熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ナシム・ニコラス・タレブ・・・ANTIFRAGILE(抗脆弱性)こそ発展のエンジン

2016年10月31日 | 政治・経済・社会
   先日、「Hitachi Social Innovation Forum 2016」で、ナシム ニコラス タレブ の「不確実性を富に変える逆転の発想~イノベーションの進め方~」を聴講した。 
   「The Black Swan」を読んで、興味を持ったので、出かけたのだが、今回は、新著「Antifragile: Things That Gain from Disorder」に関する内容の講演を行った。
 
   タレブは、著書「The Black Swan」で、この世界には、あらゆる分野において、非常にあり得ない様な、不確定な事象が存在することを説いた。
   白鳥は、すべて白い鳥だと思っていた人々の眼前に、ブラックスワンが現れたのである。
   ところが、この講演でタレブが説いたのは、このブラックスワンの出現こそ、人類の発展にとっては、恵みであって、この事象に立ち向かうANTIFRAGILE(抗脆弱性)こそが、FRAGILEの反対語のROBUSTよりも重要だと言う。
   ストレスや緊張によって人間の骨が強くなるように、人生においても、ストレス、ランダム性、無秩序、ボラティリティ、不確定、リスク、混乱などから益することがある。
   タレブは、人類が、このようなカオスから利益を得て、生き抜き繫栄するために役に立つ事象のカテゴリーを、ANTIFRAGILE(抗脆弱性)と称したのである。

   タレブは、風力発電の写真を示して、風は蠟燭を消し火を煽るが、必要だとして、ランダム性や不確定要素を好みはしないが、それが必要であり、見えない、不透明な、不可解なものを、如何に、自家籠薬化し、支配し、克服するかが重要だと語った。
   この考え方が、タレブのANTIFRAGILE論の基礎である。

   タレブのANTIFRAGILEは、外部からのリスクやストレスに抗するだけではなく、むしろ、リスクやストレスを好み、これらを加えられることでかえって強靭さを増すことを意味しており、このような構造とシステムを持った者こそ、イノベーションを生み出し、成長発展するとする。
   世界で最も倒産率の高いのは、シリコンバレーであって、それ故に、最も革新的企業が生まれ出て、イノベーションの坩堝を形成しているのである。
   ジョブズもゲイツも多くの偉大な多くのITイノベーターは、大学のドロップアウト組であり、ビジネス・プランに固守している会社はつぶれる、オプショナリティの高い企業の方が生き残るのだと言う、変転極まりない不確定要素の強い何が起こるか分からない時代の生きる知恵であろう。

   これまでも何度も書いてきたが、ルネサンス期のメディチ家が、彫刻家から科学者、詩人、哲学者、画家、建築家まで、幅広い分野の人材をフィレンツェに呼び集めて文化文明の十字路を形成し、創造的な爆発を現出した。多方面の専門分野が交わるところで新しいアイデアを生み出し、世界史上最も革新的な時代、ルネサンスを生み出した。
   これこそ、知の挑戦を受けて立った人々による真善美の創造の根源的エネルギーであって、知の激烈な衝突が、いわば、タレブの言うブラックスワンであり、イノベーションと新しい価値を生み出してきたのである。

   このタレブの理論は、アーノルド・トインビーが、70年以上も前に出版された「歴史の研究」で明確に述べている「挑戦と応戦」の理論の焼き直しである。
   四代文明が生まれたのは、恵まれた環境下にではなく、劣悪な自然環境や気候の変化や外敵の侵入などの圧力や困難と言った激烈な「挑戦(チャレンジ)」を受けて、それに「応戦(レスポンス)」して勝ち取った結果だと説いたのである。
   中国文明が、豊かで恵まれた揚子江の流域ではなく、自然環境が極めて劣悪な黄河流域で起こったことを見れば歴然としている。
   シンガポールやスイスもそうだが、何もないから素晴らしい成長を遂げたし、かってのカルタゴも同様で、何時沈むか分からないラグーナの上に築かれたベニスも最先端の繁栄と文化を謳歌した。

   また、このことは、ダーウィンの進化論でも、強いものが生き残るのではなく、適者生存だと言っているのとほぼ同じで、自然環境の変化にチャレンジして上手くレスポンスしたものが生き延び進化するということであろう。

   別に、声を大にして語っているタレブの講演を聞かなくても、すべて先刻承知なのだが、危機意識の欠如した凡人の悲しさ、虎穴に入る意思も能力もない凡庸な経営者を頂く会社の悲しさ。
   かわいい子には旅をさせよと言う先人の言葉や、イギリス貴族は子弟をグランドツアーにイタリアなど大陸ヨーロッパに送ったと言う話を、知っていても、過保護過保護で、子供をスポイルしている親が、如何に多いことか。
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安達瞳子著「花芸365日」

2016年10月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   もう、20年以上も前、1994年4月に出版された安達瞳子の花芸365日で、元旦から大晦日まで、毎日1作品ずつ活けられた作品の写真集で、はじめに、と、各月の冒頭に、作者がエッセイを書いており、当時の安達瞳子の花芸の集大成とも言うべき豪華本である。

   私は、学生時代から、京都や奈良などの古社寺を訪ねる歴史散歩が趣味で、随分、日本国中を歩いたのだが、その時に、部屋の片隅や廊下に置かれた生け花を見るのが、一つの楽しみで、それに、古社寺では、行事や季節によっては、花の展示や生け花展が開かれていて、結構、綺麗な花を鑑賞する機会が多かった。
   また、学生時代を過ごした京都や、今住んで居る鎌倉など古都には、色々と名木や花で有名な花の寺が多くて、その影響か、小鳥や小動物が植物を伝播させて、町全体が、何となく花で覆われているような感じがして、美しいのである。

   著者は、はじめにの冒頭で、子供の頃、金環食の日に、皆、黒いセルロイドの板で細くなって行く太陽を見ていたが、自分だけ、何となく、
   足元を見て、いつもは丸い球を落としていた竹林の木漏れ日が、眉のように細くなって消えて行き、また再び円に戻ると言う初めて見る神秘的な光景が、日食より、はるかに鮮烈に感じられて、この竹漏れ日との鬼ごっこは、そのまま、花を生けるということへの問いに重なっていた。と書いている。
   これは、先日の「花一路」で、荒井魏が、「木漏れ日の”花の啓示”」と書いているのだが、花を生ける行為は、木漏れ日のときめきに共通する安らぎの世界で、その奥に自然の真実、摂理が見え隠れするような花を生けたい。少なくともその姿勢を失わずに生きていきたい。と、この体験が教えてくれたと言う。

   さて、私も、花に魅せられて、庭に四季の花々を栽培して花の咲くのを心待ちにして、カメラで追っかけているのだが、何が、その継起となったのであろうか。
   私の場合には、それ程インパクトを感じた思いではないのだが、やはり、オランダでの花に対する思い出の集合であろうか。
   まず、オランダに行き、最初に印象を受けたのは、キューケンホフの花公園であろうか。
   その時、綺麗に整備された公園よりも、公園にある一基の風車の上から見た眼下に広がる極彩色の絨毯のような花畑に、興味を感じた。
   車で、公園から離れて、リセのチューリップ畑の広がる農村地帯に入ると、殆ど人影もなく、延々とチューリップやヒヤシンスなどの花畑が広がっているだけで、聞こえるのは遠くでスキポール空港に飛来する微かな飛行機の爆音だけ。
   畑の中に入れば、まわりの360度は、極彩色の花々で、目がくらくら。
   花畑の外れの小高い土手に車を止めて、小休止して眼下に広がる花畑を見ていたら、爽やかな涼風に吹かれて、生き物のように、チューリップの列が靡いて、そのリズムが、無音の音楽を奏でているようで、感激を覚えた。

   今でも、鮮明にあの頃の風に音楽するチューリップ畑を思い出すが、二度とそんな機会を味わうことがなかった。
   もう一度見たくて、オランダに3年イギリスに5年住んで居て、何度も訪れたが、チューリップ畑は、球根栽培畑なので、花が咲くと出来を確認して、すぐに、一気に花を落とすので、殆どのチューリップ畑が、最盛期に花を咲き乱れさせている時期は、ほんの何日かで、その当時、私は、明日はパリ、今日はマドリードと言った多忙を極めた日々を送っていたので、休日に行って、運良く、そんな素晴らしい日に巡り合わすなど不可能だったのである。
   
   さて、安達瞳子のこの本は、
   四月には、「蒼い桜」、十月には、「黄葉紅葉」などなど、季節の移り変わりに託した珠玉のようなエッセイを通して、安達流花芸のエッセンスや瞳子の花に対する篤い思いを綴っているのだが、
   生きると言うことの素晴らしさを噛み締めながら、自然との感応を通じて価値ある生活を創造することが、我々にとって、如何に貴重な財産であるのかを、痛いほど感じさせてくれて感動する。
   
   自然に対してもそうだが、花に対しても、欧米と日本の美意識は、随分違っていて、欧米人が、ばらが好きで、日本人が、侘助が好きだと言うこと、或いは、洋ランと日本らんとの違い、ヤブツバキが洋椿に、ヤマユリがカサブランカに改良されたこと、などを考えれば、殆ど自明だが、
   更に、もっと差が大きいのは、哲学的と言うか思想性さえ感じさせる日本の生け花は、正に、精神性の高い芸術の域に達した芸道だと言う感じがするのだが、欧米のフラワーアレンジメントは、非常に美しくて豪華な芸術だが、装飾と言う要素が強くて、精神性にはあまり馴染まないと言う感じがするのは、偏見であろうか。
   それもこれも、日本の国が、豊かで繊細に変化する四季に恵まれているからで、それが、日本人の美意識を育み、素晴らしい花芸を涵養している。・・・私には、遠い世界だが、生けられた花々の美しさを愛でながら、ほっと、良い気持ちにさせてくれたのが、この本である。

   美しい花芸の作品の一部を、本から転写して紹介すると、つぎのとおり。
   写真が小さいので分かり難いが、銕仙会能楽研修所の能舞台の目付柱に設えた竹を器にしたウメとツバキの生け花の花手前は、非常に興味深い。
   
   
   
   
   
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国立能楽堂・・・古典の日記念「安宅関の山伏問答」

2016年10月29日 | 能・狂言
   久しぶりに、能「安宅」を観た。
   歌舞伎や文楽の「勧進帳」のオリジナル・バージョンである。
   今回は、その前に、講談の「勧進帳」を聴くと言う粋な公演である。
   
   プログラムは、次の通り。
   ◎古典の日記念1<安宅関の山伏問答>
   講談  勧進帳 神田 松鯉
   能  安宅  金剛流
    延年滝流
    問答之習
    貝立貝付  
      金剛永謹(シテ)
      廣田明幸(子方)
      金剛龍謹,種田道一,豊嶋晃嗣,山田伊純,惣明貞助,豊嶋幸洋(ツレ)
      福王茂十郎(ワキ)、山本則俊(間)
      一噌幸弘(笛)、大倉源次郎(小鼓)、柿原崇志(大鼓)

   4年前に、初めて「安宅」を観て、このブログで、”国立能楽堂:能「安宅」、そして、勧進帳との違い”を書いた。
   それまでに、歌舞伎や文楽で、何度も、「勧進帳」を観ていて、そのオリジナルの能の舞台がどうなのか、その違いと、歌舞伎や文楽へのアウフヘーベンを知りたかったので、能役者の見解や思い入れなどを参考にして、私なりに考えてみたのである。

   勿論、能の演出も、流派によっても、あるいは、小書き次第でも、かなり、バリエーションがあるのだが、今回の金剛流の能の舞台は、小書き「問答之習」がついていたこともあって、問答と勧進帳読み上げとは、前後するものの、浄瑠璃の舞台と、良く似通っていた。
   山伏問答の対し方は、ワキ/富樫某(福王茂十郎)が脇座で、シテ/武蔵坊弁慶(金剛永謹)が正中に金剛杖を肩にかけて、ともに床几にかけて対面して、修験道について語り合う。
   勧進帳の読み上げについては、シテが正先の目付寄りに立って両手を伸ばして巻物を読み上げるのだが、途中、ワキが勧進帳を覗き込もうとすると、後に居たツレ/義経の郎党の一人(金剛龍謹)が中に割って入り、シテは、巻物を右側に下げて隠し、激しい睨み合いが続く。
    
   小書き「延年滝流」では、シテが「鳴るは瀧の水」で流れを見ながら橋掛りへ行き、舞台に戻って勇壮な男舞になる。
   男舞三段オロシで、シテは左手に扇、右手に数珠を持って、山伏延年の型を模して、常座で延年の型をすると言うことだが、残念ながら、私には良く分からなかった。
   ラストシーンだが、「疾く疾く立てや」で、郎党が一斉に立ち上がり、後見座から出た子方の義経を先頭ににして、幕に走り入り、最後に、弁慶が笈を肩にかけて、後を追って幕に消える、一人、舞台で富樫が見送る。、このラストも、バリエーションがあるようである。

   さて、問題の義経であることが見破られて以降の緊迫した舞台展開だが、非常に激しい緊張が続く。
   止められた義経が、襞をついて杖を右肩にもたせて顔を伏せると、橋掛りまで退場していた郎党が刀の柄に手をかけて気負いたち、弁慶は、三の松から一の松に走り出て、殺気立つ一同を制して、舞台の義経の後ろに立って、何故通らぬかと声をかける。
   富樫が許さないので、弁慶は、とっさの機転で義経を金剛杖でしたたかに打ち据えるも、なお疑うので、「強力を止めて、笈(荷物)に目をつけるのは、盗人と同じだ」と言って抗議すると、激高した十一人の郎党たちが、舞台に飛び出して来て、「打刀抜きかけて、勇みかかれる有様は、いかなる天魔、鬼神も恐れつべうぞみえたる」と、富樫たちに激しく立ち向かう。
   弁慶が杖を横にして必死に背で郎党たちを制するのだが、地団太踏んで突進する郎党たちの力に押されて前に進んで、一触触発、目と鼻の先まで来て、ついに、気勢に圧倒されて、富樫は一行の通行を許す。
   この日は、何故か、郎党が六人であったが、それでも、狭い能楽堂の舞台であるから、大変な迫力で圧倒される。

   私のブログを引用するが、
   能は、シテ一人主義を通して主役は弁慶一人で、歌舞伎では主役の義経を、能では子方が演じており、豪快でパワフルな弁慶が、ワキ富樫何某と、男と男との死を賭した息詰まるような対決を演じることによって、一本大きな筋が通っている。
   一方、歌舞伎では、富樫が、義経だと分かっておりながら、男の情けで、安宅の関を通させるのだが、能では、弁慶が力づくで富樫と対決して関所を突破すると言うことになっている。
   まさに、その息詰まるようなパワーの炸裂が、このシーンである。

   この能「安宅」は、殆ど対話主体の劇場劇と言った趣で、他の能と違って、地謡や囃子の活躍するシーンが、後半に少しある程度で、非常に限られている。
   それに、アクションが非常に明確なので、分かりよい感じがするのだが、それだけに、演じる方も、鑑賞する方も、本当は大変ではないかと思っている。

   先に観たのは、喜多流で、シテが粟谷能夫、ワキが宝生閑で、凄い舞台であった。
   今回は、シテが金剛流宗家の金剛永謹、ワキが福王流宗家の福王茂十郎で、重厚で風格と威厳のある両巨頭の火花の散るような緊迫した舞台の迫力は、また、格別であった。

   ところで、これ程、感動的で素晴らしい舞台であり曲だと思うのだが、神田松鯉師の話では、講談では、殆ど舞台にかからず、今回は、8年ぶりの講談で、記憶を蘇らせるのが大変だと語っていた。
   講談では、富樫が、既に、義経であることを知っていて、無残にも打擲されている義経を見て、「世が世なら・・・」と言って、正視出来ずに、扇で顔を伏せて、通行を許したと言う。
   「勧進帳」は、一番古い講談の部類だと言うのだが、歌舞伎や文楽同様に、時代が下ると、理知的と言うか理念的というか直線的な能とは違って、同じ安宅関の山伏問答の世界も、人情味がどうしても出てくるのであろうと思ったりしている。
   
   能楽堂の中庭、ツワブキが咲き、万両が少し色づき始めた。
   冬の足音が、近づいてきている。
   
   
   
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国立演芸場・・・芸術祭寄席~忠臣蔵の世界~

2016年10月28日 | 落語・講談等演芸
   国立劇場開場五十周年記念として、歌舞伎も文楽も、仮名手本忠臣蔵の通し狂言が進行中だが、落語でも、今回、”忠臣蔵の世界”と銘打って、非常に興味深い公演が、国立演芸場で行われた。

   プログラムは、次の通り。 
  「芸術祭寄席‐忠臣蔵の世界‐」
浪 曲「大石と垣見の出合い」
  京山 幸枝若 曲師 一風亭 初月 ギター 京山 幸光
講 談「南部坂雪の別れ」 神田 陽子
落 語「淀五郎」 柳亭 市馬
―仲入り―
座敷唄「仮名手本忠臣蔵 俗曲十二段返し」
  京都 上七軒芸妓連中 囃子 藤舎清之連中
曲 芸 鏡味仙三郎社中
上方落語「七段目」 桂 米團治

   早々に、チケットは完売で、日頃の国立演芸場の出し物と違って、かなり、着物姿の女性客やフォーマルな服装の人が多くて、改まった雰囲気であった。
   浪曲から講談、上七軒芸妓連中の座敷歌、それに、落語二席と言うバラエティに富んだ素晴らしい公演の連続で、大変、楽しませてもらった。

   武器を携えて東海道を下る途中で、大石内蔵助と垣見五郎兵衛とが対面する場は、忠臣蔵の名場面のワンシーンで、私は、大映の映画で、大石内蔵助に長谷川一夫、垣見五郎兵衛に二代目中村鴈治郎と言う二人の名優の素晴らしい舞台を見た。
   大石内蔵助は、天野屋が調達した武器を、仇討ち決行のために江戸へ運ぶために、関所で止められるのを恐れて、「日野家の名代で垣見五郎兵衛が禁裏御用のために京都から江戸へ下る」という情報を得て、垣見の名を語って、垣見たちの中仙道輸送ルートとは違う東海道を難なく下るのだが、運悪く、神奈川宿で、京都へ帰える途中の本物の垣見と出くわしてしまう。
   本物争いで鬼気迫る二人の対面、万事休すの内蔵助は、証拠を出せと言われて、切羽詰まって連判状を、垣見に見せる。
   感動した垣見の武士の情けで、内蔵助たちは、神奈川宿を突破する。

   曲師初月の三味線に乗っての幸枝若の名調子で、感動的であったが、何故か、神奈川宿の役人二人の会話が、大阪弁。
   それに、浪曲の曲師の前の演台は凄いのだが、正面に派手な、春画もどきの若い男女の着衣の上半身姿にびっくり。

   「南部坂雪の別れ」も、私の印象は、大映の映画で、瑤泉院は山本富士子。
   それに、真山青果の「元禄忠臣蔵」で、確か、時蔵。
   内蔵助は討ち入りの直前、江戸南部坂に隠棲している浅野内匠頭の未亡人瑤泉院に最後の暇乞いに行く。内蔵助は、討ち入り決行を伝え、同士の連判状を渡し、内匠頭の霊前に参りたかったのだが、侍女の中に吉良の密偵がいるのを感じて、仇討の意思など毛頭ないと心にもないことを言って瑤泉院を激怒させて席を立たれて、仕方なく、腰元に、「東下りの旅日記。」を託して、降りしきる雪の中を帰って行く。夜中に、内蔵助からの旅日記を盗もうとする女間者を取り押さえて、ほどけた旅日記が連判状だと分かって、内蔵助の来訪の意味を知って、短慮を悔いて詫びる瑤泉院の断腸の悲痛。
   やはり、このくだりは、女流講談師の神田陽子の独壇場。
   この頃になって、少し、講談の面白さが分かってきたのは、この国立演芸場や国立能楽堂での公演のお陰で、女流の読む芸の素晴らしさに感激し始めている。
 
   上七軒芸妓連中と囃子の座敷唄は、初めての鑑賞だが、中々、華やかで優雅で良かった。
   一段目から十二段目まで、仮名手本忠臣蔵のさわりを俗曲にしたもので、ところどころだが、くだけた面白い表現が分かって面白かった。
   いずれにしても、先の浪曲や講談も、そして、落語もそうだが、仮名手本忠臣蔵の全段なり赤穂事件に通じた知識があれば、より一層楽しめるのではないかと思う。

   市場の「淀五郎」は、
   座頭の市川團蔵が、「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官役の藤十郎が急病になったので、若手の澤村淀五郎を抜擢して代役に立てると言う話である。
   淀五郎は張り切るのだが、演技が未熟であまりにも下手なので、四段目の「判官切腹の場」で、大星由良助役の團蔵は、花道に登場したものの、七三で平伏したまま、舞台に出ないので、七三で止まったまま、判官は切腹してこと切れる。
   意地悪で皮肉屋の團蔵は、何故ダメなのか、淀五郎は解らないので聞くのだが、家来が殿にあれこれ言えない、分からなければ腹を切って死んでしまえ、と言う。
   頭にきた淀五郎は、憎い團蔵を殺して、舞台で本当に腹を切ろうと心に決めて、暇乞いに、初代中村仲蔵のところへ行く。
   様子を察した仲蔵は、判官切腹の作法や芝居のやり方を一から教えてくれたので、淀五郎は必死で稽古する。
   その成果が表れて、翌日、淀五郎の芸は上達していたので、その舞台姿を見た團蔵は、喜んで、今度は定石どおりに舞台まで出て、淀五郎の判官の側まで出て来て平伏する。   定五郎は、いつも七三にいる團蔵の由良之助の方を向いたらいない。側に来ているので側感極まって、「待ちかねた。」

   市場は、殆どまくらなしで、30分を語り切ったのだが、歌舞伎役者のほろりとする良い噺で、聴かせてくれた。

   上方落語の米團治は、今度は、「七段目」。
   この前は、「四段目」を聴いたので、連続の仮名手本忠臣蔵噺。
   両方とも、芝居好きの丁稚と若旦那が、大旦那に叱られながら、二階に上げられて、そこで、ひとくさり、忠臣蔵の芝居を演じる滑稽噺である。
   こんどは、大旦那が、二階に追い上げた若旦那に注意させようと二階に上がらせた小僧の定吉が、これも芝居好きで、若旦那に誘われてお軽にされて、若旦那の平右衛門と一緒に、七段目の一力茶屋の場を実演する。
   仇討決行の手紙を読まれた由良之助の身請け話の意図が、お軽殺害と知った平右衛門が、自分が殺して手柄にして討ち入りの一味に加えてもらおうと、お軽の定吉に抜き身の真剣を振り回すので、怯えた定吉が逃げた拍子に、梯子段を転げ落ちる。
   心配した大旦那が、「七段目から落ちたのか」と聞いたら、「てっぺんから」。
   普通は、「てっぺんからか」と聞いたら、「七段目」と言うのがオチのようだが、師匠の米朝がこのようにしたので、それを踏襲している。
   とにかく、團十郎や仁左衛門など、器用に歌舞伎役者の声音を真似て、派手な身振り手振りで演じ続ける米團治の眼の玉を上下左右、白黒させての熱演に、観客は大喜び。
   米朝のような貫禄と風格には欠けるが、上方落語のホープ、人気絶頂の話術の冴えは、流石である。

   この米團治、まくらに、歌舞伎なら親が偉いと、御曹司と言われるが、落語は継承がないのでバカボンと言われると言いながら、人間国宝になって文化勲章を貰ったのは米朝だけ、その長男、と言って笑わせていた。
   落語家になるつもりはなかったが、ざこばに、やったらええ、やってあかんかったらやめたらええ、と言われて入ったのだと言う。
   歌舞伎の話なので、南座で、先の猿之助から話があって、1か月間公演を一緒にした小米朝のころの話を感激交じりに話していた。
   猿之助の宙乗りの紹介で、「隅から隅まで、ずいーっと」と言ったので、これは、座頭だけが使う口上だと窘められたり、自分の掛け声がないので、その時、祇園で遊んでいたので、「お茶屋!」になった話など、語りながら、「七段目」に入った。
   次には、こってりとした大阪弁丸出しの上方落語を聞きたい。

   ごっちゃ煮の忠臣蔵であったが、面白かった。
   
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わが庭・・・ハナミズキの紅葉が秋の気配

2016年10月26日 | わが庭の歳時記
   わが庭の門扉を通り抜けると、玄関口との間に植え込みがあって、大きなヤマボウシと白いアメリカハナミズキが植わっている。
   夏には涼しい木陰を作ってくれて、有難いのだが、今は、落ち葉が一面に地面に敷き詰めている。
   まだ、もみじなどの紅葉には早いのだが、この2本は、秋色に染まって散り始めているのである。
   今年は、中途半端な気温の所為か、いつもより、赤い色が出ずに、少しボケた感じの紅葉である。
   ヤマボウシの方が、葉が少し小ぶりで、先に散り始めて、殆ど葉が残っていない。
   
   
   
   

   柿の葉の紅葉を見たくて植えた錦繡が、色づいて殆ど葉は落ちてしまった。
   タキイの通販で買って3年前に植えたので、まだ、木が小さいのだが、一枚の葉に、秋のもみじの錦を凝縮したような、色彩美の素晴らしさは、正に、日本の美であり、秋の象徴であろう。
   
   
   ツワブキも、花を開き始めた。
   私の庭のツワブキは、すべて、千葉の庭から移植したので、斑入りである。
   大きな団扇の様な葉の間から、すっくと花茎を伸ばして、その先に数輪黄色い菊の様な花を咲かせるのだが、何故か、この花だけは、花弁が不揃いで、美的感覚に欠けているのが面白い。
   津和野を歩いた時に、路傍に沢山のツワブキが咲いていたのを思い出した。
   

   もう一つ、わが庭に咲いているのは、ばらで、春のような華やかさはないが、ひっそりと咲く風情が良い。
   秋のばらは、息の長いので、一輪挿しに良く似合う。
   
   
   
   
   秋と言えば、実の季節でもある。
   先日まで、木についていたフェイジョアの実は、全部落ちてしまった。
   キウイはたわわに実がなっていて、先日、100個くらい採って熟成させているのだが、まだまだ、たくさん木に残っている。
   熟成だが、採取した固い実を、何個か柱にぶつけて、ポリ袋に入れた実と一緒にして密封しておくと、1週間くらいで食べられるようになる。
   上手く熟成できれば、孫に幼稚園の放課後保育のクラスの子供のおやつ用に持って行かせようと思っている。
   ゆずと夏柑の実がたわわについている。
   木が、まだ小さいので、今年は、みかんもレモンも、実がつかなかった。
   
   
   
   
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国立劇場・・・十月歌舞伎:通し狂言「仮名手本忠臣蔵 大序から四段目まで」

2016年10月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場 大劇場では、今月から3回に亘って、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」が、完全公演され、今月が、その最初の月である。
   通し狂言の良さは、全ストーリーを、最初から最後まで上演するので、今回の舞台でも、「鶴ケ岡社頭兜改めの場」「足利館松の間刃傷の場」「扇ヶ谷判官切腹の場」などはお馴染みだが、演じられることが殆どない場が、上演されていて、興味深いだけではなく、非常に筋が良く分かって面白いことである。

   この「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件を題材にはしているのだが、舞台を太平記に置き換えているのみならず、塩谷判官が、高師直に刃傷に及び切腹を命じられてお家断絶、大星由良の助などの忠臣によって仇を討つと言う原因そのものが、高師直が、塩谷判官の奥方顔世御前に横恋慕して、それが不発に終わった恋の鞘当てだと言うことである。
   もっと面白いのは、高師直に恋文を渡され口説かれた顔世が、新古今集の歌に託した断りの文箱を、腰元お軽に届けさせて、お付きの勘平経由で判官から、殿中で高師直に直接手渡して、振られたことを知った師直が激昂して悪口雑言を浴びせて、いびり抜かれた判官が、堪忍袋の緒が切れて刃傷に及ぶと言うことである。
   お軽が、勘平に会いたいばっかりに、重要な時期に断りの文を渡すのを逡巡していた顔世を説き伏せて、文箱を持って足利館に赴き、勘平に会って、判官が殿中で公務中の待機時間に、勘平を誘惑して愛を交わし、その最中に刃傷事件が発生する。
   お軽の逢引き願望の軽はずみが、一国一城を傾けてしまうことになる。
   尤も、顔世が、斧九太夫と原郷右衛門とが、賄賂を出さなかったからだと激しく言い争っているのを制して、ことの起こりは、自分が師直からの恋文を拒絶した意趣返しで、それを判官に伝えなかったことが仇となったと言っているのだが、刃傷事件で師直の怒りの引き金になった手紙を、勘平に会いたいばっかりに、最悪のタイミングで運んだ張本人は、お軽なのである。

   勘平は、切腹しようとしたが、お軽が止めて、お軽の在所である山崎へ落ちて行く。
   色に耽ったばっかりに、大事の場所にも居り合わさず、その天罰で心を砕き、仇討の連判に加われなくなった勘平は、結局は、義父殺しの疑いを受けて自害し、お軽は、祇園の遊女となり、七段目の「一力茶屋の場」で由良之助と遭遇する。
   このあまりにも尻軽で色好みのお軽と、軽薄を地で行ったような勘平が、大星に引けを取らないようなキャラクターとして登場するのが、この浄瑠璃の面白さであろうか。

   もう一つの重要な登場人物は、最初に高師直と諍いを起こした饗応役の桃井若狭之助の家老加古川本蔵で、高師直に過分の賄賂を贈って、若狭之助の窮地を救い、お鉢を、塩谷判官に回して、更に、殿中での刃傷の場に居て、塩谷判官の後から抱きしめて本懐の達成を邪魔するのである。
   この娘の小浪が由良之助の息子力弥の許嫁であって、二段目の「桃井館力弥使者の場」で、初々しい出会いのシーンが展開される。
   しかし、後半、八段目と九段目で、嫁入りしたい小浪を伴って、義母の戸無瀬が、鎌倉から山科の大星家を訪ねるのだが、父本蔵が、判官が師直を切りつけた時に止め、若狭助と師直の対立を回避させて、師直の怒りを判官へ向かわせた張本人であるから、許されるわけはなく、娘小浪の幸せのために、自分の命と引き換えに、本蔵は、力弥の槍を受けて死ぬと言う結末になる。
   この場の本蔵は、座頭役者が演じる大役である。

   この通し狂言の序幕から四段目まで通しで見ると、殆どの登場人物が出て来ているので、架空に近い人物であるお軽や勘平、本蔵と言った人物を主役級に設定する作劇の巧みさなど、以上の様な事も良く分かり、その人間関係や来歴などが頭に入ると、後の芝居が面白くなり、やはり、ミドリ公演で、「一力茶屋」や「山科閑居」など単独で見るのとは違って、理解が大分深まってくる。
   それに、この浄瑠璃は、政治都市であった江戸とは違って、商業の街・庶民の街であった大坂で生まれた所為もあって、その芝居好きを喜ばすためもあってか、侍中心の赤穂事件とは大分ニュアンスの異なった和の世界が色濃く描かれている。
   この浄瑠璃には、顔世と師直、お軽と勘平、小浪と力弥の3つの恋物語が、かなり、強い横糸として通っている芝居で、それだけ、人間を広く深く描いているようで、非常に面白く、また、よくできていると思う。
   そんなことが、通し狂言で、観ると、一層良く分かる。

   さて、大序と三段目の「足利館松の間刃傷の場」で主役となる高師直だが、田口章子さんによると、「太平記の人物像そのままで、権力主義者で女好きでその上強欲だ。」
   反対の意を唱えるものがあれば未熟者呼ばわりし、横柄な態度を示す。挙句、仕事中に女を口説き、見咎められれば脅しにかかる。最も憎まれる敵役だが、傲慢で好色な人間くささが憎み切れない人物像となっている。と言う。
   こんな嫌な人物だが、関容子さんによると、歌右衛門が顔世を演じた時に、二代目延若の男の色気にゾッコン参って、「困っちゃう」などと身を揉むほどだったと言うから、役者次第では、単なる好色で嫌な奴と言うことではないようである。
   ところで、今回、高師直を演じた左團次だが、何故か、嫌みが少し灰汁抜けした感じで、厭らしさエゲツナサが柔らかく淡白となり、これまでとは違った師直像を創り出していて興味深かった。

   さて、大ベテランの秀太郎の顔世だが、この大序では、師直に次いで重要なキャラクターであった筈で、風格と言い、芸の確かさと言い、素晴らしいと思った。
   歌右衛門が、関容子に、普通から言えば若立ちの役だけれど、一寸、年齢が積んでこないと、そこにこう、大きさとか、品格とかがあって、それでいて美しくなければならない。と言っている意味が、秀太郎の舞台を観ていて、少し、分かったような気がした。

   幸四郎の由良之助は、これまでに、何度も観ており、由良之助像の一つの頂点と言うべきで、いつも、良質なベートーヴェンの「運命」や「田園」を、コンサートホールで聴いているような思いで観ている。
   梅玉の判官と錦之助の若狭之助の威厳を伴った風格と格調の高さ。
   隼人の凛々しくも颯爽とした力弥も素晴らしいが、いつもながら、小浪の米吉の初々しさ優しさ美しさ、それでも、恥じらいを伴いながらの恋のアタック、うまいと思う。
   本蔵の團蔵、戸無瀬の萬次郎は、ベテランの味。
   高麗蔵のお軽と扇雀の勘平が、塩谷家の命運を決することになる危ない逢瀬を、鮮やかに描いていて面白い。

   由良之助は、祇園での放蕩三昧を止め、山科から、堺を目指し出立して、天河屋から武器を受け取って、船で、鎌倉の師直邸を目指して、稲村ケ崎へと出帆する。
   「仮名手本忠臣蔵」もいよいよ佳境に入って面白くなって行く。

    
    
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荒井魏著「安達瞳子の花一路」

2016年10月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   花は好きで、ガーデニングはやっているが、生け花には、全く縁がない私が、安達瞳子に関心を持ったのは、安達瞳子の著書「椿しらべ」を手元にしてからである。
   長いヨーロッパ生活から帰国した時、わが庭で待ってくれていた乙女椿が、綺麗な花を咲かせてくれて、その優雅なピンクの美しさに感激して、それ以降、椿に入れ込んで、庭にも植え、鉢植えにもして、椿に囲まれた生活が始まり、その時に、「椿しらべ」に出合ったのである。
   久しぶりに、この本を書棚の奥から取り出して、ページを繰っている時に、もう一度、安達瞳子の世界を振り返ろうと思って、この「安達瞳子の花一路」を読んだ。
   「椿しらべ」は、安達瞳子が日本ツバキ協会会長であった頃1999年刊行の素晴らしい本で、以前に、大手術で入院した時に病院に持っていた唯一の本で、この本だけは、2冊持っている。

   安達瞳子は、2006年に亡くなっているので、最晩年に開催された花芸展に、一度だけ行く機会があって、青竹を花生けにした椿を見て、感激した。
   
   さて、この「花一路」だが、「美しい花、やさしい花、そして闘うつよき花。一筋に花と歩みつづけてたどりついた独自の世界--。」と帯にあり、安達瞳子が「この一冊によって、私自身自分の”半生”を整理し、明日の花芸研鑽の路を歩んでいきたいと心している」書いてあるので、殆ど、安達瞳子の自著と同じであろうと思って読んだ。

   瞳子が、形式的技巧的な作風に陥っていた当時の華道界を嫌って独自の流派を起こした父安達潮花の功績として、植物の生態、形態に立脚した五つの基本花形を生み出したこと、日本の伝統的制止的な花の世界から脱却して自然の中の動きを原型とした「動の世界」を創造したこと、華道の教授法を改革して「一斉教授法」方式を導入したこと、を評価しており、鋏の音を子守歌に育った敬愛する父の元で修業を積み、後継者に指名されるのだが、
   潮花の晩年の技巧的な花に疑問を持ち、戒めていた「技地獄」に陥っているように思えて、このままでは、「安達の花」はつぶれてしまうと危機感を抱いて、非常手段として、師であり父に抵抗して後継者である娘が家出・独立すると言う驚天動地の行動に出て、「安達瞳子政策室」を立ち上げた。
   その後、潮花と兄の死去によって、結局、安達式挿花を統合して家元となって、跡を継いだ。

   瞳子の生け花観は、生け花でも華道でもなく、「花芸」である。
   それは、日本の伝統芸道「花道」の「花」と西洋の「芸術」意識に学ぶ意味での「芸」のそれぞれの長所を生かしたい、との思いから生まれた「花の芸術」、花芸なのである。
   瞳子は、「花芸憲章」で、花芸は、日本の民族の美を愛する心の結晶、自然の心を活ける芸術、自然の心と一体になった造形、自然の四次元の生命のつりあいの表現、であると謳い上げて、芥川比呂志に示唆された「人生は戦いなり」と言うべき花一路の人生を突っ走って行った。

   父潮花は、椿に魅せられて椿御殿を建て、瞳子は、桜に触発されて独自の道に飛び込み、晩年は緑に魅了されて竹に心血を注いだと言う。
   潮花が、椿に魅せられたのは、銀座の骨董屋で見つけた「百椿図」が切っ掛けだが、このことは、「椿しらべ」に、何枚かの絵が掲載されて、3篇のエッセイも書かれていて知っていたが、偉大な花芸術家の、ライフワークとの運命的な遭遇が印象的であった。
   桜を知り尽くした天下の桜守藤右衛門が、瞳子の個展を見て、「心の苦労を通り越した人。でないと、ああいう大胆な桜は生けられないと思ったね。・・・森の中の、山の中の一員として。そこから桜だけを上手につかみ出してくる。好きなように形を作ろうとすると無理が生まれるが相手を生かす。それができると言うのは、自然を知り尽くしているからでしょう。」と言ったと言うのだが、安達瞳子の凄さ素晴らしさを表現するのには、この言葉だけで十分であろう。

   花に寄せる日本人の気持ちや姿勢、生活芸術へのアウフヘーベン、能や俳句に通じる日本芸術の粋である省略の美、自然に対しての素直に感動する心、等々、珠玉の様な安達瞳子の花芸への誘いが綴られていて感動的である。
   私の場合、これからも花道には縁がないと思うが、欧米やあっちこっちで集めた花器や花瓶に、庭で咲いた花を適当に挿しているので、結構教えられることが多かった。
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国立演芸場・・・五代目圓楽一門会二日目

2016年10月22日 | 落語・講談等演芸
   昨年同様、今年も国立演芸場で、五代目圓楽一門会が開催されたが、二日目に、圓楽と好楽が高座に上がるので、聞きたくて出かけた。
   この日は、朝から、「笑点」の録画があって、二人とも、その様子などをまくらに語っていた。

   圓楽は、歌丸の司会の後釜として、国民の声が高かく、話があったが断ったのだと強調していた。
   昇太や三平など若手たちでは、持たないので、フィクサー(黒幕)として、抑えのために残ったのだと言うことである。
   まだ、「笑点」は、歌丸症候群で何となくテンポがついて行っていないようだが、卒業した歌丸師匠は、肩の荷が下りたのか、元気で活躍していて、少し肥えたようですねえと言ったら、100グラム増えたと言っていたと言う。
   酸素吸入器を常備しているので、助けられて高座に上がるので、幕が揚がるとすでに座っていて、歩かなければ良いのだとも言う。
   しかし、テレビでは、管を鼻につけた歌丸師匠の様子を見ているのだが、高座で語る姿は、艶のある凛とした語り口で、全く、老いや弱さを感じさせない程元気なので、びっくりする。

   面白かったのは、65歳になると、急に、医療保険や介護について区役所から、通知が届いて、介護サポートのアンケートで、自分で銀行から預金を引き出せますかと言う問いがあって、「あれ以降、キャッシュカードは取り上げられてしまって・・・」と言って、客を笑わせていた。

   語ったのは、新作落語であろうか。
   「行ったり来たり」
   ペットを飼っている隠居(?)の話だが、飼っている動物を、「行ったり来たり」とか「のらりくらり」と言った形で、動物の話をするので、その動物が、何なのかさっぱり分からなくて、客との、理屈には合っているような合っていないような頓珍漢な会話の連続なので、聞いている時には、面白いのだが、後で、どんな話だったか、メモを取っていないので、殆ど思い出せない。
   日本語の不可思議と言うか、表現の豊かさ奥深さをパロディにした感じで、豆腐と納豆とは漢字があべこべだと言ったり、動物の動きを戯画化して、「のらりくらり」と表現するのも、考えてみれば、別に不思議はないのだが、意表を突いた笑いに面白さも、落語の醍醐味かも知れない。
   客が、ペットを貰いたいと言ったので、オチは、「願ったりかなったり」。
   これで、圓楽の高座は、二度目だが、語り口や話芸の冴えは、流石である。

   好楽は、文枝の許可を貰ったと言って、文枝の新作落語「優しい言葉」を語った。
   まくらは、弟弟子の圓楽に、65歳になっていない時に、四捨五入したら70歳だなどと言われたのだが、やっと、70歳になったと語り始めた。
   「優しい話」は、やはり、夫婦の間の話なので、まくらの大半は、夫婦と家族の話で、ソクラテスの妻についても語った。
   ソクラテスの妻クサンティッペは、悪妻の代名詞ともなるほど、悪妻として有名だが、ソクラテスも家を顧みず、哲学三昧に生きていたので、どっちもどっちだったのではなかろうか。
   妻が、ソクラテスに、水、ないし、尿を頭からぶっかけたと言う話が伝わっているが、好楽は、この逸話を引いて、友が来て、何時間も哲学話に没頭しているので、頭にきた妻が、井戸から水を汲んできて、ソクラテスの頭からぶっかけたので、友が、酷いなあと言ったら、ソクラテスは、「嵐の後は、夕立が降る」と言ったと語っていた。
   
   好楽の語り口は、東京表現で、江戸版の「優しい言葉」なので、頭の中で、大阪弁に切り替えて、聞いていると、以前に聞いた文枝の「別れ話は突然に」の舞台を思い出した。
   上方落語が、江戸落語にアウフヘーベンしたケースが多いのだが、元の落語の根底にある上方生まれのドロッとした土の香りと言うか空気を醸し出すムードは、上方独特のものがあって、同じお笑いでもニュアンスが、微妙に違う。
   好楽は、圓楽にはないが、文枝は気前よく自分の持ちネタを誰にでも自由に語らせてくれると言っていたが、文枝しか表現できない文枝の分身の様な噺のアヤがあるような気がしており、それをどのような形で、他の地方に移して、夫婦模様、家族模様を語り切るか。
   さすがに、好楽で、素晴らしい標準版の「優しい言葉」を語って喜ばせてくれた。

   これも、メモなしなので、うろ覚えの記録だが、
   夫婦で商売を商っている男が、いつものように行き付けの飲み屋に行って、女将に、妻のことで愚痴をこぼす。
   この対話の数々は、どこの家庭にもあるようなマンネリ化してしまって行き場のなくなった夫婦の不満の数々だが、好楽は、しみじみと語りながら笑いを誘う。
   女将が、夫婦のよりを戻すためにと、「マドンナの宝石」のCDを渡して、この曲を聞かせながら、「ここへ来ないか、コーヒーを煎れよう」、「肩を揉もうか」、「腰をさすろうか」、と誘うと、女はほろりとするので、「しあわせだなあ。僕は、君と一緒にいる時が・・・」とつぶやき「アイラブユー」と言えば成功間違いなしだと指南する。
   やる気になった男は、仕事が片付いた後で、「マドンナの宝石」をかけて、居住まいを正して口説き文句を語り始めるが、妻は孫の世話に帰ってしまっておらず、代わりに手伝いに来ていた次女にいなされてしまい、女将に失敗したと言うと、夫とうまくいくか行かないか賭けているのだから、もう一度やれとけしかけられる。
   このシーンでは、下座から、カラヤンのCDであろうか、本当に、音楽が流れてきて、好楽が、うっとりとした面持ちで、語り始める。
   涙を一杯貯めて顔をぬぐう妻。
   「明日、病院に行こう」
   「マドンナの宝石」の冒頭が、大音量で流れて、瞬時に、激しい打楽器の音。

   この「マドンナの宝石」だが、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリが作曲した全3幕のオペラ「マドンナの宝石(I gioielli della Madonna」の間奏曲なのだが、オペラは、殆ど演じられないものの、時々、クラシックの名曲演奏会で聞けることがある素晴らしく美しい曲である。
   マスネの「タイス」の瞑想曲や、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲など、憧れのマドンナと二人だけで聞くと至福の時を過ごせる素晴らしい曲もあり、カラヤンの「オペラ前奏曲、間奏曲集 」を聞くと、何故か、若かりし頃にタイムスリップして無性に懐かしくなるのが不思議である。

   「新婚さんいらっしゃい!」で培った文枝の夫婦模様の面白さ凄まじさ、ほろりとさせて、どこかもの悲しい、浮気でもしないと、この夫婦の機微は、醸し出せないのかも知れないと思いながら聴いていた。

   この日、面白かったのは、柳亭痴楽の「綴り方狂室」で話題になった「恋の山手線」を、富山出身の良楽が、現在バージョンに作り替えて語った「恋の北陸新幹線」。
   国立演芸場のギャラよりも高い、大枚をはたいて往復する北陸新幹線の18の駅を数珠つなぎに語る「恋の旅路」を、痴楽の口調を真似て語り続けて、観客を喜ばせる熱演。
   
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中村光夫著「ドナウ紀行」(2)

2016年10月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、ウィーンとブダペストについて、感想を書いたが、今回は、その他の紀行文について書いてみたい。

   ドナウと言えば、やはり、ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しき青きドナウ」の印象が強すぎて、特別な思い入れを感じるのだが、私には、プラハを横切るスメタナの「モルダウ」のような詩情や、ライン川のようなロマンを感じさせてくれるような雰囲気はない。
   ウィーンの森の北方を流れるドナウ河も、そうである。
   随分昔、アムステルダムから、アウディでウィーンを訪れて、その帰途、ライン川沿いに、リンツに向かってドイツに抜けた。
   丁度、寅さん映画のウィーン編で、寅が牧師に出合って「御前様」とつぶやくシーンに出てくる青い教会の屋根が見えるドナウ川の畔で、一泊したのだが、このあたりのドナウ河は、何の変哲もない田舎の川である。

   しかし、ドイツの黒い森の奥深くに源流を発して、ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ロシアなど17か国を貫流する国際河川で、その規模の壮大さは、驚異的でさえある。

   ブダペストを抜けると、一挙に寂しくなると言うことで、船は、ベオグラードとブカレストの郊外に停泊して、夫々、バスツアーで、市内を観光する。
   私は、行ったことがないので、イメージが湧かないのだが、両都市とも、小パリの雰囲気があったと言う。
   ベオグラードを過ぎると、急峻なカルパチア山脈を横切るので、それまで、平地ばかりの風景に飽きていた船客は、山々が重畳とした荒々しい姿で両岸に迫り、大きな渓流となり、景観を楽しんだと言うのだが、山脈を刻み切った自然の驚異に感嘆である。。

   興味深いのは、船の中での描写で、食事の時に相席になったベルリンのお婆ちゃんとの交流、客室での相部屋で苦労したこと、船内でのアトラクション、ベオグラードの郊外で、接舷した逆走する遊覧船からの食料などの積み込み時に、その船でロンドンへ向かう盗難に遭って着の身着のままの若い日本女性との遭遇、船長との面会等々の脱線話で、ユーゴスラビアの税関員の乗り込み臨検に緊張した話など、私などとは一寸違った旅への緊張ぶりも面白いと思った。

   ドナウの河口は、三角州となっていて、三つに分かれて黒海に流れ込んでいて、一番北側の支流のロシア領のイズマイールに停泊したので、本流のスリナ川の河口にある灯台を背景とした零の里程標識を写せなかったと残念がっているのが面白い。
   「鉄の門」、ドナウの河口、黒海などに臨んでの中村光夫の文明論のような記述に興味を感じた。

   イスタンブールについては、吉川逸治に、カハリエ・ジャミィを訪れよ言われて行ったこのモスクのことばかりを、感動して訪問記を綴っている。
   イスタンブールの北郊にあるコーラ修道院Christos tes Chorasとして知られている博物寺院で、内部を飾るパレオロゴス朝(1261‐1453)美術の代表作であるモザイクが素晴らしいと言う。
   最初は、キリスト教会であったのが、モスクに改造されたのだが、正に、ハギア・ソフィア大聖堂と同じで、これより、規模は小さいと言うのだが、このモザイクの価値が高い。
   私は、ハギア・ソフィアには、二度行っており、上階にも上って、浮き出たキリスト像をじっくりと見せてもらったのだが、塗りつぶされていたお陰で、良好に保存されたと言うことであろう。
   アジアでのイスラムの偶像破壊の痕跡は凄まじいが、トルコのイスラムは、比較的、宗教には寛容だったのであろう、イスラム化しても、キリスト教会が、改造されて維持されているケースが多い。
   コルドバのメスキータなどは、逆なケースで、モスクの中に教会があって、感動的な雰囲気を味わえるし、その融合が、非常に興味深い。
   グラナダのアルハンブラにも隣接して教会があるが、イスラムとキリスト教の接点であったスペインには、こんなケースが多く、文化の融合の一形式として、非常に興味深いと思う。

   この本では、ドナウの源流を求めて、源流へのドイツ旅や黒い森などに、相当、紙数を割いているが、私には、殆ど興味がなかった。
   結構、楽しんで読ませてもらったが、時代の流れや変遷等々、時代を感じるなど、副産物があって面白かった。
   
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中村光夫著「ドナウ紀行」

2016年10月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、鎌倉文学館に行って、展示を見ていて、中村光夫のコーナーに、「ドナウ紀行」が展示されていたのだが、文学には縁のない私にも、これなら、読めると思って、早速、インターネットでアマゾンを叩いて、手に入れて読んだ。
   昭和53年、1978年発行であるから、もう、40年ほど前の本で、
   1977年2月に、雑誌「旅」の編集部の依頼で、ドナウ河を船で下って紀行文を書いた旅行記である。

   中村光夫は、東大仏文を出てパリ大でも短期ながら学んだ文芸評論家であったので、ヨーロッパはかなり歩いたようだが、この旅では、ドイツ語が分からなくて苦労したと言う。
   スポンサーが日本交通公社なので、同社の川田允が同行した二人旅である。

   このドナウ紀行は、スタートがドイツのバッサウで、途中、ウィーン、ブダペストを経由して、バルカン半島を河口へ下り、ソ連領イズマーイルで乗り換えて、黒海に出て、イスタンブールで下船して、そこから、飛行機と列車で引き返して、ドナウの源流、そして、黒い森を訪ねると言う旅である。
   私が歩いたのは、イスタンブール、黒い森、ウィーンとブダペストだけで、一度だけ、ウィーンでの所用の後、ブダペストへ出張しなければならなくなって、いつものように、飛行機ではなくて、ドナウ河を高速船で下ってブダペストまで行ったことがある。
   中村光夫の場合には、ソ連の2千トン級の遊覧船であったと言うから展望も良く利いた船旅であったのであろうが、私の場合には、殆ど窓がなく高速で突っ走るシャトル便であったので、ドナウ河の船旅の楽しみは味わえなかった。

   この紀行で、興味深いのは、ドナウ河の遊覧船を仕切っていたのは、ソ連で、旅客の大半はドイツ人で、外貨稼ぎ目的のために、すべて、ドイツ仕様で運営されていたと言う。
   当時は、まだ、ベルリンの壁の崩壊前で、バッサウからウィーンまでは、自由圏であっても、チェコスロバキアのブラチスラバから下流の航路の大半は、東欧共産圏で、ソ連の支配地域であったのである。

   ヨーロッパに住んで居たので、ウィーンは、出張と観光で、ブダペストは、出張で、夫々、5~6回訪れており、特に、ブダペストは、ベルリンの壁崩壊前、途中、崩壊後と訪れて、その激動をつぶさに観察する機会を得た。
   仕事の関係で、あの華麗な国会議事堂に入って、議場で、ネーメト首相に会って話したのも懐かしい思い出である。

   さて、この本の紀行記だが、ウィーンとブダペストについて、感想を書いてみたい。
   ドナウを遊覧する船が寄港して、ポイントの都市を観光するので、2日滞船しても、実質観光に費やせる時間は、正味、1日あるかないかなので、今日の感覚では、殆ど、観光記事として読むと不十分である。

   ウィーンだと、都心からかなり離れた北の郊外に着船する。半日バスツアーで、シェーンブラン宮殿を訪れて、ベルベデーレ宮殿に行ったが休館だったと言うことで、その後、船を離れて、宿泊先のインターコンチネンタルホテルへ行った。と言う。
   不思議なのは、パリで一時住み、ヨーロッパを歩いている筈の中村光夫と交通公社の社員の川田允の旅行記を意図した旅でありながら、事前に調査もせずに地図も持たずにウィーンの街に出て、大きな教会に入ったのだが、後で調べたら、聖シュテファン寺院だったと言うのだから、驚く。
   自分たち独自で行ったのは、映画「第三の男」のプラッターの観覧車だが、動いていなかったので諦めて帰って、探し当てたのは、ホテルで教えて貰った菓子店だけだったと言う。
   私は、その少し前、1973年末から1974年初のクリスマス休暇に、留学中のフィラデルフィアから、家内と長女を伴ってこのウィーンも訪れて、2~3日ワーグナーが定宿にしていたと言うエリザベート・カイザリン・ホテルに滞在して、ウィーンの街を歩いて、宮殿は勿論、博物館・美術館を訪れて、ウィーン国立歌劇場で、恒例の大晦日の「こうもり」も鑑賞したし、観覧車にも乗った。
   まだ、ミシュランのグリーン本を知らなかったので、交通公社のガイドブック「ヨーロッパ」を参考にした。

   ブダペストは、都市の真ん中をドナウ河が流れていて、街の中心に着く。
   右岸は、王宮のある高台のブダで、左岸に国会議事堂など政府機関やビジネス街が広がっているペストの街並みで、この方が生きたブダペストである。
   しかし、私の時も、港は極めて貧弱で、国際河川ドナウの国境港と言うよりには、普通の船着場である。

   中村光夫の旅は、今日出海の紹介で港に迎えに出た日本大使が、翌日昼の乗船まで、フルアテンドした旅であった。
   大使館で、久しぶりの日本食と日本酒に感激して、ハンガリー特産のウートカに酔いしれてダウン、ハンガリアン・ダンスを見に行ったが、全く記憶がない。
   大使館に宿泊して、翌朝早く、大使に高台に案内されてドナウを眼下に見下ろし、その後、王宮の丘にある展望所・漁夫の砦で時間を過ごして、ブダ地区を車で走り、ローマ時代の円形競技場に行った。
   王宮には入らなかったようで、とにかく、2時間でブダペストを観光しようと言うのは、無茶な話で、車の渋滞で、正午発の乗船に間に合うか、やきもきしたと言う。
   とにかく、ブダとペストを跨ぐ都心の橋は、天然記念物の様な歴史的なチェーンブリッジ一本だが、この橋を渡れないと、目の前の乗船場に行けない。
   確かに、私もタクシーを諦めて、この橋を徒歩で渡った。

   やはり、ハプスブルグ王朝時代、二重帝国の首都として栄えた街であった所為もあって、私の訪れたのは、戦争と共産革命でソ連に蹂躙されて廃墟に近かったブダペストだったが、風格のある素晴らしい都市であったのを思い出す。
   ベルリンの壁が崩壊して、大分経ってから、プラハを再び訪れた時には、素晴らしい街に復興していて驚いたが、もう一度、ブダペストを訪れてみたいと思っている。

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EUの民主主義の赤字と国民投票

2016年10月18日 | 政治・経済・社会
   ステイグリッツの本を読んでいて、面白いと思った指摘の一つは、「民主主義の赤字」である。
   この意味を、ウィキペディアで、適格に説明されているので、参考のために、引用させてもらう。
   ”民主主義の赤字(英:democratic deficit)とは、欧州統合が進む中で、欧州連合(EU)の決定機関に対する批判概念として生まれた言葉である。加盟国は立法権の一部を欧州議会に委譲しているが、欧州議会の立法権限は限定的で、欧州連合(EU)の政策は、加盟国代表が1名ずつ集まる欧州委員会を中心に決められたため、加盟国の国民の意思から離れているのではないかという意味で使われた。議会での民主的な統制を欠いていたため、民主主義の赤字と言われた。グローバル化による傾向も表す用語となっている。”

   国民の選挙によって選ばれた人々ではない議員によって決議されたEUの法令や規則は、民意を正しく反映しておらず、国民を苦しめており耐えられないと言う英国人の思いが、今回のブレグジット(Brexit)の最大のドライブ要因の一つであって、正に、民主主義の赤字そのものである。

   欧州プロジェクトは、開始時点から、「民主主義の赤字」に悩まされてきた。とスティグリッツは言う。
   欧州プロジェクトの様々な細目が、加盟各国で国民投票にかけられると、時として反EU感情が優勢となる。
   ユーロ導入では、デンマークとスェーデン、欧州憲法承認では、フランスとオランダ、EU加盟ではノルウェーの拒否の例があり、親EU勢力が勝った場合でも、反対投票は、多数にのぼる。
   原因の一つは、前述したように、EUの法令や規則は、直接選挙で選ばれていない欧州委員会によって発布され、委員長でさえ、選挙の洗礼を受けていないことで、多様な地域全般に奉仕しようとするルールや規則は、必然的に複雑とならざるを得なくなり、民意と乖離する。

   ロンドンに居た時、友人のフィリップ・ダウソン卿は、キエフからダブリンまで、ヨーロッパは一つだと言っていたが、知人の英国下院議員は、こんなに歴史も伝統も違うヨーロッパが一つである筈がない。と言っていたのを思い出す。
   私は、後者の意見で、まず第一に、言葉が違うし、各民族や国民のバックボーンとなっている歴史伝統、文化文明の違いを考えれば、ヨーロッパは一つと言える筈がなく、政治統合を後回しにした経済統合が、成功する見込みは、特に、危機的な状態になれば、特になく、暗礁に乗り上げるのは当然である。

    言葉については、モーツアルトは、馬車でヨーロッパ中を移動し、ロンドンにまで行っているのだが、当時は、言葉の違いは、馬車で移動する程度に理解できるくらいの変化で、言葉には不自由しなかったと言う。
   しかし、オランダのトップ建設会社のCEOが、車を走らせれば、1時間もかからずに国境を越えられるオランダでも、8つの支店を出さないと仕事にならず、場合によっては、言葉さえ違って通じないのだと、信じられない様な事を、私に語った。
   それに、私が住んで居た頃、オランダとベルギーの国境には、入り組み地があって、オランダ領の中にベルギー領があり、そのまた中にオランダ領があり、一棟のアパートの途中に国境が走っていて、左右、ガス水道電気の供給が、夫々の国からだと聞いたことがあるが、人種、民族、宗教などを異にする人々が混在するヨーロッパの複雑性は、日本人の知り得るところではない。

   余談だが、この建設会社は、何回も下請けに使っていたのだが、新しい工事になると、一から切った張ったの交渉で苦労したが、一度契約すると一切条件を付けずに完遂してくれた。
   ところが、英国の建設会社になると、契約時点では、100年前からの付き合いのように愛そうよく商談が進むのだが、一旦契約すると、契約の不備などを突いて、クレイム・クレイムの連続で、正に、英米法の世界で、アミーゴ関係などで話がつくラテンヨーロッパの方が、楽なくらいであった。
   これだから、言うのではないが、長くイギリス人と付き合っていて、イギリス人が、大陸ヨーロッパに、それ程、帰属意識がなく、自分たちが、ヨーロッパ人だと思っていないことは、良く知っているので、経済的な不利を承知の上(?)で、ブレグジット(Brexit)を可決した気持ちが、分からないわけではない。

   さて、このようなEUの民主主義の赤字と同列に議論できるのかどうかは、分からないが、国連、特に、安全保障理事会の欠陥などは、民主主義の破綻の最たるものであろう。
   国連以外にも、世銀やIMF等々国際機関によって振り回されているケースも結構あって、民意から離れたところで、グローバル世界が動いている。

   ところで、それでは、民主主義の象徴とも言うべき国民投票が、本当に民意を正しく反映した結果を生み出せるのかどうか。
   むしろ、ポピュリズムに煽られて、予想もしない不幸な結果を招くことが多いのではなかろうか。
   おそらく、今回の英国のブレグジット(Brexit)も、国会議員の決議では、拒否されていた筈である。
   ロビー活動が激しすぎて国会議員を翻弄していると言われるアメリカの国政も問題だが、まだ、例えば、税金の扱いなど、良識ある代議員による決議の方が、良い結果が出ると言われていて、間接的民主主義の価値が認められている。

   完全な直接選挙ではないが、国民の半数以上が不適格と言う候補者同士の、今回のアメリカ大統領選挙のお粗末さを、どう考えるのか。
   あのアテネの直接民主主義も、暗礁に乗り上げたが、
   チャーチルは、It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.。「過去に試みられたそれ以外の政治体系を除けば、民主主義は最悪の政治体制であると言われている」と言っている。
   民主主義以外には、適切な体制はないと言うことであるから、先日論じたミクルスウェイトの説く様に、この民主主義を修復することが大切だと言うことであろう。
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経済や経営の本は翻訳本ばかり読むと言われるのだが

2016年10月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   このブログのブックレビューでもそうだが、私の場合、経済や経営の本では、翻訳本が多いと言われる。
   要するに、この方面の専門書は、主に、英米の著者の本が、大半を占めていると言うことである。
   アメリカのビジネス・スクールで勉強していた頃やヨーロッパで仕事をしていた時には、原書を抵抗なく読んでいたので、何も、翻訳本を選ぶ必要もないのだが、そんな習慣から離れて随分経つと、レイジーになって、訳書で済ますことが多くなってしまったのである。
   尤も、訳書だと、結構、誤りとは言えなくても、意味不明であったり、辻褄が合わないことがあったりなどするので、そんな時、大切な本の場合には、原書を当たることにはしている。

   何故、日本の学者や経営者が著した専門書を読まないかと言うことだが、特に理由があるわけでもないのだが、やはり、外国人の著者の発想なり論点が、大きく違っていて、啓発されたり教えられることが、はるかに多いと考えているからだと思う。
   昔、若かりし頃は、日本経済が上り調子で、Japan as No.1の時代であったから、日本経済を理解するためには、日本の学者の本を読む必要があって、文句なく、坂本二郎、下村治や篠原三代平などの本にお世話になった。
   勿論、日本の経済や特定の日本企業の経営について読む時には、日本人の著者の本だが、しかし、ソニーやトヨタなどになると、外人著作の本の方が多い。
   いずれにしろ、それ以降すぐに、欧米に出てしまった所為もあって、洋書が主体となった。

   それに、ウォートン・スクールで学び始めて、アメリカの経済学や経営学の学問に触れると、如何に、日本の学問水準が低いか、早い話が、大学ないし大学院の授業内容などは、雲泥の差で、この分野での、日本の遅れを痛いほど感じたのである。
   これは、1970年初頭のことだが、その後、1980年代から90年代にかけて欧米に居て、日本経済が破竹の勢いで躍進していたにも拘わらず、それをフォローする立派な専門書が、日本では中々現れずに、むしろ、外国の学者の研究の方が進むと言う逆転現象が起こり、学問水準の落差は埋まる気配がなかったように思う。

   時代の潮流の流れが激しくて、経済学も経営学も、どんどん、主義主張なり、その根底となる哲学や思想、科学的手法などが、変わって行って、正に、中国の春秋戦国時代の諸子百家乱立の様相を呈して、混沌とした状態となった。
   特に、経営学など、エクセレント・カンパニーの台頭と凋落に象徴されるように、いくら、新しくて立派な学説が生まれ出ても、数年で陳腐化すると言う生き馬の目を抜くような変化で、時代の潮流の激しさに飲まれてしまう状態となっている。
   こうなれば、欧米の学者に、日本の学者は、オリジナリティと言う意味でも、ついて行けない。

   勿論、私も、幅広く勉強できるわけでもないので、フォローする分野も限られているのだが、経営学については、現役時代から遠ざかってくると、興味を持って読んでいた経営戦略論やイノベーション論など実業に近い分野から離れて行き、経済学の分野でも同じことが言えるのだが、文化や歴史、思想哲学と言った性格を帯びたゼネラルな方面に、関心が移り出してきたような気がしている。

   余談だが、先日、知人に、本を送ろうとして、パッキングを始めたのだが、その人は、普通の読書家なので、経済や経営に興味がなく、一般的な本をと思ったものの、半分以上が、経済や経営の専門書に近い本ばかりなので、愕然としてしまった。
   学問の進化を学び知的満足を味わえること、それが、私自身の読書目的でもあるのだが、しかし、要するに、面白くも可笑しくもない本ばかり読んでいて、何が楽しいのか、と言うことでもある。

   尤も、シェイクスピア、能・狂言、歌舞伎・文楽、歴史、美術などと言った分野においては、収集癖も加わって、かなりの蔵書があるのだが、これは、もうしばらく手元に置いておこうと思っての話ではあるが。
   いずれにしろ、外出すれば、書店を巡るのが楽しみであり、書斎にいる時には、大半の時間を、読書三昧に明け暮れていて、何冊も同時に並行読みして、気がついたら、あっちこっちから、毛色の変わった本を引っ張り出して、積み上げているのであるから、世話がないのかも知れないと思っている。
   
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ジョン・ミクルスウェイト & エイドリアン・ウールドリッジ著「 増税よりも先に「国と政府」をスリムにすれば?」

2016年10月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   英「エコノミスト」編集長の直言と銘打ったこの本(原著は、The Fourth Revolution: The Global Race to Reinvent the State )は、欧米では、かなり、評価が高い良書であるにも拘らず、日本では、昨年初発行の本なのだが、殆ど売れていないのであろう。
   横浜のブックオフで、新古書を、200円(定価1700円)で買って読んだのだが、アマゾンの新古書でも、195円らしく、日本にとっては時宜を得た本でありながら、日本の読者は、何を読んでいるのか、不思議である。
   尤も、私も面白半分にブックオフの廉価コーナーを回っていて見つけた本なので、偉そうなことは言えないのだが。
   翻訳本のタイトルも、安直過ぎており、原題通りに、「第4の革命 国家再生へのグローバル競争」とした方が、はるかに、良い。

   この本の論点は、
   世界の歴史を見ると、人間は、時代の変遷とともに、国の形を作り変えてきたとして、そのエポックメイキングな曲折を、ホッブスの「国民国家」、J・S・ミルの「自由国家」、ウェッブの「福祉国家」を軸として、その推移を詳述して、
   政治経済社会は勿論、民主主義さえも暗礁に乗り上げてしまった今日、国が肥大化して大きくなりすぎてしまっており、現代の福祉国家は自重に耐えられず瓦解してしまうのは必定であるので、スリム化して、第四の革命を起こさない限り、人類の未来はない。と言う、所謂、小さな政府への方向転換論だが、しかし、ICT革命をフル活用するなど民主主義改革を伴った革新的な再生を志向すべきだと、意欲的な警告と提言の書となっている。

   この本の前半は、第一革命のホッブスの「王による支配が終わり、国民が議会を通じて国を治める「国民国家」の誕生」、第二革命のミルの「実力次第で成功できる新しい制度や、効率的な小さな政府を志向した「自由主義国家」」、第三革命のウェッブの資本主義の矛盾が剝き出しになって、万人の幸福を国家が担う枠組みが生まれた「福祉国家」、それに、半革命に終わったミルトン・フリードマンの行き過ぎた福祉国家の反動で、政府のスリム化の機運が高まった時代など、今日のオバマ政権まで、思想哲学をバックボーンにした政治経済社会の歴史を克明に説いていて、政治経済史のテキストを読んでいるようで、非常に興味深い。
   更に、現在の政治経済動向についても、カリフォルニア、中国などのアジア、北欧などについても詳細に論じており、流石にジャーナリストであるから、現代の最先端の経営や企業情報についても論及するなど、豊かな情報と知見を駆使して持論を展開しており、大変教えられることが多い。

   本題に戻るが、
   第四革命への第一歩として、行政改革について、1:不必要な国有資産の売却 2:富裕層や特定の利益団体への補助金の廃止 3:給付金制度の改革・スリム化――本当に必要な層へ回り、長期的に維持できる制度 を実現することを提唱している。
   テクノロジーの発展が齎した情報革命と競争を上手く活用して、民主主義を、再考して、本来の適切な機能を取り戻すように修正・修復して、第四革命を実現しなければならない。と説く。

   この本のタイトル「The Fourth Revolution」については、色々なベスト・プラクティスなり例を示してはいるが、やや具体性に欠け、明確に示し得ていないきらいはあるが、
   ターゲットだけは明確であって、先の3つの時代を画した思想的な大革命の様な突出した思想なり哲学が見えて来ない以上、第四革命への問題提起だけでも貴重だと言うことであろうか。
   サブタイトルの「The Global Race to Reinvent the State」は、この第四革命を成功させた国家こそが次代のリーダーになり、歴史を動かす主役となる言う含意である。

   小さな政府か、大きな政府か、と言う象徴的な議論は、政治経済学の永遠のテーマであるような感じで、歴史上、波を打って展開されているような気がする。
   私が、子供の頃に社会科で、イギリスは、揺り籠から墓場まで生活が保障された福祉国家であると言うことを習ったのを覚えているのだが、その行き過ぎと経済の悪化によって、1980年代初頭にイギリスを訪れた時には、経済が窮地に陥ってスト続きで、ごみがロンドンの街を風に吹き飛ばされて舞っていたり、ヒースロー空港では、必ず盗難に遭うと言う悲惨な情景に接して、今昔の感を感じた。が、正に、偉大な英国も、時代の波に翻弄されたながら、市場原理主義のサッチャー時代に突入したと言うことであろう。

   今日の世界、特に、日米欧の先進国は、経済成長に見放された感じで、財政難が深刻となっており、これ以上、福祉国家政策を継続できるのかどうか、岐路に立っていることは事実で、著者が説くような第四の革命の実現は、必須であると考えても間違いないと言えよう。

   しかし、政治や行政は、極めて保守的で、いくら、窮地に立っても、おいそれとは改革不可能である。
   日米欧の有権者は、低い税金と大きな政府の両方を求め、政治家は、バランスシートを操作して実態を隠したり、次世代に負担を押し付けたりして、ポピュリズムに迎合して民意に応えようとする。有権者は、税金の引き下げや役所の撤廃が進むと聞けば、小さな政府を支持し、公共サービスが縮小し、食品の安全性が落ちると聞けば、一転して小さな政府を批判する。確固たる信念を持った政治家がいないのは、民衆がそういった政治家を求めていないからだ。と著者は言う。

   さて、現在の政治経済社会の最も深刻な病巣の一つは、経済格差の拡大。
   この格差拡大を阻止して、セイフティネットを拡充して、政治経済社会を健全化するためには、たとえば、富裕層から貧困層への所得の移転のためのドラスチックな税制刷新などによる所得分配政策の実施などが必要なのであろうが、どうしても、まずは、財政の出動となり、大きな政府へと軸足を移さねばならない。
   それに、先進国の大半は、経済の悪化と不況に苦しんでおり、深刻な財政問題を抱えながら、需要の拡大を必要としている。
   シュンペーター待望なのだが、イノベーションが枯渇したとまで説く経済学者が出てきた今日、フリードマンより、ケインズの登場を求める声の方が高い。

   著者たちが説く様に、ドラスチックかつ革新的な第四の革命を実現しない限り、現代社会は、先へは進めない状態にまで至っている。
   しかし、著者たちが提示した3つの行政改革は、その為にも必須だが、実現するためには、あまりにもハードルが高い。
   さて、どうするのか。
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わが庭・・・椿タマグリッターズ咲く

2016年10月15日 | わが庭の歳時記
   今秋はじめての椿が咲いた。
   玉之浦のアメリカからの里帰り椿のタマグリッターズである。
   昨年より、1ヵ月早く咲いたのだが、いよいよ、椿のシーズン到来である。
   この椿は、千葉の庭から持ってきて移植したもので、新しい庭にも馴染んで、しっかりと存在感を示している。
   千葉の庭の玉之浦は随分大きくなって、毎年沢山の花を咲かせて、樹勢旺盛だったが、この椿は、まだ、1メートル50センチくらいの背丈なので、これからである。
   小さな昆虫がやって来て、花粉の採集を始めだした。
   
   
   
   

   昨年、兄弟のタマカメリーナを植えて、今年、タマアメリカーナの苗木を買って、鉢植えにしているのだが、今春、珍しくも、タマカメリーナが実を付けたので、実生にして育てようと思っている。
   挿し木や接ぎ木ではないので、雑種であろうが、どんな花が咲くのか楽しみだが、随分、時間がかかるのが、実生の難である。

   安達瞳子さんによると、日本人は、原種に近い一重咲きの筒状や椀状の簡素な椿を好み、三分や五分咲きを愛すると言うのだが、私の場合には、ばらからガーデニングに入り、ヨーロッパで花を好きになり始めた所為か、欧米人のように、八重咲き・千重咲き・獅子咲きなど派手な椿の方に興味が移って行きつつある。 

   日本原産の椿の花を、イギリスの庭園などでも随分見て驚いた。
   良く通ったキューガーデンにも咲いていたし、色々な椿を見てきたが、日本の椿が、最初にヨーロッパへ渡ったのは、16世紀に、ポルトガル人宣教師が持ち帰ったもので、欧米の洋椿は、それ以降、日本の椿が親になって作出されたのだと言う。
   「椿姫」のモデルとなったマリー・デュプレシは、余程、椿が好きであったのであろう、没後、発見された花屋の請求書は、一寸した家なら一年暮らせる数字だったと言うから、当時のパリでは、椿は、極めて貴重な花であったのであろう。

   しかし、この椿は、花にもよるが、蕾が開くと、すぐに、花弁が落ちてしまう。
   首が落ちるのを連想して、武士たちが、嫌ったと言うのだが、十三夜の月を愛でる中国の美意識の影響もあろう、茶花でも、蕾の椿を活ける。
   本当は、しっかり開花して生きる喜びを謳歌した椿花が一番美しいので、私は、そのつかの間の椿の輝きを愛でたくて、庭で育てて、切り花にして活けている。
   ガ―ディナーの楽しみである。

   私が住んで居たロンドンのキューガーデンの自宅には、大きな赤い椿の木が植わっていて、毎春、豪華に花をつけた。
   一枝でも持ち帰って、挿し木にすれば良かったのだが、当時は、その余裕がなく、帰国してから、印象のよく似た薩摩紅を買って、庭植えにした。
   その椿は、千葉に残したので、鎌倉に来てから薩摩紅の鉢苗を買って、庭植えにして、思い出を反芻している。
   とにかく、ばらもそうだが、椿が咲き始めると嬉しくなる。

   さて、わが庭で、今咲いているのは、ホトトギス。
   蕊が非常に特異な形をしていて、肉眼では気付かなかったのだが、マクロレンズで接写すると、蕊にびっしりと小さな水玉の様な球粒が付着している。
   神の造形の妙と言うことであろうか。
   
   
   
   

   木の実は、沢山のキウイとネズミモチくらいしかないのだが、メジロが飛んできて、梅の木を渡って、すぐに飛んで行く。
   つがいで飛んでくるのが、良い。
   
   
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鎌倉便り・・・鎌倉文学館のばら

2016年10月14日 | 鎌倉・湘南日記
   秋ばらのシーズンなので、久しぶりに、鎌倉文学館を訪れた。
   結構、綺麗に咲いてはいるのだが、いくら四季咲きと言っても、厳しい冬を越して、一杯エネルギーを溜めて、一気に咲き乱れる春のばらのような勢いと華やかさはない。
   
   一輪だけ、一番美しく咲いていたのは、淡いピンクのヨハンシュトラウス。
   しかし、作出がフランスだと言うのが面白い。
   もう一つ、レオニダスと言うすっくと伸びたばらの蕾が気に入った。
   
   

   鎌倉に縁のある花は、黄色いHTの鎌倉と、小花がブーケ状に咲いているかまくら小町。
   鎌倉に移り住むまで、かまくらと銘打ったばらがあるとは知らなかったのだが、やはり、思い入れのある作出家がいたのであろう。
   
   

   何の気なしにシャッターを切ったばらのショットを並べて置く。
   季節外れに、大きなツツジの大木に、一輪だけ、ツツジが咲いていた。
   
   
   
   
   

   鎌倉文学館は、鎌倉ゆかりの文学者たちの作品に纏わる興味深いものが、丁寧に展示されているのだが、文学音痴の私には、他の博物館や美術館と比べると、少し、敷居が高い。
   特別展として、「ビブリア古書堂の事件手帖」をやっていたが、今回はパスした。
   休憩所の部屋から、外に出て、デッキから庭を望んで小休止できるのだが、この日は、外壁に足場がかかっていて、出入りが禁止されていた。
   ここでもそうだが、広い前庭の芝庭のはずれにあるベンチに座って、涼風を受けながら、物思いに耽ったり、しばらく読書を楽しむのも、良いかも知れない。
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