【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

新進党解党手続きは小沢一郎氏が幹事長・国対委員長・政調・総務・議員会長に伏せて進める

2012年11月06日 07時31分05秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

 第41回衆院選に負けながらも新進党党首にいすわった小沢一郎氏が、新進党の西岡武夫幹事長、中野寛成・国会対策委員長、近江巳記夫・両院議員総会長、神崎武法・総務会長、野田毅・政策審議会長が知らないところで、解党の準備を進めていたという驚くべき実態が浮き彫りになりました。これは当時新進党役員だった衆議院議員が引退記者会見で明らかにしました。

 元新進党役員は「小沢さんがなぜ瓦解する方向に持っていくのか。小沢さんの調整力や心をこめたリーダーシップが発揮されない状況で、私自身なんとか最後まで守り抜きたいと、西岡武夫さん、野田毅さん、神崎武法さん、近江巳記夫さんらとひっしに策を練ったが、そのメンバーも分からないところで解党の準備が進んでいた」と語り、自民党宏池会出身で元文相の西岡武夫幹事長(故人)、民社党出身の中野寛成国対委員長、公明党出身で元科学技術庁長官の近江巳記夫・両院議員総会長、公明党出身で元郵政相の神崎武法・総務会長、自民党政科研出身で元自治相の野田毅・政審会長(政調会長)が知らないところで、小沢側近議員・秘書により分党手続きがされており、何らかの資産の移し替えがされた可能性が高まりました。

 新進党本部が入っていたビルは、そのまま自由党本部になっており、金庫の場所は変わっていないと思われます。このとき、現金の運搬が側近職員(一部故人)によってなされたとの複数の証言もあります。このときの役員名簿をみると、新進党から自由党に移籍したメンバーとしては、おもに、東祥三・筆頭副幹事長、中井洽・組織委員長、田村秀昭・団体渉外委員長(故人)、小池百合子・国民運動委員長、藤井裕久・経理局長、二階俊博・選挙対策事務局長、宮本一三・国際局長、岡島正之・地方局長ら8人の名前が浮かび上がります。これに加えて上記の西岡幹事長と野田政審会長も自由党に参加しました。それぞれの関与については不明な点が残ります。

 これまでは、公明党・創価学会からの分党圧力に小沢党首が耐えきれなくなって分党を発表したとの観測が強かったのですが、石田幸四郎旧公明党委員長にかわり旧公明党出身者トップに浮上していた神崎総務会長と、ベテランで重し役だった近江両院議員総会長が党存続に奔走して、その2人が知らないところで解党準備が進んでいたという有力証言が出たことで、小沢氏が野党第1党の金庫を私物化したのが「新進党解党の真実」だった可能性が高まりました。

 小沢一郎氏は、今月中旬にも、東京高裁での裁判にメドが立つ見通しであることから、第181臨時国会で証人喚問すべきです。

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「民社の理念、実現できた」中野寛成さん今期で引退を発表 50年の政治生活にピリオド

2012年11月06日 06時45分15秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

[写真]第45期衆議院限りの引退を発表する中野寛成さん、衆議院内民主党国会対策委員会室、2012年11月5日(月)、筆者撮影。

【民社党結党50年の理念を実現し、中野寛成さん、11期32年、結党以来50年の政治生活に終止符】

 「私自身50年間の政治生活にピリオドを打つ決意をしました」。

 大阪8区(豊中市)選出の衆議院議員、中野寛成(なかの・かんせい)さんが2012年11月5日(月)午後6時、衆議院内民主党国会対策委員会室で記者会見し、第45期衆議院をもって政界を引退することを表明しました。71歳、衆議院当選11回、在職32年。「在任期間のあと10ヶ月、しっかりとなすべきことをやっていく」としながら、「二大政党が政権交代をし、日米安保、国連中心主義を基軸に社会保障を安定させる。これが私の政治生活のスタートだった」と述べ、「ある程度達成できた」と満足げな表情を見せました。

 官房長官、副総理を経て、民社党を結党した初代委員長、西尾末広さんは「政権をとれない政党は鼠をとれない猫である」と語りましたが、民社党としての政権入りはできませんでした。

 中野さんは1970年(昭和45年)、関西大学在学中に学生運動に嫌気がさし、自由社会、日米安保、中産階級を重視する民社党に入党。細川内閣・羽田内閣では民社党の政調会長・幹事長として連立与党チームからバックアップし、11期目で2度目の与党に。在職31年目で初入閣。これは同じ近畿地方選出の斎藤隆夫代議士の在職32年目よりも1年早い記録となりますが、国務大臣・国家公安委員長・拉致問題担当相として「3・11」を経験しました。「与党と野党の違いは?」との記者の問いかけに「圧倒的な情報量の差だ。国政への関与のしかたは与党と野党ではだいぶ違う」と答えました。

 こちらをご覧ください。バブル後期の1990年2月の総選挙での民社党のポスターです。

 
[画像]第39回衆院選の民社党ポスター、目で見る議会政治百年史から。

 「くらし上向き実感したい。生活先進国をつくる 民社党」。

 小沢一郎幹事長率いる自民党は「世界のあこがれ 自由な日本」、土井たか子委員長率いる日本社会党は「やっぱり消費税は廃止だ 激サイティング社会党」でした。これを見ても、今の民主党の「控除から手当へ」「最低保障年金」「子ども手当」「農業者戸別所得補償」といった政策はもともと民社党が打ち出したパラダイムであることが見て取れます。

 中野寛成・新進党国対委員長が1997年1月に出版した『友愛国家の創造 二大政党制をめざして』で、「日本的保守、リベラルは世界に通用しない」と喝破。「リベラルな政治をめざす、などといっても何をいっているのか国民からはさっぱりわからないのである。もはや日本では保守やリベラル、社会主義を政治の対立軸として掲げても、国民からはわけのわからない言葉になってしまった」として、「どのような自由主義をめざすのかを選挙の争点にすべきである」と主張しました。そして、自民党・社会党の狭間で民社党は先進的な政策を次々に提唱してきたとしながらも、「民社党は政策はいいけど議員が少ないので・・・何度となく聞かされた言葉である」「民社党の政策は自民党の5年先を行っている・・・これもよく聞かされた言葉である」と述懐しています。そして、民社党の政策として、「勤労者の福祉国家の建設、行政改革の推進、階級的労働運動でない民主的労働運動、沖縄の本土なみ返還、専守防衛、自由世界の一員としての外交・防衛、君が代や日の丸の尊重、生活先進国づくり、第二地方交付税の提唱」を掲げています。

 この第二交付税ですが、「地方分権の第一ステップ」として「現在公共事業予算は各省庁別に配分しその後地方に交付されているがこれをやめて、公共事業予算は一括して地方に配分してしまおうという制度」として提唱しています。言うまでもなく、2009マニフェストの「地方一括交付金」であり、今年度予算から国交省と農水省の沖縄関係予算の根本を引っこ抜き、内閣府経由で沖縄県庁に渡しきりにしている沖縄振興交付金のことです。いわば、民社党の政策は15年先を行っていたことになります。逆もまた真なり、ですが。新聞では野党第3党だから自民党偏重報道の中で記事にならなかったけど、民社党とはこういう政党だったんですね。

【第三極は「民主政治が成熟していかねばらならない過渡的な出来事に過ぎない」と喝破】

 引退会見では大阪選出だけに第3極に自ら触れ、「第三極は私に言わせれば、第散極であり、第乱局だ」とこの日唯一のダジャレを披露しながら、「日本の民主政治が成熟していかねばならない過渡的な出来事に過ぎない」と喝破。「決められない政治に不安を持つ人が第3極に走っているが、第3極は野心の塊のような人がつくった政党に過ぎない」と切り捨て、「国民の選択の幅がある二大政党があるのは、日本の民主政治の基本なのだろう」という長期的展望を示しました。

【言わねばならないことがある!】

 中野さんは産経新聞記者の質問に答え、「日本の憲法は一言一句変わっていない憲法としては世界で最古のものとなった」として、「憲法には30万(人)近い自衛隊が重装備をしていることがのっていないのはおかしいと思います。むしろしっかりと書いて、シビリアン・コントロールの下の自衛のための軍隊として位置づけ、国家緊急権も規定すべきだ」とし、その道筋として国民投票法を制定できたことを実績に挙げました。そのうえで、「決められない政治から脱却するためには解散制度をなくすことも一案だ」とし、「時々の(衆院政局の)混乱で『解散!』『解散!』というのは議会制政治を否定するものだ」「内閣不信任案のない中で総理が解散するというのは憲法違反だと思う。あえて言えば、憲法7条の天皇の国事行為(による7条解散)はこじつけだと考える」と持論を主張しました。

 「政局よりも国民と生活を守る方が大事で、このように(予算成立から半年経った)11月になっても、(特例公債法案という)政局に明け暮れている」としました。実は、中野さんの衆議院本会議の初登壇は、当選翌年、36歳のとき、1977年3月4日「昭和52年度の特例公債法案」について代表質問しています。福田赳夫首相や坊秀夫蔵相に対して、借金のツケは若い世代が払うとして「坊蔵相が引退しても、借金は棒引きにできません」とダジャレを交えながら、ときの蔵相を批判しました。ただ、中野さんは会見で、「衆議院社会保障と税の一体改革特別委員長として129時間の審議のうえに最終的に自民党と公明党の案を丸飲みにして3党合意をすることができた」と主張し、1998年の金融国会で野党案の金融再生法案を小渕内閣が丸飲みにしたことを思い出し、「私にとって3党協議は政治生活の宿命だ」と語りました。これについて、記者からの「金融国会で政局にすればもっと早く政権をとれたのではないか」との質問に、「政局にすることによって日本の金融界をパンクさせてはいけない。私は結果として日本を守った。今でも自負しています」と自身の考えを貫きました。これについては、今でも両論が分かれるところですが、中野さんは引退会見で断言したということです。

 野田佳彦総理の「分厚い中間層の復活」については「私は中産階級に手厚い福祉国家論のことだと考えている」と独自の解釈を示しながらも、おおむね満足感と安堵感が包まれた引退会見でした。

【原爆投下直後の長崎は「地獄絵図」】

 長崎生まれ。1945年8月9日、寛成さんは母の実家にいて、爆心地からは離れていまし。しかし、原爆投下直後の「地獄絵図を見て」医者を志しました。しかし、小学校で色覚異常が見つかり先生から「カンセイ、お前は医者になれないよ」。その後、中野寛成さんは衆院文教委員を務め、現在は同じ条件でも医学部に進学できるようになりました。医師になれないことを父に相談すると「戦争をなくさないと原爆はなくならない。そういうことをする仕事で、政治家というのがあるよ」と言われ小学1年生で政治家を志しました。父の再三の商売の失敗で夜逃げした大阪。「貧乏のどん底」のなかで関西大学に進み、民社党入党。その縁で知り合った税理士で大阪府議の事務所で働きながら、25歳で豊中市議会議員に当選し、連続3期。

 「後継者という言葉は好きではない」と述べ、「総支部が選んだ後進」のめどがついたとしました。「政治は未来永劫続くので、区切りはありませんが、一つの区切りはできたと思う。後進に大いにがんばっていただきたい」と述べ、同日、大阪府連に後継の大阪8区総支部長と、第46回衆院選候補予定者の公認申請を出したことを明らかにしました。「府連から党本部に上がって常任幹事会で議長をするのは私ですから」として現役常任幹事会議長として「しっかりとルールを守らなければいけません」。衆院選に出馬したときは落選しましたが、4年後のロッキード選挙で初当選しました。そして、第43期衆議院の副議長として8月8日に小泉首相に解散されてしまい、翌日の長崎平和祈念式典に参加できず。さらには連続当選10回で、落選の苦杯をなめました。しかし、「2ヶ月後には公認されちゃったので出ることにしました」と笑わせました。

【今初めて明かされる真実】

 新党友愛の結党に関しては、吉田之久・参院議員、伊藤英成・衆院議員(全トヨタ労連)、寺崎昭久・参院議員(日産労連)の3人が新党を検討しており、「このことは私は新進党国対委員長として執行部にいたので知らなかった」としました。そして、「新党友愛の顧問になってほしい」との話があり、いったん了承したら、一晩あけて「やはり党首(代表)になって、私たちをひっしの覚悟で守ってほしい」という話に変わり、このとき川端達夫さんがいた、と語りました。これも初めての証言でしょう。「とはいえ小選挙区時代をミニ政党ではたたかえないので、参議院の仲間のことも考え、同質な人たちを糾合」して民主党を結成したと語りました。これが、今話題になっている、「民主中道勢力の結集」です。


[写真]西尾末広・民社党初代委員長、元官房長官、副総理。友愛労働歴史館の展示から。

【解散が近い秋深い夜の国会議事堂で】

  国会議事堂の秋というのは、日が暮れるのが早く、さみしいものです。ロッキード選挙で初当選したカンセイさんの実績と言えば、金権腐敗政治をだいぶマシにしたこと。そして、政策のオールラウンドプレイヤーとしてさまざまな役割を果たしたこと。しかし、政府・与党・自民党偏重報道のなかで、「野党第3党の非世襲のダジャレ」にスポットライトが当たることはついぞありませんでした。長年の報道の関係か、当選回数・勤続年数がまったく同じ元自民党国会議員が2年連続で若手・中堅に代表選に担がれたのと対称的です。長年の自民党偏重報道が、民主党国会議員にまで影響しているという恐ろしい現状に、私は戦慄を覚えざるを得ません。

 実は今回の件は、政権交代に沸き立っていた夏から秋になったころから存じ上げておりました。その一事だけでも、政治記者冥利につきるというものです。そして、その1年余りのち、在職31年目にして初入閣し、「3・11」。関東大震災のときと違い、東日本大震災では、被災地での窃盗・性犯罪は増加してしまいましたが、治安・秩序の乱れはありませんでした。議会の子、中野寛成。さっそうと国会を去っていきます。私ももう、衆議院のことを手取り足取り教えてくださり、私の見立ての甘さを叱ってくださる先生がいなくなってしまいます。第46期衆議院で、独り立ちできるかな。それとも。様々な想いが去来する晩秋の漆黒の国会議事堂の闇でした。

 寛成さんは衆院選初出馬で落選したとき、半ば人間不信になり、もう政治を辞めようかと考えたことがあったようです。そのとき、奥さんが「子供の頃からの夢を投げ出してはいけない」と叱ってくれて再挑戦を誓いました。寛成さんは引退会見での自らの冒頭発言を晴れ晴れとした表情で、次のようにしめくくりました。

 「ここまで政治家としてやってこれたのも妻のおかげでありますが、平日にこうして東京に出てくると、糟糠の妻の介護ができません。妻のもとに戻るときですし、私も妻とともに第二の人生に出よう、というのが今の心境です」。

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