人間国宝桂米朝の長男桂米團治の半自伝的な本で、軽妙タッチの語り口が面白い。
先日の国立能楽堂の上方落語会で、米朝一門グッズが販売されていて、この本を見つけて読んでみたのである。
芸名の「小米朝」ではなく、自虐的にと言おうか、「子米朝」とタイトルづけているのが面白い。
どうして落語家になったのか、そう聞かれる度毎に、答えに窮したと言う。
しかし、高校生の時に、サッカーを続けながら、通訳に興味を持ったり、クラシックが好きだったので音楽関係の仕事をしてみたいと思ったり、油絵の先生から美術学校への進学を勧められたり、いろんなことに興味があり過ぎて、初めて自分の将来のことを現実に意識するようになっていた時に、母親が「三兄弟の中から、一人くらいチャーちゃん(米朝)の後を行くと、チャーちゃんは喜ぶよ」と言われて、いつしかその気にさせられて、「じゃあ僕は長男やし、落語家になるかな」と思うようになった。
その甘い野望を胸に、米朝に、「僕、噺家になりたいんだけれど」とボソッと言ったら、「止めとけ」と一蹴された。
「お前は噺家に向いてない。これからの時代はどうなるか分からへんので、とりあえず今は大学に行っとけ。尼崎なら、2~3千票くらい取ったら、市会議員になれるやろ。あとはやりたいことをやったらええ。」と言われたと言う。
噺家への道を諦めて大学生活を楽しんでいた時に、兄弟子の米二に、噺家になるなら大学出てからでは遅いと背中を押され、ある日の「米朝一門」の飲み会で、枝雀が、「師匠、明君を噺家にしましょうな」。横から、ざこばが、「明君、やったらええ。やったらええ!」。
明が、「はい・・・実は、前から噺家になりたいと思ってました。」
噺家としての修業を始めるために大学を辞めようと思ったら、米朝が、「何も辞めることあらへんがな。出られるもんなら出といた方が、なんぞの役に立つときもあるやろ」と言ったので、大学生と噺家の二足の草鞋を履いて、噺家人生がスタートしたと言う。
面白いのは、米團治襲名の経緯。
最初は、ざこばから、「いつまでも小米朝ではあかんやろ。名前変えよ!」「米朝になれ!」と言われて、二人で米朝宅に行き、「師匠!小米朝を米朝にしようと思うんですけど」・・・勿論、OKなど取れるはずがなく、米朝の俳号「八十八」になれなれ、と、ざこばに勧められたが、昔からあった名前と違う、襲名とは言われへん、と小米朝。
ざこばの顔も三度まで、という時に、事務所の今井社長が、「米團治はどうですねん」。翌日、ざこばが、「お前、米團治やったらかまへんか」。
あれよあれよと思う間に、米朝とざこばと南光と事務所以外は、殆ど誰も知らない間に記者発表。
先代の米團治の親族を追跡したが、連絡がつかず発表したら、幸いにも、先代の後妻の娘さんから手紙が届いて、福岡県春日市に挨拶に行けたと言う。
それに、先代は、母校関学の落語会を開いており、その会を小米朝が、退学しなかったお陰で引き継ぎ部員確保などに奔走した。」と言う奇しき縁を語っている。
私が興味を感じたのは、米朝の受け売りだと言うのだが、落語の歴史などの落語論や、上方落語と江戸落語の違いだとか、京都と大阪の違いだとかの落語文化論である。
それに、これは、能狂言、歌舞伎文楽にも通じるのだが、ストーリーが総て旧暦で書かれており、季節感が殆ど1か月ずれていて、意味をなさないので、太陰太陽暦に変えよと言う、米團治の提案で、出来る出来ないはともかく、正論だと思っている。
この旧暦放棄は、日本の古典芸能にとっては、大変なダメッジだったと思っている。
米團治は、クラシックが好きだと言うことだが、この本では、モーツアルトのオペラを落語にコラボしたとか書いているが、どんな作品か、聴いてみたいと思っている。
ザルツブルグでモーツアルト生家を見て、モーツアルトに傾倒したと言うのだが、あの町は、中世の佇まいが残るシックな街で、ゾッコン惚れるのも当然であろう。
それは、ともかく、もう一度、米團治の落語を聴きたくて、新春銀座での独演会のチケットを、カンフェッティに予約を入れた。
「天王寺参り」と「花筏」のようだが、楽しみにしている。
先日の国立能楽堂の上方落語会で、米朝一門グッズが販売されていて、この本を見つけて読んでみたのである。
芸名の「小米朝」ではなく、自虐的にと言おうか、「子米朝」とタイトルづけているのが面白い。
どうして落語家になったのか、そう聞かれる度毎に、答えに窮したと言う。
しかし、高校生の時に、サッカーを続けながら、通訳に興味を持ったり、クラシックが好きだったので音楽関係の仕事をしてみたいと思ったり、油絵の先生から美術学校への進学を勧められたり、いろんなことに興味があり過ぎて、初めて自分の将来のことを現実に意識するようになっていた時に、母親が「三兄弟の中から、一人くらいチャーちゃん(米朝)の後を行くと、チャーちゃんは喜ぶよ」と言われて、いつしかその気にさせられて、「じゃあ僕は長男やし、落語家になるかな」と思うようになった。
その甘い野望を胸に、米朝に、「僕、噺家になりたいんだけれど」とボソッと言ったら、「止めとけ」と一蹴された。
「お前は噺家に向いてない。これからの時代はどうなるか分からへんので、とりあえず今は大学に行っとけ。尼崎なら、2~3千票くらい取ったら、市会議員になれるやろ。あとはやりたいことをやったらええ。」と言われたと言う。
噺家への道を諦めて大学生活を楽しんでいた時に、兄弟子の米二に、噺家になるなら大学出てからでは遅いと背中を押され、ある日の「米朝一門」の飲み会で、枝雀が、「師匠、明君を噺家にしましょうな」。横から、ざこばが、「明君、やったらええ。やったらええ!」。
明が、「はい・・・実は、前から噺家になりたいと思ってました。」
噺家としての修業を始めるために大学を辞めようと思ったら、米朝が、「何も辞めることあらへんがな。出られるもんなら出といた方が、なんぞの役に立つときもあるやろ」と言ったので、大学生と噺家の二足の草鞋を履いて、噺家人生がスタートしたと言う。
面白いのは、米團治襲名の経緯。
最初は、ざこばから、「いつまでも小米朝ではあかんやろ。名前変えよ!」「米朝になれ!」と言われて、二人で米朝宅に行き、「師匠!小米朝を米朝にしようと思うんですけど」・・・勿論、OKなど取れるはずがなく、米朝の俳号「八十八」になれなれ、と、ざこばに勧められたが、昔からあった名前と違う、襲名とは言われへん、と小米朝。
ざこばの顔も三度まで、という時に、事務所の今井社長が、「米團治はどうですねん」。翌日、ざこばが、「お前、米團治やったらかまへんか」。
あれよあれよと思う間に、米朝とざこばと南光と事務所以外は、殆ど誰も知らない間に記者発表。
先代の米團治の親族を追跡したが、連絡がつかず発表したら、幸いにも、先代の後妻の娘さんから手紙が届いて、福岡県春日市に挨拶に行けたと言う。
それに、先代は、母校関学の落語会を開いており、その会を小米朝が、退学しなかったお陰で引き継ぎ部員確保などに奔走した。」と言う奇しき縁を語っている。
私が興味を感じたのは、米朝の受け売りだと言うのだが、落語の歴史などの落語論や、上方落語と江戸落語の違いだとか、京都と大阪の違いだとかの落語文化論である。
それに、これは、能狂言、歌舞伎文楽にも通じるのだが、ストーリーが総て旧暦で書かれており、季節感が殆ど1か月ずれていて、意味をなさないので、太陰太陽暦に変えよと言う、米團治の提案で、出来る出来ないはともかく、正論だと思っている。
この旧暦放棄は、日本の古典芸能にとっては、大変なダメッジだったと思っている。
米團治は、クラシックが好きだと言うことだが、この本では、モーツアルトのオペラを落語にコラボしたとか書いているが、どんな作品か、聴いてみたいと思っている。
ザルツブルグでモーツアルト生家を見て、モーツアルトに傾倒したと言うのだが、あの町は、中世の佇まいが残るシックな街で、ゾッコン惚れるのも当然であろう。
それは、ともかく、もう一度、米團治の落語を聴きたくて、新春銀座での独演会のチケットを、カンフェッティに予約を入れた。
「天王寺参り」と「花筏」のようだが、楽しみにしている。