に思いながら、二人はあの世へ旅立つのである。
   今回、「座磨社」の舞台で、二人が、山伏法印(松之助)の留守宅に忍んで逢引き中に、覗き見た法印が、床を擦るような音がすると言っていたから、お染が身籠る可能性を示唆してはいたが、そこまでは踏み込んではいない。
   とにかく、近松の世界同様、積極的でまっすぐな大坂女お染の爽やかさが、一服の清涼剤で良い。
   
   
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ドナルド・キーンのオペラへようこそ! われらが人生の歓び (1)

2019年04月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   WOWOWの「METオペラビューイング」で、ドナルド・キーンがしばしば登場して、冒頭解説を行っていたので、故郷ニューヨーク人であるから、当然、かなりのオペラ通だと思っていたが、この本を読む限り、並みのオペラ好きと言う次元ではなく、途轍もないオペラ中毒だと言うことが分かって、感激して読んだ。
   とにかく、オペラの解説書などと言うジャンルの本ではなく、ハイティーンから、オペラにのめり込んで、三四半期オペラ漬けであった稀代の大学者のオペラ行脚を開陳したユニークなオペラ論、「 われらが人生の歓び 」であるから、オペラファンには、たまらない魅力である。

   キーンが、オペラを始めて観たのは、15歳の時、
   高校生の同級生がオペラに通うのは、上流社会に籍を置く自分を誇示したいためだと信じていたのが間違いで、一番安い席の入場券を買って、METのオペラ公演に出かけて、「カルメン」や「アイーダ」など2~3本観た後、コンサートや芝居などのほかの舞台芸術より、オペラの方が感動的であることを実感したのだと言う。
   この本の冒頭に、”「連隊の娘」を観ると踊らずにはいられない”と言うキーンのスナップが掲載されていて、大きなディスプレィの画面を観ながら踊っていて両手がぶれた写真が、その成れの果てを示していて面白い。
   先日、始めて観たMETライブビューイングの「連隊の娘」をレビューしたが、非常に素晴らしいオペラであった。

   オペラの魅力は、ひとえにその歌声にあると言っても過言ではない、姿が、演技がどんなに見栄えがするものであっても、声が悪ければ、聴衆の気持ちは途端に癒えてしまう、と言う。
   美声に感激した歌手たちなのであろう、キルンステン・フラグスタートを筆頭にして、シュヴァルツコップ、ニルソン、カバリエ、カラス、ドミンゴ、ピンツィア、メルヒオール8人を、「思い出の歌手たち」として、詳細に論じている。
   終章で、稿を改めて、「マリア・カラスを忍ぶ」を書いており、余程、マリア・カラスとの出会いが衝撃的であったのであろう。
   あの伝説的なカラスのロイヤル・オペラでの「ノルマ」をダメもとで数時間キャンセル待ちで並んで高額のチケットを手にして、既に開演中の劇場に入って、自席には行けなかったが、第1幕の冒頭から観て、「清らかな女神よ」を聴いて感激した思い出から書き始めていて、非常に興味深い。
   私もキャンセル待ちで並んで、ウィーン国立歌劇場の大晦日の「こうもり」のチケットを手に入れたり、マドリードなどでも経験があるが、千載一遇のチャンスは、絶対に見逃すべきではないと思っている。
   マリア・カラスは、フィラデルフィアでのジュゼッペ・ステファーノとの「フェアウェル・コンサート」だけしか、観て聴く機会しか得られなかったが、それでも、幸せであった。

   私が、実際にオペラやコンサートの実演で観て聴いたのは、年代の古いフラグスタート、ピンツィア、メルヒオール以外の5人だけだが、確かに、シュヴァルツコップやマリア・カラスは美しかったが、ニルソンはまずまずで、カバリエは重量級であって、細身のホセ・カレーラスとの共演は面白かったのを思い出す。

   キーンのクラシック音楽に関する一番古い記憶は、幼い頃家にあった蓄音機で流れるエンリーコ・カルーゾの歌曲であったと言うから、オペラ好きの下地はあったのであろう。
   大学時代に初めて入手したのは、グラインドボーンの「フィガロの結婚」で、高かったので、誕生日に第1巻、クリスマスに第2巻、翌年誕生日に第3巻を買ってもらったと言っており、最初に精通したオペラなので、リブレットはすべて暗記し、そのためか、老年になってからも、これが、最高傑作だと言う信念から抜けきれないと言う。

   私の場合には、京都での大学生活が始まって凄い世界を体験し始めた時で、大げさに言えば、とにかく、時空を超えて世界の人々が、価値を認めて心酔しているクラシック音楽に背を向けていては、この人生は暗いと思って、交響曲名曲全集のレコードを買って、聞き込んだのが最初で、
   オペラも、丁度、大阪のフェスティバル・ホールで、バイロイト祝祭劇場のワーグナーの引っ越し公演が行われたので、当時の月給とほとんど同額のチケットを買って、「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞した。
   その前に、カール・ベーム指揮の同じキャストのビルギット・ニルソンとヴォルフガング・ヴィントガッセンが歌う極め付きの名盤レコードが出ていたので、何度も聴いて予習をして出かけたのだが、ヴィーラント・ワーグナー演出の殆ど見えない暗い舞台で歌うニルソンとヴィントガッセンを目の当たりにして、感激して聴いたのである。
   ファンであったカール・ベームの指揮は、幸い、ずっと後になって、出張時に、METで、「ばらの騎士」を感激して観る機会を得た。
   念のため、この演出について、ウィキペディアを引用すると、
   1962年の『トリスタンとイゾルデ』でヴィーラントは、深層心理の側面からこの作品を解釈しようとする手法を試み、ユングの心理学を援用した演出を行なう。例えば第1幕では船の船首を暗示するオブジェが置いてあるのみで、あとは照明のみに語らしめるという極めて観念的な解釈を提示した。

   それから、しばらくして、大阪万博が始まって、クラシック音楽のトップ奏者たちが大挙して大阪を訪れてきた。
   カラヤン指揮のベルリン・フィル、レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルを初めて聴いたのもこの時で、
   オペラは、ベルリン・ドイツ・オペラの「ローエングリン」、ボリショイ・オペラの「イーゴリ公」、曲は忘れたが、ピッコロ・スカラ、を家内ともども鑑賞した。
   お陰で、ボーナスも月給もふっ飛んでしまって貧乏生活の連続であったが、それでも、高槻に住んでいたので、万博会場にも何回も訪れたし、最先端の世界に触れて幸せであった。
 
   この若気の至りが、功を奏したのか、そのしばらく後、アメリカ留学でフィラデルフィア、その後赴任で、サンパウロ、アムステルダム、ロンドンと14年海外生活が続いたので、METを皮切りにして、コヴェントガーデンのロイヤル・オペラを筆頭に、ウィーンやミラノなどヨーロッパのオペラ・ハウスでの観劇などクラシック音楽行脚が続いた。
   
   ドナルド・キーン先生とは桁違いではあるのだが、それでも、いくらか、話題に重なるところがあって、先生のオペラへの蘊蓄を楽しみながら、読ませてもらっている。
   
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国立能楽堂・・・蝋燭の灯りによる狂言「弓矢太郎」・復曲能「碁」

2019年04月26日 | 能・狂言
   能楽堂では、松明が燃える薪能は無理なので、代わりに蝋燭、久しぶりの蝋燭の灯りによる舞台である。
   蝋燭は、正面に10本、脇に13本、橋掛かりに4本、開演前に、和紙で作られた燭台の蝋燭に、巫女宜しく、正面上手より、一本一本灯を灯す。
   蝋燭の灯りだけで、舞台が照明されているので、舞台は薄暗くて、演者の姿や表情が良く見えないのだが、その分、非常に幻想的な雰囲気を醸し出していて、中々、ムードがあって面白い。
   
   
   
   
   
   プログラムは、次の通り。
   異流派交流の興味深い演出であり、狂言45分、能100分と言う意欲的な舞台である。

   《特集・対決》◎蝋燭の灯りによる
    狂言 弓矢太郎 (ゆみやたろう) 三宅右近・野村萬斎(和泉流)
    復曲能  碁 (ご)  大槻文藏・狩野了一

   狂言「弓矢太郎」は、
   連歌の会「天神講」の当番の男何某(萬斎)が、集まった講中たちと一緒になって、いつも仮装束姿で弓矢を身に着けている臆病者だと噂さされている弓矢太郎(三宅右近)を天神の森に鬼が出ると言う怖い話で脅し上げて、目を回させる。それでも、怖くないと言うので、その証拠に、天神の森に行って、松の枝に扇を掛けてくることにする。太郎と男は、それぞれ怖いので鬼の面をつけて、森に行くのだが、鉢合わせてお互いに本当の鬼だと思って卒倒する。太郎が先に気がついて立ち去ろうとすると、連中が様子を見に来て、男を介抱して起こして聞くと、本当に鬼が出たと大仰に怖がるので、太郎は、元の鬼の姿に戻って皆の前に飛び出して脅し上げて追いかける。
   鬼の面は武悪、蝋燭の灯による薄暗い舞台であるから、タダでさえも恐ろしいと言うことであろうか。
   この二人に、太郎冠者と天神講の連中5人が加わるので、かなり、大掛かりの舞台となって面白い。
   
   能「碁」は、復曲能で、解説書などには載っていないのだが、「源氏物語」の空蝉を素材にした舞台で、何のことはない、帚木と空蝉の巻の、光源氏と空蝉との物語。
   しかし、舞台は、空蝉に振られた源氏のストーリーは取り入れられてはいるのだが、最後の方のシーンだけで、テーマは、空蝉と義理の娘軒端の荻との碁の勝負の話であり、詞章も碁の専門用語などが出てきて興味深いものの、私には、やや、肩透かし。
   碁に負けた空蝉の霊が、寝所に忍び込んできた源氏の気配に気づいて、蝉の抜け殻のように衣を残して逃げた昔を懐かしんで、舞いを舞う。
   源氏物語では、その後、源氏は、人違いとは知りながら、隣に寝ていた軒端の荻と契るのだが、その余韻であろうか、
   福与かな奇麗な衣装を纏った軒端の荻の登場で相舞となり、優雅で美しい。

   人間国宝大槻文蔵の前シテ/尼が登場した時、真っ白な頭巾に頭部を覆って、若女の面を覗かせた姿の神々しいまでの美しさ、
   シックな衣装が、微かに鈍色に淡い光を放って、王朝時代の雰囲気を醸し出していて、私には、碁と言うテーマは、とっくに頭から消えてしまっていた。
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野口悠紀雄・・・日本は税金が安すぎる???

2019年04月23日 | 政治・経済・社会
   野口悠紀雄の「世界史を創ったビジネスモデル」の中で、ローマ帝国の歴史を語っていて、税率が低いと考えられているローマは、表面的にはそう見えるのだが、日本の税率の方が低くて、現在の日本の税負担率は、国民所得に対する比率でみて、先進国の中では、かなり、低いと言う。
   2013年度で、日本は21.1%で、欧州諸国の多くは3割を超えており、社会保障負担を入れると、41.6%で、これを見ても欧州より低いと言うのである。

   因みに、ローマは、十分の一税で、収穫量、すなわち、生産量・売上高に対して10%の税であるから、必要経費を引いた利益が売り上げの三分の一だとすると、十分の一税では、利益に対しては、3割の課税となる。
   日本の企業全体で、税引き前当期純利益の売上高に対する比率は、2014年度で、4.2%であるから、法人税等の売上高に対する比率は、1.3%にしかならない。
   つまり、十分の一税の7分の1程度の負担率であり、仮に、十分の一税だと、殆ど企業は税引き後の利益はマイナスとなり、倒産してしまうと言うことである。

   ところで、現在の日本は、国家債務が異常に高くて、支出の半分は国債で賄っており、国債発行残高のGDPに対する比率は、他の先進国に比べて極めて高い。
   つまり、日本の財政の問題は、税負担が高いことではなく、税負担を上げられずに、支出のみが膨張し、、その結果、財政赤字が拡大していることであり、支出に見合うだけの税負担をしていないのである。と言う。

   野口教授は、この状態が長く続くわけはなく、ある時、国債が貨幣に変わることによってインフレーションが生じ、それによって財政赤字の実質値が解消されると言う危険が最も高い。
   それを解消するためには、税率を引き上げることが必要となる。と言う。

   さて、それでは、増税だが、国際競争力を強化維持するためには、そして、経済の活性化のために、外資の導入を図るためには、グローバルベースで熾烈な競争を演じている法人税率の更なる低下が必要となっているので、これには期待できないので、欧米の先進国よりかなり低い間接税、すなわち、消費税なり付加価値税を引き上げて、直間比率を大幅に見直すことが必要となろう。

   現在、2019年10月1日から、消費税率が10%に引き上げられることになっている。
   しかし、安倍側近の萩生田幹事長代行が、「景況感次第で延期もあり得る」と意味深な発言をしたり、トランプ政権が、貿易交渉で、消費税の輸出戻し税を自動車などへの「輸出補助金」だと批判し、10月からの消費増税を問題視し始めるなど、雲行きが怪しくなり始めており、増税すれば、必ず経済にマイナス効果を齎すことは必定であり、直近の補選でダブル敗北した自民党にとっては、参議院選前には、増税を避けたいのが本音ではないかと思う。
   まして、大和総研が3月に発表した「日本経済中期予測(改訂版)」では、2019年以降、トランプ政権の迷走、中国経済や欧州経済の悪化、残業規制の強化、株価下落による個人消費の悪化など内外の様々な下振れリスクが顕在化した場合、日本の実質GDPは最大で3.6%程度減少する可能性がある。と言うのであるから、ましてであろう。

   ところで、野口教授の説くごとく、日本経済の将来を考えれば、絶対に、10月に消費税を10%に引き上げることは必要であろうし、それどころか、近い将来、消費税率を、低いドイツでも19%であるから、他の欧州並みに20%以上に引き上げても、不思議はないと考えられる。
   問題は、これまでの日本の税制度であって、政治経済社会に、低い消費税率がビルトインされてしまっていて、それに、慣れきってしまった日本人に、いくら、増税が必要だと言っても、受け入れられないことである。
   スウェーデンなどの超福祉国家では、税率が非常に高いのだが、福利厚生に対しては一切国家が責任をもって国民生活をサポートすると言う生活に慣れていれば、いくら税金が高くても国民は納得して税金を納めると言うことである。

   尤も、ここでは、法人税と消費税だけについて論じているので、不十分であって、税制全体として考えなければならないことは勿論である。

   たとえば、以前に、大前研一の「訣別ー大前研一の新・国家戦略論」での提言を紹介したのも、先の債務超過の日本財政を健全化するためのドラスチックな一つの改革かも知れない。
   所得税、法人税、相続税などの従来の直接税を全部廃止して、道州制のような統治機構が出来たタイミングで、資産税と、間接税を一本化して付加価値税の二本立てにする。生活基盤を作る責任があるコミュニティーは資産税を、産業基盤や雇用を作る責任のある同州が付加価値税を徴収する。と言う。
   日本全体で不動産資産が1500兆円、金融資産が賞味1000兆円あるので、資産の時価評価の1%にすれば資産税の税収は25兆円、付加価値税は、GDPが500兆円であるから、5%なら25兆円、10%なら50兆円の税収が捻出できる。と言う計算である。

   また、ピケティは、有能なプロを使って大胆にリスクを取って投資し増殖し続ける富者の金融財務資産のダイナミックな集積や、膨大な相続財産(inherited wealth)の複利的増殖など富者の所有する資産・資本を注視しており、この傾向を阻止するためにも、加速度的な累進課税、特に、累進的資本税(a progressive tax on capital)の導入をを強力に提案している。
   言葉は悪いが、国家権力で、富者から富を収奪するのが一番手っ取り早い方法かもしれないし、いろいろの考え方があるであろうが、
   日本の場合には、さしあたって、近い将来、消費税を適当な水準まで、増税せざるを得ないと言うことであろうか。
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わが庭・・・牡丹、コデマリ咲く

2019年04月22日 | わが庭の歳時記
   わが庭には、牡丹は3株しか植わっていなくて、1本は花芽がつかず、先に咲き始めた淡い赤紫の花に続いて、残りの黄色い牡丹が咲いた。
   蕾がつかなかった牡丹も黄色い花を咲かせるのだが、中国では黄色は高貴な色とかだけれど、別に意識をしたわけではなく、何となく、黄色に興味があったのである。
   
   
   
   
   

   一気に咲き始めたのは、コデマリ。
細い枝が長く伸びて放物線状にしなり、その線上に、一列に小花を鞠状につけて流れるように咲く姿は、中々優雅で面白い。
   同じような形態で、花束が大きなオオデマリがあるのだが、このコデマリの方が好きで、椿より少し遅れて咲くこの花に愛着を感じている。
   
   
   

   少なくなった椿も、まだ、咲き続けている。
   黒椿、鳳凰、至宝。
   遅咲きの椿は、霜や激しい寒風に痛めつけられないので、かなり。奇麗に花姿を保っていて優雅なのが良い。
   
   
   
   
   
   
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国立演芸場・・・「桂歌丸追善落語会」

2019年04月20日 | 落語・講談等演芸
   昨年、惜しまれて亡くなった歌丸の「桂歌丸追善落語会」。
   「笑点」の登場者が、全員出演しての賑やかな落語会で、面白かったが、落語の重み醍醐味と言うか、昨年、なくなる寸前、呼吸器を鼻に詰めて、45分間「小間物屋政談」を語りきって熱演した鬼気迫る歌丸の余人をもって代えがたい質の高い高座を思えば、一寸、これで追善と言えるのか、寂しさを感じた。
   落語に興味を持ってから、歌丸の高座には、それも、国立演芸場だけだが、かなり通っていて、その至芸に接して、色々な圓朝ものの質や格調の高さや、この「小間物屋政談」や「ねずみ」「竹の水仙」など滋味深い人情物語に感動しきりで、全く手を抜かない、誠心誠意の全力投球の話芸の凄さに、楽しませてもらってきた。
   
   

   「笑点」そのものが、軽やかな話芸の世界なのであろうが、私としては、歌丸に対抗すると言わないまでも、それに伍する格調と質の高い落語で、追善興行として欲しかったと思っている。
   と言ってみても、これはないものねだりで、歌丸には歌丸流の哲学や芸風があり、笑点の登場噺家も、夫々の芸の道、個性があるのであるから、それを楽しませてもらったと思えば良いのであろう。
   
   歌丸の思い出について、こもごも懐かしそうに語っていたが、非常に面白かった。
   高座の歌丸の印象とは違って、相当厳しい怖い先輩であったらしい。
   冨士子夫人のこと、それに、円楽が皮切りに、弟子が嫌いだった(?)と言って、怒られてばかりいたと言う枝太郎が、座談の場に飛び入りして、先輩たちと和気あいあいの掛合いで、観客を喜ばせていた。

   当日の番組は、次の通り。

落語 林家たい平    七段目
落語 林家三平     荒茶
落語 三遊亭圓楽    極楽八景噺家の賑い
落語 三遊亭小遊三   金明竹
―仲入り―
座談 ー桂歌丸師匠を偲んでー
落語 三遊亭好楽    め薬
落語 春風亭昇太    看板の一
落語 林家木久扇    昭和芸能史

   

   会場ロビーには、歌丸の芸歴や舞台写真などのパネル、笑点の机や遺品など、歌丸ゆかりの品々が展示されていて、俄作りの歌丸小展示場の雰囲気。
   実に、懐かしい。
   
   
   
   
   
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R. ターガート マーフィーの京都タワー嫌い

2019年04月19日 | 学問・文化・芸術
   先に論じたR. ターガート マーフィーの「日本‐呪縛の構図」の中で、マーフィーは、日本の戦後の経済成長の代償として、日本の伝統文化の軽視などを論じていて、最も深刻な問題の一つは、芸術や文化の世界だけではなく、もっと広範な意味での日本文化で劣化と荒廃が進んでいることだ。と言う。
   ・・・きわめて人目を引く例は、京都の景観を損なう白い円筒状の異物と言う具体的な形をとって目の前に現れた。として、京都駅前に立つ京都タワーを糾弾している。

   応仁の乱で、荒廃して廃墟のようになった京都を、秀吉や徳川歴代将軍が復興に多大の努力を費やし、ルーズベルト大統領も、京都の建築物と文化遺産がいかに貴重であるかの指摘に耳を傾け、空襲で破壊されることを思いとどまって、せっかく、人類文明の最も重要な遺産を必死に守り、古い街並みは傾斜した屋根が見渡す限り続き、ところどころ優美な五重塔や寺院の門で途切れているだけで、素晴らしく均整の取れた景観を形作っていたのを、京都タワーは台無しにしてしまった。と慨嘆し、
   それをきっかけに、最早破壊行為に歯止めが効かなくなり、何ブロックにもわたって続く美しい町家や商家は次々に取り壊され、近代建築の粋を凝らしたとは言い難い醜悪で凡庸なビルや、電信柱と絡み合う電線の束に取って代わられた。として、
   美的感覚や歴史を重視する人々の意思を無視して、日本政府の無策や国民の無関心などによって、どんどん、日本文化と歴史が営々と築き上げてきた景観や美観を破壊し続けていると、説き続けるのである。
 
  ウィキペディアによると、京都タワーは、ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーン等に影響を受けたモダニズム建築を実践した山田守の設計で、
   政財界中心の建設推進派と、学者や文化人主導の反対派が世論を二分して議論されたが、これは都市の美観論争として日本で初めてのことだったと言う。
   その前後に京都で学生生活を送り、工事中にタワーの中にも入って見ているので、知らないわけでもなく、超保守的で、逆に、強烈な左翼勢力の強い京都で、よく、このような奇天烈な塔が建ったなあと不思議に思ったのを覚えている。
   
   しかし、 ターガート マーフィーの見解は、分からない訳ではないが、やや、独善的気味で言い過ぎだとは思う。
   世界の歴史的な都市を見ても、 例えば、ドイツの街を筆頭にして、ターガート マーフィー流の見方をすれば、旧市街は、中々、雰囲気があって美しいが、その外側の戦後復興建設された新市街の開発は、日本の場合と同じで、決して美しくもモダンで感興をもよおすような景観美を備えたものではないことは、周知の事実であろう。
   ただ、欧米のように、新築及び増改築などについては、許可基準が厳格で美観も考慮され近隣の同意条件も厳しいのと比べて、日本の建築許可は、景観美などを殆ど顧慮せずに建築基準を満たして居れば簡単におりているようで、街並みは無茶苦茶であるし、安普請の建築物の景観などは相当ひどいことは事実である。
   それに、電信柱や電線、それに、無秩序な看板やネオンなどの存在は致命的で、欧米と比べて、都市景観が、美しくないことは事実であろう。

   さて、都市景観であるが、今ではパリの象徴のように有名なエッフェル塔でさえも、当時は、あまりにも奇抜な外見のために、賛否両論に分かれ、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出したと言われており、ギー・ド・モーパッサンなどは、反対派の最右翼だったと言う。
   突然出現した斬新なデザインの建築物が、賛否両論を巻き起こしながら出現し、その後、長い歴史に風化しながら都市景観を醸成して行き、都市美を形成して行く、
   それを、我々現在の人間が評価して、楽しんでいると言うことであるから、歴史の風雪に耐えて生き抜いてきた建造物には、文化財の価値があると言うことであろう。

   ところで、興味深いのは、ノートルダムの再建についての動向で、
   NHK BS朝のフランス放送局のニュースで、火災で崩れ落ちたノートルダム寺院の新しい屋根と尖塔のデザインを公募する計画を発表したことを受けて、超モダンな尖塔絵を合成したデザインを放映していた。 
   AFPBB Newsの「寄付と再建方法で論争 ノートルダム火災、仏社会結束ならず 」にも、このトピックスに触れて、次のようなコメントが記されていた。
   保守派の政治家らは18日、大聖堂に近代的な建築物が加わる可能性に懸念を示した。政府はこれに先立ち、新しい屋根と尖塔のデザインを公募する計画を発表。マクロン氏は再建を5年で完了する目標を定め、「近代建築の要素も想像できる」と述べていた。極右政党「国民連合(National Rally)」のジョルダン・バルデラ(Jordan Bardella)氏は仏ニュース専門局LCIに、「この狂気の沙汰を止めよう。私たちはフランスの文化財を絶対的に尊重する必要がある」と述べ、「現代アートとやら」が加えられるかもしれないとの考えを一蹴した。

   斬新で奇抜なデザインの建造物には、賛否両論が渦巻き続けるのは、必然の推移。
   フランスでも、ルーブル美術館の中庭に、巨大なガラスのピラミッドが建設されるなど、木に竹を繋いだような歴史的建造物が生まれている。
   これからも、どんどん、近代的なモダンで技術の粋を体現した建物が生まれてくるのだろうと思うと、わくわくする半面、歴史的文化財とは、一体何であろうかと、考えざるを得なくなる。
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わが庭・・・菊枝垂桜、ぼたん、ミヤコワスレ

2019年04月18日 | わが庭の歳時記
   八重桜の季節になったのであろう、わが庭の菊枝垂桜も、殆ど開花してきた。
   淡い紫かかったピンクの優美な八重桜で、それ程、花房の数は多くはないのだが、匂うように美しい。
   結構、植えてから経つのだが、まだ、2メートル少しくらいしか背丈がなく、成長は遅く、後から植えたエレガンス・ミユキの方が、背が高くなっている。
   垣根の外の川っぷちに植えた枝垂れ桜と枝垂れ源平桃が、小木ながら、重たそうにぼってりとした花をつけている。
   枝垂れが多いのは、庭のスペースを考えたからだが、何となく、枝垂れに興味があることも事実である。
   
   
   
   
   
   
   

   3本植わっているぼたんのうち、1本に、最初の花が咲いた。
   20センチ近い大輪で、淡い紫色で、八重咲の優雅な花である。
   楊貴妃が好きで一気に人気が出た中国の花だが、花弁が薄くてか弱いので、日照りや風雨に弱くて、すぐに傷むのが惜しいところである。
   その下草のミヤコワスレが、やっと、一輪花を開いた。
   沢山、庭に広がっているので、これから、最盛期である。
   
   
   
   

   やっと咲いたブラック・マジックが、幸い、まだ花弁を落とさずに咲き続けている。
   
   

   梅が、結実し始めた。
   まず、鹿児島紅梅が、小さな小梅をつけ始めて、そのすぐ後に、白梅の大きな木が、沢山の実をつけて、少しずつ大きくなってきた。
   今、昨年作った梅酒を楽しんでいるのだが、今年は豊作のようである。
   
   
   
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NETライブビューイング・・・ドニゼッティ「連隊の娘」

2019年04月17日 | クラシック音楽・オペラ
   ドニゼッティのオペラは、「愛の妙薬」は何度か観ているが、後は、「アンナ・ボレーナ」「ラ・ファヴォリート」「ドン・パスクヮーレ」くらいであろうか、殆ど聴く機会はなかったのだが、ロッシーニ、ベッリーニと並んで、ベルカント・オペラの旗頭であるから、アリアが美しい。
   今回の「連隊の娘」は、初めて見るオペラであったが、ワーグナーのような深刻な戯曲ではなくて、軽妙な喜歌劇タッチのオペラで、その上に、主役たちの歌うアリアが美しいのであるから、非常に楽しませてもらった。
   カーテンコールで、凄い紙吹雪が舞って、観客の熱狂的な拍手喝采も、最大級ではなかったかと思う。

   さて、このオペラだが、
   19世紀初めのチロル地方の物語で、進軍してきたフランス軍第21連隊に、戦場で棄て子であって、軍曹シュルピスに拾われて連隊で大きくなったマリーというマドンナがいた。マリーは、崖から落ちた時に助けられた農民の若者トニオと相思相愛となる。しかし、偶然現れたベルケンフィールド侯爵夫人が、マリーが亡くなった妹とフランス軍人との間の子(実際は自分の婚前の隠し子)だと分かって、マリーをパリに連れて行く。貴族の生活になじめないマリーだが、既に許嫁がいて結婚証書を交わそうとした時に、マリーを追ってトニオが連隊を引き連れて戦車でやってきて結婚を迫る。真実の愛にほだされて、ベルケンフィールド侯爵夫人は、跡継ぎを期待していた自分の利己的な願いを諦めて、二人の結婚を許す。 そんな話である。
   

   美しくて感動的なアリアが続くのだが、第1幕での、ハヴィエル・カマレナのトニオがハイCを連発する超難関アリア〈ああ友よ、なんと嬉しい日!〉、そして、その後、ベルケンフィールド侯爵夫人が、姪として引き取ろうとして、プレティ・イェンデのマリーが連隊に別れを告げて歌う切なくも美しいアリア〈さようなら〉などは絶品で、前者では、歌い終えたトニオに、長い間観客のスタンディング・オベーションが鳴りやまず、アンコールに応えて、再び感動の嵐、とにかく、凄い舞台であった。
   連隊の仲間が繰り広げる愉快な〈連隊の歌〉が、テーマ音楽のように、軽快かつリズムカルにストーリーを展開して心地よい。
   一方、マリーの熟成した豊潤な赤ワインのようにコクのある滑らかで美しいソプラノが感動的なのだが、兵士たちのためにじゃが芋を剥いたり、アイロンをかける明るく健気なコミカルシーンで、興に乗って、母国のズールー語でアドリブ表現するなど、本人も、自由で真実の自分を演じ切れて幸せだと言ったように思うのだが、とにかく、はち切れんばかりのパワー炸裂の凄い舞台で、楽しませてくれた。

   トニオのハヴィエル・カマレナは、正にメキシコ人テナー、
   陽気で人が良くて飾らない、一生懸命の直球勝負で、それに、甘い情熱的なテナーで観客を酔わせて、途轍もないハイCで聴衆を釘付け。
   私が、ウォートンで勉強していた時、メキシコ人のリカルドと言う友人がいて、モントレーの自宅で何日か滞在させてもらって、メキシコ生活を実感させてもらったのだが、思い出して懐かしくなった。

   指揮者のエンリケ・マッツォーラは、ベルカントやフランスもので評価が高いイタリア人指揮者で、METデビューは16年《愛の妙薬》だと言うから、素晴らしくない筈がない。
   シュルピスのマウリツィオ・ムラーロ、ベルケンフィールド侯爵夫人のステファニー・ブライズなど、芸達者な脇役が、素晴らしい舞台を魅せて、流石はMET。
   面白いのは、名女優キャスリーン・ターナーをオペラに引っ張り出して公爵夫人を演じさせて、ベルケンフィールド侯爵夫人のステファニー・ブライズと対峙させたこと。
   演出のロラン・ペリーは、エスプリの利いた面白い舞台を展開していて、楽しい。

   さて、CDで、ジョーン・サザーランドのマリーと、パバロッティのトニオで素晴らしいのが出ていると言うことだが、パバロッティの「愛の妙薬」をロイヤル・オペラで観ており、パバロッティのハイCは有名であるから、絶品であろうが、サザーランドのメリーは、ルチアを歌ってからベルカントに変わったと言うから、面白いかもしれない。
   サザーランドは、晩年に、ロイヤルとフィラデルフィアで、3回くらいしか観ていないのだが、素晴らしいソプラノで感激した記憶はあるが、良く覚えていない。
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ミニトマトをプランターに植える

2019年04月16日 | ガーデニング
   恒例のミニトマト苗を、プランターに植えた。
   毎年植えているので、ルーティンになってしまったのだが、今年は、グンと苗の数を減らした。
   狭い庭の空間を利用してのトマト栽培なので、花木の世話もしているので、何時も、どっちつかずで失敗していることもあって、気を利かせたのである。

   今年は、いつものタキイからのを止めて、国華園から、接木苗を安く買えたので、それに切り替えた。
   4連の小さなポットの幼苗だったが、接木苗だったし、レッドとイエローのアイコ、そして、レッドとイエローのプチぷよと言った定番のトマト苗なので、問題ないと思ったのである。
   占めて16本、一つのプランターに2本ずつ植えたので、8プランターである。

   これまで、色々なトマト苗を、手を変え品を変え、随分、あっちこっち探して試みてみたが、タキイやサントリー、デルモンテなどの高い上等な苗を植えても、ケーヨーDツーの売れ残りの100円や50円の苗を植えても、それ程、大差ないことが分かっているので、まあ、アイコを植えれば間違いないと思っているのである。

   トマト栽培の本には、花のついた苗を植えるようにとか、花芽を手前に向けて植えるようにとか、いろいろ書いてあるのだが、まだ、10センチくらいの幼苗で、花芽など付いている筈もなく、本来なら、少し大きなポットに植え替えて、花芽が出てくるまで待って植えるのが筋であろうが、同じことなので、そのまま、直植えしてしまった。

   プランターは、何年も使っているプランターを使って、土だけ、野菜や花の培養土を買ってきて、それを使った。
   ある程度、時間がたった段階で、追肥を行えばよいのである。
   気になるのは、長雨と病虫害、一度やられると、回復が難しい。
   それに、7月か8月の猛暑で、途中でダメになることある。

   いずれにしろ、同じ奇麗な赤や黄色の色をしていても、自家植えの熟したトマトの味は、スーパーのトマトとは違う。
   孫や家族が喜ぶのが、楽しみで、毎年植えているようなもので、手間暇、結構大変である。
   栽培本数が減ったこともあり、今年も、2本仕立てで栽培しようと思っている。
   尤も、5月に入れば、園芸店で、また、気が変わって、新しいトマト苗に触手を伸ばすかも知れないとは思っている。
   
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わが庭・・・椿:ブラック・マジック、鴇の羽重、菱唐糸、

2019年04月15日 | わが庭の歳時記
   蕾が膨らみかけたら、ぽとりと落ちていたブラック・マジックが、やっと、奇麗な姿を見せてくれた。
   枝が細くて華奢で、支柱を立てないと這ってしまうような木でありながら、ぼってりとした厚手の華やかな花を咲かせるので、アンバランスなのだが、どうして、ダーウィンの適者生存の法則を潜り抜けたのか。
   やはり、人間が大切に手を加えて育てた園芸種だと言うことだろう。
   
   
   

   庭植えして3年経つのだが、殆ど成長が止まった感じの鴇の羽重が、何輪か蕾をつけて、一輪だけ咲き切った。
   白花になってしまったが、本来なら、微かに鴇色を帯びるのである。
   
   

   千葉の庭で植えていて懐かしくなって、鉢植えを買ったのが、菱唐糸。
   地色がピンクの唐子咲きで、小輪だが、品があって奇麗である。
   
   

   4月一杯は、椿の季節。
   わが庭では、まだ、椿が主役である。
   
   
   
   
   

   咲き終わった椿の新芽が葺き出して、活発に成長を始めている。
   それぞれ、椿によって個性が異なっていて、成長に差があるのだが、肥料などを切らせなかったら、10センチくらいは伸びるのだが、成木になるのには時間がかかる。
   千葉の庭は、本格的に椿を植えて20年ほどだったので、正に、椿の庭だったのだが、手放してしまって、残念ではあった。
   グーグル・アースを見ると、今や、植木は殆ど消えてしまって、椿の木など跡形もなくなっていて、咲き乱れていた花木に、申し訳ない思いで一杯である。
   さて、わが庭の椿の新芽の状態は、青い珊瑚礁を筆頭に、次のとおり。
   この新芽を利用して、今年は、青い珊瑚礁とミリンダを挿し木にしようと思っている。
   
   
   
   
   

   牡丹の蕾が色づき始めた。
   地面から勢いよく芽吹いて伸びていた芍薬にも蕾がついて膨らみ始めた。
   この調子だと、早いものは、今月中に咲きだしそうである。
   
   
   
   

   わが庭で、今、咲きだした花木は、菊枝垂桜、梨、平戸つつじなど、
   
   
   
   
   
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R. ターガート マーフィー著「日本‐呪縛の構図 上」

2019年04月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
  ”この国の過去、現在、そして未来 ”と言うサブタイトルのついたこの本「日本‐呪縛の構図」Japan and the Shackles of the Past (What Everyone Needs to Know)
オックスフォード出版からの依頼であるから、英国紙など、かなり、評価が高い。
   外国人の目からの評価であるから、真実かどうかとか、日本人にとって良い本なのかと言うことは、また、別問題であるが、結構、面白いし勉強になる。

   マーフィー教授について、筑波大学のHPでは、
グローバル・ノレッジ講座Financial Crises担当で、
財政危機(financial crises )の本質を理解する試みで主に歴史的アプローチ と言うカリキュラムであるから、
大恐慌や日本のバブル経済の崩壊やサブプライム危機など典型的な財政危機を掘り下げながら、ビジネスや投資家が如何に対応すべきか、教えると言うことであろうか。
   ハーバード大で東洋学専攻、同大学ビジネススクールのMBAであり、バンカメやチェース・マンハッタンやゴールドマン・サックスで投資銀行家として活躍し、ブルッキングスのシニアフェローを務めたと言うから、象牙の塔の学者と違って、実務にも精通したグローバル経済にも幅広い知見を備えた学者なのであろう。
   日本に恋に落ちて在住40年と言うアメリカ人か日本人か分からないような教授で、並みの日本の学者では太刀打ちできないような博学多識を開陳して日本の歴史を紐解いていて、気持ち良いほど爽やかなのだが、やはり、辛口の鋭い外人感覚の日本観が、見え隠れしていて、戸惑いを感じることが結構ある。

   専門だとする財危危機、日本の経済については、問題なしとしないので後述するとして、とりあえず、上巻における日本に対する見解で、気になる点、まず、安保問題について、私見を述べてみたい。

   江戸時代の鎖国体制から1945年の最後の決死の抵抗に至るまで、日本の歴史は、日本人が、イデオロギー的にも、軍事的にも、経済的にも、外国の支配を受けずに、自国を統治できた時代であったが、それは完全に終止符を打たれた。1945年以降、日本は、占領下に置かれることになった。だが、多くの重要な点で、占領時代はいまだに終わっていないのである。とする叙述である。
   また、今日に至るまで、アメリカは日本のために、普通の独立国なら、当然自分の判断で行うべき活動を肩代わりし続けている。安全保障の確保と外交である。占領が正式に終了した後も、日本が真の意味で主権を回復できていないことは、日本の左右陣営のどちらにとっても不愉快な現実だ。と述べている。

   問題の根源は、サンフランシスコ講和条約にもあるようだが、1960年の安保条約改定によって、一方の破棄予告がない限り、自動的に延長されることが定められ、これによって、日本は実質的にアメリカの永続的な従属国であることが成文化されたのである。アメリカは引き続き、日本全国に散らばる米軍基地に無制限のアクセスを許可され、基地の維持費用も日本政府が負担する。
   ・・・新安保条約は、日本がもはやアメリカの植民地ではないことを明確にしたかもしれない。だが、率直に言って、決して対等な「同盟国」と認められたわけではない。・・・日本は、どちらかと言うと「保護国」に近い存在で、国内のことは自由裁量に任されているが、安全保障と外交の問題に関してはいまだにアメリカの指示に従うことを義務付けられているのだ。その従属関係を維持するためのコストは、日本が負担しなければならない。と述べている。
   
   このような日米関係については、ジョン・ダワーの著作を読めば、もっと、強烈な表現で明確に記述されているのだが、おそらく、アメリカ人の知識人の一般的な見解であろうし、アメリカ人の対日本人観であるような言う気がしている。
   問題は、このようなアメリカ人の見解、日本がアメリカの保護国に近い従属国だと言う見解と、日本が立派な独立した世界有数の先進国だと考えている誇り高き一般日本人との考え方感じ方との大きなズレである。
   そう思えば、日本での基地問題や沖縄問題での対応が、如何にピント外れか。

   私は、以前に、自分の国を自分で守れないような国は、真の独立国とは言えないと思うと書いたことがある。
   必ずしも、著者の見解を良しとして肯定するつもりはないが、戦後70年を経た今でも、アメリカの核の傘に保護されて、太平天国に安穏としていることに疑問を感じており、真の独立を確立するためにどうすれば良いのか、考え続けている。

   私自身、アメリカで学び、米国製のMBAであるので、アメリカには、一宿一飯の恩義を感じており、アメリカそのものを否定するつもりはない。
   しかし、トランプのアメリカ・ファーストが明確に示すように、国力を急速に低下させて覇権国の地位を失いつつあるアメリカに頼り切り、著者が説くように、独立国の独立国の由縁である安全保障と外交までも、従属し続けざるを得ないとするなら、日本の活路はどこにあるのか、心配している。

   また、世界第5位だと言われる軍事大国(?)日本にとって、このようなことが、現実だとするのなら、安全保障と外交の問題は言うに及ばず、沖縄の問題を根本的に見直して、普天間基地や辺野古移設の問題も、このままで良い筈がなく、真剣に再考すべきだと思っている。
   マーフィー教授のこの本は、現実を直視せよと教えてくれたような気がしている。
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ウグイスとガビチョウ

2019年04月12日 | 生活随想・趣味
   今年は、頻繁に、わが庭や近所の庭にやって来て、毎日のように、ウグイスがしきりに鳴いている。
   初春の初鳴きの頃には、まともに、ホーホケキョと鳴けない場合が多いのだが、今年は、最初から、奇麗にホーホケキョと鳴いていた。
   ウグイスの鳴き声は、先輩のウグイスの鳴き声を真似て鳴くと言うから、先生が良かったのか、奇麗な声で鳴いているのである。
   昔、江戸のウグイスは、奇麗に鳴けなかったので、京都から、鳴き声の素晴らしいウグイスを移入してきて、鳴き声の特訓をしたという。

   ウグイスは、普通は、森林の中でも、高い木の上や、茂った木の陰で鳴いていることが多くて、それに、移動も敏捷なので、殆どその姿を見ることが難しいのだが、今年は、わが庭に飛んできて、庭木を渡ることがあって、何度か、身近に見ている。
   ウグイス色というのは、むしろ、メジロの方が近くて、ウグイスは、もっと色彩のない地味な色で、それほど美しい小鳥ではないのである。
   ウグイスのほかの日本三鳴鳥の、オオルリやコマドリは、色彩も美しいのだが、残念ながら、私は、まだ、鳴き声を聞いたこともないし、姿を見たこともない。

   さて、今年は、ウグイスが頻繁に訪れる所為でもなかろうが、ガビチョウの声を聞くことが少ない感じである。
   ガビチョウは、ウグイスが、ホーホケキョと鳴かないときに、「ケキョケキョケキョ」と断続的な声で鳴くのだが、これを真似て、似たような奇麗な声で鳴くので、昔、台湾などから輸入されたようだが、鳴き声が大きくて喧しいとか、日本の在来種を駆逐すとかで、日本の侵略的外来種ワースト100選定種になっていると言うから面白い。
   この鳥は、ウグイスより大分大きく、奇麗な鳥ではない。
   私でも、写真に撮れて、このブログで、掲載したことがあるのだが、最初は、知らなくて、良い声だなあと思って聞いていたのだが、外来種ワーストだと知って、一気に興味をなくしてしまった。

   観劇用の双眼鏡以外にも、バードウォッチング用の大型双眼鏡も買って持っているので、鎌倉山へでも、バードウォッチングに行こうかと思っている。
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映画「バイス VICE」

2019年04月11日 | 映画
   オリバ―ストーンなみのドキュメンタリータッチの興味深い映画である。

   109シネマのストーリーは、要を得て完、これ以上書けないので引用させてもらうと、
   1960年代半ば、酒癖の悪い青年チェイニーがのちの妻となるリンに尻を叩かれ政界への道を志す。型破りな下院議員ドナルド・ラムズフェルドのもとで政治の表と裏を学んだチェイニーは、次第に魔力的な権力の虜になっていく。大統領首席補佐官、国務長官の職を経て、ジョージ・W・ブッシュ政権の副大統領に就任した彼は、いよいよ入念な準備のもとに“影の大統領”として振る舞い始める。2001年9月11日の同時多発テロ事件ではブッシュを差し置いて危機対応にあたり、あの悪名高きイラク戦争へと国を導いていく。法を捻じ曲げることも、国民への情報操作も全て意のままに。こうしてチェイニーは幽霊のように自らの存在感を消したまま、その後のアメリカと世界の歴史を根こそぎ塗り替えてしまったのだ。

   DISCOVER THE UNTOLD TRUE STORY アメリカの恥ずべき歴史が暴かれる
   という凄い映画である。
   私は、一般論は知っていたが、保守反動の極めて右に寄った小ブッシュ時代の政策は、やはり、ブッシュ自身のものだと思っていたのだが、この映画を見る限り、ブッシュの存在感は極小で、影の大統領、闇の大統領と言われた副大統領のディック・チェイニーの暗躍で、アメリカの歴史が動いていたと言うことである。

   ブッシュのランニングメイトへの懇願を断り続けていたチェイニーが、条件があると言って、お飾りの副大統領としてではなく、やりたいことだけをやりたい、内政問題・人事管理、軍事問題、エネルギー問題、外交問題だ、すべて任せ、と言って、ブッシュの了解を取る。
   この映画では、飲んだくれのがしんたれで、エール大学を中退して、妻を泣かせ続けるろくでなしが、海千山千のラムズフェルドに近づいていつの間にか表舞台に立ったように描かれているのだが、
   実際には、その後、ワイオミング大学政治学専攻に編入学して、修士を経て、博士課程の時に、ウォーレン・ノールス・ウィスコンシン州知事のスタッフとなり、それが政界入りの切っ掛けになって、ニクソンの大統領次席法律顧問、フォードの大統領首席補佐官となったと言うことで、それなりのキャリアは踏んでいるのである。

   映画は、冒頭、ワールド・トレード・センターにボーイングが激突した9.11が勃発して、大統領の許しなしで、独断専行して指示するチェイニーの姿が映し出されているが、アメリカの歴史の歯車が、狂って動き出したのは、正に、この時からで、テロ対策を表看板にして、ありもしない大量破壊兵器の存在をでっちあげて、イラク戦争に突入、
   世界最大の石油掘削機の販売会社ハリバートンのCEOであったから、地球温暖化環境問題には一顧だにせず、政治と癒着して、湾岸戦争とイラク戦争で巨額な利益をあげるなど、アメリカ民主主義を大きく右へ急旋回。

   私が、アメリカで勉強していた時には、ウォーターゲイト事件で窮地に立ったニクソン大統領の最後の時代で、アメリカの民主主義が危機に直面していた時期でもあり、チェイニーが、表に出て動き始めた時期でもあった。
   それ以降、身近にアメリカの政治経済を注視して見ていたのだが、あまりにも、アップダウン、右左、揺れに揺れながら、だんだん、アメリカの国力も落ち気味で、おかしな方向に向かって進んでいるようで心配している。
   パクスロマーナ、パクスブリタニカ、パクスアメリカーナ、世界の安定のためには、核となる超大国の存在が必要なのである。
   しかし、それさえ、歴史の悪戯で途轍もない方向に急旋回をする、そんなことを、しみじみと感じさせてくれる映画であった。

   とにかく、すべて真実だと言うこの映画、登場人物が、当時の歴史上の人物と見まがうほどよく似ており、チェイニーを演じるクリスチャン・ベールは、実に上手い。
   監督のアダム・マッケイの限りなき力量発揮の映画でもあろう。
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