熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(14) 産業の巨人、農業のスパーパワー その1

2011年08月31日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   ブラジルはBRIC'sの一国ながら、中国やインドと比べて、人口は一桁少ないのだが、既に、GDPは、世界第8位で、カナダ、イタリア、フランスを抜き去るのは秒読みであると言う。2050年には、中国、アメリカ、インドに次ぐ世界第4位の経済大国になると予測されている。
   ブラジルの貧困と所得格差は極めて深刻な問題なのだが、一人当たりのGDPや制度の強化などの面では、アジアのライバルよりも、はるかに高いレベルで開発を進めて近代化を図っていると言う。
   一人あたりのGDPは、2008年に、1万ドルを突破しており、中国やインドよりもはるかに高い。

   ブラジルは、農産物や鉄鋼などの鉱産物の大産地ではあるのだが、輸出の過半は、航空機、自動車などの工業製品であり、非常にバランスのとれた工業国でもあると言うことである。
   こうなったのは、須らく、ハイパーインフレを抑えてブラジルの経済社会の方向を変えたカルドーゾ大統領とその路線を継承したルーラ大統領治世のこの16年間にある。
   ブラジルには、大航海時代を開いて世界に雄飛したポルトガル魂が息づいており、天然資源に恵まれるなど経済的ダイナモを秘めた無限の可能性があったのだが、政治的意思、経済的インテリジェンス、政策の持続継続性が著しく欠けていたために、あたら、貴重なチャンスを棒に振って来たのだが、インフレを抑制し、経済を広く世界に開放することによって、一気に、ブラジル人の発展のための火ぶたを切った。
   ラ米の常として、ブラジルのインフレも、苛烈を極め、1970年代初期に、コレソン・モネタリア(インデクセーション)を実施して、一時小康状態となり、「ブラジルの軌跡」を現出したのだが、所詮は、インフレをビルトインした経済であるから、デノミや通貨変更を何度繰り返しても終息せず、1980年末には、年率2700%を越え、経済社会を暗礁に乗り上げてしまったのである。その数千%のインフレを、「レアル・プラン」で一挙に一桁台にまでダウンさせてしまったのだから、カルドーゾの功績が、如何に、偉大であったかが分かる。

   ドルにリンクした新通貨レアルの導入にあたっては、徹底的な財政規律の確立と収支のバランス維持に努め、実施後は、高金利を実施するなど、経済全般には多くの後遺症を残してはいるが、インフレが終息したので、これまで市場からはみ出ていた沢山の労働階級や下位の中産階級たちが、市場に参入して、耐久消費財などを買い始めて、経済が拡大に向かい始めた。
   その後のルーラ政権で、最貧層に無償で支給するボルサ・ファミリアが実施されたことになり、更に、貧民層を市場に取り込むなど、ブラジル経済の拡大に拍車をか駆けることになったのだが、何故か、著者ルーターは、このBolsa familiaについて言及していないのが不思議である。

   ブラジルの貧困と社会格差の酷さは、世界でも群を抜いた悲惨さで、これが、ブラジルの治安の悪化を招いているのだが、このレアル・プランとボルサ・ファミリアの導入で、下位の労働者階級や貧民層の経済状態を向上させ、市場に巻き込んでブラジル経済を拡大させたお蔭で、先年の世界的な金融恐慌からのダメッジは軽微に済んだ。
   尤も、ブラジルは、輸出が大きな比重を占めていて内需拡大を目指している中国などと違って、国民の消費がGDPの60%を占める国内市場経済優位の経済構造であり、これが、ブラジルの将来の経済発展に大きな意味を持つであろう。
 
   ところで、アメリカでは、ブラジルは、コーヒー・イメージの国のようだが、ラ米全体の5分の3の工業製品を生産する工業国なのである。
   サンパウロからリオ、ベロホリゾンテの三角地帯が、この工業の中心で、自動車、鉄鋼、セメント、電気機器および部品、紙、化学・肥料等々、これらの製品の多くが輸出されていると言う。
   この工業の隆盛が、豊かな鉱物資源の開発を誘発し、石炭を除いて、殆どの鉱業品の生産の拡大を助長している。

   しかし、ブラジルの経済大国の将来を更に明るくしているのは、農業のポテンシャルと生産力であろう。
   中国やインドには、殆ど拡大の余地はないが、ブラジルには、農業生産を拡大するための無限の緑野や未開の土地と、そして、豊かな水資源がある。
   ローターは、アメリカは農業で得た富を工業基地の建設に活用して来たが、ブラジルは、農業および工業ともに経済発展の原動力になるであろうと言う。
   この章の原題が、INDUSTRIAL GIANT, AGRICULTUAL SUPERPOWER と言うことなのだが、この言葉を冠し得る国は、今のところ、ブラジルだけであろう。

   ブラジルは、ポルトガル植民地以来、殆ど単独の農産物に依存するモノカルチュア経済で、砂糖、ココア、コーヒー、ゴムと言った調子で、サイクルを打ちながら経済を維持して来たのだが、1970年以降、農産物生産を多角化して、今日では、これらの他に、大豆、オレンジ、綿花、たばこ、コーン、牛肉、豚肉、鶏肉等々多くの産品を生産して、その多くを輸出している。
   この多角的農業政策が功を奏して、農産物価格の乱高下に対して抵抗力がついたと同時に、世界市場でのバーゲニング・パワーが格段に強くなった。
   砂糖のために育成していたトウモロコシを、エタノール生産のために転用するなど、如何にもブラジルらしいが、サバンナのカンポ・セラードやアマゾンの開発など、環境問題も含めて、農業のスパー・パワー・ブラジルにも、多くの宿題が、前途に山積している。
   ブラジルの産業政策についての問題点など、次回に論じることとする。
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大前研一著「民の見えざる手」

2011年08月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日本経済は、既に、成熟老年期に入ってしまって、これまでのやり方では、経済成長などあり得ないのに、官民はもとより、国民全体も、右肩上がりの経済成長期の世界に生きている。
   少子高齢化が加速し、労働人口が毎年40万人ずつ減少しており、国内市場の縮小と海外移転によって、経済規模も雇用も税収も減る一方にであるにも拘わらずである。
   しからば、座して死を待つのみかと言うとそれは違うと言って、大前研一氏は、デフレ不況時代の新・国富論と銘打って、ニッポンを活性化するヒントを開陳しているのがこの本「民の見えざる手」である。

   バーナンキを信じてはならない、オバマ政権の「オバマノミクス」などは愚の骨頂で、「景気循環」など意味を持たなくなった今、経済学は、もう未来を語れないと勇ましい論陣を張るなど、大前節炸裂の面白い本だが、示唆に富んだ提案が多くて面白い。
   経済社会を無茶苦茶にした「官の見える手」から脱却して、「民の見えざる手」の活力を解き放つのが成長発展の要諦と言う訳だが、第4章の(規制撤廃が生む鉱脈)「真の埋蔵金=潜在需要はここにある」に、そのブレイクスルー策を語っていて迫力がある。

   無限のアイディアを生むためには、「戦略的自由度」を活用することで、まず、発想するためには「目的は何か?」と問うことによって、現実的に見て戦略を立案すべき方向の数を叩き出して、それを個々に分析追求して本質的な答えや解決策を見つけ出すのだと言う。
   しからば、この戦略的自由度と言う手法を国の政策作りに応用すればどうなるか。
   その目的は、「経済のパイを大きくして国民生活を豊かにすること」、すなわち、「すべてのグッドライフ(充足感や充実感のある人生)のため」だと言う。
   したがって、菅首相の「最少不幸社会」などは、このグッドライフからほど遠くて、世界のどこの国でも民主主義の政治目標は、「最大多数の最大幸福」であるから、お粗末限りないと言うことらしい。
   日本の場合には、戦後ずっと最低限度の生活を保障することが政治のアジェンダになっていたのだが、これではダメで、いまこそ、「国民のグッドライフ」をアジェンダにせよと説く。

   この目的を実現するためには、絶対避けるべき「境界条件」が三つあって、それは、増税しない、税金を財源にしない、外国頼みはしない、」と言うことだと言う。
   埋蔵金掘り出しの発想は、中国の都市開発だとして、日本にもまだ存在する「未開発の富を生む土地」が山の様にあるとして、埋蔵金の源泉を三つ提言している。
   その1は、大都市の「市街化調整区域」の拡大で、乱開発を避けるための表向きの規制を外して、大都市周辺の非常にポテンシャルの高い死蔵の土地を解放しろと言うのである。
   農水省や自治体など利権の官僚たちが、利権を握って離さないのだが、開発許可が都市計画に基づかずに、陳情で決まったり官僚のさじ加減で決まるなどと言うことは文明国では有り得ないのである。

   源泉その2は、湾岸100万都市構想で、昔は京浜工業地帯で日本を背負った屋台骨だったが、今では、殆ど空洞化だから、木更津から金沢八景までの東京湾ウォーターフロントに、住宅地、商業地、学校、公園などを一体的に整備して100万都市を誕生させると言う案である。

   源泉その3は、「容積率」を大幅緩和せよと言うのである。
   官僚が恣意的に運用している権限の最たるものが建築基準法で、容積率には、何の根拠もない。
   いくら規制があっても、大企業や大手マスコミなどが関与すると特区と称して1000%が一挙に1600%に引き上げると言う官僚の節操のなさを中之島のA新聞建て替え工事を例にして述べながら、ゴムの紐の様に伸び縮みするこんな規制を止めて、学術的、物理的に可能な限り高層化、高機能化、高密化出来るようにすべきだと言う。

   富を生む土地の開発には、官僚の抵抗を排し、なお乱開発にブレーキをかけながら進めるためには、政治の強力なリーダーシップが必須であろう。
   地方自治体が何をするにも国の認可が必要だと言うことで、これが癌になっているようであり、地方自治体の均衡ある発展のためには、その大きな障害となっている中央集権を止めて、開発の主体は地方に移すべきだと、道州制の提言者である大前氏は言う。
   今回の大震災の復興にも、特区の開設や地方への権限の大幅移譲が言われているが、進展があまりにも遅い。
   細川元首相が熊本知事の時に、国道のバス停を20メートル動かすために、何度も上京して建設省と交渉したと言う話を大前氏は紹介している。これまで、何度か、ブラジルの連邦政府役人の腐敗や堕落振りについて語って来たのだが、正直なところ、この方が、はるかに罪が軽いのではないかと後悔している。
   国家官僚機構が上手く機能して、Japan as No.1にした官僚の功績は大きいのだが、しかし、今や、時代遅れとなり、瀕死状態の日本の再生復興の足枷と成ってしまっているとするなら、実に悲しいことである。

   ところで、私は、大前氏のこの埋蔵金掘り起こし説には賛成だが、能率効率を考えての都市再開発での新ケインズ主義だと思うが、これ以上更なる東京集積や、今回の大震災で露呈されたウォーターフロントの開発については、もう少しじっくりと考えなければならなのではないかと思っている。
   昔、東京の建物は、平均2階建だと聞いた記憶がある。今では、5階や6階になっているのであろうが、ドバイや中国の高層ビルを考えれば、容積率は、もっと上げても良いと思っている。
   ただし、建築許可は、欧米の様に都市景観全体を考慮しての環境美観を考慮したものでなければならないと思っている。あまりにも、日本の建物には整合性がなくて、都市の美観を損ねていると思うからである。

   蛇足だが、当然、開発資金は、PFI、民間資金の活用であり、企業の厚い内部留保の活用と同時に、民間の眠っている金融資金を最大限に巻き込むことであるから、所謂、無意味なばらまきの公共投資ではない。
   ガルブレイスが、亡くなる少し前に、日本への提言として、この金融資金を少しでも動かせれば、日本が蘇ると言っていたのだが、国債よりも信用力が高い、そして、もっと高い安定した金利を保証できる投資対象として組成できれば理想であると思っているのだがどうであろうか。
   タンス預金よりは良いので、大半墓場に持って行かざるを得ないと言う眠っている老人の金が動く筈である。
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ショッピング:主戦場はリアルからネットへ

2011年08月28日 | 経営・ビジネス
   この「主戦場はリアルからネットへ」と言う主題は、大前研一氏の著書「民の見えざる手」の中見出しの一つである。
   この本は、モノが売れない現在社会であっても、消費者をその気にさせる試みが成功しているケースがいくらでもあり、このような経済を活性化させるためのの「埋蔵金」がこの国にはあり、これらを「民の見えざる手」と称して、「心理経済学」、すなわち、消費者を「その気」にさせる経済学を説いていて非常に面白い。
   第1章の「縮み志向ニッポンと心理経済学」では、ボーダレスとサイバー社会になって、ビジネスを取り巻く経済社会環境が大きく変ってしまったのだが、それに呼応できない日本の企業の姿を、経営者の質の低下や中国・韓国・台湾の企業の快進撃を語りながら、縮み志向の日本企業にメスを入れているのだが、
   面白いのは、第2章の「拡大する単身世帯需要を狙え」と言うところで、マーケット・リサーチなどの原点とも言うべき「夫婦+子供二人」などと言うのは昔の話で、今や、未婚化・晩婚化、熟年離婚、死別で単身世帯がマジョリティになってしまったのであるから、スーパーがダメになってコンビニに比重が移り、コンビニ三国志のカギは「生鮮」で、新業態として「小型食品スーパー」に注目すべしなど興味深い話題を展開している。

   「右脳型商品」も取り込むネット通販と言う書き出しで始まるネット・ショッピングが面白いので、今回は、この点について考えてみたい。
   これまで、どこで買っても同じもの、すなわち、航空券や家電、カメラなど「左脳型商品」が、リアル店舗を駆逐して、どんどんネットショッピングに食われて来たのは、常識だが、一物一価の高級ブランド品や現物を見ないとはっきりと分からないような「右脳型商品」でも、CGを駆使してリアル店舗に行ったような感覚で買えるので、消費者を取り込み始めていると言う。
   大前氏は、秋葉原に行って実勢価格を調べて、デジカメ一眼レフカメラを買おうとしたが、はるかに安かったのでアマゾンで買ったと述懐しており、広い敷地に大型店舗を構えて労働集約型の売り方をしている家電量販店は、リアル店舗がなく従業員も殆ど出荷要員だけでコストが各段に安いアマゾンに、逆立ちしても太刀打ちできないと述べている。

   私も、これまでに書いたように、大前氏と同じで、リアル店舗は、値段と実物を見るためのショールームに過ぎず、消耗品や付属品などは別だが、値が張る大型の商品は、殆ど、ネットショッピングで調達している。
   私の知人に、いまだに、クレジット・カードは恐くて信用できないと言って使わない天然記念物のような人が居るが、このような人には、ネットショッピングは無理であろうが、とにかく、値段が安くて、送料は殆ど無料だし、支払い条件も色々あって、とにかく、特別なものを除けば、即刻、翌日に自宅まで配送されて来ると言う便利さは、何ものにも代えがたいと思っている。

   アマゾンについては、以前に、無断で訂正されたり削除されたりしたので、ブックレビューは止めているが、書籍の購入については、あれば、手配出来ない本はないと言うほどロングテール戦略にも徹しているので、最近では、書店で買うよりも多くなって来ている。
   止むを得ず、絶版になった古書を買いたくてアマゾンを検索したら、必ず出て来るし、提供古書店からではなく、直接、アマゾン配送センターから直送されて来て、非常に便利になった。
   品薄の専門書などは、高い古書もあるが、1円からと言った極端に安いものもあるから、ブックオフよりも便利かもしれない。
   そのブックオフだが、先日書いたが、単行本500円セールを又やっていた。
   この形振り構わぬブックオフや、アマゾンはじめ雨後の筍のように増えたネット・ブックショップの台頭を考えれば、そして更に、急激な本の電子化や一般の本離れの進行を考えれば、既存の街の書店などは、どんどん潰れて行くのは時間の問題であろうと言う気がする。

   原書については、昔は、丸善で原価の2倍も3倍も支払って買っていたのだが、その後は、海外に出た時に買うことが多かった。
   しかし、アマゾンが店舗を構えてからは、アメリカとUKのアマゾンをチェックして安い方から調達していたのだが、ディスカウントで買ってもハンドリング・チャージや交換レートを考えれば、日本のアマゾンで買っても同じなので、最近では総て日本のアマゾンから買っている。
   実際には、アメリカでの新本価格は、相当ディスカウントがあり、アマゾンでもかなり安いのだが、日本のアマゾンは、原定価に交換レートをかけて円換算しているようである。
   アマゾンUSAの様にディスカウント価格で販売してくれれば有難いのだが、最近では、円高で、日本で出版される翻訳本よりも相当安いので、私は、本によっては、原書に切り替えている。

   ところで、このアマゾンだが、本だけではなく、楽天と同じように色々な商品のネットショッピングを行っているのだが、楽天のように提携店に出店させる店舗展開ではなく、アマゾン一社で、総てを販売していることである。
   この価格が高いか安いかは、価格コムなどで調べれば良いのだが、楽天や価格コムなどでは、沢山の店舗や価格が表示されて選ぶのに苦労するので、価格に大きな差がない場合には、アマゾンの方がシンプルで良いと大前氏は言っている。

   いずれにしろ、どこで買っても同じような商品で、自分自身で十分に扱いや使用に自信があって、トラブルの起こらないような商品は、どんどん、ネットショッピング、すなわち、リアルからサイバーへ向かって行くのは、理の当然の商業革命であって、街の小売店は勿論、百貨店もスーパーも、量販店さえ圧迫されて行く経済社会になってしまったと言うことである。
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重荷を背負ったBRIC’sの雄ブラジル

2011年08月26日 | 政治・経済・社会
   必要があってブラジルについて勉強しているのだが、インターネットで、The Economistの2007年のA survey of Brazilを見つけて読んでみたのだが、非常に面白い。
   このエコノミスト誌に、国別サーベイ特集が時々掲載されて、日本も昨年取り上げられたのだが、必ずしもその時のその国の現状を正しく伝えているとは思えない部分もあるが、非常に鋭い分析で、成熟した文明社会からの視点が、非常に参考になると思って読んでいる。

   中でも、ブラジルの記事で興味深かったのは、「Heavy going The biggest enemy of Brazil's promise is an overbearing state」と言う章で、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル」でも取り上げたが、ブラジルの役所、特に、政府のやり方対応が如何に酷いかと言うことを、これでもかこれでもかと言った調子で書いていることで、他のBRIC’sでも似たり寄ったりの腐敗・後進性が、元気溌剌のブラジルの発展の大きな足かせとなっていると言うのである。
   今、インドでも、汚職が大きな問題になっており、中国やロシアの酷さも同様であるが、大ブレイクするためには、この程度の苦難と挑戦は発展のエンジンであって、外国人からの献金が大きな政争に発展するような段階に達した国は、経済も成熟してしまって明日が暗いと言うことであろうかと思ったりしている。

   「政府が、お節介で、非効率で、賄賂が利くなどと言った経験をするのは、ブラジルでは、珍しいことでも、今に始まったことでもない」と言う書き出しで始まる。
   ゼツリオ・ヴァルガス研のマルコス・フェルナンデス氏説では、この起源は、ナポレオンに追われたポルトガル王室がブラジルに移って来た1808年で、更に、1937年、ムッソリーニの影響を受けて、当時のヴァルガス大統領が、その労働および産業シンジケート・システムを導入して、今日の労働関係法制の基礎を築いたことによると言う。
   1988年に新憲法が制定されて、政治的には、自由化されたのだが、経済的には、雁字搦めで、ブラジルの成長の遅さは、この政府主導型の逆境の勝利だと言うのである。

   ブラジルのフォーミュラは、企業を押しのけて、過度な支出や税金を避けるために地下に潜らせて、更に、気まぐれで、馬鹿げた規制に追い込んで悩ませることである。2006年の国税は、GDPの35%で、開発途上国では断トツの高さであり、グレー・マーケットの規模は、メキシコ、中国、インドよりはるかに大きいと言うのだが、一説によると、ブラジルのアングラ経済の比率は、GDPの40%だと言われているから、その経済の不明瞭さは、推して知るべしである。
   もぐりの企業が、過小投資で事業を行うので、正規の競争企業を弱体化させ、これが、生産性アップの最大の妨げになっているのだと、マッキンゼーは、考えている。

   インフラ投資は、少なくとGDPの3%は行うべきだが、たったの2%で、世銀の推計でも低過ぎて、民間セクターがギャップを埋めるのを妨げるのみならず、投資全体を、GDPの16.7%押し下げていると言うのである。
   ついでながら、興味深いのは、インフラ投資は、ブラジルでは、リーガルとレギュレーションの冒険adventureだと言う指摘である。
   投資家は、公共事業の管理当局など担当部局を全く信用していない。
   何故なら、大半の担当部局には、完全な自律的権限がないので、絶えず政府から干渉が入って定まらず、訴訟を起こしても、環境保護者や負けた入札業者たちの茶々が入ったりして何年もかかるし、大体、ブラジルの公共事業は、予定の2倍以上の時間が掛かるのが常識だと言う。
   日本の企業連合が、新幹線入札で熱心だが、ブラジルで儲けるのは至難の業だと言うことも頭のどこかに置いて置くべきであろう。

   ブラジルの金利の異常高は有名だが、これもすべて政府の過度な財政支出のなせる業で、税制、年金および労働法規を改正し、貿易を自由化し、更に、インフレターゲット操作など、中銀に十分な権限を付与するなど大改革をする以外に解決法はないと言う。
   世界一労働者の保護を優先した労働法規を持ち、そのペンションや給与の支払いまで憲法に規定されていて、国家予算の相当部分がひも付きで行き先が決まっていると言うことなので、財政再建と言っても大変であろう。(尤も、国債償還や社会福祉関連支出で国家予算の過半を占め、成長が殆ど望み薄の国があるのだが、どうするのであろうか。)

   この連邦政府の支出だが、大半は、ペンションと地方交付金と連邦政府役人への支払いだと言う。
   年金について興味深いのは、年金の3分の2は、最低賃金と同額で、その受益者の多くは、年金の掛け金を払ったことのない人だと言うので、正規雇用で年金を払うより非正規の方が良いと、非正規雇用を促進していると言うことだが、最大の支出は政府役人たちの年金支払いで、とにかく、財政困窮だと言いながらの大盤振る舞いが見え隠れする。
   地方への税の移転だが、豊かな州から取り上げた税金を貧しい後発の地方へ移転する。
   しかし、その移転の基準が、秩序や効率性などに基づかない曖昧なもので、貰った方も、インフラ投資など建設的な支出へではなくて、アドミ関連で地方役人への支出に回っている。
   
   役所の非効率極まりない怠慢と腐敗は、有名な話だが、その役人の給与水準は、民間の2倍だと言う。
   憲法で保障されているので、免職もなく、待遇は、効率ではなく、受けた訓練期間の長さで決まる。
   連邦政府の役人の20000人は、政治家からの口利きのようで、ゼツリオ・ヴァルガス研のネルソン・マルコーニ氏は、政府役人の30%の首を切っても、何ら、行政サービスの質は落ちないと保証している。
   しかし、そこは、労働者優遇で、役人をどんどん増やして行く労働党政権であるから、先はどうなるのか。
   財政崩壊は、税金のアップと投資の削減で辻褄を合わせると言うのだが、投資には床があり税金には天井がある。
   
   仕事のやり易さの世界ランキングでは、ブラジルは、152国中第115位で、会社を一つ作るのに、17手続を要し152日もかかると言うのだが、ブラジルでの行政関連のビジネス処理は正に難行苦行であるから、いきおい、賄賂やジェイトの出番となる。
   それに、人を雇うコストが非常に高く、サラリーに60%の税金を付加して、更に、労働関係の揉め事頻繁で、某大銀行など、割増を請求されるので、昼の休憩時間終了1分後にしか部屋の扉を開けないのだと言うのだが、それでも、銀行業だけでも16万件の訴訟を受けており、解決策は、出来るだけ人を雇わないようにすることだと銀行幹部自らが言うのだから凄まじい。
   
   セールス・タックスの付加価値税への一本化、年金制度改革、労働市場改革、中銀の権限強化等々、それに、GROWTH ACCELARATION PACKAGEを打ち上げて、経済成長を図って、格差解消や貧困撲滅を目指すブラジル・プランを推進しようとするジルマ・ルセフ大統領の舵取りも大変である。

  




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八月花形歌舞伎・・・怪談乳房榎

2011年08月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   8月の歌舞伎は、納涼気分の3部制で、かなり人気が高く比較的客入りの悪かったのが、夜の部である。
   橋之助と扇雀の舞う「宿の月」も、それなりに面白かったが、三遊亭円朝の「怪談乳房榎」は、勘太郎が、父勘三郎の持ち役を、四役早変わりで演じると言う意欲的な舞台で、性格の大きく違った役を器用に使い分けていて、それに、若さあふれる非常にテンポの速い展開で、流れるようにシームレスに小気味よく演じていて面白かった。
   それに、七之助と獅童と言う若手の花形が加わって、フレッシュな芝居を見せてくれるのだから、円朝の渋い怪談話も、何となく華やいだカラッとした芝居に変ってしまうのは、視覚芸術としての歌舞伎の特色でもあろうか。

   主人公は、絵師の菱川重信。如何にもありそうな名前なので調べたが、どうも実在した絵師ではなく、円朝の創作の様である。
   話は極めて単純で、
   重信に弟子入りした浪人磯貝浪江(獅童)が、妻のお関(七之助)に横恋慕して、重信が、高田の南蔵院本堂の天井画を描くために出かけて留守の時に、我がものにする。
   邪魔になった重信を、下男正助を脅し上げて手下にして、落合田島橋で殺害する。
   急を知らせに、正助が寺へ駆け込んだのだが、死んだ筈の重信が、端座して絵に向かっており、雌雄の龍の両眼に筆を入れて掻き終えた瞬間忽然と消える。
   お関と夫婦になった浪江は、邪魔になった重信の遺児・真与太郎を、お関に里子に出すと騙して納得させて、正助に命じて、四谷筈十二社の滝壺に捨てさせる。
   滝壺に落ちた真与太郎を抱きかかえた重信の亡霊が現れて、正助に真与太郎の養育と仇討を命じる。
   芝居はここまでで、舞台が変って、高座に端座した円朝が、その話の続きを語る。
   その後、正助は、板橋赤塚村の姪を頼って、松月院の門番となり,ひそかに真与太郎を養育する。貰い乳をするのだが、赤塚村の白山権現の乳房榎の霊験を聞いて訪ねる。
   結局、この乳房榎で成人して、仇討を果たすのだが、この榎が題名になっている。

   怪談らしきところは、死んだ筈の重信が、龍の天井画を完成させるのと滝壺に現れ亡霊として現れるところだが、私には、どこが良い話なのか良く分からなかったが、歌舞伎は、正に演出で、工夫を凝らした魅せる舞台にしている。
   勘太郎は、この重信と正助と円朝、それに、浪江の悪事を知っていて脅し上げるうわばみ三次を演じるのだが、流石に若くて元気はつらつで、重信から正助、正助から三次への早変わりは、目の覚めるような早業で、その鮮やかさには舌を巻く。
   噺家は、牡丹灯籠でも演じていて中々味があり、三次は地で行く感じで、特に、正助は上手いと思ったが、肝心の重信には、何か、優等生の役者演技の様で、もう少し、江戸の絵師としての貫録と同時に泥臭さとか俗人性が欲しいと思った。

   中途半端な感じがしたのは、お関と浪江の関係で、最初の縁は、冒頭のヤクザに絡まれて困っているお関を浪江が助けて、次に、重信の留守中に迫られて関係を結び、最後は、乳飲み子を正助に預けて里子に出すと言う3回接点があるのだが、二人の間には大きなシチュエーションの変化があったにも拘らず、二人の演技には、その心に変化や軌跡が見えなかったことである。
   特に、女としてのお関の変わりようは激しい筈で、円朝の噺では、その辺のどろりとした俗っぽさが滲み出るのであろうと思う。
   重信の恨みの深さは、恐らく、お関を寝取られたことが発端である筈で、その辺は、お関の浪江への傾斜を強調しないと出てこない筈で、それに、浪江の方も単調で上滑りなので、話を追っていると言うだけの感じであった。
   私は、獅童の独特な風貌と性格俳優ぶりには大いに期待をしているが、今回の芝居では、悪役としての悪の強さや悪辣ぶりが後退していて、淡泊すぎた感じで、正直なところ、物足りなかった。
   
   私は、円朝の噺を聞いていないので(当たり前だが)、何とも言えないが、この話は非常に有名な大作だと聞くので、もっと、メリハリの利いた人情話と言うか奥深い怪談であった筈で、ゾクゾクするような、ある意味では、人間心理の奥底を抉るような深さと厚みがあるのだろうと思う。
   私は、見せる歌舞伎としては、四役早変わりの目の覚めるような鮮やかな演技や、最後の滝壺での立ち回りなど色々な見せ場を上手く演出して素晴らしい舞台だとは思うが、円朝の噺を主題にしているのだから、もっと、噺の筋と言うか噺の精神にも力を入れた芝居であっても良いのではないかと思っている。

   若くて溌剌とした次代を背負って立つ歌舞伎役者の演じる舞台を「花形歌舞伎」と称しているようだが、確かに、花形役者の舞台であるが、もう少し、芸の深みと精神性が欲しいと思っている。
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台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(13) 創造性、文化、カニバリズム

2011年08月22日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   1500年にブラジルが植民地化された初期には、到着したヨーロッパ人たちの一部は、インディオ原住民に食べられたと言うことなのだが、ローターは、ブラジル文化には、そのカニバリズム・食人習慣が濃厚に反映されていると説いている。
   イパネマの娘やカーニバル、或いは、ブラジリアの広大な道路と聳え立つガラスとコンクリートの建物など、驚嘆すべきバイタリティとバラエティに富んだ力強いブラジル文化を見れば、ブラジル人にとっては、これら総てが、antropofagia(cultural canibalism)現象で説明がつくと言うのである。

   最初から、ブラジル文化は、ヨーロッパ人とアフリカ人と原住民の要素の混合であったのだが、他の世界との関係においても、例えば、19世紀のフランス文学にしろ、ハリウッド映画にしろ、20世紀の英国のポップ音楽にしろ、何でも、貪るように貧欲に吸収消化して、それらの文化を器用にもブラジル流にアレンジし生成し直して、再び、新しい文化として世界に逆発信している。
   ボサノヴァが良い例で、アントニオ・カルロス・ジョビンが、アメリカのジャズとショパンなどのクラシック音楽の影響を吸収して、サンバなどのブラジル音楽をミックスしながら新しい典型的なブラジル音楽を創り上げた。
   このような外来文化を、食人種のように飲み込んで、独特なブラジリアン・フレイバーで味付けをして典型的なブラジル文化を生み出す現象を、文化の食人習慣(cultural cannivalism)と称しており、このことが、ブラジルの文化の需要と発信の特色を成していると言うのである。

   何故そうなのかと言うことについて、ブラジルでは、人生そのものが、予想通りに上手く運ばなくて軌道を外れることが普通であるから、ブラジル人には、どんなことがあっても、敏捷に、創意工夫を凝らして、即興的に対応できる能力が要求されており、これが当たり前の処世術であるから、ことに及んでも、即座に創造性が発揮されて難局を乗り切ることができるのだと言うのである。
   人生は思い通りには行かないのだから、どんなことが起こっても、受けて立って上手く処する。先回に論じたブラジル人の人生を楽天的に生きるラテン的トロピカル感覚に相通じるメンタリティでもあろうか。
   他の国では、人生が破壊的で無秩序であっても、ブラジルでは、生産的に変え得ると言うのである。
   人生において、その場その場で臨機応変に適応できると言う特質から生まれる創造的な行動力は、特に音楽やダンスなど文化方面で如何なく発揮される。

   英国のパブリック・スクールで生まれた消化不良を起こすような肉体的にもぎこちないスポーツでも、ブラジル人にかかるとダンスや芝居のように楽しいスペクタクルに変わってしまって、そのスタイルが、世界に普及することになる。
   これは、先回、ブラジル人が、軍人教育や訓練の場であったようなサッカーを、カーニバルの先頭を行くサンバダンサーのような俊敏さを発揮するサッカー選手の目の覚めるような名人芸披露のスポーツに変えてしまったと言うケースと全く同じであろう。
   何でも賭けようとするメンタリティのイギリス人によって、殆どの球技など目ぼしいスポーツは、イギリスで生まれているのだが、この無味乾燥な勝負のみのスポーツを、血の通った楽しくてワクワクするようなスポーツにイノベイトするのが、お天道様はわれらが味方と信じて、今日が楽しければ何でもすると言うブラジル人気質だと言うことであろうか。

   この文化のカニバリズムは、音楽から建築まであらゆる部門に広がっていると言う。
   ブラジルでは、バスや地下鉄に乗っていても、乗客のなかで、急にサンバのリズムが湧きおこり、踊り出すと言うのは当たり前で、リオの高級レストランでは、支配人が、客にリズムを取らないで欲しいと頼まなければならない程だと言うから、とにかく、じっと大人しくしておれないのである。
   ガソリンがなければ車は走れないが、外貨がなくて高くて買えない。同じ油ならアルコールで走れないかと、エタノール車を生み出したブラジル人の心意気も、この国民性の発露であろう。

   ローターは、この章で、ブラジルの文化について、サンバからボサノヴァ、シネマ、絵画、文学、芝居など多方面にわたって、ブラジル文化の創造性、文化創出、カニバリズムについて持論を展開していて面白いのだが、私の得意とする分野ばかりではないので詳細説明は省略する。

   いずれにしろ、ヨーロッパ人と黒人とインディオの血のミックスしたブラジル人の、cultural cannivarism,
すなわち、人食い人種のような旺盛で貧欲な吸収欲で外来文化を吸収消化して、即席即興の創造性の才を発揮して、ブラジル流の新しい価値を付加した文化を生み出して世界に発信すると言う素晴らしい才能が、カラフルで内容豊かな世界文化のエンリッチに貢献していると言うことである。
   私が、このブログで何度も書いているイノベーションを生み出す秘密であるメディチ・イフェクトと同じような効果が、ブラジル人気質には、ビルトインされているのである。
   外来文化を吸収して独特な新しい文化を生み出すと言うのは、何となく、日本人に似ているような感じがするのだが、日本の場合には、即興的刹那的名人芸ではなく、もう少し緻密に磨き上げられた精神性の高い高度な文化のような気がすると言うのは、偏見であろうか。

   とにかく、岩山にそそり立つ巨大なキリスト像を真横に眺めながら、真っ青に輝く空と海の狭間に浮かぶ可愛い恐竜のような姿をしたポン・デ・アスーカと真っ白な砂浜に縁どられた海岸線のコパカバーナやイパネマの高層ビルが立ち並ぶ街並みを上空から眺めると、こんな美しいところだと、どんな素晴らしい文化が生まれても不思議ではないと思えるのだから楽しい。
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私のミシュラン・ガイドの使い方

2011年08月21日 | 生活随想・趣味
   昨日のイタリアン・レストランに関する私のブログ記事で、ミシュラン・ガイドを活用してヨーロッパ生活や旅をしていたことを書いたことに対して、macさんから、「日本のガイドブックは役に立たないんですか。」 と言うコメントを頂き、ミシュラン・ガイドに対するご意見を頂いた。
   私の「日本の観光ガイドは、あまり信用できないので、ヨーロッパの旅は、総て、ミシュランの旅行ガイド・グリーンブック、ミシュランのホテル・レストランガイドのレッド・ブック、そして、ミシュランの地図であった。」と言う文章に対してのコメントなのだと思うのだが、これは、あくまで中村個人の見解であるから、誤解を招くので、「下か横に、※これは個人の感想です。って注記を入れて欲しいです。」と言う有難いご指摘だと思っている。
   
   この記事で述べている私の経験は、もう20年ほども昔の話であり、それに、ご指摘の最近日本でも出版されたミシュランガイド東京・横浜・鎌倉編を主に念頭に置いてのご意見だと思うので、多少、私の文章の意図とは異なっているようなので、誤解を避ける意味でも、私のミシュランガイドの使い方について、書いてみたいと思う。

   まず、最近の「ミシュランガイド東京・横浜・鎌倉〈2011〉」や「ミシュランガイド京都・大阪・神戸〈2011〉」など日本で出版されているガイドについては、書店の店頭で手に取って見るようなことはあるが、 日本には日本のガイドブックや情報源が十分にあるので、参考にも何もしないし利用することもない。
   偶々、私が担当していた高級フレンチレストランが、2つ星評価を受けていたので、その点は嬉しかった。

   また、レストランやホテルを星で格付けする方式が開始されたのは1930年代とのことで、最初は、ミシュラン社員が匿名で施設の調査を行っていたようであり、これまでも、匿名調査を基本として聞き取り調査を交えると言う調査方法については欧米で何度も議論されてはきているが、この方式については、ミシュランのビジネスモデルであって、私は何の疑問も持っていないし、良し悪しについては僭越だと思っているので、コメントも出来ない。
   要は信頼性の問題であって、1世紀近くも、ヨーロッパで評価を得ていて、ヨーロッパの友人たちに聞いても、最も信頼できると言っていたし、何年も使っていて非常に重宝したので、使い続けていたと言うことである。

   ところで、この口絵写真は、私が使っていた旅行ガイドのグリーン・ミシュランとレストラン・ホテルガイドのレッド・ミシュランのイタリア本で、レッド本の方は、イタリア語版だが、ガイドとしては不自由はない。
   バックの自動車旅行向けの道路地図は、私がシェイクスピア劇の鑑賞にストラトフォード・アポン・エイボンに通っていた時に使っていたミシュランの地図で、このシリーズの地図は、地図上に克明に展望所や危険地域など詳しい道路情報が書かれていて、非常に役に立った。
   イギリス国内は勿論のこと、フランスで、ロワールの古城めぐりやノルマンディなどを車で走った時にも、レンター・カー会社の地図と併用で、非常に重宝したので、地図代わりと言う意味でも、ヨーロッパ大陸でもいつも携行していた。

   ところで、私の先の文章で、「日本の観光ガイドは、あまり信用できないので、・・・」と言う表現が誤解を招いたのだが、あまり頼りにならなかったとか、あまり役に立たなかったと言う表現にすべきだったかも知れないと思っている。
   それに、この文章は、レストラン・ホテルガイドの赤本を言っているのではなく、旅行ガイドの緑本の充実ぶりを語っているのである。
   これも、20年以上も前のことを頭に置いて語っているのだが、当時、日本語のヨーロッパの旅行ガイドは、非常に貧弱で、大都会や日本人が訪れる観光地などの極めて限られた記述だけで、実際にヨーロッパに持ち込んで使ってみても殆ど参考にも役にも立たなかったと言うのが、私の正直な経験である。

   当時、私は、ヨーロッパでは英語版を使っていたのだが、1991年頃から90年代後半にかけて、実業の日本社から、確か、「パリ」を皮切りにグリーン・ミシュランの翻訳本が出版された。
   今でも、アマゾンを検索すれば、古本で手配可能だが、旅行マニアにとっては根強い人気があると言うのだが、価格がやや高かったのと、自分の脚で歩くトラベラーを意図した高級な旅行ガイドであったので、あなた任せのツアーや団体旅行を旨とした大半の日本人には、荷が重かったのかも知れなくて、途中で廃刊になってしまった。
   多少古いけれど、当時の日本のガイドブックと、その差をチェックして頂ければわかるのだが、緑本の質と量の充実ぶりは群を抜いており、雲泥の差だと言うことが分かって頂けると思っている。

   私の場合は、アメリカでもヨーロッパでも、家族旅行は勿論、出張や個人旅行も、旅行計画から、航空券から観劇などのチケットやホテルなど必要な予約から手配まで、殆ど一切合切自分で行ってきており、視察旅行などを除いて団体旅行に参加したことは殆どないので、中途半端な資料では困るのである。
   例えば、近年になってからは、英語でなら、インターネットで、トーマス・クックは勿論、ヨーロッパの国鉄などのページを開けば、鉄道の時刻表も分かるし、予約もできるのだが、地理的な知識がかなり必要なことも事実で、時には、現地で、トラブル・シューティングに遭遇することもあるが、それが、また、手作りの旅の醍醐味でもある。
   偶々、ミシュランガイドの話になったので、ガイドブックは、ミシュランを頼りにしていると言う話になったのだが、初めて出かけて行くような国への旅には、事前に、その国の歴史や現状など十分に他の本や資料で勉強して行くことにしていた。

   尤も、最近では、外国に行く時には、ミシュランのガイドブックがあれば、それを必ず買って使うが、日本語のガイドブックも非常に充実してきているので、何冊か併用することにしている。
   日本人として、日本の旅人として心得るべき情報が極めて重要であるからである。

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片田舎にあるイタリア・レストラン

2011年08月20日 | 生活随想・趣味
   千葉の片田舎に、一寸したイタリア料理のレストランがあって時々出かける。
   店名はcastello すなわち castleだが、正に、ヨーロッパの林間などにある一寸大き目の田舎家と言う風情で、何部屋かが、ダイニングようの大小のテーブルが並べられていて客間になっているのだが、きれいに手入れされた庭園が見えて、中々、気持ちの良い空間を奏でている。
   オランダに住んでいた時に、良く行っていたライデンにあるミシュランの2★レストランに、よく雰囲気が似ていて、ここだけは、イタリアの田舎の空間である。
   野菜などの食材は、レストランで栽培しているとTVで放映していたことがあるのだが、料理は、久しぶりにヨーロッパの味を思い出させてくれて、楽しませてくれる。
   結構、人気があって、カップルや家族連れなどで賑わっている。

   ミシュランの星の付いたレストランの場合、ロンドンやパリなど大都会では、豪華な佇まいのレストランや高級ホテルに併設されたような立派なレストランが多いのだが、ヨーロッパの田舎にあるミシュランの星付きレストランは、このカステッロのように、田舎の貴族の邸宅や大きな田舎家を改装したり、旅籠innがレストランになっていたりしていることが多い。
   また、イギリスやオランダなどの海や運河沿いのレストランなどにしても、殆ど近所の民家と変わらないような雰囲気で、建物や外観を見ている限りでは、必ずしも、豪華な感じがしないレストランが多かった。
   中々趣味の良い凝った感じの看板や表札や玄関の電燈などが、それとなく、風情を感じさせてくれるだけなのだが、勿論、中に入れば雰囲気の良い内装空間が迎えてくれて素晴らしい時間を過ごさせてくれた。
   古い田舎のinnなどのレストランには、何部屋か客室があるので、私などは、車で出かけて、至福の時間を過ごした後は、その田舎家で泊まって、翌朝早く起きて、付近の田舎町や田園地帯を散策するのを楽しみにしていた。
   ついでに、こんな田舎町には、必ず、古風で雰囲気があるパブがあるので、立ち寄って地ビールを頂くことにしていた。
   
   私は、8年間ヨーロッパにいたので、あっちこっち出張したり、休暇などを利用して、ヨーロッパ中を歩き回っていたので、グルメでも何でもないのだが、折角だからと、本物のヨーロッパの雰囲気を経験しようと思って、機会がある毎に、ミシュランのレストランを訪れた。
   日本の観光ガイドは、あまり信用できないので、ヨーロッパの旅は、総て、ミシュランの旅行ガイド・グリーンブック、ミシュランのホテル・レストランガイドのレッド・ブック、そして、ミシュランの地図であった。
   ヨーロッパでは、ドイツでもフランスでも、時間的に余裕があれば、空港でベンツのレンタカーを借りて、車で都市間を移動していたので、ミシュランガイドと地図は必須であった。
   他にも、いろいろ、ガイド・ブックはあるのだが、ミシュランのガイドブック程、微に入り細に入り懇切丁寧に書かれた本はなく、非常に重宝した。

   レストランなどは、家族や同僚などと行くこともあったが、一人で出かけることが多くて、何となく味気なかったのが、今思えば残念でもある。
   ヒュー・ジョンソンのワイン・ガイドなどで少しずつ勉強して、ワインの味も覚えたのだが、やはり、ミシュランの星付きレストランでフル・コースを頂くと3時間くらいかかるので、仕事の話を一人で考えながら時間を過ごすよりも、艶のある話を交わしながらの方がはるかに良かった筈ではある。

   これらのミシュランの星付きのレストランを回っていても、場所にもよるが、日本の高級料亭のように異常に高いレストランは殆どなくて、どこも、非常にリーゾナブルな価格で食事を楽しめると言うことが、幸いであった。
   尤も、これは、交換レートによって違うのだが、今は良く知らないが、昔の日本の高級料亭の値段などは根拠があるのかないのか分からないのだけれど、今でも、日本の高級フレンチレストランの異常高を考えれば、日本のレストランの価格付けは基準が違うのかも知れない。
   私も、子会社の経営管理で高級レストランを担当していたこともあるのだが、一般的には、食材費の割合は3割以下だと言われていたので、常軌を逸した高級料亭がばたばた潰れたのは当然だと思っていた。
   いずれにしろ、失われた20年のデフレ景気のお蔭かどうかは知らないが、外食費は安くなった感じで嬉しいのだが、昔ほど、こってりとしたフランス料理に食指が動かなくなったのも、歳の所為かと思うと一寸さびしい感じがしている。

(追記)macさんのコメントに対する私見は、翌日8月21日のブログ「私のミシュラン・ガイドの使い方」にて記述。
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ネットショッピング価格の異常な乱高下

2011年08月19日 | 生活随想・趣味
   私は、電気製品やカメラ関係など、機種や品番などが明確な商品についは、ネットショッピングで買うことにしている。
   まず、価格コムで、最安値をチェックして、ついでに、アマゾンや楽天やヤフーなどの動向を見る。
   以前は、価格コムが、最も安い商品を見つけ出すのに便利だと思っていたが、実際には、ほかの方が安いことが結構多いことがあって、夫々の出店商店の裾野が広がって来ているようで面白い。

   尤も、最安値が確認できても、すぐに、最低価格の店で買うことはしないで、多少調べてみて、それ程、差がなければ、ビッグカメラやヨドバシカメラなどに行って買うこともあるし、それに、どちらかと言えば、クレジットカードの関係や、これまでの付き合いの長さで、アマゾンや楽天やヤフーなどで買うことの方が多い。
   電気製品やカメラなど、ビッグカメラで扱っているような商品の多くは、今日のネットショッピングの隆盛を考えれば、余程のことがない限り、常設店舗での商売には、少なくても価格面で勝ち目はないのではないかと思っている。

   秋葉原近辺にネットショップと常設店を併設している店があるが、その多くは、ほんの間口2間程度の倉庫のような店に、店員が1人か2人で、販管費は殆どかからないような形で営業しており、特別な販促とかバーゲンセールでもなければ、大型量販店の方が、いつもかなりの高値であり、店員自身も、価格コムとは勝負にならないと嘆いている。
   特別な据え付けや付帯サービスが必要な場合や、将来のメインテナンスや保障などに不安や問題がある場合には、信頼できる量販店は便利だが、はっきり形も色も決まっているような単品の耐久消費財は、ネットショッピングで殆ど問題はないであろう。

   ところで、価格コムを検索していれば分かるが、ものすごい速さで、商品価格が乱高下することで、正に、毎日の株価の動きを見ているような感じがする。
   商品によっては、毎日、1円ずつ値下げを続けて、最安値店の表示を確保しているケースもあるが、ある日、何らかに事情で、一挙に、何%も乱高下することがある。

   先日も、某社のラックシアタ―を買おうと思って、チェックしていたら、1か月ほど、初値の50%引きくらいの所で止まっていた。
   このあたりが買い時と思って、買おうとチェックしたら、価格コムの一覧表には出ているのだが、何軒か出ていた最安値の店舗をクリックすると総て完売。
   幸い、ヤフーの店舗で、少し、高くなった程度で、在庫が残っていたので手配したのだが、その直後に、どのネットショップも安値が消えて、一挙に、15%もアップしてしまった。
   価格コムでは、売れ筋上位の機種なので、結構売れている筈なのだが、私は、価格コムなどの店舗に出ている商品の数は、非常に少ないのではないかと思っている。
   以前に、カメラをネットショッピングをした時に、私が1台買った後に、その店の表示が消えてしまったことがあるのだが、店舗に出ているのは、ほんの数台、或いは、1台かも知れないと言う気がしている。

   丁度、株と同じで、売り買いされている僅かな株が株価を決めているように、この僅かなネットショップの、僅かな商品が、価格コムの商品の最安値を牽引しているのであろう。
   メーカーが、価格コムの価格動向に注視していると聞くのだが、案外、マーケティングや販売あたりが、隠れたパイロットショップを使って、価格を誘導牽引しているのではないかと思っている。
   価格コムの商品価格が大きく乱高下していても、量販店の商品価格に殆ど変動のないことを考えれば、そんな気がする。
   良し悪しの判断は難しいが、ほんの数台、捨て値価格で提供しても、痛くも痒くもない筈なのである。

   少し前だが、WSJ日本語電子版で、誰が総理に相応しいかアンケートを取っていたが、断トツの1位は、小沢一郎の85%で、次が谷垣 禎一の5%と、他の一般メディアの電話世論調査と大分違う。
   このあたりが、インターネット世論のインターネット世論たる所以だが、比較的サンプル数が少なくて、必ずしも大衆化されたわけではなく、特異な位置にある人々が対応するのがICT社会であり、インターネットであるところに、利点も限界もあるのであろうと思う。

   ところで、株価だが、誰かに良い経済情報だとか耳よりの企業情報を聞いたとか、専門家から投資株を推薦されたとかで、株を買っても、そのような情報はすべて織り込み済みであって、既に遅いのだと言うのは、厳然たる事実であることを考えれば、価格コムの価格情報は、一寸性格が違うので、買う時の判断材料にしかならないのかも知れない。
   いずれにしろ、同じ商品の価格が、何故これほど瞬時に乱高下するのか、価格コム現象を見ていると面白いのだが、私がいつも不思議に思うのは、価格コムの場合、最安値をトップにして、安い店から一覧表に価格と店名、評価などが表示されるのだが、下位の商店は、異常に高い店だと天下に知らしめるだけで、商売になるのであろうかと言う点である。
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台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(12) トロピカル・ライフスタイル~その3 サッカー

2011年08月17日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   サッカーは、ブラジルの国技のような感じであるが、ブラジルに導入されたのは、1894年だと言うから歴史は非常に浅い。
   イギリスとスコットランドの血を引くチャールス・ミラーが、英国遊学を終えて帰国した時に持ち込んだスポーツで、最初は、ヨーロッパナイズされた都会上流階級の白人仲間だけでひっそりと行われていた。
   このような知的で洗練された身のこなしの難しいヨーロッパ的なゲームは、典型的なブラジル人の肉体やメンタリティには向かないので、ブラジルでは普及しないと言われていたと言う。

   ところが、本場イートン校のグランドでは、サッカーは、非常に鍛錬された、むしろ、堅苦しい、秩序と戦略の訓練の場として行われていたようだが、それが、一旦、ブラジルで普及すると、全く形を変えてしまって、ゲームは、一気に、カーニバルのトップダンサーに求められるような敏捷さの延長にも等しい軽快さと創造性を発揮する場に変ってしまったのである。
   軍隊的な整然として秩序だった攻撃ではなく、ブラジルチームは、選手たちに、何十年もかかって編み出したキック、パス、ヘッディング、デコイ、フェイント、そして、攻撃防御の手練手管を駆使した名人芸を即興で演じさせる戦略を取っている。

   今日では、黒人も貧民も、どんな人にとっても、サッカーは、社会的に認知され経済的に報われる数少ない登竜門の一つとなっている。
   最も尊敬を集めて大臣にもなったペレは、ミナスジェライスの小町の貧民の子でサンパウロで成人したのだが、ロマリオ、ロナルド、リヴァルド、ロベルト・カルロス、ロナルジンニョなども殆ど同じ生い立ちであり、ワールドカップ選手の4分の3は、貧しいか地方出身か、或いは、その両方で、白人ではないと言う。

   ローターは、サッカー選手や関係者たちが、ブラジルでの異常なサッカー人気を反映した名声活用や特権乱用について切り込んで厳しい。
   1994年アメリカでのワールドカップ優勝時の帰国に際して、チャーター機に、コンピューターや電気製品、宝石装身具等々贅沢品を何トンも持ち帰って税関申告を求められたが、公式祝賀会をボイコットすると脅し上げて、政府高官に揉み消させたと言う。
   特権意識と説明責任の欠如が染み透っていて、サッカービジネスを、悪質で嫌悪すべきもののシンボルにしているのであるが、ブラジル国民も国民で、ブラジルチームが勝利して、国家に栄誉と至福を齎してくれれば、特権乱用などなんのその、いくらおかしい現状であっても、喜んで受け入れるのだと言う。
 
   サッカーも、今や、カーニバルと同じで、単なるエンターテインメントではなく、ビッグ・ビジネスになってしまっている。
   審判買収など試合操作やエージェントから賄賂を貰って選手を入れ替えたりするなどの事件は頻発で、買収、親族優遇主義、詐欺、不誠実等々の不法行為が蔓延っている。
   特に、サッカー界のエリート、国内の代表チームを率いて、選手の契約権を一手に握っている役員などは、「caltolas、英語で、top hats」として知られており、その贅沢三昧の生活の傍若無人ぶりは群を抜いていて、たとえ、チームが破産していても、意に介さないのだと言う。
   それに、ブラジル・サッカー協会も、スポンサーシップ契約などを結んで巨額の金を受け取っているのだが、インタビューを求めても無視され続けており、一切公表されることなく闇の中だとローターは言う。

   エージェントは、田舎やスラムで、非常に若い有能なサッカー選手を見つけると、長期の個人契約を結んで、プロチームに派遣するのだが、この選手は、エージェントの個人資産として扱われており、現代版偽装奴隷制度だと批判されているのだが、政府が法的措置を取る兆しさえない。
   この制度の延長線上にあるのが、ブラジル選手の外国チームへの移籍で、最近では、ブラジルの優秀な選手が外国チームに移って(ローターは、soldと言う単語を使用)、そこでプレイし続けると言うケースが増えているので、エージェントは、最高の移籍フィーを求めて血眼になっていると言う。

   したがって、ブラジルのサッカー選手の輸出(ローターの表現は、the export of soccer players)は、ブラジルにとっては割の良い所得稼ぎであるのだが、2002年のフットボール誌によると、現在、1000人のブラジル人プレーヤーが、外国のクラブに所属している。
   これだけ、選手が、海外に流出すると、当然、ブラジルのサッカーの質は落ちてくる。
   ワールドカップでも、ヨーロッパのチームは、ブラジル人プレイヤーの帰国を許さないケースが多くなったので、なおさらであるが、最近、ブラジルが、コロコロ負けるのは、この所為なのであろうか。
   
   ブラジルでは、大統領まで贔屓チームに入れ込むようで、監督の采配にも文句をつける。
   ワールドカップの経済効果は非常に高くて、大統領選の時期にも一致するので、勝てば、大変ことになると言うのだが、このローターの記述は、ブラジルの国民性の中で生きるサッカーの悲喜劇を垣間見せていて、非常に興味深い。
   私は、サッカーファンでもないので、サンパウロで、たった、1回しかサッカーの試合を見ていないが、貧しいファベーラで、一つのサッカーボールを嬉々として追っかけながら、楽しそうに遊んでいた子供たちの笑顔を何度も見ている。
   
   余談ながら、なでしこJapanの快挙によって、一気に人気が出た女子サッカーだが、ブラジルでも、人気や評価は、男子チームと雲泥の差であると言う。
   アスレチックでスポーツ好きの女性は、ブラジルでは、sapatao (英語で、big shoe レスビアンを意味するスラング)と呼ばれているらしい。
   ブラジルでは、女子のナショナルチームはないようで、これまで、ワールドカップで、優勝したこともないのだが、2007年に、決勝まで進出して、男子チームの宿敵ドイツと対戦したので、テレビ放映されたと言う。
   ブラジルでは、サッカーは、男性らしさを定義する色々な要素、すなわち、conflict, physical confrontation, guts, dominance, control, and endurance などを含んだ男のスポーツだと考えらていると言うのだが、今に至っては、正に、偏見と言うことであろうか。
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時事雑感・・・益々窮地に追い込まれて行く日本

2011年08月16日 | 政治・経済・社会
   アメリカ国債の格付けダウンや、ギリシャ問題に端を発した弱小国の債務危機で先行き不透明になったユーロの将来など核となっているハードカレンシーが、揺らぎ始めており、新ブレトンウッズ体制が語られ始めている。
   しかし、世界の資金は、日本円やスイスフラン、金や食料や原材料などコモディティと行った方向に多少動くかも知れないが、要するに、取り立てて不都合もなく、また、代替手段がないので、少しの陰りは見えて来ても、ドルの地位は変わりなく安泰であろうし、世界の経済や金融システムが、大きく変わるようには思えない。

   問題の多くは、ICTと金融革命に触発されて発生した世紀初めの世界同時好況が行き過ぎて、加熱しすぎた世界経済が破裂して、大不況に突入したのだが、既に、先進国経済は、成熟期を過ぎて老境に達してしまっていたにも拘わらず、分を弁えずに、大盤振る舞いをし過ぎて、過大な債務の集積だけが残って立ち上がれなくなったことにあると思っている。

   アメリカの場合などは、その典型で、未曽有と言うべき規模の大幅な財政出動によって金融危機を突破しようとしたオバマ政権が、道半ばにして暗礁に乗り上げた。
   法律で決まっているので、債務上限引き上げ問題で、一気にアメリカ経済の深刻さと対応の差の大きさが露呈されたのだが、アメリカ経済そのものが、今までのように、ケインズ政策を始動させて、簡単に経済が浮揚するような状態ではなくなってしまっている、構造的にも大きなダメッジを受けて変質してしまっている、と言うことである。
   クルーグマンなどが言うように、更なる財政出動の強化が有効かどうかと言うことことよりも、経済政策論争以前の問題、ティー・パーティなど超保守派の抵抗などで手足を捥がれたような状態で、強硬派との妥協に翻弄されてしまって、行きつ戻りつ中途半端な対応を続けていては、成長余力のある健全な筈のアメリカ経済の活力を削ぐだけである。

   また、ギリシャ危機については、EUが、いくら手を打ってみても問題の先送りにしか過ぎず、あまりにも放漫経営が行き過ぎて異常な債務を積み重ねて水ぶくれになってしまった現状で、尚且つ、経済成長に見放されてしまっている以上、自律回復は無理で、何時かは、ユーロから脱退して、極端な窮乏化政策を実施して経済を立て直す以外に道はないと思っている。
   アイルランドなどは、ICT革命の最大の恩恵を受けて、一気にヨーロッパの後進国から世界最先端の富裕国に上り詰めたのだが、正に、バブルがバブルを生む花見酒の経済の行き過ぎで、健全な経済システムの構築を怠った報いが一挙に炸裂して窮地に立ってしまった。
   数年前までの経済書の多くは、アイルランドの経済の成功話で充満していたのだが、同じICT立国でも、成長余力を無限に秘めた貧しい経済から立ち上がりつつあるインドとは対照的で、その違いを十分に認識すべきだと思っている。
   ポルトガル、イタリア、スペインの場合は、どちらかと言えば、ギリシャの方に近いと思うのだが、推移次第ではEUの経済情勢を益々悪化させる心配があり、経済成長が止まってしまった現状では、経済再建など益々難しくなって行く。

   さて、日本だが、日本産業を支えて来た電力への不安が、ここにきて一気に表面化して来たのが最大の問題で、日本経済の生命線とも言うべき製造業を窮地に追い込んでしまった。
   東電に対しては、原発事故は言語道断だが、存立の所以である筈の電力の安定供給をミスったCSR欠如の方が罪と責任ははるかに重いと思っている。
   アメリカの経済を支えて来たのが、湯水のように使いがぶ飲みにしてきた石油にあることは自明だが、それと同じように、日本経済の活力と競争力の根源は、多少高いと言っても、何の停電の心配もなく、湯水のように安心して使い続けることが出来た電力にあったことは間違いない。
   その電気が、強制的に節電を強要されて、その上に、いつ、停電に追い込まれるか分からないと言うのだから、日本の製造業は勿論、日本の産業界はもとより、経済全体に齟齬を来し、その信頼性を根底から揺るがせてしまった。
   その上に、世界でも最も弱い筈の円(?)が、避難通貨として異常な高値を付けている(介入を行っても無駄?)のであるから、まともな製造業なら、生産拠点を海外に移転するのは当然の意思決定であり、さもなくば、株主訴訟の対象になっても不思議はないと思っている。
   何故なら、ステイクホールダーの利害を考えれば別だが、株主利益と言う見地からは、エネルギー不安と海外製造のコスト優位は、払拭できないほど揺るがぬ事実だからである。

   現在、福島原発の事故の問題で、一挙に、世論が反原発にシフトしているのだが、日本人は、このような存亡の危機に直面しながらも、どうして地についた現実的な大人の判断なり対応が出来ないのか。
   勿論、原発廃止に向かって努力すべきは当然だと思うが、日本経済を考えれば、電力の確保に万全を期すことが必須条件であって、理想論を振りかざすよりも、現状の原発施設を細心の注意を払って維持しながら、漸進的に再生エネルギー化を図るなど電力事業をアジャストすべきだと思っている。
   今回の福島原発問題でも、至らなかった人災的な事故があまりにも多かったことを考えれば、代替イノベーションが生まれるまで、まだ、十分に対応の余地があるように思うからである。
      
   今回の製造業の海外移転の問題は、以前のように、日本市場をあてにしたコスト削減目的の移転ではなく、市場そのものが海外志向になっている以上、ノーリターンの完全に経済単位の海外移転・流出であって、日本経済の空洞化および縮小は避け得ないと思っている。
   この空洞化による国内経済への影響は、真っ先に、雇用の縮小に繋がり、失業の増加は勿論のこと、一気に、賃金ダウンなど、労働条件の悪化など労働環境を劣悪な状況に追い込むこととなることは間違いない。
   ただでさえ、グローバル化による要素価格均等化定理の作用で、中国やインドなどの労働者がやっているような仕事の賃金は、完全に後進国並みにダウンするのは必定で、それに、雇用機会が縮小の一途を辿るのであるから、事態は極めて深刻である。

   結論を急ぐが、私は、どう考えても、生活水準や生活の質の切り下げが嫌なら、成熟化して老年期に入ってしまったけれども、日本の経済の再生は、質はともかく経済成長以外には有り得ないと思っている。
   尤も、 欧米や日本の現状を考えても、先回のICTや金融革命などのような大イノベーションのブレイクは当分ありそうには思えないのだが、しかし、この革命的で強大なコンドラティーフ循環の上昇局面に乗れなければ、成長に見放されてしまった先進国の経済では、経済成長による再生などは至難の業で殆ど不可能である。
   それに、今回は、大震災と言う未曽有の大不幸に遭遇したと言う不幸があったにしても、失われた10年が、失われた20年になり、少しも日本経済は良くならずに、益々、国家財政は悪化の一途を辿っており、それに、改善するどころか、深刻な問題ばかりが更に付け加わり続けている。
   お粗末限りない日本の政治の迷走に暗澹としながら、燭光さえ見えない前途に不安を募らせざるを得ない。

   日本の法律には、債務上限の規制さえもないから、アメリカのような真剣な議論もなく、節操のない政治家の言いなりになって無制限に国家債務が増加し続けて行き、何時か一気に、ギリシャに近づいて行く。私には、そう思えて仕方がない。
   
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バーンズ&ノーブルとスターバックス

2011年08月15日 | 生活随想・趣味
   何年か前に、ニューヨークに行った時、5番街のバーンズ&ノーブルで本を探していた時、2階の書棚のすぐ横に、スターバックスがあった。
   勿論、大半のお客は、バーンズ&ノーブルに来て、本を探した後で、小休止したり、買った本を読んでいると言った感じで、街角のスターバックスとは雰囲気が大分違う。
   最近は、色々な店舗の中に、毛色の違った店が同居していて、コラボレーションしているケースが日本でも多くなったが、このバーンズ&ノーブルとスターバックスの組み合わせは、非常に良いと思った。

   私も、神保町に出かけた時には、スターバックスやマクドナルド、上島コーヒーなどに入り込んで、若い人に混じり込んで、小一時間ほど、買った本を読んでいる。
   三省堂にも、喫茶店はあるのだが、長居して、本を読んだりするのには、多少、気を遣うので、こんな場合には、簡便なコーヒーショップが良いのである。
   ニューヨークのバーンズ&ノーブルの場合には、あたかも、書店の延長のような雰囲気なのだが、多少、距離感があるので、書棚の本をそのままスターバックスに持ち込んで読めると言う環境でもない。
   共存しながら、お互いに共鳴し合って存在感を示している、その関係が丁度、適当なのである。

   神保町には、昔からの老舗の喫茶店や多少趣向を凝らした雰囲気の良い喫茶店があるのだが、私は、常連でもないし、ただの古書店散策ついでに本を買うと言う本好きなので、こんなところで時間を過ごすことは殆どない。
   私など、何のてらいもなく、疲れたところで、一寸、書店の中で、気楽に座って、コーヒーでも楽しみながら、憩える場所があれば有難いのである。

   もうひとつ、以前に、三省堂の書店の中の空間に、何脚かの椅子が置いてあって、本のチェックついでに、多少、ゆっくり時間を過ごせるコーナーがあった。
   確かに、経済や政治や経営と言ったコーナーでありながら、大口を開けて寝ていた御仁もいたので、あって良いのかどうかは分からないが、本をじっくり探している本好きには有難い空間なのである。
   他の店でも同じことだが、本屋さんも、もう少し、訪れるのが楽しみになるような面白い雰囲気を作り出せないのであろうかと思っている。

   さて、書店には良く通っているので、ベストセラーの書棚を覗くのだが、私の読んでいるような本は、殆ど並んでいなくて、何となくベストセラー本から行くと、私はずれているのかも知れないと思うことがある。
   この口絵写真は、ある日の丸善のベストセラー・コーナーだが、私には、殆ど興味がない。

   先日、TIMEが、「25冊の最も影響のあったビジネス・マネジメント書籍」と言う特集を載せていて、マグレガ―やスローンJrなど60年代の本もあったが、20世紀末期のエポックメイキングな経営学書が大半で、私が勉強しながら走り抜けて来た時期の本ばかりなので、読んだ本も、読まなかったが内容について馴染みのある本など、懐かしかった。
   大野耐一の「トヨタ生産方式 Toyota Production System」が、唯一の日本人の著作だが、それ程、トヨタの生産革命は、偉大だと言うことであろう。
   最新の本が、The Essential Drucker や ジム・コリンズの Good to Great なのが興味深い。

   話は変わるが、サンデルやドラッカーの「マネジメント」が100万部を突破していると言うので、これも驚きだが、しかし、社会科学系の専門書を見ていると、版を重ねている本は、非常に限られており、良書でも、殆ど売れてないのではないかと思う程で、すぐに書棚から消えてしまう。
   元々出版部数が少なくて売れて書店から消えていたのが、トーマス・K. マクロウの「シュンペーター伝」で、私は、代わりに、原書「PROPHET Of INNOVATION」を買ったが、この方がはるかに安かった。
   円高のお蔭とアマゾンのお蔭で、英米の専門書が、随分安くなったので、老骨に鞭を打つことになるが、是々非々主義で行こうかと思っている。
   
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わが庭の歳時記・・・カマキリに食われるアブラゼミ

2011年08月14日 | わが庭の歳時記
   真夏になると、私の庭は、蝉しぐれで騒がしくなる。
   日本では、秋の虫の音を聞くのは風情があると考えられているが、西洋では、騒音。
   蝉の声は、それ程気にはならないが、アブラゼミの激しさは、猛暑の象徴のようなもので、楽しいものではない。
   私の庭の蝉の大半は、アブラゼミで、秋色が近づくと、ツクツクホウシが鳴きはじめる。

   ところが、先日、元々関東には居なかった筈のクマゼミの鳴き声を聞いてびっくりした。
   関西に居た頃には、お馴染みの蝉で、透き通った翅の大型の蝉で、鳴き声にも迫力があって、中々風格のある蝉であった。
   地球温暖化の所為もあるのであろうか、搬送されて来た植木などにつて来たのであろうか。

   ところで、アブラゼミだが、私の庭には沢山卵を産んで幼虫が育っているようで、庭のあっちこっちの植木や草花の先に、孵化した抜け殻の跡がくっついている。
   夜庭に出て見れば、孵化直前の蝉が地面から出て来て、蛹の背中が割れると白い体が少しずつ表れて、折りたたまれていた翅を震わせながら少しずつ伸ばして成虫になるのが見られる。
   濃い茶色のアブラゼミだが、孵化直後の体や翅が乳白色なのが面白い。

   最近のように、日中の日照りが激しいと、植木鉢やプランターの水切れが激しい。
   一寸、プランターが小さかったので、ゴウヤなどは、最低、1日に2回水をやらないと萎れてしまう。
   面白いのは、ゴウヤは水切れで、葉が萎むと、ゴウヤの実が軟らかくなってぶにょぶにょになるのである。

   水をやっていたら、頭上で、急に、アブラゼミの異様なとぎれとぎれの鳴き声が聞こえたので、見ると、カマキリに抑えられて、頭をかじられてもがいているのである。
   ばたばた、翅を揺すっているが、カマキリから離れられず、少しして、動きが止まってしまった。
   蝉の瞬発力は、カマキリなどよりは、はるかに強くて、簡単にカマキリの鎌でつかえられる筈がないと思うのだが、もしかしたら、素晴らしいレイディが槇の木の幹に止まっていて、必死なって近づこうとして夢中になっていたので、その隙を狙われたのかも知れない。
   
   私は、昔、子供の頃に、宝塚の田舎で遊んでいて、結構、大きなカマキリに挟まれたことがあるが、多少痛いが、傷になるようなことはなかったし、すぐに撃退できたし、それに、カマキリがそんなに敏捷な昆虫でないことを知っている。
   しかし、このカマキリは、しっかりと蝉の翅の根元を鎌で押さえて、頭から噛み切っている。
   蝉は、土中にいる幼虫の頃には、何年も過ごすが、孵化すればほんの数日で死んでしまう。
   オスなら、鳴きに鳴いて、素晴らしいマドンナに遭遇して、ランデブーして、DNAを残すのが目的であるから、恋が出来なければ、ただ単に娑婆に出て空気を吸っただけで終わる。
   あっちこっちに、生を終えた蝉が庭に転がっているのだが、カマキリにやられたこの蝉は、恋を成就したのであろうか。
   カマキリから解放してやろうと手を伸ばしたが、とどかず、カマキリが、後ずさりしながら、どんどん、上の方に引き上げて行った。

   
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コーヒーの不思議な歴史と楽しみ

2011年08月11日 | 生活随想・趣味
   日本には、昔から、街中のあっちこっちに喫茶店があって、気軽に「お茶でも」と言った調子で、つかの間の会話を楽しんだり、小休止したり、結構、コーヒーを嗜む機会が多い。
   ところが、私など、外国に行って困ったのは、日本のように気の利いた喫茶店などはなく、気軽に、コーヒーだけをリラックスして楽しむような機会に恵まれなかったことである。
   尤も、これは、主に欧米のことで、中央アジアなどでは、街道沿いにチャイハネと言う茶店があって、チャイを供していて、ミーティング・スポットであり、憩いの場であったと言うから、文化の違いであろうか。
   紅茶の国、英国でも、アフタヌーン・ティーやハイ・ティーなど、改まった雰囲気なら別だが、やはり、日本の喫茶店のように気楽に飲めるところはなかった。

   スターバックスだが、客の意向によってカスタマー・メイドのコーヒーを楽しめるなど、いろいろ趣向を凝らした新しいコーヒー・ショップであり、経営学で言うブルー・オーシャン的な画期的なイノベーションだと欧米では騒がれたのだが、生活に立派に馴染んだ素晴らしい喫茶店を持つ日本人にとっては、何が珍しいのか、不思議であった。
   ドラッカーは、”スターバックスは、家と仕事の間に有って、息抜きの場となることを目指したのであり、提供したのはコーヒーではなく場であった。”として、iPodと共にイノベーションだと言っており、日本人の竹内弘高教授までもが、スターバックスは、第三の場所――ちょっとリラックスする空間を提供しているので、カテゴリー・イノベーションだと言っていたので、日本で講義するのなら、受け売り経営学であっても、もう少し良くシチュエーションを考えて理屈付けをすべきであろうと苦言を呈した。
   確かに、場と言えば場であるが、要するに、アメリカやイギリスには、日本のような喫茶店はなく、コーヒーを嗜みながらの憩いのミーティング・スポットがなかったのを、美味しいコーヒーを提供することによって、そのような場を、スターバックスが作り出したと言うだけのことなのである。
   あの料理が拙いので有名なイギリス(私はそうは思わない)のコーヒーなど、飲めたものではなかったので、スターバックスのお蔭で初めてコーヒーの味をしり、紅茶人気が一気にダウンしたと言うのだから、当然であろう。

   スターバックスで長居をしてしまったが、今日話題にしたかったのは、数奇なコーヒーの変遷の話である。
   コーヒーは、コフィア・アラビカと言うように、エチオピアの丘陵に自生していたのだが、実を食べて興奮状態になったヤギを見てびっくりした牧童が、イエメンのシェホトデ僧院の導師に伝えたことから知られるようになった。コーヒーの実を炙って醸造して飲んでみたら、いまだ経験したことのないような陶酔状態に陥ったのである。
   やがて、導師は、真夜中の礼拝の前に、信心深いスーフィー教徒たちに、この黒くて苦い飲み物を飲ませるようになったと言う。

   ところで、酒に酔った経験のないイスラム教徒のスーフィーが、このコーヒーをワインのアラビア語の「カフワquhwa」と言う名前で呼んだので、誤解を招き、メッカの提督が、コーヒーハウスの閉鎖を命じたようだが、庶民たちを虜にしたコーヒー人気には勝てずに敗北して、この噂が巡礼者からイスラム全土に広まり、コーヒーを飲む習慣がイスラム世界に深く根を下ろしたと言う。
   一方、イエメンを征服したオスマントルコから、東方の奢侈とエキゾチシズムに結びついて、ヨーロッパに広がった。

   トルコやイランなどほかのイスラム世界でも、コーヒー禁止が時折発令されていたのだが、宗教的と言うよりも、コーヒーハウスの乱痴気騒ぎや風紀の乱れなどに問題があったようである。
   私など、随分、世界中を回ってあっちこっちで色々なコーヒーを飲んでいるし、エスプレッソをダブルで何杯飲んでも、言われているように、それ程頭が冴えたり興奮状態に等なることはなかったので、コーヒーのキキメについては、多少、不思議な気がしている。

   さて、これらの話は、昨日の本からの受け売りなのだが、チャンダは、オックスフォードの学生や教授や知識人が常連であった「ペニー・ユニヴァーシティ」や、カフェ文化の始まりとも言うべきパリのカフェ1号店「ル・クーポール」などの話、退却したトルコ兵が残して行った豆で一挙に火がついたウィーンでのカプチーノの話等々にもついて語っていて面白い。
   
   面白いと言えば、持ち出し禁止であったイエメンのコーヒーの木の伝播拡散である。
   メッカ巡礼のインド人が生のコーヒー豆を持ち出して、インド、インドネシアに。
   フランス陸軍の大尉によってカリブ海のマルティニク島に1本のアラビカが持ち込まれた。
   興味深いのは、コーヒーの最大の生産国ブラジルへは、ブラジルの外交官がフランス提督の夫人と熱い仲になって、花束の中に隠されたよく熟れたコーヒーの実を仏領ギアナから持ち出したと言う話。
   ブラジルのゴムの木が、イギリス人に持ち出されて、アマゾンのゴム・ブームが終焉したと言うのだが、金になるのなら必死になるのが人間。

   しかし、スーフィー教団の祈祷の助けで日の目を見たコーヒーが、今や、数十億ドルのビジネス、55か国で2000万世帯が従事する巨大産業となり、何億人もの人々に香ばしい香りと興奮を与えており、これこそ、正に、グローバリゼーションの典型だと言うのだが、その背後には、悲しい黒人奴隷たちの歴史があり、今でも、フェアトレード運動が叫ばれているように、虐げられたコーヒー農民たちの救済が問題となっている。

   私など、やはり、コーヒー好きは、ブラジルでの4年の生活や長い海外生活の影響だと思うのだが、値上がりしたコーヒーを多少気にしながら、毎朝、メリタ アロマサーモ JCM-1031に、UCCのブルーマウンテン・ブレンドを使ってコーヒーを抽出して、楽しんでいる。
   RSCで買って来たマグカップを使っているのだが、沢山、あっちこっちで集めたコーヒーカップの多くが、ものの見事に今度の大震災で割れてしまったので、置いておくだけでは勿体ないので、残ったカップに登場願って、気分を変えてみようかと思っている。
  
   
   
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ナヤン・チャンダ著「グローバリゼーション 人類5万年のドラマ」

2011年08月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   グローバリゼーション時代だと言うことには、殆ど異存はないであろうが、グローバリゼーションが良いことなのか悪いことなのかということには、賛否両論意見が大きく分かれる。
   しかし、この本の主題は、明確であり、グローバリゼーションが何にもまして良い暮らし、より満足いく生活を求めようとする人間の根源から生まれたものであること、また、これを推し進めてきたのが、多くのさまざまな分野の人々、単純化して言えば、貿易商、布教師、戦士、そして冒険家に分類される人々だと言うことである。
   、グローバリゼーションは、民族、国家の範疇を越えて更に世界の発展を推し進めて行くための止め得ない現実であって、急速に一体化するこの世界をもっと調和のとれたコースに向かわせるべく、グローバル化の統合プロセスを逆行させないための様々な制度や何万もの市民組織を持ち、向かう世界にさらに明るい未来があると確信していると言うのである。

   原題は、「Bound Together  How Traders, Preechers, Adventurers, and Warriors Shaped Globalization」と言うことで、如何に人類が、「結ばれしもの」、すなわち、今日のグローバル化した超結合世界(Hyper Conected World)に至らしめたかを、交易商人、宣教師等の布教者、冒険家、戦士たちにスポットライトを当てて、壮大な歴史絵巻を展開していて、非常に面白い。
   翻訳でも、上下600ページほどのボリュームだから、多岐に亘った総合的な文化文明史とも言うべき大作で、著者は、元々、アジアの権威ある情報誌ファー・イースタン・エコノミック・レビュー編集長と言う敏腕ジャーナリストであり、更に、S.タルボット・ブルッキングス研究所長から立ち上げに誘われたエール大学のグローバリゼーション研究センターに加わって研究を続け、その全面的サポートを得ての意欲作であり、その上に、インドオリジンの有識者であるから、歴史観世界観など視点が、非常にフェアであるところに特色がある。

   これまで、グローバリゼーションと言えば、主に、経済的な側面から議論されることが多いのだが、この本は、氷河期末期に生まれ出でた我々の祖先の一握りのグループが、アフリカを後にして、より豊かな食料と安全を求めて世界に散らばって行ったその瞬間から説き起こして、ラクダの隊商からeコマースへと変わって行った交易、キリスト教布教の為に拡散して行った大航海時代の宣教師やインドを目指した玄奘三蔵から環境保護や人権保護のために苦闘するNPO、世界中を股にかけて大洋に躍り出た冒険家から今日のツーリズム・ブーム、帝国の織り成す世界制覇の野望、そして、奴隷や細菌やトロイの木馬の暗黒世界、等々列挙すればキリがないのだが、縦横無尽に興味深いテーマをドラマ以上に面白く語りながら、人類の歩んで来た軌跡を紡ぎ出している。

   さて、今日の問題として、グローバリゼーションがやり玉に挙がった典型的な事件は、やはり、シアトルで起こった抗議活動家たちの「海の町の封鎖」のために結集した5万人の反グローバリゼーション・デモ」で、スターバックスなどの店舗を焼打ちにして、WTOの第一回首脳会議を中止に追い込んだことであろう。
   発展途上国に対する情け容赦のない市場開放圧力が、労働者を搾取的悪環境に追い込み、更に、職を奪うなどは、利潤追求のみを目的とする多国籍企業の暴挙であり、世界の熱帯雨林の破壊や海産資源の枯渇など地球環境を悪化させるなど許せないと言う抗議活動家の怒りが爆発した形である。
   しかし、一方では、グローバリゼーションの拡大によって、中国やインドなど新興国が蘇って、一挙に、最貧困層の人口が激減して、少しずつ、貧困問題が解決されつつあると言う見解も根強い。
   格差解消を優先するのか、経済全体の水準を底上げを先にするのか、テイクオフしつつある目覚めた新興国は良いが、悪政と経済発展に見放された最貧国の闇はあまりにも深く、グローバリゼーションの埒外で苦しんでいるのは、如何にも皮肉である。

   人類が、アフリカの故地を離れて世界中に移動し始めて5万年。思い思いの方向に別れ別れになって散って行った人類が、何万年後かで、コロンブスが新大陸でインディオに会ったように、あっちこっちで再会を果たしており、グローバリゼーションを、人類およびその営み活動の拡散と融合と言う形で捉えれば、既に、頂点に到達したと言うべき段階まで人類の歴史は来ていると言えよう。
   しかし、新天地を求めて旅を続けてきた人類が、とうとう辿り着いたのは、もう後のない有限の地球で、これ以上、拡散することも、極論すれば、地球のエコシステムを破壊して、依って立つ地盤を切り崩すことになるので、耕して増産することもままならない窮地に追い込まれてしまっている。

   どうするのか。
   夢と冒険に胸を躍らせ、或いは、残虐極まりない闇を背負って生き続けて来たグローバリゼーションへの人類の旅路が、曲がり角に差し掛かって、人類の意思と知恵を試しているような気がしている。
   面白い本を読み終わって、ふっと、そんなことを考えてしまった。
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