全く訪れたこともないような土地を歩いていて、以前にこの風景はどこかで見た記憶がある、前にここへ来たような気がする、と思うようなことがよくある。
話の次元が全く違うが、
平山郁夫氏の対談集「芸術がいま地球にできること」で、渡辺淳一氏との対談のところで、平山氏が世に出た名作「仏教伝来」に描いた釈迦の騎行の姿は想像で描いたことや、
また、井上靖氏が、司馬遼太郎との共著「西域をゆく」で、あの大作である「敦煌」も想像で書いたことを語っていたのを思い出して、想像と現実が人間の頭の中で無意識的に一致することがあるのではないかと思ったのである。
平山氏も井上氏も、実際には、インドやシルクロードを訪問せずに、想像で素晴らしい作品を生み出したのだが、平山氏は、その後、西域やシルクロードなどを訪れた時に、自分の描いたのと全く同じ風景に接して、その場にお釈迦様を置けば全く同じだと感じた経験があると言う。
また、井上氏は、渡航が許されていなかったので、実際に敦煌を訪れたのは、ずっと後だが、この敦煌にしても、「おろしや国酔夢譚」のイルクーツクにしても、行かずに描いていて、その後から、実際にその舞台の土地を訪ねるのが楽しいと語っていて、司馬氏に、私はそのような贅沢をしたことがないと羨ましがらせている。
最近の小説や絵画では、海外旅行や移動が非常に便利になったので、徹底的な取材旅行を行って、その上で、作品が生まれることが普通になって来ているようだが、昔は、実見せずに、資料や文献、写真や絵画等を頼りにして作品を創作するのが普通で、マルコポーロなど、実際に、中国へなど行っておらずに「東方見聞録」を書いたと言う説もあるくらいである。
京都の古社寺などにある国宝のトラなど動物の絵でも、実際に見たことがないので、絵師達は毛皮を見て想像で描いたので、リアリズムには欠けるのだが、迫力や芸術性には全く問題はないと言うところであろうか。
尤も、虎や豹の知識がなかったので、豹をメス虎と間違えて描いたと言うから、作品のモチーフとしては正しかったのかどうかは疑問ではある。
ところで、最近の小説を読んでいて、自分が良く知っている場所やその土地の状況が描かれていると非常に興味を持って、井上靖氏のように、反復・確認しながら追経験するような楽しみがあるのだが、このことは、紀行文や旅行記を読んでいても感じるし、歴史的な書物なら、時代の変遷などが感じられて、また興味が湧いて来る。
しかし、このような作品が描かれた場所のイメージが読者を刺激して、その読者の実経験を強く印象付けて作品に接することが、特に小説などの場合に、作品鑑賞と言う面から好ましいことなのかどうかと思い始めている。
ところで、井上靖は、莫高窟などから膨大な敦煌文書が出土したことから、風雲急を告げる乱世を眼前にして、敦煌の偉大な文化文物を後世に残すべく必死に守ろうとした人が必ずいた筈だと言う発想があって、「敦煌」を書いたとどこかで読んだ記憶があるのだが、西夏文字なども含めて、当時の中国文化や歴史或いは東西交渉史等の膨大な文献資料などを駆使して、想像力を働かせて壮大な歴史絵巻を現出したのであろう。
司馬遼太郎氏の、資料と緻密な分析に裏付けられた歴史的なバックグラウンドに、透徹した司馬史観と豊かな人間性を具備した作品とは違った、大らかでスケールの大きな想像の世界が展開されていて面白い。
私の書架には、岩波から出た井上靖の歴史紀行文集が並んでいて時々ページを繰るのだが、前述の想像で描いた歴史小説とは違って、実地に歩いて現場を実見した紀行文には、逆に、井上氏が反復復習しながら、納得しながら頷いているような気楽さがあって楽しい。
偉大な芸術家は、想像の世界でも真実を描けるのだと言う感慨から、一寸、話がずれてしまったが、これは、最近、経済や経営関係の本ばかり読んでいて、スケールのおきな文学から遠ざかっているのを反省しての雑感でもある。
話の次元が全く違うが、
平山郁夫氏の対談集「芸術がいま地球にできること」で、渡辺淳一氏との対談のところで、平山氏が世に出た名作「仏教伝来」に描いた釈迦の騎行の姿は想像で描いたことや、
また、井上靖氏が、司馬遼太郎との共著「西域をゆく」で、あの大作である「敦煌」も想像で書いたことを語っていたのを思い出して、想像と現実が人間の頭の中で無意識的に一致することがあるのではないかと思ったのである。
平山氏も井上氏も、実際には、インドやシルクロードを訪問せずに、想像で素晴らしい作品を生み出したのだが、平山氏は、その後、西域やシルクロードなどを訪れた時に、自分の描いたのと全く同じ風景に接して、その場にお釈迦様を置けば全く同じだと感じた経験があると言う。
また、井上氏は、渡航が許されていなかったので、実際に敦煌を訪れたのは、ずっと後だが、この敦煌にしても、「おろしや国酔夢譚」のイルクーツクにしても、行かずに描いていて、その後から、実際にその舞台の土地を訪ねるのが楽しいと語っていて、司馬氏に、私はそのような贅沢をしたことがないと羨ましがらせている。
最近の小説や絵画では、海外旅行や移動が非常に便利になったので、徹底的な取材旅行を行って、その上で、作品が生まれることが普通になって来ているようだが、昔は、実見せずに、資料や文献、写真や絵画等を頼りにして作品を創作するのが普通で、マルコポーロなど、実際に、中国へなど行っておらずに「東方見聞録」を書いたと言う説もあるくらいである。
京都の古社寺などにある国宝のトラなど動物の絵でも、実際に見たことがないので、絵師達は毛皮を見て想像で描いたので、リアリズムには欠けるのだが、迫力や芸術性には全く問題はないと言うところであろうか。
尤も、虎や豹の知識がなかったので、豹をメス虎と間違えて描いたと言うから、作品のモチーフとしては正しかったのかどうかは疑問ではある。
ところで、最近の小説を読んでいて、自分が良く知っている場所やその土地の状況が描かれていると非常に興味を持って、井上靖氏のように、反復・確認しながら追経験するような楽しみがあるのだが、このことは、紀行文や旅行記を読んでいても感じるし、歴史的な書物なら、時代の変遷などが感じられて、また興味が湧いて来る。
しかし、このような作品が描かれた場所のイメージが読者を刺激して、その読者の実経験を強く印象付けて作品に接することが、特に小説などの場合に、作品鑑賞と言う面から好ましいことなのかどうかと思い始めている。
ところで、井上靖は、莫高窟などから膨大な敦煌文書が出土したことから、風雲急を告げる乱世を眼前にして、敦煌の偉大な文化文物を後世に残すべく必死に守ろうとした人が必ずいた筈だと言う発想があって、「敦煌」を書いたとどこかで読んだ記憶があるのだが、西夏文字なども含めて、当時の中国文化や歴史或いは東西交渉史等の膨大な文献資料などを駆使して、想像力を働かせて壮大な歴史絵巻を現出したのであろう。
司馬遼太郎氏の、資料と緻密な分析に裏付けられた歴史的なバックグラウンドに、透徹した司馬史観と豊かな人間性を具備した作品とは違った、大らかでスケールの大きな想像の世界が展開されていて面白い。
私の書架には、岩波から出た井上靖の歴史紀行文集が並んでいて時々ページを繰るのだが、前述の想像で描いた歴史小説とは違って、実地に歩いて現場を実見した紀行文には、逆に、井上氏が反復復習しながら、納得しながら頷いているような気楽さがあって楽しい。
偉大な芸術家は、想像の世界でも真実を描けるのだと言う感慨から、一寸、話がずれてしまったが、これは、最近、経済や経営関係の本ばかり読んでいて、スケールのおきな文学から遠ざかっているのを反省しての雑感でもある。