熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

榊原英資著「「通貨」で読み解く世界同時恐慌」(2)

2012年06月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   現在の円高の基本的原因は、欧米の経済が悪いことで、欧米とも、輸出競争力を出来るだけ強くするために、通貨安を容認し、この通貨安のままに維持して置きたいからだと言う。
   円高ドル安を是正したい日本と、ドル・ユーロ安容認の欧米は、思惑が一致しないので、為替政策が全く反対であり、日本だけが為替介入に踏み切っても上手く行かず円高のままであり、市場の流れを変えることは出来ないばかりではなく、欧米の反発を招くだけだと言うのが現在の状況である。
   3.11後の一時期には、日本の悲劇に同情した「トモダチ介入」と言う協調介入があったが、その後は、全く多国間の合意による為替介入は出来ず、安住大臣が、財界などからの圧力によって、いくら断固たる処置を取っても、円高は解消される筈がない。

   どこまで円高が進むのか、何が円高の歯止めとなるのかも問題だが、ヨーロッパの危機がどこまで進むのか、アメリカ経済がどこまで後退するのかと言う向こう側の事情による円高なので、日本としては手の打ちようがないのだが、深刻な現状を考えれば、欧米の経済回復の可能性は、ずっと先のことになりそうである。
   しからば、日本は、この円高状態、すなわち、ドル安、ユーロ安が長期化すると覚悟を決めて、円高メリットを生かす道を追求するのが得策だと、榊原先生は説く。

   円高メリットを生かすには、円を日本の国外に出して使うこと。すなわち、円でドル価格のものを買うこと、海外に進出することだと言う。
   日本政府が、円高メリットを利用して、海外の鉱山を買収するとか、資源会社にM&Aをかけるとか、農地を買って若者たちを送り込むとか、これらの実際の業務は、商社等プロに任せて、実行すれば良い。
   個人も、同じように、海外旅行をするとか、定年後海外に移住するとか、東南アジアに別荘を買うとか、子弟を留学させるとか、円高は大きなチャンスだ。と言うのである。
   円高メリットを最大化するとともに、ドル高の是正を目指すべきで、円高を日本人や日本企業がグローバル化する絶好の機会と捉えて、戦略的に海外に出る、「戦略的に攻める円高政策」こそ、日本の取るべき道だと説くのである。

   ところで、円高による日本企業の国外脱出に加えて、円高メリットを企図した海外進出が加速すれば、当然のこととして、国内の空洞化が問題となる筈だが、榊原先生は、人口が減り、しかも生産年齢人口が減っているから、国内生産の全体がある程度縮小しても、人が余る状態には中々ならないので、空洞化などは心配する必要がないと言う。
   それに、長期不況に対する労働市場の対応がそれなりに進んで、非正規雇用が増えて、全体として賃金が下がり、その分企業のコストが下がっているから、そう簡単には首を切らないので、失業率はそれ程上昇しないと言うのである。
   日本の世界に誇る基幹MNCであるトヨタや日産まで、国内生産を削減して世界に打って出る時代に、何を能天気なことを言っているのか。時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ない。
   
   それに、本人も深刻な問題だと認めているのだが、年収200万円以下の労働者が1000万を越えて、結婚も出来ない非正規雇用労働者が増加の一途を辿るなどと言うのは、貧困率の拡大であり、言うならば、摩擦的失業にも匹敵する現状で、貧困層の増加による異常な格差の拡大と中産階級の没落そのものが、空洞化の所為ではないと言うのだが、この現象こそ、国内経済を疲弊の極に追い込んでいる空洞化の最たる査証の一つではないのか。
   私自身は、むしろ、国内の雇用を維持増進するためにこそ、知恵を絞って円高メリットを活用すべきであって、円高還元関連の業種や事業は幾らでもある筈で、政府が積極的に政策を立案して実行すべきであると思っている。
   例えば、これからのグローバル世界は、知や美の創造などクリエイティブな価値創造の時代に突入するのであるから、日本国民の知的・芸術的能力を止揚することが、国際競争力の涵養と最高の国力増進策であるとするならば、円高にものを言わせて、世界中から英知と美の創造者を糾合して、一大グローバル知的センターを立ち上げれば良い。
   直接の円高メリット活用にはならないかも知れないが、後生大事に持っているだけの財務省証券のほんのわずかを売り払って、一部のコストを捻出するくらいでは、アメリカも文句は言わないであろう。
   
   日本の財務省は、外貨準備の殆どは米国債など証券として持っているようだが、多少の利子は稼げているにしても、私は、国家ファンド(政府系ファンド、 SWF)を設立して戦略的に活用すべきだと思っているが、榊原先生が、日本の強みは「環境」「安全」「健康」だと言っているので、これらを含めた総合的なインフラ整備事業で、新興国や発展途上国の発展に寄与できないかと思っている。
   贈与や借款ではなくて、どちらかと言えば、BOTやPFIに似た形式の元本回収方式のプロジェクトを開発して、ペイした段階で、ホスト国に贈与すれば良いのである。
   一部手持ちの外貨を使えって実施すれば、円高メリットの活用にはならないかも知れないが、逆に、目減りして減価一途である外貨の有効活用にはなろうと思う。

   さて、円高だが、今の円高は、欧米の経済状況が悪いので、避難通貨としての円の評価がアップしているだけで、最悪に近い日本の現状を考えれば安閑とはしておれないのだが、その国家の通貨が高いと言うのは、原則として、その国家経済の国際競争力が強くて経済状態が良いと言うことであり、本来は誇るべきことである筈である。
   ところが、輸出産業が日本経済の牽引力と目されて来た日本では、円高になると輸出産業の収益が悪化し経済の下振れ懸念が生じるので、あたかも、円高が悪の権化であるかのように、忌み嫌われて来た。
   しかし、先日のソニーの株主総会で、ドルに対しては、収支トントンで、為替変動の業績への影響は殆どなく、為替対策が間に合わないユーロについては、1円上がれば60億円の損失が出ると説明していたので、日本の多くの輸出企業は、既に、円高ドル安には、十分にヘッジをしている筈である。
   また、榊原説では、日本の貿易では、輸出より輸入の方が、ドル建ての割合が高くなっているので、円高ドル安のメリットが多い筈であり、円高ドル安のバランス・シートを、日本全体で見て行けば、必ずしもマイナスにはならないのである。

   いずれにしろ、円高ドル安を、日本企業の業績悪化のエクスキュースにしたり、忌み嫌うだけではなく、ドラッカーが、日本人が一番グローバリゼーションから後れを取っていると指摘していたくらいマルチナショナル・ビジネス音痴の日本人が、今こそ、この汚名を返上して、グローバリゼーションに打って出るべき今こそチャンスと捉えて、この長期化しそうな円高トレンドの逆境(?)を乗り切るべきであろうと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

榊原英資著「「通貨」で読み解く世界同時恐慌」(1)

2012年06月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   非常に時宜を得た興味深い本で、参考になるのだが、前から、榊原説で疑問に思っていた「国債発行にまだ余力がある」と言った形で復興目的の国債などに甘いのが何故か、と言う疑問に対して、この本で、
   「国の借金1000兆円の日本がギリシャになる可能性はあるか」「家計の資産が大きい日本は、まだ金持ち国家である」とサブタイトルを付けたところで、論じているので、今回は、この点だけに限って論じてみたい。

   榊原説の結論から先に言うと、
   「日本は負債が大きい代わりに、資産がけた違いに大きい。」
   日銀の資産循環統計の「部門別の金融資産・負債残高」の数字を引用して、資産から負債を差し引いた数字が280兆円あるとして、「まだ資産のほうが負債より大きい。」
   「日本にソブリン・リスクが皆無とは、勿論言えないが、そのリスクは小さく、今のところソブリン危機に陥る恐れはない。」と言う。

   
   ところで、日本の国債の格付け評価で、この日銀の「部門別の金融資産・負債残高」のような数字を参考にするのかどうか、専門的なことは分からないので、素朴な疑問なのだが、どう考えても、「まだ、資産の方が多い」などとは、単純に言えないのである。
   榊原氏が引用した表は、「国内非金融部門」の負債と資産(夫々、家計、民間非金融法人、一般政府の合計)で、榊原氏が余裕があるとして示した差額の数字は、裏返せば、「海外」の負債(本邦対外債権)から資産(本邦対外債務)を引いた差額の280兆円で、バランス・シートであるから、当然、「国内非金融部門」と「海外」を合算すれば、資産と負債はバランスする。
   海外部門の対外債権の超過分が、日本の余力だと言うことには疑問はないが、このあたりから、日本の国債の大半は、日本人が所有しているから安心だと言う理論が出てくるのであろうか。
   しかし、この表に示されているのは、政府の膨大な負債を家計が支えていると言う構図で、政府が徳政令を敷く意図なら別だが、日本国と家計とは、全く別個の当体であって、利害が異なるので、差し引きして数字合わせが出来るものでは決してないし、一たび経済が危機的な状態に陥れば、完全に相反する動きをする筈であり、また、国内非金融部門もそうである。
   したがって、この表の国内の資産マイナス負債の数字がプラスであると言うことは、対外債権がプラスであると言うことを示すだけであって、謂わば、他者の金をあてにしている訳であるから、国債発行余力があるなどとは、軽々には言えない筈である。

   ところで、企業の格付けが、企業のバランス・シートで判断されることを考えれば、日本の国債の格付けなり、ソブリン・リスクの評価は、当然、同じように、日本国の「貸 借 対 照 表」を基にして考えるべきではなかろうかと思う。
   幸い、財務省から、「国の貸借対照表」の試案が平成12年に出ており、平成14年度版が作成されているのだが、
   それによると、資 産 合 計 765.31兆円、負債合計992.71兆円、そして、資産・負債差額△227.40兆円となっていて、日本国が、巨大な負債残高を抱えた債務超過状態であることが、如実に示されている。
   このことを考えれば、日本国は、既に、膨大な債務超過であり、普通の会社なら、とっくに、継続企業の前提に重要な疑義を抱かせる事象や状況として特記事項が記される筈で、榊原先生のように、まだまだ、日本は、負債より資産の方が多いから、国債発行余力があるなどと悠長なことを言っておれないと思うのであるが、どうであろうか。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソニー第95回定時株主総会

2012年06月28日 | 経営・ビジネス
   代表執行役社長 兼 CEOが、ストリンガーから、平井 一夫に変った初めての定時株主総会だったが、巨大な赤字決算で苦境に立つソニーであるが、新体制への期待が優先してか、思ったより、平穏に終了した。
   ソニー経営者と株主との懇談ミーティングはなくなったが、商品展示会場へは多くの株主が詰めかけて、特に、新技術に対するディスプレイには列を成す盛況であった。

   総会で、株主が問題として指摘した最大の問題点は、これ程、ソニーの業績を悪化させて企業価値を毀損した元凶であるストリンガーと中鉢良治を、再び、取締役候補として指名したことで、これに関しては、二人の株主から、第一号議案の取締役の選任ついての反対意見とともに厳しい批判と詰問がなされた。
   総会での冒頭で、ストリンガーが挨拶に立ったのだが、業績の悪化は、3.11やタイの洪水など経営環境が悪かったと言うところから切り出したので、まず、経営者としてあるまじき発言だと切って捨て、経営者としての資質と責任問題に言及したので、指名委員会の小林陽太郎委員長から、まず答弁があり、ついで、平井CEOから補足説明があった。

   この経営環境が悪かったからと言う発言は、このブログでも触れたが、出井伸之が、同じくソニーのCEOを退任した時に、小谷キャスターに、「努力したんだけれど環境が悪くて」と応えていたのを批判したことがあるが、もう、そのこと自体が、ソニーの経営そのものに綻びが出た証拠で、凋落の始まりだと思った。
   出井は、創業者ないしそれに類似したトップから引き継いだソニーの初めてのプロフェッショナル経営者だったと、自身を称していたが、本当のプロではなかったが故に、経営再建が出来ずに、未曽有のソニー・ショックまで引き起こして退任したのであった。
   出井の慙愧の思いは、十分にリーダーシップを発揮してソニーを経営出来なかったことで、元々、創業者的な経営者による強力なリーダーシップによって快進撃を続けてきた会社であるから、出井以降の経営が如実に示しているように、十分に経営者としての訓練と経験を積んだ強力なリーダーシップを発揮できない正真正銘のプロではない経営者には、御し得ない程、会社自体のエネルギーが巨大なのである。
   私は、これと全く同じ運命が、平井一夫新CEOを見舞わないことを願っているが、前途は未知数である。

   前置きが長くなったが、前述のストリンガーと中鉢の取締役再任は、このソニーのアキレス腱とも言うべき経営体制の実体を如実に語っているのであって、
   平井が、巨大なソニーの経営に関して、実質的にも殆ど経験や知識がないのみならず、傍系からの登用で、コアビジネスであるコンス―マー・エレクトロニクスなどコンス―マー・プロダクツ&サービス、中でも、技術に関して殆ど経験や十分な知見に欠けると言う、言うならば、巨大なマルチナショナル・カンパニーでは、考えられないような新米のCEO就任なので、それを補強サポートするためには、企業内外に、経験があって、ある程度押さえが利く前任者のストリンガーと中鉢を、温存せざるを得なかったと言うことであろう。
   
   小林委員長も、平井CEOの経験不足に言及し、新体制への移行をスムーズに行うためと説明していたし、平井CEOも、両人の幅広いノウハウと業界でのコンタクトなどで、アドバイスやサポートが欲しいと述べていたので、両人の責任云々よりも、ソニーにとっては、止むを得ない選択なのであろう。
   ソニーの舵取りを誤って、1億近い損出を積み上げて、ソニーの企業価値を著しく毀損した張本人2人が、おこがましくも、経営の執行を管理監督をする取締役としての能力があるのか、と言う株主の詰問だが、責任を取って辞めさせると言うのだけが能でもないであろうし、世の中で活躍する色々な分野の評論家やコンサルタントと同じで、立場が違えば仕事ぶりも変わって来るであろうし、私は、取り敢えず、一期は、ソニーとしても止むを得ない決断だったと思っている。
   
   私は、これまで、出井元CEOに対しては、かなり批判して来たが、日本の経営者としては珍しくリベラルアーツなど幅広い知見と経営哲学を持った優れた経営者だと思っているが、著作を読んだ限りにおいては、ソニーの企業体質なりコーポレートカルチュア―が、ICT革命に乗り遅れたなどとはハイテク企業としては考えられないケースを筆頭に、非常に硬直的で保守的であり、また、技術関係など強力な抵抗集団が存在して、十分にリーダーシップを発揮して、自分の意図した思うような経営を行えなかったことが、最大の足枷だったように感じている。
   あの出井CEOさえ、リーダーシップを発揮するのに手こずったのであるから、平井CEOの前途は、推して知るべしであって、あの当時よりも、はるかにソニーの凋落ぶりは激しくなっていて、いくら、再生計画をぶち上げられても信じられない程で悪くなっており、新生ソニーの前途が順風満帆とは行きそうにないのが気がかりである。

   もう一つソニーの将来で気になるのは、経営方針として、”ソニーを変革し、エレクトロニクス事業の再生、成長と新たな価値創造をめざす~“One Sony”でソニーを変える~”を掲げて、
   変革のためのエレクトロニクス重点施策
1. コア事業の強化(デジタルイメージング・ゲーム・モバイル)
2. テレビ事業の再建
3. 新興国での事業の拡大
4. 新規事業の創出/イノベーションの加速
5. 事業ポートフォリオの見直し/経営のさらなる健全化
   をその柱としていることについてである。
   極論かも知れないが、ソニーが、コア・ビジネスとして、デジタルイメージング・ゲーム・モバイルに固守して、その中心柱として、テレビ事業に入れ込んで再建を図ろうとするのは、全く理解に苦しむ。
   ソニーかパナソニックか忘れたが、何故、サムソンに負けるのか調べたら、その原因は、人件費の差だったと言うことを何かで知ったのだが、今のテレビの品質では、どこのテレビでも良くて、安ければ良いと言うことになってしまっていて、いくら足掻いても、大衆商品であるテレビでは、日本のメーカーは勝ち目がない。
   詳論は、後日に回すが、ソニーは、このような事業をコアとして固守している限り再生は無理で、このコア・ビジネスから撤退して、もっと高度な付加価値の高いブルーオーシャン市場をターゲットとした製造業を目指すか、或いは、継続するにしてもファブレスを目指して、IBMのように、ハードから距離を置いてソフトなどソリューション・ビジネス等付加価値の高い高度なサービス産業に脱皮すべきだと思っている。

   以前にも書いたことがあるのだが、コモディティ商品に成り下がってしまって、殆ど差別化要因が意味を成さなくなって、激烈な価格競争だけで、熾烈な戦いを続けているようなデジタル系のモジュール製品は、既に、台湾、韓国、中国などの主流産業になってしまっていて、どう足掻いても、日本企業には勝ち目がない過去の産業になってしまったのではないかと言うことである。
   ソニーは、テレビについて、画質・音質の向上や地域ニーズに合わせた商品の投入を継続的に行い、将来に向けては、有機EL や“Crystal LED Display”などの次世代ディスプレイの開発及び商品化、モバイル商品や映画・音楽コンテンツなどソニーグループ内での連携による商品力の向上など、ハードウェアの差異化も追求し、ソニーのテレビの魅力を高めて行くと再建策を述べているのだが、
   既に、昨年入れ込んだ3DTVが鳴かず飛ばずに終わってしまったように、ソニーの技術開発は、総て、技術の深掘りによる持続的イノベーションであって、消費者の要求を越えてしまってペイしない域に達していて、競合他社との何の差別要因にもなっていないと言うことである。

   私は、これまでに、多くの学者やジョブズなどの同業経営者などが、ソニーに言及した文献に遭遇したら必ずコメントをして来ており、如何に、ソニーがイノベーションや新商品の開発で遅れを取って来たかを論じて来た。
   今回、平井CEOは、世界中のユーザーに、ワクワクするような感動を与え、好奇心を刺激するような高品質のソニーらしい商品を開発して行くと宣言しており、これこそ、ソニーのソニーたる所以なのだが、この破壊的イノベーションから、ソニーは、遠ざかって久しく、総て、お株は、アップルなどのイノベーターに奪われてしまったままである。
   ソニーのホームページで、技術情報と言うところで、「R&Dが生み出した商品の歩み」と言うページがあって、ここには、破壊的イノベーション、ないし、それに近いイノベイティブな商品が列挙されていて、
1955年9月 日本初のトランジスタラジオ「TR-55」発売 から、このブルーオーシャンたる破壊的イノベーションによる革命的な商品が記載されているのだが、2006年7月デジタル一眼レフカメラ“α100”発売 、同年 11月“PLAYSTATION 3「PS3」発売 、2007年12月世界初有機ELテレビ「XEL-1」発売 と言うところで切れてしまっており、最早、ウォークマンははるか昔に霞んでしまい、正に、歌を忘れたカナリヤになってしまっている。
   どうする?ソニー
   先ほど記述した経営方針では、ソニーの再生は、無理ではないかと思っている。
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐倉城址公園~菖蒲園と紫陽花

2012年06月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   梅雨の合間に、佐倉城址公園の菖蒲園を訪れたが、一寸、遅くて、遅咲きの菖蒲を残して、殆ど花は咲き終わっていた。
   丁度、菖蒲の最盛期と紫陽花の最盛期と、一週間ほどずれるので、紫陽花の方は、まだ、綺麗な状態であった。
   菖蒲園と山側の境界部分に、一列に紫陽花が植えられているのだが、ここの花は大体青紫系統で、所々、赤紫の花が咲いている。
   歴博入口の車道に沿って、鮮やかな赤い紫陽花の花が咲いているのだが、土壌がアルカリか酸性かによって色が変わるらしい。
   手前の姥が池には、びっしりと池面を覆ったスイレンが、綺麗な白い花を一面に咲かせていた。
   城址公園で、今、花らしい花と言ったら、これくらいで、後は、目に青葉で、濃淡をつけた新緑が萌えて非常に清々しい。
   いつの間にか、しきりに鳴き囀っていた鶯の声も聞こえなくなっていた。
   
   
   
   


   菖蒲の花は、私のように、一輪一輪狙って写真を撮る者にとっては、一輪でもまともに咲いている花があれば、それで良いのだが、殆ど花が最盛期を過ぎていて、農婦が、菖蒲畑に入って、枯れた花茎をハサミを入れて刈り取っていた。
   


   昔は、花のクローズアップした写真を撮っていたので、マクロレンズを着けて接写していたのだが、最近は、デジタルで感度も良くなった所為もあり、なまくらを決め込んで、300ミリの望遠レンズばかりを使っているので、多少距離が離れていても、それなりの写真が撮れる。
   図鑑の記録写真ような写真しか撮れなくて、面白くないのだが、こんな花が咲いていたと印象くらいには残るだろうと思って、性懲りもなくシャッターを切っている。
   花の名前を記したタグが畑に立てられているのだが、別に、覚える気もないので、すぐに忘れてしまって、何の花か、何時まで経っても覚えられないし、それよりも、アヤメと菖蒲とカキツバタの違いさえも、分からないのだが、自分で植えなければ、ダメなのだろうと思っている。
   大体、こんな花が咲いていたと言うのが、次のとおりである。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第10期みずほフィナンシャルグループ株主総会

2012年06月26日 | 経営・ビジネス
   キプロスも金融支援を申請し、正に、ユーロの将来さえ危うく、リーマン・ショック時よりも深刻だと言われている欧米大不況下にありながらの、日本のメガ・バンクの株主総会の先頭を切って開かれたみずほフィナンシャルグループの株主総会だったが、そんな世界経済の現状は、何のその、無きも同然の馬耳東風で、至って平穏無事に終了した。
   何時ものように、総ての質問が終わって採決に入った時点で、席を立ったのが、丁度、午後一時前であったから、3時間の総会である。
   
   どうせ、委任状で既に承認が確定しているので、株主総会は、セレモニーなのだが、会社提案は、剰余金の処分、取締役3名選任、監査役1名選任の3議案。
   株主から問題が提起されたのは、取締役の選任で、その適格性と選任プロセスが問題となり、総会で増資をしないと確約した塚本隆史会長が総会後にだまし討ちで増資した件、救い難きシステム障害を起こした当時の責任者である高橋秀行常務と阿部大作常務が再任されると言う件で、銀行は苦しい言い逃れ答弁をしていたが、要するに、コーポレート・ガバナンス無視ないし軽視であると同時に、どこかで役員人材が血栓症状を起こしているのであろうと言う以外にはなかろう。

   株主提案は、定款変更を意図した10議案にのぼり、大半は、経営者が経営指針として考慮すべき事項ではあろうが、定款に記載すべき事項かどうかは、疑問だが、提案事項は至って常識的であって、その提案遵守は、経営にプラスと思われることが大半で、招集通知に記されている「当社取締り役会の意見」として書かれている反対説明文が極めて紋切り型の秀才の論文調で、誠意のなさで馬脚を露呈している感じである。
   カネボウに対する低廉過ぎるTOBと営業譲渡を例証しての利害関係ある場合の株式評価と、サンテックの増資提案を例証しての政策保有株式の議決権行使に関する提案変更の株主提案に対して、会社は理屈にならない理屈で反論していたが、このケースなどは、今後誠意をもって対処すると言った答弁とか十分な説明責任くらいは果たすべきであろう。
  
   もう一つ、株主提案で興味を引いたのは、役員の報酬合計額を、1株あたりに自己資本が、三菱UFJ、又は、三井住友のそれに達するまでは、3千万円とする定款変更である。
   提案株主は、激昂して議長に詰め寄っていたのだが、他の何人かの株主も同様に、みずほの株価や配当が、メガバンク中最低であり、それにも拘らず、役員報酬が高くて不透明であり、更に、収益アップと株主利益に貢献するような働きをしているように見えない経営陣の無能かつ怠慢ぶりに対する憤懣やるかたなき思いが爆発した感じである。

   これに対しては、みずほ改革プログラムを完遂して企業価値を高めるために一所懸命努力をしていると、会社は鸚鵡返しに答えるばかりであり、更に付け加えるのは、ONE MIZUHO.グループが一丸となってお客さまのより良い未来の創造に貢献することだと、これさえやっておれば、業績がアップして企業価値が向上すると強調する。
   勿論、改革プログラムの説明もなければ、連結当期純利益を5000億円目標とすると言う程度の言及で、ホームページを見ても、言うならば、ある程度の数字目標を設定したみずほの中期経営計画であって、抽象的でもあり、これさえ実現すれば、みずほの経営は大丈夫かどうかは分からないし、冒頭で触れたように、グローバル、グローバルと言いながら、殆どグローバル経済、グローバル経営環境はノータッチである。
   銀行・信託・証券・アセットマネジメント会社などをフルラインで擁する金融グループとしての強みを最大限に発揮し、お客さまに高度で多面的なサービスを提供致しますと、みずほ銀行とみずほコーポレート銀行の合併と みずほ証券とみずほインベスターズ証券の合併のメリットを強調するのだが、既に、大きくなり過ぎて制度疲労が極に達しており、知恵が総身に回りかねてしまった上の、合併とグループ一丸化が、どれ程効果があるのか、疑問なしとしない。

   株主の不満が、証券子会社に向かっていたが、みずほ証券の特別退職金計上や繰延税金資産の取り崩しや株価下落で1000億円近い損失を計上しており、システム不備や能力不足や対応の拙さが指摘されていた。
   興味を引いたのは、婦人株主が、老人相手に狙い撃ちして、欲しくもない金融商品を売りつけていて、振り込め詐欺より高額で酷いと指摘したのだが、常務役員が、みずほインベスター証券で、聞き及んでいると認めていたことで、更に、別の株主からは、賞味期限切れの株ばかり売りつけるので取引を停止したとの発言があったし、いまだに、バブル時代の銀行商売と少しも変わっていないのか、と言う思いがした。

   誰かが言っていたが、苦情を言おうにも、約束を取った支店長が逃げ回って会ってくれないと言うような状態であり、いまだに敷居の高い銀行であるから、株主総会が、いきおい、苦情発言会のような状態になってしまう。

   私も、いわば、ファンでもあるから泡沫株主とは言え株を持っているのであって、苦言を呈するつもりはない。
   しかし、あのバブル崩壊後の不良債権処理で呻吟し、更にリーマンショックによる世界的な金融危機に直面し、それに追い打ちをかけてヨーロッパ経済危機の真っ只中にある苦境続きのメガバンクであるのだから、通り一辺倒の、どうでも良い秀才の論文調の総会ではなく、もっと、真正面から、風雲急を告げている時流に向かって、どのようにして、経営戦略を打って立ち向かうのか、焦点」を絞ったパンチの利いたメリハリのある役員の経営哲学なり経営方針を聴きたかったと思っているのだが、戯言であろうか。
   最後になったが、議長を勤めた佐藤康博取締役社長だが、株主の質問を掻い摘んで復唱するのだが、株主が十分に表現できなかったところを、実に巧みに捕捉しながら明確に説明を加えていた。
   ところが、常務役員の中には、机上のモニターの回答を読んでいるのか、全く誠意に欠ける紋切り型の回答を悪びれずにしていたのが気になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト栽培日記2012~(8)シンディ・スイート色づく

2012年06月25日 | トマト・プランター栽培記録2012
   最初に色づいたトマトは、やはり、一番早く結実したシンディ・スイートであった。
   一番花房に結実したのは6つだが、半分色付いた形で、週末には、全部綺麗な赤いトマトになるであろう。
   次に色付きそうなのが、ゴールデン・レイブで、黄色くなる筈である。
   

  
   ところで、一番最後に植えた白根トマトだが、明暗を分けた。
   ホーム桃太郎の方は、花が咲いたので、電気歯ブラシを使って、受粉を助けた結果、漸く、結実した。
   大玉トマトは、自然での結実は難しくて、最初の花房が結実しないと、後がダメになるので、私の場合には、何時も、花が咲くと、電気歯ブラシで、花弁をバイブレートするのだが、普通の筆や歯ブラシを使うよりは、楽だしはるかに効果がある。
   ところで、もう一方の白根ミニトマト・ピコだが、背丈が1.2メートル以上にも成長しているにも拘わらず、花房が付かないので、1本は廃却して、他のトマト苗に植え替えた。
   残りの1本も、どうにか花房が申し訳程度についているので、そのまま、我慢して育てようと思っているのだが、これ程、質の悪いトマト苗は初めてで、いくら、無農薬で育てたと能書きが書いてあっても、これでは、どうしようもない。
   写真は、第一花房だが、一番最初の花は既に黄変しており、花が沢山房状に着くミニトマトとは思えない状態だが、タキイの種のようだけれど、白根での苗づくりに問題があるのであろう。
   10本ほど、他のトマトと全く同じ状態で並べて育てており、他のトマトは、普通の状態なので、何故、こうなるのか分からない。
   
   

 
   さて、台風の被害だが、やはり、風雨が強かったので、何本か、支柱止めを怠った枝の先端部が折れて枯れてしまった。
   この写真は、スィートルビー・ガーデンの1本の先端部だが、第4花房以上がダメになって、切ったところから、小さな脇芽が出て来た状態である。
   どこまで伸びるか分からないので、面白いので、このままほっておいて、2花房くらい出れば上出来だと思っている。
   


   もう一つ大きかったのは、一番成長の早かったフルーツルビーEXの1本が、根元から折れて、プランターにへたってしまったのである。
   トマト苗は、苗にもよるのだが、根元から30センチほどまでは茎がかなり細い状態で、その上、第一花房が出てくるあたりから急に太くなって、がっしりとした木になって、重い実を支える。
   したがって、苗木が成長するに応じて、しっかりと支柱に固定しておかないと、この細くて弱い根元近くの茎が支えられなくて曲がったり折れてしまうことがある。
   分かっていたのだが、支柱固定の手抜きを台風にやられた格好で、茎の半分が折れて切れてしまった。
   とりあえず、木を引き上げて、支柱上部に固定してずり落ちないようにしたのだが、何しろ、太い木の半分で、水を吸い上げているのであるから、十分ではなく、天気が良くて暑くなると、日照に堪えられなくて萎んでしまって枯れたようになる。
   幸いと言うべきか、梅雨の時期なので、夜中に水を吸い上げて、朝になると、どうにか普通の状態に戻っている。
   この写真は、第3花房だが、台風で大分落果したとは言え、大小取り混ぜて、40個くらいの実が付いており、何時も成長を楽しみながら対話を続けている木なので、可哀そうで仕方がなく、これ以上成長するとは思えないけれど、枯れさせずに、せめても、一つくらいは、赤い実を実らせてやりたいと願っている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガーデニングに勤しむ楽しみ

2012年06月24日 | 生活随想・趣味
   今日は、久しぶりに梅雨の合間の気持ち良い天気だったので、庭に出て、木の剪定を行った。
   少し前に、シルバーに頼んで、大方の選定作業を終えたので、何と言うことはないのだが、まず、最初は、収穫を終えたので、枇杷の木を、殆ど1メートルくらいの高さに切り戻すこと、そして、次は、大きく育ち過ぎた椿の剪定である。

   枇杷の木は、何の手入れを行わずに、そのままの状態で育てていたので、実は小さくて歪で、市販の枇杷の実には及びもつかないのであるが、少し味わえばそれで良いので、完熟状態で取るので、季節感は味わえる。
   枇杷の木は、非常に軟らかいので、鋸を入れても、剪定ばさみで切り落としても、処理が楽なので助かる。

   椿の剪定は、もう、蕾を付けはじめているので、少し遅いのだが、私の場合には、少々の剪定ではなく、背丈や横のボリュームを三分の二くらいに切り詰めるので、今年秋からの花の咲き具合は、気にはしていない。
   それに、多少手荒く切り戻しても、結構、花が咲くのである。
   不思議なもので、同じ椿でも、好き嫌いがあるので、どうしても、好きな椿は、選定も程々にして、大きく残すことになる。
   尤も、椿にも個性があって、成長が早くてどんどん大きくなる木もあれば、何年経っても、伸びない木もある。

   比較的成長が早くて大きくなって来た侘助椿に、手を入れた。
   春には、早く咲き始めるので、小さな花も愛らしくて良いのだが、相模侘助と紅侘助と一子侘助にハサミを入れた。
   存在感を示していて、主木として貫録が出始めて来た曙椿や花富貴や薩摩紅などは、枝透かしとと徒長枝の剪定くらいにしたのだが、曙椿は、もう、3メートル以上にもなっていて、このまま、当分伸ばして行こうと思っているのだが、どこまで高くなるであろうか。
   白羽衣と孔雀椿や紅妙蓮寺は、玄関脇に植えてあり、これらは、大きさを同じ状態に保たねばならないので、伸びた分は総て切り落とさなければならない。
   他の椿は、庭木で無茶苦茶に混みあって来ているので、思い切って、バッサリバッサリと切り落とした。
   以前は、庭師に、椿だけは切らないで欲しいと頼んでいたのだが、最近では、最早、そうは言っておれなくなってしまったのである。

   いずれにしろ、若い時と違って、大分、足腰があやしくなって来たので、脚立の扱いにも要注意で、最近では、無理をせずに、適当なところでごまかしており、後は、シルバーに任せている。
   先日、シルバーの職人と話していたが、元庭師のプロは少なくて、大体、サラリーマンで東京に通っていたのだが定年になってから研修を受けて庭仕事を始めたと言う人が大半である。
   私の場合には、ずっと、以前に、「花咲き実成る講座」と言う通信教育を1年間受けて、花木栽培の知識を吸収して、後は、沢山のガーデニング関係本を読み飛ばして、自分の庭で実地訓練を続けてきたと言うだけだが、これだけ、長く人生を続けていると、多少の知恵も腕も身に着くと言うものである。

   多少、大幅に剪定を行ったと言っても、あまりにも、花木が混み過ぎて密集しているので、殆ど、庭の風景は変わらない。
   普通は、生垣で、家の中などを街路から見えないようにするのだが、私の庭は、生け垣などなくても、二重にも三重にも庭木を植えているので、大体、外からの目隠しは十分であり、それに、トマトのプランター植えが並んでいるので、いくら綺麗な花を沢山並べてみても、中を見せようとするオランダの家庭と違って、外からは見えないのである。
   その分、私だけが、花や実を求めて訪れてくれる小さなお客さんと対話する楽しみを味わうこととなる。

   私は、家庭にいる時には、大体は、パソコンを叩いたり読書したり、或いは、テレビの前で、オペラなど芸術関連のビデオを見て過ごすことが多いのだが、適当に、庭に出て、花木や草花、トマトなどプランター植えの野菜などの生育を眺めながら、どっぷりと庭の雰囲気に漬かって季節感を楽しむことが多い。
   必要なら、適当にガーデニングと言うか庭仕事を始めるので、その時々の、季節に咲き競う草花や花木、それに、鳥や蝶やトンボなどの昆虫と過ごす時間が、私の安らぎと言うか憩いの時間かも知れないと思っている。
   その時々に選んだ思い出の詰まったマグカップに、ブルーマウンテンやダージリンをたっぷり入れて、庭に出るのだが、いつの間にか、どこかに置き忘れてしまって、気付いた時には、冷たくなってしまっていることが多い。
   
   この口写真は、先日のように、咲き乱れているスカシユリに、アゲハチョウが訪れて蜜を吸おうとしているところだが、椅子に座って本を読んだりしていて動かなければ、小鳥でも昆虫でも小さな生き物たちは、殆ど、気にせず近くで戯れてくれる。
   美しくて完璧な花や生き物たちの姿を見ていると、神(?)の造形の妙に何時も、感激の連続である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジム・オニール著「次なる経済大国」(2)

2012年06月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   BRIC'sと言う言葉をコインしたゴールドマン・ザックスのジム・オニールのこの本、英語のタイトルは、"
THE GROWTH MAP Economic opprtunity in the BRICs and beyond”で、日本版の「次なる経済大国 世界経済を繁栄させるのはBRICsだけではない」と言うのとは、本の内容もそうだが、一寸、ニュアンスは違っている。(これまで、何度も書いたが、英文の専門書の翻訳本のタイトルが、売らんかんなの所為なのか、間違いや誤訳が多くて、問題が多いのが気にかかっている。)
   本書の相当部分は、BRICs経済の記述であり、その後を追うと言うネクスト・イレブンN-11についても、比較的楽観的な将来予測をしているものの、韓国、インドネシア、メキシコ、トルコは、まだしも、人口増加と生産性向上の潜在的可能性に比重を置いて選んでいるので、人口が多いだけで、カントリーリスクも高くて、テイクオフさえ怪しい国も含まれており、必ずしも、手放しで、成長新興国の予備軍として評価していないところもある。

   尤も、BRICs論を立ち上げた時には、中国が2039年に世界最大の経済国になると予測したら、ハーバードのファーガソン教授など多くの人から笑われたとか、ブラジルでは、止めてくれと懇願されたとかで、ロシアでは法の支配における改善など問題も多いし、本人たちも多少疑心暗鬼の様子でもあったようだが、
   ベルリンの壁崩壊後のグローバリゼーションの進展や世紀末のICT革命などの上昇気流に乗って、あれよあれよと言う間に、BRICsが快進撃の経済成長を遂げたのだが、ある意味では、オニールなどのBRICs論が、世界同時好況と呼応して、ドライブ要因になったのではないかと思っている。

   面白いのは、BRICsとこの4か国は、政府債務や財政赤字は概ね健全で、安定した貿易ネットワークがあり、膨大な数の国民が豊かさへの階段を着実に上っているので、新興国市場と言うコンセプトから離れて、「成長市場(Growth Markets)」と呼称すべきだと言う。   
   次の10年には、BRICs諸国の経済力はアメリカを凌ぎ、この8か国は、G7に接近し、欧米の大半の多国籍企業の命運を左右するだろうと言う。
   “A significant transformation of the global economy is well under way. Growth market economies will be the driver of the world economy in the coming decade.” - Jim O'Neill, Chairman, Goldman Sachs Asset Management
   GSのホームページを見ても、N-11よりも、このGrowth market economiesの方が、オニールの当面の関心事だと言う気がしている。

   しかし、GSのレポートの2050年経済予測では、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシア、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの順で、依然、先進国優位で、BRICsの成長は著しいが、N-11は、イタリアの後塵を拝している状態で、一国も登場してこない。
   ついでながら、オニールは、先の4か国以外には、エジプト、ナイジェリア、そして、フィリピンが、いずれは、成長国市場と同じ地位を享受するかもしれないと言っているのだが、軍事独裁政治の軛に喘ぐエジプトを見れば、易々と成長軌道には乗れるようには思えないし、オニールのN-11論には、政治的な配慮とか民主主義的な市場経済システムに対する制度的・構造的な考慮が希薄な感じが否めないように思っている。

      オニールは、BRICsの4国については、個々に分析を加えており、その各国ごとの分析や解釈の仕方が非常に面白いのだが、中国については、その成長のカギは、生産性を高める大規模な労働人口の存在であったとしながらも、これからは、その労働人口の高齢化と若年層人口の減少で、経済成長が減速すると予測している。
   尤も、人口動態だけが決定的なものではなく、豊かな都市地域での一人っ子政策の緩和の進行、農村人口の都市への流入、高等教育の普及による生産性のアップ、人民元の引き上げ等々、経済社会の変革にも言及している。
   ここで興味深いのは、アメリカ人に根差す強い中国脅威論に対するオニールの見解で、権威的な政治体制、中国本位の対外政策、中国が得をすれば欧米が損をすると言った思い込みが原因だが、中国のマクロ&ミクロの経済評価点数は、腐敗とテクノロジーの利用項目以外は、平均点以上であり、中国の発展は、アメリカにとっても非常に利益に叶うと強調していることである。
   日本人は、心情的には、プロ・チャイニーズではないにしても、経済的には中国に入れ込むべきだと言う感じがあるようで、その中国観の違いが面白い。

   オニールは、ゴールドマン・ザックスであるから、投資の立場から見ていて、更に成長する新たな市場である成長国市場に入れ込む国家経済や多国籍企業をフォローせよと言う。
   中国やインドに投資する最高の方法は、オーストラリアドルの売買だとか、ドイツを、BRICs関連株に投資する最高の方法だと言うのである。
   GSでは、BRICsの成長から利益を得ようとしている企業に注目して、BRIC Niffty50を立ち上げたが、そのパーフォーマンスは非常に高く、BRICs市場に直接投資しなくても、これらの中国関連株を買えば、エクスポージャーを得られるのだと言う。
   As BRICs growth continues, we look at the investment opportunitiesだと言うことである。

   先日、経営学的な立場から、新興国のビジネスに関して市場戦略を説いたカナ教授とパレプ教授の見解について論じたが、このBRICs Niffty50が、どれ程、この戦略論を考慮しているのか知らないが、BRICsへのプレゼンスが高ければ良いと言うようなものではないと言うことだけは事実であろう。
   GSの国の成長環境スコア(GES)の13の変数の内、政治的な評価項目は、ミクロ経済変数の政治性、腐敗、政治の安定性の3項目だけだが、カナ教授たちが、新興国市場でのキーポイントであると指摘した「制度的なすきま」要因の相当部分が、政治的・法制的・民主主義的なエレメントであることを考えてみれば、私自身は、GSの指標に関しては、もう少し考慮・検討すべき余地が残っているであろうと思っている。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

T・カナ&K・G・パレプ著「新興国マーケット進出戦略」

2012年06月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   新興国市場(エマージング・マーケット)と言えば、以前は開発途上国であったが、BRIC'sのように近年経済成長の著しい国々の市場だと考えられているのだが、著者たちの新興国市場の定義は、”買い手と売り手を、容易に、あるいは、効率的に引き合わせて取引させる環境が整っていない国々の市場のことで、理想としては、どの経済でも、市場の機能を支える各種制度が整っていることが望ましいのだが、発展途上国の場合、多くの面で、それが不十分なのである。”とする。

   制度が整わない領域、すなわち、「制度のすきま(institutional void)」が、市場をエマージング(発展途上)の状態にして、これらが取引コストを高くしたり、業務が様々な障害に阻まれる原因となるのだが、新興国には、必ずこの制度のすきまがあり、夫々の国には固有の歴史、政治、法律、経済、文化的要因が市場を形成しており、新興国毎に、具体的なすきまの種類や組み合わせや深刻度が市場によって異なるので、その市場の攻略のためには、この制度のすきまに対処するために、如何に、適切な進出戦略を打ち立てるべきかが、多国籍企業や進出企業にとって最も重要な経営戦略だと説くのである。

   この新興国市場のもつ特異性は、その経済圏におけるビジネスチャンスと課題を形成しているので、進出しようとする市場が、
   どの市場制度が機能し、どの制度が欠如しているのか、
   自分のビジネス・モデルで、その国の「制度のすきま」によって不利になるのはどの部分か、
   既存の能力を土台に、如何に競争優位を構築し、「制度のすきま」を切り抜けるか、
   「すきま」を埋める機会を特定し、「市場仲介者」の役割を果たすことによって、如何に市場の現状の構造を有利に活用できるか、
   と言った戦略立案に役立つフレームワークを示して戦略を提言している。

   更に、新興国市場で「制度のすきま」に対処しようとすれば直面する戦略的岐路についても、
   自社ビジネス・モデルの再現か適応か、
   独力で競争するか、協働か、
   市場環境を受容するか、改革を試みるか、
   参入するか、待つか、撤退するか、
   先進国の多国籍企業のみならず、新興国で成功してグローバル企業になった「エマージング・ジャイアント」などの成功ケースを引きながら、その戦略を克明に詳述していて、興味深い。
   
   新興国市場の発展のために、まず、真っ先に解決すべきは、交通手段やライフラインなど物理的インフラの整備が急務であることだが、「制度のすきま」で最も深刻なのは、売り買い等スムーズな取引を実現するために、先進国市場には、法制度や経済社会システムが有効に働くように様々な専門分野を担う仲介業者が存在し、市場の失敗要因を最小限に抑えるべく市場インフラとして機能しているのだが、新興国には、このような有効な仲介者、制度的インフラが欠如、ないし、不十分であることである。
   また、新興国の資本市場、製品市場、労働市場の形成に大きな影響を及ぼしている「制度のすきま」は、市場情報の欠如・情報を信頼できない、不明確な規制環境、非効率的な司法制度の3大要因で、企業が、この三つの機能を自ら果たさなければ事業にならない。
   しかし、逆に、この「すきま」が、競争優位獲得の切っ掛けになるので、それを埋める事業の構築を目指す起業家精神を持った国内外の企業にとっては、それは大きな機会となり、新興国市場で成功を収めている内外企業の大半は、これによりチャンスを得て来たのだと言う。
   
   著者たちは、新興国市場とは、この売り買いをスムーズにする市場システムを模索することによって、今正に台頭しようとしつつある市場であるから、「制度のすきま」が大量に存在する極めて機能不全な市場と、高度に発展した市場は、別ものではなくて同じ延長線上に存在しており、先進国でも多くの「制度のすきま」が存在し、サブプライム問題は、その最たるものだと言う。
   従って、この「制度的なすきま」の解消には、相当な時間と専門的知識を要するので、この短・中期的に「制度のすきま」が存在することこそが、新興国市場の最も大きな有望性であり、企業もリスク回避策ばかりに捕われた消極的なグローバル戦略ではなく、新興国市場を正当に評価して、「制度のすきま」を特定して、十分なビジネス分析や機会評価、戦略的判断を下して「制度のすきま」を攻略すべく、成長著しい市場に打って出ることが肝要で、ひいては、その成功が、本業にとっても大いに役立つのだと説いている。

   この本の副題が、新興市場で勝つ(Winning in Emerging Markets)なのだが、非常に興味深いのが、後半の大部を割いて、新興国で成功を収めた新興国オリジンの「エマージング・ジャイアント」、例えば、中国のハイアールやインドのタタ・モーターズ、メキシコのセメックスと言ったグローバル企業の成功戦略についても詳述しており、同類のアジア、アフリカと言った新興国への進出については、「制度のすきま」攻略の展開だが、アメリカなどの先進国へは、クリステンセンのローエンド・イノベーション戦略との接点などが見え隠れしていて興味深い。

   結局、「制度のすきま」とは、ニッチと言われる市場のすきまを、もっと広義に政治経済社会システム全体をターゲットにして展開した議論であって、そのニッチを埋めることこそが、ビジネス・チャンスの創造であり、ブルー・オーシャン市場へ打って出る絶好の道だと言うことであろう。
   このことは、エジソンが、ニューヨーク全域に電燈を点すために、発電から送電など必要なものすべてをシステムとして開発し、イーストマン・コダックが、フィルムだけではなく、写真機からDPEなど周辺ビジネスを総て開発して近代写真システムを構築した様に、企業に、もっともっと広義の「制度的なすきま」をシステマチックにブレイクスルーするシステム・イノベーションを追及せよと言う教訓として捉えることが出来るであろう。

   ここでは、新興国市場における有効な成功戦略について論じられているのだが、新興国であればある程、「制度のすきま」が多く存在していて、それだけビジネス・チャンスが多いと言うことであるが、先進国でも十分に有効な経営戦略となり得る筈である。
   言うならば、広い意味でのソーシャル・イノベーションの追及であり、ビジネス環境を、もっともっと広い視野で捉えて経営戦略を打てと言うことであり、新しい戦略論の展開として、非常に、興味深く読ませて貰った。

   もう一つ重要なポイントは、新興国市場は、大きく成長し、既に、イノベーションの実験フィールドとなっており、この市場で生まれたアイデアやビジネスモデルが、先進国市場に逆上陸して、グローバル・スタンダードの一環を形成しつつあると言うことである。
   この点については、これまでに、このブログでも、プラハラードのネクスト・マーケットであるBOP市場や、ゴビンダラジャンとGEのリバース・イノベーションについて論じて来たので、蛇足は避けるが、大切なことは、ICT革命とグローバリゼーションの進展による革命的な潮流の変化によって、企業を取り巻くグローバルな経営環境が完全に変ってしまったと言う認識を持つことで、旧態依然たる経営戦略の構築では、最早、グローバル・ビジネスは御し得ないと言うことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭の歳時記・・・台風一過、ユリが花ひらく

2012年06月21日 | わが庭の歳時記
   千葉の最大風速が、38.1メートルで、夜明け近くまで荒れていた台風の影響が、すっかりおさまったのは午後に入ってから。
   思ったより台風の被害が少なかったが、トマトの苗木が、少し被害を受けていて、支柱に止めるのをミスっていた木の先端部分が折れてしまったり、葉が折れたり飛ばされたり、落果したりしており、曲がった支柱の建て替える必要もあった。
   植木鉢は、事前に低く並べ替えたり、安全なところに避難させたりしていたので、ころころ転がる程度で被害は軽微であり、庭木も殆ど問題なかったので、一安心である。

   台風の最中に開いた訳でもないと思うが、ユリの花が、あっちこっちで開き始めた。
   支柱の固定していなかったユリは、枝が長いので、殆ど倒れていたが、それでも元気なもので、色とりどりに咲き始めている。
   今年は、幸い、病虫害にあわずに、殆どの木が咲きそうである。
   花の名前は分からないのだが、皆上を向いて咲いているので、スカシユリの仲間であろう。
   テッポウユリも植えたし、カサブランカも植えたのだが、まだであろうか。
   八重品種も植えたのだが、芽の出が早すぎて、残念ながら枯れてしまった。
   
   
   
   

   咲いたユリの一輪に、アゲハチョウが潜り込んで、花弁の付け根に長い口吻を差し込んで蜜を吸っている。
   何回か、同じところをつついていて、しばらくすると、飛び上がって位置を変えて、また、そこで口吻を伸ばす。
   隣にも、いくらも花が咲いたユリがあるのだが、一度飛び上がって遠くへ行ったのだが、また、帰って来て同じ花に頭を突っ込んでいる。
   蝶も、浮気性ではないのであろう。
   
   

   イングリッシュ・ローズなどバラも、二番花を咲かせ始めた。
   肥料のやり過ぎで、枯れかかっていた鉢花は、一番花では、思わしく咲かなかったのだが、体調を持ち直したのか,今度は、綺麗に咲きそうである。
   この春は、名誉挽回のために、フレンチ・ローズの大苗を4株買って鉢に植えたので、秋にはどんな花が咲くのか、楽しみにしている。
   
   
   

   アジサイの木は、たわわに花をつけていたので、重たかったのか、無惨にも風雨に晒されて、枝が裂けてしまって、可哀そうな姿になってしまった。
   ところが、反対に、枝を切り詰めて、殆ど花芽を刈り込んでしまったと思っていたフェジョアの木が、狂い咲きのように沢山の花をつけている。
   一昨年から、同一品種ばかりなので、落果してなる筈のなかったフェジョアが、実を付けはじめたので、今年は、実るかも知れないと思っている。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の日記・・・台風襲撃、国立演芸場から都響定期

2012年06月19日 | 今日の日記
   四国沖にある台風4号が、午後、東海地方に上陸して、深夜に関東地方に最接近すると言う。
   しかし、今日は、落語とクラシックコンサートのチケットを手配済みであり、帰りの交通を気にしながら、早朝に仕事を片付けて、遅い午前中の京成に乗って、東京に向かった。
   車中で、HBRのポーターとリブキンの「それでもアメリカ経済は成長する」を読んでいて、非常に興味深かったので、快速に乗っているのを忘れてしまって、船橋で乗り換えるのをミスって、乗り過ごしてしまった。
   どっちでも良いのだが、寄り道の予定があったので、結局、引き返して時間をロスした。
   
   半蔵門で地上に上がったところで、台風接近か、土砂降りの雨となり、這う這うの体で演芸場に辿り着く。
   少し早くて、前座の女講談師の話が終わるところであったが、結構かなりの客は、ロビーで寛いでいるところはやはり寄席で、本舞台が始まっても客席に入らずに、モニターをちらちら見ながら、ここで、知り合いと雑談している人もいて、寄席の楽しみ方の片鱗を見た感じである。
   国立演芸場の定席は、大人2000円、シルバー1300円で楽しめるのであるから、お年寄りにとっては恰好の社交場なのかも知れない。

   この演芸場は、やはり、落語が主体で、漫才人気の方が高い関西と違って、江戸落語と言うか、古典芸能における語りの素晴らしさは、浄瑠璃の世界と一脈通じるような感じで、一人の演者が、七色の声(?)で、多彩なキャラクターを演じ分け、それに、表情豊かに器用に芸も演じ、そして、しんみりと語りかける芸の味わいに、少しずつ魅かれ始めている。
   取りをとったのは、三笑亭可楽で、お馴染みの「笠碁」であった。
   碁敵の老人二人が、今日は待ったなしでやることにしようと言うことで、初めは快調に指していたのだが、一寸間違えたので待ったの口実を並べて頼むが認められないので、腹いせに、三年前の借金の話を持ち出して、互いに感情的になり「出て行け」「二度と来るか」と喧嘩別れ。
   三日ほど経った雨の日、二人とも碁を打ちたくて仕方がない。結局、口実をつけて出かけようとすると、傘は使っちゃだめだとカミさんに止められ、仕方なく、富士登山の笠を被って出掛け、一方も、碁盤を軒先にこれ見よがしに並べて、お茶と羊羹を用意して待っている。
   とどのつまりは、二人は待ちに待った碁盤を挟んで対局。
  「あれ、碁盤の上に雨が漏ってるぞ」「ありゃ、あんた、笠かぶったままだよ」
   もう、70代も半ばの可楽師匠が、実に巧妙に、碁を打ちたくて仕方のない碁敵(他の人ではダメで余人をもって代えがたき相手)の心理の奥底を抉り出して、その対決に、何とも言えない程の滋味があって味わい深い。
   趣味が、ハワイアン、フルートと言うから面白い。

   神田松鯉が、講談で、水戸徳川家の初代徳川頼房の長男徳川頼房の数奇な誕生と幼少の頃の話をしていて、非常に面白かった。
   実際に伝承されている話とは違って、修行の身の頼房が、世話係の美女に生ませた子供が、肉親を失って貧乏長屋で食うか食わずの生活を送るも、頼房の残した蘭奢待の香と短刀と書付が証拠となり出世する話だが、これなど、結構、面白い歌舞伎の舞台になりそうである。
   もう一つ面白かったのは、北見伸&スティファニーの奇術で、一番前の席に座って見ていたのだが、全く、種も仕掛けも想像がつかなくて、奇術や手品を見ると、何時も、フラストレーションが残る。
   それにしても、アシスタントのスティファニーの3人娘は、実に、可愛い美人揃いである。

   帰りに、演芸資料展示室で、「芝居噺と噺家芝居」展示を見た。
   噺家の芝居なのだから、素晴らしいと思うし、今の落語の舞台でも、話によっては、照明の変化で劇的効果を上げているし、舞台のスクリーンやセットを変えれば、芝居のような効果は十分に演出できる。
   圓朝の芝居噺なども非常に興味深い展開だが、先の講談や、他の古典芸能の世界との境界や接点あたりに、面白い芸の空間がありそうに思った。
   最近、能、狂言、落語等に鑑賞機会を広げたのだが、夫々がシナジーと言うか増幅効果的に理解や関心が深まって行くようで嬉しい限りである。


   この後、東京文化会館の東京都交響楽団の定期公演7時開演まで時間があったので、銀座に向かって、都民芸術劇場に立ち寄り、その後、八重洲ブックセンターに行き、東京駅地下街に入った。
   良く行く八重洲古書館が来月閉店すると言う。かなり固定客が居たようだが、やはり、営業不振なのだろうが、どんどん、書店が消えて行く。
   新古書の司馬遼太郎対談集「東と西」を300円で買ったが、どこか探せば私の書斎にある筈だが、まず出て来ないであろうし、桑原武夫やライシャワーとの対談を読むだけでも値打ちがある。

   その後、神保町に向かった。
   雨が激しいので、店頭のワゴンは出ていないが、何時もの通り、三省堂から、行きつけの古書店を回るだけだが、これが、結構楽しくて情報源にもなっているのである。
   小宮山書店の店頭で、ウォルター・アイザックソンの「キッシンジャー 上下」を見つけた。
   今一世を風靡しているベストセラーの「スティーブ・ジョブズ」の著者で、詠み忘れていた本であり、完全な新古書なので、文句なく手が出た。
   定価5800円が、800円だから考えられない特価だが、この本屋では、店の専門ではない本が、時々、間違ったように並ぶことがあり、先日も、ミンツバーグの戦略的経営論の「戦略サファリ」が、1000円で売っていた。
   古書店での楽しみは、新本の書店では殆ど売っていないような貴重な本で、読み忘れていた本を、何かの拍子に見つけられることである。

   東京文化会館に着いたのは、6時半。
   この日の演奏は、大野和士指揮、ヴァイオリンは庄司紗矢香、曲目は、シェーンベルク「浄められた夜 作品4」、シマノフスキ「ヴァイオリン協奏曲第1番 作品35」、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」であった。
   どちらかと言うと、私には馴染みの薄い曲だったが、興味深かったのは最初のシェーンベルクで、昔、コンセルトヘボーの近代曲シリーズ定期公演以降、ロンドンに移ってからでも、12音階のシェーンベルクばかり聞いて嫌気が差していたのだが、これは、初期の作品とかで、至って古典派的ですんなりと聞けたのである。
   シマノフスキは、ピアノやハープが活躍する面白い協奏曲で、庄司紗矢香のヴァイオリンが、実に豊かに歌っていて美しい。
   
   今、小澤に次いで、最も世界的な評価の高い大野和士の演奏だから、観衆の方も乗っていて、熱気さえ感じる。
   休憩後のバルトークだが、オーケストラの各セクションのソロが協奏曲風に演じる興味深い曲だったが、終わりが予定の9時10分を過ぎたので、マナー違反であり、全く申し訳ないと思ったが、私は席を立った。
   出来れば聴きたいが、どうしても中座せざるを得ない、こんなことは、欧米に居た時には、結構沢山あったので、両方の妥協点まで、居るのだが、何時もは、休憩の時に断念して切り上げる。この日は、終演9時10分と書いてあったし、いつも、タクトを振りおろして指揮者が退場するとすぐに席を立つことにしているので、多少それよりは早いであろうと思って甘えてしまったのが悪かった。
   幸い、1階の最後列で、私の横片側は全部空席だったので、殆ど迷惑をかけずに退出できたと思う。後数分くらいだったと思うのだが、
   外は、台風接近の大嵐で、あっちこっちで運転を見合わせる交通機関が出ており、9時20分発のスカイライナーに乗れなければ、風雨に弱い京成であるから、何時運転停止となり、いつ帰れるか分からなくなる。大体、平日は、銀座、日本橋、新橋方面優先で、上野本線など、夜9時以降は、まともに八千代や佐倉方面に向かう急行さえ殆どないと言うダイヤの組み方で、全く顧客軽視・サービス欠如の営業なのである。

   文化会館から京成上野まで、傘など差せる訳がないのでびしょ濡れになってスカイライナーに駆け込み、席についてほっとして、先ほどの「東と西」の桑原武夫の章を読みはじめた。
   最も風雨の激しい時に、どうにか大過なく帰れた。
   今までは大体、台風来襲の予報があれば、余程の事がなければ、すべてキャンセルして出かけなかったのだが、まさか、今回のようにはるか遠方にあった台風が、まともに、そんなに早く来るとは思わなかったのである。
   
   
   
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト栽培日記2012~(7)尻臭れ病にかかる

2012年06月18日 | トマト・プランター栽培記録2012
   ブラック・プリンスと言う黒いトマトのゴルフボール大の大きさになった実の尻が真っ黒に変色している。
   とりあえず、変色したのは、この実だけなのだが、花房に着いた花や実の首根っこが黒くなって落ちているのもあるので、これは完全に尻臭れ病の症状である。
   これまでに、何度も経験しているので、それ程心配することはないので、原因は、カルシューム欠乏やケイ素不足なのだが、同じプランターに植えてある隣のゴールデン・レイブには全く問題がないし、最初は、緩効性&速効性肥料配合の培養土を使用して植えて、その後、野菜専用の肥料を置き肥しており、肥料不足とは思えないので、そのままにして置くことにした。
   とにかく、肥料のやり過ぎで、大切なイングリッシュ・ローズやフレンチ・ローズの鉢花を何鉢も枯らせてしまったので、追肥には、神経過敏になっているのである
   

   もう一つ、シンディ・スィートやアイコの下葉が、少し黄変して来た。
   これも、肥料不足が原因のようであるのだが、他のトマトと同じように栽培しており、特に問題が起きていないので、両方とも、肥料不足とは思えないし、他の原因も考えられるので、もう少し、他の苗木の状況を見て、症状が進むようであったら、手を打つことにして、取り敢えず、この数本の苗に、薄い液肥を少し施して置いた。
   

   ところで、前回書いたデルモンテのぜいたくトマトだが、どう考えても、下記の写真のように、大玉トマトではなく、ミニトマトの実着き状態で、タグの付け間違いであろうと思う。
   デルモンテの品質管理が悪いのか、ケーヨーD2のいい加減なのかは分からないが、これまでも、全く違った花が咲いた椿苗があったりして、能書きと違う苗木を買わされたことなどがあるのだが、別に、命を取られるわけではなく、羊頭を掲げて狗肉を売ると言った類でもないので、気にはならないが、感心したことではない。
   
   

   二本仕立てにしたアイコの側枝も順調に生育していて、第2、第3と花芽をつけて結実し始めていて、今のところ、一本仕立ての苗と変わりなく、順調である。
   アイコは、良いトマト苗だと思うのだが、問題は、木が華奢なので、時には支柱からずり落ちることがあり、徒長するので、6番花房などまで育てようとすると手が届かなくなることである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最初はタハリール広場、次は教室・・・NYT トーマス・L・フリードマン

2012年06月17日 | 政治・経済・社会
   「フラット化する世界」のトーマス・フリードマンが、NYTの自分の最新コラムに、”First Tahrir Square, Then the Classroom”を書いて、アラブの教育改革を提言した。

   アラブの春によって、独裁者の追放にたとえ成功しても、教育の抜本的改革を行わなければ、新世代の若者たちを活性化するチャンスなどは有り得ない。
   アラブの覚醒運動は、根本的には、宗教的な問題ではなくて、仕事に有り付けず、持てる能力をフルに発揮できるような教育機会にも恵まれず、自分たちの立ち位置を完全に失ってしまった憤懣やるかたなくなった若者たちのエネルギーが、大爆発を起こしたのであって、たとえ、どのイスラム政党が、最初に勝利を収めても、大暴動に走った若者たちの真の野望を満足させ得なかったら、ムバラクやカダフィのように、遅かれ早かれ、追放されてしまうであろう。

   イスラム改革派が勝利するのか、或いは、旧体制派が勝つのか、大統領選の行方が話題になっているのだが、最近、ムスリム同胞団が急速に支持を減らしているのは、選挙における自分たちの勝利が、宗教的やイデオロギーによるものと錯覚しているからで、ギャラップ調査によると、エジプト人は、どっちが勝とうと同じで、新政府に期待するのは、まず第一に仕事、そして、次は、経済成長、安全と安定、教育と言うことであって、イデオロギー闘争ではなく、良いガバナンスなのだと思っていると言うことである。
   したがって、ムスリム同胞団は、例え勝利しても、間違った方向を向いているので、権力を喪失するであろうと言う。

   アラブの若者調査によると、若者たちの最大の望みは、正当な賃金が支払われることで、次には、家を持つことで、民主主義は、第3位だと言う。
   しかし、良い教育を受けなければ、まともな職にもつけないし、アパートも買えないし、結婚も出来ない。
   大学を出ても大半は、親と同居のパラサイト・シングルで、15歳から24歳の若者の25%は失業している。
   実際には、アラブの公立学校は国際水準から見て非常に程度が低くて、いわば、学卒の失業者と言っても、本当の教育など受けていないに等しいと言う。
   アラブの公立校の教育は、丸暗記教育らしい(Rote learning is still the dominant education method in most Arab public schools. )。
   生徒にノートを取らせて、それを鸚鵡返しに答えさせ、補習したければ放課後同じ教師に指導を受けると言うシステムのようだが、わが日本国とも良く似ていて、赤面せざるを得ないが、もっと、程度がひどいのであろう(a system that asks students to take notes, spew back what they learned and pay for private tutoring from the same teachers after school if they want anything remotely better)。

   アラブの教育システムは、数世紀遅れの時代錯誤的で、必要で的確な能力を生徒に身に着けさせ得るカリキュラムなどではないので、職業教育(education for employment)と言うよりは、失業教育(education for unemployment)と言う。
   学卒を採用しても、9か月実地教育を施さないと、役に立たないと言うので、アメリカが、アラブの春で、サポートすべきは、軽工業、繊維、サービス、ワープロと言った、実務に即役に立つ実技を教えることだと言うのである。
   メソポタミアやエジプト文明を持ち出すまでもなく、西欧世界がルネサンスに突入するまでは、文化も文明も、イスラム世界が、最高水準にあって、偉大なギリシャ文明をヨーロッパに継承したのも、イスラム世界であり、このルネサンスも、イスラムの影響を色濃く受けて誕生しており、その後も、かなりの期間高い水準を保ってきたイスラム世界が、何故、これ程までに凋落したのであろうか、不思議である。

   このアラブ圏の否応なしの丸暗記詰め込み教育システムが、若いイスラム教徒の青年たちに、何の疑いも疑問も起させずに、イスラム原理主義に傾倒させて、テロ集団として育成する土壌を作り出しているとするのなら恐ろしいことだが、昔、イランのタッシリ山塊に秘密の園を持つ桃源郷のような暗殺教団があったと何かの本で読んだことがあるけれど、やはり、極端な思想教育は嫌である。
   日本の教育にも、いろいろ問題があるかも知れないけれど、現在は、思想的にも宗教的にも、一切制限がなく自由で、これ程恵まれた教育環境はないと思えるほどだが、問題と言えば、フリードマンが言うように、実務に即役に立つような、欧米流のプラグマティックな教育には多少距離があり、独創性や個性を生み出す教育にもあまり力を入れていないなどと言ったところであろうか。

   フリードマンは、アラブ世界の教育改革を強く訴えかけている。
   If we don’t storm our own brains and redirect our Arab foreign aid to education for employment, we’ll forever be killing the No. 2 man in Al Qaeda.
   昔、ガルブレイスが、駐印大使として赴任した時に、インド政府が、もっと国民に教育を施せば、鍬を持つことを学ぶ筈だと言って、教育改革を勧めたことがあるが、エジプトの場合には、とにかく、若者の望みは、フェアな賃金が支払われる仕事と持ち家であるから、真っ先に実業に役立つ職業教育だと言うことである。
   今の教育環境をそのまま続けて真面な職に就けないような若者ばかりを育てて、若者のフラストレーションを募らせることばかりしておれば、いつまで経っても、アルカイダのお尋ね者を生み出すばかりであると言うことであろう。

   もう一つ、フリードマンの主張で興味深いのは、アラブの若者の関心事は、思想や宗教など文明の衝突ではなくて、豊かな安全で安定した生活で、民主主義はその次であると言うことで、これは世界中どこの国の若者とも同じ考えで、これこそが、ICT革命によってフラット化した世界のグローバリゼーションの最たる新現象の一つだと言うことである。
   イスラム同胞団による原理主義の台頭が、問題視されているのだが、世界の潮流は、国ベースでは、案外、プラグマティズムがカウンターヴェイリング・パワーとして、平衡感覚維持に役立つかもしれないと言う思いを抱かせて、フリードマンのコラムは、示唆的でもあった。

(追記)口絵写真は、NYTの電子版の同ページより借用。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭の歳時記・・・バラは二番花、そして、紫陽花、ユリ、フェジョア

2012年06月16日 | わが庭の歳時記
   バラの花は、二番花。蕾が少しずつ開き始めた。
   イングリッシュ・ローズなどは返り咲き品種が多いので、かなり長い間咲き続ける。
   この口絵写真は、ずっと咲き続けている黄色いバラで、大分以前に、オランダからの苗木だと言うので、懐かしくなって買って植えたのだが、フロリパンダなのだろうと思うが、名前は分からない。
   非常に、生命力のある強いバラで、切り花にして生けると命は短いのだが、花付きの良いのが良い。

   中国やロシアなどでは、黄色は高貴な色と言うことで、素晴らしい建築物に上手くアレンジされていて美しく、私は好きなので、牡丹の花は黄色い花を3種植えているのだが、バラは、ピンク系統のバラが主体で、黄色いバラはこの一株だけである。
   迷信などには殆ど縁のない私なのだが、一寸気になるのは、黄色いバラの「別れ」と言う花ことばで、やはり、素晴らしい出会いは失いたくない。
   尤も、インターネットで調べると、”黄色のバラは、「友情」「献身」という花言葉の他にも、マイナスの意味を表すような「別れよう」「不貞」「嫉妬」などの言葉もあるのですね。”と書いてあったから、都合よく善意に解釈すれば良いのだが、時によっては、そうも思えないこともあろう。
   黄色いバラを植えている家庭は殆ど見かけないのだけれど、私が駅に歩いて行く途中に、スズランの鉢植えの後に、黄色いバラの鉢植えが並べられて、綺麗に咲いている家庭があるのだが、さて、私のように詰まらないことを考えることはないのであろうと思いながら眺めている。


   丁度、梅雨時なので、紫陽花の季節である。
   私の庭には、紫陽花と柏葉アジサイが一株ずつあるのだが、今年は、気候に恵まれたのか、まずまずの咲き具合で、ボリュームがあるので、切り花にもして楽しんでいる。
   
   


   ユリが咲き始めた。
   球根を買った時には、花の種類や名前などを憶えているのだが、何年も、庭植えにしていると、毎年、顔を出して咲いてくれるので、花を愛でることで満足している。
   鉢植えの花も、もうすぐに満開になるのだろうが、花が終わると、年末に適当に球根を掘り出して、庭の空間に突っ込んで置くので、あっちこっちからユリが咲いて面白い。
   
   

   もう一つ、梅雨の季節に咲く花は、フェジョアである。
   ブラジルの花で、これも、懐かしくて、ブラジルから帰ってすぐに苗木を見つけて植えたのだが、とにかく、萌芽力が強くて行儀悪くどんどん広がるので、無茶苦茶切り詰めて剪定し、今年は、こじんまりしてしまったが、それでも、花を咲かせ続けている。
   

   ザクロだが、私の庭のザクロは、花ザクロなので、二株あるのだが、小さな花を咲かせるだけで、実はならない。
   面白いので残しているのだが、切り花にすればすぐに花を落とすし、ひっそりと大人しく咲くので、目だたないところが良いのかも知れない。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア新興国を巻き込んだデファクト・スタンダード構築が日本の使命

2012年06月14日 | 政治・経済・社会
   薮中三十二立命大教授が、商事法務ほか主催の「アジア市場の形成に向けた日本の役割」と銘打ったシンポジウムで、「日本発ーアジアから世界へ ~新たなグローバル社会におけるルール作り~」と題して講演を行った。

   今や、グローバルな地殻変動によって、G7の時代は終焉して、新興国が台頭し、アジアが主戦場となり、新しい世界の模索が始まっている。
   これまでは、日欧米中心で世界秩序が構築され、EU中心の制度構築の時代であったが、新しい時代に突入し、アジアを中心とした新興国が世界の胎動を主導する時代になったのであるから、アジア・新興国家を舞台にして日本がリーダーとして新しい制度の構築を模索し、日本発ーアジア・オリジンのデファクト・スタンダード作りを目指して、再び、世界市場に躍り出るのが、日本の使命であると熱っぽく語った。
   残念ながら、坂村教授のトロンやハイビジョン方式のTVなどでは紆余曲折を余儀なくされているが、ブラジルを抱き込んで推進した地デジシステムは、今や、南アメリカを総なめにして、アフリカへの快進撃を始めており、日本が世界に冠たる技術大国としての絶大なる信頼を武器にして、グローバル経済の中心となったアジアの新興国家を巻き込んで、デファクト・スタンダードを打ち立てれば、再び、日本の檜舞台が実現できる筈だと言うのである。

   私は、以前に、プラハラードの最貧層BOP市場のネクスト・マーケットや、ゴビンダラジャンやGEのリバース・イノベーション論を展開しながら、新興国市場発のイノベーションが、新しい潮流としてグローバル市場で成功を収めたり、米国など先進国市場へ逆上陸して脚光を浴びつつあり、GEなど、イノベーションと新製品の開発拠点の中心をバンガロールに移していると言う現実などについて論じて来た。
   勿論、薮中教授の論旨は、これとは違うが、要するに、これまで、世界秩序のガバナンスから、グローバル・スタンダードの製品やサービスの構築など、文化文明、科学やテクノロジー等々、総てが、先進国発であった時代が、パラダイム・シフトして、その主導権が、新興国に移りつつあり、その主戦場がアジアになったと言う事実、そして、そのアジアから新しい時代を画するイノベーションが生まれつつあると言うことである。

   同じシンポジウムで、伊藤元重東大教授が、ヤン・ティンバーゲン教授のグラビティ理論(重力モデル)を引用して、国際経済学での貿易における地理的位置づけ、地域的な距離が、如何に重要かを説いていたが、日本は、今や、BRIC'sの内、中国、ロシアに隣接して、インドがアームス・レングスに位置し、インドネシアやヴェトナム、ミャンマー、タイと言ったアジアの台頭著しい新興国地域のど真ん中に位置するのであるから、正に、千載一遇のチャンスであり、その中でも、世界最高水準の産業と技術を誇り、地域での最高水準の自由市場経済と民主主義社会を誇っているのであるから、リーダーシップを発揮して、グローバル世界に打って出なければ、日本の存在意義がないと言うことであろう。

   分かっているけれど、目を転じて見れば、日本の政治の迷走は、目を覆いたくなるような惨状で、毎日、NHKは、国会討論を放映しているが、見るに堪えない。
   それは、それとして、アジアへの積極的進出が、日本の使命だと書いたが、この同じシンポジウムで、商工会議所の中村利雄専務が、海外に進出した中小企業の撤退率は、40%だと語っていた。
   大半、アジアへ進出した中小企業が、撤退せざるを得なかったのであろうが、これまで、私は、大企業でも、日本の海外進出に対する今のような戦略や経営方針で行く限りは、非常に難しいであろうと論じて来た。
   いくら、アジアへ、アジアへと唱えても、悲しいかな、グローバリゼーション音痴の日本企業にとっては、能力が伴わないのである
   ハーバードのタルン・カナ教授とクリシュナ・G・パレブ教授は、「制度のすきま」が、新興国での事業に失敗する要因で、その攻略こそが成功の秘密だと言っているのだが、今回は、薮中教授の提言だけを披露して、新興国市場へのアプローチ戦略については、稿を改めることとしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする